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小鳥合記
安政四とせといふとし、神無づきのはじめにやありけむ、小鳥合すべきよしの仰ごとくだることありけり、まづおのれ〈○梅田三彦〉して、右の頭たるべく人々のすゝめらるゝに、初学のいかでかゝることせむと、ふたゝびみたびいなみしが、しひてすゝめらるゝももだしがたくて、その役とはなりぬ、まづわが方人は石川優、井口安行、仁科久迪、上松千年、門奈俊信、豊田勝豊、小笠原常樹、森部好謙なり、奉行には吉岡鶴群、宿老にてつとむ、籌さしの童は中根方樹、役送は福原行功、佐藤正広などなり、左方は野村勝明、水上広房、伊達忠正、川北慎信、赤堀保水、辻高文、三井正正、岩田則博、奉行は長井裁之、頭は吉岡鶴成、籌さしの童は浮穴為経、役送は野志矩鎮、松本正直なり、おなじ霜月の末、こととゝのひしよし司につげたれば、極月はじめ四日に、まづからぶみまなびの館にて習礼あり、おなじ七日といふ日、大殿の御小書院といふにて、其作法みそなはし給ふべき仰下りければ、その日の辰の刻、人々御殿にまうのぼる、方人いづれも素襖、鶴群は布衣、籌さしの童、黄丹の水干、上下紅梅の小袖、童髪して紅ひの薄様にてゆふ、柳の間といふお左右の局とす、午刻事とゝのひしよし奉行につげたれば、奉行司につぐ、やがて司して執行べきよし仰下る、そもそも御ましの装束はすべてめぐりに簾かけ渡し、母屋の上段に君まし〳〵、西の庇かけてたれたる簾の中に、実成院尼公おはしまし、女房どもあまたかしづきたり、二の間のひさしの間には、国老土佐守忠央朝臣おはじめて、司々あまた並居たり、まづ判者本居豊穎、村田春野座につく、豊穎は南おもて、春野は北おもて、次に左の頭吉岡鶴成まづかずさしの地敷おとりてこの間にのべしく、次に左役送野志矩鎮洲浜おかきたつ、次におのれこなたの籌さしの地敷おとりて、おなじく二の間にしく、次に右役送福原行功おなじく洲浜お出す、次に左役送文台お二の間の中ほど、西おもてにおく、こは黒柿もてつくる、其さまは永久四年正月内大臣家の大饗の時、弁少納言の前にありし机のさまおうつしたるなり、次に右の文台は蘇芳也、こもおなじとき尊者のまへの机おうつしたるなり、次に左役送豊穎のまへに硯箱と料紙お置、右役送春野の前に硯箱料紙お置、次に鶴成おのれ文台につく、まづ左籌さしの詞およみあぐ、〈○中略〉歌合はありしこと、史にもしるし、つぎ〳〵さま〴〵の合もの行れしよしは、くさ〴〵の書どもにみえぬ、小鳥合は堀河院御門、完治五年十月六日、殿上にてありしよし、中御門右府の記、為房記おはじめ、あれこれのふみどもにみえたれど、いかなる業したりとも、くはしきさまつたはらざれば、今まねばんによしなし、こたびはたゞふるき書どもに、とりの事跡あるおえり出し、あるは今目のまへにみたるさまによりて、まうけ出たれば、ひがごとも多からむかし、そも〳〵建暦の御抄に、小鳥合は幼主の御時、常せらるゝことのよし記させ給へり、ひそかにかぞへ奉るに、完治五年は堀河院御年十三の御時にあたれり、今我君御年十二の冬、かゝるわざ人々にせさせ給ふも、ふかきよしある神の御心ならひと、いと〳〵かしこうおぼゆ、堀河の御門は、末代の聖主におはしましゝこと、其世の書、あるはのちのにもあまたえるしつたへたり、夫にかよひ給ふ我君が代にうまれいでゝ、かゝる御あそびにつかふまつるうれしさは、みじかき紙にいかでかのべつくさむ、たゞありし大かたおわすれぬまにとそのよさり筆とりてかつ〳〵しるし侍るは、右の方人にてこととりつかうまつりし梅田三彦、