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江戸真砂六十帖

石川六兵衛女房奢之事
小舟町三丁目下角屋敷向ふ、荒和布橋といへる横町お、俗にてりふり町といふ、雪駄屋足駄屋軒お交てありし故にや、角屋敷の地主石川六兵衛といふ町やしき、場所よく繁昌の土地五六個所持大有徳者なり、渠が女房はなはだ奢り者にて、平生の立入目立ぬ、常憲院様〈○徳川綱吉〉御代始に、はじめて上野へ御仏参の御成拝見に、下谷広小路本阿弥〈○刀目利本阿弥三郎兵衛〉向ふ仕立屋の内お借り、赤毛氈お敷、その身衣裳お飭り、腰元三人下女弐人奇麗に出立ぬ、はや人留の頃に成て、己が膝元に香炉おおき名木焼しに、御駕籠の前駈の大小名、此名木下谷大名小路へ入ると匂ふ、歷々不審に思しめし、程なく広小路本阿弥辺になり、六兵衛女房が前に香炉有り、甚美麗なり、御駕籠より御目に留り、何者成ぞ尋可申よし上意なり、則だん〳〵仰送られ、御徒小頭吟味に付、石川六兵衛女房のよし翌日言上す、即刻町奉行へ御吟味にて、六兵衛夫婦牢舎被仰付町人の身として敷物いたし、香炉持参、また本所に屋敷一け所広地にて庭構火しく、六兵衛召仕つね〴〵本所下屋敷といふ、是お殊に憎み強く、町人として下屋敷と申事甚越度になりて、家やしき家財闕所になりて、六兵衛夫婦江戸十呈四方追放に仰付らる、然れども相州かまくらに六七百石田地有て、かまくらへ引籠りて暮しぬ、今に建長寺の西町屋敷に子孫有之、