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槐記
享保十二年八月十二日、参候、昔在常修院殿〈○慈胤法親王〉の茶入の袋切お、後西院へ御所望なされしに、迚の義に、蓋袋ともに此御方にて調進あるべしとて、其出来したる日に、公〈○近衛家熙〉にも御出にて、共々に御遊ありしが、飯後に不図後西院の勅詔に、幸に此茶入にて一服献ぜられよ、即ち亀が茶屋に掃除も出来たり、あれにて菓子の茶湯せられよ、御茶お初め道具は坊城平松へ雲付て、何なりとも恩借せられよ、早々と御所望なりしかば、さればとよ、如何あるべきやとて、御立ありて御茶屋へ御座ありしが、程なく御案内ありて、後西院、無上方院、公も御入ありし時の花生に、青竹おくろぎ柴の大小黒青おまぜあはせて、くるりと巻て、二所お藤蔓にてくヽりて、それに連翹の大枝と、根じめに花とお入られたり、時にとりての御働と雲、 十五年三月廿二日、参候、野村新兵衛が伺ひ奉りてくれよと申すことの侍り、古へより飯後の茶と申すことの侍るよしにて、亡父も仕りたり、他へも召しつれて参りしかども、幼少のときにて、しかとも覚え申さねども、大方に常体にかはることなし、炭おして菓子お出し、中立して入て茶おたつることなり、上流の茶人の方へ相伴に参りしに、中立の後に羽箒の音の聞へしかば、いざ参るべしとて入られたり、〈案内おまたず〉その後其方ざまの人に尋ねんに、羽箒にての掃やうによりて、案内おうくることもうけぬこともあり、囲より内おはけば、案内おまたず障子お開きて、しきいの外までお掃けば、案内によりて入ることなりと申す、御流儀にも侍ることにやと伺ふ、仰に、〈○近衛家熙〉是は常修院殿の直に御物語にて御聴なされしことなり、其節飯後の茶と雲名目流行したりと見え、飯後の茶と申も、菓子の茶と申すもかはることなし、菓子の茶のことなり、飯はたべて参るべし、茶お御ふるまい候へと申しつかはすか、他処へ茶にゆきたる帰るなに、一服たべたしなど雲おくる是なり、さるによつて、菓子にて茶おふるまふこと、常の通りより外にかはりたることあるべきやうなし、中立おするとせぬとは、菓子に差別あり、亭主よりも、たヽするやうに仕かけてゆけば、立ざればならず、猶もたつがよし、たヽさぬやうにすれば、たヽぬがよし、同じ菓子にても、しかとしたるものにて〈すヽりだんごとか、ぜんざい餅とか、〉出るやうなるは、亭主もたヽせるやうにするがよし、客もたつがよし、又格別かろきものにて、はしやぎものなど出るやうなるは、亭主からも、たヽせぬやうにするがよし、客も其気お承りてたヽぬがよし、是は一概ならず、日外寸松庵へ飯後の、茶に行たりしときの菓子に、すヽりだんごお出されて、其まヽにて御立下されぬやうに、御うしろに御手水おも設けたりと申されしかども、少し庭おも見たし、幸ながら立べしとて立たり、古へ常修院殿へ親く参り通ひたるものに、安部信濃〈飛騨が弟〉と申すありしが殊の外茶湯ずきにて、主がさびたる囲居に額お掛たき由お申て、飯後庵と号し、菓子ばかりにて茶お仕たることあり、是時分のはやりことばと見へたり、必ずはこびの物なり、〈此事お新兵鵆へ伝ふべしと仰なり〉 古へ御所様に三菩提院様〈○貞敬法親王〉と御一処に、大仏の獅子吼院様〈○尭恕法親王〉に御出の次手、常修院様へ立寄て、一服たべたしとて菓子の茶にあいたり、右の通りにてかはることなし、菓子ははしやぎものお出されたり、総じて茶のかへりとかなにぞにて立寄る人には、急度菓子は出さぬがよし、はしやぎものなど然り、先の茶菓子にさしあはぬやうにしたるがよし、菓子にて一服たべたしなど雲送るには、すヽりだんご、ぜんざい、或は吸物抔出すこともあるべしと仰せらる、