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博道随筆
北条執権の末に及んで、七十服茶、百服茶などいふ事聞えし、京都将軍慈昭院殿、〈○足利義政〉の頃より専らになりける、其比の茶礼は、今の様とはかわりて、本の茶、非の茶といふお分ち、品々の茶お点じ出す事十服より百服にも至る、是お呑もの褒貶おなして勝負お争ふ、相阿弥が君台観に茶器お多く長盆にならべすえたる事の見えたる、茶数品なればなり、其中に十服茶などいいふ式は、茶三種お各四服づゝ包み、三種四服の中、各一服お取て試とし、残る処三々九服に客といふ茶お一種そへて、以上十服お点じ出す、是お十服茶といふ、又三種試初に呑お一と定、其次お二三客として出す、試なき式あり、これおつヽぜめとも無試茶ともいふなり、これお又回茶といふ、顔回の回にて、一お聞て十お知るといふ事にとりたり、又試の有お貢茶と雲、子貢の貢にて一お聞て二お知るといふ事にとりたりといふこと壒囊抄に見へたり、今考るに、当時の十炷香の式に相同じ、東山殿〈○足利義政〉の時に、山名宗全十服茶お能呑覚へしといふ事、蜷川覚書といふものに見へたり、其茶式転じて今のごとくなりけり、元亀天正の頃より千利休が作り出せるにはじまる、今も其子孫千と称して、茶礼お以て家お建て京師に住せり、