http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0445 氏上ハ、一ニ氏長ト云ヒ、又氏宗ト稱ス、後ニ謂、ユル氏長者ニシテ、之ヲウヂノカミト云ヒ、ウヂノヲサト云ヒ、舊クハ又ウヂノコノカミトモ云ヘリ、卽チ氏中ノ宗長ニシテ、常ニ其同族ヲ率イテ朝家ニ奉仕シ、専ラ祖神ノ祭祀、氏人ノ叙爵等ヲ掌ル、
天智天皇ノ朝、宣シテ氏上等ノ事ヲ定メ、其大氏ノ氏上ニハ大刀ヲ賜ヒ、小氏ノ氏上ニハ、小刀ヲ賜ヒ、伴造等ノ氏上ニハ楯弓矢ヲ賜ハシム、事ハ載セテ日本書紀ニ在リ、是レ氏上ノ國史ニ見エタル始メナリ、然レドモ中臣系圖ニ載スル所ノ延喜本系帳ニハ、欽明天皇ノ時、既ニ常盤大連ヲ以テ氏上ト稱セシコトアレバ、其由テ來ル所モ亦甚ダ遠キヲ知ルベシ、天武天皇ノ朝、勅シテ天下ノ萬姓ヲ改メ、分チテ八等ト爲シ、各ゞ賜フニ大小刀ヲ以テシ、以テ大小氏上ノ別ヲ明ニシ、又百寮ニ詔シテ、正月ノ節、特ニ氏上ヲ拜スルコトヲ得シム、氏上ヲ待遇スルノ法、始メテ是ニ見ユ、
大寶ノ制、凡ソ氏宗ノ繼嗣ハ必ズ勅ヲ待テ後定メシメシガ、特ニ藤原氏、世々政權ヲ握ルニ及ビテハ、攝關タルモノ、常ニ宣旨ヲ待タズシテ氏長者ト稱シ、私ニ氏印ヲ授受セシカバ、遂ニ近衞天皇ノ朝ニ至リ、藤原忠實、其子忠通ノ氏長者ヲ奪ヒテ、之ヲ其次子賴長ニ與ヘ、以テ天下ノ大亂ヲ釀セリ、此時ニ當リテ、古ニ謂ユル諸氏ノ長者ナルモノ漸ク衰替シテ、其存ス ルモノ僅ニ十ノ一二ニ過ギズ、名家右族ノ中ニハ、或ハ其名ヲ有スルモノアクト雖モ、而モ甚ダ顯ハレズ、是ヲ以テ其氏爵ノ如キ、王氏ハ第一親王ニ依リ、橘氏ハ藤原氏ニ賴リ、纔ニ薦擧ニ預ルコトヲ得ルノミ、而シテ之ヲ薦擧スルモノヲ氏ノ是定卜稱ス、是定トハ、氏人ノ叙爵ヲ定ムルモノヽ稱ナルガ如シ、然レドモ二氏ノ外、所見ナキヲ以テ、未ダ其義ヲ詳ニスルヲ得ズ、鎌倉幕府ノ頃、諸氏猶ホ氏長者ト稱スルモノアリシガ、足利氏ノ時ニ及ビテハ、殆ンド其跡ヲ絶チ、只僅ニ藤原氏ノ攝關タルモノト、源氏ノ征夷將軍タルモノトノミ之ヲ稱セシガ、德川氏ヲ經テ、明治ノ維新ニ際シ、二職ノ停廢ト共ニ、永ク其名ヲ絶ツニ至レリ、

名稱

〔日本書紀〕

〈二十七/天智〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0446 三年二月丁亥、天皇命大皇弟、宣換冠位階名、及氏上(コノカミ/○○)民部家部等事

〔日本書紀通證〕

〈三十二/天智〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0446 氏上(コノカミ)〈族長也、天武紀作氏長、至文武天皇助、後世呼藤原長者、源氏長者、卽此、〉

〔姓氏解〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0446 日本姓尸
氏上ハ族長ナリ、宇文周ノ時、ソノ代北ノ九十九姓ニ宗長アリ、氏上ハコレニ似タリ、〈○中略〉後世ノ氏長者ハ、コノ遺制ナルベシ、

〔古今要覽稿〕

〈姓氏六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0446 氏上といふことみゆ、日本紀に氏長と見え、姓氏録に尸主〈○尸主戸主誤〉としるされたるは、氏々の中にて上たる人といふことなるべし、誰々を氏上とす、氏上を定むなどいふにて推はからる、これ後世長者といふに同じ意なるべし、

〔續日本紀〕

〈七/元正〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0446 靈龜二年九月乙未、以從四位下太朝臣安麻呂氏長(○○)、

〔類聚名物考〕

〈姓氏九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0446 氏長 うぢのかみ 氏長者 氏上 尸主 かばねぬし
氏の長は、その一姓にての中に、一の一族をいふなり、左傳に楚の望族などいふの類ひなり、日本紀に氏長と書、續紀に氏上と書るを思へば、その意たがはず、又尸主をかばねぬしと訓り、是もその意にて、姓氏録に見ゆ、後世は氏の長者といへり、

〔倭訓栞〕

〈前編四/宇〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0447 うぢのをさ 天智紀に、氏上をこのかみ(○○○○)とよみ、天武紀に氏長と見ゆ、今の氏長者なり、宇文周の時の宗長に近し、

〔日本後紀〕

〈八/桓武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0447 延暦十八年十二月戊戌、勅天下臣民、氏族已衆、或源同流別、或宗異姓同、〈○中略〉若元出于貴族之別者、宜宗中長者(○○○○)署之、

〔古史徴〕

〈一夏〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0447 宗中長者とは、所謂氏の長者にて、此を古くは氏上といへりき、後世に源氏長者、平氏長者など云は、卽これなり、

〔類聚國史〕

〈四十/後宮〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0447 大同元年十月壬申、勅凡貢氏女、事明令條、皆限卌已下十三已上、今須氏之長者、擇氏中端正女貢之、

〔春日權現驗記〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0447 知足院殿、〈○藤原忠實〉長者にておはしける時、〈○中略〉永久二年十月のころ、常陸國司、鹿島の宮を造營して、〈○中略〉一首をそへて鹿島の宮に奉りけり、
千とせまでかけてぞまもる氏人のかみべ(○○○○○○)といます君のたまづさ

〔標註職原抄別記〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0447 氏長者
加美部(カミベ)は、兄部をふるくコノカクベと訓る、カウベに同じ、さるは兄部は、子の上部の義なるを、子乃(コノ)の二言を略(ハブ)きて、カウベとのみいふは、卽この歌なるカミベにて、ウはミの音便なり、但その兄部は、市里にての長者なれど、賤民ゆゑに氏なければ、氏乃加宇倍(ウヂノカウベ)といはずして、子乃加宇倍(コノカウベ)といへるのみ、すべて人を子といふ例は、萬葉の歌に見えて、いとふるし、これを以て氏のかうべの長者たるを辨ふべし、

〔姓序考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0447 氏上
氏長者は、氏長の者と云義なるを、漢土に長者といふものヽをるなべに、そにまがへて、長者とつヾけいふことになれるは、上古にうときことヽいふべし、今も諸國に、長者屋敷跡とてある は、氏上の人の居處を云しならめ、富者の如く云も、氏上の人なれは也、

〔令義解〕

〈四/繼嗣〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0448 凡三位以上繼嗣者、皆嫡相承、〈○中略〉其氏宗(○○)者聽勅、

〔令義解〕

〈九/喪葬〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0448 凡、〈○中略〉別祖氏宗、〈(中略)氏宗者、氏中之宗長、卽繼嗣令聽勅定是也、〉並得墓、

〔令集解〕

〈四十/喪葬〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0448 釋云、別祖、謂別氏如祖耳、氏宗、依繼嗣令勅定耳、跡云、別祖、謂假土師給秋篠姓之類、古記云、別祖、謂本同族、今別姓也、假令藤原内大臣、橘右大臣之類、始別一身也、子孫不合、一云、雖別姓、更加姓字亦同、假令高岡連、椎野連、葛井連、大縣史、依網朝臣、大養德宿禰等之類是、一云、雜戸、陵戸、官戸、家人、奴婢、訴良得免、亦合後表故也、氏上、謂氏別氏上也、或云、別祖、給別姓也、假改物部、爲石上之類也、〈在釋背

〔姓序考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0448 氏上
氏上は、姓にかヽはれることならねど、是をいはざれば、ことのきこえがたきことヾものあれば、さし置がたくして其由を云り、氏上は、宇遲乃賀美(ウヂノカミ)と訓べし、氏とは源平藤原秦などのたぐひのものを云り、其氏に大氏小氏のけぢめあり、そを云は、阿倍氏〈孝元天皇皇子大彦命之後〉は大氏なり、是より別れたる阿倍志斐、阿倍間人、阿倍長田、阿部陸奥、阿倍安積、阿部信夫、安部柴田、安部會津、安倍猿島、阿倍久努、阿倍小殿、和爾部等はみな小氏なり、〈○中略〉小氏は大氏にしたがへるもの也、されど小氏にも氏上はあなり、大氏衰へぬれば、小氏のさるべき人を以て大氏を繼ことあり、大同元年春正月壬午、左京人正七位上阿部小殿朝臣眞直、從五位下阿倍小殿朝臣眞出等、賜姓阿倍朝臣とみえしは、阿倍小殿氏より大氏の阿倍になれる也、又弘仁三年二月辛亥、左京人阿倍長田朝臣節麻呂、從七位上阿倍長田朝臣高繼等八人、賜姓阿倍朝臣とあるも同例なり、俗言に云は、大氏は本家、小氏は分家なり、阿倍の大氏は、大同のころは衰へたれど、氏人に、家守、東人、小笠、象主、弟當、宅麻呂、犬養、眞勝、益成、鷹野、兄雄等〈是には父子兄弟もあるべけれど〉十餘人あるに、眞直高繼等の十人を加へられしにて、外の の氏人はいと多かりしを思へ、是になずらへて小氏にも十、二十の人はありしなるべし、其下にまた部曲の人あり、是には姓はなく、たヾ阿倍某といへるのみなり、其趣をいはんに、部曲の阿倍長田某と云人々を、みな阿倍長田朝臣某と云人、氏上なれば管領り、大氏の阿倍朝臣某と云人、〈大氏の〉氏上なるには、阿倍某といへる部曲の人々、其外小氏〈阿倍長田のごとき〉氏上よりして、各部までをも統領ることなり、少故の事は、小氏の氏上、大氏の氏上とはかりて、ことをたヾしをさめ、大故のことにあらざれば、朝廷にまをすことなし、さるから上古は朝廷は閑寂なりし、各國も諸氏の人々頒領り、天皇の御料地の御田をも作り、〈今諸國に、御田三田など云號のあるは、みな御料地なり、〉男は弓弭、女は手末の貢を進れり、然るに天武朝廷四年二月己丑、詔曰、甲子年、諸氏被給部曲者、自今以後除之などみえて、つぎつぎに諸氏の部曲を除て公民とせられしから、朝廷はいとこと多くなりゆかせ給へる、さて大氏小氏のことは、天智朝廷三年春二月己卯朔丁亥、天皇命皇大弟、宣換冠位階名、及氏上民部家部等事云々、其大氏之氏上賜大刀、小氏之氏上賜小刀、〈○中略〉こヽに大氏小氏のけぢめ正しくみえたり、又持統朝廷四年四月丁未朔庚申の詔に、以其善最功能、氏姓大小、量授冠位とあるは、氏の大小を云れし也、氏上はことに重きものにせられしことは、天武朝廷八年春正月壬午朔戊子、詔曰、凡當正月之節、諸王諸臣、及百寮者、除兄姉以上親、及己氏長以外莫拜焉、又文武紀第一に、丁酉年閏十二月庚申、禁正月往來、行拜賀之禮、依淨御原朝廷〈○天武〉制罰之、但聽祖兄及氏上者、〈と見えしにて、天武紀に氏長といへるは、氏上とひとつなることを知れ、〉如此重きものにせられたれど、混亂たることもありしにや、天武朝廷十年九月丁酉朔甲辰、詔曰、凡諸氏有氏上、未定者、各定氏上、而申送于理官、十一年十二月庚申朔壬戌、詔曰、諸氏人等、各定氏上而申送、亦其眷族多在者、則分定氏上、並申送於官司、然後斟酌其形而處分之、因承官制、唯因少故、而非己族者、輙莫附とみえたれば、こヽに正しく改糺給へるならん、眷族多在者、則分定氏上とあるは、阿倍氏物部氏の如く、分家の多き氏々にて、これぞ大氏小氏の けぢめならめ、〈○中略〉さてこの氏上といふものぞ、後の氏長者なりける、〈○註略〉如此氏上の定れるから、各氏のすぢみだるヽことなく、氏人のこと〴〵、小氏大氏に附貫せれば、大氏の氏上に詔あれば、氏人どもみなうけ給はり傳へて、其事をなすなべに、ことヽほりやすくみだるヽことなし、故太古はなすこと少くて、よくことのとヽのひし也、さはいへど氏上、又氏人の威稜、つぎ〳〵に http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00015.gif大なりて、大命にたがひぬることヾもの出來しかば、部曲氏人を除れし、部曲氏人を除れても.猶氏上のことは後世までも傳はれり、されど其本源のを〈○のを間恐有誤脱〉うしなひしかば、氏上の人の氏人を統領せることもうせしなるべし、さて氏上は職位あるものヽうけもたるものにもあらず、かならす其系統を尊みぬるにや、文武紀第一に、戊戌年九月戊午朔、以无冠麻績豐足氏上、无冠大贄爲助、進廣肆服部連左射爲氏上、无冠功子爲助とあるにて知るべし、〈○註略〉故氏上は、太古治道の基にて、是にあらざれば、治道の趣知り難し、凡て姓は尊卑の階級を定る者にせられ、氏は其人人の系統を糺し、皇神蕃〈皇別、神別、諸蕃、〉の三種を正しく定められし者は、たヾ其職業をむねとせさすべくて、氏上を置るヽ者也、其由は雄略朝廷元年八月、召集秦人漢人等諸蕃投化者、安置國郡、編貫戸籍、秦人戸數總七千五十三戸、以大藏掾秦伴造とあるは、秦人の戸數をかぞへ云もの也、又十五年、秦氏分散、臣連等、各隨欲驅使、勿秦造、由是秦酒公以爲憂、而仕天皇、天皇愛寵之、詔聚秦氏於酒公、仍領率百八十種勝部、奉庸調絹縑、充積朝廷、因賜姓曰禹豆麻佐、〈○中略〉とあるものは、秦氏の人々は、絲綿絹を織成て貢進れるの職なり、〈故織具の總號を波多(ハタ)と云は、秦氏より出てし號なるべし、〉如此氏々には其職業ありしこと、太古の法則なりしを知るべし、

〔標註職原抄〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0450 長者とは、氏中にて官位譜第一の人をいふ、天智紀三年の件に氏上あり、その他續紀、中臣系圖等に見えたる氏上、共に後の氏長者の事也、長者の稱の所見は、後紀延暦十八年十二月の件に、宗中長者とあり、これ始なるべし、太古は職を家に傳へて、官を朝に受るの制なかりし ゆゑに、姓尸を重くせり、されば大臣は臣姓の中の長者、大連は連姓の中の長者といはんが如し、やう〳〵後に至ても、なほ此制みだれず、同宗の中、第一の人を宣旨にて氏上と定め、一氏中の事を行はしめ玉ひしかば氏上たる人、氏人を率て朝廷に奉仕したりき、これに仍て氏上は誠に氏中のいとおもき者なりき、然るに選官の制いよ〳〵盛になり、恪勤の勞、臨時の功によりては、宗中の長者をこえて拔擢せらるヽ者もありなどして、いつとなく氏長の勢むかしにかはれり、されども藤原橘の如きには、なほ長者の稱のこりしからに、此抄にかく殊に載られたる也、まことは長者といふこと、藤原橘にかぎるにはあらず、いづれの氏にもありし也、

初見

〔日本書紀〕

〈二十七/天智〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0451 三年二月丁亥、天皇命大皇弟、宣換冠位階名、及氏上(○○)、民部家部等事

〔續日本紀〕

〈二/文武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0451 大寶二年九月乙丑、〈○乙丑當己丑〉詔甲子年、〈○天智三年〉定氏上時(○○○○)、不所〈○不所恐所不誤〉載氏令姓者、自伊美吉以上、並悉令申、

〔姓序考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0451 氏上
天武朝廷十年十一年に、諸氏の氏上を定め給へれど、なほ是より以前にも、氏上を定め給へることのありしにや、文武紀第二に、大寶二年九月乙丑詔に、甲子年、定氏上時不所載氏、令姓者、自伊美吉以上、並悉令申とみえし甲子年は、天智朝廷三年なるべけれど、書紀にこのこと見えざれば、脱せしにやあらん、

〔標註職原抄別記〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0451 氏長者
推古孝德の御代の比より、冠位官職の事ども、やう〳〵盛になり、臣連二造の職を代々にせし道廢れて後、姓(カバネ)はたヾ徒らに氏に屬たるものとのみなりはてヽ、終に天武天皇の御代に至り、あまたの姓どもを混じて、たヾ八色に定給へり、〈○中略〉かく姓によりて仕奉る義の廢たるまヽに、姓はいたづらなるものになれヽども、おのづからまた一氏一氏を統るものはなくてえあ らぬ勢ひなれば、天智天皇の御代に、諸氏の内にて、宗長たる者を氏上として、其一族を掌らしむること出來にけり、〈○註略〉天智紀三年春二月己卯丁亥、天皇命大皇弟、宣換冠位階名、及氏上民部家部等事云々、〈○中略〉とある其證なり、この後引續き、その御さたどもありしとおもはれて、〈○中略〉天武の御代までも、なほ氏上の事、かくの如く次々にさたありけり、〈○註略〉さるは氏族の事は、いみじく重きゆゑありて、允恭天皇の御代に、探湯(クガダチ)をさへ行はせたまへる如く、紛亂やすき事どもおほかれば、氏上なくては、族中の庶事治めがたきに依てなりけり、

大小氏上

〔日本書紀〕

〈二十七/天智〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0452 三年二月丁亥、宣〈○中略〉氏上民部家部等事、〈○中略〉其大氏之氏上(○○○○○)賜大刀、小氏之氏上(○○○○○)賜小刀

〔日本書紀〕

〈二十九/天武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0452 十一年十二月壬戌詔曰、諸氏人等、各定氏上而申送、亦其眷族多在者、則分各定氏上(○○○○○○)、幷申送於宮司

〔姓序考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0452 氏上
符統朝廷八年春正月乙酉朔丙戌、布施朝臣御主人云々、大伴宿爾御行云々、並爲氏上とあるは、大氏の氏上なり、天武朝廷五年六月、物部雄君連、忽廢病而卒、天皇聞之大驚、其壬申年、從車駕東國、以大功、降恩贈内大紫位、因賜氏上とあるは、小氏の氏上なり、物部連雄君は、自是以前の紀には、舍人朴井連雄君とみえしにて、こは物部朴井連〈後に物舐榎井連と云に同氏なり〉なれば、物部の別家なり、

王氏長者/王氏是定

〔職原抄〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0452 凡稱氏長者、王氏源氏藤氏橘氏有此號、王氏者、往古之例、親王爲其長、近代爲王氏之者、第一稱之、

〔標註職原抄〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0452 王氏者云々、西宮記に、定王氏爵事、一親王依宣旨之とあり、これ往古の例也、玉葉治承四年〈○四年恐二年誤〉正月の件に、王氏爵事、往昔第一親王擧之、中古以來諸王之中、爲長者之者擧之、年來神祇伯顯廣王所擧也、これ此抄に近代といへるに當る、

〔西宮記〕

〈臨時二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0453王氏爵人事
第一親王、依宣旨申孫王爵、以自解申、

〔小右記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0453 長元四年三月一日戊申、傳關白〈○藤原賴通〉御消息云、式部親王、〈○敦平〉依王氏爵事、前日有問之事、已可問口入之人歟、將可王氏爵之是定(○○)歟、今年可朔日叙位、以他親王是定(○○)歟、〈○註略〉

〔年山紀聞〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0453 王氏の是定
今按、橘氏是定をのみ沙汰して、王氏にも是定の人ある事を世の人しらず、

〔倭訓栞〕

〈前編十三/世〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0453 ぜぢやう 是定のよみ也、〈○中略〉小右記に、王氏是定とみゆ、職原抄に、凡稱氏長者、王氏源氏藤氏橘氏有此號、王氏者往古之例、親王爲其長とみゆ、されば、是定は、氏の長者たるをいふにや、

〔傳宣草〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0453 諸宣旨事
一下外記宣旨
臨時事
橘氏是定事〈○中略〉
氏々爵是定事〈源氏、橘氏、王氏(○○)、〉
一外記〈總臨時仰諸司事等、外記所奉也、〉
臨時事
定氏々爵
○按ズルニ、是定ノ事ハ、下文橘氏是定ノ條ニ詳ナリ、

〔康富記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0453 寶德元年十二月十一日丙戌、王氏御申文事、第一親王爲是定(○○○○○○○)、可申請也、當時親王御一所 也、此御申文可進歟、近年神祇伯、被件申文之條、只近年也、親王無御座之時、尤此分也、幸可御申文之條、叶本儀歟、此事内々、昨日申談執權按察殿了、又局務淸少納言等所談合也、所詮可御意歟之由、親王御方申入了、〈○中略〉晩參按察殿、有御對面、自李部親王申、王氏爵御申文事、近年神祇伯資益王被之、是無親王御座之時儀也、第一親王可出事本儀也、但任近例略歟、就興行獻歟、可計申之由仰之、都護卿被仰云、此事近代之伯獻之者略儀也、復舊規御申之條、道之再興目出之由可申云々、御體可何樣哉被仰之間、予兼草案一通懷之、取出奉見了、名字益久王之書樣、如此之由申之、近代不封、只重裹紙之由申之、 十二日丁亥、王氏御申文、予令淸書、内々以折紙女中御署了、卽有御署返下了、兩通今夜付進局務了、王氏、
無位益久王〈寬和御後〉
右朔旦冬至爵所請如
寶德元年十二月十二日 二品行式部卿貞常親王

源氏長者

〔貞丈雜記〕

〈四/官位〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0454 一源氏長者と云は、源氏の内にて官位高き人を源氏長者と云、源氏のみに限らず、藤原にも橘にも平にも、官位高き人を何氏の長者と云也、是も天子より御免ある也、

〔西宮記〕

〈臨時二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0454源氏爵人事
親王源氏王卿中、以弘仁御後之人宣旨、重明親王、參議等〈○人名源氏〉例也、

〔玉勝間〕

〈十一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0454 源氏長者
西宮記に、定源氏爵事、王卿中、以弘仁御後長者、重明親王參議等是也、彼時有上﨟源氏公卿と見えたり、等卿はもとより弘仁の御後なるを、重明親王は延喜〈○醍醐〉の御子におはすれども、御母ぞ融大臣の御孫、昇大納言の御女におはしければ、これ弘仁の御後に觸たるなり、

〔職原抄〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0454 源氏長者 爲奬學院別當之人、卽爲長者、而近例爲前大臣長者之人、〈○源定實〉仍被宣 旨云々、
奬學院別當 源氏公卿爲第一之人稱之、爲納言之時、多兼奬學淳和兩院任大臣日、以淳和院奪次人、於奬學院者猶帶之、是流例也、但兩院別當事、中院右大臣〈○源雅定〉之時、永可彼家由、有鳥羽院勅定云々、然者他流人、縦雖公卿之上首、不競望事歟云々、
淳和院別當〈見上〉

〔標註職原抄〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0455 中院右大臣は雅定公也、村上帝の皇子具平親王の子孫也、親王の子源師房以來、この流繁昌して華族の號を失はず、これに依て長者も、西宮記の如きは、弘仁御後に觸たる人のみの定なれど、氏族の盛衰につきて、その例のまヽに行はれず、つひに崇德帝の保延六年十二月に、此公始て兩院別當になり玉へり、これ帝の叡慮より出たる事にあらずといへども、鳥羽上皇の寵臣たるに依て、上皇の勅定にて、永く所補たるよし、久我家の系譜に見ゆ、兩院別當が卽長者也、因にいふ中院家、後世久我と稱す、

〔百寮訓要抄〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0455 奬學院 是も源氏の人の管領也
別當 源氏の大臣大納言、これに補す、
淳和院 同上
別當 源氏第一の人是に補す、源氏の長者と云、

〔貞丈雜記〕

〈四/官位〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0455 一淳和院奬學院の別當の事、此二ツの院は、源氏の學文所の名也、源氏の長老たる人、其學文所の支配するを別當と云、將軍家は、源氏の長者たるによりて、淳和奬學兩院の別當になり給ふ也、

〔公卿補任〕

〈後醍醐〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0455 文保三年〈○元應元年〉
太政大臣從一位源通雄 十月十八日任、十一月三日爲奬學院別當、幷源氏長者

〔傳宣草〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0456 源氏長者〈附淳和奬學別當〉
元應元年十一月三日 宣旨
太政大臣〈○源通雄〉
源氏長者
藏人頭中宮亮藤原成隆〈奉〉
元應元年十一月三日 宣旨
太政大臣
奬學院別當
藏人頭中宮亮藤原成隆〈奉〉
謹獻
口宣二枚
太政大臣、可源氏長者幷奬學院別當事、
右可下知之狀如
十一月三日 春宮大夫判〈奉〉
權右中辨殿

〔海人藻芥〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0456 奬學院淳和院者、源家相續之處、久我相國、〈具通公〉鹿苑院殿〈○足利義滿〉ヘ、永ク去進セラレ畢、

〔足利家官位記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0456 鹿苑院殿 義滿
同〈○永德〉三年正月十四日、爲源氏長者、同十六日、爲奬學院淳和院等別當

〔公卿補任〕

〈後小松〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0456 應永三年〈丙子〉
權大納言正三位源通宣 九月日淳和院別當

〔足利家官位記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0457 勝定院殿 義持
應永十九年十月廿二日、爲奬學院淳和院等別當、同十三日、爲源氏長者

〔薩戒記〕

〈部類二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0457 應永廿五年正月十六日、有應永廿五御記中
源氏爵事、前内相府、〈○足利義持〉御出家候後、氏長者事、可何樣哉之由沙汰出來、故鹿苑院大相國、〈○足利義滿〉御出家之年、〈○應永二年〉無其沙汰、自後年久我前石大將入道〈于時納言通宣〉爲氏長者任之、雖其意、只追彼例、於當年者、無沙汰然歟之由、一位大納言計申、仍院又被然之由云々、

〔公卿補任〕

〈稱光〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0457 應永卅五年〈戊申〉
權大納言正二位源淸通 三月十八日、奬學淳和院兩別當宣下、

〔薩戒記〕

〈別記〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0457 永享四年十二月九日甲午、今日有宣下事、左大臣源朝臣、〈○足利義敎〉爲淳和奬學兩院別當、又爲氏長者、又被牛車

〔公卿補任〕

〈後花園〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0457 永享十三〈辛酉〉年〈○嘉吉元年〉
權大納言從二位通淳 十二月日、補淳和院別當
散位
前内大臣正二位源淸通 十一月二日氏長者、十二月廿三日、補奬學院別當

〔足利家官位記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0457 慈照院殿 義成〈後改義政
享德二年十二月廿九日、爲源氏長者、同日補奬學院淳和院等別當、〈共非陣儀

〔親長卿記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0457 文明十五年十二月廿三日、室町殿、〈○足利義尚〉源氏長者、幷奬學淳和等兩院別當宣下也、去十五日、自權修寺大納言許送頭辨、今日可宣下云々、上卿大略大納言〈永享享德〉也、今度無人體、〈各未拜賀、或未著陣、〉仍下知海住山了、

〔足利家官位記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0457 惠林院殿 義稙
同〈○永正〉十六年九月廿七日、爲源氏長者、補淳和奬學兩院別當給、

〔公卿補任〕

〈後柏原〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0458 大永四年〈甲申〉
權大納言從二位源義稙 氏長者奬學院幷淳和院別當、四月九日、於阿波國薨、此事無風聞、仍不
、大永七年四月比、内々奏聞、

〔公卿補任〕

〈後奈 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00018.gif

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0458 天文五年〈丙甲〉
權中納言從三位源晴通 十一月廿二日、奬學院別當、
天文廿二年〈癸丑〉
權大納言正二位源晴通 淳和奬學院別當、四月八日、俄出家云々、

〔東照宮御實紀〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0458 慶長八年二月十二日、征夷大將軍の宣下あり、禁中陣儀行はる、上卿は廣橋大納言兼勝卿、奉行職事は烏丸頭左中辨光廣、辨は小河坊城左中辨俊昌なり、陣儀終て、勸修寺宰相光豐卿、勅使として巳一點に伏見城に參向あり、上卿奉行職事はじめ月卿雲客は轅、、其他大外記官務はじめ諸官人は轎にのりてまゐる、みな束帶なり、雲客以上は、城中玄關にて轅を下り、其以下は第三門にて轎を下る、この時土御門陰陽頭久修、御身固をつかふまつりて後、紅の御直垂めして、午刻南殿に出給ふ、〈○中略〉副使出納左近將 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00023.gif中原職忠、征夷大將軍の宣旨を亂箱に入て、小庇の方より持出て官務にさづく、官務これを捧てすヽむ、大澤少將基宥、請取て御前に奉る、御拜戴有て、宣旨は御座の右に置、基宥亂箱をもちて奥にいる、永井右近大夫直勝、その箱に砂金二裹入て基宥に授て、基宥これを持出て官務にさづく、官務拜戴して退く、次に源氏長者の宣旨は、押小路大外記師生持參し、基宥受取て御前に奉り、箱は基宥とりて奥に入、直勝砂金一裹を入れ、基宥これを持出て大外記に授け、大外記拜戴して退く、其さま上におなじ、次に官務、氏長老の宣旨持出、次に大外記右大臣の宣旨持出、次に大外記官務、牛車宣旨持出、次に隨身兵杖の宣旨、大外記持出、 次に淳和奬學兩院別當の宣旨、官務持いづる、其度ごとに、亂箱に砂金一裹づヽ入て賜はる、

〔泰平年表〕

〈東照宮〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0459 慶長八年二月十二日、伏見城に於て、將軍宣下、征夷大將軍淳和奬學兩院別當源氏長者牛車を許され、隨身兵仗を賜る、〈當代年録に、(中略)征夷大將軍は、賴朝以來、武將の任に候へば、室町代々御補任にて、他家より望申事不叶、(中略)信長秀吉天下を取給へども、本朝の掟にまかせ、終に任ぜず、然るに室町公方(足利義昭)浪人の後、御子もなし、家康公大和にて、御扶助御介抱被成候、八ケ年以前、御果の時分、室町代々の重寶を家康公へ御讓被成、何卒此號、御相續被成下候樣賴申候よし遺言なされ、御果の後、室町代々の例に任せ、贈官幷諡號靈陽院殿と申て、衣笠の等持寺にて御追善あり、箇樣に何も御望の號不叶して、自然と内府公に渡し、無左右御補任、目出度御事申計なし、〉

〔實久卿記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0459 天保八年九月二日丁丑、今日登城也、〈○中略〉左大史以寧宿禰、宣旨持參、〈入箱〉候廣廂、左少將義周朝臣、〈宮原也〉出向取之、昇上段大樹公、〈○德川家慶〉同公披見之、〈征夷大將軍、兩院別當、源氏長者、兩宣旨、以上四通、○下略〉

〔言成卿記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0459 慶應二年十二月四日、明五日、德川中納言慶喜、〈一橋黄門事也〉征夷大將軍右大將淳和奬學別當權大納言宣下、昨三日被仰出、〈去月廿七日御内意云々〉勅使武傳、〈飛鳥井中納言、野宮中納言、〉親王使三卿新源中納言通富、准后使堀川新三位云々、著座公卿日野新大納言、〈光愛〉廣橋大納言〈胤保〉等有之云々、是風聞云々、不慥云々、於二條城勅使云々、勅使以下衣冠單、雜色供網代輿先麻上下、箱打物雅俗打交云々、併風聞不慥云々、急卒亂世、可歎々々、如薄氷、 五日、今日德川慶喜、征夷大將軍大納言正二位右大將〈淳和奬學兩院別當〉宣下云々、消息宣下云々、御使以下、〈○中略〉各衣冠單參向云々、於柳營束帶歟、

中臣氏長者/忌部氏長者/卜部氏長者

〔中臣氏系圖〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0459 延喜本系解狀〈○中略〉
同本系云
黑田大連公生二男
中臣常磐大連公〈氏上(○○)○中略〉
右大連、姓賜中臣連姓、磯城島宮御宇天國押開廣庭天皇〈○欽明〉之代、特蒙令譽、恪勤供奉者、〈○中略〉中臣常盤大連公生一男
中臣可多能祜大連公〈氏上(○○)○中略〉
右大連、供奉池田宮御宇渟名倉太玉敷天皇〈○敏達〉之朝廷
中臣可多能祜大連公生三男
一門
一男小德冠前事奏官兼祭官中臣御食子大連公〈氏上(○○)○中略〉
右大連、供奉小治田〈○推古〉幷岡本〈○舒明〉二朝廷
二門
次小德冠前事奏官兼祭官中臣國子大連公〈氏上(○○)○中略〉
右大連公、供奉岡本朝廷

〔除目大成抄〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0460 氏擧
齋宮主神中臣正六位上大中臣朝臣惟理〈氏擧〉
大中臣氏(寬弘元)
特蒙天裁齋宮寮、主神司中臣大中臣惟盛辭退替以正六位上
右謹檢古實、件寮主神司職、中臣(○○)、忌部(○○)、卜部(○○)、三ケ氏(○○○)之中、以中臣長官、以齋部判官、以卜部主典、供奉神事、式文已明也、仍有其關之時、各氏長者(○○○○)薦擧其人、隨卽被拜任、是已流例也、仍件惟盛擧任之後、從職已經十ケ年、而今依辭退之狀、本系所僉議、替人惟理、尤當其仁、仍任例擧奏如件、望請天裁、惟盛辭退之替、以惟理改任、將奉神事、謹請處分
寬弘元年十二月七日 學生正六位上大中臣朝臣宣範
春宮坊前帶刀正六位上大中臣朝臣輔隆
散位正六位上大中臣朝臣作名
安藝掾正六位上大中臣朝臣宣輔
正六位上縫殿助大中臣朝臣作名
神祇權少祐正六位上大中臣朝臣
大祐正六位上大中臣朝臣作名
權少副正六位上大中臣朝臣
散位從五位下大中臣朝臣公忠
從五位下行神祇少副大中臣朝臣作名
祭主權大副從五位下大中臣朝臣輔親

〔仲資王記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0461 建久五年六月十二日、裏書云、
阿波國忌部久家(○○○○○○○)、還補氏長者(○○○○○)下文、依官人致貞中狀、今日成之了、件忌部者、大祀之時、職主荒妙御衣之氏云々、致貞、度々爲御使、存子細之由所申也、

藤原氏長者

〔職原抄〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0461 藤原氏長者
攝政關白詔之人爲其仁、仍別不宣下也、但宇治左大臣賴長公、非攝關、爲長者宣下之例、初於此乎、

〔標註職原抄別記〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0461 氏長者
氏長者の始は氏上なれば、勅にて補せらるヽ事、いはむも更なるを、藤氏これを私物として、攝關なれば、宣旨に及ばず氏長者なりと定しを、中古の人、故實にうとかりしゆゑに、皆しかならむと思へりしにや、〈○註略〉此抄に賴長公、非攝關、爲長者宣下之例、初於此とか、せたまへるは、准后〈○源親房〉さばかりの博識なるを、それすら猶あやまり給へりけむとおもはれたり、〈愚管抄に宇治左府の事をいへる件に、頰をつよく射拔れにければ、馬より落にけり、此日やがて藤氏長者は如元といふ宣下ありて、法性寺殿にかへし附られにけり、上の御さたにて、かくなる事の始なりとあるは、此抄とはたがへり、此抄にては、百練抄に、久安七年(七年六年誤)九月廿六日、入道大相國取藤原長者印、幷朱器大盤左大臣、此間喧嘩多端とあり、入道大相國は忠實公なり、左大臣は賴長公なり、此時法性寺忠通公、關白になり給へるゆゑに、氏長者印も、ともに彼方にわたるべきを、忠實公より、次郎の左大臣賴長公を長者に補せらるべきよし公家に請て、宣下給りて、長者に したまへるやうに思て書せ給へるが如し、されども百練抄に、取藤原長者印云々とある取字を以ておもふに、長者は一家の私物なりとして、忠通の關白になりたまへる時、やがて其印をば、忠實のかたへ奪取て、賴長に渡したまへるさまなり、もとより天氣忠通公に屬したれば、たとへ忠實いかやうにこしらへ奏したまふとも、宣下あるべきにあらねば、賴長の長者になりたまへるは、宣下にはあらざりけむ事明らかなり、さて此左大臣殺され給ひて、長者の印、忠通公へかへる時に、藤原長者如元といふ宣下ありつらむ事、理にかなへれば、愚管抄のかた正しかるべし、准后ふとおぼえたがへて、本文には記し給へるなるべし、〉

〔百寮訓要抄〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0462 攝政關白は、〈○中略〉藤原氏の長老にて、代々昔より家に管領申來也、

〔傳宣草〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0462 諸宣旨事
一下外記宣旨
臨時事
藤氏長者事〈舊例仰辨歟〉
一下辨官宣旨〈常事左辨官宣凶事右辨官宣〉
臨時事
藤氏長者事

〔西宮記〕

〈臨時二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0462藤氏爵人事
氏一人定

〔江次第抄〕

〈二/正月〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0462 大臣家大饗
藤氏一大臣 藤氏一大臣者、謂氏長者

〔二中歴〕

〈一/公卿〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0462 藤氏長者
緒(左)嗣〈承和元年始爲長者〉 良(中)房〈同十一〉 基(内)經〈貞觀十五〉 良(右)世〈寬平三〉
時(大)平〈寬平九〉 忠(中)平〈延喜九〉 實(左)賴〈天暦三〉 伊(右)尹〈安和三〉
賴(右)忠〈天延三〉 兼(内)通〈天祿三〉 賴(左)忠〈貞元二〉 兼(右)家〈寬和二〉
道(内)隆〈永祚二〉 道兼(右内イ)〈長德元〉 道(右)長〈同年〉 賴(内)通〈寬仁元〉
敎(左)通〈康平七〉 師(左)實〈承保二〉 師(内)通〈寬治八〉 忠(太)實〈康和元〉
忠通〈保安三〉
或本〈掌中暦〉氏長者
犬織冠〈鎌足〉 淡海公〈不比等〉 房前〈參議不比等男〉 眞楯〈房前二男〉
内麿〈右大臣〉 閑院〈冬嗣内磨一男〉 忠仁公〈○忠平〉 長良
昭宣公〈○基經〉 貞信公〈○忠平〉 九條殿〈○師輔〉 大入道殿〈○兼家〉
後入道殿〈○道長〉 宇治〈○賴通〉 二條〈○敎通〉 大殿〈○師實〉
後二條〈○師通〉 富家〈○忠實〉 法性寺〈○忠通〉 賴長
基實 基房

〔尊卑分脈〕

〈五/藤原〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0463 大織冠鎌足〈改中臣姓、始爲藤原朝臣、〉
不比等〈氏長(○○)〉〈南家祖〉武智麿〈氏長者(○○○)〉
〈北家祖〉房前〈氏長(○○)〉

〔諸家知譜拙記〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0463 淡海公〈氏長者始(○○○○)、諱不比等、又史、〉

〔公卿補任〕

〈宇多〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0463 寬平九年
大納言從三位藤時平 六月十九日、任右大將、同日轉左大將、今日爲氏長者

〔公卿補任〕

〈醍醐〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0463 延喜九年
權中納言從三位藤忠平 四月九日任大夫、督等如元、同日爲氏長者

〔殿暦〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0463 天永三年四月十四日、吉田祭延否條、以頭辨民部卿俊明、中納言宗忠卿之處、兩人申云、氏社祭、以長者神馬宗、又見次第、而穢已發長者〈○藤原忠實〉家也、可延引也者、以此趣院〈○白河〉延引也、

〔春日權現驗記〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0464 知足院殿、〈○藤原忠實〉長者(○○)にておはしける時、永久二年十月のころ、常陸國司鹿島の宮を造營して、御社のありさまを記録して、國司かよひける殿中の女房のもとへつかはしたりければ、殿下御覽じて、御扇をかの女房に給はせけり、〈○中略〉國司これをみて一首をそへて、鹿島の宮にたてまつりけり.
千とせまでかけてぞまもる氏人のかみべ(○○○○○○)といます君のたまづさ

〔台記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0464 久壽二年九月廿八日壬申、一昨日、禪閤〈○藤原忠實〉召泰親、占内覽遲々事、占申曰、依神事違例、氏神成祟、〈○中略〉乃今旦奉白妙幣及馬一匹於春日、用吉服、使憲忠、有告文
維久壽二年歳次乙亥九月乙巳朔廿八日壬申、吉日良辰〈仁〉、掛〈毛〉恐〈幾〉春日大明神〈乃〉瑞〈乃〉廣前〈爾〉、從一位藤原朝臣賴長、恐〈美〉恐〈美毛〉申給〈波久止〉申〈久〉、謬以庸昧之陋質〈天〉、苟爲氏族之長者(○○○○○)〈利〉、登台階〈天〉、年久〈具〉執政柄〈天〉日積〈禮利〉、是則宗社〈乃〉靈睠、累祖力〈乃〉餘慶〈能〉延〈天〉所及〈奈利〉、

〔台記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0464 久壽二年十二月十一日甲申、子刻衣冠、〈吉服〉詣北野白妙幣、〈一串〉權寺主相圓申祝、次菅登宣、讀祭文了、押御殿隔子内、余通夜寶前心經、藤氏長者(○○○○)、不御前舞人等、密々〈○此間恐有脱字〉神社未先例、而依誣告、不例有無日吉凶參也、

〔吾妻鏡〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0464 攝政内大臣〈基通〉
治承三年十一月十六日、任内大臣、〈元二位中將〉爲關白氏長者(○○○)
攝政内大臣〈師家〉
壽永二年十一月廿一日、任内大臣、〈元大納言〉爲攝政幷氏長者(○○○)

〔玉海〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0464 壽永三年三月廿三日壬子、光長參送云、廣季只今入來云、賴朝奏條々事於院、〈○後白河〉其中下官〈○藤原兼實〉可攝政氏長者(○○○)之由令申了之由、自廣元之許〈廣季子男也〉所示送也云々、卽其正文可御覽之由、廣季令申云々、

〔百練抄〕

〈十/後鳥羽〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0465 文治二年三月十二日庚寅、以右大臣、〈○藤原兼實〉可攝政氏長者(○○○)之由被仰下

〔吾妻鏡〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0465 文治二年五月十八日乙未、前攝政〈○藤原基通〉御家領事、去月之比、被委細勅答、帥中納言〈○藤原經房〉奉書、今日所來鎌倉也、
去月廿日御消息、今月四日到來、卽今奏聞候畢、接政家領事、令申給之旨聞食畢、藤氏長者ヲモ退可申定之由雖申給、依御辭退、同時被宣下畢、忽被取家領之條、爲前攝政尤以不便、入道關白之時モ、氏長者之外事、不攝録歟、當時攝政、皇嘉門院御領等有知行、不入道之時事也、於思食事憚可仰之由令言上給先畢、仍如此所仰遣也者、依院宣執啓如件、
五月五日 經房

〔玉海〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0465 文治三年正月十三日乙卯、此日余〈○藤原兼實〉長者之後(○○○○)、氏寺(○○)〈○興福寺〉參賀也(○○○)須去年行此禮也、而依僧正所勞延及今日也、

〔玉海〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0465 文治四年正月廿七日癸亥、此日余〈○藤原兼實〉氏長者之後(○○○○○)、始參詣春日御社(○○○○○○○)

〔百練抄〕

〈十二/順德〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0465 承久三年七月八日庚寅、權大納言通具卿參入、左大臣〈○藤原道家〉止攝政、前關白〈○藤原兼實〉可攝政氏長者(○○○)之由、被詔書

〔百練抄〕

〈十三/後堀河〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0465 安貞二年十二月廿四日、前攝政、〈道家〉被關白詔、卽爲氏長者(○○○)、

〔後中記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0465 仁冶三年三月廿五日丁未、今日左相府〈○二條 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00018.gif實〉内覽、幷藤氏長者事、可宣下云々、可吉書之由、内々有其告、仍秉燭之間、著束帶一條殿、先是左府渡御云々、此間以兼敎朝臣仰合、内覽幷藤氏長者事、日時宣下、可建仁例歟、長者事無宣下宜歟之由、大外記師兼令申、然者今夜、被關白詔書之條、如何可計申者、予〈○藤原資賴〉幷新宰相共讀藏、凡藤氏長者(○○○○○)、舊例更無宣下之儀(○○○○○○○○)、宇治左府(○○○○)〈○藤原賴通〉之後(○○)、法性寺殿(○○○○)〈○藤原忠通〉御還補之時(○○○○○)、始出來事歟(○○○○○)、抑廿九日重日也、關白詔書事、可其憚歟、今日日次殊吉也、今夜尤可宣下也、但御拜賀日、先例多被長者印、今度何樣可候哉、只今先例 詳不悟覺之由申之、重仰云、日次事、重日定不然、所申有謂、於拜賀日者、重日不憚也、今夜早可關白詔書之由、可内裏也、關白詔書後、後日被拜賀之例、近衞入道殿下、幷禪定太閤御例也、兼被長者印、後日拜賀、又有先例者也、〈○中略〉殿下出御、公卿四條大納言、予、吉田中納言、二條中納言、侍從宰相、新宰相等參著、次覽吉書、官方、〈權左少辨親賴〉藏人方、〈頭中將通行朝臣、不結申、忘却歟、〉外記、〈師宗覽宣旨〉政所、〈經俊不結〉又官方〈左少辨時繼〉家司經俊、政所吉書之外、毎度先申事由、次被印辛櫃、朱器臺盤等、文章博士經範朝臣相具參中門外、〈實者、宣旨到來以前參上歟、〉經俊相逢先申事由、歸出取目録、插杖覽之、次家司二人、〈宮内少輔俊國、治部少輔資宣、〉 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00041.gif唐櫃簀子、置御座間長押下、經俊參進、置笏開封、置唐櫃蓋於長押上、取出印幷細金之、依御氣色長押御座前、自取上令御覽給、次納覆蓋、經俊退歸之後、本役人又 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00041.gif&size(5){二};出之、次下家司二人、入朱器於長櫃蓋、持參砌下、持參蒭斤各覽之、〈○中略〉今日勅答、〈今度返給御隨身云々〉上卿吉田中納言、使忠氏朝臣云々、藏人次官顯雅奉行之、關白詔書、幷藤氏長者事、土御門大納言奉行云々、中務輔不參之間、被外記、先例多クハ勾勘奉行也、

〔勘仲記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0466 正應二年四月十三日壬戌、申斜自近衞殿兼俊奉書到來、可宣下事、〈○中略〉
正二位行權中納言兼左衞門瞥藤原朝臣兼敎宣、奉勅關白右大臣〈○藤原家基〉宜藤氏長者者、
正應二年四月十三日 彈正少弼兼大外記大隅守中原朝臣師顯奉
右中辨藤原朝臣兼―傳宣、權中納言藤原朝臣兼敎宣、奉勅宣關白右大臣爲氏長者者、
正應二年四月十三日
修理東大寺大佛長者左大史兼隱岐守小槻宿禰秀氏奉
廿一日庚申、酉刻著楚々束帶、參關白殿、御拜賀事爲申沙汰也、〈○中略〉自前長者〈○藤原師忠〉被朱器臺盤、家司不相副、〈下家司許也〉仕丁釜殿 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00041.gif&size(5){レ};之、事々次第聊爾也、渡目六三通、尋取卷加一懸紙、插杖參進覽之、〈一通庄目六、一通大饗朱器目六、一通節供朱器目六等也、〉御覽了返給、如元所下家司忠直也、覽申之儀如政所吉書作法、次下家 司爲有久氏、 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00041.gif&size(5){二};印辛櫃諸大夫中經範業、〈藤氏諸大夫、先例役之、〉二人 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00041.gif之、置御座間簀子〈東西行〉退、次予參進於簀、予跪指笏解封幷結緒、取放蓋、打仰〈天〉置傍、先取印、昇長押膝行覽、退如元返納之、次取細金覽之如初、主人令御手給、有御覽返下、參進給之、如元返納之、覆蓋結緒、〈封緒也〉次拔笏退、次本役諸大夫一人參進、 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00041.gif之退出、給下家司、劵辛櫃紛失之間、不御覽、次覽朱器、取入辛櫃蓋、下家司二人〈爲有久氏〉 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00041.gif之、入中門參砌下、予參進跪簀子、指笏取朱器一口、〈花形〉昇長押、膝行覽之、退歸如元置之、次取又一口、覽之如初、其彼返置之後拔笏退、下家司 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00041.gif之退、次年預下家司忠直、〈束帶〉覽葛權衡、持參砌下、御覽了退出、〈此什舊例入櫃蓋覽之、近代不然、令手者也、〉次又有吉書、〈先受長者印給也、後御覽吉書者也、〉予參進申事由、〈○下略〉

〔量實記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0467 康安元年十一月九日丙辰、左大臣殿、〈道嗣公○近衞〉今日令關白詔給、〈○中略〉子刻許、上卿坊城中納言、〈俊冬卿〉參著仗座、職事藏人右中辨行知、進奥座、〈其詞云、以左大臣關白詔書令作、以關白左大臣藤氏長者(○○○○○)、官中雜事、先觸關白左大臣奉行ヨ、〉次上卿移著端座、召官人軾之後召内記、大内記秀長參軾、上卿仰詔書事、〈○中略〉以職事藏人右中辨聞之、〈○中略〉被返下之後、上卿復仗座、返給筥蓋於内記、次上卿召辨、左中辨進軾、上卿仰之、辨歸著床子、傳予云、以關白左大臣藤氏長者(○○○○)、官中雜事、先觸關白左大臣奉行ヨ、兩條如此、予正笏居上奉之、微唯如例、〈○中略〉
今夜宣下五箇條、關白、氏長者(○○○)、内覽、牛車、兵仗等也、官方宣下藤氏長者内覽兩條、外記方關白氏長 者牛車兵仗等也、近衞殿代々御例、此五箇條同時定、可邂逅歟、但近者元德二年、堀河古關白殿 五箇條被宣下了、

〔康富記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0467 文安四年六月十五日乙亥、關白宣下幷條々宣下也、上卿權大納言宗繼卿、職事頭右大辨資綱朝臣、官方左中辨敎忠朝臣、局務大外記業忠眞人、小外記中原康顯、〈少内記〉大内記菅原在治等參陣、關白事被詔書、兵仗事見勅書、氏長者牛車等事、召大外記宣下也、氏長者事、召左中辨宣下、〈○中略〉依命宣旨兩通、予染禿筆了、〈○中略〉
從二位行權大納言藤原朝臣宗繼宣、奉勅關白太政大臣、〈○一條兼 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00018.gif〉宜舊爲藤氏長者、左右近府生番長各一人、近衞各三人爲隨身、乘牛車入宮中者、
文安四年六月十五日 大外記淸原眞人業賢奉
局務〈束帶〉宣旨兩通、被參申一條殿、以家司藤原幸房朝臣〈前右中辨、衣冠、〉被進上之、其後有御對面云々、官務宣旨〈氏長者〉後日可成進云々、

〔康富記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0468 享德三年七月一日辛亥、今夜關白宣下也、〈○中略〉上卿召大外記、〈宗賢〉仰條々宣下事、外記稱唯退、
仰詞令左大臣〈○鷹司房平〉爲關白〈與〉、以關白左大臣藤氏長者〈與〉、以左右近衞府生各一人、近衞各 四人、令關白左大臣隨身〈與〉、
次召權辨、藤氏長者事、同被宣下之、辨於床子、仰官務長興宿禰、〈○中略〉
正二位行權大納言藤原朝臣持李宣、奉勅關白左大臣藤原朝臣、宜藤氏長者者、
享德三年七月一日
大炊頭兼大外記博士主水正下總守淸原眞人宗賢奉〈○中略〉
權右中辨藤原朝臣經茂傳宣、權大納言藤原朝臣持季宣、奉勅宜關白左大臣爲藤氏長者者、
享德三年七月一日 修理東大寺大佛長官左大史兼備前介小槻宿禰長興奉

〔賴胤記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0468 文明十一年二月卅日丁巳、今日關白宣下、幷小除目被之、近衞右大臣殿、〈政家○近衞〉令關白詔給、〈○中略〉亥刻上卿著仗座、〈○中略〉上卿召辨、左少辨元長進軾、仰氏長者事、辨退去、著床子座左少史盛俊之、次上卿召外記、大外記師富朝臣進軾、仰關白氏長者兵仗牛車等事、外史稱唯退去、〈○中略〉
正三位行權中納言藤原朝臣廣光宣、奉勅關白右大臣、宜藤氏長者者、
文明十一年二月卅日 掃部頭兼大外記造酒正博士中原朝臣師富奉〈○中略〉
以上外記宣旨三通、籠一懸紙
左少辨藤原朝臣元長傳宣、權中納言藤原朝臣廣光宣、奉勅宜關白右大臣爲藤氏長者者、
文明十一年二月卅日
修理東大寺大佛長官主殿頭兼左大史小槻宿禰雅久奉

〔親長卿記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0469 長享二年八月廿八日、申刻許、有宣下事、内大臣〈冬 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00018.gif公○一條〉令關白詔給、上卿中御門中納言、〈宜胤〉職事藏人左少辨宣秀云々、
條々
關白宣下 藤氏長(○○○) 隨身兵仗 牛車
一座事 官次事〈關白内大臣、可前左大臣上、〉

〔戴恩記〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0469 ある時秀吉公、いつも御參内の時、御裝束めしかへらる、御中やど、施藥院にて曰、〈○中略〉おもはずに貴き身には成ぬれども、父なければ氏姓なし、草かりの成のぼりたる身なれば、いにしへのかまこの大臣の御なをよすがにて、藤原氏をやのぞみヽんと申されしかば、いとやすき事なりとて、近衞殿〈○前久〉より其御はからひ有ける時、玖山公〈○九條稙道〉聞召、五攝家ともに、いづれも今甲乙はなけれども、氏の長者とせらるヽ事は、當家にきはまりたる事なり(○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○)、近衞殿の御まヽにはなるべからずと、とがめさせ給ふに、物知の申さるヽ事なれば、子細あるべしと德善院僧正玄以に仰付られて、大德寺にして、兩家の御相論を聞し召したまふ、
○按ズルニ、本書ニ氏の長者とせらるヽ事は、當家にきはまりたる事なり、トイヘルハ誤リナリ、

〔續史愚抄〕

〈後陽成〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0469 慶長五年十二月十九日己丑、准后前關白、〈兼孝、前左大臣、〉有關白氏長者(○○○)及内覽、牛車兵仗准后等如元、左大臣〈還任、或作去十五日、〉等宣下、〈氏長老、天正十三年後、被之(○○○○○○○○○○○○)、關白者、文祿四年後補也、〉上卿萬里小路大納言、〈充房〉奉行藏 人頭左中將基繼朝臣、此日關白左大〈兼孝〉奏慶、

〔言成卿記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0470 文久三年十二月廿三日、今朝關白左大臣〈齊敬〇二條〉宣下、詔書、〈附隨身兵仗如元〉一座宣旨、長者宣下(○○○○)等、

〔公卿補任〕

〈今上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0470 慶應三年
攝政從一位藤齊敬 十二月九日辭攝政内覽氏長者隨身兵仗等

〔公卿補任〕

〈今上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0470 慶應四年
左大臣正二位藤道孝 二月二日爲氏長者

橘氏長者/橘氏是定

〔職原抄〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0470 凡稱氏長者、〈○中略〉橘氏者、昔橘家、有納言已上之人、仍爲長者、而其一家衰微之後、雖長者號、只知學館院領計也、

〔標註職原抄〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0470 橘氏者、昔橘家、有納言已上云々、公卿補任の所見、諸兄左大臣、氏公右大臣、峯繼澄淸中納言、これらをさすなるべし、

〔職原抄〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0470 學館院別當
橘氏之中補之、此號長者(○○○○)、

〔尊卑分脈〕

〈四/橘〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0470 橘氏
左大臣諸兄〈氏長者〉〈從一位〉 奈良麿〈長者〉〈參議〉 嶋田麿〈長者〉 直材〈長者〉 峯範〈長者〉 廣相〈長者〉〈參議〉 公材〈長者〉 好古〈長者〉〈大納言〉
敏政〈長者〉 則隆〈長者〉〈中納言〉 成任〈長者〉 以綱〈長者〉 廣房〈長者〉 以長〈長者〉 以政〈長者〉 以經〈長者〉 以良〈長者〉
以實 知宣 知仲 知茂
以隆〈長者〉 以材〈長者〉 以季〈長者〉 以基〈長者〉 以盛〈長者〉
知嗣〈長者以隆朝臣、依服〉〈令籠者、宜長者、〉 知顯 知任 知兼 知季 知興〈長者〉
知尚〈長者〉 知繁〈長者〉

〔台記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0471 久安三年四月十七日庚戌、以以長學官院別當之由仰親隆、所謂橘氏長者是也(○○○○○○○○)、年來正遠爲長者、件人不藏人、先蹤多經藏人者爲長者、又以長父祖爲長者、又淸則〈藏人〉正遠爲上﨟、然而勘例、更不位上下、是故改補之,不奏聞、〈但今度密奏法皇、(鳥羽)〈非禮〉有可許、〉日來有日憚、昨廢務、因及今日、戌刻以長申慶、是先例云々、不他所云々、
院別當書樣〈依先例
散位從五位下橘朝臣以長
是定内大臣宣偁、件人宜任院別當者、
久安三年四月十七日 別當民部權大輔藤原朝臣親隆奉
下家司以長宅、以長給祿、
後日〈六月〉招範家奏曰、學官院別當、憤近例是定宣之了、而見天暦御記、以勅宣補之由所見也、〈所宛篇、康保四年三月廿二日、〉早可宣旨、又其次以以長檀林寺別當之由同可宣下、此事見同御記、〈所宛篇、康保三年十月廿五日、〉範家仰曰、檀林寺別當、代々以納言參議之、更無定氏、今上御時、所宛以公能卿補了、學官院、天暦御時、以勅宣之、然而其後無所見、忽難宣下歟、余〈○藤原賴長〉申曰、檀林寺事者、余所奏誤也、學官院事、天暦御記明白也、被宣旨何難之有乎、則檀林寺不知行之由仰以長、廿二日乙卯、早旦以長來、〈依初申氏事束帶(○○○○○○○○)〉覽橘淸資〈六位〉名簿、申曰、爲功課別當者、予許之、返給名簿〈予不裝束、不賓座、〉依吉日初申也、

〔倭訓栞〕

〈前編/十三世〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0471 ぜぢやう 是定のよみ也、橘家衰微の後、長者の號ありといへども、唯學館院の領を知ばかりにて、氏爵に於ては、是定は其人を撰み、宣旨を下さるヽをいふ、近代九條家に傳へらる、よて橘家は皆其家に屬せり、西宮記には、氏定と見えて、氏と是と通ずるわけは、うぢの下に見えたり、江家次第に、中納言橘澄淸、以中關白是定、令學生事と見え、職原抄に於氏爵者、是定之人擧之、是定者、擇其人宣旨也と見えたる、此義なり、

〔倭訓栞〕

〈前編四/宇〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0472 うぢ 万葉集に、宇治川を氏河と書り、よて八十氏河など屬けり、又是河と書る所あり、前漢地理志にも其事見え、後漢書李雲傳の五氏來備の註に、是と氏と通ずるよし見えたり、橘氏の祖神梅宮を、攝家の人の管領するを是定(○○)といふを、西宮記には氏定とあるも同じ義なりといへり、

〔後漢書〕

〈四十七/列傳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0472 李雲傳
桓帝延熹二年、〈○中略〉立掖庭民女毫氏皇后、數月間、后家封者四人、賞賜巨萬、是時地數震裂、災異頻降、雲素剛、憂國將一レ危、心不忍、乃露布上書、移副三府曰、臣聞皇后天下母、德配坤靈、得其人則五氏來備、不其人、則地動搖宮、〈史記曰、庶徴、曰雨、曰場、曰燠、曰風、曰時、五者來備、各以其序、庶草繁廡、是與氏古字通耳(○○○○○○○)、〉

〔南留別志の辨〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0472 日本書紀に氏上あり、氏長者の起りなり、橘氏にて是定(ぜじやう)といふは、氏上を音をかりて書けるならん、

〔段註説文解字〕

〈十二/氏〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0472 氏亦作是、見夏書、禹貢曰、西頃因桓是來、鄭註云、桓是、隴阪名、其道般桓旋曲而上、故曰桓是、今其下民、謂阪爲是、〈旬絶〉謂曲爲桓也、〈各本誤、今校訂如此、〉據此則桓是卽隴 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00017.gif、亦可隴氏昭々然矣、古經傳、氏與是多通用、大戴禮、昆吾者衞氏也、以下六氏字、皆是之叚借、而漢書漢碑、叚氏爲是、不枚數、故知姓氏之字、本當是、叚借氏字上レ之、人第習而不察耳、姓者統於上者也、氏者別於下者也、是者分別之詞也、其字本作是、漢碑尚有姓某是、今乃専爲姓氏字、而氏之本義、惟許之、淺人以爲新奇之説矣、

〔標註職原抄別記〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0472 是定とは、橘氏に限ていふ稱にはあらず、いづれの氏にても、その氏族の事を執行ふ長者の稱なり、康富記寶德元年十二月十一日の件に云、王氏御申文事、第一親王、爲是定申請也、〈○中略〉かく王氏にも是定あり、然るを此抄に、橘氏にのみのたまへるは、王藤源の諸氏は、公卿以上の長者ありて、是定宣下の事なき故に、おのづから是定の事に及ばれざるも のなり、〈寬元四年十月十三日葉黄記に、自關東、時賴使安藤左衞門光成上洛、關東申次、可相國之 由是定(○○)、とある是定もこヽの義におなじ、〉

〔令集解〕

〈四/治部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0473 卿一人掌本姓〈穴云、本姓、謂或云、譜第爭訟時、問定是(○○)、譬猶刑部、○中略〉事

〔本朝世紀〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0473 天慶八年八月三日丙寅、今日八幡宮言上解文、〈○中略〉其解文在左、石淸水八幡宮護國寺三綱等謹言上、〈○中略〉
右今月一日、是定(○○)宮寺來十五日恒例御願御放生會色衆行事之式日也、

〔春記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0473 長暦二年十二月廿三日乙酉、參御前請御導師事等、明日可御佛名也、但依御物忌、於簾中定是(○○)、

〔公事根源〕

〈四月〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0473 梅宮祭 同日〈○上酉〉
この社は、仁明天皇の御母、橘太后〈○嘉智子〉の祖神なり、承知年中に、初めて御門より祭を奉らる、橘氏の祖神なるべし、是定といひて、攝家の人の管領する社にて侍るにや、そも〳〵この是定の一の人の家に傳りし事は、橘氏の公卿絶えて後、五月五日の叙位に、氏の爵の事を行ふべき人なきによりて、寬和の頃、中關白道隆、大納言と令申侍りし時、宣旨をかうぶり給ひて、氏の爵の事を申し行ひ侍りしなり、中關白、粟田關白、〈○通兼〉御堂關白、〈○道長、以上三人並藤原氏、〉この三人の母は、攝津守藤原中正といひし人の女なり、かの中正の室は、中納言橘澄淸卿の女なり、中關白には外祖母なり、かやうの由緒侍るによりて、是定は藤原の家に相傳し侍るとかや、

〔西宮記〕

〈臨時二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0473橘氏之爵人事
橘氏、以橘氏外戚王卿、依氏擧宣旨外記氏院

〔傳宣抄〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0473 諸宣旨事
一下外記宣旨
臨時事
橘氏是定事

〔職原抄〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0474 學館院別當
橘氏之中補之、此號長者、〈○中略〉於氏爵者、是定人(○○○)擧之、是定人者、擇其人宣旨也、近代九條流被之、仍他人不之、依之橘家、皆屬彼家云々、

〔標註職原抄〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0474 是定は、氏爵を定る人のことなり、橘家に外戚の縁ある王卿に是定を仰らる、その例、中關白道隆を始とす、玉葉に中關白爲大納言之、其故者、攝津守中正之妻者、中納言橘澄淸女也、卽道隆道兼御堂等之外祖母也、依彼昭穆此爵事云々と見え、江家次第旁書に、依中關白例、九條流被之とあり、

〔貞丈雜記〕

〈四/官位〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0474 學館院と云は、橘氏の學文所也、後世堂上衆に橘氏絶てなし、依之橘氏の長者なし、後世九條殿、學館院別當に成給ふ也、梅宮の社家どもは橘氏にて、九條殿に付隨て、官位の願をたのみ申也、依之九條殿は、おのづから橘氏の長者の如くに成たる也、九條殿は藤原氏なり、

〔江次第抄〕

〈二/正月〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0474 叙橘氏 是定者、中納言橘澄淸、以中關白〈○藤原道隆〉爲是定、令學館院學生事、以來擧氏爵也、

〔台記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0474 久安三年三月廿九日壬辰、藏人辨光房來、〈○中略〉右大將使人問曰、此文下辨乎、下外記乎、只今光房來下之者、開見、橘氏申請以余(○○○○○○)〈○藤原賴長〉爲之文也(○○○○○○)、對曰、可大外記師安者、〈據治暦元年十二月廿三日二東記〉三十日癸巳、師安來曰、昨日橘氏是定宣旨下了、承保三年、〈土御門右府〉外記書消息、副宣旨氏人許、今度可同之由在之、予諾、戌刻散位橘以長〈非長者〉來曰、師安書副消息、給是定宣旨者、西宮十六卷臨時二裏書、召外記氏院云々、今案依氏院顚倒無一レ人、賜氏人歟、四月一日甲午、辰二點參官、〈自重有文冠表袴〉政了著侍從所、〈有御前〉食了退出、〈○中略〉勘故京極殿〈○藤原師實〉御記、是定後以吉日、行公事之由不見、因之今度不日、〈京極殿治暦元年十二月二十三日爲是定、見二條關白(藤原敎通)記、不京極殿御記、〉四日丁酉、依梅宮祭由祓、〈假故也〉而是定(○○)後、初修 之由、祓非忌、因之不祓、但致齋如常、

〔台記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0475 久安四年正月三日壬戌、申刻橘氏大夫七人〈淸仲、定元、正遠、淸則、以長、定仲、定輔、此外雖六位來退出、先例六位不來之故也、〉來在侍所、皆束帶、戌刻余〈○藤原賴長〉著冠直衣賓筵、使家司賴方〈五位、依四位皆申一レ障也、束帶、〉命大夫等云、今年可氏爵之人、宜申文者、賴方歸來云、大夫皆申云、周愷〈淸仲子〉當爵運、余問云、故京極大殿故殿下〈○賴長曾祖父師實〉是定之後、初被擧之日(○○○○○○○○○)、〈治暦二年〉大夫等擧梅宮別當(○○○○○○○○)、〈謂功課別當〉周愷非別當、違彼例如何、大夫等陳云、爵運不別當之職、彼時別當當其運、故擧申歟、今別當不運、是以不擧、何爲先例、可道理乎、余諾之、卽仰賴方云、以外記大夫景佐名簿、〈治暦一年、京極殿始經營之日、外記大夫俊光書之、爲彼例、雖殊勝能書、以外記大夫景佐之、〉賴方退令之、入覽筥持來、〈檀紙二枚有懸紙〉卽書名二字、了卷之加懸紙、〈不封但紙加封云々〉使賴万召大外記師安朝臣、〈豫參入〉卽來遠居、〈於里第應之時、雖五位參之、〉稱唯進來、給名簿退出、次召賴方給筥内官、橘氏大夫等退出、今日依治暦二年正月三日〈京極殿初是定之後初擧爵〉例行也、彼三日也、今日自當吉日、〈去年問陰陽師〉相合先例盛設、治暦二年正月三日御暦云、依殿下御例、去年設饗可擧、而依日次、今日出待所申也、今案殿下者、宇治殿〈○賴通〉也、依尋宇治殿是定後被擧爵之日記之、是以依京極殿例行也、不設饗、〈○中略〉
名簿書樣
橘氏
正六位上周愷
右件人、當氏爵之運、仍所請如件、
久安四年正月三日 内大臣正二位藤原朝臣賴長

〔兵範記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0475 保元三年正月六日丁卯、今夕叙位儀也、殿下〈○藤原忠通〉令參内給、
橘氏爵申文、以氏擧狀、成御申文御名字、付外記上了、是定右大臣殿〈○忠通子基實〉御沙汰也、
橘氏
正六位上惟元
右人、當年爵、所請如件、
保元三年正月六日 右大臣正二位兼行皇太子傳藤原朝臣

〔玉海〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0476 安元三年六月五日癸酉、午刻筑前守橘以政持來橘氏是定宣旨、〈吉服束帶也〉
豫家司少納言信季參入、〈亮闇、衣冠、若可吉服歟、但事雖社事、己非致齋者、何事之有哉〉、入宣旨狀於覽筥之、余〈○藤原兼實〉依疾厚賓筵、仍使人傳一レ之、見訖返給、又進夾名二通、〈一通社司己下、一通學館院司、〉留文返給筥了、又進功過別當名簿、任先例信季書下、出返給了云々、此外條々事等問以政、其後退出了、此是定事、去三四月之比、關白〈○藤原基房〉以書狀示送云、橘氏是定事、頻驤申如何々々、申左右可仰之由了、去四月十三日、氏人進擧狀、五月廿三日改下宣下、今日持來也、以政申云、依吉日今日所持參也、是先例也云々、又云、代々例大外記書副消息、遣宣下云々、今度以使部宣旨、不書狀、仍難遣尋不給流、不執論、所請取也云々、
抑此一族爲橘氏是定由來者、氏公卿絶之後、無于行氏爵事、仍寬和之比、中關白道隆爲大納言之時、蒙宣旨行也、其所以者、攝津守中正之妻者、中納言橘澄淸女也、卽道隆、道兼、御堂〈○藤原道長〉等之外祖母也、依彼昭穆此爵事云々、
擧狀宣旨等案
橘氏
右大臣〈○藤原兼實〉被上レ行氏爵事
右氏人之中、無公卿之時、隨氏族申請宣旨、令行氏爵事者例也、爰於舊風、爲中納言橘澄淸卿女嚴子之外流、依昭穆申關白〈○藤原基房〉之處、已以如件、仍録事狀、謹請處分
安元三年四月十三日 散位從五位下橘朝臣
散位從五位下橘朝臣政光
散位從五位下橘朝臣親良
散位從五位下橘朝臣以實
散位從五位下橘朝臣
散位從五位下橘朝臣淸成
從五位下行隼人正橘朝臣淸定
前筑前守正五位下橘朝臣以政
正二位大納言源朝臣定房宣、奉勅宜件大臣定行彼氏爵事者、
同年五月廿三日 大外記兼越中權守淸原眞人賴業奉
功過別當仰言樣
正六位上橘朝臣國貞
安元三年六月五日
是定右大臣宣云、件人宜梅宮功課別當者、
同年同月同日 別當正五位下行少納言兼侍從長門權守平朝臣信季奉
代々是定例 參議橘恒平朝臣卒去以後
中關白〈(藤原道隆)寬和六年宣下、大納言、〉粟田關白〈(藤原道兼)永延二年宣下、中納言、〉御堂〈(藤原道長)長德元年宣下、大納言、〉宇治殿〈(藤原賴通)長和四年宣下、大納言、〉大二條殿〈(藤原敎通)寬仁元年宣下、中納言、〉堀川右大臣〈(藤原賴宗)長久三年宣下、大納言、〉京極殿〈(藤原師實)治暦元年宣下、右大臣、〉土御門右大臣〈(源師房)承保二年宣下、右大臣、〉九條相國〈(藤原信長)同四年宣下、内大臣、〉堀川左大臣〈(源俊房)嘉保元年宣下、左大臣、〉花園左大臣〈(源有仁)天治元年宣下、内大臣、〉宇治左府〈(藤原賴長)久安三年宣下、内大臣、〉六條攝政〈(藤原基實)保元二年宣下、大納言、〉當時關白〈(藤原基房)平治元年宣下、中納言、〉
巳上以政注進狀
御堂〈正暦四年八月廿二日、權中納言保元卿仰大外記滋野善言云、宜件卿定彼氏爵事、〈于時權大納言、氏人擧之、内大臣粟田辭退替、〉〉
俊賢〈長和四年十二月五日、氏人等擧之、被宣下日不分明、于時參議、〉
大二條關白〈寬仁元年十二月廿八日、左大臣仰大外記小野文義曰、宜件卿定行橘氏爵事者、于時中納言、〉
京極殿〈治暦元年十二月廿三日、左大臣須仰大外記中原師平云、宜件大臣定行氏爵事、于時右大臣、〉
土御門右大臣〈承保三年正月五日、權大納言源顯房卿仰少外記惟宗賴經云、宜件大臣定行彼氏爵事、關白左大臣辭退替、〉
堀川左大臣
花園左大臣〈天治元年十一月十五日、權大納言能俊卿、仰大外記中原師遠云、宜件大臣定行彼氏爵事、去保安二年故左大臣退替、于時内大臣、〉
宇治左大臣〈久安三年三月廿九日、被是定宣下云々、于時内大臣、〉
六條攝政殿〈保元元年十月廿八日、權大納言藤原 重道仰大外記中原師業云、宜件權大納言定行彼氏爵事者、于時權大納言、〉
關白殿〈平治元年十二月二日、被橘氏是定宣旨、于時權大納言〉
已上大外記賴業注進、相違以政注文、事太多々、可尋之、

〔玉海〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0478 壽永三年〈○元暦元年〉十月廿八日癸未、此日橘以政、〈橘氏長者〉余〈○藤原兼實〉問云、散位之人、有所帶是定(○○)之例哉、申云、宇治左大臣〈○藤原賴長〉是也、此例甚不然、又仰云、可誰人之由令存哉、申云、可仰、但大將殿、〈○兼實子 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00018.gif通〉令仁給歟云々、此事異儀事也、然而此男爲尾籠之人、仍爲申所問也、但隨重仰擧狀之由仰含畢、

〔傳宣草〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0478 橘氏是定(○○○○)
獻上
宣旨
橘氏申請、以正二位行權大納言藤原朝臣行氏爵事、〈副欵狀〉仰依請、
右宣旨、早可下知之狀如件、
十二月廿日 左衞門權佐光經〈奉〉
進上按察大納言殿
宣旨一枚
橘氏申請、以正二位行權大納言藤原朝臣行氏爵事、副下本解
右宣旨、謹奉入如件、
十二月廿二日 按察使判
大外記局
職事請文案

宣旨一枚
橘氏申請、以正二位行權大納言藤原朝臣行氏爵事
右宣旨、依請可下知之狀如件、
正月五日 按察使判

〔公卿補任〕

〈後醍醐〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0479 文保三年
右大臣正二位藤原房實 後七月廿八日任、十月廿九日被官次宣下、橘氏是定(○○○○)也、

〔諸家傳〕

〈九條〉

〈H 政基
長享(延德元)三年八月十九日、更爲橘氏是定、〈前關白久令詢件事之後、關白冬 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00018.gif(一條)追舊據懇望擧奏之處、今辭之、仍歸本風、申請彼前關白之由見申文、〉〉

〔實隆公記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0479 長享三年〈○延德元年〉十二月十三日丙申、抑橘氏是定宣下、去八月宣旨也、今日到來、以外事歟、

〔和長卿記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0479 大永四年五月廿七日、橘氏是定事、橘以緒〈于時極﨟〉來談云、自九條殿奉書到來、其儀是定事、御息大納言殿、可與奪申、任例爲橋氏長者申沙汰之由、被仰下也、申入云、被與奪申之儀、尤珍重、仍如例可申沙汰也、然者吉日可勘文、隨而又大納言殿未拜賀也、其例如何之由申入之處、前關白殿被仰云、未拜賀之例、無先規、當代始而雖拜賀、既被拜任早、以之可例云々、此事尤御自由之樣也、雖庶幾御命訖、欵狀借予手相調者也、兼日先前殿下可披見之由、依仰可見參云々、
橘氏
請以權大納言藤原朝臣植通卿行氏爵事狀、
右謹檢舊貫、氏族之中無公卿時、隨氏門申請、以外流卿相宣旨、令行氏爵事者、古今之恒典也、爰依中納言橘澄淸卿女、嚴子之後胤、稟昭穆、請申前關白從一位藤原朝臣詢件事、其職事久、今以擧例讓與、彼植通卿擧又故實也、誰謂非據乎、仍勒事狀、謹請處分
大永四年六月
後日又來談云、欵狀草可然之由被仰、返給之間、可淸書云々、六月十一日己巳、今日吉曜之由、自九候殿仰下之間、被欵狀、職事、其樣、
http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00015.gif紙一枚欵狀、〈奥方爲宣旨數行分、續其所年號月日之、〉以同紙一枚題帋卷調之、別書消息、其中卷籠之早、彼欵狀不封、只卷也、消息云、
是定欵狀獻之候、早可御奏聞候也、恐惶謹言、
六月十一日 式部大丞以緒
謹上 右少辨殿
杉原二枚之、卷籠欵狀、又一枚立文之、其儀如常、上書又如奥、
以緒自身持參廣橋亭前關白殿、大納言殿等、被與奪申之儀等演説、即申合辨披露之由、領狀云云、同十九日癸丑、是定宣旨、今日到來、仍何日可持參哉之由、内々九條殿申入之處、來廿一日可持參之由、被仰之旨、又來談早、

〔公卿補任〕

〈孝明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0479 文久二年
權大納言從二位藤道孝 十月十六日爲橘氏是定

伴氏長者

〔南留別志〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0479 一伴系圖に、氏長者(○○○)あり、藤氏源氏にはかぎらぬ事なり、

〔諸家系國纂〕

〈五十八/伴〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0480 大伴宿禰
國道
從四位上參議按察使、本是大伴、依淳和天皇諱、止大字伴朝臣、于時參議國道、爲氏長者(○○○○)、

高階氏長者

〔類聚三代格〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0480 太政官符
筑前國本社從一位勳八等宗像大神社神主事〈坐大和國城上郡登美山
正六位上高階眞人仲守〈○此十字據享祿寫本類聚三代格補〉
右得氏人内藏權助從五位下高階眞人忠峯等解狀、偁、件社坐大和國城上郡登美山、〈○中略〉件仲守、天性淸廉、堪神主、望請早被補任、令神事、但待氏長擧(○○○○)、被其替、相替之限、一依格制、謹請官裁者、從二位行大納言兼左近衞大將源朝臣多宣、奉勅依請、
元慶五年十月十六日

〔類聚三代格〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0480 太政官符
行宗像神社修理料賤代徭丁
良賤十六人正丁、在筑前國宗像郡金埼、充行徭丁八人、大和國城上郡四人、高市郡二人、十市 郡二人、
右得彼社氏人從五位下守右少辨兼大學頭高階眞人忠峯等解狀偁、件神坐大和國城上郡之内、與筑前國宗像郡從一位勳八等宗像大神同神也、〈○中略〉唯筑前社、有封戸神田、大和社、未封例、因茲忠峯等始祖太政大臣淨廣壹高市皇子命、分氏賤年輸物、令理神舍以爲永例、〈○中略〉望請進件賤良、將調庸、其代永請隨近徭丁、以充修料、謹請官裁者、大納言正三位兼行左近衞大將皇太子傳陸奥出羽按察使源朝臣能有宣、奉勅依請者、仍須件徭丁、待彼氏高階眞人長者(○○○○○○○○)、幷神主等共署申諸上レ之、〈○中略〉
寬平五年十月廿九日

安倍氏長者

〔長秋記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0481 長承元年五月十五日甲戌、權天文博士安倍兼時、與右京亮同泰親、故晴明領地祭庭論事、〈○中略〉兼時申云、件地非祭亭、晴明已後男女子傳領、其旨見次第分界、兼時一門、同時氏長也、隨得泰行讓、何於領知其妨哉云々、

菅原氏長者

〔海人藻芥〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0481 北野社別當職者、竹内門跡、〈○曼珠院〉代々相續也、又有氏長者(○○○○○)、

〔山槐記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0481 仁安二年三月廿九日丁卯、彈正大弼從四位下行菅原貞衡死去、年七十二、氏長者也(○○○○)、

〔吾妻鏡〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0481 文治二年六月十五日辛酉、安樂寺別富安能僧都、〈○中略〉當寺務事、付權門濫望之由、稱證文、進永久起請、保延宣旨狀等云々、今目參著關東也、〈○中略〉
安樂寺別當濫望人儀絶狀
安樂寺別當濫望氏擧大衆義絶事
右背父命者、非子道、背氏擧者、非氏人、然者在殷、〈在 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00018.gif子〉不子也、嚴實、〈是綱子〉不氏入、天神御起請有限、任氏擧次第所補任也、今背氏擧大衆之輩、公家可禁、別氏人、可儀絶之狀如件、
永久六年正月十二日 氏長者(○○○)式部大輔菅原在良

〔玉海〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0481 文治三年八月四日壬申、此日北野奉幣、十列如常、〈○中略〉使雅樂助忠賴、但件男有輕服事、雖除服猶爲假日數之内、而北野社、服假之人不參入云々、仍使闕如之間、約出件男之處、服假有實口猶依不參遣在茂、〈菅家長者(○○○○)〉之處、申云、假日數過了者、除服了輕服之人供奉神事、當社例也、仍以奉行職事幣、

〔百練抄〕

〈十四/四條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0481 文暦元年二月十四日癸未、今日未刻、北野宮神殿禮殿小社廻廊、拂地燒亡、十七日丙戌、造營事、菅氏長者(○○○○)大藏卿爲長卿、給長門國、可其沙汰之由被仰下了、

〔菅原氏系圖〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0481 公賴
在雅〈修理大夫、從二、長者(○○)、廷文二七廿四薨、八十二、〉

〔太平記〕

〈二十六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0481 執事兄弟奢侈事
越後守師泰ガ惡行ヲ傳聞コソ不思議ナレ、東山ノ枝橋ト云所ニ、山庄ヲ造ラントテ、此地ノ主ヲ 誰ゾト間ニ、北野ノ長者(○○○○○)菅宰相在登卿ノ領知也ト申ケレバ、軈テ使者ヲ立、此所ヲ可給由ヲ所望シケルニ、菅三位使ニ對面シテ、枝橋ノ事御山庄ノ爲ニ承候上ハ、子細アルマジキニテ候、但當家ノ父祖代々此地ニ墳墓ヲトテ、五輪ヲ立、御經ヲ奉納シタル地ニテ候ヘバ、彼墓ジルシヲ他所ヘ移シ候ハン程ハ、御待候ベシトゾ返事ヲシタリケル、

〔尊卑分脈〕

〈四菅〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0482 菅氏
在宣〈應永廿七六十五薨、長者、參議、大學頭從二、〉

〔拾芥記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0482 延德元年十一月十八日壬申、長者(○○)長坂、〈○坂恐誤字〉氏神出仕也、和長〈○菅原氏〉予〈○菅原爲學〉同參向、第二大内記在數朝臣、〈○菅原氏〉依父重服參、長者衣冠持笏、和長以下布狩衣也、〈○中略〉先參祓殿、於河邊列立、長者次第洗手祓之、參向氏神

小槻氏長者

〔康富記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0482 寶德元年閏十月廿六日壬寅、抑官務幷氏長者事、今月廿一日、自禁裏日野右少辨勝光、爲御使武家、〈○中略〉奉行事、不子細候由、武家御返事楚忽被申侯間、廿二日、晨照宿禰可官務氏長者之由被宣下之〈○中略〉而長興宿禰當職被改補之條、不便之由、申入武家之處、〈○中略〉自室町殿重而申入内裏之間、又如元長興宿禰可官務之由、今日被宣旨云々、〈○中略〉當氏長者事、如元可存知之由、被仰下之状如件、
閏十月甘六日 右中辨〈判〉
新四位史殿

越智氏長者

〔河野系圖〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0482 爲綱〈風早大夫〉
宗綱〈寺町判官代、依乞成庶子、〉
親孝〈北條、雖二男成氏長者(○○○)、〉

〔諸家系圖纂〕

〈二十四/越智〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0482 爲綱
親孝〈大夫號北條氏長者(○○○)〉 親經〈北條大夫、從五位下、氏長者(○○○)〉

〔豫章記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0482 後醍醐院元亨三年癸亥、三島宮回祿、于時氏長者(○○○)通盛、〈○越智氏〉大祝今治孝經云々、

禁制

〔續日本紀〕

〈二十/孝謙〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0482 天平寶字元年六月乙酉、制勅五條、諸氏長等(○○○○)、或不公事、恣集己族、自今以後、不更然、〈其一〇中略〉宜所司嚴加禁斷、若有犯者、科違勅罪、〈○又見類聚三代格

待遇

〔日本書紀〕

〈二十九/天武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0482 八年正月戊子、詔曰、凡當正月之節、諸王諸臣、及百寮者、除兄姉以上親、及己氏長(○○○)以外莫拜焉、

〔續日本紀〕

〈一/文武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0482 元年閏十二月庚申、禁正月往來行拜賀之禮、如有違犯者、依淨御原朝廷〈○天武〉制、決罰 之、但聽祖兄及氏上(○○)者、

〔令義解〕

〈九/喪葬〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0483 凡三位以上、及別祖氏宗、〈謂別祖者、別族之始祖也、氏宗者、氏中之宗長、卽繼嗣令聽勅定是也、〉並得墓、〈謂墓之言慕也、言家塋之地、孝子所思慕者、〉以外不合、雖墓、若欲大藏者聽、

職掌

〔續日本紀〕

〈六/元明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0483 和銅七年二月丁酉、以從五位下大倭忌寸五百足、爲氏上神祭(○○○○○○○)、

〔標註職原抄別記〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0483 神祭とは、氏神の祭の事也、氏神の祭を掌るは、氏上の職なり、

〔令集解〕

〈七上/神祇〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0483 仲冬上卯相嘗祭〈釋云、大倭社、大倭忌寸祭(○○○○○)、宇奈太利、村屋、住吉、津守、大神社、大神氏上祭(○○○○○)、〉

〔今書〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0483 古擧先祀者、各合其氏姓之親而享焉、故謂之氏神、而其中有宗子、宗子者、其宗所同長故謂之氏長、且國社亦必多用其神子孫祭主、假如大和三輪社、卽以大神氏、河内經津主之祠、卽以矢作氏姓氏録、二氏各其所祀之後也、武藏有出雲社焉、蓋亦同、其國造之先所由出、其餘率是類也、

〔令集解〕

〈七上/神祇〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0483 釋云、伊謝川社祭、大神氏宗定而祭不定者不祭(○○○○○○○○○○○○)、卽大神族類之神也(○○○○○○○○)、以三枝華樽而祭、大神氏供、此云麤靈和靈祭

〔九條年中行事〕

〈二月〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0483 卯日大原野祭事
祭日平旦、神祇官裝束神殿、〈○中略〉藤氏六位以下次第著到、〈○中略〉了就直會殿座、〈○中略〉此間饗祿、藤氏后宮所儲、氏后不在之時、氏長者(○○○)儲饗、但祿事可前例

〔江家次第〕

〈五/二月〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0483 大原野祭
膳〈所司幷后宮居膳、此日饗祿、藤原氏后儲之、氏后不在之時、氏長者儲之(○○○○○)、〉

〔權記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0483 長保二年正月廿八日丙午、早旦參内、〈○中略〉當時所坐藤氏皇后東三條院、〈○國融后詮子〉皇后宮、〈○圓融后遵子〉中宮、〈○一條后定子〉皆依出家、無氏祀、職納之物、可神事、巳有其數、然而入道之後、不其事、〈○中略〉我朝神國也、以神事先、中宮雖正妃、巳致出家入道、隨不神事、依殊私之恩、無職號、全納封戸也.重立妃爲后、令氏祭宜歟、又大原野祭、尋其濫觴、在於后宮之所一レ祈、而當時二后、〈○圓融后遵子、一條后定子、〉共 無勤、左大臣〈○藤原道長〉依氏長者、獨勤其祭、雖闕怠、恐非神明之本意歟、是亦可神事之違例、小臣〈○藤原行成〉以藤氏末葉、爲氏祭申也、

〔台記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0484 久壽元年九月七日丁巳、今日招左大辨、仰下春日社預二人(○○○○○○○○)、本六人也、而關白殿〈○藤原忠通〉長者間、加一人七人、余〈○忠通弟賴長〉長者後、仰曰、宜舊爲六人、但非却本預、一人闕時、不補替者、其後預信春、有罪解却、祐房有兼死去、三人替補二人也、〈有貞祐政〉

〔二十一社記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0484 平野社、〈○中略〉祠官も長者の宣にて補之、藤氏長者、春日等祠官を如補也、

〔保元物語〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0484 左府御最後附大相國御欺事
左大臣殿〈○藤原賴長〉失セ給ヒテ後ハ、職事辨官モ故實ヲ失ヒ、帝闕モ仙洞モ、朝儀廢レナントス、世以テ惜ミ奉ル、誠ニ累代攝祿ノ家ニ生テ、萬機内覽ノ宣旨ヲ蒙、器量人ニ超、才藝世ニ聞ヘ給ヒシガ、如何有ケン、氏長者タリナガラ(○○○○○○○○)、神事踈ニシテ(○○○○○○)威勢ヲ募レバ、我不朋由、春日大明神ノ御託宣有、神慮ノ末コソ恐シケレ、

〔海人藻芥〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0484 鹿島社春日社者、時ノ關白御計也(○○○○○○○)、是言氏長者也、梅宮勸學院同之、

〔年中行事歌合〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0484 十二番 右 梅宮祭〈○中略〉
梅宮は、是定などいひて(○○○○○○○)、大臣の管領する社にて侍るにや(○○○○○○○○○○○○○○)、これは橘氏の人、氏神にて渡らせたまふとぞ承る、

〔廿二社本縁〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0484 平野事
當社〈和〉、源氏〈乃〉長者管領之(○○○○○○○○)、正統〈是神主ヲ云也〉等〈乃〉祠官〈毛〉、長者〈乃〉宣(○○○○)〈仁氐(○○)〉補〈寸〉之(○○○)、藤氏〈乃〉長者〈乃〉、春日等〈乃〉祠官〈毛〉如〈シ〉被〈加〉補、以之思〈仁〉之〈乎〉、源氏〈乃〉氏神也、

〔古老口實傳〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0484 一神聖禁戒、千經所説、禮是心基也、故天下怪異、聖朝御藥、不愼者也、因茲古人傳云、其國主、其氏長者(○○○○)歎者、齊念宜謹愼之誠也、禮亂則神明已散、思之思之、

〔西宮記〕

〈臨時二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0485 維摩講師事
先例以其僧講師由被事云々、是延喜例云々、
氏長者、上卿宣旨仰外記歟、外記作請書氏公卿名

〔三中口傳〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0485 一法會儀事〈○中略〉
氏(三)長者〈○藤原氏〉始行法成寺御誦經
誦經物於堂内〈○中略〉
氏(中)長者法成寺始被誦經
件時不殿上人座

〔日本後紀〕

〈八/桓武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0485 延暦十八年十二月戊戌、勅天下臣民、氏族已衆、或源同流別、或宗異姓同、欲譜牒、多經改易、至籍帳本枝、宜告天下上レ本系帳、三韓諸蕃亦同、但令始祖及別祖等名、勿枝流幷繼嗣歴名、若元出于貴族之別者、宜宗中長者署上レ之(○○○○○○○○○)、

〔令集解〕

〈六/職員〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0485 大同元年十月十三日官符云、應氏女事、右檢令條、諸氏氏別貢女、皆限年卅已下十三已上、而中間停廢、略無遵行、今被右大臣宣偁、奉勅凡件女者、氏之長者、擇氏中端正女之(○○○○○○○○○○○)、其十三巳上之徒、心神易徒、進退未定、宜採女年卅已上卌已下時無夫者、或貢後適人、必合貢替、又官途忽忙、獨難取捨、緩急之事、當有援助、宜長者相輔令上レ仕進(○○○○○○○○)、自今以後、立爲恒例、〈○又見類聚國史

〔類聚三代格〕

〈七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0485 太政官符
止左右京五畿内隱首括出附一レ帳事
右太政官去大同元年八月八日符偁、太政官去延暦十九年十一月廿六日下民部省騰勅符偁、都鄙之民賦役不同、除附之事損益已異、今聞外民挾姧競貫京畿、隱首括出二色是也、非唯增口貪一レ田、實亦冒名假蔭、如不轍何絶詐僞、自今以後、一切禁斷者、右大臣宣、奉勅今禁隱首頗弃人民之胤、復斷括 出還增浮宕之類、宜令條上レ籍帳、但冒名假蔭、依法科罪者、如聞外土之民姧附京畿、多盾遁課役土心、右大臣宣、奉勅宜延暦十九年十一月廿六日格、嚴加禁止、有司許容不糺、依法科責、但隱首色不止有附者、氏中長者(○○○○)、覆實加署申所司、所司申官、待報而後附帳、
齊衡二年三月十三日

〔類聚三代格〕

〈十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0486 太政官符
制外國百姓姧入京戸
右齊衡二年三月十三日格偁、延暦十九年十一月廿六日、下民部省騰勅符偁、都鄙之民、賦役不同、附除之事、損益已異、今聞外民挾姧、競貫京畿唯增口貪一レ田、實亦冒名假蔭、如不轍、何絶詐僞、自今以後、切禁斷者、如聞外土之民、姧附京畿、多遁課役、無懷土心、右大臣〈○藤原 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00018.gif房〉宣、奉勅宜延暦符嚴加禁止、但有隱首色不巳可附者、氏中長者(○○○○)、覆審加署申所司(○○○○○○○)、所司申官、待報符而後附帳者、〈○中略〉左大臣宣、奉勅宜重下符勤加檢録、若戸主隱而爲人所告、有司忍而不督察、依法科處、不曾寬宥
寬平三年九月十一日

〔江家次第〕

〈二/正月〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0486 叙位〈○中略〉
次叙王氏、〈在一筥、書從五位下之次、故實資大臣説、可於正四位上云々、件名薄、在第一筥中上頭、横置之、〉
王〈某御後〉若孫王者叙四位
次叙源氏〈書於兵部下〉 源朝臣某〈某御後、或只註氏、或弘仁御後、或天長御後、或天暦御後、〉
次叙藤氏〈以下次第下行書之、或公卿、無名簿詞被申、〉
藤原朝臣某〈氏〉
藤原氏長者、擧勸學院學生
次叙橘氏
橘朝臣某〈氏是定擧也(○○○○○)、其人在座可請益、不封、〉
頭註
源氏爵之時、大臣之中、有源氏者、先可請益、可益於第一人歟、

〔江次第抄〕

〈二/正月〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0487王氏 西宮云、一親王、擧四世以上巡、
治承二年、後法性等關白〈○藤原兼實〉記云、賴業申云、王氏爵、往昔第一親王擧之、中古以來、諸王之中、爲長者之者擧之、〈○中略〉
源氏 西宮云、長者擧弘仁御後、隔三年
今案、尻付或書氏字、或註弘仁御後、天暦御後、天長御後、源氏長者、擧奬學院學生也、
藤氏 西宮云、長者擧同源氏、有四門
今案四門、謂南北式京也、藤氏長者、擧勸學院學生、叙爵則専可北家歟、勸學院、閑院左大臣〈○冬嗣〉所建立也、
橘氏 是定者、中納言橘澄淸、以中關白〈○藤原道隆〉爲是定、令學館院學生事、以來擧氏爵也、

〔西宮記〕

〈臨時一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0487 諸宣旨
施藥院使〈氏長者宣、賜官符式部、近代宣旨、〉
勸學院別當〈長者、召有官辨別當仰下、〉
奬學院〈辨別當宣旨、六位長者宣、〉
學館院〈近代氏定〉

〔傳宣草〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0487 一藤氏長者仰下事
勸學院別當事〈召有官別當之〉
施藥院崇親院等、別當勾當等事、〈仰別當辨
興福寺法性寺龍蓋寺等、別當供僧三綱等、

勅定氏上

〔日本書紀〕

〈二十九/天武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0488 十年九月甲辰、詔曰、凡諸氏、有氏上(コノカミ)未定者各定氏上、而申送于理官(ヲサムルツカサ)、

〔日本書紀〕

〈二十九/天武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0488 十一年十二月壬戌、詔曰、諸氏人等、各定氏上而申送、亦其眷族多在者、則分各定氏上、並申送於官司、然後斟酌其狀而處分之、因承官判、唯因少故、而非己族者、輙莫附、

〔標註職原抄別記〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0488 其眷族多在者、則分各定氏上とは、喪葬令に別祖氏宗といふ事ありて、義解に別祖者、別族之始祖也、氏宗者、氏中之宗長也と見ゆ、これを漢土に擬ていへば、氏宗は大宗の如く、別族は小宗の如く、皆一家よりわかれて數族となれるなり、さる氏々には、その一族々々の内にて、氏上を定めよといふ事なり、因承官制云々とあるは、氏上を官判にて定る事にはあらず、こは族多かる者は、一族々々にて氏上を定め、此を理官に申せば、理官に於て此一族には氏上あるべし、此一族にはなくても事缺まじければ、彼氏上に攝しめて、こなたをば氏上を除くべしなど斷りて、さて奏を經て勅を聞て定むるなり、

〔令義解〕

〈四/繼嗣〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0488 凡三位以上繼嗣者、皆嫡相承、若无嫡子、及有罪疾者、立嫡孫、〈○中略〉其氏宗者聽勅、

〔令義解〕

〈二/戸〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0488 凡應分者、家人奴婢〈氏賤不此限〉田宅資財、〈其功田功封、唯入男女、〉〈謂不財物之法、男女嫡庶、並皆均分也、〉摠計作法、〈○下略〉

〔令集解〕

〈十/戸〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0488 釋云、其氏賤者、不財物之例、氏家人奴婢者、轉入氏宗之家耳、或云、繼嗣令云、氏宗聽勅、假令諸氏氏別、以其中長者、勅定爲氏宗(○○○○○)、故此氏賤不均分之限、則充氏宗之家、假如甲元爲宗、丁子後爲宗者、甲子不之、丁子爲宗之故、擧一反三、從之可知、在釋背

〔日本書紀〕

〈二十九/天武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0488 五年六月、物部雄君連、忽發病而卒、天皇聞之大驚、其壬申年、從車駕東國、以大功、降恩賜内大紫位、因賜氏上(○○○○)、

〔日本書紀〕

〈三十/持統〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0489 八年正月丙戌、以正廣肆、授直大壹布勢朝臣御主人與大伴宿禰御行、增封人二百戸、通前五百戸、並爲氏上(○○○○)、

〔續日本紀〕

〈四/元明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0489 慶雲四年九月丁未、正五位下大神朝臣安麻呂、爲氏長(○○○)、

〔續日本紀〕

〈六/元明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0489 靈龜元年二月丙寅、從五位下大神朝臣忍人、爲氏上(○○○)、

〔續日本紀〕

〈七/元正〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0489 靈龜二年九月乙未、以從四位下太朝臣安麻呂、爲氏長(○○○)、

〔公卿補任〕

〈後白河〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0489 久壽三年〈○保元元年〉
關白從一位藤忠通 七月十一日、依宣旨、更爲藤氏長者(○○○○○○)、

〔愚管抄〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0489 左大臣〈○藤原賴長〉は、したはらまきとかやきて、おちられけるを、誰がやにかありけん、かほにあたりて、ほヽをつよく射つらぬかれにければ、馬より落にけり、小家にかき入てけり、此日やがて、藤氏の長者は如元と云宣下ありて、法性寺殿〈○賴長兄忠通〉に返し付られにけり、上の御沙汰にて(○○○○○○○)、かくなることのはじめなり、

〔保元物語〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0489 關白殿歸復本官事附武士被官賞
同十一日〈○保元元年七月〉夜ニ入テ、關白殿、〈○藤原忠通〉本ノ如ク氏長者(○○○)ニ成セ給フ、去久安ノ比、富家殿〈○忠通父忠實〉ノ御計ヒトシテ、左大臣〈○忠通弟賴長〉ニ成給ヒシガ、今本ニ復セシゾ目出度カリシ、

〔公卿補任〕

〈後白河〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0489 保元三年
右大臣正二位藤基通 八月十一日、詔爲關白氏長者

〔類聚大補任〕

〈七/安德〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0489 攝政内大臣從二位藤基通
治承三年十一月十六日、任内大臣、爲關白藤長者

〔豫章記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0489 爲綱、風早大領伊豫權介、其子親孝〈北條大夫〉氏長者ト云蒙勅裁(○○○○○○○○)、朝廷候、孝靈天皇ヨリ四十二代、功名先祖ヲモ欺クホド也、仍テ如此被召ケル也、

〔百練抄〕

〈十/御鳥羽〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0490 建久七年十一月廿五日庚子、停關白前太政大臣職、〈○藤原兼實〉以前攝政藤原朝臣、〈○藤原基通〉可氏長者幷關白之由被宣下

〔壬生家文書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0490 暦應三年七月十八日、今日源氏長者幷奬學院別當事被宣下、〈○源通冬〉職事藏人左少辨宗光、上卿春宮大夫冬信卿也、氏長者事、別被宣下哉否之由、宗光相尋候間、如然候由返答了、此事正應以下、大略被宣下也、口宣二枚獻上候、早々可下知、依御狀如件、
七月十八日 左少辨宗光〈奉〉
進上 春宮大夫殿
暦應三年七月十八日 宣旨
左衞門督源朝臣〈○通冬〉
氏長者
藏人左少辨兼左衞門權佐春宮大進藤原朝臣宗光〈奉〉
暦應三年七月十八日
左衞門督源朝臣
奬學院別當
藏人左少辨兼左衞門權佐春宮大進藤原朝臣宗光〈奉〉

〔泰平年表〕

〈台德院〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0490 慶長十年御上洛、〈○中略〉四月七日、東照宮御辭職、同十六日、二條城に於て將軍宣下、内大臣征夷大將軍正二位右近衞大將元の如し、兼淳和奬學兩院別當源氏長者(○○○○)牛車を許されて、隨身兵仗を賜る、

〔公卿補任〕

〈仁孝〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0490 文政六年
關白從一位藤政通 三月十九日詔、同日氏長者、内覽隨身兵仗、牛車等宣下、

私爲氏長者

〔職原抄〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0491 藤氏長者
攝政關白詔之人爲其仁、仍別不宣下也、

〔標註職原抄〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0491 氏長者の宣下にて補せらるヽは、諸氏みなその例也、然に不宣下して補する例、藤氏は鎌足公に始る、鎌足の子孫、南北京式の四家に別れたる内、北家代々攝關たりしゆゑに、おのづから長者の號、この一家に歸して、宣旨をまたず長者たりしなり、

〔公卿補任〕

〈圓融〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0491 天延二年
關白正二位藤兼通 二月八日、爲氏長者

〔公卿補任〕

〈圓融〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0491 貞元二年
關白正二位藤賴忠 十一月十一日、詔令白萬機、同日幷爲氏長者

〔公卿補任〕

〈一條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0491 正暦六年〈○長德元年〉
關白正二位藤道隆 四月三日、依病危急重辭關白、返隨身、渡長者印於右大臣(○○○○○○○○○)、〈○藤原道兼〉

〔公卿補任〕

〈一條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0491 正暦六年〈○長德元年〉
關白藤道兼 四月廿七日、關白巨細雜事、同廿八日、爲氏長者

〔本朝世紀〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0491 康和元年十月六日甲辰、前關白内大臣〈○藤原師通、此年六月二十八日薨、〉後家、渡氏長者印契等於左大將家、〈○藤原忠實〉

〔公卿補任〕

〈堀河〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0491 承德三年〈○康和元年〉
權大納言正二佐藤忠實 十月六日、爲氏長者
○ 按ズルニ、藤原氏長者ハ舊例更ニ宣下ノ儀ナキヲ以テ常トス、其之アルハ忠實ノ子忠通ニ 始マレリ、事ハ上文勅定氏上ノ條ニ見ユ、尚ホ藤氏長者ノ條ヲ參看スべシ、

爭爲氏長者

〔愚管抄〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0491 知足院殿、〈○藤原忠實、中略、〉藤氏長者は、君のしろしめさぬ事なりとて、久安六年九月廿五日に、 藤氏長者〈○忠實長子忠通〉をとり返して、東三條におはしまして、左府〈○忠實次子賴長〉に朱器臺盤わたされにけり、

〔本朝世紀〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0492 久安六年九月廿六日己亥、今夜宇治入道相國〈○藤原忠實〉幷左大臣〈○忠實子賴長〉被東三條、則以左大臣、可藤氏長者之由被定行、稱攝政〈○賴長只忠通〉驤給、被朱器大盤及戊印、散位藤有成朝臣、爲本所使、給祿退出、其間事、喧花多端、又驚耳目歟〈○又見百練抄

〔台記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0492 久安六年九月廿六日己亥、鷄鳴後參西殿、〈禪閤(藤原忠實)居處〉頃之乘輿出御、余〈○忠實次子賴長〉乘車從之、〈兼長同車〉棹船渡河、於東岸禪閤移車、余連車、此間降雨、比二子陵邊天曙、過此陵櫃川、見禪閤御車、右邊有一鹿、再見之、忽然不見、奇問僕從、各答見.疑春日明神、守禪閤歟、辰時入洛、自京極北行、近年禪閤上洛、御高陽院〈○忠實女、鳥羽后藤原泰子、〉所御之土御門宮、仍陪從上下皆存其由、至條御車西行、入御東三條、左右奇之、無所以、寢殿與東對之間、渡廊爲御所、禪閤使仲譽申高陽院曰、依疾急參向、侍東三條者、報命曰、御惱何事乎、多不審、白晝參入、不見苦者、今間可參者、重被渡御之由、此間左衞門尉爲義〈五位檢非違使〉依召參入、奉仰屯兵御倉町、已時天顔快晴、禪閤大説之、未時許、禪閤曰、攝政〈○忠實長子忠通〉於我不孝、我心深怨、而年來忍之無報、今媚謟、〈○媚謟二字恐誤〉暗可攝政之由數度、〈十許度云々〉非唯無許諾、亦有不義之報命、是以將父子之義、攝政者天子所授、我不之、氏長者(○○○)、我所驤(○○○)、無勅宣(○○○○)、然則取長者官爾、何有怖憚矣、余且諌且辭、禪閤不聽、卽召仲行賴賢仲賢等、仰出長者官、〈○官恐印誤、下同、〉渡庄劵、朱器臺盤、權衡等之由、賴賢言、此物所納之倉謚、置攝政殿下下家司宅、爲之如何、禪閤作色曰、早破鏁、卽仲行等率向、須 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00022.gif賴賢來言、試覔倉邊、自得舊謚、可以開此倉鏁、禪閤説曰、天授印爾也、此間賀陽院渡御、持參朱器等、戌時有成朝臣、持來朱器等、授祿謝之、先之禪閤上書法皇〈○鳥羽〉曰、攝政不愚臣之命、不孝尤甚、是以既絶父子義、仍授長者官於左大臣〈○賴長〉畢、戌時報書到來曰、攝政不孝不盡、人傳迺者、攝政法性寺邊家、麋鹿亂入破障子、又狐白晝入來、追禁不去、〈于今猶如此〉去夜曉、月入太微中太白、荊州占曰、月行太微中、君政不行、貴人失勢、奪權若所由成刑、〈泰親奉密奏〉去夏勸學院藤不華、攝政令占曰、長者及辨別當可愼、〈或曰、件藤件年不華、〉無動寺律師實寬語曰、去此多武峯廟木主自裂、申長者驚怖、先例有此恠時、必有祈禱、今無其事、遂有此凶、〈○中略〉
別記、受長者印事、〈禪閤授之〉
廿七日庚子、上皇〈○崇德〉使敎長卿賀長者事、又藤大納言、〈宗輔〉顯親師能等朝臣來賀、又大相國、〈○藤原實行〉右相府、〈○源雅定〉遂使示賀、上書法皇昨日事、恐喜相交、難善惡之狀、手書曰、昨日事尤可喜悦、來月二日、必可參云々、禪閤曰、法皇手書曰、攝政不義、公之所爲、可理、

〔顯廣王記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0493 長寬三年〈○永萬元年〉二月廿六日乙巳、祈年穀奉幣、〈○中略〉伊勢使王兼綱、中臣權少祐親賴、忌部大隅前司孝重、 十二月十日乙酉、今日月次祭事、右少辨平信範、催忌部明友云、有所勞晝可行也、仍明友未時參入、〈○中略〉抑明友、爲孝重氏長(○○○○)、于今十八ケ年也、今差進明友之處、上鄕仰行事辨云、今日使孝重有訴申旨、代初之使也、以位上﨟、長者以孝重差進之處、進明友之條、無其謂云々者、彼申狀非其理、可尋沙汰歟、孝重參八省、奉官幣了、辨以消息此由、抑進發先有其尋、可子細者、僕申云、今日使依初度、以官人大祐明友差進也、當官之例、爲官人之故也、孝重申旨、旁其理不候、中臣中雖位階上﨟其員、以官人長者、卜部又以如此、而孝重、妄稱長者之由(○○○○○○)歴沙汰之後、左右可給事歟、加之代始初度奉幣、無故破却差文、被使條、頗其憚可候歟、以此旨言上給者、此間孝重明友口論、互及放言云々、然問請文參著、披見之後、任差文明友宣命進發了、其後及戌刻明友申云、次男史明茂、大理無左右檢非違使則定了、尋由緒咎依女事云々、然而明友不留進發了、此事如何、神祇官人、直給檢非違使之條、古今未先例、况依女事哉、私被重科、主人所行、人不難、及獄斷之條、不官人所爲事歟、退之左右歟、兼又孝重明友相論事、以孝重申文明友、如明友陳狀者、慥有明文、其故孝重賜宣旨、明友訴申、仍賜改定宣旨了、如其狀者、明友埋也、此上明友、帶相傳讓狀文書等、 孝重無相傳文等、况明友年來之職、代々與奪也、然依宣旨文書、以嫡々相承、前伯又重成給補任了、

〔玉海〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0494 治承二年正月五日庚子、此日叙位儀也、余〈○藤原兼實〉始奉執筆、〈○中略〉召賴業於簾前、問叙位之間雜事、賴業令事等
一王氏爵事
往昔第一親王擧之、中古以來、諸王之中、爲長者之者擧之(○○○○○○○)、年來神祇伯顯廣王所擧也、而出家之間、今年有違亂、其故者顯綱王、〈顯廣嫡男〉依位階上﨟擧狀、仲資王、〈顯廣二男、卽顯綱弟也、〉當時依父讓執務、彼氏事、又稱神祇伯擧狀者、兩人共擧事、古今未聞、然而外記不進止、臨期奏事由左右云々、愚案依神祇伯、不王氏爵、仲資王申旨、可濫吹歟、王氏被宣旨擧申也、何有自由之論哉、

〔江次第抄〕

〈二正月〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0494 今案治承二年三年、叙位不王氏爵、依顯廣仲資相論也、

〔玉海〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0494 治承四年正月五日戊午、此日叙位議也、余〈○藤原兼實〉候執筆、〈○中略〉次叙王氏、〈名簿在硯上、付短册封也、〉余先取笏奏曰、王氏爵、此四五年來不叙、是則正親正顯綱、與神祇伯仲資、〈巳上兩人共、顯廣王入道子也、顯綱兄、位階上﨟也、〉王氏之長者相論(○○○○○○○)、其事未決之故也、而今上擧狀、〈顯綱狀也〉若被宣下歟、不然自由上擧、頗以不穩、叙否之間、可勅定者、仰云、可外記、余召通親外記、外記申云、可王氏之由未宣下、但去秋奉幣使之時、顯綱王、可王氏之長者由被仰了、加之父顯廣王、在俗之時、雖氏爵之勅宣、以爲王氏之長者、年來上擧、隨又所叙來也、但此上左右、可御定者、余奏此由、勅云、共有何事哉、且又可計奏者、余申云、古昔親王、公家宣旨擧之、雖然顯廣之時、年來上擧狀、又被叙畢、今不彼例、何況奉幣之時、五位之王、備其役、積年不叙者、尤不便歟、但今夜不叙、追宣下之後雖叙、又何事之有哉、左右之間、可勅定者、重仰云、顯廣之時、不公家殊宣旨擧狀、任彼例之者、仍叙畢、

證憑

〔先代舊事本紀〕

〈五/天孫〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0494 弟宇麻志麻治命
十六世孫物部耳連公
孫物部馬古連公
此連公、難被朝〈○孝德〉御世、授大華上氏印大刀食封千煙、奉神宮

〔鹽尻〕

〈九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0495 傳來ノ刀劒 昔諸姓の大氏に大刀を賜ひ、小氏に小刀を賜りし、是を氏印と稱す、〈天孫本紀〉
後世家に傳へし刀劒は此類なるべし、世久しく本故を忘れし家々多し、

〔日本書紀〕

〈二十七/天智〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0495 三年二月丁亥、天皇命大皇弟、宣換冠、〈○中略〉氏上民部家部等事、〈○中略〉其大氏之氏上賜大刀、小氏之氏上賜小刀、其伴造等之氏上、賜于楯弓矢

〔日本書紀通證〕

〈三十二/天智〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0495 舊事紀曰、氏印大刀、古語拾遺曰、其二曰朝臣、以賜中臣氏、命以大刀、其三曰宿禰、以賜齋部氏、命以小刀是也、

〔古語拾遺〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0495于淨御原朝、〈○天武〉改天下萬姓、而分爲八等、唯序當年之勞、不天降之績、其二日朝臣、以賜中臣氏、命以大刀、三曰宿禰、以賜齋部氏、命以小刀

〔本朝世紀〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0495 康和元年六月廿八日己亥、關白從一位内大臣藤原師通公薨、〈○中略〉嘉保元年三月九日、詔爲關白、十一日、得氏長者印(○○○○○)、

〔百練抄〕

〈七/近衞H 久安六年九月廿六日、入道大相國、〈○藤原忠實〉取藤氏長者印(○○○○○)、幷朱器大盤、渡左大臣、〈○忠實子賴長〉此間喧嘩多端、〉

〔江次第抄〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0495 大臣家大饗
藤氏一大臣 藤氏一大臣者、謂氏長者也、用朱器臺盤、此朱器等者、閑院左大臣冬嗣公御物、在勸學院、關白初任之時渡之、正月大饗用此器也、

〔鹽尻〕

〈十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0495 台記氏長者朱器臺盤〈○中略〉
按るに、朱器臺盤は、氏長者の饌器たるもの、今世士庶用之、これ後世古禮を失せる歟、

〔後中記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0495 仁治三年三月廿五日丁未、今日左相府〈○二條 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00018.gif實〉内覽幷藤氏長者事、可宣下云々、〈○中略〉御拜 賀日、先例多被長者印(○○○)、〈○中略〉殿下出御、公卿四條大納言、予、〈○藤原資賴〉吉田中納言、二條中納言、侍從宰相、新宰相等參著、次覽吉書、〈○中略〉次被印辛櫃朱器臺盤(○○○○○○○)等

〔資季卿記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0496 仁治三年三月廿四日、參左府殿下、〈○藤原 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00018.gif實〉北政所御産氣近々、若觸穢者、朱器臺盤難渡、仍明日於氏長者、可宣下之由自殿被申云々、

氏助

〔續日本紀〕

〈一/文武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0496 二年九月戊午朔、麻績豐足爲氏上、无冠大贄爲助、進廣肆服部連佐射爲氏上、无冠功子爲助、

〔倭訓栞〕

〈前編四/宇〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0496 うぢのをさ 文武紀に、氏上の副を助ともいへり、

〔姓序考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0496 氏上
氏上の助と云者もありし由なれど、其は考べきよしあることなし、

氏人

〔運歩色葉集〕

〈宇〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0496 氏(ウヂ)人

〔書言字考節用集〕

〈四/人倫〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0496 氏人(ウヂビト)

〔延喜式〕

〈十一/太政官〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0496 凡平野祭者、桓武天皇之後王、〈改姓爲臣者亦同〉及大江和等氏人、並預見參

〔西宮記〕

〈臨時六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0496 諸社遷宮事
凡氏社事、氏人承行云々、

〔日本紀略〕

〈三/村上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0496 天暦元年九月五日丙辰、今日勸學院〈○藤原學館〉椎木、無故折、令占云、氏公卿(○○○)可愼云々、

〔榮花物語〕

〈八/初花〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0496 あたらしきみこ〈○後一條〉の御よろこびに、氏のかんだちめ(○○○○○○○)、ひきつれて拜したてまつり給、藤氏ながら門わかれたるは列にもたち給はず、

〔中右記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0496 永久六年〈○元永元年〉二月晦日、今夕有陣定、秉燭之間參内、左大臣、右大臣、右大將、藤大納言、治部卿、帥中納言、左大辨參仕、先安樂寺〈○在太宰府〉別當所望、僧三人理非事、人々被定申、本依氏人〈○菅原氏〉擧狀補來也、而山大衆奏狀中、又可延暦寺三人由申請也、如此之間、人々不一決、重又相互被尋問、或 勅定者、

〔歌林四季物語〕

〈一/春〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0497 廿五日〈○正月〉の、北野のたいさくけんさくのことはじめは、菅原の氏人(○○○○○)、第一のかんだちめのなし給ふ事なるべし、

雜載

〔古事談〕

〈三/僧行〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0497 宗賴卿、爲家長者(○○○)之時、勸修寺八講捧物、引牛車云々、

〔尊卑分脈〕

〈十/藤原〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0497 家保〈善勝寺長〉 家成〈善勝寺長〉 隆季〈善勝長〉 隆房〈善勝長〉
隆衡〈善勝長〉 隆親〈嫡家號四條、善勝長、〉

〔公卿補任〕

〈後花園〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0497 嘉吉二年〈壬戌〉
權中納言正三位藤隆盛〈○隆親六世孫〉 正月五日叙從二位、〈後日被書入之〉善勝寺長者(○○○○○)、

〔保暦間記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0497 淸盛ハ、桓武天皇ノ御末葉、讃岐守正盛ガ孫、刑部卿忠盛ガ嫡子也、義朝ハ、淸和天皇ノ御流、伊豫守賴義四代ノ孫也、各源平ノ長者也(○○○○○○○)、

〔大鏡〕

〈七/太政大臣道長〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0497 不比等大臣は、山階寺を建立せしめ給へり、それによりかのてらには、藤氏をいのり申に、このみてら、ならびに多武峯春日大原野吉田に、れいにたがひ、あやしきこといできぬれば、御寺の住僧禰宜おほやけにそうし申て、その時藤原氏長者殿、うらなはしめ給に、御つヽしみあるべきは、年あたり給殿ばらたちのもとに、御物忌とかきて、一の所よりくばらしめ給、

〔愚管抄〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0497 當時氏の長者にて、大二條殿〈○藤原敎通〉おはしけるに、延久のころ、氏寺領、國司と相論ごとありけるに、大事に及て御前にて定のありけるに、國司申かたに裁許あらんとしければ、長者の身(○○○○)、面目をうしなふうへに、神慮またはかりがたし、たヾ聖斷をあふぐべし、ふして神の告をまつとて、すなはち座をたヽれにけり、藤氏の公卿、舌をまき口をとぢてけり、其後山しな寺に、如本裁許ありければ、衆從さらにまた長講はじめて、國家の御祈しけりと、親經と申中納言儒卿こそ、さいかくの物にてかたりけれ、

〔續古事談〕

〈一王道后宮〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0498 後三條院ハ、春宮ニテ、廿五年マデオハシマシテ、心シヅカニ御學問アリテ、和漢ノ才智ヲキハメサセ給フノミニアラズ、天下ノ政ヲヨク〳〵キヽオカセ給テ、御卽位ノ後、サマザマノ善政ヲオコナハレケルナカニ、諸國ノ重任ノ功ト云事、長ク停止セラレケル時、興福寺ノ南圓堂ヲツクレリケルニ、國ノ重任ヲ關白大二條殿、〈○藤原敎通〉マゲテ申サセ給ケルニ、事カタクシテ、タビ〳〵ニナリケレバ、主上逆鱗ニオヨビテ仰ラレテ云ク、關白攝政ノオモクオソロシキ事ハ、帝ノ外祖ナドナルコソアレ、我ハナニトオモハンゾトテ、御ヒゲヲイカラカシテ、事ノ外ニ御ムヅカリアリケレバ、殿、座ヲタチテイデサセ給フトテ、大聲ヲハナチテノタマハク、藤氏ノ上達部、ミナマカリタテ、春日大明神ノ御威ハ、ケフウセハテヌルゾトイヒカケテ、イデ給ケレバ、氏ノ公卿、マコトニモ一人モノコラズ、ミナ座ヲタチテ、殿ノ御トモニイデケレバ、事ガラオビタヾシクゾアリケル、主上コレヲキコシメシテ、關白殿、幷ニ藤氏ノ諸卿ヲメシカヘシテ、南圓堂ノ成功ヲユルサレニケリ、殿ノ御威モ君ノ御心バヘモアラハレテ、時ニトリテ、イミジキ事ニテナムアリケル、

〔春日權現驗記〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0498 知足院殿、〈○藤原忠實〉天下の執柄として、生前の榮花をきはめ給しかば、すでに四旬の齡をすぐして、いたづらに九夜のやみをまつことを恐れて、功成ぬれば身しりぞかんとおぼしたりければ、出家のいとまを申さむとて、春日の社にまゐらせ給たりけるに、十一二ばかりなる兒童、俄に氣だかき姿になりて、〈○中略〉この童の申樣、我は是春日第三神也此度見參は、殊に嬉く侍り、〈○中略〉さても二人の男子をもち給へば、二人ながら氏長者につらなり給べし、忠通公、世の政すなほにて、手跡うつくしく、詩歌管絃、巧みにおはしませば、世によき人と申べし、然れど道心のおはせねば、我心にはいたくもかなはず、おとヽ賴長は、全經を業として、政務きりとほしにして、人の善惡をはかり知こと、掌を指すがごとし、されば末代にはあり難き人にてあるべけれども、 神事佛事におろかにして、氏寺をなやますべき人なれば、我ともなはずとの給て、あがらせ給にける、

〔保元物語〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0499 左府御最後附大相國御歎事
十三日〈○保元元年七月〉ニ、木津ヘ入給フ、〈○藤原賴長〉御心地モ次第ニ弱リテ、今ハ限リニ見ヘ給ヘバ、柞森ノ邊ヨリ圖書允俊成ヲ以テ、興福寺ノ禪定院ニ御坐ス、入道殿〈○賴長父忠實〉ニ、此由申タリケレバ、卽迎ヘ參ラセ度ハ思召ケレ共、餘ノ御心ウサニヤ有ケン、何トカ入道ヲモ見ント可思、我モ見ヘン共不思ヤツレ俊成ヨ、思テモ見ヨ、氏長者(○○○)タル程ノ者ノ、兵杖ノ前ニ懸ル事ヤ有、左樣ニ不運ノ者ニ對面セン事ヨシナシ、音ニモ不聞、增テ目ニモ見ザラン方ニ行ト云ベシト、〈○下略〉


Last-modified: 2019-03-15 (金) 09:48:59 (386d)