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長闇堂記
一我茶湯お仕初し時お思ふに、北野の大茶湯の年に当れり、大茶湯お考ふれば、天正十五年十月朔日なり、秀吉公八月二日に高札お五畿七道に打せられ給ひて、都鄙の茶湯に志せるもの、松原に於てかこふべしとの上意なりし、南都より東大寺、興福寺、禰宜町方合三十六人、幼年なれども、此道すけるまゝ、見物のため同道して覚候事おしるせり、聖廟前はよし垣ありて、東口より西口へ出入あり、上様御かこひ四つ、礼堂の隅お品々にかこはせ、秀吉公、宗易、宗及、宗見四人の御手前也、各御道具の記ろくあり、大和大納言殿〈○豊臣秀長〉は西門筋西側にして、郡山武家衆、其次南都寺社町方なり、松原中のかこひ、思ひ〳〵品々有、中にも覚へて侍りしは、引退小松原有所に、美濃の国の一人、芝より草ふきあげ、内二帖敷間中四方砂まき、一帖敷のこる所瓦にて、ふち〳〵炉に釜かけ、通ひ口の内に主人居て、垣に柄杓かけ、瓶子のふた茶碗に丸服部お入て、それにこがしお用意せり、扠晦日に御触有て、朔日暁天より御社の東口にてくじ取、五人組にして四つ御座敷にて御茶被下候、御西の口へすぐに出立ごとくにして、数百人の御数寄、朝九〈○九恐誤字〉過に相済なり、扠御膳過昼前より御出有て、一所も不残御覧ぜし時、かの美濃の国の人、其名は一作、松葉おかこひの脇にてふすべ、其烟立上りしが、秀吉公右より御のよしにて、一服と御意あれば、そのこがしお上奉る、御機嫌殊勝にして、御手に持せられし白の扇お拝領して、今日一の冥加とぞいひし、又経堂の東の方、京衆の末にあたりて、へちくわんと雲し者、一間半の大傘お朱ぬりにし、柄も七尺計にして二尺程間おおき、よしがきにてかこひし、照日にかの朱傘かゞやきわたり人の目お驚せり、是も一入興に入らせ給ひて、則諸役御免お下され、八つ者〈○八つ者蓋誤字〉には皆々御暇被下、それより二桟敷分散して、その日も又本の松原となせり丙々には諸方の名物おも召上らるべきとの取沙汰あれども、そのさたにも不及、十日計も茶湯仕べきともいへども、其日計なれば、多く見物おせし人もなかりし、