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南方錄

手水鉢附蓋附手水鉢高下
居所不定也、休居士〈○千利休〉は大かた露地の中にすえられたりとかや、腰掛にすえしは、天王寺屋宗及の作なり、玄関の庇の下にもすえる、総而手水鉢、珍敷見事成大石抔無用也、水多してはあしゝ小手桶の水にてそろりとかゆる程と雲々、昼は蓋に不及、暁会夜会雨雪の時は蓋すべし、暁会抔は、隻今改めたる水なれども、虫など落入、木葉ちりなどして落る事あり、休居士時代の手水鉢は、皆々つくばひて仕ふ様にひきし、秀忠公の御時、古織〈○古田織部正〉江府御城御数寄屋山里の露地おつくられし時、手水鉢高くすえられたり、其後家光公の御時、小遠〈○小堀遠江守〉に露地のもやう抔も仕かへ候へとの仰あり、所々しげり抔おすかし、さまでの仕かへもなし、御手水鉢計ひきくすえかへ置れたり、上覧の上其故お御尋あり、小遠の御請は、古田織部時代は、家康公御在世にて駿府に御在城被成、折節の御茶もありし故、御手水鉢高くすえしなり、今になりては御一門お初、皆々つくばひて手水仕候故、ひきくすえ候由御請あり、甚御感有しとかや、誠に時節に随ふ事、猶の了簡也、