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老の波
茶器といへば高料なる物と心得る、いと笑ふべし、高料お好まば、いかけ地螺鈿の台に、こがねの茶椀のせたらんかた遥にまさるべし、宗易のかたへ或農夫来りて、月ごろ日ごろ財おたくはへて、よき茶器お得侍らんと心がけぬ、此金もて茶器お買ひ給はれといひけり、後の日農夫来りければ、かのこがねにて買置たりとて、白布多く出したるお、農夫驚きて是は如何にと問へば、茶巾だに新らしくば、いかほども客は呼ばるゝもの也とはいひけるとぞ、いと感ずべき事也今宗易が書きたるもの、又は持ちたる器ものゝたぐひまで、千々のこがね出してかひえてんとするは、宗易お貴ぶゆえに、かくはしたふにてありけり、左程にも貴びしたはゞ、千々のこがね出して、其手沢の存する器おかはんよりは、まづ此茶巾の事いひたる金言お我物とすべし、この金言お我物とすると、手沢の品お我物とするとは、いづれが宗易の心に協ひぬらんと思ふにや、かの遠州〈○小堀政一〉のいはれしにも、器は新らしきおすと、古きにもあんなり、然るに茶は事そげて奢らぬおせにすればこそ、世の人のこは古きとて捨侍る器物も、かの数奇者は捨てずして、新らしき器物よりも、心あたらしくつかひぬるお、真の数奇者といふとおしへられけめ、今此意しる人だに希れなり、持伝へし器ならばさらなり、されど新らしき器得るほどの事いできなば、猶夫れおもうちまじへてこそ有るべけれ、殊に今の人は茶とだにいへば器ものよと心得、その器よといふも、実にわがよきと思ふにもあらず、唯人まねして、此頃は青磁の香合もてはやすなり、堆朱は人々好まざれば、茶会に用いがたしと、皆世上に雷同瓦鳴して、いはゞ婦女の髪のさま、衣服の色目、世の流行お心として、いさゝかも我実見なく、世もてはやせばよきと思ひ、もてはやす事薄くなりゆくは、はやあしく思ふ情に異ならず、是にてもかの禅意はある事にやあらん、