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藩翰譜
十二/古田
織部正藤原重勝は、豊臣太閤の御家人たり、重勝又は重能とも重然とも記せり、〈○中略〉若き時より茶の事お好きて、千利休居士が門弟にして、此事お好きし人々は重勝お以て一世の宗とす、
此程は此事の師範する人おば和尚と称す、この人利休が高弟にて時の和尚にてありけり、〈○中略〉
同〈○元和元年〉六月十一日、織部正重勝、其男山城守某、父子二人切腹、其余党悉く誅せられてけり、
織部正は、古き玩器の全きおば、余りに思ふ所なしとて好まず、されば書昼やうの物おも、かしこお切り、こゝお断ち、凡の茶具おも多くは損ひ毀りて、又補ひ綴りてぞ用いける、世の人皆興ある事に思ひ学びて、世に全き者のなからんとす、松平伊豆守信綱の実父大河内金兵衛久綱、常にかたへの人に言ひしは、必禍ひに罹りて死すべき者なりといひき、其後この人罪蒙りて誅せられしかば、人々大に驚き、如何で兼てより斯くは相知れるぞと久綱に問ふに、古の宝器と聞えしも、世々の乱に失せて、今ある所の物は、皆神仏の護持してこそかく世には残るらめ、それにおのれ一人の所存に随ひて損ひ破ること、必鬼神の憎む所にやあるべき、さらば其人も又身お全くして終る事お得べからずと思ひきと言ひしとなり、さる名言たるよしふるき人の物語りお承りき、此事万にわたり心得あるべき事にや、