p.0921 野ハ、ノト云ヒ、古ハ、ヌトモ云ヘリ、又野原(ノハラ)ト連呼ス、蓋シ我國ニテ野ト云ヒ、原ト云フ、其實兩者ニ確然タル區別アルニハアラズ、廣平ナル荒地ヲ、或ハ野ト云ヒ、或ハ原トモ云フノミ、尚ホ原篇ヲ參看スベシ、
p.0921 野 四聲字苑云、郊牧外地、以者反、又作レ墅〈和名乃〉 曠野(○○) 日本私記云〈安良乃良〉
p.0921 廣韻、野田野、羊者承與二切、墅田廬、承與切、按古無二墅字一、借二野字一爲レ之、後人加レ土音二承與一、以別二田野字一也、然則得二以レ野爲一レ墅、不レ得二以レ墅爲一レ野、得下以二承與一音中野字上、不レ得下以二羊者一音中野字上也、増韻謂、野古墅字、後人借爲二郊野字一、遂加レ土以別レ之、非レ是、新井氏曰、乃平遠曠濶之義、伸訓二乃之、乃須一、延訓二乃比、乃布一、皆同語、〈◯中略〉按爾雅、郊外謂二之牧一、牧外謂二之野一、説文、野郊外也、即此義、〈◯中略〉曠野、見二景行四十年紀一、按曠野、出二毛詩小雅一、山田本、曲直瀬本、無二下良字一、伊呂波字類抄同、按曠野、荒野等、並見二萬葉集一、則有二良字一無二良字一並通、顯宗紀又荒郊訓二安良乃一、然阿良乃良與二景行紀傍訓一合、此有二良字一似レ是、
p.0921 野ノ 義詳ならず、古語にノといひしには、伸るの義なるあり、古語拾遺に、樂の字を釋して、手を伸すの義也と云ひけり、ノシといひ、ノスともいひ、ノブとも、ノビともいふが如き、その
p.0922 シスフヒなどの言葉、皆これ語助なり、古時野の字讀てナといひし如きは、ノといひ、ナといふは轉語なり、また古語にナと云ひしは無(ナ)也、莫(ナ)也、其義あるなり、さらば野をノといひし事は、其平遠曠濶の義なるに似たり、〈凡屈めるものを伸しぬれば長し、また蹙めるものを熨(ノ)して平になすをもノスといふ、其義并に同じ、〉
p.0922 の 野をよむも彼此相通ふ意ありて、之字に通へり、えぞにぬぶといふ、 のはら 野原の義也、野は卑く、原は高くして、曠平なるをいふ也、
p.0922 凡て野をば、古は怒と云り、能と云はやヽ後のことなり、師の云く、野(ノ)、角(ツノ)、篠(シノ)、忍(シノブ)、凌(シノグ)、樂(タノシ)などの能は、古はみな怒と云り、故古書に此等の假字には、能乃などをば用ること無くして、みな奴、怒、農、濃などを用ひたり、農濃などはヌの假字なり、ノに非ず、凡て右の言どもを能と云ことは、奈良の末つかたより、かつ〳〵始れりと云れたるがごとし、
p.0922 の野 萬葉には、大かた野(ヌ)ともよめり、まれにはのともよめり、其例十八〈廿九〉夏能能之(ナツノノノ)、同十七〈十七〉志乃備加禰都毛(シノビカネツモ)、同〈八〉多流比賣野(タルヒメノ)うらをこぎつヽ、同十八〈廿五〉おほなむちすくなひこな野(ノ)神代より、同卷中外に四つあり、
p.0922 のら(○○) 野 野といふにラをそへて、語の助とせしなり、萬葉集に子をら妻をらとも、又家らともいへり、
p.0922 家集戀歌中 俊頼朝臣 君をこそあささはのらにをはぎつむしづのをふさのしみ深く思へ
p.0922 心のまヽにしげれる秋の野らは、おきあまる露にうづもれて、むしのねかごとがましく、やり水の音のどやかなり、
p.0922 野 春野〈万〉 夏 冬 やけ かれ あづまの すそ かげ のぢ のはら〈くだらの冬のヽ也〉 いもきのと云 あさぢ すヽのしのやなどいひつれば、野はある也、ふせやとは、の
p.0923 をいふと云説あり、 夏のをば、しめしといふ、 しめぢがはらも、しめしのはらといふ説あり、あだし野はさしてそのところともなく、たヾあだなる事にもよめり、
p.0923 野 春野 夏野〈已上二は、のヽ事ありてもなくても、〉秋の野〈のヽ字あり〉 冬野 かげ野〈山のかげ野とも、又ときは木のかげ野とも、〉かれ野 すそ野 あづま野 やけ野 野ぢ 野原 くたら野〈冬野也〉あさぢ野 野風 野分 野山〈野か山かとよめり〉野邊 野澤 野田 野木 野火 野萩 野ら〈秋の野らなど云り、只野か、但いさヽかかはるべきが、うつくしき心はなきか、又云、やぶをいふ共いへり、◯中略〉 野かみ 野寺 野立 野の中 山の川のかた岡かけてしむる野 野のひ 野中 野のうき〈のヽつづき也〉野つき〈のヽきはなり〉しめ〈夏野也、八雲御説、〉すヽのしのや〈野となけれ共、のはある也と云々、八雲御説、〉ふせや〈これものの事也〉すゑ野〈春秋〉あたし野〈さしてその所共なく、たヾあたなることにもよめり、あるひは名所ともいへり、〉すがるなる野〈酢輕成野とかけり、草のすのかれてかろく成野か、草のすとはくきなり、万には、こしぼそく、すがるをとめとよめり、かるき事をいふにも、のへかけり、すぐろのすヽきと云も、すヽきのやけてすのくろきを云也、かくのごとく也と云々、但これいかヾ、〉この野〈北野也、神をそへて云り、但このまさるきか、〉をちかたのべ 春の大野〈やくとよめり〉子をおもふすだちの小野〈ひばりによめり、名所か、いなや、〉野をやく〈はらをやくとも云〉秋の野に花乃いろ〳〵とりすべてゆふかりを野、あさぢふのをのヽしの原〈名所にあらず、但しの原は名所にもあり、又名所ならでも、〉おもしろき野をばなやきそ若草にふる草まじりおひ 野すそ
p.0923 太政官符 寺并王臣百姓山野藪澤濱島盡收二入公一事 右被二右大臣宣一偁、奉レ勅、准レ令山川藪澤、公私共レ利、所以至レ有二占點一、先頻禁斷、如レ聞、寺并王臣家及豪民等、不レ憚二憲法一、獨貪二利潤一、廣包二山野一、兼及二藪澤一、禁二制蒭樵一、奪二取鎌斧一、慢レ法蠧レ民、莫レ過二斯甚一、自レ今以後、更立二嚴科一、不レ論下有二官符一賜、及舊來占買上、並皆收還、公私共レ之、墾田地者、未開之間、所レ有草木亦令二共採一、但元來相傳、加レ功成レ林、非二民要地一者、量二主貴賤一、五町以下作レ差許レ之、墓地牧地、不レ在二制限一、但牧无レ馬者、亦從收還、其京
p.0924 城側近高顯山野、常令二衞府守一、及行幸經過顯望山岡、依レ舊不レ改、莫レ令二斫損一、此等山野並具録二四至一、分明牓示、不レ得三因レ此濫及二遠處一、仍國郡官司、專當糺察、如慣レ常不レ悛、違二犯此制一者、亦〈◯亦字恐衍〉六位以下科二違勅罪一、五位已上及僧尼神主等、録レ名申上、仍聽レ投二彼使人一、申二送所司一、登則示レ衆決罰、以懲二將來一、若所司阿縱、即同二違勅坐一、要路牓示、普令二知見一、其入レ公并聽許等地數、具録申レ官、不レ得二疎略一、 延暦十七年十二月八日
p.0924 太政官符 合四箇條事〈◯中略〉 一原野事 右件依二同前符一、公私可レ共、案二和銅四年十二月六日詔旨一偁、親王已下及豪強之家、多占二山野一、妨二百姓業一、自レ今已後、嚴加二禁制一、但有下應二墾開一空閑地上者、宜下經二國司一然後聽中官處分上者、然則除二民要地一之外、不要原野空地者、須レ聽二官處分一、偏不レ可レ拘二无用之土一、〈◯中略〉 以前得二七道觀察使解一偁、〈◯中略〉伏請下二符諸國一、毎レ事存レ限、務加二教喩一、无三數致二憂煩一、謹請二處分一者、右大臣宣、依レ請、 大同元年八月廿五日
p.0924 太政官符 應下禁二制山野一不上レ失二民利一事 右被二右大臣宣一偁、山野之禁、元爲二鶉鴙一、至二於草木一無レ所二禁制一、如レ聞、所由不レ熟二事意一、矯二峻法禁一、奪二人鎌斧一、執二人馬牛一、以絶二往還之蹊一、亦失二樵蘇之業一、爲二人之患一、莫二此之甚一、宜二早下知莫一レ令二更然一、又聞、或公或私、非レ有二官符一、妄占二山野一、多妨二民利一、如レ斯之類、並早禁制、若猶不レ肯者、具レ状言上、隨即科處、其江河池沼之類、同亦准レ此、莫レ致二人愁一者、宜下牓二示路頭一、普令中知見上、
p.0925 嘉祥三年四月廿七日
p.0925 一用水山野草木事 法意ニハ、山林藪澤公私共に利ストテ、自領他領ヲイハズ、先例アリテ、用水ヲモヒク、草木ノ樵蘇ヲモスル也、武家モ此儀ナリ、但地頭ノ立野在林ニハ寄付カズ、
p.0925 一山野河海事 右領家國司之方、地頭分以二折中之法一、各可レ致二半分之知行一、加之先例有レ限年貢物等守二本法一、不レ可二亂違一之、
p.0925 條々〈◯中略〉 止二山野江海煩一、可レ助二浪人身命一事 諸國飢饉之間、遠近侘際之輩、或入二山野一取二薯蕷野老一、或臨二江海一求二魚鱗海藻一、以二如レ此業一支二活計一之處、在所之地頭、堅令二禁遏一云々、早止二地頭制止一、可レ助二浪人身命一也、但寄二事於此制符一、不レ可レ有二過分之儀一、於二此旨一可レ致二沙汰一之状、依レ仰執達如レ件、 正嘉三年二月九日 武藏守 相模守 駿河守殿
p.0925 一山野之地、就二打起一、四至牓示論レ境者、糺二明本跡一可レ定レ之、若又依二舊境一不レ及二分別一者、可レ爲二中分一、此上尚有二諍論一之族者、可レ付二別人一、
p.0925 慶長十四酉年八月 草苅場高札 定
p.0926 一野におゐて草苅事、此以前より入組ニかる所に、屋敷さかへと號、或鍬目を付、或境を立、草苅を留る儀曲事より、所詮自今以後、無二異儀一可レ苅者也、 慶長十四〈酉〉年八月四日
p.0926 野年貢、野役米、野手米永、草役永、 此ハ平原曠野ニ段別ヲ請テ、他村ヲモ入會ナドシテ、秣、柴、萱等ヲ苅採リ、年貢ヲ上納スルヲ云フ、或持主ヲ定メタルモアレドモ、野方ハ多分持主ナク、總村持ナル者也、總テ野原ニテモ野山ニテモ段別ヲ著テ、米永何程取ト定リタルヲ、野年貢ト云フ、草年貢ト唱ルモ即是也、又段別ノナキヲバ野手、米永、或野役米ト云、何レモ皆小物成ナリ、野手、米永ハ野原等總村持ニシテ、野手ヲ上納シテ、馬草、柴、萱等ヲ刈取リ、又廣キハ他村ニモ草札ヲ渡シ置キ、米永ヲ納サセテ入會ニスルモアリ、野役米ハ荒野他村ト境界ノ分明ナラザルヲ以テ、後ニ爭論起ランコトヲ慮リ、證據ノ爲ニ役米ヲ上納スル等ナリ、草役米ハ野役米同事ニテ、名目ノ變リタルノミナリ、又野高ト稱シテ、村方ノ内ニ入レテアル類ハ、田畑同様ニテ、本途ノ物成ヲ納ムル也、若又新規ニ役米永ヲ申付ルコトアラハ審ニ能廣狹ヲ量リ、且又其近隣ヲ見合セ、村方ト對談吟味ノ上ニテ申付ベシ、草代ト唱ルモ即此ト同事ニテ、或ハ他村ニ馬草柴萱ヲ刈セテ、代米永幾程ト極メ、他村ヨリ上納サセル類ヲ草役ト云ナリ、
p.0926 野山開發損益之事 一野錢(○○)山錢等も納候場所、田畑に開發を相願候へ共、見分の上高入に可レ成場所は格別、左も無レ之見取場にて差置體の所は、縱野山錢と見取年貢と指引、見取の方格別御益有レ之とても、開發は不レ可レ然也、其詮は、知行渡の節、野山錢は貳石五斗五升を以高に直し渡す也、當分御益の様にても、見取の分は、高外にて知行渡に成故、御爲に宜しからず、
p.0927 禁野
p.0927 禁野 しめの 又標野 近江〈類字〉 大和 〈又〉山城 今案に、しめ野とは人に狩する事をいましめて、御狩のためにすれば、やがてかくいへり、禁制の意なり、班固が西都賦に、命二荊州一使レ起レ鳥、詔二梁野一驅レ獸、毛群内闐、飛羽上覆、接レ翼側レ足、集二禁林一而屯聚云云といへる、この禁林すなはち禁野の事也、卜地を、ところをしむると訓も、卜はしむるなり、又標野と書も、標はしるしのくひにて、澪標をみをつくしと訓むに同じ、
p.0927 禁野 天子遊獵地、停二尋常殺生一、故名二禁野一也、惟喬皇子狩二于此一、獲二金色三足雉一、以來成二禁野一、〈今乃爲二里之名一〉
p.0927 一禁野と云ハ河内國交野に禁野と云所あり、天子の御狩の地也、よのつねの殺生を禁制せらるヽ故禁野と云也、
p.0927 一所々事 禁野 北野〈有二別當少將一〉交野〈以二百濟王一爲二撿校一〉宇陀野
p.0927 一御膳事〈◯中略〉 供御六府御贄供先例等、置二御膳棚一後付二御厨子所一、近代只直付二御厨子所一、禁野交野等鳥同レ之、〈鷹飼食人進之〉
p.0927 一代々の御鷹場ハ數十ケ所なり、その所おほし、殊に宇多交野ノ御野と申すは、天皇の御鷹場のゆへなり、禁野と申ハ人をかよはせて、鳥をおほくふせをきて、雜人を禁ぜられし程に、禁野と申也、野の行幸あるべき野べハ、三年人を入られずなど傳承侍り、
p.0927 大同四年七月丁未勅、自レ今以後、不レ得レ遊二獵於大原、栗前野水生、日根等野一、
p.0927 太政官符 應レ制レ狩二諸國禁野一事
p.0928 右件野、可二禁制一之状、代々先帝降二綸旨一重疊下知巳訖、右大臣宣、奉レ勅、如聞鷹鷂滿レ野、佃獵無レ度、州吏寛容、禁制遏絶、爲レ吏之道何其如レ此、宜下加二捉搦一、不上レ得二重然一、尚有二乖越一、科二違勅罪一、若有下不レ憚二此制一輙以闌入上者、五位已上取レ名奏聞、六位已下依レ例禁固、但無頼之輩、寄二事守一レ野、奪二取百姓鎌斧一、以妨二樵蘇一之類、國司量レ意任以決罰、宜下路頭條示、明令二曉告一、差二掾已上一人一令上レ撿二勾其事一、 貞觀二年十月廿一日 太政官符 禁レ制下國司并諸人養二鷹鷂一及狩中禁野上事 右被二右大臣宣一偁、奉レ勅、貢二御鷹鷂一從二停止一、及不レ應レ下二飼樔網捕等鷹一之状、元年八月十三日下知旣畢、誠欲二好レ生之徳一、發二惡レ殺之心一、上下慈仁、中外禔福、今聞或國司等、多養二鷹鷂一、尚好二殺生一、放以二獵徒一、縱二横部内一、強二取民馬一、乘騎駈馳、疲極則弃、不レ歸二其主一、黎庶由レ其悲吟、農耕爲レ之闕怠、苟忘二朝寄一、豈當レ如レ斯、自レ今以後、此事有レ聞、則責以二違勅一、解二却見任一、又罷二殺生之遊一、故施二禁野之制一、而今或聞、輕狡無頼之輩、私自入狩以擅レ場、鳥窮民苦、更倍二昔日一、國司聞見、無レ心二糺察一、並非二國家之宿懷一、何其未レ思之甚矣、宜二巖加レ制莫一レ令二重然一、有レ不二聽從一、五位以上録レ名言上、六位以下登時決罰、但百姓樵蘇、任意莫レ禁、若有レ致二乖違一、歸二罪國司一、 貞觀五年三月十五日
p.0928 元慶六年十二月廿一日己未、勅、山城國葛野郡嵯峨野、元旣不レ制、今新加レ禁、樵夫牧竪之外、莫レ聽二放レ鷹追一レ兎、同郡北野、愛宕郡栗栖野、紀伊郡芹川野、木幡野、乙訓郡大原野、長岡村、久世郡栗前野、美豆野、奈良野、宇治郡下田野、綴熹郡田原野、天長年中旣禁レ從レ禽、今重制斷、山川之利、籔澤之生、與レ民共レ之、莫レ妨二農業一、但至二于北野一不レ在二此限一也、大和國山邊郡都介野、天長承和累代立レ制、今宜二加レ禁莫一レ令二縱獵一、制レ拂二禽鳥一、許レ採二草木一、美濃國不破安八兩郡野、本自禁制、永爲二藏人所獵野一、播磨國賀古郡野、印南郡今出原、印南野、神埼郡、北河添野、前河原、賀茂郡宮來河原、爾可支河原、先旣有レ制、今重禁斷、嘉
p.0929 祥三年下レ符、勿レ禁二採樵牧馬一、備前國兒島郡野、永爲二藏人所獵野一、承和之制、今縁レ不レ行、何禁二蒭蕘一、莫レ害二農畝一、總施二法禁一、領一レ下諸國一、
p.0929 太政官符 應レ聽レ樵二蘇禁野内一事 右禁野之興、非レ妨二民業一、至二於草樹一、素不レ拘レ制、去嘉祥三年四月廿三日、今年正月廿一日下知已了、而今預等、假二託威勢一、矯二行非法一、或駈二略牛馬一、忽无二放牧之便一、或掠二忽鎌斧一、遂失二樵蘇之利一、百姓愁苦、莫レ大二於斯一、右大臣宣、奉レ勅宜二重下知勿一レ令二更然一、若不レ改二前轍一、猶致二侵擾一者、必處二違勅一、曾不二寛宥一、國司許容、亦與同罪、 元慶七年十二月廿二日
p.0929 寛平元年十二月二日、甘南扶持還來云、去廿九日申時始到二島下郡一、〈◯攝津〉審問二事由一、郷人語云、太上天皇〈◯陽成〉御二此郷一、備後守藤原氏助之宅御在所也、〈◯中略〉此爲レ狩二取安倍山猪鹿一也、〈◯中略〉今日以二件山一爲二院禁野(○○○)一、宇治繼雄爲二專當一、牓二示路頭一、
p.0929 天皇遊二獵蒲生野一時額田王作歌 茜草指(アカネサス)、武良前野逝(ムラサキノユキ)、標野行(シメノユキ)、野守者不見哉(ノモリハミズヤ)、君之袖布流(キミガソデフル)、
p.0929 文永二年九月十三夜歌合に、野鹿を、 太上天皇 ねられずや妻をこふらんしめのゆきむらさきのゆき鹿ぞ鳴なる
p.0929 野は 嵯峨野さらなり、いなみ野、かた野、こま野、あはづ野、飛火野、しめぢ野、そうけのこそすヾろにおかしけれ、などさつけたるにかあらん、あべの、宮城野、かすが野、むらさき野、
p.0929 出二萬葉集一所名 普通名所不レ注 野
p.0930 かすがのをの しめじの しめのヽ くだらの よこの〈むらさきのねはふ〉 すぎの野 おほの かくれの あたのおほの はな野 とをざとをの〈すみよしの〉 いるの あしきの しきのヽ なみしばのヽ やたのヽ わさみの いなび野 かりはのをの おほあらきの いはせの つくまの たなくらのヽ すゑのはらの〈あづさゆみ〉 やすのヽ あけのさヽの〈いもかりに〉 あくちのヽ 内のおほの ひくまの をほかの いはたの うだのおほの あきづの あはのヽ さがのあらの きヽつかの あさくはをの〈すみよしの〉 あさはの かたちのをの みしまの ひめの まの
p.0930 野〈平野 大原野、北野などもよめり、是は寄二神社一也、〉 さがの〈山 後拾賀茂成助〉 くるす〈同 万 さしすきのくるす、有レ萩、〉ふたい〈同 万 ミかのはら也、宮也、ふたいのヽべ、〉いはくらのをの〈同 万をのゝあきつといへり〉おほあらきの〈同 万ゆき〉いはたのをの〈同 万 はヽそはら〉かぐらのを〈同 万 茅 草かる、うづら、〉よどの〈同 後撰重之〉かすが〈大 万 みかりのへ とぶひのヽもり 松 わかな 霜 おばな をぎ 雪 雲 萩 藂 露 櫻 雨 梅 とぶひのは、かすがのにあり、兼家歌に、とぶひならねどヽいへるは、火のゆへにつきたる名也、〉こせ〈同こせの、はるのとよめり万、 河かみの、つら〳〵つばき、〉 うだのおほ〈同 万 鷹狩によむ、かたののとも、 雪 け衣を 春冬まけて〉たかまつのヽ〈同 万かり草〉たかまどの〈同 万 はぎ、女郞花、鹿、〉みよしの〈同 万たま松〉 うちのおほの、〈同 万 上五字有レ憚、たまきはるうちのおほの、むま、〉かほが〈同 万いほり〉 しめ〈同 万 國栖かわかなつむ也〉 ふるからをの〈同 古 もとかしは〉いはれ〈同 後拾〉あたのおほ〈同 万 萩まくず〉かた〈河内 後拾 たかがりによむ〉あさヾはをの〈攝 万 すみよし也、かきつばた、〉とをざとをの〈同 万住吉〉くだら〈同 万 冬野也、いふとも、〉むらさき〈近 万 あかねさす〉しめ〈同万〉 つくま〈同 万 有紫〉やすのヽ〈万さけ〉 みをかへ〈同ふたかしまみをかへ、おほみふね、〉あはつ〈同 後撰 すくろ薄駒 靜圓僧正〉いなみの〈播 万 あさち はぎしか のなかのし水〉 いはしろ〈紀 万 むすび松〉あきつ〈同 万 雪かきつばた人くに山のあきつのといへり〉かはぐち〈伊 万 のべにいほりて、〉かくれ〈同 万有レ槿〉みしま、〈越中 万 鷹狩 霜 雪 やかたをのたかをてにすへ〉すき〈同 万 すきふともたおとるきヾす、〉めひ〈同 万すヽき、雪、〉ひくま〈參 万はぎ〉いはせ〈越中 万 はぎ、こたかヾり、〉すがのあら〈信 万郭公〉たこのいり〈上野 万 草枕〉さ〈同 万〉よこ〈同 万 紫のねはふ、鶯、〉むさし〈武 万 うけらがはな ほりかねの井〉
p.0931 〈わかむらさきむかひのをか〉たち〈同 後撰 忠房 駒 きり〉あだヽら〈陸 万〉みやぎ〈同古今木下萩〉あしき〈万 女郞花萩〉いはた〈壹岐 万やどりする〉ひき〈古 つヾら〉さぬかた〈万 萩〉あはのヽ〈万 花 橘かみなり〉しき〈万 萩しか〉なみしばの〈万 ふなはりのなみしばの紅葉〉あさは〈万 江のあさは かるかや、すげ、千載、あさまののらといへり、〉あけさヽば〈万 はなれごま〉かりはのをの〈万、名所歟、又只狩する所歟、みかりのするならしは、〉いるの〈万 すヽき、さをしかのいるの、〉すゑのはらの〈万 あづさゆみすゑのはらの、とかりする、〉とや〈万〉まとほ〈万〉みくき〈万〉つむか〈万 かり〉あちま〈万〉たまくらの〈万 狩たつるゆみ、てにとりもちて、〉おほか〈紀万〉あさ〈万 たきの上のあさきヽす〉あきのおほ〈万〉みかさのヽべ〈大 万 春日也春日山といへり〉山のそは〈万〉あきつのを〈大 みよしのなり〉うねのヽ〈近 古今鶴〉かち〈同 万〉とぶひのヽべ〈大 古 春日野也〉ふるかはのべ〈同 二もとのすぎ〉おほかはのべ〈同 新 輔仁ふるやなぎ〉やた〈越前 万 あらちの山のすそあだち、〉ふしみのヽべ、〈山 新古今〉いはたのを〈東國千伊家薄〉ふる〈大 いそのかみ〉なるみの〈尾 詞 橘爲仲、すヾむし、〉井な〈攝 しなが鳥さく、ふくはら、こやの池有、ありま山近、〉そふけ〈清少納言抄〉こま〈同〉いく〈丹波 金 小式部、こえていくのヽ、〉かげろうのを〈大 みよしの也、かるかや、〉むらさき〈山、後、是は賀茂祭還などの所也、又有二如レ本同號一、注レ上、〉みつの〈同 みつのみまき也〉しめじ〈同 是在二清輔初學抄一、有二野名一事否事猶、可レ尋、しめのは大和也、〉かまうの〈近〉やたのひろの みくまの〈紀 うらのはまゆふ〉はなの〈非二名所一歟 可レ尋 秋はぎの はなのヽ 清輔抄名所に入たり〉かたちのをの〈万是見二清輔抄一みよしのかたちのをの〉おほはらのべ〈山 つぼすみれ〉 此間本きへて不レ見由、同三本注之、 たかまのくさの〈万 七 かつらぎのたかまのくさのといへり、草のといへる野宮とも心えつべし、但野とよみたるか可レ尋、〉 春日野のとぶひのは、一説有二由緒一云々、但此條爲レ實者、非二吉事一歟、如何、昔唐、兵起時、山上に立二大松明一、遠所人次第立續、万國一日に見レ之、熢燧と云、昔奈良京時自二東國一兵起時、春日野に立たりけり、それよりとぶひと云々、是先達説なれど、非レ無二不審一、可レ尋也、 抑あだしのは、清輔抄には、名所げにいひたれども、只あだなる事によせていへる也、源氏にも見えたり、只あだし心などいふ體歟、但猶名所之由有二所見一、承暦歌合に、通俊二番霞歌難申ことばに、この霞のたちとこそ遙なれ、女四宮前栽合にも、さが野をすぎて、あだしのまでゆきけん
p.0932 もあぢきなしとこそ定られためれといふ、猶名所歟、其所可レ尋、但又野宮歌合には、あだしのにはあらで、くらぶ山の事也、件歌合守文があだしのヽは、別詞云、あだしのはなたかヽらねばにやあらん、有所しる人すくなしといへり、なを不審なり、
p.0932 野 磐代野〈紀州◯中略〉印南野〈播州◯中略〉岩藏小野〈城州◯中略〉石田小野〈城州◯中略〉入野〈未勘◯中略〉岩田野〈◯註略〉伊波世野〈越中◯中略〉磐余野〈やまと十市郡◯中略〉生野〈丹州◯中略〉いはたの小野〈東國しのヽをすヽき〉生田小野〈攝州◯中略〉石見野〈いはみ◯中略〉石瀬野〈越中◯中略〉伊香保野〈上野◯中略〉いか野〈◯中略〉ほや野〈しなの◯中略〉穗坂小野〈かひ◯中略〉はな野〈名所にあらず、秋はぎのはなのヽすヽき、清すけ抄名所に入たり、八雲御説、〉はつせ野〈やまと◯中略〉遠里小野〈攝州住吉郡◯中略〉鳥屋野〈未勘◯中略〉熢火野〈大和添上郡◯中略〉鳥部野〈城州◯中略〉旗野〈万、未勘、◯中略〉千葉野〈下總◯中略〉大我野〈紀州◯中略〉押垂小野〈◯中略〉大荒木野〈山城、三雪、篠〉大香野〈大和◯中略〉大原野〈城州◯中略〉大河野べ〈やまと吉野郡◯中略〉を野〈◯中略〉小しほ野〈山城、わかな、松、さか木、〉小くら山ふもとの野べ〈山しろ◯中略〉わさみ野〈◯中略〉太奈久良野〈やまと◯中略〉鏡野〈◯中略〉萱野〈ちくぜん◯中略〉春日野〈やまと添上郡◯中略〉かた岡野〈大和◯中略〉かりぢのを野〈◯中略〉河口野〈伊勢◯中略〉かち野〈あふみ◯中略〉かくれ野〈伊勢◯中略〉かげろふのを野〈大和◯中略〉かぐらのを野〈山城、千草、うづら、〉かつらの小野〈山城◯中略〉かた野〈河内◯中略〉蒲生野〈近江◯中略〉のだちの小野〈大和◯中略〉横野〈上野◯中略〉芳野〈やまと◯中略〉よど野〈山城◯中略〉たまぐしの野〈◯中略〉玉野〈あふみ◯中略〉瀧上あさ野〈◯註略〉たかまど野〈やまと◯中略〉たき野〈みの◯中略〉たかきつ野〈大和◯中略〉たこの入野〈かうつけ◯中略〉たまくら野〈やまと◯中略〉たち野〈むさし◯中略〉たか野〈やまと◯中略〉玉田よこ野〈かはち◯中略〉玉よこ野〈いづみ◯中略〉たつた裙野〈やまと◯中略〉つくま野〈あふみ坂田郡◯中略〉つげ野〈つの國◯中略〉都留坂野〈かひ◯中略〉その原〈しなの◯中略〉なみしは野〈◯中略〉なるみ野〈おはり◯中略〉なす野〈下つけ◯中略〉むさし野〈◯中略〉むらさき野〈山城◯中略〉内野〈山城◯中略〉うちの打ほ野〈大和◯中略〉うだ野〈(中略)山しろ、又やまとに同名あり、◯中略〉うね野〈あふみ◯中略〉上野〈山城◯中略〉瓜生野〈山しろ◯中略〉ゐな野〈つの國◯中略〉野かみ〈みの◯中略〉栗栖小野〈山しろ◯中略〉百濟野〈つの國◯中略〉くせ野〈山しろ◯中略〉八田野〈ゑちぜん◯中略〉やす野〈近江◯中略〉山のそき野〈◯中略〉やたのひろ野〈かうしう◯中略〉八はし野〈三河◯中略〉
p.0933 まとを野〈未勘◯中略〉眞野〈やまと添上郡、同名わうしうにあり、◯中略〉眞熊野〈眞野◯中略〉不替野〈山しろ相樂◯中略〉古栖小野〈やまと山邊郡◯中略〉ふなはり野〈◯中略〉ふる野〈大和◯中略〉ふる河野べ〈大和◯中略〉ふちふ野〈山しろ◯中略〉伏屋野〈しなの◯中略〉富士裙野〈するが◯中略〉ふしみ野〈山しろの宇治のこほり◯中略〉ふか草野〈山しろ◯中略〉吹あげの小野〈◯中略〉古魚張野〈やまと◯中略〉船をか野〈山城◯中略〉巨勢野〈やまと葛上郡◯中略〉こすの大野〈同◯中略〉昆陽野〈つの國河邊武庫兩郡可レ決◯中略〉こま野〈◯中略〉秋津野〈紀州〉秋津小野〈やまと、同名きしう日高郡にあり、◯中略〉あさ野〈◯中略〉あさ澤小野〈つのくにすみよしの郡◯中略〉あは野〈◯中略〉蘆城野〈ちくぜん◯中略〉朝野〈大和◯中略〉あたの大野〈大和◯中略〉淺羽野〈しなの◯中略〉上竹葉野〈つのくに◯中略〉あちま野〈◯中略〉あたヽら野〈わうしう◯中略〉粟津野〈あふみ◯中略〉あたし野〈(中略)、又は山城共〉あさま野〈しなの◯中略〉朝日野〈あふみ、をかや、〉吾妻野〈大和◯中略〉安達野〈◯中略〉安布野〈きしう〉さヽらの小野〈◯中略〉小竹野〈◯中略〉佐野〈上つけ(中略)河内に同名あり◯中略〉左日鹿野〈紀州〉さが野〈山しろ◯中略〉會津裙野〈奥州しのぶの里◯中略〉安綺野〈大和東野同名◯中略〉婦負野〈(中略)ゑつ中〉ゆた野〈伊勢◯中略〉北野〈山しろうこんのばヾ◯中略〉桐はら野〈しなの◯中略〉三芳野〈やまと兩所、むさしに同名あり、◯中略〉三宅野〈やまと◯中略〉みかさ野邊〈大和添上郡◯中略〉三島野〈ゑつちう射水郡◯中略〉宮ぎ野〈わうしう◯中略〉みくさ野〈八雲御説〉御くま野〈紀州むろの郡◯中略〉みつ野〈山城乙訓郡◯中略〉みあれ野〈◯中略〉みくさ野〈八雲御説〉司馬野〈やまと◯中略〉御垣野〈大和◯中略〉しき野〈(中略)未勘〉白河野〈山しろ◯中略〉標三野〈山しろ◯中略〉吉魚張野〈やまと◯中略〉標野〈やまと◯中略〉引馬野〈三河◯中略〉引野〈◯中略〉ひぐらし野〈やまと◯中略〉平野〈山しろ◯中略〉ひらのあら野〈◯中略〉火野〈山しろ◯中略〉芹川〈山しろ◯中略〉末の原野〈◯中略〉すかのあら野〈しなの◯中略〉椙野〈◯中略〉住吉岸野〈つの國◯中略〉夢野〈つの國也◯中略〉あきの打ほ野〈八雲御説〉かりはの小野〈◯中略〉たかまのくさ野〈◯中略〉すまのうへ野〈つの國◯中略〉柏野〈伊賀◯中略〉安布野〈紀州◯下略〉
p.0933 野 埜 和名乃 郊外曰レ野、〈◯中略〉内野〈右近馬場南北〉 北野〈天神宮所〉 紫野〈大徳寺傍〉 上野〈今宮之北〉 萩野〈上野之北〉 平野〈北野之西〉 蓮臺野〈舟岡之坤〉 謂二之洛外七野(○○○○)一 又有二阿太志野〈小倉山之乾〉 鳥部野一〈清水之坤〉共是墓所也
p.0933 嵯峨野は、大覺寺清凉寺のほとりを北嵯峨といひ、天龍寺法輪寺の邊を下嵯峨となづく、野々宮の其中途なり、いにしへより閑靜の地にして、故人も多くこヽにかくれ、秀詠の和
p.0934 歌數ふるに遑なし、凉順も此地に遊んで紫藤の賦を作り、樓臺空く僧侶の室となりぬるを歎きしは、文粹にのせけり、こヽは舊野山とも田獵の地にして、嵯峨帝始て御狩ありてより、文徳清和陽成の三帝はおこたらせ給ひしが、光孝帝かさねて興し給ひ、御幸なりぬ、あるひは此野へ官人を遣されて、松虫鈴虫などをとらせ給ふに、其とき野に虫屋を造り、音よき虫を撰て奉りけり、
p.0934 虫 松虫鈴虫類、人々進レ之、或被レ召二賀茂社司一、堀川院御時、頭以下向二嵯峨野一、誠有二逍遙一、是給二虫屋一向選レ虫奉之、
p.0934 小督局事 仲國、明月ニ鞭ヲアゲテ、西ヲ指テ浮岩行(アユマセユク)、〈◯中略〉内裏ヲバ亥刻計ニ出タレ共、通(スガ)レ夜(ラヨモ)嵯峨野(○○○)ノ原ニ迷ツヽ、秋ノ夜長シトイヘ共、内裏ヘ歸リ參リタレバ、夜ハホノ〴〵ト明ニケリ、
p.0934 後宇多院大覺寺におはしましける頃、七夕七百首歌の中に、野女郞花を、 前大納言實教 いくとせかさが野の秋の女郞花つかふる道になれてみつらむ
p.0934 栗栖野
p.0934 栗栖野、山城に二所、人皆しれり、契冲阿闍梨和名抄を引て、愛宕郡栗野、久留須、又宇治郡小栗、〈乎久留須〉所の名凡二字なれば、栗野は栖字を略してくるすと、野の字は加へながらよまざる也、たヾし假付の乃字落たるにや、小栗は小栗栖なるを、これも栖字を略(ハブキ)てよみ付たる也、くる須の小野と歌にみゆるは、皆愛宕郡なるをよむ、唯新撰六帖に、光俊、ふる雨にくるすの小野の小鷹狩ぬれしぞ家の始也ける、とよめるは、宇治郡也、〈蒿蹊云、是は故事によれば也、〉三代實録廿六、又四十二、延喜式第十四、主水司式氷室一所と見えたる、又源氏物語に見えたるも、倶に愛宕郡栗栖野也など勝地一
p.0935 覽に委し、また萬葉第六大納言旅人卿さし杉のくるすの小野の萩が花ちらん時にし行てたむけんの歌は、大和忍海郡栗栖と和名に出たる所成べし、然るを世の名所集山城に入たるは誤也、本集にて辨べし、
p.0935 天長十年九月戊寅、天皇幸二栗栖野一遊獵、右大臣清原眞人夏野在二御輿前一、勅令レ差レ笠、
p.0935 大納言大伴卿在二寧樂家一思二故郷一歌二首〈◯中略〉 指進乃(サシスキノ)、栗栖乃小野之(クルスノヲノヽ)、芽花(ハキノハナ)、將落時爾之(チラムトキニシ)、行而手向六(ユキテタムケム)、
p.0935 題しらず 權中納言長方 みわたせばわかなつむべく成にけりくるすのをのヽ萩の燒原
p.0935 娘子報二佐伯宿禰赤麻呂一贈歌一首 千磐破(チハヤブル)、神之社四(カミノヤシロシ)、無有世伐(ナカリセバ)、春日之野邊(カスガノヌベニ)、粟種益乎(アハマカマシヲ)、 佐伯宿禰赤麻呂更贈歌一首 春日野爾(カスガヌニ)、粟種有世伐(アハマケリセバ)、待鹿爾(マツシカニ)、繼而行益乎(ツギテユカマシヲ)、社師留鳥(ヤシロシトムルヲ)、
p.0935 昔、男うゐかうふりして、ならの京かすがの里にしるよしして、かりにいにけり、〈◯中略〉 其男しのぶずりのかりぎぬをなんきたりける、 かすが野のわかむらさきのすりころもしのぶのみだれかぎり知られず
p.0935 春日野のとぶひのヽもり出て見よ今いくかありてわかなつみてん これは、とぶ火の野守いでヽ見よとよむべし、此野をとぶひ野といふ事は、むかしは國々にはやくきかすべき事あれば、所々に大なる火を立ければ、次第に見つぎて是をたてヽ、とをき國にも一日のうちにしらせける也、その野をまもるものを、とぶ火の野守とはいふ也、
p.0935 蜻蛉野(アキツノ)〈又作二秋津一、和州吉野郡、雄略帝遊獵事實見二日本紀一、〉
p.0936 秋津野 雄略天皇狩時、虻吮レ臂、蜻蛉飛來嚙レ虻去、天皇詠レ歌稱二美蜻蛉一、呼二其地一號二秋津野一、或曰二加計呂布乃小野(カケロフノヲノ)一、蓋蜻蛉一物異名乎
p.0936 秋津野 あきつの 大和國〈類字紀伊〉 蜻蛉野と書るを、後世誤りてかけろふをのと訓しを、また轉てかたちのをのとさへ訓り、みな古へになき所なり、大和國吉野郡にて、秋津川同所なり、
p.0936 かたちの小野 みよし野の蜻の小野にかるかやの思みだれてぬるよしもがな 顯昭云、蜻をばあきつと讀也、然而此歌をば、あきつの小野とよむべし、かたちの小野は、旁そのいはれなし、あきつとは蜻也、ゑむばなり、あきつはの袖なども讀り、
p.0936 四年八月庚戌、幸二于河上小野一、命二虞人一駈レ獸、欲二躬射一而待、虻疾飛來、噆二天皇臂一、於レ是蜻蛉忽然飛來、齧レ蝱將去、天皇嘉二厥有一レ心、詔二群臣一曰、爲レ朕讃二蜻蛉一歌賦之、群臣莫二能敢賦者一、天皇乃口號曰、〈◯中略〉因讃二蜻蛉一、名二此地一爲二蜻蛉野一、
p.0936 安見知之(ヤスミシシ)、和期大王波(ワガオホキミハ)、見吉野乃(ミヨシノヽ)、飽津之小野笶(アキツノヲノノ)、野上者(ノカミニハ)、跡見居置而(アトミスヱオキテ)、御山者(ミヤマニハ)、射固立渡(セコタチワタリ)、朝獵爾(アサカリニ)、十六履起之(シヽフミオコシシ)、夕狩爾(ユフカリニ)、十里蹋立(トリフミタテヽ)、馬並而(ウマナメテ)、御獦曾立爲(ミカリゾタテシ)、春之茂野爾(ハルノシゲノニ)、
p.0936 交野(カタノ) 往古天子遊獵之地、稱二交野御野一、
p.0936 寛龜二年二月庚子、車駕幸二交野一、
p.0936 延暦二年十月戊午、行二幸交野一、放レ鷹遊獵、 壬戌、車駕至レ自二交野一、
p.0936 延暦四年十一月壬寅、祀二天神於交野ノ柏原一賽二宿禱一也、
p.0936 俊基朝臣再關東下向事 落花ノ雪ニ踏迷、片野(○○)ノ春ノ櫻ガリ、紅葉ノ錦ヲ衣テ歸、嵐ノ山ノ秋ノ暮、一夜ヲ明ス程ダニモ、旅宿トナ
p.0937 レバ懶ニ、〈◯下略〉
p.0937 内大臣に侍りける時、家の歌合に、 法性寺入道前關白太政大臣 みかりすと鳥だちの原をあさりつヽかたのヽ野邊にけふも暮しつ
p.0937 鬪鷄野(○○○) 〈名二夢野(○○)一〉 在二湊川之近處一
p.0937 攝津國風土記曰、雄伴郡有二夢野(○○)一、父老相傳云、昔者刀我野有二牡鹿一、其嫡牝鹿居二此野一、其妾牝鹿居二淡路國野島一、彼牝鹿屢往二野島一、與レ妾相愛無レ比、旣而牡鹿來宿二嫡所一、明旦牡鹿語二其嫡一云、今夜夢吾背〈爾〉雪零〈於祁利止〉見〈支〉、又〈日都須々紀〉草生〈多利止〉見〈支〉、此夢何祥、其嫡惡二夫復向レ妾可一レ往、乃詐相レ之曰、背上生レ草者、矢射二背上一之祥也、又雪零者、白鹽塗レ宍之祥、汝渡二淡路野島一者、必遇二船人一、射死二海中一、謹勿二復往一、其牡鹿不レ勝二感戀一、復渡二野島一、海中遇二逢行船一終爲レ射死、故名二此野一曰二夢野一、俗説、云刀我野〈爾〉立留眞牡鹿母、夢相乃麻爾麻爾、
p.0937 遠里小野 在二往吉東一〈淺香山、遠里小野、共今爲二東生郡一、〉
p.0937 遠里小野 とほざとをの をりをの〈俗〉攝津 攝津國の名所なり、住吉の東方に有り、昔此所より燈油を始て出せりとぞ、よりて今も住吉のみあかしの油は此所より奉るとぞ、俗にはをりをのともいへり、住吉郡の内なり、又或記には、遠里小野を、うりふのと訓り、それは瓜生野と思ひたがへしにや、
p.0937 同〈◯享祿〉五年壬辰閏五月十三日に、阿波衆境より出張也、〈◯中略〉三好筑前守元長衆は、住吉の澤の口、遠里小野に陣取給ふ、
p.0937 春歌 覺延法師 住吉の松の嵐もかすむなり遠里小野の春の明ぼの
p.0937 豐國野 在二安濃郡一〈椋本與二窪田一間〉
p.0938 野有二並木松十有餘町一、稱二安濃松原一者是乎、相傳曰、昔參宮人到二于此一、倦二松原長途一、問二向來里程一、土人戯曰、此當二十日行、又長野並木七日行一也、旅人忙然掛二一貫錢於松枝一、伏二拜神宮方一還レ國、而他人見二彼錢一以爲二蟠蛇一而無二敢取レ之者一、旣而又知二其欺一復參宮見レ之、錢所在如レ故、名二其松一曰二錢掛松一、
p.0938 豐久野(とゆけの) 惠日堂記に云、雄略帝の御時、丹波國より豐受大明神を勢州へ遷し奉る時、鈴鹿の神戸よりして、此野に行宮を作り、休らはせ給ふ御跡なれば、等由氣野とはいふ也、〈トヨケ、トユケは通音、即今の街道の二町ばかり右に其古道あり、往古は一里ばかりの松ばやしなりといへり、〉
p.0938 とよく野はる〴〵と、わけ侍るとて、 君が代を先こそあふげ廣きのべ末遙なる道に出ても
p.0938 引馬野 ひくまの 遠江國〈敷智郡引馬野、万葉別記、〉 遠江國敷智郡濱松郷の驛を、昔は引馬の宿といへりし事、阿佛尼の紀行にも見えたり、こヽにある城をも近比まで引馬の城といひ、そのかたはらの坂をも引馬坂といひ傳へたり、その坂をのぼりてしばらく行ば野に出る、この野を昔は引馬野といへり、今は三方が原(○○○○)といふ、東西三里半有り、西北は參河の國に交れり、
p.0938 二年〈◯大寶〉壬寅、太上天皇〈◯持統〉幸二參河國一時歌、 【引馬野】爾(ヒクマヌニ)、仁保布榛原(ニホフハギハラ)、入亂(イリミダリ)、衣爾保波勢(コロモニホハセ)、多鼻能知師爾(タビノシルシニ)、 右一首、長忌寸奧麿、
p.0938 こよひはひくまのしゆく(○○○○○○○)といふところにとヾまる、このところのおほかたの名は、はま松とぞいひし、したしといひしばかりの人々などもすむ所なり、
p.0938 永祿十二年五月七日、神君〈◯徳川家康〉引間ノ城ヘ歸リ玉ヒ、城ノ名ヲ濱松ト稱スベキ由命ゼラレ、近臣ノ外ハ暇賜リ、各食邑ニ歸リ休息ス、
p.0939 富士野 ふじの 駿河國 不二山、富士峯、川、沼、入江等同所なり、野はすなはち山の麓にて、裾野といふ是なり、そこに江も沼も有るなり、
p.0939 建久四年五月八日癸酉、將軍家〈◯源頼朝〉爲レ覽二富士野藍澤夏狩一、人々赴二駿河國一給、 十五日庚辰、藍澤御狩事終、入二御富士野御旅館一、 十六日辛巳、富士野御狩之間、將軍家督若君始令レ射レ鹿給、 廿八日癸巳、故伊東次郞祐親法師孫子、曾我十郞祐成、同五郞時宗致レ推二參于富士野神野御旅館一、殺二戮工藤左衞門尉祐經一、〈◯下略〉
p.0939 ふじのヽかりばへの事 そのほかす千ぎのいで立、花をおり、月をまねくよそいひ、ひろきふじ野も所なくみえし、〈◯下略〉
p.0939 後堀河院御時、うへのをのこども、月前旅といふことをよみ侍けるに、 前大納言資季 都をば山のいくへにへだてきてふじのすそのヽ月をみるらん
p.0939 建長七年顯朝臣家千首〈沼、春駒、ふじのヽ沼、駿河、〉 源仲遠 春草はかりかふばかりなりにけりふじのヽ沼に駒やとめまし
p.0939 武藏野ハ、相模ノ境都築郡ヨリ、上野ノ境賀美郡ヘツヾキ、延袤二三十里、高平曠遠ノ總名ト知ベシ、サレド別テ武藏野ト稱スルハ、多摩入間兩郡ニ跨ギタル府中川越ノ間ヲ限ルニ似タリ、今此左右六七里ヲ巡覽スルニ、開墾ノ地頗多ク、百姓布野ノ勢アルハ、實ニ太平ノ美談也、
p.0939 武藏野 按ずるに、古歌にむさし野のつヾきの郡、むさし野の堀兼の井、むさしのヽをかべの原などよめ
p.0940 る類は、いづれもひろく此國の原野をさしたるにて、其所を定たるには非るなるべし、吾妻鏡、太平記等に、むさし野といへるを、文によりて考ふれば、多摩郡より入間郡に連たる地とおぼしく、一國にかヽりていひたる事とは聞えず、北國紀行に、むさし野の東のさかひ忍岡としるし、回國雜記には、むさし野の下に、野火留塚をしるしたるに據れば、豐島新座まさしくむさし野の内と見ゆれば、丙辰紀行、地名考等の説は、これによりたる事と覺ゆ、また今入間郡のうちに武藏野郷と稱するもの、上下赤坂、上下松原、大井、藤窪、龜窪、竹間澤、鶴ケ岡、大塚、同新田、片柳新田十二村あり、又むさし野十七ケ新田といひて、久米新田、安松新田、所澤新田、岩岡新田、下田新田、堀金新田、中新田、堀の内新田、加佐志新田、三ケ島新田、諸岡新田、猿新田、長窪新田等の村々いできて、〈四村の名いまだ詳ならず〉猶も下留村のほとりに、槲林大野原など、むかしの武藏野の僅に存せるさへ、めぐり三里にあまるといひ、又今も多摩郡に野方領あり、又中野といへる村三所、小野といふ村二所、其餘日野、原野、入野、野津、野鹽、野口、野上、野邊などの村名あるを見れば、むかしは多摩入間の二郡ことに多く原野なりしと見えたり、續古今集下野の歌に、逢ふ人にとへどかはらぬおなじ名のいくかになりぬむさしのヽ原、又新後拾遺集、源頼康の歌にも、草枕あまた旅寐をかぞへてもまだむさしのの末ぞ殘れる、などたとひみづから其地にいたらぬ人の、遠想してよめるにもせよ、そのかみのありさま、おのづからおもひやるべし、今も土人むさし野八百里と、もろこしにいひ傳ふるなどの説を誇り説も、その廣きかたちはおしはかるべし、よてむさしの十郡に跨るともいふべきにや、
p.0940 今は武藏の國になりぬ、ことにをかしき所も見えず、はまもすなごしろくなどもなく、こひぢのやうにて、むらさき生ときく野も、あし、荻のみたかくおひて、馬にのりて、ゆみもたるすゑみえぬまで、高くおひしげり、中をわけゆくに、たけしばといふ寺あり、
p.0941 常盤註進并信西子息各被レ處二遠流一事 中ニモ播磨中將成憲ハ、老タル母ト、少キ子トヲ振捨テ、遼遠ノ境ニ赴ケル、〈◯中略〉富士ノ高峯ヲ打詠、足柄山ヲモ越ヌレバ、イヅク限リトモ知ラヌ武藏野ヤ、ホリカ子ノ井モ尋見テ行バ、〈◯下略〉
p.0941 建永二年〈◯承元元年〉三月二十日壬辰、武藏國荒野等、可レ令二開發一之由、可レ相二觸地頭等一之趣、被レ仰二武州一云云、廣元朝臣奉行之云云、
p.0941 仁治二年十月二十二日丙子、以二武藏野一可レ被レ闢二水田一之由儀定訖、就レ之可レ被レ懸二上多磨河水一之間、可レ爲二犯土之儀一歟、將又將軍家御沙汰歟、可レ爲二私計一歟、賢慮猶難レ被二一決一、仍今日前武州、召二陰陽師泰貞晴賢等朝臣一被二示合一、
p.0941 武藏野合戰事 三浦ガ相圖相違シタルヲバ、新田武藏守夢ニモ不レ知、時刻ヨク成ヌト急ギ、明レバ閏二月二十日ノ辰剋ニ、武藏野ノ小手差原ヘ打臨給フ、〈◯下略〉
p.0941 武藏野の東の界忍岡に優遊し侍、鎭座社五條天神と申侍り、おりふし枯たる茅原を燒侍り、 契り置て誰かは春のはつ草に忍びの岡の露の下もえ 並びに湯島といふ所有、古松遙かにめぐりて、しめの内に武藏のヽ遠望かけたるに、寒村の道すがら野梅盛に薫ず、これは北野御神と聞えしかば、 忘れずば東風吹むすべ都まで遠くしめのヽそでの梅がか
p.0941 ひたちの國へ歸り侍りしに、むさしのヽはてなき道に行くれて、その夜は道づれの僧などあまたありしも、みなかりそめの草の枕をむすびて、とヾまり侍りしほどに、此野はむかしもぬす人ありてこそ、けふはなやきそともよまれけるときヽをきしかど、さまでやはとおもひ
p.0942 しに、苔の衣をさへひきてかへりし、白波のあらかりしなごりに、いとヾ旅の床もものうくこそ侍りしか、 厭はずばかヽらましやは露の身の憂にも消ぬ武藏のヽ原
p.0942 比は八月〈◯天文十五年〉上旬、あさ霧ふかくわけ入て行に山あり、いは山と云ふ、此山のうしろは甲斐の山、北はちヽぶなど申し侍る、それよりむさしのくに勝沼と云所につきぬ、〈◯中略〉それよりむさし野をかりゆくに、まことに行けども果のあらばこそ、はぎ、すヽき、女郞花の露にやどれるむしのこゑ〴〵、あはれを催すばかりなり、 むさし野といづくをさして分いらん行も歸るもはてしなければ、〈◯中略〉あくれば八月十三日あさ霧いよ〳〵ふかくして、道もさだかに見え分ず、馬にまかせて行、長井の庄につきぬ、〈◯中略〉やうやうすみ田川にもつきぬ、河つらをみれば、まことにしろき鳥のはしとあしとあかき鳥のむれゐて、魚をくふありさま、むかしをおもひいでヽ、〈◯下略〉
p.0942 武藏野 名におふむさし野は、月の入べき山もなしといへば、まことにそくばくの蒼莽をすぎて、又蒼莽なり、此國の稻毛、葛西、越谷、岩筑、河越、鴻巣、忍なども、皆むさし野の内にて侍る、いづれも御獵場なれば、毎年爰にならせ給ふ、 國野同レ名稱二武藏一 尋常旅客宿舂レ粮 雨餘草色連二天地一 郊外雲烟沒二邑莊一 富士雪遙花稍小 筑波陰茂薺猶長 殘星點々夜叢火 微月纖々照射光 共往芻蕘多幾許 齊飛鳧雇百千行 豫遊兼習二驅馳範一 養放皆知二鷹鶻方一 雲夢青丘倶芥蔕 子虚烏有本荒唐 斑鳩入レ網風前霰 白鵠罹レ黏泥上霜 暴虎何曾逢二太叔一 非能庶幾載二師望一 蔌蔬任レ見宜應レ採 耕穡於レ時亦不レ妨 仁愛只今覃物處 豈論三五柞與二長楊一
p.0943 幸逢二四海爲レ家日一 處々風烟似二故郷一 春風にまたおひそふる若草の色や霞にまがふむさし野
p.0943 武藏野爾(ムサシノニ)、宇良敝可多也伎(ウラヘカタヤキ)、麻左氐爾毛(マサテニモ)、乃良奴伎美我名(ノラヌキミガナ)、宇良爾低爾家里(ウラニデニケリ)、 武藏野乃(ムサシノヽ)、乎具奇我吉藝志(ヲグキガキケシ)、多知和可禮(タチワカレ)、伊爾之與比欲利(イニシヨヒヨリ)、世呂爾安波奈布與(セロニアハナフヨ)、 古非思家波(コヒシケバ)、素氐毛布良武乎(ソデモフラムヲ)、牟射志野乃(ムサシノヽ)、宇家良我波奈乃(ウケラガハナノ)、伊呂爾豆奈由米(イロニヅナユメ)、 或本歌曰、伊可爾思氐(イカニシテ)、古非波可伊毛爾(コヒバカイモニ)、武藏野乃(ムサシヽノ)、宇家良我波奈乃(ウケラガハナノ)、伊呂爾低受安良牟(イロニデズアラム)、 武藏野乃(ムサシノヽ)、久佐波母呂武吉(クサハモロムキ)、可毛可久母(カモカクモ)、伎美我麻爾末爾(キミガマニマニ)、吾者余利爾思乎(ワレハコリニシヲ)、 伊利麻治能(イリマヂノ)、於保屋我波良能(オホヤガハラノ)、伊波爲都良(イハ井ヅラ)、比可婆奴流奴流(ヒカバヌルヌル)、和爾奈多要曾禰(ワニナタエソ子)、 和我世故乎(ワガセコヲ)、安杼可母伊波武牟射志野乃(アトカモイハムムサシノヽ)、宇家良我波奈乃(ウケラガハナノ)、登吉奈伎母能乎(トキナキモノヲ) 右九首〈◯三首略〉武藏國歌
p.0943 題しらず、 よみ人しらず 秋風の吹とふきぬるむさし野はなへて草葉の色かはりけり
p.0943 建保三年内裏の歌合に 大納言通方 むさし野は月の入べき嶺もなしお花が末にかヽるしら雲
p.0943 氷川社奉納の和歌すヽめられ侍りて、殘雪といふことをよめる、 おいらくの身をつみて社武藏野の草にいつまで殘る白雪
p.0943 蒲生野 是ヲ宇禰野(○○○)共、又布引山共云郡ノ名故ニ蒲生野ト云、又高低ノ谷峯ウ子ノ如キ故、宇禰野トハ云カ、又昔蒲生ノ長者、布ヲ晒シテ干シタル故、布引ト云由也、
p.0943 七年五月五日、天皇縱二獦於蒲生野一、于レ時大皇弟〈◯天武〉諸王、内臣〈◯藤原鎌足〉及群臣皆悉從焉、
p.0944 天皇〈◯天智〉遊二獵蒲生野(○○○)一時額田王作歌 茜草指(アカネサス)、武良前野逝(ムラサキノユキ)、標野行(シメノユキ)、野守者不見哉君之袖布流(ノモリハミズヤキミガソデフル)、 皇太子答御歌 〈明日香宮御宇天皇◯天武〉 紫草能(ムラサキノ)、爾保敝類妹乎(ニホヘルイモヲ)、爾苦久有者(ニクヽアラバ)、人嬬故爾(ヒトツマユヱニ)、吾戀目八方(ワレコヒメヤモ)、
p.0944 あふみぶり あふみよりあさたちくればうねのヽにたづぞ鳴くなる明ぬこのよは
p.0944 信濃奈流(シナノナル)、【須我能安良能】爾(スガノアラノニ)、保登等藝須(ホトヽギス)、奈久許惠伎氣婆(ナクコヱキケバ)、登伎須疑爾家里(トキスギニケリ)、
p.0944 信濃路にかヽり、ちくま川の石ふみわたり、菅のあら野をしのぎて、廿六日といふに草津といふ所につきぬ、
p.0944 那須野〈野州那須郡〉
p.0944 下野國 郡須野が原七里四方ありと云、昔は廻り百二十里有と、村老の語りつたひしと云、古しへの十里は、今の壹里ばかりに當ればかくいふなるべし、
p.0944 那須の黒ばねと云ふ所に知人あれば、是より野越にかヽりて、直道を行かんとす、遙かに一村を見かけて行くに、雨ふり日暮る、農夫の家に一夜をかりて、明くれば又野中をゆく、そこに野飼の馬あり、草刈をのこになげきよれば、野夫といへどもさすがに情しらぬにはあらず、いかヾすべきや、されども此の野は縱横にわかれて、うひ〳〵しき旅人の道ふみたよらん、あやしう侍れば、此馬の止まる所にて、馬を返し給へとかし侍りぬ、
p.0944 那須野の原にて〈圖アレドモ略ス〉殺生石の事は、世に怪説數多あり、〈◯中略〉土人數人を近付、且大田原侯より出し給ふ役人の宅に至り、殺生石の事を委しく尋聞しに、慶長元和の頃迄は、那須
p.0945 野の原と稱せる所、南北凡二十四里、東西は五里七里もありし廣大の野原なりし由、今は田畑となし、南北やう〳〵十一里ばかり、東西のひろき所四里餘、或は二里一里、夫も所々は田畑も有て殺生石のある所へは、大田原の町より曲道七里、黒羽侯の〈大關伊豫守〉知行所にて、那須山と稱せる山の半ふくにあり、
p.0945 宮城野(ミヤギノ)〈奥州宮城郡〉
p.0945 宮城野(ミヤギノ) 在二宮城郡一〈仙臺乃宮城郡也〉其野有二木萩一、如二灌木一、而與二尋常草萩一異、如今處處頒レ種、
p.0945 宮城野 南目村有二廣野一、謂二之宮城野一、而天下古今所レ稱者是也、自二木下鬱林一以北至二原市驛一、自二山榴岡上一以東至二興館村一平原渺渺、草野芊々、原上錦萩古今專二其名一、女郞花、我裳香、萩葉、藤袴、刈萱、桔梗、及無名野草、無數秋花、以レ百數焉、又雲雀叢鶉殊多、或巣或育、太守之於二羽獵一也、欲二獲之多一焉、故平日禁二雉兎蒭蕘者一、而不レ得二妄往一矣、郷人呼曰二活巣原一、東則海水滺々、有二千家鹽釜、松浦島、末松山、浮島、壺碑、興井等之名區一、而襟帶于其中一、南則有二茂山(モカサキ)、千貫松、笠島、武隈等之舊蹤一、而縈二回于其際一、西則寺院森森、其木末則不忘山(ワスレヤマ)、東奧岳(アヅマガタケ)、白石、大岳羅列峭立、北則七疑峯(ナヽツモリ)巒、多賀古城、利符村落、盡入二吟眸一、東史所レ謂國分原是也、此地古稱二國分莊一也、且夫國分寺號、亦皆所三以出二于此莊内一也、
p.0945 みちのくうた みさぶらひみかさと申せ宮ぎのヽ木の下露は雨にまされり
p.0945 ほどへばすこしうちまぎるヽこともやと、まちすぐす月日にそへて、いとしのびがたきはわりなきわざになん、いはけなき人もいかにと思ひやりつヽ、もろともにはぐヽまぬおぼつかなさを、いまはなをむかしのかたみになずらへてものし給へなど、こまやかにかヽせ
p.0946 給へり、 みやぎのヽつゆふきむすぶ風のをとに小萩がもとを思ひこそやれ
p.0946 印南野 いなみの 播磨國〈印南郡賀古郡〉 印南野 いなみの川 いなむ島 印南浦 續日本紀〈第二十六〉には、賀古郡印南野とあり、日本書紀、又萬葉集には稻日とも書り、又美作久米さら山に讀合せし歌有れば、美作にも同名有るか、
p.0946 天平神護元年五月庚戌、播磨守從四位上日下部宿禰子麻呂等言、部下賀古郡人外從七位下馬養造人上款云、人上先祖吉備都彦之苗裔上道臣息長、借鎌、於二難波高津朝庭一、家二居播磨國賀古郡印南野一焉、其六世之孫牟射志以二能養一レ馬、上宮太子被レ任二馬司一、因レ斯庚午年造レ籍之日、誤編二馬養造一、伏願取二居地之名一、賜二印南野臣之姓一、國司覆審所レ申有レ實許之、
p.0946 先帝遷幸事 湊川ヲ過サセ給時、福原ノ京ヲ被二御覽一テ、〈◯中略〉印南野ヲ末ニ御覽ジテ、須磨浦ヲ過サセ給ヘバ、〈◯下略〉
p.0946 【稻日野】毛(イナヒノモ)、去過勝爾思有者(ユキスギガテニオモヘレバ)、心戀敷(コヽロコヒシキ)、可古能島所見(カコノシマミユ)、 一云潮見
p.0946 羈旅作 南南野者(イナミヌハ)、往過奴良之(ユキスギヌラシ)、天傳(アマツタフ)、日笠浦(ヒガサノウラニ)、波立見(ナミタテルミユ)、
p.0946 野 野もり
p.0946 のもり 野を守ル人をいふ
p.0946 天皇遊二獵蒲生野一時額田王作歌 茜草指(アカネサス)、武良前野逝(ムラサキノユキ)、標野行(シメノユキ)、【野守】者不見哉(ノモリハミズヤ)、君之袖布流(キミガソデフル)、
p.0947 題しらず よみ人しらず かすがのヽとぶひののもり出て見よいまいくか有て若なつみてん
p.0947 次生二野神一、名二鹿屋野比賣神一、亦名謂二野椎神一、〈◯註略〉此大山津見神、野椎神二神、因二山野一持別而生神名天之狹土神、〈訓レ土云二豆知一、下效レ此、〉
p.0947 一年始ニハ人ゴト餅ヲ賞翫スルハ何ニノ心カアル、餅ハ福ノモノナレバ、祝ニ用フル歟、昔豐後ノ國球珠郡ニヒロキ野ノアル所ニ、大分郡ニスム人、ソノ野ニキタリテ、家ツクリ田ツクリテスミケリ、アリツキテ家トミ、タノシカリケリ、酒ノミアソビケルニ、トリアヘズ弓ヲイケルニ、マトノナカリケルニヤ、餅ヲクヽリテ的ニシテイケルホドニ、ソノ餅白鳥ニナリテトビサリニケリ、ソレヨリ後次第ニオトロヘテマドヒウセニケリ、アトハムナシキ野ニナリタリケルヲ、天平年中速見郡ニスミケル訓邇ト云ケル人、サシモヨクニギワヒタリシ所アセニケルヲ、アタラシトヤ思ヒケン、又コヽニワタリテ、田ヲツクリタリケルホドニ、ソノ苗ミナカレウセケレバ、オドロキヲソレテ又モツクラズ、ステニケリト云ヘル事アリ、餅ハ福ノ源ナレバ、福神サリニケル故ニオトロヘケルニコソ、
p.0947 勝元朝臣、短慮不成功といふ昌黎の作し詞など、消息のはしに書付て、このこヽろばへを 問ひ給ひしかば、 いそがすばぬれざらましを旅人の跡よりはるヽ野路の村雨