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槐記
享保十三年三月廿二日、参候、昔の茶湯には墨跡ばかりにて、歌のものお掛くることは、利休が時分に、或茶人が利休お請招して行かれしが、中くヾりお開たれば、草慌々として飛石もみへがたきほど也、如何なるわざにやと推して、漸々に草かき分て入られしが、鉢前はいときれいに掃除してありける故、いかにも分ありけりと、中に入て床お見られたれば、其家の重代に、定家の小色紙お所持したりしが、此色紙が八重むぐらの歌也しかば、利休も猶もなりと感じたりしが、此れ歌のかけものヽ掛初め也と申す、御前〈○近衛家熙〉の御説には、利休が太閤秀吉お請招し、て、初て定家の小色紙お掛たり、其歌は、天原ふりさけみればの歌也、秀吉の不審なりしに、利休が返答に、此歌は日本人が唐にて読て、月一つにて世界国土お兼て読尽したる歌なれば、大灯虚堂にもおとるべからずと申し上しより、歌のもの掛たると御聞なされし由仰なり、