[p.0708][p.0709]
古今名物類聚
一/茶入
凡例
凡名物と称するは、慈照相公〈○足利義政〉茶道玩器にすかせ給ひ、東山の別業に茶会おまうけ、古今の名画妙墨珍器宝壺の類お聚め給ひ、なお当時の数奇者、能阿弥相阿弥に仰せありて、彼此にもとめさせられ、各其器の名と価とお定めしめ給ふ、次で信長秀吉の二公も亦此道に好せ給ひ、利休宗及等に仰せて名お命じ、価おも定めしめらる、後世是等の器お称して名物といふ、其後小堀遠州公古器お愛し給ひ、藤四郎以下、後輻国焼等のうちにも、古瀬戸唐物にもまされる出来あれども、世に用ひられざるお惜み給ひ、それがなかにも、すぐれたるお撰み、夫々に名お銘ぜられたるより、世にもてはやす事とはなれり、今是お中興名物と称す、それよりしてのち、古代の名物おば大名物と唱る也、〈○中略〉
小壺お焼ことは、元祖藤四郎おもつて鼻祖とす、藤四郎本名加藤四郎左衛門といふ、藤四郎は上下おはぶきて呼たるなるべし、後堀河帝貞応二年、永平寺の開山道元禅師に随て入唐し、唐土に在る事五年、陶器の法お伝得て、安貞元年八月帰朝す、唐土の土と薬とお携帰りて、初て尾州瓶子窯にて焼たるお唐物と称す、倭土和薬にてやきたるお古瀬戸といふ、古瀬戸は総名なり、大形に出来たるお大瀬戸と雲なり、此手小瀬戸に異なり、小瀬戸といふは小形に出来たるおいふ、此手大瀬戸に異なり、入唐以前やきたるお、口兀、厚手、堀出し手といふ、大名物は古瀬戸唐物なり、誠に唐土より渡たるものおば漢といふ、是は重宝せぬものなり、唐物と混すべからず、堀出し手といふは、出来悪敷とて、一窯土中に埋みたりしお後に掘出したりとなり、一説には遠州公時代に掘出したるともいふ、総て入唐以前の作は、出来田夫にて下作に見ゆるなり、古瀬戸煎餅手といふあう、これは何れの窯よりもいづる、窯のうちにて火気つよくあたり、上薬かせ、地土ふくれ出来たるものなり、後唐の土すくなく成たるによりて、和の土お合てやきたるお春慶といふ、春慶は藤四郎が法名なり、二代目の藤四郎作お真中古物といふ、藤四郎作と唱るは二代めおさす也、元祖お古瀬戸と称し、二代目お藤四郎と称するは、同名二人つゞきたる故、混ぜざるために唱分たるなり、藤四郎春慶も二代めなり、三代め藤次郎、是お中古物といふ、金華山窯の作者なり、四代め藤三郎、是おも中古物といふ、破風窯の作者なり、黄薬といふも破風窯より出たるものなり正信春慶といふものあり、正信は荷人なる事お詳にせず、又後時代春慶と称するは、堺春慶、吉野春慶なり後窯と称するは、坊主手、宗伯、正意、山道、茶白屋、源十郎、姉、利休、鳴見、織部、捻貫、八つ橋、伊勢手、万右衛門等なり、又遠州公時代に新兵衛、江存、茂右衛門、吉兵衛等あり、其外国焼と唱るものは、薩摩、高取、肥後、丹波、膳所、唐津、備前、伊賀、信楽、御室なり、祖母懐は美濃の国焼なり、大窯物といふは瀬戸なれども、至て後のものにて、漸百年余りになるもの也、右後窯以下国焼にも遠州名物数多し、〈○中略〉
于時天明丁未〈○七年〉之孟春