http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0365 譜牒ニ、纂記、系圖、譜圖、氏文、門文、本系帳等アリ、纂記ハ、早ク持統天皇ノ朝ニ見エ、系圖ハ、元正天皇ノ養老四年ニ、舍人親王ガ、日本書紀ト共ニ系圖一卷ヲ撰ビテ奏上シ給ヒシヲ始トシ、宇多天皇ノ寬平四年ニ、菅原道眞、亦類聚國史ト共ニ帝王系圖三卷ヲ奏上セリ、譜圖ハ、和氣淸麻呂ノ和氏譜ヲ最舊トシ、皇字沙汰文ニ載セタル皇大神宮禰宜譜圖帳ニ據リテ、粗ゝ其體裁ヲ窺フコトヲ得ベシ、氏文ハ、其氏祖ノ由緒、及ビ代々ノ事蹟ヲ記シヽモノニテ、政事要略、本朝月令等ニ引ケル高橋氏文、及ビ文車遠響ニ載セタル丹生祝氏文等アリ、門文ハ、其一門ゴトノ系譜ヲ明セルモノニシテ、而シテ門文ヲ總ベ集メテ、其本系ヲ明ニセルモノハ、卽チ本系帳ナリ
抑ゝ我國ハ上ニ一系ノ天皇アリテ君臨シ給ヒ、下ニ同宗ノ臣民アリテ隷屬ス、故ニ古ヨリ特ニ姓氏譜牒ノ事ヲ重クシ、允恭天皇ノ朝ニハ、姓氏紊亂シテ尊卑辨ジ難キニ由リ、盟神探湯ヲ以テ其眞僞ヲ定メシメ給ヒシ事アリ、其後歴朝ゴトニ、天下ノ諸氏ヲシテ各ゝ其本系ヲ獻ゼシメ、之ヲ圖書寮ニ藏ム、後世武人ノ戰陣ニ臨ミ敵ニ向ヒテ、其祖先ヲ揚言スル如キモ、亦姓氏ヲ重ズルノ意ニ外ナラズ、其他臨時ニ譜牒ヲ進獻セシムル事アリ、持統天皇ノ五年ニハ、大三輪以下ノ十八氏ニ詔シテ、其家ノ纂記ヲ上ラシメ給ヒ、桓武天皇ノ延暦十八年ニハ、 天下ノ諸氏及ビ歸化ノ諸蕃ニ勅シテ、各ゝ其本系帳ヲ進メシメ給ヒ、陽成天皇ノ元慶五年ニハ、諸國神社ノ祝部氏人ノ本系帳ヲ三年ニ一進セシムル制ヲ定メ給ヘリ、後世德川氏ノ時モ、諸侯ヲシテ各ゝ其家譜ヲ獻ゼシメ、或ハ吏員ヲ置キテ、麾下ノ士ノ系圖ヲ査覈セシメタリ、」又古ハ勘王世所アリテ、皇胤ノ系統ヲ明ニシ、撰氏族志所ヲ設ケテ、氏族ノ譜牒ヲ編修セシム、孝謙天皇ノ朝、勅シテ名儒ヲ聚メテ氏族志ヲ撰バシメ給ヒシガ、果サズ、桓武天皇ノ朝、亦勅シテ諸氏ノ本系ヲ編纂セシメ給ヒシカドモ、中道ニシテ崩御アリ、嵯峨天皇ニ至リ、前業ヲ紹ギ、萬多親王等ニ勅シテ、之ヲ大成セシメ給フ、名ケテ新撰姓氏録トイフ、蓋シ唐太宗ノ氏族志ヲ修シ、高宗之ヲ改メテ姓氏録卜爲シヽニ傚ヒシモノナルベシ、後世德川幕府モ亦 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00049.gifゝ諸家ノ系圖ヲ編纂セシム、寬永諸家系圖傳、寬政重修諸家譜ノ如キ是ナリ、其他私撰ノ氏族志アリ、藤原公定ノ尊卑分脈、土橋氏ノ諸家知譜拙記、及ビ水戸藩ノ諸家系圖纂ノ如キ是ナリ、

名稱

〔日本後紀〕

〈八/桓武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0366 延暦十八年十二月戊戌、勅天下臣民、氏族已衆、〈○中略〉欲據譜牒、多經改易、〈○下略〉

〔史記〕

〈十三/三世代表〉

大史公曰、〈○中略〉余讀諜記、〈索隱曰、諜音牒、牒者、記系謚之書也、下云歴譜諜、謂歴代之譜諜也、〉黄帝以來皆有年數、稽其歴譜諜、終始五德之傳、〈○下略〉

纂記

〔日本書紀〕

〈三十持統〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0366 五年八月辛亥、詔十八氏、〈○註略〉上進其祖等纂記

〔釋日本紀〕

〈十五述義〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0366 纂記

〔古史徴〕

〈一夏〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0366 持統天皇紀に五年八月辛亥、詔十八氏〈○註略〉上進其祖等纂記と見えたる、〈纂記を都岐夫美と訓べし、卽いはゆる系圖と聞えたり、今本に墓字に誤りて、オキツキブミと訓るは非なり、今は字も訓も釋紀に據りて正しつ、さて系圖をも此に據て都岐夫美と訓べし、字書に系者、連也、繼也、緒也と見え、また圖書者文籍也とも有ればなり、○中略〉釋紀または年中行事秘抄などに引たる、高橋成文と云物あり、岩鹿六鴈命の裔の高橋氏の事を記せる文なるが、甚珍しき事實ども見え、餘の書にも氏文てふ 事の見えたるを思ふに、古はかヽる文の多かりと聞ゆ、〈○註略〉纂記といふ記の狀も、大かた然る狀の記にぞ有けむ、大系圖の卷首に、新編纂圖云々とある纂圖てふ號も、御紀に纂記とあるに傚へるならむかし、〈此を以ても書紀の今本どもに、基記とあるは誤なること炳焉(イチジル)し、〉

〔段注説文解字〕

〈十三/糸〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0367 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00011.gif〈釋詁曰、纂繼也、此謂纂卽纉之假借也、近人用爲撰集之偁、〉

系圖

〔下學集〕

〈下/器財〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0367 系圖(ケイズ)〈圖與同字也〉

〔書言字考節用集〕

〈七/器財〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0367 系圖(ケイズ)〈字 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00009.gif、系者連也、繼也、緒也、〉

〔説文解字〕

〈十二/系〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0367 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00012.gif、繫也、从糸、ノ聲、凡系之屬皆从系、〈胡計切〉

〔倭訓栞〕

〈中編七/計〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0367 けいづ 系圖と書り、書法あり、朱を引あり、墨を引あり、又寸法ありて、男子を専に記し、女子は无が如にして、名をだに書ぬものなりといへり、

〔續日本紀〕

〈八/元正〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0367 養老四年五月癸酉、先是一品舍人親王、奉勅修日本紀、至是功成奏上、紀三十卷、系圖一卷(○○○○)、

〔弘仁私記序〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0367 淸足姫天皇〈○元正〉負扆之時、〈淨御原天皇(天武)之孫、日下太子之子也、世號飯高天皇、扆戸牖之間也、負斧、扆者、言以其所一レ處名之、今案、天子御座之後也、〉親王〈○舍人〉及安麻呂等、更撰此日本書紀三十卷、幷帝王系圖一卷、〈今見在圖書寮及民間也〉養老四年五月廿一日、〈淨足姫天皇年號也〉功夫甫就、獻〈○獻字原無、據釋日本紀補、〉於有司、〈今圖書寮是也〉

〔泰山集〕

〈雜著/甲乙録五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0367 續日本紀曰、奉勅修日本紀、至是功成奏上、紀三十卷、系圖一卷、今有紀無系圖、蓋收釋日本紀者是也、當刻本書者也、

〔釋日本紀〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0367 帝皇系圖〈○系圖略〉

〔本朝書籍目録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0367 氏族
帝王系圖 一卷〈舍人親王撰〉

〔類聚符宣抄〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0367右大臣宣偁、以刑部大輔滋野朝臣安成、少外記善淵愛成等、預造纂天皇系圖大臣 列傳事、宜史生一人、令上レ其事、又斐紙隨請宛行者、
貞觀六年八月二日 權大外記上毛野澤田〈奉〉

〔菅家御傳記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0368 寬平四年五月十日、類聚國史奏上、先是道眞奉勅修撰、至是功成、史二百卷、目二卷、帝王系圖三卷、

〔本朝書籍目録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0368 帝紀
帝王系圖 二卷〈神武以降、至白川院、記代々君臣事、中原撰、〉

〔秋風抄〕

〈下/雜〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0368 帝王系圖をかき侍るとて、〈○かき以下一本作ひらきて〉おもひつヾけける、
入道前攝政〈○藤原道家〉
神代よりいま我君につたはれるあまつひつぎの程ぞひさしき

〔本朝書籍目録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0368 氏族
帝王系圖 一卷〈菅爲長卿撰〉
帝王廣系圖 百卷〈基親卿撰〉
帝王系圖 一卷〈兼直宿禰抄〉

〔宣胤卿記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0368 長享二年十二月二日辛卯、自室町殿〈○足利義熙〉被仰、帝皇系圖、日々書寫無他事、晩二階堂〈政行朝臣〉狀、自江州到來、彼御系圖朱引事也、申遣經師http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00018.gif椿〉之處申子細、 三年二月四日癸巳、經師良椿法橋、系圖持來、自室町殿仰下帝皇系圖也、朱引所々相違、十五日甲辰、經師良椿來、室町殿仰系圖、朱引相違所々仰含之、廿六日乙卯、經師來、先日御系圖持來、又相違所令改直、 三月十一日己巳、去年自室町殿書寫事被仰、帝皇系圖朱曳等、周備之間、早可披露之由、以書狀二階堂、〈政行朝臣〉江州遼遠、使者往反難治之間、求便宜之處、淸三位入道、〈常盛〉依召明日可江州云々、仍今日遣彼宿所了、

〔泰平年表〕

〈東照宮〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0368 慶長十九年十一月十日、仙洞より〈○中略〉神皇系圖、南光坊、〈○天海〉院使として持參す、 夜に及て道春御前に於て是を讀む、

〔羅山文集〕

〈五十五/題跋〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0369 神代系圖跋
右神代系圖、幷二十二社、諸國一宮、三十神名、奉仰寬永十八年八月下旬、考舊記以撰集之、九月廿四日進覽之

〔羅山文集〕

〈五十五/題跋〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0369 本朝王代系圖跋
本朝王代系圖大綱、奉鈞命之、卽是編年録首卷也、歴代事蹟、皇家族胤者、具録之於各篇也、故別記正統嫡派及顯著者、以明一部大綱也、神武以來、皇統一種、百世綿々、雖中華及異域、未此之悠久矣、美哉、然其間父子相繼、兄弟相及者順也、或有母后臨朝、皇女踐位者、或有弟先於兄、叔後於姪、或有從兄徒弟代立、而爲兩胤、遂分爲南北、因是朱線亂雜、而世系難考也、而今發揮舊系、専督朱繩、以寸以咫以尺、而曲之直之、昂之低之、長之短之、以成焉、朱線明而次第不亂、次第明而禪繼易見矣、、古來帝譜、未此擇而精者也、寬永二十一年十月十四日、進呈編年録四冊、〈自神式持統〉時此冊亦成、故副獻之、

〔和氣系圖〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0369 此和氣系圖は、僧圓珍が家の系圖なり、おのれ〈○伴信友〉さきに都にありける時、或人の寫しもてりときヽて、中人たてヽ、かりてうつしたりき、其本書は、圓珍がものなりしを、三井守の唐院の庫にひめをさめてありとぞ、繼紙を横に竪ざまに長く書くだしたるが、いとふるび墨きえて、字のさだかならぬところおほきに、紙のくちたるや虫ばみさへありて、見わきがたきを、からくしてまねび摹しとれるものなりといふを、つぎ〳〵にうつし傳へたるものなりとぞ、さるは景行天皇の皇子、武國凝別皇子の苗裔のすぢ〳〵を、ひろくつりしるしたれば、古事考ふる證ともなりぬべくおもはるヽに、書ざまさへにめづらしければ、うつしたるなりけり、〈○中略〉
系圖 承和初從宅口於圓珍所
子皇
次小碓皇子〈○此下皇子皇女省〉
次凝別皇子〈伊豫國別君讃岐國父首等始祖〉
纒向日代宮御宇景行天皇〈大足彦忍代別命〉
皇子合廿四柱〈男十七女七〉
子水別命
津守王
子皮奈陋乃別君 眞淨別君
次津守別命 和儞乃別命 子阿佐乃別命 子弟子乃別命 手麻呂子乃命之 子尾之〈此人從伊豫國來此土友首長女生〉
子忍波 忍 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00036.gif之 子止伊 子小上身〈難波長柄朝庭住立帳〉
子足之
次足之
次友口之
次廣足之
與呂豆
子道万呂之
子宅成(後得度僧仁德) 手得度也僧圓珍
次福雄
V 政事要略

〈二十六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0370 同日〈○十一月中丑日〉宮内省奏御宅田稻數
多米宿禰本系帳云、〈○中略〉同氏系圖(○○○○)云、志賀高穴太宮御宇若帶天皇〈○成務〉御世、小長田命、以米入大籠而獻天皇也、因改命宗多米連姓、爾時天皇御命贖〈乃〉人〈乎〉、四方國造等獻〈支〉、

〔本朝書籍目録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0370 氏族
諸氏系圖

〔北條五代記〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0370 關東天文亂の事
武家の大系圖は、神武より以來を記し、和漢合運は、慶長十六歳までを記せる明鏡也、

〔群書一覽〕

〈二/氏族〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0370 源平系圖 一卷
源氏は、淸和天皇より當代〈○光格〉まで、平氏は、桓武天皇より東大夫胤賴までの系圖をのせたり、編者つまびらかならず、
藤原系圖 一卷
藤原氏代々の系圖なり、嵯峨の吉田素庵の作といへり、
武家系圖 二卷
卷首に、本朝武家大系圖と題せり、
上卷 國〈ノ〉常立〈ノ〉尊より神武天皇に至る 淸和源氏系圖
源家 斯波 澁川 石堂 一色 加子 石橋等の系圖
源家 新田系圖 源家小笠原 南部系圖 共餘源家系圖等
平家 淸盛系圖 其餘平家系圖等
下卷 藤原氏系圖 橘氏系圖 小野氏 在原氏 淸原氏 紀氏 大中臣氏 卜部(ウラベ)氏 菅 原氏 大江氏 安陪(アベ)氏 和氣(ワケ)氏 中原氏 小槻(ツキ)氏 丹波氏 賀茂氏等の系圖
本朝武家評林大系圖 五卷
卷之一 淸和源氏 巷之二 平家 巷之三 宇多源氏
卷之四 藤原氏 卷之五 源家足利將軍系圖
此書は武家評林に附刻せり

〔平治物語〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0371 牛若奥州下事
年若〈○源義經〉ハ、鞍馬寺ノ東光坊阿闍梨蓮忍ガ弟子、禪林坊阿闍梨覺日ガ弟子ニ成テ、遮那王トゾ申ケル、十一ノ年トカヤ、母ノ申事ヲ思出シテ、諸家ノ系圖ヲ見ケルニ、ゲニモ淸和天皇ヨリ十代ノ御苗裔、六孫王ヨリ八代、多田滿仲ガ末葉、伊豫入道賴義ガ子、八幡太郎義家ガ孫、六條判官爲義ガ 嫡男、前左馬頭義朝ガ末子ニテ候ケリ、何ニモシテ平家ヲ滅シ、父ノ本望ヲ達セント思ハレケルコソ懼ケレ、

〔川角太閤記〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0372 鎌倉被御見物、則若宮八幡へ御立寄被成侯時、社人御戸を開き申候へば、左りに賴朝の木像あるを御覽付られ、御言葉には、賴朝には天下友達に候よ、〈○中略〉氏系圖(○○○)においては、多田の滿仲の末葉なり、無殘研系圖なり、秀吉は耻敷は候へど、存は昨今迄の草刈わらんべなり、或時は草履取など仕候故、氏も系圖も持不申侯へど、秀吉は心たまらざる目口かはき故、ケ樣罷成候、御身は天下取筋にて候へば、目口かはき故とは不存候、生れ付果報有故なりと御しやれ事被仰候と承り候、

〔難太平記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0372 我等が先祖は、當御所の御先祖には兄のながれのよし、寶篋院殿〈○足利義詮〉に申されて、系圖など御目にかけられたる人ありき、御意大きに背て、後に人に御物語有し也、

〔駿府政事録〕

〈一〉

慶長十六年九月十六日、吉田神龍院梵舜、進藤原系圖一卷

〔泰平年表〕

〈東照宮〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0372 慶長十六年九月十六日、吉田神龍院梵舜、藤原系圖を獻ず、十九年七円九日、飛鳥井中納言家の系圖、歌道宗匠日記御覽に備ふ、十月廿九日、板倉伊賀守取次にて、妙覺寺より暦林問答抄、西宮抄、諸家系圖、〈○中略〉本國寺より太子傳差出す、

〔梵舜日記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0372 慶長十九年十一月四日、藤原系圖道家所質物左兵衞ヨリ依遣、周慶彌兵衞以兩人種々申遣借寄申也、今度前將軍家康公就御上洛、系圖七冊書可遣候由、傳長老依申、予先年書寫之本可上候由間、不了簡進上候、用意申付也、及暮傳長老へ令談合處、一段可然候、由被仰候間、其通相定候由也、六日、藤氏系圖七冊、桐箱入進上也、傳長老ヲ以上申了、一段御氣色入義也、

〔東路のつと〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0372 九月〈○永正六年〉廿五日、〈○中略〉はま川並松別當にして、 色かへぬ松はくれ行秋もなし、その日九月盡なるべし、〈○中略〉此別當、俗長野姓石上也、並於、上野 國多胡郡辨官符碑文銘曰、太政大臣二品穗積親王、左大臣正二位石上尊、此文系圖有、布留社あり、

〔籾井家日記〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0373 丹波家七頭七組事
當國〈○丹波〉ノ巨細ハ、元ト内裏ノ悠基御領ト申ニテ、大昔ヨリ庄司下司ノ家ニテ國中ヲ治メ、弓矢ヲ磨キ來ルユエ、〈○中略〉第一家ノ系圖ヲ大事ニ致シ、先祖代々ノ筋目ヲ急度立來リ申ユエ、他國ノ如クニ、カセモノヽ仕上ゲテ人司ニナルハナク候、家々ニ先祖代々ノ系圖ヲ持申候、丹波士ト昔ヨリ云モ.一カタナラヌ物筋ノ家々ユエニテ侯、信長モ假和儀ノ時、人々ノ先祖ヲ一々聞カレ、舌ヲマキ感心致サレ候、

〔宮川舍漫筆〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0373 系國の奇驗
予〈○宮川政運〉次男を從弟なる加藤家を繼にしめたり、此家の系國は、小身には珍敷委しき系國にて、神代は天兒屋根命より引、太織冠の末裔にして、いと細密なる事、筆に盡しがたし、この系圖につきて一ツの話あり、予叔父なるもの、至て貧しき折、出入の町醫師高木貞庵といへる者ありしが、文政のはじめ、此醫師系圖を見て、殊の外懇望にて、金子貳圓金にて預りし處、其翌年醫師來り、昨年御預の品、まづ返上いたし度よし、叔父がいはく、我家大切の品に候まヽ、何れ其内金子調達の上受取べしと答ければ、醫師、金子はいつにても宜敷、御系圖は返上いたし度候、其子細は、手前家内の者、昨年より兎角病人勝にて、種々手を盡し、其上愚成る事ながら、家相又は方位にてもあしきにやと、卜者井上東馬といへる者に占はせし處、〈此卜者は、あづま橋向にて高名の者也、〉これは何か有間敷品の障のよし申聞候處、さし當り他所よりの品は、御系圖より外に心當りの品も無之候儘、右故御返し申度といへるに任せ請取供處、不思儀なるかな、其後彼醫師方の病人も全快せし由にて、右の醤師禮に來りしと云、叔父方にては、金子返金になれば、此方こそ禮をいふべきを、向方よりの禮は、おかしと噺されける、

譜圖

〔延喜式〕

〈二十八/兵部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0374 凡軍毅者、〈○中略〉其勘譜圖譜牒(○○○○)之事、先移式部省、待返移然後補之、

〔説文解字〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0374 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00013.gif〈籍録也、从言、普聲、史記从並博古切、〉

〔品字箋〕

〈譜聲五十五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0374 譜〈説文籍録也、又世系亦謂之譜、〉

〔日本後紀〕

〈八/桓武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0374 延暦十八年二月乙未、贈正三位行民部卿兼造宮大夫美作備前國造和氣朝臣淸麻呂薨、〈○中略〉淸麻呂練於庶務、尤明古軍、〈○中略〉奉中宮〈○桓武母后高野新笠〉敎、撰和氏譜(○○○)奏之、帝甚善之、

〔本朝書籍目録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0374 氏族
和氣譜 和氣淸麿撰

〔皇字沙汰文〕

〈乾〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0374 伊勢天照皇大神宮禰宜譜圖帳
皇大神〈乃〉天磐門閉給〈天〉隱坐時〈仁〉、高天原闇〈天〉、天八百萬神達愁祈、于時天兒屋根命、夢悟〈天〉偁〈久〉、天香山立〈流〉彌津加之木枝〈乎〉曳折〈天〉、一夜刺生、神〈乃〉事〈爾〉隨者、八百萬神達、天安河原〈爾〉神集集給〈天〉、件木枝〈乎〉曳折〈天〉、各刺立〈支〉之中、國摩大鹿嶋命二男大狹山命兒天見通命刺生、此時禰己之己上枝〈爾波〉天拔門〈加〉作〈流〉八尺鏡懸〈介〉、中枝〈波〉天明玉〈加〉作〈流〉八咫曲懸〈介〉、下枝〈波〉天〈乃〉香豆比女〈加〉作〈留〉眞蘇〈乃〉木綿著〈氐〉、荒木田神主等〈加〉遠祖天見通命、木綿葛〈乎〉鳥繦懸〈氐〉令捧持、忌部遠祖太玉串命、種々幣帛捧〈天〉、天石門前跪坐〈天〉、天手力男命、天石門〈乃〉左方居、右方天〈乃〉於須女居〈天〉、常世國永鳴鳥儲、天日影葛〈乎〉諸命爲蘰〈天〉、大中臣遠祖天兒屋根命神祝詞申〈止之 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00018.gif元流爾、安哉之加利、〉給〈天〉、天石門〈乎〉開坐〈支〉、于時奉始眞坂木〈爾〉木綿著〈天〉號玉串供奉、神世禰宜天見通命、大狹山命子也、
兒天布多田岐命、此命纒向珠城宮御宇天皇〈○垂仁〉御世禰宜、
右依神祇官仰事、禰宜不絶供奉譜圖帳、勘造進上如件、以解、
延喜七年九月十七日 大内人正六位上荒木田神主荎安
前禰宜從五位下荒木田神主德雄
今禰宜從五位下荒木田神主荎貞

〔羅山文集〕

〈五十五/題跋〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0375 京都將軍家譜跋
寬永十八年八月廿八日、依鈞命、撰鎌倉將軍家譜覽之了、於是又撰京都將軍家譜、九月五日起筆、同廿九日終其功、凡所校見之舊記殆卅部、其餘及所聞説者亦有之、胤螢已乾、岐雪未降、唯吹燈對月、到鷄鳴以草之、毎晝淸書之、十月六日進覽之

〔羅山文集〕

〈五十五/題跋〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0375 織田信長譜跋
信長譜一卷、奉鈞命之、想夫及足利氏之失其鹿、天下共逐者最多、諸國英雄相爭、今粗附於此譜中、見者考之而可也、信長其有掎角之勢者乎、寬永十八年十一月上旬起筆、十二月七日進呈之

〔羅山文集N 〕

五十五/題跋

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0375 豐臣秀吉譜跋
右秀吉譜三卷、奉台命著之要所考檢、則近世之雜記、及中華朝鮮之事記、且其所聞説亦有、去冬辜月十六蓂起毫、圜鍾二十二日終功焉、寬永十九年仲春下旬、

〔中山世譜〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0375 直温嘗聞、琉球國舜天王之父朝公者、我爲朝也、然中山傳信録琉球國志略共曰、朝公未其果爲朝也否、但其國所撰中山世譜、載爲朝公云、直温欲之久矣、適乞輪池先生之、尚質王、命按司向象賢、用番字中山世鑑、尚貞王、命總宗正尚弘德等、改漢字重修世鑑、曰中山世譜、雍正三年、命紫金大夫加授法司品銜現任國司臣葵温、參考諸書、正缼焉、其書首載琉球輿地名號會紀、幷輿圖及歴代國王世統總圖等、卷一歴代總記歴代總論、卷二中山萬世總論兼此系譜等、今略其首尾、翻刻二編、備同志便覽耳、
天保三年十一月日 源直温

譜弟

〔書言字考節用集〕

〈四/人倫〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0375 譜第(フダイ)〈本朝俗世系不絶、數代附屬其家譜第、出續日本紀、〉

〔日本書紀〕

〈十五/顯宗〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0375 弘計天皇〈○中略〉母曰荑媛〈荑此云波曳、譜第(カバネツイデノフミ)曰、市邊押磐皇子娶蟻臣女荑媛、遂生三男二女、其一曰居夏姫、其二曰億計王、更名島稚子、更名大石〉
〈尊、其三曰弘計王、更名來目稚子、其四曰飯豐女王、亦名忍海部女王、其五曰橘王、一本、以飯豐女王叙於億計王之上、蟻臣者、葦田宿禰子也、〉

〔晉書〕

〈四/列傳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0376 杜預、字元凱〈○中略〉既立功之後、從容無事、乃耽思經籍、爲春秋左氏經傳集解、又參攷衆家譜第、謂之釋例

氏文

〔藻鹽草〕

〈十七/人事雜物〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0376
ものヽふのやそうぢ文(○○○)〈これいかにぞや、重て可尋、〉

〔倭訓栞〕

〈中編三/宇〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0376 うぢぶみ 氏文の義、今いふ系圖也、

〔夫木和歌抄〕

〈三十二/雜〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0376
六帖題 正三位知家卿
武士のやそうぢぶみ(○○○○)はかた〴〵に行わかれたるあとぞみえける

〔古史徴〕

〈一夏〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0376 釋紀または年中行事秘抄などに引たる高橋氏文と云物あり、岩鹿六鴈命の裔の高橋氏の事を記せる文なるが、甚珍しき事實ども見え、餘の書にも氏文てふ事の見えたるを思ふに、古はかヽる文の多かりしだ聞ゆ、〈藻潮草てふ歌書に、人事部といふ部に、氏文と記して、其下に、ものヽふのやそうぢ文、これはいかにぞや、重て可尋とばかり見えたり、氏文てふ物を知ざりしと聞えて、これはいいにぞや云々と云へれども、此は扶木抄に、物部の八十氏文はかた〴〵に行別れたる跡ぞ見ける、とあり、此歌に依ても、古く氏文てふ物の多かりし事は知られたり、○中略〉信友が説に、神宮雜例集、嘉應二年左辨官下伊勢大神宮司書に、神部等氏文ともあり、氏文といふ稱、なほ彼此ものに見え、また源平盛衰記に、西七郎廣助、とべの三郎家俊と戰はむとする時に、廣助遠祖の名を顯はし、祖の功を稱へ上て名告せるに、家俊が對て、わぎみは軍のあれかし、氏文よまむと思ひけるかとて、又同じさまに言擧して名告し趣を記せり、〈○註略〉かくて高橋氏文の遺文、また盛衰記なる諍言を按(オモ)ひ合すに、遠祖より繼々の氏人の名を連ね書せるは素よりにて、代々の祖の事蹟をも委曲に書せる物と通(キコ)えたり、〈本系帳系圖など云も同じ物ながら、族の次第を系(カ)け圖(カ)きたる方を主とし、氏文とは氏の出自の由緒を始めて、代々の事蹟を書けるを主とせるなるべく所思(オボ)ゆ、〉

〔政事要略〕

〈二十六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0377 中卯新嘗祭事
高橋氏文(○○○○)云、六鴈命七十二年之秋八月受病、同月薨也、

〔本朝月令〕

〈六月〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0377 同日〈○十一日〉神今食祭事〈見儀式
高橋氏文(○○○○)云、太政官符神祇官、定高橋安曇二氏、供奉神事御膳行立先後事、右被右大臣宣偁、奉勅如聞、先代所行神事之日、高橋朝臣等、立前供奉、安曇宿禰等、更無爭、〈○中略〉官宜承知、以爲永例、符到奉行、延暦十一年三月十九日、

〔年中行事秘抄〕

〈六月〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0377 一日内膳司供忌火御飯
日本紀景行天皇五十三年秋八月丁卯朔、子細同高橋氏文(○○○○)、仍不之、
高橋氏文(○○○○)云、天皇五十三年八月、行幸伊世、轉入東國、冬十月、到上總國安房浮嶋宮、爾時磐鹿六雁命從駕仕奉矣、〈○又見本朝月令

〔文車遠響〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0377 丹生祝氏文(○○○○○)
丹生津比賣及高野大明神仕丹生祝氏
始祖天魂命、次高御魂命、〈大伴氏祖〉次速魂命、〈中臣氏祖〉次安魂命、〈門部連等祖〉次神魂命、〈紀伊氏祖〉次最兄坐之宇遲比古命、別豐耳命、娶國主神女兒阿牟田刀自生兒、小牟久君〈我〉兒等、紀伊國伊都郡侍丹生眞人〈乃〉大丹生直、丹生祝、丹生相見神奴等三姓始、丹生都比賣〈乃〉大御神、高野大御神、及百餘大御神達〈乎〉令仕、神奴小牟久首〈我〉兒、丹生麻呂首、次兒麻布良首、丹生祝姓賜、卽子安麻呂、始豐耳安麻呂十四世、安麻呂兒、丹生祝伊賀豆之子孫、石床、石垣、石淸水、當川、敎守、速總、䒾麻呂、身麻呂、乙國、諸國、友麻呂、古公、小牟久兒、丹生麻呂、娶佐夜造乙女古刀自生兒、小佐非直〈我〉子孫、麻呂、廣椅、丹生、相見、字胡閉大津、古佐布、秋麻呂、志賀、上長谷、屋主、美麻貴天皇御世、〈○崇神〉天道根命〈○此下恐有脱文〉國主御神、其子座之大阿牟太首、並二柱進物、紀伊國黑犬一伴、阿波遲國三原郡白犬一伴、品田天皇〈○應榊〉奉 寄山地四至、東限丹生川上、南限阿帝川南横峯、西限應神山星川神勾、北限吉野川、御犬口代奉飯地、美乃圀、美津乃加志波、波麻由布、飯盛器〈止〉寄給〈支〉、又此〈乃〉伴犬、甘藏、吉人、三野國在、別牟毛津〈止〉云人〈乃〉兒、大黑此〈止〉云人、此人〈乎〉奉寄、此人等者、令今丹生人〈止〉云姓賜奉、別犬黑比〈止〉云者、彼御犬二伴率引、弓笑手取持、大御神坐、阿帝川〈乃〉下長谷川原〈爾〉、犬甘〈乃〉神〈止〉云名〈乎〉得〈底〉、石神〈止〉成〈底〉在今、彼兒花〈乎〉自十三世祖時、于今大贄人〈止〉仕奉〈底〉、丹生人召姓賜侍、和銅三年、十二世祖、彼年籍勘仕奉、丹生眞人安麻呂、天平十二年籍、十三世勘仕奉、丹生眞人仕奉、此人等子孫今侍仕奉、
延暦十九年九月十六日

〔江談抄〕

〈三/雜事〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0378 伴大納言本縁事
談云、伴大納言者、先祖被知乎、答云、伴氏文(○○○)大略見候歟、被談云、氏文(○○)ニハ違事ヲ傳聞侍也、〈○下略〉

〔神宮雜例集〕

〈二/政印事〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0378 一神服機殿政印事
左辨官下伊勢大神宮司
早令一レ進當宮機殿印字樣
右得祭主神祇權大副大中臣親隆朝臣、去五月十二日請文偁、〈○中略〉使權禰宜荒木田神主忠賴、五月十日申文云、神服機殿神部等同日注文云、抑件印、當初神服麻續兩機殿、共以所造進歟、於彼麻續機殿印者、于今見在也、至于當機殿印、幷延暦式正文、神部等氏文(○○○○○)、機殿古沙汰文書者、中頃神部近春隨身逃脱之由、先條如言上申傳也、〈○中略〉
嘉應二年八月廿七日 大史小槻宿禰
少辨藤原朝臣

〔源平盛衰記〕

〈二十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0378 信濃横田川原軍事、
富部三郎申ケルハ、和君ハ軍ノアレカシ、氏文(○○)讀マント思ケルカ、〈○下略〉

門文

〔中臣氏系圖〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0379 延喜本系解狀
大中臣氏人等解申進新撰氏族本系帳
夫本系者、所以立祖宗昭穆、正濫吹、表後生之書也、〈○中略〉因茲申下上宣、鳩集先後本系、及家々古記、戸々門文(○○○○)等、始去寬平五年、十四載之間、實録粗畢、

〔中臣氏系圖〕

〈裏書〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0379 中臣糠手子大連公生二男〈○中略〉
右太政官齊衡三年十一月廿日下民部省符偁、神祇大副兼内藏頭從五位上中臣朝臣逸志、少副從五位下中臣朝臣薭守等解偁、〈○中略〉糠手子大連公、是逸志薭守等祖也、而逸志祖父正五位下中臣朝臣道城〈○城一本作成〉等弟幷三人、爲舊貫、不大字、而左京戸中臣朝臣萬麻呂、同眞萬、乙長、都太美、奈美高、天足、大繼、船守、淸主、吉公、廣成、系麻呂、宗副、淸貞、右京戸中臣朝臣安成、同屎麻呂、全黑、財主、眞鷹、堅魚麻呂、鳥耳、繼繩、弟氏、福成等廿五烟、被兩京、混雜逸志等戸、於是始去仁壽元年今六簡年、勘造本系、而門文(○○)未進、其身不參、儻參進者、冒名不實、爰恐如此之輩、後代成爭、望請依實除帳、以絶濫吹之姧、若有後日愁申之輩者、隨彼延暦十七年六月廿六日符、依實被行、謹請官裁者、大納言正三位兼行右近衞大將藤原朝臣良相宣、奉勅依請者、省宜承知、依宣行之者、〈(中略)以上、延喜本系載之、〉

〔續日本紀〕

〈二十五/淳仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0379 天平寶字八年九月甲寅、詔曰、〈○中略〉明〈久〉淨〈岐〉心以〈天〉仕奉〈乎方〉、氏氏門〈方〉絶〈多末方須、〉治賜〈止〉勅御命〈乎〉諸聞食〈止〉勅、

本系帳

〔中臣氏系圖〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0379 延喜本系解狀
大中臣氏人等解申進新撰氏族本系帳
夫本系者、所以立祖宗昭穆、正濫吹後生之書也、〈○中略〉因茲申下上宣、鳩集先後本系、及家々古記、戸々門文等、始去寬平五年、十四載之間、實録粗畢、仍集爲卷、名曰新撰氏族本系帳、總造一卷、〈○中略〉同本系云、〈○中略〉案去天平寶字五年撰氏族志所之宣勘造所進本系帳云、高天原初而、皇神之御中、 皇御孫之御中執持、伊賀志桙不傾、本末中良布留人、稱之中臣者、復舊之由、惟其義也、

〔尊卑分脈〕

〈五/藤原〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0380 天兒屋根尊〈藤原大中臣中臣卜部齋部等氏上祖也〉
本系帳(○○○)云、興登魂尊、娶玉主命之女許登能麻遲媛命生、

〔本朝月令〕

〈四月〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0380 同日〈○上申〉松尾祭事
秦氏本系帳(○○○○○)云、正一位勳一等松尾大神御社者、筑紫 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00010.gif形坐中部大神、戊辰年三月三日、天下坐松埼日尾、〈又云日埼岑〉大寶元年、川邊腹男、秦忌寸都理、自日埼岑更奉松尾、又田口腹女、秦忌寸知麻留女、始立御阿禮乎、知麻留女之子、秦忌寸都駕布、自戊午年祝、子孫相承、祈祭大神、自其以降、至于元慶三年二百三十四年、

〔年中行事秘抄〕

〈四月〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0380 中酉日賀茂祭事
秦氏本系帳(○○○○○)云、又云、鴨上社號別雷社、下社號御祖也、戸上矢者、松尾大明神是也、以秦氏祭二所大明神、而鴨氏人爲秦氏之聟、秦氏爲愛聟、以鴨祭讓與之、故鴨氏爲禰宜祭、此其縁也、〈○又見本朝月令

〔政事要略〕

〈二十六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0380 多米宿禰本系帳(○○○○○○○)云、天皇〈○成務〉御躬爲國大歆、然之時供御大飯已不聞食、仍召氏人等御飯、特被詔勅、小長田命、作備御飯進御之時、平吉聞食、卽垂詔偁、仕奉御飯甚有香美、平服聞食、故召小長田命者、特賜嘉名、朕御多米負賜、被定多米連也、爾時賜大歆政、亦任御田之職、口天皇御贖之政掌以仕奉也、

〔菅家御傳記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0380 贈正一位菅原太政大臣諱道眞、參議從三位行刑部卿是善〈古人四男曰淸公、仕至文章博士從三位、淸公長男曰是善、〉三男、母大伴氏也、〈○中略〉
右據菅家文草後集、三代實録、公卿補任、菅原本系帳(○○○○○)家記等之、

撰氏族志所

〔中臣氏系圖〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0380 延喜本系解狀
大中臣氏人等解申進新撰氏族本系帳事〈○中略〉
同本系云、〈○中略〉案去天平寶字五年撰氏族志所(○○○○○)之宣勘造所進本系帳云、〈○下略〉

勘系所

〔日本後紀〕

〈二十四/嵯峨〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0381 弘仁五年八月丁未、直勘系所(○○○)書手三人、准勞叙階有差、一等二階、二等一階、

勘王世所

〔續日本後紀〕

〈十六/仁明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0381 承和十三年三月庚戌、勘王世所(○○○○)言、氏姓之中、身住外處者、或未人知、至於對問、以能説家譜卽爲是眞、鎭言系譜者、因謂之僞證引、只據文書、伏恐姧濫之輩、妄入宗枝、愚惷之人、空漏皇胤、望請仰所所司、若有此之色、速令言上、更加捜索、以糺眞僞者、依請、仰五畿内諸國之焉、

勅撰氏族志

〔新撰姓氏録〕

〈序〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0381 勝寶年中、時有恩旨、聽許諸蕃、任願賜之、遂使前姓後姓、文字斯同、蕃俗和俗、氏族相疑、萬方庶民、陳高貴之枝葉、三韓蕃賓、稱日本之神胤、時移人易、罕知而言、寶字之未、其爭猶繁、仍聚名儒、撰氏族志、抄案弗半、逢時有一レ難、諸儒解體、輟而不興、

〔菅家御傳記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0381 天夷鳥命十二世孫鸕濡渟命、〈飯入根命子〉磯城瑞籬宮御宇〈崇神〉天皇御世、勅定出雲國造、鸕濡渟命弟、曰甘美乾飯根命、甘美乾飯根命子、曰野見宿禰、〈○中略〉
右日本書紀、續日本紀、氏族志抄、新撰姓氏録(○○○○○)、菅原本系帳所載、

〔古史徴〕

〈一夏〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0381 谷川士淸云、唐太宗、修氏族志、高宗改爲姓氏録と云り、書名はいかにも是に傚はれたると聞えたり、〈○中略〉釋紀に引る私記に、案氏族略記云、藤原宮、在高市郡鷺栖坂北地と云ることあり、よく似たる書名なりけり、

〔琅邪代醉編〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0381 譜諜
章俊卿日、禮書曰、方周盛時、宗族之法行、〈○中略〉司馬遷修史記、採本世系、而作帝紀、採周譜國語、而作世家、人乃知姓氏之所一レ出、晉賈弼、有姓氏傳、甄析士類、無遺缼、賈希鏡、撰姓氏要狀、賈執、作姓氏英賢、齊宋譜牒之學寢興、〈○中略〉武德中、李守素、亦明姓氏、謂之族譜、正觀中、太宗命高士廉、徧責譜諜、質諸史籍、考其眞僞、辨其昭穆、第其甲乙、進忠賢、退悖逆、先宗室、後外戚、右膏梁、左寒畯、分爲九等、號 氏族志、高宗顯慶中、改爲姓氏録、許敬宗等、以其書不一レ武氏本望、奏遣禮部侍郎孔志約等、比類升降、以后族第一等、士卒以軍功位五品、豫於士流、謂之勳格、當時耻焉、

〔新撰姓氏録〕

〈序〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0382 皇統彌照聖明、〈○桓武〉生而叡哲、自體性仁、威被日出之崖、德光月朏之域、停烽廢關、文軌爲一、慮周品物、思切正名、迺降絲綸、撰勘本系、緗帙未畢、鳳輿登遐、天朝〈○嵯峨〉至明、紹脩前業至聖承聖、垂眷後謀、爰勅中務卿四品臣萬多親王、右大臣從二位兼行皇太弟傳臣藤原朝臣園人、參議正四位下行石衞門督兼近江守臣藤原朝臣緒嗣、正五位下行陰陽頭臣阿倍朝臣眞勝.從五位上行尾張守臣三原朝臣弟平、從五位上行大外記兼因幡介臣上毛野朝臣穎人等、追慕前志、推弘此文、開書府之秘藏、尋諸氏之苑丘、臣等歴探古記、傳觀舊史、文駮辭蹐、音訓組雜、會釋一事、還作楯矛、構合兩説、則有牴牾、新進本系、多違故實、或錯綜兩氏、混爲一祖、或不源流、倒錯祖次、或迷失己祖、過入他氏、或巧入他氏、以爲己祖、新古煩亂、不芟夷、彼此謬錯、不勝數、是以雖之不日、而猶十歳於茲、京畿本系、未進過半、今依見進類詮矣、〈○中略〉又有諸姓漏本系、而載古記、則抄古記以寫附、本系之與古記違、則據古記以刪定、今按之中、證引古記、則雖文駮、而不必改、所以存其文辭達也、

〔新撰姓氏録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0382新撰姓氏録
臣萬多等言、臣聞陰陽定位、裁萬物以先人倫、叡聖正名、叶五音而甄姓氏、是以因生之本自遠、胙土之基增崇、沿帝道而汚隆、襲王風而興替者也、伏惟國家降天孫而創業、横地軸以開邦、一統架宗、環八洲以御辨、五運無代、跨億載而期圖、高門接軫、甲姓聯衡、枝葉寔繁、派流彌衆、既而德廣所覃、占雲靡輟、情願編戸、星陣相尋、或擬丘陵而挺峻、或飛軒蓋以騰華、又有曾冒祖、妄認膏腴、證神引皇、虚託黻冕、先朝〈○桓武〉鑒其假濫、留慮根源、昧旦臨軒、仄景忘膳、今臣等謹奉綸言、追逐前旨、徒勤三絶、空淹四時、矧夫才非博物、識謝通膽、何以温知本枝、抑揚諸聞、然書府舊文、見進新系、讎校合之、則總以入録、其未詳者、則集爲別卷、年肇神武、人兼倭漢、凡千二百八十二氏、幷目卅一卷、名新撰姓氏録、譬如井談星、取 蠡議一レ海、恐綜覈踈訛、撰緝謬違、謹詣闕奉進、伏增谷冰、謹白、
弘仁六年七月廿日 中務卿四品臣萬多親王
右大臣從二位兼行皇太弟傳勳五等臣藤原朝臣園人
參講從三位行宮内卿兼近江守臣藤原朝臣緒嗣
正五位下行造東大寺長官臣阿部朝臣眞勝
從五位上行尾張守臣三原朝臣弟平
從五位上行大外記兼因幡介臣上毛野朝臣穎人等上表

〔古史徴〕

〈一夏〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0383 今本に、新撰姓氏録序とある下に、此者第一卷之序也、不官書目録、而載此卷、又抄姓氏録文於此卷、是皆爲指掌也と云る文のあるは、後人の書入なること論なし、然れどもいと近き世の所爲とも見えず、〈一本に掌也の間に、私所爲の三字あり、○中略〉抄姓氏録文、註於此卷、是皆爲指掌也とは、此書入れたる人の心に、此録の文の約なるを見て、全書には非ずて目録なりけむを、各々姓の下に録せる文は、姓氏録の本書より抄て、指掌に備へむ爲に、撰者たちより後の人の私に註せる物ぞと非(ヒガ)心得したる物なり、其は新撰姓氏録抄とも題せる本の傳はるをも思ひ合せての説なるべし、〈また新撰姓氏録目録と題せる本のあるも、然る非心得しつる人の所爲と見えたり、〉抑この録文は約なれども、抄略したる本の傳はれるには非ず、元來の全き書なることは、各々姓々の下に録せる文と、上に引りし桓武天皇紀十八年の詔命に、令始祖及別祖等名、勿列枝流幷繼嗣歴名、とあるに熟(ヨ)く符(アヘ)るを以て知べし、此録の成れる事は、もはら桓武天皇の御心より出たる御擧なれぼ、此詔命の如く録さむには、今傳はる本の如くならずば、得有まじき物なるを以て、抄略本に非ざること知られたり、〈○註略〉然るを見林本の後序に、同人の言るは、惜乎、氏族之書不多傳、幸新撰姓氏録抄、得于今、惟憾其所存者、抄書而非完本也、藤原朝臣定房藏之、大内氏得之、其所來尚矣、雖何人 所一レ抄、其意爲指掌亦用心之勒矣、其偶存者、後世之幸也といひ、また一本に、第一帙とある下の書入に、此書稱抄者當矣、今所傳姓氏録者、廼古之目録也、可惜全書亡佚、其悉委不得而考也とも云るは、上件の旨を辨へず、姓氏録抄と題せる本もあるを見て、抄略本の傳はれると恩ひ惑へる言なりかし、全書にも抄字を添て題すること、中世人の常なれば、元無りし抄字を後人の書添たること論なきものをや、〈そは表にも序にも、新撰姓氏録とのみ有て抄といはず、大かた凡ての書に抄と云ことは、天暦あたりより後に始れる事にて、抄と云ずとも有べき書をも、然いふ傚(ナラヒ)となむ成れりける、〉此は、吾が徒の中にも、然思ひ惑へる人の多かれば、いとも貴き寶典の幸にかく全くて傳はれるを、略本なりと思ひ貶さむことの憤ろしくて、辨へたるになむ、

〔氏族考〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0384 今世に傳はれる姓氏録は、抄略本にして、〈○中略〉其抄略本なる證は、太子傳玉林抄四卷に、新撰姓氏録第十一卷云、金村連、是大和國城上郡椿市村阿部等祖也、また九卷に、姓氏録第八卷云、高橋朝臣、本系阿部朝臣同祖、大彦命之後也、孫盤鹿六獦命、大足彦忍代別天皇〈諡景行〉御世、賜姓膳臣、十世之孫、小錦上國益、天渟中原瀛眞人天皇〈諡天武〉御世、改高橋朝臣姓、三世孫五百足男、從八位上犬養裔務、從五位上祖麻呂、從七位下石畠等也とも、又坂上系圖に、姓氏録第廿三卷曰、阿智王、譽田天皇〈諡應神〉御世、避本國亂、率母幷妻子、母弟廷興德七姓漢人等、歸化、七姓者、第一段〈古記、段尖公、字畐等、一云員姓、〉是高向村主、高向史、高向使嘩、評首、民使主首等祖也、次季姓、是刑部史祖也、次皂郭姓、是坂合部首、佐太首等祖也、次朱姓、是小市佐奈宜等祖也、次多姓、是檜前調使等祖也、次皂姓、是大和國宇太郡佐波多村主、長幡部等祖也、次高姓、是檜前村主祖也、天皇矜其來志、號阿智王使主、仍賜大和國檜隈郡鄕居之焉、于時阿智使主奏言、臣入朝之時、本鄕人民、往往離散、今聞編在高麗百濟新羅等國、望請遣使喚來、天皇卽遣使、大鶴鷦鷯天皇〈諡仁德〉御世、擧落隨來、今高向村主、西波多村主、平方村主、石村村主、飽波村主、危寸村主、長野村主、俾加村主、茅沼村主、高官村主、大石村主、飛鳥村主、西大友村主、長田村主、錦部村主、田村主、忍海村主、佐味村主、桑原村主、白鳥村主、額田村主、牟佐 村主、甲賀村主、鞍作村主、播磨村主、漢人村主、今來村主、石寸村主、金村村主、尾張次角村主、是其後也、爾時阿智王、建今來郡、後改號高市郡、而人衆巨多、居地隘狹、更分置諸國、攝津、參河、近江、播磨、阿波等國、漢人村主是也、〈○中略〉また苅田麻呂の條に、姓氏録曰、犬養男、從三位苅田麻呂、帝天平寶字八年、特賜人忌寸などあり、〈○中略〉政事要略卷二十六に、姓氏録云、多米宿禰、出神魂命五世孫、天日鷲命也、四世孫小長田、稚足彦天皇〈諡成務〉御世、仕奉大炊寮、御飯香美、特賜嘉名、負朕御多米、六世孫三枝連男、倭古連之後、天渟中原瀛眞人天皇〈諡天武〉御世、改賜宿禰姓、また東大寺要録末寺章部に、姓氏録第十一云、神護景雲三年、右大臣中臣朝臣淸麻呂加賜大字、厥後延暦十六年、定成等四十八人、同賜大字、同十七年、船長等卅七人、加賜大字、自餘猶留、爲中臣朝臣とある、この文ども、今の姓氏録に見えざるを以て、全本なりと云事の非説を辨ふべし、

〔日本紀略〕

〈嵯峨〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0385 弘仁十年四月庚戌、勘本系使中務卿萬多親王、中納言藤原朝臣緒嗣等、奏曰云々、伏據舊記、判定訛謬者、許之、

〔實隆公記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0385 文龜二年六月十五日丙辰、今日日本紹運録、終書寫功、 廿一日壬戌、帝王紹運録、愚本終書功了、廿三日甲子、禁裏紹運録御本、近代分依仰書繼之、所々僻字等、同直進上之

〔水戸本本朝皇胤紹運録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0385 奥書 本云
文龜壬戌〈○二年〉林鐘中旬、申出禁裏御本、〈西山内府会(藤原滿季)筆、銘後小松院宸筆云々、〉凌炎暑之病眼、終書功者也、不外見矣、
權大納言藤〈判○實隆〉

幕府撰氏族志

〔寬永諸家系譜傳〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0385 寬永諸家系圖傳序
本朝諸家の系圖、世に傳はる事久し、鹿苑院殿〈○足利義滿〉の時に、大納言藤原公定うけたまはりて、分脈圖をえらび、嫡子庶子の本末をわけて世におこなふといへどもなをいまだつまびらかなら ず、寬永十八年二月七日、將軍家、〈○德川家光〉あらたに台命をくだしたまひて、諸家の系圖をあつめあましむ、資宗これを奉行す、民部卿法印道春これにそふて、そのあむべきおもむきをしめす、こヽにをひて諸大小名御譜代御近習御番衆等、およそ恩祿をかうふるもの、大小となく、みな其家譜をさヽぐるもの數千人なり、道春をよび予春齋、件の家譜をみて其眞僞をわきまへ、其新舊をただす、且又仰によりて漢字假字兩字をつくらしむ、其事繁多なるゆへに、十九年三月十日、かさねで台命くだりて、僧録金地院元良長老、尾州の法眼正意、水戸の書生卜幽了的、おなじく其事にあづかる、高野山見樹院立詮を乞ひ、御右筆大橋重政、小嶋重俊、倭字の事にあづかる、且又京都五岳の僧侶十七人をめして、江戸にきたらしむ、こヽにをひて、諸家の系譜をわかちくばる、道春春齋は、淸和源氏の部をつかさどる、立詮これに屬す、元良をよび五岳衆は、藤原氏の部をつかさどる、重政これに屬す、正意は、諸氏の部をえらび、水戸の書生は、平氏の部をあむ、重俊これに屬す、其外草案をつくり、淨書にあづかるもの數十人におよべり、年を經て全編をなす、其系譜にくはしきあり、あら〳〵しきある事は、おの〳〵獻ずる所の家本長短あるによりてなり、漢字倭字、都合三百七十二卷、其名を題して寬永諸家系圖傳といふ、かくのごときの大部なる事、本朝のむかしより、いまだきかざるところ也、誠に太平御一統の御時にあらずば、いかでかこヽにいたらんや、諸家其官祿をしる時は、御恩のあつき事をわすれず、其勳功をのする時は、先祖のつとめをおもふべく、しかれば忠孝の道、無窮の德とともに、千萬世の後まで、たれかあふぎたてまつらざらんや、
寬永二十年癸未九月吉日 從五位下太田備中守源資宗〈○又見羅山文集

〔折たく柴の記〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0386 庚辰の年〈○元祿十三年〉十二月十一日に、國初より此かた、その封祿萬石以上の人々の事まで、進講のいとまあらむをり〳〵に、いかにもしるしてまゐらせよかしなど仰られしに、明けの年辛巳の正月十一日に、其事を以て仰下さる、向き十四日に、まづ其書を撰ぶべき凡例をし るしてまゐらす、しかるべき由を仰下されしかば、これより諸家の事どもたづねきはめて、七月十一日に至て草を起し、十月に至て稿を脱す、車は慶長五年に始りて延寶八年に至る迄八十年の間、始封襲封、及び廢除等、凡三宮三十七家、その書たる正編十卷、附録二卷、凡例目録ともに一卷、通計十三卷を分ちて廿冊となし、みづから淨寫功終りぬれば、明る壬午の二月十九日に進呈す、これよりさき書の名をば、御みづから撰び給ひて、藩翰譜と題せらる。

〔寬政重修諸家譜〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0387 寬政重修諸家譜序
寬永十八年、命備中守臣太田資宗、輯諸家系譜、使臣林信勝等分任著述編摩之役、書成、名曰寬永諸家系圖傳、凡姓氏門閥之故、皆取正於此、自時厥后、歴 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00016.gif二百、其承襲興替、褒貶與奪、宜陸續追書、而未之遑、是以臣正敦不自揣、敢請其書、幸蒙http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00021.gif、以臣總裁其事、使豐前守臣堀田正穀副一レ之、乃選臣僚吏胥、曉文墨識幹、及其子弟可使者五十餘名、請以爲屬、分曹從事、臣建言之初、志専在、舊譜、既而開局校勘、見諸家頃所進譜牒、間有舊譜吻合、蓋文書碑板、散逸於當年者、後嗣訪獲、而後始備、則知向之踈繆、亦理之固然、於是寬永以前之紀載、有、盡推卸諸舊譜焉、乃請而改體例、或刪補、或兩存、名以寬政重修諸家譜、創局於寬政十一年己未、斷手於文化九年壬申、書成一千五百三十卷、繕寫上進、臣正敦謹序之曰、天下之人、孰無姓系、而止是諸家何也、以爲大府之治具也、譜牒之編尚矣、自萬多親王撰姓氏録、繼起者數十家、莫以辨宗庶政化民志、降迄、中葉、王綱解紐、禍亂相承、豪傑未必出於世家、於是乎有於卒徒、而位極人臣、有一州一郡、名器世系、或出其自爲、無於上、無於前、至是譜牒大壞、眞假錯雜、天厭喪亂、生我神祖、智謀勇果之夫、蟬聯景附、輔成鴻業、時際慶元、大兵龕撥、德懷威囁懾、莫、投戈崩一レ角、霧消爝熄、天地開朗於是論功行賞、上之有胙士析珪之寵、下之至尺効寸勞、甄録弗遺、若夫迷方梗化之類、亦來斯受之、刮垢滌汗、皆涵濡江海之宏量、藩衞磐石之丕基、人心悦服、宇内密如、夫然後命成舊譜、梳理融會、列於令用、故新譜之於舊譜、雖一切遵奉、要 之不小出入、而其大體則豈容䡄哉、古者有姓命氏之典、而今無其事、今無其事而有其意者、二譜之謂矣、向則譜牒之晦者、待此而明、明者待此而確、氏姓閥閲、一展瞭然、藏在秘府、爲萬世不刊之典、宗庶以辨、改作以維、民志以定、世族保恩、國體益鞏、德澤之流、不概量、臣等叨菫其役、與有榮耀焉、於是摘其大要、辨諸簡端、文化九年壬申十一月、攝津守從五位下臣堀田正敦謹序、

〔輪池叢書〕

〈三十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0388 寬政重修系譜竟宴
ながうた 守躬
年月を、ふる河のべに、たつ杉の、ふたつの家に、人みなの、いゆきかよひて、ものヽふの、やそうぢがはの、かみつせに、みをさかのぼり、しもつせに、こぎたみくだり、しば舟の、しばしもおちず、あしひきの、やまとのみかは、ことさへぐ、から國までも、ふみのその、ことばのはやし、ふみわけて、つくりいだせる、卷々は、いくらばかりぞ、春されば、花さきをヽる、ものヽかず、十といひつヽ、いつヽにも、あまりにけらし、たまだすき、かけのよろしく、おほみ代に、たえたるをつぐ、いにしへの、ためしをさへも、しづたまき、くりかへしつヽ、かしこくも、いまのうつヽに、あひにけるかも、
反歌
つがの木のいやつぎ〳〵につたへきていまぞひらくる家々のふみ〈○中略〉
詩畫各一幅、共一匣、畫則堅田侯〈○堀田正敦〉屬畫人狩野與信寫、而詩則宮川侯〈○堀田正穀〉自題、乃二侯之所鄰也、先是寬政十一年己未、有命重修列侯元土譜牒、越十有四年、今茲壬申〈○文化九年〉十一月始成、計千五百三十卷、爲五十六函、其事者、前後六十餘員、而二侯爲之總裁、開局於私第以延之、就局者、朝而入、暮而散、孜々不怠、十餘年如一旦、而二侯參賛之餘、躬自率勵、或與之對校、日夕不已、雖病不一レ朝、而力可以勉、則未嘗廢一レ事也、及其成也、官賜物各有差、而二侯亦特置酒以饗、遍有贈遺、宮川侯以詩以硯、堅田侯以畫、或亦以硯、詩則侯之喜纂修功竣而賦者、皆侯自書、各幅全同、畫則不 其人其樣、而樣皆特出于各人之嗜好、如誌則李白觀瀑、好國雅則小倉山莊、家有見山之樓、則富士峯之類、侯用意之纖悉懇到可見巳、鄰之不肖、以濫吹亦辱在贈中、其陶令彈琴圖、蓋爲鄰癖于琴而作也、局之開也、二侯愍其優待甚至、暑時之冷麪、紫神散、參葉湯、寒時之葛湯、葛餅、淨手湯、或以園蔬、或以時果柿柑、以時慰勞之、凡法書名畫、四時花艸、珍奇之物、有致則出示之、此堅田侯之殊遇也、枇杷葉湯于夏醴羹湯腐于冬、佳茗之日給、風雨或少縮散限、此宮川侯之恤且恕也、其侍校讐、必茶之果之、別業花時、必借而遊焉、又必盃尊盤爼果餌以饗之、則二侯不異也、其同者固同、其異者豈異乎哉、發乎待人之渥則一也爾、鄰有于此、因併録、

〔泰平年表〕

〈大御所〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0389 文化九年十二月十九日、寬政諸家系譜御用相勤候ニ付、八丈縞十端松平伊豆守、御刀〈山城國國廣、代金十五枚、〉堀田攝津守、同〈肥前國忠廣、代金十三枚、〉堀田豐前守於御前拜領之、同廿三日、系譜掛大目付、御目付、奥御右筆組頭、奥御右筆、其外系譜調方出役、御目見以上已下共、於席々拜領物有之、〈寬政系譜御用と申は、寬永の時、諸家の系圖編集有之譯は、寬永十八年、太田備中守資宗總宰にて、林道春、其子春齋、編集の事を奉り、手傳は五山の碩學、其外林家書生相交り是を勤、是時家々より譜を奉る、万石以上、巳下は御目見以上計りなり、同二十年編集卒業、帙三百八十卷、是を寬永諸家系圖と云、其後寬政十一年正月十七日、堀田攝津守正敦朝臣、願により寬永以來の系圖書次御用被仰付、堀田豐前守正穀朝臣は、正敦朝臣に差副御用相勤べしとの仰を蒙り、右懸り大目付壹人、御目付二人、奥御右筆組頭壹人、奥御右筆六人被仰付、是等は系譜撰の事にはあづからず、諸家の譜調進の事抔取扱ふ爲なり、諸家に命令下して新に系譜を奉る、此時兩邸に調所な設けられ、攝州御役屋敷にも書院二問、豐州やしきは表居間なり、御旗本の内、兩御番、新御番、大御番、小普請、又は兩御番の隱居部屋住の枠等、文筆有之者御撰、系圖書次取調御用被仰付、御目見以下席よりは、數十人御撰、手傳に被仰付、年々人數相增、卒業の年に至ては四十八人なり、但兩邸に頭取二人ヅヽを置れ、諸事を取扱ふ其外にも訂正、校定、日記方、淸書方、家尋方などいふ役あり、享和三年の春、寬永譜書次の體裁を止め、重修の體に改作也、文化九年十月に至りて、重修系圖皆出來、成帙一千五百三十卷、是を寬政重修諸家藷と名付らる、序文は正敦朝臣也、凡例目録十卷を副らる、同十一月廿一日、羽目の間に並べ、御老中方御見分相濟、奥へ相廻し上覽の上、紅葉山御書庫へ收めらる、同十二月廿八日、寬政譜副本書寫御用被仰付、御用濟の内より右出役被仰付、此度御殿にて淨書御用相勤、尤右見廻御用、西丸新番組頭壹人、西丸御小性組壹人被仰付、是迄の出役なり、同十二年十月、副本淨書皆出來に付、羽目の間に並べ、御老中方御見分有之、後日日光山御神庫へ御納に相成、〉

私撰氏族志

〔尊卑分脈〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0389 編纂本朝尊卑分脈圖 特進亞槐藤公定撰

〔群書一覽〕

〈二/氏族〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0390 諸家系圖 十四卷
首卷に、本朝皇胤紹運録とあり、天神七代、地神五代の系圖、本朝帝王系譜、國〈ノ〉常立〈ノ〉尊より後陽成院までをしるし、をの〳〵親王皇女等の御系をつまびらかにしるせり、奥書に云、右帝王系譜、自室町殿書之時〈ノ〉中書〈キ〉也、但小書等以他本之、未書寫之功、時長享二暦季冬淸書、翌年季春中旬進之、亞槐藤原宣胤、又天正十九年辛卯十月十日梵舜在判、
第一卷のはじめに、編纂本朝尊卑分脈圖、特進亞槐藤公定撰と有て、淸和天皇よりしるしはじ めたり、
第二卷 陽成院 光孝天皇 宇多天皇
第三卷 醍醐天皇より崇光院に至る
第四卷 源氏系圖 平氏系圖 橘氏系圖
第五卷 新編纂本朝尊卑分脈系譜雜類要集卷之第三と有て、藤氏の系圖をのせたり、
第六卷 同第四卷にして、藤氏系圖の二也、
第七卷より第十三卷に至るまで、雜類要集、次々の卷と見えたり、卷末に、天正十九年梵舜の奥 書あり、

〔鹽尻〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0390 藤公定卿〈正二位大納言〉所撰の編纂本朝尊卑分脈圖に曰、〈藤原魚名ノ流貞直ノ〉當流系圖、父子之次第、分流之相承、説々皆不同、本々不一揆、仍其實難糺決者也、或任舊本、或以家記載之、但猶不其可否、重博可決是非矣といへり、凡そ系譜の事、家々所傳不等、妄に此を以彼を非とする事なかれ、唯博く實記を求て尋ぬべき也、

〔諸家知譜拙記〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0390 增補知譜拙記序
吾東方開國而來、文武之臣、率世其祿云、乃昭穆姓氏之分、閥閲官階之品、苟非文之徴、烏能使後死者 旦暮千載哉、蓋國史家乘傭矣、顧又不瑕瑜、識者病諸、土橋某者、嘗抄諸家記傳、撰知譜拙記若干卷、爾後某氏補焉、而尚未也、速水房常、夙游壺井鶴 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00022.gif之門、最明國史、頃仍土橋氏之舊、更復爲增補、以傳諸世、其所以拾遺正一レ誤者勤矣、書成屬余一言、固辭不可、乃志其結撰之歳月而以還之、
廷享乙丑冬十一月 右亞相加州權別駕宜季書

〔諸家知譜拙記〕

〈一〉

凡例
一此書、貞享年間、土橋氏定代者、撰述上梓、以傳諸世、爾後星霜數遷、享保中、或人增補、而尚謬誤不少、
是以曾祖方巾齋、考索諸家系譜、抄録其官階薨卒年齒等、以備便覽

〔改正增補諸家知譜拙記〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0391
諸家知譜拙記、延享二年印行、寶暦四年、明和二年增補、又今年補正既訖、
文政三年二月 速水常忠

〔先哲叢談〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0391 堀正意、宇敬夫、號杏菴、〈○中略〉寬永中來江戸台德大君〈○德川秀忠〉拜衣服及酒食賜、且奉旨入弘文院、與諸家系圖傳編修、別自撰武家系圖若干卷

〔萬家系譜〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0391 劣毎恨本邦無諸子傳、欲一史、而有志未暇、是故云系譜、云舊記、雖片言半辭、觸目落耳者、謄蓄書収、于茲經年矣、是亦其一也、記之暫俟他日
寬文丙午〈○六年〉孟春望 如松子〈○黑川道祐〉

〔諸家系圖纂〕

〈目録〉


諸家系圖纂凡例
一凡本館〈○水戸彰考館〉修史、譜牒不明、則事實殊晦、故廣購遠捜、多得諸家秘本、而從得便録、姓氏無統、混肴淆
紛亂、不便考索、故今輯爲一部、以姓統氏、以氏分稱、名曰諸家系圖纂、〈○中略〉
元祿五年歳次壬申五月穀旦 丸山可澄謹識

〔耆舊得聞〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0391 丸山可澄、兼テ系譜ノ學ニ精シ、諸家系圖纂、花押籔以下ノ著述、數部アリ、

〔改選諸家系譜〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0392 改選諸家系譜序
勝國之初、天下爪分、豪傑幷起、其勝敗存亡、史之所記、最爲多矣、雖然其大者固可得而知一レ之、其小者猶可得而知上レ之、而至其世譜族籍、則冺々乎、猶未得而知一レ之也、吾竊恨焉、非唯吾竊恨一レ之、天下亦以爲恨、我郷關翠軒、其恨之之尤者也巳、翁姓松下、名重長、號關翠軒、慶和間、年十八、從軍宇攝、故列侯諸將、勝敗功績、日視之、手記之、非唯其大者、小者可得而知一レ之、雖其世譜族籍亦能得而知之、譬之猶泰山而辨衆山、向白日而計秋毫矣、翁遂著諸家系譜若干卷、翁於是始不恨也、翁卒後、門人藤田子、家得而藏之、譬而校之所其遺漏、從而增之、如前田、松井、柳澤、戸田、奥平、永井、堀、森、靑木、植村、新莊等、其先不審、如織田、本多、大久保、内藤、水野、其支流繁不辨、皆得而正之、昭々爲悉、書成名曰改選諸家系譜、無慮一百餘卷、吾聞之喜而不寐、遂喜而識其端、時享保庚子〈○五年〉初冬、靑山隱士平一鷗叙、

〔先哲叢談〕

〈續編七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0392 田臨川、名革、字士豹、一名高通、字鳳翼、號臨川、初通稱立革、後更半藏、寺田氏、自修爲田、安藝人、仕于本國
寶永中奉侯命、撰安藝諸士系譜、享保八年告成、又命撰三備諸士系譜、十六年告成、辛丑元旦有詩云、花柳欣然一畝宮、身安心靜坐春風、架頭族譜三千卷、遲日要輯録功、蓋記當時之實也、按辛丑享保六年也、自注云、頃歳奉敎、編輯諸士系譜、故句中及之、
夫士之仕也、非苟私其祿、以榮其身、將上盡忠於君主、中報德於祖先、下垂裕於後昆、故其爲君者、訪求其士之賢、禮待其士之能、宜祖先之功績、詳其所一レ在、而後表諸將來、以勸厲於後裔、是乃系圖譜牒之所以不一レ廢也、寬永中官命林文穆等、輯著諸家系圖傳、自是而後、爲斯擧者、若新井白石藩翰譜、谷田博古改撰諮家系圖等往々而出、藝侯令藝備之封内、出其所弆藏、俾臨川輯録之、自甲午始、迄癸卯畢、凡經十年全成、題曰藝藩諸士系譜、總三百六十四卷、附録十二卷、目録六卷、侯喜賞賜金若干、當時侯伯、傳稱其擧、以爲諸藩未曾有之盛典矣、 藝侯謀不朽之意最盛、而淨書諸士系譜一部、納之於嚴島神嗣、自製收系譜云、其記實使臨川代作之、當時王侯文學之盛、可以欽賞、今時之公伯若此之類、極希者何也、上固無君主措意於此、下素無臣子留志於此、上下 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00026.gif安、互喜因循、貴賤吝嗇、迭悦虚揑、不祖先之誠、覆苗後之意

獻系譜

〔日本書紀〕

〈三十/持統〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0393 五年八月辛亥、詔十八氏、〈大三輪、雀部、石上、藤原、石川、巨勢、膳部、春日、上毛野、大伴、紀、阿倍、佐伯、采女、穗積、阿曇、伊、(伊恐衍)平群、羽田、〉上進其祖等纂記

〔弘仁私記序〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0393 凡厥天平勝寶之前〈感神天皇(聖式)年號也、世號法師天皇、〉毎一代使天下諸氏、各獻本系、〈謂譜牒爲本系也〉永藏秘府、不輙出、令圖書寮者是也、〈雄朝妻 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00027.gif子宿禰天皇(允恭)御宇之時、姓氏粉謬、尊卑難決、回坐月橿丘熱湯眞僞、今大和國高市郡有釜是也、後世帝王見彼覆車、毎世令本系、藏圖書寮也、〉

〔中臣氏系圖〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0393 延喜本系解狀
大中臣氏人等解申進新撰氏族本系帳事〈○中略〉
同本系云、〈○中略〉案去天平寶字五年撰氏族志所之宣、勘造所進本系帳(○○○○○○○)云、高天原初而、皇神之御中、皇御孫之御中執持、伊賀志桙不傾、本末中良布留人、稱之中臣者、

〔日本後紀〕

〈八/桓武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0393 延暦十八年十二月戊戌、勅天下臣民、氏族已衆、或源同流別、或宗異姓同、欲譜牒、多經改易、至籍帳、難本枝、宜告天下上レ本系帳、三韓諸蕃亦同、但令始祖及別祖等名、勿枝流幷繼嗣歴名、若元出于貴族之別者、宜宗中長者署申之上レ、凡厥氏姓、率多假濫、宜確實、勿詐冒、來年八月卅日以前、總令進了、便編入録、如事違故記、及過嚴程者、宜原情科處、永勿録、凡庸之徒、總集爲卷、冠蓋之族、聽別成一レ軸焉、

〔新撰姓氏録〕

〈序〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0393 皇統彌照聖明、〈○桓武〉生而叡哲、〈○中略〉思切正名、廼降絲綸、撰勘本系、緗帙未畢、鳳輿登遐、天朝〈○嵯峨〉至明、紹脩前業、〈○中略〉爰勅中務卿四品臣萬多親王、〈○中略〉臣等歴探古記、博觀舊史、文駮辭蹐、音訓組雜、〈○中略〉新進本系(○○○○)、多違故實、〈○下略〉

〔古史徴〕

〈一夏〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0394 新進本系とは、桓武天皇の御世に、詔命せて奏進しめ給へる諸家の本系帳と云るなり、

〔類聚三代格〕

〈七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0394 太政官符
諸國郡司譜圖諜一紀一進
右得式部省解偁、檢案内、件圖諜.經數十年一進、或五六年間頻進、因茲短祚早死者、子孫懷圖之憂、數好改換者、官司有勘會之煩、望請下知諸道、令件圖諜、以一紀限、務存實録、不假濫、但依去弘仁二年二月廿日詔書、應譜圖之狀、三年九月四日下知諸國訖、而諸國所進圖諜、零疊年限不同、如此之國、始圖年、計其程限、謹請官裁者、右大臣宣、依請、
天長元年八月五日

〔三代實録〕

〈七/淸和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0394 貞觀五年三月十一日癸酉、詔令近江國坂田郡穴太氏譜圖、與息長坂田酒人兩氏、同卷進上レ官、

〔三代實録〕

〈三十九/陽成〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0394 元慶五年三月廿六日甲戌、是日制、令五畿七道諸國諸神社祝部氏人、本系帳三年一進

〔中臣氏系圖〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0394 延喜本系解狀
大中臣民人等解申進新撰氏族本系帳
夫本系者、所以立祖宗一分昭穆濫吹後生之書也、爰自居々登魂命以往、本記雖存、朴略不詳、從太祖天之兒屋根尊以來、父子相承、兄弟載録、凡厥條分支別之類、必以編次、不故實、就中殊有功名者、名下繫其行事、降至廿一世之孫可多能祜大連公、總生三男、第一男御食子大連公、第二男國子大連公、第三男糠手子大連公、分爲三門、子孫梢衆、御食子大連公生八男、其第一男内大臣鎌足、初爲藤原朝臣、同大臣舍弟八郎垂目連、是散位大中臣氏彜等之祖、次國子大連公、是神祇大副從五位上大 中臣朝臣安則等之祖、次糠手子大連公、是神祇大祐大中臣本扶等之祖也、先祖之後、度々相承、勘造圖牒、或別祖之後、倒錯不明、或名號之字、相違難辨、芝𦫿雙生、涇渭混流、因茲申下上宣、鳩集先後本系、及家々古記、戸々門文等、始去寬平五年、十四載之間、實録粗畢、仍集爲卷、名曰新撰氏族本系帳、總造一卷、以寫四通、一通准例送納省庫、三通各分授置三門、但或偏好遠遊、流宕不歸、或追尋世業、耕種聊生、如此之類、非兒息、生長草萊、分離親族、勤雖弋釣、恐有遺脱、假令雖此帳、來首不虚、捜實處分、不必確執、苟所以不一レ人之心也、于時延喜六年歳次丙寅焉、
系圖略
以前檢案内、去貞觀五年十一月三日、勘造件帳、進官己畢、而先帳歴年、後生未載、爰被上宣、具所撰録、加以此氏供奉神事、良有以矣、苟非其人、恐致咎祟望請准例、被官印、依件分納、將後鑒、仍録事狀、申上如件、謹解、〈件本系、去延喜三年、繕作既畢、而以今年夏勘署進官、〉
延喜六年六月八日 散位正六位上大中臣朝臣氏彜
從五位上行神祇大副大中臣朝臣安則 正六位上行大祐大中臣朝臣本扶
少副五六位上大中臣朝臣良臣 従七位上守少祐大中臣朝臣奥生
少典謚正七位上大中臣朝臣有總
右衞門權少尉正六位上大中臣朝臣三江
散位從六位上大中臣朝臣勝來
學生正七位上大中臣朝臣利世

〔羅山文集〕

〈四十八/序〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0395 伊達氏家譜序〈代陸奥守忠宗
故先考、嘗校舊譜、以修於系圖一軸、以爲家藏、方今有鈞命、使列國主及群士各獻其家譜(○○○○○○○○○○○○○○○○○)、太田備中守資宗奉之、民部卿法印道春副焉、余亦聞其命降、於是繕寫家藏之舊本、且補其所一レ足、以先考之行業 與余之世家而附之、庶幾齊家治國、本枝百世之、永傳無窮也、
寬永十八年辛巳某月某日 從四位下右近衞少將兼陸奥守藤原朝臣忠宗序

〔鳩巢小読〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0396 一脇坂淡路守殿、只今ヨリハ二代モ前ノ人ニテ候、〈○中略〉此淡路守殿歌人ノ聞ヘ有之候、寬永年中日光ヘ系圖獻上ノ時分、其身ノ親父ヨリ主マデ二代計リ書申サレ、末ニ一首ノ歌ヲソヘテ納被申候、大猷院樣〈○德川家光〉殊ノ外御感ナサレ、其通ニテ日光ヘツカハサレ候ヨシ、風流ノコトヽ申傳候由、其歌ニ、
北南ソレトモシラズ紫ノ由諸バカリノ末ノフジ原、藤原ノ末ト被致候ハンヤ、但末ノ藤原カトテ其時分吟味ニテ究申候、此頃新井氏京都近衞攝政公ヘ侍ヲ越申ニ付、殊ノ外吟味ニテ、私モ相談ニ入申候、夫ニ付此咄申サレ候、

〔續武家閑談〕

〈十九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0396 高敦〈○木村〉按するに、〈○中略〉寬永十一年、大猷公、〈○德川家光〉大小名御旗本の系圖を太田備中守資宗、民部卿法印道春に命じ、是を撰ましめ、日光山東照宮へ御奉納の折柄、淸泰院〈○德川家光養女、前田光高妻、〉の御方の御吹擧にや、彼左兵衞〈○佐々木義治子〉名家たるを以て、其系譜を倍臣といへども、是を召寄せて御奉納の列に加へらるヽよし、室直淸、予に物語す、

査覈系圖

〔憲敎類典〕

〈二之四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0396 寬政元癸酉年
諸大名系譜御改ニ付、御書付諸家系譜差出候覺、
一古キ家筋之分は、誰よりと被相達べく候、其以前は書出ニ不及候、
一延寶元年以後、万石以上ニ相成候分は、先祖之由緒、幷連綿いたし候代々之儀不殘認可差出
候事、
但分知は家元延寶八年迄は八万石以上ニ而、本家誰代分知、或は家元誰代分流と認候両、遠 祖迄委細書出し候にも不及候、 一家督初而御目見、隱居、分地、官位、〈加階昇進〉死去、〈幷歳付〉次男、厄介、家來等、新知被召出候儀、
一御名代、御使、御手傳、其外廉立候御用、
一减知、御役御免、其外御咎等之儀、
右之分、年月日委細ニ認候事、
右之外其邸宅御成等之儀、又は格別なる拜領物御譽等、不何事其家々之美目に存候儀は認可申事、
但御門番、火之番等、通例之儀は認に不及、事繁不相成樣に、緊要之儀計簡易に認可申候、
此御書付政調之上、此部中〈江〉可認入候、

〔一話一言〕

〈十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0397 系圖調
御書院番水谷伊勢守組
年々拾五枚 高林 彌藏
同 御小性組石川壹岐守組一郎養父
大久保酉山
同 新御番小野飛驒守組
木部 猶存
小普請組渡部平十郎支配
高木喜次郎
五人扶持 同戸田中務組玄八郎養父
大林新次郎
三人扶持 御持頭宅間與定衞門組同心
小田 又藏
三人扶持 屋代太郎義子
屋代小太郎
右寬永以來、系圖調御用書物相勤候樣、可申渡候旨、御書付を以、堀田攝津守殿被仰渡、頭々宅において申渡候由、
未三月廿六日〈寬政十一己未年也〉

〔大江俊光記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0397 元祿十三年八月廿四日、日向渡、山城肥前下總三番頭より、日向へ文、〈近衞殿諸大夫家〉
北小路石見どの書付、尤に候へども、何も先祖委細に被書付候間、左樣に御書付候而、明日中に御越可成候、
近衞殿諸大夫先祖何――より、北小路山城守迄何代に成申候、後水尾院御代に被召出候、
月日 北小路石見名印
三番頭當所
右之通書中に申來、某披見、夕飯後、日向同道出京、先ふや町へ參、主公へ得御意候處、近衞殿伺公窺可申との事尤に候と御申候故、卽刻伺公、今大路治部に逢、昨日關白御參内、日向迄俊光義御尋、難有窺御機嫌候、次に御違も御座候はヾ、得御意度由申上候へば、卽刻御對面、先祖書、今晩中に指越候樣にと、非藏人奉行衆より申參候由に而、書付可申上と存候、俊宣より諸大夫に成候者計、かぞへ候へば、山城守迄七代、俊宣より嫡子之筋、坊官入候而も山城守迄七代に候、いづれの方をかぞへて、七代と心得可申哉と窺申候へば、御思案被遊候而、嫡脈之通、坊官も入て、山城迄を七代と心得候て、書付可申由御意也、仍而、
近衞殿諸大夫、從三位大江俊宣ヨリ、北小路山城守迄七代に成申候、山城義、後水尾院御在位之 時、東御所御執奏ニテ、元和年中ニ被召出候、以上、
八月廿四日 北小路石見俊光
松尾山城殿
吉見肥前殿
佐々下總殿
右之書付懸御目候へば、此通可然候間、此通而、奉行へ可遣之由關白仰也、〈○中略〉
近衞殿諸大夫〈北小路大江〉
俊宜(一) 俊泰(二) 俊永(三) 俊直(四大膳大夫) 慶忠(五坊官) 快俊(六兼坊) 俊記 忠快(兼坊)
俊定 俊孝 俊祗(七山城守) 俊眞(主税助) 匡英
俊光(石見) 俊尚
右之系圖、關白へ懸御目、何代とは如何樣にかぞへ可申哉と申上候へば、慶忠快俊人て、山城守迄七代と書可申由御意也、仍而石一二三付の通、山城迄七代と書付出候也、

揚言系譜

〔古事記〕

〈中祟神〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0399 此天皇之御世、疫病多起、人民死爲盡、爾天皇愁歎、而坐神牀之夜、大物主大神、顯於御夢曰、是者我之御心、故以意富多多泥古、而令我御前者、神氣不起、國亦安平、是以驛使班于四方意富多多泥古之時、於河内之美努村得其人貢進、爾天皇問賜之汝者誰子也、答曰、僕者大物主大神、娶陶津耳命之女、活玉依毘賣生子、名櫛御方命之子、飯肩巢見命之子、建甕槌命之子、僕意富多多泥古白、

〔保元物語〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0399 官軍方々手分事
基盛、大和路ヲ南ヘ發向スルニ、法性寺ノ一ノ橋ノ邊ニテ、馬上十騎計、直甲ニテ物具シタル兵、上下二十餘人、都ヘ打テゾ上リケル、基盛、是ハ何レノ國ヨリ何方へ參スル人ゾト問ケレバ、此程京中物忩ノ由承ル間、其子細ヲ承ラントテ、近國ニ候者ノ上洛仕ルニテ候ト答、基盛、打向テ申ケルハ、一院〈○白河〉崩御ノ後、武士共入洛ノ由、叡聞ニ及ブ問、關々ヲカタメニ罷向フ也、内裏ヘ參入ナラバ、宣旨ノ御使ニ打連テ參ジ給ヘ、不然バエコソ通シ申マジケレ、角申ハ桓武天皇十代ノ御末、刑部卿忠盛ガ孫、安藝守淸盛ガ次男、安藝判官基盛、生年十七歳トゾ名乘タル、大將ト思敷者ノ、〈○中略〉身不肖ニ候ヘ共、如形、系圖(○○)ナキニシモ候ハズ、淸和天皇九代ノ御末、六孫王七代末孫、攝津守賴光ガ舍弟、大和守頼信ガ四代後胤、中務丞賴治ガ孫、下野權守親弘ガ子ニ、宇野七郎源親治トテ、大和國奥郡ニ久住シテ、未武勇ノ名ヲ落サズ、左大臣殿〈○藤原賴長〉ノ召ニ依テ、新院〈○崇德〉ノ御方ニ參也、源 氏ハ二人ノ主トル事ナケレバ、宣旨ナリトモエコソ内裏ヘハ參ルマジケレトテ、打過ケレバ、〈○下略〉

〔保元物語〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0400 白川殿義朝夜討被寄事
四郎左衞門、〈○中略〉大炊御門ヲ西ヘ向テ防ケルガ、爰ヲ寄ルハ源氏カ平家カ、名乘レキカン、角申ハ、六條判官爲義ガ四男、前左衞門尉賴賢トゾ名乘ケル、河向ニ答テ云、下野守殿〈○源義朝〉ノ郎等、相模國ノ住人、首藤刑部丞俊通子息瀧口俊綱前陣ヲ承テ候ト申セバ、扨ハ一家ノ郎等ゴザンナレ、汝ヲ射ニアラズ、大將軍ヲ射ル也トテ、川越ニ矢二ツ放ツ、〈○中略〉安藝守〈○平淸盛〉ハ、二倍川原ノ東堤ノ西ニ向テ引ヘタリ、其勢ノ中ヨリ五十騎計先陣ニ進ンデ押寄タリ、爰ヲ堅メ給ハ誰人ゾ、名ノラセ給ヘ、角申ハ安藝守殿ノ郎等ニ、伊勢國ノ住人故市伊藤武者景綱、同伊藤五伊藤六トゾ名乘ケル、八郎是ヲ聞、汝ガ主ノ淸盛ヲダニ、アハヌ敵ト思ナリ、平家ハ柏原天皇〈○桓武〉ノ御末ナレドモ、時代久ク成下レリ、源氏ハ誰カハシラヌ、淸和天皇ヨリ爲朝マデハ九代也、六孫王〈○經基〉ヨリ七代、八幡殿〈○義家〉ノ孫、六條判官爲義ガ八男、鎭西ノ八郎爲朝ゾ、景綱ナラバ引退ケトゾ宣ヒケル、

〔保元物語〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0400 白河殿攻落事
相模國住人大庭平太景能、同三郎景親、眞前ニ進ンデ申ケルハ、八幡殿、後三年ノ合戰ニ、出羽國金澤ノ城ヲ責給シ時、十六歳ニシテ、軍ノ眞前懸、鳥海三郎ニ、左ノ眼ヲ甲ノ鉢付ノ板ニ乍射付當ノ矢ヲ射返テ、其敵ヲ取シ鎌倉權五郎景正ガ末葉、大庭平太景親トゾ名乘タル、

〔平治物語〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0400 待賢門軍附信賴落事
左衞門佐重盛、五百餘騎ヲパ大宮面ニ殘シ置、五百餘騎ニテ押寄テ呼リ給ケルハ、此門ノ大將軍ハ信賴卿ト見ルハ僻目歟、角申ハ桓武天皇苗裔、太宰大貳淸盛ガ嫡子、左衞門佐重盛、生年二十三卜名乘懸ケレバ、信賴返事ニモ不及、ソレ防ゲ侍共トテ引退ク、大將ノ引給間、防侍一人モナシ、我 先ニト逃ケレバ、重盛禰勇ミテ、大庭ノ椋木許迄責付タリ、義朝是ヲ見テ、惡源太ハナキカ、信賴卜云大臆病人ガ待賢門ヲ早被破ツルゾヤ、アノ敵追出セト宣ケレバ、承候トテ被懸ケリ、續兵ニハ鎌田兵衞、〈○中略〉已上十七騎、轡ヲ雙べテ馳向、大音聲ヲ揚テ、此手ノ大將ハ誰人ゾ、名乘レ聞カン、角申ハ淸和天皇九代後胤、左馬頭義朝嫡子、鎌倉惡源太義平ト申者也、生年十五歳、武藏大藏ノ軍ノ大將トシテ、伯父帶刀先生義賢ヲ討シヨリ以來、度々ノ合戰ニ一度モ不覺ノ名ヲトラズ、年積テ十九歳、見參セントテ、五百騎ノ眞中ヘ割テ入、西ヨリ東ヘ追マクリ、北ヨリ南ヘ追廻シ、竪樣横樣、十文字ニ敵ヲ颯ト蹴散シテ、〈○下略〉

〔平家物語〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0401 宮の御さいごの事
足利が其日のしやうぞくには、〈○中略〉大おん聲をあげて、むかしてうてき將門を亡ぼして、けんしやうかうぶつて、名を後代にあげたりし、俵藤太ひで鄕に十代のこうゐん、下野國の住人あしかがの太郎としつなが子、又太郎たヾつな、生年十七さいにまかりなる、かやうにむくはんむゐなる者の、宮に向參らせて、弓を引矢をはなつ事は、天の恐れすくなからず候へ共、たヾし弓も矢もみやうがの程も平家の御上にこそとヾまり候はめ、三位入道殿〈○源賴政〉の御方に、我と思はん人々は、より合や、げん參せんとて、平等院の門のうちへ責入々々戰けり、

〔源平盛衰記〕

〈二十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0401 高綱賜姓名附紀信假高祖名
兵衞佐殿〈○源賴朝〉又射殘シ給タリケル箭ヲ取テ番ヒ、既ニ引カントシ給ケルニ、佐々木四郎高綱、矢面ニ塞リテ、大將軍タル人ノ、左右ナク弓ヲ引、矢ヲ放事侍ラズ、御伴ノ者共、一人モアラン程ハ、輕輕敷事有ベカラズ、郎等乘替其詮也、トク〳〵延給ヘ、定綱、高綱兄弟御身近侍リ、可禦矢仕、但姓名給ラント云ケレバ、佐殿、子細ニヤ、暫高綱ニ預給フト宣ヘバ、佐々木姓名ヲ給テ、弓矢取テ番ヒ、坂ヲ下ニ向テ、大音揚テ名乘、淸和帝ノ第六皇子貞純親王ノ苗裔、多田新發意滿仲ノ後胤、八幡太郎 義家ニ三代ノ孫子、左馬頭義朝ノ三男、前右兵衞權佐源賴朝爰ニアリ、東國ノ奴原ハ先祖重代ノ家人等也、馬ニ乘ナガラ御前近參候狼籍也、奇怪也、罷退ト云カケテ暫シ堅テ態ト馬ヲゾ射タリケル、

〔源平盛衰記〕

〈二十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0402 信濃横田川原軍事
上野國住人西七郎廣助ハ、火威ノ鎧ニ白星ノ甲著テ、白葦毛ノ馬ノ太ク逞ニ、自伏輪ノ鞍置テ乘タリケリ、同國高山ノ者共ガ、笠原平五ニ多討レタル事ヲ安カラズ思テ、五十騎ノ勢ニテ河ヲ渡シテ磬ヘタリ、敵ノ陣ヨリ十三騎ニテ進出ヅ、大將軍ハ、赤地ノ錦ノ鎧直垂ニ、黑糸威ノ鎧ニ鍬形打タル甲著テ、連錢葦毛ノ馬ニ金覆衞輪ノ鞍置テ乘タリケリ、主ハ不知、ヨキ敵ト思ケレバ、西七郎、二段計ニ歩セヨリ、和君ハ誰ゾ、信濃國住人富部三郎家俊、問ハ誰ゾ、上野國住人西七郎廣助、音ニモ聞ラン、目ニモ見ヨ、昔朱雀院御宇、承平ニ將門ヲ討平テ勸賞ヲ蒙リタリシ、俵藤太秀鄕ガ八代ノ末葉、高山黨ニ西七郎廣助トハ我事也、家俊ナラバ引退ケ、合ヌ敵ト嫌タリ、富部三郎申ケルハ、和君ハ軍ノアレカシ、氏文讀マント思ケルカ、家俊ガ祖父下總左衞門大夫正弘ハ、鳥羽院ノ北面也、子息左衞門大夫家弘ハ、保元ノ亂ニ、讃岐院ニ被召テ、仙洞ヲ守護シ奉キ、但御方ノ軍サ破テ、父正弘ハ陸奥國ヘ被流、子息家弘ハ奉伐ケレドモ、源平ノ兵ノ數ニ嫌レズ、正弘ガ子ニ布施三郎惟俊、其子ニ富部三郎家俊、合ヤ合ズヤ組デ見ヨトテ、十三騎、轡並テヲメキテ蒐、〈○下略〉

〔源平盛衰記〕

〈三十五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0402 粟津合戰事
木曾、赤地錦鎧直垂ニ、薄金ト云冑(ヨロヒ)著テ、射殘シタル護田鳥尾ノ矢負テ、歩ハセ出シテ名乘ケルハ、淸和帝ニ十代ノ後胤、六條判官爲義ニハ孫、帶刀先生義賢次男、木曾左馬頭兼伊豫守、今ハ朝日將軍源義仲、生年三十七、甲斐ノ一條ト見ルハ僻事カ、雜人ノ手ニカケンヨリ、組ヤ組トテ轡ヲ並テ踉蹡タリ、一條次郎忠賴モ、同流ノ源ニ伊豫守賴義ノ三男、新羅三郎義光ガ孫、武田太郎信義ガ嫡 子、一條次郎思賴、同三郎兼信、兄弟二人ト名乘テ進ミ出ツヽ、木曾ト一條ト魚鱗鶴翼ノ戰ヲゾ並タル、

〔太平記〕

〈十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0403 長崎次郎高重最後合戰事
高重、今ハトテモ敵ニ被見知ヌル上ハト思ケレバ、馬ヲ懸居、大音揚テ名乘ケルハ、桓武第五ノ皇子、葛原親王ニ三代ノ孫、平將軍貞盛ヨリ十三代、前相模守高時ノ管領ニ長崎入道圓喜ガ嫡孫、次郎高重、武恩ヲ報ゼンタメ討死スルゾ、高名セント思ハン者ハ、ヨレヤ組ント云儘ニ、〈○下略〉

〔大塔物語〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0403 長國、究早〈メテ〉態(ワザ)之兵成〈レバ〉、件〈ノ〉金筒丸、柄中押〈ツ〉取捧〈ケ〉中〈ニ〉、凸所〈ヲバ〉由良々々頡(ヲドリコ)、凹(ヘ)所〈ヲバ〉飛良々々頑(ハネコ)、不(ヘ)堀谷〈ヲ〉踊〈リ〉越〈ヘ〉 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00030.gif(ハネヘ)越〈ヘ〉、擧大音名乘〈ケル〉梟者、遠〈ハ〉聞(キケ)音〈ニ〉近〈ハ〉見〈ヨ〉目〈ニモ〉、忝〈モ〉淸和天皇〈ノ〉御苗裔(ベウセイ)、新羅三郎末孫、小笠原次郎長淸、其子兵庫頭政長、次男坂西次郎長國、生年廿一歳也、而〈レバ〉内〈ニ〉心〈ヲ〉入〈レ〉鷲窟〈ニ〉螢雪之勤、外〈ニハ〉嗜〈ミ〉弓馬之道、不帷幄之籌、文武二道之珍重男〈ヲ〉、倚(ヨリ)會哉(ヤ)々々〈トテ〉、噯〈テ〉懸〈ク〉、〈○下略〉

〔館林盛衰記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0403 長尾但馬守館林へ寄事
五十百餘の武者、〈○中略〉高聲に被申けるは、戰場にのぞむ人毎に、討死を不志といふものなし、然ども今日の合戰に、我一人死せんずる也、子細は兼て覺えつらん、是は淸和天皇の後胤、足利氏の末流、栗屋十郎が末孫に、小曾根玄蕃允正好なり、諸野因幡守〈○秀氏〉はおはせぬか、出合給、大刀打し、敵味方のねぶりを覺させ申べしと、勢ひあたりをはらつて扣給ふ、

〔別所長治記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0403 神吉ノ城攻
六尺餘ノ男、昔甲猪頭ニキ、黑皮威ノ腹卷ニ、三尺餘ノ大長刀ヲ提、高聲ニ名乘ケルハ、鎌倉權五郎景政ガ末葉、梶原十右衞門人道冬〈○冬一本作道〉庵ト云者也、〈○中略〉東國武者ハ、今日始テノ見參也、寄手手ナミヲ見ヨトテ、橋ノ行桁ヲ走リ渡ル、

〔古史徴〕

〈一夏〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0403 上世より世人事とある時は、祖の名を顯はし、また其功しかりし事蹟をも稱て名 告する風俗なること、書等に數しらず記して、至誠なる眞心なるを、漢説にいはゆる名利なりなど云る徒のあるぞ、中々に表方を飾る、かの國風の虚心とこそ思はるれ、〈今の世人も眞心なる田舍人などに、むかしの在狀なるもあるを、宜しげなる人のさりげなくてあるは、漢意に變化たるなり、また心あるきはの人は、裏は古意なりながら、世のさがのすべなさに愼めるも有べし、〉

系譜讓與

〔鎌倉大草紙〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0404 信元、〈○武田、中略、〉信長の一男伊豆千世丸とて、土屋の娘の腹に生れし子を養子に定て、系圖幷代々の御感書手次證文、不殘相傳也、

〔鎌倉大草紙〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0404 憲實〈○上杉、中略、〉其後船にて西國へ赴、周防國へ行脚あり、爰にそのころ、中國の大内殿、威勢を中國九州までふるひける、都には武衞細川畠山の三家ともに末になり、其家いづれもニッにわかれ合戰あり、一人して天下の御後見も難叶、大内は大名にて威勢もありければ、天下の御後見を望、一度都にのぼり、公方の執事とあふがれ、政道を輔佐せん事願ひけれども、三家の外は執事の例もなし、かなふまじとて、多年望を空して過しける時、憲實入道此所へ來りけるこそ幸なれと、大に喜て、憲實入道を雲洞菴〈○菴一本作院〉高岩長棟菴主と稱し、長門國深川大寧寺と申會下寺にうつしをき、馳走渇仰して、則大内殿は、憲實の養子になり、上杉山の内の系圖を繼、篠の丸にまひ雀の幕の紋を請て、憲實を御父とて崇敬限りなし、其後大内殿、都へ上り、上杉は關東管領の家なれば、それをつぎて、京都の執事職も子細有まじきよし申上ければ、公方よりも禁中へ奏聞ありければ、尤其寄ありと御免ありて、大内左京大夫義興、初て上杉より請て京管領に任ぜられ、御後見、望のごとく叶ひける、

〔相州兵亂記〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0404 上杉敗北幷龍若最期之事
憲政、景虎ヲ養子ニシテ、上杉重代ノ大刀、〈天國〉幷系圖ヲ渡シ、關東ノ管領ヲ讓リ玉フ、

系譜賣買

〔文正記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0404 文正元年丙戌躁動史序
八耳太子〈○聖德〉未來記曰、吾當入滅之后七百餘載、君臣失道、父子違禮、穀君殺親、立邪立非、僧者非僧、 俗非俗、今是其時也、概神代以來、侍凡下區別有之、然本侍者、得替所帶、追從土民、爲身命於系圖(○○○○○○○○○○○○)、依爲方薙易服、僞作沙門、心非沙門、敬富祐者、跪恩顧之輩、移僧房、或住本宅、値遇下賤、傾笠謟咲、是謂偪下者、凡下之者、抑留税賦如公道、弃於農業、習於武藝、買系圖自稱侍(○○○○○○○○○○)、〈○中略〉終蒙天罰、自業自滅、是謂僣上者、是以天下無安、國家不穩、嘻

修補改寫

〔續日本紀〕

〈十八/孝謙〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0405 天平勝寶三年二月己卯、典膳正六位下雀部朝臣眞人等言、磐余玉穗宮、〈○繼體〉勾金椅宮御宇天皇〈○安閑〉御世、雀部朝臣男人、爲大臣供奉、而誤記巨勢男人大臣、眞人等先祖巨勢男柄宿禰之男有三人、星川建日子者、雀部朝臣等祖也、伊刀宿禰者、輕部朝臣等祖也、平群宿禰者、巨勢朝臣等祖也、淨御原朝庭、〈○天武〉定八姓之時、被雀部朝臣姓、然則巨勢雀部、雖元同祖、而別姓之後、被大臣、當今聖運、不改正、遂絶骨名之緒、永爲源之氏、望請改巨勢大臣、爲雀部大臣、陳名長代、示榮後胤、大納言從二位巨勢朝臣奈氐麻呂、亦證明其事、於是下知治部、依請改正之

〔中臣氏系圖〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0405 嘉暦三年六月七日、終功畢、於二門者、以總官御本之、至一門三門者、以延喜本系之、抑系圖之中、無子孫之俗、無名譽之僧、無貴寵之女、少々略之、所以除筆紙之煩也、以二員以後宮司、注大司事者、顯一員之名者也、以朱爲祭主血脈之事者、所以賞其職也、是皆違于本意巧、不見之、次一三兩門者、延喜六年比、老壯幼稚相交之間、官途昇進、豫不之、全以之不本矣、其後相續之人々者、就子孫之指南、少々實録之、所以繹古知一レ新而已、
正慶元年七月廿五日、終書功畢、本權禰宜有俊之本也、但系圖立之樣、不思様之間、少々改之、摸諸家之系圖、以當家〈岩出〉爲系圖之最前了、抑中氏系圖、五六本雖所帶、皆不思樣之間、爲中書筆了、不外見者也、
祠部員外郎俊基判
此予以自筆中書之處、此系圖一本、可書寫之由、岩田權大卿、〈師卿〉 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00015.gif命之間、有淸書之志、 一本可書給之旨、予所望之間、以狀仍遣料紙之間、一本淸書給候、於朱點以下者、予沙汰也、于時建武元年六月廿日、〈雨降〉彼大卿予共在京、勘解由小路屋同宿程也、此系圖、無左右外見者也、
祠部員外郎俊基判

〔毛利家記〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0406 長州秀就ヲ何トゾ取立、當家往昔ニカヘル後榮モアレカシト、秀元思召、世間ノ目ニモ心有ハ、如三齋見給シニ、秀就一圓此御恩ヲ思不給、結句幕府ヨリ諸家ノ系圖可差出旨、被仰出シ時、秀就數十代傳タル系圖ヲ書替差上給シ、是ハ輝元ヨリ秀元、秀元ヨリ秀就ト、系圖ヲ鉤給シヲ書替テ、輝元ヨリ秀就トツリ給シコトハ如何、如此ヘダテ給フト云ヘドモ、秀元卿ハ其レニモ構給ハズ、沙汰ノ限ナル儀ハ、サルコトナレドモ、是ヲ云ンハ狂人走レバ、不狂人モ走ナルベシトテオワシマシ、兎ニモ角ニモ毛利ノ家サヘ續ナラバト、此儀ヲ心ニ掛サセ給ヒシ也、

〔幸充日次記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0406 延享元年十二月朔甲辰南部家譜
抑南部之家者、其先淸和天皇皇子興于貞純親王、基于六孫王經基、其後裔新羅三郎義光、其子刑部三郎義淸、甲州始而居住稱武田、又其孫信濃三郎光行、則爲南部家曩祖矣、光行甲州巨麻郡南部居住、從是而號稱南部、文治年中、奥州合戰之節、光行甚有軍功、因是右幕下賴朝卿、被賞數郡、從夫已來至于今、五百五十餘歳、及當城主修理大夫而三十三代、以血脈相續、寔希世家、可珍重者歟、于時所持傳家譜、經數百年而甚蟲惑、因欲書改、且予詞書幷和歌二首、乞望書加、予所管見舊記、固有其旨趣、仍不辭、循乞擧其一二而巳、〈兼香公卿作云々〉

燒亡散佚

〔日本書紀〕

〈二十四/皇極〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0406 四年六月己酉、蘇我臣蝦蛦等臨誅、悉燒天皇記國記珍寶、船史惠尺、卽疾取燒國記、而奉中大兄

〔赤松記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0406 我々家の事は、前に申ごとくにて候間、代々有之候得共、左樣の支證系圖、伊井にて矢て無是非候、左候所に、おもひよらず我々家の古き支證ども、とくてうの依藤太郎左衞門持候よし承、 いろ〳〵懇望し候へば、中々やすき事候問、一通も殘らずわたし候はんと直に申送候間、依藤支證と同心して、八幡の岩の坊に預け置候問、被官の内にて候、くり山がいのへか兩人に、一人のぼせ候はでは、取出候事ならず候間、まち候へと申されて延引候、其後ほどなく依藤死去、彼跡むざと成來候まヽ、中々申出し候はで置候、〈○中略〉
天正拾六年八月吉日 因幡守入道定阿判(/八十四歳書之)

〔新井家系〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0407 家系附録序説
當家の系圖、上西入道〈○義重〉以來、累代其世次を親ら記し置れし家譜一軸、〈相傳ふ、此軸法華經一部八卷を一卷になせし程り卷物也と云ふ、〉幷に古來の文書記録、少しの紛失なく、多年兵亂の中に私藏せしに、十四代昌純の時、享祿年中、横瀨雅樂助が逆謀によりて、昌純生涯に及び、彼一軸を手に携へ、其餘記古物共に、一時の灰燼となりぬ、當家陽九の厄、此時に極りしに、程なく和議調りて、昌純が弟卍丸、再び金山の屋形と稱せらる、されど先世の書記、隻字も傳はらざりしが、幸に一族西谷が家より.略系一卷を呈せり〈これを古系圖と云〉其後かの系本に據りて是を修補し、加るに後事を以てして、別に一編を作りて家に藏む、〈これを巨細系圖と云〉今に於て當家の事實を考へ見るべきもの、纔に此二本のみにして、つぶさに歴世の遺美を聞く事を得ず、

〔西山遺聞〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0407 續本朝人物志の事
一相馬家火事之節、系圖を腹に入燒死たる家老の姓名、奥山立庵に承届け、續本朝人物志に、今井新平可書加よし被仰、〈御意覺書、接ずるに此時今井新平に命ぜられて、續本朝人物志といふ物えらばせられしと見えたり、〉

〔古史徴〕

〈一夏〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0407 古く榮たりし氏人のいたく衰へたるから、祖の靈に恥見せじとて、系圖を燒亡ひたりなど云ことも、をり〳〵聞ゆるは、いとも〳〵あはれなる眞心ながら、實の道の理を知らぬ失にて、いと〳〵あぢきなし、

系譜僞作

〔弘仁私記序〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0408 世有神別記十卷、〈天神天孫之事、具在此書、〉發明神事最爲證據、然年紀夐遠、作者不詳、〈夐遠視也、 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00031.gif正反、〉自此之外、更有帝王系圖〈天孫之後、悉爲帝王、而此書云、或到新羅高麗國王、或在民間帝王者、囚茲延暦年中、下符諸國之、而今猶在民間也、〉諸民雜姓記、〈或以甲後乙胤、或以乙胤甲後、如此之誤往々而在、苟以曲見、或無識之人也、〉諸蕃雜姓記、〈田邊史、上毛野公、池原朝臣、住吉朝臣等祖、思須美和德兩人、大鷦鷯天皇(仁德)御宇之時、自百濟國化來而言、己等祖是貴國將軍上野公竹合也者、天皇矜憐混彼族訖、而此書云、諸蕃人也、如此事觸類而多也、〉新撰姓氏目録者、〈柏原天皇(桓式)御宇之時、若狹國人申新本系事、因茲令諸國獻本系此書、而彼主當人等、未眞僞、抄集誤書之民間、加以引神胤上、推皇裔方、尊卑雜亂、無信、但正書目録、今在太政官、今此書者、所謂書之外、恣申新意歟、故雖迎禁駟不及也、〉如此之書觸類而夥、〈夥多也〉踳駮舊脱、眩曜人看、〈踳駮差雜貌〉或以馬爲牛、或以羊爲犬、輙假有識之號、以爲述者之名、〈謂借古人及當代人之名〉卽知官書之外、多穿鑿之人、是以官禁而令焚、人惡而不愛、今猶遺漏、遍々在民間、多僞少眞、無刊謬是則不舊記、〈日本書紀、古事記、諸民記等之類、〉無師資之所致也、〈幡士爲師、弟子爲資、〉

〔日本後紀〕

〈十七/平城〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0408 大同四年二月辛亥、勅倭漢總歴帝譜圖、天御中主尊、標爲始祖、至魯王呉王高麗王漠高祖命等、接其後裔、倭漢雜糅、敢垢天宗、愚民迷執、輙謂實録、宜諸司官人等所藏皆進、若有情隱匿、乖旨不進者、事覺之日、必處重科

〔神皇正統記〕

〈應神〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0408 異朝の一書の中に、日本は呉の太伯の後なりといふといへり、かへす〴〵あたらぬことなり、むかし日本は三韓と同種なりといふことのありし、かの書を桓武の御代に燒すてられしなり、天地ひらけてのち、素盞烏尊、韓の地にいたりたまひきなどいふ事あれば、かれらの國々も、榊の苗裔ならんこと、あながちくるしみなきにや、それすらむかしよりもちひざることなり、天地神の御末なれば、なにしか代くだれる呉の太伯がのちにはあるべき、三韓震旦に通じてより以來、異國の人、多くこの國に歸化しき、秦の末、漢の末、高麗百濟の種、それならぬ蕃人の子孫も來りて、神皇の御末と混亂せしによりて、姓氏録と云ふ文をも作られき、それも人民にとりての事なるべし、異朝にも人の心まち〳〵なれば、異學の輩の云ひ出だせる事か、

〔晉書〕

〈九十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0408 倭人在帶方東南大海中、〈○中略〉男子無大小、悉黥面文身、自謂太伯之後

〔日本書紀纂疏〕

〈上一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0409 晉書傳曰、男子無大小、悉黥面文身、自謂太伯之後、蓋姫氏周姓、周大王之長子呉太伯、讓國逃荊蠻、斷髪文身、以避龍蛇之害、而呉瀕東海、本朝俗、皆黥面椎髻、故稱太伯之後、則名國曰姫氏、然吾國君臣、皆爲天神之苗裔、壹太伯之後哉、此蓋附會而言之矣、

〔古抄本下學集〕

〈上後附〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0409 野馬臺詩海藏祖註
始 定ム 壤ニ 天 本 宗ヲ 初テ 功チ 元 建ツ
終ヲ君 周シ 枝 祖 興ス 和 法ノ 主
谷 孫 走リ 生ス 羽 祭ヲ 成ス 事ヲ
瑱 田 魚 膾 翔 世 代フ 天 王ニ 翼ト
孫 子 動ク 戈 葛 百 國ニ 氏ノ 石 扶
昌フ 微 中 干 後 △東 海 姫 司 爲
白 失ス 水ヲ 寄ス 胡 △空ト 爲ナル 遂ニ 國 喧シ
龍 遊テ 窘 急 城ニ 土ト 茫 茫 中ニ
牛 喰ス 食ヲ 人ノ 黄 赤 與ト 丘 靑 鐘
膓ヲ 鼠 黑 代フ 雞 流レ 異ニ 竭キ 猿 外カ丹 盡テ 後チ 在リ 三 王 英 稱ス 犬 野ノ
水 流 天 命 公 百 雄ト 星 流ル 鳴
野馬臺讖註者 日本人記
野馬臺ト者、カゲロウ也、日本ヲ云也、讖(シルス)者、未來ノ事ヲ鑒テ有文ナレバ云也、東海トハ、唐土ヨリ日本ハ東ナレバ云也、海中ノ島ナレバ云也、姫氏者日本ノ國王、唐土ノ文王武王トハ姫氏也、彼ノ王ノ氏出、日本ノ國王卜傳テ御座ヲ云姫氏國、東海姫氏國トハ、日本秋津島ハ、唐土ヨリ東ノ 海ノ中ニ有レバ、此ヲ東海ト云、〈○中略〉
時神亀三年〈丙寅〉三月上旬大臣入唐
野馬臺之詩幷序、野馬臺詩、梁寶誌和尚所作也、野馬臺陽焰也、臺謂國也、言倭國人道、輕薄雖在而如亡、猶如陽焰起、春臺故指本朝野馬臺也、昔寶誌和尚行道之日、化女忽照來、與和尚倶語、恰如舊相識、一人去〈カ〉、一人來、如此一千八人也、皆言其本國之始終也、和尚怪之、以千八女文字、乃成倭字、爰知是倭國神也、和尚記其語十二韻詩、以胎將來矣、鳴呼誌公是觀音大士、不知自作和國之識、守中古(モト)聖式皇帝朝、吉備公入唐、唐人以其本國之讖、出野馬臺詩、使之讀乃而爲其智力、文字交錯也、平直不之、匪神助之、於是吉備公默禱蒔佛天及本神社、俄而有蜘蛛其紙上、漸歩曳絲、遂認其跡、讀之、不一字、唐人稱書之、

〔塵添壒嚢抄〕

〈七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0410 磤馭廬嶋事(ヲノゴロシマノ)〈附秋津嶋事、蜻蛉事、野馬臺事、野馬臺文事、寶誌和尚入滅年記事、倭面國事、東海姫氏國事、○中略〉
本朝、我朝、目域、野馬臺(ヤバダイ)ナンドモ申メリ、但野馬臺〈ハ〉、唐ヨリ名クル名也、日本〈ノ〉和訓ヲ音ヲ借テ申セル也、マトバトハ同響ニテ通〈ジ〉麼(マ)〈ノ〉字ヲ麼(バ)トモヨム也、喩ヘバ雨ヲ下(ア)米ト云、硯蘇松利(ヲスヾリ)ナンド云類ヒ多ク侍ルニヤ、或ハ日本〈ヲ〉法度无キ國也、馬野(ノ)ニ放タルガ如シトテ、野馬臺ト名付ク共云フ、此義信ゼザレ共、何〈ケ〉篇ニモ唐シヨリ申出セル名ナリ、吉備大臣ノ唐ニテ讀給ケン文ヲ野鳥臺ト云.日本〈ノ〉成行ベキ未ノ事〈ヲ〉云ル也、然レバ國ノ名トハ覺タリ、是ハ寶誌和尚トテ、權化ノ人ノ作ラレケル文也、此和尚〈ノ〉圓寂〈ハ〉、蕭梁天 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00023.gif十三年〈甲午〉歳也、我朝ニハ繼體天皇八年〈甲午〉當ル、然〈ハ〉此文〈ヲ〉吉備大臣〈コ〉讀〈セ〉奉ラン爲〈ニ〉、其(ニ)時作ルト云ハ大ナル誤リ也、長谷寺縁起等ニモ其由載タリ、此〈ハ〉事唐〈ニハ〉玄宗皇帝開元二十二年〈甲戌〉也、本朝ニハ聖式天皇天平六年ニ當レリ、既〈ニ〉彼和尚入滅以後二百十餘年〈ノ〉後也、大ニ違ヘリ、若其時如今〈ノ〉讀惡(ニク)キ様ニ書成シケルニヤ、又野馬 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00031.gif共書ケリ、又倭奴國共倭面國共、東海姫氏國共、扶桑國共云ハ、是皆唐ヨリ云ヘル名共也、〈○中略〉東海姫氏國ト申ハ、天照大神御 末ノミ世知(ヲ)食スト云心ニヤ、

〔異稱日本傳〕

〈上一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0411 夫一犬吠虚、千犬吠聲、從晉書此言出後、史多同然一辭、何其不詳乎、聽者不察、引以爲口實、何其惑乎、自天地開闢之初我國、而號曰大日本豐秋津洲、我君之子、世世傳統、所謂天照大神之神孫也、呉始太伯、世之相後、數千萬歳、日本何爲太伯之後哉、〈○中略〉不其端、不其末者、率爾曰、呉國風斷髪文身、我俗亦斷髪、呉服而多呉音、則太伯之後也、此豈非傳會之説乎、或以官人輩染一レ齒、爲文身之義、甚大謬也、男子以倍子鐵漿齒者、起於鳥羽院天皇、事具惠命院僧正記、釋圓月、作日本史于朝、以太伯始祖、故有議不行(○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○)、見蕉了子抄、源親房公神皇正統記、闢傳曾之説太備矣、〈○中略〉愚亦觀明茅元儀武備志日本考、曰天村雲命之後也、此又虚妄之言也、世法録等、以爲徐福之後、福乃負耒耜來者也、豈爲帝王之祖哉、嗚呼異邦人、山海阻深、不我傳記、惟所據者口説也、宜乎失事實矣、

〔本朝高僧傳〕

〈三十三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0411 上州吉祥寺沙門圓月傳
賛曰、慧濟禪師、〈○圓月〉資性天啓、覃思祖宗、〈○中略〉暦應年中、撰日本記、曁已鋟一レ梓、有勅不行、於今操觚之士、憾之矣、

〔羅山文集〕

〈三十六問對〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0411 太伯
聞太伯可至德、則仲尼之語也、後世執簡者、以本邦其苗裔、俗所稱東海姫氏國之類、何其誕哉、本邦元是靈神之國也、何故妄取彼而爲祖乎、嘗有一沙門修日本紀、以太伯我祖神、時天子怒其背朝儀、遂火其書、實乎否乎、

〔西山遺聞〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0411 本朝通鑑御論の事
一嚴有公〈○德川家綱〉の御治世、〈年月忘れたり、慥に聞合すべし、〉西山公、〈○德川光圀〉宰相中將にも任じたまひける頃、尾州侯〈光友卿〉紀州侯〈光貞卿〉と共に、朔日〈年月可尋〉御登城まし〳〵、御對面御よろこび申をはりて、御休所 に退きたまひたる時、執政のいはく、本朝通鑑全部をもたせ參られて、此書成功し侍まヽ、梓行の命を下すべきよしの御事につけて、各位へ知らせ奉るべきとの上意にさぶらふと申されければ、おの〳〵珍重のよし御しきだい有けり、とばかりして、西山公、一二卷を電覽ましましたれば、本朝の始祖は、呉の太伯の胤なるよし書たるにおどろきたまひて、そも〳〵これはいかなる狂惑の作爲ぞや、後漢書以下に、日本を姫姓のよししるしたるは、往昔吾國亡命のもの、あるは文盲の輩など、かしこに渡りて杜撰の物語せしを、彼方のものは、まことにさなむと意得て、書傳へたるなり、吾國にはおのづから日本紀古事記等の正文あり、それにそむきて、外策志傳によりて、神皇の統をけがさんとす、甚かなしむべし、むかし後醍醐帝の御時にや、魔僧ありて、此流の説を害しをも禁制まし〳〵て、其書を焚すてられしとかや承る、かの厩戸皇子の頃は、學問未熟にありしすら、日出處天子、日没處皇帝と書て、同等に抗衡せられしぞかし、呉の太伯の裔といはヾ、神州の大寶、長く外國の附庸をまぬかれがたからん、されば此書は、吾國の醜を萬代に殘すといふべし、はやく林氏に命じて、此魔説を削り、正史のまヽに改正せらるべし、さは侍らぬかとのたまへば、尾紀の兩君もうなづかせたまひ、執事の人々も、御確論に伏せられて、梓行をとヾめられ侍りぬ、

〔集義外書〕

〈十四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0412 朋友問、日本には、氏筋を申國にて御座候に、近世は武士の氏筋は、大かた亂てしられず候、名乘度氏を名乘ても、誰とがむる人もなし、本より氏系圖ありて名乘人といへども度々の亂世に其系圖、いづちへか行てしられぬゆゑに、氏なき人が今名乘もたヾすべき樣なし、近年氏系圖つり出し候は、學文者を賴み候へば、何方へつりつヾけ候はんもまヽにて候、大系圖とてあるも、其大系圖こそはあれ、その系圖へ飛入者は、誰ともしれざる有、日本の土民の姓と、天神の姓と、多はみだれ侍り.〈○下略〉

〔古史徴〕

〈一夏〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0413 今世に、其祖の詳ならぬを合さむとして、系圖家といふ徒に誂へて、 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00015.gifて祖々の名を作り設け、或は他氏の祖を取り入れて、我が祖となす徒も多在、〈○中略〉其は眞の道を知らず、幽冥の畏き理を知らざる故とは云ながら、甚もはかなくおぞましき事なりけり、

〔文會雜記〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0413 國初ハ、文旨沙汰ノ限ナル事ニテ、庄内ノ大夫水野明卿ノ語リシハ、彼家ノ先祖系圖ヲ書出シノ時、一家中ニソレヲ書ク人ナクテ、系圖作リ(○○○○)ニ托シテ書上クレタリ、今見レバ、違ヒモアレ共、ハヤ官ヘ出タルモノ故、取返シ書改ガタシト語レリ、

〔續武家閑談〕

〈十九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0413 本朝姓氏辨 松平康懿識
近世系圖者ト云者アリテ、多ク諸家ノ系圖ヲ妄作シテ、眞ヲ亂ルモノアリ、譬バ紀州ニ保田庄司アリ、何人ノ妄作セルニヤ、新羅三郎義光ノ末、安田三郎義定ノ後胤トス、紀州ノ保田、關東ノ安田、其出自違ヒアルコトヲ不知、或ハ江州ノ人ヲバ、皆佐々木一族トシ、濃州ノ人ヲ土岐ノ族トシ、尾州ノ人ヲ斯波武衞ノ後裔ト妄作ス、想フニ江州ニ、藤、橘、伴、菅原、中原、平有、源氏モ宇多帝ノ後胤ノミナラズ、淸和嵯峨ノ御末モ有、然バ曷ゾ佐々木家ニカギランヤ、美濃尾張モ皆同ジ、其妄作可惡ノ甚キモノ也、近来或人、安保氏ノ系圖ヲ作ル、平城帝ノ皇子阿保親王ノ後裔ト僞作ス、安保ハ武藏ノ七黨、丹ノ庶流ナルヲ不知ニヤ、歴名補任ニ、諏訪信濃守神思卿.古押譜ニ、源忠卿トアヤマル類モ不少、其餘ノ諸家ノ系傳記録ニ至テ、僞妄ノ説ヲナシテ人ヲ欺ク者多シ、實ニ天下ノ大賊也、今世ノ人、正史實録ノ正趣ヲ不知、其妄説ヲ信ズルモノ、不明ノ至也、井澤長秀ガ曰、近世ノ系圖ハ、子ヨリ親ヲ生ズルトイヘルゾ格言ナルべシ、〈松井康懿基ハ、傳次郎ト稱ス、父三郎左衞門康共以來、舊記ヲ好ンデ、氏譜ニ委シキ人ナリ、〉

〔兵家茶話〕

〈九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0413 伊賀人柘植甚八、彌平兵衞宗淸が末也、〈○中略〉宗淸、〈○中略〉柘植を爲氏、柘植の號是よりはじまる、宗淸子孫繁昌、服部氏も宗淸の末となん、 家傳
按るに、〈○中略〉伊賀服部氏は秦姓にて、融通王の末也、〈○中略〉近世平氏とし、宗淸が末とする事、中葉 平姓の人、服部氏を相續したるにや、覺束なし、是のみならず、近世系圖作りといふもの有て、家の系圖に猥りに僞作して、其祖を誤る人多し、是淺羽氏にはじまる、松下重長、相つひで諸家の系圖を僞作す、又たヽら玄信といふ盲人あり、諸家の系圖を記臆して、望にまかせ妄作し侍る、〈○中略〉
〈關八衞門といふ人、二山義長門人にて、よく玄信が事を知りて語りけり、玄信、或は佐々木鑑眞共いふ、幾度も姓名を變じたる者といへり、〉

〔先哲叢談〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0414 二山義長、字伯養、
瞽者佐々木玄信、善記諸家系譜、而至其不一レ得詳、則牽合附會以欺世、一日過伯養、談及譜、伯養問曰、荊妻垂水氏也、傳言、昔者垂水某者、仕伊勢國司、既失其名、且未何世人、則其跡絶不考、豈不遺憾哉、玄信曰、此垂水廣信也、廣信、稱河内守、伊勢垂水人、初仕其國司、後事後醍醐天皇、諫疏不聽而去、廣信好學、始奉伊洛説、所著有嘉文亂記六十五卷、嘗勸藤藤房朱子集註、車載長濟草、今爲子誦讀焉、乃誦者歴々可聽、伯養驚且喜曰、吾子記憶、誠出天性、非此余何以得之、請再誦金將之、玄信又復誦、伯養隨而筆之、以爲明證、當此時、京師藤井懶齋、撰國朝諫諍録、伯養以懶齋久要故、致之懶齋、以載諫諍録、迨後永井貞完本朝通紀、寺島良安倭漢三才圖繪、載垂水廣信、此邦始讀朱註、蓋皆本諫諍録也、而所謂垂水廣信、古今無其人、嘉文亂記、及長濟草、亦未其書、是本出玄信一時妄語、而伯養信之、海内遂唱犬吠之説、此日夏高繁、〈○高繁恐繁高誤〉兵家茶話所辨也、

〔貞丈雜記〕

〈十六/書籍〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0414 一江源武鑑、又大系圖(○○○)、又和論語、鎌倉實記、義經勳功記等の類皆僞書也、故實の考に用べからず、

〔重編應仁記〕

〈十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0414 此比洛陽客語曰、傳聞佐々木高賴一男、近江守近綱、一名氏綱云、永正十五年七月九日卒去、其弟彈正少弼定賴、家督繼、其子大膳大夫義賢入道承禎至云、氏綱無子孫事、古記既明白也、 然處近世寬文比、氏鄕名乘者有、〈○中略〉四方ヲ遊歴シテ謂.吾父祖前江州大守源氏綱ヨリ出、無紛佐佐木家正統也僞自六角兵部號、氏鄕名乘、剰佐々木六角家世系ヲ僞記、己ガ名其末書載、是云立テ諸侯ヘ仕ン事求、終僞事不達ガ故、身ヲ售事不成シテ、幾許年月送空ス、然テ後晩年ニ到テ、京都僧房潜居、奴婢二三人ヲ仕テ、古家貴種人ノ世ニ落魄シテ沈淪タル眞似ヲシスマシ、私ニ中務大輔號、不識者欺レテ憐ヲ起シ、惠施者モ有、又識之者、爪彈ヲシテ是惡、或是笑嘲ル、〈○中略〉元祿ノ初、終氏鄕房中病死ス、行年七十、〈○中略〉氏鄕所記刊本、江源武鑑二十卷、大系圖三十卷、倭論語十卷、寫本淺井日記二卷、關原軍記六卷、勢州軍記二卷等、氏鄕所記也、大概彼書中、己ガ先祖ト稱スル者、事迹ヲ作テ、實ラシク書載置、是ヲ證據ニシテ、己ガ僞ヲ蔽隱サン爲也、不亦大奸乎、

〔大系圖評判遮中抄〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0415 六角佐々木末流 建部賢明撰
凡大系國〈卌卷〉ハ、佐々木ノ姦賊六角中務氏鄕ガ古傳ニ僞補スル所也、蓋此者ハ、本近江國ニテ、種姓モ知ザル凡下ノ土民也、父ハ澤田喜石衞門トテ、〈○中略〉萬ヅ才覺有ケレバ後ニ忍〈○武藏〉ノ縣令ト成サル、是ヨリ先キ本國ニ在シ時、同邑ノ百姓和田勘兵衞ガ娘ニ成トイヘル女ヲ娶テ子ヲ生ズ、其名ヲ喜太郎ト云フ、下種ノ子タリトイヘドモ、容貌自然ニ優ナリシカバ、稚ヨリ是ヲ靑蓮院尊純法親王ニ奉テ禿童トナル、〈○中略〉山伏ノ姿ト成テ、僞テ諱ノ字ヲ賜レリト云テ、名ヲ尊覺ト號ス、父甚ダ是ヲ責テ、速ニ其名ヲ改メシム、是ニ於テ還俗シテ澤田源内ト號シ、〈○中略〉己レガ才智ヲ以テ卑賤ヲ蔽ヒ隱シ、貴族ト號シテ身ヲ立ント欲シ、竊ニ六角佐々木ノ正統ト稱シ、名ヲ近江右衞門義綱ト改メ、僞テ定賴朝臣ノ長子ニ大膳大夫義實卜云フ名ヲ作リ、其子修理大夫義秀、其子右兵衞督義鄕三世ヲ、新ニ佐々木ノ系中ニ建テ己ガ父祖トシ、義賢朝臣〈承禎〉ヲシテ、義秀ガ後見ナリトス、〈○中略〉承應二年比、源内江府ニ來テ、佐々木正統、近江右衞門義綱ト名乘リ、中山市正信正ニ屬シテ、水戸侯賴房卿ニ奉仕セン事ヲ請ヒ、彼ノ僞譜ヲ獻ズ、卿卽チ東叡山宿坊ノ吉祥院ノ沙門某ヲ 以テ、其系圖ヲ眞ノ六角正嫡、佐々木源兵衞尉義忠ニ賜テ虚實ヲ御尋有ケルニ、悉ク僞作ノ姦操タル由被申シニ依テ、其姧曲忽ニ顯ハルヽノミナラズ、義忠又正統ヲ亂ス事ヲ怒テ、其酋本多美濃守忠相ヲ以テ、具ニ此事ヲ上ニ啓シ、彼レガ身ヲ賜テ禁遏ヲ加フベキ由、久世大和守廣之ニ訴ヘ申サレケレバ、狼狽シテ夜中ニ江州ニ逃上リ、名ヲ六角兵部氏鄕ト改メ、暫クハ世ノ變ヲ窺居ケルガ、遠國ニシテサノミ咎ル人モ無カリケレバ、猶モ姧謀未ダ止マズ、〈○中略〉猶其矯ヲ蔽ヒ隱サンガ爲、昔將軍義滿公ノ世、應永年中ニ、特進亞槐三台藤原公定卿ノ撰セラレシ尊卑分脈系圖ノ中、要ヲ摘テ諸家大系圖〈十四卷〉ト號シテ世ニ行ハルヽヲ本トシ、佐々木家ノ譜中ニ、新ニ多クノ名諱ヲ僞作シ、己レガ本姓澤田氏、外祖和田氏、從弟ノ畑氏、及ビ此姧謀ニ與スル者ハ、皆私ニ一流トナシ、又織田、朝倉、武田、豐臣ノ系中ニモ、彼虚名ニ忘説ヲ書添へ、其餘諸氏ノ家傳ヲ拾ヒ集メテ、眞僞ヲモ正サズ悉ク書載セテ、全部卅卷ト作シ、更ニ大系圖ト名ヅケテ梓ニ鏤バム、此外倭論語、足利治亂記、淺井日記、異本關原軍記、異本勢州軍記等、皆彼レガ一世ニ姧シク虚説ヲ註スル所ナリ、如此僞書世ニ流布シテ後、智アル人ハ更ニ是ヲ信ゼズトイヘドモ、言ヲ巧ニシテ詐ルガ故、讀ム者半ハ惑ハサレテ、實ニ其人〈義實、義秀、義鄕、〉有ト思ヘリ、是ニ由テ定賴朝臣ノ子孫ハ、皆庶流也ト思ヒ、或其家二ツニ分レタリト云フ、其外種々ノ誤説出來レリ、〈○中略〉一年京都ニ於テ、官職ヲ矯リ冒ス輩ヲバ悉ク捕テ死刑ニ處セラレシカバ、源内、大ニ驚キ懼レ、忽ニ大輔ノ號ヲ停テ、深ク其身ヲ隱シ、密ニ人ノ家譜ヲ造テ渡世ノ營トス、蓋世系ノ詳ナラザル人ハ、彼レニ賄シテ家傳ヲ求ルニ、己レガ小智ヲ以テ妄ニ名諱ヲ僞作シ、虚説ヲ註シテ是ニ與ル故、記ス所多ハ正史實録ニ背ク、若其事ヲ二次議スルニ及ンデハ、前後相矛盾スル事多シ、乃余從弟同氏昌孝〈十郎左衞門〉在京ノ序ニ家傳ヲ記サシメ、是ヲ火災ニ失シテ再ビ書セシムルニ、其事蹟、悉ク相違セリ、又幕下ノ士井戸甚助ト云フ人モ、始メ家系ヲ註セシメ、後ニ東海寺和尚其ニ據テ、又同譜ヲ書セテ是ヲ試ルニ、其記ス所、皆 以テ前ト符合セズ、如何トナレバ、己レガ記憶ノ壯ナルニ任セテ、寫本ヲ設ケズ、徒ニ虚記スルニ依テ年月ヲ隔ル則ハ先ニ書スル所ヲ悉ク遺忘スルユヘンナリ、如此諸人ヲ誑カシテ、其口ヲ餬ヒ、遂ニ元祿戊辰年〈○元年〉ニ至テ、七十歳ニテ病死ス、

〔續武家閑談〕

〈十九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0417 澤田源内傳〈僣稱六角中務氏鄕〉 〈建部賢雄建部賢明〉著〈○本文前出、故略、〉
高敦〈○本村〉按ずるに、右建部兵庫賢雄、同隼之助賢明が記す所尤委し、〈○中略〉抑本朝近世の史譜に委しきは、姫路の侍從式部大輔忠次朝臣右少將攝州大守義行朝臣、嶋原城主主殿頭忠房朝臣、淺羽三左衞門成儀、小林彦太郎正甫、〈初遠山信春と云〉予が實父根直利がごとき、彼澤田が僞系妄作を信せず、殊に小林正甫が重編應仁記の始に是を辨ず、尚鴻儒室民鳩巢先生の僞系辨、誠に明らかにして、誣べからざるものなり、

〔天明度田沼盛衰輪廻記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0417 田沼主殿頭出生之事
番町御厩谷新御番佐野善左衞門といふ士あり、其昔佐野源左衞門常世六代之孫にして、佐野刑部國吉といふて、上州片岡之郡に住居して、足利二代義詮公に奉公して、常世より二十七世之孫、佐野善左衞門藤原正意とて、代々筋目正しき家柄也、小身とはいへども、佐野系圖持來る也、然るに田沼家は大身といへども系圖なくして、主殿頭〈○意次〉是を聞及び、上州片岡郡佐野の鄕に、むかし田沼大明神といふ社あり、是佐野國善の建立なり、〈○中略〉主殿頭思ふやうは、若佐野家の系圖あらば、我系圖を作るによき種にも可成と思ひ寄り、夫より御小納戸にて佐野龜五郎とかやいふ士ありける故、主殿頭、此仁を呼入て、種々馳走饗應して、右の系圖の事聞れければ、其儀に候はヾ、新御番佐野善左衞門方、本家なれば、あの方にこそ有之段被申ける、然らば貴殿御取合にて、系圖少々の間、借用申度とたのまれける故、先々善左衞門〈江〉咄見んとて退散いたされたり、然るに明日早く龜五郎、善左衞門かたへ來りて、委細の事を咄賴ければ、善左衞門被申けるは、佐野家に大 切なれば、其儀は御用捨被下かしと被申けるぞ尤也、龜五郎被申けるは、當時出頭の主殿頭なれば、是を借し給はり、御役の種、御立身の爲なるべし、さすれば御先祖〈江〉之孝養にも相成べしと、さまざま進め申されければ、其理に服して、然れば大切之品なれど、誠に御言葉に隨ひ御借し可申なり、御覽之上は、早々御返し被下候樣、にと賴て、右の系圖を渡されける、龜五郎にも甚悦び、急ぎ直に神田橋へ參りける、殊之外主殿頭殿悦び被申ける事限りなく、龜五郎へは、色々の音物を送ける、先我先祖は其むかし藤原姓なり、末にして佐野一家之もの未絶之砌、先祖上州にありて母方之田代を名乘り、此時に源の姓に改る事といふ、子なき事を悲み、田沼大明神〈江〉深く立願して、一人の子を設けたりしゆゑ、則明神の一字を願ひ、田代の田の字を付て、田沼氏と號す、其子田沼七郎源の直行と云て、足利八代之武將義政公に仕へたり、其後二十六代にして田沼龍助、其子市左衞門忰良助、〈○意次〉既に侍從に任ぜられ、主殿頭になると、吁詐八百を受て家の系圖を作るは、平賀源内といふ者の作なりと聞し、然るに善左衞門方に而者、龜五郎方〈江〉いろ〳〵返しくれ候樣申遣けれども、一向其儀知り不申、取次致たる覺なしと言て、一向に構はず、時に善左衞門、無念止時なく、もしや役替等もありやせんかと、今日か明日かと待けれども、更に何の沙汰もなく月日を送りける、〈○下略〉
○按ズルニ、此後善左衞門ハ、田沼氏ノ系ヲ絶タントシテ、意次ノ子意知ヲ殿中ニ刺セリ、

〔德川禁令考後聚〕

〈三十八/例書〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0418 其身幷忰〈江〉官名を附系圖に書記置候もの御仕置之事
延享三寅年十二月御仕置之例
本多左京下屋敷ニ罷在候
浪人 本多縫殿右衞門
同人總領 同大三郎
同人次男 同大内藏
同人三男 千葉右馬之助
此縫殿右衞門、大三郎儀、逆心ケ間敷巧事致シ候儀ハ無之候得共、一分之樂に可致と、縫殿右衞門は大炊助、大三郎は左兵衞佐、大内藏は駿河守、右馬之助は千葉上總介、又は能登守と官名を附、系圖之末〈江〉、縫殿右衞門書記置、大三郎儀は、右體之儀を差留不申、不届至極に付、兩人共に遠島、大内藏、右馬之助儀は、若年故、何に而も巧事之咄承候儀無之由申候得共、兩人共に、官名を附、系圖に記置可申由、縫殿右衞門申聞候處、若年とは乍申不差留、縫殿右衞門に任せ置候段不埒に付、本多左京〈江〉相渡、徘徊不仕樣に可申付哉と相伺、其通被仰渡候事、

〔市中取締類〕

〈九ノ九十/書物錦繪〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0419 午〈○文政五年〉五月十四日伊勢守殿御直御渡〈○中略〉
一此度、先祖書調ニ付、追々被仰出候通、萬石以上以下、御目見以上之面々、先祖書取調罷在候處、燒失又は書繼モ不致、等閑打捨置、書留も無之、不相分、當惑致候者モ有之候由、然る處、牛込拂方町ニ罷在候浪人田畑喜右衞門ト申もの、諸家系譜之儀、委敷鍛錬致し、右喜右衞門へ、追々手寄候而、家譜穿鑿爲取調、喜右衞門儀ハ、都而書上之認振迄も心得罷在、右故、萬石以上以下共、家譜取調申付候者不少、仲ニハ淸書ヲモ申付候者モ有之由ニ而、弟子共四五人モ有之、取調出來之上ハ、過分之價ヲ貪、其外筆耕料賴ミ、身分ニ寄、格外之直段ニ而、夫々取調遣候由之事、

〔市中取締類集〕

〈九ノ九十/書物錦繪〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0419仰付侯風聞書
隱密廻リ〈○中略〉
小野一郎(牛込拂方町利八店浪人田畑喜右衞門忰/四十五位(中略))
一石喜右衞門義ハ、幼年之節ヨリ、系譜之義ヲ相好、儒業モ相應ニ出來致し候哉、文政六巳年中同人編集之書籍、學問所へ留置候由ニ而、松平伊豆守殿御差圖ヲ以、銀拾枚頂戴仕候儀モ有之由、一體喜右衞門儀、困窮モノニ付、諸家ヨリ被相賴、系譜調遣し、謝禮受、右ニ而暮方致し罷在侯由、同人 忰小野一郎義ハ、父と違ひ學問手跡共出來不申、藝名菊川幸吉と申、猿若町羽左衞門芝居笛吹ニ出居候處、右職業モ捗々敷無之、當時ハ相止候由、其上喜右衞門儀、永々眼病相煩、迚モ小野一郎ニ書籍相讓候而モ無詮存候哉、病中追々賣拂、喜右衞門儀ハ、去巳〈○天保四年〉七月十二日病死致し候由、然ル處、同人病死ヲ不存者ヨリ、系譜等之義相賴來候節ハ、小野一郎義、喜右衞門賣殘置候諸家系譜、其外少々之書ものヲ引書ニ致し、調候得共、手跡モ出來不申候間、小普請組室賀壹岐守支配宮岐弓太郎父隱居祖山、幷御先手淺野中務少輔用人之忰名前不知、右之者共ニ相賴認貰、小野一郎受候謝禮之内より、壹枚ニ付七八文ヅヽ相拂候由、此節ハ、賴來り候ものも無敷、甚困窮ニ相暮罷在候由ニ御座候、
右風聞承糺候處、書面之趣ニ相聞申候、此段申上候以上、
六月〈○天保五年〉四日 隱密廻リ

〔同志夜話〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0420 今川氏親に從仕しける、鈴木平兵衞家元ハ、掃部助吉行子也、〈○中略〉
鈴木家説曰、孝昭天皇五十三年、紀伊國に化人有、岩基隈の北新御山において、十二所權現をあがめ奉る、是を新宮と云、垂迹の始、權現龍蹄に乘り給ひ、千尾の峯に降臨、奉幣の司氏人をめさる、于時漢司府將軍〈○中略〉三男基行、御秣として稻をすヽむ、依之穗積姓を賜、〈○中略〉三男基行を鈴木と號す、〈○中略〉近世稻基麻呂と云人を僞作し、鈴木氏へ相續したる系圖有、不信、

〔隨意録〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0420 往年朝政、督諸侯大夫士家譜、或有其族譜、則麾下某者、善爲之作其系譜、其所由來、足以取一レ信矣、彼方亦有似焉、明袁鉉者.積學多藏書、然貧不自養、游呉中富家、爲之作族譜、研究漢唐宋元以來顯者、爲其所自出、初見之甚信、徐考之、乃多鉉贋作者、明劉昌、懸笥 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00040.gif探云、

〔十駕齋養新録〕

〈十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0420 家譜不
顔師古云、私譜之文、出于閭巷、家自爲説、事非經典、苟引先賢、妄相假托、無信、寧足據乎、〈漢書睦孟傳注〉 其注蕭望之傳云、近代譜諜、妄相託附、乃云望之蕭何之後、追次昭穆、流俗學者、共祖述焉、但鄼侯漢室宗臣、功高位重、子孫嗣緒、具詳表傳、長倩鉅儒達學、名節並隆、博覽古今、能言其祖、市朝未變、年載非遙、長老所傳、耳目相接、若其實承何後、史傳寧得詳、漢書既不叙論、後人焉所信、不然之事、斷可識矣、蓋南齊書本紀、叙述先世、以望之何六世孫、譏其附會不一レ信耳、師古精于史學、於私譜雜志、不敢輕信、識見非後人所一レ及、唐書宰相世系表、雖詳膽可一レ喜、然紀近事則有徴、溯遠冑則多升、由於信譜牒、而無實事求是之識也、

雜載

〔新撰姓氏録〕

〈左京皇別〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0421 葛城朝臣
葛城襲津彦命之後也、日本紀、續日本紀、官符改姓(○○○○)、並合、

〔古史徴〕

〈一夏〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0421 姓氏録の左京皇別下、葛城朝臣の條に、官府改姓と云書名見ゆ、〈○中略〉改姓ありし事を記せる書なりしにや、

〔釋日本紀〕

〈十五/述義〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0421 私記曰、〈○中略〉案王子枝別記(○○○○○)云、文武天皇、少名珂瑠皇子、天武天皇皇太子、草壁皇子尊之子也、持統天皇十一年春二月丁卯朔壬午、〈十六日也〉立爲皇太子云々、

〔弘仁私記序〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0421 世有神別記(○○○)十卷、〈天神天孫之事、具在此書、〉發明神事、最爲證據、然年紀夐遠、作者不詳、

〔本朝書籍目録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0421 神事
神別記 十卷〈日本紀私記曰、天神天孫事、具在此書、〉

〔本朝書籍目録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0421 帝紀
神別記 十卷
氏族
神別雜氏記

〔釋日本紀〕

〈十五/述義〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0421 私記云、〈○中略〉愚按、氏族略記(○○○○)云、藤原宮、在高市郡鷺栖坂北地

〔本朝書籍目録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0422 帝紀
雜氏本紀

〔南留別志〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0422 一いにしへに系圖をたからとするは、本領といふ事あるゆゑなり、今の系圖は虚文なり、

〔鹽尻〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0422 譜牒ノ重ズベキ事 譜牒の重ずべき事、何士普が家規に詳なり、異邦に、淸明〈三月節句〉其祖を祭る時、本家支流皆會し、各帶する所の系圖を出して其族長に見せしむ、若收藏踈にして、物に穢し、文字を廢毀する事あれば、懲誡して改めしむ、又不肖の輩、己が家系を他に賣、或は自ら贋りて、庶を以て嫡子とし、支流を紊亂するものあれば、下臣に告て刑に處と見へたり、げにも家譜は、其氏姓本源を記し、祖父の實事を編し、後世の證とするものなれば、家々重貴とすべき事なり、故に我國古へ、勅して諸家の譜牒を召て、是を治部省に覈さしめ、中務省に呈し、圖書寮に藏しむ、家にも亦是を記して藏め、子孫に傳へし、氏上〈嫡家〉支庶をすべて、各其家を保しめ高卑紊れざらしむ、戰國に及んで、本支の分を失ひしより、妄作のもの多く、あらぬ人の裔など書間々あり、

〔南海治亂記〕

〈十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0422 老父夜話記
讃州ニテ、故キ物ノ譬ニハ、島田寺ノ過去帳ノヤウナド雜人ノ口スサビ也、〈○中略〉此寺ハ綾公世々ノ氏寺ニテ、過去帳ノ傳來久シ、綾氏ノ系圖、不分明トキハ、此過去帳ニ倚テ糺明ス、故ニ寺ノ恰割トシテ、經論ヨリモ大事ニスル也、

〔毛利家記〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0422 輝元卿朝鮮ヘ渡ラセ給フベキナレバ、秀元卿ニ系圖ヲツラセ給ハントテ、滿願寺ノ春盛法印ニ吉日良辰ヲ撰セ給ヒ、二月〈○文祿元年〉二日ニ系圖ヲツラレテ、賀ノ御祝、夥シキアリサマニテゾアリシ、

〔別所長治記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0422 大村合戰
彈正申ケルハ、我等此體ニテ敵ニ打合タリトモ、當ノ敵ヲ討事ハサテ置、敵ノ馬ニ被當倒犬死センハ一定也、イザヤ敵ヲ謀リ、當ノ敵ヲ討取、冥途ノ土産ニセントテ、五人ノ者ドモ芝居ニ坐シ、刀ヲ拔、手ニ手ヲ取組、差違タル眞似ヲシ、皆俯ニ伏ニケリ、敵ドモ十四五騎、馬ヨリ飛デ下リ、我先ニ首ヲ取ント走掛ル、近々ト寄テ、傍ニ拔置タル大刀取、寢ナガラ拂切ニ切ケレバ、敵五人何レモ諸膝ナギ被落、一度ニ尻居ニ伏ス、各カツハト起上テ、仰天シタル敵ドモヲ四方ヘ追散シ、心ヨシト高聲ニ云テ、一度ニドツト笑、敵ノ首ヲ面々ノ膝ノ上ニ抱、腹切タリ、名譽ノ討死也、イカナル者ヤ名ヲ知バヤト、母衣ヲ掛テ死タル武者アリ、是ヲマクリタレバ、村上源氏具平親王二十三代ノ孫(○○○○○○○○○○○○○○)、淡河彈正定範ト書付ル(○○○○○○○○○○)、扨ハ先日淡河ノ城ニテノ手立、今ノ討死ノ次第、無雙ノ勇士ト各感ジケル、

〔唐宋八家文讀本〕

〈十七/蘇洵〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0423 蘇氏族譜引
情見於親、親見於服、服始於衰、而至於緦麻、而至於無一レ服、無服則親盡、親盡則情盡、情盡別喜不慶、憂不弔、喜不慶、憂不弔、則塗人也、吾所與相視如塗人者、其初兄弟也、兄弟其初一人之身也、悲夫一人之身、分而至於塗人、吾譜之所以作也、其意曰、分至於塗人者勢也、勢吾無如之何也、幸其未於塗人也、使其無一レ於忽忘焉可也、嗚呼觀吾之譜者、孝悌之心、可以油然而生矣、

〔書言字考節用集〕

〈十/數量〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0423 藤氏四門(トウシノシモン)〈淡海公(不比等)四子、分爲四流、嫡武智丸、號南家、次房前、稱北家、三宇合、號式家、四楓丸、稱京家、〉

〔今昔物語〕

〈二十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0423 淡海公繼四家語第二
今昔、淡海公ト申ス大臣御マシケリ、實ノ御名ハ、不比等ト申ス、〈○中略〉四人ノ御子ノ太郎ノ大臣ハ、祖ノ御家ヨリハ南ニ住ミ給ケレバ、南家ト名付タリ、二郎ノ大臣ハ、祖ノ御家ヨリハ北ニ住給ヘレバ、北家ト名付タリ、三郎ノ式部卿ハ、官ノ式部卿ナレバ、武家ト名付タリ、四郎ノ左京ノ大夫ハ、官ノ左京ノ大夫ナレバ、京家ト名付タリ、

〔續日本紀〕

〈二十三/淳仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0424 天平寶字四年八月甲子、勅曰、〈○中略〉得大師〈○藤原押勝〉奏偁、〈○中略〉伏願廻臣所給大師之任、欲一南北兩左大臣(○○○○○○)者、宜請、南卿(○○)〈○武智麻呂〉贈太政大臣、北卿(○○)〈○房前〉轉贈太政大臣、庶使庸之典、垂跡於將來、事君之臣、盡忠於後葉、普告遐邇朕意焉、 、W 家傳

〈下/武智麻呂〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0424 藤原左大臣、諱武智麻呂、〈○中略〉以宅在宮南、世號曰南卿

〔大鏡〕

〈七/太政大臣道長〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0424 不比等のおとヾの男子四所を四家となづけて、みな門をわかち給へりけり、その太郎左大臣武智麻呂をば南家となづけ、二郎房前をば北家となづけ、御はらからの宇合の式部卿をば式家となづけ、そのおとヾの麻呂をば京家と名づけ給ひて、これを藤氏の四家とは名づけられたるなりけり、この四の家より、あまたのさま〴〵の國王大臣公卿、おほくいで給ひて、さかえおはしましヽ、しかあれど北家のすゑ、いまにえだひろごり給へり、

〔大鏡裏書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0424 南圓堂事
堂之壇ツキケルガ、イタウクヅレケルニ、翁ノイデキテ、此歌ヲウタヒテツカバ、ヨモクヅレジトテ、ウタヒダシタリケル、
フダラクノ南ノキシニダウタテヽ今ゾサカエン北ノフヂナミ、其翁ハ春日ノ明神トゾ申ツタヘタル、其後北家ハナガクサカユナリ、

〔公武大體略記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0424 一武家
征夷大將軍源義政、御先祖は淸和天皇の御孫經基の王をば六孫王と申き、彼經基の王、天德五年六月十五日、源朝臣の姓を給はせ給ひき、其御子攝津守滿仲をば、多田の滿仲と號、其子左馬頭賴信、其子伊豫守賴義、其子伊與守義家をば八幡太郎義家と號す、次男甲斐守義綱をば賀茂次郎と稱し、三男義光をば新羅三郎と號して、各子孫あり、當代弓馬の道の御師範に參り侍る、小笠原、其外武田佐竹などは、皆新羅三郎の末葉なり、然るに義家の子に、義國、義康、義兼、義氏、泰氏、賴氏、家時、 貞氏まで、九代を經て、貞氏の御息足利治部大輔尊氏等持院贈左大臣殿の御時、御世をしろしめされ、其御次征夷大將軍義詮をば寶篋院贈左大臣殿と申也、其御次太政大臣准三后義滿公〈法名天山道義〉をば鹿園院殿と申奉りき、其御次内大臣義持公〈法名道詮〉をば勝定院殿贈大相國と申奉る、其御次征夷大將軍義量と申奉りしは、御世を早せさせ給ふて、内府に先立まいらせ給、長德院殿と申侍る也、かくて去ぬる應永卅五年戊申正月十八日、義持將軍、御薨逝之間、靑蓮院門跡にてまし〳〵けるが御還俗あり、普光院殿贈大相國義敎公、〈法名善心道惠〉御猶子の儀にて御相續有て、其年の夏、年號を正長と改元せらる、又普光院殿の若君、征夷大將軍義勝と申奉るは、御年十歳と申侍りし、嘉吉三年癸亥七月廿一日にかくれさせ給ひて、慶雲院殿と申奉る、公方樣御一腹の兄にて渡らせ給間、則御世を繼せおはします、しかれば等持院殿より今七代に渡らせ給、又關東の主君に、等持院殿の御息、左兵衞督基氏瑞泉寺殿と申を下し參らせて、左兵衞督持氏長春院殿まで五世也、公方樣の御先祖左馬頭義兼の御息、遠江守義純と申は、畠山の曩祖也、義純、泰國、時國、家國、義深、基國、長禪寺殿滿家、眞規寺殿持國、光孝寺殿義勝迄、九代也、義純舍弟近江守義胤は、桃井の始也、足利左馬助義繼と申は、吉良の始也、上總介長氏は、今川の始、尾張守家氏は、斯波石橋のはじめ、次郎義顯は澁川の始、四郎賴氏は石塔の始、足利陸奥守泰氏の息、宮内卿律師公深は、一色の始也、公深、範氏、直氏、詮範、滿範、義貫、義直迄、七世也、律師義辨は、上野の始、法印賢實は、小俣の始也、已上兄弟三人は出家なり、六郎基氏は、加子の始、以上七人は、左衞門佐泰氏の息也、亦新田、山名、里見等の先祖に、義重と申は、足利義兼の御伯父也、又仁木、細川の先祖に、足利矢田の判官代義淸と申は、義兼の舍弟也、又新田總領大館次郎家氏と申は、新田大炊助義兼の曾孫なり、家氏より今大館兵庫頭敎氏迄、六代歟、此外大井田、森、大島、竹林、牛澤、鳥山、堀口、一井、得川、世良田、江田、荒川、田中、戸賀島、岩松、吉見等、何も御當家の果葉也.
http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00001.gif家格
搢紳家ニ、攝家淸華等ノ稱アリ、所謂家格ニシテ、卽チ其家ノ等級ナリ、而シテ官位ノ昇進ハ、 家格ノ高下ニ隨フモノナリ、又武家ノ家格ノ如キハ、官位部中、武家ノ項ニ散見セリ、

攝家

〔書言字考節用集〕

〈十/數量〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0426 五攝家(ゴセツケ)〈近衞、九條、二條、一條、鷹司、〉

〔保元物語〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0426 左府御最後附大相國御歎事
左大臣殿〈○藤原賴長〉失セ給ヒテ後ハ、職事辨官モ故實ヲ失ヒ、帝闕モ仙洞モ、朝儀廢レナントス、世以テ惜ミ奉ル、誠ニ累代攝祿ノ家(○○○○)ニ生テ、萬機内覽ノ宣旨ヲ蒙、器量人ニ超、才藝世ニ聞ヘ給ヒシガ、如何有ケン、氏長者タリナガラ、神事踈ニシテ威勢ヲ募レバ、我不朋由、春日大明神ノ御託宣有、神慮ノ末コソ恐シケレ、此左府未弱冠ノ御時、仙洞ニテ通憲入道ト御物語ノ次ニ、入道、攝家(○○)ノ御身ハ、朝家ノ御鏡ニテ御坐セバ、可御學文由進メ申ケリ、依之信西ヲ師トシテ讀書有テ、螢雪ノ功ヲゾ勵給ケル、

〔三内口決〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0426 一攝家淸華事
攝家ト申候ハ、攝政家ト云心侯、元來ハ近九之二流ニテ候、近衞ヨリ出タルヲ鷹司ト稱シ、九條ヨリ別レタルヲ二條一條ト申候、是ヲ攝家ノ五流ト號候、〈攝家ハ子細アリテ、五流ヲ爲限、諸家ハ力量次第立家候、〉近衞ハ、系圖之面雖宗領、名記無之、九條ハ雖庶流、峯關白、〈○道家〉月輪禪閤、〈○兼實〉後京極攝政〈○ http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00018.gif經〉之御記、〈○道家ノ玉蘂、兼實ノ玉海、 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00018.gif經ノ殿記、〉是ヲ三代ノ正記ト號シテ、爲天下之鏡、然間九條ハ正嫡ト見エ候哉、雖然諸家之用ヒハ、五流無差別候、但二條之一流ハ、南朝御出奔之後、光嚴院、被聖運、當代之御一流、被正統之事者、二條〈後普光院攝政 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00018.gif基公〉一家之勳功也、

〔尊卑分脈〕

〈五/藤原〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0426
兼經〈近衞殿(○○○)〉
忠通
基實〈近衞一流祖〉 基通 家實 兼平〈鷹司殿(○○○)〉
兼實〈九條殿一條殿〉〈二條殿等祖也〉 良經 道家
敎實〈九條殿(○○○)〉
良實〈二條殿(○○○)〉
實經〈一條殿(○○○)〉

〔海人藻芥〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0427 執柄家者、近衞、九條、二條、一條、鷹司、以上此五流也、

〔公武大體略記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0427 一執柄家、〈近衞殿、鷹司殿、九條殿、二條殿、一條殿、○中略〉以上五ケ所の家門を執柄家と稱す、仍鷹司家を近衞家に接稱して、攝家の御次第を、近九二一と世俗の名目に申習せり、

〔職原抄〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0427 公卿諸臣中、又分別之者有四等、先一人者、當時兩流也、法性寺入道關白〈○藤原忠通〉後胤、近衞九條是也、近衞流、又分爲二、九條流、又分爲三、雖其一族、不先途者、諸大臣家、不差別、又雖先途、被其家督之人、優恕無異儀、又父被見在之時者、雖末子猶加其禮云々、

〔增註職原抄〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0427 法性寺、攝政太政大臣忠通也、父攝政關白忠實、母右大臣顯房女也、世號法性寺殿、忠通五代孫攝政關白太政大臣兼經、是近衞始祖也、一説、忠通子基實、基實子基通、曰之近衞流、忠通第九子、曰攝政關白兼實、是九條始祖也、世號後法性寺殿、近衞流爲二者、近衞祖兼經之弟曰攝政關白兼平、是鷹司始祖也、九條流爲三、九條祖兼實之子良經、良經之子攝政關白道家、道家第八子攝政關白良實、是二條始祖也、世號普光園院、又道家第十一子攝政關白實經、是一條始祖也、

〔職原抄通考〕

〈十六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0427 二條者、普光園關白良實公、四條院御代、仁治三三補關白其家〈經時ノトキ○北條氏〉一條者、同舍弟圓明寺攝政實經公、後深草院寬元四正、補關白、〈時賴ノトキ〉鷹司者、稱念院兼平公、後深草院建長四十補攝政家、〈時賴ノトキ〉

〔本朝通鑑〕

〈四十七/後深草〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0427 建長四年十月甲寅、詔左大臣藤兼平攝政、爲氏長者、賜隨身兵仗、先是藤基通號 近衞殿、兼實號九條殿、至道家使其長子敎實號九條殿、貞永攝政、良實號二條殿、仁治爲關白、實經號一條殿、寶治攝政、及此兼平攝政、號鷹司殿、其子孫各相代爲攝關、世稱五攝家(○○○○○)、〈或曰、分攝家爲五、出於時賴之心、分其勢也、〉

〔光臺一覽〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0428 御攝家と申は、執柄家とも申、御家門とも申て、〈○中略〉往古は御一人一家にて有之候得ども、段々に御家分れ、近九二一となりたまひ、又近鷹と二家に分れ、都合〆近九二一鷹司と五軒にとくと分れたまふは、公家御衰微之砌、平時賴、後に最明寺と申せし人、御家門の權勢を弱まさん爲に、斯く五軒に極められし御事なり、
頭註、後深草院建長四年、兼平攝政、此流鷹司家也、此時可永々五流旨、時賴上表而被定處也、

〔薩戒記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0428 應永卅三年十二月廿七日丙戌、早旦參入道内相府殿、〈(足利義持)姉小路、萬里小路、〉稱歳末禮、近來諸人所群參也、巳刻入道殿令出座〈於會所謁給〉給之由、左中將雅兼朝臣告申人々、先僧中、〈○中略〉此後俗中、前關白〈○九條滿敎〉關白〈(二條持基)以上小直衣、上 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00042.gif也、〉右大臣、〈衣冠○一條兼 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00018.gif〉前内大臣、〈(洞院滿季)參進時、令内府立一レ前、依攝家(○○)歟、如何、〉内大臣、〈○近衞房嗣〉四條大納言入道、〈○隆直〉三條大納言、〈○正親町三條公雅〉權大納言〈○正親町實秀〉右大將、〈○久我淸通〉德大寺大納言、〈○實盛〉藤大納言、〈○淸閑寺家俊〉萬里小路大納言、〈(時房)此人不位次頻謙退、先令大炊御門大納言、西園寺中納言、花山中納言、三位中將等進一レ前了、依淸華歟(○○○○○)、〉大炊御門大納言、〈○信宗〉中御門大納言、〈○宣輔〉三條中納言、〈○三條西公保〉中院中納言、〈○通淳〉西園寺中納言、〈○公名〉葉室中納言、〈○宗豐〉花山院中納言、〈○持忠、中略、〉各構見參、了退出、此事毎年之儀也、然而不勞記、今日聊注之、此彼予向所々、於由緒之所者勿論、只就當時之權勢、到門々戸々遂從之至、爲之如何、

〔戴恩記〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0428 ある時秀吉公、〈○中略〉藤原氏をやのぞみみんと申されしかば、いとたやすき事なりとて、近衞殿〈○前久〉より其御はからひ有ける時、玖山公〈○九條植道〉聞召、五攝家(○○○)ともにいづれも今甲乙はなけれども、氏の長者とせらるヽ事は當家にきはまりたる事なり、近衞殿の御まヽにはなるべからずととがめさせ給ふに、〈○下略〉

花族/淸華/英雄/公達

〔名目抄〕

〈人體〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0429 花族(クワシヨク)

〔晉書〕

〈九十三/列傳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0429 王遐、字桓子、簡順皇后父驃騎將軍述之從叔也、少以華族(○○)仕至光祿勳

〔北史〕

〈四十/列傳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0429 韓麒麟、昌黎棘城人、〈○中略〉麒麟以新附之人未階臺官士人沈抑、乃表請、守宰有闕、宜推用豪望增置吏員、廣延賢哲、則華族(○○)蒙榮、良才獲叙、懷德安土、庶或在茲、朝議從之、

〔文選〕

〈十序〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0429 王文憲集序 任彦昇
公諱檢、字仲寶、〈○中略〉生華宗(○○)、世務簡隔、〈魏志曹植上疏曰、華宗貴族、必應斯擧、〉

〔職原抄〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0429 少納言三人、〈○中略〉近代可然之諸大夫任之、花族(○○)又任之、

〔日本後紀〕

〈十三/平城〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0429 大同元年二月甲寅、從三位行皇太子傳大伴宿禰弟麻呂上表言、臣幸遇昌運、見列貴班、如狗伏一レ砌、于今卅有餘年、遂位昇三品、職參八卿、又東宮之傳、忝當此選、續門華族(○○)、聖恩難測、〈○下略〉

〔源平盛衰記〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0429 澄憲賜血脈
愛ニ行歩ニ不叶老僧、若ハ花族(○○)ノ修學者、此事イカヾ有べキ、日來ハ一山ノ貫首〈○天台座主明雲〉タリトイへ共、今ハ流罪ノ宣旨ヲ蒙給へリ、横ニ取ノボセ奉ル事、違勅ノ咎難遁カト樣々僉議アリ、

〔源平盛衰記〕

〈二十八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0429 宗盛補大臣幷拜賀事
壽永元年九月四日、前右大將宗盛、大納言ニ成返給テ、ヤガテ十月三日内大臣ニ成給テ、大納言ノ上﨟五人ヲ越給ヒキ、中ニモ德大寺ノ左大臣實定ハ、一ノ大納言ニテ、才學人ニ勝レ、花族ノ家(○○○○)ニ傳リ給ヘリ、被越給ケルコソ不便ナレ、

〔玉海〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0429 建久三年二月一日甲辰、定長卿來語、日吉臨時祭之間事、左内兩府申狀、同下官案、公卿使四位舞人不然、以四位使、五位可舞人云々、而御定云、公卿爲使、可四位舞人四人云々、〈使三位中ヽ將忠經、四位舞人兼宗、親能、通宗、敎成等朝臣、五位舞人、公定、忠行、師經、今一人忘却、〉華族(○○)與近臣組交云々、

〔江家次第〕

〈六/三月〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0429 石淸水臨時祭
重盃五重許、〈○註略〉舞人前二人、〈殿上四位用淸華人(○○○)所衆二人、執瓶子相從、〉

〔北虫〕

〈四十七/列傳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0430 聿修、字叔德、〈○中略〉少年平和温潤、素流之中、最爲規檢、以名家子、〈○袁翻子〉歴院任淸華(○○)

〔眞俗交談記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0430 資實云、〈○中略〉懷承記云、赤衣仕丁云々、退紅者紫歟、然者赤衣仕長如何、予云、〈○中略〉淸華家(○○○)人用赤仕長云々、

〔源平盛衰記〕

〈七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0430 成親卿流罪事
去承安二年七月廿一日ニ從二位シ給シ時モ、〈○藤原成親〉資賢兼雅ヲ越給キ、資賢ハ、古人ノ宿老ニテ御坐キ、兼雅ハ、淸華英才(○○○○)ノ人ニヤ越ラレ給モ不便也トゾ人々申ケル、

〔長門本平家物語〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0430 土佛因縁事
成親卿、〈○中略〉去承安二年七月廿一日從二位し給時も、すけかた、兼まさを越給き、すけかたは、古人おとなにてまし〳〵き、兼雅は、淸華(○○)の人なりしに、こえられ給しは不便なりし事なり、

〔書言字考節用集〕

〈四人倫〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0430 英雄家(エイユウケ)〈斥淸華家爾〉

〔台記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0430 康治二年十二月八日庚寅、菖蒲丸〈六歳〉著袴、〈○註略〉是余〈○藤原賴長〉庶長也、〈○中略〉役家司職事八人、維順朝臣、泰兼朝臣、〈已上四位家司〉忠能、〈職〉賴方、〈家〉政業、〈職〉賴佐、〈職、已上取臺六本、〉盛憲〈職、取蓋盤、〉信範、〈非家司職事、取湯盤、〉皆是撰英雄(○○)也、賴方昨補家司也、是無雙英雄故也、於信範者、依事闕俄勤之、不家司職事也、忠能以下六人皆五位、事了下簾、憲俊退、權大納言〈○藤原宗輔〉含之、依英雄也、且又與兒爲親昵也、〈外戚爲親昵

〔人物志〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0430 英雄第八
夫草之精秀者爲英、獸之特群者爲雄、故人之文武茂異、取名於此、是故聰明秀出、謂之英(○○○)、膽力過人、謂之雄(○○○)、此其大體之別名也、

〔台記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0430 久安二年十一月十三日、參内在五節所、〈○中略〉
裏書、〈○中略〉扶持余〈○藤原賴長〉童女、下仕之殿上人、〈自一院特催之、依仰余竊擇申、其人用英雄(○○)、〉前童〈頭左中將經宗朝臣、〈白夜前爾病不參〉左中將爲通朝臣、〉 後童、〈左少將實長、侍從公保、〉下仕四人、〈○註略〉藏人頭雖先例、于時無英雄(○○)、因被催仰、〈○中略〉左中將雅通朝臣、故顯通卿之子、故能俊卿之外孫、於人不卑、加之被禁色、然而去年奉仕家成卿前駈之後、永失英雄之名(○○○○○○)、因不用、

〔續世繼〕

〈六/みやぎ野〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0431 大納言實定と申なる、つかさもじし給て、こもり給へるとかや、さばかりの英雄(○○)におはするに、人をこそこえ給べきを、人にこえられ給ければ、くらゐにかへて、こえかへし給へる、いとことわりときこえ侍り、

〔平治物語〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0431 光賴卿參内事幷許由事附淸盛六波羅上著事
光賴卿、〈○中略〉荒海ノ障子ノ北、萩ノ戸ノ邊ニ、弟ノ別當惟方ノ御坐ケルヲ招寄宣ケルハ、〈○中略〉我等ガ曩祖勸修寺内大臣、〈○高藤〉三條右大臣、〈○定方〉延喜ノ聖代ニ仕ヘテヨリ以來、〈○中略〉當家ハ差ル英雄(○○)ニハアラザレドモ、偏ニ有道ノ臣ニ伴テ、讒侫ノ輩ニ與セザリシ故ニ、〈○下略〉

〔玉海〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0431 文治元年十月十五日甲子、此日法皇、〈○後白河〉相具競馬詣八幡、〈○中略〉拂曉、定能卿問送云、可三衣筥幷金銀幣等之役云々、〈件等役、大將可其替也、先例撰英雄(○○)之人云々、今此卿當其仁、可幸人、依他人、〉

〔枕草子〕

〈十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0431 君達(○○)は
頭辨 頭中將 權中將 四位少將 藏人辨 藏人少納言 春宮のすけ 藏人兵衞佐

〔枕草子春曙抄〕

〈十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0431 君達は、執柄大臣などの息を申す、華族とも淸華ともいへり、近代は中院、閑院、花山院を三家といふ、是淸華也、三條、西園寺、德大寺、これを閑院といふ也、其外菊亭、大炊御門、久我、轉法輪等も淸華也、但淸少の比は、いまだ三家などもさだまらざりし比なるべし、

〔台記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0431 久安三年六月五日丁酉、今日右大將實能卿、供養德大寺邊堂、〈○中略〉未一刻、余〈○藤原賴長〉行向、衣冠乘檳榔車、前駈束帶八人、〈藏人五位六人、八位二人、〉後從上達部二人、〈公隆、敎長、〉公達(○○)三人、〈忠兼朝臣、光家、憲雅、〉

〔官職秘抄〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0431 大納言、〈○中略〉非華族公達(○○)幷諸大夫之、

〔職原抄〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0432 凡公達(○○)諸大夫之號、起於執柄事也云々、執柄一門、及可然人々子孫、謂之公達縦雖累代家禮之人謂、不其名號歟、

〔職原抄通考〕

〈十六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0432 公達者〈花族淸花等之通稱也〉

〔增註職原抄〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0432 公達ハ、三公ニ達スルト云義也、〈○中略〉淸華ノ家ヲ云ヘリ、又淸華ノ子息ヲモ云トナリ、

〔職原抄通考〕

〈十六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0432 今按、諸羽林家、或屬攝家、有諸政作法其家禮之人、謂之家禮、雖然依本系、不公達家名號、或又依人不其家禮有之、

〔安齋隨筆〕

〈後編二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0432 一家禮 貞丈云、諸家の公家衆、公事の法式故實を習はんがために、攝家方へ親しく付したがひ、出入して官仕せらるヽを家禮と云も、子の父を敬する如く、攝家を禮する故也、

〔中右記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0432 康和四年正月廿日丙子、内大臣、有大饗事、〈○中略〉尊者〈○源俊房〉進寄南階攝驤之間、主人〈○源雅實〉居階西頭揖、是家禮(○○)之貴、異他之尊者儀、見者感涙、爲尊者家主、共一家之面目歟、

〔台記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0432 久安三年六月五日丁酉、今日右大將實能卿、供養德大寺邊堂、〈○中略〉未一刻、余〈○藤原賴長〉行向、〈○中略〉主人語曰、先之遣公親朝臣於導師法親王〈覺法〉廬、告早速之狀、未四刻、法親王來臨、余起入簾中、依家禮也(○○○○○)、

〔台記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0432 仁平四年〈○久壽元年〉正月七日庚申、未刻伴兼長隆長、參内著陣、〈○中略〉宣命使〈○藤原賴長子兼長〉卷文拔笏揖、〈○中略〉自本路殿復座、余〈○藤原賴長〉已下離列昇殿、〈此間宣命使降殿、依家禮也(○○○○○○○○○)、〉

〔親長卿記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0432 明應五年正月廿五日、自伯二位許使、在數〈○菅原氏〉事、昨日被九條之處、被子細、猶可計申候之由有仰云々、〈注折紙仰詞〉菅氏之輩訴狀寫留之、〈在判〉在數朝臣殺害事、以外之次第、不然之由條々被仰之處、准后申詞、彼朝臣事、依緩怠去年十月顔之由申合候之處、押而令經 廻候之間、如此令沙汰之、於巨細者、追可申入之由被申候、此上事可如何候哉、又菅氏輩狀如此、猶可計申事、卽參長橋局、〈下姿〉招出伯二位申云、此仰更以無其隱候歟、於攝家准后幷大將重職之人、乍家禮(○○)之者殺害之條、就隱便罪科歟否事、御尋事舊了、在數朝臣、科條無極者、殺害事、爲沙汰之外事、不是非之叡慮事歟、其段被治定、爲御罪科之分治定者、被其共科分歟之由被仰下者、其時可所存、爲私なにとやうに罪科あるべきなどは難申之由申了、今日御會也、以便宜申入云々、

〔史記〕

〈八/高祖本紀〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0433 六年、高祖〈○漢〉五日一朝太公、如家人父子禮

〔職原抄〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0433 公達者、三家等華族也、稱三家者、中院、〈具平親王子孫源氏也、本云土御門流、雅定大臣以後、有中院號、〉閑院〈九條右大臣師輔公十一男公季大臣子孫也、彼大臣號閑院太政大臣、當時雖三流、總云閑院也、〉花山院、〈京極關白(師實)息家忠大臣、稱花山院右大臣、仍其子孫云花山院也、〉此外大炊御門流、〈家忠大臣弟經實大納言子孫也、雖別流、世存花山院一家之由、〉以此三流華族公達也、但當時雖皇子皇孫、賜姓昇大臣大將、若執柄息中、雖先途、令續將相者、卽又淸華勿論事歟、近代依其人、三家頻成英雄之思者也、將又雖將相、經歴近衞次將、昇納言已上家々、又公達之列也、於放埒之輩者、隨分皆稱雄乎、

〔書言字考節用集〕

〈十/數量〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0433 英雄三家(エイユウサンケ)〈閑院、久我(コガ)花山院、〉

〔海人藻芥〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0433 三家者、久我、花山、閑院也、〈○中略〉
淸花(○○)、花族(○○)、英雄(○○)ト者、三家ノ人々云也、

〔公武大體略記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0433 一三家、〈閑院、久我、花山院、〉凡執柄家に次て三家と云、凡家とも稱し侍事、公家中において、取分規模の流也、〈○中略〉此三胤の正嫡たるにおいては、官加階の昇進、弱年なれども、傍親に超越して前途に滯らず、太政大臣則闕の官にものぼり侍る、頗拔群の佳名也、されば大臣家を淸花と號す、

〔三内口決〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0433 一攝家淸華事
淸華トハ、華族之公達ノ通稱候、大臣拜任之人者、淸華勿論候、然處不大將家候、雖然淸華一列、不異議候、
閑院ノ三家〈三條、西園寺、德大寺、〉久我、花山、大炊御門、
以上是ヲ稱三家、閑院ノ三家ハ又別也、
洞院斷絶也、庶流菊亭、今現在侯、
此外皇子王孫、賜姓昇進候人々、此等ヲ淸華卜申候、

〔光臺一覽〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0434 花族の公達とは、淸華九家、閑院とて、大臣家三家の衆を云なり、

〔書言字考節用集〕

〈十/數量〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0434 七淸華(セイグハ)〈久我、花山院、德大寺、西園寺、大炊御門、轉法輪、菊亭、〉

〔故實拾要〕

〈十一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0434 淸華
源久我、相國八代有之、〈贈相國一代、合九代也、〉藤花山院相國三代有之、同西園寺相國六代有之、同德大寺相國五代有之〈但此家代々不聖廟、依時平公流家僕等迄一切不詣也、聖廟トハ北野天滿天神也、〉同大炊御門相國二代有之、同轉法輪相國五代有之、同今出川相國無之、
右七流ヲ號淸華家、又華族ノ公達ト稱ス、〈○中略〉
源廣幡〈此家廣幡親王ノ子孫也、准淸花、新家昇進 不定也、〉

〔光臺一覽〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0434 淸華と申は、轉法輪、三條、菊亭、大炊御門、花山院、德大寺、西園寺、醍醐、久我、廣幡、九軒なり、此中三條、菊亭、大炊御門、三家は格高し、花山院、德大寺、西園寺、醍醐は中なり、此七軒は藤原なり、久我、廣幡は格ひきし、親王家の落の庶子にて源姓なり、〈○中略〉攝家の内にこそ凡人なれ、淸花も花族の公達と稱せられて、いや高き御家也、しかし今日にても、親王家男子方多くて、大納言を申、大將をかねて大臣にいたる人は、皆淸華と申もの也、それ故何時增申べきも淸花はしれ不申候、

〔唐六典〕

〈二/吏部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0434 凡京司有常參官〈○中略〉
淸望官(○○○)
謂内外三品已上官、及中書黄門侍郎、尚書左右丞、諸司侍郎、幷太常少卿、秘書少 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00023.gif、太子少詹事、 左右庶子、左右率、及國子司業、

〔陰德太平記〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0435 丹比松壽丸元服附明人相人相
輝元卿ハ、〈○毛利氏〉從二位中納言ニ升任シ、淸華ノ家ニ附セラル、是武家淸華ニ列スル始也(○○○○○○○○○○○)、

〔時慶卿記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0435 文祿二年十月五日、禁中御能外樣内々不殘參勤、攝家淸華親王門跡御參、〈○中略〉攝家同門跡一座敷、淸花一座敷、新公家(○○○)ハ外樣番所ニテ、雲上ハ下壇ノ次間、〈○下略〉

大臣家

〔職元秘抄〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0435 大臣家(○○○)ハ、大臣マデ成家也、

〔故實拾要〕

〈十一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0435 大臣家
源中院、〈從一位内大臣四代、准大臣一代有之、〉藤西三條、〈從一位右大臣公條實條二代也、從一位内大臣四代有之、〉藤正親町三條、〈太政大臣二代、内大臣六代有之、〉右三家ヲ大臣家ト號ス(○○○○○○○○○○)、

〔光臺一覽〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0435 閑院家の三軒は、三條西、中院、正親町三條也、此内にて三條西は家 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00015.gifし、淸花に左のみ不相替、中院は中、正親町三條は一弱く候、三軒ともに、大納言先途に前を懸、大臣の缺を待得て、右大將を兼ずして内大臣に任ずる家也、〈○中略〉内大臣に任ずる人は、大將を不兼ば、内府に任ぜず、閑院家は、大將を兼ずして、内府に任ずるをこそ規模なれと論所也、〈○中略〉右の閑院家迄は、樣々家々に申立候故、攝家淸花大臣家と部わけして申候、此外を諸家と申候、

羽林家

〔類例略要集〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0435 公家衆に家業ある事幷羽林名家半家新家
百三十六家の堂上方に、羽林名家の二ありて、羽林は武家の如く、少將中將よりのぼり、名家は大中少の辨よりすヽまるヽ也、半家新家は、共に本家に准じ昇進ありて、數百年、各官位昇進改變なし、

〔職元秘抄〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0436 羽林家ハ、中將少將ノ唐名ヲ羽林ト云故ニ、此武官ヲ兼ル家ヲ云、コノ羽林家ノ中ニモ、宰相中將ヲカクル家少シ、大ニ規模ニスルコト也、頭中將カクル家モ少シ、正親町、中山、園、姉小路、今城、油小路等也、

〔光臺一覽〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0436 羽林廿七軒は、川鰭、滋野井、河野、姉小路、山本、風早、四條、押小路、山科、油小路、四辻、鷲尾、櫛笥、持明院、園、東園、松木、正親町、中山、淸水谷、野宮、高倉、難波、千種、〈源〉庭田〈源〉六條、〈源〉飛鳥井、右の家々なり、此家筋にも本家庶子の品あれども、右の家々、今は大方本家並にて、昇進も同格なり、〈○中略〉此二十七軒を羽林家と申は、羽林は中少將の唐名也、諸家之中、宰相中將に任ずる家是計也、故に羽林家と稱せり、右の内、六條千種は村上源氏、庭田は宇多源氏、餘は藤氏にて、三條家、四條家、園家と申者也、職原抄に、諸大夫の家と書れしは、是等の家流也、

〔故實拾要〕

〈十一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0436 羽林家
藤正親町、〈從一位五代有之〉同中山、〈内大臣一代、准大臣一代有之、〉同鷲尾、同園、〈贈左大臣一代、是依外祖也、〉同油小路、同松木、〈稱中御門、右大臣三代、内大臣一代、准大臣一代有之、〉同姉小路、同東園、同大宮、同西大路、源庭田、〈從一位一代有之〉
右自先祖近衞司、自中少將昇進シテ兼武官、劒笏ヲ帶スル家々也、是ヲ羽林家ト云、〈○中略〉
藤河野、同四條、〈○中略〉同四辻、同小倉、同武者小路、〈○中略〉藤野ノ宮、同飛鳥井、〈從一位三代有之、歌鞠道ノ家也、〉同淸水谷、〈當時和歌所也〉同山科、〈此家代々任内藏頭、不侍從、裝束ノ家也、〉同藪、向今城、〈稱中ノ冷泉、補藏人頭、〉同持明院、同橋本、源岩倉、藤園池、同藤谷、源〈村上〉六條、〈内大臣一代有之〉藤滋野井、同冷泉、〈上ノ冷泉ト云、歌道ノ家ナリ、〉同難波〈此家中絶ノ家也、故大納言無之、鞠道ノ家ナリ、○中略〉藤水無瀨、〈稱坊門、守後鳥羽院之御靈、〉同七條、同中園、同冷泉、〈稱下ノ冷泉、大納言二代有之、〉同裏辻、源千種、同久世、同梅溪、藤櫛笥、〈○中略〉藤樋口、源綾小路、〈中納言四代有之〉藤堀河、同山本、〈○中略〉藤河鰭〈從二位參議、二代有之、〉同梅園、同花園、〈○中略〉
羽林家庶流
源田向、同東久世、同愛宕、藤風早、
右大概前ノ羽林家ニ同ジ、但新家也、仍昇進不定也、

名家

〔海人藻芥〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0437 名家者(○○○)、日野、勸修寺、平家也、

〔職元秘抄〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0437 名家ト云ハ、昔ハ武家ノ與力ノヤウナル者ニテ、内舍人ナドノ内ヨリモ、女學カ歌學カ、何ニテモ一藝ニ勝ルヽ名ニヨリテ、家ヲ立テ直參ニナル、其家ヲ名家ト云、其次ガ諸大夫家也、諸家ハ源平藤橘菅江淸ナレドモ、今ハ江家ト橘氏トハ絶テナシ、

〔公武大體略記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0437 一名家
諸家の中に、先祖より近衞司を經て、少將中將より昇進し、武官を兼、劒笏を帶するをば羽林次將といひて、叙爵の始に侍從に任ず、又文筆を面として儒道を學び、辨官を經て萬事を奉行するを名家と稱して、叙爵の始に、五位に叙して大夫と號す、

〔倭訓栞〕

〈前編三十一/米〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0437 めいか 公家にいふは、左右の辨官藏人を經歴して、次第に昇進の家々也、名は功の意、有職才名をもて登庸あるをもて呼り、

〔三代實録〕

〈十七/淸和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0437 貞觀十二年二月十九日辛丑、參議從三位春澄朝臣善繩薨、〈○中略〉善繩、性周愼謹朴、不己所一レ長加上レ人、昔者爲文章博士之時、諸博士毎各名家(○○)、更以相輕、短長在口、亦弟子異門、互有分爭、善繩謝遣門從恬退、因此終不謗議所一レ及、

〔漢書〕

〈三十/藝文〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0437 漢興有齊魯之説、傳齊論者、昌邑中尉王吉、少府宋畸、御史大夫貢禹、尚書令五鹿充宗、膠東庸生、唯王陽名家(○○)、〈師古曰、王吉、字子陽、故謂之王陽、〉傳魯論語者、常山都尉襲奮、長信少府夏侯勝、丞相韋賢、魯扶卿、前將軍蕭望之、安昌侯張禹、皆名家(○○)、張氏最後而行於世

〔漢書〕

〈六十二/列傳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0437 太史公、仕於建元元封之間、愍學者不其意而師誖、乃論六家之要指曰、〈○中略〉法家嚴而少恩、然其正君臣上下之分、不改也、名家(○○)使人儉而善失一レ眞、〈師古曰、劉向別録云、名家者流、出於禮官、古者名位不同、禮亦異數、孔子曰、必也正名乎、〉然其正名實、不察也、

〔官職秘抄〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0438 少納言、可然公達、若名家諸大夫、堪公務之輩任之、

〔職原抄〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0438 諸大夫者、六條修理大夫顯季餘流、此號四條、隆房大納言、初任近衞將以來、昇進多如公達之家、又稱名家者(○○○○)、大藏卿爲房餘胤兩流、號勸修寺、葉室、參議有國子孫、又有兩流、號大福寺、日野、〈但此流儒門也〉中納言親宗子孫平氏等是也、經歴侍中辨官大中納言、多執院中權、故振威勢、頻有鷹揚之思歟、然而累代爲執柄家家司職事、不名家之號、此外南家式家菅江之儒、或昇進、或沈倫、而登用之時、準名家召任流例也、又源平兩家武士中、源氏者、賴義義家後胤、平家者、正盛忠盛等餘流、〈於今者斷絶〉自古諸大夫一列也、或又候執柄及諸大臣家輩、六位時補侍中、五位已後、參院上北面、剩聽院内昇殿家々、不勝計、加之官外記、醫陰、伊勢齋主〈○齋主恐祭主誤〉等、諸大夫一列也、且正本系、且隨行狀、有其沙汰事也、

〔職原抄通考〕

〈十六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0438 和名抄曰、四位五位、爲大夫位階云々、以是按之、諸大夫者、以四位五位先途之類、依其品、總謂諸大夫歟、〈○中略〉名家者、儒門之號也、〈○中略〉然於此以儒門、勸修寺、葉室家名家、及於上卷准大臣篇、以定房公名家者、各後附會、而所名家諸大夫之差也、既源准后、以光賴卿〈大納言篇〉顯賴卿〈使別當篇〉爲諸大夫、且刑部少輔篇、曰名家五位、及諸大夫五位任一レ之、可見令相分而書一レ之者、凡諸大夫者、補攝家家司職事之輩後胤也、勸修寺、葉室、四條、平氏等流之類也、大福寺日野家、正名家必矣、菅江儒亦同、不敢及昇進沈淪之沙汰也、然登用之時、准名家召任流例也者、是何意謂乎、妄説甚者、可得知焉、

〔大槐秘抄〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0438 よき諸大夫と、あやしのきむだちとは、はるかに絶席したる者にてなん候ける、然るを白河院のおほむ世に、御めのとに顯季卿が子孫をひきあげさせおはしましヽあひだに、なまきんだちは申にも及ばす、つみゆりたる人どもヽ、くびかきつめられて候し故に、いづれもいづれも、たヾ同じ事のいま少しなりよきにて、へしふせられて候なり、然ればひとつにかヽるべき事とはしろしめすまじとおぼゆる事にてなむ候、見し代まで、五節などの殿上の座に は、諸大夫は、座をよしあるきむだちにはゆづりて、下にこそゐ候しか、諸大夫の上居このみはじめ候事も、顯李の三位のし出したる事にこそ候めれ、

〔職原抄通考〕

〈十六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0439 隆房大納言、〈父權大納言隆季卿、是顯季曾孫、而小松内大臣重盛室兄也、又隆房卿者、重盛之妹聟也、旁以振威勢、既昇進如公達之家乎、又山科家者、隆季卿弟實敎卿祖也、然自四條流、相分鷲尾西大路櫛笥、又別流出油小路園池等云々、〉初任近衞將、〈永萬二年六月、任少將、蓋系圖所見、自是以前、父隆季卿弟家門成親以下、任近衞將、蓋此流依斷絶、此書以隆房卿初例歟、〉

〔光臺一覽〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0439 名家十六軒(○○○○○)と申は、勸修寺、萬里小路、甘露寺、小川坊城、淸閑寺、葉室、〈以上勸修寺家〉日野、烏丸、中御門、〈勸修寺家〉廣橋、竹屋、勘ケ由小路、柳原、三室戸、日野西、裏松、〈以上日野家〉此十六軒なり、右之本家は日野勸修寺也、眞夏冬嗣の御流也、此中に、竹屋、中御門、三室戸、勘ケ由小路、日野西、裏松は家弱し、餘は各本家並として等同なり、頭之辨を兼て大納言に任じ、極老從一位に叙する也、

〔故實拾要〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0439 名家日野流
藤日野、〈先祖勝光公、從一位左大臣、贈左府二代有之、〉同廣橋、〈從一位内大臣二代、准大臣四代有之、〉同烏丸、〈從一位准大臣三代有之○中略〉藤柳原、〈從一位四代、贈准大臣一代有之、○中略〉
名家勸修寺流
藤勸修寺〈内大臣一代、准大臣二代有之、〉同淸閑寺、〈内大臣二代有之〉同萬里小路、〈内大臣四代、准大臣二代有之、〉同甘露寺〈從一位三代有之〉同葉室、〈從一位一代有之〉同中御門、〈從一位三代有之〉同小河坊城、〈從一位二代有之〉
名家兩家庶流
藤竹屋、同日野西、〈此家任侍從〉同裏松、同勘解由小路、〈○中略〉藤芝山、同梅小路、同池尻、同穗波、〈○中略〉藤高倉、〈准名家、裝束之家也、○中略〉平西洞院、同平松、〈○中略〉藤富小路、平長谷、〈○中略〉源竹内、〈新羅義光後胤〉

〔職原抄支流〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0439 羽林名家之外幷ニ家業極位極官
一〈藤〉高倉〈大納言正二位〉 一〈菅〉高辻〈大納言正二位〉 一〈菅〉五條〈大納言正二位〉 一〈源〉五辻〈左馬頭正三位〉
一〈藤〉廣橋〈參議正三位〉 一〈藤〉富小路〈左衞門督從二位〉 一〈源〉竹内〈非參議正三位〉 一〈淸〉舟橋〈少納言正三位〉
一〈安倍〉土御門〈左兵衞督從二位〉 巳上十家
右名家羽林ノ外也、此中ニモ名家ニ岡准ノ家モアリ、大中納言ヲ先途トシ、或ハ散二位三位ヲ先途トスル家モアリ、然ドモ中少將辨官ヲ經歴セザル輩ハ、暫名家羽林外ニ記侍也、家業モコヽヲ以テ分別スベシ、

半家/新家/平衆

〔多々良問答〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0440 一三家、はん家(○○○)、名家、諸大夫家、銘々被仰出度候、〈職原抄ノ奥ニ、大底被載候歟、家家ノ勝劣、卒爾ニ難申述候、〉

〔職原圖解〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0440 半家(○○)
高倉〈藤原○註略〉 富小路〈二條家〉 五辻〈宇多源〉 竹内〈淸和源○註略〉 高辻〈菅原〉 東坊城〈同〉 五條〈同〉 唐橋〈同○註略〉 舟橋〈淸原○註略〉 土御門〈安倍○註略〉 吉田〈卜部○註略〉 藤波〈大中臣○註略〉 西洞院〈平○註略〉

〔故實拾要〕

〈十一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0440 新家(○○)
藤葉川、同町尻、同押小路、同石山、源植桧、〈○中略〉
源五辻、平石井、藤豐岡、同三室戸、同外山、同高野、同交野、

〔職原抄支流〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0440 新家(○○)
一〈藤〉松殿 一〈藤〉藪内 一〈藤〉堀川 一〈藤〉樋口 一〈平〉平松 一〈平〉冷泉下
一〈藤〉日野西 一〈藤〉藤谷 一〈藤〉櫛笥 一〈藤〉東園 一〈源〉久世 一〈藤〉華園
一〈藤〉裏辻 一〈源〉岩倉 一〈藤〉七條 一〈藤〉梅薗 一〈源〉千種 一鹽小路
一〈安〉倉橋 巳上十九家
右新家也、當代各本家ヨリ別レテ家ヲ立ル輩ヲ新家ト號スル也、私曰、新家ハ代々ニ出來侍ル也、此外新家、又左ニ記之、此新家内ニテ、松殿ハ淸華也、斷絶ス、〈○中略〉
新家
一〈藤〉野宮 一〈藤〉大宮 一〈淸〉伏原 一〈藤〉押小路 一〈藤〉裏松
一〈藤〉勘解由小路 一〈源〉梅溪 一〈藤〉池尻 一〈藤〉武者小路 一〈藤〉桂
一〈源〉田向 一〈藤〉山本 一〈藤〉交野 一〈藤〉薗池 一〈藤〉芝山
一〈平〉長谷 一〈藤〉町尻 一〈菅〉若江 一〈源〉龜谷 一〈源〉葛岡
一〈源〉愛宕 一〈藤〉町口 一〈藤〉滋岡 一〈藤〉風早 一〈源〉東久世
一〈源〉小澤 一〈源〉佐々木 一〈藤〉中川 一〈藤〉細野 已上二十九家

〔光臺一覽〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0441 諸家之中、平と申衆中は(○○○○○○)、花園、〈園家〉橋本、〈三條家〉園池、〈同〉外山、〈日野家〉星岡、〈同〉池尻、〈勸修寺家〉芝山、〈同〉穗波、〈同〉岡崎、〈同〉堤、〈同〉今城、〈園家〉石山、〈同〉六角、〈同〉高野、〈同〉岩野、〈同〉七條、〈四條〉町尻、〈同〉櫻井、〈同〉壬生、〈園家〉中園、〈同〉高岡、〈同〉藤谷、〈四條家〉梅園、〈園家〉樋口、〈同〉堀川、〈四條〉裏辻、〈三條家〉岩倉、〈源家〉愛宕、〈源家〉小倉、〈四條〉久世、〈源家〉梅溪、〈源家〉植松、〈源家〉五辻、〈源家〉竹内、〈同〉大宮、〈三條家〉大原、〈四條〉錦織、〈源〉澤、〈同〉藪、〈同〉東久世、〈四條家〉武者小路、〈三條家〉梅小路、〈勸修寺家〉西大路、水無瀨、〈園〉山野井、〈四條家〉冷泉上、〈四條家〉冷泉下、〈同〉富小路、〈同〉綾小路、〈源〉藤井、〈四條家〉八條、〈四條家、櫛笥庶子、〉高橋、〈武者小路庶子〉藤原源家
の庶流、家筋に依て役も無之故、平と申なり(○○○○○)、此五十軒の昇進は、つよきは從五位下侍從より中少將を申、散三位にて宰相の缺を待、大中納言にも任じ、正二位申家も有、これは此中の第一なり、次は右のごとく任じて、中納言極老に正二位に叙し、病重之砌、中納言を辭し、大納言に任じ、病氣急とて翌日辭退して、前大納言となり、明後日逝去の披露あり、是此中の第二の格なり、第三は中納言至極に正二位申て果る家、第四、宰相にて極に從二位申なり、又第二の格の大納言の通りに中納言を申格なり、是等皆堂上にて通言に、三日之大納言、三日之中納言等といへり、其餘は三位つまりなり、

堂上/地下

〔山田落穗〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0441 昇殿幷地下堂上の事
昇殿は淸涼殿の殿上をゆるさるヽをいふ、古は今の堂上のごとく、代々家つきにて昇殿するこ となし、人によりて、昇殿をゆるされしこと、粟田左大臣在衡公、中納言にて始て昇殿をゆるされしこと禁秘御抄に見えたり、古は堂上地下といひしは、今の奥近習なり、端の堂上の如し、たとへば中納言にても、昇殿をゆるされざりし間は、猶地下なり、今の制は、堂上地下と家柄さだまりて、堂上は御元服の節、代々昇殿をゆるされ、地下は一切昇殿することなし、又堂上は、禁裏仙洞をはじめ御車寄より昇降せられ、其餘は諸大夫間より昇降するなり、
地下の事
今の制は、堂上の外、兩局諸大夫、諸國宮司社家、上階して公卿補任に載せらるといへども、皆地下なり、

〔宣胤卿記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0442 永正四年正月四日、内藏言綱〈吉田〉兼滿等來、前内府〈○藤原實隆〉折紙到來、
改年吉兆、逐日重疊、毎事令賢慮候條珍重候、早以面賀可申述候、抑資直叙爵還昇事、可下知之由候、文章可例候哉、可舊之由事候歟、大底土代任預候者爲悦候、舊草不引勘之間、不審之事候、期面賀候也、

中御門殿
仰嘉祥――――仰資直叙爵還昇事、御下知文章、可常候歟、於藏人者、昇殿事不沙汰候間、不舊之由候哉、只藤原資直、所昇殿也、可下知之狀如件、此分候哉、猶期參賀候、
宣胤
抑資直〈元六位藏人極﨟〉昇殿事、自叙爵以前、所御沙汰也、可堂上列之由、去々年、殿下〈○藤原尚經〉被執申之處、殿上人等一同憤申、去年捧訴狀、〈殿上人連署〉然勅答不堂上列、如久我諸大夫、聽昇殿地下分之由被仰云々、本人者、猶成鷹揚之思歟、今度御沙汰又如何、資直父、始爲源康俊〈一條殿諸大夫久住父〉 子源氏、近改爲藤氏、是誰子分候哉、俊通父祖無知人、出條殿御流分、新作系圖、申九條殿、〈政基公〉令書與給云々、以外歟次第也、非譜第、無才無藝、無威無好、依何事雲客哉、父俊通(九條殿諸大夫)、始被三位、資直始而被六位藏人、過分之至極也、朝家零落、歎而有餘者乎、

雜載

〔中右記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0443 寬治五年十一月十二日、春日祭也、使左少將藤忠敎依新大納言〈○家忠〉之養子花山院出立、次第大略存先規歟、但隱座瓶子右少將顯實朝臣〈○從四位上〉取之、萬八爲奇怪、是五位之所役也、近代無此事、但日記之家(○○○○)若是有先例歟、然而近代頗無由事也、人以有得心

〔續世繼〕

〈三/二葉の松〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0443 當代〈○高倉〉は、一院〈○後白河〉の御子、御母は皇后宮滋子ときこえさせ給、贈左大臣平時信のおとヾの御女なり、〈○中略〉いままた平の氏の國母、かく榮えさせ給ふうへに、同じ氏の上達部、殿上人、近衞づかさなど多くきこえ給、此氏の然るべく榮え給ふ時のいたれるなるべし、たひらの氏のはじめは、一つにおはしましけれど、にきの家(○○○○)と、世のかためにおはする筋とは、久しくかはりてかた〴〵聞え給を、いづ方もおなじ御世に、みかど后おなじ氏に榮えさせ給める、


Last-modified: 2019-03-15 (金) 09:48:58 (386d)