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筆のすさび

三谷丹下は、後に宗鎮と改名す、名良朴、南川と号し、又不偏斎ともいふ、原叟の弟子にて、四天王と呼びし一人なり、〈○中略〉芸侯へ召るゝ時に、茶道坊主同格なればまいらずと雲につけ、儒者格にて召るゝにより、承知して往きし人なり、千家の茶教に七事といふ事お習はす内に、茶歌舞妓といふ事ありて、十炷香の式に効ひて、茶お呑わけ利(きく)事お主とせり、しかるに良朴この茶歌舞妓といふ名の訳もなき名と、且卑俗に聞ゆるお嫌ひ、同藩の堀南湖先生に議して、一種闘茶と雲事お編出し、その家にては茶かぶきは不用、そのかはり闘茶お教ゆ、
闘茶
蔡忠恵茶錄雲、建安闘試以水痕先者為負、耐久者為勝、故〓勝負之説曰、相去一水両水、此闘茶之由也、谷南川講茶礼者、其闘茶会、約有試茶、有〓茶、毎茶一服、分其香気味、蓋与香式相為表裏、別自有所伝準、而原蔡氏、掲闘茶二字、以告其社友、乃其賞会標置、為茗仙家生一色、請余作詩、
闘茶伝旧法、心賞輒開場、覆中品初定、不須問蔡襄、
元文己未〈○四年〉九月後一日南湖堀正修題