[p.0736][p.0737]
当時珍説要秘錄

坂和田喜六落穂の茶杓堀田へ参らする事、天王寺屋慶子田くらの茶杓の事、一淀の城主の家来坂和田喜六と雲者、好んで茶の道おたしなみけるに、いづくともなく茶杓お求たり、何とやらんしほら敷出来たる様に覚ければ、右茶杓お或時小堀遠江守お招請して見せければ、是は万屋の作なりと被申たり、扠々左様には不存して麤相に仕たり、此上は大切に可仕とぞ申、大きに歓びけり、其茶の席に天王寺屋慶子も居たりけるが、私所持の茶杓も何とやらん是に似申たりと雲ければ、取よせ見せ給へと有故、慶子則茶杓お遠州へ見せければ、是も同作の物也、随分大事に被致よと被申たり、其節坂和田喜六は、右の茶杓に名おつけ給はれと、小堀へ頼みければ、遠州此茶杓誠に拾物なれば、落穂と名付給ふべしといわれし故、坂和田も歓び、此以後落穂とぞ雲ける、慶子も其時、何卒私の茶杓も名お御附可被下と頼ければ、則中村慶子茶杓お田くらと名附可申とぞ被申けると也、両人随分大事にせしお、時の老中堀田相模守是お被及聞て、坂和田喜六方へ所望被致けり、喜六不得止事して相州へ参らせけり、拾ひ物とて落穂と附し貰はれけるも是非なし、天王寺や慶子の田くらは、随分大切にして慶子家に伝へしと也、