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名香合
志野宗信家
一番
左 消遥 〈清偈信秀直〉 肖柏
右 中河 〈柏憲〉 大偈
ひだりの香さるものときこえて、荘子の消遥遊の心まで、おのづからおもひいづるやうに侍ぬるに、右の中河、又はなやかにたちいでゝ、〈小褂〉かのこうちぎの人、香もおしはからゝるやうに、おのおの申侍しか、さるは此左の一種はあやしき苔の袂にもてやつしたるにほひにて、右には及びがたく侍しお、一番の左なればとて、かたうど聊かずまさり侍りしにや、〈○以下九番略〉
文亀のはじめのとし五月下の九日、風流の人々夏の日くらしがたきなぐさめにとて、たき物あはせなどのためしおおもひ出て、宗信の宅にして名香の名おあらはさず、たゝかはしめ侍りけるになむ、蔚宗が伝つくり、洪芻が譜おあらはす、ともにもろこしのふることよりはじめて、薫物合はわが国のひとつのことわざとして、その来れる事ひさし、援に沈水の一くさおもて、ふかさ浅さおさながらわかち、其甲乙おなづくることは、あがりての世には、いたくきこえずもやあらむ、中比より下つかた騒人すきのあまり、あながちにおとりまさりのけぢめお、わくる事になりたるも、興あることに侍るお、今はからずして此一巻おひらきみるに、我もとより鼻孔の指南にたへざれば、そのむしろにのぞまざるお恨と思はざるうへに、はじめ消遥よりおはり花の雪の面影まで、さこそはとり〴〵のにほひ成けめと、たちまち聞香悉能知の徳は、みか月の前にそなはれりといひつべし、〈○中略〉判者のことばは、誠にしのゝ葉草のかりそめ成たはぶれ事ににたりといへ共、正木のかづらながきもてあそびとも成なむかし、〓胡斑の尾につきて、消遥遊の筆おのこすになむ、
文亀二林鐘下旬 実隆判