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明良洪範続篇

此忠興〈○細川〉には、父幽斎にも勝りたる行状多かりける、後年豊前小倉の城主たりし時、一歳領分大早して一向に作物もなく、百姓共餓死に及ばんとしける、其旨役人共より訴へ、当時の飢渇のみに非ず、来年の手当も心元なしと申ければ、忠興大に心痛せられ、中々尋常の事にては届かじ迚、父幽斎より相伝せられし名物の茶器等、残ず近臣に持せ京都へ遣し、此品質物等に入、金子調達し、急愛おしのぎ申度候へども、其位にては行届くまじければ、好き相手お聞合せ、残らず夏払ひ候へとの事にて、早々上京し候所、望む者多く候へども、名高き品々にて、天下の銘器なれば後難お恐れ、所詮表向にて買求めん迚、所司代板倉殿へ伺ひ候へば、周防守聞れて、其茶器の由緒は何れにも致せ、当時歷々の細川家にて売払はれ候と有なれば、別条之無事也、所望の者は勝手次第買取べし、代金等の事相済し上にては我等も一覧すべし、名のみ聞及びたる計りにて今迄見ざりしに、幸の事と申されし故、扠は気遣ひなし迚、有徳成者ども争ひて求めける、右金子早々大坂へ持せ遣し、米麦お始め、何に因ず食に成べき品々お金子限りに買調へ、船にて小倉に差下し、残らず領中へ分け与へし故、大勢の者共飢お助りけると也、