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槐記
享保十五年三月廿二日、参候、跡見の茶のことお申し上て、頃日吉田某が〈庸軒流〉申されしは、去方へ跡見の茶に参りたりしに、例の通り初手は花にて菓子お出し、炭おして中立し、後に入るときは花なし、めくら床とす、庸軒流その外にても、後の花に水おすることありとなり、茶すみて後に、正客の申されしは、迚の義に、御掛物おも拝見仕たしと申されしかば、日外御目にかけたるものにて候とて出さヾりしは、主客ともに猶もにおぼへて候はいかにと申しき、〈跡見の茶にゆくほどの人がらなれば、か子ての入魂なるべし、猶なるあいさつなり、もし初ての人ありて、右の如く所望せば、隻一二幅のものにて、数は所持いたさず、重ねて御茶申す節、御目にかくべしと雲はんかと、〉猶も面白く覚へ候と申せしは、いかにやと伺ふ、仰に、跡見と雲ふことは不知ことなり、終にゆきたることも、呼びたることもなきなりと仰らる、左こそあるべきことに候、御所様など、跡見に呼人も参る人もあるまじければと申し上しかば、いなとよ、昔し利休や織部などが方へ、跡見に大名の参りたることひたとあり、是れは秀吉などの茶にゆかれし跡故に、真のかざりとか、名物かざりとかにて、又面々が茶にゆきては、再び其目にあいがたきこと故に、強て所望することなり、わざとこしらへて、いざ跡見に参らんと雲は、客も客なり、亭主のくたびれおも不顧して所望するも不仕付なり、亭主も人に飲ませたるあとの残り茶お振舞ことも由なきことなり、跡見と雲ことあるべからずと仰らる、