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茶の我国に伝来せし年代詳ならず、嵯峨天皇弘仁六年、勅して畿内及び近江、丹波、播磨等の諸国に茶お植えしめし事あり、順徳天皇建保二年、将軍源実朝飲酒に因りて病に罹る、僧栄西為に茶一盞お献じ、称して良薬と為し、別に一書お献じ茶の功お記す、今世に伝ふる所の喫茶養生記或は是ならん、其法に方寸の匙お用いることあれば、其茶は則ち抹茶なるべし、南北朝の初、茶会と称する事盛に行はる、而して其茶会は専ら茶お賞するにあらずして、其席に珍器お陳ね、酒肴お設け、本茶非茶お判して勝負お決す、本茶とは栂尾の茶お雲ひ、非茶とは本茶に非ざるお雲ふ、時に搢紳武家栄枯地お易へ、武家は大に富豪なりしお以て、佐佐木道誉等の大名、頻に茶会お催し、盛饌お設け、沈香、麝香、沙金、絹帛、鎧、大刀の類お以て賭と為し、勝てば則ち之お己に入れず、其物お挙げて之お其席に在る田楽、白拍子等に投与す、其後足利義政洛外東山に退隠し、東求堂に居り、堂内に四畳半の茶室お作り、同仁斎と名づけ、屢、茶宴お設けて品質お論じ、同朋真能、及び奈良称名寺の僧珠光等、茶事に通ずるお以て、常に之に侍せしむ、是より茶事盛に天下に行はる、真能一に能阿弥と称す、其子真芸、芸阿弥と称し、真芸の子真相、相阿弥と称す、共に茶事お以て義政に仕ふ、珠光始て台子の式お定む、是より後織田信長、豊臣秀吉等お初め、将士より市賈に至るまで、之お学ぶ者頗る多し、信長は天正六年正月元日に、安土城に於て、将士に茶お饗し、送迎配膳お躬らせり、又秀吉は天正十五年、北野に於て茶湯の会お催し、高札お京都奈良等の地に立てヽ、諸国の茶人お召集せり、是に於て名器お携へて来集する者極めて多く、茶席お各所に設く、秀吉之お巡覧し、毎席之に臨みて茶お喫せり、当時千宗易茶事お以て寵お秀吉に受く、利休是なり、利休は堺の市人にして、茶事お真能の末流なる北向道陳と、珠光の流お受けし武野紹鴎とに学び、諸家お大成して式法お定めたり、故に後世利休お以て、茶道の中興の祖と為す、利休の門弟古田織部正重勝、織田有楽軒長益、薮内紹智、細川忠興等猶も名あり、重勝は徳川秀忠の師範にして、茶道の和尚と雲ふ、茶は禅宗茶湯の式より出でたるものなれば、其師範となる者お和尚とは雲ひしならん、重勝の門弟小堀遠江守政一、徳川家光の師範たり、又片桐石見守貞昌茶法お桑山宗佐に学ぶ、或は利休、若しくは小堀政一に学ぶとも雲ふ、又船越吉勝、多賀左近の二人あり、政一と共に茶家宗匠と称す、又利休の孫宗旦に至り、其子分れて三派となる、乃ち二子宗佐お表流と称し、三子宗室お裏流と称し、季子宗守お武者小路流と称す、又重勝の流お織部流と称し、政一の流お遠州流と称し、紹智の流お薮内流と称し、貞昌の流お石州流と称す、其余の流派極めて多し、
茶室は一に小座敷(こざしき)と雲ひ、又数奇屋(すきや)と雲ふ、離座敷にして、四畳半、四畳、三畳、二畳等の数種あり、家内の一部お区劃して茶室となすお囲(かこひ)と雲ふ、茶室の一隅には必ず床ありて、掛物或は花入お具す、又窻ありて明お室内に取る、冬季は炉お設く、其位置によりて、向炉隅炉等の称あり客の茶室に出入する所お潜口(くヾりくち)と雲ひ、又隣上(にぢりあがり)とも雲ふ、主人の出入する所お勝手口と雲ひ、又茶立口と雲ふ、其形状に由りて、火竇口、又櫛形等の称あり、水屋(みづや)あり、茶室に属す、
露地は茶室に到るの小路にして、此に待合、堂腰掛、中腰掛あるものお三重露地と称して、正式のものとすれど、多くは中潜お以て内外お分ち、内露地、外露地と称するものお二重露地と雲ふ、露地には、石お配置して行歩に便にし、庭中には多く樹木お植えて、幽静の趣お添ふ、腰掛は又待合と雲ふ、来客先づ相会し、又中立の時に休息する所なり、而して二重露地には、外腰掛、内腰掛の二あり、