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老の波
茶は一時の心やりなりといへば、いかに茶たて侍りても、心のまに〳〵なるべしなどいはんが、左にもあらざるなり、其ゆえは宗易らお始めとして、茶に名あるもの、其ほど〳〵のふしおそへ、文おくはへて、おのづからの法おつくり出したるなり、されば台子より薄茶手前に至るまで、強て求めいだしたる所作はなく、皆ちりあれば拭ひ、けがるれば洗ふにて、客お敬ひ親しみおあつくして、たゞ其ほどに心お、用いるなりけり、遠州流にても、石州千家のたぐひにても、いづれも其とり所はある事にて、何れの流派よきのあしきのといふ論はあらざるなり、たゞわが覚えしところにてなすべきなり、