https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1238 智ハ、サトシ、又ハサトリト云ヒ、後ニ智慧トモ云ヘリ、深ク謀リ遠ク慮リ、或ハ機ニ臨ミテ變ニ應ジ、或ハ事ヲ未然ニ防グ等、其事蹟ノ見ルベキモノ枚擧ニ遑アラズ、今ハ只其一二ヲ錄スルノミ、而シテ事ノ軍略ニ關スルモノハ、兵事部ニ載セタリ、
賢ハ、カシコシト云ヒ、サカシト云ヒ、又ヒジリトモ云へリ、ヒジリハ又聖ノ字ヲ用イル、智德兼備ノ者ヲ謂フナリ、
愚ハ、オロカト云ヒ、シレモノト云ヒ、後又バカ、アホウ等トモ云ヒテ、其稱呼甚ダ多シ、智力ノ尋常人ニ及カザル者ヲ謂フナリ、而シテ佯リテ愚ヲ糚フモノモ亦此ニ收載セリ、

名稱

〔新撰字鏡〕

〈忄〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1238 憭〈力小反、慧也、快也、謀也、佐止留、〉

〔類聚名義抄〕

〈二/日〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1238 智〈サトシ サトル サカシ トシ和チイ〉

〔釋名〕

〈四/釋言語〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1238 智知也、無知也、

〔伊呂波字類抄〕

〈知/疊字〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1238 智惠 智謀 智德 智行 智者 智囊

〔日本書紀〕

〈一/神代〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1238 一書曰、〈○中略〉有高皇産靈之息思兼神云者、有思慮之智(サトリ)、〈○下略〉

〔倭訓栞〕

〈前編十/佐〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1239 さとり 神代紀に智又識をよめり、去取の義也といへり、苟子に是之非之、謂之智と見えたり、悟をさとるとよむも同じ、新撰字鏡に憭もよめり、

〔神道玄妙論〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1239 智は佐登理と訓べし、神代紀にしか訓り、聰を佐杼志(サドシ)と訓むも同言にて、言の本は、利(トキ)にさの冠(ソハ)りたるより、佐杼志(サドシ)、佐杼伎(サドキ)、佐杼久(ナドク)とも活用き、また諭、誨などの字を、さとしと訓むも同言にて、此はさとし、〈所悟〉さとす、〈爲悟〉さとさむ、〈將悟〉さとせ〈令悟〉と活用けり、癡愚はこのうら也、

解説

〔千代もと草〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1239 智は智慧なり、人をあはれむは仁なれども、いらぬ所にあはれみをすごすは仁にあらず、禮はたらぬも不禮なり、過るも不禮なり、よきほどの理にかなうやうにするを智慧といふなり、

〔春鑑抄〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1239
智トハ增韻ニ心有所知也ト云テ、智者ト云モノハ、心ニヨロヅノコトヲシルゾ、説文ニ智者有言、故於文白知爲智ト云ハ、智者ト云モノハ、ヨロヅノコトヲ知ルホドニ、ヨクモノヲ云テ、辨舌ガキクゾ、故ニ字ニモ知白トカクゾ、白ハマフストヨムゾ、智者ハ聰明https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m01731.gif 智ト云テ、目ニミルコトモカシコクテ、チヤツト、モノヽヨシアシヲミテトルゾ、耳ニキクコトモカシコクテ、チヤツトモノヽヨシアシヲミテトルゾ、サルホドニアキラカニシリ、洞ニ達シテ理ニクラキコトナキゾ、マヘニイヽタル仁ノ道モ、義ノ道モ、禮ノ道毛ヨクシリワケテ、ソレ〳〵ニ行フガ智者ゾ、智ニアラズンバ、イカニトシテ仁義禮ノ道ヲシランヤ、智アルニヨリテ、仁義ノ道ヲシリテ、是非善惡ヲ分明ニ分ツゾ、故ニ孟子是非之心、智之端也ト云ゾ、是トハソノ善ナルコトヲシリテ、コレヲ是トス、是ハヨヒト云心ゾ、非トハワルヒト云心ゾ、サルホドニ是非之心、智之端也ト云ゾ、孔子モ智者不惑ト云レタゾ、物ノ理非ヲ分明ニ分テ、是ハ理也、是ハ非ナリトシルコト、カヾミノ妍醜ヲ辨ズルガゴトクナルホドニ、物ニ迷フ事ガナヒゾ、カヾミガアキラカナレバ、人ノ形ノカホヨキト、智惠ノヒ カリヲ以テ、モノヲテラシテ、當理不擾、達事無滯ゾ、人欲ノ私ニヒカレテ、一點モ私欲ナク、バ、智モ明カニナランゾ、智者樂水ト云テ、智者ト云モノハ、智慧ヲメグラシテ、世ヲ治ルコト、サツサト水ノ流テヤマザルガ如シ、故ニ水ヲタノシムゾ、マタ智者動ト云ルハ、智者ト云モノハ明徹ニシテ、萬事ノ理ニヨク達シテ、氣轉ガマハルホドニ、一方ムキニナク、チヤツチヤツト事ノ變ニ應ズルホドニ動ト云ゾ、〈○下略〉

〔彝倫抄〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1240 智トハ智之理、心ノ別トテ、是非邪正ヲヨクシルヲ云フナリ、ヨク萬物ノ義理ヲ、シルコト肝要ナリ、是非ヲヨクワキマヘタラバ、ナドカ聖人ノ道ノ、貴キコトヲシラザランヤ、

〔五常訓〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1240
知は增韻心有知也といへり、知は心の明なり、和訓にはさとるとよむ、是非をてらす心の光なり、心明らかにして、人倫事物の道理に通じ、是非善惡をわきまへしりて、まよはざる德なり、仁義禮も智によりて、其の理明らかにして行はる、智なければ道理くらくして、善心あれども、行ふすべをしらず、あやまりてひがことのみ多し、周子は通ずるを知と云ふといへり、萬理に通ずるなり、朱子は智は分別是非の理と云へり、分別とは、わかちわかつなり、心中に善惡をわかちわきまふるを云ふ、是非とは事にのぞみては、是を是とし、非を非とするを云ふ、智は性なれば、あながちに外にむかひて、とくべからずといへども、用につきてとかざれば智の體も明らかならず、孟子は智之實、知斯二者去是也と説き給ふ、智の眞切なる所は、孝弟の道を知りて、すてずしてかたく守るを云ふ、道理をしりて、又よく其の道理を守りて失はざるなり、しりても守らざれば眞にしれるにあらず、智は五行においては水に屬す、水は淸く明らかにして、かゞみとすべし、智のあきらかなるに似たり、又萬物は皆水のうるほひ通じて生ずるごとく、萬事智にあらざれば、道理通せずして行はれず、朱子四書の註の中、仁義禮には明解あり、智の字に註なし、故に朱子の後、智 の字をとく者多しといへども、其の説分明ならず、大學或問曰、知則心之神明、妙衆理而宰萬物者也、心の神明とは、人の心虚靈にして不昧を云ふ、妙衆理とは、もろ〳〵の理を發明してしるを云ふ、宰萬物とは、萬物をつかさどりて、善惡を裁判するを云ふ、是致知の知をときて、四德の智を説き給へるにはあらずといへども、知の體用をよくとけること分明なり、此の外に智の註を求むべからず、愚ひそかに朱子の兩説に本づきて、知を説きて曰、智者、心之明、事之別也、心の明とは、くらからざるを云ふ、燈火明らかにして、物をてらすが如し、是智の體なり、事の別とは、事にのぞみて、是非をわかつを云ふ、是智の用なり、其の事にのぞみて、是非をわかつは何ぞや、内に明あるを以てなり、此の説いまだ當否をしらず、しばらくこゝにしるして、識者の是正をまつのみ、

〔辨名〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1241 智〈二則〉
智亦聖人之大德也、聖人之智、不得而測焉、亦不得而學焉、故岐而二之、曰聖、曰智是也、故凡經所謂智皆以君子之德之、如禮、知言、知道、知命、知一レ人是也、知道者、知先王之道也、是統其全之、無包、故難其人焉、孔子曰、爲此詩者、其知道乎、難辭也、知禮者、知先王之禮也、知言者、知先王之法言也、之二者道之分也、分而言之、所以便學者也、先王之敎、詩書禮樂、詩書言也、義之府也、知言則知義、知禮與一レ義、則道庶幾可以盡焉、不樂者、亦難其人焉、孔子稱臧文仲、不智者三、皆謂其不一レ禮矣、可見古者以禮爲不智已、孟子知言、亦謂先王之法言也、苟能知先王之法言、則規矩在我足以知人之言焉、故下以詖淫邪逅之耳、後儒不道、故直謂孔子知人之言也、聽訟吾猶人也、是雖孔子敢自道人之言、況孟子而能之乎、故誠淫邪遁、亦好辯之過也、然又毎以規矩言、則知其知言亦謂先王之法言已、知命者知天命也、謂天之所命何如也、先王之道本於天、奉天命以行之、君子之學道、亦欲以奉天職焉耳、我學道成德而爵不至、是天命我以使道於人也、君子敎學以爲一レ事、人不知而不慍、是之謂命、凡人之力有及焉、有及焉、强求其力所及者、不智之大者也、故曰不命、無以爲君子也、 〈○下略〉

〔伊勢平藏家訓〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1242 五常の事
一智といふは、道理と無理、善と惡、是と非を分別するをはじめとして、耳にきかず、目に見えぬ事までも考へ知り、わきまふを智といふなり、

智例

〔日本書紀〕

〈一/神代〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1242 素戔鳴尊之爲行也甚無狀、〈○中略〉天照大神〈○中略〉發慍、乃入于天石窟磐戸而幽居焉故六合之内常闇而不晝夜之相代、于時八十萬神會合於天安河原邊、計其可禱之方、故思兼神深謀遠慮、遂聚常世之長鳴鳥使互長鳴、亦以手力雄神磐戸之側、而中臣連遠祖天兒屋命、忌部遠祖太玉命、掘天香山之五百箇眞坂樹、而上枝懸八坂瓊之五百箇御統、中枝懸八咫鏡、〈一云眞經津鏡〉下枝懸靑和幣〈和幣此云尼枳底〉白和幣、相與致其祈禱焉、又猿女君遠祖天鈿女命、則手持茅纏之矟、立於天石窟戸之前巧作俳優、亦以天香山之眞坂樹鬘、以蘿〈蘿此云比舸礙〉爲手繦、〈手繦此云多須枳〉而火處燒覆槽置、〈覆槽此云于該〉顯神明之憑談、〈顯神明之憑談、此云歌牟鵝可梨、〉是時天照大神聞之而曰、吾比閉居石窟、謂當豐葦原中國必爲長夜、云何天鈿女命唬樂如此者乎、乃以御手開磐戸窺之、時手力雄神則奉承天照大神之手、引而奉出、

〔日本書紀〕

〈三/神武〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1242 戊午年九月、弟猾又奏曰、倭國磯城邑有磯城八十梟帥、又高尾張邑〈或本云葛城邑也〉有赤銅八十梟帥、此類皆欲天皇距戰、臣竊爲天皇憂之、宜今當取天香山埴、以造天平瓫、而祭天社國社之神、然後擊虜則易除也、天皇旣以夢辭吉兆、及弟猾之言、益喜於懷、乃椎根津彦著弊衣服及蓑笠老人貌、又使弟猾被箕爲老嫗貌、而勅之曰、宜汝二人到天香山、濳取其巓土而可來旋矣、基業成否、當以汝爲占努力愼焉、是時虜兵滿路難以往還、時椎根津彦乃祈之曰、我皇當能定此國者、行路自通、如不能者賊必防禦、言訖徑去、時群虜見二人大咲之曰、大醜乎〈大醜此云鞅奈瀰儞勾〉老父老嫗、則相與闢道使二人、得其山土來歸

〔日本書紀〕

〈五/崇神〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1242 十年九月壬子、大彦命到於和珥坂上、時有少女歌之曰、〈一云大彦命到山背平坂、時道側有童女(ワラハメ)歌之曰、〉瀰磨(ミマ) 紀異利比胡播揶(キイリヒコハヤ)、飯迺餓烏塢(オノガヲヲ)、志齊務苫(ンセムト)、農殊末句志羅珥(ヌスマクシラニ)、比賣那素https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m01264.gif 殊望(ヒメナソヒスモ)〈一云於朋耆妬庸利(オホキトヨリ)、于介伽卑氐(ウカガヒテ)、許呂佐務苫(コロサムト)、須羅句塢志羅珥(スラクヲシラニ)、比賣那素寐須望(ヒメナソヒスモ)、〉於是大彦命異之問童女曰、汝言何辭對曰、勿言也、唯歌耳、乃重詠先歌忽不見矣、大彦乃還而具以狀奏、於是天皇姑倭迹々日百襲姫命、聰明叡智(サトクサカシクラ)能識未然、乃知其歌恠、言于天皇、是武埴安彦將謀反之表者也、吾聞武埴安彦之妻吾田媛、密來之取倭香山土、裹領巾頭祈曰、是倭國之物實則反之、〈物實此云望能志呂〉是以知事焉、非早圖必後之、於是更留諸將軍而議之、未幾時武埴安彦與妻吾田媛反逆師忽至、

〔日本書紀〕

〈十一/仁德〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1243 十一年十月、將北河之澇、以築茨田堤、是時有兩處之築、而乃壞難塞、時天皇夢、有神誨之曰、武藏人强頸、河内人茨田連衫子、〈衫子此云筥呂母能古〉二人以祭於河伯必獲塞、則覓二人而得之、因以禱于河神、爰强頸泣悲之、沒水而死、乃其堤成焉、唯衫子取全匏兩箇、臨于難塞水、乃取兩箇匏、投於水中、請之曰、河神祟之、以吾爲幣、是以今吾來也、必欲我者沈是匏、而不泛、則吾知眞神、親入水中、若不匏者、自知僞神、何徒亡吾身、於是飃風忽起、引匏沒永、匏轉浪上而不沈、則滃々汎以遠流、是以衫子雖死、而其堤且成也、是因衫子之幹、其身非亡耳、

〔日本書紀〕

〈二十/敏達〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1243 元年五月、高麗上表疏書于烏羽、字隨羽黑旣無識者、辰爾乃蒸羽於飯氣、以帛印羽、悉寫其字、朝廷悉異之、

〔日本書紀〕

〈二十一/崇峻〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1243 二年〈○用明〉七月、物部守屋大連資人捕鳥部萬〈萬名也〉將一百人難波宅、而聞大連滅馬夜逃、〈○中略〉萬衣裳弊垢、形色憔悴、持弓帶劒、獨自出來、有司遣數百衞士萬、萬卽驚匿https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m01723.gif 、以繩繫竹引動、令他惑己所一レ人、衞士等被詐、指搖竹馳言、萬在此、萬卽發箭一無中、衞士等恐不敢近、萬便弛弓挾腋向山去、

〔續日本紀〕

〈三十八/桓武〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1243 延曆四年七月庚戌、刑部卿從四位下兼因幡守淡海眞人三船卒、〈○中略〉八年〈○天甼寶字〉被造池使近江國、修造陂池、時惠美仲麻呂適宇治、走據近江、先遣使者調發兵馬、三船在勢多、 與使判官佐伯宿禰三野、共捉縛賊使及同惡之徒、尋將軍日下部宿禰子麻呂、佐伯宿瀰伊達等、率數百騎而至、燒斷勢多橋、以故賊不江奔高島郡、以功授正五位上勳三等

〔榮花物語〕

〈一/月宴〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1244 廣幡のみやすとごろ〈○村上更衣源計子〉ぞあやしう、こゝろことにこゝろばせあるさまに、みかどおぼしめいたりける、内よりかくなん、
あふさかもはてはゆきゝのせきもゐずたづねてとひこきなばかへさじ、といふうたを、おなじやうにかゝせ給て、おほんかた〴〵にたてまつらせ給ひける、この御返事をかた〴〵さまざまに申させ給ひけるに、廣幡めみやすどころは、たきものをぞまいらせ給たりける、さればこそなをこゝろことにみゆれとおぼしめしけり、いとさこそなくとも、いづれのおほんかたとかや、いみじくしたてゝまいり給へりけるはしも、なこそのせきもあらまほしくぞおぼされける、おほんおほえもひごろにおとりにけりとぞきこえはべりし、
○按ズルニ、此歌ハ、沓冠折句ニテ、アハセタキモノ、スコシノ十字ヲ句ノ上下ニ置ケルナリ、

〔古事談〕

〈四/勇士〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1244 仁和寺式部卿宮御許ニ、將門參入具郎等五六人云々、出御門之時、貞盛〈○平〉又參入、不具郎等、則參御前申云、今日郎等不候、尤口惜事也、郎等アリセバ今日殺シテマシ、此將門ハ天下ニ可出大事者也ト申ケリ、

〔枕草子〕

〈十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1244 やしろは
ありどをしの明神、〈○中略〉此ありどをしとつけたる心は誠にやあらん、むかし、〈○中略〉中將わかけれどざえあり、いたり賢くして、時の人におぼす成けり、もろこしの帝、この國のみかどをいかではかりて、此國うちとらんとて、常に心みあらがひ事をしてをくり給ひけるに、つや〳〵とまろにうつくしげにけづりたる木の二尺ばかりあるを、これがもと末いつかたぞととひ奉たるに、すべてしるべきやうなければ、帝おぼしめしわづらひたるに、いとおしくておやのもとにゆきて、 かう〳〵の事なんあるといへば、只はやからん川に、たちながらよこさまになげ入見んに、かへりてながれむかたをすゑとしるしてつかはせとをしふ、まいりて我しりがほにして、心み侍らんとて、人々ぐしてなげいれたるに、さきにして行かたにしるしをつけてつかはしたれば、まことにさなりけり、又二尺ばかりなるくちなはのおなじやうなるを、是はいづれか男女とて奉れり、又さらに人えしらず、れいの中將ゆきてどへば、二つをならべて、尾のかたにほそきずはえをさしよせんに尾はたらかさんをめとしれといひければ、やがてそれを内裏のうちにてさしければ、まことに一つはうごかさず、一つはうごかしけるに、又しるしつけてつかはしけり、程久しうて、七わだにわだかまりたる玉の、中とをりて左右に口あきたるが、ちいさきを奉りて、これにをとをしてたまはらん、此國にみなし侍る事なりとて奉りたるに、いみじからん物の上手ふようならん、そこらの上達部よりはじめて、ありとある人しらずといふに、又いきてかくなんといへば、おほきなるありを二つとらへて、こしにほそき糸をつけ、又それに今すこしふときをつけて、あなたの口にみつをぬりて見よといひければ、さ申てありをいれたりけるに、みつのかをかぎて、まことにいととうあなのあなたのくちに出にけり、さて其糸のつらぬかれたるをつかはしたりける、後になん猶日本はかしこかりけりとて、のち〳〵はさる事もせざりけり、〈○中略〉其人の神になりたるにやあらん、

〔江談抄〕

〈五/詩事〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1245 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m01732.gif https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m01733.gif 字和名事被命云、延喜御時、渤海國使二人來朝、其牃狀爾此兩字各爲使二人姓名紀家見之雖文字呼云、https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m01734.gif 木ノツフリ丸、https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m01733.gif 石ノマフリ丸參レト喚、各應會參云々、異國作字也、以當時會釋之可神妙者也、異國人聞而感之云々、

〔今昔物語〕

〈三十一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1245 藏人式部丞貞高於殿上俄死語第二十九 今昔、圓融院ノ天皇ノ御時ニ、内裏燒ニケレバ院ニナム御ケル、而ル間殿上ノ夕サリノ大盤ニ、殿上人、藏人數著テ物食ケル間ニ、式部丞ノ藏人藤原ノ貞高ト云ケル人モ著タリケルニ、其ノ貞高ガ俄ニ低シテ大盤ニ顏ヲ宛テ喉ヲクツメカス樣ニ鳴シテ有ケレバ、極テ見苦カリケルヲ、小野宮ノ實資ノ右ノ大臣、其ノ時ニ頭ノ中將ニテ、御ケルガ、其レモ大盤ニ著テ御ケレバ、主殿司ヲ呼デ、其ノ式部ノ丞ガ居樣ヲ極ク不心得ネ、其レニ寄テ搜レト宣ケレバ、主殿司寄テ搜テ早ウ死給セニタリ、極キ態カナ、此ハ何カ可爲キト云ケルヲ聞テ、大盤ニ著タル有ト有ル殿上人藏人皆立走テ、向タル方ニ走リ散ニケリ頭ノ中將ハ然ヲトテ此テ可有キ事ニモ非ズト云テ、此ヲ奏司ノ下部石シテ搔出ヨト被仰ケレバ、何方ノ陣ヨリカ可將出キト申ケレバ、頭ノ中將東ノ陣ヨリ可出キゾト被仰ケルヲ聞テ、藏人所ノ衆瀧口出納御藏女官主殿司下部共ニ至マデ、東ノ陣ヨリ將出サムヲ見ムトテ、競ヒ集タル程ニ頭ノ中將違ヘテ俄ニ西ノ陣ヨリ將出ヨト有ケレバ、殿上ノ疊乍ラ西ノ陣ヨリ搔出テ將行ヌレバ、見ムトシツル若干ノ者共ハ否不見ズ成ヌ、陣ノ外ニ搔出ケル程ニ、父ノノ三位來テ迎へ取テ去ニケリ、然バ賢ク此レヲ人ノ不見ズ成ヌルゾト人云ケル、此レハ頭中將ノ哀ビノ心ノ御シテ、前ニハ東ヨハ出セト行ヒテ、俄ニ違ヘテ西ヨリ將出ヨト被俸テタリケルハ、此レヲ哀ビテ恥ヲ不見セジトテ構タリケル事也、

〔江談抄〕

〈一/攝關家事〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1246 大入道殿夢想事
大入道殿〈兼家〉爲納言之時、夢過合坂關、雪降關路悉白ト令見給〈天〉、大令驚〈天〉、雪ハ凶夢也ト思〈天〉、召夢解謝テ令語給ニ、夢解申云、此御夢想極吉夢也、慥以不恐、其故ハ人必可斑牛、卽人令斑牛、夢解預纏頭也、大江匡衡令參、此由有御物語、匡衡大驚テ、纏頭可召返、合坂關者關白之關字也、雪者白字也、必可關白、大令感給、其明年令關白宣旨給也、

〔江談抄〕

〈二/雜事〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1246 上東門院御帳内犬出來事 上東門院爲一條院女御之時、帳中ニ犬子不慮之外ニ入〈天〉有〈遠〉見付給、大ニ奇恐被入道殿、〈道長〉入道殿召匡衡テ、密々令此事給ニ、匡衡申云、極御慶賀也ト申ニ、入道殿何故哉ト被仰ニ、匡衡申云、皇子可出來之徵也、犬ノ字ハ是點ヲ大ノ下ニ付バ太ノ字也、上ニ付レバ天ノ字也、以之謂之、皇子可出來給、サテ立太子、次ニ至天子給歟、入道殿大令感悦給之間、有御懷姙、令後朱雀院天皇也、此事秘事也、退席之後匡衡私令件字天令家云々、

〔十訓抄〕

〈七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1247 四條大納言〈○藤原公任〉寬弘二年の比、月ごろうらみのありて、出仕もし給はず、大納言辭退し申さんとせられけるに、匡衡を招て辭表を奉らんと思間、時英、齊名、以言等に誂へしむといへども、猶心に不叶、貴殿ばかりに書ひらかれんと思といはれければ、匡衡なまじゐにうけとりて、家に歸て愁嘆の氣色あり、時に赤染衞門何事ぞとたづぬるに、かゝる事なり、後輩は才學優長也、しかるをそれにまさりて書のべん事、きはめて有がたしと答へければ、赤染打案じて、彼人ゆゝしく矯飾ある人也、わがみの先祖やんごとなきものにて有ながら、沈淪の旨をかゝざる歟、早く此旨を書べしと云、匡衡かの輩の草を見るに、實に其趣なし、尤しかるべしとて、打立に云、臣は五代の太政大臣の嫡男也、曩祖忠仁公より以來と云より次第にかぞへあげて、我身の沈める由を書て持て行所に、感嘆して悦べる氣色なり、仍是を用ひられけり、

〔枕草子〕

〈十一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1247 雪いとたかく降たるを、れいならず、御格子まいらせて、すびつに火おこして、もの語などしてあつまりさふらふに、少納言よ、かうろほうの雪はいかならんと仰られければ、みかうしあげさせて、みす高くまきあげたれば、わらはせ給ふ、人々も皆さる事はしり、歌などにさへうたへど、思ひこそよらざりつれ、猶此宮の人にはさるべきなめりといふ、

〔古事談〕

〈六/亭宅諸道〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1247 入道殿〈○藤原道長〉被東三條之時、有國〈○藤原〉奉行之、西ノ千貫之泉透廊南へ長ク差出タル中程一間不上長押、殿下御覽之、ナド不長押哉、下モ土ニテ弱々ト被仰ケレド、無何申 成テ止畢、然間上東門院立后之後、始入内給之時、此上長押アラバ可其煩之處、御輿安ラカニ令出給之間、有國砌ニ候ケルガ、頗コハヅクロヒヲ申タリケレバ、殿下被御覽タルニ、指ヲサシテ上長押ヲ見セタリケリ、イカニモ可此義ト存テ、御輿ノ寸法ヲ計テ不長押云々、思慮深者也、

〔江談抄〕

〈三/雜事〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1248 勘解由相公暗打事
勘解由相公〈○藤原有國〉昔有暗打之儀、有國聞之、愉於暗處油立、偸以其油打人之直衣袖、明旦知其人油爲驗云々、〈○中略〉
致忠買石事
又被命〈○大江匡房〉云、備後守致忠〈元方男〉買閑院家、欲泉石之風流、未立石薊以金一兩石一、件事風聞洛中、件事爲業之者傳聞此、爭運載奇巖恠石、以至其家賣、爰致忠答云、今者不買云々、賣石之人則抛門前云々、然後撰其有風流之云々、

〔續古事談〕

〈五/諸道〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1248 御堂〈○藤原道長〉承香殿ノハザマヲスギ給ケルニ、女房氷ニ歌ヲカキテ、御隨身淸武ニトラセタリケルヲ、陣ニツカセ給ケルニ、モテマイリタリケレバ、文字ミナキエテミエザリケリ、ナゲキ給ケルニ、フトコロヨリタヽウガミニウツシテトリイデタリケリ、カヤウニ心バセアルモノニゾアリケル、

〔源平盛衰記〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1248 平家繁昌幷德長壽院導師事
忠盛朝臣備前守タリシ時、鳥羽院御願德長壽院トテ、鳳城ノ左、鴨河ノ東ニ、三十三間ノ御堂ヲ造リ進ジ、一千一體ノ觀音ヲ奉居、勸賞ニハ闕國ヲ賜ベキ由被仰下、但馬國ヲ賜フ、〈○中略〉
五節夜闇打附五節始幷周成王臣下事
加樣ニ忠盛佛智ニ叶フ程ノ寺ヲ造進シタリケレバ、禪定法皇叡感ニ堪サセ賜ハズ、被遷任之上、當座ニ刑部卿ニナサル、内ノ被昇殿、昇殿ハ是象外ノ選ナレバ、俗骨望事ナシ、就中先祖高見 王ヨリ其跡久ク絶タリシ、忠盛三十六ニシテ被免ケリ、院ノ殿上スラ難上、況内ノ、昇殿ニ於テヲヤ、當時ノ面目、子孫ノ繁昌田覺タリ、〈○中略〉雲ノ上人嘲憤テ、伺年〈○長承元年〉十一月ノ五節、二十三日ノ豐明節會ノ夜、闇打ニセント支度アリ、忠盛此事風聞テ、我右筆ノ身ニ非、武勇ノ家ニ生テ、今此耻ニアハン事、爲身爲家心ウカルベシ、又此事ヲ聞ナガラ、出仕ヲ留ンモ云甲斐ナシ、所詮身ヲ全シテ君ニ仕ルハ、忠臣ノ法ト云事アリト云テ、内々有用意、〈○中略〉縫殿陣黑戸ノ御所ノ邊ニテ、怪人コソ遇タリケレ、忠盛見咎テ物ヲバイハズ、一尺三寸ノ鞘卷ヲ拔、手ノ内ニ耀樣ナルヲ、髭ノ髮ニスハリスハリト搔撫テ、良アリテ哀是ヲ以テ猿藉結構スル惡キ者ニ、一當當バヤト云ケレバ、アヤシミタル人則倒伏ニケリ、勘解由小路中納言經房卿、其時ハ頭辨ニテ折節通合給へリ、花ヤカニ裝束シタル者、ウツブシ伏タリケル間、誰人ゾトテ引起給タレバ、ワナナク〳〵弱々シキ、聲ニテ、忠盛ガ刀ヲ拔グ我ヲキラントシツルガ、身ニハ負タル疵ハナケレ共、臆病ノ自火ニ攻ラレテ絶入タリケルニヤト宣ヘバ、經房卿ハアナ物弱ヤ、實ニ闇打ノ張本トモ不覺トテ見給タレバ、中宮亮秀成ニテゾ御座ケル、〈○中略〉忠盛身ノカタワヲ謂レテ、安カラズ思へ共、無爲方、著座ノ始ヨリ、殊ニ大ナル黑鞘卷ヲ隱タル氣モナク、指ホコラカシタリケルガ、亂舞ノ時モ猶サシタリケリ、未御遊モ終ラザルニ、退出ノ、次ニ、火ノホノ暗キ影ニテオホ刀ヲ拔出シ、鬂ニスハリ〳〵ト引當ケレバ、火ノ光ニ耀合テキラメキケレバ、殿上ノ人々皆見之、忠盛如レ此シテ出樣ニ、紫震殿ノ後ロニテ、主殿司ヲ招寄、腰刀ヲ鞘ナガラ拔、後ニ必尋アルベシ、慥ニ預ケントテ出ニケリ、家貞主ヲ待受テ、如何ニト申ケレバ、有ノ儘ニ語ラバ、僻事スベキ者ナレバ、別ノ事ナシトゾ答ケル、五節以後公卿殿上人、一同ニ訴申サレケルハ、忠盛サコソ重代ノ弓矢取ナランカラニ、加樣ノ雲上ノ交ニ、殿上人タル者、腰刀ヲ差顯ス條、傍若無人ノ振舞也、雄劒ヲ帶シテ公庭ニ座列シ、兵杖ヲ賜テ宮中ヲ出入スル事ハ、格式ノ禮ヲ定タリ、而ヲ忠盛或相傳ノ郎等ト號シテ、布衣ノ兵ヲ殿上ノ小庭ニ召置、 或ハ其身腰ノ刀ヲ横タへ差テ、節會ノ座ニ列ス、希代ノ狼藉也、早御札ヲ削テ可解官停任由被申タリ、上皇ハ群臣ノ列訴ニ驚思召テ、忠盛ヲ召テ有御尋、陳ジ申ケルハ、郎從小庭ニ伺候ノ事不存知仕、但近日人々子細ヲ被相構、依其聞、年來ノ家、人爲其難、忠盛ニ知セズシテ推參スル罪科可聖斷、次ニ刀ノ事、主殿司ニ預置候、被召出實否咎ノ御左右アルベキ歟ト奏シケレバ、誠ニ有其謂トテ、件ノ刀ヲ召出シテ及叡覽上ハ、黑漆ノ鞘卷、中ハ木刀ニ銀薄ヲ押タリ、爲當座之耻横タへ差タレ共、恐後日之訴、木刀ヲ構タリ、用意之體神妙也、郎從小庭ノ推參、武士ノ郎等ノ習歟、無存知之由申上ハ、忠盛ガ咎ニアラズト、還テ預叡感ケリ、

〔古事談〕

〈一/王道后宮〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1250 京極大相國〈○藤原宗輔〉被蜂之事、世以稱無益事、而五月比於鳥羽殿蜂栖俄落テ、御前多飛散ケレバ、人々モナヽレジトテ、ニゲナハギケルニ、相國御前ニ枇杷ノ有ケルヲ一總トリテ、コトヅメニテカハヲムキテ、サシアゲラレタリケレバ、蜂アルカギリツキテ、チラザリケレバ、乍付召共人ヤハラ給ケリ、院モ賢ク宗輔ガ候テト被仰テ、令感御ケリ、

〔源平盛衰記〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1250 山門御輿振事
治承元年四月十三日、辰刻ニ、山門大衆日吉七社ノ神輿ヲ奉莊、根本中堂へ振上奉、先八王子、客人權現、十禪師、三社ノ神輿下洛有、〈○中略〉源平ノ軍兵依勅命、四方ノ陣ヲ警固ス、神輿堀川猪熊ヲ過サセ給テ、北ノ陣ヨリ達智門ヲ志テゾフリ寄タテマツル、源兵庫頭賴政ハ、赤地錦直垂ニ品皮威ノ鎧著テ、五枚甲ニ滋籐ノ弓廿四指タル大中黑ノ箭負テ、宿赭白毛馬ニ白伏輪ノ鞍置テ乘、三十餘騎ニテ固タリ、神輿旣ニ門前ニ近入セ給ケレバ、賴政急ギ下馬ス、甲ヲ脱弓ヲ平(ヒラ)メ、左右ノ臂ヲ地ニ突、頭ヲ傾ケ奉拜、大將軍角シケル上ハ、家子モ郎等モ各下馬シテ拜ケリ、大衆見之子細有ラントテ、暫神輿ヲユラヘタリ、賴政ハ丁七唱ト云者ヲ招テ、子細ヲ含テ大衆ノ中へ使者ニ立、唱ハ小櫻ヲ黃ニ返タル鎧ニ、甲ヲ脇挾ミ、弓ヲ平メ神輿近參寄、敬屈シテ云、是ハ渡部黨箕田源氏綱ガ末 葉ニ、丁七唱卜申者ニテ侍、大衆ノ御中へ可申トテ、源兵庫頭殿ノ御使ニ參テ侍、加賀守師高狼藉ノ事ニ依、聖斷遲々之間、山王神輿陣頭ニ入セ給ベキ由其聞有テ、公家殊ニ、騷驚思召、門々ヲ可守護之旨、勅定ヲ蒙テ、源平ノ官兵四方ノ陣ヲ固ル内、達智門ヲ警固仕、昔ハ源平勝劣ナカリキ、今メ源氏ニオイテハ無力如シ、賴政纔ニ其末ニ殘テ、タマ〳〵綸言ヲ蒙リ勅命背キ難ケレバ、此門ヲ固ムル計也、然共年來醫王山ニ首ヲ傾奉テ、子孫ノ神恩ヲ奉仰、今更神輿ニ向ヒ奉テ、弓ヲ引可矢ナラネバ、門ヲ開テ下馬仕引退テ、神輿ヲ可入、其上纔ノ小勢也、衆徒ヲ禦奉ルニ及ズ、此上ハ大衆ノ御計タルベシ、但三千ノ衆徒、神輿ヲ先立奉リ、賴政尫弱ノ勢ニテ固テ候門ヲ、推破奉入テハ、衆徒御高名候マジ、京童部ガ弱目ソ水トカ笑申サン事ヲバ、爭カ可御憚、東面ノ北脇陽明門ニハ、小松内大臣重盛公、三萬餘騎ニテ固ラル、其ヨリ入セ御座ベクヤ候ラン、サラバ神威ノ程モ顯レ、御訴訟モ成就シ、衆徒後代ノ御高名ニテモ候バンズレ、角申ヲ押テ入セ給ハヾ、賴政今日ヨリ弓箭ヲ捨テ、命ヲバ君ニ奉、骸ヲ山王ノ御前ニテ曝スベシト申セト候トテ、太刀ノ柄(ツカ)碎ヨト握ラヘテ立タリ、大衆聞之、若衆徒ハ何條是非ニヤ及べキ、唯押破テ陣頭へ奉入ト云ケルヲ、物ニ心得タル大衆老僧ハ、サレバコソ子細有ラント思ツルニトテ、奉神輿、暫僉議シケリ、
豪雲僉議事
其中ニ西塔ノ法師ニ攝津竪者豪雲ト云者アリ、惡僧ニシテ學匠也、詩歌ニ達シテ口利也ケルガ、大音學テ僉議シケルハ、大内ノ四方門々端多シ、强ニ北陣ヨリ非入、就中彼賴政ハ六孫王ヨリ以來、弓箭ノ藝ニ携テ、代々不覺ノ名ヲトラズ、是ハ其家ナレバイカヾセン、和漢ノ才人風月ノ達者、カタ〴〵優ノ仁ニテ有ケル者ヲ、
賴政歌事
實ヤ一トセ近衞院御位ノ時、當座ノ御會ニ、深山見花ト云フ題給テ、 深山木ノ其稍共ミエザリシ櫻ハ花ニアラハレニケリ、ト秀歌仕タリケルヤサ男、サル情深キ名仁ゾヤ、首ヲ山王ニ傾テ年久掌ヲ衆徒ニ合テ降ヲ乞、嗷々無情門々端多シ、賴政ガ申狀ニ隨ハルベキ歟哉ト訇ケレバ、大衆尤々ト同ジテ三社ノ神輿ヲ舁返シ、東面ノ北ノ端陽明門ヲゾ破クル、

〔源平盛衰記〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1252 左右大將事
德大寺ノ實定ハ、大將ヲ宗盛ニ被越テ、大納言ヲ辭申サレテ、山家ノ栖ニ有籠居ケリ、〈○中略〉實定卿ハ御身近召仕給ケル侍ニ、佐藤兵衞尉近宗ト云者アリ、事ニ觸テサカ〳〵シキ者也ケレバ、何事モ阻ナク打解被仰合ケリ、彼近宗ヲ召テ宣ケルハ、平家ハ桓武帝ノ後胤トハ名乘ドモ、無下ニ振舞クダシテ、僅ニ下國受領ヲコソ拜任セシニ、忠盛始テ家ヲ興、昇殿ヲユルサレシ子孫也、當家ハ閑院、始祖太政大臣仁義公〈○藤原公季〉ヨリ巳來、君ニ奉仕、代々旣ニ大臣ノ大將ヲヘタリ、今宗盛ニ被越テ、世ニ諂ン事爲身爲家、人ノ嘲ヲ可招、サレバ出家ヲセバヤト思召、イカヾ有ベキト仰ケルニ、近宗申ケルハ、御出家マデハ有ベカラズ、〈○中略〉就中今度ノ大將、朝家ヲ可恨御事ニアラズ、偏ニ太政入道〈○平淸盛〉ノ雅意ノ所行也、カヽル憂世ニ生レ合セ給ヘル御事口惜ケレ共、賢ハ愚ニカヘルト云事モ候ヘバ、今ハイカニモシテ、入道ノ心ヲ取セ給テ、一日也共大將ニ御名ヲ係サセ給ベキ御計ゴトコソ大切ナレ、ソレニ取テ安藝嚴島へ御參詣アリテ、穗ニ出テ此事ヲ祈申サセ給ベシ、彼明神ヲバ平家深ク奉崇テ、其社ニ内侍ト云者ヲ居ラレタリ、彼内侍共毎年一度ハ上洛シテ、入道ノ見參ニ入ト承ハレバ、懸ル御事コソ有シカナンド語申セバ、明神ノ御計モアリ、又入道モイチジルシキ人ニテ、思直サルヽ事モ有ナンド申ケレバ、近宗ガ計可然トテ、ヤガテ有御精進、嚴島ヘゾ參給フ、〈○中略〉四月二日ハ嚴島ニモ著給フ、〈○中略〉御參籠ハ七箇日也、其間内侍共モ常ニ參テ、今樣朗詠シ、琴琵琶彈ナンドシテ、旅ノ御ツレ〴〵、樣々情アル體ニ奉慰、實定卿モ御目ヲ懸ラレタリ、〈○中〉 〈略〉サテモ七日過ヌレバ、都へ歸リ上給フ、〈○中略〉内侍共一夜ノ泊マデ御伴申テ、其夜ハ殊ニ名殘ヲ惜奉、明ヌレバ暇申ケルヲ、實定宣ケルハ、餘波ハ尋常也ト云ナガラ、此ハ理ニモ過タリ、何カハ苦カルベキ、都マデ送付給ヘカシ、又モト思フ見參モイツカハト覺テ、アカヌ思ノ心元ナキゾト仰ラレケレバ、内侍共サラヌダニ難忍ナゴリニ、角コマ〴〵ト宣ケレバ、都マデトテ奉送ケリ、舟ノ泊ヤサシキハ、明石、高砂、須磨浦、雀ノ松原、小屋ノ松、淀ノ泊ノコモ枕、漕コシ船ノ習ニテ、鳥羽ノ渚ニ舟ヲツク、是ヨリ人々上ツヽ、德大寺へ相具シ給テ、兩三日勞リテ樣々翫引出物賜タリケル、サテモ内侍暇給テ下ケルガ、入道ノ見參ニ入ントテ、西八條ヘゾ參タル、入道出會テ、イカニト問給ヘバ、内侍申ケルハ、德大寺大納言殿、今度大將ニ漏サセ給ヘリトテ、爲御祈誓遙々ト嚴島へ御參籠七箇日、尋常ノ人ノ社參ニモ似サセ給ハズ、思食入タル御有樣モ貴ク見サセ給ヘル上、事ニ觸テ御情深、内侍殊ニ不便ニアタリ奉給ツレバ、旁々御遺惜テ、又モノ御參モ難有ケレバ、都マデ送付タレバ、樣々相勞レ奉テ、色々ノ御引出物賜テ下侍ルニ、爭角ト可申入トテ參テコソト申バ、入道本ヨリイチジルキ人ニテ、涙ヲハラ〳〵ト流給ヘリ、ヤヽ有テ宣ケ ル ハ、近衞大將ハ家ノ前途也、歎給モ理也、夫ニ都ノ内ニ靈佛靈社、其數多ク御座、此佛神ヲ閣テ、西海ハルカニ漕下、淨海ガ深奉崇憑、嚴島マデ被參詣ケルコソ糸惜ケレ、明神ノ御照覽難測、其上今度ハ理運也シヲ、入道ガ計ニテ、宗盛ヲ擧シ申タルニコソ可計申トテ、ケシカラズ泣給へリ、内侍共翫引出物ナンド給デ被下ケリ、其後ヤガテ重盛ノ左ニ御座ケルヲ、辭申テ右ニウツシ、實定卿ヲ擧申テ奉成、左大將イツシカ同五月八日御悦申アリ、今日佐藤兵衞近宗ヲ、左衞門尉ニ成レケル上、但馬國キノ崎ト云大庄ヲ賜ハル、神明忽ニ御納受貴キニ付テモ、近宗ガ計神妙トゾ思召ケル、

〔源平盛衰記〕

〈十九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1253 文覺賴朝對面附白首附曹公尋父骸
文覺懷ヨリ白キ布袋ノ少シ舊タルニ裹タル物ヲ取出シテ、ヤヽ佐殿〈○源賴朝〉是ゾ故下野殿〈○源義朝〉ノ 御首ヨ、法師、獄定セラレタリシ時、世ニ立廻ラバ奉ラントテ盜タリキ、赦免ノ後ハ是彼ニ隱シタリシヲ、伊豆國へ被流ベキト聞キシカバ、定テ見參シ奉ランズラン、サテハ進セントテ、頸ニ懸テ下タリキ、日比ハ次デ惡ク侍ツレバ庵室ニ置奉テ候キ、國コソ多、所コソ、廣キニ、當國〈○伊豆〉ヘシモ被流ケルハ、然べキ佐殿ノ父ノ骸ニ見參シ給フベキ事ニヤト、哀ニコソ候へ、其進セン トテ、ハラハラト泣ケリ、兵衞佐殿是ヲ見給テ、一定トハ不知ドモ、、父ノ首ト聞ヨリ、イツシカナツカシク思ヒツヽ、泣々是ヲ請取テ、袋ノ中ヨリ取出シテ見給ヘバ、白曝タル頭也、膝ノ上ニカキ居奉ヌ、良久ゾ泣給フ、此下野守ニハ、子息アマタ御座セシ中ニ、兵衞佐ヲ鬼、武者トテ、十バカリマデモ膝ノ上ニ居テ憂シ給シ志ノ報ニヤ、今ハ其骸ヲ請取テ、ヒザノ、上ニ置奉テ昵シク覺エ、其後ゾ深ク合體シ絵ケル、〈○中略〉
義朝首出獄事
抑昔武藏權守平鬼門已下ノ朝敵ノ頭共ハ兩獄門ニ納、ラル、文覺爭デカ義朝ノ首ヲバ可盜取、是ハ兵衞佐ニ謀叛ヲ勸ンガ爲ニ、奈古屋ガ沖ニ曝タル頭ノアリケルヲ以テ、假初ニ僞申タリケル也、〈○下略〉

〔源平盛衰記〕

〈三十四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1254 東國兵馬汰幷佐々木賜生唼附象王太子事
近江國住人佐々木四郎高綱、佐殿〈○源賴朝〉ノ館ニ早參シテ、所存アル體ト覺ヘタリ、〈○中略〉佐殿宣ケルハ、此馬〈○生唼〉所望ノ人アマタ有ツル中ニ、舍弟蒲冠者モ申キ、殊ニ梶原源太直參シテ眞平ニ申ツレ共、若ノ事アラバ乘テ出ンズレバトテタバザリキ、其旨ヲ被存ヨト仰ケレバ、高綱聊モソヽロカズ、座席ニナヲリテ畏リ、宇治川ノ先陣勿論ニ候、高綱若軍以前ニ死ヌト聞召サバ、先陣ハ早人ニ被渡ケリト可思召、軍場ニテ存命ト聞召バ、宇治河ノ先陣高綱渡ケリト思召レヨ、モシ他人ニ先ヲ蒐ラレテ本意ヲ遂ズバ、敵ハ嫌マジ、河端ニテモ河中ニテモ、引組テ落シ、勝負ヲ決スベシ ト申定テ出ニケリ、〈○中略〉源太ハ磨墨ホメ愛シテ居タル處ヲ、舍人共生唼引テゾ、通ケル、ユヽシク見エツル磨墨モ、勝ル生唼ニ逢タレバ、無下ニウテヽゾ見エタリケル、〈○中略〉高綱〈○中略〉打通ントスル處ニ、源太打並テ云ケルハ、如何ニ佐々木殿、遙ニ不見參、アノ御馬ハ上ヨリ給テカト云懸テ押並ブ、高綱ニコト打咲テ申樣、實ニ久不見參、去年十月ノ比ヨリ近江ニ侍リツルガ、近キニ付テ京へ打ベカリツレ共、暇申サデハ其恐有リ、又何方へ向ヘトノ仰ヲ蒙ラント存テ、三日ニ鎌倉へ馳下ラント打程ニ、只一匹持タリツタ馬ハ疲損ジヌ、サテハ乘替ナシ、如何スベキト思煩、御厩ノ馬一匹申預ラバヤト存テ、内々伺キケバ、磨墨ハ御邊ノ賜ハラセ給ケリ、生唼ハ御邊モ蒲殿モ再三御所望有ケレ共、御許シナシト承ル、サテ高綱ナドガ給ラン事難叶、中々申サンモ尾籠也ト存テ、心勞セシ程ニ、由井濱ノ勢汰ニモハヅレヌ、サテ又馬ナシトテ留ベキ事ニモ非ズ、如何セント案ズル程ニ、抑是ハ君ノ御大事也、後ノ御勘當ハ左右モアレ、盜テ乘ント思テ、御厩ノ小平ニ心ヲ入、盜出シテ夜ニマギレ、酒勾ノ宿マデ、遣シテ此曉引セタリ、只今ニヤ御使走テ、不思議也ト云御氣色ニヤ預ラント閑心ナシ、若御勘當モアラン時ハ、可然樣ニ見參ニ入給ヘトゾ陳ジタル、源太誠ト心得テ、ゲニ〳〵佐々木殿、輙モ盜出シ給ヘリ、此定ナラバ景季モ盜ベカリケリ、正直ニテハ能馬ハマフクマジカリケリト、狂言シテ打連テコソ上リケレ、

〔源平盛衰記〕

〈三十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1255 高綱渡宇治河
平等院ノ小島崎ヨリ武者二騎蒐出タリ、梶原源太ト、佐々木四郎ト也、〈○中略〉源太颯ト打入テ、遙ニ先立ケリ、高綱云ケルハ、如何ニ源太殿、御邊ト高綱ト外人ニナケレバ角申、殿ノ馬ノ腹帶ハ、以外ニ窕(ユルマツ)テ見(ユル)物哉、此川ハ大事ノ渡也、河中ニテ鞍蹈返シテ、敵ニ笑ハレ給ナト云ケレバ、左モ有ラン予思テ、馬ヲ留、鐙蹈張立擧、弓ノ弦ヲ口ニ噉、腹帶ヲ解テ引詰々々シメケル間ニ、高綱サツト打渡シテ、二段計先立タリ、源太タバカラレケリト不安思テ、是モ打浸シテ渡シケルガ、馬ノ足綱ニ懸 テ思樣ニモ不渡、〈○中略〉佐々木四郎高綱、宇治河ノ先陣渡タリヤト名乘モ果ヌニ、梶原源太毛流渡ニ上ヅニケリ、源太佐々木鎌倉へ早馬ヲ立、〈○中略〉三日ト申ニ馳付テ、高綱宇治川先陣ド申タリ、同時ニ梶原ガ使又來テ、景季先陣ト申ケリ、右兵衞佐殿ハ、安立新三郎淸恒ヲ召テ、佐々木梶原生タ、リヤト問給ヘバ、共ニ候ト申、其後ハ尋給事ナシ、後日ノ注進ニ、宇治川ノ先陣ハ高綱ト被注タリケルヲ見給テコソ、言バト心ト相違ナシトハ宣ケレ、

〔平家物語〕

〈十一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1256 とをやの事
新中納言とももり卿は、かやうにげぢし給ひて後、小舟にのり、大臣殿〈○平宗盛〉の御前におはして申されけるは、みかたのつはものども、今日はようみえ候、但しあはの民部しげよしばかりこそ、心がはりしたるとおぼえ候へ、かうべをはね候はゞやと、申されければ、大臣殿、さしも奉公の者であるに、みえたる事もなくして、いかでか頭をばはねらるべき、しげよしめせとてめされけり、〈○中略〉新中納言は、たちのつかくだけよと、にぎるまゝに、あつはれしげよしめが、くびうちおとさばやと、大臣殿の御かたを、しきりに見まいらせ給へ共、御ゆるされなければ、ちからおよび給はず、〈○中略〉
せんていの御入水の事
あはの民部しげよしは、此三が年が間、平、家に付てちうをいたしたりしかども、しそくでん内左衞門のりよしをいけ取にせられて、今はかなはじとや思ひけん、たちまちに心がはりして、源氏と一に成にけり、

〔太平記〕

〈七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1256 千劒破城軍事
楠〈○正成〉ハ元來勇氣智謀相兼タル者ナリケレバ、此城〈○千劒破〉ヲ拵へケル始、用水ノ便ヲミルニ、五所ノ秘水トテ、峯通ル山伏ノ秘シテ汲水此峯ニ有テ、滴ル事一夜ニ五斛計也、此水イカナル旱ニモ ヒル事ナケレバ、如形人ノ口中ヲ濡サン事、相違アルマジケレドモ、合戰ノ最中ハ、或ハ火矢ヲ消サン爲、又喉ノ乾ク事繁ケレバ、此水計ニテハ不足ナルベシトテ、大ナル木ヲ以テ、水舟ヲニ三百打セテ、水ヲ湛置タリ、又數百箇所作リ雙タル役所ノ軒ニ繼樋ヲ懸テ、兩フレバ霤モ少シモ餘サズ舟ニウケ入レ、舟ノ底ニ赤土ヲ沈メテ、水ノ性ヲ損ゼヌ樣ニゾ拵ケル、此水ヲ以テ、縱ヒ五六十日雨不降トモコラヘツベシ、其中ニ又ナドカニ雨降事無ラント了簡シケル、智慮ノ程コソ淺カラネ、〈○中略〉
新田義貞賜綸旨
上野國住人新田小太郎義貞、〈○中略〉或時執事船田入道義昌ヲ近ヅケテ宣ヒケルハ、〈○中略〉船田入道畏テ、大塔宮ハ此邊○金剛山ノ山中ニ忍テ御座候ナレバ、義昌方便ヲ廻シテ、急デ令旨ヲ申出シ候べシト、事安ゲニ領掌申テ、己ガ役所ヘゾ歸ケル、其翌日船田己ガ若黨ヲ三十餘人、野伏ノ質(スガタ)ニ出立セテ、夜中ニ葛城峯へ上セ、我身ハ落行勢ノ眞似ヲシテ、朝マダキノ霧隱ニ、追ツ返シツ半時計、同士軍ヲゾシタリケル、宇多内郡ノ野伏共是ヲ見テ、御方ノ野伏ゾト心得、力ヲ合セン爲ニ、餘所ノ峯ヨリオリ合テ近付タリケル處ヲ、船田ガ勢ノ中ニ取籠テ、十一人マデ生捕テケリ、船田此生捕ドモヲ解脱シテ濳ニ申ケルハ、今汝等ヲタバカリ搦取タル事、全誅セン爲ニ非ズ、新田殿本國へ歸テ、御旗ヲ擧ントシ給フガ、令旨ナクテハ叶マジケレバ、汝等ニ大塔宮ノ御坐所ヲ尋問ン爲ニ召取ツル也、命惜クバ案内者シテ、此方ノ使ヲツレテ、宮ノ御座アンナル所へ參レト申ケレバ、野伏共大ニ悦テ、其御意ニテ候ハヾ、最安カルベキ事ニテ候、此中ニ一人暫ノ暇ヲ給候へ、令旨ヲ申出テ進セ候ハント申テ、殘リ十人ヲバ留置、一人宮ノ御方ヘトテゾ參ケル、今ヤ〳〵ト相待處ニ、一日有テ令旨ヲ捧テ來レリ、

〔太平記〕

〈三十七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1257 新將軍京落事 佐渡判官入道道譽都ヲ落ケル時、我宿所ヘハ定テ、サモトアル大將ヲ入替ンズラントテ、尋常ニ取シタヽメテ、六間ノ會所ニハ、大紋ノ疊ヲ敷雙べ、本尊、脇繪、花瓶、香爐、鑵子、盆ニ至マデ、一樣ニ皆置調ヘテ、書院ニハ羲之ガ草書ノ偈、韓愈ガ文集、眠藏ニハ沈ノ枕ニ、、鈍子ノ宿直物ヲ取副テ置ク、十二間ノ遠侍ニハ、鳥、兎、雉、白鳥、三竿ニ懸雙べ、三石入計ナル大筒ニ酒ヲ湛へ、遁世者二人留置テ、誰ニテモ此宿所へ來ラン人ニ、一獻ヲ進メヨド、巨細ヲ申置ニケリ、楠一番ニ打入タリケルニ、遁世者二人出向テ、定テ此弊屋へ御入ゾ候ハンズラン、一獻ヲ進メ申セト、道譽禪門申置レテ候ト色代シテゾ出迎ケル、道譽ハ相模守ノ當敵ナレバ、此宿所ヲバ定テ毀燒ベシト憤ラレケレドモ、楠此情ヲ感ジテ、其儀ヲ止シカバ、泉水ノ木一本ヲモ不損、客殿ノ疊ノ一帖ヲモ不失、剰遠侍ノ酒肴以前ノヨリモ結構シ、眠藏ニハ秘藏ノ鎧ニ白幅輪ノ太刀一振置テ、郎等一人止置テ、道譽ニ挍替シテ、又都ヲゾ落タリケル、道譽ガ今度ノ振舞ナサケ深ク、風情有ト感ゼヌ人モ無リケリ、例ノ古博奕ニ出シヌカレテ、幾程ナクテ楠太刀ト鎧ヲ取ラレタリト、笑フ族モ多カリケリ、

〔常山紀談〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1258 持資〈○太田〉京に上りしとき、慈照院殿〈義政〉饗應せんとなり、慈照院殿に一ツの猿あり、見しらぬ人をば、必かき傷ふといふ事を持資聞て、猿つかひに賂して猿をかり、旅亭の庭につなぎ、出仕の裝束して、側を過るに猿飛かゝるを、鞭を以て思ふさまにたゝき伏たれば、後には猿首をたれて恐れ居たり、持資猿つかひの人に禮謝して、猿をかへしたり、かくて饗應の日、かねて慈照院殿かの猿を、通るべき所につなぎおきて、持資が狼狽するを見んと待れたるに、持資をかの猿見るとひとしく、地に平伏す、持資衣紋ひきつくろひ、打過たりければ、唯人に非ずと、大に驚れたるとなり、

〔常山紀談〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1258 北條早雲盲人は無用の物とて、小田原領分のめぐら法師をからめて、海にふしづけに沈んとせられしかば、盲人皆四方に逃ちりける、其中を濳に間に用ひられしとぞ、

〔太閤記〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1259 秀吉初て普請奉行の事
或時淸洲の城郭、塀百間計崩れしかば、大名小名等に、急ぎ掛直し可申旨被仰付しかども事行ず、廿日計出來もやらで、御用心も、惡ければ、秀吉千悔し、〈○中略〉如此延々に掛る事招禍に似たり、危事かなとつぶやきけるを、何とかしたりけん、信長公きこしめし、猿めは何を云ぞ、何事ぞ上問給へ共、さすが可申上義にあらざれば、猶豫し給へる處に、是非に申候へとて、かひなを取てねぢかゞめ給ふ、〈○中略〉、有の儘に不申は惡かりなんと思ひ、御城の塀などを、今世間不穩折節、如此、延々に掛申事にでは有まじくや、深堀高壘全身、敵國を幷せ平呑天下せんと思召大將の、かゝる事や有と、御普請奉行を叱りけると申上ければ、尤能ぞ申たりける、武勇の志有者は、此こぞ有度物なれ、汝奉行し急ぎ拵ひ可申と被仰付、〈○中略〉さらば割普請に沙汰し申さんとて、下奉行共と相謀り、百間を十組に令割符、面々に充しかば、翌日出來し、腕木ごとに松明をも掛置、掃除以下きらよく見えし折節、信長公御鷹野より歸らせ給ふて、御覽じもあへず御感有て、御褒美不淺、其晩に被召出、御扶持方加增有けるこそ、終を初に立る徵兆也と、後にぞ思ひ知れたる、

〔關八州古戰錄〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1259 野州早乙女坂二度目合戰附那須高資横死ノ事
那須衆、機ヲ得テ競ヒ懸ルヲ、大關高增下知ヲナシテ、頻リニ戰ヒヲ制シ引擧タリ、宮方モ是ヲ幸トシテ陣ヲ沸テ退散ス、那須黨ノ輩立腹、〈○中略〉後年次郎資胤、此義ヲ大關ニ問レケレバ、高增答へテ申ケルハ、
雲ハ皆バラヒハテタル秋風ヲ松ニ殘シテ月ヲ見ルカナ、ト云ル古歌有、我等ガ軍配是也、子細ハ最初右馬頭尚綱ヲ討取シ事、當家十分ノ譽レナリ、然ルヲ今度弔合戰ノ爲、廣綱ノ代官トシテ罷向ヒタル芳賀十郎ヲ、マタモヤ討取申ニ於テハ、サシモ名高キ宇都宮二代マデ、那須黨ニ亡サレシト、世上ノ人口勿論ノ上、天ノ照覽ナキニアラズ、武運ノ冥加遠慮ヲナスベキ所ナリ、當時相 州ノ氏康、關東隨一ノ猛將ニシテ、隙アラバ八州ノ諸大將ヲ團下ニ靡ケシメント、日夜朝暮ニ心ヲ碎力ルヽト聞及ヌレ其、未ダ野州表へ働ヲ懸ラレザル所爲ハ、古來宇都宮結城小山ナンドヽテ、譽レノ歷々有ガ故也、當方件ノ一戰ニ芳賀ヲ討取侍ラバ、宇都宮家ノ威光衰テ、氏康ハ時ヲ得テ、終ニハ那須黨ノ匹敵ト成、後ニハ奧州ノ葦名、前ニハ南方ノ氏康ヲ引受ナバ、勇々敷大事、當家ノ滅亡踵ヲ廻スベカラズ、爰ヲ以勝ヲ殘セルモノ、其天ヲ恐ルト云諺アリト答ケレバ、資胤ヲ始、黨ノ面々迄モ、其心ヲ感ジケルト也、

〔川角太閤記〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1260 一長岡兵部大夫殿、〈但幽齋之事〉此家今迄相續候義は、偏臣下松井佐渡守分別と承候、其子細は信長公の御時、津の國河内の國兩國の内にて、十二萬石可遣候、但丹後一國は、十二萬石にて、何れにても望の分を可遣と被仰渡候處、同は津の國河内の内を以拜領可仕候、乍去御返事は明日可申上候とて、御前を被罷出候、〈○中略〉松井佐渡守、有吉四郎右衞門、米田次郎兵衞、右三人に談合被仕候へば、二人の者は、丹後は遠國にて御座候、攝津國河内は、京著能御座候間、二箇國の内を以て御拜領候樣にと申上候處、松井佐渡守申樣には、御分別も申上候通、一つにて御座候と相見申候、遠國の樣にも御座候、京著右之兩國とは違可申候へど、分別仕候に、後天下と西との爭ひ御座候ば、攝津の國河内の國、弓矢のちまたにて可御座候、天下と東との爭ひ御座候時は、美濃尾張近江、此二三ケ國の間にて、以來迄も、此所弓矢の岐に可罷成と古き者共申傳候、只今存候、攝津國河丙の間にて、十二萬石迄にて天下へ付候共、西へ付候共、中々其日にはだか城に罷成、其上十二萬石の御知行所、二三年の内、亡、所に可罷成候間、只遠國の丹後を一國御拜領被成候へば、天下に何事御座候共、五十日百日の間には、世間靜り候事を、丹後國にては、ゆる〳〵と日よりを御覽可成候、是にては以來御家續可申候間、御分別違に被成、丹後を御拜領可成事、私へ御まかせ可被成候と、達て申上候處に、さらば佐渡守に任せしそ迚丹後拜領なり、其後明智殿信長公を 奉討候時、攝津國河内は亂れ、中にも攝津の國、一兩年亡所に罷成候と相聞え申候は、是は偏に佐渡守分別厚き故、今迄も打續き、殊に長岡の家、今程は大名に相成候事、臣下松井佐渡守故と相聞申候事、

〔常山紀談〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1261 信長森〈○蘭丸〉が明敏を試らるゝ事多かりけれど、一度もあやまちなく、其才老年の人も及ぶべきに非ず、明智が恨ある事を察し、潛に信長の前に出て、光秀飯をくひながら、深く思慮する體にて箸をとり落し、やゝ有て驚たり、是ほど思ひ入たる事、別の子細はよも候はじ、恨奉る事しか〴〵なれば、大事をたくむならん、刺殺すべしといひけるを、信長いやとよ、佐和山をば終に汝にあたふべしといはれけり、此は森これより先に、父が討死の跡にて候へば、坂本を賜れと申けるを、明智に與へられしかば、讒言すると思ひ信ぜられず、果して弑せられき、

〔常山紀談〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1261 秀吉〈○羽柴〉備中に陣して、毛利と和平せん事を計り、密に手だてを運し西國の米を價を貴く買れしかば、城米を出して賣る者多し、小早川隆景一人固く制してうらせず、信長弑せられて、秀吉と毛利家手ぎれなるべかりしに、兵粮のゆたかならざる故、終に和平に及べり、

〔豐薩軍記〕

〈六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1261 黑田勘解由孝高計策之事
黑田勘解由孝高は御目代として、御先に下ると云へども、必ず殿下〈○豐臣秀吉〉の御下向までは、戰はずして相待つべしとの仰なりけれは、如何にもして敵を味方に引入んずる計略もがな有べきと思惟を凝しける、〈○中略〉先一術をなし見んとて、武功の者を兩人撰み、殿下の威勢を云ひ聞せ、〈○中略〉殿下御下向を待て、速かに降禮あるべき由を云ひ含め、其趣を廻文にも書せらるゝ、是は若不慮の事ありて、此文落散る事ありとも敵を欺く謀にして、味方の煩ひにあらずとて、使者に是を渡さるゝ間、使は貝原市兵衞、久野勘助なり、貝原は小倉より海邊を經て、筑前肥前を過ぎ、肥後の國へ趣けば、久野は豐前より筑前に入り、秋月に到り、筑後を經、又豐前の諸所を廻り、右の趣を云 ひ聞せ、廻文を相渡す、〈○中略〉殿下御下向の後、速かに馳參る者多かりけるは、皆是孝高の智術より出たる處なり、

〔續武將感狀記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1262 秀吉公〈○豐臣〉九州ヲ平均シ給ヒテ、筑州博多ノ野割ヲ、孝高〈○黑田〉ニ命ゼラル、孝高四兵衞〈○久野〉ヲシテ、其ノ事ヲ掌ラシム、是ヨリ前、博多ノ町ハ、兵火ニ燒ケテ、其跡草深ク修理モ定難シ、四兵衞思惟シテ、古井アルトコロヲ尋子、其井ヲ以テ、屋鋪ノア戸トコロヲ定メ、經營不日ニシテ、成就シテケリ、肥前名古屋ニテ、諸軍勢ノ小屋割ヲ秀吉公近臣ニ命ぜラル、其功速ニ不成ケレバ、孝高ニ仰付ラレ、孝高事ヲ四兵衞ニハカラレケルニ、四兵衞平生島目一貫文下人ニ持セケルガ取出シ、太閤ノ御前ニテ、錢ヲ以テ、卽時ニ指圖ヲナス、孝高處々ヲ改テ、御目ニ掛ラレケレバ、御心と應ジ、早速ニ出來ヌト歎美シ給フ、

〔武將感狀記〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1262 一相模ノ小田原ノ役ニ、堀左衞門督秀政、先人ヲ遣テ、伊豆、相模、駿河、遠江ニテ、牛數十頭買置タリ、秀吉箱根ノ嶮路ニカヽルトキ、秀政牛ヲ以テ糧ヲ運ブ、他ノ軍ハ是ニ迷惑スレドモ、秀政獨リ豫メ備ヘタルガユヘニ患ナシ、アル夜、風雨ハナハダシク天地暗シ、秀政ノ曰、今夜必ズ盜アラン、我士卒ノ馬鞍兵糧等、盜人ニ取ラレンヨリ、其怠リヲ窺ヒテ、我ミヅカラ取ルベシト、士卒此言ヲ聞テ寢者ナシ、其夜三度陣中ヲ巡邏ス、他ノ陣ハ多ク盜ミニアヘドモ、秀政ノ陣ハ盜入コトヲ得ズ、

〔武功雜記〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1262 小田原陣ノ時、牧野右馬允家來稻垣平右衞門、古船ヲアツメヨセ、釘ヲ拔、カスガイヲ放テ、ソレ〴〵ニ分テ置、一所ニトリテオク、人コレヲ見テ、キタナクシワキ事カナト云、笹曲輪ヲノリシ時右ノ船板ヲ橋ニワタシテ、釘鉸ヲウチツケシユへ、自由ニワタリ、ノリシ人皆其功者ヲ感ズ、

〔明良洪範〕

〈十三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1262 利勝〈○土井〉ハ智謀衆ニ勝レシ人也、先年關白秀次、太閤〈○豐臣秀吉〉ノ御不審ヲ蒙リ、大變 ナラントスル時、利勝ノ智謀ニ依テ、秀次罪謀陷ラズ、台德公御同道ニテ、太閤ノ御前へ出給ヘバ、太閤殊ノ外悦ビ給ヒ、サスガ新田殿ノ子孫也ト賞美シ給へリ、神君モ御上京有テ、利勝ノ智謀ノ計セヲ御賞美有リ、其時利勝十七歲也、後年執權タリシ時、密事ヲ評議スル事有リ、觚然ルニ是迄ハ密事ヲ評議スルニハ、茶室ナドノ樣ナル狹キ所ニテ、其邊ノ障子襖ナド皆立切テ評議セシニ、此度ハ利勝大廣間ノ眞中ニ坐シ、其邊ノ障子襖ヲ殘ラズ取拂ヒテ、評議衆ノミ一座シ、餘ハ人拂ヒニテ評議シケル故、餘人忍ビ聞キスル事ナラザレバ、是迄ノ樣ニ、密談漏ルヽ事少シモナカリシ也、

〔武將感狀記〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1263 一水野六左衞門勝成、武者修行ヲシタル時、佐々内藏助成政ノ備ヲ借テ居レリ、成政ノ家ニ阿波鳴門之介ト云壯士アリ、度々戰功アル者ナリ、コスニ越レヌト云下心ヲ以テ付タル名也、何ノ處ノ戰ニカ、勝成其名ノ故ヲ聞テ惡之、其陣ニ往テ鳴門之助ニ對面シ、貴殿ハコスニ越レヌト云下心ヲ以テ、名ヲ付レタルト聞及候、明日ノ合戰ニコスヤ、コサズヤ、我ト貴殿ト先ヲ爭候ン如何ト云バ、鳴門之助是皆申者ノ誤ニ候、祖父ヨリノ名ナル故ニ、我等モ付タルニ候、中々其義ニアラズ、其上貴公ノ武勇比類少ク候ヘバ、我等如キノ者、先ヲ爭ハン事及ベカラズ、只御免候ヘト卑下シタルヲ、勝成再三シイケレドモ、鳴門之介固辭ス、勝成此上ハトテ人ニ語テ、鳴門之介ヲゾ嘲ケル、鳴門之介ハ勝成ガ氣ヲユルメテ、其夜ノ子ノ刻ヨリ出立テ、勝成ガ陣屋ニ潛ニ人ヲ付置テ窺スルニ、油斷シタル體ナリ、鳴門之介悦テ、明旦戰ヒ始ラントスル時、敵陣ニ馬ヲ一文字ニ乘入鎗ヲ合セ、多兵ノ中ニ取マカレ、數ケ所大創ヲ被リ、息キレテ仆タリ、敵首ヲ取ントスル時、成政ノ總軍鬨聲ヲ擧テ、攻近ヅキケレバ、首ヲ取ニ隙ナクシテ引取ケリ、鳴門之介ガ從者肩ニ掛テ歸ケレバ、幸ニ蘇生シヌ、此時勝成ニ使ヲ立テ、今日ノ先登ハ定テ貴公ニテゾ候ラント云ヤリケレバ、勝成面目ヲ失ヘリ、是勝成一世ノ不覺ト云リ、

〔常山紀談〕

〈十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1264 朝鮮の平安川は、〈○中略〉諸家の士、或は七八町、十町、或は十二三町あらんといへども審ならず、黑田長政の士、吉田六郎大夫〈○註略〉又助父子に見積り候へと下知せらる、〈○中略〉翌朝又助組の士を引具し、川岸に出、川の向に朝鮮人三人見えたり、又助小柳權七は長高き者なり、あの向の人退かざる内に急ぎ堤の上を行べし、指物をふる時踏とまれと言含め、權七走り行其たけ向の人とひとしく見ゆる時、指物を振たれば立とまりぬ、卽其間を打てみれば八町五段なり、長政聞て、又助二十一歲、老功の者にも劣らじと稱美せられけり、

〔東照宮御實紀附錄〕

〈八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1264 慶長四年九月九日、重陽の佳儀として、坂城にまうのぼらせ玉ひしが、〈○德川家康〉城中には兼て異圓あるよし群議まち〳〵なれば、本多中務少輔忠勝、井伊兵部少輔直政はじめ、宗徒の人々十二人、いづれも用心して供奉せり、〈○中略〉還らせ玉ふ折から、わざと厨所の方へ廻らせ給ひ、一間四方の大行燈のかけたるを見そなはし、是は外になき珍らしき物なり、わが供の田舍者どもにも見せ度と有て、酒井與七郎忠利をもて、御供のもの悉く召よばれて見せしめられ、内玄關よりしづかにまかでさせ給ひしなり、

〔常山紀談〕

〈十一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1264 直江兼續、惺窩藤歛夫に對面せんといへども、聞入られず、兼續おして行たれば不在なり、度々招けども行ざるに、今日來りたるにも逢ず、僞て他に出たるとや思はんとて、直江が許に行れしに、直江其日關東に赴きしかば、跡を追て、大津に至て對面あり、直江廢れたる家を急に取立る時、人臣の心得いかにと問、惺窩事を速にせんとせば、却て敗るゝ基なりとそ答へける、後に直江、景勝に進めて旗を揚させ、必家を滅すべしと、怪窩いはれしが、果して景勝に事を起させたるが、其功ならざりき、

〔常山紀談〕

〈十六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1264 上杉家の士大將杉原常陸は、智勇備はりたる人なり、東照宮宇都〈○都下恐脱宮字〉の小山より引返させ給ふ時、上杉家の軍兵ども、大にいさみあへりしに、杉原獨眉をひそめて、大敵に恐 れて引返したりとおもへるは、其人を知ざる詞なり、德川殿諸將をひきゐ、先上方に攻上り、石田を討れんに、十に八九石田敗北すべし、其時殿一人にて、いかで德川殿に打勝給ふべき、敵國に攻入ずして引返したるは、味方の不幸なりとぞ云ける、

〔藩翰譜〕

〈八下/相馬〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1265 景勝〈○上杉〉が兵起りし時、伊達左京大夫政宗は、急ぎ本國に歸りて、搦手より攻め入るべき由の仰承て、大坂を打立ち夜を日に繼て馳せ下る、白川より白石に至ては、皆敵の中なれば道塞りぬ、常陸國を廻りて、岩城相馬にさし懸て國に歸らんとするに、相馬又累代の敵國なり、恙なく通らんこと叶ふべからず、然るに政宗纔かに五十騎計引具して、常陸の國を經て、岩城と相馬との境なる處に至て、先づ相馬が許に使者を立て、〈○中略〉願はくは城下に旅館點して給はらんには、馬の足を休めて、明日は國に入らんと存ずと云はせたり、長門守義胤〈○相馬〉是を聞て、〈○中略〉頓て民家をしつらうて迎ひ入れ、家子郎從等召し集めて、夜討のやうをぞ議したりける、爰に水谷三郎兵衞尉某、遙の末座より進み出て、末座の意見恐れ入て候へども、旣に僉議の座に列て候ふ上は、心に存ずる所を申さゞらんは其詮なし、抑も窮鳥懷に入る時は、獵者もこれを殺さずとこそ承はれ、政宗ほどの大名が旣に年來の恨を棄て、君を賴みて來りしを、たばかつて闇々と討たれんば、勇者の本意とする所にあらず、長き弓矢の瑕瑾なり、又我が城を去て、彼國の境駒が峯に到らんこと、行程僅に三里、けふの日未だ未の時に下らず、政宗おのが境に到らんとだに思はゞ、日ゆふべならざる間に到りぬべし、それに僅の勢を以て此所に止ること、豈深き謀計なからざらん、只同じくは我備を全うして、彼に代つて夜を守り、先づ此度は本國に返し給ひ、重て戰に臨まん時、尋常に軍して勝負を兩家の天運に任せらるべうもや候はんと申ければ、滿座の輩、皆此議に同じて、彼が旅館の邊に、粮料、魚、鹽秣、糠、藁に至るまで積み置て、夜に入り四面に笧火たかせ、兵共に館をめぐらせ、警衞心を盡してけり、

〔川角太閤記〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1266 關ケ原の時、國大名衆、分別を以其家無恙續申候家は、鍋島加賀守〈○直茂〉と申は、只今の鍋島殿親父にて御座候、其頃迄は達者にて被罷居候、御所樣〈○德川家康〉東へ御馬を被出候を被聞、大略御跡にて謀叛企衆可之候、御所樣御馳走とて、國大名衆荒增御供に被參候と相聞え候、我家は東への御供不仕候へども、國離れざる樣成分別有之、銀子五百貫目、東へ爲持可下なり、尾張國より御所樣御分國之義は不申、景勝との境目迄の國々の町方にて、五貫目程づゝ見合見合兵糎を爲買、其町々の年寄共に可預置なり、上方に事出來たりと云ならば、御所樣へ申上樣には、鍋島事、御馳走に可出覺悟に候處に、上方蜂起仕候間、最早鍋島可罷出事は、中々罷成間敷候間、此兵粮入不申候とて、町々にて兵粮を可指上と申付、奉行三人東へ差下し申候、御所樣はや宇都宮へ御著被成候とひとしく、治部少輔謀叛の樣子相聞申候處に、彼鍋島者ども、右の御理申上、はや宇都宮にて兵粮指上申候、〈○中略〉鍋島奧意は、日よりを伺候と相聞候へ共、親加賀守分別を以國に離れずと、世間に其節專ら申あへると相聞え申候事、

〔明良洪範〕

〈二十四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1266 眞田伊豆守信之ノ夫人
會津ノ役ニ、眞田安房守昌幸、其子伊豆守信之ト内府公〈○德川家康〉ニ從軍セン迚、上田ヲ發足シ、佐野ニ到レリ、時ニ石田三成ヨリ書ヲ贈リ、大坂ニ與力セン事ヲ進ム、父昌幸忽チ志ヲ變ジ、大坂ニ與力セントス、信之頻リニ是ヲ諫ムレドモ承引セズ、依テ父子東西ニ別レ、昌幸ハ兵ヲ收メテ上田へ引返ス、信之ハ關東ニ下リヌ、初メ信之ガ夫人ハ、本多忠勝ノ女ニテ、内府公ノ御養女ト成シ給ヒ、信之ニ嫁セシム、夫人性質智勇アリ、信之發陣ノ時ニ及ビテ、夫人ノ謂レシハ、妾ハ女ノ身トシテ申難事ナレドモ、愚意ヲ以テ察スルニ、房州公ノ御心計難ク、今ノ世ニトリテ、父子兄弟迚モ、御心ヲ緩シ給フマジ、只此事肝要ナラン、信之默領シテ出陣セラル、其後果シテ中途ヨリ引返シ、沼田ニ到リ、信之ノ妻ノ幼孫ニ對面シテ、上田へ歸ラン迚、夜ニ入テ、信之ガ居城沼田へ使ヲ遣ハシ、 暫ク城中ニ入リ、休息セン事ヲ乞ハシム、夫人是ヲ怪ミ、使者ニ問ハシムルハ、今内府公ヲ捨テ何故ニ歸陣シ給フヤ、使者ノ云、何ノ故カバ知ラズ、俄ナル事ノ由ニテ歸リ給フ、夫人又問ハシム、豆州君ハ御同件ナルヤ、使ノ云、左衞門君ノミ從ヒ給フ、夫人此由ヲ聞テ、是定メテ旨趣有ベシ、女ナレドモ此城ヲ預ヲ、御留守ヲ守ルニ、舅ト雖モ故ナク城ニ入ルヽ事有ベカラズ、若强テ城ニ入ラント思召バ、先幼兒ヲ殺シ、我モ自殺シ、放火シテ城ヲ渡シ申スベシ、然ラザレバ城下ノ市中ヲカリ、休息シ給フベシト答フ、使者恐怖シテ返リ、復命セント城門ヲ出ル時ニ、ハヤ櫓門ニハ兵ヲ備へ、弓鐵炮ヲ備へ、敵ヲ待ノ風情也、夫人ハ薙刀ヲ侍女ニ持セ、其外侍女六七人鉢卷タスキ抔シテ、防守ノ備ヲ指揮シ給フ、使者返リテ其趣ヲ述ブ、昌幸シバシ案ジ、我過テリ、我其事ヲ察セザル事卒爾ナリ、誠ニ本多ガ女ナリト戚歎シ、又使ヲ遣ハシテ、我此城ヲ取ントニハ非ズ、孫ニ逢ン爲也、必ズ心ヲ勞スル事勿レ、夫人敢テ聞ズ、則命ジテ城下ノ市中ニ於テ宿舍ヲ設ケ、有司ヲ出シテ諸事ヲ亘フシメ、男三爭鬪ノ事有ン、女婢三十人計鉢卷タスキニテ捧ヲ授ケ、是ヲ警護セシメ、食膳ヲ設ケシム、昌幸ノ士卒ハ、犬伏ヨリ數里ノ間ヲ急ギ、大ニ疲勞シタレバ、沼田ニテ休息セント思フニ、敵中ニ在ル如クナレバ、急ギ食事終ルト速ニ發足ス、昌幸幸村市舍ヘモ入ラズ、野原ニ陣ヲ設ケ、休息シテ上田ニ歸ル、其後夫人ハ思慮シ、父子東西へ分レタレバ、家老物頭以下ノ諸臣モ、心ヲ變ズル事モ有ント一計ヲ設ケ、老女ニ命ジテ、我君ノ留守寂寥ヲ慰メント、諸臣ノ妻妾子ヲ聚メ、遊樂ヲ設ケ、是ヲ饗應セシメ、數日ノ間我宅へ歸ル事ヲ許サズ、人質ニナサレ、因テ諸臣一人トシテ、異心ヲ出ス者ナキハ智略ニ由レバ也、

〔常山紀談〕

〈十七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1267 紀州は淺野長晟の領地なれば、橋本山の百姓に、真田大坂に行事あらん、おしとめよと下知せられしかば、用心きびしうしたりけり、信仍〈○眞田〉橋本山の百姓數百人を九度山にまねき、かり家あまた設けて、酒宴してもてなし、上戸下戸をいはずしひたりしほどに、醉伏て前後 もしらず、其時百姓の乘來し馬に、いろ〳〵の物取付、百人計打立ちて、紀伊川を渉り、橋本山より木のめ路にかゝり、大坂にぞ行たりける、道々にて、百姓はみな九度山にゆきぬ、殘りし女わらべども、信仍が鎗眉尖刀の鞘をはづし、鐵炮に火なはをはさみ、もし押止る者あらば、忽討殺すべき體を見て、せんかたなし、九度山に醉伏たる者ども、夜明て見れば眞田はなし、いかにと問ば、昨日しか〴〵の有樣にて、河内路に赴きたりといふ、欺れしと悔めども力及ばず、

〔藩翰譜〕

〈十二下/古田〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1268 織部正〈○古田重勝〉は古き玩器の全きをば餘りに思ふ所なしとて好まず、されば書晝やうの物をも、かしこを切りこゝを斷ち、凡の茶具をも多くは損ひ毀りて、又補ひ綴りてぞ用ゐける、世の人皆興ある事に思ひ學びて、世に全き者のなからんとす、松平伊豆守信綱の實父大河内金兵衞久綱(○○○○○○)、常にかたへの人に言ひしは、必禍ひに罹りて死すべき者なりといひき、其後此人罪蒙りて誅せられしかば、人々大に驚き、如何で兼てより斯くは相知れるぞと久綱に問ふに、古の寶器と聞えしも、世々の亂に失せて、今ある所の物は、皆神佛の護持してこそかく世には殘るらめ、それにおのれ一人の好に隨ひて、損ひ破ること、必鬼神の惜む所にやあるべき、さらば其人も又身を全くして終る事を得べからずと思ひきと言ひしとなり、

〔武野燭談〕

〈十七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1268 松平伊豆守信綱出身來由幷松平右衞門大夫正綱事
慶長年中、御城回祿の時、御門燒塞り、御本丸の總女中可立退了簡ナカリシヲ、此右衞門大夫〈○正綱〉下知シテ、御疊共ヲ御堀へ投入サセ、塀ヨリ布ヲ引下テ女中ヲ下シ、又大幕ヲトモニ引ハヘテ救ヒ出シ、急火ノ難ヲ助ケタリ、

〔藩翰譜〕

〈七/堀〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1268 此年〈○慶長十五年〉十月九日、駿河の國府の城、故あつて殿舍悉く燒失せぬ、直寄〈○堀〉火救うて功ありしかば、明る十六年地加へ賜つて賞せらる、〈○註略〉
直寄眞先に御寶藏に馳せ來て、火を救ひしに依て、數の御寶多くの金銀も燒けず、又火救ふべ き料の器毎に、おのが名、幷に悉く數いくらの内といふ事を書きて、かしここゝに捨置きけり、 其比は世にかく火を救ふべき具など、儲へし人なければ直寄が捨てたりし器取りて、火救ふ 人も多し、今日の功、獨直寄に歸して、かねて用意の程も神妙なりと、御感に預りしとなり、

〔明良洪範〕

〈二十三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1269 板倉重宗諸司代ノ節、播州明石ノ城主へ申サレシハ、貴殿城内ニ、古來ヨリ人丸ノ社コレ有由承ヲ及ビ候ガ、人丸ハ和歌三人ノ内ニテ候程ニ、歌道ヲ執心致シ候者ハ、僧俗トモ參詣申度ト願フニテ、御城内ノ事故ニ、遠慮有テ空シク打過候事ニテ候、諸人ノ爲ナレバ、御社ヲ御城外へ移シ出サレ、海邊ノ高ミニ建ラレ、往來ノ者モ參詣仕候樣ニ成サレ候ラバヾ、我等モ燈籠ヲ奇進申スベクト有シカバ、城主モ重宗ノ申サルヽ事ナレバ、餘儀ナク海邊ノ高キ所へ移サレシカバ、約束ノ如ク周防守ヨリ大キナル燈籠ヲ寄附有テ、常燈ヲ建ラレケル、以前播磨灘ヲ乘ケル船、夜中風替リ抔シテ、明石前ハ破船セシ事ナド有シ、向後ハ彼燈籠ヲ目當ニシテ入ケル故、破船ノ愁ヒナシ、周防守ノ心ハ、畢竟此目當ニ至ルベキ爲ナリ、サレドモ城主ヨリ此所ニ移サセ、後ニ燈籠ヲ寄進セラレ、初ヨリ自分ノ功ヲ顯サズ、後ニ人ノ心付樣ニ諸事ヲ致サレケル、誠ニ思慮ノ厚キ人也ケリ、

〔武野燭談〕

〈十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1269 板倉周防守重乘盜賊穿鑿之事酒井讃岐守忠勝金言之事
今ハ昔、豐島郡田畑村ノ與樂寺へ强盜多ク押入テ、僧侶餘多切殺シ、靈寶金銀等白浪ノ爲ニ盜レケル、〈○中略〉其比京都ヨリ板倉周防守重乘參向シケレバ、老臣ノ内ヨリ、此惡黨共ヲ可搜出手立、如何アラント問レシニ、以前ヨリ詮議之筋ヲ一々ニ聞テ後、某一手致シ見ントテ、片板一枚ヲ取寄テ、屬託ノ黃金少分ナレバ難申出候、今一倍掛ラレバ、同類共ノ在家ヲ指可申、如何ニモ讀能樣平カナニテ筆太ニ書認テ、彼屬託ノ傍ニ立添置レシヲ、彼盗賊ノ張本人ガ見テ、扠ハ同類之者ノ中ヨリ此札ヲバ立タルラン、然ラバ人ニ先ヲセラレジト、不其日廳所ニ出テ訴人シケル故、不 一人召、忽法ニ行レケル、

〔常山紀談〕

〈十九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1270 細川忠利の士、川北九大夫といふ者あり、川尻の代官を勤めよとありしに、出陣の時供に連られなば、代官の職つとむべしといひければ、尤とて出陣の時供すべしと定めらる、天草はやゝもすれば、一揆をなす所と、西國の人のいひける事なれば、心にかけて、川尻は海邊船の著く處にて、細川家の米藏あり、天草へ海上七里と聞ゆ、川北兼て地鐵炮の數をしらべ置けり、〈地鐵炮とは獵師の事也〉天草の一揆起ると聞て、川尻の海岸に一間に一本づゝ竹を立させ、一本ごとに火繩をゆひ付、五本に一人の地鐵炮を配りけり、後に天草にて生どられし者のいひけるは、其夜川尻の米を取ん爲に、船をおし出して見しに、川尻にいくらともなく、鐵炮を備へて見えたる故、さては熊本より軍兵のはや川尻に來れりとて、船をもどしけるとなり、

〔鳩巢小説〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1270 一大猷院樣〈○德川冢光〉御時、日光御再興仰付ラレ候テ、結構ヲ盡シ、就中御寶塔ノコト御僉議有之候、是ハ御棺ノ上ニ覆ヒ申候塔ニテ候、大事ノモノニ候ユへ、萬代マデモツヾキ候ヤウニ、丈夫ニ仰付ラレ度トノ義ニテ、或ハ黑金ニテ仰付ラルベキヤ、但シ石ニテ仰付ラレタルガ久シクツヾキ申ベキヤト、其時分松平伊豆守信綱殿ヲハジメ、智ノフカキ衆センギニテ候、其時島田幽也ト申テ、島田出雲守隱居ニテ居申サレ候、是モ最前町奉行イタサレ候テ、智惠袋ト人々申候テ、智ノフカキコト隱レナキ人ニテ候、夫ユへ幽也ヲ呼ビ候テ、分別承リ候ヘトノ上意ニ付、幽也御次マデ出申サレ候、大猷院樣ニハ御障子一重ヲ隔テ、イカヾ申候ト御耳ヲソバダテ、イヅレモ老中御寶塔ノ義如何仰付ラレ候テ、久敷續キ申ベキヤト尋子申候トキ、幽也申サレ候ハ、何ノ義モコレナク候、豐國ノ社頭修理仰付ラレ候ハヾ、當家ノ御寶塔イツマデモ堅固ニツヾキ申べク候、此外ノ義ハ存ゼズ候由申サレ候テ立申サレ候、夫ヨリ御寶塔御僉議相止ミ申候、流石ノ伊豆守殿モ、我ヲ折リ申サレ候ヨシニ候、

〔松平信綱公言行錄〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1271 大猷院樣〈○德川家光〉御代、御臺所より出火、御城のこらず燒失、其時火急なるに付、奧方女中衆大勢、西丸へ御移しなされ度旨、上意なれども、女中衆の事なれば、御殿の内、西丸への道筋、同道の人少しこまりなさるゝ所に、信綱公御前へ參玉へば、此由如何なされべくやと上意に付、卽時に御請、仰上げらるゝは、畏り奉る、左樣に思召るゝならば、御奧方より西御丸迄、御道筋へ御疊を、一々裏返し敷て參り候樣に仰付られ然るべく存奉り候、左あらば、道筋疑敷あるまじと仰上られければ、御機嫌にて、奧方へ仰つかわされける、信綱公は大勢人を召連玉ひ、早速御疊をしきければ誰案内なしに、女中一人も怪我なく、西丸へ退玉ふ也、上樣殊の外御機嫌なり、聞人扨々文珠とても、此上の智惠は有まじと申ける、

〔藩翰譜〕

〈二/長澤〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1271 此人〈○松平信綱〉の才敏なりし事ども、世に傳ふる事いくらといふ數を知らず、されども其事共天下の大勢に預からぬ事なれば、誠に數ふるにたらず、初め左大臣家〈○德川家光〉かくれさせ玉ひ、將軍家〈○德川家綱〉いまだ御幼稚の時に、故將軍家の御時は、國をも郡をも玉ひ、祿をも俸をも當て行なはれし事、年々月々に絶えず、當代に至て終に其事なし、かくては如何で奉公の勞をもなぐさめ、主に仕ふる忠をも勸めんやと、諫むる人も謗る人もありけり、信綱是を聞て、君いまだ幼なく渡らせ玉ふ、今に當て功勞ある人に恩賞行はるゝ事あらんに、たとへ恩賞を蒙る人悦ぶ事ありとも、又謗る人は、君はいまだ幼稚にてまします、是皆執政等がひいきに付て、おのれ〳〵がかたざまの人々をのみ執し申すなりなど云はんには、善を勸め德を施すにはあらず、恨を加ふにこそあれとて、將軍家、政をみづからし給はざりし程、信綱が世に在りしうち、終に其事なかりしかども、人ごとに敢へて怠たりたゆむ心なく夙夜しけり、是一、天下の大名の、代々たてまつりし人質を、此時に至りて盡くに歸さる、是二、近世の慣はしなりし殉死の事堅く禁せらる、是三、中にも明曆の火災には、城廓盡く灰燼となり、人民悉く焦爛す、かゝる事は古より聞も傳へず、又後 の世にも有べからず、まして去年の逆徒〈由井正雪〉等が火を放ちて、兵を起さんと謀りし事もあり、是はいかさま只事にはあらじと、上中下の心も靜かならず、其時信綱の立所に執り行ひし事、殊に皆其所を得て、程なく天下また靜かに治りて、昔にかはらぬ世となる、かゝる事どもは、みな古の名臣賢佐にも恥ぢぬ善政にてありけり、それも執政の人々の、衆議一決してこそかくはありけめども、謗る事譽むる事をも、信綱壹人の計りしやうに、世にいひしことは、是れ倂しながら名譽のいたす所なり、

〔智囊〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1272 一家光公〈○德川〉或時御夜詰の時分、たかのをき繩之樣成、夥敷ながき糸をまきたる物を、此長さいかほど可有哉、急につもりて參れと被仰出、則御小性衆小細工部屋へ被持參、色々つもり候へども、無限長き糸を卷たる物なれば、中々卽時にはしれがたし、御前よりは御急ぎなり、迷惑したる所へ、伊豆守〈○松平信綱〉被參、其積にては則時には成がたし、安き事ありとて、其糸を十尋ひろいて切、此糸目をかけ、其重きいかの大卷の目を貫目にかけ、そろばんにてつもり、其ながきを申上ければ、則時に埓明、御機嫌殘所無之、是も豆州はやき才なり、則時に御用相足り、皆々かんじ入、後迄も被申けると也、

〔常山紀談〕

〈十九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1272 細川家の長臣南條大膳恨をふくむ故有て、細川家を傾ん事を謀りけるに、其比深く密にする事ありて、泄なは細川家の禍なる事を知たりければ、先切支丹の事訴へけり、江戸より南條をめす、細川家驚きたれどもせん方なし、松野〈○龜右衞門〉我にまかせられよとて、囚人なれば厚き板にて詰牢をつくり、譬者一人に密謀を云ふくめ、熊本より出るに、天氣を待とて、處々に舟をとゞめ日を經る内に、人參の入たる藥をあたへ、朝夕の食物まで人參湯にて飮食させけり、南條は氣の鬱したる上、人參數十斤飮たりしかば、心狂亂したりけり、松野江戸に打具し至りて、南條は數年狂氣の者にて候とて出しけり、切支丹訟の事を問るゝに、狂言のみなりとて、熊本に歸 すべしとて、松野に返されぬ、此謀たゞ醫一人のみ知たりと云り、

〔先哲叢談〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1273 熊澤伯繼、字了介、〈介或作海〉小字次郎八、後更助右衞門號蕃山
嘗至柔侯、及入見二士人威儀特秀骨體非常『相與張目注視良久、遂不一言、見侯曰、余今見一士、不知仕臣乎、將處士邪、侯曰、渠爲吾講兵書、處士由井民部助者也、〈名正雪〉蕃山正色曰、余熟視其貌、以察其意、君勿復近彼士、他日正雪亦來見侯曰、前日比退朝、見某衣某形人、未其爲一レ誰、侯曰、渠説吾以經書、岡山臣熊澤次郎八者也、正雪正色曰、余熟視其貌、以察其意、君勿復近彼士

〔近世叢語〕

〈四/識鑒〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1273 赤穗大石良雄、執贄伊藤仁齋、一日來侍其講一レ書、而時々睡不聽、衆皆匿笑、退後詬罵曰、懶惰如彼、不學、仁齋曰、小子勿妄謗、以予觀彼非庸器、必能堪大事

〔藩翰譜〕

〈五/板倉〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1273 寬文五年正月二日の夜、雷大坂の城に落かゝつて、五重の居樓悉く燒け失せぬ、思ひもよらぬ事なれば、城中城外以の外に周章し、火救はんとて内に入らんとするに、城中の女童は、外に逃げ出んと互ひに門々を爭ひ、出やらざれば入事もえならず、こゝに重矩〈○板倉〉が守る處、京橋の口は、城門の外を去る事數十歩、忽ちに柵を結ぶ、柵の中又門を開けり、兵門々を守りて、甲乙人の亂入を禁ず、かねて又此邊りなる所領の民に下知して、若し城中に火あらん時は、是を持ち來りて、其偶をあはせて、郎從等が妻子を引つれて行けとて、蛤の貝の半は民に與ふ、其貝の内に郎從の名をしるす、半は郎從に與て、彼民の名を貝のうちにしるし配分す、此夜かの民共が馳せ來り馳せ來り、符を合せて、郎從等が妻子を盡くゐて行きし程に、郎從等身のほだしなければ、一筋に城の守りを堅くし、靜まりかへつて昔もせず、かゝる備へいくらもありて、世の美談となりぬ、

〔明良洪範〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1273 寬文ノ頃、車力重右衞門ト云世ニ聞ヘシ者、先御代ヨリ器量勝レシユへ、其コロ川村瑞軒ト號シケルガ、〈○中略〉車力ハ少シモ屈セズシテ、見ヨ〳〵稻葉殿ヲ笑ハヤ見スベシト廣言ハ キケルヲ、其後箱根ノ奧ニ、ケヤ木多ク見ユルニ付テ、此大木共切取良材トナシナバ、守護ノ德有ノミニアラズ、所ノウルホヒ成ベシト申ケル、家士等是ヲ聞テ、アザ笑ヒテ、車力ガ何ヲ申トモ、箱根ハ深山ニシテ出スベキ道ナシ、運送自由ナラズ、是ヲ以テ先代ヨリ拾置モノ也ト申セシ所ニ、川村聞テ、少シモ苦シカラズ、切テ出ス事ハ、某ニマカサレヨ、御損ハナキ事トテ、マヅ運上以下ヲ奉ルベシトテ、其秋ヨリ段々杣ヲ入テ伐セケルニ、皆々不審シ、イカヾシテ山出シスルゾト見ル所ニ、十月半ヨリ又人足ヲ入テ、峯ニ降ツモリテ雪共ヲ、其邊ノ深キ谷へ、毎日カヽセテ落シ入ケル程ニ、谷モ尾モミナ白妙ニ成テ、谷ハ雪水氷ノヒヾキモ果ケル、臘月ニ及ビ、玄冬素雪ノ究年多クノ人夫ヲ出シ、彼切集メタル大木共ヲバ、谷底ヘコロバシ入ルニ、雲氷タルナダレヘオロス故ニ、カヲモ入ズシテ、悉ク落シ入テ後、深谷ノソコハ氷ル上ニ、大木カサナリ、其上ニ又峯ノ雲ヲ有ダケカキ落シタレバ、谷モ峯モヒトシク成タル時ニ、谷口ニ堤ヲキヅキテ、水ヲモラサズタヽへタリ、扨來春ニ成、温暖ノ時ニ至リテ、ユキ氷トモニ解流ルヽ最中ニ成、急ニ此堤ヲ切テオトシケル程ニ、瀧ノミナギルヨリ猶劣シク、只一度ニタヽへ、水巨木ヲ流シ出シケリ、

〔翁草〕

〈八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1274 增上寺釣鐘之事
瑞軒が機變の事、十が一を學げて云はゞ、其頃增上寺の鐘樓出來立て、鐘を掛しに、暫くは掛りてゆれ、搖くに隨ひ、其釣延てたもつ事不克、落けるゆへ、隨分入念元の如く釣上る樣の御下知有しに、大勢人夫掛り、足代等大そうの事故、何れも六か鋪申に仍り、入札被仰付處に、各高札也、瑞軒札は、外々の半分に及ぬ安札故に、則被仰付、斯て瑞軒は僅人夫二三十人計引連來り、先近邊の米屋共へ申遣しけるは、米を澤山に調申べし、直段を究めて、增上寺鐘樓の前へ持運ぶべしと觸ける故、我も〳〵と持來るを、鐘のあたりへ並べさせ、其上江鐘を上げ、又其俵の並べ、二俵を並させ、其上江鐘を乘せ、又其上へ其通に俵を並、如此段々俵の上江鐘を乘せ、程よく成りて、龍頭を釣り上、 扨米屋共へ先刻調へたる米を、一升增に拂ひ可申間、取に來るべしと令させければ、我も〳〵と來て、米を取て歸ける、斯く無造作なる足代を以、二時三時の間に本の如くに釣上しとぞ、又或る時同寺本堂の棟瓦破れ落たるを、入札に被抑付る處に、瓦は僅ながら足代人夫等に多く費るに仍、入札直段過分に高直也、瑞軒が札は外ゟ三分一にも不及安札なれば、是へ被仰付、如何成仕形にやと、人々思ひしに、折節春の頃にて、東風の吹を考、大成鳳巾(イカ)を造り、本堂の棟を越る程にのぼせて、能時分狂はせ落しければ、鳳巾は本堂に跨る、其時件の鳳巾を捕まへて是を引く、其糸盡たる時に、少し太き糸を繼て繰引にさせ、段々に前よりふとき糸を繼、後には釣瓶繩程にして、夫より大綱を二筋にて是を引せ、此大綱、堂の棟を跨る時、前後四方に聢と杌を打、能程にかうばいを附け、綱を引堅め、是を親階子にして、階子の子を幾つも拵、是に結付、段々に上りながらに、是を拵行、暫時に丈夫成る綱階子出來たり、如此して僅の人夫に克を持せ登せて、速に破琵を取替たると也、其外駿州久能山の鳥居、京師東山八坂塔の事抔、數々人口に在と雖、畢竟其頓意發明において、其理一なるに仍て爰に省く、〈○下略〉

〔蜘蛛の糸卷〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1275 凶荒年表 永代橋崩る
文化四年丁卯八月廿九日、深川八幡祭禮の日、朝四つ時比、貴重の御船、〈○德川氏御召艦〉永代橋の下を通るとて、空船なれども、橋番人繩を橋のきはに引き張りて、人を留めける、〈○中略〉半時めまりまちくたびれたる時、それ通れとて、繩を引くを見て、數百人の駈け通る足の力、體の重み、數萬斤の物をまろばすが如ぐなりし故、細き長橋いかでかたまるべき、橋の眞中より深川の方へ十間計りの所を、三間あまり踏み崩しければ、いかでか落ちざらん、跡の者はかくとはしらず、おしゆくゆゑ、おされて跡へすさる事ならず、横へひらく道なき橋の上なれば、夢のやうに入水したるも多かるべし、此時一人の武士刀を拔きて、高くひらめかしければ、是を見て跡へ逃げ歸りて、道を開き たり、〈○註略〉此一刀にて多くの人を助けしとそ、此事世上にてほめけるが、其名をいふ人なかりしを、今年まで四十年、其人をしらざりしに、今年の晩春、幽篁菴の席上、話此事におよび、おのれが見たる所を語りしに、御主人〈久松助殿五十三〉曰、一刀をふりしは、南町奉行組同心渡邊小右衞門と云ひし半老の人なりと聞きて、其時にあひて、四十年しらざりしを發明して、耳を新にせり、此人なくんば、なほいく人か溺死せん、無量の善根といふべし、

雜載

〔明良洪範續篇〕

〈十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1276 毛利元就常ニ申サレシハ、智慮萬人ニ勝レ、天下ノ治亂、世ノ盛衰ヲ心ニ懸ル者ハ、生涯ニ眞ノ朋友ハ一人モ有ベカラズ、千年ノ前後ニ誠ノ朋友ハ有ベシ、是等ノ人一時ニ生レナバ、己ヲ害スルカ、又我ニ害セラルヽカノニツ也、若二人志ヲ同シテ、世ヲ治メンニ於テハ、四海太平、萬民安堵ト稱スル世成ベシト、酒宴ナドアリテ、機嫌好キ折柄ハ、柱ニモタレテ空ヲ詠メ乍ラ、毎度此事ヲ語ラレケル、癖ノ樣ニ有シト也、

〔常山紀談〕

〈十八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1276 或人本多忠勝に、思慮ある人功名をとげ候か、思慮なき人功名をとげ候かと問ふ、思慮なき人も、思慮ある人も功名するなり、思慮ある人の功名は、士卒を下知し大きなる功名をとぐる物なり、思慮なき人は鎗一本の功名にて、大なる事はなしと答へられけり、

〔蘐園談餘〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1276 欺ムカレジ、ヌカレジト、智惠ノ鞘ヲハヅシテ、人ノ肺腑ヲ窺フ者ハ、人恐レテ親マズ、其害極メテ大也、論語ニ詐ヲ逆ヘズ、信ナラザルヲ臆ラズ、抑又先覺ル者是賢歟トアリ、ヌカレマジト思フ心故、眞實ナル人ヲモ、僞リハセヌカト、無キコトヲ迎ヘテ疑ヒヌ、又人ヲ疑フ心故、我ガ辭ヲモ、人モ信ゼザルカト臆リテ、初ヨリ誓言ダテナドシテ、クリ言ヲ云人アリ、總ジテ人ノ心ヲ云ヌ先キニ覺リテ、合點スル樣ナル、猿智慧ノ人ヲ賢者トスルハ、末世ノ風俗下劣ノ至リ也、君子ノ智ハ、鄭ノ子産ノ樣ニ有タキコト也、子産ニ生ル魚ヲ贈ル者アリ、校人ニ命ジテ池ニ放シムルニ、其人カタマシキ者ニテ、ヤガテ陰カニ煑テ食シヌ、サテ子産カノ魚ヲ放チケルニヤト問ケレ バ、始メコレヲ放ツトキハ、https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m01735.gif 々焉タリ、シバラク有テ、漾々焉タリ、悠然トシテ去ト、マコトシヤカニ答ヘケレバ、子産ゲニモトテ、手ヲ打喜バレケリ、校人ハ子産ハ欺キ易キ人也トテ笑ヒケレド、孟子ハ孔子ノ君子ハ、欺クニ其方ヲ以テスベシ、クラマスニ其道ニ非ルヲ以テシ難シト、イヘル言ヲ引テ譽ラレタリ、小人ニハ事ヘガタクシテ、悦シメ易シ、之ヲ悦バシムルニ、道ヲ以テセザルハ悦ブ、サレバ不正ノ小人近キ得ズ、欺ルベキコトナシ、仁ヲ離レテ働ラク智慧ハ、害アリトモ益ナシト知ルベシ、

〔本與錄〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1277 一人君はたとひいかほど才智發明たりとも、其智を藏して、但人をしるを大智とす、人君みづから其智を用るは、人君の度にあらず、古人も評せり、夫一人の智限り有り、昔大舜を數聖人の内にて、大智と稱せしも、能人を知りて、人の智を用ひ給ひしこと故也、數千百人の智を用るは、何程才智發明たりとも、数千百人の智におよぶ理なし、是故に人君は能諫を納れ、衆人の言を容れて、其よろしき所を取るを、人君の度とす、しかしながら人の言を偏に信ずるは、姦の生ずる端なり、〈○中略〉衆議の上にて、是非得失を論じて、其言を用れば、事に失誤なし、

〔子弟訓〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1277
何事も其しな〴〵を知る人をひろくたづねて他をなそしりそ

〔類聚名義抄〕

〈三/貝〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1277 賢〈カシコシ サカシヒシリ〉

〔伊呂波字類抄〕

〈左/人事〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1277 賢〈サカシ〉 廞 傑 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00194.gif 〈已上同、サカシ、〉

〔萬葉集〕

〈九/雜歌〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1277 麻呂歌一首
古之(イニシへノ)、賢人(カシコサヒト/○○)之(ノ)、遊兼(アソビケム)、吉野凡原(ヨシヌノカハラ)、雖見不飽鴨(ミレドアカヌカモ)、
右柿本朝臣人麻呂之歌集出

〔類聚名義抄〕

〈二/耳〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1278 聖(○)〈舒政反ヒシリ〉

〔伊呂波字類抄〕

〈比/人倫〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1278 聖〈ヒシリ生而通也〉

〔萬葉集〕

〈三/雜歌〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1278 太宰帥大伴卿讃酒歌
酒名乎(ナケノナヲ)、聖跡負師(ヒジリトオフセシ)、古昔(イニシヘノ)、大聖(オホキヒジリ/○○)之(ノ)、言乃宜左(コトノヨロシサ)、

〔倭訓栞〕

〈前編二十五/比〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1278 ひじり 日本紀に聖字をよめり、万葉集に日知とかけり、日德を知しめす聖天子の稱也、又大人をもよめり、西土にも天子を聖といへれど、我邦日知の意は、西土と異なり、天つ日嗣しろしめす皇孫の尊を申奉る也、〈○中略〉万葉集に、酒の名をひじりといひしとよめるは、魏の徐邈が故事に、醉客謂淸者聖人、濁者爲賢人と見えたり、

〔古事記〕

〈序〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1278 神倭天皇〈○神武〉經歷于秋津島、化熊出爪、天劒獲於高倉、生尾遮徑、大烏導於吉野、列舞攘賊、聞歌伏仇、卽覺夢而敬神祇、所以稱賢后(○○)

〔萬葉集〕

〈一/雜歌〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1278近江荒都時柿本朝臣人麻呂作歌
玉手次(タマダスキ)、畝火之山乃(ウネビノヤマノ)、橿原乃(カシハラノ)、日知之御世(ヒジリノミヨ/○○○○○)從(ユ)、〈○下略〉

〔日本紀竟宴和歌集〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1278豐玉姫命 備中權守從四位下藤原朝臣俊房
奈美遠和介、倭我比能毛度遠、多都禰古之、毗志利濃美與能、於夜仁佐利藝留、

〔日本書紀〕

〈六/垂仁〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1278 二年〈(中略)一云、御間城天皇之世、額有角人、乘一船于越國笥飯浦、故號其處、曰角鹿也、問之曰、何國人也、對曰、意富加羅國王之子、名都怒我阿羅斯等、亦名曰于斯岐阿利叱智干岐、傳聞日本國右聖皇(ヒジリキミ/○○)以歸化之、〉 九十九年七月戊午朔、天皇崩於纏向宮、〈○中略〉田道間守、於是泣悲歎之曰、受命天朝、遠往(○○)絶域、萬里踏波、遙度弱水、是常世國、則神仙秘區、俗非臻、是以往來之間、自經十年、豈期獨凌峻瀾更向本土乎、然賴聖帝(○○)之神靈、僅得還來、今天皇旣崩、不得復命、臣雖生之亦何益矣、乃向天皇之陵、叫哭而自死之、

〔日本書紀〕

〈十一/仁德〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1278 十年十月、甫科課役、以構造宮室、於是、百姓之不領、而扶老攜幼、運材負簣不日夜、竭 力爭作、是以未幾時、而宮室悉成、故於今稱聖帝也、

〔古事記〕

〈下/仁德〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1279是天皇登高山、見四方之國詔之、於國中烟不發、國皆貧窮、故自今至三年、悉除人民之課役、是以大殿破壞、悉雖雨漏、都勿修理、以楲受其漏雨、遷避于漏處、後見國中、於國滿烟、故爲人民富、今科課役、是以百姓之榮、不役使、故稱其御世、謂聖帝(ヒジリ)之世也、

〔古事記傳〕

〈三十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1279 聖帝二字を比士理(ヒジリ)と訓べし、日知(ヒシリ)の意なり、但し此は皇國の元よりの稱には非じ、〈上卷に聖神と云あれど、其は借字なり、〉聖字に就て設けたる訓なるべし、〈○註略〉其は漢籍に、聖人と云者の德をほめて、日月に譬へたることあるを取て、日の如くして、天下を知(シロ)しめすと云意なるべし、〈○註略〉されば天皇を賛奉て日知(ヒジリ)と申すは、此天皇より始まれる事にて、漢國の例に傚へる稱なり、

〔神皇正統記〕

〈繼體〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1279 武烈かくれたまふて、皇胤たえにしかば、群臣うれへなげきて、國々にめぐりちかき皇胤をもとめたてまつりけるに、この天皇〈○繼體〉王者の大度まして、潛龍のいきほひ、世にきこえたまひけるにや、群臣相議つて、むかへたてまつる、みたびまで謙讓したまひけれど、つゐに位に卽きたまふ、〈○中略〉まことに賢王(○○)にまし〳〵き、

〔日本書紀〕

〈十七/繼體〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1279 元年正月甲子、大伴大連、金村大連、更籌議曰、男大迹王、〈○繼體〉性慈仁孝順、可天緖、冀慇懃勸進紹隆帝業矣、物部麤鹿火大連、許勢男人大臣等僉曰、妙簡枝孫賢者(○○)、唯男大迹王也、

〔神皇正統記〕

〈光孝〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1279 今の光孝、また昭宣公〈○藤原基經〉のえらびにて、立たまふといへども、仁明の太子文德の御ながれなりしかど、陽成惡王にて、しりぞけられたまひしに、仁明第二の御子にて、しかも賢才(○○)諸親王にすぐれまし〳〵ければ、うたがひなき天命とこそ、見えはむべれ、

〔古事談〕

〈一/王道后宮〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1279 延喜聖主(○○)、臨時奉幣之日、出御南殿、本自有風、把笏著靴欲拜之間、風彌猛、御屛風殆可顚倒、被仰云、穴見苦ノ風ヤ、奉神之時、何有此風哉云々、卽刻風氣俄止云云、

〔古今著聞集〕

〈七/能書〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1279 延喜の聖主、醍醐寺を御建立の時、道風朝臣に額書參らすべき由仰られて、額二 枚を給はせけり、一枚は南大門、一枚は西門の料也、眞草兩樣にかきて奉るべき由勅定有ければ、仰にしたがひて、兩樣に書てまいらせたりけるを、眞に書たるは南大門の料なるべきを、草の字の額をはれの門にうたれたりけり、道風是を見て、あはれ賢王(○○)也とそ申ける、其故は、草の額殊に書すましておぼえけるが叡慮にかなひて、かく日比の義あらたまりてうたれける、まことにかしこき御はからひなるべし、それをほめ申なるべし、

〔古事談〕

〈六/亭宅諸道〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1280 村上聖主、明月之夜、於淸凉殿晝御座、玄上ヲ水牛角之撥ニテ引澄シテ、只一所御座ケルニ、如影之者自空飛參テ孫庇ニ居ケレバ、彼ハ何物ゾト令問給ノ處、申云、大唐琵琶博士廉承武ニ候、只今、此虚ヲ罷通事候ツルガ、御琵琶ノ撥音ノ、イミジサニ所參入也、恐クハ昔貞敏ニ授貽曲之侍ヲ欲授云々、聖主有叡感之氣、〈○下略〉

〔十訓抄〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1280 すべて帝〈○一條〉賢王にておはしけるにや、才臣智僧よりはじめて、道々のたぐひにいたるまで、皆其名を得たり、〈○中略〉帝も我人を得たる事、延喜天曆にもと御自讃有けると也、

〔古事談〕

〈一/王道后宮〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1280 宇治殿〈○藤原賴通〉御出家之後、御坐于宇治之間、後三條院崩御之由聞給テ、止食立箸而歎息、是末代之賢主也、依本朝運拙早以崩御也云々、後三條院於宇治殿事無御許容、然而猶所歎息給也、

〔續古事談〕

〈一/王道后宮〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1280 堀川院ハ末代ノ賢王也、ナカニモ天下ノ雜務ヲ、殊ニ御意ニ入レサセ給タリケリ、職事ノ奏シタル申文ヲ、皆メシトリテ、御夜居ニ、又コマカニ御覽ジテ、所々ニハサミガミヲシテ、コノコトタヅヌベシ、コノコトカサネテ問ベシナド、御手ヅカラカキツケテ、次日職事ノ參リタルニ、タマハセケリ、一返コマカニ、キコシメス事ダニ有ガタキニ、重テ御覽ジテ、サマデノ御沙汰アリケム、イトヤム事ナキ事也、スベテ人ノ公事ツトムルホドナドヲモ、御意ニ入テ、御覽ジ定メケルニヤ、追儺ノ出仕ニ、故障申タル公卿元三ノ小朝拜ニ參タルヲバ、コト〴〵ク追イレラ レケリ、去夜マデ所勞アラムモノヽ、イカデカ一夜ノ内ニナヲルベキ、イツハレル事也ト被仰ケリ、白河院ハ此ヲ聞食テ、キクトモ、キカジトゾ、オホセラレケル、アマリノコトナリト、思召ケルニヤ、

〔平家物語〕

〈六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1281 新院ほうぎよの事
上皇〈○高倉〉は〈○中略〉内には、十かいをたもつて、じひをさきとし、ほかには、五常をみだらせ給はず、れいぎを正しうせさせおはします、まつ代のけんわうにておはしければ、世のおしみ奉る事、月日のひかりをうしなへるがごとし、〈○中略〉
こうえうの事
あんげんの比ほひ、御かたたがひの行かうの有しに、さらでだに、けい人あかつきをとなふこゑ、明王のねふりをおどろかす程にも成しかば、いつも御ねざめがちにて、つや〳〵御しんもならざりけり、いはんやさゆる霜よの、はげしきには、延喜のせい代、國土の民共が、いかにさむかるらんとて、よるのおとゞにして、御衣をぬがせ給ひける事などまでも、思召出て、我帝德のいたらぬ事をぞ、御なげき有ける、〈○下略〉

〔續日本後紀〕

〈九/仁明〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1281 承和七年五月辛己、於是中納言藤原朝臣吉野奏言、昔宇治稚彦皇子者、我朝之賢明(○○)也、此皇子遺敎自使骨、後世効之、〈○下略〉

〔日本書紀〕

〈二十/敏達〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1281 十二年七月丁酉朔、詔曰、屬我先考天皇之世、新羅滅内官家之國、〈天國排開廣庭天皇二十三年、任那爲新羅所一レ滅、放云新羅滅我内官家也、〉先考天皇、謀任那、不果而崩、不其志、是以朕當神謀興任那、今在百濟、火葦北國造阿利斯登子、達率日羅賢而有勇、故朕欲其人相計、乃遣紀國造押勝、與吉備海部直羽島、喚於百濟

〔日本書紀〕

〈二十二/推古〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1281 二十一年十二月庚午朔、皇太子遊行於片岡時、飢者臥遣垂、仍問姓名而不言、皇太 子視之與飮食、卽脱衣裳飢者而言、安臥也、則歌之曰、〈○歌略〉 辛未、皇太子、遣使令飢者、使者還來之曰、飢者旣死、爰皇太子大悲之、則因以葬埋於當處、墓固封也、數日之後、皇太子召近習先者、謂之曰、先日臥于道飢者、其非凡人必眞人(ヒジリ/○○)也、遣使令視、於是使者還來之曰、到於墓所而視之、封埋勿動、乃開以見、屍骨旣空、唯衣服疊置棺上、於是皇太子、復返使者其衣、如常且服矣、時人大異之曰、聖之知聖其實哉、逾惶、 二十九年二月癸巳、半夜厩戸豐聰耳皇子命、薨于斑鳩宮、〈○中略〉賞是時、高麗僧惠慈聞上宮皇太子薨以大悲之、爲皇太子、請僧而設齋、仍親説經之日誓願曰、於日本國聖人(○○)、曰上宮豐聰耳皇子、固天攸縱、以玄聖之德、生日本之國、苞貫三統、纂先聖之宏猷、恭敬三寶、救黎元之厄、是實太聖(○○)也、今太子旣薨之、我雖異國、心在斷金、某獨生之、有何益矣、我以來年二月五日必死、因以遇上宮太子於淨土、以共化衆生、於是惠慈當于期日而死之、是以時人之彼此共言、其獨非上宮太子之聖、惠慈亦聖也、

〔續日本紀〕

〈三/文武〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1282 大寶三年七月甲午、又詔五位已上、擧賢良(○○)方正之士

〔續日本紀〕

〈三十一/光仁〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1282 寶龜二年二月己酉、左大臣正一位藤原朝臣永手薨、〈○中略〉石川朝臣豐成宣曰、大命坐、詔久、美麻志大臣〈乃〉仕奉來狀〈波〉、不今耳、掛〈母〉畏、近江大津宮御宇天皇〈○天智〉御世〈爾八〉大臣之曾祖、藤原朝臣内大臣〈○鎌足〉明淨心以〈氐〉、天皇朝〈手〉助奉〈岐〉藤原宮御宇天皇御世〈爾八〉祖父太政大臣、〈○不比等〉又明淨心以、天皇朝〈乎〉助奉仕奉〈岐〉、今大臣者、鈍朕〈乎〉扶奉仕奉〈麻之都、〉賢臣(○○)等〈乃〉、累世而仕奉〈麻佐部流〉事〈乎奈母〉加多自氣奈美、伊蘇志美思坐〈須、○下略〉

〔神皇正統記〕

〈村上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1282 具平親王、〈○註略〉賢才(○○)文藝のかた、代々に御あとをよくあひつぎ申たまひけり、一條の御代に、ようづむかしをおこし、人をもちひまし〳〵ければ、この親王昇殿したまひし日、淸凉殿にて、作文ありしに、〈○註略〉所貴是賢才といふ題をさぐらるゝことあり、〈○下略〉

〔古事談〕

〈二/臣節〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1282 御堂令邪氣給之時、小野宮右府〈○藤原實資〉爲訪令參給、邪氣聞前聲人云、賢人(○○)之前 聲コソ聞ユレ、此人ニハ居アハジト思フ物ヲトテ、示退散之由云々、御心地卽平愈、

〔十訓抄〕

〈七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1283 小野右大臣〈○藤原實資〉とて、世には賢人右府(○○○○)と申、若くより思はれけるは、身に勝たる才能なければ、何事に付ても、其德顯れがたし、試に賢人を立て、名を得る事をこひねがひて、一筋に廉潔の振舞をぞし給けみ、かゝれども人更に不許、かへ、りて嘲る類も有程にあたらしく家を造て移徙せられ、ける夜、火鉢なる、火のみすのへりに走りかゝりけるが、やがても消ざりけるを、しばし見給けるほどに、やう〳〵と、ゆづり付て次第にもえあがるを、人あざみてよりけるを制てけさゞりけり、火大になりける時、笛計を取て、車よせよとて出給にけり、聊物をも取ける事なし、是より自賢者の名顯て、帝より始奉り、て、事外に感じてもてなされけり、かゝるに付ては、げにも家一やけん事、彼殿の身には、數にもあらざりけんかし、或人、後に其故を尋奉りければ、わづかなる走り火の、おもはざるにもえあがる、たゞごとにあらず、天の授る災也、人力にて是をきほはゞ、是より大なる身の大事出くべし、何によりてか强に家一を惜むにたらんとぞいはれける、其後事にふれて、かやうの振舞絶ざりければ、遂仁賢人といはれでやみにけり、のちざまには鬼神の所變なども見顯されけるとかや、好正直與不廻、而精誠通於神明と曹大家が東征賦に書ル、今思合せられていみじ、かゝればとて賤しからんたぐひ、此まねをすべきにあらね共、程に付て賢の道ひとしからん事をおもへと也、此殿若くより賢人の一筋のみならず、思慮のことに深く、情人に勝れておはしけり、

〔古今著聞集〕

〈四/文學〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1283 前途程遠、馳思於鴈山之夕雲、後會期遙、霑纓於鴻艫之曉涙と、後江相公〈○大江朝綱〉が書たるを、渤海の人感涙をながしける、のちに本朝人にあひて、江相公三公の位にのぼれりやと問けり、しからざるよし答ければ、日本國は賢才をもちゐる國にはあらざりけるとぞはぢしめける、

〔都氏文集〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1284薫蕕論〈于時余弱冠入學、人皆矜伐、賢愚不分、故爲若篇、〉
人有賢愚、物有美惡、人以賢才賢、物以美麗美、是故人中有人、人之有賢才者名高、物中有物、物之有美體者價貴、庸詎謂愚於人上レ惡於物乎、若然則曲阜尼丘、比培塿而無別、紫蘭紅蕙、渾蕭艾而不分、求之竺論、何其謬乎、觀夫草之有薫蕕、亦猶人之有賢愚、薫也、蕕也生一園之中、共有枝葉、賢也愚也、居二儀之間、其有頭足、人或不辨、謂異同、彼一賢一愚、而世不以爲一レ異、此或香或昆、人猶以爲同、遂使賢愚一貫、曾無等差、香昆一氣、時有混亂、當此之時、能視者視之、而別人之賢愚、能聞者聞之、而辨草之香臰、〈○下略〉

〔古今和歌集〕

〈序〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1284 おほきみつのくらゐかきのもとの人丸なん、うたのひじり(○○○○○○)なりける、

〔續日本後紀〕

〈四/仁明〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1284 承和二年三月丙寅、大信都傳灯大法師位空海終于紀伊國禪居、 庚午、在於書法最得其妙、與張芝名、見草聖(○○)、〈○下略〉

〔三代實錄〕

〈十三/淸和〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1284 貞觀八年九月廿二日甲子、夏井〈○組〉者左京人、〈○中略〉承和初以隷書、侍詔於授文堂、就參議小野朝臣篁、受筆之法、篁歎曰、紀二郎可眞書之聖(○○○○)也、

〔三代實錄〕

〈七/淸和〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1284 貞觀五年正月廿日癸未、從五位上行助敎滋善宿禰宗人卒、宗人者左京人、本姓西漢人、備中國下道郡之所貫也、少遊學館、從大學博士御船宿禰氏主三禮、一聞而記於心焉、氏主顧謂同志云、此生後代之禮聖(○○)也、〈○下略〉

〔萬葉集〕

〈三/挽歌〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1284 七年〈○天平〉乙亥大伴坂上郎女悲歎尼理願死去作歌一首〈幷〉短歌〈○歌略〉
右新羅國尼曰理願也、遠感王德、歸化聖朝、於時寄住大納言大將軍大伴卿〈○旅人〉家、旣https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m01736.gif 數紀焉惟以天平七年乙亥忽沈運病、旣趣泉界、於是大家(○○)石川命婦〈○旅人父安麻呂妻〉依餌藥事、往有馬温泉、而不此哀、但郎女獨留葬送屍柩、旣訖仍作此歌入温泉

〔後漢書〕

〈七十四/曹世叔妻傳〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1284 扶風曹世叔妻者、同郡班彪之女也、名昭、字惠、班一名姫、博學高才、世叔早卒、有 節行法度、兄固著漢書、其八表及天文志未竟而卒、和帝詔昭、就東觀藏書閣、踵而成之、〈踵繼也〉帝數召入宮、令皇后諸貴人師事焉、號曰大家(○○)、毎有獻異物、輒詔大家、作賦頌

〔類聚名義抄〕

〈六/心〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1285 愚〈靑虞 オロカナリ(○○○○○) 和グ〉

〔同〕

〈七/疒〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1285 癡〈音笞オロカナリ〉

〔伊呂波字類抄〕

〈无/疊字〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1285 無智(○○)

〔同〕

〈於/人事〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1285 愚〈オロカナリ〉 惷 癡〈已上同、愚癡、白癡、〉 慧〈オロカ〉 騃〈同〉

〔同〕

〈久/疊字〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1285 愚昧 愚暗〈アン〉 愚痴〈チ〉 愚惷〈シユンヲロカナリ〉 愚蒙

〔書言字考節用集〕

〈八/言辭魯鈍(ロドン)〈愚鈍羲同〉 愚(ヲロカ) 痴(同) 惷(同) 佁(同) 愚人夏蟲(グニンナツノムシ)〈支曇賦、愚人貪財如峨赴一レ火、〉 愚者一得(グシヤノイツトク) 愚鈍(グドン/○○) 愚魯(グロ) 愚癡(グチ) 愚昧(グマイ) 愚蒙(グモウ) 愚暗(グアン)〉

〔同〕

〈九/言辭〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1285 暗鈍(アンドン)〈愚鈍義同〉 暗昧(アンマイ)

〔日本靈異記〕

〈中〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1285 景戒稟性不聰、談口不利、〈○中略〉情惷戇同於刻一レ船、編造文句、不善之至、〈○中略〉惷〈音忠反、愚也、〉 戇〈音下反、癡也、〉

〔和字正濫抄〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1285 愚 おろか

〔日本釋名〕

〈中/人事〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1285 愚 おろそか也、そを略せり、道理にうとくして、おろそかなるを云、

〔倭訓栞〕

〈前編四十五/於〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1285 おろか 愚をよめり、獃も同じ、日本紀に不覺を、おろかと訓じ、失意をおろけと訓ず、義通ふ成べし、一説に、梵語の阿羅伽也といへり、

〔伊呂波字類抄〕

〈波/疊字〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1285 白癡(○○)

〔書言字考節用集〕

〈四/人倫〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1285 白癡(タハケ)〈指南、謂人不一レ慧日自癡、見左傳註、〉 白癡(シレモノ)〈左傳〉 愚人(同)〈毛詩、日本紀、〉 白物〈本朝文粹〉 嚕者(同)

〔萬葉集〕

〈九/雜歌〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1285 詠水江浦島子一首〈幷〉短歌
世間之(ヨノナカノ)、愚人之(シレタルヒトノ)、吾妹兒爾(ワギモコニ)、吿而語久(ノリテカタラク)〈○下略〉

〔書言字考節用集〕

〈八/言辭〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1285 馬鹿(バカ/○○)〈傳云、因秦趙高將亂、欺ニ世皇、帝之義、事出史記、〉

〔倭訓栞〕

〈後編十五/波〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1285 ばか 俗語也、呆を譯す、秦趙高が故事より出といへり、後漢文苑傳にも、馬鹿易形と見えたり、されど破家の音なるべし、新序に亡國破家と見えたり、一説に、慕何を翻して癡と いひ、摩訶羅飜して无智といふ義也ともいへり、

〔書言字考節用集〕

〈九/言辭〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1286 唖方(アハウ/○○)〈俚俗罵愚鈍者爾〉 阿房(同)〈或用此字

〔俚言集覽〕

〈阿〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1286 あほ 癡人を云、又アホウとも云、續無名抄、世話字盡、阿頰、諺草、阿房、愚〈○村田了阿〉按、諺草阿房の字なれば、安波于の假字な巾、アホとのみも云、又アンポンタンなどの語もあれば、房字を充たるは、例の推當なり、大坂にてアホを十ノ島(○○)と云、平假字のあほの字、十のしまなれば也、交友抄、樂金柱友、勿鷃蓬友https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m01737.gif 字は鷃字なるべし、斥鷃曲蓬と云事なれども、本俗語のアホウに因て、鷃蓬の音を充しならん、若然らば此俗語古し、交友抄は康應元年の物なり、

〔書言字考節用集〕

〈四/人倫〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1286 倥侗者(ウツケモノ)〈韵瑞、倥侗無知也、〉 空虚者(同)〈後漢第五倫傳、空虚之質云々、〉 躻(同)〈本朝俗字〉

〔倭訓栞〕

〈前編四/宇〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1286 うつけ(○○○) 日本紀に虚字、無實字などをよめり、虚氣の義なるべし、俗に白痴を稱するは、後漢書に空虚之質といへる意也とて、俗に躻字も造りよめり、

〔醒睡笑〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1286 躻(うつけ)
腑のぬけたる仁(○○○○○○○)にゑびをふるまいけるが、赤を見てこれはうまれつきか、又朱にてぬりたる物かと問ふ、生得はいうがあをけれど、かまにていりてあかふなるといふを、合點しゐけり、ある侍の馬にのりたる先へ、二間まなか柄の朱鑓二十本計もちたる中間どものはしるを見、手を打つて、さても世はひろし、きとくなる事やと感ずる、なにをそなたは感ずるやと問ひたれば、其の事よ、いまの鑓の柄の色は、火をたいてむいたものじやが、あれほどながいなべがよふあつた事やと、

〔物類稱呼〕

〈五/言語〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1286 おろかにあさましきを、京大坂にてあんた(○○○)、又あんだら(○○○○)共云、伊勢にてあんがう(○○○○)、又せいふ(○○○)と云、越中にてだらけ(○○○)と云、因幡にてだらず(○○○)と云、信濃にてだぼう(○○○)と云、俗に馬鹿と云は、史記、秦趙高故事にもとづけり、 鹿(拾遺)をさして馬と云人有ければかもをもおしとおもふ也けり、又あほうは秦阿房宮號に出たる詞也とぞ、又たわけ(○○○)とは田分(たわけ)也といふ、〈未詳〉

〔皇都午睡〕

〈三編上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1287 上方にて買(かう)て來(く)るを、江戸にては買(かつ)て來る、〈○中略〉あほうをべらぼ、馬鹿者をとんちき、

〔足薪翁記〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1287 愚な溶者の異名
〈上〉二番(○○)〈又二のきれといふ同じ〉 紀三井寺(○○○○) 南華(○○)
是等みな愚なるものゝ事をいへるなり、智ある者を一にたとへ、愚なるものを二番といひ、紀三井寺は順禮の札所の二番なるにょり、又其名をおふせしなり、南華の事は、色道大鑑、〈延寶六年箕山著〉南華、戯れたる者をいふ、むかしは鈍なる者の異名にはいはず、常とかはりたる人をいへり、其意は、南華は莊子が寓言の、儒にかはりたるによりて、いひたる名ならんを、今は誤りて鈍なる方にこれをよすとあり、浮世物語、〈萬治年間印本〉諸國に傾城町をたていん女多くこめおきて、心だての二番なるきみゐ寺のともがら、中頃は南華とやら名づけし、いかなる故ならん、莊子は寓言とて、なき事をあるやうに書きたる道人也けるを、南華の篇といふ、さだめてうそつきといふ心にや、たゞうつけたるを、今は南花と名づくるなり、〈○中略〉、朱雀遠目鏡〈延寳九年印本〉下の卷上〈○中略〉に、大阪屋太郎兵衞内野瀨といふ格子女郎を評する詞に、面體も姿も大方なり、是も御心二のきれ、廿八匁には高直なり、
〈下〉たくらだ(○○○○) 是も愚なるものをいふ、文字も意も未考、醒睡笑、大本二の卷に、少したくらだのありしが云々と記して、愚なる者の話あり、此册子元和九年の作なれば、いと古き流言なり、子孫鑑寬丈十二年印本に、一人の文珠より十人のたくらだ、といふ事あり、文珠の如き智をもちたる一人より、愚なるものゝ十人の工風がよ、きといへるなれば、意はよく聞えたり、〈○下略〉

〔奴師勞之〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1288 馬鹿ものゝ事を、十九日(○○○)とよびしは、牛込赤城の緣日十九日なり、其頃赤城に、山猫といふ娼婦ありしが、此處にていび出せし隱名といへり、https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m01738.gif https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m01739.gif と書て、十九日といふ字體に、ちかきゆゑともいへり、

〔一話一言〕

〈八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1288 或書の中に 〈題號不見〉
一うつけたるものを 鼻毛 たいけんあやめ ふんちう はなだら あほう ほれものなどゝ、かり初にも云べからず、

〔類聚國史〕

〈六十六/薨卒〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1288 弘仁十二年九月甲寅、從四位下藤原朝臣縵麻呂卒、贈太政大臣正一位種繼之第二男也、爲性愚鈍、不便書記、以鼎食胤、歷職内外、無名、唯好酒色、更無餘慮、時年五十四、

〔三代實錄〕

〈三十九/陽成〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1288 元慶五年六月九日乙酉、故左大臣源朝臣信男尋賜姓春朝臣、先是散位從四位下源朝臣平、從四位下行大和守源朝臣泰、散位從五位下源朝臣保等言、尋天資朱愚世謂父大臣而不上レ子、削除系譜、爲父之道、猶憐不肖、顧復之恩、更命召之、尋身在外處、卽時不諧、其後未幾、大臣薨殂、平等孔懷之意、愍尋之無姓氏、望請賜姓春朝臣、編之本坊、詔許之、

〔榮花物語〕

〈一/月宴〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1288 かゝるほどにかのむらかみの先帝の御おとこ八宮、〈○永平親王〉宣耀殿の女御の御はらのみこにおはします、いとうつくしくおはせど、あやしう御心ばへそ心えぬさまに、おひいで給める、御おぢの濟時のきみ、いまは宰相にておはするぞ、よろづにあつかひ聞えたまひて、〈○中略〉この八宮十二ばかりにぞなり給にける、〈○中略〉かゝる程に冷泉院のきさいのみや〈○冷泉后昌子内親王〉みこもおはしまさず、つれ〴〵なるを、この八宮こにしたてまつりて、かよはし奉らんとなん、のたまはするといふことを、宰相つたへきゝ給て、〈○中略〉よき日してまいりそめさせ給へり、〈○中略〉そののちとき〴〵まいり給ふに、なをもののたまはず、あやしうおぼしめす程に、きさいの宮なやましうせさせ給ければ、宰相宮の御とふらひにいだしたてまつらせ給、まいりてはいかゞいふべ きとのたまはすれば、御なやみのよしうけたまはりてなむとこそは申給はめなど、をしへられてまいり給へれば、れいのよびいれたてまつり給に、ありつることをいとよくの給はすれば、みやなやましにおぼせど、うつくしうおぼしめして、さはのどかに又おはせよなどきこえさせたまふ、まかで給て、宰相にありつる事いとよくいひつとの給へば、いであなしれがましや、いと心づきなうおぼして、いかでいひつとは申給ぞ、それはかたじけなき人をときこえ給へば、をいをいさなり〳〵との給ふ程、いたはりところなう、心うくみえさせ給ふを、わびしうおぼす程に、天祿三年になりぬ、ついたちには、かの宮御さうぞくめでたくしたてゝ、みやへま〈○ま原脱據一本補〉いらせたてまつり給、聞え給へたてまつり給はずなりにけり、宮には八宮參らせたまひて、御まへにてはいしたてまつり給へば、いと〳〵あはれにうつくしとみたてまつらせたまふ、心ことに御しとねなどまいり、さるべき女房たちなど、花やかにさうぞきつゝ、いでゐていらせ給へと申せば、うちふるまひいらせ給ほど、いとうつくしければ、あなうつくしやなど、めできこゆる程に、しとねにいとうるはしくゐさせ給て、〈○中略〉うちこはづくりて申いで給事ぞかし、いとあやし、御なやみのよしうけ給はりてなん參りつる事と申給ものか、こぞの御なやみのおりにまいりたまへりしに、宰相のをしへきこえ給しことを、正月のついたちのはいらいにまいりて申給なりけり、宮の御前あきれてものもの給はせぬに、女房達なにとなくさもわらふ、よがたりにもしつべきみやの御ことばかなと、さゝめき、しのびもあへずわらひのゝしれば、いとはしたなく、かほあかみてゐ給ひて、いなやおぢの宰相の、こぞの御こゝちのおりまいりしかば、かう申せといひしことをけふはいへば、などこれがおかしからん物わらひいたうしける女房たちおほかりけるみやかな、やくなしまいらじとうちむつかりてまかで給ふありさま、あさましうおかしうなむ、小一條におはして、あさましき事こそありつれとがたりたまへば、宰相なに事にかと聞え給へば、 いまはみやにすべてまいらじ、たゞころしにころされよとのたまはすれば、いなやいかにはべりつることそと、きこえたまへば、御なやみのよしうけたまはりてなんまいりつると申つれば、女房の十廿人といでゐてほゝとわらふぞや、いとこそはらたゝしかりつれ、さればいそぎ出てきぬとの給へば、とのいとあさましういみじとおぼして、すべて物もの給はず、いなやともかくもの給はぬは、まろがあしういひたる事か、こぞまいりしに、さ申せとのたまひしかば、それをわすれず申たるは、いづくのあしきぞとのたまふを、いみじとおぼしいりためり、

〔拾遺往生傳〕

〈中〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1290 藏入所仕人藤井時武者、其居則上東門、其職則下走役、朱愚也、白癡也、其性未知、〈○中略〉但爲人、心无愛憎、食無偏頗、來者往者、隨有與之云々、

〔明良洪範〕

〈十八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1290 會津神公〈左中將保科正元〉ハ、台德院樣〈○德川秀忠〉第九男ニテゾマシ〳〵ケル、殊ノ外豪氣ノ人ニオハシマシ、又御近習ノ儒臣ニ、小櫃與五右衞門ト云者有ケリ、或時中將殿與五右衞門ニ其方ガ身ニ、何ゾ樂ミハ有ヤト尋ラレシニ、與五右衞門承リ、大ヒニ樂ミニ存候事、二ツ御座候、是ヲ冥加ト有難ク存ジ奉リ居候ト、御答申シケレバ、其ハ何事ゾヤ聞度ト申サレケル、私事ハ第一貧シクテ御座候故、奢リト申ス事終ニ存ジ申サズ候、若富家ニ生レ候ハヾ、奢リニヒカレテ、禮義ノ道ヲ存ジ申ス間敷候處、天然ノ貧乏ヲ冥加ト存ジ樂ミ申候由申シケリ、今一ツハト尋ネ給フニ、タヤスクハ申シ上ガタク候、重ネテ申シ上ベシト申ケリ、十日計リアリテ、〈○中略〉再應尋ネ問ハレシカバ、與五右衞門ツヽシムデ然ラバ申上ベシ、ソハ大名ニ生レザル、是大ヒナノ冥加ト、常々天道ニ對シ、有ガタク存ジ奉ルヨシ申シケレバ、中將殿其子細ハイカナル事ゾト問ヒ玉ヒキ、サレバ其事ニテ候、大名ハアホウニテ、生得カシコキ御方ニテモ、家來ヨリシテ皆アホウニ取ナシ候、〈○下略〉

佯愚

〔常山紀談〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1290 直家〈○浮田〉は和泉能家の孫なり、能家はもと浦上掃部助村宗に仕へ、備前邑久郡砥石 の城に居れり、浦上の長臣島村豐後守、後入道して貫阿彌といひしは、鷹取山の城に有て、威勢ありて能家を殺害せり、〈○中略〉直家物靜なる生得なりしが、十一歲の比より俄に愚眛になりて、誠に菽麥をもわきまへず、天文十五年、直家十五歲に成ぬ、母の方にゆけば母涙を流し、三人中にも兄なれば、せめて人なみにもあれかしと思ひしに、すぐれたるおろかさよ、人なみならば殿に申て、草履をもとらせなん物を、いかなる因果にて、かくうきことを見るやらんと、打しほたれたるを、直家見て側近く居より、實に愚なるには候はずといふ、母聞て汝ほど愚ながらも猶かしこしと思ふやと、いよ〳〵なげく體なり、直家こゝに一の大事あり、誰にもかたらせ給ふな、もし洩し給ふほどならば、其事叶候まじといへば、母それはいかなる事ぞと問、直家よく聞せ給へ、祖父泉州をば島村が殺したりき、父仇を得討給はで、口惜くこそ候へ、いかにもして一度祖父の弔を遂んと存るに、島村を殺すに過たる事や候、われもしかしこきと島村聞なば、其儘にてすて置べきや、只是のみ心を苦め謀をめぐらし、父祖の恥を雪ばやと存るなり、はや十五に成候ぬ、殿〈宗景をさす○浦上〉に奉公仕らんやうをはからせ給へ、かりそめにも此一大事口に出させ給ふなといひたりしかば、母驚き且悦て、密に宗景に吿て、直家初て仕へけり、

〔明良洪範〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1291 利常〈○前田〉鼻毛ノ延過テ見苦シケレドモ、是ヲ申出ス者ナシ、本多安房守ガ、鏡ヲ土産ニシテ、近習ノ士ニ申付、鼻毛ヲ夜詰メニハ、拔セテ見レドモ、知ラザルヨシニテ居給フ、此節近仕シケル掃除坊主、入湯ノ土産ニ、横山左衞門佐ガ指圖シテ、鼻毛ヌキヲ捧サセケル、利常是ヲ見給ヒテ、老臣以下ヲ招キ申サレケルハ、我鼻毛ノ延タルヲ、何レモ笑止ニ思ヒ、世上ニテ鼻毛ノ延タル虚氣者ナドイフハ、利常モ心得テ居ルゾ、〈○中略〉我今大名ノ上座ニシテ、官祿日本ニ知レタル利常、利口ヲ鼻ノ先ニ顯ハス時ハ、人氣ヅカヒシ、大キニ疑ヒ、存ジ寄ザル難ヲ請ル者也、我タハケヲ人ニ知ラセテコソ、心易ク三ケ國ヲバ領シ、何レモ樂シマシムルハト宣ヒシト也、


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Last-modified: 2022-06-29 (水) 20:06:25