http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0641 安藝國ハ、アキノクニト云フ、山陽道ニ在リ、東ハ備後、西ハ周防、北ハ石見ニ接シ、南ハ海ニ面ス、東西凡ソ二十里、南北凡ソ十六里、此國ハ古ヘ國府ヲ安藝郡ニ置キ、沼田(ヌタ)、賀茂(カモ)、安藝(アキ)、佐伯(サヘキ)、山縣(ヤマガタ)、高宮(タカミヤ)、高田(タカタ)、沙田(マスタ)ノ八郡ヲ管シ、延喜ノ制、上國ニ列ス、後世高宮郡ヲ高田郡ニ併セ、沙田郡ヲ豐田郡ト改メ、更ニ沼田郡ヲ廢シテ其地ヲ合ス、安藝郡ハ、始メ分チテ安南、安北ノ二郡ト爲シヽガ、後安南郡ヲ安藝郡トシ、安北郡ヲ高宮郡トス、佐伯郡モ亦佐東、佐西ノ二郡ト爲シヽガ後、佐西郡ヲ佐伯郡ト爲シ、佐東郡ヲ沼田郡ト爲ス、而シテ高宮、沼田ノ二郡ハ、並ニ古名ヲ用ヰタレドモ、固ヨリ其舊地ニハ非ズ、明治維新ノ後、沼田、高田二郡ヲ合セテ、安佐郡ト爲シ、新ニ廣島、呉ノ二市ヲ設ケ、廣島縣ヲシテ之ヲ治セシム、

名稱

〔倭名類聚抄〕

〈五國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0641 安藝

〔運歩色葉集〕

〈阿〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0641 安藝〈六郡〉

〔新撰類聚往來〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0641 國名〈◯中略〉安藝〈藝州〉

〔日本風土記〕

〈一寄語島名〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0641 安藝〈阿計〉

〔古事記傳〕

〈十八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0641 阿岐國は、山陽道なる安藝國なり、名ノ義未ダ思ヒ得ず、〈山城國相樂郡の和伎(ワギ)は、崇神紀に依ば我君(ワギ)の義(コヽロ)なり、是に准へば、此國名も若くは我君(アギ)歟、さる由縁(ヨシ)ありてや名けヽむ、〉安藝郡安藝郷もあれば、其より出たる國ノ名なるべし、〈三代實録十四に、此ノ國に安藝都彦〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0642 〈神と云も見えたり、〉岐ノ字濁リて讀ムべし、藝も濁ル音に用(ツカ)ふ字なり、

〔倭訓栞〕

〈前編二阿〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0642 あき 秋をいふ、飽の義なり、百穀已に成て、萬民飽足の時なればしかいふめり、此國を千秋長五百秋長〈◯長字恐衍〉之瑞穗國と名づけたまひしも其義成べし、安藝の國も同義なるにや、

〔諸國名義考〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0642 安藝 和名抄に、安藝〈國府在安藝郡〉名義は、鰓より負し名なるべし、同抄に、鰓〈阿木止〉魚頰也とあり、日本書紀、仲哀天皇二年夏六月、皇后從角鹿發而行之到停田門、食於船上、時海鯽魚多聚船傍、皇后以酒灑鯽魚、鯽魚即酔而浮之、時海人多獲其魚、而歡曰、聖王所賞之魚焉、故其處之魚、至于六月、常傾浮如酔、其是之縁也とあり、〈◯中略〉さて此國に、安藝郡安藝郷あり、三代實録には、安藝津彦神といふもあり、こも伊勢津彦伊賀津姫吉備津彦などの如く、此國に坐し故に然負せしならむ、

位置

〔地勢提要〕

〈乾〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0642 各國經緯度〈附里程〉 安藝廣島、〈堺町〉極高三十四度二十四分、經度西三度一十七分、從東都〈同上◯東海道西國海道、自川南村福山街道、〉二百三十里一十二町一十四間半、

〔日本經緯度實測〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0642 北極出地 安藝 廣島 三四度二四分〇〇秒 嚴島 三四度一八分〇〇秒〈◯中略〉 東西里差 山城 京 〇度〇〇分〇〇秒〈◯中略〉 安藝 廣島 西三度一五分〇〇秒

疆域

〔藝備國郡志〕

〈上安藝形勝〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0642 西隣周防、北環出雲石見、東接伯耆備後南連伊豫、西北枕山嶽之險、東南帶江海之阻

〔藝藩通志〕

〈一安藝〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0642 疆域形勢 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0643 安藝國は〈◯中略〉四隣、東は備後、西は周防、北は石見、南は海を隔てヽ伊豫に對す、東西廣凡十七里、東は高田郡高田原村より、西は佐伯郡中道村に至る、南北袤凡十五里餘、南は賀茂郡廣村海邊より北は山縣郡大塚村に至る、

〔續日本紀〕

〈十一聖武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0643 天平六年九月甲戍、制、安藝周防二國、以大竹河國堺也、

〔日本地誌提要〕

〈五十六安藝〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0643 疆域 東ハ備後、西ハ周防、北ハ石見、南ハ海ニ至ル、東西凡貳拾里、南北凡壹拾六里、

〔鹿苑院殿嚴島詣記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0643 それよりおかだとかや云はおほたき川とて、安藝と周防のさかひの川の末の海づら過て、周防の國岩國ゆふむろ岡などいふ所々きたにみゆ、

〔西遊雜記〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0643 安藝周防の界ひは小瀬川といふ川を以て堺とせり、此川より長門赤間ケ關〈下の關共〉迄三十六里といふ、

島嶼

〔日本實測録〕

〈九島嶼〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0643 安藝國豐田郡 實測 生口(イクチ)島、周廻六里三十四町五十五間、御寺浦、三十四度一十七分、瀬戸田浦、三十四度一十八分、 大崎上島、周廻一十二里一十一町七間、東野浦、三十四度一十六分半、 大崎下島、周廻五里二十七町四十九間、御手洗浦、三十四度一十分半、 宿根島、周廻四町五間、 小佐木島、周廻三十二町二十一間、 佐木島、周廻三里二十一町四十九間、 下小佐木島、〈從東岬西岬〉三町、 割石島、周廻二十一町五十四間、 高根島、周廻二里二十六町二十四間、 木子島、周廻三町一十二間、 大久野島、周廻一里二町一十七間、 小久野島、周廻一十六町二間、 棚林島、周廻六町三十間、 阿波島、周廻一里九町六間、 左組島、周廻二里二町三間、 大毎島、周廻一十四町一十六間、 小毎島、周廻七町三十間、 生野島、周廻三里一十町四間、 大桐島、周廻一十一町五十九間、 柏島、周廻七町三十間、 鍋島、周廻二町四十七間、 船島、周廻二十三町一十五間、 木臼島、周廻九町三十七間、 臼島、周廻一里六町二十八間、 美島、周廻六町五十間、 折目島、周廻一十三

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0644 町一十八間、 箱島周廻六町五十七間、 向山島、周廻一里二十八町二十六間、 上島、周廻三町一十四間、 雞島、周廻一町四十六間、 女子島、周廻一十四町二十五間、 長島、周廻一里二十八町八間、 小アイカ島、周廻四町三間、 大アイカ島、周廻一十三町一十一間、 ツクカ島、周廻一十三町三十間、 ヘラ島、周廻一十一町二十九間、 中ノ島、周廻一十三町二間、 小島、周廻九町六間、 三日田島、周廻一里一十三町二間、 黒島、周廻一十三町三十五間、 豐島、周廻二里一十三町七間、 ヲクヒ島、周廻一里六町五十五間、 齋宮島、周廻一里六町三十四間、遠測 小島〈大田浦村〉 小島〈小田浦村〉 牛ケ碆 唐島 小島〈阿波島〉 唐船島 大磯 九島 朧島 鼻クリ島 鍋島 鴨瀬 加茂郡 實測 吉良崎島、周廻一十一町二十八間、 藍島、周廻一十二町四十七間、 龍王島、周廻一十二町四十五間、 大芝島、周廻一里一十九町二十三間、 小芝島、周廻八町二十四間、 馬島、周廻二十六町五十九間、 小熊島、周廻一十六町一十間、 柏島、〈三津口村〉周廻一十五町三十二間、 横島、周廻八町五十九間、 柏島、〈川尻村〉周廻二十四町五十二間、 情島、周廻一里三町四十六間、 小情島、周廻七町五十三間、 遠測 ハリ石瀬 女猫島 安藝郡 實測 蒲刈下島、周廻四里七町三十一間、三之瀬町、三十四度一十二分、〈瀬戸、倉橋、田原、早瀬、渡子、〉島、〈蓋一島、因地方各名、〉周廻二十五里二十五町二間、倉橋島鹿老渡浦、三十四度四分半、 大子島、周廻五町三十六間、 蒲刈上島、周廻七里三十七間、 大松島、周廻三町一十四間、 小松島、周廻二町四十七間、 大黒島、周廻二十八町四十八間、 小黒島、周廻二十三町二十七間、 辨天島、周廻二町一十二間、 鹿島、〈又呼麥島〉周廻二里一十二町二十七間、 羽山島、周廻一十町四十四間、 横島、周廻一里五間、 篠小島、周廻六町二十八間、 黒島、周廻一十八町五十三間、 辰島、周廻七町五十一間、 中ノ島、〈渡子村〉周廻一十二町四十一間、 端島、周廻五町四十九間、 鳥小島、周廻三町二十六間、 中ノ島、〈吉浦〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0645 〈村〉周廻五町五十間、 似島、周廻三里一十六町一十六間、 峠島周廻一十九町四十八間、 金輪島、周廻一里一十一町五十六間、 宇品島、周廻二十七町四十六間、 大カクマ島、周廻六町二間、 遠測 大荷内(ニナイ)島 小荷内(ニナイ)島 馬島 小島〈蒲刈島〉 ヒクベ島 マナイタ石 清盛塚 スヽカ島 小島〈室尾〉 續島 カシノコ島 小島〈大郷〉 鍋小島 ウルメ島 小カクマ島 實測 〈安藝國江田佐伯郡〈東能美西能美〉〉島、〈蓋一島、因地方各名〉周廻二十八里一十六町一十七間、東能美島大原、三十四度一十分半、 沼田郡 實測 江波島、周廻二十九町一十四間、前濱、三十四度二十二分、 佐伯郡 實測 嚴島、周廻七里三十一町五十九間、大西町、三十四度一十八分、 引島、周廻四町二十六間、 長島、周廻一十八町、 片島、周廻一里二十一町二十二間、 大黒神島、周廻、三里一十九町一十七間、 小黒神島、周廻一十六町五十九間、 大那砂美島、周廻一里九町六間、 小那砂美島、周廻一十三町二十二間、 猪子島、周廻一十四町二十六間、 阿多田島、周廻二里一十一町三十三間、 壁島、周廻七町四十一間、 遠測 小島〈大〉 離岩 白石〈大黒神島〉 白石〈阿多田島〉 小島〈小〉 アントウ島 築根(ツク子)島 丸子島 實測 〈安藝國佐伯郡周防國玖珂郡〉甲島、周廻二十二町五十九間、 〈安藝國豐田郡伊豫國越智郡〉黒島、〈又呼瓢簟島〉周廻五町五十四間、

〔藝備國郡志〕

〈上安藝山川〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0645 氏名島(○○○) 在江波之海面安南郡往來船舶之泊所也、上世所謂我島、即今之氏名也、氏與我字形相似、誤我作氏乎、一説、佐西郡海上有島名我島、是則古所謂我島也、今西州往來之船、直過蒲刈之海路者、不我島、經隱渡而赴西島者、必繫船於此島以待順風、〈◯中略〉 仁保島(○○○) 屬安南郡、與氏名島相比、漁人在海濱、農家在山門、秋米二千石零、島周廻二里許、四方有七浦、〈◯中略〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0646 似(○)ノ島(○) 在安南郡海中、古稱二島、後世島之形容以富士山字號似島、二與似倭語相同故然也、一説、島形似箕、故號箕島云々、未孰是、 鐵輪島(○○○) 在安南郡海中、倭俗鐵輪爲坐、竪施三脚小鐵柱、脚頭小屈之以置爐中、安釜或鐺以煮物、是曰鐵輪、是島形容似是、故曰鐵輪島、元赭赤地也、近世種松子、今蕃茂成林矣、〈◯中略〉 倉橋島(○○○) 在安南郡海中、周廻七里餘、民家數百宇、農商雜居、 江田島(○○○) 屬安南郡、周廻七里、田園多、〈◯中略〉 能見島(○○○) 周圍七里許、屬佐西郡、農工商並宇連隣、船匠造船賣四方、 大崎島(○○○) 周廻七里、屬豐田郡、年々出田租海賦、 瀬戸田島(○○○○) 屬豐田郡、西州來往之船舶多繫焉、此處多船匠大船小艇以賣于四方

〔藝藩通志〕

〈三十八安藝國〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0646 安藝郡 島嶼〈門港附〉 仁保島(○○○) 周廻四十五町〈◯中略〉 江田島(○○○) 周廻七里〈◯中略〉 宇品島(○○○) 鐵輪〈◯島名〉の西にあり、高一町、周廿六町、居民四十戸あり、 似島(○○) 宇品の南にあり、形富士に似たり、俗に小富士とよぶ、高四町、周九十町、居民五十戸あり、

〔大内家壁書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0646山口御分國中行程日數事〈◯中略〉 安藝國〈◯中略〉 日當島(○○○)七日請文十九日 呉島(○○)五日請文十五日 蒲苅島(○○○)六日請文十七日 能美島(○○○)四日請文十三日〈◯中略〉 寛正二年六月廿九日 備中守〈奉〉秀明〈◯下略〉

〔道ゆきぶり〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0646 廿日は嚴島(○○)にまうで侍、此島は峯三四ばかりそびえあがりて、み山木の年ふりたるうちにまじりて、老たる松の岩上に生かたぶきつヽ、礒ぎはまでしげりたり、東にさし出たる山

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0647 の崎と、此島のあはひ二十餘町ばかりへだてたる中に、小じまのさと〴〵しげにてみゆるひとつ侍、これなんこぐろ島(○○○○)といふなるべし、此島のあたりをばあたとヽぞいふなる、 島もりにいざこととはんたがために何のあたとヽ名にしおひけむ、その南にあたりて、かすめる島々あり、まさかりのせとヽぞ申なる、此國と伊豫の國とのさかひにて侍るとかや、海のうへに國のさかひのみゆるこそめづらかなれ、〈◯中略〉島の四方に入江どもあまた有て、見所かぎりなく侍るなり、百浦侍るとぞ申、

〔嚴島道芝記〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0647 いつくしま(○○○○○)は、安藝國佐伯郡の海の中にあり、めぐり七里、東西北の三方、地を相さる事、遠きは四五里、ちかきは一里ばかりなり、南の方は、はるかに伊與の二名のしま、つくしの海までも見ゆ、山そびえ、江めぐり、くま〴〵まで松おひしげり、うら〳〵の名所、岡谷の舊地、百にあまれり、〈◯中略〉もとはおんがのしまと名づけ、宮ゐしたまへる所をば、みかさのはまといふ、おんがといへる事は、明神鎭座おはしまして、神の御香のふかきゆへなりとかや、〈◯中略〉又みやじまといへるは、此神の宮地の島なるゆへに稱せる名なり、〈◯下略〉

〔嚴島圖會〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0647 嚴島は安藝の國西海中にあり、府城廣島を去ること五里、佐伯郡に屬せり、島周廻七里、西北を面とし、東南を背とす、遠くは伊豫周防の地を望み、ちかくは佐伯郡の地方に對せり、舊島號は恩賀島、また御香島、あるは霧島、我島など稱へりといふ説あれどさだかならず、おもふにこの島、もとはさせる名もなかりしに、御神の鎭坐し後、その神號の市杵とかよはして、頓て伊都岐島とは號たるならん、類聚國史、延喜式、三代實録、山槐記、拾芥抄等の諸書、みな伊都岐島とあり、後世專ら嚴島(イツクシマ)と稱へたり、是もまたその音のかよへるゆゑなり、〈◯註略〉また宮島といへるも、其唱既に久しくして、高倉帝御幸記及び殊域の書、登壇必究、圖書編等にもみな宮島とかけり、島のうちに七浦八景の稱ありて、日本三名區の其一なり、〈◯下略〉

〔安西軍策〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0648 大内藝州銀山櫻尾圍兩城事 大永四年五月二十日、大内義興息周防介義隆、防長豐筑ノ勢三萬餘騎ヲ率、周防ニ打出、岩國永興寺ニ著陣シ、兹ニテ二手ニ分、〈◯中略〉一方ハ義興自大將トシテ、一萬餘騎、草津二保島(○○○)ノ城ヲ攻落、ソレヨリ櫻尾神主ガ城ニ寄テ攻戰フ、

〔安西軍策〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0648 三浦越中仁保島合戰事 同年〈◯弘治元年〉陶入道全薑、防長豐筑ノ勢ヲ催シ、先嚴島仁保廿日市邊ノ城ノ様體爲見計トテ、三浦越中守ニ究竟ノ兵四五百騎相添、舟數艘ニテ差遣ス、草津廿日市ノ沖ヲ漕廻、仁保ノ島ヘ漕寄上リケリ、

〔道ゆきぶり〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0648 備後の尾道より安藝國ぬたといふ所にうつり侍る、道は南東へ出たる山あり、ひがたをへだてたり、いぬゐにそひていそ路はるかにゆくに、吉和といふ所あり、〈◯中略〉其海中に木ぶかき小島二ならびたり、是なんくぢら島(○○○○)といふなり、年ごとのしはすに、くぢらといふうを多くよりきつヽ、又のとしのむ月に又かへり侍るとなん、是はこヽにいます神の誓にてかく侍ると、海人どもの申也、其より猶南に大海に出るさかひをば、めかりの浦とぞいふなる、〈◯歌略〉北より南にさし出たる山さきに、松や檜原しげりて、いとおもしろきおのへあり、いとさきとぞいふ、〈◯歌略〉むかひにひがたをへだてたる山を、ゐんの島(○○○○)といふ也、

地勢

〔藝備國郡志〕

〈上安藝形勝〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0648 地勢廣濶、風氣和暖、二川交流、夾環州治、田宅豐饒、四民安逸、

〔藝藩通志〕

〈一安藝〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0648 疆域形勢 およそ山陽の國勢は、皆山に背き海に向ふ、當國も亦しかり、長山うしろに横りて、山陰道を隔、海水前に繞りて南海道に接す、大抵北は高く、南は低し、氣候南北同じからざれど、多くは和暄なり、田地山間に在、狹くして美からず、北境は民戸稀少にて鐵を採て生理を助く、南方は民戸稠密山

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0649 林魚鹽の利も亦厚し、

〔易林本節用集〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0649 安藝、〈藝州〉上、管八郡、南北二日半、山深而材木多、海近而鹽苔饒(ヲヽシ)也、五穀不秀、大下國也

〔類聚國史〕

〈八十三政理〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0649 弘仁十年七月辛丑、勅、安藝國土地墝薄、其田下下、百姓農作未盈儲、是以去大同限六箇歳、國内田租率十分四、〈◯下略〉

道路

〔日本實測録〕

〈四街道〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0649攝津國西宮中國街道赤間關〈◯中略〉 安藝國豐田郡本郷村、〈又呼沼田本郷宿〉三十四度二十四分半、 三里三十三町三十三間 田万里村、三十四度二十五分、 二里二十二町三十六間半 加茂郡西條四日市、三十四度二十五分半、 三里二十町二間 安藝郡上瀬野村一貫田、三十四度二十五分半、 二里二十七町四間半 海田(カイタ)村〈又呼海田市〉 一里九町三十一間〈至府中村往還橋一里一丁五十七間〉 府中村岩鼻 一里四町四十八間〈至廣島城大手前一里一町三十四間半〉 沼田郡廣島中島本町猫屋橋〈沿本川舟入新開、一十一丁三間、〉 三町三間半 同堺町二町目 二町一十二間 廣島堺町四町目、三十四度二十分、 一十一町三十九間 川田村己斐川岸 一里三十町四十四間半 佐伯(サイキ)郡皆賀村 一里二町三十四間〈至五日市二十六丁五十五間〉 廿日市、三十四度二十分半、 一里九町二十四間 宮内村 三里六町四十一間 玖波(クハ)村、三十四度一十五分半、 二里二十二町二十五間半〈至黒川村二十一丁二十七間、從黒川小方波田村、九丁一十九間、從小方波田國界小瀬川岸、一里三丁三十五間半、〉 周防國玖珂郡關戸村〈◯中略〉 從備後國吉舍志和堀岩鼻〈◯中略〉 安藝國豐田郡乃美村乃美市 二里三十二町五十七間 上竹仁村 一里二十町三十三間 加茂郡志和堀村、三十四度二十九分、 三里二十七町一十一間 高宮郡福田村、三十四度二十六分半、 二里一十八間 安藝郡府中村〈至總社一十四丁三十六間〉 四町三十間 同岩鼻 〈從吉舍岩鼻〉街道、通計一十七里二十七町三十三間、 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0650備後國三次吉田下町屋〈◯中略〉 安藝國高田郡上甲立村〈至上甲立本町五丁一十四間半〉 一里三十二町一十五間 吉田十日市村橋本町 一里三十四町三十四間 長屋村渡橋北頭 二里九町一十八間 上根村 二里一十町五十五間 高宮郡下町屋村横川 〈從三次下町屋〉街道、通計一十二里四町五十九間 從安藝國廣島可部及新庄佐摩 安藝國沼田郡廣島境町二町目 一里三十四町四間半〈至下安村祇園、一里一十五丁二十一間半〉 高宮郡北之庄村古市 二里六町四十三間 可部町屋村 二十町四十九間 下町屋村横川 三里二十三町二十五間〈至可部坂峠二里八丁二十七間〉 山縣郡本地村 二里一十九町四十二間半 藏迫村 一里一町九間 中山村 二十町一十五間 新庄村宮庄 三里二十町五十四間〈至國界一里二十一丁二十四間、從國界龜谷村、一里二丁四十八間、〉 石見國邑智郡出羽市〈◯中略〉 從安藝國新庄市木淺井 安藝國山縣郡新庄村宮庄 一十三町二十八間 新庄村新庄市 二十八町一十一間 大朝村 二里二十九町二十二間〈至國界一里二十三丁三十六間〉 石見國邑智郡市木村〈◯中略〉 從安藝國新庄加計津田 安藝國山縣郡新庄村新庄市 一里三十一町二十四間 志路原(シヂハラ)村 一里二十八町三十間 戸谷村小戸谷 三里三十六間 加計(カケ)村加計市 三里六町〈至加計村太田川岸四丁三間、從川岸轟渡、二里九丁五十七間、〉 筒賀村 一里三十一町一十二間 同坂原 一里一十九町一十二間 佐伯郡吉和村熊崎 三里二十七町三十二間 虫所山村 二十六町二十七間 津田村岩倉 〈從新庄津田〉街道、通計一十七里二十六町五十三間、 從安藝國宮内津田津和野 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0651 安藝國佐伯郡宮内村 一里三十四町四十五間 友田村里地川岸 一里一十六町二十六間 津田村十王堂市 二十九町三十七間 同岩倉 三里一十三町四十四間〈至國界二里一十四丁二十三間〉 周防國玖珂郡大原村〈◯中略〉 從安藝國津田山代七房 安藝國佐伯郡津田村十王堂市 二里一十六町三十三間〈至國界龜尾川峠一里一十四丁一十二間〉 周防國玖珂郡秋懸村龜尾川

〔日本實測録〕

〈一沿海〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0651大坂沿海至赤間ケ關〈◯中略〉 安藝國豐田郡忠海濱町、三十四度二十分半、 三里一町四十五間半 加茂郡下市村〈至竹原町一十町五間〉 四里一十五町七間半 豐田郡吉奈村キサン岬 二里二十三町四十四間 加茂郡三津村、三十四度一十九分半 三里一十二町一十六間 内海村濱、〈至内海村宿所六間〉三十四度一十七分半、 一里一町一十八間半 阿戸村大歳原〈至鹽屋濱徑測一十四町五十九間〉 三里三十五町五十三間半〈至鹽屋濱二里三十一町五十三間半〉 川尻村、三十四度一十四分半、 三里二十町四十九間 廣村 六里八町三十四間〈至隱戸瀬戸四里二十町一十二間〉 安藝郡宮原村呉町、三十四度一十四分半、六里二十三間半〈至吉浦村三石岬一里三十五町三十九間半〉 坂村横濱 三里三町五十四間〈至横濱北浦一里一十三町二十九間〉 海田(カイダ)村 二里一十三町四十七間〈至府中村往還橋傍二里一十二町五十六間〉 府中村 三里三十二町三十四間半〈至仁保島村大河浦一里三十三町二十二間〉 沼田郡船入新開 二里五町一十三間 川田村己斐川口 二里三十三町五十七間〈至皆賀村一里三十一町一十一間〉 佐伯郡廿日市 五里二十六町二十六間〈至地御前村三十五町三十二間、從地御前大野村丸石岬三里三十一町二間、〉 玖波(クハ)村 三里二十町四十一間〈至黒川村一十六町五十四間半、從黒川小方波田村九町一十九間、從小方波田國界一里五十八間〉 周防國玖珂郡今津村

〔西遊記續篇〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0651 隱戸の瀬戸〈◯中略〉 藝州の陸地を通りし時、其大道のつくりやうを見るに、他の國とは違ひて、多くは眞直に作りた

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0652 り、元來山國なれば直には付がたき道を、山に登り谷に下りて、無理に近道に作りなせり、余〈◯橘南谿〉かねて聞居しは日本の道路は、其始大かた行基菩薩の差圖なりといふ事なりしが、いづれの國の道も、山あれば其裙を通りまはりて、谷をつたひ行き、なるたけは山坂を登りくだらず、平坦の所をかよふ様に付たるものなり、只藝州に成てはまはり道なく、大方直に行やうに、山谷も厭はず、登り下りて道は付たり、他の國の道をひらける心とは、格別のやうにみゆれば、これかならず平相國清盛の改め給ひしか、又ちかき頃の福島正則か、何れ豪雄の氣象の人のなす事なるべしとおもひしが、其後此隱戸の瀬戸の事を聞て、彼陸地も平相國の手なるべしと思ひし、

宿驛

〔延喜式〕

〈二十八兵部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0652 諸國驛傳馬〈◯中略〉 安藝國驛馬〈眞良、梨葉、都宇、宇鹿、附、木綿、大山、荒山、安藝、伴部、大町、種箆、濃唹、遠管各廿疋、〉

〔三代實録〕

〈二十七清和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0652 貞觀十七年十月十日己未、免安藝國遠管驛(○○○)々子當年調

〔安西軍策〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0652 隆元赴防州事附大友毛利和睦事 隆元ハ周防ヲ打立、雲州ヘ上リ給ケル處ニ、藝州佐々部ノ宿(○○○○○)ニ於テ俄ニ煩給、同〈◯永祿六年〉八月四日、行年四十一ニシテ終ニ逝去シ給ケリ、

建置沿革

〔日本國郡沿革考〕

〈三山陽道〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0652 安藝 古作阿岐〈古事記、國造記、〉天平六年九月、制、安藝周防二國、以大竹河國堺、上國、管八郡、四百三十六村、 沼田(ヌヤタ)〈三十三村 仲哀紀、渟田門、即此地、〉 佐伯(サイキ)〈六十三村〉 豐田(トヨタ)〈五十六村 本沙田(マスタ)郡、延喜式等共作沙田、和名抄云、今沙作豐、〉 山縣〈六十四村〉 高宮(タカミマ)〈三十二村〉 加茂〈八十八村 延喜式等作賀茂〉 安藝〈三十八村古國府〉 高田〈六十二村〉

〔藝備國郡志〕

〈上安藝〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0652 建置沿革 日本紀云、神武元年十有一月、天皇至筑紫國崗水門、十有二月、至安藝國于埃宮云云、今考埃宮、不其處矣、國名風土記云、神功皇后曾欲三韓、經西海道、王師所到簟食壺漿以迎之、到斯邦則四方

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0653 之貢物飽足、故名曰飽(アキノ)國云云、今改稱安藝、飽與安藝、倭語相同故然也、上世安藝國分八郡、曰、沼田、曰賀茂、曰安藝、曰佐伯、曰山縣、曰高宮、曰高田、曰沙田、田通計萬七千八十四町云云、類聚國史、源順倭名鈔、延喜式、拾芥鈔等之所載悉如此、後世改沙田郡豐田郡、割安藝郡安北安南二郡、佐伯郡亦今分爲佐西佐東兩郡、賀茂山縣高田、通計爲八郡、古所謂沼田不今之沼田也否、按日本紀使佐伯氏居渟田云々、然則佐伯郡之稱號本于此乎、渟田者蓋今之沼田乎、續日本紀曰、元正天皇養老三年、令備後國守正五位下大津宿禰宿奈麻呂管安藝周防國、又曰、聖武天皇天平六年九月、制、安藝周防二國、以大竹河國界也云々、到今從其制之所一レ定也、〈◯下略〉

〔日本地誌提要〕

〈五十六安藝〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0653 沿革 右ヘ國府ヲ安藝郡ニ置、〈府中村是ナリ〉平氏ノ盛ナル、其管國タリ、後之ヲ納テ院ノ御領トナス、承久中、甲斐ノ守護武田信光、軍功ヲ以テ本州守護ヲ兼ヌ、其五世孫信武足利尊氏ニ從ヒ、再ビ守護ヲ兼領シ、之ヲ三子氏信ニ傳ヘ、歴世金山(カナヤマ)ニ治ス〈佐東郡、今沼田郡東山本村、〉永享十二年、氏信ノ曾孫信榮、若狹ヲ加封シ、其弟信賢嗣ギ、文明中、子國信、若狹小濱ニ移リ、其弟元綱ヲ以テ本州守護代トナシ、金山ニ治ス、旣ニシテ州ノ豪族、毛利、吉川、熊谷諸氏各一隅ニ據リ、武田氏ノ威令行ハレズ、永正ノ末、元綱ノ子元繁、兵ヲ起シテ諸族ヲ攻擊ス、毛利元就〈吉田城主〉元繁ヲ擊テ之ヲ殺シ、其近隣ヲ略ス、大永三年、尼子經久本州ヲ徇フ、元就及元繁ノ子、光和、吉川興經、〈山縣郡小倉山城主〉熊谷信直等、皆之ニ屬ス、明年、大内義興來リ攻メ、元就ニ破ラレテ歸ル、是ニ於テ元就兵威日ニ振ヒ、信直等之ニ附ス、天文三年、光和之ト戰ヒ、克タズシテ死シ、姪信實嗣ギ、其黨皆散ジ、信實金山ヲ弃テ若狹ニ奔リ、其地皆元就ニ歸ス、後元就、大内義隆ニ附ス、九年、尼子晴久大擧シテ來リ侵シ、元就ヲ吉田ニ攻ム、義隆之ヲ援ヒ、共ニ晴久ヲ擊テ大ニ之ヲ破リ、州豪皆大内氏ニ屬ス、二十年、義隆、其臣陶隆房ニ弑セラル、元就、隆房ヲ誅シ、悉ク大内氏ノ故地ヲ併ス、永祿九年尼子氏ヲ滅シ、提封十州ニ連ル、〈安藝、周防、長門、備後、備中、石見、出雲、伯耆、隱岐、豐前、〉元龜二年、元就卒シ、嫡孫輝元封ヲ襲ギ、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0654 文祿二年、徙テ廣島ニ治ス、關原ノ役、西軍ニ屬シ、敗後降ヲ乞フ、徳川氏其封疆ヲ削リ、更メテ長門周防ヲ賜ヒ、福島正則ヲ本州ニ封ズ、元和中、罪アリ國除シ、淺野長晟代テ封ゼラレ、廣島ニ治シ、世襲、王政革新、廢シテ廣島縣ヲ置、

〔先代舊事本紀〕

〈十國造〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0654 阿岐國造 志賀高穴穗朝、〈◯成務〉天湯津彦命五世孫飽速玉命定賜國造

〔續日本紀〕

〈八元正〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0654 養老四年十月戊子、從五位上忍海連人成爲安木守

〔尊卑分脈〕

〈十二源氏〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0654 信義(武田)――信光〈承久亂之時、賜安藝國守護職了、〉

國府

〔倭名類聚抄〕

〈五國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0654 安藝國〈國府在安藝郡、行程上十四日、下七日、〉

〔拾芥抄〕

〈中末本朝國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0654 安藝〈◯中略〉 安藝〈府〉

〔藝備國郡志〕

〈上安藝祠廟〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0654 八幡 在安南郡、此地古之安藝國府也、故俗稱國府八幡

〔藝藩通志〕

〈一安藝〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0654 國府 安藝國府は今の安藝郡府中村是なり、〈◯中略〉本藩毛利氏の舊に仍りて廣島に府を開く、故府を距ること一里許、亦要衝の地なり、

〔安西軍策〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0654 惠林院義稙卿頼大内義興、事 永正三年十一月二十六日、義稙卿〈◯足利〉山口ヲ打出給ニ、大内〈◯義興〉ハ防長豐筑ノ軍兵二萬餘騎ヲ相隨、安藝國府ニ著給フ、

〔嚴島道芝記〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0654 田所屋敷 安藝郡府中にあり、國府上卿三宅氏是也、〈◯中略〉延喜帝の御宇、中納言藤原助隆卿を定勅となし、安藝國府を領してこれを上卿とす、代々府中に居住せり、田所は是を繼とも云傳ふ、又國府は九條殿舊領なりしとかや、

〔倭名類聚抄〕

〈五國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0655 安藝國〈◯註略〉管八〈◯註略〉、沼田〈奴太〉賀茂 安藝 佐伯〈佐倍木〉山縣〈夜萬加多〉高宮〈太加三也〉高田〈太加太〉沙田、〈萬須多、今沙作豐、止與太〉 ◯按ズルニ、沙田ハ本書郷名ヲ記セル條ニ、豐田郡ヲ掲ゲテ、沙田ノ稱ナシ、

〔延喜式〕

〈二十二民部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0655 安藝國、上、〈菅 沼田(ヌタ) 賀茂 安藝 佐伯(サヘキ) 山縣(ヤマカタ) 高宮(タカミヤ) 高田(タカタ) 沙田(マスタ)◯中略〉 右爲遠國

〔伊呂波字類抄〕

〈安國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0655 安藝國〈管山陽 上八郡〉 沼田〈ヌマタ〉 賀茂〈カモ〉 安藝 高宮〈タカミヤ〉 佐伯〈サヘキ〉 山縣〈ヤマカタ〉 高田 吉積

〔易林本節用集〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0655 安藝〈藝州〉上管八郡、〈◯中略〉沼田(ヌマタ)、高田(タカタ)、【豐田】(トヨダ)、【沙田】(サダ)、賀茂(カモ)、佐伯(サエキ)、安藝(アキ)、高宮(タカミヤ)、嚴島(イツクシマ)、〈郡外歟〉

〔藝藩通志〕

〈一安藝〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0655 郡邑建置沿革考 安藝國郡を置こと古今大抵八郡なれど、其名其地は同じからず、〈◯中略〉其次第を考るに、東を首として左施して北東に終る、古の沼田郡は國の極東にありて、賀茂安藝に續て西す、中古安藝郡を分て二郡とし、南を安南郡、北を安北郡とす、佐伯郡を分て二郡とし、東を佐東郡、西を佐西郡とし、沼田を廢して豐田に併せ、高宮を廢して高田を廣くす、されど八郡の數は變ぜず、嚴島棚守家に藏せる長元永承間の國解、みな安南、安北、佐東、佐西の郡名を載て、沼田高宮は見えず、其時旣に八郡たり、蓋二大郡を分ちて二小郡を廢し、戸口の多寡を均くせるにや、但故府田所家に藏、保安比の免田牒に、吉田郡ありて、沼田郡なければ、九郡とす、又豐田郡樂音寺古神名帳には、沼田吉田二郡倶に存し、餘郡猶八名あれば、そのかみ十郡の制亦證とすべきに似たり、然に吉田郡は他書に見へず、おもふに高宮の名忌み避ることありて、一時權に置き、易ふるに吉田を以せるにや、今高田郡の内に吉田村あり、即古の高宮郡の地たり、寛文四年、郡名復古の命ありて、安南、安北、佐西、佐東の稱を止めて、安藝、佐伯とし、沼田、高宮の名も再出て各一郡となりければ、和名抄所載八郡の稱には腹しけれど、安北は高宮となり、佐東は沼田となりければ、安藝佐伯二郡は、各その故境の

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0656 半を失ひ、沼田高宮も亦みな其故地にあらずとて、高田豐田二郡は、沼田、高宮の地を併せもちて返さゞりければ、郡名は古に復しけれど、名實相亂る是憾むべきのみ、今時定る所の郡の次第は安藝、沼田、佐伯、山縣、高田、高宮、賀茂、豐田、府城に近きを首とし、左施して東に終るなり、猶各郡に詳なり、

〔皇國郡名志〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0656 安藝〈八郡〉 山縣(ヤマカタ) 〈●大塚 ●有田 石界〉 佐西(サイキノニシ) 〈●小方 ●玖波 ●宮内 ●草津 ●宮島 防界南海向〉 佐東 〈廣島 南海郡〉 安北(アキノキタ) 〈<可部 ●上深川 國中〉 安南 〈●海田市 廣島ニ並〉 高田(タカタ) 〈<吉田 石備後界〉 賀茂(カモ) 〈●西條 ●音頭島也 南海〉 沙田(マスタ) 〈<忠海 ●ヌタ本 <本郷 備後界〉 ◯按ズルニ本書及ビ次下ノ郡名異同一覽ノ符號ハ山城國篇郡條ニ引ク所ノ、二書ノ凡例ヲ參照スベシ、

〔郡名異同一覽〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0656 安藝

〔花營三代記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0657 康暦二年五月廿八日、大内新介〈號左京權大夫〉與舍弟三郞於藝州内郡(○○)合戰〈◯下略〉

沼田郡

〔藝藩通志〕

〈四十五安藝〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0657 沼田郡 疆域形勢〈風氣沿革附〉 沼田郡は藩府の西北にありて、府も舊當郡の内なれど、今別管となれり、郡の所管廣四里許、東は

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0658 八木村より西は吉山村に至る、袤五里餘、南は打越村より北は小河内村に至る、四隣東は安藝郡南は府治の地なり、それを隔てヽ江波島なり、南より西は佐伯郡、西より北は山縣高宮の二郡なり、祇園町を以て郡本とせり、〈◯中略〉 按に當郡上古は佐伯郡の内なり、中古分ちて二郡とし、東を佐東、西を佐西とよべり、後佐西郡を以佐伯郡とし、佐東郡を沼田郡となせり、然るに沼田は日本紀、倭名抄、皆安藝國東境の地となせれば、今の豐田郡、南のかたと見へたり、

〔日本後紀〕

〈五桓武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0658 延暦十五年十一月己酉、安藝國沼田郡采女佐伯直那賀女授外從五位下

賀茂郡

〔藝藩通志〕

〈七十八安藝〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0658 賀茂郡 疆域形勢〈風氣沿革附〉 賀茂郡は上古京都賀茂神領の地なるを以、此名を得たりといふ、〈◯中略〉藩府の東七里許にありて、安藝豐田二郡の間にあたれり、廣七里許、東は下野村より西は津江村に至る、袤四里餘、南は三津村より北は造賀村に至る、四隣東北は豐田郡、西は安藝郡、西北は高田、高宮二郡、南は海なり、西條四日市を以郡本とす、 當郡東北及び西は群山環り峙つ、南一面は海に沿ひ、安藝豐田の諸島に對す、群の諸水は多く北より南に流れ、黒瀬川を大なりとす、陸路には西に瀬野大山、東に瓦迫、中に松子山あり、海路は西に猫門ありて、東は隣郡高崎の門に通ず、皆其險要なり、〈◯中略〉 按に當郡沿革考べからずといへども、倭名抄所載當郡郷名に入農造果といへるあり、入農は今の豐田郡入野村是ならむ、古賀茂の地にて、後に豐田に入れるなるべし、造果は今の造賀なるべし、此村今賀茂豐田兩郡の界にありて、雙方各同名の村あり、然るに倭名抄の造果當郡にのみ係て、豐田になければ、是又むかしは皆當郡の所部なりしにや、是古今疆界の異るなり、且吉名木谷二村、今豐田に隷すれど、其他は遙に豐田を離れて賀茂の内に插入たれば、かの二村も古は當郡

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0659 の地なりしや、或は此あたり、上古沼田郡の内、今の豐田の地に接きしにや詳ならず、姑く記して後考を竢のみ、

〔日本後紀〕

〈十三桓武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0659 延暦廿四年八月壬子、安藝國賀茂郡地五十町賜仲野親王

西條郡

〔大内義隆記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0659 大永七年八月ニ、尼子伊與守、安藝國西條郡鏡山ヲ切取テ、引足ニ備後國和知又九郞豐里ガ城ニ押寄テ、〈◯下略〉

安藝郡/安南郡/安北郡

〔藝藩通志〕

〈三十七安藝〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0659 安藝郡 疆域形勢〈風氣沿革附〉 安藝郡は國の中央にありて、昔國府をもこヽに置かれければ、國郡名を同じくすと見へたり、今の藩府廣島の東にあり、府市京橋以東は此郡の内なりしが、今は管を異にす、廣四里半、東は上瀬野村より西は牛田村に至る、袤五里半、南は警固屋村より北は畑賀村に至る、但し離島をば除ていふなり、四隣東は賀茂郡、西は府郭新田及び沼田佐伯二郡、南は海を隔て、伊豫國風早郡、北は高宮郡なり、故府廢すること久し、今海田を郡本とす、〈◯中略〉 按に當郡の地、上古は境界太廣し、中古割て二郡とし、南を安南(○○)、北を安北(○○)とよびたり、〈安南或は安那阿難などともあり〉後に安北を高宮郡とし、只安南を以安藝郡とせられければ、今當郡の地は中古安南の地のみにて、上古疆界の半を失ひぬ、

〔三代實録〕

〈六清和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0659 貞觀四年七月廿七日甲午、安藝郡始置主政一員

〔東大寺百合古文書〕

〈三十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0659 新勅旨田解申注進永仁四年損得注帳事〈◯中略〉 安南郡(○○○)八丁五反三百分〈◯中略〉 永仁四年〈丙申〉十二月日 公文佐伯清基〈花押〉

〔陰徳太平記〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0659 上野民部大輔下向藝州之事 此直時、安藝國ノ守護職ニ被補、安南安北(○○○○)二郡ヲ領シ候ニ仍テ、安藝ニ熊谷、周防ニ大内トテ、肩ヲ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0660 并ル程ニ候キ、

佐伯郡/佐東郡/佐西郡

〔藝藩通志〕

〈五十一安藝〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0660 佐伯郡 疆域形勢〈風氣沿革附〉 佐伯郡は國の西邊にありて、今の藩府廣島の西郊より即其地なり、〈◯中略〉廣八里東は己斐村より西は中道村に至る、袤八里半、南は大竹村より北は麥谷村に至る、四隣東は府市、西は周防玖賀郡、石見美濃郡、南は海を隔て、伊豫風早郡に對し、北は山縣沼田二郡なり、廿日市を以郡本とす、〈◯中略〉按に當郡、上古は、今の沼田郡、及府域の地を併せて佐伯一郡たり、中古東邊の數郷をわかちて佐東郡(○○○)とし、其餘を佐西郡(○○○)とせらる、近古佐東を沼田として、佐西のみを佐伯郡とせられしかば、當郡上古の地その首領を失へり、姑く今制にしたがひて私に改めず、

〔日本後紀〕

〈二十一嵯峨〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0660 弘仁二年七月己酉、安藝國佐伯郡速谷神、伊都岐島神、並預名神例、兼四時幣

〔東寺百合古文書〕

〈百八十一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0660 東寺雜掌申、安藝國衙領内佐東郡(○○○)東原郷安南郡新勅旨田杣村緑井郷八木村温科等事申状具書如此、武田治部少輔、同遠江守、品河近江入道、香河修理亮、大藏少輔、金子大炊介以下輩押領云々、〈◯中略〉 康平元年十一月廿五日 左衞門佐〈御判〉 森宮内少輔殿

〔嚴島文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0660 謹辭解申讓進平行益私領田畠等事 合貳拾肆町、〈◯中略〉在佐東郡内八木村者、〈◯中略〉 仁平二年三月八日 平〈花押〉

〔嚴島文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0660 讓渡 いつくしまの御神りやうの内さんとうのこうり(○○○○○○○○)みどろいのがうの内のりすへ名事合一所者〈◯中略〉 ぢやうわ二年八月十三日 左衞門尉重直〈花押〉

〔安西軍策〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0661 赤穴合戰事 此外藝州佐藤(○○)〈◯佐東假借〉郡(○)ノ人々ハ、八重垣、吉川治部少輔興經ハ、平原ニ陣ヲトラレケリ、

〔陰徳太平記〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0661 藝州西條鏡山城沒落事 渠〈◯大内〉筑前ニ在陣ノ中、急ギ當城ヲ攻破、佐西郡(○○○)ヘ打入ベシト、晝夜ヲ不分攻ラレケリ、

〔安西軍策〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0661 佐藤銀山之城并櫻尾城沒落事 櫻尾ノ城ヘハ大内勢相向、嚴島ノ神主佐伯式部大輔興藤子息四郞ヲ大將トシテ、佐西郡ノ者共五百餘騎楯籠リケルガ、若命ヤ助ルト、神主父子ヲ討テ出ス、

山縣郡

〔藝藩通志〕

〈九十八安藝〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0661 山縣郡 疆域形勢〈風氣附〉 山縣郡は國の西北にありて、今の藩府廣島を去ること八里餘、もと山中の縣なるを以名づけられたるなるべし、旣に縣といひ、また郡といへる、重複にわたれども、本朝中古國郡の名皆二字を蒙らしめられければ、如此なりたるにや、廣十三里餘、東は木次村より西は戸河内村に至る、袤十里餘、南は坪野村より北は大塚村に至る、四隣東は高田郡、南は高宮、沼田、佐伯の三郡、西北は石見の國なり、本地村を以郡本とす、〈◯下略〉

〔藝藩通志〕

〈十八安藝國嚴島古文書〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0661 言上 公家并建春門院御祈禱料、安藝國伊都伎島社御領壬生庄田畠在家等事、 在管山方(○○)郡内〈◯中略〉 嘉應三年正月 公文凡〈◯下略〉

高宮郡

〔藝藩通志〕

〈七十一安藝〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0661 高宮郡 疆域形勢〈風氣沿革附〉 高宮郡は藩府の東北四里許にあり、此地中古の安北郡にて、上古安藝郡の半に當れり、高宮郡の本地は、今高田郡の内にこもれり、〈◯中略〉今郡境廣四里七町、東は狩留家村より西は飯室村に至る、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0662 袤五里五町、南は馬木村より北は鈴張村に至る、四隣東は賀茂、高田二郡、南は安藝郡、西は沼田郡、北は山縣郡なり、可部町を以郡本とす、〈◯中略〉 按に當郡上古は、今の高田郡の内にありて、別に一郡たりしが、いつの頃よりか高宮を併せて高田一名となりしを、後高宮の名を復せらるヽに及て、安北郡の地は高宮の名を蒙らしめられたれば、今此郡の地は上古の安藝郡の内にして、中古の安北郡なり、高宮の舊地は今高田郡の西半分の地と見えたり、

〔三代實録〕

〈六清和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0662 貞觀四年七月十日丁丑、安藝國高宮郡大領外正八位下三使部直弟繼、少領外從八位上三使部直勝雄等十八人、復本姓仲縣國造

高田郡

〔藝藩通志〕

〈六十四安藝〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0662 高田郡 疆域形勢〈風氣沿革附〉 高田郡は國の東北邊にありて、藩府を距る七八里なり、其地高き故に高田とは名づけられたるにや、廣三里半、東は小原村より西は土師村に至る、袤七里、南は三田村より北は生田村に至る、四隣東南は賀茂、豐田二郡、西南は高宮郡、西は山縣郡、北は石見邑智郡、東北は備後三次郡なり、吉田町を以郡本とす、〈◯中略〉 按に當郡の地、上古は東邊を高田、西邊を高宮とす、後合せて一郡となりければ、今の地は古に倍す、故に倭名抄高田郡所管の七郷、高宮郡の六郷、今並に當郡の内にあり、又按に安藝郡田所家古文書、及び豐田郡樂音寺神名帳などを見るに、吉田郡といへるあり、其郡内に禰村、志路村、石浦村などの名も見ゆれば、中古彼あたりを吉田郡と稱せし事もありしと見ゆ、されど外に古記の左證もなければいぶかし、姑く附して後考を待のみ、

〔藝藩通志〕

〈十八安藝國嚴島古文書〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0662 廳宣 留守所 可早任散位中原朝臣業長寄文状伊津岐島御領高田郡漆ケ郷状〈◯中略〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0663 安元二年七月日 大介藤原朝臣

沙田郡/豐田郡

〔藝藩通志〕

〈八十七安藝〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0663 豐田郡 疆域形勢〈風氣沿革附〉 豐田郡は國の東邊にありて備後と界す、藩府を距ること十三里餘、當郡の名、延喜式、拾芥抄には沙(ます)田とあり、倭名抄の註に今沙改豐とあり、嘉名に改められしなるべし、郡の廣四里、東は沼田下村より、西は田萬里村に至る、袤三里半、南は忠海村より、北は大草村に至る、此餘海上生口大崎大長豐島などの諸島、みな當郡に屬す、四隣東北は備後國御調、世羅、三次三郡、南は海上にて、伊豫の島嶼に接す、西は賀茂、高田二郡なり、沼田本郷驛を郡本とす、〈◯中略〉 按に倭名抄所載の郷名によりて考るに、上古の豐田郡は西北の方のみにて、東南の地、過半は沼田郡なり、中古いかなる故にや、沼田の名を廢して、其地を豐田に併せければ、當郡の地は大に上古の地に増しぬ、又入野のあたりは、古賀茂郡に屬し、造賀も亦賀茂郡造賀村の一谷別れて、此郡に入りて一村をなせり、又土所小林中野三村を今土倉郷とよぶ、此地は御調郡羽倉村に連りて舊は一郷のよし、然ば昔は土倉郷は御調郡に屬せしが、抑御調の羽倉村當郡に入しにや、又吉名木谷二村離れて賀茂郡の内に在ることも亦疑べし、

〔文徳實録〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0663 仁壽三年十月癸酉、安藝國佐伯、山縣、沙田(○○)三郡、今年徭役恤窮民也、

〔倭名類聚抄〕

〈八安藝國〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0663 沼田郡 今有 沼田 船木〈布奈木〉安直〈安知加〉眞良〈新良〉梨葉〈奈之波〉都宇 賀茂郡 賀茂 志芳〈之波〉造果〈佐宇加〉高屋〈多加也〉入農〈伊(伊、高山寺本作邇、)比乃〉訓養〈也萬、(萬高山寺本作奈、)久爾〉香津 木緜 大弓 安藝郡 漢辨〈◯高山寺本註加倍〉彌理〈美利〉河内〈加布知〉田門〈多土〉幡良〈波良〉安藝 船木〈布奈木〉養隈〈也乃〉安滿〈安萬〉驛家 宗〈◯宗、高山寺本作宇〉山 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0664 佐伯郡 養我 種篦 縁井〈◯縁、高山寺本作緑、〉 若佐 伊福 桑原 海〈◯海下恐有脱字〉噆〈◯噆、高山寺本作替〉濃 建管〈◯管、高山寺本作部〉驛家 大町 土茂 山縣郡 賀茂 壬生 山縣 品治 宇岐 高宮郡 刈田〈加無多◯加無多、高山寺本作葛太、〉内部〈宇知倍〉竹原〈多加波良〉高宮〈多如美也〉丹比〈多無(無、高山寺本作知、)比〉訓覔〈久留倍木〉 高田郡 三田〈美多〉豐島〈止之萬〉風速〈加佐波也〉麻原 川立〈加波多知〉船木〈布奈木〉粟屋〈安波也〉 豐田郡 豐田 登能 能美 訓芳 安宿 椹梨

〔嚴島文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0664 伴利重解 申沽度私領水田事 合伍段 右風早郷(○○○)内字柏木〈◯中略〉 治暦元年十月三日 伴〈花押〉

〔嚴島文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0664 安部延式解 申沽度進所領古作田事 合參段〈◯中略〉件田在高田郡三田郷(○○○)山本村字〈◯中略〉 延久五年三月十三日 阿部延武〈◯以下二人署名略〉

〔東寺百合古文書〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0664 和與 東寺勸學會料所安藝國三田郷雜掌行胤、與同郷總領地頭市河又五郞入道行心代孫子頼行相論年貢所務撿注以下事、 右當郷者、爲勸學料所寄附當寺以後、云所務年貢、地頭令抑留之由雜掌訴之、〈◯中略〉 嘉暦二年八月二十七日 地頭代藤原頼行〈花押〉 雜掌僧行胤〈花押〉

〔嚴島文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0664 寄進 私領田畠栗林等事 合陸町〈◯中略〉在佐東郡若狹郷(○○○)内〈◯中略〉 長寛二年四月廿一日 清宗嫡男清原〈花押〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0665 立券 言上一宮御領志道原御倉敷畠代入替吉次領畠事 合壹町陸段貳佰肆拾歩 在佐東郡桑原郷(○○○)内〈◯中略〉 仁安元年十一月十七日 訴公文散位佐川末利 立券 言上一御社御領志道原御庄御倉敷牓示内畠在家撿注帳事 合 畠貳町陸段〈◯中略〉 右御倉敷佐東郡内伊福郷(○○○)堀立江上、牓示一所打定如件、 仁安元年十一月十七日 郡公文佐伯末利 使權介藤原忠信

〔源平盛衰記〕

〈二十六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0665 宇佐公通脚力附伊豫國飛脚事 爰ニ通清〈◯河野〉ガ子息ニ、四郞通信、高繩城ヲ遁出テ安藝國ヘ渡テ、奴田郷(○○○)ヨリ三十艘ノ兵船ヲ調ヘ、獵船ノ體ニモテナシ、忍デ伊豫國ヘ押渡、〈◯下略〉

〔東寺百合古文書〕

〈七十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0665 安藝國禰村郷(○○○)事、前司知廣不入子細、無左右寄進、〈◯中略〉 〈永仁五〉四月二十四日 治部少輔光定 覺以上人御房

〔東寺百合古文書〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0665 當寺領〈◯中略〉安藝國三田郷平田郷(○○○)高屋餘田等、任後宇多院御起請、廳御下文院宣知行不相違者、院宣如此、仍執達如件、 建武三年十二月八日 參議(隆蔭卿)〈判〉 謹上 東寺供僧學衆御中

村里/名邑

〔郡名一覽〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0665 一安藝國(皆私領) 〈藝州 南北二日半〉 八郡 高貳拾六萬九千四百七拾八石三斗壹升 四百三拾六ヶ村 ●廣島 二百卅一里 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/7f000063104f.gif ◯五日市 〈廣島二万石〉上田主水 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0666 ◯按ズルニ、本書ノ符號ハ、山城國篇村里條ニ引ク所ノ、本書ノ凡例ヲ參照スベシ、

〔郡國提要〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0666 安藝 八郡、四百三十六村、 高三十一万六百四十八石四斗八升九合(皆私領) 沼田郡三十三村 佐伯郡六十三村 豐田郡五十六村 山縣郡六十四村 高宮郡三十二村 加茂郡八十八村 安藝郡三十八村 高田郡六十二村

〔地勢提要〕

〈坤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0666 郡邑島嶼奇名 安藝 安藝郡、海田村、蒲刈下(カマカリシモ)島、佐伯郡、虫所(ムシトコロ)山村、平良(ヘラ)村、嚴島〈又呼宮島〉大那砂美(オホナサミ)島、築根(ツク子)島、山縣郡、加計(カケ)村、高田郡、佐西(ササイ)村、高宮郡、南原村、豐田郡、生名島〈大崎下島御手洗浦〉宿根島、大久野島、高根島、大母島、齋宮島、沼田郡、江波島、

〔嚴島文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0666 書生凡貞行解申沽渡進私領水田事 合貳拾貳町陸段 在風早郷本垣中千原村(○○○○○○)〈◯中略〉 承保三年二月十日 凡〈花押◯下略〉

〔嚴島文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0666 高田郡司解申進先祖相傳所領畠立券事 合 三田郷 矢奈原村〈◯中略〉 貝村〈◯中略〉 井村〈◯中略〉 鑿越村〈◯中略〉 須佐波村〈◯中略〉 波多久比村〈◯中略〉 諸木村〈◯中略〉 加津見村〈◯中略〉 山越村〈◯中略〉 古井村〈◯中略〉 新潟村〈◯中略〉 加矢村〈◯中略〉 野原村〈◯中略〉 久馬此谷村〈◯中略〉 雀々部村〈◯中略〉 伊久志多村〈◯中略〉 小宮家村〈◯中略〉 佐々井村〈◯中略〉 深州村〈◯中略〉 中井村〈◯中略〉 高山村〈◯中略〉 熊埼村〈◯中略〉 甬道村〈◯中略〉 小田村〈◯中略〉 神田村〈◯中略〉 志道村〈◯中略〉 應徳二年三月十六日 散位藤原頼方〈◯下略〉

〔藝藩通志〕

〈十八安藝國嚴島古文書〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0667 立券 水越村(○○○) 壹處貳段〈田常荒也〉 簗原村(○○○) 壹處伍段〈田常荒也〉 須澤村(○○○) 壹處壹町陸拾歩〈◯中略〉 諸木村 壹處壹町肆段佰貳拾歩〈◯中略〉 仁平肆年拾月拾壹日 圖師和泉〈◯下略〉

〔東寺百合古文書〕

〈百八十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0667 安藝國井原村(○○○)事、地頭高藤二入道號神官警固役云々、甚無其謂、早可催促、且相尋當村知行之由緒、可注進之状、依仰執達如件、 建治二年八月廿四日 武藏守〈在判〉 相模守 武田五郞次郞殿

〔藝藩通志〕

〈十八安藝國嚴島古文書〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0667進安藝國己斐村(○○○)〈除五分壹〉事 右爲嚴島社廻廊以下造營料、所寄如件、 貞和四年八月廿六日 正二位源朝臣

〔道ゆきぶり〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0667 五月十九日、備後の尾道より安藝國ぬた(○○)といふ所にうつり侍、道は南東へ出たる山あり、ひがたをへだてたり、いぬゐにそひていそ路はるかにゆくに吉和(○○)といふ所あり、〈◯中略〉はつきの廿九日、あきの國ぬたのさとをたちて、入野(○○)といふ山ざとをとをり侍るに、此所はむかし小野のたかむらの故郷とて、やがてたかむら(○○○○)ともをの(○○)とも申侍るとかや、大なる山寺あり、今夜は高谷(○○)といふさとにとゞまりぬ、〈◯中略〉此山〈◯大山〉こえすぎて瀬野(○○)といふさとあり、こヽもみなやまあひのほそ路なり、

〔安西軍策〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0667 尼子發向吉田之事 同年〈◯天文九年〉八月、尼子民部大輔晴久朝臣、藝州吉田(○○)へ發向ス、〈◯中略〉毛利家與力ノ藝陽ノ侍共モ、勝

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0668 負ヲ窺居テ元就ニ與スル者モ無所ニ、宍戸安藝守、我身ハ居城五龍ニ居ナガラ、嫡子雅樂頭隆家ニ軍卒百餘差添テ、吉田郡山ノ城ヘ差籠ラル、

〔藝備國郡志〕

〈上安藝城池〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0668 廣島(○○)城、今府治而屬安南郡、斯地元五箇村之一村而連于海、潮汐盈虚、船舶往來、曾毛利輝元見地之利、埋海以築城、中架五重之樓、其外大小城樓百三十六、城之内外屈曲之壁圍、合八千二百間餘、關門二十餘、石壁屹立而廻以深池、板橋圮路通四方、食祿之家千三百五十餘、市中之街衢、縱横七十町餘、農工商之戸三千五百四、口三萬六千百四十二、祠廟四座、寺觀百七箇寺、僧千七十口、市中之板橋七條、其中大者號京橋、通東西、橋以東則安南郡也、橋以西則佐東郡也、〈◯下略〉

〔藝藩通志〕

〈六安藝〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0668 廣島府 疆域形勢 廣島府は地安藝沼田二郡に亘る、大抵京橋川より東は安藝郡、西は沼田郡なり、舊稱五箇庄、〈◯註略〉其廣島と名けしは、その地廣く四方水にて繞れるを以なるべし、俗傳る説あれども今取らず、抑此府は天正文祿の比、毛利氏數州を并呑して、高田郡吉田に在しが、その地狹く且邊僻なるをもて、新にこの城郭市邑を創造して移り居しが、慶長庚子、〈◯五年〉福島氏これに代り、ます〳〵城池を修め、遂に全備に至る、元和丙辰、〈◯二年〉本藩紀伊より封をこヽに移し給ひ、すべて舊制に依り、おのづから一藩の鎭府となり、永く帶礪の盟を保てり、府の地廣平沃衍にして、四方皆封内の郡邑なれど、三隅は岡嶺立並びて府を護衞し、南の一隅は江海外に環り、島嶼亘帶して遙に屏障をなせり、巨川北より來り、直に郛郭を衝くが故に、城北にて數派に分ち、水勢を殺げり、城の左に二派、右に三派を通ず、本末東西の別ありといへど、並に南流して海に入る、城南更に二港を鑿ち、海に通じて舟運に便す、四民繁殖百貨輻湊し、實に中州の重鎭にして、山陽第一の都會たり、

〔陰徳太平記〕

〈七十五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0668 輝元卿被城於廣島事 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0669 輝元卿〈◯毛利〉常ニ宣シハ、國君ノ所居ハ萬人ノ所都會也、サルニ今ノ吉田ハ其地偏狹ニシテ、備藝兩州ナドヲ領シタル將ノ爲メ相應也、八州ノ太守可居地ニ非、山中ニシテ海路ヲ隔タレバ、敵ノ推來ヲ防拒センニ便リ惡ク、又他國ヘ軍ヲ出スニモ不自在也、况今京都ノ往來滋キニハ、殊ニ萬事ニ妨ゲアリ、何處ニモアレ於當國威昭徳スル地ヲ營テ、城郭ヲ移シ人民ヲ安ンズベキト、求給ケルニ、二宮信濃守、己斐ノ川口ノ五箇ノ庄コソ、阻河帶江、環山據險、形勝堅壯ノ所、子孫永ク武備ノ業ヲ可傳地ナレト申ニヨツテ、幸ニ黒田孝高新庄ニ逗留アレバ、輝元ヨリ地形ノ可不可監ミテ給ハリ候ヘト、頼給ケル程ニ、孝高頓テ五箇ノ庄ノ蘆原ニ行至テ相宅給ケルニ、美哉山河ノ固、可魏國之寶、可金陵之麗、體國經野、設官分職ニ、究竟無上ノ地ナリト被申ケリ、サレバトテ天正十六年十一月初旬ヨリ、二宮信濃守ヲ奉行トシテ、孝高ノ指麾ヲウケ、土方氏(トハウシ)ニ命ジテ以土圭日景、辨方、右社後市ノ位ヲ正シ、刜奧草繁蘆、匠人投鉤繩方面勢覆、量高深遠近、銀城鐵郭巍然トシテ、厚棟大厦夷庭譙門、依其利其勢、大木爲杗細木爲桷、欂櫨侏儒各得其宜、工巧成テ燕雀聚リ賀セシカバ、同十九年四月吉日良辰也トテ、入城ノ佳處ヲ被調ケリ、其地ヤ東ニ瀬野ノ大山トテ三里ノ間、石梯懸棧百歩ニ九折シテ、仰望ムニ垂線縷、南ニ草津ノ海、仁保ノ入江有テ、潟鹵數里、北ニ新山阿生(アブ)ノ大山有テ、鍾山龍盤石頭虎踞ノ形象アリ、可部川北ヨリ來テ西東ヲ周廻シ、不測ノ淵ニ望タレバ、不利阻一レ三而守獨以一面、山河之形勢、田里之上腴、可金城千里天府之國也、處ノ名ヲ廣島ト號ス、蓋吾朝ヲ豐蘆原ノ中津國ト號スル例ヲ逐時ハ、今ノ廣島誠ニ准據スルニ堪タリ、日本ノ在ン限ハ絶セジト、民人衢ニ歌ヒ市ニ抃(テウ)ツ、

〔豐鑑〕

〈四高麗之亂〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0669 夫より中國をへてなごやに趣給ふ、〈◯豐臣秀吉〉安藝の廣島には毛利氏輝元住所なれば一日二日やすらひ給ふ、

〔西遊記〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0669 家豬 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0670 安藝國廣島の城下其繁華美麗なる事、大坂より西にてはならぶ地なし、其町にぶた多し、形牛の小さきが如く肥ふくれて、色黒く毛はげて、ふつヽかなるものなり、京などに犬のある如く、家々町々の軒下に多し、他國にては珍らしき物なり、 ◯按ズルニ、廣島ノ名ハ築城ノ時ニ、毛利氏ノ祖大江廣元ノ廣ト、當時ノ普請奉行福島大和守ノ島トヲ採リテ名ツケタリト云フ俗説虚實見聞記等ニアレドモ今採ラズ、

〔藝備國郡志〕

〈上安藝山川〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0670 草津(○○) 在佐西郡海濱、是亦船舶之所輻湊、而商賈之會津也、自古領石州濱田之人、假此泊於我藝陽、常繫船以使舵工守一レ之矣、 登壇必究日本考、謂草津窟撒子、 大竹村(○○○) 在佐西郡海濱而與周防州脇村相並、大竹村有海無山、脇村有山無海、古來互以其所一レ有、易無之物、故二村民人薪魚共得其便、近世爭其利互絶交易、大竹川在此村外因號大竹村、〈◯中略〉 穴村(○○) 山縣郡中自穴村吉木村、自此出本地轉通高田郡多治井村、其間嵯峨屈曲、相比大行劒閣之險、歴此地出雲石見二州

莊保

〔西大寺文書〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0670 注進 西大寺所領諸庄薗現存日記事〈◯中略〉 一顚倒庄々〈◯中略〉 安藝國 安藝郡牛田庄(○○○)、墾田七十九町、〈◯中略〉 右依宣旨注進如件 建久二年五月十九日〈◯署名略〉

〔吾妻鏡〕

〈十八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0670 建仁四年〈◯元久元年〉七月廿六日丙戌、安藝國壬生庄(○○○)地頭職事、山形五郞爲忠與小代八郞等相論之間、就守護人宗左衞門尉孝親注進状、今日於御前一決、〈◯下略〉

〔後宇多院御領目録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0670 廳分〈◯中略〉 安藝國安摩庄(○○○) 能美庄(○○○) 可部庄(○○○) 開田庄(○○○)〈◯中略〉 一安樂壽院領 安藝國田門庄(○○○)〈◯中略〉 一興善院領〈◯中略〉 安藝國後三條本勅旨 氣比庄〈◯中略〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0671 右所々可御管領之由、院宣所候也、以此旨入昭慶門院、仍執達如件、 嘉元四年〈◯徳治元年〉六月十二日 右衞門 高倉前宰相殿

〔東寺百合古文書〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0671 東寺領安藝國新勅旨田雜掌頼有謹言上、爲同國志芳庄(○○○)一方地頭肥後五郞左衞門尉政行違背宣旨并關東御事書、〈◯中略〉 應長元年六月日

〔壬生文書〕

〈綸旨院宣御教書等〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0671 陸奧國安達庄、〈◯中略〉安藝國世能荒山庄(○○○○○)〈◯中略〉 右庄々知行不相違者、院宣如此、仍執達如件、 建武三年十二月廿六日 參議〈花押〉 大夫史殿〈◯壬生匡遠〉

〔康正二年造内裏段錢并國役引付〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0671 合〈◯中略〉 拾貫文〈◯中略〉 小早川備後守殿〈藝州沼田庄(○○○)段錢◯中略〉 三貫文〈◯中略〉 小早川安藝殿〈藝州竹原庄(○○○)段錢〉

〔續應仁後記〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0671 防州山口亂事 安藝國住人ニ毛利備中守元就ト云者有リ、先祖ハ前代鎌倉ノ執事因幡前司廣元ノ後胤也ト云フ、此元就元來智勇拔群ノ者也シガ、藝州多智見ノ庄(○○○○○)ニ於テ纔三百貫ノ領主ナリシニ、〈◯下略〉

〔當宮縁事抄〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0671 左辨官下 石清水八幡宮并宿院極樂寺 應永停止宮寺并極樂寺庄園領家預所下司公文等、或號先祖讓状、或稱相傳文書、致異論掠領、兼又有由緒傳領、子孫斷絶處々付本所事、 宮寺領〈◯中略〉 安藝國 三入保(○○○)〈◯中略〉 保元三年十二月三日 大史小槻宿禰〈在判◯下略〉

〔石清水文書〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0672 八幡宮寺領 御判〈右大將◯中略〉〈家頼朝〉 安藝國 呉保(○○) 松崎別宮〈◯中略〉 元暦二年正月九日

〔藝藩通志〕

〈十八安藝國嚴島古文書〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0672附嚴島大明神 安藝國造果保(○○○) 右爲天下泰平所願成就當社造營料寄附之状如件、 建武三年五月一日 源朝臣〈花押〉

〔壬生文書〕

〈主殿察諸領綸旨院宣府符〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0672 主殿寮領〈◯中略〉 安藝國入江保(○○○)〈◯中略〉 右所々如元知行、不相違者、院宣如此、仍執達如件、 建武三年十二月廿七日 參議〈花押〉 大夫史殿〈◯壬生匡遠〉

藩封

〔慶應元年武鑑〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0672 松平安藝守茂長(大廣間從四位上少將元治元子五月任) 四拾二万六千石餘 居城安藝沼田郡廣島〈江戸ヨリ〉海陸二百三十一里 〈城主毛利中納言輝元領、慶長五、福島左衞門大夫正則、元和五ヨリ淺野但馬守長晟、以後代々領之、〉

田數/石高

〔倭名類聚抄〕

〈五國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0672 安藝國〈◯註略〉管八〈田七千三百五十七町八段四十七歩〉

〔伊呂波字類抄〕

〈安國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0672 安藝國〈(中略)本田七千四百八十町〈陸十四日海十八日〉〉

〔拾芥抄〕

〈中末本朝國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0672 安藝〈上近〉八郡〈(中略)田萬七千八十四町〉

〔海東諸國記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0672 安藝州 郡八、水田七千二百五十町九段、

〔前關白秀吉公御檢地帳之目録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0673 十九万四千百五十石 安藝

〔藝備國郡志〕

〈上安藝郡名〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0673 安南郡〈凡邑數計三十八、田通算二萬五千三百五十六石零、〉 佐西郡〈凡邑數計六十三、田通算三萬六千九十五石零、〉 佐東郡〈凡邑數計一十、田通算一萬六千五百五石零、〉 安北郡〈凡邑數計三十二、田通算一萬六千百九十三石零、〉 豐田郡〈凡邑數計五十六、田通算五萬千四百十四石零、〉 賀茂郡〈凡邑數計八十八、田通算四萬九千二百九十八石零、〉 高田郡〈凡邑數計六十二、田通算四萬三千七十五石零、〉 山縣郡〈凡邑數計六十四、田通算二萬八千五百十八石零、〉 今合八郡、田通算二十六萬五千百五十石零也、八郡戸十萬二百九十二、口二十五萬六千三百十二、牛馬二萬八千百七十四也、蓋今府治廣島城下之戸口非此限、別載之可并按

〔日本鹿子〕

〈十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0673 安藝國八郡、大下國、南北二日半、〈◯中略〉知行高二十五万九千三百八十石、〈◯國花萬葉記、四石多、〉

〔官中秘策〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0673 安藝國 九郡〈◯中略〉 一石高貳拾六万九千四百七拾八石餘

〔藝藩通志〕

〈一安藝〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0673 田畝歳額 田畝總數三萬千八百六十四町五段二畝九歩 歳額總數三十萬九千三百八十三石六斗五升九合九勺

〔吹塵録〕

〈五人口及國高〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0673 天保度御國高調〈◯中略〉 安藝國〈皆私領〉 一高三拾壹万六百四拾八石四斗八升九合

出擧稻

〔延喜式〕

〈二十六主税〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0673 諸國出擧正税公廨雜稻〈◯中略〉 安藝國正税廿三万束、公廨廿二万八千八百束、國分寺料三万束、文殊會料二千束、修理池溝料一万束、救急料十万束、驛子粮料三万一千二百束、

〔倭名類聚抄〕

〈五國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0673 安藝國〈◯註略〉管八〈(中略)正二十三萬束、公二十二萬八千百束、本穎六十三萬千三百束、雜穎十七萬三千二百束、〉

國産/貢獻

〔延喜式〕

〈十五内藏〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0673 諸國年料供進〈◯中略〉 櫑子〈(中略)安藝(中略)土佐廿六箇國各四合〉

〔延喜式〕

〈二十三民部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0673 年料舂米〈◯中略〉 安藝國〈大炊六百石◯中略〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0674 年料租舂米〈◯中略〉 安藝國〈一千斛◯中略〉 年料別貢雜物〈◯中略〉 安藝國〈零羊角四具◯中略〉 諸國貢蘇番次〈◯中略〉 安藝國八壺〈二口各大一升、六口各小一升◯中略〉右十四箇國爲第六番〈子午年◯中略〉 交易雜物〈◯中略〉 安藝國〈白絹十二疋、絲八百絇、木綿二百五十斤、油三石四升、苫廿五枚、櫑子四合、鹿皮廿張、鹿革廿張、〉

〔延喜式〕

〈二十四主計〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0674 安藝〈◯中略〉 右十二國並上絲〈◯中略〉 安藝〈◯中略〉 右廿九國輸絹〈◯中略〉 安藝國〈行程、上十四日、下七日、〉海路十八日 調、兩面五疋、一窠綾十七疋、二窠綾三窠綾、各四疋、薔薇綾三疋、白絹十疋、帛四百疋、緋絲卌絇、緑絲十絇、縹絲廿絇、橡絲卅絇、練絲二百五十絇、絲五百絇、〈夏調〉自餘輸絹絲鹽、 庸、白木韓櫃十合、自餘輸絲、鹽、 中男作物、紙、木綿、紅花、茜、黒葛、胡麻油、脯、比志古鰯、

〔延喜式〕

〈三十七典藥〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0674 諸國進年料雜藥〈◯中略〉 安藝國卅二種 黄連四斤十一兩、前胡、䓱胡、白朮、藍漆、昌http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/00000001b559.gif 、商陸各六斤、獨活、牛膝各十八斤、桔梗廿一斤、黄蘗廿斤、玄參、槀本、白頭公、夜干各三斤、細辛十五斤、苦參、當歸、茜根各十斤、石斛卌斤、地楡續斷各二斤、天門冬十二兩、榧子二斗、署預、呉茱萸、蜀椒各一斗、桃人三升、麥門冬一升六合、五味子三升、亭藶子四合、白殭蠶二兩、

〔新猿樂記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0674 四郞君受領郞等刺史執鞭之圖也、〈◯中略〉宅常擔集諸國土産、貯甚豐也、所謂〈◯中略〉安藝榑、

〔毛吹草〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0674 安藝 廣島紙子 木地(キヂ) 葛籠 鹽硝 水昌 豆腐姥 雷(カミナリ)師〈メバルノ子ト云〉 蒲苅鹽辛 野路浮鯛 新城山葵 西條柿 諸口紙

人口

〔官中秘策〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0674 安藝國 九郡〈◯中略〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0675 一人數三拾九万六千八百七拾八人 内〈貳拾万二千四十人 男 拾九万四千八百三拾八人 女〉

〔吹塵録〕

〈五人口及國高〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0675 諸國人數調(文化元甲子年)〈◯中略〉 一人數四拾九万九千八拾壹人(皆私領) 安藝國(高貳拾六万九千四百七拾八石餘) 内〈貳拾六万三百拾貳人 男 貳拾三万八千七百六拾九人 女◯中略〉 諸國人數調(弘化三丙午年)〈◯中略〉 一人數五拾五万三千七百八人(皆私領) 安藝國(高三拾壹万六百四拾八石餘) 内〈貳拾八万六千四百貳拾貳人 男 貳拾六万七千二百八拾六人 女〉

風俗

〔人國記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0675 安藝國 安藝國之風俗ハ、人之氣質實多キ國風ナレドモ、氣自然ト狹ク而、我ハ人ノ言葉ヲ待チ、人ハ我ヲ先ニセン事ヲ常ニ風儀ニ而、人之善ヲ見テモサシテ褒美セズ、惡ヲ見テモ誹ル儀モナク、唯己々ガ一分ヲ作廻(フルマ)フ意地ニ而、拔出タル人千人ニ十人ト無之シテ、世間之嘲哢ヲモ不厭ル風儀也、侍之形儀取分如斯ナリ、因兹頼ミナキ様ナレドモ、底意ハ實儀ヨリヲコリタル事ナレバ、善キ處多シ、此氣質ヲ離タル人出來バ、名人トモ可謂人出ル國風也、別而佐伯沼田加茂郡之人、律儀強クテ心表裏スクナク形儀ヨキナリ、

〔藝備國郡志〕

〈上安藝風俗〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0675 人性寛舒而無疎豪之氣、國多文雅之士而有才藝之人

名所

〔日本鹿子〕

〈十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0675 同國〈◯安藝〉中名所之部 嚴島 辨才天の社あり、西面は遠干潟也、汐みつれば廻廊の下までさし上る、此所むかしはおんが島と云しを、明神此島の山なみ礒の爲體、石ふみいつくしと仰有しより、いつく島と號と也、鹿多し、無雙の景地也、 佐伯 出合の清水 鷺の森 小万里 木の島

〔笈埃隨筆〕

〈八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0676 嚴島 此島は我國三景の中にして、無雙の神島也、〈◯中略〉嚴島とは市杵島姫命を祭る名也、宮島とは此神の宮地なる故也、〈◯中略〉御社の後は山にして前は海、左は野、右は松原、〈◯下略〉 ◯按ズルニ、嚴島ノ事ハ、尚ホ島嶼ノ條ニ在リ、參照スベシ、

雜載

〔延喜式〕

〈二十八兵部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0676 諸國健兒〈◯中略〉 安藝國卌人〈◯中略〉 諸國器仗〈◯中略〉 安藝國〈甲三領、横刀十口、弓廿張、征箭廿具、胡簶廿具、〉

〔日本書紀〕

〈三神武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0676 十有二月〈◯甲寅歳〉壬午、至安藝國、居于埃宮

〔日本書紀〕

〈十一仁徳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0676 三十八年七月、天皇與皇后高臺而避暑時、〈◯中略〉因謂皇后曰、朕比有懷抱、聞鹿聲而慰之、今推佐伯部獲鹿之日夜及山野、即當鳴鹿、其人雖朕之愛以適逢獮獲、猶不已而有恨、故佐伯部不於皇居、乃令有司郷于安藝渟田、此今渟田佐伯部之祖也、


Last-modified: 2019-03-15 (金) 09:48:57 (387d)