http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0647 醫術ハ、疾病ヲ除キ生命ヲ保全スル所以ノ方ニシテ、神代ノ時、大己貴、少彦名ノ二神、蒼生及ビ畜産ノ爲ニ、療病禁厭ノ方法ヲ定メシニ起リ、三韓支那ノ法ヲ傳フルニ至リ、其法益、精シク、近世西洋ノ醫術ヲ傳フルニ及ビ、其術大ニ進メリ、
古者朝廷醫藥ノ府ヲ置キ典藥寮ト云フ、宮内省ニ隷シ、頭以下ノ職員アリ、而シテ醫師、針師、按摩師、呪禁師、藥園師、并ニ各科ノ博士、生徒之ニ屬セリ、又中務省ニ内藥司アリ、寛平八年典藥寮ニ合セラル、又諸官衙及ビ國衙ニモ醫師醫生アリテ、專ラ醫療ノ事ニ從ヘリ、德川幕府亦醫療ノタメニ、若干ノ職員ヲ置キ、奧醫師、御番醫師等ノ名アリキ、
施藥院ハ、聖武皇后藤原氏ノ創立ニシテ、其職封并ニ故贈太政大臣從一位藤原不比等ノ封戸等ニ依リテ費用ヲ辨ゼシガ、後自ラ朝廷ノ官衙ト爲リ、長官ハ必ズ藤原氏ノ人之ニ任ジ、判官、主典、醫師等其下ニ在リテ、療病ニ從ヘリ、是ヨリ前、厩戸皇子、施藥院、療病院等ヲ設ケテ病者ヲ救ヒシコトアリシト云ヘド、年代邈トシテ其實ヲ知ルニ由ナシ、又養老中藤原氏ノ氏寺ナル興福寺ニ施藥院、悲田院ヲ設ケ、中古北條時宗、極樂寺ノ僧忍性ノ説ニ從ヒ、鎌倉ニ療病舍ヲ開キシコトアリ、德川幕府ニ至リ、小川笙船ノ建議ニ由リテ、小石川ニ養生所ヲ開ケリ、是レ實ニ享保中ノ事ニシテ、初ハ官醫交番シテ、此ニ在勤セシガ、後町醫ヲ以テ之ニ代 ラシメタリ、此他私人ノ施藥ヲ爲シヽモノモ亦乏シカラザリキ、
醫術ノ學校ハ、往時典藥寮ノ内ニ在リ、各科ノ博士其敎授ニ任ズ、諸生ハ皆一定ノ試驗ヲ經テ成業ニ至レバ、又考課ヲ重ネテ漸次ニ昇進スル例ナリ、德川幕府時代ニハ享保年中、幕府特ニ古林見宜ニ命ジ、之ヲシテ書院ヲ開カシメ、都下ノ醫生ヲシテ聽講セシム、其後明和年中ニ至リ、多紀安元又請ヒテ醫術講究ノ場ヲ開ク、是レ即チ所謂醫學館ニシテ、終ニ幕府ノ公設ト爲ル、幕府ニテハ其末年ニ及ビ、又江戸及ビ長崎ニ洋方ノ醫學校ヲ建テタリ、當時又諸藩ニ在リテモ、往々醫學校ノ設アリシト雖モ、醫塾ハ甚ダ寥々トシテ隆盛ナルモノ少カリキ、
我國中古ニ至リ、丹波和氣ノ二氏、世々醫道ノ事ニ從ヒ、多ク名手ヲ出ス、故ヲ以テ此二流ヲ本道ト稱シ、醫術ノ名家トス、後世ハ治療ノ方法ニ據リ、其傳統ニ、和方家、古方家、後世家、西洋家、折衷家ノ流派アリ、而シテ疾病又ハ治方ニ由リテ科ヲ分チ、敎習治療セシコトモ古クヨリ之アリ、大寶令ニハ、體療、創腫、少小、耳目口齒、針、按摩、呪禁等ノ諸科アリ、體療創腫ハ即チ後世ノ内科、外科ニシテ、少小ハ今ノ小兒科ナリ、又同令ニ女醫アリ、養老中ニ女醫博士ヲモ置キタレバ、當時既ニ産科婦人科等ノ設ケアリシコトヲ察ルベシ、
産科ハ德川幕府時代ニ至リテ、大ニ發達シ、分娩ニ諸種ノ器械ヲ使用スルニ至ル、當時賀川子玄最モ名アリ、其流ヲ賀川流ト云フ、又痘疹ニ關シテ、當時別ニ一科ヲ立ツルモノアリ、即チ池田瑞仙等ノ名手アリテ、功ヲ奏セシコト少カラズ、種痘ハ數百年前ヨリ安房ノ一村落ニ行ハルヽ所ナリシガ、延享中、支那人長崎ニ來リテ、種痘ノ法ヲ傳ヘタリ、其法ハ並ニ天然痘ノ痂ヲ採テ、之ヲ種ウルモノナリシガ、尋デ西洋ノ種痘法傳來スルニ及ビテ專ラ牛痘ヲ用イルニ至レリ、然レドモ其始ニ在リテハ、種痘往々其法ヲ誤リ、爲メニ世醫ノ嗷々タルモ ノ多ク、一般人民ノ如キハ、多クハ之ヲ忌避シテ種痘スルモノハ甚ダ少カリキ、サレド其末造ニ及ビテハ、諸藩主ノ中ニモ其効ヲ知リテ牛痘ノ種子ヲ徴スルモノアリ、幕府モ亦種痘所ノ設立ヲ許シ、遂ニ種痘醫ヲ蝦夷ニ遣スガ如キ状ナリシヲ以テ、此法幾クナラズシテ、全國ニ普及スルニ至レリ、
疾病ノ原因ニ就キテハ、古來種々ノ説アリテ、或ハ神ノ心ニ出ヅト云ヒ、或ハ前世ノ惡業ニ出ヅルモノモアリト云ヒ、或ハ外來ノ毒物ニ原因スト云ヒ、或ハ人心ノ鬱滯ニ基ヅクト云ヒ、或ハ飮食ヨリ來ルト云ヒ、或ハ腹中ノ臟腑ヨリ起ルト云ヒテ、其説一ナラザレドモ、要スルニ多クハ醫術ノ未ダ精シカラザル時代ノ臆説ニシテ、信ズルニ足ルモノ鮮シ、解剖ハ、寶暦中、山脇東洋京都ニテ行ヒシヲ始トスベシ、前野良澤、杉田玄白等ニ至リテ發明スル所多ク、遂ニ解體新書ノ著アルニ至ル、蓋シ、人體内部ノ機關ヲ知ルハ、醫術上極メテ必要ナリト雖モ、支那ノ道德ニ在リテハ之ヲ不仁ノ術ト認メ、和漢共ニ久シク此擧ニ出ヅルモノナカリキ、サレド鍼灸ノ爲メニハ、明堂圖、銅人式等ノ設アリテ、人體經絡ヲ知ルニ便ナラシメシガ、解剖ノ開クルヤ、星野某、各務某等相尋デ木骨ヲ作リ、大ニ斯學ヲ資ケタリ、醫療ハ通常藥餌ニ依ルト雖モ、或ハ鍼、灸、按摩、湯治等ニ依ルコトアリ、或ハ腫物ノ膿血ヲ去ルニ水蛭ヲ用イル等ノ法モアリ、而シテ又禁厭ハマジナヒト云ヒテ、呪禁ノ方ヲ以テ疾病ヲ退クルコト、神代ヨリ之レアリ、此法ハ往時ニ在リテハ呪禁博士、呪禁師等ノ職員アリテ之ニ從事シ、醫術ノ諸科ト相對シタリキ、
疾病ヲ豫防スルヲ養生ト云ヒテ、又醫方ノ掌ル所ナリ、病者ヲ看護スル方法ハ、上古多ク聞エズト雖モ、亦醫術ノ管スル所ナレバ、後世之ヲ論ジタルモアリキ、

名稱

〔伊呂波字類抄〕

〈伊疊字〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0649 醫方〈醫藥 醫療 醫家 醫術〉

〔運歩色葉集〕

〈伊〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0650 醫 學( カク) 醫 術( シユツ)

〔伊呂波字類抄〕

〈禮疊字〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0650 療治〈療病〉

〔通俗編〕

〈二十一藝術〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0650 醫者意也 子華子北宮意問篇、醫者理也、理者意也、意其所一レ然、意其所一レ然、而謹訓于理、夫是以謂醫、後漢書方術傳、郭玉對和帝曰、醫之爲言意也、腠理至微、隨意用巧、事文前集、唐胤宗善醫、或勸其著一レ書、答曰、醫者意也、思慮精則得之、口不宣也、

〔古史傳〕

〈十八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0650 抑後世の藥師ども、禁厭法をば、都に用ひぬ事と成ぬれども、我が古は、上件の由緖あれば、更にも云はず、赤縣州にても、古は禁厭を專と用たりけり、其は彼囶の醫術は、もと巫祝の徒より初りしかばなり、〈そは山海經と云書に、巫抵、巫陽、巫履、巫几、巫相など云ありて、注に皆神醫なりとあり、此は呪禁、祓除、呪詛などを行ふ者ながら、其術をもて、病を愈す故に、そを醫とも云りと通ゆ、其は内經賊風篇に、先巫知百病之勝、先知其病所從生、可祝而已也と云るをも思ふべく、また古今醫統に、巫咸は鴻術を以て堯の醫となる、祝して人の福を延べ、病を愈し、樹を祝すれば樹枯、鳥を祝すれば鳥墜などもあり、〉さて其呪禁を行ひて、病を治たる趣は、説苑と云書に、上古之醫、苗父之爲醫也、以菅爲席、以芻爲狗、北面而發十言耳、請扶而來、輿而來者、皆平復如故、と有を以て知べし、〈發十言とは、呪文を唱へたる事と通え、菅席芻狗など、古意に叶ひて聞ゆるは、下に云如く、大名牟遲、小名牟遲神は、外囶々に往來ます神なれば、彼神たちの傳へ給へるが遺れる法と通えたり、〉さて此術を行ふ者を巫醫といふ、論語に、人而無恒不以作巫醫とある是なり、〈此を巫と醫と二ツニ見たる説は非なり、其は汲冢周書と云物に、鄕立巫醫、具百藥、以備疾災、畜五味以備百草、と云るをもて、巫と醫と二ツならぬ事を知べし、〉さて漸々に呪術をば次になして、藥を服しむる事を專と爲る者も出來し故に、周と云し代になりて、官を立るに、巫と醫を別にせり、其は周禮を見るに、巫の外に醫師と云官ありて、掌醫之政令、 聚毒藥以共醫事と云ひ、また疾醫と云有て、掌万民之疾病と見えたり、〈かく別に立たる故に、前の如く、巫彭、巫咸など稱ふこと止みて、春秋左氏傳などを見るに、醫を業とする者をば醫緩醫和など云ふ事とはなりしなり、〉

〔漢書〕

〈三十藝文〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0650 凡 方技( ○○) 三十六家、百六十八卷、
方技者、皆生々之具、王官之一守也、大古有岐伯愈拊、中世有扁鵲秦和、〈師古曰、和秦醫名也、〉蓋論病以及國、原 診以知政、〈師古曰、診視驗、謂其脈及色候也、診、音軫、又音丈刃反、〉漢興有倉公、今其技術唵昧故論其書以序方技四種、〈○醫經、經方、房中、神僊、〉大凡書六、略三十八種、五百九十六家、萬三千二百六十九卷、〈入三家五十篇、省兵十家、〉

〔藤原家傳〕

〈下武智麻呂〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0651 藤原左大臣、諱武智麻呂、〈○中略〉神龜元年〈○中略〉六月遷大納言、〈○中略〉 方士( ○○) 有吉田連宜、御立連呉明、城上連眞立、張福子等

〔日本書紀〕

〈二十二推古〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0651 十年十月、百濟僧觀勒來之、仍貢暦本及天文地理書并遁甲 方術( ○○) 之書也、是時選書生三四人、以俾習於觀勒矣、陽胡史祖玉陳習暦法、大友村主高聰學天文遁甲、山背臣日並立 學方術( ○○○) 、皆學以成業、

〔續日本紀〕

〈八元正〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0651 養老五年正月甲戌、又詔曰、文人武士國家所重、 醫卜方術( ○○○○) 、古今斯崇、宜於百僚之内、優遊學業、堪師範、特加賞賜、勸勵後生

醫術初見

〔日本書紀〕

〈一神代〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0651 一書曰、大國主神、亦名大物主神、亦號國作大己貴命、〈○中略〉夫大己貴命與少彦名命力一心、經營天下、復爲顯見蒼生及畜産、則定其 療病之方( ○○○○) 、又爲鳥獸昆虫之災異、則定其 禁厭之法( ○○○○) 、是以百姓至今咸蒙恩賴

〔釋日本紀〕

〈十四述義〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0651 伊豫國風土記曰、湯郡、大穴持命、見悔恥而宿奈http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000016752.gif 古那命欲活、而大分速見湯自下樋持度來、以宿奈http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000016752.gif 古奈命而浴瀆者、蹔間有活起居、然詠曰、眞蹔寢哉、踐健跡處、今在湯中石上也、凡湯之貴奇不神世時耳、於今世疹痾、萬生爲除病存身要藥也、〈○下略〉

〔古事記〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0651 其八十神、各有稻羽之八上比賣之心、共行稻羽時、於大穴牟遲神帒、爲從者率往、於是到氣多之前時、裸莬伏也、爾八十神謂其莬云、汝將爲者、浴此海鹽、當風吹而、伏高山尾上、故其莬從八十神之敎而伏、爾其鹽隨乾、其身皮悉風見吹拆故、痛苦泣伏者、〈○中略〉於是大穴牟遲神敎告其莬、今急往此水門、以水洗汝身、即取其水門之蒲黄、敷散而、輾轉其上者、汝身如本膚必差、故爲敎、其身如本也、此稻羽之素莬者也、〈○中略〉故爾八十神怒欲大穴牟遲神、共議而至伯伎國之手間山本云、赤猪 在此山、故和禮〈此二字以音〉共追下者、汝待取、若不待取者、必將汝云而以火燒猪大石而轉落、爾追下取時、即於其石燒著而死、爾其御祖命哭患而、參上于天、請神産巣日之命時、乃遣http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000079679.gif 貝比賣與蛤貝比賣、令作活、爾http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000079679.gif 貝比賣岐佐宜〈此三字以音〉集而、蛤貝比賣持水而、塗母乳汁者、成麗壯夫〈訓壯夫袁等古〉而、出遊行、

〔延喜式〕

〈八祝詞〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0652 鎭火祭
吾名妋〈能〉命〈波〉 上津國( ウハツ) 〈乎〉所知食倍志、吾〈波〉 下津國( シタツ) 〈乎〉所知〈牟止〉申〈氏、〉石隱給〈氏、〉與美津 枚坂( ヒラヒカ) 〈爾〉至坐〈氏、〉所思食〈久、〉吾名妋命〈能〉所知食上津國〈爾、〉心惡子〈乎〉生置〈氏〉來〈奴止〉宣〈氏〉返坐〈氏、〉更正子水神、匏、川菜、埴山姫、四種物〈乎〉生給〈氏、〉此〈能〉心惡子〈乃〉心荒〈比留波〉水神匏、埴山姫川菜〈乎〉持〈氏、〉鎭奉〈禮止〉事敎悟給〈支、○下略〉

〔古史傳〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0652 人の過りて火に燒れたる時など、瓠に水を汲て、その傷處を洗へば、速に痛を去るなどの事は、まゝ爲る事なるを、生なる川菜の汁をもみ取て、 火傷處( ヤケド) に沃ぎかくれば、痛を去などは、予もしば〳〵見たる驗なり、また此に就てなほ思ふに、種々の物に、各々某々の能ありて、病を直すをはじめ、互に相 制( カ) ち相助て、功を爲すことは、都て神のしかくさ〴〵に、性を賦おき給へるに依てなり、其は物ごとに其傳こそ無けれ、此なる傳、また第二十段に見えたる、伊邪那岐大神の、桃に勅たまへる御言に、汝如我云々、靑人草之云々、將惚苦時可助と詔へるまに〳〵、桃の惡鬼を避る功ある事などを思ひ合せ、准へて悟るべし、さて川苔は、水田などに生る物にて、俗に多くはヒルモと云へり、

〔志都の石室〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0652 サテ、醫藥ノ道ハ、神皇産靈大神ヨリ初リ、大穴牟遲少彦名神ノ御受繼ナサレ、猶廣ク御撰ミ有テ、此御世ヨリ、萬國ヘマデモ、御傳遊バサレタル事ト見エマスル、

〔奇魂〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0652 醫藥濫觴
醫道は、高皇産靈神、神皇産靈神に初て、伊弉諾命、伊弉册命に傳り、大己貴神、少彦名神に定たり、 かゝるを世人、大己貴命、少彦名命をのみ祖神と思奉は、書紀に〈神代卷〉に、夫大己貴命與少彦名命力一心、經營天下、復爲顯見蒼生及畜産、則定其療病之方、又爲鳥獸昆虫之災異、則定其禁厭之法、是以百姓至今咸蒙恩賴、〈賴字に續て、皆有効驗と古語拾遺に有ぞよき、〉と有をみてのわざなれど、然二處ながら定と書たるにても、前より有來たる方法を、後に二神等撰論定たまひし故なるを悟るべし、かく國をさへ生ますばかり、いと畏き皇神等の、造ましゝ方法等の靈異なるに、今又二神の殊更に定ましたれば、飽ぬことなく備て、いかなる病も愈ざるはなく、いはんすべせんすべしらに、極ていとも〳〵靈妙なる方法なめれば、世人等閑にな思過しそ、

〔黄帝鍼灸甲乙經〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0653 黄帝三部鍼灸甲乙經序 晉玄晏先生皇甫謐夫醫道所興其來久矣、上古神農始嘗草木而知百藥、黄帝咨訪岐伯、伯高、少愈之徒、内考五藏六府、外綜經絡血氣色候、參之天地、驗之人物、本性命神極變、而鍼道生焉、其論至妙、雷公受業、傳之於後、伊尹以亞聖之才、撰用神農本草、以爲湯液、中古名醫、有愈跗、醫媛、扁鵲、秦有醫和、漢有倉公、其論皆經理識本、非徒胗病而已、漢有華佗、張仲景、其他奇方異治施世者多、亦不盡記其本末、〈○下略〉

沿革傳來

〔秇苑日渉〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0653 五民
醫方之設、蓋起于地神氏之前、日本紀曰、大己貴命與少彦名命、戮力一心、經營天下、又爲蒼生病之方、此本邦醫方之始也、然載籍失傳、其詳不得而稽焉、欽明天皇十五年春正月、百濟國王奉勅、貢醫博士奈卒王有稜陀、採藥師施德潘量豐、固德丁有陀、〈三韓紀略曰、魏景元元年、百濟設官十六品、第六品曰奈卒、第八品曰施德、第九品曰固德、〉推古天皇十年冬十月、百濟僧觀勒來、獻暦書及天文地理遁甲方術之書、時山背臣日並立學方術、〈並見日本書紀〉爾後漢土之醫籍、傳播日廣、良工輩出、撰述亦不乏、〈○註略〉桓武天皇時、有龢氣廣世、〈本朝醫考曰、龢氣廣世、淸麻呂長子、延暦中撰藥經太素等、曾孫時雨、承平中、叙醫博士、天暦十一年任典藥頭、〉後二百許年有丹波康賴、〈本朝醫考曰、康賴本姓劉氏、出於後漢靈帝、世居丹波矢田郡、因賜姓丹波宿禰、叙從五位上、任鍼博士永觀二年十一月獻醫心方三十卷、〉龢氣丹波兩氏、古今稱爲扁倉、〈○註略〉子孫傳其業、以至于今矣、其他記 傳所載不枚擧、典藥寮〈即隋唐大醫署〉有典藥頭、〈秦漢以來太醫令之職〉有助、有允、有屬、有醫博士、女醫博士、鍼博士、侍醫、權侍醫、醫師、〈醫疾令曰、醫師十人、掌諸疾病及診候、五位以上疾患者、遣醫師療之、〉醫師得業生、施藥院使、及主典、史生等職、〈詳見職原鈔〉天平寶字二年、詔使醫生講太素甲乙脈經本草、鍼生講素問鍼經明堂脈訣、〈見類聚國史〉延喜式曰、講醫經太素經限四百六十日、新修本草三百十日、小品三百十日、明堂二百日、八十一難經六十日、凡太素經准大經、新修本草准中經、小品明堂八十一難經准小經、〈○註略〉天暦元年六月、詔課試醫道學生、〈見扶桑略記〉中世海内麻沸聲名文物、壤亂極矣、不特醫政之弗復古也、東山氏已還、醫者無官名、咸剪落著直裰、〈○註略〉叙法印法眼法橋等位、〈○註略〉其實僧員、而不僧綱、其所起未何時、蓋在正慶建武之間乎、〈○註略〉迄近世、間有髮、稱爲儒者、然而不剪落、則不官醫也、

〔奇魂〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0654 醫藥名義〈并醫風變化附本道辨〉
さて此道に精しかりし人は、いと古くは詳ならず、藤原平城宮の比には、吉田連宜、御立連呉明、城上連眞立、尾張福子、呪禁には韓國連廣足、今京となりては、出雲の宿禰廣貞、阿部朝臣眞直、紀宿禰福吉、紀朝臣夏井、物部朝臣廣泉、大神朝臣庸主、菅原朝臣峯嗣、當麻眞人鴨繼、和氣朝臣廣世、丹波宿禰康賴主等、此他にも多かりとおぼしきを、後衰へて、近昔は僅に梶原性全、細川勝元等のみ聞えたり、其中に廣世朝臣、康賴宿禰主は、諸經に博く、殊に此道に秀られて、其著されたる書多かりて、其名世に高く、其子孫各其道を世々にせられたれば、をりには他家よりも出る事も有しかど、後世は最稀にて、大方和氣丹波家に極れるが如く成にたり、令の制は五位の官なれど、重く用玉ふに依て、四位にも三位にも叙られて、今世に至まで猶然ぞ有ける、かゝれば其家に時々勝れて、精き人も多かる中に、丹波雅忠主勝れたれば、世に倭扁鵲と稱へたりしを、外國まで聞傳けん、高麗國の后病たるに、其王大宰府まで請におこせしかども、其状の禮なかりければ御許なくて、返牒に、牒得彼省牒偁云々、抑牒状之詞、頗睽故事、改處分而曰聖旨、非蕃王可一レ稱、宅遐陬而跨上邦、誠彝倫 攸斁、況亦託商人之旅艇、寄殊俗之單書、執圭之使不至、封函之禮既虧、雙魚猶難鳳池之月、扁鵲何得鷄林之雲、凡厥方物皆從却廻云々、〈鷄林は朝鮮國の一名也〉と仰玉ひし事抔、尤名高くして、今猶人も口實り、さて和氣氏系圖に、明重、昇殿、甲斐守正四下、施藥院使、典藥頭云々、實者丹波重長子、豫醫術達才、養爲子、自是和氏兼丹家之醫道とあれば、故有て古より、各術は異なりけらし、〈○中略〉皇國に、支那の醫法の初て傳しは、欽明天皇の御世に、智聽と云人の、遣唐使大伴佐手彦に隨て參渡り、百濟より、醫博士有稜陀を奉り、推古天皇御世、難波藥師惠日の唐へ行し抔にて、後も互に往來多かりしは、誰も知が如し、近くは或傳に、竹田定加、法名光英云々、應安二歳己酉、入大明云々、洪武間大明皇后、難産近死、以一針活、而誕皇子、帝樹其功安國公封、〈こを黑川道祐の醫考に竹田昌慶の傳とす〉和氣氏系圖に、明親改眞長法名澄玄、自稱蘭軒、後賜春字春蘭軒、又菊花紋賜、永正年中、渡唐見明皇帝藥、在唐之間、與梅崖友善、歸朝後度々有音信云、道祐の醫考〈吉田宗桂傳〉に、宗桂稱意安、以醫術大有聞、陳日華、宋開寶年中、撰諸家本草、能分寒温性味、宗桂亦能辨知倭藥、故世人以日華子之云々、天文八年、伴入明使僧天龍寺策彦而赴大明、明人以宗桂之診治有神察、呼稱意安、蓋取醫者意也之義也云々、同十六年與僧策彦再遊大明、于時獻藥於大明皇帝、著醫名於異域と有ば、憶ふに元より其道に秀たる人々なめれど、猶此術の彼に勝たるが、其家に存を行へばこそ、其國王の其藥を請しか、

〔志都の石室〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0655 抑皇國ノ古ヘ、神代ハ申スニ及バズ、其後モ人心大ラカデ、物思ヒモ无ク、惡キ病ナドハ无キ故ニ、醫藥方術モ事少クテ、足ハヌコトモ无ツタル處ガ、仁德天皇ノ大御代頃ヨリ初メテ、次々ニ漢人ドモ多ク參來リ、書籍ドモ貢奉リ、又此方ヨリモ、彼國ノ物學ビニ大御使ヲ遣ハサレナド有テ、種々ノコト、醫藥方術、及ビ其書ドモヽ、傳ハリ來テ、人々其ヲ珍ラシク思フニ付テハ、イツトナク皇國ノ方ハ粗略ニナリ、本ヨリ神學モテ書キタルモ有レド、漢字モテ記セルガ多ク、彼此ト和漢紛ラハシク、人々次第ニ漢意ニ移リ行テ、終ニハ皇國ノ醫藥方術ヲバ、重ンゼザルコ トヽ成タルハ、甚以テ慨ク憤ロシキコトデゴザル、然ルニ近頃、ワガ古學ノ興リタルヨリ、此道モ開ケ初テ、漢方ニ依ラズ、醫療ヲ爲ス者モ、カツ〴〵出來タルハ、然スガニ神ノ御國ノ印ニテ、イトモ愛タキコトデゴザル、
サテ、外國ヨリ渡來タル物ノ中ニ、醫藥ノ道ナドハ、本ヨリ我大神等ノ、彼處ニ敏ク、御傳ヘ置ナサレタルモ有ト見エテ、殊ニ用ヲ爲ス故ニ、又イツトナク御國ノ物ト成テ、普ク用フル上ハ、本ヨリ外國ノ方ジヤトテモ、強テ嫌フベキコトデハ无イ、其ト云モ、漢國ハ國ガラ惡キ故ニ、病症モムツカシク、尤モ藥品モ風土ニ依テ、ヒ子コビタル物多ク、療法モ其ニ應ズルコト故ニ、自然ト委クモ成來タル物デゴザル、然ルニ御國モ、中古ヨリ以來ハ、儒佛ノ道モ弘マリ、彼コレト物ゴト煩ハシク、人心ワルク賢シク、物思フコトノ多クナルニ付テハ、古ニ无キ難病ドモヽ出來タニ依テ、ソコデカノ漢方ガ丁ドヨク相應スルヤウニ成テ、行ハレタ物デゴザル、譬ヘバ盜人多キ國々ニテハ、險シキ法度ヲ立ルト同ジ理デ、ムツカシキ病ガ出ルト、又隨テ此道ニ賢シキ人ガ出來ル、醫者多キ地ニハ、難病モ多イ物デ、如此ク段々委シクモ煩ハシクモ成來タモノデゴザル、サテ又近ゴロ、西ノ極ナル阿蘭陀ト云國ヨリシテ、一種ノ學風オコリテ、今世ニ蘭學者ト稱スル者、即チソレデゴザル、元來ソノ國柄ト見エテ、物ノ理ヲ考ヘ究ムルコト甚ダ賢ク、仍テハ發明ノ設モ少カラズ、天文地理ノ學ハ云ニ及バズ、器械ノ巧ナルコト、人目ヲ驚カシ、醫藥製練ノ道コトニ委ク、其書ドモヽ次々ニ渡リ來テ、世ニ弘マリ初タルハ、即チ神ノ御心デアラウデゴザル、然ルニ其渡リ來ル藥品ドモノ中ニハ、効能ノ勝レタルモ有リ、又ハ製練ヲ盡シテ、至テ猛烈ナル類モ有テ、良醫コレヲ用ヒテ病症ニ應ズレバ、灼然キ効驗ヲ奏スモ有レド、本ソノ藥性ヲ知ラズ、又ハ其藥性ハ知テモ、庸醫ラハ其用フベキ處ヲ知ラズ、若ソノ病症ニ應ゼザレバ、大害ヲ生ジテ、忽チ人命ヲ亡フニ至ル、此ハ譬ヘバ猿ニ利刀ヲ持セ、馬鹿ニ鐵鉋ヲ放タ令ルヤウナ物デ、信ニ危イコ トノ甚シイデゴザル、

典藥寮 C 名稱

〔倭名類聚抄〕

〈五官名〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0657 職員令云、〈○中略〉典藥寮、〈久須里乃豆加佐〉

〔朝野群載〕

〈六太政官〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0657 諸司訓詞 典藥寮( クスリノ司)

〔職原抄〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0657 典藥寮〈唐名大醫署 又云尚藥局

沿革

〔日本書紀〕

〈二十九天武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0657 四年正月丙午朔、大學寮諸學生、陰陽寮 外藥寮( ○○○) 、〈○中略〉等捧藥及珍異等物進、

〔書紀集解〕

〈二十九天武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0657 按、中務省所管有内藥司、對内稱外也、此時制、謂典藥寮、爲外藥寮知也、

廳舍

〔拾芥抄〕

〈中本百官〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0657 典藥寮〈宮城内、談天門北、左馬寮東、〉

〔大内裏圖考證〕

〈二十六宮内省〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0657諸圖書考定典藥寮等古地圖豐樂院造酒司 典藥寮 御井町 中務厨 治部省左馬寮

〔日本紀略〕

〈三村上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0657 天暦元年七月四日丁亥、今夜大風猛烈、〈○中略〉典藥寮東檜皮葺屋等顚倒、〈○又見扶桑略記

〔百練抄〕

〈七二條〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0658 長寬元年十二月十三日、左馬寮典藥寮中院等燒亡、

〔延喜式〕

〈三十七典藥〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0658 凡諸國所送授業師料物者、勘納 寮庫( ○○) 、

職員職掌

〔令義解〕

〈一職員〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0658 典藥寮
頭一人〈掌諸藥物、療疾病、〉〈謂依醫疾令、五位以上疾患者、並奏聞、遣醫師療、是也、〉〈及藥園事、〉助一人、允一人、大屬一人、少屬一人 醫師( ○○)十人、〈掌諸疾病及診候、〉醫博士一人、〈掌諸藥方脈經、敎授醫生等、〉醫生卌人、〈掌諸醫療、〉 針師( ○○) 五人、〈掌諸瘡病及補寫、〉〈謂虚者補之、實者寫之、〉針博士一人、〈掌針生等、〉針生廿人、〈掌針、〉 案摩師( ○○○) 二人、〈掌諸傷折、〉案摩博士一人〈掌案摩生等、〉案摩生十人、〈掌案摩傷折、〉 呪禁師( ○○○) 二人、〈掌呪禁、〉呪禁博士一人、〈掌呪禁生、〉呪禁生六人、〈掌呪禁、〉 藥園師( ○○○) 二人、〈掌藥性色目、〉〈謂寒温爲性、形状爲色、名稱爲目也、〉〈種採藥薗諸草及敎園生、〉藥園生六人、〈掌識諸藥、〉使部廿人、直丁二人、藥戸、 乳戸( ○○) 、

〔令義解〕

〈一官位〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0658 從五位〈○下階〉典藥頭 正六位〈○上階〉内藥正 正六位〈○下階〉内藥侍醫 從六位〈○上階〉典藥助 正七位〈○下階〉醫博士 從七位〈○上階〉典藥允、〈○中略〉呪禁博士、 從七位〈○下階〉内藥佑、〈○中略〉醫師、〈○中略〉針博士、 正八位〈○上階〉呪禁師、針師、藥園師、 正八位〈○下階〉按摩博士 從八位〈○上階〉按摩師 從八位〈○下階〉典藥大屬 大初位〈○上階〉典藥少屬、〈○中略〉内藥令史、

〔官職秘抄〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0658 典藥寮
頭 當道上臈任之、但依名譽、助〈權〉往古以公卿給之、近代一向以當道者之、
允〈大少〉 當道者任之、多自屬轉之、元者如他諸司、院宮給等任之、而雅忠朝臣爲寮頭之時、屬等非當道之輩不任之由申請畢、其後爲連秦
屬〈大少〉 自醫師任之
醫師 自得業生
已上允屬醫師等爲連秦
醫博士〈權〉 殊選其人器之、如門生者不之、但惟宗俊通拜除之、兄弟相並例、〈忠康、重康〉
針博士〈權〉 撰其器之、自得業生之例、〈忠明〉
侍醫〈權〉 又撰其人其器、門生任例、〈俊通〉父子相並例、〈應德二年雅忠、忠康、重康、長治元年忠康、雅康、〉
女醫博士〈令外官、有權官、〉 撰其器、或以道擧之、
諸衞醫師 以道擧

〔職原抄〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0659 典藥寮〈唐名大醫署、又云尚藥局〉頭一人〈无權官、相當從五位下、唐名大醫令、又尚藥奉御、〉醫道極官也、他人不之、 助一人〈權助、相當正六位下、唐名大醫正、〉同道五位六位共任之也、 允〈大少、大醫丞、〉同輩門徒可之歟、他人強不之也、 屬〈大少、唐名大醫史、〉
醫博士〈相當正七位下、唐名大醫博士、〉 女醫博士、〈相當唐名同上〉針博士、〈相當從七位上、唐名主針、〉同上、
侍醫、〈相當正六位下、唐名侍御醫、〉當道重之歟、侍醫其職此云半昇殿、常候禁中、故稱侍醫也、主上出御殿上之時、侍醫參小板敷龍顔、故云半昇殿云々、近代四位五位任之、 權侍醫 同道五位六位任之歟醫師、〈相當從七位下、唐名司醫、〉

〔政事要略〕

〈九十五至要雜事〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0659 醫疾令云、 醫博士( ○○○) 取醫人〈謂、十醫師也、下條、患家録醫人姓名是也、即不必取法術優長者、故下條云、經雖不第、量堪疾者聽醫師也、〉内法術優長〈謂、法者所學之經也、術者所療之驗也、〉者之、

〔周禮註疏〕

〈一天官冢宰〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0659 醫師、上士二人、下士四人、府二人、史二人、徒二十人、〈註、醫師衆醫之長、〉 〈醫意其反、疏〉〈醫師 釋曰、案其職云、掌醫之政、令毒藥以供醫事、諸醫皆在此者、醫亦有和飮食之類、故設在飮食之間也、○中略〉 疾醫、中士八人、〈疏〉〈疾醫 釋曰、案其職云、掌萬民之疾病、故連類在此、〉

〔唐六典〕

〈十四太常寺〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0659 太醫署〈○中略〉
醫師二十人、醫工一百人、
周禮有醫師上士下士、漢有醫工長、第五倫補爲淮陽王、醫工長是也、隋太醫有師二百人皇朝置二十人、醫工一百人、〈○中略〉
醫生四十人典學〈舊新唐志、典學作典藥、〉二人
後周醫正、有醫生三百人、隋太醫有生一百二十人、皇朝置四十人、貞觀後置典學二人、〈○中略〉
凡醫師、醫正、醫工、療人疾病、以其痊多少之、以爲考課
毎歳常合傷寒時氣瘧痢傷中金瘡之藥、以備人之疾病者、〈○中略〉
醫博士一人、正八品上、助敎一人、從九品上、〈舊唐志作從九品下
晉代以上手醫子弟代習者、令助敎部敎一レ之、宋元嘉二十年太醫令奉承祖奏置醫學、以廣敎授、至三十年省後魏有太醫博士助敎、隋太醫有博士二人、〈隋志有助敎二人〉掌醫、皇朝武德中、博士一人、助敎二人、貞觀中減置一人、又置醫師醫工之、掌醫生、〈○中略〉

〔令集解〕

〈五職員〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0660 典藥寮〈天平二年三月廿七日、官奏、 醫得業生三人( ○○○○○○) 、並准大學生也、見大學寮條釋也、弘仁五年三月十二日官符云、置 得業生四人( ○○○○○) 事、右太政官今月十一日下中務省符偁、〉〈得彼省解偁、内藥司解偁、醫針之道、國家大要、其業衰絶無人可一レ師、望請永置件生傳醫業者、被右大臣宣偁、奉勅依請、〉

〔朝野群載〕

〈十五醫道〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0660 太政官符 式部省
醫得業生壹人
醫生正六位上行田朝臣文信 左京人
得業生大中臣致忠奉試及第替
從五位下權醫博士兼丹波介淸原眞人爲時弟子
讀書
新修本草經一部 黄帝明堂經一部 小品方一部
右得宮内省去年月日解偁云々者、〈某〉宣、依請者、宜承知依宣行之、符到奉行、
辨 史
年月日

〔續日本紀〕

〈九元正〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0661 養老六年十一月甲戌、始置 女醫博士( ○○○○) 、

〔享祿本類聚三代格〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0661 太政官符
侍醫四人 女醫博士一人 藥生十人
右依太政官去八月廿九日論奏、内藥司併典藥寮既訖、遣唐大使中納言從三位兼行民部卿左大辨春宮權大夫侍從菅原朝臣道眞宣、奉勅、件等侍醫、女醫博士、藥生等、宜隷
寛平八年十月五日

〔玉海〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0661 承安五年〈○安元元年〉四月十三日甲子、召女醫博士丹波經基〈基康子〉於前、呵梨勒散令之、爲見習也、

〔吾妻鏡〕

〈三十三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0661 暦仁二年〈○延應元年〉十一月廿日乙酉、巳刻二棟御方〈號大宮殿〉有御産氣、自大倉于施藥院使良基朝臣藥師堂宅給、可御産所云云、御驗者助僧正嚴海以下皆以參集彼所、鳴絃役人參進、爲兵庫頭定員奉行、御祈等事、有其沙汰云云、 廿一日丙戌、辰刻御平産也、〈若君〉先御驗者三人、民部卿僧都、宰相僧都、大夫僧都賜祿、被御馬、〈置鞍〉次醫道女醫博士賴行給祿、〈三重衣〉

〔三代實録〕

〈四十一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0661 元慶六年正月七日庚戌、授〈○中略〉侍醫兼 針博士( ○○○) 長門權介葛城宿禰高宗等、並從五位上

〔唐六典〕

〈十四太常寺〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0661 太醫署〈○中略〉
鍼博士掌鍼生、以經脈孔穴使浮沈澀滑之候、又以九鍼補瀉之法、〈○中略〉
凡鍼生習業者、敎之如醫生之法
鍼生習素問、黄帝鍼經、明堂脈訣、兼習流注偃側等圖、赤烏神鍼等、經業成者試素問四條、黄帝鍼經、明堂脈訣各二條

〔唐六典〕

〈十四太常寺〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0662 太醫署〈○中略〉
太醫令掌諸醫療之法、丞爲之貳、其屬有四、曰醫師、鍼師、按摩師、呪禁師、皆有博士以敎之、其考試登用、如國子監之法

〔三代實録〕

〈四十九光孝〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0662 仁和二年正月七日丁亥、授〈○中略〉侍醫兼針博士阿比古氏雄並外從五位下

〔三代實録〕

〈五十光孝〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0662 仁和三年二月二日丙午、從四位下行中務大輔十世王爲加賀權守〈○中略〉從五位上内藥正兼侍醫針博士深根宿禰宗繼爲介、

〔玉海〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0662 建久二年七月十一日丁巳、針博士和氣定親、〈故典藥頭定成末子、 頗得道之骨( ○○○○○) 云々、〉來於前麝香丸、〈以今案麝香丸今一分也〉即令中宮了、

〔三代實録〕

〈二十六淸和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0662 貞觀十六年八月九日乙丑、外從五位下行 權針博士( ○○○○) 下道朝臣門繼卒云云、門繼有至性、篤信佛敎、常著袈裟、誦佛經、行路遇僧必下馬、揖而過之、久病臨命剃髮爲僧、

〔政事要略〕

〈九十五至要雜事〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0662 又〈○醫疾令〉云、 醫針生( ○○○) 、 按摩呪禁生( ○○○○○) 、專令業、不雜使、〈謂旬假及田假、授衣假等、並准大學生、〉

〔政事要略〕

〈九十五至要雜事〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0662 醫疾令云、醫博士取醫人〈○註略〉内法術優長〈○註略〉者之、 按摩( ○○) 、 呪禁博士( ○○○○) 亦准此、〈○註略〉
又云、醫生 按摩生呪禁生( ○○○○○○) 、〈○中略〉取藥部及世習、〈○中略〉
又〈○醫疾令〉云、按摩生、學按摩、傷折方、及刺縛之法、〈謂、按摩者、令他人牽擧揚批、或摩使筋骨調暢、邪氣散洩也、傷折者、折跌也、刺縛者、以鍼刺決折傷之瘀血、是爲刺也、踠傷之重善繫縛按摩導引令其氣復、是爲縛也、○中略〉皆限三年其業、成之日、並申送太政官、〈謂、考試法式并等第高下、並待式處分、〉

〔唐六典〕

〈十四太常寺〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0662 太醫署〈○中略〉
按摩博士一人、從九品下、
崔實政論云、熊經鳥伸延年之術、故華他有五禽之戯、魏文有五槌之鍜、仙經云、戸樞不朽、流水不腐、謂使骨節調利、血脈宣通、即其事也、〈○中略〉
按摩師四人、按摩工十六人、
隋太醫有按摩師一百二十人、無按摩工、皇朝置之、
按摩生十五人
隋太醫有按摩生一百人、皇朝武德中置三十人、貞觀中減置十五人也、
按摩博士掌按摩生、以消息導引之法、以除人八疾、一曰風、二曰寒、三曰暑、四曰濕、五曰飢、六曰飽、七曰勞、八曰逸、凡人支節府藏積而疾生、導而宣之、使内疾不留、外邪不一レ入、若損傷折跌者、以法正之、

〔日本書紀〕

〈二十敏達〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0663 六年十一月庚午朔、百濟國王付還使大別王等、獻〈○中略〉 呪禁師( ○○○) 、造佛工、造寺工六人、遂安置難波大別王寺

〔日本書紀〕

〈三十持統〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0663 五年十二月己亥、賜醫博士務大參德自珍、 呪禁博士( ○○○○) 木素丁武、沙宅萬首銀人二十兩

〔政事要略〕

〈九十五至要雜事〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0663 又〈○醫疾令〉云、 呪禁生( ○○○) 、學呪禁解忤持禁之法、〈謂、持禁者、持杖刀呪文、作法禁氣爲猛獸虎狼毒虫精魅賊盜五兵侵害、又以呪禁身體、不湯火刀刃、故曰持禁也、解忤者以呪禁法衆邪驚忤、故曰解忤也、〉皆限三年其業、成之日、並申送太政官、〈謂、考試法式并等第高下、並待式處分、〉

〔唐六典〕

〈十四太常寺〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0663 太醫署〈○中略〉
呪禁博士掌呪禁生、以呪禁除邪魅之爲厲者
道禁於山居方術之士、有禁呪、出於釋氏、以五法之、一曰存思、二曰禹歩、三曰營目、四曰掌決、五曰手印、皆先禁葷血、齋戒於壇場以受焉、

〔唐六典〕

〈十一殿中省〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0663 呪禁師四人
皇朝初置

〔藤原家傳〕

〈下武智麻呂〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0663 藤原左大臣武智麻呂、〈○中略〉神龜元年〈○中略〉六月、遷大納言、〈○中略〉當此時、呪禁有余仁軍、韓國連廣足等

〔續日本紀〕

〈二十八稱德〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0664 神護景雲元年八月癸巳、陰陽員外助從五位下紀朝臣益麻呂叙正五位下、〈○中略〉呪禁師末使主望足、並外從五位下、

補任

〔續日本紀〕

〈十五聖武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0664 天平十五年六月丁酉、外從五位上倭武助爲 典藥頭( ○○○) 、

〔續日本紀〕

〈二十二淳仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0664 天平寶字三年五月壬午、外從五位下馬史夷麻呂爲典藥頭

〔續日本紀〕

〈三十一光仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0664 寶龜二年九月己亥、從五位下田部宿禰男足、爲典藥 員外助( ○○○) 、

〔日本後紀〕

〈五桓武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0664 延暦十五年十月壬戌、始置典藥寮 史生( ○○) 四人

〔延喜式〕

〈十八式部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0664 凡諸司史生者、〈○中略〉典藥寮四人、

〔三代實録〕

〈六淸和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0664 貞觀四年十二月七日辛丑、典藥寮始置 寮掌( ○○) 一員

〔延喜式〕

〈十八式部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0664 凡諸司 使部( ○○) 者、〈○中略〉典藥寮掃部寮各十人、

〔延喜式〕

〈十八式部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0664 凡大學諸博士六位已下、兼任諸國權博士、但先奏後補、典藥醫針博士准之、兼任權醫師

〔三代實録〕

〈十四淸和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0664 貞觀九年二月十一日辛巳、外從五位下行 針博士( ○○○) 深根宿禰宗繼爲醫博士

〔中右記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0664 永久二年十二月十五日、今夕有下名、治部卿、左大辨、藏人辨、少納言宗兼參候云々、此次、醫博士雅康、兼針博士、又馬允一人被成〈○中略〉 十六日〈○中略〉裏書云、後日大外記之説、 道博士之中兼兩博士( ○○○○○○○○○) 、 未曾有事( ○○○○) 也、雅康留希代之例也、

〔續古事談〕

〈五諸道〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0664 典藥頭滋秀ガ申ケルハ、 典藥別當( ○○○○) ノ公卿ハカナラズ大臣ニナルナリ、六條左大臣〈○源重信〉小野宮右大臣〈○藤原實資〉コレナリトゾ、自然ノコトニヤ、又ユヘアルニヤ、オボツカナシ、タシカニ考フベシ、

寮田 C 用途

〔類聚三代格〕

〈十五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0664 勅〈○中略〉天文、陰陽、暦、算、醫、針等學、國家所要、並置公廨之田、應諸生供給、〈○中略〉内藥司八町、典藥寮十町、所司宜件施行
天平寶字元年八月廿三日〈○又見續日本紀

〔類聚三代格〕

〈十五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0665 太政官符
博士職田( ○○○○) 事
合博士廿人應給職田七十三町〈内五十二町、外廿一町、○中略〉
醫博士職田四町
攝津國一町〈豐島郡〉
山背國二町〈相樂郡〉
近江國一町〈高島郡、並元位田、〉
右今改置醫博士職田
針博士職田三町〈元四町、今減一町、〉
山背國二町〈紀伊郡〉
右圖籍註針博士職田
近江國一町〈高島郡、元位田、〉
右今改置針博士職田
以前被右大臣宣偁、奉勅今聞、所行職田、彼此相貿無定處、或以博士田助敎、或以助敎田直講、正名之理不此、〈○中略〉針博士承前之例、所給四町、今減一町、定三町、自餘諸博士依前例之、仍擇取中品以上色別定給、勿相貿、自今以後永爲恒例
延暦十年二月十八日

〔類聚三代格〕

〈十五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0665 太政官符〈○中略〉
一充二寮〈○典藥、主馬、〉田十三町〈即同勸學田
典藥寮勸學田( ○○○○○○) 八町〈大和國四町、近江國四町、(中略)〉
右更加置之
以前被右大臣宣偁、奉勅如右、
延暦十七年九月八日

〔延喜式〕

〈三十七典藥〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0666 勸學田( ○○○) 十八町
十三町〈大和國九町、近江國四町、〉
右以其地子月料、共充醫鍼生食
五町〈大和國〉
右以其地子、充藥生等食

〔類聚國史〕

〈百七職官〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0666 天長三年九月丙寅、河内國澀河郡荒廢閑地二十町充典藥寮、 七年正月戊戌、近江國荒廢田三十七町八段、空閑地二十町五段、賜典藥寮

〔續日本後紀〕

〈六仁明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0666 承和四年七月庚寅、是日勅、以宮城北園池司地卅二町内荒廢地二町永充典藥寮

〔類聚三代格〕

〈十五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0666 太政官符
官田九十二町三段百卅八歩
山城國卅二町五段廿七歩
和泉國七町
攝津國五十二町八段十一歩
右得宮内省解偁、典藥寮解偁、月粮米停京庫、以官田請如件者、謹請官裁者、右大臣宣、奉勅依請、
仁和二年十月十九日〈○又見三代實録

〔類聚三代格〕

〈十五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0666 太政官符
官田諸司要劇并番上料事〈○中略〉
攝津國十一町五段二百三十六歩
右典藥寮侍醫等 要劇料( ○○○) 〈○中略〉
以前遣唐大使中納言從三位兼行民部卿左大辨春宮權大夫侍從菅原朝臣宣、奉勅、件要劇番上等料、宜京庫官田上レ之、
寛平九年二月十七日

〔本朝文粹〕

〈二意見封事〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0667 意見十二箇條 善相公〈淸行○中略〉
一請給大學生徒食料事〈○中略〉
又有勅、分山城國久世郡田卅町四分、其三分給典藥左右馬三寮、纔留其一分充學生料

〔三代實録〕

〈十六淸和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0667 貞觀十一年十二月二日乙酉、制加增典藥寮五位官人一員馬料、立爲恒例

〔延喜式〕

〈三十六主殿〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0667 典藥寮胡麻油四升一合、〈煎供御地黄料〉猪膏二百十三斤十五兩、〈造供御并中宮春宮坊御藥及人給料〉

〔延喜式〕

〈三十七典藥〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0667 年料雜物
紙二百張、鐵臼一口、鍋子一口、白筥一合、刀子四枚、〈各長七寸〉鍬廿五口、〈廿口藥園、五口寮家、〉砥一顆、缶叩盆椀各四口、右依前件、其鍬砥三年一充、〈舊鍬返上〉臼鍋子筥隨破請換、

〔延喜式〕

〈三十七典藥〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0667 凡講書座料、折薦茵二枚、〈醫鍼博士料〉長疊三枚、〈生料〉並隔三年、申省請受、

典藥寮雜載

〔延喜式〕

〈十八式部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0667 凡典藥寮、不興福寺國忌

内藥司

〔令義解〕

〈一職員〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0667 内藥司
正一人、〈掌奉藥香合御藥〉佑一人、令史一人、侍醫四人、〈掌奉診候〉〈謂、診驗也、候望也、言診驗血脈、候望顔色也、此診驗者、與醫疾令所謂診候、其意少異也、〉〈醫藥〉藥生〈謂、此生即得考之人、以自親供一レ事故、〉十人〈掌篩諸藥〉使部十人、直丁一人、

〔享祿本類聚三代格〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0667 太政官符
侍醫( オモトクスシ) 四人 女醫博士( ○○○○) 一人 藥生十人
右依太政官去八月廿九日論奏、 内藥司併典藥寮( ○○○○○○○) 既訖、遣唐大使中納言從三位兼行民部卿左大辨春宮權大夫侍從菅原朝宣、奉勅、件等侍醫、女醫博士、藥生等、宜隷
寛平八年十月五日

〔續日本紀〕

〈一文武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0668 三年正月癸未、詔、授 内藥官( ○○○) 桑原加都直廣肆、賜姓連、賞勤公也、

〔續日本紀〕

〈三十一光仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0668 寶龜二年閏三月戊子朔、外從五位下吉田連斐太麻呂爲 内藥生( ○○○) 、

〔文德實録〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0668 嘉祥三年十一月己卯、從四位下治部大輔興世朝臣書主卒、書主右京人也、本性吉田連、其先出百濟、祖正五位上圖書頭兼内藥正相模介吉田連宜、父内藥正正五位下右麻呂並爲侍醫、累代供奉、宜等兼長儒道、門徒有録、書主爲人恭謹、容止可觀、〈○下略〉

〔三代實録〕

〈四淸和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0668 貞觀二年十二月廿九日甲戌、從五位下行内藥正大神朝臣庸主卒、庸主者右京人也、〈○中略〉幼而俊辨、受學醫道、針藥之術殆究其奧、承和二年爲左近衞醫師侍醫

〔續日本紀〕

〈二十二淳仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0668 天平寶字三年七月丁丑、 内藥佐( ○○○) 從七位下粟田臣道麻呂、賜姓朝臣

〔續日本紀〕

〈二十九稱德〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0668 神護景雲二年閏六月乙巳、内藥佐外從五位下雀部直兄子爲兼參河員外介

侍醫

〔名目抄〕

〈人體〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0668 侍毉( ヲモトクスシ) 〈元三御藥參勤〉

〔延喜式〕

〈十一太政官〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0668 凡左右辨、外記、史、内記、侍醫等、〈○中略〉雖非侍從臨時宴會得見參

〔禁秘御抄〕

〈中〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0668 醫道
侍醫常近龍顔者也、召小板敷、於殿上倚子、奉天顔、又召便宜所簾中、取御脈例也、後冷泉院御時、俊通雅忠類聽雜袍、著紅梅直衣、近代無子細御椽者也、但不殿上方、藏人所如此者重也、然而藏人所程遠之間近參也、時成動居渡殿末、與侍臣物語、是過分儀也、元三之外著衣冠參者也、典藥頭侍醫之外、名譽者別被召、無何末門生等不參云々、

〔日本書紀〕

〈二十九天武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0668 朱鳥元年四月丁丑、侍醫桑村主訶都授直廣肆、因以賜姓曰連、 五月戊申、是日侍 醫百濟人億仁病之臨死、則授勤大壹位、仍封一百戸

〔續日本紀〕

〈三十五光仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0669 寶龜九年八月癸巳、從五位下淨岡連廣島爲典藥頭、侍醫如故、

〔吾妻鏡〕

〈四十六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0669 建長八年〈○康元元年〉九月十九日丙午、申刻將軍家御沐浴、陰陽少允晴宗侯御身固、陰陽醫師、 權侍醫( ○○○) 長世賜祿、

藥司

〔伊呂波字類抄〕

〈久官職〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0669 <ruby><rb> 藥司〈クスリノツカサ〉

〔令義解〕

〈一後宮職員〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0669 藥司
尚藥一人、〈掌奉醫藥之事〉典藥二人、〈掌同尚藥〉女孺四人、

〔名目抄〕

〈人體〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0669 尚藥( シヤウヤク) 〈元三御藥命婦爲其人

〔續日本後紀〕

〈十六仁明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0669 承和十三年五月丁卯、從五位下益野王爲尚藥

〔延喜式〕

〈十二中務〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0669 藥司
九月九日裹呉茱萸料緋帛一疋、緋絲二絇、〈皇后宮亦同〉年料豉廿籠、細布一端、庸布一段、柳筥二合、明櫃二合、麻笥二口、杓二柄、由加一口、陶盤廿合、手洗二口、箸壺二口、筥坏卅口、韲坏廿口、瓶二口、椀廿口、叩盆二口、〈已上年料〉油絁一丈、兩面一丈八尺、絁一丈八尺、緋帛四丈、緋絲一兩、細布一丈六尺、調布三丈四尺、〈酒臺筥案并韓櫃覆綱料、並隨損請換、〉

藥殿

〔拾芥抄〕

〈中末宮城〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0669 所々
藥殿〈在安福殿内 侍醫藥生等候、有熟食、〉

〔永昌記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0669 長治三年〈○嘉承元年〉四月七日戊辰、今日御物忌、御藥令減給、重康盛親等候于 藥殿( ○○) 人々多以參籠、

〔續古事談〕

〈一王道后宮〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0669 後冷泉院御時、主殿寮ヤケヽル時、〈○中略〉 クスリ殿( ○○○○) ノ御テウシハ、ヤブレ損ジタリケルヲ、雅忠典藥頭ノ時、アタラシキ銀ヲフルキニマゼテ、ウチカヘテ、供御ニソナヘケリ、

施藥院 名稱

〔伊呂波字類抄〕

〈世官職〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0670 施藥院〈使 判官主典〉

〔倭訓栞〕

〈中編二十七也〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0670 やくゐん 施藥院のよみくせなり、拾芥抄に、施藥院は養病人所也と見ゆ、今の施藥院は丹波家の裔なり、

所在

〔拾芥抄〕

〈中末宮城〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0670 諸院
施藥院〈藥院唐橋南、室町西云々、施藥院同所也、東五條、藤氏先祖、申納諸國藥種病人所也、有使、以辨別當主典及外記別當、〉

沿革

〔聖德太子傳暦〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0670 推古天皇元年〈本願縁起云、(中略) 四箇院建立( ○○○○○) 意趣何以識乎、 施藥院( ○○○) 是令一切芝草藥物之類方合藥隨各所上レ樂、普以施與、療病院是令宿一切男女無縁病者、日々養育如師長父母、於病比丘順療治、禁物蒜肉任願樂令服差愈、但限日期乞三寶、至于無病戒律努力、(中略)其養料攝津國河内國、毎國官稻各三千束以是供用、(中略)四箇院建立縁起大概如斯、〉

〔日本書紀〕

〈二十九天武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0670 白鳳八年十月、勅曰、凡諸僧尼者、常住寺内、以護三寶、然或及老、或患病、其永臥陝房、久苦老病者、進止不便、淨地亦穢、是以自今以後、各就親族及篤信者、而立一二舍屋于間處、老者養身、病者服藥、

〔扶桑略記〕

〈六元正〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0670 同〈○養老七年〉年、興福寺内、 建施藥院( ○○○○) 、 悲田院( ○○○) 、施入封戸五十烟伊與國水田百町、越前國稻十三萬束

〔續日本紀〕

〈十聖武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0670 天平二年四月辛未、 始置皇后宮職施藥院( ○○○○○○○○○) 、令諸國以職封并大臣家封戸庸物價取草藥毎年進上レ之、

職員 補任

〔享祿本類聚三代格〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0670 太政官符
施藥院使員
使一人 判官一人 主典一人 醫師一人
右被左大臣宣偁、奉勅、承前 院預名爲別當( ○○○○○○) 、 今改置如件( ○○○○○) 、仍須遷替之日令一レ解由、其宛補之人、官定下之、但不俸料、唯給考而已、帶官之徒不此限
天長二年十一月二日〈○又見類聚國史

〔伊呂波字類抄〕

〈也官職〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0671 施藥院使( ○○○○) 〈宇多天皇御宇、寛平二年庚戌、〉

〔職原抄〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0671 施藥院使 使〈司儀令〉醫道四位以下任之、爲彼道重職也、

〔官職秘抄〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0671 施藥院司〈令外官〉
使〈有判官主典〉名譽醫師補之、元諸大夫并一道輩任之、而雅忠任之後、一向爲當道職

〔知信朝臣記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0671 大治五年二月一日甲戌、有下名、其次任官等、侍醫丹波重忠補施藥院使氏大臣被宣下、仍被右大臣、重基任典藥頭替歟、殿下〈○藤原忠通〉召重忠仰了、

〔吾妻鏡〕

〈二十五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0671 承久三年七月十三日乙未、上皇鳥羽行宮、遷御隱岐國、甲冑勇士、圍御輿前後、御共女房兩三輩、内藏頭淸範入道也、但彼入道、自路次俄被召返之間、 施藥院使( ○○○○) 長成入道、左衞門尉能茂入道等追令參上云云、

〔寛永系譜〕

〈三百九十一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0671 丹波姓施藥院〈○中略〉
全宗〈○康賴二十一世孫〉
施藥院法印 生國同前〈○近江〉 昇殿
はじめは山門の僧なり、醫となり、のち還俗して、雖知苦院道三にしたがひ醫術を學ぶ、秀吉一統のとき、全宗つねに幄中に侍して、恩遇他に異なり、いふところかならず聽れ、のぞむ所かならず達す、 天正年中、秀吉特に朝に達して、 施藥院使に任ず( ○○○○○○○) 、時に門戸をひらき、天下疾病の者をまねき集め、藥餌をほどこす事一百日にして、施藥院の實を示す、そのゝちも、又此事をなすこと一百日、全宗は、もと丹波氏なり、醫術にをひて其傳あり、子孫 施藥院をもつて稱號とす( ○○○○○○○○○○○) 、これ官をもつて氏とする例か、

〔延喜式〕

〈十一太政官〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0671 凡施藥院別當( ○○○○○) 、用藤原氏一人外記一人、其遷替之時、不解由

〔西宮記〕

〈臨時二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0672 施藥院崇親院等別當 勾當( ○○) 事
藤原氏第一上卿宣

〔享祿本類聚三代格〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0672 太政官符
置施藥院 主典( ○○) 一人
右得彼院解偁、撿案内、依太政官去天長二年十二月〈○十二月當十一月〉二日符、處置使判官主典各一人、而雜務繁劇官人少員、望請更加件主典濟庶政者、從二位行大納言兼皇太子傳藤原朝臣三守宣、奉勅依請、
承和元年十一月十五日〈○又見類聚國史

〔延喜式〕

〈十八式部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0672 凡諸司 史生( ○○) 者〈○中略〉施藥院使四人、〈○中略〉施藥院等使司史生待官下名簿試直補之、

秩限

〔類聚三代格〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0672 太政官符
施藥院使歴限
右被右大臣宣偁、奉勅、夫歴限任終身、人倦成功、今件使等未歴秩之限、恐有懈怠之心、宜四年限、
嘉祥三年七月廿六日

用度

〔延喜式〕

〈三十大藏〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0672 凡綿一百五十屯、古幣幄四宇、毎年冬季充施藥院、均分給彼院及東西悲田病者孤子等

〔延喜式〕

〈十一太政官〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0672 凡施藥院藥分稻、諸國雖請減省雜稻減省

〔享祿本類聚三代格〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0672 太政官符
賻物料商布停施藥院榖倉院
右太政官去天長元年六月廿日下民部省符偁、諸司主典已上卒死之日、例給賻物料、事有恒例、而至物實、避忌經日、喪家之費率難支給、今被右大臣宣偁、奉勅、宜件料特令交易、充殯歛者、須所出國今年、毎年交易、附貢調使、進施藥院、其直并運賃料同用正税者、今得施藥院解偁、院中雜事觸類繁多、而重行賻物、不兼攝者、正三位行中納言兼右近衞大將春宮大夫良峯朝臣安世宣、奉勅、宜來年上レ榖倉院
天長四年六月五日〈○又見政事要略

〔續日本後紀〕

〈五仁明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0673 承和三年五月甲子、左大臣正二位藤原朝臣緖嗣、〈○中略〉等上表言、〈○中略〉故左大臣贈正一位藤原朝臣冬嗣、情深謙挹、義貴能施、遂乃折剖食封千戸、貯收施藥勸學兩院、藤原氏諸親絶乏者、同氏子弟勸學之輩、量班與之、

〔政事要略〕

〈七十糺彈雜事〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0673棄病人及小兒事〈○中略〉
延臨格云、應左右看督近衞等、毎旬巡撿施藥院并東西悲田病者孤子多少有無安否等事、右施藥院奏状偁、院并東西悲田三所收養病者孤子、其數不少、病者差宛預及雜使等勞治、孤子亦差宛預及雜使乳母養母等視養、院司常加巡撿、然預以下人等未必其人、屢加勸戒、猶多懈怠、恐徒費永食存活者寡、望請令看督近衞等毎旬分番巡撿三所、察其多少、問其安否、預以下之人若有闕怠、重令勘當、其巡撿之日録病者孤子數、付院司之、亦其寒温不適、衣食無給者、令院司、謹請處分者、右大臣宣、奉勅依請、事須看督近衞等巡撿京中之日、有路邊病者、隨便令取送院并東西悲田、又大藏宮内兩省所宛綿及古幣帖疊等、施藥院司請納之後、與彼院司共相知頒給三所病者孤子等、莫疎略
寛平八年閏正月十七日

延命院

〔三代實録〕

〈二淸和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0673 貞觀元年二月十一日丁酉、右大臣從二位兼行左近衞大將藤原朝臣良相奏請、以私第一區 崇親院( ○○○) 、安置藤原氏無居宅、便隷施藥院、厥所付物令施藥院司掌一レ之、又建延命院便隷勸學院、安置藤原氏有病患、詔從之、

私人施藥

〔本朝醫考〕

〈中〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0673 藥師寺圓俊高定和尚
高定和尚、曾於南都般若寺慈心和尚塔下剃染、就西大寺之寶塔院具足戒、又入寶生護國院灌頂、毎以密爲專攻、内行佛敎、外施醫術、 無貴無賤普施藥( ○○○○○○○) 、以救濟之、蓋考其族譜、竹田快翁之子、而定怡之弟、月海之兄也、宜哉有醫術之妙也、一入釋門家系、醫名彰聞、依之後土御門院弗豫日、應勅獻藥、時有大驗、特賜帝觴以賞之、又後柏原院御宇、常令御榻之畔、治療有効、籠眷之餘、辱賜寶劒、年及七十餘、震艮平安、是又依自養之術乎、弟子圓盛定本預製壽像、請賛於東山月舟、載在幻雲藁

〔近世叢語〕

〈一德行〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0674 伊藤茂臣業醫、有孝子病者、垂涙藥救之、又見其貧、厚施與焉、常謂子弟曰、醫之治人、豈問賢否親疎、然其於吉人最當心、

〔先哲叢談後編〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0674 畏齋〈○臼田〉有窮乏者來買其所製之藥、則不錢之多少而多與之曰、若此藥効於爾病、雖錢時必須再求焉、我畜之尤多矣、有壯年者、富強者來求一レ之、則問曰、藥不病反加其害、宜醫生相謀審其當服乎否而後來求也、我盍之、雖然我不妄賣之以助人之淫心

〔享保集成絲綸録〕

〈三十九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0674 享保十三申年十二月
〈元誓願寺前小柳町〉木村春德
一江戸町中末々ニ至迄、當十二月より、來酉十二月迄、春德宅ニ而、 病人投藥( ○○○○) 致候、重病ニ而難參者方〈江〉ハ、春德罷越、樣子見可申候間、右之段町中〈江〉可申聞候、
十二月

療病舍

〔本朝高僧傳〕

〈六十一淨律〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0674 相州極樂寺沙門忍性傳
釋忍性字良觀、父伴貞行、母榎氏、以建保五年於和州磯城島、〈○中略〉有時疫則招集病者、藥劑撫活、初副元帥平時宗作 療病舍( ○○○) 於桑谷、附土州大忍莊其求、平帥薨後、性纂補財、日往看病、二十年間、養五萬七千二百五十人、時人呼稱醫王如來

養生所

〔江戸名所圖會〕

〈十三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0674 療病院 同所〈○小石川御藥園〉の西に並ぶ、養生所と號けらる、則古の療病院に比せ られ、鰥寡孤獨、貧窮無賴の病人を救はせ給はむがため、享保年間、官府より是を建させられ、〈○下略〉

〔明良帶録〕

〈世職〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0675 小石川養生所
此場は、醫道修業之ため、此所に至り、病人に藥を與ふ、是は小普請醫師の歴職なり、

〔醫事漫録〕

〈三編〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0675 小石川養生所一件之事〈○中略〉
小川笙船書上の寫
施藥院被仰付候はゞ、難有仕合可存候、町々極貧之病氣を奉伺候に、不便千萬之仕合共御座候、武家方よりも、奉公人大病に付、請人方〈江〉返し候處に、請人も、親類にても無御座候者は、散々に看病仕候不道人も多く御座候、其外、無縁の者、或は妻子等無御座候貧窮人の煩候には、見殺しに仕候事共おほく御座候、院料之儀は、御當地町々之名主御停止に被仰付候はゞ、名主料金を以て、町町より被召上、院料に被仰付候はゞ、御足金少々之儀にて相濟可申哉と奉存察候、左候はゞ、施藥院御普請料計の儀に而、可相濟と奉存候、此儀も、少々は御物入に、足金、愚意に存當り御座候、名主諸役之儀は、町々家持どもへ、廻り名主と申事に被仰付候へば、御公用辨申儀、只今まで之通、相替儀御座ある間敷と奉察候、町人共は、名主料を御公儀樣へ差上候而も、其外之名主へ、壹ケ年中に遣し申金子多御座候を、省申が德分に而御座候間、悅可申と奉存候、名主共の儀は、御政道をたすけ候を、當時の名主共は、欲心おごりのみにて、却て御政道之妨に相成候事共も仕出し申候、此儀御尋に御座候はゞ、町御奉行所〈江〉口上にて可申上候、
此ケ條之儀は、江戸中に、施藥院壹ケ所御建、便なき病人入置、御扶持人、醫者衆之内代々療治致し、看病人は、老衰致し、便なき男女可之候間、其者共を、施藥院〈江〉入置申候はゞ可然旨申聞候、名主共の儀、相尋候處、外に變り候儀も無御座候、支配之者〈江〉、名主料之外、入目を掛候に付、町々の物入多候の由、笙船申候、然ば只今急に名主役相止候ては、難儀可御座哉、家持共へ、廻り名 主可申付儀も、如何可之哉に奉存候、笙船、兎角名主相止可然旨申聞候、
寅〈○享保七年〉正月廿一日

〔七十册物類聚〕

〈四十八養生所〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0676 由緖書
高貳拾人扶持 〈本國近江生國武藏〉 〈養生所肝煎 小川鎌次郎養子〉小川良意
拜領町屋鋪下谷長者町〈○中略〉
一初代 小川笙船
有德院樣御代、享保六丑年、御政務之儀ニ付、存付候十九ケ條、書付ヲ以奉申上候處、大岡越前守於御役宅、中山出雲守立合、從御前御下ゲ札被附候條、被御尋之上、施藥院之儀は、兼而御上ニも被思召候處〈江〉申上候間、仕形繪圖等目論見可差上之旨、越前守申渡候、依之施藥院仕形繪圖并御入用役人等之儀、委細奉書上候、同七寅年五月廿八日、大岡越前守、中山出雲守立合、施藥院彌御建被遊候、院之名は、思召有之、當分養生所と御附被遊候、發起之儀は、其方ニ候間、向後諸事肝煎候樣被仰付、同年十二月、爲御褒美銀貳拾枚被下置候、其節、越前守ヲ以、猶又可御召仕思召候得共、隱者之旨被聞召候間、御奉公可相勤哉相尋候樣、上意之旨、越前守申渡候、然ル處、病身ニ而難相勤御座候ニ付、御斷奉申上、養生所御用向計相勤申候、〈○中略〉
一二代 〈笙船死、總領、〉小川隆好
有德院樣御代、享保七寅年十一月十八日、笙船奉願候通、養生所諸事肝煎被仰付、養生所之内〈江〉住居御建被下、常詰相勤申候、〈○中略〉
安政六未年八月 〈小石川養生所肝煎〉小川良意花押

〔公事餘録〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0676 一小石川御藥園養生所之儀、享保七寅年正月、糀町十二丁目三郞兵衞店、町醫師小川笙船目論見書上之寫、
養生所壁書
一御藥園御養生所へ參り候病人之儀、何れも下々之儀ニ候得共、危き療治無之樣、隨分念入療治可成候事、
一病氣之樣子にも寄候得共、人參多く用ニ無之樣ニ可成候、萬一多く遣ひ不申候而難成病氣ニ候はゞ、養生所役人小川笙船等相談之上、用ひ候樣可成候、
一長病人或は穢敷病症ニ、退屈無之樣に可成候、然ども危き病人ニ相極候はゞ、無油斷役人小川笙船相談之上、他之療治に替候樣ニ可成候事、
一病症ニ寄り、小川笙船ニ藥方之儀相尋候はゞ、書付御渡可成候、其外之病人〈江〉御用ひ候藥も、入念候而、前廣ニ書付笙船へ渡置候儀は勝手次第ニ候事、
月日〈○享保七年〉
同年〈○享保七年〉六月廿日、若年寄有馬兵庫頭殿へ差出候書付、

一施藥院へ相詰候醫師之内、小普請醫師之内一人被仰付、毎日見廻り、病用之爲罷越、病用相達候積り、且又小川笙船義、晝計見廻り、病人之介抱藥吟味可仕候、但見廻之義は、隔日又御用有之節は、毎日罷越、御用無之節は二日間にも見廻候樣可仕候、
一同所へ町奉行與力二人附置、毎日壹人ニ而相詰、施藥院一式之差圖仕、病人出入相改、總賄入用等、病人へ用ひ候人參之吟味迄世話仕候積り、
一町奉行同心拾人
内貳人年寄同心、是又賄方總元〆諸色拂吟味役、内八人平同心、是は藥煎じ所并病人見廻り役、
右晝夜隔番ニ勤申候積リ、
一下男八人、此下男抱ニ仕、賄所働き、門番人、其外病人看病火事之節は、足弱之病人ニ付添罷在可然奉存候事、
一女三人、是は女房人看病、又は洗濯物等之爲召抱可申候、但當分は貳人抱、病人夥多ニ相成候はば三人ニも可仕候、
下ゲ札
一食焚〈當分壹人〉 一〈汁焚野菜〉拵之もの貳人 一水汲〈當分壹人〉 一小遣壹人 一〈病人藥煎〉當分貳人一門番壹人 都合八人

〔公事餘録〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0678 一施藥院は、小石川御藥園之内ニ而、御普請被仰付候積り、則施藥院住居之繪圖差上候、
一施藥院總御入用之積り
金貳百拾兩三歩、銀拾貳匁餘、
但是は、施藥院こけら葺ニ仕、總御普請入用之見込、
右者、町方闕所金之内を以、御普請仕候、但入札を以、吟味候はゞ、增減可御座候得ば、大概右金高程之御入用之積ニ御座候、
一金貳百八拾兩、銀拾貳匁壹分八厘、
但是は、施藥院御扶持方諸色賄、下男女給金、其外買立候御入用、
右は、常俊上り屋敷地代金を以、當年は賄可申候、來年は町方上り屋敷、并常俊之代金を以、賄可申候、則助成屋敷別紙書付差上申候、
下ゲ札
此兩樣之上り屋敷、當分明地代、當時貳百六拾七兩納り可申候得共、段々貸積り候而、四百七拾兩程納り申候積ニ御座候、併病人數多く相成候はゞ、此地代金計りに而は賄金不足可仕候間、其節御藏より受取候樣可仕候、
一御扶持方は、御藏より請取、味噌鹽薪炭等御買上ニ仕候而は、藏物置等も無御座候而は難成候間、一貳入札爲致、町人請負ニ可申付候、

〔公事餘録〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0679 一施藥院ニ而致死去候はゞ、無縁之者は回向院下屋敷へ差遣可申候、此入用病死人壹人ニ付四百文程づゝニ而は相濟可申候、右二ケ條御入用高、先達而は難積り御座候、是は與力共〈江〉少々ヅヽ金子渡置勘定仕候樣ニ致可然奉存候、
右は差當候儀計り、先奉伺候、此外洩候義も御座候はゞ、追て相伺可申上候、以上、
寅七月 中山出雲守
大岡越前守

〔天明撰要類集〕

〈二十三養生所〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0679 寛政元酉年十月三日、京極備前守殿〈江〉御直ニ上ル、
小石川養生所附御醫師用候藥種之儀ニ付、相調申上候書付、
初鹿野河内守
小石川養生所附御醫師用候藥種、御入用ニ而被下置候哉、御役料之内ニ而辨じ候哉、相糺可申上旨被仰渡候ニ付、相調候處、左之通ニ御座候、
一小石川養生所附御醫師、前々は、藥種料、本道壹人ニ付金五拾兩、外科眼科壹人ニ付金廿兩宛被下置、本道四人、外科四人、眼科壹人ニ而相勤候處、享保十八丑年より、本道貳人、外科貳人、眼科壹人ニ被仰付、藥種料被下候儀相止ミ、爲御役料、本道壹人ニ百俵宛、外科眼科壹人ニ六拾俵宛被下置候、其以後、增御役料相願候得共、取上不申、然共右之通、御醫師人數も減少仕、取續兼可申候 ニ付、伺之上、爲御褒美、本道壹人ニ付銀拾枚宛、外科眼科壹人に付銀七枚宛、元文元辰年迄は、毎年被下置候得共、左候而は、例格之樣ニ相成、如何ニ御座候間、當時は、毎年は不申上候、然共其年年之樣子ニ寄、毎年申上候儀も有之、又は隔年ニも申上、其節々被下置候儀ニ御座候、右ニ付、藥種料御入用ニ而被下置候儀ニは無御座、御役料之内ニ而辨じ申候儀ニ御座候、
右之通御座候、依之先達而御下ゲ被遊候御書取壹通奉返上候、以上、
酉十月 初鹿野河内守

〔養生所書留〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0680 巳〈○弘化二年〉十月十六日、山中仲兵衞を以御渡、
養生所病人共〈江、〉助力錢申立候もの之儀ニ付、相伺候書付、養生所見廻
〈小傳馬町三丁目淸助店〉茂兵衞右之もの儀、虱うせ藥商賣仕候ニ付、爲冥加、先年申立候上、右賣藥を、病人共〈江〉爲施藥、毎年十月より三月迄、月々百貳拾貝ヅヽ養生所〈江〉差出、爲相用來候處、猶又當年は、右之外ニ、病人壹人ニ付、錢貳百文ヅヽ、助力差遣度由、右茂兵衞より、此節申立候、依之取調候處、是迄右之振合ニ而、半紙貳帖ヅヽ差遣度由申立候ニ付、私共猥リニ受置候儀も御座候得共、此度は、錢貳百文ヅヽ差遣度と申立候儀ニ而候得ば、私共猥りニも難承置、評議仕候處、右體助力差遣候迚も、取縮に拘り申候儀も無之、且爲冥加差遣度と申立候儀、奇特之儀ニも御座候得ば、申立候通、聞濟置候樣可仕候哉、依之此段奉伺候、以上、
巳十月 松浦彌右衞門
村井專右衞門〈○中略〉
書面、病人一人ニ付、錢二百文ヅヽ、助力として差遣度由、〈○中略〉御聞濟被成候段、養生所見廻〈江〉被仰渡候而可然哉ニ奉存候、
巳十月 松浦作十郞
加藤又左衞門

〔嘉永撰要類集〕

〈二十三養生所〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0681 天保十四卯年三月八日、阿部遠江守を賴、向山源大夫を以、水野越前守殿〈江〉上ル、同十五日、御書取添、荒井甚之丞を以御下、鰭付致、翌十六日返上、 ヒレ付末ニ有
越前守殿小石川養生所附御醫師御引替之儀ニ付、取調候趣申上候書付、鳥居甲斐守町奉行小石川養生所附之儀、向後御醫師より出役は御差止、右明跡は、町醫師之内、療治宜仕候者を、早々吟味いたし可相伺、就而は、御定人數、御手當、藥種料之儀も、厚勘辨仕、可申上旨被仰渡候ニ付、取調左に申上候、
此段、養生所御醫師、本道本勤貳人、外科同貳人、眼科同壹人、都合五人、本勤定人數ニ有之、藥種料之義、享保十八丑年より、御役料ニ相成、本道壹人百俵、外科眼科同六拾俵宛被下置、同所見習之御醫師は、五人限に被仰付、右は御役料無之、自力を以療治引受候得共、是迄は寄合又は小普請御醫師より相勤、右出役中は、勤仕並に相成、小普請金御免、月並御禮ニも罷出候ニ付、御役料ニ不拘、多分之藥劑差出、相勤來候處、此度は、御宛行無之もの〈江〉被仰付候儀ニ付、右例は難引當候間、舊記をも取調候處、享保十八丑年養生所肝煎小川笙船忰同苗丹治儀、藥壹帖ニ付、銀貳分ヅツ之藥種料被下候處、一ケ年金百兩餘ニも相成、御入用相嵩候ニ付、貼數ニ不拘、年々金五拾兩 ヅヽ被下置然旨、其頃先役共より相伺候處、伺之通被仰渡候旨、書留有之候間、猶勘辨仕候處、藥劑之貼數は、年々增減も御座候處、右に不拘、藥種料被下置候儀は、時勢ニ相當仕間敷、自然貼數多分ニ差出候儀を厭ひ候場合有之間敷とも難申候間、前書之見合を以、煎藥、煉藥、目藥共、壹貼或は壹貝ニ付、銀貳分ヅヽ之割合を以、貼數增減ニ寄、藥種料被下置候はゞ可然哉に奉存候、〈○中略〉
卯三月 鳥居甲斐守
阿部遠江守
書面( ヒレ付) 、養生所附町醫師之儀、向後本道貳人、外科貳人、眼科壹人、都合五人を定人數ニ致し、何も勤候内、拾五人扶持ヅヽ被下置、藥種料其外之儀は、都而伺之通相心得、場所取締は勿論、病人手當專一ニ可申渡旨被仰渡、奉承知候、
卯三月十五日 鳥居甲斐守〈○中略〉
天保十四卯年三月廿日、用人永江彈右衞門を以差出ス、
養生所〈江〉町醫師之内出役被仰付候ニ付、取計方之儀奉伺候書付、書面、醫師番割之儀、先戌年以前之振合ニ相心得、其外は、都而伺之通取計可申旨被仰渡承知候、卯三月廿日 養生所見廻〈○中略〉一御醫師勤方之儀は、本道外科は隔日、眼科は三番に罷出、晝四時より、夕七時頃迄相詰罷在候處、六ケ年以前戌年、朝夕交代勤被仰付候ニ付、朝出之者は、晝四時より九時半まで、夕出之者は、晝九時より、夕七時迄相詰申候、尤是迄は、見習共打込候故、朝出夕出共、本道壹人宛差加り相勤來候得共、此度本道貳人限りニ而、是迄之通、朝夕交代仕候而は、朝出夕出之内、一方外科相詰候割合 ニ相成候間、戌年以前之通、晝四時より夕七時頃迄相詰罷在候樣可申渡哉、又は戌年被仰渡之通、朝出夕出と交代いたし相勤候樣可申渡候哉、肝煎小川良意儀は、私共同樣、晝四時より、夕七時頃迄相詰罷在候ニ付、交代勤被仰付候而も、差支候儀聊無御座候、交代勤之方ニ被仰渡候はば、良意病氣差合等之節は、朝夕共本道壹人ヅヽ相詰可申旨申渡候樣可仕候、右兩樣之内、御下知御座候樣仕度奉存候、〈○中略〉
右之通奉伺候、以上、
卯三月

〔追加市中取締類集〕

〈九ノ四十六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0683
養生出役御醫師之儀ニ付、申上候書付、年番養生所病人療治方之儀ニ付、多紀安良より申上候書面、同所見廻與力〈江〉御渡、勘辨申上候書面共御下取調可申上旨被仰渡候ニ付、評議仕候趣左ニ申上候、
此儀、享保度、同所御取立之節は、藩醫、町醫共も出役被仰付候趣ニ御座候處、其後は、寄合小普請御醫師之内より、出役被仰付、舊來相勤來候處、兼々醫學館ニ而、養生所を進退之目論見有之由、去ル丑年、小川龍仙院、外四人より、若年寄衆〈江〉申上候書面ニ、同所は、町方進退故、醫術之工拙ニ不拘、出役申上候間、御醫師不精之もの窩窟ニ相成居候旨、都而療治方之儀其外共、品々麁漏之趣を以、以來醫學館之振合ニ取扱、同所世話役、同手傳之もの罷越、世話可仕、何事によらず、龍仙院、其外ニ而、御醫師相談向引請、其上藥服之儀、醫學館ニ而調合仕、膏藥目藥も、同所より製法仕、相廻可申、御藥料、醫學館〈江〉御下有之候樣仕度、尤龍仙院、樂眞院も見廻可申旨、其外養生所舊來御極被置候御仕法等ニも、議論を加〈江〉申上候書類、御下ゲ相成候間、其節養生所御醫師、并同所 見廻與力より、箇條逸々取調、醫學館見込違之廉々等も申上、其趣意被仰上候間、同所より申上候筋貫キ不申、願之趣、難御沙汰旨被仰渡候事之由ニ候得共、兎角夫迄之振合ニ而は、居り合兼候儀と相見、翌々卯年、御醫師出役は御免町醫師共、鳥居甲斐守殿、阿部遠江守殿御撰之上被仰上、出役被仰付、當時相勤居候儀ニ御座候、然ル處、今度多紀安良より相願候は、養生所之病人は、醫學館〈江〉願出候ものとは、證候各異候間、醫學館ニ而修業仕、猶又養生所病人療治仕候はば、確ニ御用立候もの多分出來候は勿論、勤候場所も相增、一統之勵ニも罷成候旨之書面ニ候得共、左候而は、養生所を、醫學館同樣、御醫師之稽古所ニ相用候樣相聞、元來重御仁燐之御主意ニ齟齬可仕哉奉存候、〈○中略〉依之御下被成候書類返上、此段申上候、以上、
酉〈○嘉永二年〉十一月 村井團右衞門
仁杉八右衞門
養生所出役御醫師之儀ニ付、申上候書付、市中取締懸養生所病人療治方の儀ニ付、多紀安良申上候書面、同所見廻并年番方〈江〉御下、夫々勘辨仕候趣、尚私共評議仕可申上旨被仰渡候ニ付、書類一覽仕候處、一體醫學館ニ而、養生所を進退可致目論見有之、先年も小川龍仙院等より申上候次第も御座候得共、不御沙汰候や、近來町醫御撰之上被仰付、出精相勤罷在、病人全快も數多御座候由之處、無故醫學館より御醫師出役仕候樣相改候はゞ、町醫ども氣請ニも拘り、左候迚、養生所見廻申上候通、御目見等可仰付筋ニは有御座間鋪、尚又去卯年以前之振合ニ復候義、別段之御主意有之、追而被仰出候義は格別、今度安良申上候續を以、御醫師之治療ニ復候義は、失體ニも相當可申哉ニ付、安良願之趣は、新規之儀ニ付、不御沙汰、養生所之方は、是迄之通御居被置候積被仰上然哉ニ奉存候、
右評議仕候趣、書面之通御座候、御下之書類返上、此段申上候、以上、
酉〈○嘉永二年〉十二月 東條八大夫
中村次郞八
中田新太郞
東條八太郞

〔七十册物類集〕

〈四十七養生所〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0685 南北小口
年番
名主
小石川養生所之儀、貧窮之病人共、願出次第、逗留療治被仰付候處、此度町醫師之内、療治功者之聞有之もの、御撰之上、出役被仰付、御扶持方、并藥種料をも被下置、藥品は勿論、藥煎方等迄致吟味、爲相用候筈ニ候、尤逗留中は、朝夕之食物被下置、其上夏冬之夜具衣類等迄、不自由無之樣御貸物相渡候ニ付、聊入用等相掛り候筋無之候間、鰥寡孤獨之病者不申、縱令看病人有之候共、極貧ニ而藥給兼候者は、勝手次第逗留之儀可願出候、奉行所〈江〉は、別段ニ不訴出、名主又は名主無之町々は、月行事加判之訴状を以、宿或は家主成共、相店之もの成共、壹人ニ而、直ニ養生所〈江〉可願出候、病人呼出し、并相歸り候節は、町役人差添ニ不及、右同樣壹人呼出し、都而手重之儀無之樣致遣候間、壹町限り取調、極貧ニ而、藥給兼候病人有之ば、當人不心付候共、名主家主共致世話、養生所逗留之儀爲相願申候、且其日暮之もの、病難等之節は、同店之もの共、相互ニ救合候儀と相心得、歩行難相成、駕籠人足等相雇候手當も無之ものは、相店之もの共世話致し、養生所〈江〉召連、聊ニ而も入用不相掛樣取計可遣候、若又逗留之儀相願候もの有之候而も、町役人共等閑ニ致し置候歟、又者無謂入用等掛り候段相聞え候ニおゐては、其品ニ寄、急度咎可申付候間、其旨相心得、窮民御救之御 趣意行屆候樣、精々可心掛
右之通、天保十四卯年申渡置處、近來は願出候もの少く、右は全町役人共手重之取扱方ニ成行候儀と相聞え、御仁惠之御趣意を失ひ候ニ當り、以之外之事ニ候、殊ニ今度地震ニ而、困窮之町人共之内、住所ニ離候病人抔も可之ニ付、右類之者逗留療治相願候はゞ、諸事前條之手續ニ相心得、早々可申出
右之通、町中名主支配限り、月行事持之場所は、組合之名主より、家主小前之者共迄も、不洩樣可申通旨、被仰渡畏候、爲後日仍而如件、
安政二卯年十二月十日 〈南方小口年番 箔屋町名主〉延吉郞印
〈北方同 小網町名主〉伊十郞印

〔天明撰要類集〕

〈二十三養生所〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0686 天明八申年二月十九日、牧野備後守殿、本多彈正少弼殿〈江、〉專阿彌を以上ル、但御側衆〈江〉上候分、加納遠江守殿、小笠原若狹守殿〈江〉封候而、淸嘉を以上、
天明六午年より同未年迄
小石川養生所病人數之儀申上候書付
柳生主膳正
町奉行
天明六午年十二月朔日より、同七未年十一月廿九日迄、養生所〈江〉來候病人數、
一三百三人

百五拾五人 全快之者
三拾五人 難治ニ付相歸候者
八拾六人 願ニ付相歸候者
貳拾人 致病死候者
五人 致欠落候者
貳人 不揃ニ付相歸候者
右之通御座候、以上、
申二月 山村信濃守
柳生主膳正

〔七十册物類集〕

〈四十六養生所〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0687 養生所御入用并病人人數書
嘉永四亥年
一金貳百八拾四兩貳朱 銀壹匁壹分三厘 玄米百四拾三石壹斗七合七勺八才
嘉永三戌年
一金貳百七拾六兩貳分 銀拾四匁三分壹厘四毛 玄米百三拾四石三斗四升六合
右亥年ニ見合 金七兩壹分、銀九匁參分壹厘六毛相增、
嘉永四亥年
一金三兩貳分 銀四匁六分六厘六毛 右玄米車力代
嘉永三戌年
一金三兩壹分 銀六匁五分貳厘 右玄米車力代
右亥年ニ見合 銀拾三匁壹分四厘六毛相增
嘉永四亥年
一金五百八拾九兩壹分 銀拾四匁四分三厘二毛 總諸色代
嘉永三戌年
一金五百五拾八兩壹分 銀三匁壹分四厘五毛 總諸色代
右亥年ニ見合 金三拾壹兩、銀拾壹匁貳分八厘七毛相增、
三口〆戌年亥年見合 金三拾八兩三分 銀三匁七分四厘九毛相增申候
去亥年中
一逗留病人人數八百四拾六人
去々戌年
一逗留病人人數七百五拾七人
右亥年ニ見合 人數八拾九人相增申候
右之通御座候、以上、
子二月

〔海軍歴史〕

〈二十五費額及雜項〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0688 今般御取建相成候 濱御構内養生所( ○○○○○○○) 入可相成病人之者共凡百二十人分、壹ケ年賄方食用并諸道具受負、其外看病人小使之者、人々等迄御入用之儀、御場所附御用達共〈江〉入札申渡候處、河野屋左一直安ニ付、落札相成候間、右引受方同人〈江〉申渡候樣可仕存候、依之受證文取之、此段相伺申候、
卯八月

醫學校

〔政事要略〕

〈九十五至要雜事〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0688 學校事下〈陰陽典藥療病在典藥中

〔醫賸〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0688 醫學
晉以上無醫學之設、及劉宗元嘉二十年、太醫令秦承祖奏置醫學、以廣敎授、後魏及隋有太醫博士助敎、唐貞觀三年九月、諸州置醫學、開元元年、諸州置助敎、十一年、諸州置醫學博士、宋醫學隷大常 寺、神宗時始置提擧判局官、及敎授一人、學生三百人、政和五年正月、州縣置醫學、元世祖中統二年夏五月、大醫院使王猷吉言、醫學久廢、後進無師授、竊恐、朝廷一時取人學非其傳害甚大、乃遣副使王安仁、授以金牌、往諸路立醫學

〔政事要略〕

〈九十五至要雜事〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0689 又〈○醫疾令〉云、醫生、按摩生、呪禁生、藥園生、先取藥部及世習、〈謂藥部者、姓稱藥師者、即蜂田藥師、奈良藥師類也、世習者三世習醫業、相承爲名家者也、〉次取庶人年十三已上十六已下〈謂、非唯庶人、藥部世習亦同此法、案學令五位已上子孫及東西史部子、皆限年十三已上十六已下、取爲學生、若藥部世習、是五位已上子孫者、皆先宛四色生、即至廿一、依申送、其文云、取庶人若八位已上子情願者、亦聽取、〉聰令者之、
又云、醫針生、各分經受業、醫生習甲乙脈經本草、兼習小品集驗等方、〈謂、甲乙經十二卷、脈經二卷、新修本草廿卷、小品十二卷、集驗十二卷也、〉針生、習素問、黄帝針經、明堂、脈決、兼習流注偃側等圖、赤烏神針等經、〈謂素問三卷、黄帝針經三卷、明堂三卷、脈決二卷、流注經一卷、偃側圖一卷、赤烏神針經一卷、文云、赤烏神針等經即知亦有餘經、故更稱等經、案下條、兼習之業、試各二條、是兼習之業、不三經、即雖餘經止、試二條總試、○中略〉
醫疾令云、醫針生、初入學者、先讀本草、脈決、明堂、讀本草者、即令藥形藥性、讀明堂者、即令驗圖識其孔穴、讀脈決者、令遞相診候、〈謂、假有針生甲乙二人、令甲診一レ乙令乙診一レ甲、是爲遞相診候也、〉使四時浮沈澀滑之状、〈謂、澀者難也、滑者利也、夏脈浮、冬脈沈、冷脈澀、温脈滑之類是也、〉次讀素問、黄帝針經、甲乙脈經、皆使精熟、〈謂、習讀經之文滯礙者、即學令學生先讀經文通熟、然後講義、即其義也、〉其兼習之業各令利、
又云、醫生既讀諸經、乃分業敎習、〈謂、先讀文通熟、後乃分其業也、〉卛廿〈謂、依職員令、醫生卌人即爲廿、分廿四人體療、六人學創腫、六人學少小、四人學耳目口齒也、〉以十二人體療、〈謂、創腫耳目等各別有生、即除此外、身體諸病、皆悉主治、故總云體療也、〉三人學創腫、〈謂、創與瘡字相通也、〉三人學少小、〈謂六歳以上爲小、十八以上爲少也、言瘡治小少固異成人、故別云少小、〉二人學耳目口齒、各專其業
又云、醫針生、各從習、鈔古方之、〈謂、鈔者不全取也、古方者、上條所言之外、往古藥方、律云、古今藥方是也、言、古來方經卷軸盈溢、皆令其誦一レ之、或有堪、故抄取其尤要者、各從所業之、〉其上手醫有療疾之處、令其隨從習合針灸之法、〈○中略〉
又云、學體療者、限七年學、少小及創腫者各五年成學、耳目口齒者四年成、針生七年成、〈謂、此皆習業及講義之年限、其讀文之二年、皆在講義之外、故上條云、在學九年无成者、退從本色、此爲七年成業者、唯擧一色、即其餘創腫及耳目等、在學六七年无成者亦須准退也、〉業成之日、令典藥療業 術優長者、就宮内省、對丞以上、精加校練、〈謂、此不必判官以上、皆悉相待、然後校試、若有輔以上一人及判官一人者、亦得對試也、依學令、欲出仕者、試問大義十條、得八以上擧送、即於此條、亦准學生也、〉具述行業〈謂、方正淸脩爲行、事學療治業、〉申送太政官、〈○中略〉
又云、醫針生初入學、皆行束脩禮、一准大學生、其按摩呪禁生減半、
又云、敎習本草、素問、黄帝針經、甲乙、博士皆案文講説、〈謂、案文猶文、其略餘經者、准量須知、〉如五經之法、〈○中略〉
又云、醫針生、按摩、呪禁生、專令業、不雜使、〈謂、旬假、及田假授衣假等、并准大學生、〉

〔續日本紀〕

〈十聖武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0690 天平二年三月辛亥、太政官奏偁、〈○中略〉又陰陽醫術及七曜頒暦等類、國家要道、不廢闕、但見諸博士、年齒衰老、若不敎授、恐致業、望仰吉田連宜、大津連首、御立連淸道、難波連吉成、山口忌寸田主、私部首石村、志斐連三田次等七人、各取弟子、將習業、其時服食料亦准大學生、其生徒陰陽醫術各三人、

〔享祿本類聚三代格〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0690 太政官符〈○中略〉
一可定受業師料數
右造式所起請云、案太政官承和五年六月十五日符云、天平寶字元年十一月廿二日勅書云、諸學生等被任之後、所給公廨、一年之分可本受業師者、今被右大臣宣云、奉勅、徒説章程、輟而不行、論乎治道、理不然、但全取一年俸、物情難和、分析之事宜節級、須大國二百束、上國百五十束、中國百束、下國五十束、毎年拘留、隨國所一レ出、交易輕物、附貢調使、博士料送大學寮、醫師料送典藥寮、縱雖非業醫師、除大學諸博士及醫師等兼任之外、不在國兼任、亦復准此、永以爲例、若有未進者留使返抄者、今按件格、依國大少其率法、而今一分所給公廨、或國不百束、或國有千束、全守大少之法、事乖平均之旨、伏望計給數、割十分一、將送納者、從三位守大納言兼左近衞大將行陸奥出羽按察使藤原朝臣基經宣、奉勅依請、
貞觀十二年十月廿五日〈○又見三代實録

〔延喜式〕

〈十八式部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0691 凡陰陽寮諸生典藥寮醫生預考、并免徭役

〔延喜式〕

〈十八式部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0691 凡雜色之輩、願醫寮、下典藥寮醫術、其學生准大學生例、聽醫生

幕府醫學館 C 諸藩醫學館

〔杏林雜話〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0691 享保中、見宜〈○大坂人、姓古林、〉有時譽、 官特命開書院( ○○○○○○) 於神田橋門外、講醫經於其中、使都下醫生聽之、後移之於高倉地云、〈高倉、即今昌平黌地、〉

〔憲敎類典〕

〈四ノ十醫學館〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0691 明和二乙酉年十二月七日
松平右近將監殿御渡
醫學館( ○○○) 神田佐久間町 〈奧醫師〉多紀安元
右安元義、此度相願、右之場所〈江〉醫道致講釋、御醫師之子弟、并陪臣醫師、町醫師、總而醫道ニ志之輩、右學館〈江〉罷越候儀、勝手次第之事、
右之趣、寄々可相達候、

〔日本敎育史資料〕

〈十九醫學〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0691 時還讀我書讀録拔抄
醫ノ學校ハ、中古兵燹ヨリ、其設廢替シテ建橐已來モ、此事特リ缺典ニ屬セシ故、玉池府君〈○多紀元孝〉深クコヽニ概シ、志ヲ發シテ、コレヲ草創シ、藍溪府君〈○多紀元孝子安元〉ヨク其業ヲ紹構シテ、遂ニハ官庠トナシ玉ヒテ、洋々乎トシテ、其盛ナルヲ極ルニ至ル、雪霜稍移リ、耆宿凋落シテ、今ハ兩府君經營ノ短矱ト、其功勞トヲ知ルモノ少シ、仍テ之ヲ家牒ニ按ジ、マタ之ヲ叔父山崎菁園君ニ質シテ、茲ニ其概ヲ擧テ、子弟ヲシテ欽仰セシム、抑々其綿蕝ハ明和二年乙酉ノ歳ニテ、官ヨリ神田佐久間町二丁目司天臺ノ舊地ヲ借セラレ、始テ醫學館ヲ造リ、〈文化三年丙寅ノ大火後ヨリ、地ヲ今ノ新橋ニ移サレテ、此地ハ秋田候邸ノ替地トナレリ、今ハ轉ジテ旗下ノ士ノ邸トナレリ、〉 躋壽館( ○○○) ト名ヲ命ズ、其結構ハ表門アリ、〈外來ノ者此ヨリ出入ス、和泉橋東ノ河岸ヨリ北ヘ入ル、小街ノ行キアタリナリ、〉裏門アリ、〈館中常住スル者是ヨリ出入ス、即余ガ家ノ門ナリ、津候ノ表門ト町家ヲ隔テ相對セリ、〉中門アリ、〈生徒往來、コレヨリ出入ス、〉擬泮水并橋アリ、講堂アリ、〈内ニ神位アリ、朝夕講説祭祀此所ニテ行フト、〉客廳アリ、〈諸生ヘ法令ヲ掲告シ、又ハ官醫等貴客迎接所ナリ、〉食 堂アリ、〈諸生コヽニ飮食ス〉書庫アリ、〈醫書ニ限ラズ群書ヲ置ク〉藥園アリ、〈時節ヲ以テ草木ヲ培養ス、〉學舍アリ、〈常住ノ諸生ヲ居ラシム〉遊息軒アリ、〈外來ノ生徒コヽニ於テ講習ノ聞覆審ス、上ノ間ハ官醫、中ノ間ハ列國醫員、下ノ間ハ市井醫員ト定ム、〉都講學舍アリ、敎授學舍アリ、〈都講敎授ノ憩フトコロナリ、敎授ハ句讀ヲ授ク、〉此外總理等ノ居宅アリ、館主ハ裏門ノ内ニ住ス、敎導ノ方ハ、本草經、素問、靈樞、難經、傷寒論、金匱ノ六部ヲ、毎日輪講ナサシメ、都講コレヲ折哀シ、其他ノ書ヲモ論講シ、更ニ經絡、緘灸、診法、藥物、醫案、疑問六條ノ會ヲ設ケ、各々ノ都講コレヲ敎導ス、醫案疑問ハ文辭ニ預リ、其餘ハ皆事ニ就テ之ヲ傳フ、診法ハ、鄙賤ノ治ヲ請フ者ヲ、都講先診シテ、其後諸生ニ診セシメ、習熟セシム、其講例ハ、諸書皆原文ヲ用ユ、解説ハ一家ノ註ヲ定メテコレヲ取リ、講師己ノ所見ヲ説クトキハ、據トコロノ解説了テ後、之ヲ及ボスナリ、其人ニハ總理アリ、〈學生一切ヲ掌ル、儒士井上蘭臺ナドヲコレニ充テラレシコトアリトゾ、〉都講アリ、〈講會ノコトヲ日々司ル〉敎授、〈毎朝句讀ヲ授ク〉藥園監アリ、書記アリ、學舍諸生ハ三等ニ分テリ、〈治學兼備ヲ上等トシ、治足リテ學不足ヲ中等トシ、學足リテ治不足ヲ下等トス、〉辨事アリ、〈館中一切藥物書籍錢榖ノ計ヲ掌ル、〉童子アリ、〈驅役ニ使フ〉各其任ヲ守ル、其規條ハ講堂、都講學舍、諸生學舍、食堂、文庫、各其壁ニ掲示セリ、其藏書ハ、古今醫書ヨリ、經史子集ニ至ル迄コレヲ藏蓄シ、總理之ヲ司リ、生徒ノ借覽ニ備フ、其祭祀ハ、春秋二仲ヲ用ユ、此皆曾祖考ノ定メラレシ所ナリ、〈金峨井先生ト商量アリシト、墓表ニ見ユ、○中略〉講例ハ舊式ニ遵ヒ、六部書ヲ定トシ、先敎諭ハ素問ヲ講ジ玉ヒ、山田圖南、桃井陶庵ハ傷寒論ヲ講ジ、〈圖南ノ門人笠原雲仙、中林俊庵代講ス、陶庵ハ田沼候ノ醫ナリ、〉目黑道琢ハ内經難經等〈驪恕公是ナリ、其門人曾根惟中、西村玄周代講ス、〉服部玄廣ハ靈樞〈淸水公ノ醫ナリ〉加藤俊丈ハ難經、〈市醫ナリ〉田村元雄、太田長元ハ本草〈曾根昌啓等代講〉小坂元祐、岡田道民ハ經絡ヲ講ゼリ、〈道民ハ井伊候ノ醫ナリ〉儒家ニハ金峨先生、吉田篁墩、龜田鵬齋、繼デ錦城先生皆講アリ、大抵百日中一部ノ書ヲ卒業セリ、日々三人宛講授セリ、内外ノ諸生總テ二三百人ニ及ベリ、皆互ニ研究シテ辨難セシトゾ、

〔憲敎類典〕

〈四ノ十醫學館〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0692 安永二癸巳年五月七日
酒井石見守殿御渡
御目付〈江〉
寄合醫師多紀安元儀、 醫學館類燒( ○○○○○) ニ付、再建致し、醫道講釋、是迄之通取立度候得共、自力に及兼候ニ付而、江戸中醫師より、寄附銀有之候樣ニ致度旨相願、尤當時學館〈江〉出席不致面々も子孫に至り、出席も可致ニ付、何れとも年々壹貳匁づゝ寄附有之候樣相願候ニ付て、願之通申渡候、右寄附銀員數、御醫師之分は存寄次第、其外御醫師之弟子、并陪臣醫師、町醫師、總而江戸中醫師よりは、貳匁を限り、年々寄附銀差遣候樣可致候、
右之通向々〈江〉可相達候、尤西丸御目付〈江〉も可通達候、
五月

〔日本敎育史資料〕

〈十九醫學〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0693 舊幕府醫學館ノ設立、及同館ノ形状等ヲ概記センニ、該館ハ幕府四百有餘家ノ醫官、醫學ヲ講ズル爲ニ設ル所ニシテ、初ハ皆此館ニ在ツテ勉學セザル醫官ハナシト云、近世〈文化以來〉素食遊怠ノ者多ク、此館ニ入テ勉學スル者減ジタリ、然レドモ係ル行迹ノ者ハ、人之ニ齒スルヲ厭ヒ、有志者ノミ此館ニ入ルコトヽナレリ、〈○中略〉醫學生徒ハ、寄宿寮ト云ヘル一舍アリ、常ニ三十名ヨリ五十名ノ生徒アリ、生徒ハ官醫ノ子弟ニ限ル、

〔半日閑話〕

〈十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0693 安永二年癸巳九月廿四日
申渡之覺
半井出雲守
今大路安之助
〈名代〉川口又十郎
醫術之儀は、人之命ニ掛り候事ニ而、壹人も用立候者出來候義、諸人の爲にて、醫を業と致候者は、別而心掛候義ニ候、安元醫學館取立候ニ付而は、彌相繼候樣、醫道心懸候者倶に、寄附銀等いたし、 廣行はれ候樣可取計所、兩人義、醫術修行之場所出來候義、不得心之趣相聞、不埒之心得ニ候、尤學文醫道之義ニ付、何流に限り可弘と、安元申候ハヾ、其段ハ決而相成間敷事ニ候、兩家共子供之内にも世上〈江〉敎させ、可然厚學之者も候はゞ申談、學館〈江〉も差出し、講師之内〈江〉も差加候程ニも可致義ニ候處、却而醫學館〈江〉弟子共差出間敷と申儀は合候間醫廣く相學候義無用と存候所存と相聞、典藥頭家におゐて、別而不埒之心底ニ有之段可申聞旨、御沙汰ニ候、
右之趣、酒井石見守殿於御宅、昨夜御同人被仰渡候、御目付村上三十郞相越、
九月廿四日

〔憲敎類典〕

〈四ノ十醫學館〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0694 天明六丙午年正月十二日
安藤對馬守殿
多紀安元、 醫學館再建( ○○○○○) 有增出來ニ付、以來毎年二月中旬より、五月中旬迄、百日之内、諸醫師之子弟、并醫道に志有之候者は、醫學館之内學舍之中ニ爲止宿、醫學敎育致し候間、望之者は、可罷越候、仕方は左之通候條、其旨を致承知、猶又前廣ニ、學館之役人被懸合、委細之儀納得之上、敎育可之候事、
一當午年二月中旬より、五月中旬迄、百日之内敎育興行ニ付、諸醫家若年之輩出席、或は致止宿敎育受度輩は、陪臣は其家之役人、町方は名主町役人差添、正月晦日迄、醫學館〈江〉罷越、學館役人〈江〉懸合、請人を立、書付差出候上にて、敎育可受候事、
一銘々之居宅より、通ひに而出席致度輩は、正月晦日迄、親兄弟又は身寄之もの差添、學館役人〈江〉掛合置、出席可之候、尤百日之内無懈怠出席、講釋稽古事等遂承可申旨、證人より書付取之候迄に而、出席致させ候事、
一宅より通ひ、致出席候輩は、毎日學館へ出入之刻限を相改め、帳面に留置候事、
但若年之輩、學館出席之體ニ申なし、遊山等有之候而は相濟不申候、万一左樣之儀相聞へ候はゞ、相糺候上、其段證人〈江〉相達、學館出入之儀を差留候事、
一百日之内醫學館におゐて、講釋會讀ニ致候書物之儀は、本草、靈樞、素問、難經、傷寒論、金匱要略にて候、右六部之書は、醫書之中之古書に而、何れの流義たりとも、醫學之基ニ候間、醫家子弟講説を遂承不申候而は、相濟不申事ニ付、致日割置、百日之内何れも全部承遂させ候樣ニ規則を立置候事、
一經絡穴處取り等のわざを以、相傳候類は、是又右日割之内別會を立置、百日之内相濟候樣ニ規則を立置候事、
但本草、靈樞、素問三部は、卷數多候間、常體講釋會讀等致候てハ、兩三年も掛り候ニ付、承候若手之輩など長候間退屈致し、一部の始終は遂承不申者も相見へ候、依之右之趣規則を立置候、尤傷寒論、金匱要略、難經之三部、卷數少候ニ付、日限之内半頃には、講釋相濟申候ニ付、其後は甲乙、千金、外臺病源等、或は格致http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000017777.gif 洄之類承り候もの、望に任せ、會讀又は講釋など可致候事、本草別而卷數多候間、毎朝會讀ニ致し、靈樞、素問は、隔日講釋ニいたし、閑日下見復り見も相成候樣ニ、日取を立置候事、
一學館之内、學舍ニ致止宿敎育を請候輩は、右日限之内は、醫學館門外へ、決而出し不申候、尤役人を附置、晝夜相廻り嚴敷禁制致し候事、
一飮酒諸勝負、其外遊藝は勿論、總而醫學之助ニ不成儀は、詩歌たりとも堅禁制之事、但餘念雜慮有之候ては、志一圖に成不申候故、學業を遂不申候間、是又役人を付置、嚴敷禁制致し候事、
一右日限之内、學館内學舍之中、止宿致候輩、相應之身上ニ候はゞ、自分賄ニ致可申候、尤勝手道具 等は、不自由無之樣ニ、學館ニ而取計候事、
一醫學殊之外執心候得共、貧窮ニ而、其志を遂不申輩、又は師匠父祖ニ離、致世話遣候者無之、習業成り兼候ものは、名主村役人より申立、證人請人を立候へば、承糺候上、朝夕之食事等も、學館より賄遣、書物又は夜具等迄も、日限之内貸遣致敎育候事、
一學館舍中致止宿候輩、若立置候禁制を破候もの、第一不出精者は、役人吟味之上、證人請人等を呼寄、其段相達し、學舍中ニ差置不申候事、
但右體之輩、學舍中ニ有之候而は、致出精候輩迄、其風おしうつり候間、早速證人〈江〉引渡、詫候とも決而免不申候事、
一總而於醫學館中、講釋并會讀致し候輩へは、醫學館に而、夫々手當有之候間、敎導を請候輩より、聊之禮式たりとも、請之不申候事、
右は多紀安元申立候ニ付相觸候、此外之義は、學館〈江〉罷越、役人〈江〉掛合可承候、勿論以來毎年右之通りに候事、
正月
右之通可相觸
天明六丙午年正月廿一日
安藤對馬守殿御渡
御目付〈江〉
醫學館諸醫師より、寄附物相集高之義、安永二巳年被仰出下置候、初年は相應ニ集候處、追々減少仕候、當時敎育仕候手當之儀は、三四年來之集高を以相考、仕方相立候義ニ御座候、然ル處若此以後、猶又減少仕候而は、甚迷惑仕候、一體是迄之樣子相考候處、町方抔別而手廣之事に付、取締無 御座候故、洩候者も多有之義と奉存候、依之可相成儀に御座候はゞ以御威光取締出來仕、以來此上寄附物減少不仕候樣ニ、御聲掛り被成下候樣仕度奉願候、以上、
巳十一月 多紀安元
寛政三辛亥年十月
醫術家業之者、出精いたし候樣、近來度々御世話も有之故、無油斷修業可仕候事候得共、其内々は、相應之師も無之、又はひろく療治等可致存候而も、病家數少く、或は施藥等之費行屆兼候類ニ而有之候而も、不止事、修行成就不致者も有之哉候、依之此度醫學館おゐて、夫々世話致し候もの被仰付候間、出席之面々より、醫學治療相談致し可申候、品々寄施藥等之儀も出來候之樣、手當被成下候、寄合小普請之御醫師中を始め、子弟之類、且當時御奉公等勤候ものも、篤志之輩は一同出席可之、總而醫職之分至而重き事に付、精々厚く鍛煉有之度儀候、乍然流儀見識等一同ニは無之事ニ候間、入學之外、出席之面々は、聞見を廣め、治療之相談等致し候譯ニ付、心得たがひ無之、彼我を存ぜず、相互に學業治術研究いたし、其道精熟候之樣可心得候、尤諸科同前たるべき事、
典藥頭、并奥勤之面々、法印法眼之御醫師之分は罷出候ニ不及候、乍然已達之上ニ而聞見を廣め候之儀は、第一事に候得ば、出席可仕と存候ものは、勝手次第之事候、其餘出席致し難き面々は、其譯支配中〈江〉可書出候事、
右之通、總御醫師中〈江〉可相觸候、
寛政三辛亥年十月廿七日
松平越中守殿御渡
大目付〈江〉
多紀廣壽院、醫學館、毎年百日之間、諸生敎育之義、當分相止候、以來日々購書等有之候間、陪臣町醫等も、勝手次第罷出可聽聞候、尤も委細之儀は、醫學館〈江〉可承合候、且又是まで年々醫學館〈江〉寄附銀致し來り候向々も、以來差出ニ不及候、
右之通、可相觸候、

〔明良帶録〕

〈世職〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0698 醫學館留守居役
三十俵二人扶持被下、六人相詰る、内四人他よりつとめ、内二人持ニて居付つとめ、
同御門番
御目附支配無役より出で、三十俵一人半扶持、御役扶持添、
同帳附
御門番と同じ役にして、御役料有之、但七人程、
同留下役
諸向より出役、醫學館御祭禮八月十二月にて日不定、但冬至ニは御祝有之、衆醫出仕有之、

〔醫學館附地所一件〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0698 天保二年卯三月廿日、半八郎を以、善右衞門殿〈ヘ〉御下ゲ、
年番與力〈江〉
醫學館附町屋敷小石川片町、深川平野町地面貳ケ所共、上り地相成、右爲代龍閑町火除土手築立殘地之内、上納地より、壹ケ年金六拾兩宛永續爲御手當下候段、肥後守殿被仰渡候、依之右金高年々正月七月兩度ニ、町年寄共方へ取立、御役所より相納候筈ニ候間、受取醫學館〈ヘ〉可相渡候、
卯三月

〔元治二年武鑑〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0698 西洋醫學所( ○○○○○) 池田多仲

〔文部省第一年報〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0698 東京醫學校
學校位置 本校ハ、第一大學區東京第五大區三小區神田和泉町一番地津藩邸舊址ニアリ、沿革 明治元年六月、舊幕府建設ノ 醫學所( ○○○) ヲ以テ醫學校トナシ、前田信輔ヲシテ其事務ヲ理セシメ、舊幕府ノ醫學敎授職坪井爲春、島村鼎、石井信義等ヲ擧テ助敎トナシ、以テ生徒ヲ敎育セシム、〈○中略〉八月舊幕府ノ醫學館ヲ種痘所トナス、尋デ 小石川養生所( ○○○○○○) 、及 白山( ○○) 、 九段( ○○) 、 番町( ○○) 、 駒場等ノ藥園( ○○○○○○)モ、亦醫學校ノ所管トナル、
○按ズルニ、江戸ノ種痘所、後ニ西洋醫學所ト稱ス、現今醫科大學ノ濫觴ナリ、事ハ種痘ノ條ニ詳ニセリ、

〔皇國醫事沿革小史〕

〈後編第六期〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0699 安政四年〈紀元二千五百十七年〉幕府松本良順ヲ長崎ニ遣リ、和蘭海軍軍醫ドクトルポムペヲ聘シ、就テ醫學ヲ傳習セシム、良順、當時ノ俊傑ヲ率イテ之ニ學ブ、佐藤尚中、岩佐純、司馬凌海、佐々木東洋等、皆ナ其敎ヲ受ク、万延元年、〈紀元二千五百二十年〉良順幕府ニ請フテ、彼國ノ病院ノ制ヲ諮詢シテ、新ニ病院ヲ設ケ、 養生所( ○○○) ト名ケ、專ラ治療ノ事ヲ務メ、傍ラ醫學ヲ講習ス、文久元年〈紀元二千五百二十一年〉ニ至リ、更ニ和蘭陸軍軍醫ドクトルボードインヲ聘シ、名ヲ 精得館( ○○○) ト改メ、内校舍ヲ設ケ、大ニ生徒ヲ集メ、良順、外國敎師ヲ輔ケテ之ヲ敎授ス、科目整然秩序アリ、世始テ醫學ニ理化、解剖、生理、病理、藥劑、及ビ内科外科等ノ順序階級アルヲ知ルト云フ、是ヲ我邦歐洲ニ倣フテ醫學科目ヲ定メ、又病院ヲ設立スル嗃矢トス、而シテ外國ノ醫學敎師ヲ聘スルハ、實ニ之を始トス、明年幕府、精得館ノ學生伊東玄伯〈玄朴ノ嗣後方成ト改ム〉林研海〈洞海ノ男後紀〉ニ命ジテ、和蘭國ニ留學セシム、之ヲ歐洲へ醫學留學生ヲ派遣スルノ權輿トス、今日醫學ノ隆盛ヲ視ル、實ニ爰ニ淵源スト云フベシ、

〔文部省第一年報〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0699 長崎醫學校( ○○○○○)
學校位置 本校ハ、第五大學區長崎縣下第一大區二ノ小區長崎村小島鄕ニ在リ、〈校内幅員二千八百十二坪八合四勺〉
沿革 文久元年九月、長崎奉行岡部駿河守、及醫官松本良順等、和蘭醫官ポンペニ諮詢シ、彼ノミリタイレホスピタール〈軍事病院〉及ヒユルヘルホスピタール〈都人士病院〉ノ制ヲ斟酌シテ、設立スル所ノ病院ナリ、始メ 養生所( ○○○) ト稱シ、傍ラ醫學ノ本科ヲ講肄ス、後チ 精得館( ○○○) ト改稱シ、蘭人ポードイエンヲ敎師トス、後同國人マンスヘールドヲ以テ之ニ代ラシム、慶應元年十月、物理、化學ノ敎場ヲ增築シ、蘭人ハラタマヲ以テ、其學科ヲ敎授セシム、明治元年維新ノ際、長與專齋ヲ以テ學頭トス、其費用出納ノ如キハ、姑ク舊ニ依テ、長崎府廳ノ處分タリ、

〔日本敎育史資料〕

〈四舊福井藩〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0700 福井醫學所( ○○○○○)
沿革 福井醫學所ノ基始タルヤ、文化元年十月、國守ノ侍醫淺野道有ナル者、東都ニ於テ、國守隨行ノ執法官、思構書壹册ヲ呈シ、醫學所設立ノ須要ナルヲ獻議ス、 文化二年二月、侍醫一統ヨリ、更ニ醫學所設立ヲ請願シ、同三月設立ノ命アリ、醫學所及ビ藥園ヲ設ケ、侍醫一統ヲシテ之ニ與ラシメ、醫學所ノ名稱玆ニ至テ始テ定ル、則福井鍛冶町淺野道有ノ宅ニ於テ、醫學所ヲ假設シ、開筵セリ、淺野道有妻木榮輔ヲ以テ擔任者トシ、醫員一統、并ニ侍醫ノ子弟ヲシテ醫術ヲ研究セシム、同年六月、醫學所開筵式執行アリ、侍醫及ビ醫員一統、十德著用出席シ、神農扁鵲仲景ノ畫像ニ神酒ヲ供シ、祭文ヲ誦讀シ、學監總管等臨場シテ祝酒ヲ賜フ、而シテ國守ノ示言ヲ以テ、醫學所ヲ濟世館ト稱ス、 文化六年十月、土居ノ内海福勘助拜地ノ内區劃下賜アリ、新ニ濟世館ヲ建築シテ、醫學所ヲ移シ開筵ス、其維持ハ醫員一統ノ賦課法ヲ以テシ、國守ヨリ亦其幾分ヲ補助ス、天保十四年三月失火アリ、寺社町役所ヲ延燒スルヲ以テ、假ニ濟世館内ヲ該役所トス、由テ同年四月、櫻馬場學文所へ醫學所ヲ移轉シ、同年九月、町役所建築落成スルヲ以テ、濟世館ニ復ス、安政二年一月、醫學所ニ除痘館ヲ附屬合併スルノ命アリテ、濟世館ヲ增築修繕シ、藥園地ヲ沒スルニ由リ、更ニ泉邸内ニ於テ、藥園地ヲ貸與セラル、安政四年二月、濟世館ノ敎則ヲ改正シ、半井仲庵、 勝澤一順ヲ敎授トシ、東都坪井信良ヲ聘シテ講師トシ、其他敎師數名ヲ置キ、醫師ノ子弟十三歳以上ノ者、七十餘名ヲ入學セシム、安政五年、製造人體ヲ歐洲より購求シ、益々敎授法ヲ盛大ニス、

〔日本敎育史資料〕

〈六舊山口藩〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0701 嘉永三年戌六月廿九日達
醫學所濟生堂( ○○○○○○) ト唱被仰付來候處、今度御詮議ノ趣有之、向後左之通唱被仰付候事、
好生館( ○○○) 右ノ通被仰付候事

〔日本敎育史資料〕

〈六舊山口藩〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0701 嘉永二年酉正月十八日達 能美洞葊
右唯今ノ御役ヨリ、醫學館頭取役被仰付、御用繁ノ節ハ當番ヲモ被差除、醫學一途引受ニシテ詮議被仰付
右役中各別之御心入ヲ以、御役人並ニ准ジ、長柄傘被差許候事、
同 赤川玄悅
右只今ノ御役ヨリ、醫學館會頭役被仰付候事、
嘉永二年酉八月〈日欠〉達 莊原芳庵
右只今ノ御役ヨリ、醫學館會頭取役被仰付候事、
同年同月〈日欠〉達
醫學館頭取役御詮議ノ趣有之、向後 醫學敎諭役( ○○○○○) ト唱候樣被仰付候事、
嘉永二年十月晦日伺 靑木周弼
此度醫學館御造立ニ付、他國生入塾ノ儀ハ、不仰付段、先達テ御伺書中ニ御刎紙相成居候處、是迄南苑醫學所ニ置テハ、師家入塾ノ分ハ、師家ヨリノ依願、會業ノ節同處ヘ罷出候儀被差免候、節角個樣結構ニ御造立被仰付候事故、諸國ニモ承及、追々爲研究尋來リ可申候、十里外罷越候上、失望仕候樣ニ御座候テハ、自然ト御事業不繁昌ノ基ニ可相成候、何卒御心入ヲ 以、師家入塾又ハ手寄來候部ハ、師家ヨリ度々御願可申上候間、醫學館へ罷出候丈ケハ、御許容被下候樣奉願候事、
本書願ノ通被仰付候事

〔日本敎育史資料〕

〈七舊和歌山〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0702 校名 醫學館( ○○○)
校舍所在地 始メ和歌山本町三丁目〈名草郡ニ屬ス〉ニ在リ、後和歌山湊雜賀屋町〈海部郡ニ屬ス〉ニ移轉ス、沿革要略 寛政四年、〈學習館擴張ノ翌年〉藩主德川治寶、侍醫竹田慶安、近藤健安等ノ言ヲ納レ、命ジテ本町三丁目ニ於テ、醫學館ヲ設置シ、學頭助講授讀等ノ敎官ヲ置キ、藩内市鄕醫師ノ子弟、及其門生ヲ敎授セシム、其後學館ヲ湊雜賀屋町ニ移轉シ、文化年間更ニ館舍ヲ增築シ、天保年間館内ニ施藥局ヲ設ケ、當直醫及藥劑醫ヲ置キ、貧民ニ施藥セシム、爾來其規模ヲ、變ゼズ、之ヲ保續セシガ、明治二年三月、藩政改革ノ際之ヲ廢止ス、〈○中略〉
規條
一學醫者、當先修四書六經以明聖人之道也、不聖人之道而暗孝弟忠信彜倫常行之道、雖吾醫經其蘊奥也、然此等書在學習館、日々購讀、則在此館、不其局、宜彼而學焉、一欲醫、先學儒、既學儒、則能讀書知字音、然吾邦之俗、古來讀醫書漢呉二音、與儒之専用漢音同也、故毎日自辰至午刻、授讀士爲初學授醫經
一諸子弟來請授業、則執事告之醫學師及局學士、出授業録其姓名産地及年月時日以藏之、一此館以德高學篤者貴、故雖人有貴賤之異、而席無上下之別、遊此館者、賤無貴、貴無賤、只宜謙遜
一素問、靈樞八十一難者、醫之大經大法在焉、十局之學、皆以此三經本、故毎日醫學師講之、周年而終、終而復始、學者當講究也、
一毎日講會、日中至黄昏而止、午未間會業、局學士莅之、未申間講經、醫學士任之、申酉間局學士附講、或使子弟有志者講一レ之、
一講習之業、正月十八日始、十二月十四日終、朔望佳節、并四月十六日、十七日兩日、九月十七日、七月十一日至十六日、皆缺業、
一會讀之式、局學士著席、執事座其傍、使諸生讀書問答、其法立三科目、曰訓讀、曰疑問、曰答辨、日日執事出牌使諸生各探取一牌、得牌背記科目者、當其席也、訓讀者讀一章訖、疑問者發問、答辨者辨之、問者答者不其任、則執事退之、辭請退則聽之、選於衆使之代焉、問者答者能勝其任、而諸生有餘疑、則就問者之、或別發明新義、則就答者之、答者能辨而問者不服、爭論不止、則學士辨正其義、凡義之難解者、皆當之學士也、
一産物會、春秋二時預卜一日而會焉、諸子各齎藥物難解者、或土産珍物來、互辨名實眞僞、審其氣味主能、當日缺他學業
一挨穴會、常時用木偶人經點穴、夏時使諸子各脱衣裳肌體、直就其身上經取穴也、脈流骨格、人各不同、株守寸法、而不其變、所謂按圖求驥而已、木偶引經、雖其益、而不直取身上之便且得其當也、
一醫案會、毎月二次、出案題論題、以試諸子之學力、諸子書對論藥案以呈焉、學士略加批評、各著甲乙、編成一册子、大凡議論正確、發明經義、審辨脈證、處湯有法、且文辭可觀者、此爲状元賞以册子、毎歳終則攷其篤學勤行及得册子之數席褒賞、
學局
一診候局 審望、聞聲、問切、按腹、察舌等診法、其書則脈經脈學之類、
一經輸局 明經絡、流注、兪穴寸法、兼主鍼灸導引按蹻等科、其書則甲乙資生之類、
一本草局 辨和華蠻産之異同眞僞、以明藥性之氣味主能、其書則本經綱目之類、
一運氣局 察五運六氣勝復之變、兼通天文暦算之學、其書則運氣論、天經或問之類、
一外傷局 辨外感六氣之病、其書則傷寒論温疫論之類、
一内傷局 辨内傷五臟虚損之病、其書則脾胃論、辨惑論之類、
一婦人局 明婦人胎産經月之病、其書則良方濟陰綱目之類、
一小兒局 明小兒驚疳痘痲之病、其書則直訣活幼之類、
一瘡瘍局 別諸家之異同、明紅毛之藥術、兼主眼目咽喉口齒金鏃折傷等科、其書則正宗精要之類、
一醫案局 出醫論藥案譯文等題、以試諸子之學力、兼主文辭之學、其書則扁倉傳、薛案孫案之類、
右十局者、醫學之科目、學通十局、明素靈八十一難之旨者爲業既成矣、

〔醫道二千年眼目編〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0704 自序〈○中略〉
余十八ノ年、今醫氏ノ術ニ疑アリ、二十二三ノ年、醫斷ヲ得テコレヲ讀ム、〈○中略〉コレヲ藩内ノ先醫ニ問ヘドモ、醫タルモノ、一タビコレヲ聞ケバ、目ヲ張リ、唇ヲ反サヾルモノナシ、余一日趨庭ノ餘、コレヲ先子〈○村井棒壽〉ニ質、先子諭シテ曰、小子大ヒニ疑フコトアラバ、又ソノ大ヒニ疑ヲ以テコレヲ讀ムベシ、〈○中略〉謹ンデ其命ヲ奉ズ、コレ寶暦丁丑〈○七年〉ノ年ナリ、我藩〈○熊本〉剏テ醫學ヲ興ス、 再春館( ○○○)ト云、大ヒニ藩内ノ醫人ヲ造ル、先子ヲシテ醫學敎授タラシム、學ヲ受ケ業ニ肄フノ徒、凡ソ三千有餘人、靡然トシテソノ風ニ嚮ハザルモノナシ、盛事ト謂ハザルベケンヤ、先子老ヒ且ツ病アリ、ソノ職ヲ辭ス、次ヒデ又世ヲ去ル、辛巳余年二十有九、府命ヲ奉ジテ醫館ノ事ヲ掌ル、醫生ヲ造ルノ任タリ、此時ニ當ツテ、醫斷ノ言半ハ信ジ、半ハ疑フ、素問九靈ノ旨モ、亦或ハ取リ、或ハ取ラズ、 諸生ノ進マザルモ、亦余ガ講ズル所純一ナラザレバナリ、遂ニソノ職ヲ辭ス、コレヨリサキ、余年二十又七、書ヲ京師ノ醫官東洋山脇先生ニ奉ジテ、眞醫ノ道ヲ問フ、疑ノ大ナルモノヲ決セント欲シテナリ、余ガ書ニ曰、我ガ藩有三千醫人、而無一人醫人也、非醫人也、無眞醫也、先生又余ヲ賞シテ、書問往來、明年ソノ高足弟子、永富鳳介ヲ遣シテ、余ガ醫事ヲ試ミシム、ソノ年先生モ亦逝矣、コヽニ於ヒテ、千里獨行、笈ヲ負フテ、東ノ方京師ニ遊ブ、讃州友人合田求吾ヲ紹介トシテ、東洞先師ニ謁ヲ請フ、先師コレヲ許ス、コレヨリ日々先師ノ膝下ニ拜趨シテ、初メテ古疾醫ノ道ヲ聞クコトヲ得タリ、コヽニ於ヒテ、十數年ノ一大疑城、釋然トシテ氷ノ日ヲ得テ解ルガ如シ、此年方極、類聚方ノ二書彫印出シ賣ル、余コレヲ請フテ、マサニ西ニ歸ントス、別ヲ先師ニ告グ、先師時ニ小子杶ニ諭シテ曰、我ガ古疾醫ノ道、亡ブルコト業ニ既ニ二千年ニ垂ントス、コレ一人二人一代二代ノ力ヲ以テ、コレヲ復スルコト難シ、子モシ鎭西ニ歸ラバ、翁ガ言ヲ以テ、コレヲ醫人ニ傳ヘヨ、子ガ知ラザル所ハ、翁已ニコレヲ知ル、翁ガ足ラザル所ノモノアラバ、子勉メテコレテ補ヘ、先師涙シテ余ヲ送ル、東洞先師、塾長三好龍輔、及ビ余ガ徒、赤星見淳二人、側ニ在リテコレヲ聞ク、小子杶謹ンデ先師ノ命ヲ奉ジテ、泣ヒテソノ膝下ヲ辭ス、コレヨリ孜々汲々トシテ、日夜弗懈、古疾醫ノ道ヲ、我ガ藩ニ唱フ、藩内靡然トシテ風ニ嚮フ、〈○中略〉 邨井杶識

〔政談〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0705 御醫者ノ子供夥ク有テ、二代目ヨリノ大形御用ニ立ズ、費成者也、親々ハ療治ニ隙ガ無ケレバ、子供ヲ敎可立樣ナシ、小身ナレバ、學文ニ往スルニハ、供人ノ入ニ困リ、彼是トシテ無學ニ成、人賴マネバ療治ヲ仕習フベキ樣無、偶療治ヲ能スル人モ、無學成故、肝心ノ時ハ仕損ズル物也、總ジテ人ノ性質學文ハヨケレドモ、療治ノ不得手成モ有、左樣ノ人ヲ師範ニ被仰付、學寮ヲ立テ、何レモ子供ヲ遣シテ學文サセ、大體ノコトヲモ覺タル時、田舍ヘ遣シ、療治ヲ仕習ハスル樣ニアラバ、何レモ大抵御用ニ立程ニハ可成也、是等モ上ノ御世話ナクテハ、自ラ御用ニタ タヌ者多カルベキ也、

醫塾

〔療治茶談〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0706 總論
諸國ニ於テ、講堂ノ經營アルヲ見聞スルニ、皆悉ク儒學校ノミニテ、 醫塾( ○○) ナシ、サテ今ノ時勢ヲ以テ、其損益ノ處ヲ考フルニ、醫塾ヲ設テ、醫學ヲ精勤サスル、國益多キニハシカズ、

〔先哲叢談續編〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0706 向井靈蘭〈○中略〉
加賀上卿奥村氏、曁公族大夫前田氏、嘗嬰重病、厚聘請其治療、無幾全愈、加賀侯大悦、將毎月給百口糧而遇以賓禮矣、特賜金千兩以爲營 家塾( ○○) 之資、靈蘭以衰老其廩俸、侯強贈金、不峻拒而受之云、我土崇重醫生遠過儒生、優待之厚、常出格外、雖然未嘗聞千金而謝其勞、靈蘭逢絶無希有之際、實可千歳之奇遇矣、〈○中略〉
靈蘭嘗聞、先是藤惺窩於都城外、將起學舍授諸生、竊與京尹板倉勝重議區畫、遂上疏、官許其請、相地擇處、會有浪華之役、其擧不果、寛文中將再建議、或有轂其事、遂上疏言施爲、官將其所一レ請、會有阻格者、不成而罷、

〔東洞先生行状〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0706 先生、諱爲則、字公言、安藝人也、〈○中略〉寶暦壬午歳、〈○十二年〉先生年六十一、夏五月、是其生辰也、親戚門人上壽、先生擧觴而謂衆曰、吾年六十一、胤子幼弱、未弟子達其道、若大開家塾育生徒、傑者出其中、雖然吾之貲財不之、自今以往、我將貨殖、於是益儉其身、效陶朱公之法、貨殖數歳、家累千金、乃求便利之地、營宅於皇城西門外、 未家塾也( ○○○○○○) 、〈○下略〉

〔拙堂文集〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0706 順正書院記
平安新宮凉庭翁、以喎蘭醫法鳴海内、而篤信聖人、耽讀憤典、嘗歎曰、京師首善之地、而學校久廢、豈非大缺典歟、乃出私財、營書院於洛東瑞龍山下、建祠祀宣聖及醫祖、講堂生舍以下悉具多貯漢蘭書籍於其中、以待生徒之乏資者、京尹間部侯嘉之、親書扁曰 順正書院( ○○○○) 、林祭酒又書名敎樂地四大字之、并掲其楣、並翁之志也、翁本山陰人、學醫徒於京師、其業大行、糈入山積、而惡衣菲食、自奉甚儉、積而能散、賙急救困者不勝計、今又有此擧、殆費萬金、拮据未已、謀廣置學田之久遠、非學之篤信道之深、安能如是哉、

試驗 C 考課

〔政事要略〕

〈九十五至要雜事〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0707 又〈○醫疾令〉云、醫針生、博士一月一試〈謂、略按摩呪禁生者、案文須知也、〉典藥頭助一季一試、宮内卿輔年終總試、其考試法式、一准大學生例、〈謂、考猶試也、即季及旬試并斟量決罰等類、皆准大學生例、其有頻三下者、亦准學生解退也、〉若業術灼然、過於見任官者、即聽補替、〈謂、是未業成年限、而至年終試、知業術過見任者、退舊人以補新生也、案下條、經雖不第量堪病者、聽醫師、故業術灼然者、雖出身、猶亦得用、〉其在
學九年無成者、退從本色、〈○中略〉
又云、有私自學習解醫療、投名典藥、〈謂、有人自學習、欲以出身者、即送辭牒、向典藥寮、親自請試之類也、〉試驗堪者、聽醫針生例考試
〈謂、依上條、典藥試驗、申宮内省、省更校練、申太政官、是爲醫針生例、○中略〉又云、醫針師、典藥量其所能、有病之處、遣爲救療、〈謂、此據五位以上、不六位以下也、〉毎年、宮内省試驗其識解優劣、〈謂、唯議其〉〈優劣、不必試一レ經也、〉差病多少、以定考第、〈謂、於典藥所定考第、宮内更押校、非是宮内越定其考第、〉又云、醫針生、業成送官者、式部覆試〈謂、宮内申官、官下式部、此宮内先已校練、故云覆試也、〉各十二條、醫生試甲乙四條、本草脈經各三條、針生試素問四條、黄帝針經、明堂、脈決、各二條、其兼習之業、醫針各二條、問答法式、並准大學生例、〈謂、考課令、擧經文及注問、其答者、皆須明義理、然後爲上レ通、是其雖兼習之業不全通、而於餘經八者、亦爲得第、不論語孝經、以爲不第也、〉醫生全通、從八位下叙、通
八以上、大初位上叙、其針生降醫生一等、不第者退還本學、〈謂、此據業成年限、故云還退本學也、〉經雖不第、而明於諸方、量堪病者、仍聽醫師、〈謂、雖通八之科、而知病合藥之術、故聽典藥醫師等、亦不仍補侍醫、○中略〉又云、醫針師等巡患之家、所療、損與不損、患家録醫人姓名、〈謂、上條量其所能、有病患之家、遣爲救療是也、〉申宮内省、〈謂、省更下典藥寮、令考状、〉據爲黜陟、諸國醫師亦准此、

〔令集解〕

〈六職員〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0707 凡國博士、醫師、國別各一人、〈中略 又條 醫疾令 云、凡國醫生毎月醫師試、年終國司對試、并明定優劣、試有通者、隨状科罪、若不師敎數有僣犯、及課業不充、終無長進者、隨事解黜、即立替人者、是以知可敎授、并毎月試哉何、〉

〔令集解〕

〈六職員〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0708 攝津職帯津國〈 中略〉 醫疾令云、凡國醫生業術優長、情願入仕者、本國具述藝能、申送太政官、〉

〔延喜式〕

〈十九式部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0708貢人及雜色生〈○中略〉
其及第者申奏叙位如前、〈試諸國博士醫師亦准此儀、但不官、〉

〔延喜式〕

〈十八式部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0708 凡試白讀諸生者、除大學典藥擧之外、非勅宣奉行

〔類聚符宣抄〕

〈九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0708 醫生試〈試博士附出〉
醫生日了紀朝臣有行
右中納言從三位藤原朝臣山陰宣、奉勅、件人宜式部省針生試之者、仁和三年二月十日 少外記紀有世〈奉〉仰少録時原利行
左近衞醫師時原興宗
左大臣宣、件人宜彼道學生之博士者、
延喜五年七月五日 少外記紀延年〈奉〉
右兵衞醫師菅原茂滋
右左大臣宣、宜件茂滋醫道學生等博士者、
延長八年六月二十六日 大外記伴宿禰久永〈奉〉
先例宣旨、以左衞門醫師正六位上菅原朝臣爲名試博士、課試生徒状、右謹撿先例、道分兩門、課試生徒、爰忠來之門徒有道維材、并試博士侍醫和氣時雨等四人、故權針博士菅原茂滋門徒、侍醫菅原行仁一人爲試博士、而茂滋卒去之後、彼門徒無博士、難試生徒、生徒之歎、莫日新、加以撿年來之例、兩門之博士難其員、諸衞醫師出身成業者之中、簡定其人、殊申下宣旨、爲試博士、其來尚矣、方今爲名、才用超等絶倫、尤堪博士、望請依例蒙宣旨、以件爲名試博士、令 試生徒、仍録事状、謹請處分
天暦元年五月四日 從五位下侍醫兼權醫博士尾張介時原朝臣維材
從五位下典藥頭兼針博士能登權介伴宿禰有道
從五位上醫博士兼備後介宮宿禰忠來

〔續古事談〕

〈五諸道〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0709 富家殿灸治シ給ケルニ、重康申サク、日神モヽニアリ、ヤキ給ベカラズ、コノカミ忠康申サク、内モヽ外モヽコトナリ、〈○中略〉兄弟中アシクシテ、ツネニカヽル事アリケリ、忠康ハ雅忠ガ實子ニハアラズ、上野守良基ガ子也、雅忠オサナクヨリ子ニシテ、道ヲツタヘタルナリ、 醫道ノ課試忠康マデシタリ( ○○○○○○○○○○○○) 、其後スルヒトナシ、

〔憲敎類典〕

〈四ノ十醫學館〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0709 寛政三辛亥年
醫學館、以來一ケ年春秋兩度、醫業考試被仰付候典藥頭、并奥向之面々、法印法眼之御醫師等は相除、其餘年齡廿位にも相成候はゞ、不殘可罷出候、尤春に至り日限等は多紀廣壽院より可相達候事、
右御醫師四十歳にも及候分は、考試に不及、出席而已不致候、勿論難問誹謗等致し候類之事は、一體有之間敷筋候間、隔意なる心得たがい無樣可致候、尤醫學館へ、常々修業として、罷出候ものの考試は無之儀にて候事、
右之通、總御醫師中〈江〉可相觸候、
十月

醫師

〔倭名類聚抄〕

〈二工商〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0709 毉 説文云、毉〈伊反〉作醫、〈和名久須之〉治病工也、W 説文解字

〈十四下酉〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0709 ttp://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000040006.gif 〈治病工也、殹惡姿也、醫之性然、得酒而使酉、王育説、一曰、殹病聲、酒所以治一レ病也、周禮有醫酒、古者巫彭初作醫、於其切、〉

〔伊呂波字類抄〕

〈久人倫〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0709 醫師( クスシ)

〔福富草紙〕

〔源氏物語〕

〈三十四若菜〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0712 くすし( ○○○) などやうのさまして、いとさかりすぎ給へりやなど、なまかたはらいたく思ひ給へり、

〔訓蒙圖彙〕

〈四人物〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0712 醫〈くすし、醫同、醫者醫工也、〉

〔七十一番歌合〕

〈中〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0712 卅四番 醫師殿下より、續命湯、獨活散をめされ候間、たゞ今あはせ候、

〔善隣國寶別記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0712 七醫解
夫醫之名有幾有福醫、有世醫、有隱醫、有德醫、有儒醫、有高醫、有明醫、不書窮一レ理、以命通運達世誤人、是之謂福醫、或曰時醫、曰庸醫、曰凡醫、曰下醫、其本一也、家世相承、以是道貴重、是之謂世醫、徐家父子、甄氏昆弟、祝橘泉許進之是也、不朝庭、隱於醫苑、徜徉林藪而以養志、是之謂隱醫、董君異、葛稚川貞匀先生飛霞道人是也、有善行而好嘉言、但以人利一レ物爲心、是之謂德醫、楊登父、呉德信、沙杏軒、沈壽祥是也、出入六經、渉獵百氏、遊聖賢之門、登道德之域、經書既通、醫方亦明、所謂世寶者也、是之謂儒醫、麻巴呂滄洲、黄子厚、朱義烏是也、天有四時五行、和爲雨、怒爲風、疑爲霜雪、張虹霓、天常數也、人有四肢五臟、流爲榮衞、彰爲氣色、發爲音聲、人常數也、失則蒸生熱、否生寒、天地亦然、寒暑不時蒸否也、導之以藥石、救之以砭劑、是之謂高醫、華元化、孫眞人是也、博通經方、兼諳群書、明性命、定吉凶、針藥應手、據効如響、是之謂明醫、秦越人、張長沙是也、虖醫之道豈易々哉、天地以生物心、聖人以愛物心、醫之道所關大、而果非仁術耶、惜哉後世陷藝術、且不其説、而害人多矣、儒亦有七、濳溪宋氏辨之、遂作七醫解、以自警云、
壬午〈○寛永十九年〉旦月日 靜軒氏書

〔鹽尻〕

〈七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0712 一天台止觀七ニ云、如野巫、唯解一術方一人、獲一哺飯、何須神農本草云々、倭俗、無學の醫を、 やぶくすし( ○○○○○) と云は、元台家の諺か、

諸官衙醫師

〔享祿本類聚三代格〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0713 太政官符
史生一員醫師
右得 鑄錢司( ○○○) 解偁、撿案内、此司在岡田之日、典藥醫師一人、別置司家、今醫師停置、療治無方、望請省史生醫師、謹請官裁者、中納言兼左近衞大將從三位行民部卿淸原眞人夏野宣、奉勅依請、天長四年七月三日
太政官符
六衞府醫師( ○○○○○) 預奏任
右得醫師等解状偁、謹撿官位令、典藥寮醫師從七位、針師從八位、諸衞府醫師正八位、 太宰府醫師( ○○○○○) 正八位、又延暦十五年十月廿八日格偁、 陸奥國醫師( ○○○○○) 准少目者、今典藥寮醫師針師、并太宰府陸奥國醫師等、皆是奏任、而至諸衞府醫師、獨在判補、伏案物意、可相違、望請官裁被奏任者、中納言從三位兼行左衞門督源朝臣能有宣、奉勅依請、
仁和元年十二月廿九日

〔三代實録〕

〈七淸和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0713 貞觀五年九月十五日甲辰、 木工醫師( ○○○○) 正六位上民首廣宅等、賜姓眞野臣

〔三代實録〕

〈十五淸和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0713 貞觀十年正月八日癸卯、〈○中略〉 左近衞醫師( ○○○○○) 紀宿禰春生、並授外從五位下

〔續日本後紀〕

〈五仁明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0713 承和三年四月丁酉、賜入唐使節刀、〈○中略〉 被唐醫師( ○○○○○) 山城國葛野郡人朝原宿禰岡野、改本居附左京四條三坊

國醫師

〔令義解〕

〈一職員〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0713 凡國博士、醫師、國別各一人、 W 令集解

〈六職員〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0713 朱云、問國博士醫師、何不職掌、答、雖職掌、則其下置學生、明知授學生疑者、 私案、考課令云、國博士立三等考第、居官不怠、敎導有方爲上、敎授不倦、生徒充業爲中、不其職敎 訓有闕爲下、其醫師准效驗多少、十得七以上上、得五以上中、得四以上下者、是以爲驗也、而 於醫師、以敎授考第者、可考課令也、〈○中略〉又醫疾令云、凡國醫師敎授醫方、及生徒課業年限、 并准典藥寮敎習法、其餘雜治行用有効者、亦兼習之者、

〔續日本紀〕

〈二十七稱德〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0714 天平神護二年五月乙丑、太政官奏曰、准令諸國史生、博士、醫師、國無大小一立定數、但據神龜五年八月九日格、史生之員随國大小、各有等差、其博士者、總三四國一人、醫師者毎國一人、今經術之道、成業者寡、空設職員、擢取之人、繕寫之才、堪任者衆、人多官少、莫能遍用、朝議平章、博士總國一依前格、醫師兼任、更建新例、職田、事力、公廨之類、並給正國兼處、有料之國名爲正任、無料之國名爲兼任、其史生者、博士醫師兼任之國、國別格外加置二人、庶令經術之士、周遍宣揚、功勞之人、普蒙霑潤、奏可、

〔類聚三代格〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0714 勅、如聞頃年諸國博士醫師多非其才、託請得選非唯損一レ政、亦無民、自今以後不更然、其須經生者三經、傳生者三史、醫生者太素、甲乙脈經、本草、針生者素問、針經、明堂、脈決、〈○中略〉並應任用、迭被任之後、所給公廨一年之分、必應本受業師、如此則有師之道終行、敎資之業永繼、國家良政莫於玆、宜所司早令施行
天平寶字元年十一月九日〈○又見續日本紀

〔續日本後紀〕

〈十仁明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0714 承和八年二月乙卯、式部省言、式云、諸國博士醫師解任之後、各還本司本業、若望更任者聽之、不覆試、其被及第、既任遭喪者、服闋之後、復任滿歴、但不試者不此限、省依式文、喪解之所、不他人、服闋之後、令其歴、因玆敎授醫療一年曠職、謹案式云、官省判補雜色之輩、遭喪解任、若有才用者聽情、望請、不服闋、特從復任者許之、可其先得試復更任者、亦同此例

〔類聚三代格〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0714 太政官符
大學典藥諸生者苦住學舍并鴻儒名醫子孫依薦擧諸國博士醫師事右大納言正三位源朝臣能有宣、奉勅、如聞年來諸國博士醫師、從事之間、或非其人、今須内藥生年勞 二人之外、及大學典藥諸生不課試者不上レ輒任一レ之、唯苦住學舍、頗堪採用者、雖試、間以擧補、勿遂作空歸之恨、又鴻儒名醫子孫、去親不遠、尋實無疑之輩、假令不習祖業、特修擧状奏補權任、然則敎授療治之職、無非業、碩德名士之後、猶賴餘慶
寛平七年二月一日

〔延喜式〕

〈十八式部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0715 凡諸道學生、才學頗長、其道博士、共擧爲諸國博士、醫師者、雖奉試及第、皆爲受業、自餘爲非業

〔續日本紀〕

〈三十五光仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0715 寶龜十年閏五月丙申、太政官奏曰、謹撿令條、國無大小、毎國置史生三人、博士醫師各一人、〈○中略〉其博士醫師兼國者、學生勞於齎粮、病人困於救療、望請、毎國各置一人、 並以六考遷替( ○○○○○○) 、自今以後、立爲恒式、謹録奏聞、伏聽天裁者、奏可之、

〔類聚三代格〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0715 太政官符
鎭守府醫師( ○○○○○) 秩六年爲一レ限事
右先例、以 五年限( ○○○○) 、今被右大臣宣偁、奉勅宜彼例 六年爲上レ限( ○○○○)貞觀八年十二月五日

〔三代實録〕

〈十八淸和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0715 貞觀十二年十二月廿五日壬寅、諸國非授業博士醫師、以 四年秩限( ○○○○○) 、但 出羽( ○○) 及 太宰管内諸國五年爲限( ○○○○○○○○○○) 、〈○中略〉又諸國博士醫師受業師料割請公廨十分一納本寮

〔延喜式〕

〈十八式部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0715 凡諸國非業博士醫師、以 四年秩限( ○○○○○) 、但出羽太宰管内諸國五年爲限、

〔延喜式〕

〈十一太政官〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0715 凡諸國受業博士醫師補任解文、并籖符、名下註各本業

〔延喜式〕

〈十八式部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0715 凡諸國博士醫師補任解文、并補任帳姓名之下、受業者註各本業

〔延喜式〕

〈十一太政官〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0715 凡諸國權史生博士醫師遷任、并依讓相代之輩、其籖符註遺歴、〈○中略〉凡諸國史生博士醫師籖符、外記勘會補任帳、明知其補由、然後請印、

〔延喜式〕

〈十八式部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0716 凡大學諸博士六位已下、兼任諸國權博士、但先奏後補、典藥醫針博士准之、兼任 權醫師( ○○○) 、凡諸國博士、醫師解任之後、既進解由者、各遷本司本業、各註上日、毎年申省與考、若望更任者聽之、不覆試、其被及第、既任遭喪者不服闋復任、〈藥生縁侍醫擧、任者亦准此、〉其秩滿任解之後更任者亦同此例、但先不課試者不此限
凡諸國非業權任博士醫師秩滿、年終申太政官

〔類聚三代格〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0716 太政官符
陸奥國( ○○○) 博士醫師官位
右被大納言正三位紀朝臣古佐美宣偁、奉勅、上件二司、自今以後、宜少目、延暦十五年十月廿八日〈○日本後紀係己卯、己卯二十二日也、〉

〔類聚三代格〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0716 太政官符
史生二人博士醫師各一人
右得 大和國( ○○○) 解偁、撿案内、承前之例、博士醫師並被補任、而依太政官去延暦十六年四月六日符、倶從停止、自爾以後、學道久廢、救疾無醫、望請、省史生二員、依舊永置博士醫師者、右大臣宣、奉勅依請、五畿内諸國准之、
弘仁十二年十二月二日
太政官符
五畿内( ○○○) 并 志摩伊豆飛騨佐渡隱岐淡路( ○○○○○○○○○○○○) 等國博士醫師事右被左近衞大將從三位兼守大納言行民部卿淸原眞人夏野宣偁、奉勅、大學典藥生等、年卅一以上不業者、自今以後、課試白讀上件十一箇國博士醫師、庶激帷之操穿壁之勞、但卅歳以下不此限
天長七年十一月十五日

〔類聚三代格〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0717 太政官符
筑後肥前肥後豊前豊後( ○○○○○○○○○○) 五箇國醫師
右得 大宰府( ○○○) 解偁、謹案、去神龜五年八月九日格云、博士者總三四國一人、醫師者毎國一人者、又寶龜十年六月七日格云、太政官去閏五月廿七日奏偁、博士醫師兼國者、學生勞於齎粮、病人困於救療、望請、毎國各一人、並以六考遷替、畫聞已訖者、夫醫師無兼國之任者、爲救療之急也、今件五箇國、去府之程、二日以上七日以下、吏民之中、頓得病患、趁著府下、勞受醫藥、命在呼吸、旦不夕、對治之途、豈可此乎、望請、國別減史生一人、置醫師一人、謹請官裁者、左大臣宣、奉勅、宜減史生典藥寮學生及第者上レ之、
承和十二年七月十七日〈○又見續日本後紀

〔延喜式〕

〈十八式部〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0717 凡 日向大隅薩摩壹岐對馬( ○○○○○○○○○○) 等國島博士醫師者、太宰准大學典藥生才補任、副勘籍状言上、省載季帳官、待考滿内位、其遷替皆以六年限、其六國學生醫生、皆集府下業敎習、

〔文德實録〕

〈九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0717 天安元年十一月戊戌、右京大夫兼加賀守正四位下藤原朝臣衞卒、衞贈左大臣從一位内麻呂第十之子也、〈○中略〉九年〈○承和〉春正月、遷爲大宰大貳、〈○中略〉乃遂赴任、先是、所管 九國三島醫師( ○○○○○○) 博士、總府所自任也、名實不副、天俸有費、因上奏云、博士執經授業之職、醫師合藥療治之最也、雖道自有優劣、然事非緩急、何者一夕之命、得方則存其生理、百年之身、失術則墜其天算、彼飛鳥之葺草、流香之反魂、言於世路是甚急者、而今府所任置醫師等未必其人、假名居位、三藥非共知、十療無一驗、遂使病門失一レ望、豈是皇度本意乎、請至件一色、殊依朝選書奏、時議容之、自此始擢典藥生受業練道者、以爲彼管内醫師

〔三代實録〕

〈七淸和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0717 貞觀五年九月十五日甲辰、右京人 大宰醫師( ○○○○) 正七位上民首方宗〈○中略〉等、賜姓眞野臣

〔三代實録〕

〈九淸和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0718 貞觀六年八月八日壬戌、播磨國飾磨郡人播磨權醫師正八位上和邇部臣宅貞、式部少録從八位上和邇部臣宅守等、賜姓邇宗宿禰

〔三代實録〕

〈三十六陽成〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0718 元慶三年六月廿六日乙酉、正五位下守右中辨兼行出羽守藤原朝臣保則、飛驛奏言、〈○中略〉下野國前權少掾從七位上雀部朝臣茂世、 權醫師( ○○○) 大初位下下毛野朝臣御安等、各押領國兵來從軍旅、今還向訖、〈○下略〉

國醫生

〔令義解〕

〈一職員〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0718 凡國博士醫師、國別各一人、其學生大國五十人、上國冊人、中國卅人、下國廿人、醫生各減五分之四、 W 令集解

〈六職員〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0718 釋云、學令云、凡大學生取五位以上子孫及東西史部子之、又條云、國學生取郡司子 弟之云々、〈○中略〉釋云、醫疾令云、凡醫生先取藥部及世習、次取庶人年十三以上十六以下、總令者之者、然則國醫生取庶人耳、

〔類聚三代格〕

〈十五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0718 太政官符
合二條〈○中略〉
一請學校料田
右府學校六國學生醫生笇生有二百餘人、雖徭役人、請毎國置田四町、二町以賜明經秀才者、二町以賜醫笇優長者
以前得大宰府解偁、管内諸國乘田多數、望請、置上件田賞以勸人者、右大臣宣、奉勅、宜請、天應元年三月八日

幕府醫師

〔總御醫師分限帳〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0718 典藥頭〈○中略〉 代々法印〈○中略〉 奥醫師〈○中略〉 西丸奥醫師〈○中略〉 法眼寄合醫師〈○中略〉 奥詰醫師〈○中略〉 代々寄合醫師〈○中略〉 寄合醫師〈○中略〉 御番醫師〈○中略〉 御番外科〈○中略〉小普請醫師〈○中略〉 甲州勝手小普請醫師

〔職掌録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0719 醫師
當職定員なし、奥表、本道雜科の差別あり、何も若年寄支配、奥醫師御番料二百表、但外科雜科ハ同百表、部屋住より見習勤の者ハ御切米二百表被下、御番料なし、御番醫師持に而、二百表已下の者は、御番料百表、部屋住より見習勤の者は、二十人扶持賜ふ、法印、法眼之醫師は、御連歌之間、北御椽頰ニ相詰、御目見之節は、御白書院にて獨禮也、其外之醫師は、御白書院に並居、一同之御禮也、寄合醫師ハ御禮日計ニ出仕、奥醫師、奥詰醫師は、日々登城御機嫌を伺ひ、晝計伺候、其内御用次第御廣敷御守殿御住居等〈江〉も伺公す、御番醫師は兩丸打込にて、一人づゝ勤番す、席は桔梗間、半井、今大路兩氏は典藥頭に任じ、從五位下に叙す、此兩氏より隔年に、正月の屠蘇白散を禁裏へ調進の事を司る、家老爲名代上京し、縱諸大夫に任ずるよし、

〔憲敎類典〕

〈四ノ十醫學館〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0719 元祿元戊辰年九月十三日

一御醫師衆、向後家業〈江〉入情可相勤事、
一無故方〈江〉方々被俳徊事、不入儀候事、
一病者之面々は、病氣之樣子具可言上事、
附病氣に而、其身鈍氣家業勤申儀成兼申程之者は、是又具言上可仕事、
右は稻垣安藝守宅〈江〉、半井驢庵、今大路式部、吉田方盛院、岡本壽仙、岡了庵淸水龜庵、村田安栖、久志本式部、松井省庵、生野道壽招之、秋元但馬守列座演達之

〔有德院殿御實紀附録〕

〈十五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0719 元祿正德のころには、醫員のものも、俸祿を世々にし、奢侈にのみふけり、治療にうときもの少からざりしかば、それをあらため玉はむとの盛旨にて、勤をすゝめ、怠をいましめ、その志あるものには、御府の方書をも借あたへられて、はげまし玉ひしかば、享保の中 頃にいたりては、數原通玄尚白、河野仙壽院通休、橘宗仙院元孝、村田長庵昌和、多紀安元元孝、林良適完煕、丹羽正伯貞機、望月三英君彦など云る國手ども多く出來れり、是ひとへに世の人材を養ひ玉ふ事のよくいたらせ玉ふによれるなるべし、其中にも、通玄尚白は、わきて御氣色にかなひ御藥の事を專らうけ玉はりしとなり、

〔天明記〕

〈七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0720 己酉〈○天明九年〉二月、御醫師中〈江〉越中守殿御渡被成候御書付寫、此節何も出精之趣には候得共、猶又爲心得申達候、
一總而醫業を以て、世祿結構被成下候に付、家業之儀は格別出精可致義に有之候、殊に御撰擇を以、奥醫師被仰付、祿位も被相加、別而之事に候、出精心掛も格別に無之候而は不叶事に候、奥醫師之調藥、諸家に而も相願候儀は、畢竟醫學醫業等格別之儀ニ付、取用ひ候事に候處、近來は、右之義仕來同樣に相成候哉にも相聞候、左候へば、此上彌々風儀不宜に至候而は、醫術之貴賤を不撰義も取失ひ、客來之取持も同樣に相成間敷にも無之、調藥之儀も、名目のみに成行、隱に他醫之療治を請候樣有之候而は、一己之身上不束成計に而、御外聞も不宜候義に候、殊更勤め向無此上御大切之儀に相拘り候事に候條、能々相心得、出精可致候、平常御側近も被出、大奥〈江〉も相廻候身分之義に候得ば、身持等之儀は別而相愼み可申候、

〔元治二年武鑑〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0720 兩典藥頭( ○○○○) 〈柳間〉 乘輿白無垢著
半井刑部大輔廣明〈○註略〉 今大路兵部大輔〈○下略〉

〔德川禁令考〕

〈十七官醫長〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0720 官醫長〈元和年間、京都ヨリ、今大路、半井ノ兩醫ヲ聘シテ典藥頭ニ爲ストノ傳説アレドモ、確書ヲ得ズ、然ルニ元寬日記ノ、元和二年正月五日ノ條ニ曰フ、秀忠公白書院ヘ御著座、僧侶獨禮、并今大路民部卿中里等總禮トアルヲ見レバ、此前既ニ幕下ニアルモノ疑ナシ、此裔世襲シテ近世ニ至ル、累代武鑑不之、柳營秘鑑、官中秘策ニ其禮謁ノ班席ヲ掲グ、〈役人班列書、安政武鑑、〉曰、兩典藥頭半井出雲守千五百石、今大路右近〈元中務大輔〉千二百石、按ニ此兩家ハ、衆官醫ト同ジク、若年寄ノ支配タリト雖モ、官醫ノ薦ル、藥劑能否ヲ撿シテ、其權自ラ一曹ノ長タリ、〉

〔明良帶録〕

〈世職〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0721 奥醫師( ○○○)
醫業ニ達したる人を、奥醫に撰擧す、法印に叙す、七十以上は紅裏を著用す、正月ハ家法の御藥を差上る、當時は醫學館にて醫道を修し、藥生は本草家澀江長伯にて糺す、日々伺公して御脈を診す、醫は仁の術なれば、奥醫といへども、輕きものに藥を與ふ、古橘の先祖は仕切場の物に藥を與ふ、御殿にて人々噂せり、橘聞て、仁術なれば不苦と答へられしを、享保の君〈○德川吉宗〉聞し召給ひて、尤と上意有よし、

〔元治二年武鑑〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0721 奥御醫師 二百俵高 御役料二百俵
坪井信良 岡田昌碩法眼 多紀永春院法印 戸塚靜春院法印 大膳亮弘玄院法印 津輕良春院法印 遠田澄庵法眼 松本良順 服部了元法眼 篠崎三伯法眼〈○下略〉

〔御番醫師勤方事議擒領録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0721 新規御入人之節之事〈○中略〉
一召人於御右筆部屋椽頰、御老中御列座、若年寄中御侍座御用番之御老中方被仰渡候、左之通り、御番醫師被仰付
但シ二百俵以下之者へハ左之通り
御番醫師被仰付御番料百俵以下
右被仰渡相濟候而、小普請支配より、御目付中へ引渡、御目付より此方へ相達候、又時宜に寄、小普請支配より直に此方へ相送り候事も有之候、右番之者罷出、部屋へ同道致候、

〔御番醫師勤方事議擒領録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0721 初御番二度目三度目心得之事〈○中略〉
一御夜詰は、夜五ッ時に罷出候、中之口にて、五ッ打候段呼候節、少し見合候て、兩御番申合、焚火之間へ罷出、桔梗之間之方へ御襖際に、新御番組頭、本道外科と並居て、五ッ半之御時計打候節、御目付衆咳拂被致候、急速に一同桔梗之間に入御 之方初め之御柱を後ロに當て、著座す、本 道者御柱より一人分上ミに著座す、但俗に外科柱と稱候也、御側衆御出座御夜詰引候樣に、當御番之御目付衆へ被申渡候、其後新御番頭より以下、此方共迄、御側衆目禮被致候節致平伏候、其後一人之御目付衆、時宜被致候、直に部屋へ引取申候、

〔明良帶録〕

〈世職〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0722 寄合醫師( ○○○○)
何も家業の術を以て奉仕す、正月ハ家傳の藥を差上る、家督後幼年のもの、此場にて修業して醫道を博くまなびて、藥性を辨別したる人を選ばる、

〔明良帶録〕

〈世職〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0722 御番醫師( ○○○○)
是は家々の醫術を以て、宿衞をなす、殿中不時の病人、非常の怪我人等あるとき、藥を與ふ、大奥向病人あるとき、御定の外醫師呼寄の節、御留守居衆より申越節、御廣敷迄罷越、御廣敷番之頭同道にて部屋へ參り、容體を診す、何れも法眼なり、

〔德川禁令考〕

〈十七官醫長〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0722 寬政元己酉年四月〈闕日〉
寄合醫師へ達
代々醫業致相續候者、職業之儀、別而致出精、御用ニ相立候樣心掛候儀、御爲之事、且銘々先祖へ對し候而も可本意儀ニ候、殊醫業者大切之職業、人命を預候儀を怠り可申樣無之儀ニ候、以來其身一代出精無甲斐、其忰醫業等閑ニ而、并人柄等之儀相愼候事、薄き輩者祿之多少之差別ニよらず、其時宜ニ隨ひ、家督等之節ニ至り候而も、減祿被仰付儀も有之間敷儀にも無之候、乍然其者取來候祿は、成丈先規不省樣有之度儀ニ付、其身追々修業を遂、致出精候ハヾ、連々又御加增有之、終ニ者先規之祿ニ可復候、右御趣意ニ付而者、寄合小普請不勤之輩ニ而も、出精次第舊祿ニ被復、御加增も可之儀ニ候、心得之ため相達候間、何も厚く出精可致候、
四月

〔明良帶録〕

〈世職〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0723 御目見醫師( ○○○○○)
醫師は職業なれば、其術に堪へたる、町醫師、陪臣醫師、新規御目見被仰付らる、是より御番醫に昇るもあり、いづれも學術修業次第也、

〔天明記〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0723 一近年不學麤術之醫師共、賄賂金差出し願ひ候へば、容易に御目見被仰付候事、是等之儀は、重々不屈に候、第一司命之職に候へば、能々御撰可之筈之處、其所へ心付不申、甚以不實之至候、就中其方及嘲哢候事、是等は上之御格祿を、任權威奪候に當り候事、

〔明良帶録〕

〈世職〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0723 小普請醫師( ○○○○○)
是も醫術修業之道にして、小普請組之支配也、屋敷并町方の病人有時、藥を與ふれば、療治帳とて、病人之名何之誰、家來何之誰、何病、主方何方、町方なれば、何町家主誰店何之誰と認め、支配〈江〉出す、此帳面支配へ出す格也、此場修業中減祿被仰付、醫術上達之上にて、選擧之節元高に被成下、寬政御改正の節被仰出

〔浚明院殿御實紀附録〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0723 朝ごとに上直の 侍醫( ○○) 御脈をうかゞふ時には、世の中流行の病もなしや、なにぞあやしき病などにて、人のくるしむことはなしや、又は大名旗本等のうち、大病のものあらずやと、御尋あることつねのことなり、もし世上流行の病あり、又は大病旗本のうちに大病人ありなどゝ聞えあぐれば、御容を改め玉ひ、愁玉ふ御氣色あらはれ玉ひ、醫療のことゞも御たづねあり、又おだやかにして、流行病もなく、衆人平和なるよし申上れば、御機嫌いとよくおはしましけるとぞ、

〔京都御役所向大概覺書〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0723 醫師儒者之事、附鷹峯御藥薗并御藥種獻上之事、〈○中略〉京都ニ屋敷有之御醫師
一五百石 烏丸通一條下ル町 〈在京〉 施藥院
一三拾人扶持 堀川通丸太町上ル町 〈在京〉 山脇道立
一千三百石 三條通兩替町東〈江〉入ル町 〈常江戸〉竹田法印
一〈○闕文〉 新町通中立賣下ル町 今大路道三
扶持人醫師
一〈禁裏より三拾人扶持〉 一條通新町西〈江〉入ル町 浦野保生院〈○下略〉

〔七十册物類集〕

〈六十一外國〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0724
蝦夷地御雇醫師( ○○○○○○○) 可仰付者、差支有無相糺申上候書付、
樽藤左衞門
〈本草家町醫師〉阿部將翁
右之者蝦夷地御雇醫師〈江〉申上候而も、御差支無之哉、及御掛合候、
右箱館奉行衆より之御掛合書、被御渡、取調可申上旨被仰渡候、
〈本石町壹町目藤三郞地借〉
〈本草家町醫師〉 阿部將翁
〈辰五十二才〉
右之もの申立候は、此度蝦夷地御雇醫師御用被仰付候とも、御差支無之樣可仕心得ニ御座候、然ル處去ル子年中、御勘定奉行石河土佐守殿〈江〉、硝石御用之儀奉願、數度御調有之、其後水野筑後守殿〈江〉御引渡ニ相成、先達而被召出、御調之上、御請書差上候ニ付、近々納方可仰付哉之由ニ付、夫夫手當仕居候間、右御用被仰付次第、忰米象〈江〉申委候上、門人共召連、蝦夷地〈江〉罷越、藥草金石を探索仕、五果菜蔬竹林等相仕立、土人之取捨候魚腸を以造り硝石相製、地利見計、鹽濱等も取立申度存罷在候間、右硝石御用御下知濟之上、彼地〈江〉發足仕度、此段奉願候段申立之候、且同人身元取調候處、去々寅年中より、右町に罷在間口貳間半、奥行四間之平家、自分建ニ住居仕、其身妻忰壹人、召 仕男壹人、都合四人暮ニ而、此度蝦夷地御雇醫師御用被仰付候而も、於町内聊差障筋無御座候段、右町役人共申立之候、
右相糺候處、前書之通御座候、則被御渡候御掛合書返上仕、此段申上候、以上、
辰〈○安政三年〉五月 樽藤左衞門

〔觸留〕

〈四十四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0725 子〈○元治元年〉十二月十六日
牧野備前守殿御渡候御書付寫町奉行〈江〉町醫師松島玄英右 大炮附御雇醫師( ○○○○○○○) 可申渡候、御雇中御手當扶持拾五人扶持被下候、尤大炮組之頭可談候、

〔海軍歴史〕

〈二十五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0725 軍艦附御雇醫師( ○○○○○○○) 名前之儀申上候書付
海軍奉行並
軍艦奉行
〈堀田相摸守家來醫師〉栗田浩然
〈寄合松野八郞兵衞家來同〉守屋修道
〈御代官江川太郞左衞門家來同〉隈川宗悦
右之者軍艦附御雇醫師之儀、先般申上候處、書面之趣者、軍艦附御雇醫師と申付、爲御手當御扶持方拾五人扶持宛被下、且乘組御用而已ニ無之、平常軍艦所病用をも爲相勤、是迄軍艦所病用相勤候御雇醫師之儀者、差免候心得を以、人數等取調、猶相伺候樣可致旨、去寅五月中被仰渡候義ニ御座候、然ル處其節者、御船々大坂并西海筋〈江〉御廻し相成居、富士山御船のみに而、同御船之義も、出 帆差迫居、人撰等何分間ニ合兼先其儘出帆爲致候處、追々御船々歸帆相成候ニ付而者、御船々之大小并軍艦運送船等之差別に隨ひ、人數取調候へば、當時之御船數丈ケニ配當仕候ニも、多分之人數ニ無之候而者差支、素より不欠義ニ御座候間、先般醫學所頭取〈江〉相懸合、人撰中ニ付、取調出來次第、追々申上候積ニ御座候處、名前之者は、以前同所之人撰ニ而、御船々乘組、航海御用度々相勤、醫業巧者、療養行屆、御船中折合方宜敷、至極御用立候者共ニ而、差向右三人之もの共、人撰出來候旨、醫學所頭取より申越候ニ付、兼而被仰渡之通、御扶持方拾五人扶持宛被下置、軍艦附御雇醫師被仰付候樣仕度、尤醫學所頭取より、主人々々へ懸合候處、差支も無之旨申聞、且富士山御船等御修復皆出來相成、急速攝海〈江〉御廻しにも相成候間、早々願之通被仰付候樣仕度、其餘御船々〈江〉配當仕候分者、人撰相濟次第尚可申上候得共、差向前書三人之者共、急速願之通被仰付候樣仕度、此段奉願候、以上、
卯〈○慶應三年〉四月

町醫師

〔聞傳叢書〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0726 醫師の養子、其業ニ寄、町醫師之忰に而も被仰付候事、
一醫師之類は、家業有之ものに付、家業宜、早速之御用に立候ものを願候はゞ御目見以下、并町醫師之忰に而も可仰付候、
右之通、家業之譯を以て、養子被仰付候事に候得共、家業宜と計に而は難相成、家業專に仕、早速之御用に立候者を、隨分吟味致し可相願候、猶又相糺し候上、被仰付に而可之候、右之趣、組支配有之面々〈江〉寄々可相達候、
五月〈○安永四年〉

〔德川禁令考〕

〈十七官醫長〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0726 文久二壬戌年閏八月十六日
醫師推擧ノ儀ニ付達

總醫師共、家業心懸候儀者勿論ニ候得共、生得之才不才も有之、生質より何程出精仕候而も、勝れ候ものは容易に出來難致、依之前々より世上手廣療治致し、醫業勝れ候ものは、町醫師又は陪臣より、其時々被召出候、然ル處其ものは拔群に候而も、其子は未熟之者多被召出、間も無之病死等に而、未熟之忰家督被下候而も、往々御用立候ものは稀之儀ニ有之候間、此以後被召出候者は、一代切ニ御宛行被下候、其者一代御奉公筋も格別ニ候はゞ、其品ニ寄、忰〈江〉御扶持方被下、若被召出候而、間も無之病死之節は、直に御宛行上り候間、右之趣相心得、向後醫師推擧致候節は、左之通可心得候、
一町醫師又は陪臣ニ而も、療治宜仕候醫師有之節、先御目見之儀相願、御目見被仰付候以後、御扶持方被下、奥御用被仰付候事、
但若年寄支配ニ候事
右之通被仰付候上ニ而、御番をも被仰付候ニ付、奥醫師並之通、御切米貳百俵一生之内被下置、尤御番料も可下候事、品ニより被召出候もの、樣子次第、御扶持方被下、小普請入も可仰付候事、右之通被仰出候間、被其意、心得違無之樣可取計候、
八月

〔嘉永撰要類集〕

〈三十八附録二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0727 未〈○弘化四年〉五月十五日、阿部伊勢守殿より御直上ル、
伊勢守殿信州表、醫者無數、藥種拂底之儀ニ付奉伺候書付、遠山左衞門尉今度、信州表、大地震之上、出火に而、恠我致し、疵付又は野宿致し候ニ付、雨露之爲メニ、病發致し候 もの多有之候處、醫者無數、藥種類拂底ニ而、致難儀候もの不少候由、右ニ付、御府内住居之醫者共之内、彼地〈江〉罷越、療治致し候ものも可之哉、藥種類も差立候樣ニは相成間敷哉、勘辨仕、可申上樣被仰渡候ニ付、取調候處、〈○中略〉松門町五郞右衞門店 町醫( ○○) 大寺正庵外七人は、兼々醫業相勵居候ニ付、修行之爲メ、於彼地療治致し度旨、支配名主共迄申聞候得共、知音も無之、右樣http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000043628.gif 倒致し候跡〈江〉參り候而も、却而其身利德を見込、似藥等賣歩行候不埓之旅商人之樣疑ひ受候而は、迚も致信用、療治相賴候ものも有之間敷、且彼地〈江〉著致し候節、止宿食物にも差支可申哉と掛念致し候由、藥種類も、元藥種問屋共之内、本町四町目半助地借筒屋善右衞門外貳拾壹人儀も、彼地〈江〉藥種類相廻し、賣捌致し候存念ニ候得共、是以、先方ニ引受方無之候而は、往返運賃ニ相掛候而已不成、多分之損毛致し候儀と危踏居、〈○中略〉右八人之醫者共、〈○中略〉江戸表より參り候迚、取用之程も難計、體裁を失候樣成儀有之候而も、如何ニ候間、相糺候處、假成ニは、業體も出來候由、名主共申立候、乍去遠路之儀、必定行屆可申儀は、何分難計奉存候得共、厚キ御沙汰之趣も御座候間、此段奉伺候、以上、
未五月 遠山左衞門尉
下ケ札
本文、正庵外七人儀、手薄之ものニ而、旅用ニ差支候趣及承、麹町平河町壹町目家持賣藥屋喜六、芝西應寺町家持町醫中世昌三郞、四谷鹽町壹丁目家持同千葉玄昌より、旅用手當致し遣度旨、支配名主共より申聞候、

僧醫

〔本朝醫談〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0728 醫師の僧綱になる事は、醫學に長じ脈經に明なる上、摩訶止觀の病患境は、病根を世間出世に論決したる敎なれば、醫師たるもの、叡山にのぼりて、止觀の幽致を知て、法脈をゆるされたるよりなりと聞り、只止觀のミならず、道の玄妙は、正法眼藏にあるなれば、其徹底を座主より印可されしなるべし、鑑眞失明の後、藥物の眞僞を嗅て別ちたりと、正法眼藏を得にあらざれば、 此域にいたるべからず、

〔釋氏要覽〕

〈下瞻病〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0729 瞻病制〈僧祇律云、有比丘久病、佛因按行見躬與阿難爲洗身及衣http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000084160.gif 臥具訖、又爲説法佛問、汝曾看病否、答不曾、佛言、汝既不看、誰當汝、乃制戒、自今後應病比丘、若欲養我、應養病人、〈西國傳云、唐三藏親至王舎城東北、禮佛洗病僧塔、〉〉

〔續日本紀〕

〈三文武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0729 大寶三年九月癸丑、施 僧法蓮( ○○○) 豊前國野四十町、 褒醫術( ○○○) 也、

〔續日本紀〕

〈八元正〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0729 養老五年六月戊寅、詔曰、沙門法蓮心住禪枝、行居法梁、尤精醫術、濟治民苦、善哉若人、何不褒賞、其僧三等以上親賜宇佐君姓

〔續日本紀〕

〈二十四淳仁〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0729 天平寶字七年五月戊申、大和上鑒眞物化、和上者楊州龍興寺之大德也、〈○中略〉及皇太后〈○聖武皇后光明子〉不悆、所進醫藥有驗、授位大僧正、俄以綱務煩雜改授大和上之號、施以備前國水田一百町

〔玉海〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0729 安元三年六月十日戊寅、午刻源中納言被來、相具筑紫 醫僧( ○○) 〈字大善坊〉是爲予〈○藤原兼實〉疾也、

〔滿濟准后日記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0729 永享三年六月十八日、自山口方、醫師僧威德庵來、妙法院所勞事相尋處、唯積聚也、曾非傳死骨燒失伏連等虐氣由、以誓言申了、所詮療治以外遲引、セメテ廿日以前ニモ見申候者、輙可療治申入由、放言申者也、於積聚者誠勿論歟、

〔園太暦〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0729 延文四年十月十二日、仁木左京大夫賴景法師、今朝卒去、累日煩熱、昨日歟、 僧醫( ○○) 通仙立針、今曉卒云々、就之、武家政道如何、

儒醫

〔古學先生文集〕

〈三辨〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0729 儒醫辨
甚哉人之竊名而欺俗也、物已定而文飾之、以求于人、道已定而糚點之、以求于世、其價不增、而譏笑隨之、豈非惑乎、 世俗有儒醫之稱( ○○○○○○○) 、蓋醫而窺儒者、自恥其爲小道且與巫覡賤工、而竊欲于儒以表見其名、其事固卑陋蕞小、無深辨矣、然世之貪汚卑屈、懷欲無厭、屢試不第、抑鬱迷昧、不以自立者、多逃儒而歸之、則固不世道之害焉、斯吾之所患也、〈(中略)寬文四年甲辰六月初二日〉

〔先哲叢談〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0730 并河亮、字簡亮、私諡天民、平安人、〈○中略〉
仁齋、以儒而爲一レ醫爲是、其説見儒醫辨、天民異於此、曰、此邦儒無恒祿者、宜岐黄、偏以儒居、則産難支、終或不其志也、因是門人往々有儒而兼醫者云、

〔閑散餘録〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0730 並河勘介ガ曰、日本ノ儒者ハ醫ヲ兼ヌベシ、然ラザレバ衣食ニ乏シクシテ、困窮ニ至ルトゾ、ソレ故、門人ニ渡邊新藏、松原才次、清水源吾、藤田左大夫、イヅレモ儒ニシテ醫ヲ善クセリ、ソノ子モ亦然リ、

〔日本醫道沿革考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0730 亮〈○今村〉按ズルニ、〈○中略〉我邦、古昔儒ヲ以テ醫ヲ兼ヌル者無キニ非ズ、延暦大同ノ間ニ菅原清公アリ、承和嘉祥ノ間ニ紀夏井等アリ、是我邦儒ニシテ醫ヲ兼ル者ノ始ニシテ、其後戦亂ノ世ニ及テ、文獻共ニ衰廢シ、永ク復タ此ノ如キ者アルヲ見ズ、元和寬永ノ際ニ至リ、堀杏庵、江村專齋、板坂宗憺、森雲竹等ノ諸賢出テ、復タ皆儒ヲ以テ醫ヲ兼ネ、醫ヲ以テ儒ヲ兼ネ、當時皆世ニ顯ルヽ者ナリ、又其後物茂卿ノ如キハ純儒ニシテ醫書ノ注釋諺解等ヲ作リ、叨リニ醫域ニ闖入シ、其害ヲ後生ニ與ル者少カラズ、然レドモ其功亦無キニ非ザルナリ、

〔先哲叢談後編〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0730 東洋〈○山脇〉後於山脇氏時、不醫爲專門、猶講經史授子弟、左袒漢魏傳注、辨駁宋儒心性説、門人頗衆、世呼之儒醫、當時若後藤艮山、〈名達、字有成、江戸人、〉香川秀庵、〈名修德、字太冲、播州人、〉香月牛山、〈名則眞、字啓益、筑前人、〉稻若水〈名宣義、字彰信、江戸人、〉等、皆唱業於輦轂下、稱之儒醫、東洋與之交、相與討論、發己所一レ見、諸家爲之皆吐舌、稱其不一レ及、

〔日本文鈔〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0730木村希黯 太宰純〈○中略〉
純嘗謂、醫道難明、醫書難讀、宜乎世乏良醫、雖然明道在善學、苟能專心學之、則無古今、良醫豈不企乎、今之人惟不善學、是以其道不明、其技不古人已、何謂善學、善讀書之謂也、夫醫書固難讀、非於儒、不其辭義、且况自本草以下至素靈難經、皆先秦古文也、故雖聰明之人、<ruby><rb> 非多讀古書、以參 考之、未能得其旨也</rb><rt> ○○○○○○○○○○○○○○○○○</rt></ruby> 、此醫之所以必本乎儒也、惟今之爲醫者、多不書、執局方以待人需、此則所謂膠柱調瑟之徒、不道者也、其有能讀書者、但讀儒書醫書、聽其與人尚論則儒也、觀其所一レ事則醫也、問醫道焉則不知也、如此者 世俗命之曰儒醫( ○○○○○○○) 、予甚惡之、嘗著儒醫論以示同志、今足下乞予文、因以是爲贈、足下其反覆之、夫蟲有蝙蝠、人有儒醫、蝙蝠猶可、儒醫則不可、

女醫

〔政事要略〕

〈九十五至要雜事〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0731 又〈○醫疾令〉云、女醫取官戸婢年十五以上、廿五以下、性識慧了者卅人、別所安置、〈謂、内藥司側造別院安置也、〉敎以安胎、産難、及創腫、傷折、針灸之法、皆案文口授、〈謂、女醫不方經、唯習手治、故博士於其所一レ習、案方經以口授也、案唐令、博士敎之、今於此令文不一レ言、而博士敎授、但按摩針灸等、其業各異、須當色博士各敎授、即試畢令當色試、〉毎月醫博士試、年終内藥司試、限七年成、

〔市中取締類集〕

〈九ノ四十五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0731 〈天保十三寅年六月〉堕胎御禁止一件
女醫師之儀ニ付申上候書付
〈加賀町〉名主 平四郞〈○女醫師姓名略〉
右女醫師之儀は、都而療用賴候者、身柄善惡ニ寄、不同有之候由、
一出療治と唱、懷妊之婦人宅〈江〉罷越候分、 金壹歩位より貳歩位迄
一宅預りと唱、懷妊之婦人、女醫師共宅〈江〉預り候分、壹廻り七日之見積ニ而四日位ニ仕立候由、療治代并飯料を付、屆人足賃共、金壹兩貳歩、
右は多分一廻り壹兩貳歩之極メ直段ニ有之候處、其婦人之身元善惡、賴入之樣子ニ寄、差向見計ひ、事重等ニ申成、過分之療治代請取候分も有之、又は格別貧人と見請、又婦人賴手共難澀等申相歎候分は、金壹兩位に而も療治致遣候分も有之、區々之趣ニ相聞申候、
一懷妊之月數不重指藥と唱候分 金壹歩貳匁位之由
一煎藥之分 錢三百八拾八文位之由
銘々其家風ニ寄、療治代高下有之由ニ而、神田平永町代地忠七店中山玉木、南傳馬町二丁目半四 郞店中山よし江、新兩替町三丁目庄藏店酒井東人、元數寄屋町壹丁目忠治店吉田千代見、此四人之分、重ニ町々明地板圍表裏并便所等〈江〉引札張紙いたし、手廣ニ渡世仕候趣ニ御座候、但宅預リ婦人之分、出産之水子貳百目、又は其次第ニ寄、金壹朱位相添、重ニ本所回向院〈江〉葬候由ニ御座候、
右女醫師共名前荒增申上候、重立候分、小前之分も有之、都而療治代請取高之儀は、元不筋不儀より密事之療用請引候儀故、其賴人之次第貧福ニ寄、不正之療治代等受取候義ニ而、非分之業體ニ有之、其日稼之貧人ニ而、家族も多、此上出生等有之營方も無覺束暮兼候者共は、夫婦相對之上、右療用賴候者も可之候得共、稀之儀ニ而、其餘右體之療治致し候者も有之故、自然心馳不儀密會候者も可之、世上ニ無之候共、差支候向も有之間敷哉ニ奉存候、前書廉々、内密承探、此段申上候、以上、
寅六月 〈加賀町〉名主 平四郞

〔德川禁令考〕

〈四十九文武藝術〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0732 天保十三寅年十一月晦日
女醫師之儀ニ付御觸
市中女醫師と唱候者、血道之療治正敷致候は不苦候處、其中ニは、妊娠之者を賴ニ應じ預り置、堕胎致させ候類も有之哉に相聞、不屆之至候、向後右樣之儀於相聞は、賴人迄も逐一遂穿鑿、急度咎可申付候間、兼而此旨可存候、

穩婆

〔安齋隨筆〕

〈前編十一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0732 一穩婆、とりあげばゞ也、國史、三鏡類、世繼類等、古代の實録に、とりあげばゞの事なし、産になれたる常の老女、此事をせしなるべし、今の世のとりあげばゞといふ物は、近世の事也、是は老女などめしつかふ事もなきいやしき者、あたり隣の産になれたる人を賴み、其賴まれし人を、功者也といひふれて、所々よりたのみしが、後には家業の樣になりて、とりあげばゞと 云者出來しなるべし、孕婦の腹に障り、腹を動かせば、難産になる也、とりあげばゞの不心得なるは、度々來て腹をなでさするあり、必難産になる也、功者なる婆は、少も手を付ざる也、産前より産に臨む時迄、天然にまかせて、少も人作を用ざれば、必安産也、人作を交れば、必難産也、孕婦病もなきに安産のためとて、服藥するも人作にて惡し、病あらば服藥もよし、産は病にあらず、人も畜生も、天よりのさづけなれば、天道にまかせ置べし、私を用べからず、

〔醫事漫録〕

〈二編〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0733 按、呉越之間、謂之 穩婆( ○○) 、江淮間謂之 收生婆( ○○○) 、徽寧間、謂之 接生婆( ○○○) 、按、收接二字之義、因其年老慣熟、令之接一レ兒、落地收兒上床耳、原非他動手動一レ脚也、〈達生編上〉

〔明良帶録〕

〈世職〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0733 和州婆々
御中臈格にて、五人扶持下され、四谷鹽町町宅住、後見和州源左衞門といふ、御産御臨月より、大奥詰切同斷、

〔明良帶録〕

〈世職〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0733 薩摩婆々
御中臈格にて、四谷坂町にて拜借地出る、看房人左膳といふは、渡邊城之進家來之由、御産御目付、御臨月御産移之節より大奥詰切り、

〔有德院殿御實紀附録〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0733 後宮の女房懷妊せし時、京より名ある穩婆をめされ、府内の市中に在けるが、さばかり名高き者の事なれば、貴賤の限りもなく、就草ある家々より呼むかへしかば、其穩婆一日も家にある事を得ざる由を聞き、町奉行中山出雲守時春、廳に召よせて、汝は公用にて府に參りながら、日ごとに家にあらずと聞し、御用あらん時、いづかたにあらんもはかりがたければ、今よりは、たとへ權貴の家々より呼むかふとも、奉行所にことはりてのちまゐるべしと令したるよし聞しめし、出雲守が申所、其理なきにあらざれども、奥の女房、いまだ分娩の期月にもあらざれば、よぶ事も有まじ、世の人の爲たよりよき事ならば、期月までは、はゞからず人の招に應 ずべし、期月にいたらば、かまへて家にありて、他にゆくべからずと命ずべきよし、仰下されければ、傳へ聞人、おしなべて、おほやけなる御心をかしこみけるとなり、〈兼山麗澤秘策〉

醫師待遇

〔奇魂〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0734 醫藥名義
さて方士の大宮にて仕し状は、禁秘抄に、侍醫常近龍顏者也、召小板敷、於殿上倚子、奉天顏、又召便宜所、候簾中、取御脈例也、後冷泉院御時、俊通雅忠類、聽雜袍紅梅直衣、近代無子細御縁邊者也、とみえたり、武家にての禮は、永正の比記しゝ、上杉問答と云書〈諸大名陪臣、遣醫陰兩道輩書札事と有、〉に、典藥陰陽二寮頭者、五位官也、依之以往者爲五位禮乎、雖然近來就此道、叙四位或擧上階哉、於大名中、陪臣等之書札者、准神官之、抑自武家執政務權之以來、爲公家甚被之、然間雖同官同位、公家武家相對之禮、用捨事異乎と云り、近世までも位外に重く用ひられて、今如はあらざりき、又方士も今如はあらざりけれど、いつとなく療法も醫風も共に變つゝ、終にかくは衰たるにこそ、

〔橘窻自語〕

〈中〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0734 醫師のともがら、散位の 僧綱( ○○) になれること、ふるくきこえたれども、そのおこりは、まことの持戒の僧の、醫藥を施せしともがら、御藥の事ありて驗しある時、僧綱に叙せられしがおほかり、近代にいたりては、醫業のみにて、法橋已上に叙せらるゝともがらのおほくなれり、

〔岩淵夜話〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0734 一權現樣御代、御醫者衆へ、 知行( ○○) を被下候に、五百石より上の大身と申義は無御座候也、其子細は、大閤秀吉卿被相煩候節、快氣あるまじき由、諸醫の申有之候處に、竹田法印の藥にて快被成候、本復之祝儀として、知行一萬石可給と在之節、左樣ニ高知を被下置候ては、此以後大體のものは療治に預り候義も罷成間敷候、然ば世上の重寶に罷成べき名醫を壹人、御捨被成道理のやうに被存候旨、奉行之面々申達候を、大閤にも尤と有之、知行五百石之上に、金千枚、銀千枚、藥代として給り候と也、是によつて、權現樣にも、療治をよく仕り候と有之町醫抔被召出候節は、貳百ヅヽ被下置、御不例ニ付、其醫師の御藥抔被召上候時節、官位等被仰付、三百石宛の御加增 を被下、都合五百石の高ニ被成下候と也、大猷院樣御不例御大切の砌、岡本玄冶御藥を被召上、御快氣被遊候ニ付、玄冶義、夫までは五拾人扶持被下置候を、千石の知行高ニ可仰付との上意に有之候處に、右權現樣御代の義を御老中方より被申上候ニ付、關東ニ而五百石、上方に於て五百石と、間もなく兩度ニ千石の知行高ニ被仰付候と也、

〔明良洪範〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0735 尾張大納言義直卿ハ、〈○中略〉元和ノ式目ヲ定メラレシ時、御家門方ヘ、一通リ御見セ有テ、各存寄モ有バ、仰上ラルベシトノ御沙汰ナリシ時、義直卿十六歳ナリシガ、式目ノ中、乘物御免ノ條ニ、儒醫ノ兩道ト有ヲ難ジ給ヒテ、當世武家ニ召仕ハルヽ儒生ハ、皆法體ニテ、儒者トハ申難シ、陰陽師ノ類ニ均シケレバ、醫陰ト致候テハ如何ニヤト宣ヘバ、御尤ノ事ニ思召レ、其通リ書改メサセラレケリ、

〔基量卿記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0735 貞享二年五月十八日、産後醫師良安 叙法印( ○○○) 、職事基勝朝臣ヘ申渡了、抑産後醫師法印事、先例雖之、良安義、年來中宮御療治、殊ニ去々年歟、御不例以外、諸醫難治之由申之處、良安御藥進上、御快然之間、此度自中宮内々被仰入之間、今日勅許也、自兩傳武家ヘ申合、是又無子細云々、

〔基長卿記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0735 享保元年四月七日、林丘寺宮御願ニ候、此度御疱瘡御療治御全快ニ付、石川仲安、法印之事被仰付候樣ニ御願候、先例、宮方御療治之賞ニ、女一宮御疱瘡御療治仕、御全快後、山科理安法印ニ被成下候、又先大聖寺宮御疱瘡御療治仕、御全快後、村上友詮法印ニ被成下候、兩人とも、同時分候、此例も御座候間、有御沙汰度思召候、又上田養安も、當春明宮八十宮御疱瘡御仕廻被成候間、是も法印に被成下度御内慮ニ候、尚又和泉守迄、兩武、内々尋試、無子細由被申上候はゞ、以傳奏仰出候、先和泉守内意、兩武可尋聞由仰也、則兩武ヘ申達、奉畏候、明日ハ佛參日之間、明後九日罷向申談候而可申上由也、其旨兩人申上候、 九日、梅小路、予、參院謁兩武、被談云、此間被仰出候仲安、養安法印之事、御内意之通、先例等承知仕候、御内意ニ候故、愚存之通申上候、先此義ハ御見合可然哉 と奉存候、其上にも、是非ニと思召候はゞ、可思召次第存候、先御待被遊候而可然奉存候由、泉州申旨也、則兩人以書付言上了、被聞召之由被仰出候、

〔新益柳營秘鑑〕

〈八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0736 享保四年亥十二月〈○中略〉
下乘より内、召れ候人數の覺、〈○中略〉
一醫師ハ 侍一人( ○○○) 、 草履取( ○○○) 、 挾箱持( ○○○) 、 藥箱持一人( ○○○○○) 、雨天之節は 傘持一人( ○○○○) 、

〔寶暦集成絲綸録〕

〈十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0736 寬延三午年八月〈○中略〉
一 町醫者( ○○○) も、右同前、 駕籠( ○○) 之者異體に無之、がさつニ無之樣可致候、〈○中略〉八月

〔德川禁令考〕

〈四十九文武藝術〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0736 醫師〈附地方醫師〉
寬政十午年十月
醫師 苗字帶刀( ○○○○) 之儀甲斐庄武助〈江〉問合
領分在町ニ罷在候醫師之儀、百姓同樣之儀ニハ候得共、俗醫ハ格別、總髪剃髪等ニ而醫師之形ニ成候得ば、苗字名乘來候而不苦儀ニ御座候哉、
〈下ゲ札〉御書面總髪剃髪等ニ而、醫師致候者、御領分在町ニ而も 苗字名乘不苦( ○○○○○○) 儀と奉存候、
一右名字名乘來候而も、帶刀ハ不致心得御座候、他領等〈江〉罷越候節、致帶刀候ハヾ、差留候筋ニ可御座候哉、
〈下ゲ札〉御書面之通御心得可然、他領中〈江〉參候節、致帶刀候ハヾ、御差留被成候儀と存候、右之通、御問合申度奉存候、以上、
二月
右之通、先年御問合申心得罷在候、然處總髪剃髪之醫師著服之儀、 十德( ○○) ニ極り候儀と奉存候、若又 上下( ○○) 著仕候共不苦事ニ御座候哉、
〈下ゲ札〉御書面之通、總髪之醫師、十德ハ苦間敷候得共、上下者不相應之儀に可之候、
一俗醫ニ候得バ、苗字等名乘候筋無之、著服ハ上下十德之類著不苦候哉、
〈下ゲ札〉御書面、私ニ苗字を名乘候ハ、強〈而〉差構も無之、御領主御役所〈而〉取扱ハ、苗字を御認無之方ニ可之候、上下著候儀も、醫業に付、私ニ著し歩行苦間敷、御領主役所〈江〉罷出候節ハ、 羽織袴( ○○○) 、或ハ 白衣( ○○) 抔之御取扱ニ而可然哉に御座候、
一右醫師之類ハ、百姓同樣之者、法名ニ 院號居士號( ○○○○○) を付候事、往昔より譯有之候ハ格別、無左候ハバ差押不苦事ニ御座候哉、其寺之住持心得〈而〉、院居士號之法名付不苦哉、左樣之類ハ、縦令郷臣外之事ニ〈而〉も不差留事ニ御座候哉、
〈下ゲ札〉御書面、都而醫師之類ニ而も、百姓同樣之身分之者ニ、院居士號ハ可遠慮事ニ候得共、菩提寺等之存寄ニ而、外百姓共ニ障無之院居士號付候共、取求御差留被成候程之儀も有之間敷、然共郷例ニ違候ハヾ、御差留不成候而ハ、出入起り可申、其時宜ニ寄、御見計御差留可成儀ニ可之候、以上、
午十月
右之趣、心得ニ奉伺候、以上、
十月 〈鳥居丹波守内〉伊藤安右衞門

〔文久紀事〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0737 同日〈○文久二年十月九日〉御同人〈○和泉守〉御渡
大目付 御目付〈江〉
御醫師著服十德之儀、向後、法印は ひだ入十德( ○○○○○) 、 紫打紐( ○○○) 、法眼は同斷、 白打紐( ○○○) 、無官之者は ひだ無之十德( ○○○○○○) 、 くけ紐( ○○○) 相用候樣可致候、 右之趣、奥醫師奥詰醫師〈江〉相達候間、寄合醫師、御番醫師之面々〈江〉可達候、尤其餘相達可然面々〈江〉は可達置候事、
十月

〔德川禁令考〕

〈四十九文武藝術〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0738 年月闕
百姓より醫師ニ相成候者、苗字其外之儀ニ付、阿部播磨守より間合、
播磨守領分在町百姓共之内、病身等ニ而、無據醫師ニ相成度旨願出候得バ、糺之上、相違も無之候得バ申付來候、右之者剃髪等に相成、自苗字相名乘、十德著用致候而も差留候ニも不及候哉、但名主宿所ニ而吟味有之候節ハ、苗字相除取扱候筋ニ御座候哉、
〈下ゲ札〉書面、本文〈并〉但書共、御書面之通ニ而可然存候、〈○中略〉
一前條之者共、苗字名乘候而も、帶刀ハ不致心得ニ御座候、他領等〈江〉罷越候節、若帶刀致候はゞ、差留候而宜敷御座候哉、
但手醫師之門弟ニ相成候共、俗醫ニ而罷在候得バ、苗字ハ不名乘候心得ニ而宜敷御座候哉、
〈下ゲ札〉書面、在町之醫師、帶刀ハ不相成筋有之候、俗醫之分、苗字ハ吟味等之節ニ無之候共、爲相名乘申方と存候、
一往古より、醫師ニ而、郷中ニ罷在、苗字相名乘、帶刀致來候者、いつ頃より右之趣差免候儀と申儀も不相分候得共、仕來之儀ニ付、其儘ニ而差置候而も苦ケ間敷哉、併帶刀致候儀ハ差留候筋ニ御座候哉、
〈下ゲ札〉書面、仕來ニ候共、郷中ニ居候醫師帶刀ハ、御差留候方と存候、
一 町在抱ニ相成居候醫師( ○○○○○○○○○○) 共、出入等有之、領主役所〈江〉呼出、致吟味候節ハ、百姓同樣ニ取扱候而も不苦筋ニ御座候哉、
但宗旨改等請候節、一己ニ而證文差出候醫師も、本文同樣ニ心得候而宜敷御座候哉、
〈下ゲ札〉御書面、并但書共、御書面之通ニ而、振候儀相見不申候、

〔明良帶録〕

〈新益〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0739 減祿
醫師の家督後( ○○○○○○) 、 幼年の醫術修行中は( ○○○○○○○○○) 、 減祿( ○○) 被仰付、醫術成熟の上被召出節、元高に被成下、修行中減祿ニて相勤可申旨、備前守殿御書付、輕き者養子の儀、由緒の品により被仰付來候處、元來延寶以前被仰出候、御四代目の内に被召抱候者の二半場と唱候向へ、役替小普請入等も相濟候者は、右御代官被召抱之故、向後養子可仰付事、

〔白河侯傳心録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0739 一醫者之義、御先代は、親々取來候知行、不相替家督被仰付趣に候得共、我等存候には、醫者と申ものに、先祖の武功も無之、業ニ而取たる充行に候得ば、其業の善惡ニ而充行も増減すべき事、理の當然に候、親が功者ニ而、子が不功者成も候、功者不功者をゑらみて、知行を可遣候、依之以後は、 家督の時( ○○○○) 、 知行をへし可申候( ○○○○○○○○) 、是却而醫者共の勵みに相成候、なまじい親の知行にて暮に足候得ば、術に精を不出候、暮に手支ひ候得へば、在町をかけ廻り、廣く療治を致し候而、骨を折申候、位牌知行取候醫者は、勞をせざる故いつ迄も下手に而候、官醫はとかく身を高ぶり、輕きものゝ療治を等閑に致と被存候、こわき役人の所へは毎日も見舞、輕き者の所へは見舞も遠く、藥も上向の分、或は家老共の家内の分は、手づから調合し、其餘は弟子にまかせ、配劑帳にて、投やりに調合致遣抔申事有之と承候、醫は仁の術に候へば、左樣ニ、上下親疎の隔を可致事ニ而ハ無之、却而輕き者をいつくしみ、藥を遣候上に、食類をも心を付、是をも拵て給させ、力付候樣に致而、藥を遣すより、功驗も有之事に候、小身ニ而は、人參等之不廻りにて、補遣す事、不行屆も有り、左樣の時は、役人と申談候而、無手支補養屆候樣、實義を專と可致事ニ候、又わるく心得候而ハ、主人の機嫌を取り、奥向へ出入候而は、奥方始女中共の心に應じ、咄を致かけ抔する事、伽の者に似より 候行跡之醫者も見立候、急度たしなみ、醫道專に可致事に候、主人の身の上、不養生の事あらば、早速申聞、たとへ主人の氣に障り候ても、養生體を進め可申事、持前ニ而候、外科は、手負抔扱、金瘡の療治により候へば、猶更眞實を盡し、柔弱に無之候樣可相心懸候、諸醫共、順番に會講致し、醫學專に可致、餘之事ニかゝり合申間敷候、道中供致候醫者、猶更此器量をゑらみ、主人の煩は不申及、傍輩末々に至迄、大切成事に候得ば、等閑の醫者候而は間ニ合不申候、且手醫者、何れも不巧者ニ而、取扱無覺束候はゞ、他所より高知にて召抱可申候、左樣ニ而は、數代之醫師共之恥辱にては無之哉、如斯所を考へ、出精可致候、安く寐甘く物のくはるゝ事に而は有間敷、寢食をわすれて、工夫すべき事に候、

醫師剃髪

〔和事始〕

〈一人倫〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0740 醫者剃髪〈七十四〉
醫者の髪を剃る事、其始をしらず、薩戒記に、永享五年九月廿日、法皇御惱危急、醫師員能法眼祗候すとあり、これを以て見れば、此時すでに剃髪して、僧位に進む事ありし也、

〔公餘渉筆初編〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0740 醫者の剃髪
醫者の剃髪するよしは、薩戒記に見へたり、此書は、應仁〈○應仁恐應永誤〉年中の日記なり、典藥頭和氣某、薙髪して准武家醫とあり、是は、亂世の僧徒は、閑暇なる故、醫療を業として、人のたすけとなりし、終に、是にならひて、髪を剃事とはなれりと、東海の考也、

〔難波江〕

〈六下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0740 醫者剃髪
和事始卷一〈貝原氏著、人倫門、〉薩戒記〈荷田氏家記所繫考にいはく、中山大納言定親卿の薩戒記は、後小松御宇より後花園にいたる、〉に、永享五年九月廿日、法皇御惱危急、醫師員能法眼祗候すとあり、是を以てみれば、此時すでに剃髪して僧位にすゝむ事有りしなり、和氣雅忠剃髪して武家の醫に准ずと和氣系圖にあり、これによりて考へみるに、昔は武家の醫師多くは僧のなせしを、雅忠始めて武家の醫に准て剃髪し、僧位に進みければ 是醫者の僧位にすゝむ始ならん、〈雅忠は、足利家の末世の人ならん、〉續不問談〈篠崎氏著〉醫者剃髪、薩戒記にみえたり、此書應仁年中〈應仁は應永の誤なるべし〉の日記也、典藥頭和氣某薙髪して准武家醫とあり、是は亂世の僧徒は閑暇故醫療を業として、終に是に倣て髪を剃る事也、梅窓筆記上、〈梅宮祠官橘氏著〉法師の醫の御療治にて勤賞ありし事、後愚昧記〈荷田氏の家記所繁考に、後押小路内大臣公忠公の後愚昧記は、御光嚴御宇の事を記す由みえたり、〉永和三年正月二日〈取要〉主上喉疳御惱之時、醫道之輩篤直卿、繁成朝臣、典藥頭雖之、不其驗、令難儀給、仍雖沙汰外、士佛法師被召之間、以針治、令御減給了、舊院文和年中、御http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000203754.gif 物之時、小松房悲阿彌と號法師參御療治、御平愈了、彼度被勸賞、被法印了、藝苑日渉卷一、〈村瀬氏著〉竹田昌慶者、正慶中剃髪攻醫術、慶安中西遊明國、永龢四年歸、孫善慶、應永中叙法眼、進法印、又正四位典藥頭龢氣明重、後剃髪號宗鑑、特旨不僧綱、著直綴白袴、龢氏之剃髪、蓋始于宗鑑、耳袋〈根岸肥前守著〉後小松院の御宇、半井爐庵事、和朝の醫師僧侶官始の由、右は最勝王經天女品に、聊沐浴するの藥劑有之、其比は右の經文比叡山の佛庫に封じあるを、閲見の望ありて奏聞ありし故、叡山へ勅命ありしに、俗體の者拜見を禁じければ、半井爐庵法體して僧官を給はり、右最勝王經を一覽いたしけるとや、往古はかゝることもありしなり、最勝王經の藥法利益あるものにもあらずとおもふよし、さる老醫の物語なりし、
孝云、貝原氏の引かれたる薩戒記の永享年間よりは、橘氏の引かれたる後愚昧記の永和は、凡四五十年もふるかるべし、源氏物語若菜の上の卷〈湖月抄七十三

〈ウ〉

〉に、おのづからほころびのひまもあらむに、くすしなどやうのさましてとあるは、明石の姫君の見つけ給はん事をこゝろぐるしくおもふ處なり、こは剃髪の醫者に似たるなりけり、宿木の卷に、くすしなどのつらにて、みすのうちに云々とあり、この文は剃髪とたしかにはしられねど、常人のすがたとかはりあることゝはしられたり、

〔奇魂〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0742 醫藥名義
醫の僧の姿と成( ○○○○○○○) しは、同書〈○和氣氏系圖〉に、長成、從四位上、典藥助、承久三年出家、法名舜佛、翌日仙院爲御供隱岐、後歸京、と有ぞ初也ける、こは皇帝の故有て幸ます時なれば、形をかへつゝも仕奉しは、忠實なる士の所爲にて異なるを、 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000r07421.gif に僧形と成はいかにぞや、こは鎌倉の武家抔にて、戰場に使ふに事無らしめんが料に然なしけむが、其風自ら京の官醫にも移けむ、同書に、明重云々、始准武家醫法師體、法名宗鑑、と有ぞ實に始也けらし、其原は古僧輩に呪禁は更也、藥方もて人を療ることを許されて、法蓮醫に精しとて、其親族に宇佐君姓を賜り、空海も表を奉て、太素、本草、病原抔を論て、人患を除んと奏しゝ抔、史に有類にて、亂世の比は、まして打任たる業の如成けるを、醫も又僧の姿となれる習なるからに、醫と僧と混しき事もありけん、然れども古は醫官正ければ、僧と紛しからざりしかど、猶僧は 不祥( サカナカ) りきとみえて、續紀〈養老元年〉に、詔曰云々、僧尼依佛道以持神呪病徒、施湯藥、而療痼病、於令聽之、方今尼僧、輙向病人之家、詐祷幻恠之情、戻執巫術、逆占吉凶、恐脅耄穉、稍致求、道俗無別、終生姦亂云々と有、此弊今は殊に甚し、

〔百草露〕

〈十六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0742 京都將軍の醫師をば上池院といふ、年中恒例記に見えたり、はや其頃は 剃髪( ○○) したると見えたり、

〔年中恒例記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0742 正月一日
御對面次第 御對面所へ御出座之時、御供衆、御部屋衆、申次衆懸御目也、然ば近年は御用心に付て詰衆在之、出仕之時は申次之次に懸御目也、 上池院( ○○○) 以下節朔之醫者也、

〔本朝醫考〕

〈中〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0742 和氣氏
明重 尚成子也、〈○中略〉後剃髪號宗鑑、〈○中略〉宗鑑不僧綱直裰白袴、〈倭法官僧聽之、不綱位以著之爲榮、〉蓋 和氏之剃髪始于宗鑑( ○○○○○○○○○) 、

〔和氣氏系圖〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0743 明重〈昇殿、甲斐守、正四下、施藥院使、典藥頭、 始准武家醫法師( ○○○○○○○○) 、法名宗鑑、實者丹波重長適子、〉利長〈從五上、刑部少輔、法名道三實明重弟子也、 中略 永正四正五卒、〉

〔天文日記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0743 天文五年正月廿二日、從小早川安藝守、上野方へ申事には、藥師候が、賀州罷下度之由申候條、〈○中略〉如此申候、其醫師いかなる者にて候ぞと尋候へば、 不出家( ○○○) 、 在家候( ○○○) 、 然共髪をそり候由申候( ○○○○○○○○○○)なり、

〔先哲叢談續編〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0743 向井靈蘭 名元升、字以順、號靈蘭、一號觀水、通稱玄升、肥前人、〈○中略〉歳向知命、提挈妻兒于平安、寓居京極通、 以醫爲業( ○○○○) 、先是嘗詣伊勢神廟、有祈祷、誓將髪、自製深衣常服之、我土未嘗有之者、儒流醫生慕效之者衆矣、其製作之原、資證於明儒黄道周深衣考、典雅而不禮、給便而不服、

〔近世叢語〕

〈一德行〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0743 後藤艮山、名達、字有成、一號養菴、江都人、〈○中略〉自奮勤勉、以醫爲業、遂爲古醫道之開祖矣、二十年間、術盛行、名聲籍甚、請診求治者甚多、弟子受業者凡二百餘人、先是、醫流http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000058024.gif 皆剃髪著僧衣僧官、艮山深惡之、不僧官、幡然束髪、改稱左一郎、而後門人之外、世之有志者、多慕風儀、漸向正俗

醫家弊習

〔羅山文集〕

〈五十六雜著〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0743 醫者
客有醫於京師、對曰、醫而食祿定脈價者十數家、行則輕輿健丁、從者走前、長刀持後、居則高門厚壁、華筵設左、玉几寘右、皆累世系而位法印、今其何醫之問哉、客曰、名者實之賓也、請就而問其實、於是問寸口而不知也、問病名而不知也、問藥氣而不知也、問針處而不知也、問灸穴而不知也、問經絡而不知也、問募原而不知也、問氣運而不知也、問南北政而不知也、去而至佗醫而問醫書、而不其名也、問句讀而不知也、之一醫而又問之、遂至於不一レ一字也、譬魚外魚内爛亦臭乎、飮此等之服藥而不死幸哉、然三世之醫、禮之所載、而又吾邦世官世祿、雖忠厚之至、而父子之賢愚亦所免也、袁參坡所謂朱與均豈庸流哉、爲賢人之子孫難、爲庸人之子孫易是也、吾想學而不富貴、不學而不富貴、與其 學而勞、不若逸而遊、此今醫之意也、若今爲人上者、下法曰醫而不學廢其家業者削官沒上レ祿、乃必有笈懷書之人也、不然則其不一字、固其所也、

〔風俗見聞録〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0744 醫業の事 今の醫師は、醫道の本意を失ひ、猥りに驕奢にほこり、欲情のつよき事言語同斷なり、醫は元仁術にして、人を助くるを元とし、其病源を探り得て、其病苦を救ふを專務とするもの也、韓退之が曰、宰相となつて天下を醫せんや、醫師となつて人の危急をすくはんやといへり、聊も欲情ありては、其妙術を施す事不能也、蜀の關羽腕に矢疵を得し時、醫華陀に療ぜしむ、日ならずして愈る、關羽喜びて謝禮して、黄金百謚を與ふ、華陀が曰く、予は病を療ずるもの也、かならず黄金を好むものに非ずと、辭して不請と云、醫道は元來聖敎の道にて、佛道の慈悲と相對する程のこと也、既に耆婆扁鵲は、佛菩薩の化身などいへり、我邦にても、和氣丹波の頃は勿論の事、近來金守道三、甲斐德本など始、其外とても、驕奢安逸の心なく、別て欲情は絶てなし、一途に仁術を施したる者なり、然るに當世の玄師は、御代の結構過ぐるに任せて、醫術の修業怠りて、奢侈に募り、衣服美麗を盡し、住所も玄關書院其外結構、家從等迄も權式を張り、家内賑やかに暮し、不行状を盡し、飮食の樂を常とし、醫道の玄妙至らざる故、深切の情更になき故、表向を飾つて左も藥醫の體を見せて、人を訛すなり、又世間の人々も、右體立派なれば、療治も其如く上手成ると心得て、尊ぶなり、雙方心に實儀なき故、眼くらみて是非を見分くる事不能、又業體に對して、欲情の深事言語同斷の事にて、或は有識の家、又は卑賤たり共富貴なる病人へは、丁寧に療治をなし、貧窮のものへは疎略になし、殊に官醫、又大小名の醫師などは、別て權高く、病家へ見廻るにも駕に乘り、若黨陸尺、其外の供廻り、武士の如く、又醫者の供廻とて、一ト風替りて、當世の流行醫故病用の閙敷體に見せなすとて、道を急ぎ走りて、却て武士の往來よりも騒敷、行違に人を惱まし、或は喧嘩を仕かけ、若又藥箱などに當りしものあれば、忽ち打擲をいたし、彼道にて、 藥箱は大切( ○○○○○) の道具なりとて、別て威勢を取るものなり、是又謂なき事也、武士の鎗長刀ならば、身命を極る時の要害の道具なれば、人手にかけまじき筈のもの、若差支る者あらば、彼是申べき事にも有べきに、藥箱を夫等と同じ樣に心得るは、間違なり、鎗長刀は、人を殺害する道具なり、藥箱は人を助くる品を入しものなり、人を助くる品を以て、人を痛る事や有べき、殊に仁術法體の身分にして、甚不相當の振廻なり、偖又右の供廻りの者共、病家へ參りし時、 辨當代( ○○○) と號して金錢をねだり取る事通例なり、其價或は金五十疋、百疋、乃至二百疋、三百疋など遣す事なり、是米半俵、又壹俵、二俵の價なり、供廻り纔かに、四五人八九人などの辨當には、餘る程の過ぎたる事なり、其辨當代を幾軒となく、病家さきにてとる也、依て當時貧なる家には大醫は呼かね、容易に療治も賴み兼る事也、又醫師の元へ參りても、病脈より先に貧福の脈を診して、貧相成見體なれば、心を用ひて療治を致し呉ぬ也、さて右體驕奢に誇り、權威を張、仁業を失ひて、欲情に拘る故、療治を賴む病者少く、病者少ければ其身の修業も出來ず、全體貴人又は富有の病は、多くは色欲の傷歟、飮食の溢より起りたる病にて、療治の功ならず、卑賤又貧窮人の病は、種々の難病、及び病根の淺深命根剛柔等、診察の出入多くあるは悉く修業になるべきなり、然るに卑賤と貧窮を嫌ふ故、療治の修業出來ざるなり、又醫師の大小を帶し、武士の如く權式を張る事、近來の事なりと云、國初頃は、法體にて、十德を著、小脇差を帶し、駕に乘ることもなく、供廻りも連れず、町人並の家に住ひ、苗字も名のらずありしと云ふ、〈○下略〉

〔技養録〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0745 醫有十四不可
今之爲醫者有十四不可焉、恃學而疎術、一不可也、主意而昧法、二不可也、年少而麤思、三不可也、年老而難事、四不可也、護身而遁危、五不可也、見利而忘仁、六不可也、輕生而寡惻、七不可也、畏死而多遽、八不可也、厚富而薄貧、九不可也、惈賤而憚貴、十不可也、拘例而失權、十一不可也、趕變而惑常、十二不可 也、巧言而衒技十三不可也、標己而伐他、十四不可也、若妙去不可、其可也乃將自至、忽之無省、其不可也乃將長不一レ除、爲醫如是、其害于人也不尠、何其惠民濟生之云哉、

〔漫遊雜記〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0746 我邦三都之俗、儇巧習於俯仰、視四方人以爲素樸可一レ笑、百虚一實左右賣人、延及醫流、醜態百端、盛輿徒、美衣服、佞給遷就、苟且求http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000003760.gif 、曾不思於藥石經脈之事、四方之子弟、負笈遊學者、不知不識化其俗、以爲粧點、不此則難醫、及其歸一レ家、自爲油滑佞http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if000r07461-1.gif 之人、於是乎、不良不美之俗、靡然布于海内矣、吾技之衰可勝歎哉、

〔志都の石室〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0746 序ジャニ依テ、俗ノ醫者坊ドモノ有樣ヲアラ〳〵申サウガ、其ハマヅ醫ヲ爲ス者ハ、孫眞人モ申タル通リ、其容貌ヲ嚴カニイタシテ病家ニ信ゼラレ、病ノ邪氣ニハ、怖レラルヽヤウニ致シタイモノジャガ、今時ノ醫者ノ仕ザマハ、甚シイデゴザル、其ハタヾ名利名聞ノコトニノミカケ走テ、眞實カラ出テ致スコトトテハ无ニ依テ、其容貌ヲカザリ、大門戸ヲ張ルノモ、拙者ノ只今申ス處トハ見込ガ違ッテ、オノガ潤屋ノ計ニノミ致スコトデ、云ハヾ體ノヨイ賣藥師デゴザル、ソノ奸曲ワル工ヲシテ人ヲ欺キ、物取ノテダテノ巧者ナルコト、醫術ノ方ヨリハ、百陪モマシテ居ル、此方モ屋鋪ニ居タルミギリハ、ソンナ委キ訣モ知ランデ居タガ、カヤウニ外宅イタシテ、始メハシッカリ、此道ヲ賣ウト存ジテ、弘ク醫者ニモ交ッテ見タル處ガ、醫者ガ誠ニタント有テ、風來ガ天狗シャリカウベニ、今時ノ醫者ト云ハ、武士ノ子ナレバ惰弱モノ、百姓ナレバ疎http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000011454.gif モノ、町人ナレバ商ヲ爲得ズ、職人ナレバ不器用モノニテ、口過ヲシカネル者ガ醫者ニデモナラウト云、ソレヲ號ケテ、 デモ醫者( ○○○○) トテ、アタマクルリノ長羽織、見エト座形バカリニテ、露路モ長屋モ、蹈モスベルモ、ソコラコヽラガ、犬ノ糞ダラケ、醫者ダラケ、病家モメクラ、醫者モメクラ、メクラ千人ノ浮世ナレバ、コレヲ呑ムモノ、往生ノ素懷ヲトゲナガラ、恨ミモセネバ氣ノ毒ナトモ思ハズ、アヽ悲シイカナ、文盲ナルカナ、ト云タル如ク、イヤ誠ニ、アイソモコソモ盡果タ者ドモバカリ デ、其業ノコトハ、人ノ命ニアヅカル大切ノコト故、相應ニ學ンデモ居ヤウシ、是シキノコトハ知ッテモ居ヤウト思フ處ガ、一向ナモノデ、今ノ古方家トナノル輩ハ、ヤウ〳〵吉益周助ガ、傷寒論ト金匱要略ノ中カラ、オノガ氣ニ入タル方ヲ拾ヒ出シテ拵ヘタ、類聚方ト云物ヲ、ナマ〳〵ニ心得タグライノコト、又後世家ト云輩ハ、方彙グライ、モチツト働タ處デハ、津田玄仙ガ療治茶談、加藤玄順ガ醫療手引草、ヤウノ物ヲ見カヂッテ、夫デモサスガニ、今時ハ人ガ利口ニ成テ居ルカラ、人ノ侮リヲ禦グ爲ト見エテ、古キ醫書ノ名目バカリハ能ク覺エ、ソノ内一ヒラ半ヒラバカリノ處ヲ記臆ナンドモシテ、夫デ素人ヲオドシ、甚ダシキハ夫モ知ラズ、彼川柳點ニ、カゴヘハ無點、カナ付ハ内デ讀ミ、ト云ヒ、マタ唐本ハ駕ニノル時バカリ入レト、云タル如ク、ヅブヨメンデ、讀メル面ヲシテ居ルモ多ク有ルガ、ヨメル奴モ讀メヌヤツモ、大抵ハタヾ人ヲソラサヌトカ云、修行バカリニ身ヲ入レテ、世間ノ人氣ヲハカリ、女ヤ愚人ノ心ニ合フヤウ〳〵、トスルコトバカリヲ勉メテ致シ、少シモ爲ニナリサウナ病家ヘハ、何デモ无イ病ニモ、日ニ二度モ三度モ見舞テ、物ノ哀レヲ知貌ニモテナシ、大小便モナメンバカリニ世話ヲヤキ、年始暑寒ノ見舞ハ云ニ及バズ、フダンモ伺候シテキゲンヲ取リ、遇々オノガ出入ノ家ヘ他ノ醫者デモ呼デ藥ヲ貰フト、其ヲソコイヂワルク邪魔ヲ入レ、ツヽキ出シ、其ハ但シ自分モ出入處ユエ、マヅ夫トモ思フケレドモ、人ノ行先ノ病家ヲモ手ヲ入レ足ヲ廻シテ覗ヒ取リ、又或ハ組合ト云ガ有テ、五人カ七人ノ醫者ガ申合セテ、其奸曲ノ爲ヤウナドガ、誠ニカホドマデニモ心ノ行屆ク物カト、甘心スルコトバカリガ多イデゴザル、〈○下略〉

〔塵塚談〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0747 官醫の衣服の事、我等〈○小川顯道〉二十歳比迄は、御城の外他行の節は、脇差計、御紋服は各別、自紋は、殿中にて坊主に紛るゝとて、决して著せず、無紋の衣類を著したり、自紋の衣服は、絶て持ざりし事也、故に皆人官醫に定役はなき事と思ひしなり、寛政年間迄は、脇差のみにて歩行し人 もありけり、家内にては、旦那樣と稱しけるに、近歳に至、自紋の服、刀は離さず、其上に殿樣と稱し、若黨は定袴にて召仕ひ、全く武家の樣體になりしなり、御番衆の省略とあちらこちらにて、ぎやうぎやうしく見ゆ、心有らん人はいかゞ思ふにや、

〔德川禁令考〕

〈十七官醫長〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0748 天保十二辛丑年十一月十四日、醫師供方ノ儀ニ付達、
近來醫師之供方、風儀一體ニ惡敷相成、病家〈江〉罷越候度毎、酒料或者辨當代と唱、金銀を乞受候由ニ相聞候、病體ニより候而者、時刻并風雨等之無差別相招療治受候事有之候ニ付、病家之心得を以、供方之者共〈江〉、手當致し候を受納候者、格別ニ候得共、供方之者共より、ねだりケ間敷儀申出候ハ有之間敷筋ニ而、小身又者身上不如意等之ものは、療治請候儀難成、右者畢竟家來〈江〉之申付方不行屆故ニ候、以來右樣之儀無之樣、嚴敷可申付置候、十一月

〔觸留〕

〈六ノ二百一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0748 申渡
神田明神下御臺所町銀藏店
〈人宿〉 文七( /外捨貮人)
御醫師供方之もの共、風儀不宜候ニ付、去ル丑年觸置候趣も有之候處、近來又候心得違致し、病家先ニ而、酒代等不差出向〈江〉は、ねだりケ間敷儀申掛候もの有之哉ニ相聞、其方共、專ら御醫師方供方人入致し候趣相聞、右體埒もの有之候段、平日申付方、等閑故之儀ニ付、吟味之上、急度も可申付處、此度は宥免を以、吟味之不沙汰、此上不埒之筋於相聞は、供先ニ而も無用捨召捕、其方共〈江〉も嚴敷可沙汰間、以來右體之儀無之樣、精々入念、寄子共等〈江〉申付置候樣可致、十二月〈○弘化二年〉九日

〔靑囊瑣探〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0748 陶器醫
東都本街傳馬街者、巨賣所居也、近坊醫家、有此兩街而爲生活者數人焉、毎朝醫者往其商家、診僮僕之病者、回家調劑、乃連竈煎煮數人藥、入陶器、以小箋患者姓名、糊黏其上、乃肩奴以致各家、必不病家臧獲也、雖患者之時、醫日往問寒暄、猶主家、世俗呼之曰 陶器醫( ○○○) 、都下雖廣大、未他處有此風也、蓋此媚醫之所剏、遂爲習耳、説此於他邦人、未信焉、

外國醫師

〔奇魂〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0749 醫藥名義
外國の人に、病を治させ給しは、新羅より使に奉し金波鎭漢紀武と云が、允恭天皇に藥を奉しぞ始也ける、されど後には宇多天皇の、京に唐人を入ることを禁たまひ、小松大臣の、漢醫に病を治させざりし類も有き、其比は珍しとにもあらねど、二荒山の御神〈○德川家康〉の三河國に在しゝ頃、癰を患給しに、當時支那より、醫の來居たるに治させむと臣等の申しゝかども、御國の耻なりとて、痛く否て容易は許まさゞりしこそ尊けれ、

〔古事記〕

〈下允恭〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0749 天皇、初爲知天津日繼之時、天皇辭而詔之、我者有一長病、不日繼、然大后始而諸卿等、因堅奏而乃治天下、此時新良國主、貢進御調八十一艘、爾御調之大使、名云金波鎭漢紀武、此人深知藥方、故治差帝皇之御病

〔日本書紀〕

〈十三允恭〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0749 三年正月辛酉朔、遣使求良醫於新羅、秋八月醫至新羅、則令天皇病、未幾時病巳差也、天皇歡之、厚賞醫以歸于國

〔日本書紀〕

〈十九欽明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0749 十四年六月、遣内臣〈闕名〉使於百濟、〈○中略〉勅云、所請軍者隨王所一レ須、別勅 醫博士( ○○○) 、易博士、暦博士等、宜番上下、令上件色人、正當相代年月還使相代、十五年二月、百濟、〈○中略〉貢〈○中略〉 醫博士( ○○○) 奈卒王有http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000088309.gif

〔小右記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0749 長和三年六月廿五日己卯、入夜淸賢師從鎭西來談雜事、持來治小兒病中生一レ虫之藥、予〈○藤原實資〉乞遣來大宋國之醫僧許、〈號惠淸〉淸賢師者、爲按察納言使、令http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000036805.gif 砂金十兩彼醫師所、令易治眼 之藥、送二種者、件淸大德仰高田牧司歳規朝臣、以隼船勞送也、又仰宗像大宮司妙忠、聊令勞、

〔平家物語〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0750 醫師もんだうの事
同じき〈○治承三年〉夏の比、小松の大臣〈○平重盛〉は、〈○中略〉其比くまの參詣の事有けり、〈○中略〉其後大臣下向の時、いくばくの日數をへずして、病つき給ひぬ、ごんげんすでに御なうじゆ有にこそとて、りやうぢをもし給はず、ましてきたうをもいたされず、其比そうてうよりすぐれたる名いわたつて、本朝にやすらふ事有けり、折ふし入道相國〈○重盛父淸盛〉は、ふくはらの別げうにおはしけるが、越中のぜんじ盛俊をししやにて、小松殿への給ひつかはされけるは、しよらういよ〳〵大事なるよし、其聞え有、かねては又そうてうより、すぐれたる名いわたれり、折ふし是を悦びとす、よつてかれを召しやうじて、いりやうをくはへしめ給へと、の給ひつかはされたりければ、大臣たすけおこされ、もりとしを御前へめしてたい面有、先いりやうの事畏て承はり候ひぬと申べし、たゞしなんぢもよく承はれ、えんぎの御門は、さばかりの賢王にて渡らせ給ひしかども、いこくのさう人を都の中へ入られたりし事を、末代までも、けんわうの御あやまり、本朝のはぢとこそ見えたれ、いはんや重盛程のぼん人が、いこくのいしを王城へ入ん事、まつたく國のはぢにあらずや、〈○中略〉たとひ重盛命はばうずといふ共、いかでか國のはぢを思ふ心を存ぜざらん、此よしを申せとこその給ひけれ、

〔滿濟准后日記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0750 永享六年六月九日、日野中納言、唐人醫師參上ニテ、令祗候、御脈樣可申入、歸參時、可披露云々、仍猶逗留了、
管領來入、唐人醫師召具云々、仍對面了、先管領ニ對謁、次醫師并通士一人管領引導了、予對謁、唐醫、單衣體也、唐醫暫休息、無左右脈、乘馬之間如此云々、次取脈、卓ノ上ニヤハラカナル物ヲ可敷云々、仍可然用意、其後左手ヲヤハラカナル物ノ上ニ居テ、醫師、手ヲバ卓ノ上ニ居テ、 取之了、右同前、申詞、唐醫ニ仰テ、令書付了、
看診得、左手脈微緩、帶洪數、獨肝部盛、主病原因、怒氣起後、至痰氣虚熱、右手三部脈倶微弱無力、主脚氣欠淸、脾胃弱、飮食少味、當加味六君子湯
唐醫如此注之、則良藥調合事頻申、雖然重可申遣之由返答了、冷麵干飯等於閑處之了、

〔長崎志〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0751 長崎渡來儒士醫師等之事
浙江金華府人 醫師 陳明德
右者、寛永四年渡來リ、長崎に居住を願ひ、姓名を改て、穎川入德と名付、醫業を勤む、今に至りても、子孫長崎町醫と成る、〈○中略〉
浙江杭州府人 醫師 陸文齋
右者、元祿十六年八月四日渡來、十一月廿四歸唐、
江南蘇州府人 醫師 呉載南
右者、享保四年三月十六日渡來、同六月十二日病死、

〔杏林雜話〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0751 享保三年戊戌、 命徴西醫( ○○○○) 、是歳杭州陸文齊、蘇州呉載南、朱來章、題松陽、汀州周岐來等、應命而至、九年甲辰、又命募求醫書、呉舶因齎醫書數種來、後文化元年甲子、徴蘇州胡振〈○字兆新〉於崎嶴、使小川汶菴、千賀道隆、吉田長禎三醫士就學 蓋此例云( ○○○○) 、

〔近世名醫傳〕

〈附録〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0751 來舶洋醫
施勃兒篤( シーボルト)
施勃兒篤者、普魯士國巴威里貴族也、生而穎異、氣宇兼人、長遊學諸邦、後移籍和蘭、以我文政六年癸未、隨貢使、始來長崎蘭館、學問洽博、最長醫術、兼精植學、先是有國禁、蘭醫來寓本港者、不濫施治於 館外病者、長崎奉行聞施之醫名、至是禀准特許之、又借與廢地若干歩、以闢藥物園、當此時、施名聲震爆四方、四方學者、麕至其門、乃設校舎於鳴瀧村、開醫學及植學教授、若高良齋、戸塚靜海、伊東玄樸、高野長英等、最爲其入室弟子焉、九年丙戌八月、施來江都、入謁幕府、名聲益騰、時書物奉行兼天文掛高橋作左衞門、視其所携和蘭屬國地圖、求之不得、因密贈日本地圖以換一レ之、而人未之知也、十一年戊子九月、施將和蘭、船既發長崎、將支那海、會海颶大作、船幾覆、再漂著長崎、例凡外舶之出港者、官不之、入港者毎必點撿其所齎載、施之再著崎港也、吏照例點檢之、見中有日本地圖、走告長崎幕吏曰、施或有異志、吏驚白之奉行、即捕施幽于出島、收其所藏刀劍書籍類、又捕作左衞門父子獄、明年己丑正月、坐下獄者三十八人、施自撤室内璃窓、不風日、不氈被、人諫之、則曰、使吾弟子輩罹此苦厄、吾豈忍安居乎、此歳九月、幕府赦施、放逐于其國、禁其再來航、而作左衞門以下、處刑各有差、後歴三十餘年、施再來航長崎、幕府不復問舊罪、命伊藤圭介等植物學、施亦盡力教誘、無幾歸國、於彼一千八百六十六年病歿於門占府、即我慶應二年也、〈○中略〉
門尼幾( モンニツキ)
門尼幾者、和蘭陸軍醫官也、我嘉永元年戊申六月廿日、始來長崎、爲當時在崎甲丹館附屬書記官、始門自齎牛痘苗種、〈○中略〉世稱門爲我邦種痘術之鼻祖者爲之也、〈○中略〉
朋百( ポンペ)
朋百者、和蘭貴族也、夙長醫術、在國任陸軍軍醫、我安政三年八月、奉國命于長崎、松本良順奉幕府内命、以醫學傳習頭取、往受其教、萬延元年、良順與朋胥謀、創立病院於長崎、傚和蘭法、名之養生所、於是幕府更聘朋、以爲其教師、定學科課程、是爲外國教師及定醫學教則之始焉、〈○中略〉
抱獨英( ボードイン)
抱獨英者、爲和蘭陸軍一等軍醫、我文久初、應幕府之聘來、爲長崎精得館教師、精得館者、係養生所之 改稱、〈○中略〉
烏利土( ウリース)
烏利士者、英吉利國人也、我慶應初、隨其國公使來朝、戊辰伏水之役、官軍多負傷者、乃假設軍陣病院於京師、烏時在輦下、官因雇聘之、托醫治、既而官軍四征討歸順、士卒負傷者、陸續輿載而還、官又設軍陣病院於横濱、召焉爲之長、〈○中略〉又奉命巡視北陸諸邦軍病院、當時銃創治療未闢、概襲用舊方、及烏所一レ爲、靡然師法之、頓一變其術矣、時官設大病院於東京、烏還而任其院長、尋更稱大病院大學東校、以養成醫學生徒、烏又任其教師、〈○下略〉

問醫方於外人

〔辨醫斷〕

〈下附録〉

朝鮮國大國手慕菴李先生、及南丹崖成尚菴二醫宗啓、伏以、萬里跋渉、羣儀多福、曷勝欣慰、僕乃筑藩米府一醫員也、雖本業祿公廩、才庸術剟、恒貽尺官之誚、學陋識狹、徒抱http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000019806.gif 之嘆、玆者使槎之來、幸而獲扁師之過一レhttp://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000058520.gif 、邦法攸禁、奈躬斅蘇生之負笈執鞭之願墮矣、撞鐘之叩孰施、雖爾千載奇運、豈易驟得、因迺一二夙疑、遙此録往儻或不韞秘、詳賜啓迪、亡不佞享大惠、寔亦吾鄰永賴乎、是區々之所望也、
癸未季春 堀江道元頓首
鄙問〈凡六條〉
一僕在長崎、視唐山人治一レ病、多臨時處藥、希用成方、貴邦治法亦若是耶、
一病有吐法、但吾邦從來愼吐法而不甚喜用、故莫得而徴其方孰勝矣、貴邦吐法亦用瓜蒂三聖之類乎、抑有經驗奇方耶、
一風癇病、世多有之、而於其藥効且證、雖五癇之別、病機所發、似多意、或有必驗之神方乎、如有靈秘、請惟勿慳、
一吾邦近來癲狗咬傷證甚多、在初傷時、用法去其惡血、多灸以抜其毒、乃能得活否、則爲毒所一レ攻、身 作狗状、狗http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000003419.gif 即死矣、如不即發、必淹歳歷月無毒發而致一レ死焉、方書雖斑蝥燒骨等解毒之法、僕所試也、貴邦亦有此患耶、於其治法若何耶、
一唐山近來有種痘法盛行、御製醫宗金鑑等書、亦詳載其法、稱謂去逆爲順、化險爲平之良法矣、先有唐醫種痘科李仁山者、就商舶而來崎焉、鎭臺命僕等二三生其種法、僕既得之、乃試其法于彼地童輩者幾二十人、因其形之強弱、毒之淺深輕重稀稠則有矣、未其或一誤者、於是乎、始信其法爲一レ妙矣、貴邦亦傳此法、耶、抑已傳而盛行耶、
一我米府中外、夏月、小兒有異疾、俗名疫痢、而實非疫痢、其證初得熱痢、赤白相雜、頻併無度、身熱如燎、悶亂煩渇、俄而神昏氣憊、http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000066612.gif 掣眼竄劇證並出、或一日、半日、或二三日、雖遲速、均必死矣、僕仕此邦來、乃歴視此證、多在日中、頑要屢犯暑熱且内、或兼停食者、輙有之、故於初得急投黄連解毒三黄石膏等湯、則十或救其二三、晩則雖與罔及矣、但此證惟在小兒、不于大人、惟行我邑于他邦、爲異耳、貴地或有是證耶、病抑何以爲名耶、儻有良法、幸併勿吝、答
一吾邦業醫者亦多、有成方之習、而未大病、糢糊之弊、然醫者意也、若固泥古方、不活變者、眞庸工也、
一古有吐之症、亦有吐之禁、吾邦西北、風土高燥、人氣猛剛、間有吐之症、而必用瓜蒂三聖散等藥、東南則居地卑濕、民性柔脆、當吐之症十無其一矣、
一風癇之症、吾邦之人間有之、而始起氣實者或有於滌痰之劑、苦邪瀰正虚、則多成不治之症
一狗咬之症、吾邦亦多有之、而治法母惡血、多艾灸以抜其毒、其不即發、而或發於二三歳後者、症甚危惡、間有於斑蝥、所見亦至數人矣、
一種痘法、則吾邦之醫間有之者、而傳之者不多、余亦粗見其法、而未曾歴試矣、
一暑月小兒毒痢之症、吾邦之嶺南尤多有之、甚者至於熱悶神昏http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000066612.gif 掣目竄等症、此乃三氣交蒸之時、小兒氣禀http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000006667.gif 弱之致也、大人氣虚者、間中是症、惟不http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/if0000066612.gif 掣目竄之境、治法急灌淸洌之泉、以救燎之原、黄連解毒三黄石膏等湯必用之方、而若失連進之力、則勺水不輿薪之火耶、若遇是症、則雖一日十服藥可也、歳甲申臘月晦、朝鮮愚泉書、


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