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茶道筌蹄

同〈○茶入〉塗物之作者
五郎 羽田氏、奈艮の法界門の傍に住す、夫ゆへ五郎の作お法界門塗と雲、羽田盆ともいふ、珠光時代の棗は、五郎作に限りては杉の、木地板目なり、
余参 記三 両人とも京住紹鴎時代の棗也、余参作は蓋懸り深し、聚光院に余参の没せし日お記しあり、天正十一年癸未四月十一日、
盛阿弥 京住、法名紹甫、太閤より天下一の号お賜ふ、二代目盛阿弥より共蓋あり、三代にて終る、秀次 四代目秀次、利休時代なるが名人也、俗称林兵衛、
藤重 藤重は姓也、名は藤厳と雲、利休時代也、塗物は本業にあらず、慰みに仕たる也、名人なりし故、関東へ召出されて江戸に住す、其節乱世後にて、破損せし名器の繕ひお被仰付、其賞としてつくもの茶入お賜ふ、名物なり、今に藤重の家蔵なち、二代目より御袋師となる、子孫今に在り、〈但し同字にて、一代は藻厳(ごん)と雲、一代は藤厳と雲、〉
宗長〈関氏〉 元伯の塗師なり、余参盛阿弥の頃迄は彫銘なり、宗長以後はかき名に成る、元祖宗哲 中村八兵衛勇山と号す、一翁宗守の婿なり、始は蒔絵師なりしが、塗師に成しは、元来一翁宗守は塗師吉文字屋甚右衛門の養子となりたる人也、後に塗師お中村八兵衛へ譲て茶人となる、夫より宗哲塗師お業とす、依て宗守の出所といふなり、
二代宗哲 早世す、法名元哲、
三代宗哲 別号紹撲又漆桶、又勇斎、世に此人お彭祖(ほうそ)宗哲とて用ゆ、
四代宗哲 別号深(しん)斎、紹卦の養子、初は八郎兵衛と雲、
五代宗哲 別号豹(へう)斎といふ
六代宗哲 初代より代て今に至るまで通称八兵衛