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甲子夜話
十一
松平不昧は、〈雲州侯幽羽守治郷隠退しての名〉茶に高名なりし人也、或時芝辺の茶店に憩れけるとき、其釜お見られこれぞ真の蘆屋釜と曰れける、店主大に喜び、他日その釜の箱お造り、不昧の邸に持来り、蘆屋釜と銘お書し賜はらんことお願請す、不昧拒まずして留置こと数日なり、店主復来てこれお促す、不昧曰、我書せんと思ふこと屢なれども、心すヽまずして未だ果さず、店主又来れども未だ果さずとて、遂に銘書お為ざりしとなり、又かの茶店には、不昧の蘆屋と鑒定せられし釜は何なるものぞとて、日々賢愚老少入来るもの少からず、其店これが為に多く銭お得たりと雲ふ、実は不昧の戯にて、真の蘆屋ならぬおさいはれたるなり、箱書付しては失鑒になるゆへ、これは為ざりしなり、其茶店これが為に利お得るに至るも、此侯の高名なること推して知るべし、今は不昧流とて、世に一流の茶道立しほどになりぬ、