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槐記
享保十一年四月十三日、灰お直すことは、遠州流には炭の後にすることかと御尋〈○近衛宗熙〉なり、いかにも左やうに候と申上る、御流儀には風炉の灰は、炭の前にすること也と仰らる、 十三年五月三日、風炉の灰おすることは、六け敷やうにいへども、今時の灰は、さまでむつかしきやうにも見えず、灰の高下桟深曲直は、風炉と五徳と、前のかはらけとの間によれば、兼て定めがたし、此は常修院殿〈○慈胤法親王〉の教へ、猶なること也、大秘蔵のこと也、先風炉に五徳おろくに入て、真中に灰おいかほどなりとも入て、それお四方へかき出せば、自ら高下の出来るお、又別の灰にて其高下のなりに灰おまきて、きれいにするばかり也、前かわらけも、灰お大方に四方へまきて、好かげんにかわらけおかためて、風炉の前口より、恰好よきやうに堅めて、又前の方の灰お、別の灰にて程よきほどに直すこと也、前の灰の出入は、五徳の右の方は角より引出し、左の方は五徳の腹にてとめる故、〈これも左勝手なれば、左の角より引出す、〉灰お五徳より奥から引き出してろくにす、右の方は右の角より引出す故に、自らとまりなきから一面にす、前はそれにて一文字になるとがてんすべし、〈まどふろは、つきあげにして山おせず、前の方もひづみおせず、一文字にする、猶灰お丸くすることもあり、凸にすることもあるなり、〉 十四年四月七日、総別灰の仕やうのこと、先初めに風炉五徳おすえてその真中によしとおもふほど灰お入て、扠かわらけお定め、〈五観のすえやうのこと末二見ゆ、土器のさだめやう亦同、〉その真中の灰お、匙にてわきへかきあげたるなりの自然と山になりたるものなり、わざと拵へたるものに非ず、さて土器のうちそとおよく堅めて推付々々して、灰は前にて五徳の三分が二お埋む、灰のひづみは、五徳の腹から五徳の角まで直一文字につくる、左右のかはりあり、左の方腹よりつけつむれば、右の方角までにてとむるもあり、風炉の脇上まで付るもあり、その左右は客付次第、なり、亭主の左の方客付なれば、亭主の右の方の五徳のはらよりつけそめて、左の方の角までつくる、兎角客のみこみ、灰の付しまいの見ゆるやうにすることなり、さて前の灰は、かへし灰とて、まきざまに下から半分ほど一通まきて、土つきの処お羽にたはきかへす、このはきかへしの羽とみえぬやうにすることなり、化粧灰は、半腹より上おきざみておろす、漸くに出来たるとき、風炉の両脇お外から手にてたヽく、たヽけば灰がづりたいほどづりてかたまる、さて化粧おするなり、化粧の仕やう筆頭に尽されず、口伝なり、さて山おものこらず化粧して後、中の炭のおきよいやうにくつろぐるなり、灰のつけだし〓随分五徳の本のくつろぐやうに谷おすべし、 十一月廿日、参候、世間に何ごとにもせよ、するほどのことお利休々々といへども、利休より後に出来たることも多し、〈○中略〉炉の角おかきたる事も、利休のときはなかりしことなり、これは金森法印が、利休お呼て炉の釜おかけたれば、火気にて白きぢやうの多く散たるお、火箸にて四方の角おつき、穴おあけて火箸にてかきなでけるが、軽浮のもの故、くぼき処にたまりてけるお、利休が見て猶と思ひほめけるが、重ねて利休が法印およびけるときに、始めより四方の角おかきけるとなり、故に角おかくことは金森法印より始たると雲、