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槐記
享保十二年四月三日、参候、午後より左典厩が宅へ茶に御成、〈○近衛家熙〉即ち御供、〈○中略〉茶入 瀬戸の中古金華山の手〈先年拝領の物〉 袋〈広東のよし、地白にて、あや地のやうにて、花づるの紋ありて、細き金の筋ありて、其中にからくさのもやうあり、珍きかんとふとなり、○中略〉
仰に、此袋に付ては咄あり、先年此袋の切渡りて、幅にて四五尺ありしお、三菩提院殿〈○貞敬法親王〉と二つに分て取しが、此筋は七八寸ほど間お置て、四筋かならでは無りしが、此茶入お求て、幸に常修院殿〈○慈胤法親王〉およびまうして、袋の御物数寄お乞ければ、切れお数々御覧ありて、此切れ然るべしとて、金紋の筋の十文字の処にて、茶入のたけ切抜て、これ〳〵と仰られしほどに、此茶入一つに、四五尺ばかりの切の好き所は皆とられて、あとは何のやくにたヽぬものになりたり、三菩提院殿にこと笑て、ひそかに我等が切は常修院殿には沙汰なしとて、ふたりひそかに笑ひぬ其器にあたる人の物ずきは各別なりと仰らる、 霜月十日、今の茶人、かりそめにも古金禰に名物かいきのうらお付ること、常修院殿など、いかいきらいなること也、結構なる物なるほどに、名物なるほどにとて、用ゆべきやうはなし、古金らんは未し、東山〈○足利義政〉の物ずきにて用られたる物なれば、左もあるべし、名物かいきは、代の貴きまでにて、物ずきに非ず、〈前かどより仰に、棗に古きんらんの袋おかくることも、何の由なきことなり、近代のはやりごとなり、常修院殿の常に、是は茶に入たる道具也、茶に入ざる道具なりとは仰なり、名物か名物に非かとは仰られずと、〉十四年五月四日、大津ぶくろと雲ものは、たとへばふくさの両角お折てぬいつけたるものなり、あしらいは、茶入の中にて、一おりおりてむすぶ、一重むすびにも、まむすびにもする、此ふくろ大小あり、常のふくさよりは少しこぶりなり、大は紫、小は紅なり、