p.0623 生命ハ、邦語之ヲイノチト云ヒ、靈魂ハ、タマ又タマシヒト云フ、靈魂ハ不滅ト信ゼラレ、其人體ニ存在スル間ヲ生ト云ヒ、其出離シタル後ヲ死ト云フ、因テ又靈魂ニ、生靈、死靈ノ別アリ、上古ハ靈魂ヲ分チテ和魂、荒魂、幸魂、奇魂ノ四種ト爲シ、其人體ヲ遊離センコトヲ恐レテ、爲ニ鎭魂、招魂等ノ法ヲ修セシコトアリ、
壽命ハ、生命ノ存續スル間ヲ謂フ、其長短ハ曆日ヲ以テ之ヲ推算ス、之ヲ年齡ト稱ス、此篇ハ神祇部神魂篇、鎮魂祭篇、方技部陰陽道篇、禮式部誕生祝篇、葬禮篇、法律部死刑篇等ニ關聯スル所多シ、宜シク參照スベシ、
p.0623 生命(○○)
p.0623 命〈靡竟反 イノチ(○○○) 和ミヤウ〉
p.0623 壽〈イノチ〉 運 籌 識 命〈巳上同〉
p.0623 爾其沼河日賣未レ開レ戸、自レ内歌曰、〈○中略〉伊麻許曾婆(イマコソハ)、知杼理邇阿良米(チドリニアラメ)、能知波(ノチハ)、那杼理爾阿良牟遠(ナドリニアラムヲ)、伊能知波(イノチハ/○○○ )、那志勢多麻比曾(ナシセタマヒソ)、〈○下略〉
p.0623 倭建命〈○中略〉自レ其行幸而、到二能煩野一之時、思レ國以歌曰、〈○中略〉又歌曰、伊能知能(イノチノ/○○○ )、麻多祁牟比登波(マタケムヒトハ)、多多美許母(タヽミコモ)、幤具理能夜麻能(ヘグリノヤマノ)、久麻加志賀波袁(クマカシカハヲ)、宇受爾佐勢(ウズニサセ)、曾能古(ソノコ)、此歌者、思レ國歌也、
p.0624 十二年十月壬午、天皇便疑三御田姧二其采女一、自念レ將レ刑而付二物部一、時秦酒公侍坐、欲下以二琴聲一使上レ悟二於天皇一、横レ琴彈曰、〈○中略〉飫裒枳瀰爾(オホキミニ)、柯拖倶都柯陪(カタクツカヘ)、麻都羅武騰(マツラムト)、倭我伊能致謀(ワガイノチモ/ ○○○ )、那我倶母鵝騰(ナガクモガト)、伊比志拖倶彌皤夜(イヒシタクミハヤ)、阿拖羅陀倶彌皤夜(アタラタクミハヤ)、於レ是天皇悟二琴聲一而赦二其罪一、 十三年九月、木工猪名部眞根以レ石爲レ質、揮レ斧斷レ材、〈○中略〉不レ覺手誤傷レ刃、天皇〈○中略〉仍付二物部一使レ刑二於野一、爰有二同伴巧者一、歎二惜眞根一、〈○中略〉復作レ歌曰、農播拖磨能(ヌバタマノ)、柯彼能矩盧古磨(カヒノクロコマ)、矩羅枳制播(クラキセバ)、伊能致志儺磨志(イノチシナマシ)、柯彼能倶盧古磨(カヒノクロコマ)、〈○中略〉
p.0624 白髮天皇〈○淸寧〉二年十一月、天皇次起自整二衣帶一、爲二室壽一曰、〈○中略〉取結繩葛者、此家長御壽(イノチ)之堅也、〈○下略〉
p.0624 僧都光覺維摩會の講師の請を申けるを、たび〳〵もれにければ、法性寺入道前 太政大臣〈○藤原忠通〉に恨申けるを、しめぢがはらと侍けれど、又その年ももれにければ、つかは しける、 藤原基俊
契をきしさせもが露を命にてあはれことしの秋もいのめり
p.0624 あづまのかたにまかりけるによみ侍ける 西行法師
年たけて又こゆべしと思ひきや命なりけりさ夜の中やま
p.0624 命 いのち 息力義歟
p.0624 命(イノチ) いきの内なり、いきてある内なり、きとうと略せり、
p.0624 いのち 命をいふ、氣内(イノチ)なるべし、大集經に、息出入名爲二壽命一、一息不レ還卽爲二命終一と見えたり、後漢朱穆傳に、情爲レ恩使、命緣レ義輕と見ゆ、運は天にあり、命は義によつて輕しの世話、ここに本けり、歌にいのちなりけりといひ、させもが露をいのちにてなどいふは、命脉のたえぬばかりなるをいへり、今の俗語にいふも此意なり、
p.0624 命 たまの(○○○)を いきのを たまきはるは〈極心也、ときはかなどもよめり、命に不レ限歟、〉
p.0625 たまのを〈○中略〉 命の事にいふは、靈の緖也、
p.0625 旋頭歌
擊日刺(ウチヒサス)、宮路行丹(ミヤヂヲユクニヽ)、吾裳破(ワガモヤブレヌ)、玉緖(タマノヲノ)、念委(オモヒステヽモ)、家在矣(イヘニアラマシヲ)、
p.0625 百首歌中に忍戀を 式子内親王
玉のをよたえなばたえねながらへば忍ぶることのよはりもぞする
p.0625 いきのを(○○○○) 命をいふ、万葉集に氣之緖と見ゆ、緖は玉のをなどいふがごとし、
p.0625 寄レ花“氣緖爾(イキノヲニ)、念有吾乎(オモヘルワレヲ)、山治左能(ヤマチサノ)、花爾香君之(ハナニカキミガ)、移奴良武(ウツロヒヌラム)、
p.0625 たまきはる(○○○○○)〈○中略〉
顯昭云、玉きはるとは、たましひきはまると云を、まの字を略して云歟、さればにや命によせてよめる歌おほし、
たゞにあひて見てははみこそ靈剋(タマキハル)命に向わが戀やまめ
かくしつゝあらくをよみにたまきはるみじかき命(○○○○○)をながくほりする〈○下略〉
p.0625 たまきはる 〈うち いく代いのち○中略〉
万葉卷五に、靈剋(タマキハル)、内限者(ウチノカギリハ)、平氣久(タヒラケク)、卷六に、靈剋(タマキハル)、壽者不知(イノチハシラズ)、卷十一に、玉切(タマキハル)、命者棄(イノチハステツ)云々、〈此外さま〴〵借字して書る多かれど、意は同じ、〉こは多麻(タマ)は魂(タマ)也、岐波流(キハル)は極(キハマル)にて、人の生れしより、ながらふる涯(カギリ)を遙にかけていふ語也、故に内の限とも、息内(イノチ)とも、幾代ともつゞけたり、さるを後の人、命の今終る極(キハ)みをいふとのみ思へるは、此冠辭の本の意にあらず、いかにぞなれば、右の靈剋内限者平氣久てふ歌の、憶良の自序に、瞻浮州人、壽百二十歲、謹案此數非二必不一レ得レ過レ此云々といひて、遙に百二十を、凡の生涯(イキノカギリ)とするを合せ見よ、且言忌せぬ上つ世といへど、今死に臨むをいふ語ならませば、其人の名に冠らしめて はのたまはせじ、又内の限りは平らけくと、末かけていふのみならず、幾代經ぬらむど、前を遙におもへるさへ有を見よ、
p.0626 拔氣大首任二筑紫一時、娶二豐前國娘子紐兒一作歌三首〈○中略〉如是耳志(カクノミシ)、戀思渡者(コヒシワタレバ)、靈刻(タマキハル)、命毛吾波(イノチモワレハ)、惜雲奈師(ヲシケクモナシ)、
p.0626 靈 四聲字苑云、靈人死神魂也、〈靈音郎丁切、日本紀私記、云、美多万(○○○)、一云、美加介(○○○)、又用二魂魄二字一、〉
p.0626 按説文、 、靈巫以レ玉祭レ神、是靈字本訓、故楚辭注、靈皆訓レ巫、周書諡法解、極知二鬼事一曰レ靈、好祭二鬼神一曰レ靈、義之小轉者、再轉爲二神靈字一、大戴禮曾子天圓篇、陽之精氣曰レ神、陰之精氣曰レ靈、詩靈臺毛傳、神之精明者曰レ靈、諡法解、死見二神能一曰レ靈、是義行而本義希二知者一、
p.0626 靈〈ミタマ、ミカケ、〉
p.0626 戊午年六月、武甕雷神登謂二高倉下一〈○下原脱據二一本一補〉曰、予劒號曰二韴靈一、〈韴靈此云二赴屠能瀰哆磨(○○○)一〉
p.0626 爾天照大御神高木神之命以、詔二太子正勝吾勝勝速日天忍穂耳命一、〈○中略〉此之鏡者、專爲二我御魂(○○)一、而如レ拜二吾前一伊都岐奉、
p.0626 凡て御靈(ミタマ)と云に、又用と體との差別あり、此大御神の御於(ミウへ)にて申さば、高天原を知看て、世を照しなどし賜ふは、廣く御靈の用なり、此御鏡は其體なり、さて其御靈を、專此御鏡に取託て、其御醴としたまへば、其用も悉く此御鏡に具り坐り、然らば其用悉く此御鏡に移り坐て、高天原に坐現御身(ウツシミヽ)には、御靈は貽らじかと云に、凡て神御靈は御靈にて、いとも靈異(グシビ)なる物にし坐ば、悉く此處にあれども、彼處にもいさゝか減ことなく、彼處に減ねども、此處にも悉く具りて、其體は千萬處に分つといへども、ほど〳〵に何れにも、その用は欠ることなし、
p.0626 十年閏二月、蝦夷數千冦二於邊境一、由レ是召二其魁帥綾糟等一、〈○中略〉於レ是綾糟等懼然恐懼、乃下二泊瀨中流一、面二三諸岳一、漱水而盟曰、〈○中略〉若違レ盟者、天地諸神及天皇靈(ミタマ/ミカケ)絶二滅臣種一矣、
p.0627 元年六月丁亥、皇子〈○高市〉攘臂按レ劒、奏言、近江群臣雖レ多、何敢逆二天皇之靈(ミタマシヒ/ミカケ)一哉、天皇雖レ獨、則臣高市、賴二神祇之靈(ミタマノフユ)一、請二天皇之命一、引二率諸將一而征討、豈有レ距乎、
p.0627 たま(○○)〈○中略〉 魂魄をよめるも、身の玉の義也、〈○下略〉
p.0627 かのをくりもの御らんぜさす、なき人のすみかたつねいでたりけんしるしのかんざしならましかばとおもほすもいとかひなし、
尋ね行まぼろしもがなつてにても玉のありかをそことしるべく
p.0627 男にわすられて侍けるころ、貴布ねにまゐりて、みたらし河に螢のとび侍け るをみてよめる、 いづみしきぶ
物思へばさはのほたるもわが身よりあくがれ出る玉かとぞみる
p.0627 題しらず 左兵衞督隆房
戀しなばうかれん玉よしばしだに我思ふ人のつまにとゞまれ
p.0627 魂魄〈上音繟 ヲタマシヒ(○○○○○) 下栢音又薄音メタマシヒ(○○○○○) 二並タマシヒ(○○○○)〉 〈俗〉
p.0627 魂〈タマシヒ〉 魄 神〈已上同〉
p.0627 神祇官伯一人掌二〈○中略〉鎭魂(○)〈謂鎭安也、人陽氣曰レ魂、魂運也、○中略〉事一
p.0627 鎭魂祭 中寅日
それ人には魂魄(○○)の二の玉あり、魂は陽氣、魄は陰氣なり、
p.0627 先祖の事
人にはたましひ二つあり、魂魄の二つなり、死する時は、魂のたましひは消て散りうせるなり、魄のたましひは、其家にとゞまりて、いつまでもあるなり、其證據は、世上に幽靈とて、死たる人 の形のあらはれ出る事あり、又死靈怨靈などして、恨ある人にとり付なやまする事あるは、かの魄のたましひ、此世にとゞまりて、其たましひのなすわざなり、心がゝりも恨もなき人の魄は、人の目にも見えず、人をなやます事こそなけれ、其家にとゞまりてある事は、うたがひなし、
p.0628 中臣朝臣宅守與二狹野茅上娘子一贈答歌
多麻之比波(タマシヒハ/○○○○ )、安之多由布敝爾(アシタユフベニ)、多麻布禮杼安我牟禰伊多之(タマフレドアガムネイタシ)、古非能之氣吉爾(コヒノシケキニ)、
右八首〈○七首略〉娘子
p.0628 十三年八月、天皇遣二春日小野臣大樹一、領二敢死士一百一、並持二火炬一圍レ宅而燒時、自二火炎中一白狗暴出、逐二大樹臣一、其大如レ馬、大樹臣神(タマシヒ/○)色不レ變、拔レ刀斬之、卽化二爲文石小麻呂一、
p.0628 天平三年辛未秋七月、大納言大伴卿薨之時歌六首、〈○中略〉
遠長(トホナガク)、將仕物常(ツカヘムモノト)、念有之(オモヘリシ)、君師不座者(キミシマサネバ)、心神毛奈思(タマシヒモナシ/○○ )、
十一年己卯夏六月、大伴宿禰家持悲二傷亡妾一作歌一首、〈○中略〉悲緖未レ息、更作歌五首、〈○中略〉
離家(イヘサカリ)、伊麻須吾妹乎(イマスワギモヲ)、停不得(トヾメカネ)、山隱都禮(ヤマカクレツレ)、精神毛奈思(タマシヒモナシ/○○ )、
p.0628 御間城入彦五十瓊殖天皇、〈○崇神、中略、〉識性(ミタマシヒ)聰敏、
p.0628 魂 たましひ 萬葉第十五に多麻之比、第三の歌に、心神又精神などをたましひと點じたる事はおほけれど、假名に書て證據とすべきは、見及びたる中に、これより外になし、魄は多麻とのみよむは、これに之比と付たる詞の意をおもふに、靈の字奇の字をくしびとよめり、是を上略してそへたるか、又魂の字をむすびともよめり、神皇産靈(カムミムスビ)を神御魂とも書り、高皇産靈を高御魂ともかけり〈○中略〉奇の字くしとのみもよむに、又くしびともよむは、此國に日をあやしくたふとき事の限りにいへば、奇日方(クシヒカタ)といへる事も有、此奇日(クシヒ)を上略して付たる歟、魂は神玅の物なれば也これも俗書にたましゐと書べきよしいひ、また世にさやうにもかくに、古き物にゐ を用たる事、更にみえねば、證あるを引て、これを正し置也、
p.0629 たましひ 魂魄又靈をいふ、玉火の義、しは助語也、古語に靈火也と見えたり、日本紀に識性、万葉集に心神、精神をも訓ぜり、一説玉奇(クシ)日也といへり、〈○中略〉俗書に魂の數の事をいへるは、列仙傳に出といへり、
p.0629 一書曰、〈○中略〉土俗〈○紀伊國有馬村〉祭二此神〈○伊弉册神〉之魂一者、花時亦以レ花祭、又用二鼓吹幡旗一、歌舞而祭焉、
p.0629 元年十一月乙酉朔、詔二群臣一曰、朕未レ逮二于弱冠一、而父王〈○日本武尊〉旣崩之、乃神靈(ミタマシヒ/ミタマ)化二白鳥一上レ天、仰望之情、一日勿レ息、〈○下略〉
p.0629 九年〈○仲哀〉四月、皇后還詣二橿日浦一、解レ髮臨レ海曰、吾被二神祇之敎一、賴二皇祖之靈(ミタマ)一、浮(フユ)二渉滄海一、躬欲二西征一、
p.0629 天皇深怨レ殺二其父王之大長谷天皇一、〈○雄略〉欲レ報二其靈一、故欲レ毀二其大長谷天皇之御陵一而遣レ人之時、〈○下略〉
p.0629 其靈は大長谷天皇の御靈なり、今は其現御身は世に坐々(シサ)ざれば、其靈に報奉給はむとなり、
p.0629 天平二年九月庚辰、詔曰、〈○中略〉又安藝周芳國人等、妄説二禍福一、多集二人衆一、妖二祠死魂(○○)一、云有レ所レ祈、〈○中略〉如レ此之徒、深違二憲法一、若更因修、爲レ害滋甚、自今以後勿レ使レ然、
p.0629 讃岐國女行二冥途一其魂還二付他身一語第十八
今昔、讃岐國山田郡ニ一人ノ女有ケリ、性ハ布敷ノ氏、此ノ女忽ニ身ニ重キ病ヲ受タリ、然バ直シク味ヲ備テ、門ノ左右ニ祭テ、疫神ヲ賂テ此レヲ饗ス、而ル間閻魔王ノ使ノ鬼、其ノ家ニ來テ此ノ病フ女ヲ召ニ、其鬼走り疲レテ、此祭ノ膳ヲ見ルニ、此レニ靦テ此膳ヲ食フ、鬼旣ニ女ヲ捕テ 將行ク間、鬼女ニ語テ云、我レ汝ガ膳ヲ受ツ、此恩ヲ報ゼムト思フ、若シ同名同姓ナル人有ヤト、女答云ク、同ジ國ノ鵜足ノ郡ニ同名同姓ノ女有ト、鬼此レヲ聞テ、此女ヲ引テ彼鵜足ノ郡ノ女ノ家ニ行テ、親リ其ノ女ニ向テ、緋袋ヨリ一尺許ノ鑿ヲ取出テ、此家ノ女ノ額ニ打立テ召テ將去ヌ、彼山田郡ノ女ヲバ免シツレバ、恐々ツ家ニ歸ルト思フ程ニ活ヌ、其時ニ閻魔王此ノ鵜足ノ郡ノ女ヲ召テ、返來ルヲ見テ宣ハク、此レ召ス所ノ女ニ非ズ、汝ヂ錯テ此ヲ召セリ、然レバ暫ク此女ヲ留テ、彼山田ノ郡ノ女ヲ可レ召ト、鬼隱ス事不レ能デ、遂ニ山田ノ郡ノ女ヲ召テ將來レリ、閻魔王此ヲ見テ宣ハク、當ニ此レ召ス女也、彼ノ鵜足郡ノ女ヲバ可レ返シト、然レバ三日ヲ經テ、鵜足ノ郡ノ女ノ身ヲ燒失ヒツ、然レバ女ノ魂身死シテ、返入ル事不レ能シテ、返テ閻魔王ニ申サク、我レ被レ返タリト云ドモ、體失テ寄付ク所无シト、其時ニ王使ニ問テ宣ク、彼ノ山田ノ郡ノ女ノ體ハ未ダ有リヤト、使答テ云ク、未ダ有リ、王ノ宣ハク、然ラバ其ノ山田ノ郡ノ女ノ身ヲ得テ、汝ガ身ト可レ爲シト、此ニ依テ鵜足ノ郡ノ女ノ魂、山田ノ郡ノ女ノ身ニ入ヌ、活テ云ク、此我ガ家ニハ非ズ、我家ハ鵜足ノ郡ニ有ト、父母活レル事ヲ喜悲ブ間ニ、此レヲ聞テ云ク、汝ハ我子也、何ノ故ニ此ハ云フゾ、思ヒ忘レタルヤト、女更ニ此ヲ不レ用シテ、獨家ヲ出テ鵜足ノ郡ノ家ニ行ヌ、其家ノ父母不知ヌ女來レルヲ見テ驚キ恠シム間、女ノ云ク、此レ我ガ家也ト、父母ノ云ク、汝ハ我ガ子ニ非ズ、我子ハ早ク燒失テキト、其時ニ女具ニ冥途ニシテ、閻魔王宣シ所ノ言ヲ語ルニ、父母此ヲ聞テ泣キ悲テ、生タリシ時ノ事共ヲ問聞クニ、答フル所一事トシテ違事无シ、然レバ體ニハ非ト云ドモ、魂現ニソレナレバ、父母喜テ此ヲ哀ミ養フ事無レ限シ、亦彼ノ山田ノ郡ノ父母、此ヲ聞テ來テ見ルニ、正シク我子ノ體ナレバ魂非ズト云ヘドモ、形ヲ見テ悲ミ愛スル事无レ限、然レバ共ニ此ヲ信テ、同ジク養ニ、二家ノ財ヲ此女獨リニ付囑シテ、現ニ四人ノ父母ヲ持テ、遂ニ二家ノ財ヲ領シテ有ケル、此ヲ思ヒ饗ヲ備テ鬼ヲ賂フ、此レ空シキ功ニ非ズ、其レニ依テ此有ル事也、亦人死タリト云フトモ、葬スル事不 レ可二忩スル一、萬ガ一ニモ自然ラ此ル事有也トナム、語リ傳ヘタルトヤ
p.0631 あさたゞの中將、人のめにてありける人に、しのびてあひわたりけるを、女も思ひかはしてすみけるほどに、かのおとこ人の國のかみになりて、くだりければ、これもかれもいとあはれとおもひけり、さてよみてつかはしける、
たぐへやる我玉しゐをいかにしてはかなきそらにもてはなるらん、となん、くだりける日いひやりける、
p.0631 淸範律師、犬のために法事しける人の講師に、しやうぜられていくを、淸昭律師〈○中略〉聽聞しければ、たゞ今や過去聖靈は、蓮臺のうへにて、ほとほえ給ふらんとの給ひけるを、さればこそこと人はかく思ひよりなましや、なをかやうのたましゐある事は、すぐれたるみはらぞかしとこそほめ給ひけれ、
p.0631 康治三年〈○天養元年〉五月廿六日丙子、是夜有二人魂(○○)一、自レ艮向レ坤、其體太長云々、
p.0631 見二人魂一時歌
玉ハミツ主ハタレトモシラネドモ結留メツシタガエノツマ
誦二此歌一結二所レ著衣妻一云々〈男ハ左ノシタガヒノツマ、女ハ同右ノツマヲ結云々、〉
p.0631 先帝崩御事
主上〈○後醍醐〉苦ゲナル御息ヲ吐セ給テ、〈○中略〉玉骨ハ縱南山ノ苔ニ埋ルトモ、魂魄(○○)ハ常ニ北闕ノ天ヲ望ント思フ〈○中略〉ト、委細ニ綸言ヲ殘サレテ、〈○下略〉
p.0631 生イク(○○)
p.0631 生〈イク、イケリ、〉 活〈不死〉 糓 蘇 存 居 穌〈巳上生也〉
p.0631 うれしうこの君をえて、いける(○○○)限のかしづきものと思ひて、明暮につけて、老の むつかしさも、なぐさめんとこそ思ひつれ、〈○下略〉
p.0632 いく 生をいふ、氣と義通へり、
p.0632 いき 氣息をいふ、神代紀に見ゆ、生の義也、韓詩外傳に、人得レ氣則生、失レ氣則死と見えたり、
p.0632 生死(○○)
p.0632 生死
p.0632 死生有レ命(シセイアリメイ)〈顏淵篇、死生有レ命、富貴在レ天、〉
p.0632 爾千引石、引二塞其黃泉比良坂一、其石置レ中、各對立而、度二事戸一之時、伊邪那美命言、愛我那勢命、爲レ如此者、汝國之人草、一日絞二殺千頭一、爾伊邪那岐命詔、愛我那邇妹命、汝爲レ然者、吾一日立二千五百産屋一、是以一日必千人死、一日必千五百人生也、
p.0632 先レ是天稚彦在二於葦原中國一也、與二味耜高彦根神一友善、〈味耜此云二婀膩須岐一〉故味耜高彦根神昇レ天弔レ喪時、此神容貌正類二天稚彦平生之儀一、故天稚彦親屬妻子皆謂、吾君猶在、則攀二牽衣帶一、且喜且慟、時味耜高彦根神、怒然作レ色曰、朋友之道理宜二相弔一、故不レ憚二汙穢一、遠自起哀、何爲誤二我於亡者一、則拔二其帶劒大葉刈一、〈刈此云二我里一、亦名神戸劔、〉以斫二仆喪屋一、此卽落而爲レ山、今在二美濃國藍見川之上一喪山是也、世人惡二以レ生誤一レ死、此其緣也、
p.0632 七年七月乙亥、左右奏言、當麻邑有二勇悍士一、曰二當麻蹶速一、其爲レ人也、强力以能毀レ角申レ鉤、恒語二衆中一曰、於二四方一求之、豈有下比二我力一者上乎、何遇二强力者一、而不レ期二死生一(シニイクコトヲ)頓得レ爭レ力焉、〈○下略〉
p.0632 吉野城軍事
寄手ハ死生不知ノ坂東武士ナレバ、親子討ルレ共不レ顧、主從滅レドモ不レ屑、乘越乘越責近ヅク、
p.0632 太宰帥大伴卿讃酒歌十三首〈○中略〉 生者(イケルヒト)、遂毛死(ツイニモシヌル)、物爾有者(モノニアレバ)、今生在間者(コノヨナルマハ)、樂乎有名(タノシクヲアレナ)、
p.0633 厭二世間無常一歌二首
生死之(イキシニノ)、二海乎(フタツノウミヲ)、厭見(イトヒミテ)、潮干乃山乎(シホヒノヤマヲ)、之努比鶴鴨(シヌビツルカモ)、〈○中略〉
右歌二首、河原寺之佛堂裏在二倭琴面一之、
p.0633 雜の歌
ことさらにしなんことこそかたからめいきてかひなく物思ふ身は
p.0633 題しらず 大伴百世
戀しなむ後はなにせんいける日のためこそ人は見まくほしけれ
p.0633 すむ人も是におなじ、ところもかはらず、人もおほかれど、いにしへみし人は二三十人が中に、わづかにひとりふたり也、あしたに死し、夕にむまるゝならひ、たゞ水の泡ににたりける、しらずむまれしぬる人、何方よりきたりて、いづくへか去、〈○下略〉
p.0633 又云、されば人死をにくまば、生を愛すべし、存命のよろこび日々にたのしまざらんや、おろかなる人、此樂をわすれて、いたづかはしく、外のたのしびをもとめ、此財をわすれて、あやうく他の財をむさぼるには、志みつことなし、いける間生をたのしまずして、死に臨て死を恐は、此ことはりあるべからず、人皆生をたのしまざるは、死をおそれざるゆへなり、死をおそれざるにはあらず、死の近きことをわするゝなり、もし又生死の相にあづからずといはゞ、實のことはりをえたりといふべしといふに、人いよ〳〵嘲る、
p.0633 半死半生(ハンシハンシヤウ/○○○○)〈朱子文集〉
p.0633 千劒破城軍事
正成所存ノ如ク、敵ヲタバカリ寄セテ、大石ヲ四五十、一度ニハツト發ス、一所ニ集リタル敵三百 餘人、矢庭ニ被二討殺一、半死半生ノ者、五百餘人ニ及リ、
p.0634 蘇活(ソクワツ/イキカヘル) 蘇生(○○) 蘇息〈巳上同〉
p.0634 蘇生(ソセイ)
p.0634 蘓蘇〈酥音 ヨミカヘル(○○○○○) イク〉
p.0634 穌〈ヨミカへル〉 息 活〈巳上同〉
p.0634 蘇(ヨミカヘル) 甦(同) (同)
p.0634 蘇生(ソセイ)
p.0634 信二敬三寶一得二現報一緣第五〈○中略〉
蘇〈左(左恐伊)來〉 甦〈イキタリ〉
p.0634 蘇甦〈甦卽蘇字俗也、此疑生字之誤、訓釋同、〉
p.0634 めのとにて侍るものゝ、この五月のころより、おもくわづらひ侍しが、かしらそりいむことうけなどして、そのしるしにや、よみがへり(○○○○○)しを、〈○下略〉
p.0634 穌 よみがへる 日本紀に黃泉をよもつくにとよめり、万葉には、よみと點せり、もとみ五音通ぜり、よみがへるは、よみぢより歸るなり、
p.0634 甦(ヨミガヘル) よみはやみ也、やみぢよりかへる也、萬葉に黃泉とかきて、よみぢとよめり、
p.0634 よみかへる 日本紀に蘇生をよみ、新撰字鏡に甦をよめり、俗によみぢがへりともいへり、泉路還の義也、孝謙紀に有二來蘇之樂一と見えたり、
p.0634 或娘子等賜二裹乾 一戯請二通觀僧之呪願一時、通觀作歌一首、
海若之(ワタツミノ)、奧爾持行而(オキニモチユキテ)、雖放(ハナツトモ)、宇禮牟曾此之(ウレモゾコレガ)、將死還生(シニカヘリイカン/ ○○○)、
p.0634 死將還生(ヨミカへラマシ)〈三〉 〈黃泉より歸り來るの意也〉
p.0634 笠女郎贈二大伴宿禰家持一歌廿四首〈○中略〉 念西(イモヒニシ)、死爲物爾(シニスルモノニ)、有麻世波(アラマセバ)、千遍曾吾者(チタビゾワレハ)、死變益(シニカヘラマシ)、
p.0635 またかの人の氣色もゆかしければ、小君して、しにかへり(○○○○○)思ふこゝろは、しりたまへりやといひつかはす、
p.0635 しにかへるこゝろはしり給へりや 物思ひにしにたるが、又いきかへるをしにかへると云べし、
p.0635 還魂(イキカヘル/○○)〈泊宅編、李押司死時復蘇、寄二一姓蘇人還魂一、〉 活轉(イキカヘル)〈同上〉 再造(イキカヘル)〈小學、荷二殿下再造之慈一、句讀、再造猶レ言二再生一、〉
p.0635 於レ是八上比賣、答二八十神一言、吾者不レ聞二汝等之言一、將レ嫁二大穴牟遲神一、故爾八十神怒、欲レ殺二大穴牟遲神一、共議而至二伯伎國之手間山本一云、赤猪在二此山一、故和禮〈此二字以レ音〉共追下者、汝待取、若不二待取一者、必將レ殺レ汝云、而以レ火燒二似猪大石一而轉落、爾追下取時、卽於二其石一所二燒著一而死、爾其御祖命哭患而參二上于天一、請二神産巢日之命時、乃遣三𧏛貝比賣與二蛤貝比賣一、令二作活一、爾𧏛貝比賣岐佐宜〈此三字以レ音〉焦而蛤貝比賣持レ水而塗二母乳汁一者、成二麗壯夫一〈訓壯夫云二袁等古一〉而出遊行、於レ是八十神見、且欺率入レ山而、切二伏大樹一、茹レ矢打二立其木一、令レ入二其中一、卽打二離其冰目矢一而拷殺也、爾亦其御祖命哭乍求者得レ見、卽拆二其木一而取出活、
p.0635 四十一年〈○應神〉二月、譽田天皇〈○應神〉崩、時太子菟道稚郎子讓二位于大鷦鷯尊一、〈○仁德、中略、〉爰皇位空之、旣經二三載一、〈○中略〉時大鷦鷯尊聞二太子薨一、以驚之從二難波一馳之到二菟道宮一、爰太子薨之經二三日一、時大鷦鷯尊摽擗叫哭不レ知レ所レ如、乃解レ髮跨レ屍以三呼曰、我弟皇子、乃應レ時而活、自起以居、〈○下略〉
p.0635 十二年、是歲復遣二吉備海部羽島一、召二日羅於百濟一、〈○中略〉德爾等晝夜相計將欲レ殺、時日羅身光有レ如二火焔一、由レ是德爾等恐而不レ殺、遂於二十二月晦一候レ失レ光殺二日羅一、更蘇生(ヨミカヘリ)曰、此是我駈使奴等所レ爲、非二新羅一也、言畢而死、
p.0635 信二敬三寶一得二現報一緣第五
大花上大部屋栖野古連公者、紀伊國名草郡宇治大伴連等先祖也、〈○中略〉卅三年〈○推古〉乙酉冬十二月 八日、連公居二住難波一而卒之、屍有レ異而馥矣、天皇勅之、七日使レ留、詠二於彼忠一、逕二之三日一、乃蘇甦矣、〈○中略〉名曰二還俗連公一也、〈○中略〉
非理奪二他物一爲二惡行一受二惡報一示二奇事一緣第卅
膳臣廣國者、豐前國宮子郡少領也、藤原宮御宇天皇〈○文武〉之代、慶雲二年乙巳秋九月十五日庚申、廣國忽死、逕之三日、戌日申時更甦之、〈○下略〉
p.0636 昔わかき男、けしうはあらぬ女を思ひけり、さがしらするおや有て、思ひもぞつくとて、此女を外へをひやらんとす、〈○中略〉さるあいだに、思ひはいやまさりにまさる、俄におや此女ををひうつ、男ちのなみだをながせどもとゞむるよしなし、ゐて出ていぬ、男なく〳〵よめる、
出ていなばたれか別のかたからんありしにまさるけふはかなしも、とよみてたへ入にけり、おやあはてにけり、なを思ひてこそいひしが、いとかくしもあらじと思ふに、しん實にたえ入にければ、まどひて願たてけり、けふの入あひばかりにたへ入て、又の日のいぬの時ばかりになん、からうじていき出たりける、〈○下略〉
p.0636 公忠弁忽頓滅蘇生俄參内事
公忠辨俄頓滅、歷二兩三日一蘇生、吿二家中一云、令二我參内一、家人不レ信、以爲二狂言一、依レ事甚懇切、被二相扶一參内、參レ自二瀧口戸方一申二事由一、延喜聖主驚躁令レ謁給、奏云、初頓滅之剋、不レ覺而至二冥宮一、門前有二一人一、長一丈餘、衣二一紫袍一捧二金書札一訴云、延喜主所レ爲尤不レ安者、堂上有下紆二朱紫一者世許輩上其中第二座者嘆云、延喜號頗以荒涼也、若有二改元一歟云々、事了如レ夢忽蘇生、因之忽改二元延長一云々、
p.0636 釋日藏、洛城人、〈○中略〉天慶四年秋、於二金峯山一剋二三七日一、絶レ飡不レ語、修二密供一、八月一日午時、修法之間、忽舌燥氣塞、欲二呼レ人相救一、又思、已稱二不言一、豈得レ出レ聲如レ是思惟、氣息旣絶、〈○中略〉藏凡過二十三日一蘇息、〈○下略〉
p.0637 勘解由長官有國、當初父輔道豐前守之時、相具〈天〉下向之間、父俄病惱忽逝去、于レ時有國泰山府君祭ヲ如レ説勤行、輔道經二數刻一纔蘇生、語云、予雖レ參二炎魔廳一、依レ備二美麗之饗膳一、可レ被一返遣一之由、有二其定、爰或冥官一人申云、雖レ被レ返二遣輔道一、於二有國一者早可レ被レ召也、其故者非二其道一者、勤二行祭一非レ無二罪科一云云、又在座之人申云、有國不レ可レ有二罪科一、無道人遠國之境ニテ、不レ耐二孝養之情一、勤行之輩、更不レ可レ處二罪科一云々、仍冥官倂同之、依〈○依原作レ伏、據二一本一改、〉之無爲所レ被二返遣一也云々、
p.0637 嘉承元年ノ夏、世中サハガシクテ、東西二京ニシヌルモノオホカリケリ、ソノ中ニ所ノ御筆ユヒ能定、病ツキテ七日ト云ニ死ニケリ、ヒツニ入レテ黃ナル衣覆テ、人バナレタル所ニステツ、四日ヲへテ道ユク人キヽケレバ、ヒツノ中ニヲトシケリ、アヤシミテミルニ、ヨミガヘリタリ、水ヲノマセテカレガ家ニツゲタリケレバ、妻子ヨロコビテツレカヘリテ、日比ヘテ心地例ザマニナリテカタリケル、〈○下略〉
p.0637 この宮〈○鳥羽皇子君仁親王〉あかごにおはしましけるとき、たえいり給へりければ、行尊僧正いのりたてまつられけるに、白川院、くらゐもつぎ給べくば、いきかへりたまへと、おほせられけるほどに、なをらせ給ければ、たのもしく人もおもひあへりけるに、〈○下略〉
p.0637 死者三日にして殯する事、誠に古來の道なり、或家の婢女疫疾にて死ければ、例の桶に入て寺に送しに、大雨にて墓の坑鑿がたく、桶ながら眠藏におきける、その翌日白き帷子著たる者、よろぼひ出て佛壇へ來し故、若き同宿などあはて騷て逃まどひける、住持出て是をたゞし聞けば、彼婢女蘇りて、桶をやう〳〵にをしひらきて出たる也、食事などして頓て本復しぬ、髮は旣に剃ぬれば、比丘尼になりて遁世しけるとぞ、此たぐひやゝある事にて、折節聞ける事なり、
p.0637 余〈○藤井臧〉諸ヲ壬生ノ僧順正ニ聞、有馬山淸凉院石文死テ、十九日ニシテ甦、而後人冥途 ノ事ヲ問、石文ガ曰、只湖山ノ間ニ在テ、風景ノ好ニ對スル耳、他見所ナシ、因テ思レ之、我昔叡山ニ登、湖水ヲ見、大ニ心目ヲ悦ス、然シヨリ後敢忘ズ、時々復往、コレヲ觀ト欲ス、冥途ニ見所恐ハ是ナル歟、コヽニ知平生心中ニ一物ナカルベシ、石文ガ此語最ヨシ、禪者ニ非バ、必地獄天堂説、
p.0638 死〈シヌ(○○)、和シ、〉
p.0638 死〈シス(○○)〉 歿 殯 崩〈帝王崩〉 薨〈公卿以上薨〉 滅〈僧滅〉 卒 畏 殪 殯 卛 往 損 去 迂 殂 弑〈亦作レ 大逆也〉 殤〈巳上同、殤夭也、死也、〉
p.0638 畢命(シヌル)〈七啓、田光伏二劔于北燕一、公叔畢二命于西秦一、〉 下世(シヌル)〈曹植詩、秦穆先下世三臣皆自殘、〉 卽世(シヌル)〈古雋考略、卽世猶レ去レ世也、〉
p.0638 人死氣絶曰レ死、死澌也、就二消澌一也、
p.0638 厭二世間無常一歌〈○中略〉
黥魚取(イサナトリ)、海哉(ウミヤ)死(シニ/○)爲流(スル)、山哉死爲流(ヤマヤシニスル)、死許曾(シネバコソ)、海者潮干而(ウミハシホヒテ)、山者枯爲禮(ヤマハカレスレ)、
右歌一首
p.0638 しぬ 日本紀に死をよめり、歌にもいのちしなましとみゆ、去の義也、さり反し也、音にあらず、一説に、過ぬ也、すぎ反し也、神代紀に神去といひ、死をまかるとよみ、万葉集に過去(スギニシ)人と見えたり、
p.0638 死は志邇(シニ)と訓べし、書紀雄略卷歌に、伊能致志儺磨志(イノチシナマシ)とあり、〈なほ萬葉にも數しらず多し〉古言なり、志爾は過去(スギイニ)なり、須岐(スギ)は志(シ)と切る、志奴留(シヌル)は過去(スギイヌ)るなり、〈然るを志邇は、死字の音とおもふは非ず、〉
p.0638 七十六年三月甲辰、天皇崩(カミアガリマシヌ/○)二于橿原宮一、
p.0638 三十三年五月、天皇不豫、 癸酉、崩(カミアガリマシヌ) 時年八十四、
p.0638 於レ是與二登美毘古一戰之時、五瀨命於二御手一負二登美毘古之痛矢串一、〈○中略〉到二紀國男之水門一而詔、負二賤奴之手乎一死、爲二男建一而崩、
p.0639 崩は加牟阿賀理麻志奴(カムアガリマシヌ)と訓べし、〈○中略〉さて神上(力厶アガリ)とは、万葉二〈二十七葉、日並知皇子命薨時長歌〉に、天原(アマノハラ)、石門乎閉(イハトヲタテヽ)、神上(カムアガリ)、上座奴(アガリマシヌ)とよみて、天所知(アメシラス)といふも同意なり、凡て人は死れば、尊も卑きも皆悉く、底津根國〈卽夜見國なり〉に罷ることなるを、天皇を始奉、凡て尊むべき人をば、其を忌憚て反を云て、天に上坐とはいひなせる古言なり、
p.0639 日並皇子尊殯宮之時柿本人麿作歌一首〈幷〉短歌〈○中略〉
高照(タカテラス)、日之皇子波(ヒノワカミコハ)、飛鳥之(アスカノ)、淨之宮爾(キヨメシミヤニ)、神隨(カミノマニ)、太布座而(フトシキマシテ)、天皇之(スメロギノ)、敷座國等(シキマスクニト)、天原(アマノハラ)、石門乎開(イハトヲヒラキ)、神上(カムアガリ)、上座奴(アガリイマシヌ)、〈一云、神登座爾之可婆、○下略〉
p.0639 四十一年〈○應神〉二月、譽田天皇〈○應神〉崩、〈○中略〉爰皇位空之、旣經二三載一、〈○中略〉時大鷦鷯尊聞二太子薨(カムサリマシヌ/○)一、以驚之、從二難波一馳之、到二菟道宮一、
p.0639 玉木翁曰、神退者神靈去二此形一之謂也、
p.0639 まかる(○○○)〈○中略〉 神代紀に死をよむは罷の義、死すれば万事やむをもてなり、歌の辭書に身まかるといふ是也、
p.0639 於レ是高木神、〈○中略〉詔者、〈○中略〉或有二邪心一者、天若日子於二此矢一麻賀禮〈此三字以レ音〉云而、取二其矢一自二其矢穴一、衝返下者、〈○下略〉
p.0639 麻賀禮(マガレ)、まづ萬の吉善(ヨキ)を直(ナホ)と云に對ひて、萬の凶惡を麻賀と云、〈○中略〉されば麻賀禮と云は、言は凶くなれと云ことにて、意はすなはち死ねと詔ふなり、〈死るは卽凶くなるなれば、麻賀流と云なり、〉
p.0639 一云、〈○中略〉或所レ謂泉津平坂者、不三復別有二處所一、但臨レ死(マカル)氣絶之際、是之謂歟、
p.0639 五年、國内多疾疫、民有二死亡者(マカレルモノ)一、且大半矣、
p.0639 みまかる(○○○○) 死去をいふ、身罷る義、萬事罷去の意なるべし、
p.0639 みまかる 身死 身體罷去の意よりいふ語なり、朝廷を退去て家にかへるを罷といふも、此をさりて彼にゆく故なり、俗説に曲の意にて、生を直とし、死を曲折といふはあらぬことなり、
p.0640 九年三月、紀小弓宿禰使二大伴室屋大連一、憂二陳於天皇一曰、臣雖二拙弱一、敬奉レ勅矣、但今臣婦命過(ミマカリタル)之際、莫下能視二養臣一者上、公冀將二此事一具陳二天皇一、〈○下略〉
p.0640 いもうとの身まかりける時よみける 小野のたかむらの朝臣〈○歌略〉
p.0640 うせる(○○○)〈○中略〉 死をいふも失の義也、神代紀に、喪亡をうせたりとよみ、伊勢物語に、親王うせたまひてと見えたり、
p.0640 むかし西院のみかどゝ申すみかどおはしましけり、其みかどのみこたかいこと申すいまそかりける、其みこうせ給ひて、〈○下略〉
p.0640 つぎのみかど圓融院天皇と申き、〈○中略〉正曆二年二月十二日うせさせ給ふ、
p.0640 みうせぬ(○○○○) 日本紀に薨をよめり、身失ぬの義也、選二却崇神一祝詞に、立處に身亡支と見えたり、
p.0640 四年四月、神八井耳命薨(ミウセヌ)、
p.0640 遷却崇神祭
又遣〈志〉天若彦〈毛〉返言不レ申〈氐〉、高津鳥殃〈爾〉依〈氐〉、立處〈氐〉身亡〈支〉、
p.0640 捐館舍(ヲカクレ/○○○)〈史范睢傳、君卒然捐二館舍一、〉 有不可言(ヲカクレ)〈前元后傳、如有レ不レ可レ言、師古曰、不レ可レ言謂レ死也、不レ欲レ斥二言之一、〉
p.0640 於レ是取レ矢還投下之、其矢落下則中二天稚彦之胸上一、〈○中略〉中レ矢立死(カクレヌ/○)、
p.0640 つぎのみかど陽成天皇と申き、〈○中略〉八十一にて天曆二年九月廿九日に、かくれ給ふ、
p.0640 岩隱(イハカクレ/○○) 死スル事ヲ云、倭姫命薨御マシマシヽ事ヲ、退テ尾上山ノ峯ニ岩隱坐ト、世記ニ見タリ、
p.0641 いはがくれ 石隱とかけり、万葉集に磐隱座とも見え、石墓(イハキ)にこもるともいひ、鎭火祭祝詞、大和姫世記などにも見えて、神去の義をいへり、日神石窟に入ませし時、天が下常闇なりし、故事に起れる詞なるべし、或は陵墓は巖もて造れば、かくいへるなりともいへり、
p.0641 天皇〈○雄略〉卽位廿三年己未二月、倭姫命、〈○中略〉自退二尾上山峯一、石隱坐、
p.0641 高市皇子尊城上殯宮之時、柿本朝臣人麿作歌一首幷短歌、
挂文(カケマクモ)、忌之伎鴨(ユヽシキカモ)、〈一云由遊志計禮杼母〉言久母(イハマクモ)、綾爾畏伎(アヤニカシコキ)、明日香乃(アスカノ)、眞神之原爾(マガミノハラニ)、久堅能(ヒサカタノ)、天津御門乎(アマツミカドヲ)、懼母(カシコクモ)、定賜而(サダメタマヒテ)、神佐扶跡(カミサフト)、磐隱座(イハカグレマス)、八隅知之(ヤスミシヽ )、吾大王乃(ワガオホキミノ)、所聞見爲(キカシミシ)、〈○下略〉
p.0641 くもがくれ(○○○○○)〈○中略〉 遁世又死去の事にいふは、源氏の雲がくれの卷など是也、萬葉集にもさよめり、石(イハ)隱といふが如し、よて今は常の歌には禁忌の詞とするなり、
p.0641 大津皇子被レ死之時、磐余池般〈○般恐陂誤〉流涕御作歌一首、
百傳(モヽヅタフ)、磐余池爾(イハレノイケニ)、鳴鴨乎(ナクカモヲ)、今日耳見哉(ケフノミミテヤ)、雲隱去牟(クモガクレナム)、
神龜六年己巳、左大臣長屋王賜レ死之後、倉橋部女王作歌一首、
太皇之(スメロギノ)、命恐(ミコトカシコミ)、大荒城乃(オホアラキノ)、時爾波不有跡(トキニハアラネド)、雲隱座(クモカクレマス)、
七年〈○天平〉乙亥、大伴坂上郎女悲二嘆尼理願死去一作歌一首〈幷〉短歡、〈○長歌略〉
留不得(トヾメエヌ)、壽爾之在者(イノチニシアレバ)、敷細乃(シキタへノ)、家從者出而(イヘヲバイデテ)、雲隱去寸(クモカクレニキ)、
p.0641 三條院の皇太后宮かくれ給て、さうそうのよ、月あかく侍けるによめる、
命婦乳母
などてかく雲かくるらんかくばかりのどかにすめる月もあるよに
p.0641 死
霞の谷にかげかくれ(○○○○○○○○○)〈崩御也〉
p.0642 深草のみかど〈○仁明〉の御國忌の日よめる 文屋やすひで
草ふかき霞のたにゝ影かくしてる日の暮しけふにやはあらぬ
p.0642 御つかひのゆきかふほどもなきに、なをいぶせきを、かぎりなくの給はせつるを、夜なかうちすぐるほどになん、たえはて(○○○○)給ぬるとて、なきさはげば、〈○下略〉
p.0642 とのゝうち、人ずくなに、しめやかなる程に、俄に例の御むねをせきあげて、いといたうまどひ給、うちに御せうそこきこえ給ほどもなくたえいり(○○○○)給ぬ、
p.0642 文治四年二月十九日乙酉、内府方女房、〈帥〉周章走來、吿二大臣殿〈○藤原良通〉絶入之由一、
p.0642 蓮仁靈人〈本學坊〉參二會吉田齋宮御臨終一、令レ唱二釋迦牟尼佛名比盧遮那一、〈普賢經文歟、彼文云、〉一切處處、其佛住處、名常寂光トノ給テ、現咲相令二閉眼一給、于レ時祗候之女房等、多年御本懷、已滿足歟、心安候トテ欲二立去一之處、靈人罷念佛、令レ唱二慈救呪一之時、宮蘇生、アラネタヤ奉レ具ユカムト、思ツル物ヲト被レ仰テ、又小時唱二念佛一、如レ眠令二氣絶(○○)一、上人云、是コソ實ノ御終焉云々、
p.0642 まづこの人はいかに成ぬるぞと、おもほす心さはぎに、身のうへもしられ給はず、そひふして、やゝとおどろかしたまへど、たゞひえにひえいりて、いきはとくたえはてにけり(○○○○○○○○○○○○)、
p.0642 元年二月壬寅、詔曰、先王〈○市邊押磐皇子〉遭二離多難一、殞二命(ヲハリタマヘリ/○○)荒郊一、
p.0642 九年十一月丁亥、遣二草壁皇子一訊二惠妙僧之病一、明日惠妙僧終、
p.0642 文明二年十二月廿六日、卯刻許巳御命終、〈○後花園〉
p.0642 文保元年九月三日、寅刻法皇有二御事(○○)一、 四日、今日有二御葬禮事一、
p.0642 文明十四年五月四日、民部卿來、眞乘寺御事切(○○○)云々、仍禁裏幷親王御方御服之事談合、
p.0642 貞享二年二月廿二日、只今御事切〈○後西院〉之由也、
p.0642 崩(○)〈此明反 シヌ帝和ホウ〉
p.0643 崩〈ホウス〉
p.0643 死(シヌル) 天子死曰レ崩(ホウ)
p.0643 天子曰レ崩、崩壞之形也、崩硼聲也、
p.0643 崩御(ホウギヨ/○○)〈指二天子之辭世一〉
p.0643 諒闇、忌中事也、國王ハ崩御、
p.0643 七十有六年三月甲辰、天皇崩二于橿原宮一、
p.0643 四十年十月癸丑、日本武尊發路之、〈○中略〉旣而崩二于能褒野一、時年三十、〈○中略〉是歲天皇踐祚四十三年焉、
p.0643 六十九年四月丁丑、皇太后〈○神功〉崩二於稚櫻宮一、
p.0643 天平勝寶六年七月壬子、太皇太后〈○文武后藤原宮子娘〉崩二於中宮一、
p.0643 四條院崩御のとき、醍醐大僧正の弟子何がし房とかやいひける僧、大僧正のもとへ、消息をやるとて、さんぬる九日、國王俄に死去云々、尤ふびんの事歟と書たりける、ふしぎなる文章成かし、僧正腹腸を切て、其狀を人に見せられけるとなん、
p.0643 晏駕(○○)〈一作二遐霞(○○)一帝者崩謂二之晏駕一〉
p.0643 晏駕(アンカ)〈晏晩也、宮車晏駕、漢天文志、天子當レ晨起、方レ崩稱二晏駕一者、臣子之心、猶謂二宮車晩出一也、以上皆指二天子辭世一也、〉
p.0643 一帝ノ崩ズルヲ晏駕ト云フハ心如何
史記、宮車一日晏駕云々、韋昭云、凡初崩爲二晏駕一者、臣子之心、猶謂三宮車當二駕而脱出一トイヘリ、晏ハヲソキナリ、カエイテタマフベキニ、ナドヲソキゾトオボユル心ニヤ、
p.0643 晏駕、帝王ノ崩御也、
p.0643 登仙(トウセン/○○) 登霞(トウカ/○○)
p.0644 のぼるかすみ(○○○○○○) 昇霞也、崩御をいふといへり、昇る雲居(○○○○)と云と義同じ、
p.0644 登霞、仙院薨御ノ事也、仙院ヲバ不レ可レ言二崩御一也、登霞、ガト濁リテモ讀也、
p.0644 大納言源雅俊卿者、六條右府〈○顯房〉之二男、堀川天皇之外舅也、天皇登霞之後、更厭二生死無常一、建二立一堂一、
p.0644 智行並具禪師重得二人身一生二國皇子一緣第卅九〈○中略〉
薨(○)〈音興、死也、〉
p.0644 死(シヌル)〈○中略〉 諸侯曰レ薨(コウ)
p.0644 諸侯曰レ薨、薨壞之聲也、
p.0644 凡百官身亡者、親王及三位以上稱レ薨、
p.0644 二十八年十月庚午、天皇母弟倭彦命薨、 三十二年七月己卯、皇后日葉酢媛命〈一云日葉酢根命也〉薨、
p.0644 二十九年二月癸巳、半夜厩戸豐聰耳皇子命薨二于斑鳩宮一、
p.0644 神龜五年九月丙午、皇太子薨、
p.0644 慶雲二年五月丙戌、三品忍壁親王薨、
p.0644 慶雲二年七月丙申、大納言正三位紀朝臣麻呂薨、
p.0644 院ハ薨御(○○)、若宮同、又大臣同、
p.0644 壬午年〈○推古三十年〉二月廿二日、薨逝(○○)也、
p.0644 養老五年二月甲午、詔曰、〈○中略〉去庚申年〈○養老四年〉藤原大臣〈○不比等〉奄焉薨逝、朕心哀慟、
p.0644 信二敬三寶一得二現報一緣第五〈○中略〉
卒(○)〈死也〉
p.0645 死(シヌル)〈○中略〉 大夫曰レ卒
p.0645 大夫曰レ卒、言卒竟也、
p.0645 凡百官身亡者、〈○中略〉五位以上及皇親稱レ卒、
p.0645 元年五月癸丑、大錦上坂本財臣卒、
p.0645 和銅四年閏六月乙丑、中納言正四位上兼神祇伯中臣朝臣意美麿卒、
p.0645 神龜五年十月壬午、僧正義淵法師卒、
p.0645 大中納言以下卒去(○○)
p.0645 死(シヌル)〈○中略〉 庶人曰レ死(シ/○)
p.0645 凡百官身亡者、〈○中略〉六位以下達二於庶人一稱レ死、
p.0645 八年三月丙戌、兵衞大分君稚見死、
p.0645 天平十八年六月己亥、僧玄昉死、
p.0645 死亡(○○)
p.0645 靈龜元年十月丁丑、陸奧蝦夷第三等邑良志別君宇蘇彌奈等言、親族死亡子孫數人、常恐レ被二狄徒抄略一、〈○下略〉
p.0645 京極大相國〈○藤原宗輔〉つねにの給けるは死去(○○)は人のをはり也、つゐとしてのがれざる理り也、死におゐてはくゆべからず、たゞし一事忍びがたき事有、死して後ながく、笛をとるべからざる事をとぞ侍りける、
p.0645 當時コノゴロ、コトノホカニ疫癘トテ、ヒト死去ス、コレサラニ疫癘ニヨリテ、ハジメテ死スルニハアラズ、生レハジメシヨリシテ、サダマレル定業ナリ、サノミフカクオドロクマジキコトナフ、
p.0646 釋慈訓、〈○中略〉寶龜八年化(○)、
p.0646 四年三月己未、道照和尚物化(○○)、
p.0646 死(シヌル)〈○中略〉 物故(ブツコ/○○)〈漢書、蘇武傳、物故謂レ死也、言同二鬼物一而故也、一説、不レ欲二斥言一、但言二其所レ欲レ用之物皆巳故一耳、〉
p.0646 謂レ死爲二物故一、顏師古曰、言下其同二於鬼物一而故上也、蜀志註高堂隆云、物無也、故事也、言レ無二復所一レ能二於事一也、予〈○冢田虎〉謂皆似二牽强一矣蓋言二其人死而其物之故一耳、
p.0646 延曆二十二年三月丁巳、詔曰、入唐大使贈從二位藤原朝臣河淸、銜二命先朝一、修二聘唐國一、旣而歸舳迷レ津、漂蕩物二故於他郷一、可レ贈二正二位一、
p.0646 死(シヌル)〈○中略〉 涅槃(ネハン/○○)〈釋氏要覽曰、釋氏死謂二涅槃、圓寂(○○)、歸眞(○○)、歸寂(○○)、滅(○)、度(○)、遷化(○○)、順世一、皆一義也、〉
p.0646 遷化(○○) 遷逝(○○)
p.0646 遷化〈曰レ死〉
p.0646 天平勝寶元年二月丁酉、大僧正行基和尚遷化、〈○中略〉薨時年八十、
p.0646 堂僧齋範はふかく音樂をふけるものなりけり、さいごの時、万秋樂を聞て、三帖喚頭にいたる程に遷化しにけり、これも宿執のふかき至り也、
p.0646 寬元五年〈○寶治元年〉五月十三日乙丑、未剋御臺所〈○藤原賴嗣妻〉遷化、〈年十八〉
p.0646 阿闍梨維範者京師人也、〈○中略〉俗呼曰二南院阿闍梨一、〈○中略〉凡闍梨臨終之間、瑞相太多、其院内禪僧信明、〈字北筑紫聖〉久閉二庵室一、不レ出二門戸一、當二于此時一、空中有レ聲曰、南院只今滅(○)云々、
p.0646 入滅(ニウメツ/○○)
p.0646 康治三年〈○天養元年〉十一月一日戊申、朝召二伶人一擧レ樂、人傳云、式部大輔入道敦光、以二去月廿八日一入滅、〈○下略〉
p.0646 建保三年六月五日癸亥、壽福寺長老葉上僧正榮西入滅、依二痢病一也、
p.0647 釋慈雲、〈○中略〉寂(○)年四十九、大同二年也、
p.0647 佗界(タカイ/○○)〈死去〉
p.0647 他界 佛家より出たることばなり、娑婆世界をはなれて、極樂世界にうつるといふ事也、長明海道記云、ついに十念相續して他界にうつりぬ、
p.0647 たかい 死するを他界といふは和語なり、東鑑に見えて、もとは上下通ぜし詞と見えたり、海人藻芥にも、常の人に逝去他界と申べき也と見ゆ、今は妄に稱せられず、本朝通鑑には、賴朝以來の武將は新例を立て、皆殂と書せり、長明が海道記に、つひに十念相續して、他界にうつりぬといへば、佛氏の意なるべし、
p.0647 建久三年八月廿二日壬戌、雜色成里者有二多年之功一、仍御氣色快然、頗與二御家人一無二勝劣一、而去夏比他界、殊御歎息、〈○下略〉
p.0647 建久六年七月四日丙戌、稻毛三郎重成妻、於二武藏國一他界、日來病惱頻、雖レ加二鵲療一、終被レ侵二風痾一畢、
p.0647 地藏菩薩種々利益事
和州ノ生駒ニ論識(ロンシキ)房トイフ僧有ケリ、〈○中略〉他界ノ後讃岐房ト云弟子ニ、庵室ヲバ讓テケリ、
p.0647 同年〈○寬正四年〉ノ夏ノ比ヨリ、公方ノ御母君高倉殿御不例ノコト有リ、〈○中略〉同八月八日ノ曉、高倉ノ御所ニテ御他界有リ、
p.0647 他界 たかい
古へは上下にかよはしていふ詞なるを、今の世〈○德川幕府〉となりては、將軍家にのみ申奉る事とはなれり、
p.0647 逝去(○○)〈曰レ死〉
p.0648 一條堀川橋ヲモドリ橋ト云ハ何故ゾ〈○中略〉
逝トハ死去ノ事也、論語云、逝往、往者如二川流一カト云々、人ノ逝去スルヲ、河流不レ返喩ル也、
p.0648 常之人ハ、逝去、他界トモ、
p.0648 捐舘(エンクワン/○○)〈新圓寂義也、人死去捐二平生舘屋一、〉
p.0648 捐舘〈日本人之遠行〉
p.0648 死(シヌル)〈○中略〉 捐舘(エンクハン)〈史記、蘇秦傳、〉
p.0648 同事〈○天子崩御〉ヲ晏駕ト云ハ如何事ゾ〈○中略〉
新死ヲ捐舘ト云、死スレバ平生ノ舘屋ヲ捐義也、辭世ナンド曰、同心也、
p.0648 死(シヌル)〈○中略〉 易簀(エキサク/○○)〈禮記〉
p.0648 寬正元年七月六日庚辰、春公之父常久、字昌運、〈○中略〉易二其簀一逝矣、
p.0648 死(シヌル)〈○中略〉 下世(ゲセイ/○○)〈死也、又云歸泉(○○)、逝世(○○)、〉
p.0648 大納言源雅俊卿〈○中略〉閉眼之日、以二綵縷一著二佛手一、引而念佛、安然卽世(○○)、
p.0648 曆仁二年〈○延應元年〉十月十一日丁未、左兵衞尉藤原長定、〈法名淨圓〉歸(○)二黃泉(○○)一、〈年四十三〉
死(ナヲル/○) 死をなをると云、なをは直(スク)也、死したる者は、其身すくみて、直になるゆへなり、
p.0648 なほる〈○中略〉 齋宮忌詞に、死を云は、强直の義、すくはる意也、儀式帳には、なをり物と見えたり、
p.0648 凡忌詞、〈○中略〉外七言、死稱二奈保留一、
p.0648 亦種々〈乃〉事忌定給〈支〉〈○中略〉死〈乎〉奈保利物(○○○○)〈止〉云、〈○中略〉如レ是一切物名忌道定給〈支〉、
p.0648 生類神明供不審事
サテ夜ルヨリアヒタリケルニ、先達ハヤガテ金(キン/○)ニ成ヌ、熊野ニハ死ヲバ金ニナルトイヘリ、
p.0649 保曆間記
p.0649 賴朝〈○中略〉其後鎌倉へ入給テ、則病付給ケリ、次年ノ正月、正治元年正月十三日、終ニハ失給ヌ、五十三ニゾ成給フ、是ヲ老死ト云ベカラズ、偏ニ平家ノ怨靈也、多クノ人ヲ失給ヒシ故トゾ申ケル、
p.0649 五年六月、四位栗隈〈○隈原作レ限今改〉王得(○)レ病薨(○○)、物部雄君連忽發レ病而卒、
p.0649 しぬるを病死(○○)といふ事
今の世、おほやけざたの文書などには、人の死ぬるを病死といふこと也、そも〳〵人は、病ならで死ぬるは、百千の中に、まれに一人二人などこそ有べけれ、おしなべては、みな病てしぬることなれば、それをとり分てはいはでも有ぬべくおぼゆるを、これむかしみだれ世のころは、戰ひて死ぬるものゝ多かりし故に、病死は病死と、分ていへりし時のならひのまゝなるべし、
p.0649 頓死
p.0649 頓死
p.0649 齊衡元年十二月甲寅、是日木工頭正五位下石川朝臣長津頓二死於寮中一、
p.0649 藏人式部丞貞高於二殿上一俄死語第廿九
今昔、圓融院ノ天皇ノ御時ニ、内裏燒ニケレバ、院ニナム御ケル、而ル間殿上ノ夕サリノ大盤ニ、殿上人藏人數著テ物食ケル間ニ、式部丞ノ藏人藤原ノ貞高ト云ケル人モ著タリケルニ、其ノ貞高ガ俄ニ低シテ大盤ニ顏ヲ宛テ、喉ヲクツメカス樣ニ鳴シテ有ケレバ、極テ見苦カリケルヲ、〈○中略〉主殿司寄テ捜テ、早ウ死給ヒニタリ、
p.0649 建長八年〈○康元元年〉正月十二日甲辰、卯時剋於二相州贄殿一、下部男一人寢死(○○)、可レ爲二卅箇日穢一云云、
p.0649 横死(ワウシ)
p.0650 文治五年九月七日甲子、重忠手自取二敷皮一、持二來于由利之前一令レ坐レ之、正レ禮而誘云、〈○中略〉就レ中故左典厩〈○源義朝〉永曆有二横死一、〈○下略〉
p.0650 變死之者を内證ニ而葬候寺院御仕置之事〈○下略〉
p.0650 仁和三年八月十七日戊午、今夜亥時、或人吿二行人一云、武德殿東緣松原西有二美婦人三人一向レ東歩行、有レ男在二松樹下一、容色端麗、出來與二一婦人携レ手相語、婦人精感、共依二樹下一、數剋之間、音語不レ聞、驚恠見之、其婦人手足折落在レ地、无二其身首一、右兵衞右衞門陣宿侍者、聞二此語一往見无レ有二其屍一、所在之人、忽然消失、時人以爲、鬼物變レ形、行二此屠殺(○○)一、
p.0650 四年十一月癸卯、有レ人登二宮東岳一、妖言而自刎死之、當二是夜一直者悉賜二爵一級一、
p.0650 縊〈一至、於賜二反、絞也、經也、久比留(○○○)、〉
p.0650 懸レ繩曰レ縊、縊阨也、阨二其頸一也、
p.0650 縊(クヒル)〈縛レ頭也〉
p.0650 わなぎ 日本紀に自經、又絞をよめり、羂に懸る義なるべし、わたぎとも見えたり、
p.0650 一云、〈○中略〉時伊弉冊尊曰、愛也吾夫君、言二如此一者、吾當縊二死(クビリコロサン)汝所レ治國民一、日將二千頭一、〈○下略〉
p.0650 五十五年、蝦夷叛之、遣二田道一令レ擊、則爲二蝦夷一所レ敗、以死二于伊寺水門一、時有二從者一、取二得田道之手纏一與二其妻一、乃抱二手纏一而縊死、時人聞之流涕矣、
p.0650 三年四月、阿閉臣國見、〈更名磯特牛〉譖三栲幡皇女與二湯人廬城連武彦一曰、武彦汙二皇女一而使二任身一、〈○中略〉天皇聞遣二使者一、案二問皇女一、皇女對言、妾不レ識也、俄而皇女賷一持神鏡一、詣二於五十鈴河上一、伺二人不一レ行、埋レ鏡經死(ワナキシヌ/○○)、
p.0650 首縊(○○)見分 一自縊は首筋延び、經目くびれ込、鼻よだれをたらし、兩足〈江〉血下り太くなり、餘人の仕業には無レ之、〈○下略〉
p.0651 五年十月、發二近縣卒一、命二上毛野君遠祖八綱田一、令レ擊二狹穗彦一、時狹穗彦興レ師距之、忽積レ稻作レ城、其堅不レ可レ破、此謂二稻城一也、踰レ月不レ降、〈○中略〉將軍八綱田放レ火焚一其城一、〈○中略〉時火興城崩軍衆悉走、狹穂彦與レ妹共死二于城中一、
p.0651 三年〈○安康〉八月、坂合黑彦皇子深恐レ所レ疑、竊語二眉輪王一、遂共得レ間而出逃二入圓大臣宅一、〈○中略〉天皇復益興レ兵圍二大臣宅一、〈○中略〉天皇不レ許、縱レ火燔レ宅、於レ是大臣與二黑彦皇子眉輪王一、倶被二燔死(○○)一、時坂合部連贄宿禰抱二皇子屍一而見二燔死一、
p.0651 千劒破城軍事
早リオノ兵其五六千人、橋ノ上ヲ渡リ、我先ニト前タリ、アハヤ此城〈○千劒破〉只今打落サレヌト見ヘタル處ニ、楠兼テ用意ヤシタリケン、投松明ノサキニ火ヲ付テ、橋ノ上ニ薪ヲ積ルガ如クニ投集テ、水彈ヲ以テ油ヲ瀧ノ流ルヽ樣ニ懸タル間、火橋桁ニ燃付テ、溪風炎ヲ吹布タリ、〈○中略〉橋桁中ヨリ燃折テ、谷庭ヘドウド落ケレバ、數千ノ兵同時ニ、猛火ノ中へ落重テ、一人モ不レ殘燒死ニケリ、
p.0651 燒死見分
一死體を火中〈江〉入、燒死に紛申候而も、死體故燒ケあしく、いきかよふ者を火中〈江〉入候而は、ロ鼻目ゟ血しる出、くすぶり燒がたし、依レ之死無二相違一、
p.0651 みなげ(○○○) 水に投じて死するをいふ
p.0651 四十一年〈○應神〉二月、譽田天皇〈○應神〉崩、〈○中略〉大山守皇子〈○中略〉會明詣二菟道一將レ渡レ河、時太子〈○菟道稚郎子〉服二布袍一取二檝櫓一、密接二度子一、以載二大山守皇子一而濟、至于河中一、誂二度子一蹈レ船而傾、於レ是大山守皇子墮レ河而沒、更浮流之、〈○中略〉然伏兵多起不レ得レ著レ岸、遂沈而死焉、
p.0652 大化二年三月甲申、詔曰、〈○中略〉復有三百姓溺二死(○○)於河一、逢者乃謂之曰、何故於レ我使レ遇二溺人一、因留二溺者友伴一、强使二祓除一、由レ是兄雖レ溺二死於河一、其弟不レ救者衆、〈○中略〉如レ是等類、愚俗所染、今悉除斷勿レ使二復爲一、
p.0652 北方身投給事
爲義入道ノ妻、〈○中略〉サラバ舟岡ヘトテ、桂河ヲ上リニ、北山ヲ差テ行程ニ、五條ガスヘノ程ニ、岸高ク水深ゲナル所ニテ、輿ヲ立サセ、石ニテ塔ヲクミ、入道ヨリ始四人ノ君達ノ爲ト廻向シテ、懷袂ニ石ヲ入、〈○中略〉岸ヨリ下へ身ヲ投テ、終無レ墓成給フ、乳母ノ女房是ヲ見テ、連テ河ヘゾ入ニケル、
p.0652 太宰府落の事
平家小舟共に取乘て、よもすがら豐前の國、やなぎがうらへぞわたられける、〈○中略〉神無月のころほひ、小松殿の三なん左中將淸經は、何事もふかう思ひ入給へる人にておはしけるが、ある月の夜、ふなばたに立出て、やうでう音鳥らうゑいして、あそばれけるが、都をば源氏のためにせめおとされ、ちんぜいをばこれよしがためにおひ出され、あみにかゝれる魚のごとし、いづちへゆかばのがるべきかは、存へはつべき身にもあらずとて、しづかに經よみ念佛して、海にぞしづみ給ひける、
p.0652 中將入道入レ水事
三位入道三ノ山ノ參詣、事ユヘナク被レ遂ケレバ、濱宮ノ王子ノ御前ヨリ、一葉ノ舟ニ棹サシテ、萬里ノ波ニゾ浮給フ、遙カノ沖ニ小島アリ、金島トゾ申ケル、彼島ニ上リテ、松ノ木ヲ削ツヽ、自名籍ヲ書キ給ヒケリ、平家嫡々正統小松内大臣重盛公之子息、權亮三位中將維盛入道、讃岐屋島戰場ヲ出テ、三所權現之順禮ヲ遂、那智ノ浦ニテ入水シ畢、
元曆元年三月二十八日、生年二十七ト書給ヒ、奧ニ一首ヲ被レ遺ケリ、 生テハ終ニシヌテフ事ノミゾ定ナキ世ニ定アリケル、其後又島ヨリ船ニ移乘、遙ノ沖ニ漕出給ヌ、〈○中略〉念佛高ク唱給、光明遍照、十方世界、念佛衆生、攝取不捨ト誦シ給ヒツヽ、海ニゾ入給ニケル、與三兵衞入道、石童丸モ、同連テ入ニケリ、
p.0653 元曆二年〈○文治元年〉三月廿四日丁未、於二長門國赤間關壇浦源上一、源平相逢、各隔二三町一糟二向舟船一、〈○中略〉及二午剋一、平氏終敗傾、二品禪尼持二寶劒一、按察局奉レ抱二先帝一、〈(安德)春秋八歲〉共以沒二海底一、建禮門院〈藤重御衣〉入レ水御之處、渡部黨源五馬允以二熊手一奉レ取レ之、按察局同存命、但先帝終不レ令二浮御一、若宮〈今上兄〉者御存命云云、前中納言〈敎盛號二門脇一〉入レ水、前參議〈經盛〉出二戰場一、至二陸地一出家、立還又沈二波底一、新三位中將〈資盛〉前少將有盛朝臣等同沒レ水、〈○下略〉
p.0653 水死見分之事
一死體を水中〈江〉しづめば、水を不レ呑故、總身腫れ不レ申候、いきかよふものを、水中〈江〉しづめ候得者、總身はれ申候、
p.0653 成瀨川土左衞門
享保九年午六月、深川八幡社地の、相撲の番附を見しに、成瀨川土左衞門〈奧州産〉前頭のはじめにあり、案るに、江戸の方言に、溺死の者を土左衞門と云は、成瀨川肥大の者ゆゑに、水死して渾身膨ふとりたるを、土左衞門の如しと、戯いひしが、つひに方言となりしと云、
p.0653 戊午年八月乙未、天皇使レ徵二兄猾及弟猾者一、〈○中略〉兄猾獲二罪〈○罪下原有二兄字一、據二一本一删、〉於天一、事無レ所レ辭、乃自蹈レ機而壓死(ヲソハレシヌ)、
p.0653 天平六年四月戊戌、地大震、壞二天下百姓廬舍一、壓死者多、
p.0653 天平十六年五月庚戌、肥後國〈○國下恐脱二言字一〉雷雨地震、〈○中略〉山崩二百八十餘所、壓死人四十餘人、並加二賑恤一、
p.0654 邪見折二破乞食沙彌一以現得二惡死報一緣第廿九
白髮部猪磨者備中國少田郡人也、〈○中略〉然後卽往二他郷一、道財遭二風雨一、暫間寄二他倉下一、覆而壓殺之、
五十/光孝
p.0654 仁和三年八月廿日辛酉、自レ卯及レ酉大風雨、拔レ樹發レ屋、東西京中、居人廬舍、顚倒甚多、被二壓殺一者衆矣、
p.0654 千劒破城軍事
彼手ノ兵五千餘人思切テ、討共射其用ズ、乘越乘越、城ノ逆木一重引破テ、切岸ノ下迄ゾ攻タリケル、〈○中略〉此時城ノ中ヨリ切岸ノ上ニ横へテ置タル大木十計切テ落シ懸タリケル間、將棊倒ヲスル如ク、寄手四五百人、壓ニ被レ討テ死ニケリ
p.0654 天平二年六月壬午、雷雨神祇官屋災、往々人畜震死、
p.0654 延長八年六月廿六日戊午、諸卿侍二殿上一、各議二請雨之事一、午三刻、從二愛宕山上一黑雲起、急有陰澤一、俄而雷聲大鳴、墮二淸凉殿坤第一柱上一、有二霹靂神火一、侍二殿上一之者、大納言正三位兼行民部卿藤原朝臣淸貫、衣燒胸裂夭亡、〈年六十四〉又從四位下行右中辨兼内藏頭平朝臣希世、顏燒而臥、又登二紫宸殿一者、右兵衞佐美努忠包、髮燒死亡、紀蔭連腹燔悶亂、安曇宗仁膝燒而臥、
p.0654 十五年二月甲子、喚二丹波五女一納二於掖庭一、〈○中略〉唯竹野媛者、因二形姿醜一、返二於本土一、則羞二其見一レ返、到二〈○到原脱、據二類聚國史一補、〉葛野一、自墮レ輿而死之、
p.0654 依下不二布施一與中放生上而現得二善惡報一緣第十六
聖武天皇御代、讃岐國香郡坂田里有二一富人一、夫妻同姓綾君也、〈○中略〉放生之人與二使人一倶入レ山拾レ薪、登二于枯松一、脱之落死、
p.0654 御隨身秦重躬、北面の下野入道信願を、落馬の相ある人なり、能々つゝしみ給へといひけるを、いとまことしからず思ひけるに、信願馬よりおちて死にゝけり、
p.0655 餓死(カシ)
p.0655 和銅五年正月乙酉詔曰、諸國役民還レ郷之日、食粮絶乏、多饉二〈○饉恐殣誤〉道路一、轉二塡溝壑一、其類不レ少、〈○下略〉
p.0655 明る年〈○壽永元年〉は、たちなをるべきかと思ふ程に、あまさへえやみ打そひて、まさる樣に跡かたなし、世の人みな飢死ければ、日をへつゝ、きはまり行さま、少水の魚のたとへに叶へり、はてには笠うちき足ひきつゝみ、身よろしき姿したる者ども、ありくかと見れば、則たふれふしぬ、ついひぢのつら、路の頭に、飢死ぬる類ひはかずもしらず、
p.0655 北國下向勢凍死事
同〈○延元元年十二月〉十一日ニ、義貞朝臣七千餘騎ニテ、鹽津海津ニ著給フ、七里半ノ山中ヲバ、越前ノ守護尾張守高經、大勢ニテ差塞タリト聞ヘシカバ、是ヨリ道ヲ替テ、木目峠ヲゾ越給ヒケル、北國ノ習ニ、十月ノ初ヨリ、高キ峯々ニ雪降テ、麓ノ時雨止時ナシ、今年ハ例ヨリモ陰寒早クシテ、風紛ニ降ル山路ノ雪、甲胄ニ酒ギ、鎧ノ袖ヲ翻シテ、面ヲ撲コト烈シカリケレバ、士卒寒谷ニ道ヲ失ヒ、暮山ニ宿無シテ、木ノ下岩ノ陰ニシヾマリフス、適火ヲ求得タル人ハ、弓矢ヲ折燒テ薪トシ、未友ヲ不レ離者ハ、互ニ抱付テ身ヲ暖ム、元ヨリ薄衣ナル人、飼事無リシ馬共、此ヤ彼ニ凍死(○○)テ、行人道ヲ不二去敢一、
p.0655 爾速須佐之男命、〈○中略〉天照大御神、坐二忌服屋一、而令レ織二神御衣一之時、穿二其服屋之頂一、逆二剝天斑馬一剝而所二墮入一時、天衣織女見驚而於レ梭衝二陰上一而死、〈訓二陰上一云二富登一〉
p.0655 十年、是後倭迹迹日百襲姫命爲二大物主神之妻一、〈○中略〉大神有レ耻、忽化二人形一、〈○中略〉仍踐二大虚一登二于御諸山一、爰倭迹迹姫命仰見而悔之急居、〈急居此云二莵岐于一〉則箸揰レ陰而薨、
p.0655 仁和三年八月六日丁未、停二釋奠之禮一、去月二十日、木工寮將領秦千本、撿校修二造職院一、 驚(○)二恐地震一、失神而死、供レ祭所司觸二此穢一也、
p.0656 入道せいきよの事
入道相國〈○平淸盛〉やまひつき給へる日よりして、ゆ水ものどへ入られず、身の内のあつき事は、火をたくがごとし、〈○中略〉あまりのたえがたさにや、ひえい山より、千手井の水をくみ下し、石の舟にたゝへ、それにおりてひえ給へば、水おびたゝしうわきあがつて、ほどなく湯にぞなりにける、〈○中略〉同じき〈○治承五年閏二月〉四日の日、かんぜつひやくぢして、つゐにあつち死〈○あつち死、長門本平家物語作二あつさ死一、源平盛衰記作二周章死一、〉にぞし給ひける、
p.0656 楠正行最期事
大剛ノ者ニ睨マレテ、湯淺臆シテヤ有ケン、其日ヨリ病付テ身心惱亂シケルガ、仰ゲバ和田ガ忿タル顏天ニ見へ、俯ケバ新發意ガ睨メル眼地ニ見ヘテ、怨靈五體ヲ責シカバ、軍散ジテ七日ト申ニ、湯淺アガキ死ニゾ死ニケル、
p.0656 九十九年七月戊午朔、天皇崩二於纏向宮一、 明年三月壬午、田道間守於レ是泣悲歟之曰、〈○中略〉今天皇旣崩不レ得二復命一、臣雖レ生之亦何益矣、乃向二天皇之陵一、叫哭而自死之、群臣聞皆流涙也、
p.0656 元年十月辛丑、葬二大泊瀨天皇〈○雄略〉于丹比高鷲原陵一、于レ時隼人晝夜哀二號陵側一、與レ食不喫、七日而死、有司造二墓陵北一以レ禮葬之、
p.0656 文治二年七月廿五日庚子、大夫尉〈伊勢守〉平盛國入道、去年被二召下一、被レ預二岡崎平四郎義實一〈三浦介義明舍弟〉之處、日夜無言、常向二法華經一、而此間斷食、今日遂以歸泉、二品〈○源賴朝〉令レ聞之給、心中尤可レ耻之由被レ仰云云、〈○中略〉今年七十四云云、
p.0656 小野寺秀和妻〈附秀和姉 秀和詠歌〉
赤穗義士小野寺十内秀和妻丹子は、灰方氏の女也、〈○中略〉秀和、同息秀富、〈幸右衞門といふ〉自盡を賜へる後、 おもひかねてや、數日食を断て身まかるといへり、
p.0657 恃二己高德一刑二賤形沙彌一以現得二惡死一緣第一
親王〈○長屋〉自念无レ罪而被二囚執一、此決定死、爲二他刑殺一不レ如二自死一、卽其子孫令レ服二毒藥一而絞死畢、後親王服レ藥而自害、
p.0657 弘仁元年九月己酉、藤原朝臣藥子自殺、藥子〈○中略〉知二衆惡之歸一レ己、遂仰レ藥而死、
p.0657 金崎東宮幷將軍宮御隱事
尊氏卿直義朝臣大ニ怒テ、〈○中略〉此宮〈○恒良親王〉是程當家ヲ失ハント思召ケルヲ知ラデ、若只置奉ラバ、何樣不思議ノ御企モ有ヌト覺レバ、潛ニ鴆毒ヲ進テ失奉レト、粟飯原下總守氏光ニゾ下知セラレケル、〈○中略〉春宮御手ニ取セ給テ、抑尊氏直義等、其程ニ情ナキ所存ヲ插ム者ナラバ、縱此藥ヲノマズ共、遁ベキ命カハ、〈○中略〉命ヲ鴆毒ノ爲ニ縮テ、後生善處ノ望ヲ達ンニハシカジト仰ラレテ、毎日法華經一部アソバサレ、念佛唱サセ給テ、此鴆毒ヲゾ聞召ケル、將軍ノ宮〈○成良親王〉是ヲ御覽ジテ、誰トテモ懸ル憂キ世ニ、心ヲ留ベキニアラズ、同ハ後生マデモ、御供申サンコソ本意ナレトテ、諸共ニ此毒藥ヲ七日マデゾ聞召ケル、軈春宮ハ其翌日ヨリ御心地例ニ違ハセ給ケルガ、御終焉ノ儀閑ニシテ、四月〈○延元三年〉十三日ノ暮程ニ、忽ニ隱サセ給ケリ、將軍宮ハ廿日餘マデ御座アリケルガ、黃疸ト云御イタハリ出來テ、御遍身黃ニ成セ給テ、是モ終ニ墓ナクナラセ給ニケリ、
p.0657 寬弘二年四月八日乙酉、於レ陣左府〈○藤原道長〉被レ談云、興福寺雅敬、日來在二讀經一、而昨食レ茸、今日醉死、弟子一人同食死者、〈○又見二今昔物語二十八一〉
p.0657 しんぢう(○○○○) 男女死を共にするをいふ、心中と書れど、實は不心中也、明には幷命といふとぞ、
p.0657 雙斃 〈心中〉しんぢう 相對死(○○○) 男女互の心中を見せんとて共に死るを、俗に心中といふ、官所の辭には相對死といひ、西土にては雙斃といふなり、
p.0658 男女申合相果候者之事
一不義(享保七年極)にて相對死いたし候もの 死體取捨爲レ弔申間敷候
但一方存命に候はゞ下手人
p.0658 犬死(イヌジニ/○○)〈本朝俗者似而非レ正者、通呼稱レ犬、〉
p.0658 いぬじに 死して功なきをいふ、與二螻蟻一何異などいふが如し、
p.0658 山名陸奧守、子息宮田左馬助、次郎七郎ニ向テ宣ケルハ、〈○中略〉サレバコソ御分達ハ日本一ノ不覺仁共ニテ有ゾヨト、只叶ハヌ所ヲ見テハ打死シ、遁ルベキ所ヲ知テハ命ヲ全シテ、後日ニ本意ヲ達スルヲコソ、仁儀ノ勇士トハ申セ、是非ヲモ辨ヘズ、遁ルベキ所ニテ犬死ヲシテ、敵ニ利ヲ付ル事ハ、加樣ノ時ノ爲ゾカシ、未練ナル者共哉、ツレテ引ト叱ラレテ、兄弟ハ猪熊ヲ南へ落テ行、
p.0658 采女〈○藤堂〉又曰、各無益ノ爭論ヨリ命ヲ捨テラルヽハ、誠ニ犬死トヤ云ン、サラバ忠孝ノ道ニ立返リテ、雙方一和シ、向後忠義ヲ立テラレントナラバ、只今和談アルベシ、〈○下略〉
p.0658 袴垂於二關山一虚死殺レ人語第十九
今昔、袴垂ト云フ盜人有ケリ、〈○中略〉大赦ニ被レ掃テ出ニケルガ、可二立寄一キ所モ无ク、可レ爲キ方モ不レ思ザリケレバ、關山ニ行テ一露身ニ縣タル物モ无ク、裸ニテ虚死ヲシテ、路傍ニ臥セリケレバ、〈○下略〉
p.0658 二十九年二月、是月葬二上宮太子於磯長陵一、當二是時一高麗僧惠慈聞二上宮皇太子薨一、以大悲之、爲二皇太子一請レ僧而設レ齋、仍親説レ經之日誓願曰、〈○中略〉今太子旣薨之、我雖レ異レ國心在二斷金一、某獨生之有二何益一矣、我以二來年二月五日一必死、因以遇二上宮太子於淨土一、以共化二衆生一、於レ是惠慈當二于期日一而死 之、是以時人之彼此共言、其獨非二上宮太子之聖一、惠慈亦聖也、
p.0659 承和十年正月庚寅朔、〈○朔原脱、據二類聚國史一補、〉散位從四位上伴宿禰友足卒、〈○中略〉友足年六十六卒、自知二屬纊之期一、沐浴束帶、無レ病而終、有識異之、
p.0659 下野國僧依二地藏助一知二死期一語第卅
今昔下野國ニ藥師寺ト云フ寺有リ、公ケ其寺ニ戒壇ヲ始メ被レ置テ、止事无キ寺也、而ルニ其寺ニ一人ノ堂童子ノ僧有リ、名ヲバ藏緣ト云ケリ、其僧年來地藏 ニ仕テ、日夜寤寐ニ念ジ奉テ、更ニ他ノ勤メ无カリケリ、而ル間藏緣年卅ニ滿ツ程ヨリ、自然ラ漸ク家豐カニ成テ、緣ニ値テ子ヲ儲テ繁昌也、其時ニ親キ族ヲ催テ、各力ヲ合テ一ノ堂ヲ造テ、佛師ヲ請ジテ、等身ノ地藏 一體造リ奉テ、其ノ堂ニ安置シテ、常ニ香花燈明ヲ奉テ、日夜ニ不レ怠ズ、亦毎月廿四日ニ、大ニ僧供ヲ儲テ、諸ノ僧ヲ集テ此ク施シテ佛事ヲ營ケリ、其夜地藏講ヲ行フ、近隣ノ道俗皆來リ集テ聽聞シテ、終夜禮拜シケリ、然ル間藏緣ハ常ノ言ニ人ニ向テ語テ云ク、我レ必ズ月二十四日ヲ以テ、可二極樂往生ス一ト、此ヲ聞ク人、或ハ讃メ貴ブモ有リ、或ハ謗リ咲テ嘲哢スルモ有リ、而ル間藏緣齡漸ク傾テ九十ニ滿ヌ、然レドモ顏色盛ナル人ノ如クシテ、行歩不レ衰ズ力堪タリ、然レバ懃ニ禮拜苦行シテ、退スル事无シ、此ヲ見聞ク人奇異也ト思フ、而ルニ延喜二年ト云フ年ノ八月廿四日ニ、藏緣多ノ饗膳ヲ儲調へテ、知レル所ノ遠近ノ男女ヲ請ジテ集メテ、飮酒ヲ令レ食テ、自ラ吿テ云ク、藏緣汝達ニ對面セム事、只今日計也ト、集來レル人々、皆此ヲ聞テ、或ハ常言ト思テ散ヌ、或ハ此ノ言ヲ怪テ、涙ヲ流シテ有リ、然レドモ皆家々ニ返ヌ、其後藏緣彼地藏堂ニ入テ、旣ニ死ニケリ、人此レヲ不レ知ズ、明ル朝ニ人有テ、堂ノ戸ヲ開テ見ルニ、佛ノ御前ニ、藏緣掌ヲ合セテ額ニ當テ、居乍ラ死テ有リ、是ヲ見テ驚テ諸ノ人ニ吿グ、人皆來テ此レヲ見テ、涙ヲ流シテ悲ビ、不レ貴ト云フ事无シ、誠ニ言ニ不レ違ズ、八月廿四日ニ、佛ノ御前ニシテ端座シテ死タレバ、疑无キ往生也トナム、人云ヒケル、此レ偏 ニ地藏 ヲ、年來念ジ奉ル力也トナム、語り傳ヘタルトヤ、
p.0660 承元二年九月三日庚子、熊谷小次郎直家上洛、是父入道〈○熊谷直實〉來十四日於二東山麓一、可二執終一之由示下之間、爲レ見二訪之一云云、進發之後、此事披二露于御所中一、珍事之由、有二其沙汰一、而廣元朝臣云、兼知二死期一非二權化者一、雖レ似レ有レ疑、彼入道遁二世塵一之後、欣二求淨土一、所願堅固、積二念佛修行薫修一、仰而可レ信歟云云、十月廿一日丁亥、東平太重胤〈號二東所一〉遂二先途一自二京都一歸參、卽被レ召二御所一、申二洛中事等一、先熊谷二郎直實入道、以二九月十四日未剋一、可レ爲二終焉之期一由、相觸之間、至二當日一結緣道俗、圍二繞彼東山草庵一、時剋著二衣袈裟一昇二禮盤一、端座合掌唱二高聲念佛一執終、兼聊無二病氣一云云、
p.0660 從二位家隆卿はわかくより後世のつとめなかりけるが、嘉禎二年十二月廿三日、病におかされて出家、〈○中略〉四月〈○安貞元年〉八日、宿執や催されけん、七首の和歌を詠ぜられける、〈○歌略〉かくて九日、かねて其期を知て、酉刻に端居合掌して終られにけり、本尊をも安置せざりけり、
只今生身の佛來迎し給はずんば、本尊よしなしとぞいはれけり、
p.0660 川谷貞六一日仰見二天象一、俄會二族人一日、後日曉、自レ公召レ余問二天學一、事畢、余出レ城、必死二干某所一矣、請各來待二于此一、乃命レ酒爲レ訣、至レ期、天未レ明、侯召二貞六一、貞六卯牌入見、未牌半刻罷、乘レ轎出レ城可二十町一、卽死、皆如二其言一、
〈川谷貞六、仕二土佐侯一、精二研天文之學一、旁攻二吾邦神道一云、〉
p.0660 臨終(リンジユウ/○○)
p.0660 りんじゆう 臨終の音なり
p.0660 いまはのとき(○○○○○○) 死せんとする時をいへり、いまはのきはとも見えたり、
p.0660 故大納言いまはとなる(○○○○○○)まで、たゞ此人の宮づかへのほい、かならずとげさせたてまつれ〈○中略〉など、返々いさめをかれ侍しかば、〈○下略〉
p.0661 いときなきよりなづさひしものゝ、いまはのきざみ(○○○○○○○)に、つらしとや思はんと思給へてまかりしに、〈○下略〉
p.0661 天保十四年五月九日、祖母藤向殿違例之處、午一點及二危篤一、〈血死期也(○○○○)〉動哭了、
p.0661 ちしご 知死期なり、後漢謝夷吾傳に見えたり、産家などに知死期時などいふは、忌はしき事なり、
p.0661 死期
あらかじめいつの何時には死せんとすと、わきまへしるをいふなりとぞ、是を知死期などいへり、
p.0661 斷抹磨(○○○) だんまつま 斷末磨
死期の若痛の甚しきをいふに、斷抹磨のくるしみと云ふ、智度論には、刀風解レ形、死苦來逼といひ、道綽禪師は、刀風一至、百苦襲レ身ともいへり、刀風は劒の如き風の來りて、身を切くだくをいへり、皮の切るゝを斷と云ふ、肉の裂るを抹といひ、骨の摺碎るを磨といふなり、百千の戈劒にて身を裁裂が如きにたとへたり、一説に斷抹磨は梵語なりといへども未二考出一、
p.0661 獲麟(クワクリン/○○)〈呼二一切事終一云二獲麟一、亦呼二人之臨終一云二獲麟一、左傳仲尼絶二筆於獲麟一句一、〉
p.0661 一人ノシナントスルヲ、獲麟ト云フハ何事ゾ、
麟ト云フハ麒麟ナリ、〈○中略〉春秋ハ孔子ノシルシタマヘルフミナリ、コノ麟ヲエタルマデノコトヲシルシテ、ホドナクウセ給ヒニケリ、孔子御年七十一ニテ、杜預絶二筆於獲麟之一句一ト云ヘルハコレナリ、コレヨリ最後ニノゾムヲバ獲麟ト云フナリ、獲ハエタリト云フナリ、
p.0661 屬纊(ソククワウ/○○)〈人臨レ死時、以二綿纊一屬二鼻穴一、知二息之絶不一レ絶、故呼二臨終一云二屬纊一是也、〉
p.0661 同事〈○天子崩御〉ヲ晏駕ト云ハ如何事ゾ〈○中略〉 獲麟ノ義ヲ屬纊ト云、喩ヘバ人ノ臨終ノ時、以二綿纊一屬二鼻穴一、知二息之終不終一、故ニ爾曰也、
p.0662 見二烏邪淫一厭レ世修レ善緣第二
愛男子得レ病臨二命終時一、而白レ母言、飮二母乳一者應レ延二我命一、母隨二子言一、乳令レ飮二病子一、子飮而歎之言、噫乎捨二母甜乳一而我死哉、卽命終焉、
p.0662 この殿〈○藤原道隆〉の御上戸はよくおはしましける、その御心のなををはりまでもわすれ給はざりけるにや、御病付てうせ給ひける時、西にかきむけたてまつりて、念佛申させ給へと、人々のすゝめたてまつりければ、濟時朝光〈○二人並酒友〉などもや、極樂にはあらんずらんと、仰けるこそあはれなれ、常に御心にならひおぼしたる事なれば、あの地獄のかなへのふたにかしらうちあてゝ、三寶の御名おもひ出けん、人のやうなる事なりや、
p.0662 六はらの別當長慶は、院禪がびはのでし也、最後の時、時元とぶらひに來りたりけるに、かきをこされて、倍臚の唱歌、今一度し給へ、承らんといひければ、時元いふがごとくにしければ、ほろ〳〵となきて聞けり、入滅の時も秋風樂を聞て、三帖喚頭に至程に、遷化しにけり、
p.0662 建久三年三月十六日戊子、未剋京都飛脚參著、去十三日寅剋、太上法皇〈○後白河〉於二六條殿一、崩御、御不豫大腹水云云、召二大原本城房上人一爲二御善知識一、高聲御念佛七十反、御手結二印契一、臨終正念、乍レ居如レ睡遷化云云、
p.0662 正治二年正月廿八日、兼時妻依二所勞一獲鱗、行二山里一云々、
p.0662 建保五年十一月十日甲申、陸奧守〈○大江廣元〉依二獲麟一、爲二存命一出家、〈法名覺阿〉將軍〈○源實朝〉令二左衞門尉朝光訪一レ之給、
p.0662 寬喜二年三月廿二日甲寅、祭主能隆依二病獲麟一、獻二辭書一云々、其子隆通〈當腹末子、造宮司正上四位、〉隆雅〈二男現存之長男〉競二望其替一、隆繼申、所勞已獲麟、以二辭退一不レ可レ有二其隱一、重服者事居二其職一乎、暫不レ被レ任者、卽可二修命一、 其後可二拜任一云々、〈頗有レ理歟〉
p.0663 人の終焉のありさまの、いみじかりし事など、人のかたゐを聞に、たゞしづかにしてみだれずといはゞ、心にくかるべきを、おろかなる人は、あやしくことなる相をかたりつけ、いひし、ことばもふるまひも、をのれがこのむかたにほめなすこそ、其人の日ごろの本意にもあらずやとおぼゆれ、此大事は權化の人もさだむべからず、博學の士もはかるべからず、をのれたがふ所なくば、人の見聞にはよるべからず、
p.0663 人家僧尼ヲ父母屬纊ノ際ニ招致者、豈慮ナカルベケンヤ、頃者内藤某熱病ヲ以死ス、譫語妄見アリ、一二ノ苾蒭〈僧也〉易簀ニ近侍ス、出テ曰、痛哉内藤氏ノ臨終ヤ、其言所皆罪狀ニシテ、見所者皆惡鬼ナリト、聞者悉ク以爲、渠ニ隱惡アリト、余〈○藤井臧〉内藤ト相識タリ、其爲レ人、正直ニシテ能敬信アリ、生涯六十年、未一惡名ヲ聞ズ、沒後此貶議ニ罹、慨ザルベケン哉、夫人ノ疾、革ナル間躁靜言默ノ異ナカラズ、靜ニシテ默スル者必善人ナラズ、躁シテ言者必惡人ナラズ、只是病勢ノ然シムルトコロナリ、僧侶ノ言贛ナル哉、
p.0663 遺言
p.0663 遺言(ユイゴン)
p.0663 遺言(イゲン)
p.0663 遺言(ユイゴン)
p.0663 たゞかのゆいごむをたがへじとばかりに、いだしたて侍しを、〈○下略〉
○按ズルニ、遣言ニハ、口頭ヲ以テスルアリ、書狀ヲ以テスルアリ、而シテ遺言ニテ臣子ヲ訓誨 スル事ハ、訓誡篇ニ、葬送ニ關スル事ハ、禮式部葬禮篇ニ、遺産ニ關スル事ハ、政治部上編及ビ下 編ノ相續篇等ニ載セタレバ、參照スベシ、
p.0663 辭世頌(ジセイノジユ)〈臨終之作〉
p.0664 やまひしてよはく成にける時よめる なりひらの朝臣
つゐに行道とはかねてきゝしかど昨日けふとは思はざりしを〈○又見二伊勢物語一〉
p.0664 この在次君、〈○中略〉かく人のくにゝありき〳〵て、かひのくにゝいたりてすみけるほどに、やまひしてしぬとてよみたりける、
かりそめの行かひぢとぞ思ひしを今はかぎりのかどでなりけり、となんよみてしにけり、
p.0664 弘長三年十一月廿二日己亥、戌刻入道正五位下行相模守平朝臣時賴、〈御法名道崇、御年三十七、〉於一最明寺北亭一卒去、御臨終之儀、著二衣袈裟一上二繩床一、令二座禪給、聊無二動搖之氣一、頌云、
業鏡高懸、三十七年、一槌打碎、大道坦然、
弘長三年十一月廿二日道崇珍重云云
p.0664 長崎新左衞門尉意見事附阿新殿事
五月〈○元弘元年〉二十九日暮程ニ、資朝卿〈○中略〉少モ臆シタル氣色モナク、敷皮ノ上ニ居直テ、辭世ノ頌ヲ書給フ、
五蘊假成レ形 四大今歸レ空 將レ首當二白刃一 截斷一陣風
年號年月ノ下ニ、名字ヲ書付テ、筆ヲ閣キ給ヘバ、切手後へ回ルトゾ見ヘシ、御首ハ敷皮ノ上ニ落テ、質ハ尚坐セルガ如シ、
p.0664 同〈○元祿三年〉十一月廿九日、水戸へ御下り被レ成候とて、江戸を御發駕〈○德川光圀〉あそばされ候朝、
我今年致仕歸故郷一、仲冬二十九日、夙發二江戸之邸一、臨レ別賦レ詩、遺二男九成一、文不レ加レ點、信レ口漫道、一笑胡 盧、元祿庚午冬、遁二跡東海濱一、致レ仕解二印綬一、縱作二葛天民一、盤旋廣莫野、一洗榮辱塵、昔涎二首陽薇一、今羮二呉江蓴一、三十有年來、夙志忽欲レ伸、予去又何處、不レ知二再會辰一、鳴呼汝欽哉、治レ國必依レ仁、禍始レ自二閨門一、愼勿 レ亂二五倫一、朋友盡二禮儀一、旦暮慮二忠純一、古謂君雖二以不一レ君、臣不レ可レ不レ臣、
右の御詩を綱條公へ御殘し置せ給ひて、そのまゝ御發駕あそばし、〈○中略〉
一西山公御隱居後、常々御はなしあそばされ候は、世の人末期に辭世と申候て、詩歌など致候、去 ながら病氣の品により、さやうの事ならざるもあるべく候、我は隱居して江戸を立候あした、 中將に殘し置候詩〈御詩出レ前〉が辭世なりと仰られ候、此故に御病中に御辭世あそばされざるものと、人みな申あへり、
p.0665 一縣居翁の門人に平田保〈通稱服部安五郎〉といふ人ありけり、〈○中略〉此人常にいひしは、近來のひとの辭世の歌といふものを見きくに、みな禪家のさとりにて、心には何にさとれる事なき輩も、辭世の詩歌とだにいへば、みな口ぎよきことのみなり、いかでこの世を別るゝきはに至りて、さる人ばかりはあらむ、常に題をまうけてよみ出だすうたこそ、まれ〳〵には心にもあらぬ言をつみいでめ、それさへいかにぞやおぼゆるを、まして命をはらむきはに臨みて、心にもあらぬこといひ出づるは、なかなかになまさとりなる心あさゝの見ゆるぞかし、在五中將の、きのふけふとはおもはざりしを、など讀まれたるこそ、まことにさることなれなど、人に向ひては、常にかたりけるが、かねてや思ひまうけけむ、又は其をりにのぞみてや心にうかびけむ、病いとあつしうなりて、
我はもよをはりなるべしいざ兒どもちかくよりませよく見て死なむ、とよみて、身まかりにけり、世のすねものなりけむことおもひやるべし、
p.0665 大かた延喜帝、〈○中略〉さてわれいかでか、ふづきながつきに、〈○に原作レと據二一本一改〉しに(○○)せじ、すまひのせち、九日のせちの留らんが、くちおしきにとおほせられけれど、九月にうせさせ給ひて、九日のせちは、それようとまりたる也、
p.0666 西行法師當時より釋迦如來御入滅の日、終をとらんことをねがひて、よみ侍ける、
ねがはくははなのもとにて春しなんその二月のもち月のころ、かくよみてつゐに、建久九年二月十五日に往生をとげてけり、
p.0666 四季はなをさだまれるついであり、死期はついでをまたず、死は前よりしもきたらず、かねてうしろにせまれり、人皆死あることをしりて、まつことしかも急ならざるに、おぼえずして來り、沖のひかたはるかなれども、礒より鹽のみつるがごとし、〈○中略〉
人あまた有ける中にて、あるもの、ますほのすゝき、まそほのすゝきなどいふ事あり、わたのべの聖、此ことをつたへしりたりとかたりけるを、登蓮法師、其座に侍りけるがきゝて、雨のふりけるに、みのかさやある、かし給へ、彼薄のことならひに、わたのべのひじりのがり、尋まからんといひけるを、あまりに物さはがし雨やみてこそと、人のいひければ、無下の事をも仰らるゝ物かな人の命は、雨のはれまをも、まつものかは、我もしに、ひじりもうせなば、たづねきゝてんやとて、はしり出て、ゆきつゝ、ならひ侍りにけりと、申傳たるこそ、ゆゝしく有がたうおぼゆれ、
p.0666 しにみづ(○○○○) 死水の義也、善見律有部律等に、飮二苣藤水一而待レ死と見えたり、
p.0666 壽命
p.0666 ことぶき 壽をよめり、言祝(ホキ)の義也、〈○中略〉祝壽の義なれば、壽命にしかよむは謬也、
p.0666 知足院殿〈○藤原忠實〉令レ申二鳥羽院一給云、思二食御壽命(○○)事一者、毎月朔日可レ有二御精進一、是一條左大臣〈○源雅信〉説也云々、後日或人此事相二叶本説一歟、朔日奏二吉事一不レ奏二凶事一由、見二太政官式一、加之殷周之禮、祭レ神之法、以二月朔一爲レ最云云、
p.0666 あだし野の露きゆる時なく、鳥部山のけふり立さらでのみ、住はつるならひならば、い かに物のあはれもなからん、世は定なきこそいみじけれ、命ある物を見るに、人ばかりひさしきはなし、かげろふの夕をまち、夏の蟬の春秋をしらぬもあるぞかし、つく〴〵と一年をくらす程だにも、こよなうのどけしや、あかずおしと思はゞ、千とせを過すとも、一夜の夢のこゝちこそせめ、すみはてぬ世に、見にくき姿を、まちえて何かはせん、命ながければ辱おほし、ながくとも、四十にたらぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ、其ほどすぎぬれば、形をはづる心もなく、人にいでまじらはんことを思ひ、夕の日に子孫を愛して、さかゆく末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世をむさぼる心のみふかく、物のあはれもしらずなり行なんあさましき、
p.0667 石田三成生捕ト成テ京都ニ於テ誅セラレシ時、其途中ニテ湯ヲ乞シニ、折節其邊ニ無リシカバ、警固セシモノ、湯ハ只今求メ難シ、咽乾カバ爰ニアマ干ノ柿ヲ持合セタレバ、此ヲ喰レヨト云、三成聞テ、夫ハ痰ノ毒ナリ、食スマジト云ニ、聞ク人大ニ笑ヒテ、只今首ヲハネラルル人ノ、毒忌スルコソオカシケレト云シヲ、三成聞テ、汝等如キ者ノ心ニハ尤也、大義ヲ思フ者ハ、假令首ヲ刎ラルヽ期迄モ、命ヲ大切ニシテ、何卒本意ヲ達セント思フ故成シ由申シキ、
p.0667 定命(メイ)
p.0667 四十一年二月、譽田天皇〈○應神〉崩、時太子菟道稚郎子讓二位于大鷦鷯尊一〈○仁德〉未レ卽二帝位一、〈○中略〉爰皇位空之、旣經二三載一、〈○中略〉大鷦鷯尊聞二太子薨一、以驚之從二難波一馳之、到二菟道宮一、〈○中略〉太子啓二兄王一曰、天命(イノチノカギリ/○○)也誰留焉、〈○下略〉
p.0667 延曆二十四年八月己未、常陸守從四位下紀朝臣直人卒、〈○中略〉爲レ人温潤、〈○中略〉終以二天(○)命一卒(○)、時(○)五十九、
p.0667 康治三年〈○天養元年〉三月十七日戊辰、大夫史政重宿禰卒、行年五十有二、忠直兼備、天命不レ長(○○○○)、伯夷以レ仁飢之類是也、識者以爲、近者大變頻見、政重夭亡之兆矣、政重卽世、官中可二衰凌一之故也、
p.0668 失歸(イキトヲシ)〈五雜俎、人壽不レ過二百歲一、數之終也、故過二百二十一不レ死謂二之失歸之妖一、〉
p.0668 一百二十年ノ壽命ナド祝言ニモイフハサルベキユヘアルカ如何
釋迦如來ノ出世ハ、人壽百歲ノ少出多減ノトキ也、百歲ナルモノハスクナク、百ニ不滿ノモノハオホシ、況ヤ今ノ世ニハ勿論歟、但養生經、人生一百二十年(○○○○○○○)、中壽百年(○○○○)、下壽八十年(○○○○○)而竟、不レ然者皆夭耳、又同經ニ老子曰、人生大期以二百二十年一爲レ限、節レ度護レ之、可レ主二千歲一ト云ヘリ、此等ノ心ニテ云フ歟、莊子曰、盜跖謂二孔子一曰、人上壽百歲(○○○○)、中壽八十云々、
p.0668 夫人間ノ壽命ヲカゾフレバ、イマノトキノ定命(○○)ハ五十六歲(○○○○)ナリ、シカルニ當時ニヲヒテ、年五十六マデイキノビタラン人ハ、マコトニモテ、イカメシキコトナルべシ、
p.0668 信玄公間召、〈○中略〉人間六十二年(○○○○○○)の、身をたもちかね、さまをかへ、色をかへ、心をぬくは盜人也、〈○下略〉
p.0668 鳴海桶狹聞合戰事附義元討死事
鷲津ノ城ヨリ注進アリ、敵只今鷲津丸根兩城へ人數ヲ取掛候ト、追々申來ル、信長少モ騷ギ不レ給、敦盛ノ舞ノ、人間五十年(○○○○○)、外典ノ内ヲクラブレバ、夢幻ノ如クナリ、一度生ヲ受ケ、滅セヌ者ノ有ベキ歟ト云所ヲ、繰返シ舞セ給フテ、〈○下略〉
p.0668 夀壽〈俗今、 字、イノチ、イノチナカシ(○○○○○○)、コトフキ、〉
p.0668 ながいき(○○○○) 長生也、長壽をいふ、或は頤を譯す、
p.0668 夢窻國師の書たるものに、人は長生せんとおもはゞ嘘をいふべからず、嘘は心をつかひて少しのことにも心氣を勞せり、人は心氣だに勞せざれば、命長きことうたがふべからずとあり、鐵枵仙人の賛に、仙人は不養生せず、腹立ず、物ほしがらず、それでなが生とあり、
p.0668 或人ノ曰、昔ノ人ハ生來强クシテ長命也、今ノ人ハ生來弱クシテ短命也ト云、石谷土 入傍ニ在テ申ルヽ、イヤ左樣ニハ有ルベカラズ、昔モ弱キ人ハ先キへ死シ、强キ人ハ殘レリ、今モ弱キ人ハ先キへ死シ、强キ人殘ルベシ、サレバ後世ノ人ハ、又今ノ人ヲ昔ノ人トシテ、强クシテ長命也トイハン、人生ニ於テ何ゾ今昔ノ變り有ンヤ、旣ニ聖人モ七十古來稀レ也ト云給ヘリ、人命ノ長短ハ、古今同ジカルベシトイヘリ、
p.0669 大僧正天海、年百四十、乃言恬淡緩慢、コレ吾延壽ノ法ナリト、余〈○藤井臧〉不レ信レ之、壽夭是命ナリ、恬淡無欲ナルハ、人ト艸木ト孰カ異、艸木壽歲ヲ不レ踰アリ、人百歲ニ至テモ且世ニ處ヲ見、緩緩慢々地過來テ、夭ナルアリ、急々遽々裏々過去テ壽アリ、或ハ日々ニ意ヲ用テ、老年ニ猶健ニ、或ハ心中ニ事寡シテ、少壯ヨリモ病ノ多シテ怯弱ナルアリ、皆此命ナリ、
p.0669 江戸住居の者に、遠國出生のものと、江戸出生の者と夫妻になれる者あり、江戸の者は先に死し、遠國のものは後に死る多しといへり、さもあらんか、江戸出生は嬰兒より厚味を喰ふが故に、腸胃も虚弱にして元氣充實ならざれば、短壽にして長くたもちがたしと思はるなり、
p.0669 壽夭
予〈○橘南谿〉諸國をめぐり試るに、山中の人は長命なり、海邊の人は短命なり、京都の人は癰疔の如き腫物類は甚稀なり、長崎には甚多くして、京都の三增倍五增倍ともいふべし、其由來を考ふるに、食物の事にあり、山中の人は魚肉なければ、常に芋大根の類のみを食す、もし年始節句其外祝ひ日といへども、富る者も纔に鹽肴乾物には不レ過、其上に高山深谷に登り下りて耕作に身を勞し、纔に麥飯に饑をしのぐ、麁食にして身を動く故に長命にて無病なり、海邊の人は魚肉に飽滿て、飯のかはりにも、魚を食し、船の出入有りて諸國の運漕よろしければ、飯は其米自由なるゆへに、貧しき者もついに麥飯などは食せず、其上に山坂の働の苦勞は無く、船にて往來やすらかにして、魚鹽の利ゆたかなれば、自然と身も安くして美しよくにくらす故、病身にして短命なり、猶又 山中は人の往來不自由にして、淋敷質朴なれば、賣女遊里も無く、濕毒傳染の憂もなし、海邊は何方にても、諸國の通路よければ、賑に華麗にて、遊女あらざる所もなく、人ことに濕毒をうつり、且又鹽風に濕氣を受て内外より病を作り養ひ、心氣を勞し腎をつからし、いかなる壯實の生れ付といへども、短命病身ならざる事あたはず、是山中と海邊の壽夭の違ひの根本なり、〈○下略〉
p.0670 壽夭の天命いかにともすべからねども、あるひは善により不善によりて、延促あるべきことも、またたがはぬことなるべし、袁了凡の陰隲錄にも、此旨をねもごろに示さる、こゝに一話有、畑鶴山一とせ津國郡山の近邑宿庄といふにあそびて、その豪農某にあひたるに、其面左方へゆがみて、又あるまじき象なりしに、其人もあやしく思はんと心得てや、吾面につきて物がたり有とて語りしは、おのれ十二三年の年父京へつれ行て、時に名ある相人郭塞翁に見せしめたり、其時は人なみ〳〵の面也き、塞翁見て此兒の壽十九歲に限るべしといふ、父大に歎きて遁るべき法もあらんやととふ、翁しひておこなはゞなきにもあらじなれど、得行はじとこたふ、父たとひ家を傾るほどの金錢を參らすもいとはじ、唯此延壽の法を敎へ給はれと乞しに、翁勃然として吾は金錢を貪るものとやおもふ、さるこゝろにては、いよ〳〵敎ふとも行はじとて、ふたたびものいはず、父旅宿に歸りても、唯此ことをのみうれへて、さきの失言を謝し、再三翁に乞たれば、翁さらば敎へん、他のことにあらず、きく所そこの家村中にゐて他の嗜好なく、富ていとまあるまゝに、漁獵をもてあそびとす、是夭死の所以也、若以後かたく殺生を愼まば、あるひは壽限を延べし、此外に術なしといへり、是よりふつに殺生を止めしが、おのれ十七といふ年、父は身まかりぬ、我先立て汝が死をみざることのうれしきとなん申き、さて十九になりたる年、一夜頭割がごとく痛みて苦しきこといふ計なし、時に彼塞翁が言を思ひ出て、今夜身まかるべしと決せしが、夜の明行に隨ひ漸々に痛かろみて、朝になりて止みしかば、閨を出しに、家の内の者どもか ほを見てあやしみ笑ふ、おどろきて鏡をとりて見ればかくのごとし、是死る代りなりと悟りて醫療をくはへず、今五十三歲までながらへたりと語るに、さては今も堅く殺生をつゝしみ給ふらんといへば、其事に侍ふ、いつともなくゆるびて、此近き年比は、また折々漁獵するは、他に慰むことなければ也といふに、そはあしきことなり、さばかりの現益を見、父も亦いましめ給へるものをといさめて、旅舍へ歸りしが、あやしきことは其夜此男頓死せり、若し吾言をげにもと罪に伏したる所にて、天刑を示し給へるか、官の罪人を刑せしめ給ふも、罪に伏して行るゝ也などかたらる、彼塞翁が神相は予が相識も彼是試みて語れり、中には無病の人を見て、此月の中を過ず身まからんといひて當れるもありき、右の殺生によりて命短しと知ぬるも奇也、顏淵の短命いかにともすべからずといへども、先善を行ひ不善をとゞめて後こそ、實に修短の命には委ぬべけれ、
p.0671 士農工商ともに身上を稼ぐ者は、第一養生をして長命を本とすべし、短命にては何程の功も立がたし、昔道三といへる名醫、養生は有ものとて、松虫を七年飼おきて人に見せられしとぞ、又人は無事なる時を悦ぶべし、一生の浮沈變に從ひいつを知らず難儀に及ぶ、是世界の常なり、
p.0671 一時、天皇爲レ將二豐樂一而、幸二行日女島一之時、於二其島一雁生レ卵、爾召二建内宿禰命一、以レ歌問二雁生レ卵之狀一、其歌曰、多麻岐波流(タマキハル)、宇知能阿曾(ウチノアソ)、那許曾波(ナコソハ)、余能那賀比登(ヨノナガヒト)、蘇良美都(ソラミツ)、夜麻登能久邇爾(ヤマトノクニヽ)、加里古牟登(カリコム卜)、岐久夜(キクヤ)、於レ是建内宿禰、以二歌語曰、多迦比迦流(タカヒカル)、比能美古(ヒノミコ)、宇倍志許曾(ウベシコソ)、斗比多麻閉(トヒタマへ)、麻許曾邇(マコソニ)、斗比多麻閉(トヒタマへ)、阿禮許曾波(アレコソハ)、余能那賀比登(ヨノナガヒト)、蘇良美都(ソラミツ)、夜麻登能久邇爾(ヤマトノクニヽ)、加理古牟登(カリコムト)、伊麻陀岐加受(イマダキカズ)、
p.0671 大臣 武内宿禰〈五十年三月、有下雁産二茨田堤一、以レ歌問答之事上、武内宿禰行事絶二筆於此一、薨年未レ詳、〉〈在官二百四十四年〉〈春秋二百九十五年、但薨所幷日時人不レ知レ之云〉
〈云、或云、仁德天皇五十五年丁卯薨、但年未レ詳、〉
p.0672 五十五年と申しに、武内の大臣うせにき、二百八十にぞなり給ひし、六代のみかどの御うしろみをして、大臣の位にて、二百四十四年ぞおはせし、
p.0672 五十五年、大臣武内宿禰春秋二百八十二歲薨、歴二六代朝二百卌四年一也、
p.0672 七十八年庚寅、大臣武内宿禰薨、年未レ詳、一説云、景行天皇九年己亥生、自レ爾以降至二于今歲一、經二六帝一〈景、行成務、仲哀、神功、應神、仁德、〉曆年三百一十二歲矣、紀朝臣氏久云、武内宿禰大宦者、六代帝爲二大臣一也、遂不レ知二其死所一者、
p.0672 日本國
應神天皇〈○中略〉有二大臣一號二紀武内一、年三百七歲、
p.0672 日本國紀〈○中略〉
仁德天皇、〈○中略〉五十五年丁卯、大臣武内死、年三百四十、歷二任六朝一、
p.0672 尾張濱主
五雜俎に、長壽人を列載せし其最第一人は、日本紀武内三百七歲也、さしも廣き唐にても此人より上なるは多くなし、さて此を日本紀にと讀みて、東鑑の唐土へ渡れると同じやうに、此書紀もはやく彼國へ渡りしとおもふ人あれど、此は宋史に日本の大臣紀の武内とあるを、謝氏の引けるなれば、さは讀まじき事也、此武内内大臣は紀伊國に生れ給ひしから、子孫紀を姓とし、大和の内の大野に住まれしから、内大臣と稱せしならん、仁德天皇の御末まで長命し、六代の天皇につかへられたり、扨壽は公卿補任には三百十二歲、愚管抄には三百八拾歲、或は東國よりの歸るさ、甲斐の國の山へ隱れられしとも、因幡國金龜へかくれられしともありて、さだかにはしられぬよしなり、むかし人の言に、賢相になられずば神仙にならんといひしが、此大臣は二つながら兼られていとめでたし、
p.0673 延曆十六年二月、大安寺沙門行表卒、年一百四十才也、
p.0673 釋行表、和州葛上郡人、爲二近州講師一、嘗受二道 禪師禪要一、付二上足最澄一、延曆十六年化、歲一百四十、
p.0673 承和十二年正月乙卯、是日外從五位下尾張連濱主、於二龍尾道上一舞二和風長壽樂一、觀者以レ千數、初謂、鮐背之老不レ能二起居一、及二于垂レ袖赴一レ曲、宛如二少年一、四座僉曰、近代未レ有二如レ此者一、濱主本是伶人也、時年一百十三、自作二此舞一、上レ表請レ舞二長壽樂一、表中載二和歌一、其詞曰、那那都義乃(ナヽツギノ)〈○謂二稱德、光仁、桓武、平城、嵯峨、淳和、仁明之七代一、〉美與爾萬和倍留(ミヨニマワヘル)、毛毛知萬利(モヽチマリ)、止遠乃於支奈能(トヲノオキナノ)、萬飛多天萬川流(マヒタテマツル)、 丁巳、天皇召二尾張連濱主於淸凉殿前一、令レ舞二長壽樂一、舞畢濱主卽奏二和歌一曰、於岐那度天(オキナトテ)、和飛夜波遠良無(ワビヤハヲラム)、久左母支毛(クサモキモ)、散可由流登岐爾(サカユルトキニ)、伊天氐萬毗天牟(イデヽマヒテム)、天皇賞歎、左右垂レ涙、賜二御衣一襲一令二罷退一、
p.0673 承和十三年正月戊辰、召三外從五位下尾張連濱主於二淸凉殿前一令レ奏レ舞、于レ時年百十四、帝矜二其高年一授二從五位下一、
p.0673 仁明天皇御宇承和十二年正月八日、龍尾道ニシテ、尾張濱主生年百十五歲時、長壽樂ヲ舞タリケルヲ、メデタキタメシニ申傳テ侍ル、
p.0673 和漢樂人の長壽
續日本後紀十五に、尾張連濱主百十三歲にて、長壽樂を舞、和歌を奉りし事見ゆ、寓簡五の卷に、漢孝文時、得二魏文侯樂人竇公一、亦年一百八十餘歲、獻二其樂書一、自言能鼓瑟導二引吾意一とあるは、和漢同日の談といふべし、
p.0673 釋敎待不レ知二何許人一、久居二園城寺一、天安二年、圓珍法師與二新羅山王二神一、相二勝區一到二園城寺一、待見レ珍如二故舊一、時有二檀越大友氏一、謂レ珍曰、待師日者嘗曰、當寺主者巳生焉、有時曰、入唐焉、又曰、來何暮、今朝曰、寺主來也、然則我奉レ待者久矣、乃與レ待以二寺劵一付レ珍、及三三尾神饍二饗新羅神一、待來賀之、然後形 隱不レ見、珍問二新羅神一、老待沒而不レ見何、神曰、彌勒善薩之應化也、今已得レ師、又何存乎、珍還レ寺問二大友氏一、待公本貫何所、生平行業何如、大友氏曰、不レ知二何人一、居二此寺一已百餘歲、平居不レ赴二堂齋一、有レ時往二湖濱一取二魚鱉一、乾串當レ饌、率爲レ常、今聞已隱、痛哉、乃共二大衆一詣二其房一、見二殘乾魚一、皆悉荷藕蓮之類無二他種一、衆皆嘆異、年一百六十二歲、待嘗與二淸水寺行睿居士一善、其來二淸水一著二木屐一款話終レ日云、
p.0674 服藥駐老驗記〈善家異記〉
竹田千繼者、山城國愛宕郡人也、寶龜初、歲十七入二典藥一爲二醫生一、讀二本草經一至二于枸杞駐レ老延レ齡之文一、深以誦憶、將レ試二其徵驗一、乃買二地二段一、多種二此藥一、春夏服二其葉一、秋冬食二其根一、又常煮二莖根一、取レ汁醸レ酒而飮レ之、毎レ有二沐浴一必用二其水一、如レ此七十餘年、未二嘗懈倦一、顏色服〈○服恐强誤、〉壯猶如二少年一、齊衡二年、文德天皇忽患二疲羸一、衆醫供二石決明酒一、時侍臣、或奏下千繼服二枸杞一駐レ老之狀上、天皇大駭、卽時召見、問云、汝生年幾許、千繼奏云、天平寶字九年歲次庚子生、至二今年一九十七、天皇大怪、令二侍臣驗視其形一、鬢髮黑、肌膚肥澤、耳目聰明、齒牙无レ蠹、天皇感服、擢爲二典藥允一、供○供恐便誤卽勅二藥園一多種二 杞一、令二千繼掌一レ事、千繼頗知二文書一、兼堪レ幹レ事、毎レ至二召問一、皆恊二帝念一、時左馬寮官人、有レ罪左降、卽以千繼一兼二左馬寮允一、兼直二藏人所一、千繼朝夕奔劇不レ遑二服餌一、未レ歷二二年一、頭髮盡白、皺面傴腰、歩武之間、扶レ杖纔行、遂以頓死、時年百一歲、余多〈○多恐幼誤〉少聞三先君語二此事一、後問二文德天皇近臣修理大夫藤相公一、所レ語亦同、仍記レ之、
寬平年中、有二外從五位下春海貞吉一、舊是唐儛師也、次爲二雅樂助一、遂預二五品一、屢到二余舍一、展二語中懷一、底裏披露、無レ有レ所レ隱、時余年卌有五、白髮滿レ頭、貞吉深有二助レ憂之色一、語曰、何不レ服二 杞一招二此衰羸一、余答云槆杞駐老之驗、具在二醫方一、然而丘未レ達、不二敢嘗一レ之、乞略陳二其方一、貞吉答云、僕昔者年廿六、大同元年、以二由基所風俗儛勞一、爲二左近衞一、其後依二醫人語一、播二植 杞方一町之地一、無レ有二他種一、水漿食飮、必合二此藥一、盥洗沐浴、常用二其水一、故今年一百十六歲、猶有二少容一、亦説二其養生之法一、事多不レ載、貞吉寬平九年夏、訪二問親知疫病一、遭二染注一俄卒、時年百十九、又致仕大納言藤原多緖服二露蜂房一、兼呑二槐子一、年過二八十一、頭髮無レ白、不レ斷二房室一、寬平 二年薨、時年八十四、近代有二宮内卿十世王一、二品長野親王之男也臨レ老無レ齒、不レ能レ啖二蕗菜一、唯以二漿飲一送二乾石決明屑一、氣色强壯、鬢髮無レ白、延喜十六年夏薨、時年八十五、東宮學士大藏善行、舊是國子進士也、仕歷二顯職一、爵至二四品一、常服二鐘乳丸一、一日一丸、年滿二九十一、猶有二壯容一、耳目聰明、行歩輕健、家蓄二多婦一、不レ斷二房室一、年八十七、生二一男兒一、延喜十七年、以二漢書一授二皇太子一、毎朝侍講、無レ有二休假一、天下莫レ不二歎異一、皆謂二之地仙一焉、
p.0675 周防國基燈聖人誦二法花一語第廿五
今昔、周防ノ國大島ノ郡ニ基燈ト云フ聖人有ケリ、若クシテ法花經ヲ受ケ習テ、日夜ニ讀誦シテ身命ヲ不レ惜ズ、毎日ニ卅餘部ヲ誦スル事懈怠无シ、年百四十餘(○○○○○)ニシテ腰不レ曲ズ、起居輕ク、形貌極テ若クシテ、僅ニ四十計ノ人ノ如シ、眼コ明ニシテ遠キ物ヲ見ルニ障无シ、耳利クシテ遙ノ音ヲ聞クニ滯リ无シ、然レバ世ノ人此ノ聖人ヲ、六根淸淨ヲ得タル聖人也ト云ケリ、亦哀ノ心深クシテ智リ弘シ、草木ニ付テモ此レヲ敬ヒ、何況ヤ生類ヲ見テハ佛ノ如クニ禮拜ス、老ニ臨ムト云ヘドモ、身ニ病无クシテ、只偏ニ生死ノ无常ヲ厭ヒ悲ムデ、法花ヲ讀誦シテ淨土ニ生レム事ヲ願フ、此レヲ思フニ、現世ニ命長クシテ身ニ病无シ、此レ偏ニ法花經ヲ讀誦セル威力ノ致所也、然レバ後生亦淨土ニ生ム事疑无シトナム、語リ傳ヘタルトヤ、
p.0675 釋源算、因州人、〈○中略〉承德三年暮春結二定印一、端坐而逝、經レ日容貌不レ變、其徒閟二全身一、年一百一十七歲、
p.0675 長治二年十二月十一日、今日有二事緣一、常陸守經成朝臣來家中談云、生年八十五、而起居輕利、眼耳分明、近代公卿諸大夫中無二此齡人一、誠天之與レ算也、身無二指病一、餘二八旬一世所二雄稱一也、
p.0675 長承三年十月廿二日丁酉、戌時、小野宮尼公逝去、年九十九、故右大臣實資女、祐家中納言妻也、天下第一長命人也、近日世間咳病事外也、其中老人多死云々、
p.0676 文安六年〈○寶德元年〉七月廿六日、赴二淸水定水菴一點心、曹源和尚先レ予旣來、〈○中略〉菴主曰、近時八百歲老尼自二若州一入洛、洛中爭覩、堅閑二所居門戸一、不レ使二人容易看一、故貴者出二百錢一、賤者出二十錢一、不レ然則不レ得レ入レ門也、曹源曰、昔時靑岩寺側有二七百歲僧一、入レ城乞レ食、所レ謂雖二魚肉一皆掛二于錫頭一、持來食之、一日來二東福寺一、吿二平生來往之輩一曰、某日吾當レ死矣、果如二其言一、人皆異之、
p.0676 武田攻二八木城一附武田出奔幷ニ若狹武田之事
因幡ノ武田山城守ガ父ハ、信賢ノ庶流也ケルガ、聊恨ル事有テ若州ヲ出奔シ、山名但馬守ヲ賴立越ケレバ、山名客人ト號シ、山口ガ向座ヲ宥シテ、賞翫セラレタリケレ共、後ニハ自然ト家ノ子ノ如ニ成テ、左座ハ山口、右座ハ武田トゾ被レ定ケル、彼信賢ハ武事ノ譽レノミニ非、和歌ニ達シ能書ニテモ有ケレバ、其名雲上ニ聞エテ、折節ハ和歌ノ御會ニモ被二召出一、又古今集ヲ始、撰集共書テ可レ奉宣旨度々有ケルトカヤ、年齡モ百三十二(○○○○)マデ長生セラレシトゾ、
p.0676 長壽人姓名
山城國小原百姓
永祿八丑年出生 百八拾四歲 百助
同六亥年出生 百八拾六歲 同人妻
天正三酉年出生 百六拾四歲 同人忰
都合子供拾九人、總親類三百六拾三人、孫五十人、彦三十六人、やしは子十八人、
右之者ども去年公儀御目見被二仰付一候、於二關東一御扶持被二下置一候也、
寶曆六年子八月日
右之者百助畫候福祿壽のかけ物の上に、如レ此かきつけ有レ之、天明六年丙午七月九日、津田四郎左衞門井上久米之助植木甚之助同道にて、池のはた蓮見に參り、池のはたの茶屋にて寫し歸り候、 或云、是恐らくは僞ならんか、時々如レ此の書付ありといふ、
p.0677 老人は江村專齋也、諱宗具業レ醫、初加藤肥牧に事へ、後ち森作牧に事ふ、永祿八年光源院殿〈○足利義輝〉亂の年生れ寬文四年九月沒す、滿百歲也(○○○○)、
p.0677 養心齋長命の事
見しは今、養心齋といひて歲の限りしらぬ老人、當年江戸へ來たりたりしが、三百年以來の時代を見たりといひて、くはしく物語なせり、康安二年二月朔日、惡星出現して、天地變異せし事共多かりし、近江の水海十丈程ひたりけるに、樣々の不思議あり、先白髮明神の前なる沖にまはり、十ひろ計りなる瑠璃の柱立ならべ、五丁ばかりのそり橋水の上に浮たり、水底すみわたりて、竹生島より三の浦の間に龍宮有て、金玉のうてな、七寶莊嚴あきらかにあらはれ、龍神の往來の爲體、手に鏡を取て見るがごとし、心言葉も及ばれず諸人見物せり、我もよく見たりと委しく語る、某聞て其年號を考るに、慶長十九より當年迄は二百五十三年になりぬ、是はふしぎ也、御身何とて長命なるやと問ば、老人答て、我常に心安んずる是養生、白居易が詩に、たゞよく心閑則身もすゞしといへり、夫人間の壽命は天地人の三六を合て、百八十歲のよはひをたもつ事、是さだまれり、然るに身の行ひ道にたがひて後、醫術を盡すといへども、日暮て道をいそぐに異ならず、すべて養生の道といふは、少年より老年に至る迄、おこたることなきを以て聖人の道とせり、故に養生は損せざるを以て延年の術とす、其上身をいとなむ事、第一食物、第二きる物、第三居る所なり、此三ツをつゝしめり、四百四種の病は宿食を根本とし、三途八難のくるしびは、女人を根本とすと、南山大師の遺敎なり、富貴にして苦あり、苦は心の危憂にあり、貧賤にして樂みあり、樂は身の自由にありと、樂天がいひしも誠に妙言なり、心の安き程のたのしみたえてなし、彭祖がいさめに服藥千てうより、一夜の獨宿にはしかじと云々、人間は衣食居醫の四ツを用ひ、精汁を深くつゝ しむに至りては、齡三百年いくべき事と、養生論に委しく見へたり、上古の人は無爲無事にして、天地陰陽の道に叶ひ、身をたもつて命を盡し給へり、文選に身をおくに至りては理を失ふ、是を微にうしなふ、微を積て損をなし、損を積て衰をなす、衰より白を得、白より老を得、老より終りを得、悶として端なきが如しといへり、身の養生に至りては、其理を失ふ事、わずかにふしぎなる所より始て、其始終をしることなき故に、身おとろふる、すくやかなる時くすさゞれは病時悔る也、世の人のふるまひ平生は油斷有て、已に存命不定となり、俄に良醫を服すといへども治る事かたし、渴に臨んで井をほる事たゞに力を費す、あへて雪髮銀絲をまつ事なかれと、古人もいへり、かくよき道ををしゆるといへ共、我身に保はまれ也、此翁若きょり今に至るまで養生怠らず、故に二百餘歲を保ち來ぬ、何事も前方より用心なすべき事也と申されし、
p.0678 一金岡が繪、道風が書、傳へて寶とす、民安が散樂、行景が鞠今見る事なし、晴明がト、康賴が醫、其術家に傳ふ、されば能者の器物は形を傳へ、術者の事業は書に殘りて、千歲朽せしなくもありや、其拙を傳ふるは、陸賈が武勇其雄弁に不レ及、東坡が唱曲蒦その文竟に加んや、石勒が棊、和靖が碁等、其拙をいへども其名をくだすべきかは、我人能もなく、又拙もなく、碌々として禽獸と群を倶にし、草木と同じく朽果なんは口惜しからずや、但し名を求るは又愚なるや、今難波に一井洞齋とて儒士あり、享保八癸卯年一百十六歲也、いと健かにして、住吉邊へは朝の間に往來す、されど强放にして世と戻り、人ごとにうとみ侍り、故其博學名もなく、不好の事のみ數へられ侍るとなん、都て長壽の者を見るに、殘忍の性質强暴の云爲ある人多し、是血氣の衰へなくして、命根長く侍るにや、慈忍柔和して好人と呼るゝ人短命多し、
p.0678 浪花堂島彌左衞門町、醫師杉本一齋翁は、去ぬる天保十二年辛丑、百廿七歲にして至て壯健也、友人と談話の形勢頗る元氣よし、最記臆强く眼齒ともによく、手足とも達者にて、日々 醫療に出るに、常人の六十歲ぐらゐのごとし、備前國船坂の産のよし、名を義玄といふ、其妻四十歲藤江といふ、娘辰、十七歲、男子三藏、十五歲也、義玄翁正德五年乙未七月十五日の誕生といふ、或人の携へたる扇に、此翁の手跡を見るに、吾是醉中翁と書たり書風筆勢更に老筆とは見えず、去る天保十一年子の春、公へ召出され、御扶持を賜るよし聞ゆ、
奧州白石近在の農夫段平といへる老人、文政十二年己丑の春六百七十二歲にして、尼ケ崎廣德寺といへる禪刹は、俗緣の由にて彼寺に暫く滯留し、且京攝の名所舊跡と見物せんとて、浪花に來り、博勞町一丁目大喜といへる旅舍に止宿せるよし傳聞り、予〈○曉晴翁〉直に面會せざれば事實詳ならず、
p.0679 短命(タンメイ/○○)
p.0679 (○)夭〈屈也、拔也、析也、盡也、音殀、通正、和エウ、〉
p.0679 夭〈上通下正〉
p.0679 夭亡(○○) 夭死(○○)
p.0679 中夭(チウヨウ)
p.0679 少壯而死曰レ夭、如二取レ物中夭折一也、
p.0679 殤(○)〈音傷、 未二成人一死シス、〉
p.0679 未二二十一而死曰レ殤、殤傷也、可二哀傷一也、
p.0679 凡無服之殤〈謂未二成人一死曰レ殤也〉生三月至二七歲一〈○下略〉
p.0679 早世(サウセイ/○○)〈早死〉
p.0679 一夭死トハ非分ニ死スルヲ云フ歟
ツネニハサオモヘリ、但年未二三十一而死曰レ夭、呂向云、二十以下死者曰レ殤、ト釋セル事モアリ、コレニ テ思フニハ、三十ヨリノチニ死ムヲバ、夭死トハ云フマジキ歟ト覺ユル也、或ハ二十ニヲヨバザルヲバ短ト云フ、六十ニヲヨバザルヲバ折ト云フ、尚書ニ見エタリ、
p.0680 次生二素戔鳴尊一、〈一書云、神素戔鳴尊、速素戔鳴尊、〉此神有二勇悍以安忍一、且常以二哭泣一爲レ行、故令二國内人民一、多以夭折(アカラサマニス)、
p.0680 一書曰、〈○中略〉皇孫因謂二大山祇神一曰、吾見二汝之女子一、欲二以爲一レ妻、於レ是大山祇神乃使二二女一、持二百机飮食一奉進、時皇孫謂姉爲レ醜不レ御而罷、妹有二國色一引而幸之、則一夜有レ身、故磐長姫大慙而詛之曰、假使天孫不レ斥レ妾而御者、生兒永壽、有下如二磐石一之常存上、今旣不レ然、唯弟獨見御、故其生兒必如二木華一之移落、一云、磐長姫耻恨而唾、泣之曰、顯見蒼生者、如二木華一之俄遷轉、當二衰去一矣、此世人短折之(イノチミジカキ)緣也、
p.0680 天平七年、是歲年頗不レ稔、自レ夏至レ冬、天下患二豌豆瘡一〈俗曰裳瘡〉夭死者多、
p.0680 一條攝政〈○藤原伊尹〉の御すゑあやしういのちみじかく(○○○○○○○)おはするに、この殿〈○藤原行成〉は、五十にあまり給へりかし、されどこの殿は御心のかぎりなくめでたく、おはしつればにや、今までおはしましつ、〈○下略〉
p.0680 康治二年六月廿四日己酉、雅仁親王夫人薨、産後疱瘡、余〈○藤原賴長〉哀傷、以二不幸短命一也、
久安三年二月十三日丁未、今日入道左大臣〈○源有仁〉薨、年四十五、〈明日源有忠來訃之〉命之矣、此人而不二長壽(○○○)一焉、大臣平生語曰、吾求二長壽一、故常念二延命一、誦二壽命經一、然猶不レ至二五十一而薨、命有レ定、今不レ得二增減一之旨、見二尚書、禮記正義一、古人之言實矣、
p.0680 建久十年〈○正治元年〉六月卅日庚寅、午剋姫君〈三幡〉遷化、〈御年十四〉尼御臺所〈○北條政子〉御歎息、諸人傷嗟、不レ遑レ記、 八月十九日己卯、尼御臺所俄以渡二御于盛長宅一、以二行光一爲二御使一、被レ申二羽林一〈○源賴家〉云、幕下〈○源賴朝〉薨御之後、不レ歷二幾程一、姫君又早世(○○)、悲歎非二一人一之處、今被レ好二鬪戰一、是亂世之源也、〈○下略〉
p.0680 元就毛利家督事 大永三年七月十六日、幸松丸早世シ給ケリ、
p.0681 薩摩守忠吉卿ニハ、初メノ名ヲ下野殿ト申セリ、彌腫物多ク出來候由仰ランシニ、權現樣然ラバ領地ノ儀ニ、且ハ美濃カ尾張ト改メスベクト、御意有シニ、美濃尾張トハ死スル事ナレバ、彌不吉迚嫌ハレ候、權現樣御聞ナサレ、扨々六ケ敷事ヲ申者也、サラバ心任セニ付候得ト御意ニテ、薩摩守ト付ラレ候由、果シテ御短命ナリシ、
p.0681 年齡(レイ)
p.0681 年齡(ヨワイ)
p.0681 齒〈ヨハヒ〉 齡〈同〉
p.0681 凡〈○中略〉位同者、〈○中略〉六位以下以レ齒、〈謂齒齡也〉
p.0681 四十一年〈○應神〉二月、大王〈○仁德〉者風姿岐嶷、仁孝遠聆、以齒(ミヨハヒ)且長、足レ爲二天下之君一、〈○下略〉
p.0681 女人濫嫁飢二子乳一故得二現報一緣第十六
横江臣成負女越前國加賀郡人也、天骨婬泆、濫嫁爲レ宗、未レ盡二丁齡一死、〈○中略〉
丁〈左カリナリシ○中略〉 齡〈與ハヒ〉
p.0681 得二浦島子一 少納言兼侍從從五位下大江朝臣朝望
宇羅志麻能、許々呂兒加奈布、都摩遠衣天、加米野世波比(○○○)遠、東裳兒曾部氣留、
p.0681 そめどのゝきさきのおまへに、花がめに櫻の花をさゝせたまへるをみてよめる、
さきのおほきおほいまうちきみ〈○藤原良房〉
年ふればよはひはおいぬしかはあれど花をしみれば物思ひもなし
p.0681 齡(ヨハイ) 世のあいだ也、あとはと通ず、
p.0681 よはひ 竟宴歌に見ゆ、齡をよめり、世延(ハヒ)の義なるべし、
p.0681 としは(○○○) 俗にとしはもゆかぬといふは、年齒の義、齡をいふなるべし、 としばい(○○○○) 俗語也、行年をいへば、年齡の排行なるべし、
p.0682 年强( ツヨ/○○) 年弱( ヨハ/○○)
p.0682 年强 年弱、春夏に生るゝを年强といひ、秋冬に生るゝを年弱と云、鷹筑波、數の子は皆年づよか今朝の春、 小町踊〈春上〉けふさくは年づよなれや花の兄〈望一〉
p.0682 七〈知母、竹馬、〉 八〈知父〉 九〈知禮〉 十〈摠丱、入學、初學、〉 廿〈摠角、建業、若冠、〉 卅〈成立、達業、壯、有室、〉 卌〈不惑、絶惑、强仕、〉
五十〈知命、練事、艾服、養郷、始衰、杖家、〉 六十〈耳順、丁年、辨風霜、養國、歲制、非レ肉不レ飽、杖郷、〉 七十〈懸車、致仕、徒心、養學、時制、非レ帛不レ煖、杖國、不レ踰レ矩、〉 八十〈鳩毛、耆老、耄及拜二君命一、月制、非レ人不レ煖、杖朝、〉 九十〈鳩杖、靜居、老耄、使二人受一、雖レ得レ人不レ煖、〉
卅爲レ始〈事二父母一〉 卌以往爲レ中〈仕二官政一〉 七十爲レ終〈致仕〉 十有五〈志學〉
p.0682 つゞ 俗に十歲廿歲をつゞはたちといへり、文選に十をつゞと訓ず、騎射にも五度の十(ヅゞ)といふ事見えたり、とをの轉音也、姓には廿木と書て、つゞきとよめり、
p.0682 はたち(○○○) 廿歲をいふは、はたはふたと通ず、ちはとし也、
p.0682 保延二年十一月六日庚午、入レ夜孝能申云、〈基俊之孫、能仲之子也、〉從下五位之勞廿八年、齡過二强仕(○○)一、位耻二蓬衝一、〈○下略〉
p.0682 是時官軍中有二散位佐伯經範者一、相模國人也、將軍〈○源賴義〉厚遇レ之、軍敗之時、圍已解、纔出不レ知二將軍處一、〈○中略〉經範曰、我事二將軍一已經二卅年一、老僕年已及二耳順(○○)一、將軍齒亦逼二懸車(○○)一、今當一、覆滅之時一、何不レ同レ命乎、地下相從是吾志、還入二賊圍中一、
p.0682 米年(○○)〈曰二八十八一止也〉
p.0682 うへのおとゞみ給て、御返しかしこまりてうけたまはりぬ、こゝにさぶらふことは、なかたゞのあそむの、又なき事におもひ給て侍めりしかばなん、なにのかずなるべき身には侍らねど、さうやくをも、もろともにと思給へてなん、さま〴〵にとおほせごと侍は、なに事 にかは、よはひくらべ(○○○○○○)するかほにや、まいり侍らぬことは、かゝるさとずみにも、うゐ〳〵しき心ちし侍れば、つゝましくおもひ給へられてなん、いとかしこきおほせごとをぞ、返々聞えさせ侍るときこえ給、〈○下略〉
V 枕草子
p.0683 たゞすぎにすぐる物
人のよはひ