http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1087 常陸國ハ、ヒタチノクニト云フ、東海道ニ在リ、東ハ海洋ニ面シ、西ハ下總下野ニ接シ、南ハ下總、北ハ陸奧ニ界ス、東西凡ソ十一里、南北凡ソ三十里、其地勢ハ、北方ノ地、一體ニ山巒多ク漸ク南スルニ隨ヒ、土地平坦ニシテ田野廣ク、沼澤多シ、霞ケ浦ハ、實ニ琵琶湖ニ次グ我國ノ大湖ニシテ、鹿島、行方、新治、稻敷等ノ數郡ニ渺漫タリ、此國ハ古ヘ國府ヲ茨城郡ニ置キ、新治(ニヒバリ)、眞壁(マカベ)、筑波(ツクバ)、河内(カフチ)、信太(シダ)、茨城(ムバラキ)、行方(ナメカタ)、鹿島(カシマ)、那珂(ナカ)、久慈(クジ)、多珂(クカ)ノ十一郡ヲ管シ、延喜ノ制大國ニ列ス、後世ニ至リ郡名及ビ郡界大ニ紊ル、其最モ著キモノヲ擧グレバ、新治郡ハ始メ眞壁郡ニ併合セシガ、後茨城、河内、信太、筑波四郡ノ一部ヲ割キテ新ニ一郡ヲ設ケ、之ヲ新治郡ト稱セシガ如シ、又中世奧郡關郡等ノ名モ見エタレドモ、並ニ一時ノ私稱ナルベシ、明治維新ノ後、茨城郡ヲ分チテ東西二郡ト爲シ、信太、河内ノ二郡ヲ合シテ稻敷郡ト稱シ、新ニ水戸市ヲ設ケテ、凡テ一市十一郡ト爲シ、茨城縣ヲシテ之ヲ治セシム、

名稱

〔倭名類聚抄〕

〈五國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1087 常陸〈比太知〉

〔饅頭屋本節用集〕

〈比天地〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1087 常陸〈常州〉

〔武備志〕

〈二百三十一日本考〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1087 常陸〈非太智(ヒタチ)〉

〔常陸風土記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1087 我姫之道、分爲八國、常陸國居其一矣、所以然號者、往來道路、不江海之津濟、郡郷境堺、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1088續山河之峯谷、取近通之義、以爲名稱焉、或曰、倭武天皇巡狩東夷之國、幸過新治之縣、所遣國造毘那良珠命、新令井、流泉淨澄、尤有好愛、時停乘輿、翫水洗手、御衣之袖、垂泉而沾、便依袖之義、以爲此國之名、風俗諺曰、筑波岳黒雲挂衣袖漬國(ツクバノタケニクロクモカヽリコロモデヒタチノクニ)是也、

〔續日本紀〕

〈三十四光仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1088 寶龜八年八月丁酉、大和守從三位大伴宿禰古慈悲薨、飛鳥朝〈◯天武〉常道(○○)頭贈大錦吹負之孫、

〔古事記傳〕

〈二十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1088 常道は常陸なり、萬葉二十〈二十六丁〉に比多知、和名抄に常陸比太知、〈比多に常字を書は、萬葉十八に、等能乃多知波奈、比多底里爾之氏とあるは、變らず常に照を、比多底里と云り、此意なり、又十三に、常土と書り、今本には常を當に誤れり、さて知に陸字を書は、陸奧の陸と同くて陸道の意なり、古今集顯注に、常陸はひたかちをひたちとは申すなり、陸をかちともよむなりと云るを、契冲が陸をかちとよめること未知ず、ひたちはひたみちなりと云るまことに然り、古歌に、東道の道のはてなる常陸とよめるは、東海道の極なればなり、〉

〔倭訓栞〕

〈前編二十五比〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1088 ひたち 常陸をよめり、ひたみちの略なり、風土記にも、道路不江海と見えたり、新古今集にも、東路のみちのはてなるひたち帶とよめり、衣手のひたちとつヾくる事は、萬葉集に出たり、風土記に、國ノ俗諺に、筑波岳ニ黒雲掛ル衣袖漬國と見えたり、されとひだどつヾけたるならんといへり、

〔諸國名義考〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1088 常陸 和名抄に常陸、〈比太知、國府在茨城郡、〉名義は、〈◯中略〉東方の極みなれば、日高見の約り轉りたるにてはあらざるか、日本書紀景行天皇卷に、日本武尊云々、蝦夷旣平、自日高見國還之、西南歴常陸、至甲斐國酒折宮云々、また武内宿禰自東國還之奏言、東夷之中有日高見國、其國人男女、椎結文身、爲人勇悍、是揔曰蝦夷、亦土地沃壤而曠、また此國風土記を万葉註釋に引たるには、自黒前之山日高之國云々、時人謂之幡垂國、後世言便稱信太(シダ)國とあり、釋日本紀に引たるには、古老曰、御宇難波長柄豐前宮之天皇御世云々、分筑波茨城郡七百戸信太郡、此地本日高見國云々とあり、延喜神名式に、陸奧

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1089 國桃生郡日高見神社あり、立入信友云、日高は景行天皇紀を思ふに、今の蝦夷地にて、常陸はかの日高へ通ふ道なれば、日高道(ヒダカチ)なるべしといへり、この説いとめでたし、こを思へば顯昭が説も捨がたし、或書に、風土記とて引たるには、此國之邊常鹽滿、民家多有煩、故宣曰、此國干立成陸、則百姓安、故曰飛多智也とあるは、いかヾとぞおもはる、

〔常陸紀行〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1089 常陸國、上古は海水逆流して遷移常なかりしに、後來漸々潮退き、人民常に陸地を得て居を安んじけるゆゑ常陸國と云、〈◯中略〉又常とは永久無盡の意、陸とは路の言にして、是國經歴日久しく、いよ〳〵陸路の無盡なるを見るともいへり、又江海陸地一續直路ともいへり、又干立成陸ともいひ、或はひたかち、或はひたみちなど云、以上皆常陸の國名因て來れる處なり、然るに常陸は其地高遠にして、先に日を見るゆゑに日高見の國と云説あり、按に、日本武尊上總より轉りて陸奧國に入ると云々、蝦夷の賊首島津神國津神等竹の水門に屯すと云々、〈竹はタカにして、陸奧國名取郡に多賀神社あり、〉又蝦夷旣に平らぎ、日高見國より還りて、西南の方歴常陸と云々、〈陸奧國桃生郡に、今日高見の神社あり、〉これに因て見れば、日高見國とは高遠の地を總稱せるにて、一處の稱にあらざるなるべし、又東西の國を爲日縱(ひのたヽし)、又朝日之直刺(たヾさす)國、又青香具(かぐ)山者日經(ひのたて)の大御門など古くいひなせる言葉もあれば、日高見國と稱せるものは、必しも常陸國而已ならず、今の常陸より以東の國を總稱せるものと覺ゆ、奧州を陸奧といへるも常陸の奧といへる意にや、多珂郡勿來關の地方に道口といへる郷あり陸奧の入口と云意なるべし、

〔冠辭考〕

〈三古〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1089 衣手の 〈ひたち〉 万葉卷九に、〈筑波山歌〉衣手(コロモデノ)、常陸國(ヒタチノクニノ)、二並(フタナミノ)、筑波乃山乎(ツクバノヤマヲ)云々、こは在滿がいへる、ひだとつヾけたらんと、今考るに、古の袖ははヾのせばくて、たけの長ければ、手拱(タムダク)にも、事をなすにも、袂のくだりをたぐる故に、ひだ多かるべし、依て右の説をよしとす、和名抄に、襞襀周禮註云、祭服朝服襞襀無數、〈訓比多米〉こ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1090 は裙をいふらめど、袖のひだのよしともなりぬ、凡此衣手とつヾけたる條々、皆こヽろ得がたき事多きは、古への衣の様を、よくしり得ぬゆゑなるべし、〈右を衣うつ事とおもふ人もあれど、しからば下の條に、契冲がいへるごとく、ふる衣などあるべきを、衣手と有は、袖の事なれば、袖を擣(ウツ)てふ事は侍らぬ也、衣手をうちわの里とつゞけたるも、又別なり、〉

位置

〔地勢提要〕

〈乾〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1090 各國經緯度〈附里程〉 常陸成田村極高三十六度一十六分半、經度東四度五十分半、前同一百九里二十五町一十一間、

〔日本經緯度實測〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1090 北極出地 常陸 矢田部村〈鹿島郡〉 三五度四七分◯◯秒 成田村 三六度一六分三◯秒〈◯中略〉 東西里差 山城 京 ◯度◯◯分◯◯秒〈◯中略〉 常陸 矢田部村〈鹿島郡〉 東五度◯一分一三秒

疆域

〔古今類聚常陸國誌〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1090 常陸國、在東海道之域轄、郡十一、郷百五十三、村一千五百二十四、註、東至東海一十二里、東南至鹿島海口一百二十二里、南至下總國界宮和田川九十六里、西南至下總國結城郡界鬼奴川八十一里餘、西至下野國那須郡界六十三里餘、西北至陸奧國白河郡界八溝山一百八里、北至陸奧國菊多郡界棚倉地七十五里、東北至陸奧國菊多郡界斫通關一百五里、至京師九百三十里、

〔日本地誌提要〕

〈二十二常陸〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1090 疆域 西ハ下野、下總、南ハ下總、北ハ磐城、東ハ海ニ至ル、東西凡壹拾壹里壹拾八町、南北三拾里壹拾町、

〔續日本紀〕

〈二十九稱徳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1090 神護景雲二年八月庚申、下總國言、天平寶字二年、本道問民苦使正六位下藤原朝臣淨辨等、具注防毛野川之状官、聽許已訖、其後已經七年、得常陸國移曰、今被官符、方欲川、尋其水道、當神社、加以百姓宅所損不少、是以具状申官、宜莫掘者、此頻年洪水、損決日益、若不早掘防、恐梁川崩埋、一郡口分二千餘田、長爲荒廢、於是仰兩國、掘下總國結城郡小鹽郷小島村、達于常

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1091 陸國新治郡川曲郷受津村一千餘丈、其兩國郡堺、亦以舊川定、不水移改

〔木曾路名所圖會〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1091 椎名〈常陸〉小栗まで四里半、〈◯中略〉野原あり、いづれも同じさまを行々て、間壁、まかべ川を過る、此川は常陸下野の國界なり、

地勢/地味

〔常陸風土記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1091 夫常陸國者、堺是廣大、地亦緬邈、土壤沃墳、原野肥衍、墾發之處、山海之利、人々自得、家々足饒、設有身勞耕耘、力竭紡蠶、立即可富豐、自然應貧窮、況復求鹽魚味、左山右海、植桑種麻、後野前原、所謂水陸之府藏、物産之膏腴、古人曰、常世之國、蓋疑此地、但以有水田上小中多、年遇霖雨、即聞苗子不登之難、歳逢亢陽、唯見穀實豐稔之歡歟、

〔易林本節用集〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1091 常陸〈常(シヤウ)州〉大、管十一郡、四方四日、田宅市鄽逐日盛也、牛馬充牧、蠶多綿繞、大々中國也、

道路

〔郡郷考〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1091 驛傳馬 按、驛路の次第は、先下總於賦驛より〈按、於賦は相馬郡大井村なるべしと云ふ、〉、本國河内郡に入り、〈按、河内郡のみ傳馬あり、且行程の便に就て云ふ、〉信太郡稻敷、〈按、今八代村なり、説其郡に在り、〉朝夷〈按、根本村地名を遺せり、〉二郷を歴て、榎浦の上流を渡り、榛谷(ハンカヘ)驛に至る、〈按、今羽賀村なり、〉國界より此驛まで三里半、〈按、大井より國界まで一里半なるべし、〉榛谷より曾禰驛に至る十四里、〈按、行方郡手賀村に地名存せり、廐牧令云、凡諸道須驛者、毎卅里一驛、若地勢阻險、及無水草處、隨便安置、不里數、これ驛を置く定法なれば、今の五里程にて一驛を建べき事なるに、かく隔遠なるは、其間必一驛を脱せしなるべし、兵部式諸國の驛誤脱少からず、或云、茨城郡茨城郷國府ありて、榛谷より九里、平坦の路なれば式に載ざる一驛は國府にて、一驛を脱せるにはあらず、國府より曾禰までは今五里にて、恰好の路なりと、されど兵部式美濃不破郡不破、上野群馬郡群馬の類は、皆國府の地なるを、驛馬の條に出せるを見れば、獨本國のみ茨城の名を載ざるの理なし、傳説に、昔は信太郡と茨城郡との間なる流海をわたりて官道なりと云えるに付て思ふに、信太郡島津郷の對岸は、茨城郡大津郷なり、島津大津ともに舟船の集れる地名なれば、もしや此二郷の内、何れか驛家にはあらざりしか、且島津の屬村なるべき大山村に、驛長が宅趾と覺しくて、長者屋敷もあり、又國府あたりの傳説には、古の官道は、府中の地より南にて、三村の方より中津川にかゝりしなどもいふに因て思うに、是又大津の方よりの便路なり、廐牧令に、凡水驛不馬處、量閑繁驛別置船四隻とありて、兵部式にも其地は、船數をも載たれども、それは全く水驛舟行の地と見えたり、此地は榛谷より陸路三里島津に至り、舟にて半里の流海を渡り、大津に達すれば、大津より陸路曾禰に至るは十里餘なるべし、船と馬とを兼ざれば往復すべからず、已に風土記にも、不江海之津濟とありて、陸地連續の故に、國名ともなりし由なるに、陸路に少しの迂回ありとて、津濟に就けると云はんもいかゞ、況傳説に付て思ひよるのみにして、其徴あるにもあらず、但驛長を長者と稱〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1092 〈し、古驛には必長者屋敷ある事は、信太郡に詳に載す、〉曾禰より安侯驛に至る八里、〈按、今安古村なり、〉安侯より河内驛に至る三里、〈按、上中河内村、〉河内より山程は雄薩驛に至る四里、〈按、今大里村中世小里、〉雄薩より山田に至る二里半、〈按、山田今松平村其名存せり、説久慈郡に詳なり、〉山田より陸奧白河郡高野驛に至る十二里、〈按、國界徳田村まで八里、徳田より高野まて四里、高野は今棚倉なり、〉河内より瀕海は田後驛に至る九里、〈按、今田尻村なり、〉田後より蓋陸奧長有驛に達す、〈按、長有は其地詳ならず、田後より國界勿來關までは七里なるべし、〉是弘仁三年〈後紀〉以來の驛路なり、〈按、本國は平坦の地多き故にや、太氏卅里一驛の制よりは路程遠し、〉又按、風土記に載たる驛は、榎浦、〈式、榛谷同地なり、〉曾禰、〈式同〉板來、〈式、無和名抄、坂に作る誤、〉河内、〈式同〉助川、藻島、平津、〈式並無〉巨神、〈仙覺萬葉鈔所引風土記、和名抄には郷名なり、式無、〉凡八所なり、其廢置ありし事は、後紀弘仁三年十月、廢常陸國安侯、河内、助川、藻島、棚橋六驛、更建小田雄薩、田後等三驛、〈按、弘仁元年、文室綿麻呂陸奧出羽按察使となり、二年三月、爾薩體幣伊二村の蝦夷を征するに因て、其四月に機急を告る爲に、陸奧の内に於て海道十驛を廢し、更に本國に通ずる道にて、長有高野二驛を置く、此廢せし十驛は、續紀養老元年に、岩城國を置たる時、其國中に建たる驛にて、其國を廢しては、要なき故なり、扨其警に付て、又今年本國の驛に及べり、されど上にも擧し如く、安侯、河内の二驛を廢して、其れに代る地を置ざるは何如なる故にか、後其緊要なるを以て復せし事は、兵部式にて知られたり、助川、藻島は、風土記に出たり、棚橋或棚島に作る、其地詳ならず、和名抄久慈郡楊島あり、字形稍似たれば、同地にてはなきや、楊島亦詳ならず、或云、其郡折橋と云ふ地あり、棚橋を拆橋と書たるより、後折に訛りて訓をも、をりと攺めしなるべし、小田は式、及び風土記に據ば、山田の誤なり、然るに近年式考異に、式を以て誤とせしは、却て非なり、猶久慈郡に詳に辯ぜり、助川藻島を廢して二驛の間なる田後の一驛とせしは、煩を省ける事知るべし、〉六年十二月廢常陸國板來驛、〈按、板來驛は、曾禰より鹿島に赴けるの用のみなれば、廢せしなるべし、式に曾禰は他驛と異にして、小路の常數馬五疋を置きたるは、此驛を廢せし故に、其用をも兼たるなるべし、〉平津巨神の廢せしは、史に漏たるを以て、其年代知るに由なし、

〔新編常陸國誌〕

〈六十四行路〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1092 海道 海道ハ東海ノ大道ナリ、伊賀伊勢以東本國ニ至ルマデ十五箇國、皆東海道ノ域ニ屬ス、故ニ往來ノ大道、コレヲ海道ト稱ス、古代石背石城ノ國、イマダ陸奧ニ隷セザリシ間ハ、東海道ニ屬ス、故ニ今ニ至テ、石城、石瀬、菊多、岩崎等ノ四郡、呼デ海道四郡ト稱ス、陸奧國中ニ海道ノ稱アリシコトハ、日本後紀ニ、弘仁二年四月乙酉、廢陸奧海道十驛、更於常陸、置長有高野二驛ト見エタルニテ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1093 タシカナリ、海道ノ十驛トイヘルハ、本國多珂郡奈古曾關ヲ越テ、菊多郡ニ入シヨリ、海道四郡ト稱セル内ノ驛家ヲイヘリ、更ニ長有高野ノ二驛ヲ置トイヘルハ、白河郡ノ内ニテ、本郡久慈郡ニ通ズル道ナリ、後三年合戰繪詞、清原氏系圖等ニ、海道小太郞成衡ト云フ人アリ、岩城岩崎邊ノ著姓ナリ、海道四郡ト云ヘルコトハ、旅宿問答、鎌倉大草紙等ニ見エタリ、又白河結城文書ニハ、東海道宇多庄ナド云フモノ往々出タリ、宇多庄ハ陸奧國ノ内ナリ、今本國ノ内ニテ海道ト稱スベキハ、江戸ヨリ水戸ニ至ルノ道ナリ、然レドモ古代トハ道次ノ變ゼシ所モ多ケレバ、全クノ海道ニハアラザレドモ、今ニ於テハ海道ト稱スベキモノナリ、又水戸ヨリ岩城ニ至ルノ道モ、古ノ海道ニテアリナガラ、往還驛路ノ沿革亦少カラズ、〈原本頭書、多珂郡ノ大窪ヲ、海道ト云ヒシコト、大塚傳記ニアリ、〉依テ先古ノ海道ノ驛次ヲ考ヘテ、サテ後ニ當今ノ路程ヲ註ス、凡古ノ里數ハ三千六百歩ヲ一里トス、俗間ニ所謂六町一里ナリ、天正文祿ノ際、豐臣太閤ノ制ニヨリ、ナベテ三十六町ヲ一里トス、神祖又其法ニ准ジテ一里塚ヲ築ク、コレヨリ後悉ク是制ニ從フ、邊鄙ノ俗ナヲ古ニナラヒテ、里數ノ長短同ジカラザルモノハ、天下ノ法ニアラズ、依テ今卅六町一里ノ制ニヨル、但古代ノ路程ヲ論ズルモノハ古ノ法ニ從フ、〈◯中略〉 陸路 補、今ノ道路ハ茨城郡水戸ヲ起程ノ地ト定テ、東南ニ向ヒ、下總河原代村ニ達スルヲ、江戸海道ト云ヒ、北方ニ走テ、陸奧大垬村ニ出ルヲ、棚倉海道ト唱ヘ、北ニ進デ少ク東ニ向ヒ、陸奧關田村ニ至ルヲ、岩城相馬海道ト呼ブ、スベテ之ヲ大道トナス、又水戸ヨリ西北ニ走テ、陸奧南郷ニ達スルヲ、南郷海道ト呼ビ、南郷海道ノ西ニ當テ下野矢又村ニ出ルヲ、那須海道ト云ヒ、西方ニ進ミ少ク北ニ向テ、下野藍田村ニ至ルヲ、茂木宇都宮海道ト曰ヒ、正西ニ向テ下總結城驛ニ通ズルヲ、結城海道ト稱シ、結城海道江戸海道ノ中間ニ在リテ、下總瀬戸井村ニ達スルヲ、瀬戸井海

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1094 道ト唱ヘ、東南ニ進デ下總飯沼村ニ至ルヲ、飯沼海道ト云フスベテコノ五路ヲ中道ト稱ス、

〔日本實測録〕

〈一沿海〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1094三廐沿海至東京〈◯中略〉 常陸國多珂郡平潟湊 三里二十二町二十一間半〈至大津村一里九町一十五間、從大津神岡下村三町五十七間半、〉 足洗村 三里二十九町五間〈至高萩村一里一十七町八間〉 小木津村 四里三十三町三十三間半〈至助川村一里三十一町二十一間〉 久慈郡久慈村 七里六町三十二間半〈至村松村一里一十三町一十六間、從村松那珂湊三里一十町三十二間、〉 鹿島郡夏海成田村濱〈至成田村宿所一十町三十四間〉 四里一十四町三十九間半〈至玉田村一里廿町四十五間〉 汲上村 五里一十九町九間半〈至青塚村二里二町二十七間〉 國末村 四里五町一十五間 矢田部村濱〈至矢田部村宿所三十五町二十四間〉 三十五度四十七分 三里七町五十六間〈至國界利根川湊口二里二十町三十九間〉 下總國海上郡銚子飯沼村

宿驛

〔延喜式〕

〈二十八兵部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1094 諸國驛傳馬〈◯中略〉 常陸國驛馬〈榛谷五疋、安侯二疋、曾禰五疋、河内田後小田雄薩各二疋、〉傳馬〈河内郡五疋〉

〔新編常陸國誌〕

〈六十四行路〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1094國府奧州驛程廢置之圖 上古驛路 補、孝徳帝ノ時、天下ノ國郡ヲ分チ、驛路ヲモ定メラレシコトハ、諸書ヲ參考シテ分明ナレバ、更ニ云ベキコトナシ、サテ其頃ヨリ以後、常陸ノ大道ハ、下總ノ於賦驛〈今ノ大森驛ナリ、按、風土記ニヨルニ、景行天皇行幸ノ路モ、大森邊ヨリ信太郡ニイラセ玉ヒシト見ユ、關東川々圖ニテ見ルニ、大森ヨリ利根川ヲ渡リ、信太郡大徳邊ヨリ榛谷驛ニイタリシ便路ト見ユ、〉ヨリ信太郡ニ入リ、〈大徳村ノ邊ヲ過ギテ〉榎浦驛ニ至リ、〈榎浦驛、今ノ波賀君山ノ邊ナリ、延喜式ニ榛谷驛ト云ヘルハ、即是ナリ、今ニ鎌倉道ト云アリ、ソノ邊ヨリ仲村邊に出タリト見ユ、古事アリ、〉ソレヨリ國府ニ達シ、〈國府ノ邊ニテハ、土田村ニテ馬ヲツギシト見エタリ、驛家ノ古蹟アリ、サレド延喜式ニコノ驛ナシ、思フニ國府ノ役トシテ、別ニ驛ヲバ置ザリシニヤ、何レニモ國府ヨリ馬ヲ出サヾレバ、往來ナリ難キサマナリ、〉コヽヨリ兩路トナル、一安侯驛ニ通ジ、〈大谷村ノ邊ヲ通レリ、佐竹義政大矢橋ニ至リシコト其證ナリ、〉一ハ曾尼驛ニ通ズ、サテ茨城郡安侯ヨリ〈安侯ハ今ノ安古ナリ、コノ間加倉井ノ邊ヲスギテ通リシナリ、〉那賀郡河内驛ニ至リ、〈河内ハ今ノ中河内也〉ソレヨリ久慈郡助河驛ニ至リ、〈助河驛ハ今ノ助川〉ソレヨリ陸奧ニ通ゼリ、又

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1095 行方郡曾尼驛ヨリ兩路トナリテ、一ハ陸奧ノ海道トナリ、一ハ鹿島社ノ道トナル、其陸奧ノ道ハ曾尼驛ヨリ、〈曾尼ハ今ノ行方郡玉造邊ナリ、驛家跡今ニアリ、〉石橋驛、古那珂郡今茨城、〈今ノ東前ト見エタリ、古ハ遠廐トカケリ、(石橋ヨリ藻島ノ間遠キ故ニ、遠廐ノ名アルナリ)廐ノ名アルヲ以テ知ベシ、且曾尼ヨリコヽニ至ルノ間ニ、古ノ往來ノ古跡アリ、是ヨリ前ハ平津ヲ以テ驛トセシヲ、コヽニ移セシト見ユ、平津ハ平戸ナリ、東前ノ東數里ニアリ、〉ニ至リ、ソレヨリ久慈郡助川驛ニ至リ、ソレヨリ〈コノ道ハ那珂河ヲ渡リテ、勝倉村松ヲヘテ、石名坂ニ至リシト見エタリ、心車抄ニ村松山勸進ノ疏アリ、ソレニ東海飜白浪者、通夜洗于旅人之夢、西湖湛縁水者、終日染于行客之服トアリ、コレニヨリ古來往來ナルヲ知ルベシ、村松ノ虚空藏ノ世ニ知ラレシモ、古ノ大道ニテ、往來ノ人多カリシ故ナリ、淺草ノ觀音ナドノ世ニ知ラレシニ同ジ、〉藻島驛〈コヽヨリ兩路トナル〉ニ至リ、〈今伊師三ケ村ノ地ナリ〉サテ多珂郡棚橋驛ヲヘテ、〈棚橋今ノ折橋ナルベシ、拆橋カ、〉サテ南ノ關ヨリ陸奧ニ入リ、一方ハ海邊ヨリ奈古曾關ヨリ陸奧ニハ入リタリ、又鹿島ノ道ハ、曾尼驛ヨリ板久驛ニ至リ、夫ヨリ鹿島ニ至レリ、鹿島ヨリ下總ヘ越ル時ハ、コノ板久ヨリ下總ヘ通ゼシト見エタリ、  http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png tibu_1_1095_001.gif 國府 安侯〈弘仁廢〉 河内〈同上〉 助川〈同上、今ノ小菅ナリ、 奧州〉 曾禰 石橋〈弘仁廢、今ノ遠廐邊、コヽヲ遠廐ト云ハ、藻島ノ間ニ遠ケレバナリ、モトハ平津ナリシヲコヽヘ移ス、〉 藻島〈弘仁廢〉 棚橋〈同上伊師町〈古ノメシマ〉ヨリ五里程ナレバ、今ノ神岡驛ノ邊ニアタル、〉 板久 〈奧州〉 弘仁中驛路 補、上ニ云ル如ク定メラレタリシニ、弘仁三年十月ニ至テ驛ノ數ヲ減ゼラレ、安侯、河内、石橋、助川、藻島、棚橋ノ六驛ヲ廢シ、〈安侯ハ茨城郡、河内石橋ハ那珂郡、助川藻島棚橋ハ多珂郡ナリ、〉山田、雄薩、田後ノ三驛ヲ置レタリ、其往來ノツイデハ、國府ヨリ曾禰驛に達シ、〈モトハ國府ヨリ兩方ヘ分レシニ、安侯ヲ廢セシ故ニ、コノ一路トナレリ〉曾禰ヨリ兩路トナリ、一路ハ舊ノ如ク板久驛ニ通ジテ鹿島ニ至リシナリ、然ルニ同六年十二月ニ板久驛ヲバ廢セシカバ、曾禰ヨリ直ニ鹿島ヘ通ゼシナリ、一路ハ曾禰ヨリ山田ニ至リ〈山田ハ今ノ那珂郡勝倉ト見エタリ、長〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1096 〈者ノ宅趾存ス、且コノ村ノ西數里ニ鳥喰村アリ、ソコニ山田氏ノモノアリ、舊族ニテ著姓ナリ、モトコノ地邊ヨリ出タルナルベシ、〉コヽニテ兩路トナル、一ハ多珂郡田後驛ニ達シ、〈田後ハ今ノ田尻也〉サテ奈古曾關ヲ經テ陸奧ニ入レリ、一ハ山田ヨリ〈コノ山田ヨリ雄薩ニ至ル間ニ酒出村アリ、其地ニ駒形明神アリ、神體馬形也ト云ハ、駒形社ハ上古必大道ノ路傍ニ祭レル神也、隣村額田ニモ駒形ト字スル地アリテ、先年陶ニテ作レル馬形ヲホリ出セリ、コレモ近接ノ地ナレバ、往古少シク、道ノカハレルコトモアリシ故ニ、此ニモ有ベシ、〉久慈郡雄薩驛〈今ノ大里也、長者ノ宅趾存ス、〉ニ至リ、明神坂ヲ越テ陸奧ニ入リタリ、〈山田驛ハ、石橋驛ノ代リニ立ラレシナレド、モトハ一路ナリシヲ、コノ時兩路トナリシ故ニ、石橋ヨリ少シク北ニヨセラレ、雄薩ハ助川ノ舊驛ヨリハ南ニヨセラレシナリ、コレ全ク山田ノ驛馬ノ煩勞ヲ省カレシ也、〉  http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png tibu_1_1096_001.gif 國府 曾禰 山田〈今ノ勝倉邊、已前ヨリ田後ノ間ヲ近クセシム、一驛ニテ二驛へ送ル故ナリ、〉 雄薩 〈奧州〉 鹿島 田後 〈奧州〉 延喜中驛路 補上件ノ如ク新制アリシガ、猶不便ナリケレバニヤ、安侯河内ノ二驛ヲバ舊ニ復セラレ、〈延喜式ニミユ〉更ニ國府ヨリ兩路ニ分ルヽコトヽナリシ也、是ヨリ後ハ驛家ヲ改メラレシコト聞エズ鎌倉將軍ノ世ヲ終ルマデハ、諸國ノ國司モアリテ、目代等ノ往來モタエズ、諸國ノ奉幣使ナドモ舊ノサマニテ、當國鹿島使モ下リテ、皇威衰ヘナガラモ、ヨロヅ昔ノ形ハアリケレバ、大道ノカハレルコトモナカリシ也、〈鏑矢宮方記ノ文書ノ、相馬郡界ヲ云シニモ、東ハ東海大道ニ限ルトアリ、陸奧海道四郡ノ地ヲ東海道ト云シコト相馬文書ニ見ユ、又光俊朝臣東國下向ノ道モ、舊古ノサマナリ、鹿島使ノ鎌倉ノ季世ノコロマデ下向セシコトハ、記ニアリ、〉  http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png tibu_1_1096_002.gif 國府 安侯 河内 雄薩 〈奧州〉 曾禰 山田 田後 〈奧州〉 鹿島

〔常陸風土記〕

〈行方郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1096 曾尼村、古有佐伯、名曰疏禰毘古、取名著村、今置驛家、此謂曾尼之驛、〈◯中略〉 板來村、近臨海濱、安置驛家、此謂板來之驛

〔常陸風土記〕

〈那賀郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1097 平津驛家〈◯中略〉 自郡東北挟粟河而置驛家、〈本近粟河河内驛家、今隨本名之、〉

〔常陸風土記〕

〈久慈郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1097 助川驛家、昔號遇鹿、古老曰、倭武天皇至於此時、皇后參遇、因名之矣、至國宰久米大夫之時、爲河取一レ鮭、改名助川、〈俗語謂鮭胆須介

〔常陸風土記〕

〈多珂郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1097 郡南卅里藻島驛家東南濱碁子、色如珠玉

〔萬葉集抄〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1097 わがをかのをがみにいひてふらしむる雪のくだけしそこにちりけん〈◯中略〉 常陸國風土記云、新治郡驛家名曰太神、所以然稱者、大虵多在、因名驛家云云、

〔日本後紀〕

〈二十二嵯峨〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1097 弘仁三年十月癸丑、廢常陸國安侯、河内、石橋、助川、藻島、棚島六驛、更建小田雄薩田後等三驛

〔日本後紀〕

〈二十四嵯峨〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1097 弘仁六年十二月戊午、廢常陸國板來驛

建置沿革

〔日本國郡沿革考〕

〈二東海道〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1097 常陸 古作常道、〈常陸風土記云、往來道路不江海、因以爲名、又云、倭武尊東征、過新治之縣時、遣國造毘那良珠命、新堀井、流泉清澄、尤可愛、尊停輿玩水、衣袖濡沾、依取潰袖之義、以爲國名、國訓常陸、與漬相通、〉大國、管十一郡、千七百二十三村、 茨城〈三百四村 古茨城國、見國造記、後爲郡、建國府于此、〉 那珂〈百四十二村 古仲國、見國造記、古事記作常道仲國、〉 久慈〈百六十二村 古久自國、見國造記、〉 多賀〈九十二村 古高國、見國造記、延喜式等作多賀、〉 新治〈百七十九村 古新治國、見國造記、〉 眞壁〈二百三十四村〉 筑波〈百七十四村 古筑波國、見國造記、〉 信太〈八十九村〉 河内〈百三十村〉 行方〈八十九村〉 鹿島〈百二十八村〉 笠間〈拾芥抄載、延喜式等不載、廢置未詳、〉 藪木〈同上〉 秋津〈同上〉 西那河〈蓋中世所置、後廢併茨城郡、〉

〔日本地誌提要〕

〈二十二常陸〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1097 沿革 古ヘ國府ヲ茨城郡ニ置、〈府中是ナリ、今新治郡ニ屬シ、石岡ト云、〉天長中、親王ノ任國トナシ、特ニ太守ト稱ス、平治中、平清盛奏請シテ、佐竹忠義ヲ州ノ介ニ任ジ、本州ノ事ヲ管セシメ、久慈郡太田城ニ居ル、治承ノ末、源頼朝兵ヲ遣テ忠義ヲ擊チ之ヲ殺ス、忠義ノ從子秀義、陸奧ニ奔ル、頼朝北伐ノ日、秀義來歸シ、舊邑ニ復スルヲ得タリ、頼朝又小田知家ニ筑波郡ヲ授ケ、〈小田城ニ〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1098 〈治ス〉建久四年、大掾義幹(ヨシモト)ノ地〈茨城新治鹿島行方四郡〉ヲ收テ、其支族資幹ニ與ヘ、府中城ニ治ス、〈大掾氏ハ、平國香大掾タルヨリ世襲、義幹ハ其九世ノ孫ナリ、〉佐竹小田二氏交互州ノ介ニ任ジ、州事ヲ知ル、建武中興、足利尊氏ヲ守護トス、旣ニシテ佐竹貞義、〈秀義五世ノ孫〉尊氏ノ反ニ應ジ、大掾高幹、〈資幹七世ノ孫〉小田治久、〈知家七世ノ孫〉官軍ニ屬シ、後皆尊氏ニ降ル、關東管領足利氏ノ八館ノ列ヲ定ムル、三氏皆其班ニ入ル、應永ノ末、江戸通房〈初那珂郡ニ居リ、後茨城郡川和田城ニ居ル、〉大掾氏ヲ襲ヒ、其水戸城ヲ取リ、勢威頗ル振ヒ、爾後大掾氏日ニ衰ヘ、疆域大ニ蹙マル、〈是ノ時佐竹氏、久慈、多賀、那珂、茨城四郡ニ連リ、小田氏、筑波新治、河内、鹿島、行方、眞壁、信太七郡五十三城ヲ擁ス、〉天正二年、小田氏治〈治久八世ノ孫〉上杉ノ故臣太田資正ト戰ヒ、城陷テ自盡、小田氏亡ブ、〈知家ヨリ治久ニ至ル十四世〉獨佐竹義重、兵勢頗ル盛、十八年、江戸重通〈通房六世ノ孫〉大掾淨幹〈高幹十世ノ孫〉ヲ滅シ、悉ク全州ヲ併セ、子義宣ヲシテ水戸城ニ居シメ、北條氏ト相抗ス、北條氏ノ亡ブル、義宣欵ヲ豐臣氏ニ送リ、本州ヲ領スル故ノ如シ、關原役畢リ、徳川氏其封ヲ削テ出羽秋田ニ徙シ、〈佐竹氏是ニ至テ十九世〉第六子信吉ヲ水戸ニ封ズ、早夭シテ嗣ナク、第十一子頼宣之ニ代リ、其駿河ニ轉ズルニ及デ、第十二子頼房ヲ封ス、〈三拾五萬石〉其支封ヲ府中、〈慶長六年、六郷政乘ヲ封ズ、元祿中、頼房ノ第五子頼隆封ヲ受、〉宍戸〈頼房ノ第七子頼雄〉ト云、又松平信一ヲ土浦ニ、〈後ニ土屋政直〉松平康重ヲ笠間ニ、〈後ニ牧野貞通〉山口重政ヲ牛久ニ封ジ、寛永中、頼房ノ庶長子頼重封ヲ下館ニ受ケ、尋テ高松ニ移リ、〈讃岐〉寛文中、増山正彌(ミツ)代テ封ゼラル、〈後ニ石川總茂〉其他谷田部、〈初下野茂木(モテキ)細川興元〉下妻、〈井上正長〉麻生〈新莊直頼〉三藩ヲ置、凡テ十藩、王政革新、府中ヲ改メテ石岡ト稱シ、志筑藩〈本堂親久〉ヲ設、磐城ノ守山藩〈水戸ノ支封松平頼之〉松川ニ徙リ、水戸ノ傅相中山信徴藩列ニ班シ、〈松岡〉凡テ十三藩、旣ニシテ皆改メテ縣トシ、又廢シテ新治茨城二縣ヲ置、

〔新編常陸國誌〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1098 建置沿革 補〈◯中略〉文祿三年十月、石田治部少輔三成、豐臣家ノ命ヲ受テ當國ヲ檢地ス、家臣藤林三右衞門等、繩入ノ奉行タリ、〈鶴田氏所藏水帳、佐竹氏所領檢地目録、コノ時諸國大概檢地ノコトアリ、下總モ藤林三右衞門奉行セシトミエテ、香取大宮司ガ領地ヲ役セル社人小〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1099 〈林氏ノ藏セル水帳ニモ藤林三右衞門トアリ、〉所謂文祿ノ繩トハ是也、〈當代記、續武家閑談、〉是時悉ク庄郷ノ稱ヲ廢シテ、直ニ郡ヲ以テ村ヲスベシム、〈佐竹家士知行目録〉又國産ノ租税ヲ計ルニ、束ノ數ヲ用ヒズ、丁段ノ數ニヨラズ、始メテ石ノ數ヲ用フ、〈革島家譜、佐竹家士知行目録、〉本國ノ統數五十三萬八石トナル、〈檢地帳、日本得名、〉十六郡ヲ更メ、古ニ復シテ十一郡トス、然レドモ久シク錯亂ノ境界ヲ、俄ニ改定セラレシ故ニ、名ハ古ニ復ストイヘドモ、其境ニ至テハ大ニ違ヘル地多シ、所謂伊佐庄、及小栗保ヲ以テ眞壁ニ屬ス、古ノ新治也、關庄下妻ヲ河内郡ニ屬ス、然レドモコノ地ト本ノ河内トノ間ニ、眞壁、筑波ノ兩郡隔タルヲ以テ、俗ニコヽヲ西河内ト稱ス、古ノ新治ノ地也、中世下妻ノ人、關、下妻、兩庄ヲ呼デ河内ト稱スルヲ以テ、河内ニ屬セルナリ、其地絹川蠶養川ノ間ニアリ、下妻領ニトリテハ、河西、河東、河内ト三ツニ分テリ、河西ハ絹川ノ西也、河東ハ蠶養川ノ東也、中郡庄ヲ那珂郡ニ屬ス、然レドモ本ノ那珂郡ト地界隔タルヲ以テ、俗ニ西那珂ト稱ス、古ノ新治ナリ、笠間庄ヲ茨城郡ニ屬ス、古ノ新治也、田中庄ヲ筑波ニ屬ス、過半ハ古ノ河内郡也、方穗庄ヲ新治郡ニ屬ス、古ノ筑波郡也、信太庄東條庄ハ舊ニ准ジテ信太郡ニ復ス、山庄ヲ新治ニ屬ス、古ノ筑波郡也、南野庄ヲ新治ニ屬ス、古ノ筑波茨城二郡ノ地也、佐谷郡ヲ新治ニ屬ス、古ノ筑波也、北郡ヲ新治ニ屬ス、古ノ茨城郡也、南郡河内滑川以南ノ地ヲ新治ニ屬ス、古ノ茨城郡ナリ、今置ク所ノ新治郡ハ、古ノ茨城筑波二郡ノ地ニシテ、一村モ舊郡ノ地ナルハナシ、舊郡ノ地ハ悉ク西河内、西那珂、眞壁、茨城等ノ地トナルヲ以テ也、宍戸庄、小鶴庄、及滑川以北ノ南郡、皆舊ニ准ジテ茨城郡ニ復ス、當麻郡ハ鹿島ニ屬ス、古ノ行方郡也、宮田、宮崎、紅葉、大屋等ノ地、茨城ニ屬ス、古ノ鹿島郡也、行方郡ハ舊ノ如シ、但當麻郷ヲ鹿島ニ削ラレ、茨城ノ立花郷ヲ過半トレルノミ也、然レドモコノ立花ハ、古クヨリ行方ニ屬セリ、今度割ク所ニアラズ、那珂川以南、那珂西郡吉田庄等、ナベテ茨城ニ屬ス、古ノ那珂郡ノ地也、那珂川以北、久慈川以南ノ地、スベテ那珂郡ニ屬ス、其半ハ古ノ本郡ノ地、半ハ古ノ久慈

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1100 郡ナリ、中世稱スル處ノ久慈西、那珂東、佐都西、吉田庄、鹽籠庄等コノ内也、依上保ヲ久慈郡ニ屬ス、古ノ奧州白川郡ノ地ニシテ、永正以來常陸ニ屬セル地ナリ、久慈東、及佐都西、佐都東二郡ノ地、過半舊ニ復シテ久慈郡ニ屬ス、佐都東ノ内石名坂以北、宮田助川以南ノ地、多珂郡ニ屬ス、古ノ久慈郡ナリ、其他多珂郡ノ地ハ、ナベテ舊郡ノ地ナリ、是ニ至テ始メテ十一郡ノ名ニ復ス、〈參取弘安太田文、佐竹家士知行目録、常陸國圖、常陸國誌、圓福寺記録、吉田社文書、鶴岡社文書、藥王院文書、白川結城文書、佐竹氏文書、佐竹系圖、正宗寺記録、及父老傳説等、〉然レドモ西河内、西那珂ノ地、河内、那珂ノ本郡ニ隔タルヲ以テ、俗間誤テ十三郡ト稱ス、〈參取佐竹氏文書、常陸國誌、常陸國圖、父老傳説、〉此内佐竹氏ノ領スル所ハ、茨城郡ノ内八萬五千六百八十八石三斗一升、那珂一圓七萬七千七百三十三石五斗九升、久慈郡一圓七萬五千三百五十五石七斗、多賀郡一圓一萬五千三十三石三斗二升、鹿島郡一圓二萬五千九百九石八斗貳升、行方郡一圓二萬六千三百七十一石八斗三升、新治郡ノ内三萬五千四百廿八石九斗七升、眞壁郡ノ内四萬九千卅石六斗九升、筑波郡四萬三千五百卅九石八斗、河内郡ノ内一萬六千四百六十一石一升、信太郡四萬八千九百七十八石二斗八升、合セテ十郡五十萬二百卅一石三斗二升ナリ、其外奧州ノ南郷二萬六千八百三十石三斗九升、下野ノ武茂九千四百八石四斗八升、同國茂木九千三百九十四石四斗、スベテ五十四萬五千七百七十四石五斗九升佐竹氏コレヲ領ス、〈佐竹氏文書、正宗寺舊記、〉凡本國ノ間、他家ニテ領スルハ、茨城郡笠間城ハ、宇都宮國綱ノ所領ニテ、玉尾美濃守是ヲ守ル、〈笠間城記〉眞壁郡小栗城、那珂郡坂戸城等モ、皆國綱ノ領分也、〈宇都宮記、小宅家譜、〉西河内郡下妻城ハ、多賀谷修理大夫重經是ヲ領ス、〈圓福寺記録〉眞壁郡下館城ハ、水谷伊勢守勝俊ノ所領ニテ、結城ノ附庸也、〈水谷系圖〉新治郡土浦城ハ、結城家ノ領分トナル、〈土浦城記、赤林文書、〉河内郡牛久五千石ハ、由良信濃守國繁是ヲ領ス、佐竹領ノ内ニモ、信太郡四萬八千石ハ、蘆名主計頭義廣與力トシテコレヲ領シ、江戸崎城ニ居ル、鹿島行方等ノ地六萬石ハ、佐竹中務大輔義久ノ所領ナリ、陣營鹿島ノ宮中ニアリ、代官ノ者コレニ居ル、〈佐竹文書、鹿島大宮〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1101 〈司文書、福泉寺文書、小宅氏由緒書、〉又義宣ノ父義重ノ知行分五萬石アリ、總高ノ内公料一萬石アリ、コレヲ御藏入ト云、義久ノ代官ヲシテ之ヲ管セシム、依テ内千石ハ代官ノ得分トス、又石田三成、増田長盛ノ得分各三千石アリ、〈佐竹文書〉依テ佐竹五十三萬石トス、〈當代記、按ニ東宮記、増補家忠日記等ニ、佐竹八十萬石トシ、慶長見聞記ニ百萬石ト稱スルモノハ、大概ヲ云モノニシテ、其實ニハアラザルナリ、〉今年佐竹氏有司ニ命ジテ、水戸ノ城ヲ修築ス、元狹隘ナルヲ以テナリ、爰ニ至テ一國ノ大城トナル、〈常陸國記〉同四年六月、豐臣家ヨリ佐竹義宣ニ所領ノ朱印ヲ賜フ、凡五十四萬八千石也、内義宣ノ分十五萬石ノ内、五萬石ハ小田原沒落後ノ加増ナリ、同藏入ノ分十萬石ハ無役、コノ内九萬石ハ加増ナリ、義重ノ分五萬石ノ内、四萬石ハ加増ニテ、スベテ無役ナリ、義久ノ分六萬石ノ内一萬石ハ無役、五萬石ハ加増ナリ、與力家臣ノ分十六萬八千八百石、内四萬石ハ加増ナリ、其餘一萬六千石ハ御藏入、及石田増田ノ分ナリ、〈朱印、按ニ檢地ノ高ヨリ二千餘石ヲ餘ス、蓋檢地ノ後墾開シテ得ル所ト見エタリ、〉是ニ至テ義宣家臣ノ所領ヲ移轉シ、〈佐竹家士知行目録〉居住ノ陣營ヲ國界ニ置テコレヲ守ラシム、

〔古事記〕

〈中神武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1101 神八井耳命者〈(中略)常道仲國造(中略)等之祖也〉

〔先代舊事本紀〕

〈十國造〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1101 新治國造 志賀高穴穗朝〈◯成務〉御世、美都呂岐命兒、比奈羅布命、定賜國造、 筑波國造 志賀高穴穗朝、以忍凝見命孫阿閉色命、定賜國造、 茨城國造 輕島豐明朝〈◯應神〉御世、天津彦根命孫、筑紫刀禰、定賜國造、 仲國造 志賀高穴穗朝御世、伊豫國造同祖建借馬命、定賜國造、 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1102 久自國造 志賀高穴穗朝御代、物部連祖伊香色雄命三世孫、船瀬足尼、定賜國造、 高國造 志賀高穴穗朝御世、彌都侶岐命孫彌佐比命、定賜國造

〔續日本紀〕

〈八元正〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1102 養老三年七月庚子、始置按察使、令〈◯中略〉常陸國守正五位上藤原朝臣宇合管安房上總下總三國

〔帝王編年記〕

〈十三淳和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1102 天長三年九月、賀陽親王〈同(桓武)皇子〉爲常陸大守、〈◯中略〉親王任國自此始之、

〔類聚三代格〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1102 太政官符 應親王任國守事 上總國 常陸國(○○○) 上野國 右檢中納言從三位兼行左兵衞督清原眞人夏野奏状偁、〈◯中略〉望請點定數國親王國、迭任彼國、身留京都、意欲京官者、一兩人將聽、若有守闕者不他人、其料物者納置別倉、支无品親王之要、伏聽天裁者、正三位行中納言兼右近衞大將春宮大夫良峯朝臣安世宣、奉勅依奏、但件等國守官位卑下、宜改定正四位下官、以爲勅任、號稱太守、限以一代、不永例、 天長三年九月六日

國府

〔倭名類聚抄〕

〈五國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1102 常陸國〈國府在茨城郡、行程上三十日、下十五日、〉

〔新編常陸國誌〕

〈二十九都邑〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1102 補、都邑、 府中〈布知宇〉 府中ハ今新治郡ニアリ、〈近時石岡ト攺ム〉元祿郷帳、新治郡平村、市川村ノ内ナリ、其地國ノ中央ニ在リテ、四通八達ノ境ナル故ニ、古ハ茨城郡ニ屬シテ、一國政令ノ出ヅル所タリ、倭名抄ニ、國府在茨城郡ト云フ者即是ナリ、中世以降、桓武平氏世々本國ノ大掾トナリテ此ニ住ス、東

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1103 鑑、建保二年條、常陸國府中トミエ、税所氏延元中文書ニ、府中石岡城トアリ、後天正十八年ニ至リテ、大掾氏遂ニ佐竹氏ノ爲ニ滅セラル、佐竹氏ノ後、六郷、皆川諸城主ヲ經テ、永ク水戸支族松平氏ノ領所トナル、初王政ノ盛ナルヤ、京官來リ、國人聚リ、官衙屹立、市廛櫛比、宛然一國ノ大都タリシガ、天慶以後、屢爭亂ヲ經テ、兵火ニ罹リ、市肆廢シ、士庶散ジ、昔日ノ繁盛復觀ル可カラズ、其隆替變遷ノ迹、古史能ク徴スルモノナシ、

〔常陸紀行〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1103 茨城郡は常陸の中央にして、古へより國府たるべき地なり、今の水府御城も茨城郡常石(ときは)郷にして、天府の地たり、常石郷昔時は那珂郡にして、那珂郡又仲郡ともいへり、即ち常陸國中央にして、國府たるべき地の形勝自然なるものなり、其土水陸の府藏、物産の膏腴にして、山東の利を擅にせるといへるも宜なる哉、

〔吾妻鏡〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1103 治承四年十一月四日壬子、武衞著常陸國府(○○)給、佐竹者權威及境外、郞從滿國中

〔吾妻鏡〕

〈二十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1103 建保二年九月十九日庚辰、常陸國府中(○○)地頭間事、自今以後、大掾資盛可沙汰者、是自公家在廳解也、

〔税所文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1103 讓渡 常陸國南郡府中(○○○○)内元久名田畠事 合田伍町參段半 坪付在別紙〈◯中略〉 右田在家者、爲家成重代相傳私領之間、相副廳宣施行以下之手繼證文等、所渡于嫡子六郞重成實正也、於御公事者、任先例勤仕之、仍爲向後讓状如件、 延元元年八月三日 百濟家成在判

〔倭名類聚抄〕

〈五國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1103 常陸國、〈◯註略〉管十一、〈◯註略〉新治〈爾比波里〉眞壁〈萬加倍〉筑波〈豆久波〉河内〈甲知〉信太〈志多〉茨城〈牟波良岐、國府、〉行方〈奈女加多〉鹿島〈加之末〉那珂 久慈 多珂

〔延喜式〕

〈二十二民部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1103 常陸國、大〈管 新治 眞壁 筑波 河内 信太 茨城 行方 鹿島 那珂 久慈 多珂〉 右爲遠國

〔伊呂波字類抄〕

〈比國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1104 常陸國〈管十一〉 新治〈ニヒハリ〉 眞壁〈マカヘ〉 筑波〈ツクハ〉 河内〈カハチ〉 信太 茨城〈カツラキ、府、ムハラキ〉 行方〈ナメカタ〉 鹿島〈カシマ〉 那珂〈ナカ、延喜式云〉 久慈〈クシ〉 多河〈タカ〉

〔拾芥抄〕

〈中末本朝國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1104 常陸〈大遠〉十一郡 新治 眞壁 筑波 河内 信太 茨城〈府〉 行方 鹿島 那珂 久慈 多珂 笠間 藪太〈木〉 秋津〈已上三郡不延喜式

〔皇國郡名志〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1104 常陸國〈十一郡〉 新治(ニヒハル) 〈上サヤ 一村限 國中小郡〉 眞壁(マカヘ) 〈下館 ●マカヘ ●久下田 羽黒 下毛界〉 筑波(ツクハ)〈 土浦 ●荒川 ●藤代 ●大曾根 <下妻 ●筑波 △ツクバ山 △キヌ川 △サクラ川 下サ界〉 河内(カフチ) 〈●アチキ 龍ケ崎 下サ界〉 信太(シタ) 〈江戸崎 ●イナ石 ●女男川 下サ界〉 茨城(ムハラキ) 〈水戸 <完戸 子生 ●夏目 ●礒濱 ●長岡 ●勝倉 岩舟 笠間 ●ヌカ田 ●小幡 下毛界ヨリ東海ニ貫〉 行方(ナメカタ) 〈<麻生 ●モミ山 <府中 國中ヨリ東海ニ至〉 鹿島(カシマ) 〈<谷田部 ●息栖 イタコ ●鹿島 △同社 坂東太郞ヲ下サ界トス〉 那珂(ナカ) 〈●比藤 ●長倉 下毛界小郡〉 久慈(クジ) 〈<大田 ●大橋 △月折山 △男體山 奥ト下毛ノ界ヨリ東海ニ貫〉 多珂(タカ) 〈●介川 ●アタコ ●足洗 ●小ツマ ●新町 △犬北川 奥界ヨリ東海ニ貫〉 ◯按ズルニ、本書及ビ次下郡名異同一覽ノ符號ハ、山城國篇郡條ニ引ク所ノ、二書ノ凡例ヲ參照スベシ、

〔郡名異同一覽〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1104 常陸 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png tibu_1_1105_001.gif http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png tibu_1_1106_001.gif

〔新編常陸國誌〕

〈一建置沿革〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1106謂奧七郡(○○○)ハ、那珂西、那珂東、久慈西、久慈東、佐都西、佐都東、多珂コレ也、佐都郡ハ元久慈郡ノ東邊薩都郷ノアル處國人割テ一郡トス、其他一郡ヲ以テ東西二郡トスル如キハ、皆俗習ノ常ヲナス處也、

〔吾妻鏡〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1106 壽永三年〈◯元暦元年〉八月十三日己巳、御寄進于鹿島社之地等事、常陸國奧郡(○○)内、有叛逆之輩、依妨、社役不全云云、仍如元可社領之由、今日重被仰下云云、

〔吾妻鏡〕

〈七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1106 文治三年十月二十九日丙申、常陸國鹿島社者、御歸敬異他社、而毎月御膳料事、被于當國奧郡、今日令下知給云云、 政所下 常陸奧郡(○○) 可早下行鹿島毎月御上日料籾佰二拾石事 多賀郡 十二石五斗 佐都東 十四石 佐都西 九石八斗 久慈東 三十六石一斗 久慈西 十四石三斗 那珂東 十三石九斗 那珂西 十九石四斗 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1107 右件籾毎年無懈怠、可下行之状如件、 文治三年十月二十九日 中原〈◯光家〉 藤原〈◯邦通〉 大中臣〈◯秋家〉 主計允〈◯藤原行政〉 前因幡 守中原〈◯廣元〉

新治郡

〔常陸風土記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1107 新治郡〈東那賀郡堺大山、南白壁郡、西毛野河、北下野常陸二國之堺、即波太岡、〉 古老曰、昔美麻貴天皇〈◯崇神〉馭宇之世、爲討東夷之荒賊、〈俗曰、阿良夫流爾斯母乃、〉遣新治國造祖名曰比奈良珠命、此人罷到、即穿新井、〈今存新治里、隨時致祭、〉其水淨流、仍以井因郡號、自爾至今、其名不改、〈風俗諺曰、自遠新治之國、〉

〔新編常陸國誌〕

〈九郡名〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1107 新治郡 倭名抄云新治〈爾比波里〉古ノ新治國ナリ、〈◯中略〉風土記、倭名抄ヲ按ズルニ、是郡東那賀郡堺大山、〈按、今木、葉下、大橋等ノ山ナリ、〉南白壁郡、〈後眞壁郡ト攺ム〉西毛野川、〈後鬼怒河、又絹川ト云フ、〉北下野、常陸二國之堺、即波大岡〈按、今其名ヲ失フ、笠間ノ北ヨリ西小栗ニ至ルマデ、山巒連續二國ノ界ヲナス、總テ之ヲ大小山ト稱ス、是蓋波多岡ナリ、又按、風土記筑波郡條ニ、逸文ノ四至アリ、其艮白壁郡四字ハ、本郡ニ移シテ、下眞伊讃等ヨリノ方位トスベシ、其餘東筑波郡、南毛野川、北新治郡十三字ハ、全白壁郡ノ複出ナリ、〉ニテ、坂門、竹島、沼田、伊讃、博多、巡廻、月波、大幡、新治、下眞、巨神、井田等ノ十二郷ヲ管ス、中世本郡ヲ分テ西中東三郡ト爲シ、又其西郡ヲ南北二條ニ分チ、南ヲ關郡、北ヲ伊佐郡ト呼ビ、東郡ヲ更ニ笠間郡ト稱セリ、文祿ノ檢地ニ、伊佐ハ眞壁郡ニ入リ、關ハ河内郡ニ屬シテ、西河内郡ト稱シ、中郡ハ那珂郡ニ隷入シテ、西那珂郡ト呼ビ、笠間ハ茨城郡ニ併セラレテ、新治郡ノ地全ク廢ス、故ニ筑波山東南別ニ古筑波、茨城、信太、河内四郡ノ地ヲ割テ一郡ヲ置キ、以テ新治ノ名ヲ存ス、元祿ノ制、之ニ從テ更メズ、〈元祿中、西河内郡ヲ眞壁郡ニ、西那珂郡ヲ茨城郡ニ加フルニ及デ、古新治ノ地悉ク眞壁、茨城二郡ノ分轄スル所トナル、〉其他西ハ筑波山下ニ至リ、眞壁、筑波二郡ニ界ヒ、西南ハ信太、河内二郡ニ錯リ、東南ハ霞浦ニ臨ミ、東北ハ茨城郡に接シテ、一百七十九村、十萬四千一百餘石ヲ有セリ、

〔續日本紀〕

〈二十八稱徳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1107 神護景雲元年三月乙亥、常陸國新治郡大領外從六位上新治直子公、獻錢二千貫、商布一千段、授外正五位下

眞壁郡

〔常陸風土記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1108 白壁郡〈東筑波郡、南毛野河、西北並新治郡、〉

〔新編常陸國誌〕

〈九郡名〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1108 眞壁郡 倭名抄云、眞壁、〈萬加倍〉又風土記、白壁郡ニ作ル、清寧紀天皇ノ御名ニヨリテ、白髮部ヲ諸國ニ置ク、思フニ此地亦其一ニ居ル、蓋古新治國内ニ屬ス、風土記行方郡條ニ、新治國小筑波之岳ト云フコトアリ、行方ノ方ヨリ筑波ヲ望ンニハ、本郡其ノ山背ニアレバ、宜ク本郡ヲ擧クベキニ、新治國ト稱セルハ其始新治ヲ割テ一郡トセシコト明ナリ、又續日本紀、延暦三年詔、先帝ノ諱ヲ避ケ、白髮部姓ヲ改メテ眞髮部トセリ、本郡白壁ヲ眞壁ト更メシモノ、蓋此時ニアリ、此國造ハ絶テ見ル所ナシ、今昔物語、康保、天延ノ頃、本國相撲ノ最手ニ、眞髮成村、及子爲成アリ、長元中、源頼信ノ平忠常ヲ伐タル時、河ヲ渉リテ先導シタル眞髮高文ハ、若クハ本郡郡司ノ族ニモヤアラン、風土記倭名抄ニ據ルニ、是郡東、筑波郡南、毛野河〈按蓋方位ノ大概ナリ、地河ニ至ラズ、〉西北、並新治郡ニテ、神代、眞壁、長貫、伴部、大苑、大林、伊讃等ノ七郷ヲ管ス、文祿ノ檢地ニ、新治西郡、伊佐ノ地ヲ加ヘ、元祿中、西河内郡ヲ併セテ、郡境益廣マレリ、其地東ハ足尾、加波ノ諸山ヲ以テ新治郡ヲ限リ、西ハ絹川ヲ以テ、下總結城郡ニ界シ、北ハ茨城郡、及下野芳賀郡ニ隣リ、南ハ筑波郡、及下總豐田郡ニ接シ、東南ハ筑波山下ニ至リ、二百十八村、十二萬五千三百四十餘石ヲ領ス、

〔眞壁長岡文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1108 常陸國眞壁郡正税并闕所〈除龜濃彦次郞入道跡所務〉事、爲其沙汰國方使者入部之處、有違亂之輩云々、事實者甚濫吹也、早正税以下爲全所務、可謐狼藉人之由候、仍執達如件、 建武二年十月十三日 沙彌〈花押〉 長岡又次郞殿

筑波郡

〔郡名考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1108 常陸 筑波〈ツクト計リ ツクハ ツクバ〉

〔地名字音轉用例〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1108 タノ行ノ音同行通用セル例 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1109 つくは 筑波〈常郡〉豆久波(ツクハ)

〔常陸風土記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1109 筑波郡〈東茨城郡、南河内郡、西毛野河、北筑波岳、〉 古老曰、筑波之縣、古謂紀國、美萬貴天皇〈◯崇神〉之世、遣采女臣友屬筑波命於紀國之國造、時筑波命曰、欲身名者著國而後世流傳、即改本號更稱筑波者、〈風俗説曰、握飯筑波之國、〉

〔新編常陸國誌〕

〈九郡名〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1109 筑波郡 倭名抄云、筑波、〈豆久波〉古ノ筑波國ナリ、〈◯中略〉風土記和名抄ヲ按ズルニ、是郡東茨城郡、南河内郡、西ハ毛野河、北筑波岳ニテ、大貫、筑波、水守、三村、栗原、渚蒲、清水、佐野、方穗等ノ九郷ヲ管ス、文祿ノ檢地ニ、東方ハ新置ノ新治郡ニ削ラレ、南方信太、河内二郡中ノ地ヲ併セテ、郡域大ニ變ズ、元祿ノ制之ニ仍ル、其地北ハ眞壁郡ニ接シ、東ハ新治河内二郡ニ相錯リ、西南ハ下總國界絹川ニ至リ、一百五十八村、七萬一千九百七十餘石ヲ統轄ス、

〔日本書紀〕

〈七景行〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1109 四十年十月癸丑、日本武尊發路之、〈◯中略〉自日高見國還之、西南歴常陸甲斐國、居于酒折宮、時擧燭而進食、是夜以歌之問侍者曰、珥比麼利(ニヒハリ)、莵玖波塢須擬氐(ツクハヲスギテ)、異玖用加禰莵流(イクヨカ子ツル)、諸侍者不答言、時有燭者、續王歌之末而歌曰、伽餓奈倍氐(カガナヘテ)、用珥波虚々能用(ヨニハコヽノヨ)、比珥波苫塢伽塢(ヒニハトヲカヲ)、即美燭人之聰而敦賞、

〔冠辭考〕

〈七爾〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1109 にひばり〈つくばを過て〉 景行紀に、〈日本武尊、日高みのくにより常陸を經て甲斐に到て酒折の宮にます時御うたはして、侍ふ人に問給はく、〉珥比麼利(ニヒハリ)、莵玖波塢須擬氐(ツクバヲスギテ)、異玖用加禰莵流(イクヨカ子ツル)、〈かたへの人のえも答へ奉らぬを、火ともして侍るおきなぞ、末を申しける、〉伽餓奈倍氐(カヾナヘテ)、用珥波虚々能用(ヨニハコヽノヨ)、比珥波苔塢伽塢(ヒニハトヲカヲ)、こは常陸國の新ばりつくばを過て、此甲斐の酒折までいく夜か宿りて到つるぞと、片歌にうたはして問せ給へるを、御答申せし意は、指をかヾめて、數ふれば、夜にては、九の夜、晝にては十日ぞといふ也、さて御歌のつヾけは、新墾(ニヒバリ)筑波てふ地の名を、新毬(ニヒマリ)をつくといひなして、次をば數の語もてのたまへりと見ゆ、其意を得て、數もて御こたへも申せし物と、荷田大人はとか

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1110 れし也、げにも只歴給ふる所々にやどらしヽ數を問せ給へるのみならば、たれかこたへ奉り難からん、獨此老人は、手まりつく數の語もて末を續申せし故に賞給へりし也けり、〈此御歌、古事記には婆里(バリ)、日本紀には麽利(マリ)とあるは、婆の濁と麽の清と通ふ例なれば、いづれによみても意は同じき也、〉是によれば、今も手まりつくに、ひふみよ(㆒㆓㆔㆕)云云といへるは、古き世よりのことなるべき也、〈天智紀にあるは蹴まり也、それよりも上つ代には、手まりのみこそ有つらめ、〉猶此事は、万葉卷九に、〈筑波山に登〉新治乃(ニヒバリノ)、鳥羽能淡海毛(トバノアフミモ)とよみ、神名式、和名抄などにも、常陸國に新治ノ郡と筑波郡と見えたれど、まだ此尊のいでませしほどには、郡の分ちまでもなくて、たヾ此二つの地の名の有をもて並擧給へる歟、又筑波に新まりをつくとのみいひかけ給へる歟なども思ひしを、今おもふに、小計(ヲケ)ノ皇子の御詞にも、出雲は新墾(ニヒバリ)との給ひ、その外新ばりてふ古語も多ければ、此つくばわたりにいと古へ新ばりの所有が、はやく所の名と成て侍りけんを、幸に新まりつくてふ意をそへて、あやにつヾけさせ給へるならんと覺ゆ、

〔續日本紀〕

〈二十八稱徳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1110 神護景雲元年三月癸亥、常陸國筑波郡人從五位下壬生連小家主、賜姓宿禰

〔吾妻鏡〕

〈十三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1110 建久四年六月二十二日丁巳、多氣義幹應召參上之間、爲善信俊兼等奉行決知家、知家訴申云、去月祐成狼藉事、今月四日隨承及參上、而雖引義幹、義幹集一族郞從等、楯籠多氣山城反逆云云、義幹謝其趣明、但於城郭軍士之事者、承伏無遁、仍被公常陸國筑波郡南郡北郡(○○○○)等領所、被預其身於岡邊權守泰綱云云、

河内郡

〔郡名考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1110 常陸 河内〈カフチ カハチ カハチ〉

〔常陸風土記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1110 河内郡〈東筑波郡、南毛野河、西北新治郡、艮白壁郡、〉

〔新編常陸國誌〕

〈九郡名〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1110 補、郡名、〈◯中略〉河内郡 倭名抄云、河内〈甲知〉風土記ニ載セズ、〈但筑波、信太二郡ノ條僅カニ郡名アルノミ、〉故ニ建置ノ始メ考フ可ラズ、蓋信太郡ト同ク、難波長柄豐崎朝〈◯孝徳〉筑波郡ヲ割テ置キシト見エタリ、其地子飼川ニ抱カルヽヲ以テ、河内ノ名ハアルナリ、風土記、倭名抄ニ據リテ地

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1111 圖ヲ按ズルニ、是郡東信太郡、南下總、常陸之界葦原、西毛野河、〈眞壁、筑波ニ例セリ、其實ハ子飼川ナリ、〉北筑波郡〈按風土記、筑波郡四至ニ、南河内郡トアルハ、其實ヲ得タリ、信太郡ノ四至ニ北河内郡トアルハ、其郡ノ全體ヨリハ、西ト云フベシ、北ト云ヒタルハ、大村、菅田ノ二郷アルニ就テ指セル方位ナリ、〉ニテ、島名、河内、大山、八部、眞幡、菅田、大村等ノ七郷ヲ管ス、文祿ノ檢地ニ、西北ノ地ハ筑波郡ニ殺レ、東南信太郡ノ南地ヲ併ス、元祿ノ制之ニ從テ更メズ、其境堺東ハ霞浦ニ臨ミ、北ハ信太郡ニ接シ、西ハ筑波郡ニ錯リ、南ハ下總國界ヲ限リテ一百十七村、五萬四千九十餘石ヲ有セリ、

信太郞

〔釋日本紀〕

〈十述義〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1111 日高見國 公望私記曰、常陸國風土記云、信太〈◯太原作夫、今改、〉郡云々、古老曰、御宇難波長柄豐前宮之天皇〈◯孝徳〉御世、癸丑年、小山上物部河内大山上物部會津等、總領高向大夫等、分筑波茨城郡七百戸信太郡、此地本日高見國云々、

〔萬葉集抄〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1111 常陸國風土記に、信太郡となづくる由縁を記して云、黒坂命征討陸奧蝦夷、事了剴旋、及多歌郡角枯之山、黒坂命遇病身、故爰改角枯黒前(サキ)山、黒坂命之輸轜車發黒前山、到日高之國、葬具儀赤旗青幡交雜、飄颺雲飛虹張瑩野耀路、時人謂之幡垂(ハタダレ)國、後世言便稱信太(シタノ)國云々、

〔新編常陸國夷〕

〈九郡名〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1111 信太郡 倭名抄云、信太、〈志多〉古ノ筑波、茨城二國ノ域内ナリ、〈◯中略〉風土記ニ據ルニ、是郡東信太流海、南榎浦、西毛野川、北河内郡ナリ、倭名抄ヲ考フルニ、是後地ヲ南方ニ廣メテ、大野、高來、小野、朝夷、高田、子方、志萬、中家、島津、信太、乘濱、稻敷、阿彌ノ十三郷、及驛家里ヲ管ス、文祿ノ撿地、南方ハ河内郡ニ併セラレ、北邊ハ新置ノ新治郡ニ削ラレテ、郡域大ニ縮少セリ、元祿ノ制之ニ從テ改メズ、東北ハ霞浦ニ面シ、西南ハ河内郡ニ隣リ、西北ノ一隅新治郡ニ接シテ八十八村、四萬二千一百十餘石ヲ有セリ、

〔續日本紀〕

〈三十九桓武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1111 延暦五年十月丁丑、常陸國信太郡大領外正六位上物部志太連大成、以私物百姓急、授外從五位下

〔萬葉集〕

〈二十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1112 天平勝寶七歳乙未二月、相替遣筑紫諸國防人等歌、 於之氐流夜(オシテルヤ)、奈爾波能津與利(ナニハノツヨリ)、布奈與曾比(フナヨソヒ)、阿例波許藝奴等(アレハコギヌト)、伊母爾都岐許曾(イモニツギコソ)、 比多知散思(ヒタチサシ)、由可牟加里母我(ユカムカリモガ)、阿我古比乎(アガコヒヲ)、志留志氐都祁氐(シルシテツケテ)、伊母爾志良世牟(イモニシラセム)、 右二首、信太郡物部道足、

茨城郡

〔郡名考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1112 常陸 茨城〈ムハラキ イハラキ〉

〔常陸風土記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1112 茨城郡〈東香島郡、南佐禮流海、西筑波山、北那珂郡、〉 古老曰、昔在國巣、〈俗語曰、都知久母、又云夜都賀波岐、〉山之佐伯、野之佐伯、普置掘土窟、常居穴、有人來、則入窟而竄之、其人去更出郊以遊之、狼性梟情、鼠窺掠盜、無招慰、彌阻風俗也、此時大臣族黒坂命、伺候出遊之時、以茨蕀施穴内、即縱騎兵急令逐迫、佐伯等如常欲走而歸土窟、盡繫茨蕀、衝害刺傷終疾死散、故取茨蕀以著縣名、〈所謂茨城郡、今存那珂郡之西、古者郡家所置、即茨城郡内、風俗諺曰、水依茨城之國、〉或曰、山之佐伯、野之佐伯、自爲賊長、引率徒衆、横行國中、大爲刼殺、時黒坂命規滅此賊、以茨城造、所以地名便謂茨城焉、〈茨城國造初祖天津多祁許呂命、仕息長帶比賣天皇(神功皇后)之朝、當品太天皇(應神)之誕時、多祁許呂命有子八人、中男筑波使主茨城郡湯座連等之初祖也、〉

〔新編常陸國誌〕

〈九郡名〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1112 茨城郡 倭名抄云、茨城〈牟波良岐〉古ノ茨城國ナリ、〈◯中略〉風土記、倭名抄ヲ按ズルニ、是郡東香島郡南佐禮流海、〈按流海ハ、風土記信太流海、行方海ナドアリテ、當時定名ナシ、和名抄本郡佐賀郷アリテ、今坂村ト云フ、其地南邊流海ニ臨ム處ナレバ、佐禮ハ佐賀ノ誤ナルコト疑ナシ、今ハ流海ヲ總稱シテ霞浦ト云フハ、風土記行方郡ノ地名ヨリ廣マリタル稱ナレドモ、浦ハ江海邊曰浦、又大水有小口別通曰浦ノ二義ニテ、古稱ニ能クカナヘリ、或云佐禮ハ佐我ニ作リタルヨリノ誤ナルベシ、〉西筑波山、北那珂郡ニテ、夷針、山前、城上、島田、佐賀、大幡、生園、茨城、田餘、小見、拜師、石間、安飾、白川、安侯、大津、立花、田龍等ノ十八郷ヲ管ス、中世本郡ヲ南北二部ニ分チ、國府以南ヲ南郡(○○)ト呼ビ、以北ヲ北郡(○○)ト唱ヘ、庄保其間ニ錯雜ス、文祿ノ檢地ニ本郡ノ地、南ハ新置ノ新治郡ニ併セラレ、東南ハ鹿島郡ニ削ラレテ、更ニ西方笠間郡ヲ合セ、北方那珂郡ノ南邊ヲ加フ、元祿中、鹿島郡ノ地ヲ舊ニ復シ、西那珂郡ヲ併セテ、新ニ境界ヲ定ム、其地東ハ涸沼ノ下

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1113 流ヲ以テ鹿島郡ノ北邊ニ堺シ、南ハ新治、行方、鹿島三郡ニ錯リ西ハ眞壁郡及下野國ニ隣リ、北ハ那珂川ヲ限リ、那珂郡ニ對シ、三百三村、十五萬七千七百五十餘石ヲ領ス、

〔三代實録〕

〈六清和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1113 貞觀四年五月十日丁丑、常陸國久慈郡人丸子部妋人、茨城郡俘囚吉美侯酒田麻呂等、並進位三階、以於父母也、

〔萬葉集〕

〈二十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1113 天平勝寶七歳乙未二月、相替遣筑紫諸國防人等歌、 奈爾波都爾(ナニハヅニ)、美布禰於呂須惠(ミフ子オロスヱ)、夜蘇加奴伎(ヤソカヌキ)、伊麻波許伎如等(イマハコギヌト)、伊母爾都氣許曾(イモニツケコソ)、 佐伎牟理爾(サキムリニ)、多々牟佐和伎爾(タヽムサワギニ)、伊弊能伊毛何(イヘノイモガ)、奈流敝伎己等乎(ナルベキコトヲ)、伊波須伎奴可母(イハズキヌカモ)、 右二首、茨城郡若舍人部廣足、〈◯中略〉 阿我母氐能(アガモテノ)、和須例母之太波(ワスレモシタハ)、都久波尼乎(ツクバ子ヲ)、布利佐氣美都々(フリサケミツヽ)、伊母波之奴波氐(イモハシヌバ子)、 右一首、茨城郡占部小龍、

行方郡

〔郡名考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1113 常陸 行方〈ナカタ ナメカタ〉

〔常陸風土記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1113 行方郡〈東南並流海北茨城郡〉 古老曰、難波長柄豐前大宮馭宇天皇〈◯孝徳〉之世癸丑年、茨城國造小乙下壬生連麿、那珂國造大建壬生直夫子等、請總領高向大夫、中臣幡、織田大夫等、割茨城地八里〈◯一本此下有那珂地七里五字〉合七百餘戸、別置郡家、所以稱行方郡者、倭武天皇巡狩天下、征平海北、當是經過此國、即頓幸槻野之清泉、臨水洗手、以玉落井、今存行方里之中、謂玉清井、更廻車駕、幸現原之丘、供奉御膳、于時天皇四望顧侍從曰、停輿徘徊擧目騁望、山阿海曲、參差委蛇、峯頭浮雲、谿腹擁霧、物色可怜、郷體甚愛、宜可此地名稱行細國者、後世追跡猶號行方、〈風俗云、立雨零行方之國、〉

〔新編常陸國誌〕

〈九郡名〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1113 行方郡 倭名抄云、行方〈奈女加多〉古ノ茨城國造ノ部内ナリ、〈◯中略〉風土記倭名抄ニ據ルニ、是郡東南並流海、北茨城郡、〈按南ノ下西字ヲ補フベシ、本郡ハ西ノ流海ヲ最濶シトス、〉ニテ、提賀、小高藝都、大生、當麻、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1114 逢鹿、井上、高家、麻生、八代、香澄、荒原、道田、行方ノ十四郷、及曾禰、板來、餘戸ノ三里ヲ管ス、文祿ノ檢地郡堺舊ニ仍ル、但東北ノ一隅僅ニ鹿島郡ニ入ルノミ、元祿ノ制之ニ從テ更メズ、其地八十九村、四萬三千一百七十餘石ヲ總轄セリ、

鹿島郡

〔常陸風土記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1114 香島郡〈東大海、南下總常陸堺安是湖、西流海、北那賀香島堺阿多可奈湖、〉 古老曰、難波長柄豐前大朝馭宇天皇〈◯孝徳〉之世己酉年、大乙上中臣鎌子大乙下中臣部兎子等、請總領高向大夫、割下總國海上國造部内輕野以南一里、那賀國造部内寒田以北五里、別置神郡、其處所有天之大神社、坂戸社、沼尾社、合三處總稱香島之大神、因名郡焉、〈風俗説曰、霰零香島之國、〉

〔新編常陸國誌〕

〈九郡名〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1114 鹿島郡 倭名抄云、鹿島、〈加之末、風土記香島ニ作ル、〉古ノ那珂國及下總海上國ノ域内ナリ、〈◯中略〉風土記倭名抄ヲ按ズルニ、是郡東大海、南下總、常陸堺安是湖、西流海、北那賀、香島堺阿多可奈湖〈按安是ハ淺瀬ノ義ニテ、今銚子口ト云フ處、其常陸原ト稱スル鹿島郡ノ方ハ、渚汀遠ク淺ケレバ、安是ト呼ビタルナルベシ、阿多可奈ハ蓋涸沼ニテ、寒田ニ對ヘテ、其水ノヌルメルヲ云フカ、〉ニテ、白鳥、下鳥、鹿島、高家、三宅、宮崎、宮田、中村、松浦、中島、輕野、徳宿、幡麻、大屋、瀦尾、新居、伊島、上島等ノ十八郷ヲ管ス、中世本郡ヲ分テ二條ト爲シ、郷戸原以南ヲ南條ト云ヒ、以北ヲ北條ト稱セリ、文祿ノ檢地ニ、北邊ノ地茨城郡ニ分屬セシガ、元祿中舊ニ復シ、郡域古ニ異ルコトナシ、其地一百二十四村、四萬四千九十餘石ヲ包括ス、

〔續日本紀〕

〈九元正〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1114 養老七年十一月丁丑、常陸國鹿島郡、〈◯中略〉等少領已上、聽任三等已上親

〔延喜式〕

〈十八式部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1114 凡郡司者一郡不併用同姓、若他姓中无人可用者、雖同姓同門外聽任、神郡陸奧縁邊郡大隅馭謨熊毛等郡者、不制限、〈謂(中略)常陸國鹿島(中略)筑前國宗形等郡爲神郡、〉

那珂郡

〔常陸風土記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1114 那賀郡〈東大海、南香島、茨城郡、西新治郡、下野國堺大山、北久慈郡、〉

〔新編常陸國誌〕

〈九郡名〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1114 那珂郡 倭名抄云、那珂〈風土記那賀ニ作ル〉古ノ那賀國ナリ、〈◯中略〉風土記、倭名抄ヲ考フルニ、是郡東大海、南香島、茨城郡、西新治郡下野國堺、北久慈郡ニテ、入野、朝妻、吉田、岡田、安賀、大

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1115 井、河内、川邊、常石、全隈、日下、志萬、阿波、芳賀、石上、鹿島、茨城、洗井、那珂、八部、武田、幡田等ノ二十二郷ヲ管ス、中世本郡ノ地分レテ三郡トナリ、其東邊ヲ吉田郡ト稱シ、其西北邊那珂川ヲ狹デ那珂西郡那珂東郡ノ名アリ、文祿ノ撿地、那珂川以南ノ地即那珂西郡及吉田郡南邊悉ク茨城郡ニ併セラレ、更ニ久慈郡ノ北邊ヲ加ヘテ、新ニ郡界ヲ定ム、元祿ノ制之ニ仍テ改メズ、東ハ東海ニ至リ、西ハ下野那須郡界ニ達シ、南ハ那珂川ヲ限リ、北ハ久慈川ヲ以テ久慈郡ニ界シ、一百四十三村、十萬二千九百六十餘石ヲ統括セリ、

〔常陸紀行〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1115 那珂郡は、仲郡とも云、常陸の西に鬼怒(きぬ)川ありて、東に久慈(くじ)川あり、中間に那珂川ありて、即ち常陸の中郡を東南に流れて、水府御城の東北の外郭を經歴し東海に入る、是那珂郡の稱呼因て來れる處なり、

〔續日本紀〕

〈九元正〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1115 養老七年二月戊申、常陸國那賀郡大領外正七位上治部直荒山、以私穀三千斛陸奧國鎭所、授外從五位下

〔續日本紀〕

〈三十六光仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1115 天應元年正月乙亥下總國印幡郡大領外正六位上丈部〈◯大以下九字原脱、據一本補、〉直牛養、常陸國那賀郡大領外正七位下宇治郡全成、並授外從五位下、以軍粮也、〉

〔萬葉集〕

〈二十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1115 天平勝寶七歳乙未二月、相替遣筑紫諸國防人等歌、 都久波禰乃(ツクハ子ノ)、佐由流能波奈能(サユルノハナノ)、由等許爾母(ユトコニモ)、可奈之家伊母曾(カナシケイモゾ)、比留毛可奈之祁(ヒルモカナシケ)、 阿良例布理(アラレフリ)、可志麻能可美乎(カシマノカミヲ)、伊能利都々(イノリツヽ)、須米良美久佐爾(スメラミクサニ)、和例波伎爾之乎(ワレハキニシヲ)、 右二首、那賀郡上丁大舍人部千文、

久慈郡

〔常陸風土記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1115 久慈郡〈東大海、南西那珂郡、北多珂郡陸奧國堺岳、〉 古老曰、自郡以南、近有小丘、體似鯨鯢、倭武天皇因名久慈

〔新編常陸國誌〕

〈九郡名〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1115 久慈郡 倭名抄云、久慈古ノ久慈國ナリ、〈◯中略〉風土記、倭名抄ヲ按ズルニ、東

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1116 大海、南西那珂郡、北多珂郡陸奧岳ニテ、岡田、八部、倭文、密月、助川、美和、志萬、眞野、神前、久米、太田、山田、河内、楊島、世矢、佐竹、高市、木前、佐都ノ十九郷、及餘戸里ヲ管ス、中世本郡ヲ分チテ、二部ト爲シ、又其西北部ヲ分テ、久慈西、久慈東ノ二郡トス、久慈川ノ東西ニ因テナリ、其東南部ヲ分テ、佐都西、佐都東ノ二郡トス、又佐都川ノ東西ニ因テ也、文祿ノ檢地久慈川西南ノ地、即久慈西郡及佐都西郡ノ南邊ハ、悉ク那珂郡ニ併セラレ、佐都東郡ノ北邊ハ、多珂郡ニ削ラレ、更ニ西北依上保〈依上保ハ、即古陸奧白河郡依上郷ナリ、永正以來佐竹氏ノ領地トナリ、本國ニ屬ス、〉ヲ加ヘテ、新ニ郡界ヲ定ム、元祿ノ制之ニ從テ更メズ、其地南ハ久慈川ヲ以テ那珂郡ニ界シ、北ハ陸奧白河郡ニ隣リ、東ハ多珂郡ニ接シ、西ハ下野那須郡ノ界ヲ限リ、東南ノ一隅ハ東海ニ臨ミテ、一百七十村、十萬八百六十餘石ヲ領セリ、

〔續日本紀〕

〈七元正〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1116 靈龜元年十二月己未、常陸國久慈郡人占部御蔭女、一産三男、給粮并乳母一人

〔萬葉集〕

〈二十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1116 天平勝寶七歳乙未二月、相替遣筑紫諸國防人等歌、 久自我波々(クジガハゝ)、佐氣久阿利麻氐(サキクアリマテ)、志富夫禰爾(シホブネニ)、麻可知之自奴伎(マカヂシヾヌキ)、和波可敝里許牟(ワハカヘリコム)、 右一首、久慈郡丸子部佐壯、

〔常陸密藏院藏古文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1116 子息五郞義直六郞義冬軍忠之事、於義直者、去年七月二十四日、武藏國鶴見合戰之時、致討死、至義冬者、今年二月六日、於常陸國久慈西郡(○○○○)、誅伐楠木判官正成代之時、同致討死條、殊所感思也、於恩賞者、追可其沙汰之状如件、 建武三年九月二十八日 御判 佐竹上總入道殿

〔飯野八幡社古文書〕

〈坤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1116 目安 伊賀式部三郞盛光度々軍忠事〈◯中略〉 一同年八月二十二日、同國久慈西郡(○○○○)寄http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/00000001e4d9.gif 連城之處、馳向御敵小田宮内少輔、〈◯治久〉并廣橋修理亮〈◯經〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1117 〈泰〉以下凶徒等之間、同東郡(○○)華房山合戰抽軍忠畢、〈◯中略〉 右於常陸國所々合戰、致軍忠之間、盛光建武四年正月十日、預御感御教書之畢、然者早預御注進備後證、目安如件、 建武四年五月日 裏判〈◯佐竹義篤〉

多珂郡

〔郡名考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1117 常陸 多珂〈タガ〉 多賀

〔常陸風土記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1117 多珂郡〈東南並大海、西北陸奧常陸二國堺之高山、〉 古老曰、斯我高穴穗宮大八洲照臨天皇〈◯安康〉之世、以建御狹日命多珂國造、茲人初至、歴驗地體、以峯險岳崇、因名多珂之國、〈謂建御狹日命者、即出雲臣同屬、今多珂石城所謂是也、風俗説曰、薦枕多珂之國、〉建御狹日命當遣時、以久慈堺之助河道前、〈去郡西北六十里、今猶稱道前里、〉陸奧國石城郡若麻之村爲道後、其後至難波長柄豐前大宮臨軒天皇〈◯孝徳〉之世癸丑年、多珂國造石城直美夜部、石城評造部志許赤等、請申總領高向大夫、以部遠隔往來不便、分置多珂石城二郡、〈石城郡、今存陸奧國堺内、〉

〔新編常陸國誌〕

〈九郡名〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1117 多珂郡 倭名抄云、多珂、〈風土記多賀、又多歌ニ作ル、〉古多珂國ナリ、〈多珂又高ニ作ル、◯中略〉風土記、倭名抄ヲ按ズルニ、是郡東南並大海、西北陸奧常陸二國堺之高山〈按久慈郡四至ノ條ニ據ルニ、南久慈郡トアルベキナリ、〉ニテ、梁津、伴部、高野、多珂、藻島、新居、賀美、道口ノ八郷ヲ管ス、文祿ノ檢地、南方佐都東郡ノ北邊ヲ加フ、元祿ノ制之ニ從テ改メズ、其地東ハ海ニ面シ、北ハ陸奧菊多郡ニ界シ、南西二面ハ久慈郡ニ隣リテ、八十八村、五萬七千二百八十餘石ヲ包括ス、

〔續日本紀〕

〈八元正〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1117 養老二年五月乙未、割常陸國多珂之郷二百一十烟、名曰菊多郡、屬石背國焉、

私稱郡名

〔新編常陸國誌〕

〈十俗稱郡名〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1117 俗稱郡名 〈和名抄ヲ按ズルニ、官家置ク處ノ郡ノ外ニ、國人更ニ別郡ヲ分置スルコト、其來ルコト久シ、所謂和泉國泉南郡、(和泉郡ヲ分ツ)陸奧國高野郡、(白河郡ヲ分ツ)伊達郡(磐瀬郡信太郡ヲ分ツ)等ナリ、其他上野國群馬郡ヲ分テ、東西二郡トスルノ類皆國人ノナス所ニシテ、朝家ノ所置ニハアラズ、然レドモ當時通用スル處ニシテ、國司モマタ知ラザルニアラズ、後世ニ到ルニ及デ、諸國此ノ類多シ、陸奧三十六郡、別テ五十四郡トナルモノ、其尤モ甚ダシキモノナリ、本國新治ヲ、西郡、中郡、東郡トシ、茨城ヲ南北二郡ト〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1118 〈シ那珂ヲ東西トシ、久慈ヲ東西トスルガ如キハ、皆郡名第一第二各郡ノ下ニ辨ゼリ、コヽニ載スルモノハ、更ニ別名ヲ設ケ、分テ一郡トセル類ノミナリニ〉

〔新編常陸國誌〕

〈十俗稱郡名〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1118 吉田郡(○○○)〈與之多〉 那珂郡東邊ノ地ニテ、本郡三分ノ一ニ居ル、吉田郷ヲ本トス、故ニ吉田郡ト云フ、將門記ニ、將門常陸ニ在テ、以下原本缺 補、貞盛ノ所在ヲ尋ヅヌル條ニ、爰猶相尋之間、漸隔一旬、僅吉田郡蒜間之江邊拘得貞盛、源扶之妻云云、宮本元球云、本國ノ内、私ニ稱セル郡名ニテハ、吉田郡最モ古シ、嘉元田文ニ、吉田郡廿三町一段内、恒富倉員〈按、吉田社仁平元年留守所牒ニモ、吉田郡倉員アリ、今其所ヲ失ス、〉鹽井河、〈按大使役記ニモ、鹽井河氏アリ、今其所ヲ失ス、〉大野、石前、武田、大戸、長岡、中野根、〈今詳ナラズ〉平戸、馬渡、石川、戸田野トアルモノ、皆其地ノ目ナリ、又大掾傳記ニ、吉田氏族ノ姓氏、菖蒲井、中山、方波見、〈並上石崎ノ地〉石崎、大戸、石河、盛戸、〈今森戸〉島田、大野、平戸、谷田部、勝倉、武田、堀口、市毛、猫崎、〈大戸ノ地〉蛭町、大泉、〈並下大野ノ地〉道理山、〈三段田ノ地〉八辻、〈按、其所詳ナラズ、江戸重通、室伏某ニ贈ル書ニ、ヤツムシヤハリノ内ト云フ事アリ、八辻ニ似タリ、今八文字ト云フ苗字ノ人アルハ、此八辻、ヤツムシノ轉ゼシニヤ、〉常葉、宇喜、〈又宇木、浮ニ作ル、常葉ノ地ナリ、〉袴塚ナドアルヲ以テ、郡境ノ概略ヲ知ルベキナリ、ソノ域ハ、今小鶴川ヲ西界トシテ、ソノ東北ヨリ那珂東ニ渡リテ、ソノ南邊ニ若干アリシナリ、〈按ズルニ、藥王院延元二年、觀應三年、文和二年、貞治五年、應安元年等文書、吉田社應永三年文書、税所應永十七年文書、及切手員數、大永中記ス所ノ諸草心車鈔等ニ吉田郡ノ稱アリ、其他枚擧スルニ遑アラズ、〉

〔將門記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1118 新皇勅曰、藤氏等可申掾貞盛、并爲憲等之所在、于時藤氏等奏曰、如聞、其身如浮雲飛去飛來、宿處不定也奏訖、爰猶相尋之間、漸隔一旬、僅吉田郡http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/7f0000651362.gif 間之江邊、拘得掾貞盛、源扶之妻

〔新編常陸國誌〕

〈十俗稱郡名〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1118 佐都郡(○○○)〈沙土〉 久慈郡ノ東邊ナリ、本郡三分ノ一ニ居ル、佐都ヲ以テ名稱トセルハ、本郡薩都郷ヲ本トスレバナリ、 補、佐都河ヲ界ヒシテ、東西二郡ニ分チシト見エテ、弘安太田文ニ、佐都東二百八十九町八段三百歩、内東岡田、西岡田、根本大森、泉、今泉、千根、波田、小澤、佐都西二百五十六丁三段小、内小野崎、中小野崎、阿久津、小野、西河内、吉津、磯部、石神、鎌田、東河内、大田、白岩、世谷、大橋、加津見澤ノ名アリ、以

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1119 テ二郡境域ノ大概ヲ知ルベシ、 伊佐郡(○○○)〈以沙〉 新治郡ノ西邊ナリ〈補今眞壁郡ニ入ル、〉國人新治ヲ分チテ西郡、中郡、東郡トセシコトハ、郡名第一ニ述ベタルガ如シ、其内又西郡ヲ分テ二條トシ、西郡南條、西郡北條トナセリ、サテ南條ヲ關郡ト云ヒ、北條ヲ伊佐郡トヨベリ、弘安太田文ニ、西郡南條ト書シテ、關ト傍書シ、西郡北條ト書シテ、伊佐ト傍書セシハ此故ナリ、全ク伊佐郡ト書キタルガ物ニ見エタルハ北條記ナル、北條時國ノ事跡ニ、弘安七年下向常陸國伊佐郡ト見ヘタル、是ゾ始メニハアリケル、伊達系圖、常陸入道念西ノ傳ニモ、住伊佐郡中郡ト見エタリ、〈中村ハ今ノ中館ナリ、原本頭書水谷系譜ニ、伊佐三十三郷ノ稱アリ、〉鹿島大禰宜文書、〈以下原本缺〉 補、宮本元球云、鹿島護摩堂文書、〈應安〉伊佐郡平塚郷〈今村アリ〉ナドアリテ、伊讃ヲ本郷トス、弘安勘文、西郡北條、〈伊佐〉九十九町一段六十歩内〈以東四十八丁大、以西五十一丁半、〉トアリ、

〔飯野八幡社古文書〕

〈坤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1119 伊賀式部三郞盛光謹言上、欲早且任外題安堵讓状旨、且依御方合戰軍忠、成賜安堵御下文、備末代龜鏡、彌抽武勇忠節、當知行所領常陸國伊佐郡内石原田郷地頭職、陸奧國好島莊内飯野村、并好島村預所職事、〈◯中略〉右然早且任重代相傳安堵讓状等旨、且依御方合戰異于他忠、當知行無相違之上者、成賜安堵御下文、備末代龜鏡、彌爲武勇奉公、恐々謹言上如件、 建武四年六月日 花押(裏紙端ニアリ)

〔新編常陸國誌〕

〈十俗稱郡名〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1119 關郡(○○)〈世岐〉 新治郡ノ西邊ニシテ、西郡南條ノ名ナリ〈事伊佐ノ下ニ詳ナリ、コノ地今眞壁郡ニ入ル、原本頭書圓福寺記録ニ、關三十三郷ノ稱アリ、〉關郡ト云コトノ物ニ見エタルハ、東鑑〈以下原文缺〉

〔常陸國郡考〕

〈二新治郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1119 關郡 東鑑、寶治二年、關郡二木奈利郷、〈今二木成村〉梅松論、建武三年、〈箱根竹下合戰の段〉常陸關郡を結城〈祐廣〉に賜ふとあり、本郷は郡の南地、花田、關本等の地也、弘安勘文に、西郡南條〈關〉百八丁五段三百歩とある、是關郡なり、

〔吾妻鏡〕

〈三十九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1119 寶治二年六月十五日辛卯、酉刻常陸國關郡仁木奈利郷、白雪降則休止云云、

〔新編常陸國誌〕

〈十俗稱郡名〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1120 笠間郡(○○○)〈加佐麻〉 古新治郡東邊ノ地ナリ、故ニコレヲ東郡ト云フ、〈今悉ク茨城郡ニ屬ス〉弘安太田文ニ、東郡吉原四丁三段小、福原十八丁六段小、稻田社十七丁小、赤澤十四丁一段半、〈鹿島神領〉野尻二丁二段小、本殿廿丁五段、大藏省保五十一丁二段大、大淵九十四丁二段六十歩、黒栖四十二丁五段、方庭四十七丁三段、石井原七丁八段、大藏庄五十一丁二段大〈按ニ前ニ大藏省保五十一町二段大トアリテ、ココニ亦カクノ如ク出デタルハ、重複ニ似タリ、サレド笠間十二郷ト云ヘレバ、全クノ重複ニハアラズ、一ツハ徳倉ナルベシ、但丁段ノ數ノ同ジキハ、大藏トカキタルヨリ、遂ニ丁段ヲモ誤リタルナルベシ、下ニ云ヘル今ノ十二郷ト合セ見ルベシ、〉トアルコレナリ、全ク笠間郡ト記セルハ、新鸞繪傳ニ、笠間郡稻田郷云云ト見エタルゾ始メナル、コノ繪傳ハ、永仁三年ニナリタルモノナレバ、ハヤク此頃ヨリ笠間郡ノ名アリタルコト明ニ知ラレタリ、洞院相國ノ拾芥抄ニモ笠間郡ヲノセタリ、コノ書モ、後花園帝時代ノモノナリ、但笠間ト云ヘル名ハ、古クヨリアリシト見エテ、風土記ニモ、自郡以東五十里在笠間村云々トノセタリ、コレハ村里ノ名ニテアリシヲ、郡ト云ヒ出タルハ、鎌倉將軍ノ世ノコトトゾ聞エタル、コレモ東郡トノミ云ヒテハ、新治一郡ノ稱ニテアレバ、更ニ笠間郡ト稱シテ、別ニ三郡ノ如クニハナレルナルベシ、府中ノ税所ニ藏セル文書ノ内、年貢ナド召サルベキ符ノ數ヲ書キタル者ト見ユル書ニ、始メニハ切手員數ト題シテ、笠間郡十二枚ト記セリ、太田文ニモ注セルゴトク、笠間郡ヲ十二郷ニ分ケラレタレバ、切手モ十二枚アリシト見エタリ、此書モ年號ハナケレドモ、鎌倉將軍ノ時ノ物トハ見ユルナリ、税所文書ノ内、笠間孫三郞家朝ガ、應永四年八月、鎌倉奉行所ニ上ツル目安状ニ、欲早被退寶戒寺三聚院當知行、如元全知行笠間郡十二郷、石并郷半分事〈殘半分者御料所〉云云、右懸名字笠間十二ケ郷内、相違郷之事、去明徳元年十二月給賦銘、令上訴之處、於京都至徳元年關東御吹嘘、並去康應元年御注進等之旨、明徳二年二月廿二日、下給十二郷一圓安堵御下文上者、於關東御沙汰、彌不豫儀歟、彼石井郷殘半分者、被御料所上者、宜上意、早被退彼三聚院當知行、任京都安堵御下文旨、下給御施行、石井郷如元全知行、爲夙夜奉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1121 公之勇云々トアリ、コレヲ以テ見レバ、笠間十二郷ハマサシク笠間氏ノ知行セシ所ナリ、熊野參詣願文ノ内ニ、明徳二年極月初二日、常陸國笠間郡住人、福原常陸介朝宗、安藤四郞國守〈石井〉平六三郞國安〈黒栖郷〉ト見ヱタリ、後ニハ笠間庄ト稱シテ、郡トハ云ハザリシト見ヱテ、稻田社祭禮ノ歌ニ、奧州ハ五十四郡、常陸ハ十六郡、其中ニ笠間庄稻田郷ニ立チ給フ、稻田四所大明神云々ト云ヘル句アリ、コノ歌何レノ世ニ作レルモノナルカハシラザレドモ、常陸十六郡トナルニヨレバ、天正以前ナルコト明ナリ、〈◯中略〉 東條郡(○○○)〈皆以音〉 信太郡ノ東邊也 補、弘安太田文ニ、信太東トアルモノ是ナリ、

〔鹿島文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1121 將軍家政所下、可早鹿島社權禰宜中臣能親、領知常陸國府郡(○○○)橘郷、行方郡大賀村當社名田畠事、 右任亡父朝親正安三年十月廿五日讓状、〈子細載之〉爲彼職沙汰之状、所仰如件、以下、 乾元二年二月三日 案主菅野 令左衞門少尉藤原 知家事 別當武藏守平朝臣 相模守平朝臣 ◯按ズルニ、國府郡ハ茨城郡ナラン、

〔集古文書〕

〈四十四寄附状〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1121 足利持氏寄進状〈相模國鎌倉松岡八幡宮藏〉 奉寄進 松岡八幡宮 常陸國北條郡(○○○)宿江〈右衞門佐入道跡〉事 右爲天下安全、武運長久、所寄附之状如件、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1122  應永二十四年閏五月二日 左兵衞督 源朝臣

〔倭名類聚抄〕

〈六國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1122 常陸國 新治郡 坂門 竹島 沼田 伊讃 博多 巡廻 月波〈都木波〉大幡 新治 下眞 巨神 井田 眞壁郡 神代 眞壁 長貫 伴部 大苑 大村 伊讃 筑波郡 大貫 筑波 水守〈美毛利〉三村 栗原 諸蒲 清水 佐野 方穗 河内郡 島名 河内 大山 八部 眞幡 菅田 大村 信太郡 大野 高來 小野 朝夷 高田 子方 志萬 中家 島津 信太 乘濱 稻敷 阿禰 驛家 茨城郡 夷針 山前 城上 島田 佐賀 大幡 生國 茨城 田舍 小見 拜師 石間 安飾 白川 安侯 大津 立花 田籠 行方郡 提賀 小高 藝都 大生 當鹿 逢鹿 井上 高家 麻生 八代 香澄 荒原 道田 行方 曾禰 坂來 餘戸 鹿島郡 白鳥 下鳥 鹿島 高家 三宅 宮前 宮田 中村 松浦 中島 輕野 徳宿 幡麻 大屋 諸尾 新居 伊島 上島 那珂郡 入野 朝妻 吉田 岡田 安賀 大井 河内 川邊 常石 全隈 日下部 志萬 阿波 芳賀 石上 鹿島 茨城 洗井 那珂 八部 武田 幡田 久慈郡 岡田 八部 倭文 高月 助川 美和 志萬 眞野 神前 父來 大田 山田 河内 楊島 世矢 佐竹 高市 木前 佐野 都 餘戸 多珂郡 梁津 伴部 高野 多珂 藻島 新居 賀美 道口

〔常陸紀行〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1122 國郡古今の沿革轉遷定まらずして、其詳なる事得て知るべからず、眞壁郡の郷名に伴

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1123 部あり、伴部は友部にして、西那珂郡にありと云、又多珂郡にも友部あり、又陸奧國に行方郡あり、又那珂郡に芳賀の郷名見ゆ、芳賀は下野國の郡名たり、又多珂郡に高野郷あり、高野は、中世今の白河郡を高野郡ともいひし事あり、そのゑにしにや、今白河郡に高野村あり、又茨城郡に白河の郷名あり、又助川郷は多珂郡にあり、然るに久慈郡に屬せり、今彼此の地名を點撿し、古今遷移の來歴を考ふるに、各皆因て來れる處あり、今余〈◯黒崎至純〉が臆載を此に存して、以て識者の考定を請、

〔道の幸〕

〈中〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1123 廿日、〈◯寛政四年十一月〉ひるのしたヽめして法隆寺へ行、〈◯中略〉太子御茵とて、あまたある中に、縫めもきれて、中倍の細緯筵出たるが、裏は幅ひろき布にて、端に常陸國信太郡中家郷(○○○)戸主大伴羊天平寶勝八年と墨もて書て有、寶勝は勝寶の書たがへるにや、八年の下は十月とおぼしくて其下は消てみえず、

〔吾妻鏡〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1123 治承五年〈◯養和元年〉十月十二日乙卯、以常陸國橘郷(○○)、令鹿島社、是依武家護持之神、殊有御信仰云云、 奉寄鹿島社御領 在常陸國橘郷 右爲心願成就、所寄如件、 治承五年十月日 源頼朝〈敬白〉

〔吾妻鏡〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1123 元暦二年〈◯文治元年〉八月二十一日辛未、鹿島社神主中臣親廣、與下河邊四郞政義御前、遂一決、是常陸國橘郷者、被彼社領訖、而政義以當國南郡〈◯茨城〉總地頭職郡内、押領件郷、令責神主妻子等、剩可所勘之由、取祭文之旨、親廣訴申之政義雌伏、頗失陳謝、爲眼代等所爲歟之由稱之、〈◯下略〉

〔鹿島文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1123 下常陸國 鹿島(在判)社司并在廳官人等 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1124早爲中臣親盛沙汰、令上レ仕神事奧郡内大窪(○○)并鹽濱郷(○○○)事、 右件兩郷、爲親盛沙汰、於有限所當者、一向爲神用途、無懈怠仕神事之状如件、敢不違失、故下、 元暦元年十二月廿五日

〔鹿島文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1124 鹿島社權禰宜實則子息大禰宜則氏、申常陸國大窪郷内鹽行倉村田五町在家五宇事、 右郷者、右大將家、元暦元年於當社不斷大般若轉讀御寄進之、〈◯中略〉 當郷社領之條、代々御下知分明也、於正應沒收之地者、人領尚以就理非裁許、況神領難沒收之間、於彼田在家者、所付實則跡也、次替事可行當給人者、依鎌倉殿仰、下知如件、 正安三年三月三日 陸奧守平朝臣〈◯宣時〉 相模守平朝臣〈◯貞時〉

〔吾妻鏡〕

〈二十三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1124 建保六年三月二十三日、今日常陸國志筑郷(○○○)内願成寺住僧等有參訴事、撿注使以新儀、可勘寺領之由張行云云、仍可停止之趣、右京兆下知給之云云、

〔田文〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1124 領家雜掌所進 安貞二年〈戊子〉田撿注百姓名并目録事 吉田郷(○○○)分 田二十九町大内除田十六丁七反此内神田四丁七反 寺田丁加定人給田十二丁 定收納田十二丁三反大〈◯中略〉 酒戸郷(○○○)分〈田十六丁九段内除三丁七反 定收納田十二丁三反 二丁一反六十歩〉 河崎郷(○○○)分〈田十丁三段三百歩除二丁六反 定收納田七丁六反三百歩〉 細谷村分〈田五丁一反小内除田八段 定收納田四丁三反小〉 吉沼郷(○○○)分〈田十二丁六反内除六反 定收納田十二丁三反小〉 山本郷(○○○)分〈田十四丁二反大内除三丁一反 定收納田十一丁一反大〉 仁治帳 常葉郷(○○○)分 定收納田十二丁一反六十歩 袴塚郷(○○○)分 田十四丁四反三百歩〈除二丁半神田佐渡 村作田八丁七反 神生村作田六段〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1125 宇喜郷(○○○)分〈田二十五丁九反大内除九丁七反小神田人給田 定收納田十五丁一反小 二反三百歩 垣丸〉 右一段別ニ籾一斗九升五合 頴錢百十五文 此内籾一斗錢百文ハ、上御物、籾九升五合錢十五文ハ、政所田所二人ノ給分、總合一反別ニ三百文ニなさる 右大略注文如件 應永十二年十月八日書了

〔鹿島文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1125 常陸國中郡庄内礒部郷(○○○)半分預所、高重嫡女大中臣氏申繼母押領當職申事訴状、〈別具書〉遣之、子細何様事哉、早可注申之状、依仰執達如此、 弘長元年十二月廿二日 相模守 秋田城介殿

〔鹿島文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1125 鹿島大禰宜朝親、與野本四郞左衞門尉法師、〈法名行〉相論當社領大枝郷(○○○)事、 右訴陳之趣、子細雖多、所詮當郷下地者、嘉禎三年以和與之義、令中分之由所見也、〈◯中略〉次狼藉事、於守護方其沙汰云々、其上者不異儀者、依鎌倉殿仰下知如件、 永仁六年二月三日 陸奧守平朝臣〈◯北條宣時〉 相模守平朝臣〈◯北條貞時〉

〔鹿島文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1125 常陸國大枝郷給主能親、與地頭野本四郞左衞門尉貞光、并和泉三郞左衞門尉顯助等、相論鹿島社不開御殿仁慈門造營事、〈◯中略〉遷宮于今遲引、而當郷者、地頭給主折中之地也、任先規兩方可勤仕之旨、云度々御教書、云木田見、大王、藤井、田子共等之例、炳焉之由、能親所申有其謂、爰國奉行人成敗雖區、下地平均課役、可分限之條、相叶理致、然者地頭給主共可造進之旨、加催促、急速可其功之状、依仰執達如件、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1126  正中二年六月六日 散位

〔常陸國總社文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1126 常陸國惣社造役所地頭等請文 一通 大枝三分二地頭代左衞門三郞請文 一通 小河庵澤(○○○○)兩郷地頭益戸七郞左衞門尉 一通 竹原郷(○○○)地頭彌七請文 一通 河俣郷(○○○)地頭次郞太郞請文 一通 上曾郷(○○○)地頭上曾三郞請文〈◯中略〉 一通弓削田木谷兩郷(○○○○○○○)地頭益戸四郞左衞門尉 一通 野寺郷(○○○)一分地頭益戸四郞兵衞尉 一通 志筑郷(○○○)大枝郷地頭益戸和泉前司 一通 筑波社三村地頭小田常陸前司 一通 田余郷(○○○)地頭常陸大掾請文 一通 大橋郷(○○○)給主税所左衞門入道請文 一通 吉田社沙汰人臼根三郞入道請文 一通 小幡管間(○○○○)兩郷地頭藤原氏請文 一通 小井戸郷(○○○○)地頭等請文〈連署〉 一通 大橋郷地頭所請文〈連署〉 以上十九通 右目六如件 文保三年三十日

〔圓覺寺文書〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1126 渡進 正續院領常陸國推大郷(○○○)内宮山田地屋敷具書等事〈◯中略〉 右渡進之状、如件、 元亨四年十一月十日 平光泰〈花押〉

〔鹿島文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1126 鹿島社大禰宜良親申、常陸國相賀郷(○○○)正和三年以來神用等事、如去三月十九日陳状者、毎年致其弁帶返抄云々、早遂結解、有未進者、可究濟之状、依仰執達如件、 嘉暦三年七月廿五日 相模守 行方中務四郞入道女子

〔鹿島文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1126 常陸國行方郡君舍人郷(○○○○)内根地木村事、爲不斷護摩祈料、所寄附也、可天下安全御祈

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1127 禱精誠之状、依仰執達如件、 康永六年九月十四日 參河守〈按高師冬也〉 鹿島護摩堂長老

〔臨川寺文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1127 常陸國東岡田郷(○○○)地頭職〈詫間式部大夫跡〉所臨川寺也、可知行者、天氣如此、仍執達如件、 元弘三年八月七日 右兵衞督〈花押◯葉室長光〉 夢窻上人御坊

〔烟田文書〕

〈天〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1127 雜訴決斷所〈牒〉 徳宿彦太郞幹宗所 常陸國鹿島郡徳宿郷(○○○)内、鎌田、鳥栖、富田、大和田、四箇村地頭職事、 右當知行、不相違者、以牒、 建武元年五月二十四日 少判事中原朝臣在判 左中辨藤原朝臣在判

〔續常陸遺文〕

〈八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1127 常陸國信太莊〈信太郡〉下條佐倉郷(○○○○○)權現堂〈◯中略〉免田貳段坊敷畠等事、 僧祐海所 右免田畠等者、任去正和三年三月十八日寄進状之旨、祐海令掌彼田畠等、可公私御祈禱精誠之状如件、 建武二年八月十五日 在御判

〔相州文書〕

〈圓覺寺亨〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1127寄進 常陸國玉作郷(○○○)内田地參町事 右彼田地者、永代所進先師佛光禪師塔頭正續院也、仍寄進状如件、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1128  建武貳年九月日 沙彌存考〈花押◯土岐頼貞〉

〔吉田社文書〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1128寄進虚空藏堂在家等事 合久恒以前堀内壹宇、并東内壹宇等者、 四至〈限東安主彦三郞知行分畠堺、限南禰宜四郞知行分、 限西田所恒長知行分畠堺、 限北彼堀内後大堀北http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/7f0000650ffa.gif 、 安主彦三郞畠引付此内虚空藏堂等有之 右地者、常陸國吉田郷(○○○)分内宿戸吉田社權現名内久恒代相傳之地也、而間彼虚空藏堂佛物錢七貫文請負依不辨、彼錢以件堀内并東在家等、彼堂限永代寄進也、〈◯中略〉仍爲後日寄進状如件、 建武貳年十月十一日 吉田社大祝大舍人久恒〈花押〉

〔鹿島文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1128 下河邊左衞門藏人重状 下河邊左衞門藏人行景言上、欲早被嚴密御沙汰、御使注進分明上者、重被下御奉書、破却城墎沙汰付、下地全知行常陸國行方郡倉河郷(○○○)〈倉河三郞太郞次〉同郡小牧郷(○○○)内〈小牧彌十郞跡〉事、 副進 二通 御奉書案 右巨細者言上畢、而於倉河郷者、午賀土用納禮丸押領之、至小牧郷内〈小牧彌十郞跡〉者、小牧彌十郞知行之、各構城墎、擬合戰之間、不沙汰付之由、御使注進分明也、然早重作御使被却城墎、被渡下地、爲知行、重言上如件、 文和三年八月

〔田文〕

〈七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1128與嫡子佐竹左近大夫將監義香所 一常陸國佐都西郡内太田郷(○○○) 同國久慈東郡内高倉郡(○○○) 同國那珂西郡 同國久慈庄 同國多珂庄 同國石崎保 同國那

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1129 珂東郡之内戸村之内〈◯中略〉 右所領等、代々相傳、御下知安堵御下文、御下状相副了、嫡男美香、仁永代所讓與也、更不他妨、但此内庶子等分以同筆而令之、此文不違亂煩、凡於本知行分者、代々讓公驗分明也、至于新恩地者、悉上方御承知之間、爲後證書置之、所與御判也、守此旨知行、仍状如件、 文和四年二月十一日 右馬權守義等在判 右常陸國密藏院所藏文書數紙之中也

〔鹿島文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1129進鹿島御社常陸國伊佐郡平塚郷(○○○)事 右當郡者、先年以一同御下文拜領之訖、而去年應安元閏六月十二日、有公方御寄進之由、社家被申候云々、前後甚之參差之間、雖子細、依崇敬之志、所寄附之状如件、 應安三年六月廿五日 下野守義政

〔鹿島文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1129 高橋郷(○○○)百姓足分帳事 一神講田年本主畢作結分筒田荒野下地、於山野河者、可相所務者也、仍定所如件、 至徳貳年十二月廿日 東田井郷(○○○○)百姓足分帳事 一神講田下地、并山野河、可相所務者也、仍定所如件、 至徳貳年十二月廿日

〔集古文書〕

〈四十四寄附状〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1129 足利持氏寄進状〈相模國鎌倉鶴岡八幡宮藏〉寄進 鶴岡八幡宮 常陸國那珂東國井郷(○○○○)内〈佐竹左馬助跡〉事 右去十六日、於社頭下人狼藉收公之、爲武藏國津田郷内放生會料所不足分、所寄附之状如件、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1130  應永二十七年八月二十日 左兵衞督源朝臣判

〔鹿島文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1130進鹿島太神宮 常陸國眞壁郡白井郷(○○○)〈眞義〉事 右爲天下安全武運長久、所寄附之状如件、 應永卅一年十月十日 從三位源朝臣御〈◯足利持氏〉

〔集古文書〕

〈四十四寄附状〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1130 應永三十一年寄進状〈相模國鎌倉鶴岡八幡宮藏〉 奉 鶴岡八幡宮 常陸國北小栗御廚内小萩島郷(○○○○)之事 右爲家門繁昌武運長久、所奉寄附之状如件、 應永三十一年十二月二十三日 藤原定頼

村里/名邑

〔郡名一覽〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1130 常陸國(御料私領) 〈常州 南北三日〉 拾壹郡 高九拾萬三千七百七拾八石四斗五升八合 千六百七拾七ケ村 ●水戸 三十里 ●土浦 十八里 ●笠間 二十八里半 ●下館 二十二里半 ○府中 二十一里 ○宍戸 二十五里 ○矢田部 三十六里 ○麻生 三十六里 ○牛久 十六里 ○下妻 二十里 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/7f000063104e.gif 志筑 〈二十里 本堂内藏助〉 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/7f000063104f.gif <龍ケ崎 〈仙臺領一万石〉 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/7f000063104f.gif ●松岡〈水戸 二万五千石〉中山備前守 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/7f000063104f.gif ○生瀬 〈同上 一万石〉山野邊主水正 <眞岡 二十六里 <上郷〈十七里〉 ◯按ズルニ、本書ノ符號ハ、山城國篇村里條ニ引ク所ノ、本書ノ凡例ヲ參照スベシ、

〔郡國提要〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1130 常陸 十一郡、千七百二十三村、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1131  高百万五千七百七石四斗八升九合三才(御料私領) 永高二十一貫文 茨木郡三百四村 那珂郡百四十二村 久慈郡百六十二村 多賀郡九十二村 新治郡百七十九村 眞壁郡二百三十四村 筑波郡百七十四村 信太郡八十九村 河内郡百三十村 行方郡八十九村 鹿島郡百二十八村

〈武藏上野〉

〔國村名帳〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1131 關東村數 常陸國 千九百九ケ村

〔地勢提要〕

〈坤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1131 郡邑島嶼奇名 常陸鹿島郡、勝下(カツヲリ)村、下津(ヲリツ)村、國來(クノコセ)村、東下(トウシモ)村、

〔常陸風土記〕

〈新治郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1131郡以東五十里在笠間村(○○○)、越通道路、稱葦穗山

〔常陸風土記〕

〈信太郞〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1131 郡北十里碓井、古老曰、大足日子天皇〈◯景行〉幸浮島之帳宮、無水供御、即遣卜者訪占、所所穿之、今存雄栗之村(○○○○)此以西高來里(○○○)、古老曰、天地權輿、草木言語之時、自天降來神名稱普都大神、巡行葦原之中津國、和平山河荒梗之類、大神化道已畢、心存天、即時隨身器仗〈俗曰、伊川乃川惠、〉甲戈楯劒、及所執玉珪、悉皆脱屣、留置茲地、即乘白雲、還昇蒼天、〈◯中略〉 古老曰、倭武天皇巡幸海邊、行至乘濱、于時濱浦之上多乾海苔〈俗曰乃理〉由是名能理波麻之村(○○○○○○)、 乘濱里(○○○)東有浮島村(○○○)、〈長二千歩、廣四百歩、〉四面絶海、山野交錯、戸一十五烟、里七八町餘、所居百姓、火鹽爲業、

〔常陸風土記〕

〈茨城郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1131 郡東十里桑原岳、昔倭武天皇停留岳上、進奉御膳、時令水部新掘清井、出泉淨香、飮喫尤好勅曰、能渟水哉〈俗曰、與久多麻禮留彌津可奈、〉由是里名謂田餘(○○)

〔常陸風土記〕

〈行方郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1131郡西北提賀里(○○○)、古有佐伯手鹿、爲其人居追著里、其里北在香島神子之社、社周山野地沃、草木椎栗竹茅之類多生、從此以北曾尼村(○○○)、古有佐伯、名曰疏禰毘古、取名著村、〈◯中略〉 郡南七里男高里(○○○)、古有佐伯小高、爲其居處、因名、〈◯中略〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1132 麻生里(○○○)、古昔麻生于渚沐之涯、圍如大竹、長餘一丈、周里有山、椎栗槻櫟生、猪猴栖住、其野出荕馬飛鳥淨御原大宮臨軒天皇〈◯天武〉之世、同郡大生里(○○○)建部袁許呂命得此野馬於朝廷、所謂行方之馬、或云茨城之里馬非也、 郡南二十里香澄里(○○○)、古傳曰、大足日子天皇〈◯景行〉登坐下總國印波鳥見丘、留連遙望、顧東而勅侍臣曰、海即青波浩行、陸是丹霞空朦、國在其中、朕目所見者、時人由是謂之霞郡、〈◯中略〉從此往南十里板來村(○○○)、〈◯中略〉 古老曰、斯貴瑞垣宮大八州所馭天皇〈◯崇神〉之世、爲東夷之荒賊、遣建借間命、〈即此那賀國造初祖〉引率軍士、行略凶猾、頓宿安婆之島、遙望海東之浦、時烟所見、爰疑人、建借間命仰天誓曰、若有天人之烟者、來覆我上、若有荒賊之烟者、去靡海中、時烟射海而流之、爰自知凶賊、即命徒衆、褥食而渡、於是有國栖名曰夜尺斯、夜筑斯、二人自爲首帥、堀穴造堡、常所居住、覘伺官軍、伏衞拒抗、建借間命縱兵驅追、賊盡逋還、閉堡固禁、俄而建借間命大起權議、校閲敢死之士、伏隱山阿、造備滅賊之器、嚴飾海渚、連船編栰飛雲蓋虹旌、天之鳥琴、天之鳥笛、隨波逐潮、杵島唱曲、七日七夜、遊樂歌儛、于時賊黨聞盛音樂、擧房男女、悉盡出來、傾濱歡咲、建借間命令騎士閉一レ堡、自後襲擊、盡囚種屬、一時焚滅、此時痛殺所言、今謂伊多久之郷(○○○○○)、臨斬所言(フツトヰルニノゾミテ)、今謂布都奈之村(○○○○○)、安殺所言、今謂【安伐(アバ)之里】、吉殺所言、今謂【吉前(ヨシサキ)之邑】、〈◯中略〉 自郡東北十五里當麻郷(○○○)、古老曰、倭武天皇巡行過于此郷、有佐伯、名曰鳥日子、縁其逆一レ命、隨便略殺、即幸屋形野之頓宮、車所經之道、狹地深淺、取惡路之義、謂之當麻、〈俗曰、多支多支斯、◯中略〉從是以南【藝都(キツ)里】、〈◯中略〉其南名田里(○○)、息長足日賣皇后〈◯神功〉之時、此地人名曰古都比古、三度遣於韓國、重其功勞田因名、又有波都武之野、〈◯中略〉從此以南【相鹿大生(アイカオホフ)里】、古老曰、倭武天皇坐相鹿丘前宮、此時膳炊屋舍、構立浦濱、編䑻作橋通御在所、取大炊之義、名大生之村(○○○○)、又倭武天皇之后、大橘比賣命自倭降來、參遇此地、故謂【安布賀(アフカ)之邑】

〔常陸風土記〕

〈香島郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1133 郡東二三里高松濱、〈◯中略〉自此以南至輕野里(○○○)若松濱之間、可卅餘里、此皆松山、産伏苓伏神、毎年堀之、〈◯中略〉 郡南廿里濱里(○○)〈◯中略〉 郡北三十里白鳥里(○○○)、古老曰、伊久米天皇〈◯垂仁〉之世、有白鳥、自天飛來、化爲童女、夕上朝下、摘石造池、爲其築一レ堤乎、徒積日月之、築壞不作成、童女等唱曰、〈志漏止利乃、芳我都都彌乎、都都牟止母、安良布麻目右疑、波古叡〉斯呂唱歌昇天、不復降來、由是其所號白鳥郷

〔常陸風土記〕

〈那賀郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1133 茨城里(○○○)、自此以北高丘、名曰晡時臥之山、古老曰、有兄妹二人、兄名努賀毘古、妹名努賀毘咩、時妹在室、有人不姓名、常就求婚、夜來晝去、遂成夫婦、一夕懷妊、至産月、終生小蛇、明若言、闇與母語、於是母伯驚奇、心挟神子、即盛淨杯、設壇安置、一夜之間、已滿杯中、更易瓫而置之、亦滿瓫内、如此三四、不敢用一レ器、母告子曰、量汝器宇、自知神子、我屬之勢、不養長、宜父所在、不此者、時子哀泣、拭面答曰、謹承母命、無敢所二レ辭、然一身獨去、無人共去、望請矜副一小子、母曰、我家所有、母與伯父而已、是亦汝明所知當無人可相從、爰子含恨、而事不吐之、臨決別時、不怒怨、欲殺伯父、而昇天、時母驚動、取瓫投之、觸神子昇、因留此峯、所盛瓫甕、今存片岡之村(○○○○)、其子孫立社致祭、相續不絶、

〔常陸風土記〕

〈久慈郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1133郡西北六里河内里(○○○)、本名【古古之(ココシ)邑】、〈俗説謂猿聲、爲古古、◯中略〉 郡西里【靜織(シトリ)里】、上古之村、未綾之機、未知人、于時此村初織、因名之、〈◯中略〉 郡東里小田里(○○○)、多爲墾田、因以名之、〈◯中略〉其里大伴村(○○○)有涯、土色黄也、群鳥飛來、啄咀所食、 郡東七里太田郷(○○○)、長幡部之社、〈◯中略〉自此以北薩都里(○○○)、古有國栖、名曰土雲、爰兎上命發兵誅滅、時能令殺福哉所言、因名佐都、〈◯中略〉 所高市、自此東北二里密筑里(○○○)、村中淨泉、俗謂大井、夏冷冬温、湧成川、

〔常陸風土記〕

〈多珂郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1133 古老曰、斯我高穴穗宮大八洲照臨天皇〈◯成務〉之世、以建御狹日命、任多珂國造、〈◯中〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1134 〈略〉建御狹日命當遣時、以久慈堺之助河、爲道前、〈去郡西北六十里、今猶稱道前里、〉陸奧國石城郡苦麻之村、爲道後、其後至難波長柄豐前大宮臨軒天皇〈◯孝徳〉之世、癸丑年、多珂國造、石城直美夜部、石城評造部志許赤等、請申總領高向大夫、以部遠隔往來不一レ便、分置多珂石城二郡、〈石城今存陸奥國堺内〉其道前里飽田村(○○○○○○)、古老曰、倭武天皇爲東陲、頓宿此野、有人奏曰、野上群鹿、無數甚多、其聳角如蘆枯之原、比其吹氣、似朝霧之立、又海有鰒魚、大如八尺、并諸種珍味、遊理多者、於是天皇幸野、遣橘皇后、臨海令漁、相競捕獲之利、別探山海之物、此時野獵者終日驅射、不一宍、海漁者、須臾才採、盡得百味焉、獵漁已畢、奉御膳、時勅陪從曰、今日之遊、朕與皇后、各就野海、同爭祥福、〈俗語曰佐知〉野物雖得、而海味盡飽喫者、後代追跡名飽田村

〔新編常陸國誌〕

〈二十五都邑〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1134 水戸(○○)〈美登〉 水戸ノ地ハ、古ヘ那珂郡ニ屬シテ、常石、吉田二郷ニ跨レリ、中世吉田郡ノ起ルヤ、其内ニ入リ、郡廢スルニ及ビテ、永ク茨城郡ノ所管トナル、初大掾氏ノ此地ニ據ルヤ、士人ヲ延テ邸宅ヲ與ヘ、商賣ヲ招キテ市廛ヲ開ク、水戸ノ市街、蓋コヽニ始ル、大掾、子亡ビテ、江戸氏之ニ代リ、江戸氏衰ヘテ佐竹氏之ヲ領シ、大ニ舊模ヲ改メ城市ヲ廣ム、是ヨリ水戸ノ名漸ク世ニ著ハレ、水戸侯ノ稱天下ニ聞ユ、水戸侯出羽ニ徙ルニ及ビテ、永ク徳川氏ノ治所トナリ、益境域ヲ加ヘテ、稱呼ヲ更メ、區畫ヲ正シテ士庶ヲ別チ、國中第一ノ都邑トナル、凡街衢ヲ大別シテ二トナシ、一ヲ上町ト云ヒ、一ヲ下町ト云フ、其地、南ハ千波湖ニ臨ミ、北ハ那珂川ヲ帶ビ、東ハ濱田、細谷ノ二村ニ連リ、西ハ常葉村ノ地ニ錯シテ、中央ニ水戸大城アリ、以テ上町下町ノ分界ヲ爲セリ、〈天和三年ノ町方傳馬定法書ニ、杉山ヤライ御門、御三階下ヤライ御門ヨリ西ハ上町、東ハ下町トアリ、〉

〔新編常陸國誌〕

〈二十九都邑〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1134 土浦(○○)〈都知宇良〉 土浦ハ、古ヘ河内郡大村郷ノ内ナリシガ、〈一説、茨城郡大津郷ノ地ナリトス、〉後郡郷ノ變改ニヨリ、遂ニ新治郡ニ屬セリ、元祿郷帳ニ、新治郡東崎町、中城町トアルモノ即是ナリ、傳言フ、平將門始メテ城ヲ此地ニ築キ、大掾氏ノ支族之ニ代リ、後又今泉、菅谷、結城、松平、西尾

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1135 諸城主ヲ經テ、慶安二年ニ至リ、朽木氏ノ居城トナル、萬治元年城ノ西南郭外ナル民屋ヲ、田宿町ノ背ニ移シテ裏町ト云ヒ、其舊址ニ奴卒ヲ置キ、足輕町ト呼ベリ、後外西町ト云フモノ即是ナリ、〈◯中略〉 笠間(○○)〈加佐麻〉 笠間ハ、佐白山ノ西麓ニ在リ、古新治郡ニ屬シ、中世笠間郡ニ入リ、西那珂郡ニ轉ジ、後終ニ茨城郡ニ隷ス、元祿郷帳ニ、茨城郡上市毛村アリ、笠間ハ即其中ナリ、初メ元久中、藤原時朝下町ヨリコノ地ニ移リ、城ヲ佐白山上ニ築キ、遂ニ笠間氏トナル、子繼ギ孫承ケ、十八代ヲ歴テ、天正十八年ニ至リ亡ブ、ソノ後蒲生、松平、永井、淺野、井上、本庄諸氏相續ギテ此處ニ居リ、元文二年ヨリ永ク牧野氏ノ城市トナリ、屢改修シテ區畫大ニ定マレリ、町數凡二十餘、大町、愛宕町、高橋町、荒町、新町、裸町等ハ、商賣居住ノ町ニテ、戸數凡三百四十八、鷹匠町、座頭町、鐵炮町、日向片町、日蔭片町、田町、大和田、櫻町、五騎町、檜町、四谷、御旗前、表町、裏町ハ諸士ノ住地ニテ、其戸數凡ソ三百六十アリト云フ、〈◯中略〉 下館(○○)〈之毛陀底〉 下館ハ、古新治郡伊讃郷ノ地ナリ、後世伊佐郡ニ入リ、遂ニ定メテ眞壁郡ノ所管トナル、元祿郷帳ニ所謂、眞壁郡西郷谷村、田中村、交會ノ地ニシテ、東ハ勤行川ヲ帶ビ、稻野邊、市野邊、下中山諸村ニ界ヒシ、西ハ菅谷、外塚、西谷貝三村ニ接シ、南ハ下岡芹、二木成、西芳町三村ニ隣リ、北ハ岡芹村ニ連リテ、東西三十丁、南北三十三町アリ、其市中ハ、東西十町、南北十二町ニ餘レリ、下館城主記ヲ案ズルニ、長享文明ノ間、水谷伊勢守勝氏、城ヲコノ地ニ築ヅキ、子孫連綿、寛永十六年ニ至リテ他方ニ移レリ、後松平、増山、黒田諸城主ヲ經テ、享保十七年ヨリ、長ク石川氏ノ城市トナル、天明中ノ舊記ニ據ルニ、市中凡十ケ町アリテ、大町、西町、藥師町、荒町、片町、田町、金井町、裏町、外ケ町、櫻町ト云フ、戸數三百六十五、人口千七百六十二人、〈但大町、西町、藥師町、荒町、片町ノ戸數ハ二百十七ニシテ、人口ハ千百四十七人ナリ、〉アリシト云フ、

〔類聚名物考〕

〈地理四十八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1136 朝來(○○) いたこ 常陸國 朝來の訓は、朝をあしたと訓を、あいたとも通はせるを、上のあを略けるなり、朝所を古訓にあいだんどころといへる例に同じ、近來その文字の訓意を心得かね、かつは文字の雅なるにつきて、潮來と書人もあり、南郭文集に、劉禹錫が竹枝詞にならひて、潮來詞五絶二十首あり、風體絶妙なるに依て、人いよ〳〵その文字を用ゆ、又近頃水戸藩臣森尚謙が儼塾集を讀に、元祿己巳季夏下旬、始從相公駕水戸時の詩に、潮來の七絶有り、潮字を用ゐたり、さらばその頃にも此事有りしにや、但潮をいたと訓事は心得がたし、 儼塾集〈六〉泛河至潮來、〈俗作板久〉漾々青波數十程、泝流蘭漿擊空明、風輕忽到常州境、洗雨松林畫不成、

〔常陸紀行〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1136 行方郡に板來(いたこ)村あり、今潮來といふ、國學者云、潮來は朝來なり、朝來(あしたくる)の反切イタコなりと、朝來は、和名抄に板來と見ゆ、〈今本作坂は誤なり〉風土記にも板來と云、板來の古名如此明了なるを、彼此の反切を論ぜる蛇足なるものなり、

莊保

〔新編常陸國誌〕

〈二十二莊保〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1136 庄ハ庄田ナリ、〈◯中略〉當國ニテハ、將門記ニ石田庄ト見エタルヨリ古キハナシ、其次ニハ東鑑文治四年三月十七日ノ條ニ鎌倉ヨリ諸國庄園ノ事ニ就テ京都ニ申サルヽ事書〈◯中略〉同年六月四日勅答ノ事書ニ、八條院御領、常陸國村田、田中、下村、志太庄、早可仰含候也ト見ユ、

〔吾妻鏡〕

〈八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1136 文治四年三月十七日癸丑、付庄々申條事、先々雖申給、未無左右仰云々、仍重被事書云々、〈◯中略〉 一常陸國村田(○○)、田中(○○)、下村(○○)等庄事、 或安樂壽院領云云、或八條院御領、年貢可汰何御倉候哉、

〔吾妻鏡〕

〈十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1137 建久三年九月十二日辛巳、小山左衞門尉朝政、先年募勳功、俗恩澤、常陸國村田下庄(○○○○)也、而今日賜政所御下文、其状云、 將軍家政所下 常陸國村田下庄〈下妻宮等〉 補任地頭職事 左衞門尉藤原朝政〈◯中略〉 建久三年九月十二日 案主藤井〈◯下略〉

〔吾妻鏡〕

〈二十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1137 建暦二年六月十五日己丑、常陸國吉田庄(○○○)地下沙汰人等、濫妨本所々務、且任去文治二年閏七月二十五日故右大將家御下知、爲關東御沙汰、可彼下地於本所之旨訴申之間、爲廣元朝臣奉行評議

〔吾妻鏡〕

〈脱漏〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1137 元仁二年〈◯嘉祿元年〉九月十二日庚午、故大夫判官光秀遺領事、有其沙汰、彼子息四郞秀村等拜領之常陸國鹽籠庄(○○○)、元和田平太知行之云云、

〔常陸國太田文〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1137 〈端闕〉 同宿内永江六丁八段三百歩 同宿内林十九丁一段半 同宿内小佐三丁四段大 同宿内保立十丁九段六十歩 同宿内山上二丁 同宿内行野二十五丁八段小 同宿内安宗名七丁三段小 下宿内守眞名二丁二段半 下宿内久清二十五丁三段半 同宿内國忠名三十丁八段三百歩 同宿内阿前十三丁五段 同宿内宮武吉名十三丁七段小 同宿内貞國名七丁三百歩 同宿内國正名三十二丁九段小 同宿内猿小河八丁五段三百歩 同宿内五郞丸三丁六段小 同宿内平濱三十丁七段小 同宿内高濱七丁六段六十歩 同宿内筒井三丁五段 同宿内泉河三丁五段 同宿内矢田部十五丁四段小 同宿内矢田葦前三丁 同宿内島前五十七丁三百歩 北條徳宿郷五十四丁八段三百歩 同郷神谷戸五十九丁少 同宮田郷五十六

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1138 丁九段少 十八丁一段六十歩 古河 白鳥郷内中務四郞跡 三十三丁二段少 二十七丁五段 志崎武家村以下在之 同郷内家吉米遠 十六丁八段三百歩 同郷内家吉武國 十六丁四段 同郷内 七丁九段大 下妻庄(○○○)三百七十町 東郡 吉原四丁三段小 福原十八丁六段小 稻田社十七丁小 赤澤十四丁一段半鹿島神領 野尻二丁二段小 本殿二十丁五段 大藏省保(○○○○)五十一丁二段大 大淵九十四丁二段六十歩 黒栖四十二丁五段 方庭四十七丁三段 石井原七丁八段 大藏庄(○○○)五十一丁二段大 中郡庄(○○○)三百八十二丁六段小 眞壁郡 長岡十五丁二段六十歩 谷貝十五丁 龜隈二十三丁四段六十歩 細柴三丁 一木二丁八段 紀三郞名三丁二段 伊佐々五丁一段 山野宇十二丁 山田二十二丁 羽鳥十三丁一段三百歩 椎尾國貞十丁三段 同貞則十八丁八段 同助貞十一丁二段 塙世六丁四段三百歩 中村四丁四段小 源法寺六丁一段 窪八丁五段六十歩 田村十町 白井廿丁大 櫻井十七丁 大國玉社三十丁九段大 大曾禰百十二丁四段六十歩 光行五十四丁二段大 松久五十八丁一段大 小幡四十二丁七段 竹束八丁二段六十歩 伊勢御厨小栗保(○○○)三百二十丁 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1139 西郡南條百八丁五段三百歩 同北條九十九丁六十歩(伊佐) 以東四十八丁大 以西五丁一段半 筑波北條三百四十八丁一段 郡分百十丁一段半 大澤三十七丁卛分保(○○○) 國松五十七丁一段三百歩 隆得三十四丁六段 石前廿二丁五段三百歩 酒依三十丁五段大〈熊野保(○○○)〉 筑波社五十六丁六十歩 本納廿四丁五段大 加納三十一丁四段六十歩 同南條粟野廿四丁五段大 河内郡廿七丁七段半 足高一丁八段大 酒島一丁一段半 大井四丁一段六十歩 小荎二丁半 鷲栖一丁七段 羽原一丁九段大 岡見一丁八段 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/00000001b5b4.gif 田八段三百歩 遠山二丁二段 田却三丁七段 南條方穗庄(○○○○○)九十一丁二段 村田庄(○○○)二百六十町 田中庄(○○○)五百丁 大井庄(○○○)七十二丁一段 信太東二百七十丁二段大 信太庄六百二十丁内 北郡二百七十二丁四段六十歩内 河俣二十一丁六十歩 大多良一丁二段 柿岡三丁九段 菅間七丁三段大 上曾十三丁小 田子共四十四丁五段大 瓦屋七丁二段小 吉生十一丁七段半 大増尾六丁六段 大田七丁一段三百歩 小瓦四丁 高倉十二丁 片岡四段半 金差十一丁六段半 林十一丁 宇治會十八丁三段 村上二丁四段三百歩 片野三十二丁九段 沼田六丁二段大

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1140  青田五十丁 横山尻太 小幡三丁 加納二十丁 小鶴庄(○○○)四百丁 南野牧千百九十一丁九段大 南郡 小河四十一丁一段 志筑三十七丁五段 大枝十三丁大 田木谷十二丁八段半 小井戸七丁八段 野寺十丁 野田一丁四段大 竹原十五町 田余七十三丁七段 上吉影六丁五段半 下吉影十一丁五段半 荒張一丁一段 大谷六丁 土田一丁一段三百歩 高濱田四丁二段 鹽橋一丁八段 市河七丁 松廼九段半 國分寺十三丁 府郡分六十一丁九段三百歩 在廳名百五十四丁四段三百歩 常安佐谷二十七丁 稻久二十八丁七段六十歩〈加茨城定〉 石光三丁六段三百歩 稻貞八丁二段三百歩 米吉五丁九段三百歩 石宗十六丁二段 香丸三丁 金丸三丁五段 稻國七丁五段三百歩 元久四丁小 稻富三段 延吉三段 恒岡二丁三段 別名 福眞三丁五段 三郞丸五丁 大橋十四丁七段半 弓削十八丁三段大 柴高一丁七段六十歩 子野代二丁三段六十歩 久吉二丁一段 一奧郡 多珂郡百五十三丁四段三百歩 久慈東三百八十丁二段半 同西二百四十八丁八段百四十歩 那珂東百四十五丁七段三百歩 安福四十二丁一段半 中村七丁九段六十歩 田谷東方十五丁 同田谷西方十五丁 青柳十丁 枝河九丁六段 津田十二丁 今泉十一

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1141 丁 那珂西百五十二丁五段小 佐都東二百八十九丁八段三百歩 東岡田十五丁 西岡田十丁 根本四丁 大森七丁 泉三十五丁 今泉十五丁 千根二丁 波田三十五丁 小澤五十五丁三段半 佐都西二百五十六丁三段小 小野崎十八丁半 中小野崎四丁五段 阿久津八丁五段 小野二十三丁二段 西河内五丁二段三百歩 吉津三丁 礒部十六丁二段大 石神十一丁五段 鎌田三丁 東河内五丁一段小 額田八十一丁半 大田白岩八十丁三段小 世谷四十二丁二段六十歩 大橋加津見澤十丁 國井保(○○○)二十六丁五段大 右弘安二年作田總勘文、大略注進如件、

〔田文〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1141 筑前殿よりの田文案内 注進 常陸國造伊勢宮役夫工米田數事 合壹段別壹升四合定 奧郡 千五百九十町六段六十分〈◯中略〉 一鹿島郡 六百三十八丁九段大〈◯中略〉 一吉田郡 二百二十三丁一段〈◯中略〉 一東郡 三十七町〈◯中略〉 一同大藏省保(○○○○)六十六丁十一反〈◯中略〉 一中郡庄(○○○) 二百八十三丁一反小 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1142 一眞壁郡 四百十七町半〈◯中略〉 一西郡南條 百八丁五反三百分 一同北條九十九丁一反六十分〈◯中略〉 一筑波北條 三百二十三丁四反小〈◯中略〉 一南條方穗庄(○○○○○)六十四丁四段半 一下妻庄(○○○) 三百七十町 一同加納田中庄(○○○○○○)五百丁 一村田庄(○○○) 二百六十町 一河内郡 二十七丁七反半 一大井庄(○○○) 七十二丁一反〈河内郡内也〉 一信田東 二百七丁二反大 一信田庄(○○○) 六百二十町〈◯中略〉 一小鶴庄(○○○) 四百町 一南庄(○○) 六百五十町 一北郡 二百七十二丁四反六十歩〈◯中略〉 一南郡 二百九十二丁七反大〈◯中略〉 一在廳名 百五十四丁四段三百分〈◯中略〉 一行方郡 三百三十町八反三百分〈◯中略〉 一同加納 百四十六丁三反 一勅免地 吉田社 百五十八丁六反半 橘 二十五丁七反 國分寺 十三丁 此外 伊勢御厨小栗保(○○○) 三百二十丁 嘉元四年八月十日 税所平 大掾平 目代前加賀守

〔東寺百合古文書〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1142 最勝光院 注進寺領庄園年貢近年所濟出物等散状事〈◯中略〉 一常陸國 成田庄(○○○) 領家持明院佐兵衞督 本年貢國絹百疋 綾被物二重内 〈七月御八講一重 八月御月忌一重〉 閏月兵士三人 近年以色代五貫

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1143濟之、減濟之年記不知之、 近年代錢絹代六貫文、二ケ月被物代一貫四百文、外無濟、 右就所見、注進如件、凡近年背先例、不返殘於執事公文間、御年貢濟善事、委不知之、 正中二年三月日 公文左衞門少尉大江

〔臨川寺文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1143 常陸國佐都莊(○○○)、同國東岡田郷同國西岡田郷、加賀國富永御厨、 右所々爲臨川寺領管領者、天氣如此、仍執達如件、 元弘三年七月二十三日 左少辨〈花押〉 疎石上人御坊

〔蠹簡集殘編〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1143 野見園右衞門藏 常陸國中郡庄(○○○)事、度々軍忠異于他上、構城郭忠節之間、自將軍家仰下程、所預置也、仍可所務之状、依仰執達如件、 建武三年十月廿八日 源〈花押◯斯波家長〉 小山大後家殿

〔東寺文書〕

〈樂一ノ八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1143 山城 當寺領〈◯中略〉信太庄(○○○)〈◯中略〉等、任後宇多院御起請廳御下文、院宣、知行不相違者、院宣如此、仍執達如件、 建武三年十二月八日 參議〈花押◯四條隆蔭〉 謹上東寺供僧學衆御中

〔藥王院文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1143 注進菅生庄(○○○)本郷五町別半分御免名寄事 合五町別田貳拾漆丁八段小四十分 錢貳十六文 反別白米一合五才 籾八令 定〈◯中略〉 右注進之状如件、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1144  暦應貳年二月日

〔常陸紀行〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1144 久慈郡北部を【依上】(よりかみ)保内の郷といひて、昔時は二十四ケ村なりしが、今は四十二ケ村となれり、塙村に寄上(よりかみ)明神あり、今寄上の古名此に存せるのみなり、佐竹興義の二男依上三郞宗義なるもの見えたり、蓋し此地昔時依上氏の食邑せしにや、土俗いふ、大子と大津と同村にして、今は兩村となる、又上澤と高岡と同村なりしと云へり、下谷田中有田冥賀も同村なるよし、谷田は谷端ともいひしとぞ、下野宮近津社保内郷の總鎭守にして、二十四ケ村へ年兩度神輿出御し、大祭禮あり、往古の舊例ありて二十四ケ村に出御し來れり、今を以てむかしを知るに足れり、

藩封

〔慶應元年武鑑〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1144  水戸中納言慶篤卿様(正三位 元治元子五月被任) 三拾五万石 御在城常陸茨木郡水戸 江戸ヨリ三十里〈當國者佐竹左中將義宣居、慶長七、武田万千代君、同八、徳川常陸介頼宣卿、紀州和歌山江移、同十四、水戸中納言頼房卿、以後代々被之、〉 土屋采女正寅直(雁間 四品 嘉永三戌九月叙) 九万五千石 居城常州新治郡土浦 江戸ヨリ十八里 〈慶長六、松平伊豆守信一、同安房守信吉、元和三、西尾丹後守忠長、同丹後守忠照、慶安二、朽木民部少輔植綱、同伊與守秀植、寛文九、土屋但馬守數直、同相模守政直、延寶元、松平因幡守信興、貞享十五ヨリ、再土屋相模守、政直、以後領之〉 牧野越中守貞明(溜間次 四品 元治元子十一月叙) 八万石 居城常州茨城郡笠間〈江戸ヨリ土浦通二十八リ半、守屋通二十八リ、下館通二十九リ、古河通三十一里、 慶長六、松平周防守康重、同七、松平丹後守重貞、元和二、永井右近大夫直勝、同八、淺野采女正長重、同内匠頭長直、正保二、井上河内守正利、同中務少輔正任元祿七、本庄因幡守宗資、同安藝守宗俊遠州濱松エ替、元祿十五、井上河内守正岑、同河内守正之、同河内守正賢、延享四ヨリ牧野備後守貞通、以後領之、〉

〔慶應元年武鑑〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1144  松平播磨守頼繩(大廣間 從四位侍從 天保四巳十二月任) 二万石 御在所常州新治(ニイハリ)郡府中(フチウ) 江戸ヨリ一十里 〈无祿年中ヨリ領之〉 石川若狹守總管(雁間 朝散大夫) 二万石 居城常州眞壁郡下館 〈江戸ヨリ古河通〉 二十二里半 〈城主水谷左大夫勝俊、同伊勢守勝隆寛永十八松平左京大夫頼重、同十九、御番城城附三千石増山彈正忠利澄同兵部少輔利須、元祿十五、井上大和守正岑、同十六黒田豐前守直邦、享保十七石川近江守總茂、以後領之〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1145  山口長次郞(菊之間 朝散大夫) 一万十七石 在所常州河内郡牛久(ウシク) 江戸ヨリ十六里 〈慶長年中ヨリ山口氏代々領之、◯節略〉

〔慶應元年武鑑〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1145 松平大炊頭頼徳 一万石 御在所常州茨城郡宍戸(シヽド) 江戸ヨリ二十五里 〈天和二年ヨリ領之〉 井上伊豫守正兼(菊之間 朝散大夫) 一万石 在所常州眞壁下妻 江戸ヨリ二十里 〈正徳二ヨリ當所井上氏新領之、〉 新庄容丸(柳間) 一万石 在所常州行方郡麻生(アサフ) 江戸ヨリ三十六里 〈當所寛永年中ヨリ新庄氏代々領之、〇節略〉

田數/石高

〔倭名類聚抄〕

〈五國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1145 常陸國〈◯註略〉管十一〈田四萬九十二町六段百十二歩〉

〔海東諸國記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1145 常陸州 郡十四、水田四萬九千九町六段、

〔前關白秀吉公御檢地帳之目録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1145 五十三万石 常陸

〔和漢三才圖會〕

〈六十六常陸〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1145 十一郡 高七十五万三千六百石餘

〔新編常陸國誌〕

〈七建置沿革〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1145 補、元祿三年十月、世子綱條〈字九成、號鳳山、〉嗣、二十八萬石ヲ食ム、〈綜貫〉五年使役六十員ヲ増置ス、十四年五月、封内墾田七萬石ヲ以テ原封ニ加ヘンコトヲ請ヒ、是ニ至テ許サル、前ニ通ジテ三十五萬石トス、〈家乘綜貫〉十月、義公肖像ヲ久昌精舍ニ安置ス、〈家乘〉十五年四月、常陸國圖成ルヲ以テ、之ヲ幕府ニ進ム、凡テ十一郡、總高九十萬三千七百七十八石四斗五升八合、永都合二十一貫文、村數千六百七拾七邑、正保二年ノ改高ニ指引六萬貳千九百七拾六石六斗二升九合一勺高過ス、幕府藏入御代官九人領主三百二十七人、御朱印寺社三百七十八箇所、此高壹萬百五十九石一斗八升三合、一國分此内二千二百五十三石六斗ハ水戸領ナリ〈探舊考證〉

〔官中秘策〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1145 常陸國 十一郡〈◯中略〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1146 一石高九拾万三千七百七拾八石餘

〔吹塵録〕

〈五人口及國高〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1146 天保度御國高調〈◯中略〉 常陸國〈御料私領〉 一〈高百万五千七百七石四斗八升九合三才永高貳拾壹貫文〉

出擧稻

〔延喜式〕

〈二十六主税〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1146 諸國出擧正税公廨雜稻〈◯中略〉 常陸國正税公廨各五十万束、國分寺料六万束、大安寺藥師寺料各五万束、文殊會料二千束、藥分料一万束、交易料卌二万束、大學寮料五万四千束、修理池溝料四万束、救急料六万束、俘囚料十万束、

〔倭名類聚抄〕

〈五國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1146 常陸國管十一〈正公各五十萬束、本稻百七十九萬六千束雜稻七十九萬六千束、〉 ◯按ズルニ、延喜式ニ據レバ、雜稻七十八萬六千束ナリ、此書擧グル所ト一萬束ノ差アリ、

國産/貢獻

〔延喜式〕

〈二十三民部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1146 年料別納租穀〈◯中略〉 常陸國〈一万二千石◯中略〉 年料別貢雜物〈◯中略〉 常陸國〈筆三百管、麻子七斗、◯中略〉 諸國貢蘇番次〈◯中略〉 常陸國廿壺〈十口各大一升 十口各小一升〉 右六箇國爲第二番〈寅申年◯中略〉 交易雜物〈◯中略〉 常陸國〈絁一百疋、布四千端、商布一万三千段、庸布七百段、鞍橋十具、鞦廿具、履料牛皮九張、鹿皮廿張、洗革一百張、鹿角十枚、席六百枚、紫草三千八百斤、大瓢十口、櫑子四合、〉

〔延喜式〕

〈二十四主計〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1146 常陸〈◯中略〉 右十一國麁絲〈◯中略〉 常陸〈◯中略〉 右十國輸絁〈◯中略〉 常陸國〈行程上卅日、下十五日、〉 調、緋帛七十疋、緋纈絁卅疋、紺帛七十疋、黄帛一百六十疋、絁一千五百廿五疋、長幡部絁七疋、倭文卅一端、自餘輸絁暴布、 庸、輸布、 中男作物、麻四百斤、苧、紙、熟麻、白暴熟麻、紅花、茜、麻子、腊、鰒、

〔延喜式〕

〈三十七典藥〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1146 諸國進年料雜藥〈◯中略〉 常陸國廿五種 青木香卅斤、桔梗六十斤、芎藭、大戟各七斤、前胡四斤、http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/000000019ac0.gif 杞十四斤、獨活二斤、虵http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/0000000192d8.gif

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1147 斤、白朮廿斤四兩、藍漆七斤、龍膽五斤十四兩、杜仲八斤、白芷五斤白頭公一斤、茯苓百六十六斤、當歸二斤十兩、甘草廿五斤十三兩、黄蓍四斤、狼牙一斤九兩、干地黄一斗三升、署預二升、麥門冬六升、桃人二斗三升、附子一斛、虵床子二斗七升、

〔新猿樂記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1147 四郞君、受領郞等刺史執鞭之圖也〈◯中略〉宅常擔集諸國土産、貯甚豐也、所謂〈◯中略〉常陸綾(○○○)、

〔毛吹草〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1147 常陸 當歸(タウキ) 比鮫(コロザメ) 蓑和田鯉〈極月下旬唯一日取江戸ニ多出來スルナリ、〉 水戸浮龜〈魚也〉 錢〈新錢始卜云〉 筑波山蓍木(メドキ) 佐竹大方(タイハウ) 小椙原(コスギハラ)

〔續日本紀〕

〈一文武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1147 二年九月乙酉、令近江國獻金青〈◯中略〉常陸國〈◯中略〉朱沙、

〔續日本紀〕

〈六元明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1147 和銅七年正月甲申、令相模常陸上野三國始輸一レ絁調、但欲布許之、

〔續日本紀〕

〈十二聖武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1147 天平八年五月辛卯、諸國調布、長二丈八尺、闊一尺九寸、庸布長一丈四尺闊一尺九寸、爲端貢之常陸曝布、〈◯中略〉依舊貢之、

〔續日本紀〕

〈三十稱徳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1147 寶龜元年七月戊寅、常陸國那賀郡人文部龍麻呂、占部小足、獲白烏

〔文徳實録〕

〈九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1147 天安元年二月己丑、是日改元爲天安元年、縁美作常陸二國獻白鹿連理之瑞、〈◯中略〉宣制曰、〈◯中略〉維齊衡三年十月廿日爾、常陸國木連理乎獻、〈◯中略〉宜美作常陸二國百姓當年徭役廿日、就中、瑞祥所出、重以優矜、苫田郡〈◯美作〉調、眞壁郡庸、今年可輸并皆免之、

人口

〔官中秘策〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1147 常陸國 十一郡〈◯中略〉 一人數六拾五万五千五百七人 内〈三拾六万千貳百四拾六人 男 貳拾九万四千貳百六拾壹人 女〉

〔吹塵録〕

〈五人口及國高〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1147 諸國人數調〈◯中略〉(文化元甲子年) 一人數四拾八万五千四百四拾五人(御料私領) 常陸國(高九拾万三千七百七拾八石餘) 内〈貳拾五万九千五百貳人 男 貳拾貳万五千九百四拾三人 女〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1148 諸國人數調〈◯中略〉(弘化三丙午年) 一人數五拾貳万千七百七拾七人(御料私領) 常陸國(高百万五千七百七石餘) 内〈貳拾六万九千八拾貳人 男 貳拾貳五万貳千六百九拾五人 女〉

風俗

〔人國記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1148 常陸國 常陸國之風俗、如形不然而、唯盜賊多シテ、夜討推込辻切等ヲシテ、其惡事顯レ罪科ニ行ハルヽトイヘドモ、耻辱トモ且テ不思、結局至其子孫ニハ、病死ナドハ不爲ナドヽ、一ツノ系圖ニ而、盜賊スルヲ微塵モ非義非禮ト云事ヲ不知ヤウノ風儀ニテ、唯肝膽之間、逞ク生レ付テ如此ト見ヘタリ、武士之風儀モ是ニ不替而、道理ヲ知ル人少シ、タトヘ知トイヘドモ、我意ニマカセテ執行、故ニ理ニ似タル無理、義ニ似タル不義ノミ多而、更ニ善ト難云、世之唱フルニモ、常陸國ヲ差而全キ人ナキ國ト呼リ、昨日味方ニテ今日ハ敵ト成ノ風儀ハ、千人ニ、一人モナシ、若シ國風之垢ヲケヅル人アラバ、天下ニ名ヲ呼程之者ナルベシ、

名所

〔日本鹿子〕

〈七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1148 同國〈◯常陸〉名所之部 鹿島宮 縁記草創、くはしくは神社の部に有之也、 常陸なる鹿島の宮の宮柱猶万代も君がためとか 鹿島か崎 かしま郡の海邊なり 霰ふるかしまが崎の浪高み過てやゆかん戀しきものを 築波山 當國の海邊にある山なり、觀音の靈地也、 今はとて心つくばの山みれば梢よりこそ色かはりけれ 水無能川 櫻川 右ふたつの川ひとつ流なり、水上をさくら川といひ、すそを水無能川といふといへり、此所明神の宮井山の上に立給ふ、櫻の木多し、依之櫻川と云といへり、川はふもとを

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1149 流るなり、小川なり、後撰戀の歌に陽成院、 筑波根の嶺より落るみなの川戀ぞつもりて淵と成ける 霞山 霞崎 霞の里 ひとつ所也 昨日まで染し氣色を引かへて明る霞の山ぞのどけき ほのかにもしらせてしがな東なるかすみの浦の海士のもしほ火 足雄山 雫(シヅク)の森 御牧(ミマキ) 戀瀬川

雜載

〔延喜式〕

〈二十八兵部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1149 諸國健兒〈◯中略〉 常陸國二百人〈◯中略〉 諸國器仗〈◯中略〉 常陸國〈甲六領、横刀廿口、弓六十張、征箭六十具、胡簶六十具、〉

〔日本書紀〕

〈三十持統〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1149 元年三月己卯、以投化高麗五十六人于常陸國、賦田受稟、使生業

〔續日本紀〕

〈九聖武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1149 神龜元年三月庚申、定諸流配遠近之程、〈◯中略〉常陸〈◯中略〉國爲遠、

〔萬葉集〕

〈十四東歌〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1149 筑波禰乃(ツクハ子ノ)、爾比具波麻欲能(ニヒグハマユノ)、伎奴波安禮杼(キヌハアレド)、伎美我美家思志(キミガミケシヽ)、安夜爾伎保思母(アヤニキホシモ)、 或本歌曰、多良知禰能(タラチ子ノ)、又云安麻多伎保思母(アマタキホシモ)、 筑波禰爾(ツクハ子ニ)、由伎可母布良留(ユキカモフラル)、伊奈乎可母(イナヲカモ)、加奈思吉兒呂我(カナシキコロガ)、爾努保佐流可母(ニノホサルカモ)、 右二首、常陸國歌(○○○○)、〈◯中略〉 相聞 筑波禰乃(ツクハ子ノ)、禰呂爾可須美爲(ネロニカスミヰ)、須宜可提爾(スギガテニ)、伊伎豆久伎美乎(イキヅクキミヲ)、爲禰氐夜良佐禰(ヰ子テヤラサネ)、 伊毛我可度(イモガカド)、伊夜等保曾吉奴(イヤトホゾキヌ)、都久波夜麻(ツクバヤマ)、可久禮奴保刀爾(カクレヌホドニ)、蘇提婆布利氐奈(ソデハフリテナ)、 筑波禰爾(ツクハ子ニ)、可加奈久和之能(カガナクワシノ)、禰乃未乎可(子ノミヲカ)、奈岐和多里南牟(ナキワタリナム)、安布登波奈思爾(アフトハナシニ)、 筑波禰爾(ツクハ子ニ)、曾我比爾(ソガヒニ)、美由流(ミユル)、安之保夜麻(アシホヤマ)、安志可流登我毛(アシカルトカモ)、左禰見延奈久爾(サ子ミエナクニ)、 筑波禰乃(ツクハ子ノ)、伊波毛等杼呂爾於都流美豆(イハモトヾロニオツルミツ)、代爾毛多由良爾(ヨニモタユラニ)、和家於毛波奈久爾(ワガオモハナクニ)、 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1150 筑波禰乃(ツクハ子ノ)、乎氐毛許能母爾(ヲテモコノモニ)、毛利敝須惠(モリヘスヱ)、波播己毛禮杼母(ハヽコモレドモ)、多麻曾阿比爾家留(タマソアヒニケル)、 左其呂毛能(サコロモノ)、乎豆久波禰呂能(ヲツクハ子ロノ)、夜麻乃佐吉(ヤマノサキ)、和須良延許波古曾(ワスラエコハコソ)、那乎可家奈波賣(ナヲカケナハメ)、 乎豆久波乃(ヲツクハノ)、禰呂爾都久多思(子ロニツクタシ)、安比太欲波(アヒタヨハ)、佐波太奈利努乎(サハタナリヌヲ)、萬多禰天武可聞(マタ子テムカモ)、 乎都久波乃(ヲツクハノ)、之氣吉許能麻欲(シゲキコノマヨ)、多都登利能(タツトリノ)、目由可汝乎見牟(メユカナヲミム)、左禰射良奈久爾(サ子サラナクニ)、 比多知奈流(ヒタチナル)、奈左可能宇美乃(ナサカノウミノ)、多麻毛許曾(タマモコソ)、比氣波多延須禮(ヒケバタエスレ)、阿杼可多延世武(アドカタエセム)、 右十首、常陸國歌、


Last-modified: 2019-03-15 (金) 09:48:59 (387d)