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槐記
享保十二年閏正月九日、参候、総じて棗お濃茶の茶湯に出すことはなきこと也、先は左やうにて時ありて出すことあり、大やう袋ばかけず、已前深諦院殿所望にて、利休より応山公〈○近衛信尋〉へ献ぜし棗にて御茶あそばせしとき出されしも袋なし也、大棗などは急度茶の湯に出す、棗に袋かくることもあり、棗でなければならぬときあり、先は出さぬこと也、〈今のやうに古金らんの袋など、色々のけつこうなる袋かくることはしらぬことなりと仰(近衛家熙)らる、〉前に織部が大棗お茶湯に出聿しこと仰あり、それ故棗も出すことにやとうかヾふ、仰に、大棗、別して出すことあり、ときによりて出さでかなはぬときあり、重てうかヾうべし、 廿三日、大海の茶入は囲居数寄屋へは出さぬこと也、畢竟ひきだめ真壺の類也、勝手に口覆おしてかざり付、濃茶抔の切れたらんときつぎたす為也、今は長緒にして出すはしらぬこと也、内海は出すこと也、 十三年正月六日、先日石州の茶に御渡〈○近衛家熙〉のとき、この頃二三が話に、去る方へ茶湯に参りて、せいしと申茶入お見たり、織部が文のそひたるお掛たり、御存じにやと窺ふ、不知と雲しが、覚えぬにやと仰せらる、已前に見侍りぬ、存じたる者所持す、〈大黒屋東右衛門〉此おかりて此夜御目に掛る、初めて御覧ありぬと、是より又勢至の茶入せんさくになりて、鴻池道億へ上間につかはさる、猶も名物の名目はありて、古今これなきもの也、勢至と雲名は仏経より出でたる名也と申せし也、此頃応山の遊したる茶の書にも、勢至と雲名物の銘はありて世になきものとあり、 九月十四日、今の世茶入お挽家に、至極に結構お尽して、袋まで美麗なるあり、よき形なるお棗目のかはりに、薄茶お入れて出し候はヾいかヾ侍らんと伺ふ、仰に、いかにも昔の故実は、その筈なること也、宗和の物数寄の挽家は、そこと目お付て、随分蕀茶入に用ひられぬやうに拵られたりと仰なり、 十四年五月四日、御茶、〈○中略〉御茶入〈紅の大津袋に入、勝手の方かざり付、せとのこぶりなる皆口也、胴にろの字あり、○中略〉上の茶入の尻に書付のあるがあるもの也、昔し利休が書付也とて、御覧なされたることあり、先日有隣軒にて出たる茶入のそこに宗旦の書附あり、是書付の仕やう、かはりたるもの也、たとへば茶入のかざり付の景お前にしてみれば、書付は横にかいてあり、利休が書付はいくつも皆それなりと、常修院殿の仰に、唐物のかきつけは、みな横なるもの也、利休がそれおしりて仕たるか、不知してしたるか、いづれ猶なること也、茶入のかざりつけのやうにして、仰けて書付お見れば、横にかけば直にな万、かざりつけのやうに書けば、仰けて手がねじれねば直にならぬ也と仰らる、 十五年正月七日、御茶湯始、拙、(山科道安)二三、○中略御茶入千種手と雲、世上にてこれお伊勢春慶と雲へども、春慶が作よりも古きものなりと仰せらる、これは先年古陸奥守より献上なり、自員の茶入なりと、御前の思召にて、これおば美類女と銘ぜらる、奥州きヽおよびて、御筆お請はれける由なり、いせの海とし経てすめる海士なれどかゝるみるめはかづかざりしお、此歌にてとなり、