http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0791 武藏國ハ舊ク身刺、又ハ牟邪志ト書シ、並ニ之ヲムサシノクニト云フ、東海道ニ在リ、東ハ下總、西ハ信濃、甲斐、南ハ相模、北ハ上野ニ界シ、東南海灣ニ至ル、東西凡ソ二十六里、南北凡ソ二十五里、其地勢ハ、利根ノ河流北境ヲ繞リ、秩父ノ山峯西堺ニ連ル、其間概ネ平夷曠濶、所謂古ノ武藏野ニシテ、實ニ坂東平野ノ中部ニ屬セリ、此國ハ古ヘ國府ヲ多磨郡ニ置キ、久良(クラキ)、都筑(ツツキ)、多麻(タマ)、橘樹(タチバナ)、荏原(エバラ)、豐島(トシマ)、足立(アダチ)、新座(ニヒクラ)、入間(イルマ)、高麗(コマ)、比企(ヒキ)、幡羅(ハラ)、横見(ヨコミ)、崎玉(サイタマ)、大里(オホサト)、男衾(ヲブスマ)、榛澤(ハンザハ)、那珂(ナカ)、兒玉(コダマ)、賀美(カミ)、秩父(チヽブ)ノ二十一郡ヲ管シ、延喜ノ制、大國ニ列ス、後下總國葛飾郡ノ一部ヲ割キテ、此國ニ屬セリ、徳川氏幕府ヲ此國ニ定ムルニ及ビ、田野日ニ開ケ、人衆月ニ加ハリ、國況一變ス、明治維新ノ後、豐島、葛飾、足立、埼玉ノ四郡ヲ各〻南北ニ、多摩郡ヲ東西南北ノ四郡ニ分割シ、凡テ二十九郡ヲ立テシガ、後更ニ廢合ヲ行ヒ、東多摩、南豐島二郡ヲ合シテ豐多摩郡ヲ置キ、横見郡ヲ比企郡ニ、那珂、賀美ノ二郡ヲ兒玉郡ニ、幡羅、男衾、榛澤ノ三郡ヲ大里郡ニ併セ、又下總國中葛飾郡ヲ割キテ北葛飾郡ニ併セ、新ニ東京市、横濱市ヲ置テ、二市二十郡ト爲シ、東京府、埼玉縣、神奈川縣ヲシテ之ヲ分治セシム、

名稱

〔倭名類聚抄〕

〈五國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0791 武藏〈牟佐之〉

〔地名字音轉用例〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0791 字ヲ省ケル例 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0792 むざし 武藏(ムザシ)國 藏字ハ、ザニ用ヒタルナルベケレバ、シニ當タル字ヲ省ケルナルベシ、〈藏(ザウ)ヲザシニハ用ヒガタカルベケレバナリ〉、古事記ニハ牟邪志ト書キ、〈邪モ藏モ濁音ナレバ、古ハサヲ濁リシナルベシ、〉古書ニ身刺(ムザシ)トモ書タリ、〈身ヲムト云ルコト、例多シ、〉

〔日本風土記〕

〈一寄語島名〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0792 武藏〈木散署(モツサンシイ)〉

〔倭訓栞〕

〈前編三十一牟〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0792 むさし 武藏をよむは、音の轉ぜる也、もと古事記には胸刺と見ゆ、又歌に佐泥佐斯佐賀牟とあるも、佐は發語、泥はむねの略、さむねさしにて、武藏相模を並べ擧たる也、にひばりつくばを並べ擧たるが如し、又或は佐斯の間泥を脱し、さねさねしにて、相模の枕辭也ともいへり、輕ノ皇子の歌に、さねしさねてはとよめるが如し、

〔古事記傳〕

〈七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0792 牟邪志(ムザシ)國造、武藏なり、今は邪(ザ)を清(スミ)て唱れども濁るべし、此邪、又藏ノ字、又万葉十四に、牟射志野(ムザシヌ)と書る射ノ字、いづれも濁音に用る例なり、名義未思得ず、〈師説には、相模武藏もと一ツにて、牟佐なるを上下に分て、牟佐上牟佐下と云、その上は牟を略き、下は毛(モ)を略けるなり、凡て牟佐てふ地名國々に多く、又東の國々は、上總下總上野下野などの如く、上下に分ツ例なりとあり、此説うち聞には諾なりとおぼゆれど、なほ定め難きことあり、其由は中卷倭建命の處に云べし、〉

〔古事記傳〕

〈二十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0792 さて佐斯を國の名と云は、駿河相模武藏の地を、總て本は佐斯國とぞ云けむを二ツに分けて、相模武藏とはなれるならむ、駿河は後に又相模より分れたること、上に云るが如し、かくて其相模と云名は、佐斯上(サシガミ)の斯(シ)を省き、武藏は身佐斯(ムザシ)の意なるべし、古書ともに身刺(ムザシ)と多く書り、身とは中に主(ム子)とある處を云、屋の中に主とある處を身屋(ムヤ)と云が如し、後に母屋と云は、牟夜を訛れるなり、されば武藏は佐斯ノ國の内に、主とある眞原(マハラ)の地なれば、如此(カク)は名けつらむ、佐を濁るは連便なり、さて一國を二ツに分て名る例、或は前後、或は上下と云ぞ、なべての例なれども、又丹波を分て、丹波、丹後と云は、後に對へて、丹前とは云ハざれば、此佐斯國を分たるも、佐斯上に對へて、佐斯下とは云ざるも、例あることなり、

〔諸國名義考〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0793 武藏 和名抄に、武藏〈牟佐之、國府在多麼郡、〉名義はいまだ考得ず、縣居大人は身狹上(ムサガミ)に對ひたる身狹下(ムサシモ)なりといはれつれど、諾ならぬ事は上に云り、古事記傳に、〈〇中略〉名義いまだ思ひ得ずとあり、立入信友云、國造本紀に无邪志(ムサシ)ノ國造の次に、胸刺(ムナサシ)ノ國造とあるも、近き地名と聞えたり、胸刺身刺(ムサシ)などの古事によれる地名ならむかといへり、續日本紀稱徳天皇神護景雲二年六月癸巳、武藏國獻白雉云々、奏云、雉者斯良臣一心忠貞之應、白色乃聖朝重光照臨之符、國號武藏、既呈武崇文之祥云々とあるは、もと牟邪志の三字を好字に改め、二字に定め、武藏(ムザ)と書て志(シ)ノ字を略かれしより後に此國より白雉を奉りしにつきて、武藏の二字を祝して奏したる詞なり、必しも國名の起りと莫(ナ)思ひ誤そ、さるを或書に、武藏國風土記とて引たるに、武藏國秩父嵩者、其勢如勇者怒立、日本武美此山、奉祈禱、以兵具埋岩藏、故曰武藏といへるは、いにしへ字音のなき事をも、和銅の勅命をもしらぬ後人の字義になづみたる僞作なり、かにかくにしれがたき國號なり、

〔温故隨筆〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0793 武州の訓は、六つさしの略、 さしは道路の義なり、此國諸州人の海道なればなり、小兒の翫ぶ十六むさしといふものにても知るべし、古事記に刺國とあるは、則武藏ならん、〈〇中略〉又加茂氏が、むさがみむさしともいふ説、本據なしといふべからず、

〔武藏志料〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0793 武藏國號考 當國の名付し故、その義詳ならず、又物には見る所なし、〈〇中略〉さてその文字も、上古は定まれる事なく、古事記には牟邪志と書たるは假名書也、その後元明天皇の御宇に、國郡郷村の名を改めて、能字二字に定められし時に、武藏とは書改められし也、故に此字によりては、その意推量るべからず、下にその事をしるしつけぬ、 第一 一通云、牟邪志美也、その故は、牟邪は草也、志美は繁也、上古の時は、東方の國は未王化も及

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0794 ばざりし故に、民の家居も定らず、もとより守司の官もなかりしほどに、唯木草のみ生茂りたれば、獸禽の住るのみなるべし、後の世にさへ、此國には八百里の曠野有と名に負て、武藏野とさへいへば、行ども秋の果もなきなども、歌にも讀て、天下の最哉一の事とはせる也、さも有つらん、〈〇中略〉 第二 又一通の説、此國は廣く大なる故に、その隣國六有、それは相模、甲斐、信濃、上野、下野、下總なり、この六國に堺の差合たれば、六差(○○)といふ意なるも又知べからず、 第三 又一通の説、この國關八州の中央に有、是を人の形にたとふるに、相模を首とす、故に小首(さかみ)と云ふ歟、武藏その次に有ば、身の如し、身は武と通ひて、武久呂ともいへり、さしは古へ三韓の方言に城を左志といへり、此訓日本紀の古點に見えたり、しかれば中央城の意にても有べき歟、〈〇中略〉 第四 又一通説、右第三通は、文字にあづからず、詞と意とによりていふ所なり、さて元明天皇の御宇に、文字を改められし時、武藏とせし事、是又その由故なくては叶ふまじき事也、よて思ふに、秩父郡に武甲山といふ有、土俗傳へ云、昔日本武尊東夷を征したがへ給ひて、その甲を此山に埋め給ひしと、その事攝津國武庫山の故事の如し、此山も定めて武甲(むこ)とこそ訓つらんを、字の音の俗に引れて、今はぶかうとはいへる、是又訛也、その武を用ゐたるか、藏は扃にて、とざしの略し武事を收め、軍器を山にかくされし故、戸閉(とざし)といへるなるべし、〈〇中略〉 今按に、此事その故有に似たれども、武は音、藏は訓なり、音訓相交へてその義をいはん事、強たりとはいふべからん、されども國郡名は、音訓相交へて用たれば、ひたすらその義無ともいふまじければ、しばらくしるして後の校正を待のみ、 第五 又案に、國名風土記に、秩父郡武甲山に、日本武尊の甲冑をとめ給ひし事をいへり、〈〇註略〉是

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0795 は攝津國兵庫の武庫山の事を思ひ合せて書るにやとも思ふに、續日本紀〈二十九〉稱徳天皇神護景雲二年六月癸巳、武藏國獻白雉、その勅に云、國號武藏、既呈武崇文之祥と、群卿の奏上しを思へばさいへる事有といはんも、また據なしとも云べからず、〈卷廿九ノ九丁ノ右〉 或人云、武藏相模は、もと上下の國也、古へ虜囚を武佐といへり、上古三韓の囚人を置し事諸國に有、攝津の高麗郡、當國にも高麗郡有、さて近江國の武佐の郡も、またその虜囚置し所なれば、相模は武佐上(むさかみ)の上を略き、武藏にむさ下の下を略なるべしと、是上下國を分つの例也といへり

〔江戸紀聞〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0795 江戸城 松隣夜話に云、永祿八年、北條氏康子息氏政、上田又次郞入道安獨齋を先陣として、上道中武藏に取詰、江戸の城を責落さんとす、平井柿崎前橋の北城、相ともに中武藏の虚弱を警固のため、兩方より三百五十宛、すべて七百の兵を別て、太田方へ遣しをき、〈〇下略〉

位置

〔地勢提要〕

〈乾〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0795 各國經緯度〈附里程〉 武藏、江戸測量所、〈淺草御藏前〉極高三十五度四十一分半、經度東四度三分、從日本橋二十三町五十間、武藏江戸深川黒江町、極高三十五度四十分半、經度東四度半、從日本橋二十二町三十七間、

〔日本經緯度實測〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0795 北極出地 武藏 川崎 三五度三二分三〇秒 江戸 三五度四二分〇〇秒 桶川宿 三六度〇〇分三〇秒 蕨宿 三五度五二分〇〇秒〈〇中略〉 東西里差 山城 京 〇度〇〇分〇〇秒〈〇中略〉 武藏 江戸 東四度〇四分〇〇秒

〔新編武藏風土記稿〕

〈一總國圖説〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0795 武藏國ハ、氐ノ分野ニ屬ス、江戸ノ地、北極出地三十五度半、或ハ三十六度、〈水土考〉國ノ大抵巽ヲ首トシ、乾ヲ尾トス、南北袤、相模國志名野坂〈鎌倉郡ニ屬ス〉堺ヨリ、上野國新町宿

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0796 〈緑野郡ニ屬ス〉界勅使河原〈賀美郡〉迄三十二里十九町、東西廣、下總國松戸渡界金町村ヨリ、〈松戸ハ總州、金町ハ武州、共ニ葛飾郡、〉甲斐國鴈坂峙〈山梨郡ニ在〉界迄四十一里一町、〈廣袤里程正保檢査ニ據〉此武甲ノ界ハ、山林岑蔚ノ地ニシテ、人跡ノ及バザル所、凡七八里モアルベシト云、此邊秩父郡ハ開國最初ノ地ナリ、三峯ヲ鎭トシテ連山併峙シ、多西都筑數郡大小ノ諸山、波濤ノ如ク朝宗ス、東ノ方ハ利根川、及其支流海ニ疏通シ、大城ノ前後、平坦ノ地廣大ナリ、是故ニ魚鹽ノ利、山野ノ産ニ富ム、

疆域

〔武藏演路〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0796 當國界限、東は下總國を界、西は甲斐信濃國を限り、南は相摸國、北は上野國を限れり、

〔日本地誌提要〕

〈十八武藏〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0796 疆域 東ハ下總、西ハ信濃、南ハ相模、北ハ上野、東北ハ下野、東南ハ海ニ至ル、東西凡貳拾六里、南北凡貳拾五里、

〔武藏志料〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0796 國境四至 武相堺杭在〈武橘樹郡程谷、相鎌倉郡平戸、 矢宿ハ相中ニテ、平戸ヨリ又先ナリ、〉 戸塚堺杭 癸未紀行〈林道春〉寛永廿年九月 矢宿坂、在戸塚東一里計、土人曰、是武藏相模堺也、 關左風烟湘水雲、今看俗習異曾聞、擔夫向客聊饒舌、相武二州從此分、 今按に、武藏相模の堺杭は、矢宿坂にあらず、それより北方にて、信濃坂の中程に有、武藏の國は橘樹郡程谷宿と、相模國は鎌倉郡平戸村との堺に有、今はそこに榜示杭有て、堺の地藏とて小堂あり、矢宿はやがて相模の國内にて、平戸村より又先にあり、からたがひは誰も有事にて、往來經過の時、人の云にまかせてしるすものなれども、百年以前といひ、且は名家の云置し事故、さもやと思ふ人も有んとてしるしつくるものなり、

〔伊勢物語〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0796 むかし男有けり、その男身をえうなき物に思ひなして、京にはあらじあづまの方にすむべき國もとめにとて行けり、〈〇中略〉むさしの國と、しもつふさの國とのなかに、いとおほきなる河あり、それをすみだ川といふ、

〔更科日記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0797 そのつとめて、そこを立て下つさの國と武藏の境にて有、ひと井がはといふ、かかみのせ、まつさとのわたりの津にとまりて、夜ひとよ舟にてかづく物などわたす、〈〇中略〉野山葦荻の中を分くるより外の事なくて、武藏と相模との中に有て、あすた川といふ、在五中將のいざこととはむとよみけるわたり也、中將の集には、すみだ川とあり、舟にて渡りぬれば、相模の國になりぬ、にしとみといふ所の山、ゑよくかきたらん屏風を、たてならべたらんやうなり、 〇按ズルニ、ひと井がは下總國江戸川ニテ、あすた川ハ舊ク下總國ト武藏國トノ境ニ在リシ隅田川ナリ、而ルニ本書ニ、下總國ト武藏國トノ境ニ在ルヲひと井川ト爲シ、武藏國ト相模國トノ中ニ在ルヲあすた川ト爲セルハ誤ナリ、事ハ渡篇大井渡ニ引ク武藏國隅田川考ニ詳ナレバ、宜シク參看スベシ、

〔續視聽草〕

〈二集十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0797 武藏國略圖附略考 淺草川〈舊名荒川、世俗兩國川ト云、〉以東新武州の地は、古昔下總の國に屬せしを、後世變革ありしと云事は、皆人の知る處なれど、その國界改りし年歴を未だ詳にせず、江戸砂子等に、元祿或は貞享中の事と云は、もとより無稽の説にして論ずべくもあらず、現に正保の比成しと云御國繪圖には、利根川〈國府臺下を流るゝ川筋也〉以西を武藏國に屬したり、又天正十九年、葛西金町村の鎭守香取社へ御寄附ありし御朱印の文にも、武藏國葛西金町郷と記されたれば、是よりさきに改りし事、疑ふべくもあらず、予〈〇三島政行〉前に地理志編集の事に與りし時、私に葛西志と云もの編録して奉りし頃、此變革の證を得まく思ひて、普く募りしに、たま〳〵或村民の家に傳へし古文書一通を得たるもの、右に摸刻せるが如し、〈〇摸刻略之、但此文書收載郷條、〉此書年代記ざれど、政助は古河公方政氏の家老にて、簗田大炊頭といひし人なれば、その時代推て知るべく、且平沼の郷と書しは、今の二郷半領平沼村なれば、此頃既に武州と唱へし事證すべし、然れば、たヾに天正頃のみならず、其改りし事の古きを知べ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0798 し、此書實に明證なれば、予篤く乞て珍藏せしが、後熟察するに、かヽるものをひめ置んは所謂和氏璧を櫃に藏するに似て益なし、しかじ是を世に公にすべしとて、王子金輪寺は、好古者のつどへる處なれば、かの寺僧に謀りて、社寶の一品に寄納し、且因に新武州變革の大略、及此文書年代等の愚考をも附記したれば、志あらん人は、その眞蹟を一覽して、予が妄言ならざる事を知り給へかし、 丙申木王月 凸凹齋識

〔上野國志〕

〈知那波郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0798 武州兒玉郡、都島山王堂宿仁手沼和田等、寛永ノ始マデハ那波郡ニ屬ス、寛永中洪水ニテ、烏川北ニ徙リテヨリ武州ニ隸(ツ)ク、

島嶼

〔日本實測録〕

〈九島嶼〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0798 武藏國豐島郡實測 佃島 周廻六町二十六間半 寄場島 周廻一十一町七間半 久良岐郡 遠測 夏島

地勢/地味

〔易林本節用集〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0798 武藏〈武州〉大、管二十一郡、四方五日半、野宏而无山、仍欠良材、田畠豐而野菜類多、大上上國也、

〔名所方角抄〕

〈中〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0798 鎌倉より奧州へ下るに、先むさしへ出るなり、武藏野の初る所は、鎌倉より五六里也、鎌倉より北にあたるなり、國中に山なし、秩父山の嶽は、西のはしなり云々、むさし根といふも、此秩父山なり、此山よりみこしに富士は見えたり、又荒川といふは、秩父山より流れ出るにより、東へ流れ出る大河也、

〔日本國事跡考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0798 武藏國、平原廣野、不山、千村万落、雞犬相聞、朝日夕日、出沒草際、鶴鵠鳧雁、充満其中、處々有沼、産鯉魚嘉魚、隅田川在武藏下總之界、水深有舟、有鳥曰都鳥

〔武藏演路〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0798 一曰武藏大管、田畑百十六万餘石、山なし、仍良材を欠けり、田畑豐にして野菜の類多

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0799 しと云々、右は往昔の事にして、今山野を開發し、海澤を築出し、新田となるもの幾千万石といへるを不知、大上上國也と稱せしも宜なるかな、且四方運送の便よく、各國より來て貨財を交易、万邦此すべき地なし、誠に天府の國と云べし、

道路

〔日本實測録〕

〈二街道〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0799東京東海道至西京 武藏國東京日本橋〈至深川黒江町即忠敬所居、二十二町三十七間、北極高三十五度四十分半、〉 一里一十九町八間〈至芝口一丁目一十九丁五十七間〉 同芝大木戸 一十八町二十間 荏原(エハラ)郡品川宿 二里三十三町一十間〈至川崎宿六郷川岸二里二十八丁五十二間〉 橘樹(タチバナ)郡川崎宿、三十五度三十二分半、 二里一十九町五十五間〈至市場村七丁一十二間〉 神奈川宿 一里二十一町三十七間〈至保土ヶ谷宿帷子橋一里一十丁一間〉 保土ケ谷宿、三十五度二十七分、 二里一十九町四十九間〈至國界二十七丁五十八間〉 相模國鎌倉郡戸塚宿〈〇中略〉 從東京大山及御殿場大月 武藏國東京芝口一町目 二十八町二十八間 同赤坂傳馬町一丁目 一里三町五十七間 豐島郡澀谷道玄坂町 二里二十一町八間〈至玉川岸二里一十三丁二十三間〉 橘樹(タチバナ)郡二子村 二里四町九間 都筑郡荏田村 一里三十五町一十八間 長津田村 一里一十町二十七間〈至國界二十一丁五十七間〉 相模國高座郡下鶴間村

〔日本實測録〕

〈三街道〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0799東京中山道至草津 武藏國東京日本橋 四町一十間半 同本町 一十三町五間 同神田旅籠町〈歴坂本町千住小塚原町一里一十二丁四間半〉 二十一町三十間 東京駒込追分町 一里一十四町五十一間 豐島郡板橋宿平尾 九町二十七間 板橋宿 一里一十八町四間〈至荒川岸一里一十七丁二間半〉 足立郡下戸田村渡船場 二十四町五間 蕨宿、三十五度五十分、 一里一十町三十四間 浦和宿 一里一十二町五十五間 大宮宿 二里六町三十五間 上尾宿 一里一町三十八間 桶川宿、三十六度三十秒、 一里三

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0800 十五町一十五間 鴻巣宿、三十六度四分、 四町一十五間 同土手外 二里八町二十七間半 大里郡久下村ハラ原 一里二十一町八間 熊谷新宿 八町三十六間 熊谷本宿、三十六度九分、 一十一町一十四間〈至熊谷寺門前四十四間〉 石原村 二里二十六町二十間 榛澤(ハンザハ)郡深谷宿、三十六度一十一分半、 二十四町一十六間 半原〈本岡部〉 二里二町四十八間 兒玉郡本庄宿、三十六度一十四分、 一十町四十二間 本庄宿新田町 一里三十町一十六間〈至國界神流川岸一里二十丁三十一間〉 上野國緑野郡新町宿〈〇中略〉 從東京岩槻及忍熊谷 武藏國東京駒込追分町 一里八町二十間半 豐島郡王子村、三十五度四十五分、 一里四町二十四間 岩淵宿 一十一町一十五間〈至荒川岸一丁五十三間〉 足立郡川口宿 一里五町三十四間 鳩谷宿、三十五度四十九分半、 二里二十五町三十一間 大門宿 一里二十四町五十一間 埼玉郡岩槻久保宿町〈至田中橋一十一丁四十三間半〉 二里三十三町三〈(三下有脱字)至黒濱村一里一十四丁二十七間〉 篠津村、三十六度一分半、 二里三十三町二十四間〈至菖蒲戸箇崎村、三十四丁五間、〉 騎西町場 三里一町一十九間半〈至赤城村一里一十九丁四十三間〉 佐間村〈至忍行田町八丁三間、北極高三十六度七分半、從行田町小沼橋門四丁三十間、〉 一里二十八町四十間 大里郡熊谷新宿 〈從東京熊谷〉街道、通計一十八里三十二町二十二間、 從中山道板橋川越熊谷 武藏國豐島郡板橋宿平尾 二十町四十一間 上板橋村 二十五町三十七間 下煉馬村〈至金乘院六丁一十二間〉 一里五町五十四間 新座郡白子村、三十五度四十七分、 一里三町一十一間 膝折村 三十四町三十六間 大和田町 一里一十三町二十一間 入間郡大井町 二里一十一町二十五間 松郷〈至仙波喜多院一十三丁九間〉 七町五十四間〈至川越松郷町五十四間、自松郷町志義町三丁九間、〉 川越本町〈歴大手前江戸町二丁三十六間、北極高三十五度五十五分、〉 四里三町五十五間半〈至志多町橋四丁一十七間半、從橋至入間川岸三十四町四十二間、從川岸松山下新田二里二十七丁一十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0801 〈一間、〉 比企郡松山町 三里一十三町一十二間半〈至荒川岸二里三十四丁三十一間半〉 大里郡熊谷宿熊谷寺門前 〈從板橋熊谷〉街道、通計一十五里三十一町四十七間 從中山道久下沿荒川東京 武藏國大里郡久下村ハラ原 一里二十七町五十三間 足立郡糠田村〈至鴻巣宿土手外三十丁二十七間〉 二里二十一町二十九間 上川田谷村 二里一町二十四間 平方村 三里一十三町三十間 植田谷本村新田、三十五度五十二分半、 四里一十二町三十六間〈至道場原一里二十七丁四十六間〉 下笹目村早瀬 一里一十一町四十五間 下戸田村渡船場 一里二十一町一十八間 川口宿 三里八町二十八間〈至本木村二里一十九丁四十三間半〉 千住掃部宿 一里四十一間半〈至綾瀬川口一十六丁二十二間、從川口木母寺前一十町五十五間半、〉 葛飾郡寺島村白髭社前 二十町六間 東京中之郷竹町〈歴大川橋花川戸町、一丁五十八間〉 一十八町四十七間半 同本所元町〈歴兩國橋横山町、四丁一十四間半、〉 二町一十一間 同相生町一丁目〈沿立川中川岸一里一十丁〉 九町三十九間〈至深川元町七丁九間〉 同深川萬年橋南頭〈沿小名木川中川岸一里四丁四十二間〉 八町二十間 同佐嘉町永代橋東頭 〈從久下東京〉荒川岸、通計二十二里三十五町八間 從中山道石原秩父高坂 武藏國大里郡石原村 三里二十五町二十七間半 榛澤郡小前田新田村 二十八町三十三間 寄居村 一十五町一十二間 同常木〈至正龍寺四丁一十八間〉 一十一町三十間 末野村〈至少林寺四丁三十六間〉 三十一町三十間 秩父郡矢那瀬村 一里二十町三間 本野上村 二十八町五十七間 金崎村、三十六度四分半、 二十二町四十間半 皆野村 一里八町四十七間 大野原村〈至大宮郷本町三十五丁一十八間、從本町上町限九丁一十二間半、又從本町秩父神社藏福寺觀音堂三町、〉 三十三町 三澤村 一里二十六町四十五間 坂本村 一里一十四町六間 安戸村 三十一町五十一間 比企郡増尾村〈至大塚村八幡社四丁二十一間、從社前大梅寺四丁一十二間、〉 八町三十九間 小川村 一十六町一十二間 同下分〈至西光寺三丁一間〉 一里一十四町二

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0802 十一間 菅谷村、三十三度六分、 二里六町四十二間 高坂村 〈從石原高坂〉街道、通計一十九里二十町一十六間 從中山道本庄下仁田借宿 武藏國兒玉郡本庄宿新田町 一里二十六町二十一間半〈至七本木村三十一丁二十四間半〉 賀美郡長濱村〈至荒御魂神社一十丁一十間〉 二里二町五十七間〈至國界神流川岸五丁二十一間〉 上野國緑野郡藤岡町〈〇中略〉 從東京甲府下諏訪 武藏國東京赤坂傳馬町一町目 一十二町四十一間 同麴町十一町目 一十二町三十七間 同四ツ谷大木戸 七町二十三間 豐島郡内藤新宿 一里三十五町五十四間 多摩郡下高井戸村 一十三町三十九間 上高井戸宿 一里一十六町 布田國領村 二十一町二十七間 布田上石原村 一里九町〈至府中六所明神社前一里六丁四十五間〉 府中宿 二里六町二十四間 日野宿下河原〈至一ノ宮小野神社一里一十七丁一十六間〉 一里二十六町八間 八王子横山八日市宿 四町一十二間 同八幡宿 一里二十七町二十三間半〈至小佛關所一里二十二丁一十七間〉 上長房村駒木野宿新井〈至高尾山藥王院二十二丁二十間半〉 二十一町二十七間 同小佛宿、三十五度三十八分、 一里一十四町五十五間半〈至國界小佛峠一十九丁二十六間〉 相模國津久井縣與瀬村小原宿〈〇中略〉 從東京奧州街道至野邊地 武藏國東京本町 一十二町二十一間 同横山町 七町三十一間 同淺草片町〈至頒暦所二十六間〉 一十三町二十一間 同材木町大川橋通 二十八町三十一間 豐島郡千住中村町 七町四十間〈至千住大橋南頭三丁二十九間半〉 足立郡千住掃部宿 二里二十四町四十九間半 草加(サウカ)宿、三十五度五十分、 一里三十三町二十間 埼玉郡越谷宿 二里二十五町五十九間 粕壁宿、三十五度五十九分、 一里二十四町三十七間 葛飾郡杉戸宿 一里一十二町四間 幸手宿、三十六度四分、 二里八

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0803 町四十八間 栗橋宿、三十六度八分半、 七町九間〈至栗橋關所前四十三間、從關所前國界房川岸、一丁一十間半、〉 下總國都賀郡野木宿

〔日本實測録〕

〈一沿海〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0803東京沿海至大坂 武藏國東京芝大木戸 四里一十一町二十四間〈至大森村一里三十三町三十八間、從大森羽田辨天社一里一町四十八間、〉 橘樹郡川崎宿六郷川岸 七里一十町二十四間〈至稻荷新田一里六間、從稻荷新田市場村三里六丁三十四間、〉 保土ケ谷宿 帷子橋 一里三十四町三十五間 久良岐郡本牧本郷村、三十五度二十五分、 三里二町三十四間 富岡村、三十五度二十二分、 二里一十六町二十三間 泥龜新田〈六浦〈本金澤〉江廻、一里二十二町二十二間〉 一十五町 六浦 三里一十二町二十間〈至國界三十町四十五間半〉 相模國三浦郡横須賀村〈〇中略〉 從陸奧國三厩沿海至東京 下總國千葉郡檢見川宿 二里一十六町一間半〈至馬加宿二十七町二十九間半〉 葛飾郡船橋五日市 一里二十七町三十五間半〈至船橋五日市一十町五十三間〉 本行徳町 二里三十五町三十九間半〈至國界利根川口一里三十一町六間〉 武藏國葛飾郡又兵衞新田〈沿中川龜有村三里一十九町五十一間〉 二里一十二町二十六間〈至洲崎辨天一里三十町六間〉 東京深川佐嘉町永代橋東頭 二里一町四十九間 同芝大木戸

〔續日本紀〕

〈三十一光仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0803 寶龜二年十月己卯、太政官奏、武藏國雖山道、兼承海道、公使繁多、祗供難堪、其東山驛路、從上野國新田驛下野國足利驛、此便道也、而枉上野國邑樂郡、經五箇驛武藏國、事畢去日、又取同道下野國、今東海道者、從相模國夷參驛下總國、其間四驛、往還便近、而去此就彼、損害極多、臣等商量、改東山道東海道

宿驛

〔延喜式〕

〈二十八兵部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0803 諸國驛傳馬〈〇中略〉 武藏國驛馬〈店屋、小高、大井、豐島、各十疋、〉傳馬〈都筑、橘樹、荏原、豐島郡、各五疋、〉

〔續日本紀〕

〈二十九稱徳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0803 神護景雲二年三月乙巳、東海道巡察使、式部大輔從五位下紀朝臣廣名等言、〈〇中略〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0804 武藏國乘潴豐島(○○○○)二驛、承山海兩路、使命繁多、乞准中路、置馬十匹、奉勅依奏、

〔新編武藏風土記稿〕

〈九豐島郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0804 總説 今按ニ、大古ハ武相ノ界ハ、山野ニテ人跡通ゼズ、故ニ海道ハ相州ヨリ安房國ニ渡海シ、夫ヨリ上總下總ニ達ス、是武總ノ界モ蒼海ニ隔ラレシナレバ、斯ノ如クナラザル事ヲ得ズ、故ニ當時當國ハ山道ニ屬シテ、上野國ヨリ府中ニ達シ、又同道ヲ反リテ下野ニ達セシナリ、然ニ安閑天皇ヨリ光仁天皇マデ、世ハ二十二世、年ハ二百四十餘年ヲ歴ルノ間、武相ノ界闢ケテ往來通ジケレバ、相模國高座郡、伊參驛ト當郡、豐島驛トノ間ニ三驛ヲ置レ、荏原郡、大井驛ヨリ豐島ニ通ジ、夫ヨリ乘潴驛ニ至リ、扨下總國葛飾郡ノ驛ニ達セシナリ、然ドモ舊ニ依テ、當國尚山道ニ屬セシカバ、官使ノ來ル上野國邑樂郡ヨリ横ザマニ同郡五个驛ヲ經テ乘潴驛ニ至リ、夫ヨリ豐島ヲ經テ府ニ達シ、事畢テ又同道ヲ反リシナリ、サレバ豐島、乘潴、山海兩路ヲ承クトハ云シナリ、

〔吾妻鏡〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0804 治承四年十月二日辛巳、武衞相乘于常胤廣常等之舟檝、濟大井隅田兩河、〈〇中略〉今日武衞御乳女故八田武者宗綱息女、〈小山下野大掾政光妻、號寒河尼、〉相具鍾愛末子向隅田宿(○○○)

〔吾妻鏡〕

〈三十八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0804 寛元五年六月九日庚寅、於武藏國、左衞門尉景頼令虜金持次郞左衞門尉將參、是令力泰村、去五日籠法華堂合戰、俄改變約諾逐電、于時赤威鎧駕鴾毛馬、攀登彼寺後山嶮岨、同六日到于武藏國河簣垣宿(○○○○)、爰景頼郞從等搦捕之云云、

〔享保集成絲綸録〕

〈二十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0804 延寶九酉年三月 東海道宿々二割増之覺 一江戸より品川(○○)江二里 百四文(本駄賃) 六拾四文(から尻賃) 四拾八文(人足賃) 中山道宿々二割増之覺 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0805 一江戸より板橋(○○)江二里半 百七文(本駄賃) 六拾七文(から尻賃) 五拾貳文(人足賃) 日光海道宿々二割増之覺 一江戸より千住(○○)江二里八町 百五文(本駄賃) 六拾六文(から尻賃) 五拾文(人足賃) 一江戸より岩淵(○○)江三里拾五町 百五拾四文(本駄賃) 百四文(から尻賃) 七拾四文(人足賃) 甲州海道宿々二割増之覺 一江戸より上高井戸(○○○○)江四里拾三町 百七十八文(本駄賃) 百九文(から尻賃) 八拾六文(人足賃) 當年道中就困窮、右之通駄賃人足賃も増候間、當酉三月十五日より同十月晦日迄、如書面之、十一月朔日よりハ、延寶三年卯正月、可相定通候、以上、 三月

〔江戸砂子〕

〈五下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0805 品川(○○) 東海道御傳馬宿、日本橋より二里、北本宿、南本宿、歩行新宿南北二ケ村、凡千石の場、 里人の云、南北宿の境川を品川といふと、一説に、武藏國品川の驛は、往古此奈革を染たる所なりと、訓閲集曰、武藏國大渡庄にて四名革を染るとあり、甲冑を威に齒朶革を用ゆ、當所にて染たる革か、源平盛衰記に、源頼政品川縅の鎧を著たりとあり、品川にて染たるゆへ、品革といふにや、地名と前後分明ならず、今立合といふ所、いにしへしな革を染たる所といひつたふよし、里人の語ぬ、いづれ分明なることをしらず、猶たづぬべし、

〔南向茶話〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0805 問曰、芝邊品川筋之儀に聞及も候はれける事も候哉、承度候、 答曰、〈〇中略〉品川の號、或古老の物語に、元下無川と云り、子細は、此前川海岸に近く、川下直に海に入るゆへ也と、此説慥ならず存候に、近頃俳諧人齋藤徳元、寛永五年冬、京都より關東下向の紀行の内に云、加の川、此町の中に橋のかヽれる川あり、水上のなき川なればとて上無川と號す、かむ川

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0806 なるを、かの川とは申とかや、〈〇下略〉今云神奈川宿の事なれば、右之説これに似たり、

〔新編武藏風土記稿〕

〈五十四荏原郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0806 品川宿 品川宿ハ郡之東海岸ニ傍テ在、海道五十三驛ノ一ナリ、府下ニ接近セルヲモテ、旅人往來尤繁シ、驛亭三區ニ別ル、一ハ南品川宿、一ハ北品川宿、一ハ歩行新宿ナリ、古ハ品川村ト唱ヘシヲ、中古町ト改ム、其年代ヲ傳ヘズ、正保元祿ノ國圖共ニ品川町ト記ス、又宿ト改稱スルハ、享保ヨリ後ナリト云リ、郷庄ノ唱ヲ傳ヘズ、按ズルニ、南品川妙國寺所藏永享六年ノ文書ヲ始トシテ數通ニ、南品川郷ト載セ、北品川稻荷南品川貴船社ノ御朱印ノ文ニ、品川郷ノ内云々ナド記ス、當寺多ク某村ト記スベキヲ、某郷ト記セリ、是等モ其類ニヤ、土人云、古ハ品ケ輪ト書シヲ、後今ノ字ニ改ム、此地出崎或ハ山谷アリテ、品ヨキ地形ナレバ、隣村高輪ニ對シテ品ケ輪ト名付ト云、サレド高輪ハ高縄手ノ下略ナリトイヘバ、此説イカヾハアラン、又今宿内目黒川ノ古名ヲ品川ト云シヨリ、地名トナリシトモ云リ、南向茶話云、元ハ下無川ト云シヲ、後ニ省略シテ、シナカハト唱ヘ、文字モ從テ假借スト云、或書ニ往古鎧ノ威ニ用ル品革〈品革威ノコト、源平盛衰記ニ、此奈革トハ藍革ニ文ニシダテゾ付タリケルナリトアリ、〉ヲ染出セシ所ナレバ、地名トナリシト云、後ノ二説ハ、土人更ニ傳ヘズ、全ク附會ノ説信用スベカラズ、按ニ、文明八年、僧得幺ガ江亭記云、南顧則品川之流、溶々漾々以染碧、人家鱗差乎北南云云ト、北品川トアルハ、全ク海上ヲ云シトモ聞エズ、恐ラクハ當時目黒川ヲ品川ト稱セシコト、土人ノ説ノ如クナリシニヤ、サレバ川名ヨリ起リシト云説穩ナルベシ、〈〇中略〉御打入ノ後ハ、慶長六年正月、彦坂小刑部元正、大久保十兵衞長安、伊奈備前守忠次等、東海道巡見ノ時、驛場ニ定メラレ、驛馬三十六匹ヲ定額トシ、五千坪ノ地子ヲ免許セラル、此時歩行人夫ノ數モ定メラレシナルベケレド詳ナラズ、

〔江戸名所圖會〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0806 品川驛 江府の喉口にして、東海道五十三驛の首なり、日本橋より二里、南北と

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0807 分つ、〈東海寺の南に傍て、貴船の社の側を流るゝ川を堺とす、或人云く、是則品川と稱する所の水流なりと云々、〉旅舍數百戸軒端を連ね、常に賑はしく、往來の旅客絡繹として絶ず、

〔御府内備考〕

〈一百八品川〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0807 品川は、今も南北品川宿、又歩行新宿と稱して、町奉行の支配に屬せず、たヾ白金に續きし邊に、台町と云もの少しく在り、その餘は寺院の門前町のみ、町方の支配に入れり、

〔江戸名所圖會〕

〈九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0807 内藤新宿(○○○○) 甲州街道の官驛なり、〈此地は舊内藤家の第宅の地なりしが、後町屋となる、故に名とす〉日本橋より高井土迄の行程凡四里餘りにして、人馬共に勞す、依て元祿の頃、此地の土人官府に訴へて、新に驛舍を取立る故に新宿の名有り、然りといへ共、故有りて享保の始廢亡せしが、又明和九年壬辰、再び公許を得て驛舍を再興し、今は繁昌の地となれり、〈此所より高井戸へ一里廿五町あり〉追分といふは、同所甲州街道八王子通、及び青梅等への分道なればなり、

〔徳川禁令考〕

〈五十二高札〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0807 享保三戌年十月 内藤新宿之儀、宿場相止候旨御書付、 内藤新宿之儀、甲州計り江之道筋に而、旅人も少く、新田之儀ニ候間、向後古來之通宿場相止、家居等も常之百姓町家ニいたし商賣物迄渡世爲致可申候、尤自今猶以猥成儀無之様ニ入念可申候、右宿場相止候付而、馬次之儀も、古來之ごとく、日本橋より高井戸宿馬次に可申付候、新宿運上金不納并拜借金之儀者、追而可伺候、 一右新宿之旅籠屋共、二階座敷之分不殘取拂はせ可申候、 以上 明和八卯年 内藤新宿繼場相成候ニ付所々江相建候高札 定〈内藤新宿江建之〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0808 一内藤新宿より之駄賃并人足錢江戸迄 荷物壹駄六拾七文 乘掛荷人共同斷 から尻馬壹疋四拾四文〈〇中略〉 右之通可之、若於相背者、可曲事者也、 明和八年月日 奉行〈〇中略〉 安永元辰年四月十一日 内藤新宿繼場ニ相成候儀御觸書 水野出羽守殿御渡 甲州道中は、江戸高井戸宿より人馬繼來候處、内藤新宿繼場ニ相成、當月十四日より、登りは江戸、内藤新宿、高井戸宿、下りは高井戸宿、内藤新宿、江戸と人馬繼立候間、可其意者也、 右之趣、向々江可相觸候、 四月 右之通可相觸

〔新編江戸志〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0808 板橋(○○) 中仙道の海道筋也、板橋の名は古來よりあり、鎌倉大草紙に、板橋城の事あり、豐島氏末流此處に住して、板橋と稱するもあり、北條分限帳にも板橋志村とあり、上板橋、下板橋とわかれて、兩道あり、

〔江戸名所圖會〕

〈十三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0808 板橋驛 中仙道の首にして、日本橋より二里あり、往來の行客常に絡繹たり、東海道は川々の差支多しとて、近世は諸侯を初め往來繁ければ、傳舍酒舖軒端を連ね、繁昌の地たり、驛舍の中程を流るヽ石神川に架する小橋あり、板橋の名こヽに發るとぞ、〈板橋は上下に分てり、此地は下板橋と稱す、上板橋は練馬通道にして、此地よりは西南の方の通路をいふ、〉

〔江戸名所圖會〕

〈十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0809 千住(○○)大橋 荒川の流に架す、奧州海道の咽喉なり、橋上の人馬は絡繹として間斷なし、橋の北壹貳町を經て驛舍(○○)あり、

〔五驛便覽〕

〈乾〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0809 東海道 一品川(武州荏原郡)〈江戸より貳里〉 御料 貳里半 一川崎(同國橘樹郡) 御料 貳里半 一神奈川(同) 同 壹里九丁 一程ケ谷(同) 同 貳里九丁 一戸塚(相州鎌倉郡) 同〈〇中略〉 貳里 中仙道 一板橋(武州豐島郡)〈江戸より貳里〉 御料 貳里拾丁 一蕨(同國足立郡) 同 壹里十四丁 一浦賀(同) 同 壹里十丁 一大宮(同) 同 貳里 一上尾(同) 同 三十四丁 一桶川(同) 同 〈原市江壹里貳拾四丁 鴻巣江壹里三十丁〉 一鴻巣(同) 同 四里六丁四拾間 一熊谷(同國大里郡) 阿部能登守領分 〈常陸國行田江貳里 相模國松山江三里半 深谷江貳里半九丁〉 一深谷(同國榛澤郡) 御料 貳里半七町 一本庄(同國兒玉郡) 同 〈玉村江貳里三十丁新町(上野)江貳里〇中略〉 道(水戸佐倉) 一新宿(武州葛飾郡) 御料 〈千住江壹里十九丁 八幡(下總)江貳里六丁 松戸江壹里五丁貳拾間 小岩江壹里半(中略)〉 日光道中 一千住(武州足立郡) 御料 岩付舍人江貳里 水戸道新宿江壹里十九丁 下妻道大原江貳里 草加江貳里八丁〉 一草加(同) 同 壹里廿八丁 一越ケ谷(同國埼玉郡) 同 〈岩付 三里 粕壁江貳里三十丁〉 一粕壁(同) 同 〈關宿江四里八丁 杉戸江壹里半三丁〉 一杉戸(同國葛飾郡) 同 壹里半七丁 一幸手(同) 同 〈岩付江四里 栗橋江貳里三丁〉 一栗橋(同) 同 〈古河(下總)江壹里廿丁 此宿日光江計片道筋〇中略〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0810 壬生道〈〇中略〉 一岩附(武州埼玉郡) 大岡兵庫頭城下 〈幸手江四里 越ヶ谷江三里 粕壁江壹里三十丁 大門江貳里半十一丁〉 一大門(同國足立郡) 御料 壹里貳拾五丁 同 一鳩ケ谷 同 壹里拾五丁 一川口(同) 同 江戸江三里十五丁 一岩淵(同國豐島郡) 同 〈鳩ケ谷江壹里十五丁 江戸江三里十五丁〇中略〉 甲州道中 一内藤新宿(武州豐島郡) 御料 〈江戸より貳里 高井戸江貳里 是者安永元辰年、新規繼場被仰付候〉 一下高井戸(武州多摩郡) 御料 〈上石原江貳里十六丁四拾間 下石原江貳里九丁四拾間 上布田江貳里壹丁四拾間〉 一上高井戸(同) 同 〈上布田江壹里廿五丁 下布田江壹里廿三丁 國領江壹里十九丁〉 此兩宿一ケ宿分 一國領(同) 同 〈府中江壹里三十丁三拾間〉 一下布田(同) 同 〈上高井戸江壹里廿三丁 府中江壹里廿七丁〉 一上布田(同) 同 〈下高井戸江貳里一丁四拾間 上高井戸江壹里廿五丁 府中江壹里廿五丁〉 一下石原(同) 同 〈下高井戸江貳里九丁四拾間 府中江壹里十七丁〉 一上石原(同) 同 〈下高井戸江貳里十六丁四拾間 府中江壹里拾丁〉 此五ケ宿壹ケ宿分 一府中(同) 同 〈小田原道關戸江壹里四丁 日野江貳里〉 一日野(同) 同 〈岩槻道古河新田江貳里〉 一横山(同) 同 〈彌島江壹里廿三丁十八間 駒木野江壹里廿七丁 小佛江貳里十八丁〉 一駒木野(同) 同 〈小原江貳里十三丁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0811  一小佛(同) 同 〈駒木野江廿七丁 小原江壹里廿貳丁〉

建置沿革

〔日本國郡沿革考〕

〈二東海道〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0811 武藏 古作无邪志〈國造記〉舊屬東山道、寶龜二年十月、更屬東海道、〈〇註略〉大國管二十二郡〈延喜式二十一郡、拾芥抄二十四郡、〉三千四十二村 豐島〈百十四村〉 荏原〈九十四村〉 橘樹〈百二十八村 安閑紀作橘花〉 久良岐〈五十四村 延喜式等作久良、東鑑作海月郡、安閑紀、倉樔疑是、〉 都筑〈七十六村〉 多摩〈四百三村 古府治、延喜式作多麻、和名抄作多磨、安閑紀多氷、疑指此地、〉 新座( /クラ)〈三十七村〉 入間〈二百六十一村 萬葉集伊利麻治、即是、〉 高麗〈百五村 靈龜二年五月、以駿河、甲斐、相模、上總、下總、常陸、下野七國高麗人千七百九十九人于武藏國、置高麗郡、〉 秩父〈八十三村 古知々夫國、見國造記、〉 男衾〈三十六村〉 大里〈四十六村〉 比企〈百五十八村〉 横見〈四十五村 和名抄云、今稱吉見、安閑紀作横渟、〉 足立〈四百四十五村〉 葛飾〈二百八十一村 近世拆下總國之葛飾郡置、俗謂之新武藏、〉 埼玉〈四百二十七村 萬葉集前玉之小崎、即是地、〉 幡羅( /ハラ)〈五十九村〉 榛澤〈八十一村〉 那賀〈十三村 延喜式等作那珂、拾芥抄載二那珂、可疑、〉 兒玉〈六十三村〉 賀美〈三十三村〉 新羅〈天平寶字二年八月、歸化新羅僧三十二人、尼二人、男十九人、女二十一人、移武藏國閑地、於是始置新羅郡、後廢未何時、〉 東海〈見拾芥抄廢置未詳〉大縣〈同上〉

〔新編武藏風土記稿〕

〈二建置沿革〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0811 上古國造時代ニハ、今ノ武藏國ハ、知々夫、〈今秩父〉无邪志〈武藏ナリ〉胸刺三國ノ地ナリ、某開闢ノ次序ハ、知々夫ヲ初トス、〈〇中略〉知々夫彦命ヲ國造ト定ラル、〈〇中略〉此後國造聞エル事ナシ、且知々夫ノ地、國ヲ降シテ郡トシ、武藏ニ併入セシ年代亦傳ヲ失フ、〈〇註略〉无邪志國地域今考ベカラズト雖、舊本足立府ヲ載スルニ據バ、足立埼玉邊、數郡ノ地其管内ニテ、其界域ハ成務天皇五年ニ定ラレ、〈〇註略〉又兄多毛比命ヲ國造ト定ラル、〈〇註略〉此後三百餘年ノ間、无邪志國造ノコト聞エズ、當時ノ國府ハ足立郡ニ在テ、今ニ大宮宿邊ニ遺跡存ス、又應神天皇ノ御宇、〈按ズルニ、國造本紀朝廷ノ號ヲ闕、今考定シテ姑ク此御宇トス、〉胸刺國造ヲ伊狹知直ニ定ラル、〈胸刺今何ノ地ナルコト知ラズ、然ドモ西ニ知知夫アリ、東ニ无邪志アレバ、今ノ多磨郡ノ地ナルベシ、〇中略〉其年紀、想ニ无邪志國造ヲ置レシ後、朝ハ四世、年ハ百餘ヲ歴シナリ、此胸刺モ、人皇以來國造ヲ置レシ國數、凡百四十四ノ内ト云、〈國造本紀〉此後四世ノ帝王ヲ歴テ、允恭天皇ノ御宇、諸國境ノ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0812 標ヲ立ラル、〈〇註略〉此時ハ猶三國ナリシニヤ、此後胸刺ノ國ノコト、寥然トシテ聞エズ、是ヨリ八世ノ朝ヲ歴テ、繼體天皇ノ御時、國造一族互ニ職ヲ爭シコトアリ、〈〇中略〉事勢ヲ想像スルニ、當時既ニ胸刺國ヲ廢シテ武藏ニ入シナラン、此時天下ニ畿内七道ヲ置レシ時、當國ハ東山道ニ隸セシナリ、〈〇中略〉靈龜元年五月〈〇中略〉庚戌、當國以下六國ノ富民ヲ陸奧ニ移サル、〈〇註略〉二年五月辛卯、高麗郡ヲ置カル、〈〇中略〉神護慶雲元年十二月、足立郡人大部直不破麻呂等ニ、改テ武藏宿禰ノ姓ヲ賜ヒ、又不破麻呂ヲ國造トセラル、〈〇中略〉寶龜二年十月、東山道ヲ改テ東海道ニ屬セラル、〈〇中略〉天慶元年〈〇註略〉國司ト郡司トノ爭起シヨリ、遂ニ平將門ガ亂ヲ醸成ス、〈〇中略〉將門誅ニ伏シテ後、恩賞行ハレ、藤原秀郷、平貞盛、源經基等、英雄相繼テ當國ノ守ニ任ズ、是此國坂東ノ大國ニシテ、其守ニ任ズルコト、尤規模トスレバナルベシ、サレバ治績モ愈新ニ、國務モ違期ノ失ナカリシナラン、然ニ大寶以來、年所ヲ經テ、功田不輸ノ地域世々ニ多ク、公武買得ノ庄園年々ニ加ハル、遂ニ班田公平ノ法ヲ廢墜セシムルニ至リ、各門戸ヲ立、各莊園ヲ有ス、其尤著名ナルハ武藏七黨ト號ス、曰横山、〈〇註略〉曰猪俣〈〇註略〉曰野與、〈〇註略〉曰村山、〈〇註略〉曰西、〈〇註略〉曰兒玉、〈〇註略〉曰丹治、〈〇註略〉是皆古ノ良民ニシテ、後世ノ郷土ナリ、當時京師ノ大番ヲ勤メ、或ハ武者所瀧口トナリ、或ハ牧監別當トナリ、歸テ各家門ノ面目トス、是ヨリ先永承中ニ奧州安倍頼時、及男貞任謀反セシ時、源頼義朝臣鎭守府將軍トシテ征伐ス、尋テ其嫡男義家朝臣鎭守府將軍タリシ時、又武衡家衡亂ヲナス、當時當國ノ諸士、皆將軍父子ニ從テ多ク武名ヲ著ス、〈〇註略〉故ヲ以義家將軍ノ嫡孫、左馬頭義朝朝臣、鎌倉龜谷〈〇註略〉ニ在テ源家ノ棟梁タリシ時、當國ノ諸士皆心ヲ寄ス、義朝死シテ後、三男頼朝卿、配謫シテ伊豆國ニアリ、永暦ヨリ治承ニ至マデ二十年ニ及ブ、斯テ最勝王ノ令旨ヲ受テ、平家追討ノ企アルニ及テ、闔國早ク其下風ニ歸ス、當時江戸太郞重長ハ江戸ニアリ、〈〇註略〉時ニ治承四年十月四日、河越太郞重頼、畠山次郞重忠等ト、同ク武衞將軍ノ長井ノ陣ニ參會ス、〈〇註略〉同五日、將軍特ニ命ジテ、當國在廳以下

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0813 ノ事ヲ江戸太郞重長ニ沙汰セシメラル、〈〇註略〉又豐島權守清光、葛西三郞清重、足立右馬允遠元等モ參向ス、〈〇註略〉其餘熊谷次郞直實、〈〇註略〉熊谷小次郞直家、〈〇註略〉平山武者所季重〈〇註略〉等參向シテ麾下ニ屬ス、〈〇註略〉是ヨリ先、當國ノ政、國守廳府ニ在テ沙汰スト雖モ、庄公雜糅セシ故ニヤ、秩父權守重綱撿校職トシテ國務ニ與リ、其孫畠山庄司二郞重忠ニ至ルマデ蔭襲ス、〈〇註略〉治承四年、鎌倉殿早ク全國ヲ賜ハリ給ヒテ後モ、重忠因循シテ職ニアリシナラン、今年三月、六十六箇國ノ總追捕使並ニ地頭ニ補セラレ給ニ及テ、諸國ニ守護ヲ置、庄園郷保ニ地頭ヲ置レシカド、當國ハ鎌倉ノ領國タリシ故、譜代衆國守ニ任ジテ、別ニ守護ヲ置レザリシナリ、〈〇註略〉又治承ヨリ今年ニ至ルマデ、亂國ノ際、國務ノ事モ閑却セラレシカド、コノ年丙午ヨリ乃貢ヲ励濟セシメラル、〈〇中略〉正治元年正月十三日將軍薨、治承ヨリコヽニ至マデ二十年當國ヲ領セラル、〈〇註略〉其後宣下有テ、左中將〈頼家〉故將軍ノ遺跡ヲ續シメラレ、二月六日、吉書始ノ儀アリ、中宮大夫屬入道善信吉書ヲ草ス、武藏國海月郡事云云、〈〇中略〉建暦二年二月、守平時房入部ノ後、各郷ニ郷司職ヲ補ス、修理大夫泰時難ゼシカド、時房領掌セズ、〈〇註略〉十月、奉行人等下向シテ民庶ノ訴ヲ沙汰ス、〈〇註略〉建保元年五月、横山黨ノ人々、和田左衞門尉義盛ガ亂ニ與シテ、死者凡三十人、〈〇註略〉尋テ勳功ノ賞行ハル、〈〇中略〉康元元年十一月、相模守時頼病ニ依テ武藏守長時執權トナリ、當國國務ヲモ沙汰ス、

〔新編武藏風土記稿〕

〈三建置沿革〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0813 當國ハ治承四年、將軍源頼朝、朝恩ニ依テ拜賜セラレテヨリ、頼家、實朝二代ノ將軍ニ傳ヘ、〈〇註略〉續テ二位尼、頼經、頼嗣、宗尊親王、惟康親王、久明親王、守邦親王マデ、〈〇註略〉管領セラレシカド、頼經以下ニ至テハ、執權北條氏國務セシナルベシ、〈〇註略〉府廳ハ此後舊ニ依テ存セシナラン、何ノ頃廢セシニヤ詳ニセズ、〈〇註略〉六月三日、尊氏ノ息千壽王丸、下野國ヨリ鎌倉ニ還入、〈〇註略〉其後恩賞行ハルヽ時、當國ハ足利治部大輔尊氏ニ行ハル、〈〇註略〉爰ニ於テ尊氏ノ臣高師直ヲシテ守タラシム、〈〇中略〉延元元年正月、官軍ト大渡ニ戰フ、〈〇中略〉尊氏將軍ハ合戰ニ利ヲ得テ入

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0814 洛シ、八月、豐仁親王ヲ王位ニ定メ奉ル、光明院是ナリ、〈〇中略〉此ニ於テ天下二分シテ南北二朝トナル、當國ノ諸家或ハ北朝ニ歸シ、或ハ南朝ニ屬ス、〈〇中略〉文和元年正月、將軍鎌倉ニ入、〈〇中略〉此頃新田左兵衞佐義興、同武藏守義宗、同左衞門佐義治、武上信越ノ間ニ在テ、吉野ノ勅ヲ蒙テ義兵ヲ起ス、國人多ク催促ニ應ズ、〈〇中略〉閏二月十六日、高麗彦四郞經澄ガ勳功ノ賞トシテ、高麗郡内高麗三郞兵衞尉ガ地頭職ノ闕ニ補セラル、〈〇註略〉新田左兵衞佐義興、少將義宗、左衞門佐義治、當國へ打越、兒玉黨、丹黨西黨、東黨、私市、村山、横山黨皆從フ、〈〇中略〉二十日、將軍尊氏、武藏野ニ打出、新田武藏守義宗等ト戰フ、〈〇註略〉二十八日、再ビ小手差原ニ戰フ、新田方大ニ尊氏ノ陣ヲ敗ル、〈〇中略〉康安〈〇中略〉六年四月二十六日、左馬頭基氏逝去、〈〇註略〉嫡男金王丸、東國ノ管領ニ補セラル、〈〇中略〉十二月七日、征夷將軍義詮薨、〈〇註略〉若君幼稚ナレバ、細河右馬頭頼之ヲ天下ノ管領職ニ居シメ、武藏守ニ補任ス、〈〇中略〉應永二年三月、上杉中務少輔朝宗入道禪助ヲ管領トス、〈〇中略〉二十三年八月、新御堂満隆、犬懸入道禪秀、陰謀シテ鎌倉ヲ滅サント廻文ヲ回ラス、當國ノ諸士コレニ應ズ、〈〇中略〉二十四年正月朔日、新御堂満隆持仲、上杉禪秀鎌倉ヲ立テ世谷原ニ陣取、〈〇註略〉五日南一揆江戸豐島等、世谷原ニ向テ戰フ、當方敗ス、〈〇註略〉九日、又合戰ス、禪秀敗シテ鎌倉ニ歸、翌日満隆持仲禪秀、武藏守護代兵庫助氏春皆滅亡ス、江戸豐島鎌倉ニ入、〈〇註略〉十七日、駿州ヨリ左馬頭歸入戰功ノ輩ニ恩賞ノ地ヲ與フ、江戸豐島等第一タリ、

〔新編武藏風土記稿〕

〈四建置沿革〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0814 永享〈〇中略〉十二年、結城七郞氏朝、故持氏ノ幼息ヲ守護シテ結城ニ籠城ス、管領ノ下知ニ依、討手發向ス、上杉右馬助憲信入道性順ハ若林、長尾左衞門尉景仲ハ入間河原ニ陣ス、〈〇中略〉今年ヨリ寶徳ニ至ルマデ九年、關東主無シテ諸國穩ナラズ、〈〇中略〉享徳三年十二月、管領右京亮憲忠ヲ殺ス、憲忠其罪ニアラズ、〈〇中略〉長尾入道、越信武上ノ兵ヲ催テ、成氏退治ノ御教書ヲ京將軍ニ請フ、〈〇註略〉康正元年正月、典厩鎌倉ヲ立テ、府中高安寺ニ動座、上州ノ敵退治ノ爲ナ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0815 リ、〈〇中略〉典厩ハ上杉ト野州ニ戰ケルガ、上杉ハ騎西ニ退キテ陣シ、典厩ハ古河ニ動座、是ヨリ年久シク、此所ヲ居所トセラル、〈〇中略〉二年正月、岩松右京太夫、上杉方ト岡部ニ戰フ、〈〇中略〉此年江戸城ヲ築ク、〈〇註略〉長祿元年四月、河越城成、〈〇註略〉岩槻城成、〈〇中略〉長享二年正月、兩上杉未和セズ、當國松山ニ戰フ、〈〇註略〉秋、山内顯定、鉢形ニアリ、故道灌子太田源六郞、來從テ平澤ニ居、〈〇中略〉永正元年九月、扇谷五郞朝良大將軍トシテ立河原ニ陣ヲ張ル、山内ノ管領民部大輔顯定入道可諄、及當屋形憲房、東八州ノ軍兵ヲ催テ會戰ス、朝良敗シテ河越ニ入、〈〇註略〉二年三月、山内顯定父子河越ヲ圍ム、朝良和ヲ乞フ、依テ山内ハ上州ニ、扇谷ハ江戸ニ歸入、〈〇中略〉享祿三年六月、上杉朝興ト北條新九郞氏康、小澤原ニ戰フ朝興敗北ス、〈〇註略〉四年七月、古河御所政氏朝臣逝去セラル、久喜ニ葬リ、甘棠院ト號ス、〈〇中略〉十四年九月、上杉憲政河越城ヲ圍ム、城中ニハ北條左衞門大夫綱成籠ル、〈〇註略〉十月、古河御所上杉加勢トシテ河越ニ後詰セラル、〈〇中略〉永祿〈〇中略〉十二年八月、甲斐武田信玄小田原ニ攻入ントシテ、當國ニ兵ヲ出ス、〈〇中略〉元龜元年、北條氏政秩父迄出陣、信玄蓑輪ニ働クヲ以テナリ、〈〇註略〉十月北條左京大夫氏康卒、〈〇註略〉三年閏正月、秩父新太郞氏邦、岩槻太田十郞氏房等兵ヲ野州ニ出ス、氏政ノ命ニ依テナリ、〈〇中略〉天正〈〇中略〉十八年、小田原兵亂、〈〇註略〉時關白ノ命ニヨリ、三手ニ分テ當國ニ入、〈〇中略〉四月、青木城陷ル、〈〇註略〉松山城留守ノ者モ開城ス、〈〇註略〉本田砦自落、〈〇註略〉河越城兵亦退去、〈〇註略〉八王子城ヲ攻テ是ヲ拔、〈〇註略〉江戸城ヲ受取、〈〇註略〉五月、岩槻城陷ル、〈〇註略〉六月、鉢形城降ル、〈〇註略〉秩父ノ諸城亦落著ス、〈〇註略〉忍城主成田下總守氏長、和談シテ城ヲ渡ス、〈〇註略〉此餘落去セシ諸城ハ、小机、〈〇註略〉木栖、羽生、菖蒲、〈〇註略〉深谷、〈〇註略〉八幡山、〈〇註略〉久下〈〇註略〉其外砦尚數箇所アリ、〈〇註略〉東照宮頓テ北條氏ノ闕國ヲ賜給ヒテ、江戸城ヲ府ト定ラレ、今年八月朔日御打入有テ、旗下ノ諸士ニ領知ヲ頒賜フ、〈〇中略〉以上古來ヨリノ變革ヲ約言スルニ、上古三國ヲ併テ武藏國トセラレ、〈〇註略〉國造ヲ置レテ政治ヲ沙汰セシメラレシカド、元是國人ナレバ、シバ〳〵我意ノ所行ナド、流弊ヲ免レザリ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0816 シニヤ、文武天皇ノ頃ヨリ國守ヲ下向セシメ給ヒテ、國政ノ法改革セラレ、國造ハ府ニ在テ祭祀ヲ掌レリ、〈〇中略〉其際大寶ニ令ヲ撰バレ、延喜ニ式ヲ撰バレテ、國法修理アリ、文武兼備ケレバ國務怠ラズ、非違ノ患ナシ、斯テ四百二十年ヲ經テ治承ニ至ル、是ヨリ先、京家ノ政紐ヲ解、諸國ニ庄園ノ弊起、年ヲ歴テ富ハ貧ヲ兼、強ハ弱ヲ併テ、遂ニ不輸ノ田多キニ至ル、是ニ於テ國衙庄園ノ政區別シテ、國守ノ治管内ニ偏キコト能ハズ、況保元平治大亂ノ後、諸平權ヲ恣ニシ、遂ニ亂階ヲ生ズ、兵衞佐頼朝ニ至テ、天下全ク武家ニ歸ス、頼朝初義兵ヲ擧ルノ日、四年庚子、朝恩ヲ蒙、早當國ヲ賜リテ知行セラル、幾程ナク六十六箇國ノ總追捕使、并地頭〈文治二年正月ナリ〉ニ補セラル、依テ諸國ニ守護〈〇註略〉所有ノ庄園郷保ニ地頭〈〇註略〉ヲ補セラル、當國ハ將軍知行ノ所ナレバ、唯一族縁家ヲ吹擧セラレテ、國守ニ任ゼラレシカバ、〈〇註略〉守護ノ沙汰ニ及バレズ、サレド畠山庄司川越太郞ノ如キ總撿挍職タリ、是亦守護ノ類ナリ、親王家將軍ト云ヘドモ、亦頼朝將軍ノ職ヲ承繼レシナレバ、陽ニハ當國將軍ノ知行所ニシテ、執權北條氏國守ニ任ジ、其家人ヲ留守代トシテ、府ニ置シ也、〈〇註略〉故ニ天下諸國國守廢絶ニ至ルト雖、當國最久シク國守ノ權威アリシナリ、京都將軍ノ時、連枝左馬頭基氏ヲ鎌倉ニ置テ關東諸國ヲ管領セシム、此管領職、元是將軍ノ代官ナリ、サレバ基氏ノ子孫義氏ニ至ル迄、九代ヲ管領ト號スベキニ、後ニハ僭稱シ鎌倉公方ト稱シテ將軍ニ擬シ、其執事兩上杉ヲ管領ト號スルニ至ル、〈〇註略〉管領ノ時代ニ至テハ、諸國トモ或ハ勳功ノ賞ニ賜ハリ、或ハ自己ノ勢力ヲ以、蠶食併呑シ、數多ノ田地ヲ有ツノ類多シ、是ヲ大名ト號ス、國守入部ノ政ハ絶果ヌ、然ドモ當國ハ上杉總領山内ノ家ニテ、世々守護職タリシナレバ、其家人ヲ置テ、守護代目代等ノ職アリ、〈〇註略〉扇谷持朝禪門ノ頃ヨリハ、國中過半ヲ押領ス、〈〇註略〉此頃天下亂國トナリ、群雄割據シ、強ハ弱ヲ兼、大ハ小ヲ制ス、況當國ノ如キ兩上杉干戈ヲ邦内ニ動ス、北條左京大夫氏綱小田原ニ在テ、此亂ヲ時トシ、江戸河越兩城ヲ乘取、其子左京大夫氏康ニ至テ、闔國大抵并呑ス、永享禪秀亂

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0817 以來、關東ノ戰爭殆百年ニシテ、天正庚寅大兵一度東シテ當國ヲ一洗シ、全ク至治ニ歸ス、郡村ノ沙汰ニ於テハ、鎌倉將軍ノ時、建久七年國撿アリ、承元四年田文ヲ作テ國務ヲ定ム、〈〇註略〉此頃久良ヲ海月トス、多磨ヲ分チ多東多西トス、埼玉ヲ埼西トス、男衾ヲ小衾トス、〈〇註略〉此後ノ書、或ハ武藏二十四郡ト稱ス、〈〇註略〉室町將軍ノ頃ハ、田數五萬千五百四十町、大遠國トス、〈〇註略〉戰時割據ノ時ニ至テ、天文五年丙申、十一年壬寅、十二年癸卯、弘治元年乙卯、永祿二年己未北條氏撿地ス、二月十二日、安藤豐前守ガ記セシ帳ノ文ニ、專ラ郡名ヲ用ヒズ、郷庄ノ名ヲ用ヒタリ、江戸〈屬スル所領廣大ナリ〉葛西比企、足立〈別テ上下トス〉多東、多西、稻毛、小机、入東、入西、高麗、川越、吉見、大抵右ノ如シ、然ドモ八王子鉢形等ノ下邑ハ此外ナルベシ、天正年間、豐臣太閤撿地ノ時、國高六十六萬七千百五石ナリ、〈天正記ニ見エタリ〇中略〉當代舊ニ復シテ郡名ヲ用ユ、但總州葛飾半郡ヲ併入シテ二十二郡トス、

〔日本地誌提要〕

〈十八武藏〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0817 沿革 古ヘ國府ヲ多摩郡ニ置、〈今ノ府中驛是ナリ〉鎌府ノ初、平賀義信守護ヲ以テ州守ヲ兼ヌ、建武中興、足利尊氏ヲ守護トス、尊氏ノ反スル、子義詮ヲシテ鎌倉ニ在テ、本州ヲ管セシム、正平四年、義詮ノ弟基氏代テ關東管領トナリ、本州ヲ領ス、永享ノ末、管領持氏亡ビシ後、上杉氏ノ所管タリ、持氏ノ子成(シゲ)氏、再管領タルニ及テ、復本州ヲ領ス、俄ニシテ山内房顯、扇谷持朝皆叛キ、成氏古河ニ奔リ、關東大ニ亂ル、長祿ノ初、將軍義政、澀川義鏡(アキラ)ヲ關東探題トナシ、蕨〈足立郡〉ニ鎭ス、八州ノ士、命ニ應ズル者ナシ、既ニシテ房顯ハ深谷ニ據リ、持朝ハ川越ニ居リ、本州ヲ分掠シ、扇谷ノ被官太田持資江戸ニ城キ、鉢形、岩槻諸城ヲ修メ、本州大半扇谷ニ屬ス、後持朝ノ子定正、山内顯定ヲ破リ、終ニ全州ヲ取ル、大永中、北條氏綱兵力日盛、遂ニ澀川氏ヲ滅シ、州ノ東南ヲ蠶食ス、天文中、其子氏康、定正ノ曾孫朝定ヲ滅シ、盡ク其地ヲ併ス、天正十八年、北條氏亡ビ、徳川氏關東ニ遷リ、府ヲ江戸城ニ開ク、既ニシテ將軍ニ任ジ、列藩ヲ統帥スル十五世、慶應三年、徳川慶喜(ヨミノシ)政權ヲ返シ、即將軍ノ職ヲ廢ス、明治元年、徳川氏ヲ駿河ニ封ジ、乘輿東臨、皇居ヲ江戸城

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0818 ニ定メ、東京ト改稱シ、文武院省ヲ設ケテ、庶政ヲ分理シ、府ヲ置テ都内ノ民治ヲ掌ラシム、徳川氏ノ江戸ニ徙ル、其子忠吉ヲ忍ニ、酒井重忠ヲ川越ニ封ズ、忠吉轉封ノ後、松平信綱、阿部忠秋、相代テ封ゼラレ、文政中、忠秋九世ノ孫正權(ノリ)白河ニ移リ、松平忠堯(タカ)封ヲ受、川越藩ハ重忠轉封ノ後、封ヲ易ル者、數氏、明和ノ初、松平朝矩(ノリ)ヲ封ジ、慶應中、其八世直克、廐橋ニ轉ジ、松平康英之ニ代ル、其餘前後封ヲ受ル者、岩槻〈初高力清長、後大岡忠光、〉岡部、〈安倍信盛〉金澤〈米倉昌尹〉凡テ五藩、王政革新、都外ノ地、小菅、品川、神奈川、浦和四縣ヲ置キ、金澤藩ヲ改テ六浦ト稱シ、岡部藩ヲ三河ニ徙ス、既ニシテ四藩皆改テ縣トナシ、又悉ク之ヲ廢シテ東京府、及神奈川、入間、埼玉三縣ヲ改置シ、更ニ入間ヲ廢シテ熊谷縣ヲ置、

〔先代舊事本紀〕

〈十國造〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0818 无邪志國造 志賀高穴穗朝〈〇成務〉世、出雲臣祖、名二井之宇迦諸忍之神狹命十世孫、兄多毛比命定賜國造、 胸刺國造 岐閉國造祖兄多毛比命兒、伊狹知直、定賜國造、 知々夫國造 瑞籬朝〈〇崇神〉御世、八意思金命十世孫、知々夫彦命、定賜國造、拜祠大神

〔古事記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0818 故此後所生、五柱之中、天菩比命之子、建比良鳥命、〈此出雲國造、无邪志國造(○○○○○)(中略)遠江國造等之祖也〉

〔日本書紀〕

〈一神代〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0818 素戔嗚尊〈〇中略〉復齧右瓊之右掌、而生兒天穗日命、此出雲臣、武藏國造、土師連等遠祖也、

〔日本書紀〕

〈十八安閑〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0818 元年閏十二月、武藏國造、笠原直使主、臣與同族小杵、相爭國造、〈使主小杵皆名也〉經年難決也、小杵性阻有逆、心高無順、密就求援於上毛野君小熊、而謀使主、使主覺之、走出詣京、言状朝廷、臨斷以使主國造、而誅小杵、國造使主、悚憙文懷、不默已、謹爲國家、奉横渟、橘花、多氷、倉樔四處屯倉

〔續日本紀〕

〈二十八稱徳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0819 神護景雲元年十二月甲申、外從五位下、武藏宿禰不破麿、爲武藏國司造

〔類聚國史〕

〈十九桓武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0819 延暦十四年十二月戊寅、武藏國足立郡大領、外從五位下、武藏宿禰弟總爲國造

國府

〔倭名類聚抄〕

〈五國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0819 武藏國〈國府在多磨郡、行程上廿九日、下十五日、〉

〔武藏演路〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0819 國府〈〇中略〉 按ニ、國府は一ケ國に一所あり、當國は多摩郡、今六所明神の邊、古の國府の地にて、今府中と云、

〔風流使者記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0819 府中驛者、武藏國府之舊地也、往世郡縣時、本州太守、http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/7f00006502f5.gif 任此所、僚屬衞兵、奔走誰何、縣令朝覲于此、州民獄訟于此、廨舍第宅、亦應數、星移物換、唯見蕭然數十白屋、似村非村、似店非店、去都城數十里、既覺兒童語音不好、二子嗟嘆久之、

〔新編武藏風土記稿〕

〈八十九多磨郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0819 府廳跡 郡ノ南北ニテハ中央、東西ニテハ東ニ寄レリ、今ノ府中ハ、其遺名ノ地ナリ、上古國ヲ治ル人ヲ國造トイヒ、毎國ニ府廳ヲ置テ、政務ヲ行フ所ユヘ國府ト唱フ、古代ハ當國モ三ケ國ニテ、國造モ三ケ所ニアリシコト、國造本紀ニ載タリ、其後一國ニ合シテ、此所ヲ當國ノ國府ト定ラレシハ、何ノ頃ナリシヤシラレズ、和名抄國郡ノ部ニ、武藏國國府多磨郡ニアリト云々、國史ヲ按ズルニ、皇極天皇ノ勅宣ヨリ、國造ノ號ヲ改テ、國司ト唱フルヨシイヘド、イカナル人ヲ當國ニ任ゼラレシト云ハ、古記ニモ傳ヘズ、文武紀大寶三年秋七月甲午、從五位下引田朝臣祖父爲武藏守ト初テ見エタリ、〈〇中略〉夫ヨリ遙ニ世ヲ經テ武家ノ代トナリ、鎌倉右大將頼朝ノ時、郡國ニ守護ヲ置、庄園ニ地頭ヲ補セラレ、國守ノ外ニ守護職ヲ置レケレバ、上古ヨリノ國政ハ變ゼシナルベシ、ソノ頃源義信ガ平治ノ亂ニ舊勳アルヲ以テ、最初ニ朝廷ヘ請テ武藏守ニ拜シ、義信當國守トナリ、府廳ニテ、國務無私、衆庶ノ歡心ヲ得タリシカバ、建久六年七月十六日、將軍書ヲ以テ褒賞シ、後來當國ノ守タランモノ、義信ガ行ヒヲ以テ法則トスベシトテ、其書ヲ府廳ノ壁ニ榜セシメラルヽトゾ、是ヨリ當國守ノ法ハ、皆是ニ傚ヒシトイフ、其後足利義氏ハ、北條

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0820 時政ガ外孫ニテ武藏守ニ任ジ、任限僅ニシテ、北條泰時武藏守トナレドモ、執權職ナレバ、鎌倉ニ居テ國務ヲ沙汰シ、嫡孫經時、祖父泰時ガ讓リヲ受テ執權職ニテ、是モ武藏守ヲ兼タレドモ、同ク鎌倉ニ在テ、當國ノ府廳ニ赴ズシテ國政ヲトリ、當國ニハ守護ノミヲ置シカバ、府廳ハ此頃ヨリ廢セリ、尤諸國是ニ同ジカリシヨリ、大抵北條ノ兩執權、或氏族ノ内ニテ、相模守、陸奧守、武藏守ニ任ズルコトニゾ成ケル、其後元弘建武以來ハ、戰國ノ衢トナリ、ヤガテ名ノミノコリ、荒廢ノ地トナリケルガ、アマタノ年ヲ歴テ御打入ノ砌、府廳ノ舊蹟ナルヲ以テ、御畋獵ノ設トシテ荊棘ヲ掃ヒ、其舊蹟ヘ殿舍ヲ結構セラル、サレドモ程ナク寛永ノ末ニ丙丁ノ殃ニ罹リ、其後ハ御造建ハヤミテ、再ビ芝生ノ地トナリケルガ、寶暦中開墾セラレ、今ハ悉ク陸田トナレリ、土俗呼テ御殿地ト唱フ、是上古ヨリ國府ノ舊跡ナリ、

〔吾妻鏡〕

〈十三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0820 建久四年六月一日丙申、有五郞弟僧、父河津三郞夭亡之後、當于五箇日生也、而伊東九郞祐清妻收養之、祐清加平氏、北陸道合戰之時、被討取後、其妻嫁武藏守義信、件僧同相從有武藏國府、可兄等同意之由、祐經妻子訴申之間、被子細、被御使於義信朝臣之許云云、

〔倭名類聚抄〕

〈五國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0820 武藏〈〇註略〉管二十一〈〇註略〉久良〈久良岐〉都筑〈豆々岐〉多磨〈太婆國府〉橘樹〈太知波奈〉荏原〈江波良〉豐島〈止志末〉足立〈阿太知〉新座〈爾比久良〉入間〈伊留末〉高麗〈古末〉比企〈比岐〉横見〈與古美、今稱吉見、〉埼玉〈佐伊太末〉大里〈於保佐止〉男衾〈乎夫須萬〉幡羅〈原〉榛澤〈波牟佐波〉那珂 兒玉〈古太萬〉賀美〈上〉秩父〈知々夫〉

〔延喜式〕

〈二十二民部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0820 武藏國、大、〈管 久良 都筑 多麻 橘樹 荏原 豐島 足立 新座 入間 高麗 比企 幡羅 横見 崎玉 大里 男衾 榛澤 那珂 兒玉 賀美 秩父 〇中略〉 右爲遠國

〔易林本節用集〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0820 武藏〈武州〉 大、管廿一郡、〈〇中略〉久良岐(クラギ)、都築(ツヅキ)、多麻(タマ)、〈府〉橘樹(タチバナ)、新倉(ニイクラ)、入間(イルマ)、高麗(コマ)、比企(ヒキ)、横見(ヨコミ)、崎玉(サイダマ)、兒玉(コダマ)、男衾(ヲフスマ)、旛羅(ハタラ/ハラ)、榛澤(ハシゼハ)、那賀(ナカ)、賀美(カミ)、足立(アダチ)、秩父(チヽブ)、荏原(ヱハラ)、豐島(トヨシマ)、大里(オホサト)、

〔運歩色葉集〕

〈無〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0820 武藏國〈廿四郡(○○○)〉

〔拾芥抄〕

〈中末本朝國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0821 武藏國〈大遠〉廿四郡(○○○) 久良(クラキ) 都筑(ツツキ) 多麻(タマ) 橘樹(タチハナ) 荏原(ヱハラ) 豐島(トシマ) 足立(アタチ) 新原(ニヒクラ)〈座〉 入間(イルマ) 高麗(コマ) 比企(ヒキ) 横見(ヨコミ) 埼玉(サイタマ) 大里(オホサト) 男衾(ヲフスマ) 幡羅(ハラ) 榛澤(ハンサハ) 那珂(ナカ) 兒玉(コタマ) 東海(○○) 大縣(○○) 那珂(ナカ)〈〇那珂重出〉 賀美(カミ) 秩父(チヽフ)

〔曾我物語〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0821 はたけやましげたヾこひゆるさるヽ事 こヽにむさしの國の住人、はたけ山のしやうじ二郞しげたヾ〈〇中略〉申されけるは、いとうがまごどもを、はまにてきられ候なる、いまだおさなく候へば、せいじんのほど、しげたヾに御あづけ候へかし、〈〇中略〉きみのおほせには、かれらが、せんぞのふちう、みな〳〵ぞんじの事、なにとてかほどにの給ふ、此事かなへぬおこたりに、むさしのくに二十四ぐん(○○○○○)をたてまつらんと、おほせくだされしぞ、まことにかたじげなくはおぼへける、

〔江亭記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0821題江戸城靜勝軒詩序 釋蕭庵龍統 武州江戸城者、太田左金吾道灌公所肇築也、自關以東、與公差肩者鮮矣、固一世之雄也、威愛相兼、風流籍甚、比來騷亂以來、欽承王命者、八州内才三州、三州之安危、係于武之一州、武之安危、係于公之一城、可謂二十四郡(○○○○)唯一人、〈〇下略〉

〔江戸紀聞〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0821 江戸城 今按に、武藏國は、初めにものするごとく、古へ二十二郡也、この記は拾芥抄などによりてかきしにや、拾芥抄諸國郡數のうちに、武藏國二十四郡とのせたり、山岡明阿云、和名抄には二十一郡とせるを、此書に二十四郡として、兒玉郡の次に、東海郡大縣郡ありて、又下に那珂郡あり、されば那珂郡は、上下二ツわりて、二十四郡とする事、その故をしらずと、又按、曾我物語にも、武藏國二十四郡とせり、その據をしらず、

〈明治十三年〉

〔東京地學協會報告〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0821 國郡沿革考第二回 塚本明毅 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0822 武藏〈◯中略〉 二十一郡、後二十四郡タル事、始テ曾我物語ニ出ヅ、文明八年八月、僧蕭庵玉統ノ太田道灌ノ爲ニ作レル、江亭記ニ、武之安危、係于公之一城、可謂二十四郡唯一人トアリ、拾芥抄ニ、大縣、東海、那珂三郡ヲ加ヘテ、二十四郡トナス、然レドモ那珂既ニ重複シテ、大縣、東海、古書ニ見ル所ナシ、其杜撰知ルベシ、今古記ヲ考ヘ、多磨ノ東西、入間ノ東西、及埼玉ノ東西各二郡アルヲ知レリ、因テ其三郡ヲ加ヘテ、二十四郡トナス、其稱蓋徳川氏ノ初、既ニ廢セリ、 多東〈深大寺鐘銘云、武藏國多東郡深大寺奉冶鑄槌鐘云云、永和二年丙辰八月十五日、 按ズルニ小楊、小野、新田、小島、狛江、勢多、六郷ヲ、多東郡トナセシナラン、〉 多西〈應永十九年、多西郡小河郷二宮社大般若勸進トアリ、又川口村圓福寺藏大般若書寫奧書ニ、多西郡由井郷川口村トアリ、 按ズルニ、小川、川口、石津、海田四郷ノ地ナラン、〉 入東〈三ケ島村長宮棟札ニ、正長元年九月二十三日、武州入東郡宮寺郷氷川社殿造トアリ、粂村永源寺鐘銘ニ、應永廿九年、入東郡久米郷トアリ、 按ズルニ、大家、高階、安刀三郷地ナルベシ、〉 入西〈七黨系圖、兒玉惟行ノ孫、入西三郞太夫資行アリ、其子淺羽小太夫行業ナリ、今市村法恩寺所藏年譜録ニ、寶治元年、鎌倉公方下文案ニ、吾邦入西郡ト記セリ、 按ズルニ、淺羽、山田、廣瀬、餘戸四郷ノ地ナルベシ、〉 埼東〈未ダ所見ナシ、然レドモ既ニ埼玉郷ヲ埼西ト稱スル時ハ、必ズ此稱アルベシ、 按ズルニ、太田、草原二郷ノ地ナルベシ、〉 埼西〈由良氏古文書、治承五年十一月、源頼朝ヨリ新田大炊助義重ニ與ヘラレシ、下文ニ、埼西郡糯田郷トアリ、 按ズルニ埼玉、笠原二郷ノ地ナルベシ、〉 下總ノ葛飾郡ヲ本州ニ入レシ事、蓋戰國ノ時ニアリ、葛西志ニ載スル所、簗田右京亮政助ノ古文書ニ見ヘタリ、 禪興寺領、武州平沼之郷事、自何方兎角申候、固守寺家疎儀之段、上意候、恐々謹言、 十一月三日 政助判 金子右京亮殿 按ズルニ、簗田系圖ニ政助ハ河内守持助ノ四男ニシテ、持助ハ文明十四年四月六日卒ス、年六

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0823 十一、政助蓋シ足利政氏ノ諱ヲ賜ヒシナラン、此書明應以後ナルベシ、平沼村ハ中川ノ東ニアリ、又天正十九年、東照宮ヨリ東葛西領金町村ノ鎭守香取明神ニ寄附アル朱印ノ文ニ、武藏國勝鹿郡葛西金町郷ト見ユ、然レバ正保中ニ本州ニ入レシト云フ説ハ誤レリ、

〔武藏演路〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0823 延喜式、倭名抄に、武藏二十一郡とす、後に下總の葛飾一郡を加へて、今世二十二郡(○○○○)とす、

〔皇國郡名志〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0823 武藏國〈舊二十一郡 今二十二郡〉 久良(クラキ) 〈<金澤 街道ヨリ少シ東南ノ方、相界南出崎、〉 都筑(ツヽキ) 〈●程ケ谷ヨリ西ノ方ワヅカ也、 相界小郡〉 多磨(タマ) 〈中野 ●高井戸 ●石原 <府中 ●八王子 △玉川 ●駒木野 ●小佛 廿 ●日野 相界大郡〉 橘樹(タチハナ) 〈神戸 ●神奈川 ●川崎 小杉 溝口 國中玉川ノ下南ノ方〉 荏原(ヱハラ) 〈六郷 大森 ●品川 北澤 △二子渡 目黒 池上 江戸赤羽根川ヨリ南ノ方ヨリ西ノ方ニ廻ル海ニ向郡〉 豐島(トシマ) 〈江戸、東角田川、西代々木、木幡ケ谷鳴子町、南芝増上寺、北板橋、煉馬、荒川ヨリ南方、 國中郡〉 足立(アタチ) 〈●千住 ●草加 ●越谷 ●粕部 ●杉戸 ●幸手 ●栗橋廿 岩付 ●蕨 ●浦和 ●上尾 ●大宮 ●桶川 ●鴻巣 葛飾新座ノ間〉 新座(ニイクラ) 〈白子 ●膝折 大和田 曾根 野火留 國中小郡〉 入間(イルマ) 〈藤久保 ●大井 川越 △武藏野 △大間川 國中〉 高麗(コマ) 〈高ハキ 大イロ イカ 此三ケ村限 國中小郡〉 比企(ヒキ) 〈關山 ホマ 二ケ村限 國中小郡〉 横見(ヨコミ) 〈●松山 前島 吹上 ヱノキト クケ ハヲワ △日吉見山 國中小郡〉 埼玉(サイタマ) 〈忍 ●行田 アラキ 新江廿 御關所内限 上毛界〉 大里(ヲホサト) 〈●熊谷 ●麻濱 大倉 ●上田 スガヤ 國中〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0824 男衾(ヲブスマ) 〈畠山 鉢形 二ケ村限 國中極小郡〉 幡羅(ハラ) 〈長井 一村限 上毛界極小郡〉 榛澤(ハイサハ) 〈●深谷 <岡野 上毛界倉ケ野街〉 那珂(ナカ) 〈ナベ田 飯塚 廣木 ヨリ井 國中小郡藤岡街〉 兒玉(コタマ) 〈平井 一村限山計 上界〉 賀美(カミ) 〈八幡 ●本庄 上界倉ケ野街〉 秩父(チヽフ) 〈子サシ カケモリ 小河内 小尾 藤倉 △三峯山 甲信上界大郡山地也〉 葛飾(カツシカ) 〈江戸深川本所 ●新宿 ●二合半 松戸廿(金町ニ有) 市川廿(小岩ニ有) 中川廿 利根川角田川ノ間有郡也 今加葛飾郡〉 首書 郡界ニ曲直有、江戸近在ワヅカノ處ニ界有、其荒増ヲ是ニ記、赤羽根川ヲ荏原郡豐島郡ノ界トイヘドモ、廣尾原豐澤村ハ豐島ニ入、白銀目黒ハ荏原郡也、青山宮益町豐島ニテ用水ヲヘダテヽ、上目黒ハ荏原ニ屬、都テ澀谷郷大方ハ豐島也、上中下北澤ヲ荏原ノ限トス、高井戸ハ多磨郡也、柏木鳴子町ハ豐島ニテ、中野村ハ多磨ニ屬、比企、高麗、大里横見、男衾、兒玉等ハ國北ニ寄テ、各一二ケ村、又ハ六七ケ村位ニテ、皆小郡也〈〇中略〉 松戸市川ハ下サ國ナレドモ、御關所ノ稱號ノ様成間此ニ〈〇葛飾〉出、松戸御關所ハ金町村也、市川ハ小岩村也、 〇按ズルニ、本書及ビ次下郡名異同一覽ノ符號ハ、山城國篇郡條ニ引ク所ノ、二書ノ凡例ヲ參照スベシ、

〔郡名異同一覽〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0825 武藏 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png tibu_1_0825_001.gif http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png tibu_1_0826_001.gif http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png tibu_1_0827_001.gif

久良郡

〔郡名考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0827 武藏 久良〈クラキ〉 久良岐

〔地名字音轉用例〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0827 ウノ韻ヲカノ行ノ音ニ轉ジ用ヒタル例 くらぎ 久良〈武郡〉久良岐(クラギ)

〔武藏演路〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0827 久良郡 東ハ海ヲ限リ、西橘樹郡ニ界、南相州、北ハ本牧沖ニ限レリ、

〔新編武藏風土記稿〕

〈七十三久良岐郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0827 總説 久良岐ハ、國ノ東南、武相ノ界、海面ニサシ出タリ、江戸ヨリ坤ノ方十里ニシテ郡界ニ至ル、〈〇中略〉和名抄ニ久良ト記シ久良岐ト訓ズ、〈〇中略〉海月ノ字ハ、固假借ナレド、久良ノ唱始終クラキト唱ヘ、其

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0828 語音下濁シテ、クラゲニ近似タルコトハ察スベシ、此後京都將軍足利義詮、貞治四年鶴岡八幡社ニ出セシ文書ニ、久良郡久友郷ト記シ、應安六年細川武藏守頼之ガ鶴岡文書亦久良ト書スル類、此餘儘コレアリ、其後文明五年、磯子村眞照寺文書、及堀之内村寶生寺同十年ノ文書、皆久良岐郡ト記ス、此後ハ皆久良岐ト記スル時ハ、大概鎌倉管領ノ比ヨリ、唱ニヨリテ文字ヲ書添シ事知ベシ、郡ノ地域、上古ノ沿革ハ得テ知ベカラズ、安閑記ニ倉樔、立花、多氷、横渟四所ニ屯倉ヲ置シコト見ユ、倉樔ハ當郡ノ事ナラント云説アリ、按ズルニ、此四倉皆多磨ノ府中ヨリ南ニ在ガ如クオモハルレバ、倉樔ノ唱、轉訛シテ久良岐トナリモテ來シモ知ベカラズ、遙ノ後鎌倉將軍ノ頃ハ、館ヲ距事遠カラズ、殊ニ風景ノ勝地ナレバ、將軍モシバ〳〵遊覽アリテ、土地ノ繁華大方ナラズ、仁治ノ頃、六浦ノ切通開ケテ後ハ、愈往來ノ便ヲ得タリ、室町將軍ノ時ニ至テモ、管領鎌倉ニ在住シ、猶此地モ賑ヒシナレバ、故水戸殿撰述ノ鎌倉志ニ、此地ヲ相州ニ附シテ收入セラレシモ宜ナリ、〈〇中略〉郡域ハ、西南相模國三浦鎌倉二郡、東ハ總テ海濱ニテ、艮ニサシ出タルハ本牧村ナリ、因テ此浦ヲ本牧浦ト呼ブ、此所ヨリ江戸迄船路八里ニ及ブト云、西北ニ彎曲セル所ヲ洲乾湊ト云、神奈川臺ト近ク相望ム、北ノ地先ハ橘樹郡、乾ハ都筑郡界ニ至ル、廣サ相州鎌倉郡界ヨリ海岸マデ二里、或ハ三里、袤鎌倉郡峠村界ヨリ橘樹郡保土谷村界ニ至マデ七里餘、土性赤土多シ、連山重疊シテ、陸田山林ノミ多ク、山間ノ平地ニ水田ヲ耕ストイヘドモ、動モスレバ旱損ヲ患フ、海濱ニ至テハ漁鹽ノ利アリ、金澤迄ハ、北ノ郡界保土ヶ谷宿ヨリ郡内太田村ニ入、行程五里餘ニシテ町屋村ニ至ル、〈〇中略〉土人ノ風俗他郡ニ變ル事ナシトイヘドモ、郡域海道ノ東ニ僻在スルヲ以、寒村多ク、土民モ鄙野樸質ナリ、サレド金澤ノ邊ハ、ヲノヅカラ風俗モ華奢ニナラヘルハ、鎌倉ノ遺風ナルベシ、郡域ノ沿革ヲ考ルニ、和名抄當郡八郷、都筑郡六郷、及餘戸アリ、橘樹郡五郷ノミナル時ハ、當時當郡彼二郡ヨリ大郡ニテ、今ノ如ク褊小ナルベカラズ、且星川諸岡二郷ノ如キ、今見ニ隣郡ニ地名

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0829 遺リ、又小田原役帳ニ、今ノ橘樹郡岩間青木ノ地名ヲ載セ、共ニ傍ニ久良岐郡ト記スル類ニ據レバ、後世境界變革シテ、郡域ノ狹リシ事知ベシ、此郡鎌倉將軍ノ時ハ、將軍ノ領地ナルベシ、後管領ノ比ハ、上杉氏ナドノ領地ナリシニヤ、小田原北條氏割據ノ頃ハ、旗下ノ人々分チ領セシ事、役帳ニ載ス、御入國ノ後モ、旗下ノ知行、及御料所交レリ、

〔日本書紀〕

〈十八安閑〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0829 元年閏十二月、武藏國造笠原直使主、〈〇中略〉謹爲國家横渟〈〇中略〉倉樔四處屯倉

〔書紀集解〕

〈十八安閑〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0829 倉樔〈疑久良郡〉

〔續日本紀〕

〈二十九稱徳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0829 神護景雲二年六月癸巳、武藏國獻白雉、〈〇中略〉即下群卿議之、奏云、〈〇中略〉國號武藏、既呈武崇文之祥、郡稱久良(○○)是明寶暦延長之表、〈〇下略〉

〔吾妻鏡〕

〈十六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0829 建久十年〈〇正治元年〉二月六日戊辰、羽林殿下、去月廿日、轉左中將給、同廿六日宣下云、續前征夷將軍源朝臣遺跡、宜彼家人郞從等、如舊奉行諸國守護者、彼状到著之間、今日有吉書始、〈〇中略〉善信草吉書、武藏國海月郡(○○○)事云云、仲業加清書、廣元朝臣持參之、羽林於寢殿覽之給、

〔寶生寺文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0829 禁制 武州久良木郡(○○○○)平子太於石川談義所、當手軍勢濫妨狼籍事、 右有違犯之輩者、可罪之状如件、 文明十年二月 日 沙彌

都筑郡

〔武藏演路〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0829 綴喜郡、東橘樹郡ニ界、西北多磨郡ニ界、南相州限ル、

〔武藏名所考〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0829 都筑郡 按ずるに、都筑郡、東北は橘樹郡に接し、西は多摩郡に接し、東南久良岐郡に接し、南は相模國高座郡に接する事わづかに數町がほど也、今存する郷名は、百八、榎下、麻生三所、庄名は、師岡、小机、根古屋三所、領名は、神奈川一所のみ、七十七村をすぶ、

〔新編武藏風土記稿〕

〈八十一都筑郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0830 總説 都筑郡ハ、其名義ノ起ヲ詳ニセズ、又國史等ニモ、コノ郡名ノアラハルヽモノヲイマダミズ、〈〇中略〉當郡ハ、國ノ中央ヨリイハヾ、南ノ方ニアタレリ、其郡ノ南ハ、相模國鎌倉郡ニ接セリ、ソノ餘ノ接界、多ハ橘樹郡ノ村々ニカヽリテ犬牙セリ、上代ノ界域ヲ考ルニ、ソノ地ノサマ變革多クシテ、古ノコトハ證スベキモノモ少ケレバ、今ヨリハ知ベカラザレド、和名抄ニ載ル所ノ地名ヲ以テ、今ノ地理ヲ察スルニ、東ノ方ヨリ南ニイタリテハ、ソノカミヨリ地形モ甚變革アリシニヤ、今ノ郡中ノ村ニ、昔ハ橘樹久良岐ノ兩郡ニ屬セシトオボシキモノアリ、マヅ本郡ニ現存ノ高田村ハ、和名抄橘樹郡ノ郷名ニノスル高田ナルベシ、又上星川村ト唱フルハ、久良岐ニ屬セリ、今久良岐郡ノ地ハ、南ノ方ニヨリテ、其間ニ橘樹郡ノ地、ワヅカニハサマリテアレバ、久良岐郡ハ今接地トハナラザルナリ、サレド正保元祿ノ圖ニハ、スベテ接シテミユレド、夫ヨリ後ノ沿革ナリ、ワヅカノ年代ニテスラ斯ノ如シ、又郡ノ東北ニカヽリテハ、皆橘樹郡ニ交リ、乾ノ方ハ多磨郡ニシテ、南ハ相模國鎌倉郡ニツヾケリ、郡ノ廣狹ハ、其サマ數郡ニ犬牙シタレバ、詳ニ辨ジガタケレド、凡東西ヘ三里ニスギズ、南北ハ四里半ニ餘レリ、土地ハ、スベテ陸田山林多ケレバ、谷間ノ平カナル處ヲエラミテ水田ヲ開キ、又西ノ方多磨郡ニツヾキタル處ハ、小山連リテ、土地モ高ク、東ノ方橘樹郡ヘハ、自ラナダレニ卑キ所ニ郡界セリ、土性多ハ眞土ナリ、

〔萬葉集〕

〈二十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0830 天平勝寶七歳乙未二月、相替遣筑紫諸國防人等歌、 和我由伎乃(ワカユキノ)、伊伎都久之可婆(イキツクシカバ)、安之我良乃(アシガラノ)、美禰婆保久毛乎(ミ子ハホクモヲ)、美等登志怒波禰(ミトヽシヌハ子)、 右一首、都筑郡上丁服部於田、

〔夫木和歌抄〕

〈三十一郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0830 武藏守みつすゑくだりける餞に、都筑郡、 能宣朝臣 むかしのヽつヾきのこほり(○○○○○○○)つヾきつヽおの〳〵ちよを思ふべら也

多磨郡

〔郡名考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0831 武藏、多麻〈タマ タバ〉

〔武藏演路〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0831 多磨郡 或云、多磨郡は高二十二万石餘の郡にて、武藏第一の大郡也、四谷淀橋を以て豐島と多摩の境とす、去ば中野より府中迄、青梅、氷川、山中、八王子、檜原、甲州境、南は相州を境ひ、北は秩父上の内を一郡とす、

〔新編武藏風土記稿〕

〈八十九多磨郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0831 總説 多磨郡ハ、國ノ西南ニ當リテ、當國ノ内ニテモ、コトニ大郡ナリ、多磨ノ名ハ、安閑紀ニ多氷屯倉トアリ、コノ多氷ハ多磨郡ノコトナルベシト云説アレドモ、サモ思ハレズ、正シク古書ニアラハルルハ、和名類聚抄國郡ノ部ニ、武藏國府多磨郡ニアリト、多磨ヲ訓ジテ太婆ト註ス、今ノ府中ハ其遺名ナリ、江戸ヨリカノ地ヘ六里ニ及ベリ、郡名ノ起ル所ハ、サダカニ傳ヘザレド、郡中三田領ニ、大丹波小丹波ノ兩村アリ、是古ヘ太婆ト唱ヘシヨリドコロナルベケレバ、是ヨリ始トモイヘリ、一説ニ、多磨川ノ水源ハ、甲州都留郡丹婆山村ヨリ出デ郡中ニ流レ入ユヘ、川ノ名モ丹婆川ト唱ヘシヨリ起ルトモイヘド、其本説サダカナラズ、後世スベテタマト唱ヘリ、當郡ハ古ヘ入間郡ヘカケ、人家モマレニシテ、タヾ渺茫タル曠原ナリシユヘ、公私旅行ノ者、ヤヽモスレバ飢寒疾病ノ患アルニヨリテ、多磨入間ノ兩郡ノ界ニ、悲田所ヲ置レシガ、續日本後紀天長十年ノ條ニノス、是郡名ノ初テ古記ニアラハレシモノナルベシ、〈〇中略〉中古ニ至リ、東鑑ニ、建仁二年、上多磨川ノ水ヲ通シテ、小机郷邊ノ水田ヲ開カレシコトヲノスレド、是ハ稻毛領小机領ノ水田ヲ開墾セラレシコトヽ見ユ、夫ヨリアマタノ年暦ヲ經テ、御打入ノ後ヨリ享保年間ニ至ルマデ、武藏野ノ廣原ヲ開カレ、今ニ至リテ八十餘ケ村ノ、武藏野新田ト唱ルモノ出來タリ、尤他郡ニモカヽレド、其大半ハ郡中ニ在テ、今ノ如ク人家所々ニ散在シ、耕作ノ地アマタ出來シモ、承應年間、多磨川ヲ疎鑿シ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0832 テ、水道ヲ通ゼラレシヨリ、村民交々水利ノ便宜ヲ得テ、ツドヒ來リ村落ヲナセリ、古ヘ荒野ノ形勢ハ、變ジテ阡陌ウチマジリシ耕畝ノ地トナレリ、又イツノ頃ヨリカ、郡ヲ二ツニ分チ、多東多西ト唱フルモ、入間郡ノ入東入西ノ如ク、フルキヨリノコトヽハ見ユレド、此唱ノ起リタル始ハ傳ヘズ、建武ノ頃ノ文書ニハ、既ニ所見アレド、夫ヨリハ遙ニ古キコトナルベシ、思フニ入間郡埼玉郡ノ東西ヲ分チ唱ヘシモ、同時ノコトナラン、治承壽永ノ頃ニハ、埼西郡ノ名、マサシキモノニ見ユ、又寶治ノ頃入西郡ト出タレバ、多西多東トモニ治承ナドヨリ上ニ唱ヘ初シナルベシ、既ニ葛西郡ノ名モ東鑑ニ見エタリ、又東西ヲ分チシ方位モ、サダカニシガタシ、多クハ多磨川ヲ以テ分チシナドイヘリ、按僧仙覺ガ、文永六年三月シルセシモノニ、葛西葛東ハ、大井川ヲモテ堺トセリナド云コトモ見ユレバ、多磨川ヲモテ分チシト云ハ、サモアリナンカ、郡ノ地形ハ、東西ヘ長大ニシテ、南北ハ狹ク、東ハ荏原豐島ノ兩郡ニ對シ、南ハ橘樹都筑ノ堺ニ至テハ、犬牙ナセシ所モアリ、都筑郡ト相州鎌倉郡トノ間エ少シク差出テ、同國高座郡ヨリ津久井縣マデハ、堺川ノ流ヲ以テ限トス、西ノ方ハ、又津久井縣ヨリ甲州都留郡北ニムカヒ、秩父郡マデハ悉ク嵯峨タル嶺岑ヲ界トセリ、高麗郡ニ抵テハ成木川ヲ限トス、入間ニ及テハ金子領ノ民戸、陸田入合テ、狹山ノ下ニ至ル迄ハ、南ノ方ヘ少シクセバマリテ、又東エ狹山ノ峯ヲ界トシ、新座郡ノ限リマデハ柳瀬川ヲ界ヒ、新座ニ及テハ、土地平坦ニシテ相接シ、此四郡ヲ郡界トス、スベテ十二郡ニ係レリ、東西ノ長凡二十二里半、南北ノ幅ハ、廣キ所ニテハ六里ニ及ベリ、土性大抵野土ニテ、陸田多ク、水田ハ東南ニヨリ、川ニ從テ平坦ノ地ニアリ、其邊ハ眞土ナレド、郡中ニトリテハ僅ノ所ナリ、又三田領小宮領、由井領ノ内ニモ、山ニ接スル地ハ砂別眞土ト唱ル土性ナレド、陸田多ク、水田ノ地ハ至テ乏シ、郡中ノ地勢、東ハ低ク、西ノ方ヘ漸々高クシテ、三田領ノ奧ニ至テハ、村々ノ民戸、多クハ屈曲シテ登レル山上ニヤドリヲシメタリ、高尾小佛ノ嶺ヨリ案下ノ嶺、並ニ檜原ノ山々並ビ聳ヘ、日原ノ巉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0833 巖秩父山ノ峯ヘ連續シテ、三ツ峯山武甲山マデ續キ、〈〇中略〉闔郡ノ状ハ、南北ノ中間ヲ、西ヨリ東ヘ多磨川流ル、南ニ堺川並ニ都筑ノ岡ツラナリ、東ハ村里陸田平坦ノ地ニツヾキ、北ハ柳瀬川ヲ帶タリ、又狹山ノ峯ニカヽリテ筥ノ池アリ、北ヨリ西ヘ巡リ、高麗秩父ノ峯續キ、日原檜原ノ峻嶽、案下小佛ノ嶺高尾山ニ至マデ、嶮巖疊回シテ界ヲナス、サレドモ郡ノ經界ニ至テハ、後世沿革セシコトニヤ、和名抄ニ載ル郷名ノ中、勢多トイヘルハ今ノ瀬田ノ地ナルベシ、此地名ハ本郡ヲ出テ、荏原郡ニ屬シ、當郡ノ界ニアリ、大岱村ハ入間ノ地ニシテ當郡ニ飛入、日比田村ハ本郡ノ邑ニシテ、入間郡ノ地ニハサマレリ、是等ハ全ク後ノ世ノコトニテ、變革セシトモイヒガタシ、扨人物風俗等ニ至テハ、サセル別異ナシトイヘドモ、西ニヨリタル山谷ノ地ハ、男女常ニ山中ヘ入テ、樹木ナド伐薪トスルヲ以テ生業トシ、女モ貨布ノ短衣ヲ身ニマトヒ、ウチ混ジタルサマハ、サナガラ男女ヲモ別タズ、唯其鬚鬢ノ有無ヲ以テ知レリ、言語應對ニ至テハ、尤野鄙ナリ、是ラノ風俗ハ、頗ル東方ノ諸郡ニ異ナリ、

〔日本靈異記〕

〈中〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0833 己作寺用其寺物牛役之縁第九 大伴赤麻呂者、武藏國多磨郡大領也、以天平勝寶元年己丑冬十二月十九日死、以二年庚寅夏五月七日黒斑犢、自負碑文矣、

〔續日本後紀〕

〈一淳和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0833 天長十年五月丁酉、武藏國言、管内曠遠、行路多難、公私行旅、飢病者衆、仍於多磨入間兩郡界、置悲田處、建屋五宇、介從五位下當宗宿禰家主以下、少目從七位上大丘秋主巳上、六箇人、各割公廨、以備餬口之資、須帳出擧、以其息利充用、相承受領、輪轉不上レ斷、許之、

〔吾妻鏡〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0833 治承五年〈〇養和元年〉四月二十日乙丑、小山田三郞重成聊背御意之間成怖畏籠居、是以武藏國多磨郡内吉富并一宮蓮光寺等、注加所領之内、去年東國御家人安堵本領之時、同賜御下文訖、而爲平太弘貞領所之旨、捧申状之間、糺明之處無相違、仍所弘貞也、

〔武藏志料〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0834 田東郡(○○○) 神奈川宿の邊を、慶長元和の比いひしにや、今宿の少裏妙仙寺慶冬寺などいふ寺の御朱印、當御代の文書にも此有、むかし聞へざる郡名也、中世の比、村名をも郡と書し成べし、その類甚だ多し、

〔新編武藏風土記稿〕

〈九十四多磨郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0834 深大寺村 深大寺〈〇中略〉 鐘樓〈本堂ノ西ノ方ニ當レル境内ノ山中ニアリ、二間四方ノ樓ナリ、鐘ノ徑リ二尺三寸、銘文左ノ如シ、〉 敬白武藏國多東郡(○○○)深大寺奉冶鑄搥鐘一長四尺三寸二尺三寸〈〇中略〉 永和二年丙辰八月十五日 大工山城守宗堯〈〇下略〉

〔新編武藏風土記稿〕

〈九十九多磨郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0834 百草(モクサ)村 八幡社〈(中略)八幡ノ本地佛ナリト云、重サ八貫目許ノ銅像一軀アリ、背後ニ銘文ヲ刻ス、左ノゴトシ、〉 敬白冶磨金銅影像法體、彌陀座光三尺六寸、〈〇中略〉 建長二年、大歳庚戌孟夏之天七日、王力南閻浮提日本武州多西(○○)吉富眞慈悲寺、施主源氏願主佛子慶祐敬白、

〔鶴岡八幡宮藏古文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0834進鶴岳八幡宮武藏國多西郡(○○○)吉富事〈〇中略〉 至徳三年九月十四日 左兵衞督源朝臣

〔大日本史〕

〈國郡志武藏〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0834 按鎌倉時、分曰多東多西、見新編風土記引古文書、入間埼玉亦分爲東西二郡、蓋當時私制也、

橘樹郡

〔武藏演路〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0834 橘樹郡 東海ヲ限リ、西綴喜郡、南相州界、北荏原郡界、

〔新編武藏風土記稿〕

〈五十八橘樹郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0834 總説 橘樹郡ハ、國ノ中央ヨリ南ノ方ニテ、多磨郡ヨリハ東南ニ續ケリ、郡名ノ起リハ、其正シキコトヲ聞ズ、古事記及景行紀等ニ載タル、倭建命東征ノ時、相武國ヨリ船ヲ浮ベ給ヒシニ、海中ニシテ船

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0835 ノ進マザリシカバ、后ノ弟橘媛海中ニ入給ヒシニヨリ、命ノ船忽進ムコトヲ得シ條ヲ證トシテ、當郡ニカノ弟橘媛ノ墓アル故ニ、橘ヲモテ地名トセシナラント云説アリ、今按ニ、郡中子母口村立花ノ神社ハ、弟橘媛ヲ祭レルナリト云トキハ、橘媛ノ墓トイヘルモノモシ是ナリトイハンカ、今彼社傳ヲ尋ヌルニ、更ニ證トスベキコトモアラザレバ、是等ノコトハ今ヨリ知ベカラズ、其正シク橘花ノ地名ノ正史ニアラハレシハ、安閑紀ヲ始トスベシ、〈〇中略〉其地ノ界域ハ、中古ヨリ甚變革セリ古ノサマハ、今ヨリシルベカラズトイヘドモ、試ニ和名抄ニ載ル所ノ郷名ヲモテ、今ノ地理ヲ察スルニ、ソノ郡中甚セバカリシト見ユ、今ノ都筑郡高田村ノ邊ヨリ、多磨川ノ涯ニ至リ、夫ヨリ川崎宿ノ邊ヲ限トシテ、南ノ方ハ今ノ神奈川ノ邊ニテ、久良岐郡ニ接セリ、サレバ古代ハ、東西モ南北モ、纔ニ三里ニスギザル小郡ニテ、南西ノカタ相模國ト境ヲ接セザリシナルベシ、サテコソ和名抄ニ、郡ヲツイヅルコト久良ヲ初トシテ、都筑多磨ニ及ビ、次ニ當郡ヲ載シモ、其次叙ヲ得シト云ベシ、遙ノ後永祿ノ頃マデモ、久良岐ノ地ハ神奈川ノアタリマデ及ビシナラン、小田原家人所領役帳ニ、今ノ神奈川宿ノ内、青木町及ビ寺尾村ナドハ、皆久良岐郡ノ地トシテ記セリ、御打入ノ後、正保圖ノナリシ頃ハ、ハヤ青木町寺尾等ノ地モ當郡ニ入レリ、夫モ保土ケ谷ノ内岩間町ノ地ハ、ヤハリ昔ノマヽニ久良岐郡ニ屬セリ、元祿年中、境界ヲ改メラレテヨリ、ホヾ今ノ如クニハナリタルナラン、今見ル所ノ界域ノ大様ハ、北ノ方多磨川ヲ界トシテ、荏原多磨ノ二郡ニ隣レリ、ソノ里數ハ、西北ノ隅、金程村ヨリ、東ノ方稻荷新田ノ出崎マデ、凡七八里モアルベシ、東南ハスベテ海ニソヒ、南ノハテハ久良岐郡、及相州鎌倉郡ニ接セリ、ソノ里數六里餘ナリ、サレド鎌倉郡ニマジハレル所ニ至リテハ、地形コトニセバマリテ、ワヅカニ東海道往還ノ邊ニスギズ、其所ニ地藏ノ石像一軀アリ、世ニ境ノ地藏ト呼ベリ、コレ武相ノ界ナレバナリ、夫ヨリ郡ノ西邊ハ、スベテ都筑郡ニ隣リ、ソノ界ヒ屈曲シテカケ入タルガ如シ、彼界ヨリ金程村ニ至ルノ里數八里ニ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0836 アマレリ、是今ノ地形、古トカハリタル所ノ大様ナリ、〈〇中略〉土地ハスベテ西ノ方ニ山々連ナリテ、北ヨリ東南ヘハ山ノ根ヲ廻リテ平地ナリ、ソノ邊ハ自ラヒクケレバ、水田モ多シ、土性ハ多ク眞土ナリ、マタ山ニソヒタル方ハ、陸田山林多ケレド、山谷ノ間纔ニ平ラカナル地ニヨリテ、水ヲタタヘ水田ヲ耕ス所モアリ、風俗ハ大抵近郡ニコトナルコトナシ、サレド都筑郡ニヨリタル方ハ、山アヒノ寒村多ケレバ、人民質樸ノ風アリ、

〔日本書紀〕

〈十八安閑〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0836 元年閏十二月、武藏國造笠原直使主、〈〇中略〉謹爲國家、奉横渟、橘花(○○)、〈〇中略〉四處屯倉

〔續日本紀〕

〈二十九稱徳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0836 神護景雲二年六月癸巳、武藏國橘樹郡(○○○)人、飛鳥部吉志五百國、於同國久良郡白雉獻焉、

〔萬葉集〕

〈二十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0836 天平勝寶七歳乙未二月、相替遣筑紫諸國防人等歌、 伊波呂爾波(イハロニハ)、安之布多氣騰母(アシフタケドモ)、須美與氣牟(スミヨケム)、都久之爾伊多里氐(ツクシニイタリテ)、古布志氣毛波母(コフシケモハモ)、 右一首、橘樹郡上丁物部眞根、

荏原郡

〔武藏演路〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0836 荏原郡 東ハ海、西ハ世田ケ谷代田ヲ限リ、多摩郡也、南ハ玉川ヲ界、北澀谷川流新堀ヲ限、

〔和名抄諸國郡郷考〕

〈六武藏〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0836 荏原〈江波良 今江戸麻生青山の邊をいへりとぞ、(中略)小山田與清云、江戸と云名のよし、荏處の略語にて、好荏の生る地なればなるべし、もとは荏原の郡に隷たりけん、國郡の境は世々にかはり行習ひなれば、後豐島郡に隷るにや、荏原と云るも、荏の生列(ナミ)たる貌(サマ)に云詞なり、安藝國高田郡麻原郷あるにも思ひ合すべし、縣居翁の江の門の象といはれしは、しひごとにて、此わたり江の門ともいひつべき地形、古へにもきこえず、今もあることなし、さるを古學に心をよせし人たち、大江の御門とさへいふめるは本をたヾさヾるみだりことになん、〉

〔新編武藏風土記稿〕

〈三十九荏原郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0836 總説 荏原ノ郡ハ、其名義ノ起リシユヘヲ詳ニセズ和名抄ヲ閲スルニ、郡中ニ荏原郷アレバ、郷ヨリ起リシ郡名ナルモシルベカラズ、是豐島郡ニ豐島村、入間郡、高麗郡ニ高麗本郷アルノ類ナルカ、或

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0837 ハ古ヘ武藏野ノ内ニテモ、此地ハ荏草ヲ多ク植シ處ナレバカクイヘリトモ言傳フ、相模國鎌倉ノ郡ニ、荏草ノ郷ナドモアレバ其傳ル處故アルニ似タレド、マサシキコトヲ知ラズ、當國幡羅郡、備中國後月(シヅキ)郡、伊豫國浮穴郡ニモ荏原郷アリ、果シテ荏ノ多キヲ以テ名ヅケシヤ、又別ニ故アルニヤ知ベカラズ、此郡名ハ、國史等ニアラハルヽモノヲイマダ見ズ、萬葉集ニ、天平寶字七歳乙未二月廿三日、武藏國部防人安曇宿禰三國ガマイラセシ和歌ノ作者ニ、荏原郡物部歳徳同郡上丁物部廣足ガ詠ズル所ヲ載タリ、是等古キ書ニ顯ルヽノ初トセンカ、和名抄ニ江波良ト訓ゼシカバ、其唱フル所ハ古今同ジキト見エタリ、〈〇中略〉按ニ、此郡ハ古ヘ田多キ所ナリシニヤ、和名抄ニ載ル所ノ郷名、多クハ田ヲ以テセリ、蒲田、田本、満田、御田、木田、櫻田是ナリ、今ハ田地尤スクナキ郡ナリ、桑田ノ變ハ後ノ世ヨリハカリガタシ、郡ノ方位ハ圖ニモアラハスゴトク、大凡東ノ方ハ品川ノ海邊ヲ限リ、南ニ至リテハ多磨川ノ流ヲオヒテ、橘樹郡ニトナレリ、西ノ方ニ當リテハ多磨郡ヲ境トシ、北ハ豐島郡ニオヨビテ、江戸ノ地ニ接セリ、郡ノ周廻ヲイハヾ、凡十五里ニ及ビヌ、ソノ内豐島郡ニカヽルコト三里半ホド、海濱ニソフモノ凡四里ナリ、橘樹郡ニ接セシ所凡四里半、多磨郡ハ三里餘リナリ、東西ヘ二里半ホド、多磨郡ノ境瀬田村ヨリ、海岸ノ方大井村ニ至レリ、南北ヘハ三里ニ近シ、橘樹郡ノ境古川村ヨリ、豐島郡ノ境目黒村ニ及ブ、巽ヨリ乾ニ至リ四里餘、多磨郡ノ境松原村ヨリ、海邊ノ方羽田村ヲ限ル、艮ヨリ坤ノ方ヘハ二里半、是豐島郡ノ境上高輪村ヨリ、橘樹郡ノ境下野毛村ニ至ルナリ、スベテ郡中ノ地勢ヲオスニ、東ノ方海濱ニ近ヨリテハ、三分ケ一平地ニシテ、餘ハミナ水田、土性モ眞土ガチナリ、西北ノ方ヘツヾキテハ、村々スベテ高低ノ岡ツヾキナレバ、田畠原野山林多ク、土性モ平地ノ方ニクラブレバ大ニ異ニシテ、野土黒土ナレバ、穀物ニ宜シカラズ、是ヲ細ニイハヾ、大井村ヨリ南ノ方、新井宿、一ノ倉、堤方、池上ノ村々皆岡ツヾキナリ、又池上村ヨリ南西ノ方モ、久ケ原峯村、鵜ノ木村、治部村ニ至リテハ、コトニ小山ガチナ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0838 リ、コヽヨリ海濱ノ方ヘハ一圓平地ニシテ、數十村アリ、其内大井村ハモツトモ海岸ニソヒタル村ナガラ、其内ニ小高キ岡モアリ、是ヨリハ海ギハマデ凡七八丁許ニテ、廣平ノ地ナリ、カノ村々ヨリ西北ノ方ハ、皆岡ツヾキニシテ、郡ノ境ニ至ル、又目黒川ノ左右ニ水田アリテ、其幅四五十丁許ニテ、品川ノ方海濱マデ、行程一里アマリモウチツヾケリ、コノ目黒川ヨリ豐島郡ニヨリタル岡ニハ、諸家ノ下屋敷、或ハ商家ナドアマタアリテ、江戸ノ方ニツケリ、〈〇中略〉又風俗ナドモ他郡ニコトナラザレバ、サシテシルスベキ事ナシ、

〔萬葉集〕

〈二十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0838 天平勝寶七歳乙未二月、相替遣筑紫諸國防人等歌、 志良多麻乎(シラタマヲ)、氐爾刀里母之氐(テニトリモシテ)、美流乃須母(ミルノスモ)、伊弊奈流伊母乎(イヘナルイモヲ)、麻多美氐毛母也(マタミテモモヤ)、 右一首、主帳荏原郡物部歳徳、〈〇中略〉 和我可度乃(ワガカドノ)、可多夜麻都婆伎(カタヤマツバキ)、麻己等奈禮(マコトナレ)、和我氐布禮奈々(ワガテフレナヽ)、都知爾於知母可毛(ツチニオチモカモ)、 右一首、荏原郡上丁物部廣足、

豐島郡

〔武藏演路〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0838 豐島郡 東限大川、西多摩郡、南荏原郡、北荒川、其中豐洲縣、

〔新編武藏風土記稿〕

〈九豐島郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0838 總説 豐島郡ハ、國ノ東ノ方ナリ、倭名抄國郡部ニ、豐島ヲ訓ジテ止志末ト註ス、風土記殘編ニハ、豐島或ハ砥島ニ作ルト記ス、今見ニ豐島村アリ、是郡名ノ本郷ナルベシ、仁徳紀曰、十八年庚申春、令戸田眞人蒐武藏國豐島郡、得二頭之狐而歸奏云々、是郡名ノ國史ニ見エシ始ナリ、天下ヲ七道ニ定ラレシ始メ、當國東山道ニ屬セシ頃ヨリ、當所ニ宿驛アリシ事、稱徳紀ニ見ユ、曰、神護景雲二年三月乙巳、先是東海道巡察使式部大輔從五位下紀朝臣廣名等言、武藏國乘潴豐島二驛、承山海兩路、使命繁多、乞准中路馬十匹、奉勅依奏云々、此後四年ヲ經テ、光仁天皇寶龜二年十月、改テ當國ヲ海道ニ屬セラル、今按ニ、大古ハ武相ノ界ハ、山野ニテ人跡通ゼズ、故ニ海道ハ、相州ヨリ安房國ニ渡

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0839 海シ、夫ヨリ上總下總ニ達ス、是武總ノ界モ、蒼海ニ隔ラレシナレバ、斯ノ如クナラザル事ヲ得ズ、故ニ當時當國ハ山道ニ屬シテ、上野國ヨリ府中ニ達シ、又同道ヲ反リテ下野ニ達セシナリ、然ニ安閑天皇ヨリ光仁天皇マデ、世ハ二十二世、年ハ二百四十餘年ヲ歴ルノ間、武相ノ界闢ケテ往來通ジケレバ、相模國高座郡伊參驛ト、常郡豐島驛トノ間ニ三驛ヲ置レ、荏原郡大井驛ヨリ豐島ニ通ジ、夫ヨリ乘潴驛ニ至リ、扨下總國葛飾郡ノ驛ニ達セシナリ、然ドモ舊ニ依テ當國尚山道ニ屬セシカバ、官使ノ來ル上野國邑樂郡ヨリ横ザマニ、同郡五箇驛ヲ經テ乘潴驛ニ至リ、夫ヨリ豐島ヲ經テ府ニ達シ、事畢テ又同道ヲ反リシナリ、サレバ豐島乘潴山海兩路ヲ承クトハ云シナリ、郡ノ地域、風土記殘編ニハ、東限下谷岡、西限箕田、南限藍田川、北限向岡ト見ユ、〈〇中略〉今ノ境界ハ、東ハ、荒川ニ至リ、對岸ハ葛飾郡ナリ、北モ荒川ヲ界トシテ、足立郡ニ隣リ、西ハ新座多磨ノ二郡ニ接シ、南ハ荏原郡ニテ澀谷川ヲ界トス、東ノ方荒川ノ涯ヨリ西ノ方多磨新座ノ接界マデ、凡六里許、南ノ方荏原郡ノ界ヨリ、北ノ方荒川ノ涯ニ至ル迄凡三里ニ及ベリ、依テ考ルニ、今ノ大城下町通ヨリ、都テ淺草川荒川ノ涯ニ添シ下卑ノ所々ハ、皆後世開ケシ所ト知ベシ、天正以來當家御居城ノ地ナレバ、繁榮他ニ異ナルヲ以、年ヲ追テ變革多シ、御打入前ノ大概ヲ考フルニ、國守下向セシ頃ハ、今ノ多磨郡府中宿ノ地ニ府廳アリテ、官人是ニ居シニ、平家全盛ノ頃、當國ニ秩父別當重弘ト云者アリ、其庶子重綱始テ江戸ト號ス、其子太郞重長ハ、治承年間石橋合戰ノ後、源頼朝當國ニ來リシ時、始テ其麾下ニ屬セリ、東鑑治承四年十月五日條曰、武藏國諸雜事等、仰在廳官人并諸郡司等沙汰之間、所付江戸太郞重長也云々、按ニ重長父子在名ニヨリテ江戸ト號スル時ハ、今ノ府城ノ地ニ住セシ事知ルベシ、重長又國衙ノ諸官人ニ頼朝ノ意ヲ傳ヘシ程ナレバ國中ニテ有勢ノ者ナルコト知ルベシ、是當家御在城ノ地トナルベキ張本ナリ、又當時豐島權頭清光ト云者アリ、秩父別當武基ガ庶子次郞武常ガ子孫ニテ、江戸ト一族ナリ、是又郡中豐島村ニ住シ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0840 テ其邊ヲ領セリ、鎌倉管領ノ時ニ至リテハ、扇谷ノ上杉修理大夫定正ノ老臣、太田左衞門大夫持資入道道灌、江戸城ヲ築テ城代トシテコレニ居ル、當時當國ノ鎭トスル所ハ、江戸川越ノ二城ナリ、大永年間、北條左京大夫氏綱江戸城ヲ取テヨリ、六十餘年小田原ノ抱トナリシガ、遂ニ御居城ノ地トハナレリ、御打入ノ後ハ、郡内スベテ近郊ニテ、御料私領打錯レリ、今東南ノ方ハ市店ニテ、繁華比倫ナシ、西北ノ方モ、年ヲ追テ百姓町家數多出來シテ、寛文ノ頃ヨリ追々町奉行ノ支配トナリ、正徳年中ニ至テ、專ラ改テ町方ノ支配ニ屬シ、其後ニ至リテモ、町並ニツヾキタル田畑ヲ追々廢シ、新ニ町家ヲ建シ分、同支配ニ加ヘラレシモノ若干アリ、是ヲ年貢地町並ト稱シ、貢税ノ事ハ、舊ニ依テ御代官進退ス、此餘御府内近キ村民等、物商フベキコトノ免許ヲ得、農隙ノ業トスルモノアリ、其地モトヨリ町奉行ニハ屬セズシテ、御代官ノ支配ナリ、是ヲ姑ク百姓商買家トイヘリ、闔郡ノ石數、正保ノ改ニ二萬八千九百七十二石、元祿ニ至テハ四萬四千百五十石餘ニ至レリ、地勢西北ニ丘アリ、其餘ハ平坦ナリ、土性ハ眞土野土錯テ、水田多シ、百姓五穀ノ外ニモ菜蔬ヲ樹ヘ、或ハ藝園ヲ開キ、花木ヲ養テ鬻グモノアリ、平常ノ農人ニ至リテモ、自ラ府下ヲ學ビテ浮靡ノ風俗アリ、

〔日本書紀〕

〈十二仁徳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0840 四十八年庚申春、令戸田眞人蒐武藏國豐島郡、得二頭之狐而歸奏、

〔萬葉集〕

〈二十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0840 天平勝寶七歳乙未二月、相替遣筑紫諸國防人等歌、 阿加胡麻乎(アカコマヲ)、夜麻努爾波賀志(ヤマヌニハカシ)、刀里加爾氐(トリカニテ)、多麻乃余許夜麻(タマノヨコヤマ)、加志由加也良牟(カシユカヤラム)、 右一首、豐島郡上丁椋椅部荒虫之妻宇遲部黒女、

足立郡

〔武藏演路〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0840 足立郡 東ハ葛飾郡界西入間新座郡界、南豐島郡界北埼玉郡界ニ至ル、

〔新編武藏風土記稿〕

〈一百三十五足立郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0840 總説 足立郡ハ、國ノ中央ヨリ東北ノ間ニアリ、江戸ヨリ北ノ方二里半ニ當ル、倭名抄國郡ノ下ニ、足立

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0841 ヲ訓ジテ阿太知ト註ス、其名義ハ知ベカラザレド、陸奧國ニモ安達ト云ル郡名アレバ、文字ハ假借ニシテ、アタチト云ル古言ノ義ハイヨイヨ論ジガタシ、其名ノ起レル地モ、今ハ唱ヲ失ヒタレド、神名帳ニ足立神社アルハ、當時足立本郷アリテ、其地ニタテリシ神社ナルコト知ルベシ、今ハ彼神社ノ舊跡サヘ慥ニ知ベカラズ、郡ノ方位、西ヲ上トシ、東ヲ下トス、其東ハ葛飾郡埼玉郡ノ二郡ニ境ヒ、大抵古隅田川ヲ限トス、南ヨリ西ヲ上トシ、荒川ヲ界トシテ、豐島、新座、入間、比企、横見ノ五郡ニ跨リ、北ハ大里、埼玉ノ二郡ニ隣ル、其大里ノ界ハ地續ニテ、埼玉ノ限ハ元荒川綾瀬ノ二流延亘ス、闔郡巽ヨリ乾ヘ地先長ク張出セリ、葛飾郡ノ界ヨリ大里郡ノ界マデ長凡十三里、横ハ東ノ方千住宿ノ邊マデ一里半、ソレヨリ西ヘ上レバ次第ニ廣ゴリ、中央ニテハ三里半ニ至リ、又スボマリテ、大里郡ノ界ニテハ纔一里ニ過ズ、郡界カタノ如ク、大河ノ流ヲ帶ヌレバ、古ノ地域大抵變革ナキガ如クナルベケレドモ、〈〇中略〉古ヲ以テ考フルニ、元荒川綾瀬川ノ流ナドヲ通ジ、綾瀬ノ川下、今ノ隅田川ヘ通ゼシアタリハ、押ナベテ江海ナリシヲ、次第ニ洲濱モ出來、ヤガテ變ジテ水田トナリシナルベシ、サレバ郡中水邊ノ所ハ、大抵五百年來新墾ノ地トオモハル、和名抄郷里纔ニ六ニ過ズシテ、大抵戸田領赤山領ノ邊ヨリ、東南ニハ郷里ノ遺名ナシ、是又古ハ今ノ如キ大郡ニアラザルコトヲ證スベシ、其後年歴ヲヘテ、今ノ千住ノ邊マデ寄洲出來シニシタガヒ、東西ノ川岸モ次第ニ地域ヤヒロカリケン、頗大郡トナリ、郡中ヲ二區ニ分チ、西ノ方ヲ上足立ト呼ビ、東ヲ下足立ト云シト云、本郡花又村鷲明神縁起、應徳ノ頃ノモノ、七百年ノ餘ナリ、ソレニ下足立郡ト載タリ、遙ノ後小田原役帳ヲハジメ、當時ノ文書等ニモ上下ヲ分テリ、此上下ノ界ヒハ、上谷村修驗大行院文書ニ、大宮宿ヲ限リテワカチシ由見エタリ、是又多磨郡ニ東西ヲ分チ、入間郡モ又同ジキガ如シ、御入國ノ後ニ至リテモ、慶長寛永ノ頃、專ラ開墾セシメ給ヒシカバ、アリツル原野沼地多ク水陸ノ田トナレリ、夫ヨリ年ヲカサ子テ彌田額増加セリ、享保十三年、井澤彌總兵衞命

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0842 ヲ蒙リテ、見沼鴻沼ナドイヘル大池ヲ埋ミテ水田トシ、後又元文二年、堀江荒四郞荒川涯ノ閑地ヲ新墾シ。延享年間高入トナリシニゾ、元祿國圖改定ノ時ニ比スレバ、萬石餘ノ貢税ヲ加ヘタリ、サレバ東ノ方中古以來新墾ノ地ハ、土性眞土ニシテ、水田多クシテ膏腴ノ地ナリ、夫ヨリ西ヘ次第ニ高クシテ、野土ナレバ陸田多クシテ瘠土ナリ、西北ノ方ニ至リテハ平坦ノ地アリテ、水田開テ土性モヨシ、〈〇中略〉郡中ハ多ク耕作ノ業ヲ專トシテ、餘業ヲ事トスルモノ少シ、

〔續日本紀〕

〈二十八稱徳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0842 神護景雲元年十二月壬午、武藏國足立郡人、外從五位下大部直不破麻呂等六人、賜姓武藏宿禰

〔新編武藏風土記稿〕

〈一百三十七足立郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0842 花又村 鷲明神社〈〇中略〉 聞嘗此靈神也者、鎭座于武州下足立郡(○○○○)淵江領花亦村也、〈〇中略〉 應徳二年乙丑正月酉日 武州下足立郡淵江領花亦村鷲明神別當正覺院法印光海著

〔新編武藏風土記稿〕

〈一百四十三足立郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0842 中尾村 玉林院〈(中略)當時古ヘハ、玉林坊トイヒテ、古文書ニモ見エタリ、〇中略〉 下足立卅三郷(○○○○○○)年行事職之事、尤聖護院殿如御策媒氏資も不相違候、恐々謹言、 永祿九年丙寅十月廿一日 源五郞氏資〈花押〉 玉林坊

新座郡

〔武藏演路〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0842 新倉村〈上下二ケ村〉 郡には新座と書、村には倉と書よし、

〔新編武藏風土記稿〕

〈一百二十九新座郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0842 總説 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0843 新座郡ハ、延喜式民部省ノ内ニ、始テ武藏國新座ト見エタリ、此郡名ハ、古ヘ郡郷ヲ定メラレシ時ヨリ置レシヤ、又ソノ後ニ出來シヤ、延喜ヨリ上ツカタノ事ハ、古記ニモ見ハレザレバ、ソノ年代今ヨリ考フベカラズ、又和名抄新座郡ノ註ニ、爾比久良ト見エタレバ、ニヒクラト稱スルコト、古キ唱ナリ、サレバ中古ヨリハ、假借シテ新倉トモ書セリ、古老ノ傳ヘタルハ、御入國ノ後マデハ、或ハ新座、或ハ新倉ト書シテ並行ハレシガ、座ノ字ヲクラト訓ズルコト世ノ人耳ナレザルニヨリ、後ニハ土人オシナベテ新倉ト書スニ至レリ、斯テ新倉村ノ人、己ガ村ハ郡ノ本郷ナリトテ、餘ノ村ヲバオトシメニ、イヒナシケレバ、村ノ人安カラズ思ヒ、ハテハ諍論ヲ起シテ訴ケルニヨリ、ソノ時ノ御代官ウケタマハリテ、イカデカサルコトノアルベキ、郡名ノ字誤テ村名ト同字ヲ用ヒシユヘニ、頑愚ノ民カヽル僻事ヲイヒ出スニコソアレトテ、郡ノ文字ヲバ座ノ字ニ改メラレシト云ツタヘタレドソノ年代ハ詳ナラズトゾ、土地ニ傳ヘタル簿書ニ、元祿十一年マデハ新倉郡ト記シ、同十二年ヨリ新座ノ字ニ改メシトイヘド、正保ノ改ニ新座郡ト記シタレバ、信ジガタシ、兎角新倉ノ唱ヘアル時ハ、此村郡ノ本郷ナルコト誣ベカラズ、タトヘバ豐島郡ニ豐島村アリ、入間郡ニ入間村アリ、高麗郡ニハ高麗本郷アリ、此數村ミナ郡ノ本村ナリ、當郡モ亦シカナリ、已ニ古ハ新座村トサヘ書セシコト、ソノ證ハ、正保及元祿ノ改ニ明ナリ、古老ノ傳ヘノ如クナランニハ、奸民ヲ拉ンタメニカクハ命ゼラレシトゾ知ラル、ソレヨリシテ唱モ區々ニ別レテ、東南ノ方ニテハ、ニヰクラトモ唱ヘ、又ニヰザトモ云、西ノ方高崎領ノ邊ニテハ、シンザト唱フ、カク古ヲ失ヒシカバ、土人己ガマヽニ混亂シテ唱フ、然ルニ享保二年、郡名ノ唱ヲ定メラレ、又享和三年ニモ郡村ノ唱、穿鑿スベキノ命アリテ、ソノウタガハシキヲ正サレシニヨリ、今ハニヰザト唱フルコトヽハナリヌ、此郡ハ江戸ヨリ乾ニアタリテ、行程四里ニ餘レリ、東ハ豐島郡ニ隣リ、大抵白子川ヲ界トス、南西ハ豐島多磨二郡ノ際ニ押入リ、西ヨリ北ヘハ斜ニ入間郡ニ接シ、大抵柳瀬川ヲ界

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0844 トスレド、川越道ノ筋ニハ、中野村柳瀬川ノ西ニアリ、又西北ノ隅ニ當リテ、本郡内間木村ト、入間郡宗岡村トノ界地續ナリ、北ヨリ東ヘハ是モ斜ニシテ足立郡ニ隣リ、荒川ヲ界トス、東西二里餘、南北二里半許、前ニモ云ル如ク、四隅共ニ斜ナレバ、ソノ形菱ニ似タリ、土地大半ハ高クシテ、南ノ方ニハ山谷林丘多ク、猪鹿狐狸兎ノ類スメリ、北ノ方ハ川々延亘シテ、水鳥野鳥多シ、其邊ハ皆平地ニシテ、多クハ沙場ナリ、相傳フ、此郡古ハ甚ダ小郡ニシテ、今ノ西北ノ崖下ハ、當時大河入江ノ如ク、白浪岸ヲ洗ヒシトゾ、今ノ地理ヲ以テ考フレバ、此説覺束ナキコトナレド、桑田ノ變必シモナシト云ベカラズ、又南西ノ方モ、中古マデ武藏野ノ末ニテ、茫々タル原野ナレバ、其比ハ今ノ新倉白子ノ數村ノ地ノミ民家アリシト見ユ、延喜式ニモ、五十戸ヨリ以上隣郡ニ附シガタキ地ハ、別ニ一郡ヲ置レシヨシ見エタレバ、此地撮爾タル村里ナレド、地理ニヨリテ一郡トハ定メラレシナラン、御入國以來、年々ニ新田ヲ開カレシニヨリ、今ハ土地ノ高キハ陸田トナリ、卑キハ水田トナリテ、已ニ七八分ハ開ケタレド、猶山林原野モ少シトセズ、水田ハ陸田ニ比スレバ少キハ、地勢ニヨレルナリ、寒暖ノ氣候ハ、大抵豐島多磨等ノ數郡ト同ジ、スベテ田畑ノ土目ハ中ノ中ニシテ、下モ交ハレリ、サレド土人ガ耕シテ、培養ノ功ヲ闕カザレバ、諸作共ニ豐饒ニシテ、戸數モ自ラ多シ、風俗ハ大抵他郡ニ異ルコトナシ、タヾ重陽ノ佳節ヲ祝フコト九月九日ニ限ラズ、家々農事ノ終ルヲ限トス、故ニ收納ノ遲速ニヨリ、又ハ神社ノ祭日ヲ用ユト云、又召仕フモノヽ出入ハ二月二日ヲ期トス、是ハ江戸ト異ナリ、江戸モ昔ハ二月二日ヲ限トセシガ、今ハヲシナベテ三月五日ニ定メラル、ソノ定メラレシハ、寛文九年ノ事ナリ、

入間郡

〔武藏演路〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0844 入間郡 東は埼玉足立に境ひ、西は多磨高麗に境ひ、南は新座多磨、北は比企秩父郡に境ふ、郡中央を川越とす、 或云、いにしへ多東郡〈多ヲ田共云〉又入東郡、或日東郡とも云しとぞ、又多摩郡と呼びし事も在りとも

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0845 云、元來多摩郡と入組たるゆへに、わかちかねたるや、又は元は多摩と一郡なりしや、 神奈川宿裏今宿といへる邊も、慶長元和の頃、田東郡と云しよし一説あり、猶可考、

〔新編武藏風土記稿〕

〈一百五十六入間郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0845 總説 入間郡ハ、國ノ中央ニテ、江戸ヨリ西北ノ方七里許ニアリ、和名抄國郡ノ部ニ、入間ヲ訓ジテ伊留末ト註ス、郡名ノ起ハ、郡中入間川村ヨリ始リシナラン、其村今モ入間郡ニ屬シ、村名モ正保ノ頃マデハ入間トイヒシヲ、後世、川ノ字ヲ添シトナリ、クハシクハカノ村ノ條ニ辨ゼリ、又土人ノ説ニ、入間ノ字ハ假借ニテ、ソノ義ハ射魔ナリトイフ俗説アレド、コヽニハ取ラズ、〈〇中略〉當郡古ハ多磨郡ニ通ジテ茫々タル原野ナリ、都テ是ヲ武藏野ト號シ、後世分チテ入間野ト記セシモアリ、〈東鑑ニ於入間野追鳥狩ト記セシ類ナリ〉又三芳野ノ鴈、〈伊勢物語ニ見ユ〉堀兼ノ井〈枕草紙及千載集俊成卿歌ノ類〉ノ如キ、郡中ノ地名、縉紳家ノ歌枕ニモ入シユヘニヤ、郡名モ自ヅカラ世ニイチジルシ、後世ニ至リテ、郡中ノ曠野多クハ新墾シテ、悉ク田畝トナリ、人家モ從テ出來ニケレバ、古トハ大ニコトナリ、又中古ヨリ郡中ヲ二分シテ、入東入西ノ唱アリ、コレ多磨郡ヲ多東多西ト別チシニ同ジ、七黨系圖ニ、兒玉惟行三代ノ孫、入西三太夫資行ト云人アリ、ソノ子ヲ淺羽小太夫行業ト云、淺羽ハ則當郡ノ郷名ナレバ、入西モ此郡名ニトリシコト論ナシ、是古クヨリ入西ト分チ唱フルノ證トナスベキヤ、又寶治元年、鎌倉公方ヨリ下文ノ案ニ、吾那入西郡ト記セシコト、郡中今市村法恩寺所藏年譜録ト云記ニ見エ、世下リテ天文永祿ノ頃モ、專ラ東西ヲ以唱ヘシコト、小田原役帳、及當時ノ古證文ナドニ歴々タリ、〈〇中略〉郡ノ地域ハ、其形譬ヘバ瓢箪ノ如ク、中間狹マリテ、ソノ邊ヲ入間川流ルヽヲモテ、其地形二郡ノ如シ、古入西郡入東郡ト分チ唱ヘシモ、其理ナシトセズ、彼括リタル如キ所ヨリ、西ヘサシ出タル一區ハ、高麗、秩父、比企三郡ノ際ニハサマリテ、東西ノ徑リ凡四里半、南北ノ濶サ、ソノフクレタル處二里ニ餘リ、狹キ所ハ一里ニ過ズ、東ノ一區ハ、北ノ方比企足立ノ二郡ニ對シ、東ハ新座郡

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0846 ニ接シ、南ハ多磨郡ニ包マレ、西ハ高麗郡ニテ、大抵入間川ヲ以界トセリ、南北ノ長五里、東西ノ幅三里半ナリ、二區ヲ合シ斜ニ延亘シタル長ハ、殆ド十里ニ及ブベシ、土性ハ大抵野土ニシテ、陸田多シ、水田ハ西北ノ方川ニ添テ、平坦ノ地ニアリ、スベテ此邊ノ地勢ヲ考フルニ、東ハ卑ク西ノ方ヘ漸クニ高クシテ、秩父郡ノ山足コノ郡中ニ始ルニ似タリ、〈〇中略〉闔郡ノ形状、中間ニ川越城アリ、東ニ柳瀬川流レ、南ニ狹山ノ峯ツヾキ、西ハモトヨリ秩父ノ方ヘ連レル山足ニテ、北ハ越邊入間荒川ノ三流延回シテ界ヲナス、サレド中間高麗郡ノ地押入タレバ、其詳ナルコトハ記シガタシ、猶圖ト照シ見ルベシ、然ルニ以上ノ經界ハ、後世大ニ變革セシト覺エテ、和名抄郷名ノ中、廣瀬ナドハ今其遺名アレド、本郡ニ入ズシテ高麗郡ニ屬ス、又郡中法恩寺年譜録ニ載ル大豆土村、今比企郡ニ屬スルノ類ニテ知ベシ、人物風俗等ニ至リテハ、サセル殊異ナシトイヘドモ、西ノ方山ニ添ヒタル地ハ、尤鄙野ノ風アリ、

〔續日本紀〕

〈二十九稱徳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0846 神護景雲二年七月壬午、武藏國入間郡人物部直廣成等六人、賜姓入間宿禰

〔續日本後紀〕

〈一淳和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0846 天長十年五月丁酉、於多磨入間郡界、置悲田處

〔伊勢物語〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0846 昔男むさしの國までまどひありきけり、扨其國にある女をよばひけり、ちヽはこと人にあはせんといひけるを、母なんあで成人に心付たりける、父はなを人にて、母なん藤原なりける、扨なんあで成人にと思ひける、此むこがねによみてをこせたりける住所なん、いるまの郡みよしのヽ里なりける、 みよしのヽたのむのかりもひたぶるに君が方にぞよるとなくなる、むこがねかへし、 わがかたによるとなくなるみよしのヽたのむのかりをいつかわすれん

〔武藏演路〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0846 入間郡 北條分限帳に、入間郡の内に入東郡(○○○)と有、又横見郡内にも入東あり、 高麗郡比企郡の内に入西(○○)

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0847 郡(○)と云あり、いにしへはさも云しにや、

〔鶴岡八幡宮藏古文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0847 武藏國入東郡横沼郷事 右以當郷、寄進大慈寺内釋迦堂之状如件、 正嘉元年十月二十八日 沙汰道崇

〔北條分限帳郡村略考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0847 一帳面の内、武州の郡村に、入西郡(○○○)としるすは、 考るに、武州の内多摩郡の内西の方、高麗郡、比企郡等のちヽぶ根の村々なり、今も入西筋と云、多摩郡をわけて、多西多東などヽ云事、俚語に殘れり、

高麗郡

〔武藏演路〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0847 高麗郡 東入間、西多摩、南多摩、北秩父界ニ至ル、 本宿梅原 栗坪〈内栗原〉一體高麗郡なれども、わけて此邊を高麗と呼ぶ、

〔新編武藏風土記稿〕

〈一百七十六高麗郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0847 總説 高麗郡ハ、國ノ中央ニアリ、江戸ヨリ西北十餘里ナリ、和名抄ニ、高麗ヲ訓ジテ古末ト註セリ、〈〇中略〉扨本郡ハ、往古多磨郡ヨリ通ジテ、入間郡及ビ高麗郡ニ聯緜トシテ、茫々タル原野ナリシニ、是ヲスベテ武藏野ト稱セシナリ、スデニ元弘年中、新田左中將武藏野ノ合戰アリシナドイフハ、即チコノ郡ニ亘リテノコトヽ見ユ、今ノ篠井村ノアタリ、壘壁ノ遺蹤アルモ、ソノ頃構ヘシモノト見ユ、又栢原村ト廣瀬村界ノ東邊、入間川ヲ八町ノ渡シト云傳フ、是ゾ堤ナドモテ流ヲサヽエシ廣濶ナル所ト思ハルヽナリ、又ソノアタリヲ霞ケ關トテ、當國ニ名ダヽル名所ハ此所ナリト云、後世分レテ入間野トナリ、或ハ入間ノ里ト云シナラン、又高麗原ト云ルハ、今ノ新堀村邊ナリ、南北十三四町、東ハ的場村マデ二里半許、渺々タル平原ナリシト云、〈〇中略〉按ズルニ、靈龜ノ前此郡ヲ置ザル時ハ、草昧茫々タル間地ナルガ、恐クハ本郡モト入間郡ノ分郡ト思ハルヽ、〈〇中略〉既ニ前ニ辨ズルゴトク、武藏野ト云、入間野ト云、高麗原ト云、コレスベテ一圓ノ武藏野ニシテ、杳渺タル曠野

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0848 西ニ亘リ、秩父郡ノ邊ニ至マデ後世分レテ漸々新墾シ、或ハ田畠トナリ、或ハ村落トナリ、人家モ從テ出テ來リ、古トハ異ナルコト推テ知ルベシ、〈〇中略〉郡ノ地域ハ、ソノ形チ東西ニ長ク、南北ニ狹シ、中ニモ郡ノ中央ト覺シキ所ハ、括レタル如ク狹シ、サテ其クヽレタル所ヨリ、東ハ原野田畠多ク、村落其間ニ點綴セリ、西ハ地形大率崎嶇、多クハ嵯峨ニ據リテ畠ヲヒラキ、卑隰ニ就テ田ヲ作リ、村落モマタ高處迂僻、或ハ澤間溪流ニ添テ民戸各處ニ散在ス、然ルユヘニ山畑ノアルアタリハ、柴モシクハ雜木モテ藩籬ヲナス、謂ユル鹿柴ナドヽ云ベキ者カ、又陷穽ヲウガチテ猪鹿ヲ防グ所モアリ、西端ニ至リテハ、秩父郡ノ山々犬牙接續シテ經界ヲナセリ、偖郡中ヲ流ルヽ川二流アリ、北邊ノ村落ヲ流ルヽハ高麗川ナリ、南邊ノ村落ヲ流ルヽハ入間川ナリ、中間ノクヽレタル所ニ至リテハ、兩川相セバマリテ、其間僅ニ一里許ナリ、コノ郡西ハ秩父郡ニ接シ、西南間ハ多磨郡ニ續キ、南ヨリ東北ヘ環リテ入間郡ナリ、ソノ界ハ、東ヨリ南ヘ入間川ヲ界トシ、佛子村阿須村ノ邊ハ山ヲ界トシ、上下畑村ハ成木川ヲ界トス、ソレヨリ西北ヘメグリテハ、地形犬牙シテ山ノ頂ヲ界ヘリ、艮ノ方ハ原野田畠、或ハ徑路ヲモテ界トセリ、以上ノ經界ハ、後世大ニ變革セシコトト思ハルヽナリ、東西ノ長サ七里バカリ、南北ノ廣サ三里ニハ近シ、中間ノ狹キ所ハ一里半許、中央ハ中居村、中山村ノ邊ナリ、土性ハ大抵野土多ク、眞土少シ、西ノ方山村ハ石交リノ眞土ナリ、水田ハ陸田ニ比スレバ三分ノ一ナリ、其水田ハ多クハ中間ヨリ東ニアリ、西ノ方ニハ僅ニ谷ツ田ノミアリテ、多クハ山畑ナリ、〈〇中略〉扨人物風俗等ニ至リテハ、サセル殊異ナシトイヘドモ、西ノ方山ニヨル村落ハ、ナヲサラ年穀大抵一歳ヲ終ルニタラズ、其民ハ總テ山澤ノ利ニヨリテ生理ヲナス、材木モシクハ炭薪ヲ以テ粟米ニ換フ、コノユヘニ丁壯ハ杣取炭燒ヲ業トシ、處女婦嫗ニ至マデ是ヲ負擔シ、傭錢ヲトル、又ハ石灰ヤク村ハ、老弱ミナ是ガタメニ奔走シテ、各其資ヲ得ルトイフ、最モ鄙野ノ風俗ニシテ、質朴トハイヘドモ、寛富ノ民或ハ里老輩ニ至リテハ、頗ル都下ノ風

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0849 ヲ學ブモノアリ、

〔續日本紀〕

〈七元正〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0849 靈龜二年五月辛卯、以駿河、甲斐、相模、上總、下總、常陸、下野七國、高麗人千七百九十九人、遷于武藏國、置高麗郡焉、

〔續日本紀〕

〈四十桓武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0849 延暦八年十月乙酉、散位從三位高倉朝臣福信薨、福信武藏國高麗郡人也、本姓背奈、其祖福徳屬唐將李勣平壤城、來歸國家、居武藏焉、福信即福徳之孫也、

比企郡

〔武藏演路〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0849 比企郡ハ、東模見界、西入間界、南荒川界、北秩父郡界ニ至ル、

〔新編武藏風土記稿〕

〈一百八十六比企郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0849 總説 比企郡ハ、國ノ中央ヨリ少ク北ノ方ニアリ、江戸ヨリ西北ノ方、郡界マデ十里餘ニ及ベリ、倭名類聚抄國郡ノ部ニ、比企ヲ訓ジテ比岐ト註ス、此餘郡名ノ古書ニアラハルヽモノヲ未ダ見ズ、地形東ヲ首トシ、西ヲ尾トス、東ノ方ハ地幅狹ク、巽ノ方ヘ斜ニ插入シ、地先尖リテ足立入間二郡ノ間ニハサマレリ、此邊ノ地幅ハ一里半、或ハ一里ニ過ザル所モアリ、東ノ界ハ市ノ川荒川落アヒテ延亘ス、其市ノ川ノ對岸ハ横見郡ナリ、此所モ古ハ郡中ニ屬セシガ市ノ川ヲ郡界ト定メラレシヨリシテ、彼郡ニ隷セリト云、サレド土人今モ猶其地ヲ新横見ト呼ベリ、又南ノ方ハ、越邊入間ノ二水落アヒテ流レ來レルナリ、老袋村ノ地サキニ至テ荒川ト合ス、然ルニ此入間ノ川流シバシバ水溢ノ患アリケレバトテ、延寶八年、川越城主松平伊豆守信輝、命ジテ川口村及ビ出丸中郷ノ間ヲ、横ニ疎鑿シテ荒川ヘ沃ギケルヨリ、水流大抵ハ彼新川ヘ流ルレド、モトヨリ下ニツクノ水勢ナレバ、入間川ノ下流老袋マデノ古川モ、所々ニソコバクノ水ヲタヽヘテ、ソノ形現ニ存セリ、又郡ノ地形、中央ヨリ西ヘ至リテハ地幅ヒロクシテ、大抵四里ニアマレリ、南ノ方ハスベテ入間郡ニシテ、北ハ男衾、大里、横見、足立ノ四郡ニトナル、西ノハテハ秩父郡、群山ノ麓ニ極ル、東ノ方老袋村ノ界ヨリ當所原川村ニ至マデ、郡ノ長八里餘ニヲヨベリ、中央ヨリ此アタリマデハ、スベテ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0850 野土ニシテ瘠土ナリ、故ニ松山ナド多クシテ、田畠ハ少シ、西ノ方山足ニ連レル溪間ノ窪キ所ニハ、水田ヲ開キ、又陸田ヲ耕スモアリ、モト便宜ノ地ナラザレバ、寒民多シ、東ノ方足立入間ニ接セシ方ハ、水涯ノ眞土ニシテ膏腴ノ地ナリ、此邊水田多クシテ、陸田ハ三分ノ一ニ當ル、郡中ノ地、カタノ如ク廣キヲ以、中央ヲ界トシテ南方北方ノ唱ヲワカツ、是多磨郡ニ多西多東ノ號アリ、入間郡ニ入東入西ノ別アルガ如シ、萬葉仙覺抄ノ奧書ニ、文永六年洗姑二日、於武藏國北方麻師宇郷書寫畢ト見ユ、麻師宇ハ今ノ増尾村ナリ、又朽木氏建治三年ノ文書ニ、武藏國比企郡南方石坂郷ト、又長樂寺正安元年ノ文書ニ、南方將軍澤郷ト云々、ソノカミ南方北方ノ唱アリシコト證スベシ、永祿ノ頃ニ至リテハ、此唱ヲ失ヒシニヤ、小田原役帳ノ地名ニハ見ヘズ、當郡古ノサマヲ以考フルニ、國ノ中央ヨリ北ニアタリテ、多磨ノ府ヨリハ、其間ソコバクノ曠野ヲ隔テ、足立府ヨリハ、荒川ノ水涯閑地アリテ、往來ヲサヽヘタレバニヤ、郡家ヲ置レテ郡中ノ事ヲ沙汰セシナルベシ、下リテ鎌倉管領家ノ頃ニ至リテモ、郡中松山ニ城墎ヲ構ヘテ、上杉氏ノ家人ヲ置キ、分國ノ堅メトセリ、又此頃京都將軍義尚、應仁元年正月廿八日、大館左衞門佐ニ與ヘシ文書ニ、武藏國比企郡、先例ヲ守テ宛行ハルヽ由見エタリ、按ニ大館氏ハ新田ノ一族ニシテ、南朝ニ從ヒシモノナレド、同族岩松治部大輔等、早ク足利將軍ニツカヘテ京師ニアリシナレバ、カヽル所縁ヲモテ京都ニツカヘ、本領ヲ安堵セシナラン、天文年中、小田原北條氏ノ蠶食セシ後モ、松山城ニハ上田能登守籠城セシガ、御入國ノ後ハ、松平内膳正家廣ニ賜ハレリ、慶長五年關ケ原役ノ後、天下モ御武威ニ伏シケレバ、カヽル御備ニモ及ブベカラザレバニヤ、同六年二月、家廣遠江國濱松城へ移サレテヨリ、此城ハ廢却セラレヌ、

〔吾妻鏡〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0850 養和二年〈〇壽永元年〉十月十七日甲寅、御臺所并若公、自御産所御營中、〈〇中略〉比企四郞能員爲御乳母夫御贖物、此事雖若干御家人、義員姨母〈號比企尼〉當初爲武衞乳母、而永暦元年御遠行于

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0851 豆州之時、存忠節餘、以武藏國比企郡請所、相具夫掃部允、掃部允下向、至治承四年秋二十年之間、奉御世途、今當于御繁榮之期、於事就彼奉公

横見郡

〔武藏演路〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0851 横見郡 和名抄ニ横見今稱吉見ト云々 横見郡ハ、東荒川、西比企郡界、南北比企、足立兩郡界、北大里郡界ニ至ル、

〔新編武藏風土記稿〕

〈一百九十六横見郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0851 總説 横見郡ハ、國ノ中央ヨリ北ニアリ、江戸ヨリ郡界マデ行程十二里餘、和名抄國郡ノ部横見ノ注ニ、與古美ト訓ジ、今吉見ト稱スト見エ、又延喜式神名帳ニモ、横見郡ノ名見ユ、小田原役帳ニ吉見郡ト記ス、永祿ノ頃モ中古ノ俗字ヲ用ヒシコト知ベシ、又久米田村慶長十七年ノ水帳、及正保四年ノ水帳ニモ、皆吉見郡トアリ、正保ノ國圖ニ據バ、當時官ニハ横見ト記シタレド、民間ニハ因循シテ俗稱ニ從ヒシモ儘有ナルベシ、今當郡及隣郡大里ノ領名ニモ吉見ノ唱アリ、地形巽ヨリ乾ヘ斜ニ闕入テ、南西北ノ三面ハ大抵圓形ナリ、東北ハ斜ニ荒川繞テ、對岸ハ足立郡ナリ、南ヨリ西ヘハ比企郡ニ隣リ、市ノ川ヲ界トス、西北ノ隅ハ大里郡ニ續ケリ、東西二里ニ足ラズ、南北一里半、郡西比企ノ方ヘ寄シ所ハ山々重リ、秩父嶺ノ山足纔ニ出タルガ如シ、土性ハ赤土、野土、砂利錯、或ハ埴土、地底ハ石巖ノ處モアリ、夫ヨリ東北ハスベテ平地ニテ眞土ナリ、水田多ク陸田少シ、昔ハ荒川郡中ヲ貫キ、山野、下松崎、上細谷、黒岩村ヨリ御所村、範頼館跡ノ西ヲ流レ、下細谷、久保田ヲ前河内經テ、江綱ノ北界ヨリ大串等ノ村々ヲ流レシト云、今其跡水田トナリ、字シテ相ノ田ト呼リ、地形他所ニ比スレバ、一段卑クシテ川蹤顯然タリ、當郡ハ足立府跡ヲ去コト、僅ニ六里ニ過ザレバ、當時府ニ隷セシナルベシ、鎌倉將軍ノ頃ニ至テハ、三河守範頼地頭トシテ黒岩村ニ館セシト、今館跡ノ地別ニ一村トナリ、御所村ト號ス、範頼罪ヲ獲テ自盡セシ後モ、子孫猶郡中ニ隱レシ由、岩殿山縁起ニ載タリ、元弘ノ頃、新田義貞上野國ヨリ鎌倉ヘ打向ヒシ時、郡中松山ノ城廓ヲ構ヘシ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0852 トナリ、續テ鎌倉管領ノ時ニ至テモ、松山城ニカハル〴〵家人ヲヲキテ、北口ノ固トス、天文十五年四月、時ノ管領晴氏、老臣兩上杉ト同ク、北條氏康ガ抱ヘシ川越城ヲ攻シトキ、松山城主上杉朝定討死セシ弊ニ乘ジテ、一旦氏康松山ヲ乘取シガ、管領家ノ侍岩槻ノ太田氏マタ取返ス、斯テシバシバ變革アリシガ、終ニハ北條ノ持トナレリ、事ハ松山城ノ下ニ委シ、斯テ四十餘年ハ小田原ノ分國ニ屬セシカド、天正十八年、北條滅亡ノ後、御領國トナリ、松平内膳正家廣ニ賜リシガ、慶長十八年、家廣濱松ヘ轉ジテ後、松山廢城トナレリ、其後ハ太平ノ御代トナリケレバ、要害ヲモ置レズ、

埼玉郡

〔郡名考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0852 武藏 崎玉〈サイタマ〉 〈案ズルニ、埼ハ碕ニ同ジ、崎ハ碕ニ同ジ、 神代卷作埼玉、和名作碕玉、〉

〔新編武藏風土記稿〕

〈一百九十九埼玉郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0852 總説 埼玉郡ハ、國ノ東北、上野下野下總ノ三國ニ隣レリ、江戸ヨリ北ノ方ニテ、郡中岩槻城マデ九里ノ行程ナリ、サレド郡ノ地域、多クハ足立郡淵江領ノ東ヘ出タレバ、其邊ニテハ江戸ヨリ三里ニ及バザルトコロモアリ、和名抄郡名ノ下ニ、埼玉ヲ訓ジテ佐伊太末ト註ス、其名ノ起ル所以ハ、郷名ノ下ニモ埼玉アレバ、コレ郡ノ本郷ナルベシ、其地ハ今ナヲ埼玉村トイヘリ、萬葉集ノ歌ニハサキタマト讀タレド、後世ハサイタマト唱ヘリ、〈〇中略〉和名抄ノ郷名ヲ見ルニ、餘戸云々ヲ加ヘテ、タダ五郷ノミナリ、一郷五十戸ニアツルモ、當時二百五十戸ニタラザル小郡ナリシト思ハル、其四郷ノ名、今庄名村名等ニ遺レリト覺ユルモノ三所、皆日光道中、葛飾郡杉戸宿ノ西北ニ當レル地ニシテ、郡中和戸井沼邊ヨリ東南ニハ、曾テ古ノ郷名ノ殘レルト覺シキモノナシ、ヨリテ思フニ、當時當郡ハ、足立郡ノ地先ニ屬スル小郡ニシテ、三方ハ皆入江ニ包マレテアリシナラン、〈〇中略〉中古以來大郡トナリシカバ、埼西埼東ノ二區ニ別チシニヤ、培西ノ唱アルヲ以考レバ、埼東ノ唱モアリシナラン、多磨郡ニ多東多西アリ、入間郡ニ入東入西アルニテモ推テ知ルベシ、サレド中古

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0853 押ナベテ埼西ト呼シニヤ、東鑑壽永三年正月三日ノ條ニ、武藏國崎西郡内大河土御厨トアリ、今郡ノ東南ノ境ヲ少ク隔テ、葛飾郡内ニ大河戸村アルハ、地ノ變遷シテ彼郡ニ入シニヤ、又東鑑建暦三年五月十七日ノ條ニハ、武藏國大河戸御厨内八條郷ト記ス、今八條村ハ當郡ノ内ニテ、尤東ニヨリタレバ、埼東トモ號スベキ地ナルニ、猶埼西ト唱フルニテ察スベシ、御打入ノ頃ハ、タヾ埼玉郡トノミ唱ヘテ、埼西ノ沙汰見エズ、此郡内ハ、後ノ世モ沼地多ク、或ハ水涯ノ閑地モ少カラズ、正保改定ノ時ハ、郡ノ高二十三萬六千石餘ナリシニ、元祿ニ至テハ三萬石餘ノ高ヲ増加セリ、享保年間、笠原沼、埼玉沼、黒沼ナドイヘル沼地ヲ埋ミ、三沼代用水、葛西用水ノ水利ヲ鑿通シ、若干ノ水田ヲ開墾シケレバ、又萬石餘ノ高ヲマセリ、地勢ノ大略ハ、南ノ方ニ少シク丘岡アリテ、コヽハ瘠土ナリ、其餘ハ平坦ニシテ、水陸ノ田開ケ、膏腴ノ地多シ、但山林乏少ナレバ、土民薪木ニ苦メリ、今ハ郡ノ四隣、大抵川流ヲ界トスレドモ、一條ノ流ニシテ、古ノ入江ノ形ハ失ヘリ東ヨリ南ニワタリテハ葛飾足立ノ二郡ニ界ヒ、古利根、綾瀬ノ二流ニ限リ、西ハ元荒川ヲ隔テヽ、足立郡及福川ヲ隔テヽ幡羅郡ノ外、大里郡ノ地ニツヾケリ、北ハ利根及ビ間ノ川、渡良瀬ノ三川ヲ限トシテ、上野國邑樂郡、下野國都賀郡、下總國葛飾郡ナドノ地ナリ、郡ノ東西ノ長、凡十五里、葛飾郡ノ境ヨリ西ノ方幡羅郡ノ境ニ至ル、其状西ヨリ北ニ廣マリ、巽ノ方ヘ長ク張出タリ、南北ノ濶ハ東ノ方岩槻邊ニテハ二里ニ過ズ、西ヘヨリテハ四里半ニ餘リ、最西ノハテハ又二里半許トナル、〈〇中略〉當郡古ハ小郡ニシテ、足立郡ノ地先ノ如クナレバ、久ク足立ノ府ニ隷セシナルベシ、新築ノ地開ケテ後、鎌倉管領ノ頃ハ、忍、岩槻、羽生、騎西ノ數城アリテ、各自ニ割據セリ、小田原北條氏ノ時モ同ジサマナリシカド、御當代トナリテハ、騎西羽生ノ二壘ヲ廢セラレ、忍、岩槻二城ニ、御譜代衆ヲ置レテ鎭トセラル、

〔續日本紀〕

〈十一聖武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0853 天平五年六月丁酉、武藏國埼玉郡新羅人徳師等、男女五十三人、依請爲金姓

〔萬葉集〕

〈二十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0854 天平勝寶七歳乙未二月、相替遣筑紫諸國防人等歌、 安之我良乃(アシガラノ)、美佐可爾多志氐(ミサカニタシテ)、蘇埿布良波(ソデフラバ)、伊波奈流伊毛波(イハナルイモハ)、佐夜爾美毛可母(サヤニミモカモ)、 右一首、埼玉郡上丁藤原部等母麿、

〔和名抄諸國郡郷考〕

〈六武藏〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0854 埼玉佐伊太末〈(中略)今案、此郡後に、東西に分ちよびしにや、鎌倉大草子に、武州埼西郡、〉

〔鷲宮村鷲山神宮寺鐘銘〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0854勸修武州崎東郡(○○○)太田御庄鷲宮大明神神宮寺之鐘一口、 永仁四〈太歳丙申〉十一月八日、聖人妙阿、

〔吾妻鏡〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0854 壽永三年〈〇元暦元年〉正月三日癸巳、武衞有御祈願之間、奉領於豐受太神宮給、依年來御禱師、被權禰宜光親神主云云、 状云 奉寄御厨家合一處 在武藏國埼西(○○)足立兩郡内、大河土御厨者、〇中略 壽永三年正月日 前右兵衞佐源朝臣

大里郡

〔新編武藏風土記稿〕

〈二百十九大里郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0854 總説 大里郡ハ、國ノ中央ヨリ北ニアリ、江戸ヨリ西北ノ方郡界マデ十二里餘、和名抄國郡ノ部ニ、大里ヲ訓ジテ於保佐土ト註ス、又神名帳ニモ此郡名見エタリ、今郡ノ東ヲ、過半上吉見領ト云、按ニ隣郡横見郡ヲ都テ下吉見領ト號シ、和名抄ニモ横見ノ下ニ注シテ、今吉見ト稱スル由載タリ、然レバ當郡東ノ境變地アリシカ、又ハ隣郡ノ唱ノ移リシナルベシ、郡ノ四隣、東ハ横見、足立、埼玉ノ三郡ニ連リ、埼玉ノ界ハ大抵元荒川ヲ界トス、南ハ比企男衾ノ二郡ニ接シ、西モ亦男衾榛澤ノ二郡ニサカヒ、北ハ埼玉幡羅ノ二郡ナリ、地域巽ヨリ乾ヘ三里許、艮ヨリ坤ヘハ僅ニ一里餘、南ノ方比企男衾ノ郡界ハ小山ノ間ニ接ハレリ、土性ハ野土赤土錯リ、陸田及秣場アリ、其餘ハ平地ニテ、大

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0855 抵眞土ナリ、水田多ク、陸田ハ纔ニ三分ノ一ニ當レリ、往昔ノ事體ヲ察スルニ、當郡ハ國ノ北方ニ有テ、多磨足立ノ府ヨリモ便アシケレバニヤ、大領ノ郡家ヲ置レテ、郡中ノ沙汰アリシト聞ユ、此郡家ノ廢セシ後ハ、如何ナル人ノ此地ヲ領セシヤ、其傳フルトコロヲ詳ニセズ、仁平久壽ノ頃、新田上西入道領セシヨリ、子孫ヘ傳ヘテ、岩松治部太輔ヘ讓與ヘシ由、其頃ノ文書ニ見ユ、世下リテハ、小田原北條氏、忍ノ成田氏ノ領地錯リシト覺ユ、又武田信玄ガ一族源三郞ヘ與ヘシ文書ニ、大里郡一圓、恩賞トシテ出置ト云文アリ、コレニ據レバ、當郡コト〴〵ク甲州ノ指揮ニ從ヒシニヤ、兎角中古ノ事ハ知ベカラズ、天正十八年以來、年ヲ追テ麾下ノ士ニ賜ハリ、今ハ御料私領打錯レリ、

男衾郡

〔武藏演路〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0855 男衾郡 男衾榛澤兩郡は、荒川の源、秩父郡より東流し、河南を男衾、河北を榛澤といへり、

〔新編武藏風土記稿〕

〈二百二十二男衾郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0855 總説 男衾郡ハ、國ノ中央ヨリ北ニ當リ、江戸ヨリ西北ノ方ニテ、郡境マデ行程十六里ニ及ベリ、和名抄國郡ノ部ニ、男衾ヲ訓ジテ乎夫須萬ト注ス、郡名ノ起リ詳ナラズ、〈〇中略〉郡ノ地形東西ヘ長ク、凡六里半ニ及ビ、南ヨリ北ヘハ狹クシテ一里半許、東ノ方比企大里二郡ノ際ニサシ入タル所ハ、殊ニ地幅セバマリテ、纔ニ半里ニ足ザル所モアリ、四隣ノサマ、東ハ大里郡ニ界ヒ、南ハ比企郡ニ隣リ、西ハ秩父郡ニ至リ、北ハ荒川ヲ以テ郡界トシテ、其對岸ハスベテ榛澤郡ナリ、今按ニ當郡東ノ方大里ニ邊セシ地、古ヘハ彼郡中ニサシ入シトミエテ、元徳三年ヨリ以來、應永ノ頃マデ數通ノ文書ニ、男衾郡小泉郷トノセ、嘉慶三年及ビ應永二十八年ノ文書ニ、男衾郡和田郷トノセタルアリ、コノ小泉和田ノ名、共ニ郡中ニアラザル村名ニテ、隣郡大里ニアル地名ナリ、シカモ和田村ハ當郡野原村ニ隣レル地ナレバ、ソノ地ノコトナルベシ、サレバ古ヘハ彼郡内和田村ノ邊ヨリ小泉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0856 村ノアタリマデ、スベテ當郡ノ内ナルベシト思ハル、郡ノ地勢ヲ考フルニ、東ノ方ハ平衍ノ地ニテ、中央ヨリ西ノ方ヘハ次第ニ高クシテ、ソノハテニ至リテハ秩父郡ノ群山ニ連リテ、山々重リ立リ、土性ハ多ク野土ニシテ、或ハ石眞土等ノ處モアリ、水利スベテ不便ナレバ、天水ヲ仰ヒデ耕作ヲナス、故ニ陸田ハ多クシテ、水田ハ三分ノ一ニ當レリ、〈〇中略〉當郡古ヘノ様ヲ考フルニ、國ノ中央ヨリ北ニアリテ、多磨ノ府ヨリハ其間若干ノ曠野ヲ隔テ、足立ノ府ヨリハ荒川ノ水涯閑地アリテ、往來ノ道ヲ隔テタレバニヤ、郡司ヲ置レテ、國務ノ指揮アリシナルベシ、下リテ鎌倉管領ノ頃ニ至リテモ、郡中鉢形ニ城墎ヲ構ヘテ、上杉氏ノ居城トナシ、郡中ノ事ヲ沙汰セシニ、天文年中ニ及ビ、上杉ノ旗下藤田右衞佐康邦、當郡及ビ榛澤幡羅ノ三郡ヲ兼領セシコト、彼家ノ譜ニ見ユ、其後康邦上杉ニ背キテ北條氏ニ屬シ、氏康ノ三男虎壽丸氏吉ヲ養子トシテ家督ヲ讓リ、後北條安房守氏邦ト號シ、鉢形城ニ在リテ郡中ヲ治シム、斯テ天正十八年、小田原滅亡ノ時、氏邦モ前田利家ニ降テ、領地悉ク沒收セラレシ後ハ、關東一圓ニ御料所トナリシニヨリ、又此地ノ要害ニ及バザレバ、鉢形城ハ廢却セラレヌ、然リシヨリ後、郡中ハ御料及ビ旗下ノ士ノ知行ト交錯セリ、土人ノ風俗サマデ近郡ニ異ナルコトナケレド、秩父ヘヨリシ方ハ、悉ク山村ニシテ、尤朴實ノ風多シ、

〔續日本後紀〕

〈十五仁明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0856 承和十二年三月己巳、武藏國言、國分寺七層塔一基、以去承和二年神火所一レ燒、于今未構立也、前男衾郡大領外從八位上壬生吉志福正、奉爲聖朝彼塔、望請言上殊蒙處分者、依請許之、

〔吾妻鏡〕

〈十八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0856 元久二年六月二十二日戊申、畠山次郞重忠參上之由風聞之間、於路次誅之由有其沙汰、相州已下被進發、〈〇中略〉午刻著於武藏國二俣河、相逢于重忠、〈重忠〉云十九日出小衾郡(○○○)菅屋館、今著此澤也、

幡羅郡

〔郡名考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0857 武藏 幡羅〈ハラ ハタラ〉

〔新編武藏風土記稿〕

〈二百二十六幡羅郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0857 總説 幡羅郡ハ、國ノ中央ヨリ北ニ當リ、江戸ヨリハ亥ノ方ニテ、郡ノ境マデハ、行程凡十七里、郡廣狹ハ、四方大略同クシテ二里餘ニ及ベリ、和名抄ニ、幡羅ノ假字ヲ字訓ニテ原ト訓ズ、是同書郷名ニ幡羅アレバ、全クカノ郷ヨリ起リシ郡名ナラン、今モ郡中ニ原郷存セリ、又中古郡名ニモ原ノ字ヲ用シコト、今郡中ニ在ル水帳ニ見ユ、按和名抄郡郷ノ字ハ、國史ニ云如ク好字ヲ用シコト勿論ニテ、後世ハ簡便ニ從ヒテ、或ハ二字ヲ一字ニ改シコト、他ニモ此類多シ、〈〇中略〉郡ノ四域、東ハ大里埼玉ノ二郡ニトナリ、南モ大里郡ニツヾキ、西ハ榛澤郡、北ハ上野國邑樂新田ノ二郡ナリ、此國境古クハ利根川ヲ限ルトイヘドモ、變遷アリテ今ハ大抵當郡ノ方ヘ瀬モウツリテ、古利根川ヲ堺ト定ル所多シ、郡中概シテ平旦ノ地ナリ、土性ハ眞土ナレバ、頗ル膏腴ノ地ナリトイヘド、水利ハ便ヨカラザレバ、自ラ陸田多クシテ、水田ハトボシ、カノ陸田ノ廻リニハ、多ク桑ノ木ヲ植テ蠶ヲ養ヘリ、サレバ紡織ノ利モマタ少カラズシテ、他郡ニ比スレバ高免ノ地ナリ、南ノ方ニ中山道ノ往還カヽレリ、ソノ通ズル所、大里郡新島村ヨリ入テ榛澤郡深谷宿ニ貫ク、其里程一里半ニ過ズ、〈〇中略〉上古ヨリ此邊ヲ領セシ人ハ詳ナラズ、タヾ承和ノ比、冷然院ノ御領ニ充奉リシコトハ、上ニイヘルゴトシ、成田家譜ヲ按ズルニ、武藏守忠基ヨリ三代ノ孫道宗ト云シ人、此ニ住シ、幡羅太郞ト號ス、シカラバ道宗ノ父武藤大夫家忠、武藏ノ藤氏ニテ、ハヤク此地ヲ領セシヲ、道宗ニ至リテ、其領スル所ノ郡名ヲモテ、カク唱ヘシニアラズヤ、道宗ノ嫡男成田大夫助高モ、打續テコノ邊ヲ領シ、二男別府次郞行隆、三男奈良三郞高長、玉井四郞助實、是等皆郡内ニ散住シ、ソノ地名ヲモテ家號トセリ、是東鑑等ニアラハルヽ者ナリ、サレバ其支屬モ延蔓シテ、此地ニ居シコトシルベシ、郡ノ東ノ方忍領ニ屬スル村々ハ、天正ノ頃マデ成田家ノ所領ニシテ、西ノ方ハ鎌倉管領ノ世トナ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0858 リシヨリ、上杉陸奧守憲英、榛澤郡深谷ニ城ヲ築キ、此邊ヲ領セリ、今深谷領ト唱フル地ハ彼舊領ナリ、御入國ノ後ハ、大抵御料私料ウチ雜リテ、寺社ノ領モ纔ニアリ、土人ノ風俗近郡ニ同ジ、

〔續日本後紀〕

〈三仁明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0858 承和元年二月戊戌、武藏國播羅郡、荒廢田百廿三町、奉冷然院

榛澤郡

〔郡名考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0858 武藏 榛澤〈ハシサハ ハンサハ ハムサハ〉

〔新編武藏風土記稿〕

〈二百三十榛澤郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0858 總説 榛澤郡ハ、國ノ北ニアリ、江戸ヨリ西北ノ方、郡界マデ行程十八里、和名抄ニ、榛澤ヲ訓ジテ波牟佐波ト註ス、〈〇中略〉榛澤郷ヨリ起リシナルベシ、相傳フ、古榛澤村ノ邊大ナル澤アリ、其左右ニ榛ノ木立リシ由、今モ其邊榛ノ大木許多アル類、土地榛ニ宜キコト知ベシ、郡名ノ所由モ是ガ故ナラン、後世或ハ半澤ト記セシモノアルハ假借セシナリ、闔郡ノ状、東南隅ハ狹マリテ尖タルガ如ク、西南北ノ方ヘ張出セルサマ、其形扇面ニ似タリ、サレバ廣狹モ定カニ言難ケレド、大抵東西四里許、南北五里半、東ハ幡羅大里ノ二郡ニ隣リ、南ハ總テ男衾郡ニテ荒川ヲ界トス、西ハ那賀兒玉ノ二郡ニツヾキ、秩父郡ノ地モ少シク出タリ、北ハ上野國新田佐位ノ二郡ニテ利根川ヲ國界トス、然ルニ此川瀬ハ後世變革アリテ、中古マデ上野ニ屬セシ村々ノ、イツトナク郡中ヘ入シモアリ、小田原役帳ニ、上州高島郷ト載セシモノ、今郡中ニ屬シ、又郡中花藏寺ノ棟札ニ、勢多郡横瀬郷ト記ス、勢多ハ則上州ノ郡名ナリ、此類ニテ察スベシ、其變革ヲ考フルニ、隣郡兒玉ノ内、山王堂仁手ノアタリハ、總テ上州那波郡ニ屬セシヲ、寛永年間ノ洪水ニ、烏川ノ瀬北ニ移テヨリ以來武州ニ屬スト、上野國志ニ見エタリ、想フニ此時變革セシナラン、郡ノ地域、東ハ平坦ニテ、中央ヨリ西ヘハ山々連リ、秩父那賀ノ方ヘヨリテハ高山并立ス土性ハ、南ノ方荒川ノ邊、及北ノ方利根川ニ寄タル地ハ、眞土ニ砂交リ、ソレヨリ漸ク川ニ遠カリ郡ノ中央ヨリ山丘ニ至リテハ野土ト赤土トナリ、水利不便ナレバ、陸田多ク、水田ハ少シ、郡中西ノ方ハ、田畔ニ植ルニ桑ヲ以テ、蠶ヲ育テ紡織ヲ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0859 專トス、〈〇中略〉按上古當國東山道ニ屬セシ頃ハ、官道ニテ、當郡モソノ街道ニカヽレバ、繁榮セシ地ナルベケレド、是ハ尤古代ノ事ナリ、東海道當國ニ移リテ後ハ、人跡モスクナク、次第ニ僻遠ノ地トナレリ、七黨系圖ニ、榛澤三郞成房、其子小太郞、及六郞成清、〈成清ハ東鑑ニモ載タリ〉平六郞成長等ヲ載ス、是等皆郡中ノ人ニテ、此邊ニ館ヲカマヘテ、一族モ多カリシコト知ベシ、上杉管領ノ時、同氏陸奧守憲英深谷ニ在城シ、其家人等郡中ニ散住セシト云、中ニモ花園山ニ、居城ヲカマヘシ藤田氏ノ如キハ數世土著シテ、威ヲ近郷ニ振ヒシナリ、北條氏康ノ時ニ至リ、藤田右衞門佐康邦ガ乞ニ因テ和睦ノ時、三男氏邦ヲカレガ養子トシテ、隣郡鉢形ニ在城セシニ及テ、郡中皆小田原分國ニ屬シ、天正十八年、北條氏滅テ後御料所トナリ、旗下ノ士ノ采邑モ打錯レリ、

那珂郡

〔新編武藏風土記稿〕

〈二百三十五那賀郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0859 總説 那賀郡ハ、國ノ中央ヨリ西ノ方ニテ、少シク乾ニヨレリ、江戸ヨリ凡二十二里、東ハ榛澤郡ニ界ヒ、南ハ秩父郡ニテ山々ヲ隔ツ、西北ハ兒玉郡ニ接シテ、接界大半ハ、見馴川ヲ限リトス、此川廣木村ノ邊ニテ、兒玉村ノ方ヘ流レ入レリ、闔郡乾ヨリ坤ヘ地先長ク、凡三里許、南北狹ク、郡ノ形長クシテ、下ブクラナリ、其開キタルハ東寄ニテ、僅一里半ニ過ザル地ナリ、〈〇中略〉又倭名抄國郡ノ下ニ那珂ト出セリ、元祿國圖ニハ那賀ト書セリ、諸國ニ那珂郡アルハ、中ノ郡ノ心ナルベシト、僧契冲イヘリ、今モ賀美那珂ト並ビシニヨレバ、上中ノ義ナルニヤ、サレド國ノ西北ニ當レバ、定カニハ云ヒガタケレド、古ハ當國三ツニ別レシナレリ、當時ノ事ハ別ニ故アルナルベシ、〈〇中略〉御打入ノ後ハ、大抵御料所ト旗下ノ人ノ知行ト打交レバ、其後次第ニ原野ヲ開キ、又分村等アリケレバ、元祿ノ頃ハ、正保ノ改ヨリ四村ヲ増加シテ、今モ替ラズ、タヾ僅ノ新闢ノ地高入トナリシノミナリ、郡中南北ハヨホド高キ山打續キ、東北ノ二方ハ次第ニ低シ、サレバ陸田多クシテ水田ハ少シ、多クハ天水ヲ湛テ耕植セル故、干損多シト云、其低キ所ニテハ專水溢アリ、土性ハ近郷ト同ジク、眞土

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0860 野土砂交リナリ、〈〇中略〉郡中耕作ノミヲコトヽシ、餘業ヲナスモノ少シ、

〔萬葉集〕

〈二十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0860 天平勝寶七歳乙未二月、相替遣筑紫諸國防人等歌、 麻久良多知(マクラタチ)、己志爾等里波伎(コシニトリハキ)、麻可奈之伎(マカナシキ)、西呂我馬伎己無(セロガマキコム)、都久乃之良奈(ツクノシラナ)久、 右一首、上丁那珂郡檜前舍人石前之妻大伴眞足母、

〔續日本後紀〕

〈十三仁明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0860 承和十年五月丙申、武藏國那珂郡元來小郡、官員約小、而今戸口増益、結定四郷、收多職少、不頒行、據准令條、誠裕下郡、改小爲下、更増一員

兒玉郡

〔新編武藏風土記稿〕

〈二百三十八兒玉郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0860 總説 兒玉郡ハ、北ノ國界ニアリ、江戸ヨリ郡境マデ二十一里餘、西ノ方上野ノ國境マデ二十四里餘、秩父郡境マデ二十六里ヲ隔ツ、和名抄國郡條下ニ、兒玉郡ヲ訓ジテ古太萬ト註ス、其名ノ起レル地ハ、今ノ兒玉町下兒玉村ナルベシ、闔郡乾ヨリ坤ノ方ヘ、地先長ク張出テ、其徑リ凡六里半、幅ハ本庄宿ノ邊ニテ一里半許、西ニヨリテハ一里程ノ處モアリ、東ハ榛澤郡ニ境ヒ、巽ハ那賀郡、南モ同郡ニテ身馴川ヲ隔トス、坤ハ秩父郡ニ交ハリ、山丘ヲ境トス、西ハ神流川ニ限リ、對岸上野國緑野郡ナリ、四域カク山川ヲ以限リタレバ、古來變革ナキガ如クナレド、利根川ニ添タル杉山、新井、都島、山王、堂沼、和田、仁手等ノ數村ハ、古上野國那波郡ニ屬セシヲ、寛永年中ノ洪水ニ川瀬變リテ、當國ニ入シト、上野國志ニ載セ、隣郡榛澤郡横瀬村華藏寺大日堂、天正十一年ノ棟札ニモ、上野國新田庄勢多郡横瀬郷云々ト記シ、又和名抄賀美郡郷名ニ小島ト載セシハ、全ク今ノ當郡小島村ト覺ユ、變革アリシコト知ベシ、按ニ、本郡ハ當國七黨ノ一、兒玉黨ノ住セシ地ナリ〈〇中略〉中古ハ足利氏ノ領ニ屬シ、天文永祿ノ頃ハ小田原北條氏ノ所務ナリシコト、寺社ノ寄附状等ニモ見エタリ、御打入ノ後ハ、大抵御料所ト、旗下ノ人ノ知行ト打交レリ、郡内坤ノ方ノミ山丘ニ續キテ、其餘過半ハ川ニ添タレド、水田少クシテ陸田多ク、土性陸田ハ眞土ニテ、水田ハ砂交ノ野土ナリ又川ニ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0861 ヨリテ便宜ノ地ナレド、ヤヽモスレバ水溢ノ患アリ、マタ秩父那賀兩郡ニ接シタル邊ハ、水利不便ニシテ、旱損ヲ免カレズト云、〈〇中略〉郡中耕種等餘業、及風俗ノ異ナルコトナシ、

賀美郡

〔和名抄諸國郡郷考〕

〈六武藏〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0861 賀美〈上〉 〈河越記、加美郡といへるは、二十餘郡の北のはてにて、此郡より流れ出るは、加美の川と云て、末は利根川にたぎりおちて、これなん武藏の國とかみつけの境ひ川なる、〉

〔新編武藏風土記稿〕

〈二百四十三賀美郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0861 總説 賀美郡ハ、國ノ乾ノ方ニテ、上野ノ國界ニ當レリ、江戸ヨリ二十三里餘、倭名抄國郡ノ下ニ、賀美ヲ訓ジテ上ト註ス、按那賀郡ト並ブトキハ、上中ノ義理ナルニヤ、他國ニモ賀美那賀ノ郡名ハ例多シ、〈〇中略〉上古ハ當國山道ニ屬シ、寶龜年中、改テ海道ニ屬セシカドモ、猶モトノ官道ハ廢セズシテ、山道兩路カヽリシ事、續紀ニ見ユ、當時郡中官道ニ係シ事ナルベシ、サレバ戰爭ノ世ニ、上野國ヨリ打テ出テ、武藏野ニテ戰ヒ、或ハ五十子ニテ對陣シ、マタハ阿保原合戰ノ類、皆郡中ニ大道ノカカリテ、此邊要地ナル故ナリ、中葉以來邊鄙ノ地トナリタレバ、土地變革モアルベケレド、今其傳ヲ失フ、今ノ地域、東南ノミ地續キテ兒玉郡ニ隣リ、三方皆水流ヲ界トス、西ハ上野國ニテ神流川其界ヲ流ル、北モ同國ニテ烏川ヲ限リ、艮ニ至リテ利根川ト合フ、此所ハ寛政中ニ變革シテ、今ノ如クナリシト云、郡ノ形大略南北ヘ長シ、其内坤ノ方兒玉郡界ニ至リテハ、地先尖タル如ク差出タリ、此郡界ヨリ艮ノ方、上野國界利根川岸八町河原村マデ、長凡二里半、東西ノ徑リハ郡ノ中央廣キ處ニテ一里許、ソレヨリ南北ヘ次第ニ狹マリタレバ、里程齊シカラズ、御入國ノ後ハ、大抵御料所ニシテ、私領モ少ク交レリ、郡中平坦ノ地ニテ、田少ク畠多シ、土性眞土ナリ、川ニ添テ屢水溢スル所ハ、變ジテ砂石混雜セシ所モアリ、スベテ此邊ハ水災多ク、東南ニ至テハ旱損ヲ患フト云、村民等耕種ヲ事トスルノミニテ餘業ナシ、

〔續日本後紀〕

〈九仁明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0861 承和七年十二月己巳、武藏國加美郡(○○○)人、散位正七位上勳七等檜前舍人直由加麻

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0862 呂男女十人、貫附左京六條、與土師氏同祖也、

秩父郡

〔運歩色葉集〕

〈知〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0862 秩(チヽ)父

〔地名字音轉用例〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0862 入聲ツノ韻ヲ同行ノ音ニ通用シタル例 ちヽぶ 秩父〈武郡〉知々夫(チヽブ) 秩(チツ)ヲチヽニ用ヒタリ

〔武藏演路〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0862 秩父郡ハ東高麗、入間、比企、男衾等の郡に連り、西は甲斐、信濃に境ひ、南は多摩郡に隣れり、北は上野國に境ふ、東西凡十七八里許、南北凡十五六里許と云、

〔新編武藏風土記稿〕

〈二百四十六秩父郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0862 總説 秩父郡ハ、國ノ西偏ニアリ、江戸ヨリ西北二十里餘ナリ、和名抄ニ、秩父ヲ訓ジテ知々夫ト註ス、郡名ノ起リハ、モト國名ヨリ起リ、〈〇中略〉郡ノ地形ハ、前ニ辨ゼシ如クナレバ、奇峯秀嶽相聳ヘ、險阻狹隘ノ地ニシテ、少シクヒラケタル地ハ、大宮郷ノ邊、或ハ横瀬、太田、及吉田邊ハ水田アリト云ヘドモ、十ガ一ニシテ、其餘陸田モ多クハ高燥ニヨリ、火田ノ地ハ層巒ヲヒラケリ、土性ハ眞土トイヘドモ、悉ク小石交リ、其他黒赤ノ野土多シ、村落ハスベテ山川ニ包マレ、谷川餘多曲流セリ、大ヒナルハ荒川ニテ、西ノ方窮谷ヨリ出テ、郡ノ中央ヲ東ニ走流ス、闔郡ノ地域ハ、狹キ地ニテハ六七里、東ノ方ヨリ艮ノ方マデノ界ハ犬牙シテ、高麗、入間、比企ノ三郡ニ隣リ、夫ヨリ北寄ニ至テハ、男衾、榛澤ノ二郡、同ク犬牙シテ山峯ヲ界トスルモ、屈曲シテ榛澤郡ト那賀郡ノ界ニ至テハ荒川ヲ限トシ、那賀郡ヨリ又峯巒ヲ界トシテ、西ノ方ヘ漸々少シク縮マリ、夫ヨリ兒玉郡ニ接附シテ、上州甘樂郡マデハ、北寄ヘ張出シ、同郡山中領ト神流川ヲ界トスルコト二三里許、同郡ト信州佐久郡、甲州ノ都留郡國界マデ、峻岳萬重ヲ堺トシテ、圓形ノ如ク大ヒニ張出シ、又西ノ方甲州都留郡ト多磨郡ノ界マデハ、漸々縮テ國界ヲナスコト悉ク高山ニテ、多磨郡ニ至リテモ、山峯ヲ界ヒテ高麗郡ニ及ベリ、西ノ方ハ上信甲ノ三國ニトナリ、其餘スベテ九郡ニカヽレリ、東ノ方ヨリ乾ノ方

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0863 ヘ凡廿四里許、南ヨリ北ヘ廣キトコロニテ十四五里、〈〇中略〉郡ノ經界ニ至リテハ、後世沿革セシニヤ、小丸峠ノ東、上我野郷七ケ村ハ、今本郡ニ隷スレド、舊キ撿地帳ニハ、高麗郡上我野郷ト記シ、又高山村不動堂、及阪石町、分法光寺、天正十九年ノ御朱印ニ、高麗郡吾野ノ内トアレバ、本高麗郡ナルコト論ナシ、土人ノ説ニ、妻阪峠ノ東、上下名栗村、及皆新田峠ノ東、皆谷、白石、御堂、安戸、椚平、大野ノ六ケ村、合テ十五村ヲ外秩父ト云、按ズルニ、元高麗郡ニシテ、後本郡ニ屬セシモノカ、和名抄入間郡ノ部ニ、安刀トアリシハ、今安戸村ナラント、ソノ地入間郡トハ比企郡ヲ阻ツレド、前ノ六ケ村モシクハ高麗郡ニ屬セズンバ、入間郡ナランカ、サアレバ入間郡ノ安刀ナランモ當レリ、思フニ、往古ハ妻阪峠小丸峠、皆新田峠ヲ限リテ、是ヨリ西ヲ本郡トスルモノナラン、扨闔郡ノ外ニ接附セシ秩父ナレバトテ、イツシカ外秩父ノ名ヲコレルニ因循シテ、往古ヨリノ地ヲ呼テ奧秩父トハ稱スルナラン、土産ニハ、生絹、横麻、煙草等ヲ第一トス、山ヨリ出セルモノハ、金、銀、銅、鐵、磁石、寒水石、緑青、或ハ木石ヲモ出セリ、土風人物等ニ至テハ、サセル殊異ナシトイヘドモ、深山幽谷ニ僻在スルモノハ、自ラ木訥ニシテ、童齔ヨリ白首ニ至ルマデ、月代ヲ剃ザルモノ有テ、偏ニ總髮ノ如ク、婦嫗モ眉毛ヲ剃ズシテ白齒ナルアリ、婦モ男ト齊シク短褐ヲ著シ、山谷ニ動搖シ、凍寒ニ至リテモ、唯褐ヲモテ重子襲フノミ、イヌルニモ臥具ノ設ナク、ヨモスガラ夫妻子母爐火ヲ擁シテ睡リ、燈ハ松根ヲ焚ケリ、婚姻喪祭ノ禮ノ如キハ、イカニヤアラン、邊境ノ譬ヘニ放言セルハ、酒店ヘ三里、豆腐屋ヘ二里トイヘルモ、斯ル山中ノコトニテゾ有ン、深谷窮民ノサマハ、他郡ノ風俗トハ、違ヘル所多カルベシ、

〔續日本紀〕

〈四元明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0863 和銅元年正月乙巳、武藏國秩父郡獻和銅、詔曰、〈〇中略〉故改慶雲五年而和銅元年爲而、御世年號止定賜、〈〇下略〉

〔萬葉集〕

〈二十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0863 天平勝寶七歳乙未二月、相替遣筑紫諸國防人等歌、 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0864 於保伎美乃(オホキミノ)、美己等可之古美(ミコトカシコミ)、宇都久之氣(ウツクシケ)、麻古我氐波奈禮(マコガテハナレ)、之末豆多比由久(シマヅタヒユク)、 右一首、助丁秩父郡大伴部少歳、

葛飾郡

〔郡名考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0864 武藏 葛飾〈カツシカ〉

〔武藏演路〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0864 葛飾郡ハ、本所、葛西、二郷半、幸手、杉戸、栗橋邊迄、凡十一万石餘の郡にして、延喜式、源順倭名抄等、武藏二十一郡にて、此郡あらず、下總國に在し也、然れども東鑑太平記等を考るに、武藏國住人葛西氏の名出たり、若此比は武藏に屬せし事ありや、又伊勢物語にもむさし下總の間にある隅田川とあり、但し是は隅田川の説區々あれば、とね川の事をいヽしもの歟、且歌書名所によれば、隅田川はいづれも下總にいれたり、武藏二十二郡と改まりしは近代の事にて、元祿中といふ、利根の流れを境とし、故葛西といへるは利根川の西葛飾といへる事也、下總國の葛飾郡は、利根川の葛東也、

〔新編武藏風土記稿〕

〈二十葛飾郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0864 總説 葛飾郡ハ、國ノ東界ニアリ、和名抄ニ據ニ、此郡元來下總國ノ管内ニテ、當國二十一郡ノ外ナリ、〈〇中略〉按ニ、古ハ下總國トノ間ニ入江アリテ、埼玉郡ノ地先マデニ挿入タリ、奈良御門ノ御時、埼玉ノ入江ナドヽ歌ニモ讀シ事、萬葉集東國歌ニ見タリ、サレバ今ノ郡中ハ、大抵當時ノ江ノ中ナリ、潮水退テ後土地ノ闢ケシハ、延喜以來永和ノ頃ニ至マデ、五百年ホドノ間ニ、次第ニ出來シナルベシ、按ニ、和名抄下總國葛飾郡、郷名六郷ト、驛家餘戸アリ、今土地ヲ撿スルニ、大抵其地ト覺シキ所、下總國葛飾相馬ノ二郡ニ遺テ、只八島豐島ノ二郷ハ、其地ト覺シキ所ナシ、想フニ此二郷皆島ノ字ヲ用ヒタレバ、眞間ノ入江中ニアリシ島ナドニヤアリケン、サレバ其地今ハ葛西ノ中ニ屬シテ、ソノ島嶼ノ廻リニ寄洲ノ出來シモノ、年ヲ經テ今ノ如ク廣大トハナリシナリ、モト下總國葛西郡ヨリ闢シ新田ナレバ、直ニ彼郡ニハ屬セシナルベシ、葛飾、和名抄ニハ加止志加ト訓ズレド、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0865 コレハ大寶年來ノ唱ニテ、古クハカツシカト號セシト見エテ、萬葉集ノ歌ニハ勝鹿ナド書タレバ、今ノ唱ヘ、カヘリテ古ニ復セシト云ベシ、又下總國歌ニ、爾保抒里能(ニホドリノ)、可豆思加和世乎(カツシカワセヲ)、爾倍須登毛(ニヘストモ)、曾能可奈之伎乎(ソノカナシキヲ)、刀爾多氐米也母(トニタテメヤモ)ト見エタリ、仙覺ガ註ニ、彼郡中ニ大河アリ、フトヰト云、河ノ東ヲ葛東郡ト云、河ノ西ヲ葛西郡ト云ト云リ、今按ニ、フトヰ、東鑑ニ太井ト記ス、地理ヲ推ニ、今ノ利根川ナルベシ、仙覺ハ文永頃ノ人ナリ、是ヨリサキ建長五年八月晦日、下總國下河邊庄ノ堤ヲ築固ベキノ沙汰アリシ事、東鑑ニモミエタレバ、此頃ニ至テ、當郡ノ地、大ニ開ケシコト知ラル、然ルニ其頃ハ利根川ヲ界トシテ、今ノ二郷半領ノ邊ヨリ幸手領マデ、總テ葛西ト號セシト見ユ、今ハ小合溜井ヨリ南ニノミ葛西ノ名アリ、又葛東郡ノ唱モ失ヒシナリ、古今集羇旅歌ノ詞書、及伊勢物語等ノ書ニ、武藏ト下總トノ境、隅田川ト見エ、又金澤稱名寺文書ノ内、文永十二年金澤越後守顯時ノ讓状ニ、下總國下河邊庄平野村トノセ、元亨四年、執權高時貞顯二人ガ下知状ニ、下總國高野川ニ橋ヲ架セシコト見ユ、正慶元年北條貞時ノ文書ニ、下總國下河邊庄赤岩郷トモアリ、又下總國中山法華經寺永和三年ノ寄附状、及應永四年足利氏満状、同二十七年千葉兼胤状、同二十九年左衞門尉定忠状ニ、皆下總國葛西御厨篠崎郷ト見ユ、又相州鶴岡文書、應永二十六年足利持氏ノ寄附状ニ、下總國下河邊庄彦名河關ト記シ、下高野村東大寺寶徳二年ノ縁起ニ、下總國葛飾郡來復山東大寺ト載セタリ、此平野、高野、赤岩、篠崎、彦名ノ數村、今皆當郡ニ屬スル時ハ、當時ノ國界推テ知ルベシ、又僧堯惠ガ北國紀行ニ、文明十九年二月ノ初、鳥越ノ翁艤(フナヨソヒ)シテ隅田川ニ浮ブ、東岸ハ下總、西岸ハ武藏野ニ續ケリ、此川武總ノ界ニテ、利根入間ノ二川落合所ニ古渡アリト見ユ、サレド國界ノ今ノ如ク改マリシハ、最近キ世ノコトナレド、其年代ニ異説多シ、或ハ寛文年中トモ、又貞享三年ノ事ナリトモ云、又一説ニ、今ノ郡域上古當國ニ屬セシヲ、中古ニ至リ下總國ニ隷シ、元祿年中武州ニ復セシトイヘド、皆無稽ノ説ナリ、按ニ古河公方ノ家老簗田某政助〈右京亮、後大炊頭ト〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0866 〈稱ス、〉金子左京亮某ニ與ル文書ニ、禪興寺領武州平沼郷ト見ユ、平沼ハ今ノ二郷半領平沼村ナリ、政助ハ總州郡山郷水海村三島社ノ鰐口ヲ寄附セシ人ニテ、銘文ニ文龜三年大旦那平右京亮正助ト彫ル、政字正字同訓ナレバ、傍ヲ省略セシマデナルベシ、因テ知ル、政助ハ永正大永ノ頃ノ人ニシテ、國界ノ改リシモ、其頃ヨリ以前ナルコト明ケシ、サレド郡中戸ケ崎村淺間社、天正十年ノ鰐口ノ銘ニハ、下總國戸ケ崎郷ト記タレバ、區々ニ唱ヘシナラン、同十九年金町村香取社領御朱印ノ文ニハ、武藏國勝鹿郡葛西金町郷ト記サレ、又御入國之時御知行割〈〇註略〉ト題セル繪圖ニモ、當郡ヲ武藏國ニ屬シタレバ、當時既ニ國界變ゼシナラン、正保改メ國圖ニハ、全ク今ノ郡界ノ如ク記セリ、當郡ハ昔將軍頼朝ノ頃ハ、其家人葛西三郞清重住シテ大半領セシト見ユ、又義經記ニヨレバ、千葉介ガ領地モ雜ハリシナリ、續テ親王家將軍ノ頃ニハ、執權北條氏知行セシコト古文書ニ見エタリ、足利將軍ノ頃ハ、關東管領ノ領國ニ屬シ、戰爭ノ時ニ至テハ、小田原北條氏割據シ、其家人モ知行セシコト、小田原役帳等ニ載タリ、唯松伏領以北ノミ、纔ニ古河公方ノ領地ニ屬セシトオモハル、公方衰微シテ、後ハ全ク小田原ニテ領セシガ、天正十八年御打入アリシヨリ御料地トナリ、其後御家人寺社等ヘモ分チ賜ヒシカド、今モ郡内過半ハ御料所ナリ、總テ郡中沼池多ク、或ハ水涯ノ閑地モ少カラズ、南ノ端ノ海涯ニハ、年々ニ寄洲ツキテ、地先出張ル勢ナリ、闔郡石高正保ノ改ニ十萬三千石餘、元祿ニ至テハ十一萬六千石餘、其後モ新墾ノ地闢ケテ、今ハ若干ノ石高増加セリ、郡域ハ南ヨリ北ノ方ニ長シ、郡ノ廻リスベテ川流延亘セリ、南ハ海ニ邊シ、東ハ利根川庄内古川、及江戸川ヲ限テ下總國葛飾郡ニ隣リ、北ヨリ西ニ廻テハ古利根川、古隅田川淺草川〈隅田川ノ一名〉等ヲ隔テ、埼玉、足立、豐島三郡ニ隣レリ、南涯ヨリ北方栗橋ニ至マデ、里數十里餘、東西ノ徑ハ、南邊濶キ所ニテ三里餘、中央松伏村ノ邊ニテハ、纔一里ニ足ラズ、北ニ至テハ、又廣ゴリテ二里餘ニ至ル、〈〇中略〉闔郡打開ケタル平坦ノ地ニテ、縱横水流通シ、水田勝ノ沃土ナレバ、他ノ郡ヨリモ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0867 富饒ノ地ナリ、殊ニ郡南葛西ノ邊ハ、江戸ニ近キヲ以テ、五穀ノ外ニモ菜蔬ヲ栽テ市ニ鬻ゲリ、其利モ少ナカラズ、又海濱ニ至テハ、漁獵ヲ餘業トセルモ多シ、サレバ農民ノ風俗ヤヽ浮靡ニシテ總テノ事大様江戸ノ俗ニ異ナラズ、又深川本所中之郷、及其邊ノ村ニモ、寛文ノ頃ヨリ次第ニ百姓商家出來テ、正徳年中、御府内町並ニ屬セシ地モ少ナカラズ、

〔萬葉集抄〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0867 かつしかとは下總國葛飾郡也、彼郡の中に大河あり、ふとゐと云、其川の東をば葛東郡といひ、西をば葛西の郡といふ、

〔北國紀行〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0867 文明十九年二月ノ初、鳥越ノ翁艤シテ隅田川ニ浮ブ、東岸ハ下總、西岸ハ武藏野ニ續ケリ、此川武藏ノ界ニテ、利根、入間ノ二川落合フ所ニ古渡アリ、

〔參考源平盛衰記〕

〈四十六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0867 時政實平上洛附吉田經房卿廉直事 伊藤本、八坂本云、〈〇中略〉北條サラバ十郞藏人殿、討テモ搦テモ得サセヨ、勸賞ハ功ニ依ベシト宣ヘバ、常陸房畏テ承、左候バ中間十人ヲ給ハラント申、〈〇中略〉十郞藏人殿ヲバ手取足取髻取テ生捕ニコソハシタレケレ、〈〇中略〉軈テ常陸房ヲモ十郞藏人ノ首ニ添テ、鎌倉ヘコソ下サレケレ、鎌倉殿神妙也、勸賞ニハ流セトテ武藏ノ葛西(○○○○○)ヘゾ流サレケル、

〔吾妻鏡〕

〈十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0867 正治三年八月十一日戊子、甚雨、午刻大風郷里穿屋、〈〇中略〉下總國葛西郡(○○○○○○)海邊、潮牽人屋千餘人漂沒云云、

〔鎌倉大草紙〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0867 尊氏の御時、千葉の家二方にわかれ、宮方、將軍方とてありしが、宮方は九州へ下り、其後終に下總へわたり給はず、關東は一統にてありけるが、今度また馬加は、成氏公と一味して原是を主として、千葉へ移り、千葉の跡を繼ける、其後原は小金の城に居住す、上杉より今度胤直と一所に討死ありし、中務入道了心の子息實胤、自胤二人を取立て、下總國市川の城に楯籠て、千葉又二流となる、〈〇中略〉康正二年正月十九日、終に城を攻落し、實胤は武州石濱へ落行、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0868 自胤は武州赤塚へ移る、兩總州の兵どもは、大半成氏へ降參申ける、〈〇中略〉實胤は千葉城へ入部不叶して武州石濱葛西邊を知行して、時を待て居たりしが、世中を述懷して遁世して、濃州に上りて閑居す、其兄の自胤を上杉より取立、實胤の跡を給はり千葉介に任ず、武州の千葉と號す、

新羅郡

〔續日本紀〕

〈二十一淳仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0868 天平寶字二年八月癸亥、歸化新羅僧卅二人、尼二人、男十九人、女廿一人、移武藏國閑地、於是始置新羅郡焉、

〔續日本紀〕

〈三十六光仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0868 寶龜十一年五月甲戌、武藏國新羅郡人沙良眞熊等二人、賜姓廣岡造

〔日本書紀〕

〈三十持統〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0868 四年二月壬申、以歸化新羅韓奈末許満等十二人、居于武藏國

〔續日本紀〕

〈二十二淳仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0868 天平寶字四年四月戊午、置歸化新羅人一百卅一人於武藏國

〔武藏演路〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0868 按に、元正靈龜二、高麗人を武藏國に遷し、高麗郡を置事、續日本紀に出せり、然るに武藏に新羅郡無之は、新羅高麗の誤り歟、或は幡羅、或は新座などの誤にや知べからず、

〔和名抄諸國郡郷考〕

〈六武藏〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0868 新座〈爾比久良 松山巡覽志、新座村白子宿立義云、土人はしらくといふ里老云、武藏に新羅郡といへる有しが、いつのほどにか、絶たり、此邊其しらき郡のあとなれば、しらきと云しが、いつしか轉じて、しらくと唱へ、文字さへも改りしと云、按に、續紀天平寶字二年、歸化新羅僧三十二人、尼二人、男十九人、女二十一人、移武藏國閑地、於是始置新羅郡、(中略)右の如く見えたれど、はやくより廢れたるにや、民部式に載たる郡名の内に見えず其後の和名抄拾芥抄等にも不見、たま〳〵 類聚往來の武藏國郡名の所に、新座郡となくて、新羅郡とあり、是は何によりて記せしや、古書になき事を、わづかに此書を以て證となしがたし、只後世の書に出たるが珍しければしるすのみ、但ししひて説をいはゞ新座は新羅の轉たるにや、さらば新座と書たるより、文字につきて、にひくらと唱しか、〉

〔倭名類聚抄〕

〈六國郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0868 武藏國 多磨郡 小川〈乎加波〉川口〈加波久知〉小楊〈乎也木〉小野〈乎乃〉新田〈爾布多〉小島〈乎之萬〉海田〈安萬多〉石津〈伊之郡〉狛江〈古万江〉勢多 都筑郡 餘戸 店屋 驛家 立野〈多知乃〉針坼〈罰佐久〉高幡〈多加波多〉幡屋〈波多乃也〉 久良郡 鮐浦〈布久良〉大井〈於保井〉服田〈波止太〉星川〈保之加波〉郡家 諸岡〈毛呂乎加〉洲名〈須奈〉良椅〈與之波之〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0869 橘樹郡 高田〈多加太〉橘樹〈多知波奈〉御宅〈美也介〉縣守〈安加多毛利〉驛家 荏原郡 蒲田〈加万太〉田本〈多毛止〉滿田〈上音下訓〉荏原〈江波良〉覺志〈加々之〉御田 木田〈木多〉櫻田〈佐久良太〉驛家 豐島郡 日頭〈比乃度〉占方〈宇良加太〉荒墓〈安良波加〉湯島〈由之万〉廣岡 餘戸 驛家 足立郡 堀津 殖田〈宇惠太〉稻直〈伊奈保〉郡家 餘戸 發度 新座郡 志木 餘戸 入間郡 麻羽〈安佐波〉大家〈於保也介〉郡家 高階〈太加之奈〉安刀 山田〈也萬多〉廣瀬〈比呂世〉餘戸 高麗郡 高麗〈古萬〉上總〈加無豆布佐〉 比企郡 郡家 渭後〈沼乃之利〉都家〈都介〉醎瀬〈加良世〉 横見郡 高生〈多介布〉御坂〈美佐加〉餘戸 埼玉郡 太田〈於保太〉笠原〈加佐波良〉草原〈加也波良〉埼玉〈佐以多萬〉餘戸 大里郡 郡家 楊井〈也木井〉市田〈以知多〉餘戸 男衾郡 榎津〈衣奈都〉http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/00000001d930.gif 倉 郡家 多笛 川原 幡々 大山 中村 幡羅郡 一秦 下秦 廣澤 荏原 幡羅 那珂 霜見〈之毛美〉餘戸 榛澤郡 新居 榛澤 瞻形 藤田 餘戸 加美郡 新田 小島 曾能 中村 兒玉郡 振太 岡太 黄田〈〇黄田、高山寺本作草田、〉太井 那珂(ナカ)郡 那珂 中澤 水保 弘紀 秩父郡 巨香 上斷 美吉 丹田 中村 餘戸

〔日本靈異記〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0869觀音木像之助王難縁第七 正六位上大眞山繼者、武藏國多磨郡小河郷(○○○)人也、〈〇中略〉帝姫何倍天皇〈〇元明〉御世、天平寶字八年甲辰

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0870 十二月、山繼遭賊臣仲麿之亂、而羅於殺罪之例十三人類、〈〇下略〉

〔類聚三代格〕

〈八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0870 太政官符 應收百姓二人身分調庸事 壬生吉志繼成年十九〈〇中略〉 壬生吉志眞成年十三〈〇中略〉 並男衾郡榎津郷(○○○)戸主外從八位上壬生吉志福正之男〈〇中略〉 承和八年五月七日

〔續日本後紀〕

〈十四仁明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0870 承和十一年五月壬寅、武藏國言、多摩郡猪江郷(○○○)戸主刑部直道繼戸口同姓眞刀自咩、爲同郷刑部廣主妻、生四男三女、經二十一年夫乃死矣、眞刀自咩居喪有禮、事死如生、墳側結廬、晨昏悲泣、推移歳月、終始不渝、見其操行、可節婦者、勅宜特授位二階、兼終身免同戸田租、 〇按ズルニ、猪江ハ狛江ノ誤ナラン、倭名類聚抄ニ多磨郡狛江〈古万江〉トアリ、

〔集古文書〕

〈十二下文〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0870 源頼朝卿下文〈由良家藏〉 下 埼西郡之内糯田郷(○○○)住人等 定補郷司職事 新田入道殿 右以人爲彼職所可執行人人住人等、宜承知違失、故下、 治承五年十一月 源朝臣〈花押〉

〔吾妻鏡〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0870 治承六年〈〇壽永元年〉六月五日甲辰、熊谷二郞直實者、匪朝夕恪勤之忠、去治承四年、追討佐竹冠者之時、殊施勳功、依其武勇、武藏國舊領等、停止直光之押領、可領掌之由被仰下、而直實此間在國、今日令參上件下文云云、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0871 下 武藏國大里郡熊谷次郞平直實所定補所領事 右件所、且先祖相傳也、而久下權守直光押領事停止、以直實地頭之職成畢、其故何者、佐汰毛四郞常陸國奧郡花園山楯籠、自鎌倉責御時、其日御合戰、直實勝萬人、前懸一陣懸懷、一人當千顯高名、其勸賞件熊谷郷(○○○)之地頭職成畢、子々孫々、永代不他妨、故下、百姓等宜承知、敢不違失、 治承六年五月卅日

〔吾妻鏡〕

〈十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0871 建久三年十一月二十五日甲午、早旦熊谷次郞直實、與久下權守直光御前一決、是武藏國熊谷久下境相論事也、直實於武勇者、雖一人當千之名、至對決者、不再往知十之才、頗依御不審、將軍家度々有尋問給事、于時直實申云、此事梶原平三景時引級直光之間、兼日申入道理之由歟、仍今直實頻預下問者也、御成敗之處、直光定可眉、其上者理運文書無要、稱左右、縡未終、卷調度文書等、投入御壺中座、猶不忿怒、於西侍自取刀除髮、吐詞云、殿乃御侍倍登〈利波天云云、〉則走出南門歸宅逐電、將軍家殊令驚給、或説指西馳駕、若赴京都之方歟云云、

〔吾妻鏡〕

〈十八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0871 元久二年六月二十八日甲寅、以武藏國久下郷(○○○)、被進勝長壽院彌勒堂領云云、

〔集古文書〕

〈四十二寄附状〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0871 源頼朝卿寄附状〈相模國鎌倉鶴岡八幡宮藏〉 奉寄 相模國鎌倉郡内、鶴岡八幡新宮若宮御領所事 在武藏國波羅郡内瓺尻郷(○○○) 右爲神威増益所願成就、所寄也、方來更不可有籠之状如件、 壽永二年二月廿七日 前右兵衞佐源朝臣頼朝〈花押〉

〔集古文書〕

〈十二下文〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0871 源頼朝卿下文〈家臣成田行明藏〉 下 武藏國別府郷(○○○)百姓等所、可早令當郷内車石赤木奧宮以通于長止呂小道河西次郞行助分知行、以同小道東加太郞能行分、爲地頭知行事、 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0872 總田數貳佰伍拾貳町參段小内〈建仁三年九月拾片定〉 太郞能行分、佰參町壹段大、次郞行助分、佰參町壹段大、四郞行直分、貳拾町、後家分拾町、 小林三郞妻分拾町 女子三人分六町〈各貳町〉 右別府郷事、兄弟相論之間、或遂問注對決、或經次第沙汰之後、去建仁二年九月、令大和前司光行朝臣、并右衞門次郞光俊等加實撿之處、〈〇中略〉當郷能行行助共半分可知行之由、見于問注所之勘状、仍自車石赤木奧宮以通于長止呂之小道、自河之西行助公、以同小道東所加能行之分也、件東分内有肆拾壹町壹畝小之田、此内拾八町九畝六十歩者、可行助分、田并在家者、如元不相違、抑此事度々經沙汰之處、能行所申有其謂歟、仍所給彼境也者、依鎌倉殿仰、下知如件、以下、 元久元年十二月十八日 清 亘〈花押〉 前右京進中原〈花押〉 左衞門尉平〈花押〉 前大膳大夫中原朝臣〈花押〉

〔吾妻鏡〕

〈十八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0872 元久二年二月廿一日乙卯、武藏國土袋郷(○○○)乃貢者、所永福寺住侶等供料也、遠州下知給云云、 十一月三日乙酉、小澤左近將監信重、相伴綾小路三位〈師季〉息女、〈二歳〉自京都參著、〈〇中略〉是母儀者、稻毛三郞入道重成女、遠州禪室御外孫也、去六月重成入道被誅之後、乳母夫信重、雖扶持之、猶恐彼餘孫隱居之處、尼御臺所可御哀愍之由、内々被仰之間、參向云云、 四日丙戌、姫君被尼御臺所御亭、可御猶子之儀也、稻毛入道遺領武藏國小澤郷(○○○)、可知行之由被仰云云、

〔北條分限帳郡村略考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0872 塀和又太郞 武州小澤郷 永貳百貫文 武州多摩郡橘樹郡兩郡にまたがり、今は小澤郷別れて菅ケ村、谷ノ口村、長沼村、百村、大丸村な

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0873 ど云、都て貳千貳百石餘の村高也、玉川の南ノ涯なり、いにしへは都て多摩郡なるべし、今も菅ケ村は橘樹郡にて、殘村分は多摩郡なり、當時御料私領、

〔吾妻鏡〕

〈二十一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0873 建暦三年〈〇建保元年〉五月十七日丁巳、先次郞左衞門尉政宣所領、武藏國大河戸御厨内八條郷(○○○)、賜式部大夫重清、但地頭澀江五郞光衡者、如本所安堵之由、所仰下也、相州前大膳大夫被下知

〔集古文書〕

〈二十六下知状〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0873 承久三年下知状〈相模國鎌倉鶴岡八幡宮藏〉 可令早爲鶴岳八幡宮社領武藏矢古宇郷(○○○○)事 右以當郷社領之状、依仰下知如件、 承久三年八月二日 陸奧守平〈花押〉

〔吾妻鏡〕

〈三十八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0873 寛元五年〈〇寶治元年〉七月十六日丁卯、宮寺領武藏國矢古宇郷内、以別當得分御讀經料、所始置不斷大般若經轉讀云云、

〔吾妻鏡〕

〈二十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0873 寛喜二年六月十一日、武藏國在廳等注申云、去九日辰刻、當國金子郷(○○○)雪交雨降、又同時降雹云云、

〔吾妻鏡〕

〈三十三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0873 暦仁二年〈〇延應元年〉二月十四日甲寅、武藏國小机郷(○○○)鳥山等荒野、可發水田之由、被大夫尉泰綱

〔吾妻鏡〕

〈三十四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0873 仁治二年十月二十二日丙子、以武藏野水田之由議定訖、就之可上多磨河水之間、可犯土之儀歟、將又將軍家御沙汰歟、可私計歟、賢慮猶難一決、仍今日前武州召陰陽師泰貞晴賢等朝臣示合、〈〇中略〉前武州又被仰曰、雖沙汰、耕作之後者、爲御所御計人々、然者可御所御沙汰、北方當時王相歟、自明年又可大將軍方、可定御方違御本所云云、爲武藤左衞門尉頼親奉行、相具泰貞晴賢向武藏國海月郡、自彼所猶爲北方、〈亥方云々〉即兩人歸參于前武州亭

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0874此由、以秋田城介所領同國鶴見郷(○○○)可御本所之旨、泰貞等令一同之問、可入御之由、〈〇中略〉群議治定之後、相副行義義景於泰貞晴賢御所

〔正木文書〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0874 讓渡武藏國春原庄内万吉郷(○○○)五郞經兼所 右彼所者、依先祖相傳所領、讓與五郞經兼所也、敢不他妨、但この所者、故女房に讓所に、死期ちかくなりて、万吉にをきては孝養所にすべきよし、遺言にせらるヽによりて、地頭川くたのうち、五段にをきては、故女房の墓所堂ニ永寄進する所なり、敢不他妨、宛給彼堂住僧、爲孝養毎日可勤者也、於彼田五畝者、付公私一向公事者也、任此讓状、不相違、仍讓状如件、 弘長三年三月二日 覺智〈花押〉

〔集古文書〕

〈二十六下知状〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0874 文永三年下知状〈相模國鎌倉鶴岡八幡宮藏〉 鶴岡八幡宮領、武藏國稻目神奈河兩郷(○○○○○○○)役夫工米事、如先下知状者、云御燈御供、當宮異他之間、被除彼役、以他計略沙汰其分云々、早任彼状、可下知之状如件、 文永三年五月二日 花押

〔新編武藏風土記稿〕

〈二百二十一大里郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0874 小泉村 小泉村ハ、江戸ヨリノ行程前村ニ同ジ、〈〇十六里〉此地名ハ古キ唱ニテ、岩松氏所藏ノ文永三年七月ノ文書ニ、當國小泉郷(○○○)ヲ岩松氏領セシヨシ見ユ、サレド郡名ヲノセズ、又矢野伊賀入道善久トイヒシ人モ、建武ノ頃男衾郡小泉郷ヲ領セシトイヒ、又上野國世良田長樂寺元徳ノ頃ノ文書ニモイヅ、〈〇中略〉又隣郡男衾本田村教念寺所藏、延文元年十二月三日ノ文書ニハ、畠山阿波守國清申請ニテ、本田郷及小泉郷ヲ同寺ヘ寄附シ、康安二年六月六日ノ文書ニモ、此地ヲ同寺ヘ寄附アリシコトヲ載セ、共ニ男衾郡小泉郷ト書リ、然レバ當村古ハ彼郡内ニ屬シテ、後郡界ノ變革アリシナルベシ、

〔圓覺寺所藏文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0875 寄進金陸寺武藏國大里郡大江小泉郷、參分壹方各半分事、右爲當寺領、所寄附之状如件、 正長元年八月十九日 從三位源朝臣

〔萬葉集抄〕

〈二十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0875 文永六年、於武藏國比企郡北方麻師宇郷(○○○○)政所之畢奧書 權律師仙覺〈在判〉

〔集古文書〕

〈四十二寄附状〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0875 將軍惟康親王寄進状〈相模國鎌倉鶴岡八幡宮藏〉 征夷大將軍家 寄進 武藏國鹿島田郷(○○○○) 右奉仰偁鶴岳八幡宮者、當鎌倉郡之名摸石清水之宗祧、建久以來、明徳惟馨、日居月諸、唯恩仰之是以奉進一村之田園、祝著万歳之春秋、請照丹誠、必垂玄鑒、朝野泰平、州懸豐穰、堂吏安全、黎民愷樂者、依仰寄進如件、 弘安元年十一月廿九日 左馬權頭兼相模守平朝臣〈花押〉 陸奧守平朝臣〈花押〉

〔新編武藏風土記稿〕

〈八十四都筑郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0875 新羽村 相州鎌倉郡鶴岡八幡社、正應三年ノ文書ニ、當所ノ地頭肥後三郞實村ガ遺領爭論ノ事ミエタリ、其文ニ、 依惡口事状、武藏新羽郷(○○○)地頭大見肥後三郞次郞實村遺領事、相論之時、嫡子頼時與平氏番申處、頼村爲逆罪之仁由依之、被惡口、被論所於平氏畢、 又云、武藏新羽郷地頭大見肥後三郞次郞定村遺領事、定時嫡子又次郞頼村與後家平氏〈頼時繼母〉相論之時、頼村申之定村之、中陰追出念佛之條逆罪也云々、平氏可惡口罪科之由、依令訴申、被論訴於氏女畢云々、 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0876 正應三年 奉行人(三番引付) 島田民部大夫行兼 頭人 遠江入道〈道西俗時章〉

〔長樂寺所藏文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0876 武藏國比企郡南方、將軍澤郷(○○○○)内、爲灯明用途田三段、任家時申置之旨、所進世良田御寺也、若於違亂之輩者、永可不孝之仁、仍寄進之状如件、 正安元年八月二日 沙彌靜眞

〔水月古鑑〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0876 近江國犬上郡二千貫餘、〈〇中略〉武藏國新倉郷(○○○)七百貫、都合三千七百貫餘事、右可領知、亡父藏人依忠節、本領永不相違、〈〇中略〉執達如件、 文保元二月十八日 吉良龜松源朝臣

〔人見家譜〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0876 其先武州人見郷(○○○)を領せし故家號とす、元弘中に北條高時禪門滅亡の後、領知を失し、

〔新編武藏風土記稿〕

〈九十三多磨郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0876 人見村 觀音堂〈(中略)イツノ頃カコノ地ニ遷セリトイフ古キ鰐口アリ、徑七寸五分、背ニ當山主當玄雪房乃至法界平等而巳トアリ、面圖ノゴトシ、〉 武州多東郡府中人見郷觀音堂 天正八年卯月十八日再造修移奉也 山城國、坪井、久勝、寄進、敬白、

〔萩藩閥閲録〕

〈二十七ノ一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0876 熊谷小四郞直經申、武藏國木田見郷(○○○○)一分地頭職事、木田見孫太郞致濫妨云々、所申無相違者、可沙汰付之、若又有子細者、可注申之状如件、 元弘三年十二月二十日 尊氏御判 伊豆守殿〈〇上杉重能〉

〔稱名寺所藏文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0876 武藏國六浦庄富田郷(○○○)、今者稱http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/7f00006502f8.gif 里谷、此所々者、爲不輸之地、永代奉附當寺候、〈〇中〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0877 〈略〉 正慶元年二月十六日 武藏守貞將 稱名寺長老

〔萩藩閥閲録〕

〈二十七ノ二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0877 雜訴決斷所牒 熊谷小四郞直經 武藏國熊谷内恒正名、同國木田見郷、安藝國三入本莊、美濃國倉光寺半分地頭職事、 右當知行不相違者、以牃、 建武元年六月十日 大外記中原朝臣〈〇師利〉 左中辨藤原朝臣判 裏ニモ在判

〔葦名古文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0877早三浦介時繼法師〈法名道海〉領知武藏國大谷郷(○○○)〈下野右近大夫將監跡〉相模國河内郷〈澀谷遠江權守跡〉地頭職事 右爲勳功賞宛行也者、早守先例領掌之状、依仰〈〇成良親王〉下知如件、 建武元年四月十日 左馬頭源朝臣〈花押〉

〔相州文書〕

〈鎌倉郡四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0877寄進于極樂寺新宮社、武藏國足立郡箕田郷(○○○)内〈岩佐七郞知行〉地事、任仰下之旨、金井八郞相共莅彼知行分、所渡百貫文地、今富西方村於當寺僧道戒上人御房之状、如件、 建武二年二月十四日 右馬允政季〈花押〉

〔集古文書〕

〈四十三寄附状〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0877 鹿苑院義満公寄進状〈相模國鎌倉鶴岡八幡宮藏〉 寄進 鶴岡八幡宮 武藏國箕田郷地頭職内河連村〈除寺社領并人給地〉事 右爲天下安全武運長久、所寄進也者、守先例沙汰之状、依仰執達如件、 應安元年八月廿一日 沙彌〈花押〉

〔相州文書〕

〈鶴岡八幡宮乾〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0878 寄進 鶴岡八幡宮 武藏國佐々目郷(○○○○)〈美作權頭知行分〉 右爲不冷座本地供料所、奉寄之状如件、 建武二年八月廿七日 源朝臣〈花押〉

〔鶴岡事書案〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0878 當郷〈〇佐佐目〉所務事、於御佃者可半分沙汰、又所相殘半分内、四分一可弁之由、百姓等致訴訟之間、當年計以寛宥之儀所出被免也、至所當者任多年赴、以撿見之、次於十人百姓者、不應左候間、罪科至極也、仍任奉書之旨、府中ヘ可召遣之状如件、 應永五年十月十三日 法印 佐々目政所殿 納法三升五合法定

〔集古文書〕

〈四十六寄附状〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0878 北條氏綱同氏康寄附状 武州足立郡之内佐々目郷之事、任例早々奉御神領者也、諸願成就、皆令満足之所、仍如件、 天文六年七月廿三日 左京大夫氏綱〈花押〉 平氏康〈花押〉 院家中(雪下)

〔正木文書〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0878 武藏國内矢野伊賀入道善久跡所領事 合 一所 小泉郷〈男衾郡内〉 一所 須江郷(○○○)〈比企郡内〉 一所 片楊郷(○○○)〈足立郡内〉 一所 久米宿在家六間〈多東郡内〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0879 右任御下文并御施行之旨、奉渡岩松兵部大輔經家跡御代官頼圓定順等候畢、仍渡状如件、 建武二年十一月九日 橘行貞在判

〔安保文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0879 下 安保丹後權守光泰法師〈法名光阿〉 可早領知武藏國安保郷(○○○)内屋敷在家、同國枝名内鹽谷田在家、同國太駄郷(○○○)、出羽國海邊余部内宗太村、播磨國西志方郷、信濃國室賀郷等、地頭職事、 右任代々讓状、并正安三年十二月十日、正慶二年二月廿九日外題安堵状等、可領掌之状如件、以下、 建武三年十二月十一日 源朝臣〈花押〇足利直義〉

〔安保文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0879 武藏國瀧瀬郷(○○○)、〈瀧瀬左衞門尉跡〉并枝松名長莖郷(○○○)〈中院宰相中將家跡〉事、爲勳功之賞預置也、早守先例其沙汰之状、依仰執達如件、 建武四年四月十二日 大和權守〈花押〉 安保丹後入道殿

〔岩松文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0879 武藏國榛澤郡瀧瀬郷内下手墓村事、所宛行也者、早守先例沙汰状如件、 貞治二年五月廿八日 基氏 岩松治部少輔殿

〔集古文書〕

〈三十四禁制状〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0879 新釋迦堂制札〈所藏不詳〉 制札 新釋迦堂領、武藏國比企郡大塚郷(○○○)事、於彼所濫妨狼藉、若令違犯者、可其咎之状如件、 暦應五年卯月八日

〔長樂寺所藏文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0879進世良田長樂寺、武藏國賀美郡長濱郷(○○○)事、 右爲當寺領寄附也者、守先例沙汰、依仰奉寄如件、 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0880 觀應二年九月廿一日 散位藤原朝臣〈花押〉

〔集古文書〕

〈三十四禁制状〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0880 保寧寺制札〈所藏不詳〉 禁制 保寧寺 右於寺領武藏國都筑郡麻生郷(○○○)内並堀内、軍勢以下甲乙人等不亂入狼藉、若令違犯者、可罪科之状如件、 正平七年正月八日

〔新編武藏風土記稿〕

〈一百四十七足立郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0880 菅谷村 花押 下 春日八郞行元 可早領知武藏國足立郡桶皮郷(○○○)内菅谷村〈丸七郞蹟〉事 右爲勳功之賞當郷之替充行也者、早守先例沙汰之状如件、 觀應三年〈〇文和元年〉九月十八日

〔相承院所藏文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0880 寄進右大將家法華堂、武藏國榛澤郡人見郷内安保余五郞跡、同國秩父郡白鳥郷(○○○)内青木彦四郞入道跡事、 右爲天下安全武運長久、所寄進状如件、 貞治二年五月十六日 左兵衞督源朝臣

〔鎌倉五大堂明王院所藏文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0880 大慈寺新釋迦堂領、武藏國横沼郷(○○○)事、任今月十一日御教書之旨、成田下總守相共莅彼所、退片楊長門入道押領汰付下地寺家畢、仍渡状如件、 貞治三年六月二十五日 沙彌覺道〈花押〉

〔集古文書〕

〈四十三寄附状〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0880 寶篋院義詮公寄附状〈相模國鎌倉鶴岡八幡宮藏〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0881 鶴岡八幡宮雜掌申、武藏國久良郡(○○○)久友郷事、故御所一圓御寄附状分明也、無相違様可申計、御沙汰候、謹言、 貞治四年七月廿二日 義詮〈花押〉 左兵衞督殿

〔高麗郡新堀村民所藏文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0881早高麗四郞左衞門〈季澄〉入道希弘領知武藏國赤塚郷(○○○)内石成村半分事、 右任先例、可頒當之状如件、 應安元年五月廿一日

〔圓覺寺所藏文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0881 武藏國比企郡竹澤郷(○○○)内、竹澤左近將監入道跡事、爲勳功之賞預置也者、守先例沙汰之状、依仰執達如件、 應安二年六月十五日 沙彌在判 藤田越中入道殿

〔正木文書〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0881 足立郡大窪郷(○○○)地頭二分一方田畠注文 一田大 畠二反 すはの大明神〈〇中略〉 已上〈田二町一反畠一町二反〉公田分 米納升十三合とかき定也〈〇中略〉 應安二年七月廿八日

〔北條分限帳郡村略考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0881 太田源五郞 大窪郷 永五拾五貫文 武州入間郡河越の村也、村高五百五拾石餘なり、當主秋元但馬守知行、

〔集古文書〕

〈四十三寄附状〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0881 上杉朝房寄進状〈相模國鎌倉鶴岡八幡宮藏〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0882 奉寄進 鶴岡八幡宮社 武藏國堀戸郷(○○○)内次郞 半分事 右爲所願成就圓満、奉寄附之状如件、 應安四年八月十五日 沙彌道商〈花押〉

〔集古文書〕

〈二十九下知状〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0882 應安七年下知状〈武藏國金澤稱名寺藏〉 金澤稱名寺雜掌頼惠申、武藏國金澤郷(○○○)内當寺敷地等事、帶御寄進状歎申也、先立依申請、被吹擧、村上河内入道正貞所詮任理運其沙汰之状、依仰執達如件、 應安七年九月二日 武藏守判 上杉兵部少輔入道殿

〔集古文書〕

〈四十三寄附状〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0882 永和二年寄進状〈相模國鎌倉鶴岡八幡宮藏〉 奉寄附鶴岡八幡宮社 武藏國世田谷郷(○○○○)内上絃卷半分事 右志者、爲天下安全以殊家門繁昌也、仍寄附如件、 永和貳年正月廿九日 散位治家〈花押〉

〔鶴岡八幡社所藏文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0882 鶴岳八幡宮領、武藏國世田谷郷内、絃卷村府中六所宮役事、連々致催促、〈〇中略〉太不然、所詮任先規、可止催促之由候也、仍執達如件、 正長二年三月十一日 前筑前守花押 前遠江守花押 大石石見守殿

〔北條分限帳郡村略考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0882 桑原右京進 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0883 世田谷弦卷郷(○○○○○○) 永八貫六百五拾文 武州荏原郡世田谷領 今は村高百四拾三石餘 當主井伊掃部頭知行 考るに、帳面に世田谷村の事、不相見、是は永祿の比は、世田谷邊村々吉良御料所なる故歟、

〔世田谷私記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0883 武藏國荏原郡菅刈莊世田谷郷は、〈〇註略〉往古吉良家の領地なり、抑吉良と稱するは、足利家の嫡流、〈以下世代ヲ記ス中略ス〉正三位左兵衞佐頼康卿〈亦左兵衞督也と〉號勝光院、〈傍書ニ永祿四酉年トアリ〉其子從四位下左兵衞佐氏朝朝臣、號實相院、〈〇註略〉世田谷を領し給ふ、其比何ほどの貫高にや、今に至てわかり難し、土俗の言傳へたるは、拾八萬といへど非なり、〈〇中略〉世田谷頼康卿をも聟とし、彌關東に猛威を振ひけるが、天正十八年七月十八日、遂に豐臣秀吉公の爲に被亡、〈〇中略〉東照宮駿遠參甲信の國々を上知し給ひて、北條の領國其儘秀吉公より賜り給ふ、同年八月朔日、江戸の城へ入御、〈是を關東御入國と云〉此時氏朝朝臣初て東照宮に謁す、同月九日、右御領國御配分之節、世田谷左兵衞佐氏朝朝臣、本州荏原郡世田谷を賜ふと、河肥の記と云ものに見へたり、〈〇中略〉同二十年二月朔日、吉良家上總國長柄郡寺崎村に於て、千百貳拾五石を給ふ、此時世田谷郷は上知し給ふと見へたり、〈〇中略〉 世田谷は、前にしるすごとく、何ほどの貫高なる所か不知、古城跡あり、今野山なり、村高四百拾六石餘也、絃卷村高百三十三石餘なり、亦世田谷領と唱へたる所、今郷數五拾七ケ村あり、〈村名中略〉今高合壹萬三千六百三十四石餘あり、是は古の城附、村々のみか分りがたし、外に蒔田郷も領し給ふ、しかれば何程の領地成や、

〔圓覺寺所藏文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0883 武藏國都筑郡石河郷(○○○)内、大井三郞跡、足立郡畔牛郷(○○○)内、鹽田帶刀左衞門尉跡等事、任今月六日寄進状之旨、宗兵庫允相共莅彼所、所沙汰下地、於金陸寺雜掌執達請取状、使節更不緩怠之状如件、 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0884 康暦二年八月廿五日 氏満〈花押〉 山下四郞左衞門尉殿

〔鎌倉八幡供僧我覺院所藏文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0884 遍照院僧正坊申、慈恩寺領、武藏國太田庄花積郷(○○○)内、御廐瀬渡、并船事、澀江加賀入道、背上裁押領、太難其所詮、布施主計允相共莅彼所、假難申懸候、許容可汰渡船渡等彼代之状如件、 永徳三年四月十一日 氏満〈花押〉 壹岐彈正大夫入道殿

〔集古文書〕

〈四十三寄附状〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0884 足利氏満寄進状〈相模國鎌倉鶴岡八幡宮藏〉 寄進 鶴岡八幡宮寺 武藏國多西郡吉富郷(○○○)事 右爲當社上下寺地供護摩扔所、爲天下安全武運長久、所寄附之状、如件、 永徳三年九月十四日 左兵衞督源朝臣〈花押〉

〔永徳四年澀江郷目録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0884 一町 大戸宮神田 二段 立花宮神田〈〇中略〉 岩松永郡代國經申、武藏國稻毛新庄内澀江郷(○○○)事、任仰下之旨、差使者、欲汰付下地於國經候之處、江戸藏人入道希全、同信濃入道道貞、同四郞入道之儀等、卒多勢城㨯、無是非擬合戰候之間、不打渡候、若此條僞申候者、八幡大菩薩、六所大明神御罰於可罷蒙候、以此旨御披露候、恐惶謹言、 至徳元年七月廿三日 沙彌聖顯〈花押〉 進上 御奉行所

〔新編武藏風土記稿〕

〈一百十多磨郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0885 大久野村 山祇社〈今社ニ掛ル鰐口ノ銘ニモ、日奉守吉ガ納メタルヨシヲ刻セリ、左ノ如シ、〇中略〉 奉掛武藏大久野郷(○○○○)山神鰐口 至徳三年〈丙刁〉三月十日日奉守吉

〔集古文書〕

〈四十三寄附状〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0885 足利氏満寄進状〈下野國足利鑁阿寺藏〉 寄進 足利鑁阿寺 武藏國比企郡戸守郷(○○○)〈高坂左京亮跡〉事 右任上杉民部大輔入道道昌、去應安元年七月十二日寄附状、如元可沙汰之状如件、 至徳三年十月七日 左兵衞督源朝臣

〔淨光明寺所藏文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0885 左辨官下武藏國、應准傍例、停止造伊勢大神宮役夫工米、造内裏御禊、大嘗會以下勅役、院役并都鄙寺社所、及國司守護使、入勘官使、段米棟別關津賃、斷官家俗家臨時公役、甲乙人等妨、一圓不輸、永爲淨光明寺領、當國男衾郡内和田郷(○○○)事、 右得寺住持比丘慧休、去月日奏状偁、謹考案内、當寺者武藏守平長時之本願、建長重光淵獻之經始、眞阿和尚權輿于當初、智庵宗師規矩之于後、顯密乘之薫修年積、龍象衆之輻輳日競、以爲海東淨場、營中法窟、故元弘三年、忝鳳綸、匪啻全奉寄之庄園、剩建四个勸學院、鳩四宗博達者、設華嚴八坐之講問、祈葦原十等之泰平、恒規不怠、累歳維新者矣、望請、仁因准傍例、永被除件諸役等之由、下賜明詔、欲緇徒、願陛下治國陶虞之風、四門穆々將榮茂桓文之業、九土安々不懇款之至、表奏以聞、伏乞洪慈曲垂昭覽者、權中納言藤原朝臣公仲宣、奉勅依請者、國宜之、 嘉慶三年二月三日 大史小槻宿禰〈花押〉 右少辨藤原朝臣〈花押〉

〔新編武藏風土記稿〕

〈二百二十二男衾郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0886 和田 嘉慶三年二月、左辨官ノ下文ニ、男衾郡内和田郷事トノセ、及ビ應永享徳年間ノ文書ニモシカ記セリ、今郡内和田村ナク、大里郡ノ内和田村アリ、郡界ノ地ナレバソノ所ナルベシ、

〔黄梅院文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0886進黄梅院、武藏國埼西郡葛濱郷(○○○)内、久下五郞左衞門尉大河戸女子方、並同國足立郡殖竹郷(○○○)地頭職内、同郡河田郷(○○○)領家職内、同郡淵江石塚村等、同足立大炊助跡事、右爲相模國鎌倉郡小坪殘半分替、所寄附也者、早守先例沙汰之状如件、 應永四年七月廿日 左兵衞督源朝臣〈花押〉

〔集古文書〕

〈四十四寄附状〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0886 足利満兼寄進状〈相模國鎌倉鶴岡八幡宮藏〉 寄進 鶴岡八幡宮寺 武藏國入東郡内難波田小三郞入道跡事 右爲同國六郷保内原郷(○○)替、所寄附之状如件、 應永七年十二月廿日 左馬頭源朝臣〈花押〉

〔新編武藏風土記稿〕

〈一百七十四入間郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0886 今市村 法恩寺〈〇中略〉 寄附 報恩寺 右武藏國入西郡越生郷(○○○)如意村内蓮道之屋敷、并山林等、多年依芳契、所永代寄進、治部律師榮曇、兼又爲老母禪眞菩提所上者、於子子孫孫異儀、若致非禮者、可不孝之仁、雖小所、有志於附第、可以傳之、仍状如件、 應永九年三月五日 左衞門尉光忠 判

〔黄梅院文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0886 黄梅院雜掌申、當院領、武藏國小山田保山崎郷(○○○)同保黒河郷(○○○)半分、六所宮造營及事、御沙汰落居候畢、可催促候由也、仍執達如件、 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0887 應永十一年六月十二日 左衞門尉〈花押〉 加賀守〈花押〉 鹽谷備前入道殿

〔圓覺寺文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0887寄進武藏國入西郡粟生田郷(○○○○)五村之内、窪田二段、并厚河郷末松名之内、田二段畠一所事、 任淺羽淨願寺塔頭曇華庵主寄付之旨、圓覺寺傳宗庵エ同所奉寄進之状如件、 應永十七年庚寅五月三日 前安藝守貞春〈花押〉

〔新編武藏風土記稿〕

〈一百五十二足立郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0887 清河寺(セイガジ)村 清河寺〈〇中略〉 寺寶〈古文書六通〉 寄進 武藏國清河寺 同國足立郡上内野郷(○○○○)内、田壹町貳段、在家壹宇敷地等、〈長井駿三郞實基寄進〉 同郷内、田壹町貳段、佐地川在家壹宇〈駿河三郞實基伯父紹旭藏主寄進之地等〉事、 右爲當寺領寄附也者、早守先例沙汰之状如件、 應永廿九年十一月廿一日 從三位源朝臣〈花押〉

〔集古文書〕

〈四十四寄附状〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0887 應永卅一年寄附状〈武藏國金澤稱名寺藏〉 武藏國六浦庄釜利屋郷(○○○○)白山堂事、任去建武二年六月十一日、并貞和六年二月廿一日寄附之旨、爲稱名寺末寺、如元領掌不相違之状如件、 應永卅一年五月二日 花押〈〇足利持氏〉

〔北條分限帳郡村略考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0887 伊丹右衞門大夫 釜利谷 永貳百五拾五貫四百六拾貳文 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0888 武州久良岐郡、今は金澤の内、釜利谷は小村なり、

〔新編武藏風土記稿〕

〈一百七十四入間郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0888 今市村 法恩寺〈〇中略〉 越生山城三郞入道宏秀之門族忠秀、毛呂郷(○○○)内、附四至寄附曇秀律師文、〈在別〉 應永三十三年七月十六日

〔新編武藏風土記稿〕

〈一百七多磨郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0888 川口村 熊野權現社〈〇中略〉 別當圓福寺〈〇中略〉 寺寶 大般若經殘闕百餘卷〈古寫本ナリ、コレハ應永ノコロ、領主河口兵庫介幸季トイフ人ノ寄附セシモノニテ、ソノ裝訂ハ施風様ノ粘帖トイフモノナリ、卷ノ末ゴトニ奧書アリ、ソノ一二ヲ左ニ記セリ、〉 應永卅二年乙巳閏六月八日、於武州多西郡由井郷(○○○)大幡觀音堂號寶生寺書寫畢、 金剛資明鑁、武州多西郡柚井郷河口村鳥栖寺什物也、 應永卅三年八月十七日 河内兵庫介幸季 正長元年九月日、武州多西郡北河口鳥栖寺常住也、 願主兵庫助入道與阿敬白

〔圓覺寺所藏文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0888 武藏國足立郡中莖郷(○○○)事、一端雖宛行、長井下野守憲申、依其謂返付也、早任去明徳三年五月十六日御寄進状、並應永二年閏七月廿八日、同五年三月十日、棄置状等之旨、領掌不相違候如件、 應永三十四年十二月廿四日 持氏〈花押〉 本願寺長老

〔集古文書〕

〈十五判物〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0888 慈照院義政公御判物〈相模國鎌倉鶴岡八幡宮藏〉 鶴岳 八幡宮領、武州寺尾郷(○○○)内 澀澤村〈社役并反殘除之〉事 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0889 右爲給分、守先例知行之状如件、 文安四年閏二月廿八日 花押 助阿闍梨御房

〔岩松文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0889 岩松左京大夫望申闕所注文、上州忍府下總入道跡之事、同國師岡郷北一揆秋間跡、武州新開郷(○○○)事、新開加賀守跡、 享徳四年閏四月八日

〔圓覺寺所藏文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0889屋形出陣精誠祈禱、仍武州稻毛庄鞠兒郷(○○○)山王參錢事、淺草輪藏堂江我等、致申沙汰永代御寄進候也、然者於以後傍輩中、時之代官以下、狼藉不邪儀、彼輪藏堂停止諸役、年始歳末御出陣之御祈禱簡要候、仍證状如件、 文明九年丁酉五月十四日 如意藏主禪師 式部尉治家 隼人佐常秀

〔廻國雜記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0889 まりこの里にてよめる 東路のまりこの里に行かヽりあしもやすめずいそぐ暮かな

〔武藏志料〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0889 まりこ 丸子 橘樹郡 今思ふに、まりこは、すなはち今の丸子郷(○○○)也、上丸子中丸子村は橘樹郡に有之、下丸子村は荏原郡に有、川崎宿の西北にあたる、

〔新編武藏風土記稿〕

〈一百四十八足立郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0889 南下谷村 中下谷村 北下谷村 大行院所藏ノ文書〈〇中略〉 武州中崎西之内自戸崎郷(○○○)下之事、年行事職可申付之由、儘事候、仍證状如件、 永正十一年甲戌七月一日 尊能〈花押〉 大圓坊

〔續視聽草〕

〈二集十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0890 武藏國略圖附略考 禪興寺領武州平沼之郷(○○○○)事、自何方後兎角申候、固守寺家疎儀之段、上意候、恐々謹言、 十二月三日 政助 金子左京亮殿

〔新編武藏風土記稿〕

〈二十葛飾郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0890 總説 平沼ハ今ノ二郷半領平沼村ナリ、〈〇中略〉政助ハ永正大永ノ頃ノ人ニシテ、國界ノ改リシモ、其頃ヨリ以前ナルコト明ケシ、 〇按ズルニ、平沼村ハ今葛飾郡中川ノ東方ニアリ、蓋簗田氏〈開宿主城〉之ヲ攻取テ、舊ニ仍テ武藏ノ國ニ屬セシナルベシ、

〔新編武藏風土記稿〕

〈一百三十六足立郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0890 本木村 木崎領太田窪村農民彌五郞ガ所藏ノ文書ニ、淵江ノ郷トアリ、其文書左ノ如シ、 當郷淵江之郷(○○○○)ヘ、太田美濃守申付陣夫、唯今誰人召仕候、又地頭召仕候歟、其以來之出様有様ニ以書付、可申上候、郷中隨員數、陣夫可御定候、毛頭虚言申上者、可重科候、此御請之書付、七月五日小田原ヘ存知之百姓、一人持來、佐枝恒岡ニ可渡之者也、仍如件、 辛巳六月廿六日 淵江百姓中

〔新編武藏風土記稿〕

〈八十八都筑郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0890 市ケ尾村 舊家者百姓新五兵衞〈(中略)市郷ヲ賜ハリシトキノ文書今モ藏セリ、其文ニ、〇中略〉 武州戸部郷(○○○)陣夫之事、先當年中夫錢ニ被仰付候、如御定八貫文相澄、郷中ヘ罷歸可作毛者也、仍如件、 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0891 癸卯二月三日(北條家虎印アリ、天文十二年ナリ、) 戸部郷百姓中 同代官

〔新編武藏風土記稿〕

〈八十八都筑郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0891 市ケ尾村 舊家者百姓新五兵衞〈(中略)市郷ヲ賜ハリシトキノ文書、今モ藏セリ、其文ニ、〉 太左就申合候、其方別而當方御荷擔候事、誠祝著候、仍御本領之由候間、都筑郡之内市郷(○○)雖小地候進候、猶小菅可申候、恐々謹言、 天文十六丁未八月七日 氏康〈花押〉 上原出羽守殿

〔北條分限帳郡村略考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0891 上原出羽守 小机市郷(○○○○) 永四拾八貫五百文 武州都筑郡小机領の内、市ケ保郷なり、 今は村高四百拾三石餘 當主甲斐庄喜右衞門

〔武州文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0891 國中諸郡就退轉、庚戌四月、諸郷公事赦免之様體之事、 五百貫文 武州久良岐郡本牧郷(○○○) 右爲諸點役之替、百貫文之地より六貫文懸ニ可出趣相定候、然者本牧五百貫文、依此役錢貳拾貫文、六月十月兩度ニ御藏ヘ可納、此以後ハ昔より定候諸公事、一も不殘令赦免候、細事之義も不申付候、郡代觸口不漏候、若背此旨申懸者有之者、百姓御庭ヘ參可直奏、但陣夫廻陣夫、并大普請玉繩城米錢をバ可致之、廻陣夫をバ年中八貫文ニ以夫錢出事、〈〇中略〉 一無御印判郡代夫、自今以後不立者也、仍如件、 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0892 天文十九年〈庚戌〉四月朔日

〔渡邊文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0892 前々仁科郷より召仕候陣夫壹疋候も、當年孫二郞前引ニ被遣候、此替久良岐郡富岡(○○)大岡郷より前々後藤彦三郞召仕候陣夫壹疋、現夫を以爲仁科之夫替下由、被仰出候、仍如件 四月廿六日(癸亥) 南條四郞左衞門〈奉之〉 渡邊孫八郞殿

〔北條分限帳郡村略考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0892 小机片平郷(○○○) 永貳拾五貫九百文 大熊修理亮 武州都筑郡の内 今は村高貳百石 當時御料所 神尾越中守 小机加世郷(○○○○○) 永六拾貫文 武州橘樹郡稻毛領加瀬村 今は村高南北合九百八十九石餘 當主増上寺領倉橋長右衞門〈〇中略〉 萩野 久良岐大賀郷(○○○) 永九拾九貫四百三拾貳文 武州久良岐郡大岡村なり 今は村高七百七拾八石餘 當主倉橋内匠荒川内記佐野宇右衞門〈〇中略〉 中條出羽守 多東府田郷(○○○) 永貳百七拾四貫三拾文 武州多摩郡布田村なり、永祿の比、多摩郡東西三十里餘の大郡故、西の方を多西、東の方を多東と云よし、此所古へ玉川調布の産の是ある所也、 今は小村なり、今石原國領小島金子など云村々、都て古へは符田村といへり、 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0893 今村高千四拾九石餘 當時御料私領〈〇中略〉 大森殿 高萩郷(○○○) 永五拾貫文 武州高麗郡高萩村、入間河筋にて、武さしのヽ中の村也、 今は村高六百五石餘 當時御料〈〇中略〉 曾根外記 小机宮内郷(○○○○○)の内 永貳拾貫文 武州橘樹郡、今は稻毛領宮内村也、 今村高四百石 當時御料所

〔新編武藏風土記稿〕

〈一百四十七足立郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0893 沖之上(ヲキノカミ)村 舊家 權左衞門〈(中略)古文書一通ヲ家ニ藏ス、(中略)其文左ノ如シ、〉 各相拘候給田之事、先評定之砌決定之上、重而柏原雖訴状、不取上、如先證文相拘旨、被仰出者也、仍状如件、 天正三年乙亥二月廿一日 笠原藤左衞門(評定衆) 岡田新五郞殿大谷郷(○○○)給衆 友光新三郞殿 同將監殿

〔新編武藏風土記稿〕

〈九十六多磨郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0893 小野路村 清淨院〈(中略)天正十三年七月、當院ニテ法會執行アリシトキ、小田原北條家ヨリアタヘシ制札ヲ藏セリ、スナハチ左ニノス、〉 制 小野路之郷(○○○○○) 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0894 右當郷於清淨院、曼陀羅供大法會執行候、横合非分申出者有之者、不權門僧俗、可嚴科者也、仍状如件、 天正十三年乙酉七月廿一日 代官糟谷豐後守(奉行當檢斷)

〔新編武藏風土記稿〕

〈八十六都筑郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0894 王禪寺村 王禪寺〈〇中略〉 寺寶 古文書五通〈〇中略〉 爲堪忍分新田領金井郷(○○○)參拾貫文之地出置候、致知行、軍役嚴密ニ可相勤、猶雖走廻重恩賞者也、仍如件、 天正十三年乙酉十一月十日 山上強右衞門〈奉之〉 宮下太郞左衞門殿

〔新編武藏風土記稿〕

〈八十四都筑郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0894 東方村 舊家者百姓平次左衞門〈先祖ヲ鈴木但馬守ト云、(中略)其頃ノ文書十一通ヲ藏ス、〇中略〉 鈴木但馬就捧訴状小机河輪郷(○○○)百姓相目安之儀、被仰付處、令難澀相目安不指上候、無是非曲事候、於借米者、如證文早々郷中ヘ令催促、急度可請取旨、依仰状如件、 天正十四年丙戌十二月廿五日 上野介康定(評定衆)〈花押〉 鈴木但馬守殿

〔新編武藏風土記稿〕

〈一百三十四新座郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0894 橋戸村 舊家忠右衞門〈(中略)古文書四通ヲ藏セリ、其文左ノゴトシ、〉 改被仰出條々〈〇中略〉 一白子郷(○○○)百姓何方に令居住共、任御國法、代官百姓に申理、急度可召返事、〈〇中略〉 右條々違犯之輩有之付而者、注交名、可披露者也、仍如件、 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0895 天正十五年丁亥年四月三日代官 百姓中(白子郷)

〔新編武藏風土記稿〕

〈八十四都筑郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0895 東方村 舊家者百姓平次左衞門〈先祖ヲ鈴木但馬守ト云、(中略)其頃ノ文書十一通ヲ藏ス、〇中略〉 榎下郷(○○○)百姓遠藤借錢不濟儀、無是非候、何分ニも遂催促取候、爲其重而印判遣候、併令用捨、百姓も無異儀之様肝要ニ候、仍如件、 戊子九月廿四日(天正十六年下同) 鈴木但馬守殿

〔新編武藏風土記稿〕

〈一百四十二足立郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0895 浦和宿 當所ノ名主權兵衞、〈〇中略〉同人ノ家ニ傳ヘシ北條家又太閤ヨリ出セシ文書三通アリ、〈〇中略〉 當所ヘ御朱印取次候而遣候條、狼藉之族一切有間敷候、若違犯之輩於之者、此方へ可申來候也、 卯月廿九日 淺野彈正少弼長吉〈花押〉 武州うらはの郷(○○○○○)

〔新編武藏風土記稿〕

〈一百四十八足立郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0895 下宮内村〈附持添新田〉 舊家〈〇中略〉勇藏〈是モ大島氏ニテ舊家ナリ、前ニ載セタル彦兵衞ガ本家ナリト云、系圖等ハツタヘズ、文書五通アリ、左ニノセリ、〇中略〉 當郷打明之事、其方深井致談合開候、郷中百姓等、無兎角入籠也、 永祿二年己未三月廿四日 花押 大島大炊助殿 汝等五人之事、如前々在所ヘ令退住、耕作以下可申付候、若兎角申者於之ハ、此方ヘ可申來候也、 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0896 六月一日 淺野彈正長吉〈花押〉 大島大炊助武州足立郡内鴻巣郷(○○○) 大島大膳助 矢部卯右衞門 矢部兵部 小川圖書 迄五人遣

〔新編武藏風土記稿〕

〈九十三多磨郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0896 上布田宿 布多天神社〈(中略)鳥居ノ西邊ニ制札ヲタテリ、コレハ太閤秀吉ノアタヘシモノニテ、其文左ノゴトシ、〉 禁制 輔陀郷(○○○)武藏國多東郡 一軍勢甲乙人等濫妨狼藉事〈〇中略〉 右條々、堅令停止訖、若於違犯輩者、速可嚴科者也、 天正十八年四月日

〔新編武藏風土記稿〕

〈九十八多磨郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0896 關戸村 近郷乞田村農家清左衞門ガ家ニ藏スル、秀吉ノ當所ヘ出セシ制札アリ、ソノ文左ニノス、 禁制 武藏國せきとの郷(○○○○○) 一軍勢甲乙人等監妨狼藉事〈〇中略〉 右條々堅令停止訖、若於違犯之輩者、忽可嚴科者也、 天正十八年四月日 印

〔新編武藏風土記稿〕

〈九十七多磨郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0896 大塚村 觀音堂〈〇中略〉寺寶 太閤秀吉制札一通〈コレハ小田原陣ノトキ住持宗銀小田原ヘ行キ、カシコニテ賜ハリ來リシ所ナリト云、其文ニ、〉 禁制 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0897 武藏國多西郡之内 油儀之郷(○○○○) 一軍勢甲乙人等濫妨狼藉之事〈〇中略〉 右條々堅令停止訖、若於違犯輩者、忽可嚴科者也、 天正十八年五月日 花押

〔古文帖〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0897 丸山氏 武州多十郡燒郷(○○)三百三十石、右宛行之訖、全可知行者也、如件、 天正十九辛卯 御朱印 丸山市左衞門どのへ 〇按ズルニ、多十ハ多東ナルベシ、燒郷今詳ナラザルモ、姑ラク此ニ收ム、

〔新編武藏風土記稿〕

〈一百四十三足立郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0897 中尾村 玉林院〈(中略)當寺古ヘハ玉林坊トイヒテ、古文書ニモ見エタリ、〇中略〉 寄進 玉林院 武藏國足立郡中尾郷(○○○)之内十五石之事 右令寄進畢、殊寺中可不入者也、仍如件、 福徳ノ御印アリ 天正十九年辛卯十一月日

〔武藏志料〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0897 大門郷 玉露證話〈九〉戸田源八郞は、尾州河和の城主也、父は戸田孫右衞門といふ、今の河和の全忠寺は、孫右衞門全忠の菩提所也、この子水野万千代と號、童形の比、舊地河和を離れて、江戸にて台徳院様〈〇徳川秀忠〉へ仕へ奉る、その比御教書を賜る、その文、 武藏國足立郡大門郷(○○○)高七百石之事 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0898 右所宛行相違者乎、此旨可勤功之状、仍如件、 慶長二丁酉年九月十一日 水野万千代どの 此書大神君御自筆にて、この名をあそばさる、是よりして戸田氏を避て、母方の水野氏を稱すと云々、

村里/名邑

〔郡名一覽〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0898 武藏國(御料私領) 〈武州 四方五日半〉 貳拾貳郡 高百拾六万七千六百六拾貳石九斗八升三合三勺九才 貳千九百五拾壹ケ村 ●江戸御城 ●河越〈十二里〉 ●忍〈十五里〉 ●岩槻〈九里八町〉 ○金澤〈十四里〉 ○岡部〈十九里半〉 ○按ズルニ、本書ノ符號ハ、山城國篇村里條ニ引ク所ノ、本書ノ凡例ヲ參照スベシ、

〔武藏志料〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0898 武藏國郡郷帳 上  拾貳郡 豐島郡 百拾七ケ村 荏原郡 九拾八ケ村 橘樹郡 百貳拾四ケ村 久良岐郡 五拾三ケ村 都筑郡 七拾五ケ村 多摩郡 三百七拾四ケ村 新座郡 三拾壹ケ村 入間郡 貳百四拾三ケ村 高麗郡 百五ケ村 秩父郡 八拾貳ケ村 男衾郡 三拾五ケ村 大里郡 四拾三ケ村

〔郡國提要〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0898 武藏 二十二郡、三千四十二村 高百二十八万千四百三十一石六升八合八勺二才(御料私領) 豐島郡百十四村 荏原郡九十四村 橘樹郡百二十八村 久良岐郡五十四村 都筑郡七十六村 多摩郡四百三村 新座(ニイザ)郡三十七村 入間郡二百六十一村 高麗郡百五村 秩父郡八十三村 男衾郡三十六村 大里郡四十六村 比企郡百五十八村 横見郡四十五村 足

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0899 立郡四百四十五村 葛飾郡二百八十一村 埼玉郡四百二十七村 幡羅(ハタラ)郡五十九村 榛澤(ハンザハ)郡八十一村 那賀郡十三村 兒玉郡六十三村 賀美郡三十三村

〈武藏上野〉

〔國村名帳〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0899 關東村數 武藏國 三千三百三拾四ケ村

〔地勢提要〕

〈坤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0899 郡邑島嶼奇名 武藏、荏原郡、不入斗村、代田(ダイタ)村、橘樹郡、生麥(ナマムギ)村、豐島郡、赤羽(ハ子)村、小豆澤(アヅキザハ)村、根葉(子ワバ)村、足立郡、十二月田(シハスダ)村、宮谷塔(ミヤカトウ)村、鹿濱(シヽハマ)村、神田(シンデン)村、賀美郡、勅使河原(テシガハラ)村、多摩郡、給田(キウデン)村、

〔日本靈異記〕

〈中〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0899 惡逆子愛妻將母謀現報被惡死縁第三 吉志火麻呂者、武藏國多麻郡鴨里(○○)人也、〈〇中略〉聖武天皇御世、火麻呂大伴〈名姓不分明〉筑紫前守所點、應三年、〈〇下略〉

〔西大寺文書〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0899 注進 西大寺所領諸庄薗現存日記事 合〈〇中略〉 一顚倒庄々〈〇中略〉 武藏國 入間郡安堵郷栗生村(○○○)、田四十町、林六十町、已上二十七處、依流記公驗明白注進之、右依宣旨注進如件 建久二年五月十九日〈〇署名略〉

〔武州文書〕

〈十五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0899 武藏國飯塚村(○○○)法華寺住持是徹申寺領事、被綸旨之處、大河原又三郞致濫妨云々、早可汰付于是徹之状如件、 建武元年二月六日 尊氏〈花押〉 伊豆守殿〈〇上杉重能〉

〔新編武藏風土記稿〕

〈一百五十足立郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0900 川面(ツラ)村 此地ハ古ク開ケシニヤ、相模國鶴岡八幡社領寄附状ノ内、上杉民部大輔ガ寄進状ニモ其名見エタリ、其文ニ、 寄進 鶴岡八幡宮 武藏國箕田郷地頭職内河連村(○○○)〈除寺社領并人給地〉事 右爲天下安全武運長久寄進也者、守先例沙汰之状、依仰執達如件、 應安元年八月廿一日 沙彌判(上杉民部大輔法名道昌)

〔廻國雜記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0900 金澤にて時宗の庵の侍りけるに、立よりて、茶を所望しけるに、庭に殘菊の黄なるを見てよめる、 誰夏にほりうつしけん金澤や黄なる花さく菊の一本

〔北國紀行〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0900 同じ比六浦金澤をみるに、亂山重なりて島となり、青嶂そばだちて海をかくす、神靈絶妙の勝地なり、

〔新編武藏風土記稿〕

〈七十七久良岐郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0900 横濱村(○○○) 横濱村ハ郡ノ北ニアリ、江戸ヨリノ行程庄名等ハ前村ニ同ジ、〈〇十里、平子庄、〉以下並ニ同ジ、昔ハ當村及中村、堀之内、三村ヲ合セテ石川村(○○○)ト唱ヘシヲ、後ニ分村セシト云、正保ノ國圖等ニ、既ニ三村ヲ記セバ、正保前ニ分村セシコト知ベシ、石川ノ村名ハ、堀之内村寶生寺ニ藏スル康應元年ノ文書ニ見エタレバ、古キ村名ナリ、此村郷名ヲ傳ヘザレド、同寺應永二十一年、及ビ文明十年ノ文書ニ、平子郷石川村ト載、天文十四年ノ文書ニハ、本牧郷ニ繫タリ、但平子ハ今此邊ノ庄名、本牧ハ領名ニ唱フレド、當時ハ郷名ナリシニヤ、民戸八十七、東北ハ海岸ニ傍ヒ、西ハ洲乾ノ湊ニテ、南ハ中村北

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0901 方ノ二村ニ隣レリ、東西十丁又ハ十七八丁ノ處モアリ、南北モ大低十八丁程ナリ、水田少ク陸田多シ、爰モ天水ニテ耕植ス、正保中ノ改ニ御料所ニテ、外ニ六石一斗五升五合、秀閑寺領ト見ユ、元祿十一年、荒川丹後守ニ賜ハリ、今子孫荒川三郞兵衞ガ知行所ナリ、撿地ハ延寶二年、八木仁兵衞糺セリ、其餘海面ニ傍ヒタル十六丁餘ノ地新墾セシヲ、文化九年、大貫次右衞門撿地シテ高入トス、〈〇中略〉 藥師堂〈(中略)嘉吉年中ノ寄進状アリシ由、本書ハ失テ寫ヲ藏セリ、文ハ後ニ載ス、〉 寄進 藥師堂 武州久良岐郡横濱村藥師堂免田畠等事、田大貳百文、畠二百文、任由緒依正儀、限永代寄進所也、然者任由緒上者、後世之代官不是非候、爲後日仍執達如件、 嘉吉二年〈〇二年元年誤〉辛酉卯月廿六日 比留間範政〈花押〉 市川季氏〈花押〉 石川寶金剛院

〔集古文書〕

〈四十四寄附状〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0901 足利持氏寄進状〈相模國鎌倉名越別願寺〉 寄進 龍江寺 武藏國兒玉郡梅原村(○○○)〈埇谷彌太郞入道跡〉事 右爲當寺領、所寄附之状如件、 應永廿七年三月廿五日 左兵衞督源朝臣〈花押〉

〔集古文書〕

〈二十九下知状〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0901 正長二年下知状〈相模國鎌倉鶴岡八幡宮藏〉 鶴岡八幡宮領武藏國世田谷郷内絃卷村(○○○)府中六所宮役事、連々致催促、催促太不然、所詮任先規、可止催促之由也、仍執達如件、 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0902 正長二年三月十一日 前筑前守〈花押〉 前遠江守〈花押〉

〔大庭文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0902 鶴岡 八幡宮御供料所、武藏國青木村(○○○)内、〈宗興寺林慶昌菴買得之〉并船役、同地下人等、〈買得所々〉相模國早河庄久富名内、〈中村掃部助落合式部入道得買之〉同國阿久和郷内水田、同國桑原郷内田畠、同國筥根山關所〈落合式部入道同前地〉等事、雖沽脚、爲徳政返附也、早止買得人http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/00000001ad4e.gif 、如元可全知行之状如件、 寶徳二年九月廿一日 花押〈〇足利成氏〉 當社少別當御房

〔北條分限帳郡村略考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0902 多米新左衞門 久良岐郡青木 永八拾八貫四拾四文 武州橘樹郡青木町(○○○)、今は東海道神奈川宿の内也、今は村高九百四石、當時御料、

〔新編武藏風土記稿〕

〈一百三十三新座郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0902 下新倉村 吹上觀音堂〈〇中略〉 寶物 鰐口〈元龜二年河村彌二郞某ガ寄進セシモノナリ、イツノ頃ニヤ紛失シテ知ル人ナカリシニ、元祿中當寺再興ノ時、赤池ノ中ヨリ出シト云、〉 武州新座郡下村(○○)福田山東明禪寺存貞代置之、 于時元龜二年辛未六月朔日、河村彌二郞殿寄進〈〇武州以下三十九字、原在鰐口圖中、〉

〔新編武藏風土記稿〕

〈一百十多磨郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0902 大久野村 佐久間宗兵衞〈(中略)古文書ヲ藏ス、其文左ニノスル、〇中略〉 覺 野邊(○○) 雨間(○○) 牛沼(○○) 代繼(○○) 淵上(○○) 引田(○○) 山田(○○) 網代(○○) 伊奈(○○) 横澤(○○) 立谷(○○) 高尾(○○) 留原(○○) 小和田(○○○) 五日市(○○○) 中野(○○) 戸倉(○○) 乙津(○○) 養澤(○○) 入野(○○) 三内(○○) 大久野(○○○)〈留〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0903 右之村々、當番之面々、來ル二十六日朝七ツ半時、御詰メ可成候、以上、 天正二年戌八月十一日 讃岐用人 追而申候 横澤大幡中務殿 網代貴志兵八殿 立谷貴志十郞左衞門殿 戸倉篠原與揔次殿 加判之義ニ付、申渡候儀御座候間、此書付廻付次第、讃岐役所江御越可成候、油斷被成間敷候、

〔武州文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0903熊谷之町(○○○○)ニ、小間物みせ等上下通可所持者也、 天正八〈辰〉 十二月十五日 長野喜三どの

〔新編武藏風土記稿〕

〈一百多磨郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0903 三澤村 百姓八右衞門〈土方氏ナリ、名主ヲツトム家ニ古文書ヲ藏ス、〇中略〉 禁制 武藏國多西郡三澤村(○○○) 一軍勢甲乙人等濫妨狼藉事〈〇中略〉 右條々堅令停止訖、若於違犯之輩者、速可嚴科者也、 天正十八年四月日 印

〔古文帖〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0903 久保新三郞 武州吉田村(○○○)貳百石、右出置畢、全可知行者也、仍如件、 天正十九辛卯五月 御朱印 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0904 久保新三郞どのへ

〔古文帖〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0904 小笠原氏所持 武州入間郡田中村(○○○)三百五十石、入間川村(○○○○)百石、都合四百五十石、右出置畢、全可知行者也仍如件、 天正十九辛卯 御朱印 小笠原喜三郞どのへ

〔古文帖〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0904 高室氏 武州高倉村(○○○)五百石、并山林等之事、右出置畢、全可知行者也、仍如件、 天正廿壬辰二月 御朱印 高室豐前守どのへ

〔新編武藏風土記稿〕

〈九十七多磨郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0904 下柚木村 永林寺〈〇中略〉 古文書三通〈大石氏ヨリノ状ナリ、ソノ文左ニノス、〉 入東之郡之内久米村(○○○)之永源寺遣置候、惠鑑長老御申可之候者也、仍如件、 午六月廿八日 大石心月齋〈花押〉 永麟寺〈參〉

〔武州文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0904 二郷半(○○○)之内もたい新田 一當新田へ罷移候もの、諸役不入たるべく候、但其所之堤井堀御普請之時は、罷出普請可仕候事、〈〇中略〉 右之旨、少も相違有まじく候間、のぞみかたハ相移、田地可開發候者也、 慶長拾七年子三月五日 伊栗半十〈花押〉 藤へもん(もたい新田の)

莊保

〔吾妻鏡〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0905 治承四年十一月十日、以武藏國丸子庄(○○○)、賜葛西三郞清重

〔吾妻鏡〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0905 文治二年七月二十八日癸卯、帥中納言奉書到來、新日吉領武藏國河肥庄(○○○)地頭、對捍去々年乃貢事、并同領長門國向津奧庄武士狼藉事、取庄家解状之、早可尋成敗之由被之、去六月一日御教書也、〈〇中略〉河肥事者、請所也、但領主幼少之間如請料事、殊有不法事歟差別奉行人、可嚴密辨之旨、被御書於武藏守之許云云、俊兼爲奉行云云、 八月五日己卯、就帥中納言奉書御請文、是新日吉領武藏國河越庄(○○○)年貢事、并長門國向津庄狼藉事等也、平五盛時染筆云云、六月一日御教書七月二十八日到來、謹以令拜見候訖、新日吉社御領武藏國河肥庄事、本自爲請所、令御年貢候之所也、而去年領家令逝去之由依承候、不年貢之所候、

〔新編武藏風土記稿〕

〈一百七十六高麗郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0905 總説 小田原北條家人所領役帳ニ、新田又七郞ガ領セシ頃、河越三十郷ノ内上ハ戸村トノス、〈〇中略〉上ハ戸村ヲ謂テ、川越ト書スルヲモテ考レバ、往古川越ノ地ハ、川ヲ挾テ稱スルコト明ラケシ、日吉山王鐘ノ銘ニ、文應元年ニ、河肥庄ト書スルモノアリ、左スレバ川越ノ唱、モトヨリアリシコトイヨ〳〵明ラケシ、河ヲ川トシ、肥ヲ越ト書スルモノハ、後世改ムルモノナルベシ、

〔吾妻鏡〕

〈十四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0905 建久五年二月十六日戊申、武藏國河越庄本所乃貢、有未濟之由、依仰下、殊爲其沙汰、今日被雜色等云云、

〔吾妻鏡〕

〈八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0905 文治四年六月四日、武藏國太田庄(○○○)、以上件庄領年貢、或先々注進、或本文書紛失、平家時分、令自由沙汰事、

〔吾妻鏡〕

〈十四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0905 建久五年十一月二日己丑、武藏國大田庄堤修固事、明年三月以前可功之旨、被仰下云云、

〔吾妻鏡〕

〈二十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0905 寛喜二年正月二十六日、於武州公文書、武藏國太田庄内荒野可新開事、其沙汰在之、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0906 尾藤左近入道道然奉行之云云、

〔梅松論〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0906 敵數百人討取間、御かむにたへずして、武藏の太田の庄を小山の常犬丸に充行はる、是は由緒の地なり、

〔吾妻鏡〕

〈二十一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0906 建暦三年〈〇建保元年〉五月七日丁未、勳功事、今日先被之、波多野中務丞忠綱事、於無雙軍忠者、雖御疑、於御前對決之時、以義村盲目、爲惡口之上、以賞、可罪科之由有沙汰、所閣也、子息次郞經朝賞事者被行之、又由利中八郞遂被放所領云云、〈〇中略〉 武藏國長井庄(○○○)〈藤九郞次郞〉横山庄(○○○)〈大膳大夫〉

〔吾妻鏡〕

〈三十四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0906 仁治二年四月二十五日癸未、以田地博奕賭事、於件所者、可召放之由被定、是大宮三郞盛員與豐島又太郞時光、相論武藏國豐島庄(○○○)犬食名、大宮有忠打四一半事起也、各相互雖訴申、遂被公彼所領云云、

〔武藏志料〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0906 鐘 橘樹郡川崎村勝福寺鐘 上總國望陀郡奈良輪(ナラワ)村の東に、坂戸市場といふ處有、そこに坂戸明神の神社有、〈或云逆手〉多力雄神を祭り奉ると云、その宮居しきくいやかにして、めづらしき結構也、その社頭に古鐘一口を懸おく、この鐘の象形甚古への物にして、今の制とは大に異也、銘有て、その後方に、弘長三年癸亥武州河崎庄(○○○)内勝福寺と有、今按に、弘長は八十九代龜山院の紀號にて、鎌倉の平時頼最明寺この年に薨ぜられたり、明和元年に至りて、すでに五百八年におよべり、思ふに古へ戰の亂れに、奪取てかの所へ持行しならん、鎌倉寺々の鐘に、かヽる類ひの事いと多し、

〔勸修寺文書〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0906 門跡領等、御當知行不相違之由、院宣所候也、仍言上如件、 建武三年九月十七日 隆蔭 進上觀修寺僧正御房〈〇中略〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0907 勸修寺領〈〇中略〉 武藏國河崎庄〈〇中略〉 以上十八箇所 建武三年九月十七日

〔東福寺文書〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0907 一武藏國船木田新莊(○○○○○)事 一通正御寄進状、〈一條殿〉建武元年二月十七日、〈〇中略〉 右當寺領文書目録、如件、 貞和三年七月日

〔黄梅院文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0907寄圓覺寺黄梅院、武藏國小山田庄(○○○○)黒河郷半分事、 右任御仁々局申請、寄附之状、依仰執達如件、 應安五年九月十一日 畠山源満家〈花押〉

〔北條分限帳郡村略考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0907 小山田彌三郞 小山田庄 成瀬 小山田莊 小川 小山田莊 高坂 同 森 同 木曾 同 山崎 同 町田 今は原町田と云、原の方に村有、此町田を本町田と云、 同 直ケ谷 今は熊ケ谷と云 同 眞光寺 小山田莊 黒川 同 鶴間 今は向鶴間鶴間前と云、是は武藏鶴間なり、四村武州多摩郡にて、相州高座郡と郡境也、 同 金森 小山田莊 大谷 小山田莊 金井 同 廣袴 同 木倉 今は金井の内なり 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0908 右村々、永合四百拾九貫八百拾貳文、 此村々武州多摩郡の内、今も小山田領と云、總て今村高合四千石餘、 當時都て私領、御料はなし、土地惡敷村々なり、

〔集古文書〕

〈二十九下知状〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0908 應永二十九年下知状〈武藏國金澤稱名寺藏〉 金澤稱名寺造營用脚勸進開事 右於六浦庄(○○○)内當福寺門前人別二文、駄別三文充宛取之、可其功之状、如件、 應永廿九年七月十七日 沙彌〈花押〉

〔吾妻鏡〕

〈十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0908 建久三年二月二十四日丁卯、於武藏國六連海邊、囚人上總五郞兵衞尉忠光梟首、義盛奉之、

〔吾妻鏡〕

〈二十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0908 安貞二年四月二十八日、將軍家爲御遊覽、渡御六浦云云、 五月一日、將軍家自六浦還御、去夜御止宿六浦云云、

〔鎌倉九代記〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0908 至徳三年六月、田村が子息、今年すでに七歳と五歳に成けるを、乳人子これをいだきて落行所を、蘆名兵衞生捕て、鎌倉殿にぐしてまひる、すなはち六面(○○)の沖に、沈めにぞかけられける、

〔鎌倉大草紙〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0908 應永四年正月二十四日、小山若犬丸が子ども二人は若年にてありしを、會津の三浦左京大夫是を召捕、鎌倉へ進上しけるを、實撿の後、六浦(○○)の海に沈めらる、

〔武藏野の記行〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0908 明れば八月〈〇天文十五年〉十三日、朝霧彌々深くして、道もさだかにみえ別ず、馬にまかせて行、長井の庄(○○○)にも著ぬ、誠や若紫の卷に、かヽる朝霧をわけいらんとあるもこれなるべし、大澤の庄(○○○○)などを行に、漸々すみ田川にもつきぬ、

〔源平盛衰記〕

〈三十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0908 眞盛被討附朱買臣錦袴并新豐縣翁事 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0909 平家ノ侍武藏國住人、長井(○○)齋藤別當眞盛ハ、我七十有餘ニ年闌タリ、〈〇下略〉

〔北條分限帳郡村略考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0909 松田左馬助 苅野庄(○○○) 目懸谷 三田谷 武州相州の内、此地未見聞

〔新編武藏風土記稿〕

〈八十五都筑郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0909 池邊村 百姓久米吉〈小泉ヲ氏トス、先祖ヲ帶刀ト云、北條分國ノ頃代官ヲ勤メシト云リ、後太閤秀吉小田原攻ノ時、近郷ヘ與フル所ノ制札一通ヲ藏セリ、其文左ニ載ス、〉 こづくへ之庄(○○○○○○)内 武藏國都筑〈いこのへ ひがしかた をり本 大熊 さいと 本郷 鳥山 山田 大棚ちがさき かち田 以上十一ケ所〉 禁制 一軍勢甲乙人等濫坊狼藉事〈〇中略〉 右條々堅令停止訖、若於違犯之輩者、速可嚴科者也、 天正十八年四月日

〔新編武藏風土記稿〕

〈二百四十六秩父郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0909 中古所唱庄領 上我野郷 往古ハ吾那保(○○○)ニテ有リシコトハ、入間郡法恩寺年譜録ニ、建治二年ノモノニ武藏國吾那保之在家ト云々、又其餘同記ニ、承元、寶治、弘安、康應等ノ文ニ、吾那上下ト記シタルハ、保ノ上下ナラン、又文和五年ノ碑文ニ、武州高麗郡我那ト見ヘタリ、サレバ郷名ニ轉ジタルハ、中古以來ノコトヽ思ハレ、舊クハ吾那ナルモ文和ノ頃ハ吾ヲ我ニ替ヘ、其後又我野ニ改タリ、高麗郡ノ本郡ニ混ゼシコトハ前ニ辨ゼリ、

〔新編武藏風土記稿〕

〈九十六多磨郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0909 眞光寺村 眞光寺跡〈〇中略〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0910 請特蒙諸旦主恩施、修造眞光寺梵席、闢開大慈大悲普門、引入難解難度衆生、仰拔苦與樂誓願、祈朝廷野庶安泰状、 夫以大悲利生之春花、吐句於萬人歸依之意樹、隨縁應化之秋月、耀光於一時禮拜之心地、然則法界普門之妙體、無諸利觀音妙智之方、用誰人不信敬乎、抑武州小田保(○○○)有一宇小堂、號眞光寺、本尊則觀自尊靈像也、草創已數歴、不誰人建立、〈〇中略〉 嘉慶二年戊辰霜月日草案長辨廿七才

〔大慈恩寺文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0910 奉寄 大慈恩寺 武藏國六郷保(○○○)大森郷〈陸奧五郞跡〉事 右六拾六基之内、爲下總國塔婆料所、所寄附也者、早守先例、可沙汰之状如件、 明徳二年十二月廿五日 左兵衞督源朝臣〈花押〉 下總國大慈恩寺雜掌申、六十六基内、當國塔婆料所、武藏國六郷保内大森永富兩所事、御教書如此不日退彼狼藉人等、可寺家知行之状如件、 應永十一年九月十五日 花押〈〇上杉朝宗〉 埴谷備前入道殿

〔集古文書〕

〈四十四寄附状〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0910 慈照院義政公寄進状〈相模國鎌倉鶴岡八幡宮藏〉 鶴岡八幡宮本地護摩公料、武藏國師岡保(○○○)柴關所事、 爲殊御寄進間、難自餘歟、然者如元社家知行不相違由候也、仍執達如件、 嘉吉元年十二月廿六日 前下野守〈花押〉 沙彌〈花押〉 當社雜掌

〔新編武藏風土記稿〕

〈一百十三多磨郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0911 長淵村 永福寺〈(中略)本尊虚空藏、木ノ坐像ニテ長七寸許、蓮座ニ銘アリ、ソノ文ニ、〉 武州杣保(○○)長淵郷大澤村永福庵之事 本尊三田備州太守性幸禪定門之代、爲靈行庵主開基建立奉造立本尊而無相違所、享徳年中之依一亂絶失候間、旦那平憲清、可重而中興由、度々被請候、先本尊虚空薩陲之像奉作、永福庵欲建立、且先師所願爲師、且現當二世志竊者也、 寶徳丁丑十月十六日 永福庵住持梵誓 大檀那平憲清 佛所大工 助法眼


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