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茶窻間話

利休のむすめおさん万代屋へ嫁して、子も有て後に若後家となりしが、天正十八年の春、世中静になりしかば、秀吉公諸大名の方へ御成りもしげく、御茶の湯御能等もおりおりあり、又御鷹野にも毎々御出ありし、弥生のはじめつかた、東山辺へ小鷹狩に御出なされ、南禅寺の前より黒谷辺へさしかゝり給ふ、御供には佐々淡路守、前波半入、木下半介、其外御小姓三人許にて、御自身御鷹おすえられ、山陰の細道お過給ふ所に、むかふの方より女一人下女二三人めしつれ、乗物お後につらせ、破籠やうの物あやしき下部に荷はせ、山々の花の梢おながめやり、いと静なる体にてかちよりぞ出来りけり、木下半介御先へ立て扇おあげ、上様の御成なるぞ、笠帽子おぬげよとよび、供の下部は乗物お田の中へすえ頭お地につけぬ、かの女房はうちおどろきたれども、とりしづめたるけはひにて、帽子おばぬぎ、額綿ばかりにて、枝たけ咲みだれたる花の木陰に立寄しお、秀吉公御覧あるに、女のとしごろは三十にあまりもやせん、白小袖に紅の中ぎぬかさね、うへには紫繻子に金糸のちらし繡お着、腰のあたりしなやかに、長きもすそおかいどりて、花の下にかくれんとあゆみながら、面はゆげに公の方お見やりたる目つき顔のうるはしさ、花も及ばざる風情なりければ、公も御供なる人々も、目もまがひ、胸うちさわぐばかりなりしかば、御小姓おもていかなるものぞと御たづね有しに、千利休がむすめ、万代屋が後家にて侍るよし、供の女申上けるに、内々美女と聞えしに違はざりし、官女にもかゝる姿はあらじと仰せられける、やがて艶書おつかはされ、ひそかに聚楽へめされしかども、御いらへ申上けるは、夫に別れ、かなしびの涙かはきえず、おさなき子どもゝ候へば、御ゆるしあれとて、御返しだにせざりしかば、公もいやましにおぼしめされ、御内々にて富田左近お御使にて、父利休に、聚楽へ御宮づかへさせよとしきりに仰ありしかども、利休もむすめがみさほお立るこゝろざしお破らせがたく、其上娘お妾に出して身お立ん事おくちおしく思ひて、遂に御請申上ざりければ、公も義理のすぢは破られず、わりなき御もの思ひより、内々はふかくいきどほりあらせ給ひしに、折節大徳寺の山門お再興し、棟札お打、我木像おあげし事など、世にかくれなく御耳に達し、さん〴〵不届なるものとおぼしめす所に、佞臣ども便りよしと見すまし、近年道具の目利に私曲ありといひ、或は賄賂お受て御とりなしお申せしなどと、種々あらぬ讒言かさなりしが、前々ならば御僉議もありて、聞召直さるゝ事もあらんかなれども、内々御不快のみぎりなれば、終に刑せられしとなん、大徳寺の山門は、連歌師宗長が建立せしが、久しくして頽破せしお、利休家富たりし故、其檀越宗陳と相議し、古渓和尚へ申て再興し、棟札打、木像お作らせ、つぶ桐の紋の小袖、其上に八徳お着せ、角頭巾お右へなげさせ、尻切おはかせ、杖おつかせ、立て遠お望める体にて、楼上にあげ置し、後日何かと御とがめありしかども、宗陳一人して其罪お引うけし故、大徳寺別事なかりしとなん、