[p.0640][p.0641][p.0642]
雲萍雑志

江戸葛飾のほとりに、権兵衛といへる村長あり、ある年の春、伊勢大神宮へ太々神楽お奏せんとて、村民十三人とともに御師何某が家に宿るに、山海の珍味お尽し、馳走ありて後、おのおのに薄茶まいらせんとて、案内して茶室へ招請しければ、かの村長お始として、十三人席につけば、御師は丁寧にあいさつして、心お配り茶お建て、権兵衛が前に出しおきけれども、農夫の身なれば、茶道の心得はいさゝかもなければ、大に心おくるしめ、場うてして思ひけるは、いかにして飲べきや、人の咄にも、茶は飲たる上にて順にまはすなどゝ聞しが、十三人へ一杯ばかりの茶お飲かけ、まはしたりとも足るべからず、又ひとりして飲み、他のものへ鼻あかせんこと、いかがなれども、われ村長の身として、今更聞て飲まんも口おしきことなりと、さま〴〵心のうちに思ひめぐらすうちに、御師は先に出せし口取菓子お村長が前へさし出し、いざ召れ給へとしいければ、はつと茶お取あげて残らず飲み、前におきければ、御師は取て茶椀おそゝぎ、又建て村長かまへに出しつゝ、いざ菓子おとり給へといふに、この度は菓子お取て食ひ、また茶おのこらず飲て前におきければ、御師又取りて、もとの如くたてゝ、又村長が前へ出す、村長いひけるは、我等はもはや沢山くだされたりと雲ふに、さあらば次の方へ御おくりあるべしとて、この順にして各一椀づゝ飲、辞退して座しきへ入て、おの〳〵ひそかにその心労おもの語りつゝ臥し、又も茶の饗応あらば、いかばかり迷惑すべし、はやくいとま乞して帰国するにはしかじとて、あくるお待て発足せり、後に権兵衛、予〈○柳沢里恭〉がもとに来りて、願ひたきことの候へといふに、いかなることぞと問ければ、過し春伊勢にて恥お得しこと侍れば、茶の手続お教へ給はるべしとて、しかじかの事お物がたり、今にわすれがたくはづかしく、又口おしくおぼへしといふに、予大にわらひて、そのもとは、日ごろに似げなき不見識の人なり、農夫は農家に人となりて、農業のことにさへくはしければ、恥かしきことなかるべし、茶はもと隠遁の手すさびにして、その道日用に足れりといへども、農夫町人などのいたすべきことにあらず、世おのがれし隠居の後などはともあれ、其許もし茶お学ばゞ、一村みなこれにならひて、農時に怠りなば、田畠はこと〴〵く不作なるべし、村長茶道お知らざるが故に、耕耘収蔵時にたがはず、国中百人耕して五十の遊民あらば、その国かならず飢ぬべし、百人耕して十人あそばゞ、その国果して豊なりといへば、権兵衛感じて、茶の湯お習ふ心おおもひとゞまりぬ、
生駒山お越ける日、秋篠といふ村はづれに、如意輪観音お安置する堂あり、さすが名におふ山色風景、郊野のながめおもしろければ、此堂に立寄てたばこくゆらしけるに、堂守とおぼしく、片目しひたる男の卒都婆お造りいたるお見て、主は細工せらるゝにやといへば、削りさしたる卒都婆おかたへに置て、囲炉の灰かきならし、かんな屑焚て、ふるびたる鑵子に湯おたぎらせ、茶渋のつきたる茶碗お丁寧にあらひそゝぎて、大坂よりもらひし茶なりとて、懇に煎じあたへぬ、予も心よく二三碗お喫してしばし憩へるうち、主のいへるは、我はもと此地の産にてもなかりしが、もと調度のさし物お職として、二十一年ほどは京にくらしつれども、不仕合なること打つゞきて、歳はより、目はわろし、少しのしるべにて、今はこの地に老朽ぬるなり、茶の湯といへることも、はじめはかゝるすさびより起りけるにやなどいひつゝ、菓子お椀に盛ていだしつれば、予とりて見るに、たゝらの木の芽に味噌おくるみて炮りたるなり、珍らしき口取かなとて、いとうまく食て、茶数碗お過しけるうち、主の申は、我が京に在し頃、数々の茶人宗匠など馴染まいらせて、茶席にも迎へられ、薄茶建ることも習おぼえ侍れど、大かたの人は、茶の湯お別のことのやうに心得給ひて、あつらへ物等もいとむつかしく候、東山にて何庵とか申宗匠の建たる席お羨しく思ひて、その好のかたに建たしとて注文取しに、床板お松にして節七つあるお好めり、我等思ふには、いかなるわけにて節数七つ、ある板おもとむるにやと、いぶかしさに問ければ、師の建たる席に、床板の節七つありければ、それお擬するなりといへり、笑ふべきの甚しきにあらずや、師の造られしときは、定めて節なき板のなきまゝに、ふしある板にてせられしなるべし、さあれば、いかに師のあとお慕へばとて、わざ〳〵疵あるものお求むるは、道お嗣にはあらで、頻にならひて師の疵おあらはすと同じかるべしとおもへり、この道は隻きよらにせよといふにはあらず、きたなからず、あり度道具とても、足らぬ所お何かにて、その時の間に合するお馳走とはするなるべし、すべておもしろきことは足らぬところにありて、足り過たるに雅なることなし、人にはみなくせありて、さま〴〵に好みお致せども、くせお捨ざれば、風流の道人にはあらず、理に入て理お遁れたる人ならねば、茶好といふのみにて、茶道の人とは思はれ侍らずとて、その立居ふるまひなどおくゆかしく、この者お蓮行て、家にて養ひおきたく思へり、