p.1433 豐年トハ、穀蔬豐熟ノ年ヲ云ヒ、凶年トハ、穀蔬不熟ノ年ヲ云フ、豐年一ニ滿作ト云ヒ、凶年一ニ凶作ト云ヒ、或ハ不作トモ、飢饉トモ云フ、凡ソ農業ハ、天候ト人力ト相待チテ效果ヲ奏スルモノナルニ、往々天候不順ニシテ、或ハ霖雨アリ、或ハ旱魃アリ、爲メニ穀蔬ノ發育ヲ妨ゲラレ、或ハ大風吹キ、或ハ洪水起リ、爲メニ其成熟ヲ害セラレ、秋稼ヲ損ズルコト、古來其例少カラズ、就中養和ノ凶荒ハ、尤モ慘状ヲ極メ、京都ニ於ケル二箇月間ノ餓死ノミニテモ、四萬二千餘人ニ及ベリ、近世天明天保ノ凶年モ亦奧羽ノ諸國ハ、死者甚多ク、終ニ人々相食ムニ至レリ、凶年ノ甚シキモノハ、斯ノ如ク人ヲシテ酸鼻ノ極ニ至ラシムルヲ以テ、世々ノ爲政者、厚ク意ヲ此ニ用ヰ、農民ヲシテ、豫メ穀類ヲ貯藏シテ、不時ノ用ニ備ヘシメ、不幸ニシテ凶年ニ遇ヘバ、其淺深ニヨリ、或ハ租税ヲ免除シ、或ハ種子ヲ貸與スルナド、種々救恤ノ法ヲ設ケ、勉メテ飢餓ヲ濟フノ途ヲ講ゼリ、而シテ其救濟方法ノ如キハ、政治部賑給篇、救恤篇等ニ詳ナリ、宜シク參看スベシ、
p.1433 豐稔〈ホウシン豐年〉 〈豐饒豐登〉
p.1433 豐年 豐登
p.1433 滿作
p.1433 豐年(ホウネン)
p.1433 滿作(マンサク)
p.1434 三年有レ年、傳、有レ年何以書、〈◯註略〉以レ喜書也、大有レ年何以書、亦以レ喜書也、〈◯中略〉彼其曰二大有一レ年何、〈◯註略〉大豐年也、〈註、謂五穀皆大成熟、〉
p.1434 天平十八年正月、白雪多零、積レ地數寸也、於レ時左大臣橘卿、〈◯諸兄〉率二大納言藤原豐成朝臣、及諸王諸臣等一、參二入太上天皇〈◯元正〉御在所一、〈中宮兩院〉供奉掃レ雪、於レ是降二詔大臣參議并諸王者一、令レ侍二于大殿上一、諸卿大夫等者、令レ侍二于南細殿一、而則賜レ酒肆宴、勅曰、汝諸王卿等聊賦二此雪一、各奏二其謌一、
葛井連諸會應レ詔歌一首
新(アタラシキ)、年乃波自米爾(トシノハジメニ)、豐乃登之(トヨノトシ/○○○○)、思流須登奈良思(シルストナラシ)、雪能敷禮流波(ユキノフレルハ)、
p.1434 おほくにのさと かねもり
年もよし(○○○○)こがひもえたりおほくにの里たのもしくおもほゆるかな
p.1434 此月土民納二年貢一、凡秋米收納法、晩秋縣吏、先巡二撿田地立毛(タチケ)之善惡一、〈◯中略〉其立毛宜歳、民間稱二世中宜(○○○)一、又謂二豐年一、凡百石田地收二納秋米百石一、是謂二縮取一、悉縮得之義也、其次百石之中、或八分或七分、惡者納二二分或三分一、是謂二幾箇成一、定二其收納之法一謂レ置レ免、言免レ多而少取レ之義也、又百石田收二五十石一謂二半納一、是中之上也、是皆依二歳之豐凶一而雖レ定レ之、農民於二其内一、又減二一分一、或請レ減二二分一、是謂レ請レ免、言免二收納之多一義也、
p.1434 佐々目郷書下案
今年者當郷滿作(○○)候へば、於二有レ限年貢一者、百姓等不レ可レ申二異儀一之處、爲二奸曲一、〈◯中略〉於レ有二緩怠一者、不レ可レ然之状如レ件、
應永元十月廿二日 法印
佐々目郷公文殿
p.1434 四年三月己酉、詔曰、〈◯中略〉是後風雨順レ時、五穀豐穰、三稔之間、百姓富寛、頌徳既滿、炊烟
p.1435 亦繁、
p.1435 元年、當二是時一風雨順レ時、五穀成熟、人民富饒、天下太平、〈◯又見二扶桑略記一〉
p.1435 二年、是時天下安平、民無二傜役一、歳比登稔、百姓殷富、稻斛銀錢一文、牛馬被レ野、
p.1435 八年、是歳、五穀登衍、蠶麥善收、遠近清平、戸口滋殖焉、
p.1435 二年正月壬子、詔曰、間者連年登穀、接レ境無レ虞、元元蒼生、樂二於稼穡一、業業黔首、免二於飢饉一、仁風暢二乎宇宙一、美聲塞二乎乾坤一、内外清通、國家殷富、朕甚欣焉、可二大酺一五日、爲二天下之歡一、
p.1435 弘仁四年十月壬午、奉二幣於名神一、報二豐稔一也、
p.1435 弘仁五年八月壬申、詔曰、朕恭踐二天位一、纂承二洪基一、旰食宵衣、星琯頻改、雖三躬居二紫極一、而心遍二黎民一、庶齋二七政一以無二水旱之災一、勸二九農一以有二仁壽之喜一、頃年以降、春耕候レ花、不レ愆二濯枝之潤一、秋稼垂レ穎、可レ餘二栖畝之粮一、是則神靈降レ祥、佛子修レ善之所レ致也、朕思下膺二斯嘉貺一、寄二中實於百神一、欣二彼豐稔一、報中勤勞於萬姓上、宜下委二天下國宰一、明加二撿挍一、奉中官社幣帛上、並施下給高年僧尼及耆老鰥寡孤獨不レ能二自存一者上、各有二等級一、務在レ賙稱二朕意一焉、 九月戊子、奉二幣明神一、報二豐稔一也、
p.1435 大治元年、今年五穀豐稔、野老擊壤、世以爲二殺生禁斷之報一、
p.1435 應永四年丁丑、冬雪フラズ、其年の作毛吉、
p.1435 明徳六、〈丁巳〉此年、賣買吉、秋モ耕作吉、稗十分也、
p.1435 寳暦九卯年七月朔日
一當卯年諸國作方之儀、何年ニも無レ之至極豐作之聞有レ之候條、各當二撿見坪刈一、別而念入格別御取箇進候様、出精可レ有レ之候、
p.1435 和銅五年九月己巳、詔曰、朕聞、舊者相傳云、子年者穀實不(○○○○○○)レ宜(○)、而天地垂レ祐、今茲大稔、古賢王有レ言、祥瑞之美、無三以加二豐年一、〈◯中略〉宜レ大二赦天下一、其強竊二盜、常赦所レ不レ免者、並不レ在二赦限一、但私鑄レ錢
p.1436 者降二罪一等一、〈◯中略〉天下諸國今年田租、并大和河内山背三國調竝原二免之一、
p.1436 神龜三年九月丁亥、天皇臨レ軒詔曰、今秋大稔、民産豐實、思與二天下一共二茲歡慶一、宜レ免二今年田租一、
p.1436 天平三年八月辛丑、詔曰、如聞天地所レ貺豐年最好、今歳登穀、朕甚喜之、思與二天下一共受二斯慶一、宜レ免二京及諸國今年田租之半一、但淡路阿波讃岐隱岐等國租、并天平元年以往、公私未レ納レ稻者、咸免二除之一、
p.1436 延暦六年十月丁亥、詔曰、朕君二臨四海一、于レ茲七載、未レ能レ使下含生之民、共洽二淳化一、率土之内、咸致中雍熙上、顧二惟虚薄一、良用慙嘆、而天下諸國、今年豐稔、享二此大賚一、豈獨在レ予、思與二百姓一慶二斯有年一、其賜二天下高年百歳已上穀人三斛、九十已上人二斛、八十已上人一斛一、鰥寡孤獨疹疾之徒、不レ能二自存一者、所司准レ例加二賑恤一、仍各令下本國次官已上巡二縣郷邑一、親自給上レ禀、
p.1436 熟荒 近年米價賤くして、士人の窮する事甚し、これを熟荒と云、清董含が蓴郷贅筆に曰、秋大熟、斛米二錢、時湖廣江右價尤賤、田之所レ出、不レ足レ供レ税、富人菽粟盈レ倉、委レ之而逃、有二貨充斥一、無二過問者一、百姓號爲二熟荒一、猶憶順治丙戌辛卯兩年、米價騰貴、毎レ石價至二四兩餘一、而民反無二流亡者一、古人云、穀賤傷レ農信然、薜宗伯所蘊有二豐逃行一、槪乎其言レ之也、 覃按、此書袖珍本の説鈴の中に收載して、大本の説鈴になし、又國朝詩別裁の作者二百餘人の中に薜所蘊の名なし、豐逃行の詩は見まほしきものなり、〈八月十三日府中ニ書ス〉
春臺先生糶賤行詩抄、出二于卷三十四一、可二以補二此詩一也、〈庚午五月七日雨中記〉
p.1436 春臺糶賤行詩 春臺先生の詩に 糶賤行
東都士民何匈々、始レ自二孟冬一至二季冬一、海内糶賤諸侯困、哀哉方今士與レ農、郡國近歳頻有レ年、粟米如レ土不レ直レ錢、迺詔二有司一議二定價一、號令數出紛々然、貴レ貨賤レ穀由二上政一、因循無三人察二利病一、號令愈出愈不レ行、黎p.1437 民何以保二性命一、商賈何親戚、士農何仇讎、末厚本却薄、一樂一憂愁、本末厚薄兩易レ處、冠履倒置皆失レ據、都鄙嗷々不レ聊レ生、在位肉食日暇豫、君不レ見農夫辛苦把二鋤犁一、秋成二粟米一如二塗泥一、已知樹穀徒費レ力、來年誰復事二夏畦一、天下求レ利相馳逐、那知金錢不レ如レ穀、一朝不レ炊終日飢、金錢寧充二人口腹一、冠冕君子胡然愚、皆道有レ錢斯有レ粟、郡國粟米鉅萬々、何若擧棄二之壑谷一、不レ然鉅船稇載去、遠向二海外諸國一鬻、愚哉四國有レ粟可二金賈一、一方無レ糴何所レ苦、君不レ見盈虚消息天道彰、年歳穰儉豈有レ常、安知今日如レ土米、不レ爲二後來餓者糧一、勸レ君儲蓄民間粟、用待二凶年一救二飢荒一、 太宰純艸
右之艸本牛込改代町田中寺にありしを得て裱褙したるとて、人のみせしまヽに寫し置也、〈(中略)牛込御門外藥店龜屋勘兵衞話、六月廿八日、〉
p.1437 不レ可下因二經義一以論中其是非上者、獨我東方、年之豐耗也、自二古在昔一祈二豐年一者、天下之常也、而我方衆國擧豐熟、而穀價太賤、則士農工商、皆不二以爲一レ樂、其喜レ之者、唯負擔之細民也、漢時以二斗米三錢一爲二太平之美事一、今我方、斗米不レ及二一兩金一、則四民皆窮二乎財用一、是專以二金銀一爲二主用一故也、
p.1437 同年〈◯延享元年〉豐作ニ付、新米一石三斗ガヘナリ、〈◯註略〉依レ之御藏米ノ御旗本衆困窮ニ及ブ、則御買上ゲ米ノ儀、評定有レ之トイヘドモ、御損毛有レ之事ユヘ、奉行役有徳ノ町人九人ヘ買上ノ義御頼ミナリ、伊勢町成井善三郞、小船町村田七右衞門、茅場町冬木萬藏、新堀冬木喜平次、小網町天野甚右衞門、中橋石田何某、兩替町海保半兵衞、同三谷三九郞、飯田町萬屋伊兵衞等ナリ、彼等ガ買上ゲワヅカナルユヘ不レ及レ力トイヘドモ、公儀ノ御威光ニテ、一石一斗迄ニハナリ、又其比傳馬町綿屋何某、南部修理大夫殿ノ仕送リス、依テ御米拂時一石一斗ニ賣ケレバ、下直ニ賣タル咎ニテ手錠ニナル、依レ之米多シトイヘドモ下直ニ賣者ナク、又高直ニ買者ナク、暫米商賣相止ミタリ、夫ヨリ又々二番ノ有徳者五十八人、買上米被二仰付一、何モ少シ宛ノコトユヘ、米高ハ多キコトナレバ詮方ナシ、キビシキ被二仰付一有テ、九斗二三升ニナル、前九人ノ賣米ハ不レ及レ申、後五十八人ノ買米モ、町奉
p.1438 行ヨリ封ヲ付テ賣コトヲ不レ許貯レ之、其後二千兩以上ノ町人ドモ御吟味ニ付、名主共承レ之書上ル、江戸、京、大坂、奈良、堺筋迄如レ斯、三十日餘世間大ニ騷動ス、十月廿日比ヨリ漸靜ル、
p.1438 饉〈音覲、コン、ウフ、〉 饉〈俗〉 饑飢〈或、正、音肌、 ツカル ウヘ ウウ イヒニウヘタリ イヒウヘ(ヱ)ス 和、ケ、〉
p.1438 飢饉
p.1438 飢饉(キキン) 飢渇(キカツ)
p.1438 飢饉 飢寒
p.1438 飢渇(ケカチ)
p.1438 農作 不作(フサク) 損亡(ソンマウ)
p.1438 飢饉(キキン)〈爾雅、穀不レ熟曰レ飢、蔬不レ熟曰レ饉、〉 飢荒(キクワウ) 飢渇(キカツ) 飢年(キネン) 凶年(キヨウネン)〈歉歳、荒歳、並同、連年穀不レ登曰二凶年一、出二穀梁傳一、〉凶稔(キヨウシン)〈同レ上〉 凶歳(キヨウサイ)〈同レ上〉
p.1438 けかち 西州の俗語、飢渇の音也、
p.1438 飢〈唐韻、集韻、居夷切、韻會、居狋切、竝音肌玉篇餓也、書舜典、黎民阻レ飢、爾雅釋天、穀不レ熟爲レ飢、註、五穀不レ成、又、仍飢爲レ荐、註、連歳不レ熟、韓詩外傳、一穀不レ升曰レ歉、二穀不レ升曰レ飢、 按、説文飢饑二字、飢訓レ餓、居夷切、饑訓二穀不一レ熟、居衣切、汪來虞方伯説、饑饉之饑从レ幾、飢渇之飢从レ几、諸韻書倶分二列支微兩韻一、止、集韻、飢字訓或从レ幾、經傳頗通用、長箋云、近代喜二茂密一者、通作レ饑、趨二簡便一者通作レ飢、遂成二兩謬一、經傳不レ誤、恐傳寫之譌也、 集韻、別作レ 、〉 饑〈古文、〉 、〈玉篇、紀衣切、音機、説文穀不レ熟爲レ饑、从レ食幾聲、餘詳二飢字註一、〉
p.1438 龍田風神祭
龍田〈爾〉稱辭竟奉皇神〈乃〉前〈爾〉白〈久、〉志貴島〈爾〉大八島國知〈志〉皇御孫命〈(崇神)乃、〉遠御膳〈乃〉長御膳〈止、〉赤丹〈乃〉穗〈爾〉聞食〈須〉五穀物〈乎〉始〈氐、〉天下〈乃〉公民〈乃〉作物〈乎、〉草〈乃〉片葉〈爾〉至〈萬氐〉不レ成、一年二年〈爾〉不レ在、歳眞尼久傷故〈爾、◯下略〉
p.1438 五年五月甲戌、下野國司奏、所部百姓遇二凶年一飢之、欲レ賣レ子、而朝不レ聽矣、
p.1438 養老五年二月甲午、詔曰、世諺云、歳在(○○)二申年(○○)一常有(○○)二事故(○○)一、此如レ所レ言、去庚申年、〈◯養老四年〉咎徴屡見、水旱並臻、平民流沒、秋稼不レ登、國家騷然、萬姓苦勞、
p.1439 天平寶字七年正月戊午、詔曰、如聞去天平寶字五年、五穀不レ登、飢斃者衆、宜下其五年以前公私債負、貧窮不レ堪レ備二償公物一者、咸從中原免上、私物者除レ利收レ本、
p.1439 大同元年五月己巳、是日勅、今聞頻年不レ登、民食惟乏、雖レ出二擧公稻一、而猶多二阻飢一、因レ茲私託二民間一、更事二乞貸一、報償之時、息利兼倍、遂使二富強之輩、膏梁有レ餘、貧弊之家、糟糠不一レ厭、宜下貸二正税一、濟中彼絶乏上、須下差レ使實二録貧人一、結レ保給上レ之、若有二亡者一、令二保内塡一、其情渉二愛憎一、退レ弱進レ強、及補二塡未納一、兼收二私債一者、發覺之日、必處二重科一、待二民稍給一、乃從二停止一、
p.1439 大同元年九月壬子、遣レ使封二左右京及山埼津難波津酒家甕一、以二水旱成レ災、穀米騰躍一也、
p.1439 弘仁十三年八月戊午朔、令下諸國於二國分二寺一、七日七夜悔過上、兼修二清神社一、爲二災害頻發、年穀不一レ登也、
p.1439 天長十年五月壬子、大和國言、頻年不レ登、例擧有レ缺、准二弘仁十年官符一、借二國中富人稻三萬八千束一將レ賑二飢民一、許レ之、 甲寅、京師五畿内七道諸國並飢疫焉、
p.1439 天暦二年十一月九日甲寅、官奏、是廿五箇國損田事也、 十二月廿八日壬寅、今年諸國申二異損一、其數甚多、宜レ停二止來年朝拜一者、
p.1439 元永元年八月九日、京中多二餓死者一、上皇開二御廩一賑二貧窮一、
p.1439 保延元年七月一日、天下飢饉疫疾事、仰二諸道一令レ進二勘文一、
p.1439 大神宮祭文東國討手歸洛附天下餓死事
治承三年ノ秋八月ニ、小松内府〈◯平重盛〉被レ薨ヌ、今年〈◯養和元年〉潤二月ニ、又入道相國〈◯平清盛〉失給ヒシカバ、平家ノ運ノ盡事顯也、サレバニヤ、年來恩顧ノ輩ノ外ニ、隨ヒ付者更ニナシ、兵衞佐〈◯源頼朝〉ニハ、日ニ隨テ勢ノ付ケレバ、東國ニハ諍者ナシ、自背者アレバ、推寄々々誅戮シ給ヒケレバ、關ヨリ東ハ、草木モ靡トゾ、京都ニハ聞エケル、去程ニ去年〈◯治承四年〉諸國七道ノ合戰、諸寺諸山ノ破滅モ猿事ニテ、p.1440 天神地祇恨ヲ含給ヒケルニヤ、春夏ハ炎旱夥、秋冬ハ大風洪水不レ斜、懇ニ東作ノ勤ヲ致ナガラ、空西收ノ營絶ニケリ、三月雨風起、麥苗不レ秀、多黄死、九月霜降秋早寒、禾穗未レ熟、皆青乾、ト云本文アリ、加様ニヨカラヌ事ノミ在シカバ、天下大ニ飢饉シテ、人民多餓死ニ及ベリ、僅ニ生ル者モ、或ハ地ヲステ境ヲ出、此コ彼コニ行、或ハ妻子ヲ忘テ、山野ニ流浪人、巷ニ伶俜、憂ノ音耳ニ滿リ、角テ年モ暮ニキ、明年ハサリトモ立直ル事モヤト思ヒシ程ニ、今年ハ又疫癘サヘ打副テ、飢テモ死、病テモ死ヌ、ヒタスラ思ヒ侘テ、事宜キ様シタル人モ、形ヲ窄(ヤツ)シ、様ヲ隱シテ諂ヒ行ク、去カトスレバ、軈テ倒臥テ死ヌ、路頭ニ死人ノオホキ事筭ヲ亂セルガ如シ、サレバ馬車モ死人ノ上ヲ通ル、臭香京中ニ充滿テ、道行人モ不レ輙、懸リケレバ餘ニ餓死ニ責ラレテ、人ノ家ヲ片ハシヨリ壞チテ、市ニ持出ツヽ薪ノ料ニ賣ケリ、其中ニ薄朱ナドノ付タルモ有ケリ、是ハ爲方ナキ貧人ガ、古キ佛像率都婆ナドヲ破テ、一旦ノ命ヲ過ントテ、角賣ケルニコソ、誠ニ濁世亂漫ノ折ト云ヒナガラ、心ウカリケル事共也、佛説ニ云、我法滅盡、水旱不レ調、五穀不レ熟、疫氣流行、死亡者多、ト佛法王法亡ツヽ、人民百姓ウレヘケリ、一天ノ亂逆、五穀ノ不熟、金言サラニ不レ違ケリ、
p.1440 治承五年〈◯養和元年〉四月五日、參内、〈◯中略〉次退出、〈欲レ過二三條烏丸一之處、餓死者八人並レ首云云、仍不レ過レ之、近日死骸殆可レ云レ滿二道路一歟、〉
p.1440 養和元年六月廿八日、近日天下飢饉、餓死者不レ知二其數一、僧綱有官之輩有二其聞一、
p.1440 養和一年、〈◯中略〉今年天下飢饉、道路餓死者充滿、開闢以來無二此程子細一、
p.1440 養和の比かとよ、久しく成てたしかにも覺えず、二年が間世中飢渇して、淺ましき事侍き、或は春夏日でり、或は秋冬大風大水など、よからぬ事共打つヾきて、五穀こと〴〵くみのらず、空しく春耕し、夏うふるいとなみのみありて、秋刈冬收るぞめきはなし、是によりて國々の民、或は地をすてヽ堺を出、或は家を忘て山に住、さま〴〵の御祈はじまりて、なべてならぬ法ども行はるれ共、更に其しるしなし、京のならひなにわざにつけても、みなもとは田舍をこそたのめるに、
p.1441 絶てのぼるものなければ、さのみやはみさほも作りあへむ、ねんじ侘つヽ様々の寶物かたはしより捨るがごとくすれども、更に目みたつる人もなし、たま〳〵かふるものは、金を輕くし粟を重くす、乞食道の邊におほく、愁悲しぶ聲耳にみてり、前の年かくのごとくからくして暮ぬ、明る年はたちなをるべきかと思ふ程に、あまさへえやみ打そひて、まさる様に跡かたなし、世の人みな飢死ければ、日をへつヽきはまり行さま、少水の魚のたとへに叶へり、はてには笠うちき足ひきつヽみ、身よろしき姿したる者、ひたすら家ごとに乞ひありく、かくわびしれたる者どもありくかと見れば、則たふれふしぬ、ついひぢのつら路の頭に飢死ぬる類ひはかずもしらず、とりすつるわざもなければ、くさき香世界にみち〳〵て、かはり行かたち有さま、目もあてられぬ事おほかり、いはむや川原などには、馬車の行ちがふみちだにもなし、あやしきしづ山がつも力つきて、薪さへともしくなりゆけば、たのむかたなき人は、みづから家をこぼちて、市に出てこれをうるに、一人が持て出たるあたひ、なを一日が命をさヽふるにだに及ばずとぞ、あやしき事はかヽる薪の中につき、白かねこがねのはくなど所々につきて、みゆる木のわれあひまじれり、是を尋ぬれば、すべき方なきものヽ、古寺に至りて佛をぬすみ、堂の物の具をやぶり取て、わりくだけるなり、濁惡の世にしも生れあひて、かヽる心うきわざをなむ見侍りし、又いとあはれなる事侍りき、さりがたき女男など持たる者は、其思ひまさりて、しほそきはかならずさきだちて死ぬ、其故は我身をば次になして、男にもあれ女にもあれ、いたはしく思ふかたに、たま〳〵乞得たる物を先ゆづるによりて也、去ば親子ある者は定まれるならひにて、親ぞさき立て死にける、父母が命盡てふせるをしらずして、いとけなき子のその乳房にすひつきつヽふせるなども有けり、仁和寺に慈尊院の大藏卿隆曉法印といふ人、かくしつヽ數しらずしぬる事をかなしみて、聖をあまたかたらひつヽ、その首のみゆるごとに、額に阿字を書て、縁を結ばしむるわざをなむせられけ
p.1442 る、その人數をしらむとて、四五兩月がほどかぞへたりければ、京の中一條より南、九條より北、京極よりは西、朱雀よりは東、道の邊にある頭すべて四萬二千三百餘りなむ有ける、况や其前後に死ぬるものも多く、川原白川西の京もろ〳〵の邊地などをくはへていはヾ、際限も有べからず、いかにいはむや、諸國七道をや、近くは崇徳院の御位の時、長承の比かとよ、かヽるためしは有けりと聞ど、その世のありさまはしらず、まのあたりいとめづらかに、悲しかりし事也、
p.1442 養和二年〈◯壽永元年〉正月廿五日丙申、此間天下飢饉以後、過二路頭一人々伏死、又天下強盜毎夜事也、已相二同長承飢饉令泉院末一者也、上品白綾一卷僅相二博三斗一耳、 二月廿六日丁卯、此間天下ニ飢饉強盜引裸燒亡毎日毎夜事也、不レ可二勝計一、清水寺橋下二十餘許アル童、食小童令レ見レ之云々、人相食之文已顯然也、又犬斃ヲ又犬食、是飢饉徴也、希代事也、
p.1442 壽永元年正月十七日、近日嬰兒棄二道路一、死骸滿二街衢一、夜々強盜所々放火、稱二諸院藏人一之輩、多以餓死、其以下不レ知レ數、飢饉超一前代一、
p.1442 壽永元年、天下飢饉、同二去年旱魃疫癘一、越年之死人在二墻壁一、
p.1442 壽永三年〈◯元暦元年〉正月十四日甲辰、或人云、關東飢饉之間、上洛之勢不レ幾云々、實否難レ知歟、
p.1442 寛喜三年五月廿一日、風聞、近日飢饉甚之間、京中在地人等、合力推二入富家一、飮食之後、推二借錢米等一、數多分配取事、所々多聞云々、 廿二日、取事仰二武家一被二停止一之、 六月十一日、祇園内常行堂上、餓死者出來之間、令レ破二築地上一取棄云々、
p.1442 寛喜三年六月十七日、自二去春一天下飢饉、此夏死骸滿レ道、治承以後、未レ有二如レ此之飢饉一、
p.1442 正嘉二年六月、寒冷如二例二三月一、仍五穀不レ熟、天下一同、仍次年〈◯正元元年〉大飢饉、餓死者不レ知二其數一、百文直、僅小升三升也、
p.1442 明徳元〈(南朝元中七年)庚午、自二元年一至二二年一、天下大飢、〉
p.1443 應永九年壬午、今年大飢饉、七歳以下海川ニ投ジ、七歳以上ハ普代ニ渡ス、
p.1443 應永十年三月十一日戊子、及レ晩向二淹西堂一了、百花已得レ盛云々、然而川東邊無レ人冷然、世間飢饉以外、倒二死路頭一之輩繁多、末歳之徴歟、又寒氣超二過例年一、尤奇也、
p.1443 應永廿七年、天下大飢饉、百文米一升賣、
p.1443 應永廿八年、大飢饉疫病、山野江河亡人充滿、
p.1443 應永卅一年甲辰、大疫病大飢饉、人多死亡、失レ家失レ村、
p.1443 正長元年、當年飢饉、餓死者幾千萬云數不レ知、鎌倉中二萬人及レ聞、
p.1443 三月〈◯正長元年〉十二日、〈◯中略〉天下飢饉、〈◯中略〉自二三月一疾疫、人民多死亡、骸充二滿諸國一、
p.1443 永享三年七月六日、抑聞米商買之者六人、侍所召捕、糺問被レ書二湯起請一云々、此事此間、洛中邊土飢饉、忽及二餓死一云々、是米商人所行也、露顯之間、張本六人、餘黨數十人、被二召捕一嚴密沙汰云々、十日、抑去月以來、洛中邊土飢饉及二餓死一、是米商人所行之由露顯之間、去五日、米商人張本六人、侍所召捕糺明、被レ書二湯起請一、皆有二其失一、糺問之間白状、諸國米塞二運送之通路一、是所持之米爲二沽却一也、又飢渇祭、三ケ度行云々、與黨商人も皆被二召捕一、張本六人、被二籠舍一可レ被レ斬云々、所司代〈◯赤松滿祐〉依二此事一、失二面目一、職辭退云々、洛中飢饉以外也、自二公方一〈◯足利義教〉被レ定レ法可二米於沽却一之由被レ觸云々、 十九日、米商人被二召捕一、張本六人之内、門次郞〈元乞食也〉唐紙師等三人、今日被レ刎レ首云々、京都米如レ元本復云々、珍重也、
p.1443 永享十年戊午、飢饉大疫病、洛中死骸如レ山、
p.1443 此年〈◯文安五年〉疾疫飢饉、
p.1443 戊辰五年、〈◯文安〉大水、地しん、ゑきれい、ききん、
p.1443 左辨官 下二祇園社一
p.1444 應二七日間令一レ轉二讀仁王般若經一事
右日來、天變告レ災、地震作レ害、多以二疫癘之苦一、因以二飢饉之憂一、非レ仰二佛神之仁慈一者、爭救二都鄙之厄難一乎、權大納言兼大宰權帥藤原朝臣實雅宣奉レ勅、於二彼社一、可レ轉二讀仁王般若經一、早凝二七日之懇精一、宜レ得二衆人之延命一、其施供料、依レ例行レ之者、社宜二承知依レ宣行一レ之、
文安六年〈◯寶徳元年〉六月十二日 大史小槻宿禰〈判〉
右中辨藤原朝臣〈判〉
p.1444 寛正元年六月五日庚戌、備美伯三州大饉、人民相食云、
p.1444 寛正二年、春ノ比ヨリ天下大キニ飢饉シ、又疾疫悉クハヤリ、世上三分二餓死ニ及、骸骨衢ニ滿テ、道行人アハレヲモヨヲサズト云コトナシ、
p.1444 文明五、〈癸巳〉甲州大飢饉、餓死スルコト無レ限、米百三十文壹升、粟七十文、大麥六十文也、
p.1444 一長亨元〈未〉年十一月十三日夜、神火吹出し、隨て島中甚飢饉す、
p.1444 延徳二、〈庚戌〉京ニテハ正亨二年ト延徳ヲカエ給フナリ、此年ハ多日デリ、後ニハ大風又大雨降テ、作毛皆實モナシ、大飢饉無二申計一、〈◯中略〉京ニ王崩御トテ福徳元〈庚戌〉年ト年號ヲ替ルナリ、〈◯中略〉以ノ外ニ大飢饉ニテ、其年中ニ米ハ七十、大豆ハ六十、粟ハ更ニナシ、牛馬カツヘ死ルコト大半ニ越タリ、人民飢死無レ限、
明應元、〈辛亥〉此年モ年號色々也、大飢饉無二申計一、賣買ナシ、〈◯中略〉牛馬飢死コト無レ限、鹽、初ハ四貫文、後ハ三貫六百文ニ壹駄賣、
p.1444 延徳三年、〈◯辛亥〉美濃、尾張兩國、餓死數百人、
p.1444 明應八年己未、此年大飢餲に而、日本國迷惑候、米貳貫八百文をかぎる、
p.1444 永正元、〈甲子〉此年冬寒キコト叵レ及二言説一、此海〈◯甲斐河口湖〉少モアク處無シ、大飢饉、百分千分、不
p.1445 レ及二言説一、人馬死ルコト無レ限、賣買米七十、粟ハ六十、稗ハ五十文、大豆六十文、籾六十文、
p.1445 永正元年甲子、天下きヽん、
p.1445 永正二年乙丑、此とし大雪なり、大けかつにて、人三千人飢死あり、ふしぎのとしなり、
p.1445 永正七年、是年、諸國饑饉、
p.1445 三箇寺就二入院之儀式一而掟事 右三寺、修造已後、各輕薄也、舊債漸相積、殊依二凶年飢饉一而、土貢已下不レ全也、兩寺住持、七派之頭、以二御評議一、而今當永正七年庚午十月四日ヨリ十ケ年間、三寺共入院御停止也、〈◯下略〉
p.1445 永正九年大飢饉、人多六七月死、
p.1445 永正十二、〈乙亥〉此年ハ十月〈◯十月、一本作二十二月一、〉十二日ノ夜ヨリ雪降、大雨ト雪ト同心ニ降ルニ依テ、大地殊ノ外ニ氷テ、芋モホリエズ、菜ナドモ一本モ取ルマモ無レ之、サシヲクニヨツテ、ナモ徒ラニスツル、芋モ如レ此致候間、中々言語同斷飢饉トナルナリ、地下ノワビコト無二申計一、此年ハ耕作、田畠、粟稗惡シ、揔テ作ル程ノモノハ、イカニモ惡シ、キヽンス、寒キコト前々ニモ過タリ、
p.1445 永正十六年、春夏大飢饉、死者多之、於二悲田寺一施行、逐日在レ之、然者助者有云々、
p.1445 永正十六、〈己卯〉此年揔テ一國二國ナラズ、日本國飢饉シテ、諸國餓死ニヲヨブナリ、當國ノ内浦ノ兵庫殿屋形様ト取合給フベキニ定リ、今日ノ明日ノト卯月迄モ不レ息、賣買ハ米百文、粟ハ八十、大豆七十、籾六十五文ナリ、其餘ハ更ニ賣買一粒モ無レ之、就レ中雜事一本モ無レ之、冬ヨリ富士郡ヘ往還而、芋ノカラヲ買越テタベ候、
p.1445 天文元〈辰〉年、麥不作、及困窮の飢死人數多有レ之、五ケ村より山〈江〉牛喰に入る、
p.1445 天文九年、今年春秋天下大疫饑、人相食、〈或作レ春〉
p.1446 天文九年〈庚子〉二月十日 當春、世上大キヽン、非人數千萬、餓死不レ知二其數一、於二上京下京之間一、春夏中、毎日六十人計、死人捨レ之云々、於二誓願寺一、非人施行、春中有レ之、
p.1446 天文十、〈辛丑〉此年春餓死致候テ、人馬トモニ死ルコト無レ限、百年ノ内ニモ無二御座一候ト人人申來リ候、十死一生ト申候、
p.1446 一同年〈◯寛永十八年〉ノ暮ヨリ十九廿年ノ春マデ天下飢饉、依テ餓死ス、尤乞食道路ニ散亂ス、
p.1446 米金の事 又寛永ノ末迄ハ、八木ノ直段、北國ノ米五斗ノ俵、銀六匁ニ賣シヲ予モ覺ケル也、其昔午歳〈◯寛永十九年〉大飢饉ノ時、天下一統飢死ノ者多、予若年ノ時、父ト連、賀州ヨリ越前ヘ行ケル時、小松ノ串野ト云所ヲ通シニ、松原ノ内ニ石瓦ノ如白ク見ヘケリ、朝霧深フシテ慥成貌見分ガタシ、依レ之馬形ニ尋ケレバ、アレコソ午ノ歳ノ大飢饉ノトキ、飢死ノ者ノ首ニ繩ヲ付テ、此所ヘ在々ヨリ捨タル其骸骨ドモナリトゾ申ケル、サナガラ石川ノ水ノ干タルガ如也、〈◯中略〉
寛永飢饉の事 寛永年中、午年天下一統ノ飢饉ニハ、田ノ畔ノ草ヲアラソヒ、木葉松竹ノ翠ヲ拔食セシナリ、
p.1446 寛永十九年二月、すべてこの月より、五月に至るまで、天下大に飢饉し、餓莩道路に相望む、また身に一衣覆ふ事もなし得ず、古席をまとひて倒れふすもの巷にみちたり、よて町奉行をして各その郷里をたヾし、領主代官に命じ、飢者をたすけて、その故郷にかへさしめ、その外は市中に假屋を設け、旦暮粥をつくりて、飢者に施行せられしとぞ、〈家譜、寛永系圖、天享東鑑、〉
p.1446 延寶三年正月、天下大飢、餓莩載レ路、京師棄レ兒、空屋比比而在、大將軍〈◯徳川家宣〉奉レ勅賑レ之、設二場于北野四條磧五條磧諸處一、與二粥及錢米一、自二三月一至二五月一而止、慶長亂後、比歳豐稔、京師斛米、價率銀十八錢、其後至二二十四五錢一、旣而漸次涌貴、平價不レ下二四十錢一、至レ是斛銀百三四十錢云、
p.1447 延寶飢饉 當年〈延寶三年〉天下大飢饉にて、金子壹兩に米五斗宛是を賣、錢百文には黒米壹升壹合なり、是に依て人民飢にのぞんで死する族多かりし、其趣上に聞し召され、御慈悲を加わへられ、柳原の土手の下に小屋がけ仰付られ、江戸中の貧人ども其所へ呼び集め、施行粥を被レ下ければ、皆々悦び來りけり、京都にても、四月九日より北野七本松と四條河原にて、江戸のごとく、貧人共に粥を賜わりし、誠に大慈大悲なりし、京都へ御借米二萬俵いでけり、但し表壹軒に付四斗九升九合七勺宛にあたるなり、尤江戸町中へも拜借米仰付らる、然るといえ共、四五年米故、俵より出し候て、升にてはかり候へば、過半ふけ候へ共、皆米を大切にいたし候事ゆへ、臼などにてつき候へば、古米ゆへことの外へりおほく候間、其まヽ黒米にて食し候事となり、御惠みの程有がたく奉レ存候也、
p.1447 元祿十六年癸未の春に至て、餓人次第に増長し、一國忽艱苦に及ぶ、〈元祿十五年壬午七月八月兩度、風雨洪水餓莩多し、〉先公義〈◯土佐山内家〉の御藏を開かれ、彼窮民を救給ふに、正月も過二月に成ば、飢人彌多く、御小屋に入者二千餘人、其後米穀益乏しく、田地扣家藏持たる者も自然に窮迫す、去ども御救屋に入事を恥て餓死するもの又少からず、
p.1447 奧州南部癸卯の荒饑 山崎美成
天明三年癸卯十一月十一日、奧州三戸部、南部内藏頭殿〈◯信房〉領分、八戸の惠比須屋善六より、本店江戸田所町かど、井筒屋三郞兵衞へ遣はせし書状左の如し、〈◯中略〉
一追々御承知可レ被レ遊、當地當年凶作前代未聞に御座候、全體去冬寒中甚暖にて如レ夏、霜月頃より氷候へ共、寒に入悉解、平生三四月頃之氣候に等しく、夫より年明け正月に相成、少々寒く候得共、例年よりは格別暖に御座候、二月三月迄不レ寒、四月頃より卯辰(やぎ)風北風計にて、寒中如二極寒一、雨降、四月中に雨不レ降日、漸に七日御座候、夫も薄曇東風にて霧雨、晴天は一日も無二御座一候、五月も同斷にp.1448 て、朔日より降初、五月中不レ降日、漸に六日、六月中も五日程も右の如く、快晴は無レ之、七月には四日、八月には六日、右之通不天氣に候得共、當春より麥作の景氣至て宜、近年に不レ覺作合に相見え候間、諸人甚大悦罷在候處、苅頃に成、右之雨續候故、熟し兼、存之外日數おくれ苅取候處、一圓實成無二御座一、諸民大困窮仕候、然共稻作大豆小豆稗等者、例年に勝候作合宜相見え申候間、秋作は十分に可レ有レ之と、素人の拙者共は不二申及一、老農老圃年來の功者共、當秋者豐作無二相違一由申居故、右之季候も左のみ驚不レ申罷在候處、次第に不順に相成、春一度花咲候藤山吹之類など、六七月頃、山々春の如く花咲、九輪草唐葵抔は、春より霜月まで四度も五度も花咲、夏菊十一月下旬迄盛り、九月十月中成に竹の子生じ、九月下旬に蝉なきやまず、種々の季候違に御座候、稻作は七月下旬に至り候ても、出穗無レ之、たまさか穗出候ても、葉の内へかくれ、花もかヽり不レ申、穗出るは百分一、其外一圓に穗出不レ申候、右之次第に御座候間、一粒も實入無二御座一候、大豆小豆粟稗蕎麥等は、八月十三日之夜、大に霜降り、是に當り、種なしに相成、誠に古今未曽有之大凶作、元來三四年已來打續、半作に不レ滿飢饉に御座候處、當夏麥不作、其上秋作皆無に御座候間、諸穀物一向無レ之、相場は市毎に引上げ、當時相場は左之通り、
一玄米一升に付二百五十文 一こぬか一升に付五十文 一大豆一升に付百五十文 一搗粟一升に付二百六十文 一蕎麥一升に付百廿文 一豆腐粕一升に付廿五文 一片舂麥一升に付二百文 一フスマ一升に付六十文 一粗稗一升に付百文 一兩替六貫二三百文〈◯中略〉
扨餓死之者、唯今國中半分餘と相見え申候間、來正月より三四月迄之内、如何様に成可レ申哉、難レ計奉レ存候、乞食非人往來如レ市、そのありさま、元來世並宜敷砌、伊勢熊野へ參詣仕候に、路用澤山所持仕候ても、南部山案子(かヽし)と出立に御座候、まして况此節の體、譬可レ申者無二御座一候、眼色憔悴(かじけ)、髮亂れ、眼星の如く、色青くつかれ衰へ、頰骨高く口尖り、手足の如く、からだ赤裸に菰をまとひし有様、何p.1449 と申ても、更に人間とは見え不レ申候、右故に店々も相仕廻、蔀など指堅め居候、戸口開置候へば、非人共無體に押入、食餌をあたへ不レ申内は、更らに立退不レ申候故、無レ據白晝の門戸を閉、用事御座候者、戸口より用事を足し、志等有レ之、施行抔仕候節は、家内中立わたり世話仕候得共、我勝に前後を爭ひ泣さけび、老弱の者の貰候食物を奪ひ取、なきさけび候聲、身にしみ胸に答へ申候、互に食を奪ひ合、溝へ落入半死半生之者數多、叫喚大叫喚、八寒紅蓮のくるしみ、食を奪合打合つかみ合、互に疵を得候體、修羅道の有様、目前に御座候、火事は一夜に二ケ處三ケ處より出來、燒死する者數多、焦熱大焦熱の炎に入、烟にむせび、牛馬鷄犬之燒亡夥敷御座候、世尊滅後二千八百年、彌勒の出世迄は、餘程間も有レ之様に承り候處、今その期來候哉と心細く、少も安心無二御座一候、依レ之御上様にも、何卒飢渇之者御救ひ被レ遊度思召候へ共、近年打續候不熟損毛に付、御貯も悉く盡候故、不レ被レ爲レ任二思召一、御心遣被レ爲レ痛候へ共、更に其甲斐なく、殘念に被二思召一、乞食非人へ御施行被レ遊候ても、大海の一滴、中々屆不レ申、氣之毒千萬に奉レ存候、〈◯中略〉
一古來稀成義は、非人共犬猫牛馬を喰候は、世に不思議に存候所、死掛り候人之肉を切はなし、格別うまき味なるよし申候、言語同斷、かヽる時節にあひ申候事、いかなる事に御座候哉奉レ存候、乍レ然ケ様之様不レ存候はヾ、生涯佛も御經もうはの空にて、至敬の信心も有レ之間敷奉レ存候處、六道四生之有様、凡俗の身にて、目前に見申候事こそ、難レ有奉レ存候、乍レ去知らぬが佛、見ぬが花とも申候、何卒無難に明年を迎へ、豐作を祈申候外、他事無二御座一候、揔體當地之事、中々難レ盡二筆紙一、實に九牛の一毛に御座候、猶追便萬々可二申上一候、恐惶謹言、
卯十一月十一日 惠比須屋善六
〈井筒屋〉三郞兵衞様 平兵衞様 傳兵衞様
p.1449 第三 餓死人の事 卯〈◯天明三年〉のきヽんも、此近國關東のうちは、いまだ大きヽんとはいふ
p.1450 にいたらず、其故は秋作の實のりも、少づヽはありてとりもし、又御領主方より御救の米穀、および友救の雜穀等もありし故、食餌のたえて、うゑ死にせしといふほどのものは、一人もなかりければ也、扨又奧州等の他國にては、うゑ死にせしが多くありけり、わけて大きヽんの所にては、食物の類とては一色もなかりければ、牛や馬の肉はいふに及ばず、犬猫までも喰ひ盡しけれども、つひに命をたもち得ずしてうゑ死にけり、其甚所にては、家數の二三十もありし村々、或は竈の四五十もありし里々にて、人皆死に盡し、ひとりとして命をたもちしはなきもありけり、其なき跡を弔ふ者なければ、命の終りし日も知れず、死骸は埋ざれば、鳥けだものヽ餌食となれり、庭も門もくさむらと荒て、一村一里すべて亡所となりしもあり、かく成果て見る時は、これに過し悲はなし、然を其由を知らぬ人などは、何ほどのきヽんたりといふとも、さまでの事はあるまじきと思ふもあらんが、其疑をはらさせんために、我慥に聞き屆けしを示す事左のごとし、
右卯年きヽんの後、上州新田郡の人に高山彦九郞と云ひしあり、奧州一見の爲、彼國に至り、こヽやかしこと經めぐりあるきしが、ある山路へかヽりしに踏まよひて、行べきかたを失ひ、難義のあまり、高き峯によぢのぼりて、山のふもとを見渡しければ、山間に人家の屋根のかすかにあるを見つけしかば、必悦て、草木を押分けつヽ、やう〳〵としてふもとに下りしに、其村里に人とてはひとりもなし、こはいかなる事にやと見まはせば、田畑の跡は茫々たるくさむらとなり、家々は皆たふれかたぶき、軒端には葎などはひまとはれり、あやしと思ひながら空敷家に入りて見れば、篠竹など椽をつらぬき出たり、其間々に人の骨白々と亂れありしを見て、目も當られず大におどろき、いと物凄おぼえければ、身の毛よだちて恐れをなし、とく〳〵そこを走出、人住む里へと志し、路を尋けれども、あれはてたれば、其あたりには路がたちたえしゆへ、大に苦みしが、路らしきにたづねあたり、とやかくとして、人里に馳着、始て人心地となりけり、かくあれば奧の方p.1451 のきヽんたりし餓死の様子は、關東へ聞えしよりも、直に其所を見ては、殊更におどろかれ、恐しき事共なりとの物語なりし、
p.1451 天明五年九月、琉球大飢、幕府貸二穀萬苞金萬兩于薩摩守島津重豪一、以賑レ之、
p.1451 天明七丁未年江戸飢饉騷動之事
一天明三〈癸〉卯年春中より雨降續き大水ニ而、麥作甚あしく候處、〈◯中略〉是冬上州淺間山燒候而、砂を吹出し候よし、關東奧州筋、都而近國近在一統に、右之燒灰砂降候ニ付、秋作よろしからず、米穀直段高直に相成候處、天明四〈甲〉辰年、又麥作惡敷、五月末より六月に至り、江戸町中に而、舂米相場小賣百文に六合五勺、或は七合位に賣買致し、町かた一統に困窮いたし候に付、七月十二日、關東御代官伊奈半左衞門殿より、江戸町中端々迄、人別帳ヲ以、御救米被二下置一候、〈◯中略〉それより天明五乙巳年は、諸國ともに少々直段引下ゲ候處、天明六〈丙〉午年正月元日〈丙〉午の日にて、午の刻に九分の日蝕にて、諸人不思儀の事に思ひし所、〈◯中略〉此とし七月、關東筋大水に而、諸作甚不作に而、近在の困窮によつて、御代官伊奈半左衞門殿より、兩國橋廣小路へ施行の御小屋掛り、近在の百姓男女へ、御救ひの施行煮出し下され候、尤日數十四五日の間、近在の百姓共老若の人數夥しき事に而有レ之候、〈◯中略〉此としの暮に、御藏米御張紙三斗五升入百俵に付、金百七拾五兩之御張紙、右之通故、町方舂米玄米ともに直段高直に而、一統難儀に及び候所、天明七〈丁〉未年の春、御藏前御張紙、三斗五升入百俵ニ付、百八拾兩、夏の御張紙、三斗五升入百俵ニ付、貳百貳兩、右之相場に相なり候ゆへ、町かた一統困窮いたし、其上此年四月上旬より燈油一向無レ之、大難儀、此上もなき事に而候、此砌町方に而、諸國小賣相場の直段荒増書記す、
一金壹兩ニ付、上白米壹斗八升、中白米貳斗、下白米貳斗貳升位、小賣百文ニ付、上白三合、中白三合五勺、下白四合の小賣相場ニ而候、p.1452 一金壹兩ニ付、錢五貫七百文、
一百文ニ付、舂麥上五合、中六合、
一百文ニ付、挽割上六合、中六合五勺、下七合、
一百文ニ付、大豆上八合、中九合、下壹升、
一金壹兩ニ付、殼麥上五斗、中五斗二升位、同小賣百文ニ付、上八合五勺、中九合、
一百文ニ付、温沌粉上八合、中壹升、下壹升壹合、
一百文ニ付、味噌上貳百五拾匁、中三百目、下三百五拾目、下ノ下四百目、
一並の酒壹升ニ付、五百文、
一燈油壹合ニ付、六拾文位に賣し故、一統困窮いたし候處、五月十八日、本所扇橋、深川六間堀邊ニ而、玄米屋舂米やを夥敷打こわし、騷動致候由、〈◯中略〉此節奧州筋の咄ニハ、食物無レ之候ゆへ、わらをいりて、臼ニ而挽き粉にいたし候而、食事ニ致候所抔も有レ之候よし、尤江戸町中ニ而も豆腐やのきらずを升に而はかり、壹升四十八文位ニ賣申候、如レ此に町中困窮故、騷動致候ニ付、五月廿七日、御救米として、大人小兒の差別なく、人別帳を以、壹人に付、白米三合二勺ニ、銀三匁二分ヅヽ被二下置一候、其後御救米として、御代官伊奈半左衞門殿より、人別帳を以、壹人ニ付、白米壹升ヅツ御渡し、尤代銀壹人分九分五厘ヅヽ、上納可レ仕旨被二仰渡一、同六月廿一日、御同人より人別帳通、壹人五日分の食物の由ニ而、玄米五合、〈此代六十五文也〉殼麥四升、〈此代二百文也〉代錢上納御取立之場所、玄米百文ニ付、七合五勺、殼麥百文ニ付、二升之相場之由被二仰渡一候、此砌錢相場、金壹兩ニ付、五貫八百文、同六月廿八日、御同人より、玄米壹升、殼麥二升、小麥五合、右壹人分に而、同積り五日之食物之由被二仰渡一、此代上納取立に而、壹人前二百五十八文ヅヽ御取立、同七月六日、御同人より玄米壹升、殼麥二升、小麥五合、右壹人分に而、同積り五日分之よし、此代上納御取立、壹人前三色ニ而百九十五p.1453 文ヅヽ、上納被二仰付一候、夫より諸色少々宛直段引下ゲ候而、町方米小賣相場、錢百文に付、上白米六合、中白米六合五勺、下白米七合、是ニ准じ諸色直段引下ゲ、騷動之後御藏前御張紙も、三斗五升入百俵ニ付、百三拾兩と改り申、此砌町奉行曲淵甲斐守殿、〈◯景漸〉山村信濃守殿〈◯良聇〉勤役ニ而有レ之候、去ル天明三〈癸〉卯年より打續五ケ年之凶作、江戸町々ニ而は、伊奈半左衞門殿より被レ成二御渡一候殼麥を水につけ、日本橋大通りは勿論、大傳馬町本石町の通り迄も、往還に臼を直し、右之殼麥を搗申、誠ニ江戸町々在邊のごとくニ而有レ之候、此としの春頃よりして、所々方々ニ而、妻子を置去ニいたし、闕落等いたし候もの、其數いくらといふ事をしらず、近在近國奧州邊ニ而ハ、食事ニ盡て渇死いたせしもの夥しく有レ之、誠ニめもあてられぬ次第、哀といふもおろか也、尤此とし三月十二日、町奉行所よりも、江戸中町々端々場所にいたる迄、一統に朝夕とも粥をたべ候やうにとの御觸有レ之、春中より江戸町々場末迄、大根、薩摩いも、割麥、小豆、大角豆等をまぜ候而、一圓にかて飯あるひは粥をたべ候、此砌とふなすかぼちやをゆで、砂糖きなこをつけて賣候、いつこく餅とて、大きなるいまさか、よねまんぢうを拵候て、一ツ八文ヅヽに賣、殊之外時花(はやり)候ゆへ、町中端々方々ニ而こしらへ賣申候、此砌は、肴計至而下直ニ而、殊に鰹夥しくとれ、かすご小鯛抔すさまじくとれ、下直ニ而有レ之候、江戸町中殊ニ江戸橋日本橋之上などにて、なまりぶしニ鹽をそへて、壹本四文よりうり申候、前代未聞珍ら敷事ニ而有レ之候、後の世の人にしらしめんがため、荒増記置候、
p.1453 凶饑悲慘の状を記しておごりを戒む 天保巳年〈◯四年〉に、塾生忠純語りしは、奧州へ細工に行し松五郞と云者いへるは、奧州邊にて九萬三千人を逐ひ拂ひしを見たり、又石の卷とか云所にて、盲目三人川端にて終日酒を飮、其夕皆水に投じて死けり、又婦人子を川に投、ふりかへりふりかへりて悲歎せしが、立戻り水に投じて死けり、又松の木へ子を結び付殺せるも
p.1454 あり、江戸にてもおき去多し、頃(このごろ)勢州より來るものヽ話を聞くに、道中騷鋪、夜行は不二相成一、路傍に埋みし新塚、凡五百計もあるべしと、又聞、埋ざるもありて、犬群り喰ひ、鴉集り食ふも有と、又秋田邊にて、垣根の繩まで喰盡して死せるも有、又歌修行する者、奧州邊にて子を舟にのせ、流しやりたるを見しと語る、又奧州邊に夜な〳〵、七八歳、十二三歳の子供等連立、夜な〳〵武家の門口に、ひもじひ〳〵とさけびて、食を求るも有ときく、うゑ人やつれはて兩杖にて行、七八歳の子跡に付、泥濘の中をはきものもなく、びた〳〵と歩み行、町送り、やしき送りかはしらねども、うゑくるしがり、むう〳〵とかなしき細き聲を立けり、慘(いたまし)さ胸をさく、棄子、縊、身なげ、そここヽにありて、いと哀なり、或の書状に、此凶歉にては、餓死の人も有レ之、蕨葛も雪降後は、とても堀ざるものに候間、唯今の中、必死と堀とり候へども、四五拾斤にて、毎家五月迄は食續ものにも無レ之候、殊に山中少も金の有ものは、大豆小豆迄、都下の直段にも不レ拘買〆致候故、此節大豆七斗、小豆五斗に相成り、白米兩に貳斗四升に御座候、姦商の所爲可レ惡事に御座候、箇様の事より、諸民騷擾亂(さはぎ)をいたし候事、相始り可レ申候、高崎邊其外小錢の廻り候奴は、大に利益を得、正直に人を救ひ候ものは、却て困難に及候事には成り候、貧民頻りに買〆の輩を惡み、打こはしの基と可二相成一候、都下芝居料理店の繁昌被二仰聞一、歎息仕候、都下はさすがに、よき御役人様多く、御世話行屆きのよし御羨鋪存候、
p.1454 養老六年八月壬子、詔曰、如聞今年少レ雨、禾稻不レ熟、〈◯下略〉
p.1454 天平二年六月庚辰、縁レ旱令レ撿二挍四畿内水田陸田一、 閏六月庚戌、勅、比者亢陽稍盛、思量年穀不レ登、宜下遣二使者四畿内一令上レ撿二百姓産業一矣、
p.1454 天平寶字七年八月辛未朔、勅曰、如聞去歳霖雨、今年亢旱、五穀不レ熟、米價踊貴、由レ是百姓稍苦二飢饉一、加以疾疫、死亡數多、朕毎念レ茲、情深傷惻、宜レ免二左右京五畿内七道諸國今年田租一、
p.1454 天平神護元年三月癸巳、勅、比年遭レ旱、歳穀不レ登、朕念二於茲一、情甚愍惻、其去年不熟之
p.1455 國、今年得レ稔、始須二徴納一、若有二今年又不レ熟者一、至二於秋時一、待二勅處分一、其備前備中備後三國、多年亢旱、荒弊尤深、因レ茲所レ負正税不レ得二進納一、宜二天平寶字八年以前官稻未納咸悉免一レ之、
p.1455 賣レ身養レ母事
一去シ文永年中、炎旱日久シテ、國々飢饉ヲビタヾシク聞シ中ニモ、美濃尾張殊餓死セシカバ、多ク他國ニコソ落行ケル、〈◯下略〉
p.1455 關所停止事
元亨元年ノ夏、大旱地ヲ枯テ、甸服ノ外百里ノ間、空ク赤土ノミ有テ青苗無、餓莩野ニ滿テ、飢人地ニ倒ル、此年錢三百ヲ以テ粟一斗ヲ買、君〈◯後醍醐〉遙ニ天下ノ飢饉ヲ聞召テ、朕不徳アラバ、天予一人ヲ罪スベシ、黎民何ノ咎有テカ此災ニ遭ルト、自帝徳ノ天ニ背ケル事ヲ嘆キ思召テ、朝餉ノ供御ヲ止ラレテ、飢人窮民ノ施行ニ引レケルコソ難レ有ケレ、
p.1455 仁木京兆參二南方一事附太神宮御託宣事
都ニハ去年ノ天災、旱魃、飢饉、疫癘、都鄙ノ間ニ發テ、尸骸路徑ニ充滿セシ事、只事ニアラズ、何様改元有ベシトテ、延文六年〈◯南朝正平十六年〉三月晦日ニ、康安ニ改ラレケル、
p.1455 彗星客星事附湖水乾事
又今年〈◯北朝康安二年、南朝正平十七年、〉ノ六月ヨリ、同十一月ノ始マデ旱魃シテ、五穀モ不レ登、草木モ枯萎シカバ、鳥ハネグラヲ失ヒ、魚ハ泥ニ吻(イキヅク)ノミナラズ、人民共ノ飢死ヌル事、所々ニ數ヲ不レ知、
p.1455 應永廿七年庚子、天下大旱魃、畿内西國殊不レ熟、人民多餓死、近江湖水三町乾枯、淀河無二船渡一、
p.1455 東寺八幡宮御領、上久世名主百姓等謹言上、
右當年旱魃、無二今古一之風聞也、名主百姓等、隨分雖レ修二固井溝一、旣に桂河瀬絶上者、所レ不レ及二人民力一也然p.1456 間御領以外干損也、其上に早田中田未熟之時分、七月之大風に大略半損仕候了、所二憑存一相殘作毛、八月之大風、晩田ニ秀吹最中雨、稻華損失候、隨而損亡之歎申處、五石御免云々、段別之僅八合計也、如今者有名無實御名也、全損亡不二下給一者、爭得二苅取事一、若損亡之御免、及二遲々一者、枯穗以下殊可レ令二朽損一、奉二爲上方一、爲二百姓等一、彌々可レ爲二失墜損亡一者也、所詮名主百姓等、令二姦謀一被二思食一者、早蒙二御免一、翻二牛王之裏一、欲レ捧二起請文一者也、謹言上如レ件、應永十五年九月日、
p.1456 應永九年壬午、三月ヨリ七月迄、雨少モ不レ降大旱、別會津草木諸作燒枯、〈◯中略〉 二十七年庚子、自二五月十八日一至二八月二日一、雨少モ不レ降大旱飢饉、
p.1456 應永二十八年二月十八日、抑去年炎旱飢饉之間、諸國貧人上洛、乞食充滿、餓死者不レ知レ數、路頭ニ臥云々、仍自二公方一〈◯足利義持〉被レ仰二諸大名一、五條河原ニ立二假屋一引二施行一、受レ食酔死者又千萬云々、
p.1456 文明四年六月十七日、今日賀茂神主〈勝久〉來閑談、依二炎旱一、堺内無二作毛一之儀、無二先規一之由語レ之、
p.1456 明應三年甲寅、此年四月晦日より八月まで日照にて、當所于魃、諸人迷わく仕候、古來大木草木かうさく、やけかれ候て、不思儀此事に候、
p.1456 大永八年〈◯享祿元年〉七月廿九日、民戸炎旱及二難儀一、北ミソロ池、西廣澤池等、爲二用水一切落之云々、近年炎旱云々、及二三四十日一不レ雨歟、草木枯槁色也、此邊井水汲二淵底一、勝事之體也、祈雨事、諸寺被二仰出一之、依二觸穢一不レ及二神社一云々、 去年當年大亂、又秋税可レ爲二未熟一云々、凶年連續、艱難此事也、
p.1456 三十一年、自レ春至レ秋霖雨大水、五穀不レ登焉、 三十四年、是歳自二三月一至二七月一霖雨、天下大飢之、老者噉二草根一、而死二于道垂一、幼者含レ乳、以母子共死、又強盜竊盜、並大起之、不レ可レ止、
p.1456 應永三十年七月廿二日、大雨降、此間霖雨也、以外洪水云々、田地損亡人民周章歟、 八月十日、雨下霖雨、過レ法、當所田地水損、散々事也、
p.1457 寶暦五年乙亥五月中旬より寒冷行れ、八月のすゑまで雨ふりつヾき、其間五日七日雨歇といへども、寒氣は初冬の頃のごとく、三伏の暑日も布子を襲(かさねぎ)し、水田へ入りて藝る者は、手足ひへ龜手(こヽへ)ぬる程の寒氣なりければ、稻は植たるまヽにて長ぜず、漸く穗は出たれども、みのらずして枯れぬる故、奧羽おほひに飢饉し、諸民の歎いふばかりなし、我一關には儲蓄倉をひらかせたまひ、大夫( /家老)司農( /郡代)の侶、心を盡し救はせられけるゆゑ、餓莩の患はあらざれども、他郷より來る流民、鵠形鳥面の老弱男女、蟻のごとく群來るは、目もあてられぬことどもなり、
p.1457 天明年間の飢饉
左に引證するものは、佐々木參議〈◯高行〉が、嚮に青森縣下巡視の際、陸奧國西津輕郡木造村に於て、僧、菊池勇義といふ者より獲られたる、天明年間の凶歳日記にして、〈此書は明治十三年五月、參議より叡覽に供へ奉られたるものなり、〉其状、慘怛悽愴、實に讀むに忍びざるものあり、
翌天明三癸卯年、初春より天氣荒續き、土用中尚以て、年中漸く十日許りならでは快晴無レ之、凶年に及び候、〈◯中略〉 右色々の變難有レ之ことも、第一六月中旬より町村とも米賣買無レ之、御拂米も一ケ村へ、二俵ばかりづヽ相當り候へば、一日の内に賣仕廻、其後一向賣手無レ之、同月廿三日、大風病脊東風(やませこち)のことにて、作毛殘らず損じ申候、尤も病脊のあたらぬ村所、三四歩迄の稔もあれども、青森、四ケ組、金木より下、並に三新田は皆無にて、一粒一杯の贍足なり兼、それより粮種(かてだね)に取り付き、最初は、菜、大根、蕪、ナダレ落、大豆の葉等をもて朝夕の飯料とし、其後は、根山へのぼり、九月末まで罷在り、雪路に赴き、山を下り、晝貌の根、山大根、川骨の根、茅ムグリ、木賊の根までも掘り集め、栗、梨子はさておき、茨の實、車前子(おほばこ)までも食ひ盡し、それより大豆殼、蕎麥がら、薺の節合はしかぬかにて命を繫ぎ、漸く十一月頃に至り、黒石邊、或は餘りある族へ貯へおきし米殼、又は中國より買ひ越し米等、少々づヽ賣出し候へども、直段甚高直にて、米は壹匁に三合五勺、大豆は六合、蕎麥は九p.1458 合、小豆三合致し候ことにて、高なき小者は、調ふることなりかね、歴々の百姓も、家財衣類を賣り代なし、二升三升と調へ候者もあれども、第一五拾匁の品物は五匁にもなり不レ申、さて三ツ建ての家は壹匁五分に拂ひ、漬物乃至一汁椀と、小家壹軒と取りかへ候やうなることにて、大體の家財、拾匁とはなり不レ申、田畑屋敷渡し申し度とも、只の五匁にも受け取る者無レ之、〈◯中略〉 又樂田、家調、繫田邊の下通りは、死したる人を食ひ申候、出崎村の源次郞と申者の女房など、十四五歳の男子饑死致し候を女兩人にて、四日の間にたべ申候、其後何卒して人を丸にてたべたきものと願ひ申候よし、漆派の治介と申者の處にて、子供の泣きごゑ致し候につき、隣家より參り見ければ、まだ生きたる子供の股へ食ひつき居り候よし、此の如き類も多し、其外鷄犬は皆無、牛馬の切り賣りは、次第に廣まり、初は五分代目方百匁もいたし候處、日増しに流行し、後は五分に目方十匁位にもなり申候、馬を殺すもの、一匹三匁づヽ、これを渡世とするものもあり、處々より馬を買ひ求め、或は盜み、六ケ村へ賣り出し、其日の露命をつなぐもあり、種々様々の境界なり、全く人事の業にはあらず、淺ましき世のありさまなり、 豐田村の支村に、カツキ派といふ處の、長三郞と申者の忰、今年十六才になりしが、舊冬より人を食ひ助命致し居候處、頃日母と妹餓死いたし候處、二十日ばかりの間、右母と妹を食ひ候て、骨をば薪の代りに焚き居り候由、又同村の清次郞と申す者の子供十五才になり候、兩親は餓死致し、たべものもなく、餘り苦しさに、豐田村の庄屋方へ罷り越し、粥を乞ひ候處、一二膳の冷粥あり合ひたるを與へて歸し候處、右長三郞の忰其歸りがけをまち受け、半途にて之を庖丁にて刺し殺し、おのれが家へ取り運び食ひ居り候由、如何なることにや、たとひ餓死に及ぶとも、母や妹を食ふこと、凡三千世界にも其ためしあるまじく候、殊更彼岸中にて、心ある者は、乞食非人も追善供養の志あるべきに、鳥畜類にも劣り候境界、誠に鬼も逃ぐべしと思ひ、おそろしきことに覺え候、
p.1459 天保七年霖雨及飢饉 天保七丙申年三月十九日壬寅より雨降出て、廿九日までの間、快晴僅に四日なり、其外は降ざれば曇り、或は朝降て晴れ、日中降て夕に止などして四月に成ぬ、四月朔日より八月十五日までの間おなじさまにて、快晴十日にみたず、去年乙未の冬より、今年の春三月にいたるまでに、地震幾十度ふりけん、一日夜に三四度、又は五度もふりし事ありき、七月十八日朝より雨降出、東南の風おこれるが、巳の時よりいたくはげしく成て、面をむくべきやうもなし、〈◯中略〉八月朔日、はた北風雨はげしく、十八日の風につげり、同月十三日夜も烈風雨也、十六日又南風雨いとあらましくて、朔日の風につげり、七月十八日第一、八月朔日第二、十六日第三、十三日第四と順次せる大風雨なり、かくて葛西領金町の堤きれて、江戸川あふれ流れ、二万石の地水底になれる事卅日に過ぎ、水戸通路たえたること十餘日なり、武藏の見沼邊は、七月十八日以後、八月廿三日までも水たヽへて、舟筏かよはず、江戸町賣の白米、錢百文に五合なりしが、八月初より四合五勺、同十八日より四合、廿一日より三合五勺なり、此時搗大麥、百文に四合、割麥六合也、小豆一升の價錢百六拾四文、水油一合、調五十文、鹽一升六拾八文、大根いとちひさきを拾本つかねたるが百三十二文、大なるは百七十二文にも及べり、茄子はたえてなし、熟瓜冬瓜白瓜など、すべて瓜類ふつになし、西瓜の大さ梨子の大なるほどなるがまヽ見ゆめり、味噌金壹兩に十八貫目、さつま芋百文に六百目、里芋壹升六拾四文、その高價ならざるものはなし、魚類たえてなし、實に古今未曾有の凶歳也、
おほやけより命ありて、裏店住の町人男子に白米二升五合、錢四百二十四文、老幼婦女の類は白米壹升五合、錢二百四十八文たまはりき、江戸中すべて三拾貳万二千人餘にて、米五千石餘、錢拾三万貳千貫許といへり、裏店住にても下女下男弟子などあるものにはたまはらず、表住の者は下女下男弟子などのなき工商にても賜事なし、
p.1460 大寶元年八月辛酉、參河、遠江、相模、近江、信濃、越前、佐渡、但馬、伯耆、出雲、備前、安藝、周防、長門、紀伊、讃岐、伊豫十七國、蝗、大風壞二百姓廬舍一損二秋稼一、 二年八月庚子、駿河、下總二國、大風、壞二百姓廬舍一、損二禾稼一、
p.1460 正治三年〈◯建仁元年〉十月六日癸未、江馬太郞殿、〈◯北條泰時〉昨日下二著豆州北條一給、當所去年依二小損亡一、去春庶民等粮乏、盡失二耕作計一之間、捧二數十人連署状一、給二出擧米五十石一、仍返上期、爲二今年秋一之處、去月大風之後、國郡大損亡、不レ堪レ飢之族、已以欲二飢死一故、負二累件米一之輩、兼怖二譴責一挿二逐電思一之由、令二聞及一給之間、爲レ救二民愁一所レ被レ揚レ鞭也、今日召二聚彼數十人負人等一、於二其眼前一、被レ燒二弃證文一、年雖レ屬二豐稔一、不レ可レ有二糺返沙汰一之由、直被二仰含一、
p.1460 土御門院建永元年八月十一日、鎌倉大風雨、堂舍悉顚倒、浦々大船小船覆二暫時一下總國海邊、潮波漂死人不レ知レ數、〈此年五穀不レ稔〉
p.1460 明應四〈乙卯〉七月十三日、大風吹テ、作リ一本モ不レ入レ實、飢饉ス、
永正八、〈辛未〉此年大風二三度吹テ、十分ノ富貴、四分三分ニ成リ申候、〈◯下略〉
p.1460 永正九年三月申午、相模國大風、大山寺大杉倒、關東大饑、
p.1460 大永五年八月廿七日、大風雨、日本惡作、
p.1460 天文十一、〈壬寅〉此年ノ秋、世ノ中一向惡ク候テ、大風三度迄吹申候、人々餓死事無レ限、〈◯中略〉ナラベテ三年餓死イタシ候、 同十五年〈丙午〉七月十五日ノ夜、大風吹候テ、作毛悉吹コボシ申候、去程ニ世間悉ク餓死致候テ不レ及二言語一、〈◯下略〉
p.1460 元龜元年八月二十一日、暴雨烈風シテ、參遠ノ二州、殊ニ家數大破シ、作毛皆損ス、
p.1460 慶長十一年八月、四國中國大風吹テ、田園損亡ス、
p.1461 金銀米穀之事 元祿十二年己卯の秋、八月十五夜に大風有、米穀熟せざりしかば、其年の冬、大倉の米、價百苞三十五石を金五十兩に被レ定、則金一兩には米七斗也、〈◯中略〉辛巳〈◯元祿十四年〉の冬に至て、都下に飢人多く、道路に餓死する者有、憲廟、〈◯徳川綱吉〉則有司に命じて、本所の郷に廣舍を作り、毎日數十石の米を粥に煮て、飢民に與へしめ給ふ事、百餘日に及ぶ、翌年の春に至りて、飢民やうやく少く成ぬ、〈◯又見二武野燭談一〉
p.1461 事の序に、先一年の飢饉の事を説かん、天保七年八月、諸國大風雨にて、其年五殼不熟にして、天下大飢饉とぞきこえける、されば諸色の價次第に上りて、同八年には御藏前の相場は、百俵に百五十兩ほど、錢百文に白米四合より貳合五勺迄に至りしかば、下賤の者難儀いふばかりなし、火附盜賊多くして、同八年正月廿八日の夜は、江戸中に火災九ケ所ほど有て、日々物さはがしく、其うへ大疫流行して人多く死す、飢えにくるしみ道路にたほれ死す者、昨日はこヽ、今日はかしこ、幾人といふ數を知らず、市中の人々は、此倒死の者のかたづけにのみ奔走せしに、有がたき御仁政により、兩國廣小路、神田佐久間町、同鎌倉河岸に御救小屋を建られ、道路に迷ひ飢にくるしむものどもを入置れ、日々に飯を賜り、病者には醫藥を賜りしかば、窮民喜び樂しむこと限りなし、されば町々の富豪の者どもヽ、粥を焚て飢人に施し、又は我家近きあたりの窮民に、米錢をあたへなどせしかば、飢を助かる人數をしらず、此時近國には窮民蜂起して、富家に亂妨せしなど聞えしかども、江戸はかばかりの御仁政によりて、かヽる鬪論をさらにしらず、
p.1461 二十八年、郡國大水飢、或人相食、轉二傍郡穀一以相救、
p.1461 慶長十三年六月八日、畿内并攝河兩國决水、洛陽室町筋ハ家屋ヲ浸シ、財寶ヲ流シ、大河ノ隄防所々破壞シ、田園ヲ損ス、
p.1461 寛保二年八月、自二二十七日一至レ朔、畿内大雨風、京城内外大水、破二三條橋一、東海東山北
p.1462 陸諸道大水、幕府赤坂門下成レ河、本所深川傍村、及市舍漂壞、民多溺死、信濃善光寺前、水深二丈餘、上野、下野、武藏、常陸、損二稼禾一八十萬斛、北陸等亦多損毛云、
p.1462 寶暦七年四月より五月迄霖雨、關東洪水、奧州飢饉にて、江戸の米價も次第に登揚せり、
p.1462 丙午之凶歳 往事渺茫たる折から、ひとりの友、我〈◯神澤其蜩〉几邊に遊びて、問て曰、舊年の丙午〈◯天明六年〉元日のヱトも丙午にして、而も日蝕皆旣なり、仍て火を愼しむべき年なりとて、公武に於て御祈など有し驗にや、火一變して水となり、春の内より雨降續き、九夏三伏に暑を不レ知、何國にも火災の沙汰なく、諸人安堵の思をなす處に、炎熱なき故にや、海内一圓に穀不レ實、水論は勿論、左無き所も水溢れ、殊に東國は洪水にて、江都は神君〈◯徳川家康〉御開國以來、未曾有の水難、其上、上に御大變有レ之、寵臣御勘氣を得られ抔、天變、地怪、人事迄、悉く大凶故、米價素より諸物の價、古今希有に貴く成て、國々の飢饉云はん方なし、係る凶年、百年來に有しにや、以前の丙午は奈何、余答て曰、以前の丙午は享保十一年なり、余は十七歳なれば、凡の事は覺え侍りぬ、今の問に仍て、尚考ふるに、其年は豐凶の沙汰もなく、只の年なりき、其ころ老たる人の咄しに、寛文六の丙午は凶年なりしが、今年は無事にて宜敷と云へるを思ひ出せし許なり、去れば翁が物を覺えて後、舊年程の凶年はなし、七十年來或は西國又は畿内、東北國の變事は折々聞きぬれども、四隅の國々、一圓に凶たるを不レ聞、享保六七年、國々洪水、同十八年、西國の虫入も、米價は凡そ舊年に等しく貴かりしが、餘國には格別の變事なかりき、又元文の頃、雨ふり續き、暑無き年一年有し、其頃戲に春、梅雨、秋、冬と云しなり、其時分は連年畿内洪水して、木津邊、淀、八幡の水難云はん方なし、山々崩潰へて、諸木折れ倒れ、適々殘る喬木も、梢僅に顯れ、半は過るまで、土砂に埋れて小樹の如し、山には青兀の色なく唯盛砂の崩れ掛りたるに似たり、田地は悉く河原と成、川床は地形よりも高く埋り、民村
p.1463 壞れ流れ、多くは其跡淵と成、人の損亡不レ可二勝計一、目も當られぬさまなり、洛邊にも加茂川、桂川溢れて、農村 壞し田地不毛せり、然りといへども、國々悉くは不レ然、明和の旱も爾(シカ)なり、舊年の如き四隅一面の凶は、年久舖無き事なり、元祿の末、世の中懶うく成て、寶永と改元ありしを、世人悦びて、源六殿が出替りて、ホウ永事や、世直ろ、と口號み、また、寶永祭は見事な事よ、など諷て、祝ひ直せども、曾て驗なく、富士山燒、洛は大地震、大雷、大火、連年續き、世の風俗も、花奢頻りに長じ、通用金銀は黒銅と成り、飢人道路に斃れ、淺猿かりし事共、年長たる人の物語には聞きぬれ共、我未レ生以前の事なれば、委しき事は知らず、當時のさま實にも其頃に似たれば、凡そ八九十年以來の凶年たるべしと答ふ、
p.1463 十一年七月戊午、是日、信濃國、吉備國並言、霜降亦大風、五穀不レ登、
p.1463 文明九年七月始、北陸道紅雪一寸降、諸作枯大飢饉、永正十三年四月十一日、〈諸國大雪大雹降、其形如レ梅、會津別シテ大雪、平地四尺餘降、〉惡作飢饉、
p.1463 永正十五、〈戊寅〉其年八月廿六夜大霜降テ、明ル日マデキエズ、世間ツマルコト無レ限、秋ノ賣買ハ、米六十七文ナリ、當國山里ノ米荷ヲ、山家不通、米ノ賣買、此郡一粒モ無レ之、耕作イカニモ實不レ入、蕨ヲ九月マデホル也、揔而此年堀トヲス、明ル五月迄ホルナリ、
p.1463 永正十五年戊寅八月廿六日、大雪降、天下餓死、
p.1463 永祿九丙寅六月八日霜降、大饉天下三分之一死、
p.1463 天明三年八月十三日、陸奧隕霜、殺二菽及蕎麥一、東國飢、南部尤甚、米斗錢二貫五百文、餓死者多、
p.1463 大寶二年三月壬申、因幡、伯耆、隱岐三國、蝗損二禾稼一、
p.1463 長祿四年〈◯寛正元年〉五月十日丙戌、宿雨不レ晴、民曰、青苗腐濕、其根生レ蝗云、 閏九月十八日辛
p.1464 酉、去夏水蝗、稻穀不レ熟、民憂レ之曰、來冬春夏、天下大飢、
p.1464 永正八年辛未、次には五六月雨ふり、又はむぎは、七十づヽうれ申候、八月より稻にすくはくの虫たかり候て、秋米は一貫四五百文ニうれ申候へ共、うりかいもおもふ様になく、
天文十五年丙午七月七日、すくはく、ふり申候、
p.1464 大永六年〈丙戌〉十月廿日、當年虫損之故、年貢三分一抑留之由、百姓注二進之一云々、言語道斷之次第也、〈◯中略〉
天文八年〈己亥〉閏六月同八月十五六大洪水、當年世上不熟、虫損過レ此、以外事云々、
p.1464 享保十七年、今秋西國有レ虫〈俗名二雲霞一〉五穀不レ登饑、〈年代略記〉
p.1464 享保十七年九月、自レ夏西南諸道大蝗、西海、山陰、山陽尤甚、大飢、於レ是幕府移二關東粟一禀二貸西國諸藩一、以賑二其民一、 十八年二月、西南諸道益飢、餓死者十六萬九千九百餘人、於レ是幕府又人發、毎レ男日給二米二合一、女一合、以濟二億萬飢者一、
p.1464 偖其享保子年〈◯十七年〉の凶作といふは、前年亥冬、寒氣うすく氣候不順にして、子年に至り春雨しげく、其後しば〳〵照、又五月末より閏五月の下旬迄、霖雨晝夜をわかたず、六月初旬より漸やむといへども、氣候陰冷にして暑うすく、又中旬にして白雨度々あり、其頃より蝗生じ、稻の莖を喰枯しぬ、於レ是諸國一統凶作して、飢饉に至る所多く、身うすき農民は、うゑしするものすくなからず、此事書にも傳はり、古老の口碑にも殘りて、聽も中々淺間敷事共なり、
p.1464 第九 金を持し者うゑ死せし事 享保十七年壬子、西國すべて大きヽん、〈うんか也、此事を年代記に、西國いねむしつき、大ききんと有、〉此時、道にゆきたふれてうゑ死せし者おびたヾしく有けり、其中に一人の男ありしが、衣類を始、身のまはり腰の物に至る迄、美々しくてなみ〳〵ならざる出立ゆへに、其所の者、
p.1465 死體を見屆ければ、金百兩をくびにかけてありしと也、さあれば多くの金を持し人、くい物を求んとて旅に出しと見えたれども、うゑをしのぐべき、わづかの一飯を得る事あたはずして、かく餓死せしと察せられたれば、殊に殘念なる事也、百兩の金を身に添へし人だに、がしをまぬかれざりし有様かくのごとし、いはんや貧乏人のがしせしは、なをすみやかならんとおもひやられしとなり、是は伊豫國松山の産にて、正山といひし老僧が、其所にて直に見きヽしとありし物がたりを、わが〈◯鈴木武助〉若き比聞置し事なり、
p.1465 享保十七年、蝗饑、田禾を害するもの三十一万四千石、人死る九百七十六人、牛馬死る三百十一匹、
p.1465 稻は柳に生ずとて、楊柳のさかゆる歳が稻のよきものなり、本朝にても農民の世話に、梅田、枇杷麥とも云なり、考へみるに此説大抵たがはず、
p.1465 竹實〈 、俗云自然穀(ジネンコ)、〉 本綱、今竹間時見レ開レ花、小白如二棗花一、亦結レ實如二小麥一、子無二氣味一而濇、可二爲レ飯食一、謂二之竹米一、以爲二荒年之兆一、其竹即死、必非二鸞鳳所レ食者一、
p.1465 長祿三年八月十三日壬戌、余撿二舊書史一、日之出、或十、或五、或四、三、二之數甚多矣、大率其咎徴咸屬二旱魃飢饉一也、來歳生民荒饉可レ知也、或曰、本朝羽州之境、二日出二於南北一、歴二三日一而沒、其歳其國大饑也、
p.1465 咏二䈙竹一〈國俗曰二十年枯一〉 昔日自所レ栽、白竹俄欲レ竭、花實六十年、枯死三四月、豈非二凶荒兆一、誰爲二餓莩一發、林居友二此君一、雖レ朽勿二剪伐一、
p.1465 ある時御狩の道なる麥ばたの中に分入玉ひ、近侍の人々に、汝等は麥の豐凶を見しりたるやと仰あり、たれもしらざるよし申けるに、府内に生長したれば、さこそあらめ、麥の穗の左によれしは凶年にて、右によれたるは豐年の徴なり、見よ〳〵この麥みな右に
p.1466 よれたれば、今年は豐作なるべしとて、また田家のかたにわたらせ玉ひ、あれ見よ農家の小兒いづれもつやよく肥ふとりしは、母なる者の食多く、あくまで乳をのみたればなり、また百姓の家毎に去年の芋を埋置しをほり出さヾるをみても、食物の多きをしるにたれり、いづこも〳〵ゆたかなるゐなかの様かなと、御喜色をあらはし玉ひしかば、陪從の諸臣、農家のことまでかく至り深くまし〳〵ける事よと、感じけるとなり、
p.1466 富士の農男并淺間の辨 享和壬戌夏五月、囊を擔杖を曳、ゆき〳〵て駿河の府中にあそぶ、彼地の人の説に、四五月のころ、富士の雪やヽ消殘たるが、寶永山の邊、凹なるところに、人の形のごとく雪の殘ることあり、これを農男と名づく、この殘雪見ゆる年もあり、又みえざるとしも有、田子の土人云、農男見ゆる年は、かならず五穀熟すと、〈◯下略〉
p.1466 暦に黒日(クロビ)多き年は豐稔、黒日少き年は凶作、 或人の説に、暦に黒日多年は必豐稔にて米價卑し、黒日少き年は凶作にて必米價貴し、黒日は民間耕作によしある日にや、御代官を叙せらるヽ日は必黒日也といへり、さもあることにや、文政十一子年、暦の黒日少して凶作、米價甚貴く、同十二丑年は黒日多して、米穀豐なりき、
p.1466 世上竹枯、又は人の目に立程、鳥畜類山中林抔に死する事多き年は、饑饉近きと知るべし、大山の鳴動、海あらく打上ゲば、畑惡しヽと知るべし、
p.1466 豐凶 豐凶の日當は、其國其里々に皆あるもの也、予〈◯下野河内郡田村仁左衞門〉在所近邊は、彼岸に烏卵を産む年は豐作なり、不須の年は巣を始ても止るなり、おくるヽ年は違作なり、依て皆目當あるものなれども、心付ざれば有て無きも同様なり、又百日紅と云はだか木あり、又さるすべりとも言、此木寺宮抔の邊にある木なり、此花は夏の土用より秋の土用前まで咲花なり、違作年には咲かぬる花なり、合歡木、つヽじ等の花も、多く咲は豐作の前表なり、皆諸鳥草木に至る迄、早
p.1467 きは陽にして豐作のしるし、おくるヽは陰にして違作としるべし、
p.1467 凡飢饉年の兆をば、智ある人は夏の中にもはや見及ぶべし、尤七月末八月初には慥に見ゆる物也、されども民は愚なるものにて、其年なみ五こくの色を見て、飢饉を悟り、早く身持を引かへて勤る事をしらず、先秋の實り出來ぬれば悦びいさみて、春のききん餓死すべき事をも辨へず、心にまかせ飮み食ひ、萬の物を用にしたがひ求るゆへ、春の蓄へたらずして、年明れば頓て飢る者おほし、〈◯中略〉 前に記すごとく、飢饉の兆は初秋には必しるヽ物なり、農の總司より其下なる役人に委しく言しめし、農民の食物を儉約せしむべし、扨蕪菁を多く種さすべし、畠の地ごしらへ段々念を入れ、少延引すとも、糞もかれ、地もされたるよし、凶年には虫多き事あり、其ゆへ殊に地ごしらへよくすべし、若圃のなき所ならば、早田中田の跡を委しくこしらへ用ゆべし、必力をつくし、人々相應に多く蒔べし、〈こゑを農人じぶんにもとめかぬる事あらば、役人より借銀才覺してつかはすべし、〉尤後の手入れこやしに心を用ゆべし、次に大根をも多く蒔べし、地ごしらへ右にいふごとし、蕪と大こんは、小きよりまびきて汁にもし、長ずるにしたがひ、食物に加へて穀物の助とすべし、よく農人をさとし、秋初より覺悟し、蕪大こんを多くうへなば、たとひ領主のめぐみ薄しといふとも、貧民までも餓死のうれへなかるべし、 又凶年には、そら豆をも多く種べし、麥より少はやくいできぬれば、麥に取つく時の助と成べし、 農人つね〴〵蕪大根のたねを餘分に蓄置べし、なみの年にてもおほく作り立、農人これを用ひて、冬春麥に取つヾくまでの穀食の助とすべし、
p.1467 凶災の初毛替すべき事 凶災にて田畑とも植付おくるヽ時は、はやく地利を考へて、毛替すべし、水にて作物をそこなはヾ、はやく水にかまはぬものを植へ、旱にて作物をそこなはば、はやく旱にかまはぬものを植へば、彼を失ふとも此を得て、半作にはなるべし、是はいかにも時に先だちて、はやくなすをよしとす、
p.1468 元年五月辛丑朔、詔曰、〈◯中略〉自二胎中之帝一、〈◯應神〉洎二于朕身一、收二藏穀稼一、蓄二積儲粮一、遥設二凶年一、
p.1468 慶安二己丑年二月廿六日
一百姓は分別もなく末の考もなき者ニ候ゆへ、秋ニ成候へば、米雜穀をむざと妻子にくはせ候、いつも正月二月三月時分之心をもち、食物を大切ニ可レ仕候ニ付、雜石專一ニ候間、麥粟稗菜大根、其外何ニ而も雜石を作り、米を多く喰つぶし候わぬやうに可レ仕候、飢饉の時を存じ出候得ば、大豆之葉、あづきの葉、さヽげの葉、いもの落葉など、むざとすて候儀は、もつたいなき事ニ候、
p.1468 天和三癸亥年十月十九日
去年當年豐年たるの間、此節可レ致二凶年之心當一之旨、被二仰出一之條、被レ存二其旨一、國守領主、米穀等被二貯置一候様、可二相心得一もの也、
亥十月日
右之通万石已上、其外旗本之面々へ被二申渡一、
p.1468 享保十五戌年八月
近年ハ豐年打續候間、凶年之爲二手當一置米被二仰付一事候間、諸大名も米穀等可レ成程は、貯置候之様、可レ被二心得一候、以上、
八月
p.1468 米澤に於て諸士申合、山より石を切出し、橋を作り、池を堀、諸所の普請を御手傳と稱して働ける、美作嫡子も出て、石車の綱引けるとなり、斯て三年にして、城下に三間半に二十五間の倉五棟出來せり、是皆諸士自身石を引出、山の材木を伐來りて成しけるとなり、かヽりければ封内の諸民、思ひ〳〵に籾を持參し、五萬俵を上納せり、されば凶年の備にとて、彼倉に納られぬ、又四十四ケ所の作事普請、農民我々が力にてせんと願出て、上の費なく成就しける、亦諸士并
p.1469 町在より願に寄て、桑百萬本、榛百萬本、楮百萬本、諸所の空地に植ける、亦小出村といふ所に、農民救米の藏を建られければ、庶民思ひ〳〵に籾を上納す、此時美作巡見して感悦し、自ら酒器を執て民に飮しめけるとなり、
p.1469 天明八申年九月廿九日
一夫食貯方之儀は、稗を第一ニいたし、其外麥、粟、大根、切干の類、何によらず於二其所一夫食ニ可二相成一品は、木の根葉、田にし、海草之類ニ而も、取集候積、土地柄相糺、米澤山之場所は、籾并雜穀の類も、百姓持高ニ應じ爲二差出一候歟、又は男女壹人ニ付何程ヅヽとか爲二差出一、右に准じ根葉并田にし、海草之類も、程を極爲二差出一、圍置候積、其土地に隨ひ、書面之外ニも、夫食ニ可二相成一品可二書出一事、
p.1469 寛政元酉年自二三月一至二十二月一 町觸
凶年手當之ため米雜穀貯置之事
當地〈◯大坂〉三郷町中之者共、凶年可レ及二饑餓一砌、爲二御手當一永續之ため、此度公儀御入用を以、天滿川崎ニ有レ之奉行所支配勘定場空地〈江、〉新規土藏取建、米雜穀御買上ニ而被二詰置一、猶又御入用を以、十ケ年之間ハ御買足をも被二仰付一、土藏修復其外米穀詰替等之諸入用迄、是又年々公儀御入用を以被二仰付一候間、此旨令二承知一、御仁惠之程得と相辨、一同難レ有可レ奉レ存候、且又右ニ付而ハ、三郷市中之者儀も、一己之存寄に隨ひ候共、一町申合候共、勝手にいたし、金銀錢又は米雜穀納置度存候者共ハ、少少宛ニ而も不レ苦候間、志次第、右役所〈江〉相納可レ申候、尤御手當之儀、追而ハ米穀ニ可レ被二仰付一候得共、御趣意有レ之、先此度ハ米穀雜穀取交御買詰被二仰付一候、
右之通江戸より依二御下知一申渡候、尤格別之御趣意を以、三郷之ものども饑饉之節、御手當として永續之ため、被二仰付一候事ニ候間、御仁惠之程厚難レ有奉レ存、町中末々之者ども迄、不レ洩様可二申聞一候、
酉三月十四日
p.1470 凶年ニ當リ先生〈◯二宮尊徳〉厚ク救荒ノ道ヲ行フ
于レ時天保四癸巳年、初夏時氣不順ニシテ、霖雨止マズ、先生或時茄子ヲ食スルニ、其味常ニ異ナリ、恰モ季秋ノ茄子ノ如シ、箸ヲ投ジテ歎ジテ曰、今時初夏ニ當レリ、然シテ此物旣ニ季秋ノ味ヲナスコト、豈唯ナランヤ、是ヲ以テ考ルニ、陽發ノ氣薄クシテ、陰氣旣ニ盛ナリ、何ヲ以テカ米穀豐熟スルコトヲ得ン、豫メ非常ニ備ヘズンバ、百姓飢渇ノ憂ニ罹ラン歟、於レ是三邑ノ民ニ令シテ曰、今年五穀熟作ヲ得ズ、豫メ凶荒ノ備ヘヲ爲スベシ、一戸毎ニ畠一反歩其貢税ヲ免スベシ、速ニ稗ヲ蒔、飢渇ヲ免ルヽノ種トセヨ、忽ニスベカラズト、諸民是ヲ聞、笑テ曰、先生明知アリトイヘドモ、何ゾ豫メ年ノ豐凶ヲ知ランヤ、戸毎ニ一反歩ノ稗ヲ作ラバ、三邑夥多ノ稗ナルベシ、何レノ處ニ是ヲ貯ン、且稗ナルモノ、舊來貧苦ニ迫レリトイヘドモ、未ダ是ヲ食ハズ、今是ヲ作リタリトモ食フコトヲ得ズ、然ラバ無用ノモノト云ベシ、假令人ニ與フルトイヘドモ、誰カ是ヲ受ン、詮ナキコトヲ令スルモノカナト嘲リタリ、然レドモ貢ヲ免ルシ作ラシム、是ヲ背バ必ズ令ヲ用ザルノ咎メアラント、已ムコトヲ得ズシテ俄ニ稗ヲ作リ、無益ノ事ヲナセリト怨望スル者アルニ至ル、然ルニ盛夏トイヘドモ、降雨多クシテ冷氣行ハレ、終ニ凶歳トナリ、關東奧羽ノ飢民枚擧スベカラズ、此時ニ至リ三邑ノ民稗ヲ以テ食ノ不足ヲ補ヒ、一民飢ニ及ブモノナシ、始テ先生ノ明鑒豫メ凶荒ヲ計リ、下民ヲ安ズルノ深意ヲ知リ、我ガ知ノ淺々タルヲ悟リ、曾テ無益ノ事トナシ、活命ノ令ヲ嘲タルヲ悔、大ニ其徳ヲ稱ス、翌午年ニ至リ、再ビ令ヲ下シテ曰、天運數アリテ、饑饉トナルコト遲クシテ五六十年、早クシテ三四十年、必凶荒至レリ、天明度以來ヲ考フルニ、饑饉來ルベシ、去年ノ凶荒ハ甚シカラズ、未ダ其數ニ當ルニ足ラズ、必今一度大凶至ランコト近年ニアリ、汝等謹テ是ニ備ヨ、今年ヨリ三年ノ間、畠ノ貢ヲ免スコト、去年ノ如クスベシ、家々心ヲ用ヰ、稗ヲ植テ豫メ飢渇ノ憂ヲ免ルベシ、若怠ルモノアラバ、里正是ヲ察シ我ニ告ヨト命ズ、三邑去年ノ前見明カナp.1471 ルニ驚キ、且飢渇ノ害ヲ免レタレバ、謹テ命ニ隨ヒ、糞養ヲ盡シテ是ヲ作レリ、如レ此スルコト三年、三邑ノ稗數千石ノ備アリ、同七丙申年ニ至リ、五月ヨリ八月マデ冷氣雨天、盛夏ト雖モ北風ノ寒キコト、膚ヲ切ルガ如シ、常ニ衣ヲ重子タリ、年大ニ饑ウ、實ニ天明凶年ヨリモ甚シキ處アリ、關八州奧羽飢民夥多、餓莩道路ニ横ハリ、行人潛然トシテ面ヲ掩テ過ルニ至ル、此時ニ當リ櫻町三邑ノ民而已此憂ヲ免ル、
p.1471 藤氏忠俊公、賦二狂吟一贈下荷二篠實(サヽノミ)一人上、予亦次レ韵、
人肩二篠實一喜消レ魂、主從相携出在レ原、今歳村々及二飢饉一、無レ之民命不二曾存一、
p.1471 竹實〈 、俗云自然穀(ジネンコ)、◯中略〉 按〈◯中略〉天和壬戌之春、紀州熊野及吉野山中、竹多結レ實、其竹高不レ過二四五尺一、枝細而皆小篠、其實如二小麥一、一房數十顆、山人毎レ家收二數十斛一、以爲二食餌一、至二翌年春夏一、然大資二荒年飢一、而後五穀豐饒、米粟價減レ半、予〈◯寺島良安〉亦直見レ之、然則荒年極當レ爲二豐年一之時出乎、
p.1471 山谷救荒煮豆法 眞黒豆一升、挼莎極淨、用二貫衆一斤一、細剉如レ豆、一般參二和豆中一、量二水多少一、慢火煮(以)レ豆、香熟攤 、就レ日晒乾、翻覆令三展盡二餘汁一、去二貫衆一瓦器收貯、空心日啖二五七粒一、則食二百艸木枝葉一、皆有レ味可レ飽也、此在二凶年儉歳米珠薪桂之日一、不レ可レ忽二遺此方一、故儧二列救荒本草之首一云、〈宋黄庭堅〉
若遇二凶年飢饉一、不レ在レ有二以濟一レ之、則枕二藉道路一而歿二非命一者殆多矣、故〈予◯神田玄泉〉亦取二一煮豆法一置二于此一、
p.1471 松葉救荒 忠州救荒切要〈朝鮮ノ書〉ニ云、松葉段食レ之、可二以延一レ生、是昆摘取搗レ之、汁出成レ塊、則或温二揬陽地一布乾、更搗作レ末、以二穀末二合一作二爲稀糊一、可三一大沙鉢四二分其糊一、先以二一分一飮下、使二膓胃一通潤、次二分和二松葉末四分一而食、最後餘二一分糊一飮下、則胷無二滯氣一、口無二粘滓一、氣力勝二於白粥一者、若下道不レ通、則嚼二下生太數三枚一、下注通レ氣可也、牧官亦嘗試レ之、因令二在庭之民分飮一、皆曰好甚、松葉段得レ之不レ難、用レ之無レ窮、救荒之策莫レ切二於此爲一レ齊ト、按ズルニ松葉ノ飢ヲ救フハ、人ノ知トコロナレドモ、此法尤ヨロシク見ユ、
p.1472 食草木葉法
生黄豆(なままめ)と槿樹葉(むくげのきのは/きばらす)と一同に嚼レ之、味不レ作レ嘔、可二以下一レ咽、毎日二三合ニて可レ度二一日一、〈唐の三合は、日本の一合五勺にあたるなり、〉 生松栢葉(なままつかしわのは)を食するには、用二茯苓骨碎補杏仁甘草(ふくりゆうこつすいほきやうにんかんさう)一、搗羅(つきふるひ)爲レ末、取二生葉一蘸(ひたし)レ水、袞(まじへ)二藥末一同香美ありと云り、〈如レ此のるいはよく〳〵試て用うべし、 今年(寶暦五年)西國にて松皮を食せし事を聞傳へ、飢民ども製して食しけるに、製法よからざるか、又松の木西國とちがいあるか、吐瀉腹痛して死する者多きよし、この生松葉を食する法、我いまだ試ざれば、若し其毒にあたりて死するものあらんことを恐る、能試て後用べし、◯中略〉
右四方荒政要覽に見えたり、辟穀二方は、貧民の力にて調合なるべきにはあらざれども、好事の人のために載す、
p.1472 草木をもて食とする事 松皮を食して毒に中りしことを、備荒録にいへど、天明の凶年の事を知りし人に尋るに、上方筋にては、毒に中りしことはかつて聞ずといへり、奧羽邊にては、その製法を得ざりしにや、或人の鈔録を見しに、松を食ふ法と、藁を食ふ法とを載せたり、松を食ふ法、松は何によらずといへども、雄松老木の皮を最上とす、甘はだは苦みあり、それゆへ上一皮をへぎとり、碓にて舂て、磨にてひき、糊こしすいのうにて篩ひ、細末にするほどよし、是を蓋のよく合ふ釜か鍋に、水多く入れたるにかきまぜて、煮へ立て蓋を取らず、明る朝迄それなりにおけば、若木にても澁苦みは固より、匂ひもなくなる也、あく氣を流す時、粉のこぼれぬ様にし、味噌漉の内へ敷布をひろげ、その上へ打あくべし、砂あらばゆりて其布にて直にしぼり、餅團子に入るならば、干に及ず、餅は常の通米をこしきに入れ、其上へ松の粉をひろげおき、米の蒸せるを期とし、臼に入てつく也、尤手水をひかゆべし、香煎にするには、あくを拔たる粉を日に乾して炒也、老木は灰汁ぬきせずして可也、〈以上は享保十八丑年五月、大坂井上某これを貧家につぐ、寛保三年亥二月、江戸本船町大倉氏、この事を貧家につぐ、〉藁を食ふ法は、藁の根元四五寸、末五六寸を切すて、二三分づヽに刻み、二三日水に浸し、よく干し、炮烙にていり、臼にてひき、粉にして糊こしにて能くふるひ、何にても二三分まぜにして、蒸籠の類にて
p.1473 むし、臼にてつきても、すり鉢にて摺りてもよし、餅團子に製し食する也、〈大坂船場の人、何某の法、〉
p.1473 天保七年夏より秋かけて飢饉にて、人々うゑに苦めるをりに、松の根をほりて、松根 白皮丸と云を製りて人々に與へけるに、
いざ子等うゑな憂ひそ常しへに松の榮ゆる御世にし有れば
p.1473 食二草木葉一解毒法 荒政要覽云、嘗見二苦行僧人入レ山耽靜一、必炒鹽入二竹筒一携往云、食二草葉有一レ毒、惟鹽可レ解、しかれば荒歳第一の解毒は、鹽にしくはなし、飢民の死するは、鹽の貯へ盡て後、毒草を食するゆゑ死するよし、今こヽろむるに皆しかり、鹽にて解せざるは、救荒解毒丹を用うべし、もし毒つよくして解せずんば、碎穢廣濟丹をかね用うべし、此藥は四五十ケ村へ施藥したるなり、もしつよく毒にあたりたるものは求め用べし、 又總身浮腫水腫のごとくなるのみにて、餘症なきものは、五加木(うこぎ)の根を煎じ飮ば、腫ひくものなり、
p.1473 食せずして飢ゑざる法 串柹を糊の如くにして、蕎麥粉を等分にまじへ、大梅ほどの大さに丸じ、朝出づる時二三を用ひなば、一日の食事になれり、もし蕎麥粉なき時は、餅米の粉にてもよろし、又三色あはせても用ふべしと、安齋漫筆にあり、また芝麻一升、糯米一升をともに粉にして、棗一升を煮て、それへ二味をこねまじへ、團子として一丸食すれば、一日飢に及ばずと、白河燕談にあり、猶これらの法あり、予〈◯山崎美成〉曾てきけるは、白米一斗を井籠に入れ、百度蒸し干しおき、一握づヽ毎日水にて三十日のめば、死ぬまで一切の食物くひたからず、〈壽世保元〉黒大豆をよくむして一日食物をくはず、翌日かの黒大豆を食し、外の食物をくふことなく、渇時は水を飮むべし、如レ此一年ほどすれば、後には一切の食物をくふことなくて仙人となる、〈博物志〉黒大豆五合、胡麻三合、水に一夜浸し蒸すこと三度、さてよく干して二色ともに、手にて皮を取り舂きくだき、拳の大さほどにつくね、甑の中に入れて、戌の時より子の時まで蒸して、あくる日寅の時に取り出し、
p.1474 日に干付けて食ふべし、拳ほどなるを一食へば、七日飢ゑず、二食へば四十九日飢ゑず、三食へば三百日飢ゑず、四食へば二千四百日飢ゑずして、顏色おとろへず、手足の働き少しも常にかはることなし、〈王氏農書〉この三方は唐土にて飢饉の時に、多く人を濟ひたる名方なりといへり、因に云、人の通はぬ谷底、又は井の中などへあやまちて落ち入りたるか、あるひは海上にても一切の食物なきところにて、命をつなぎ、しかも身體氣力おとろへざる方、壽世保元に、口に唾を一はいためてはのみこみ、又ためては飮みこみ、かくの如くする事、一日一夜に三百六十度飮みこめば、何十日へても飢ゑずといへり、これにつきて話あり、正徳のころのことヽかや、奈良宗哲といふ人、武藏に住みしをりから、常にこヽろやすく交る僧の祈願ありて、七日斷食して禮拜行道す、同行の僧一人あり、彼僧に右の唾を飮みこむ方を教ふ、彼僧ふかく信じて相勤む、同行の僧はあざけり笑ひて、これを用ひず、行法六日に至りて、同行の僧は手足痛みことの外にくるしむ、又唾を飮みこみし僧は、つねにかはることなく、行法とヾこほりなく滿願成就したりとぞ、おもふに、この唾を飮みこむの方は效驗さもあるべくおぼゆ、唾は身液なれば吐かずして飮まば、身體の潤をまさんことことわりあり、常の養生にも心得あるべし、已に遠唾高枕、壽を損すと、醫心方に見えたり、
p.1474 豆腐粕〈からと云、又きらずといへり、九州にてはとうふの花と云、又とうふの粕といふところあり、〉 飢饉の時は、此雪花菜(きらず)壹升に葛粉〈山より堀製せしまヽ晒さざるなり、是を灰葛(はいくず)といふ、〉壹合程入、よくこねまぜ、たぎる湯にて團子のごとくこねて、片手にて握りて、鍋に味噌汁をこしらへ置、其中へ蘿蔔或は菜の干葉等を入煎(に)て、其たぎる中へいれて、よく煎えたるを試て食するに、美味(うまく)して飢をしのぐに足れり、肥しの事にあらざれども、備荒の助ともならんと、次序ニ記し置ぬ、是は天明の凶年に、予が試たる事也、
p.1474 天明三卯年九月廿六日申渡
p.1475 申渡
在方不作の節、夫食等差支候砌、藁餅食事ニいたし候由、尤主法存候ものも可レ有レ之候得共、場所ニ寄不二存知一之ものも可レ有レ之ニ付、別紙書付相渡候間、用立候筋も可レ有レ之、村々〈江〉者可二申達一候、
卯九月
藁餅之法
一生藁を半日も水ニつけ、あくを出し、能々砂を洗ひ落し、穗ハ去り根元之かたより細ニきざみ、夫をむし候て、干立煎(イリ)候上、臼ニて挽、細末ニいたし候、右藁の粉壹升〈江、〉米之粉貳合程入、水ニ而こね合セ、餅之様ニしてむし候歟、又ハゆで候て、鹽歟味噌をつけ候而食事ニよし、又ハきなこ付候而も吉、右之粉の代りニ、葛蕨の粉又ハ小麥の粉交ゼ候てもよし、
百草餅
一百草 壹斗〈◯註略〉 一粉糖 壹升 一小麥粉 壹升、〈餅米粉ニ而も〉 一小米 五合 一串柿 五串
右百草餅仕法
天明五巳年正月申渡
一薏苡仁者麥ニも勝り候者ニて、畑ニ作り候而も利を得る事有レ之由、尤濕地ニ應ジ、眞土ハ勿論砂地ニも出來安ク、一旦植置候得者、諸草を不レ厭はびこり出來立候ものニ候間、秣場等之端々、或者用惡水路川縁堤等ニ植置、實を取貯候様可レ被二申教一候、 但二月ニ植、八月ニ實を取候ものニ而、尤實之形細長ク、色白き方粮ニ宜敷候、
一縁豆は、畑の畦岸荒畑如何様之地ニ而も、相應ニ出來立、殊ニ二月末ニ植、五月末六月ニ實を收、其實を直に植、又八月ニ實入候ニ付、百姓之粮に作り候而、甚益あるものニ候間、種を貯、少之空地ニも植付候様可レ被二申教一候、p.1476 一薯蕷、河首烏、草薢、栝樓、蒟蒻、葛、蕨等ハ、五穀ニも不レ劣、夫食ニ相成候ものニ而、自山林原等ニ生じ、木立の障ニも不二相成一者ニ候間、百姓持山或者御林等の内〈江〉も、種を蒔付候様、可レ被二申教一候、〈◯下略〉
天明八申年七月十日申渡書付
支配所村役人世話爲レ致、田并小溝等に有レ之候田螺、子供ニ拾ひとらせ、村役人方〈江〉取集メ、湯をかけ干シ上貯置候得者、飢を凌ぎ候筋ニも相成候間、右之段村方〈江〉も能々申含、農業手透之節、干シ方等も世話爲レ致、貯候様申渡、尤手代共〈江〉も申付、實意ニ村方〈江〉申含取計候様可レ被レ致候、拾集候子供〈江〉手當をも遣し候而、宜キ筋も候ハヾ、聊之事ニ而可レ有レ之事故、各吟味勘辨之上可レ被二取計一候、勿論農業いそがしき節者難二相成一事故、此節より早々申渡取計可レ被レ申候、
右之通被二仰渡一奉レ畏候、早便を以、早速銘々支配所〈江〉申遣、被二仰渡一之趣取計、其段追而御勘定所〈江〉御屆申上候様可レ仕候、依レ之御請申上候、以上、
申七月十日
天明八申年九月九日
以二廻状一致二啓上一候、然者拙者儀、今日御勘定所〈江〉罷出候處、豐田金右衞門申聞候者、先達而村々貯穀之儀御談申候處、定而此節者追々貯置候事と被レ存候、夫ニ付唐茄者切干ニいたし貯候得者、夫食ニ宜ものヽ由、本多彈正大弼殿御沙汰有レ之候間、備後守殿被二仰聞一、右之趣寄々御同役中〈江〉御談申候様、金右衞門申聞候間、御達申候、乍二御世話一廻状御順達、留より御返却可レ被レ成候、以上、
申九月九日 辻六郞左衞門
p.1476 第八 かてをたくはえし人の事 ある所に米穀は云におよばず、凡くひものになるべきほどの色品をたくはひ、何によらず心を用ふる事のくはしき人ありけり、毎年秋の末に至り、里芋を刈取るせつ、莖をば皆ほしあげてたくはひ、又きりすてし芋の葉をも遺さず取集めおき、よ
p.1477 き日よりには庭へひろげてほしあげ、扨家内中かヽりてもみこなし、其葉を紙袋におし入れ、しめりけ虫氣のつかざる様に、心を用ひ手入をして、年毎におほくたくはひおきけり、かくて此ききんの時にいたり、此芋の葉の貯を出して、雜穀にまじえつヽくひければ、そくばくの日數うゑを凌ぎて、大きにたすけとなり、又人にもあたへしときこえしは、よき心がけと知るべし、
p.1477 飢饉 近年打つヾき五穀凶作なりし上、天明二年寅の秋は、四國九州の邊境飢饉して、人民の難澁いふばかりなし、余〈◯橘南谿〉などが旅行も、道路盜賊の恐れありて、冬深き頃などは、所々逗留して用心せり、さて春になりても、諸國とも米穀ます〳〵高直に成り、余など途中白米一升を大かた百四十文ばかりを出して求たり、國々城下までも、多くは麥飯、粟飯、琉球芋、大根飯の類を食し取つヾきたり、村々在々はかずねといひて、葛の根を山に入りて堀食ひしが、是も暫くの間に皆ほりつくし、金槌といふものをほりて食せり、是もすくなく成りぬれば、すみらといふものをほりて、其根を食せり、葛の根金槌の類は、其根をつきくだき水にさらし、夫をだんごに作りて、鹽煮にして食せり、春のころにいたりては、鹽もけしからず高直に成しかば、これをも求めかねて、海邊に出て潮を汲來りて、其潮にて右の金槌團子を煮て食す、すみらといふものは、水仙に似たる草なり、某根を多く取あつめ、鍋に入三日三夜ほど水を替、煮て食す、久しく煮ざればゑぐみありて食しがたく、三日ほど煮れば至極柔らかに成、少し甘味も有様なれど、其中にゑぐみ殘れり、余も食しみるに、初め一ツはよく、二ツめには口中一はいになりて咽に下りがたく、はや三ツとは食しがたきもの也、されど食盡ぬれば、皆々やう〳〵に是を食して命をつなぐ、哀れ成事筆に書盡すべきに非ず、余一日行勞れて、中にも大に奇麗なる百姓の家に入て、しばらく休息せしに、年老たる婆々一人なり、いかヾして人のすくなきやと尋ぬれば、父子嫁娘皆今朝七つ時より、すみら堀にまゐれりといふ、夫ははやき行やふ也といへば、此所より八里山奧に入らざればす
p.1478 みならし、淺き山は旣に皆ほりつくして、食すべき草は一本もさむらはず、八里餘も極難所の山を分入り、すみらをほりて此所へ歸れば、都合十六里の山道なり、歸りも夜の四つならでは得歸り着ず、朝七ツも猶遲し、其上近き頃は皆々空腹がちなれば、力もなくて道もあゆみ得ずといふ、其すみらいかほど取來るといへば、家内二日の食に足らずといふ、さても朝の夜るより暮の夜まで十六里の難所を通ひ、三日三夜煮て、漸(やう)々に咽に下りかぬるものをほり來りて、露の命をつなぐ事、哀れといふも更なり、中にも大なる家だに斯のごとし、ましていはんや貧民のしかも老人少兒、又は後家やもめなどは、いかヾして命をつなぐ事やらんと思ひやればむねふさがる、
p.1478 奧州南部癸卯〈〇天明三年〉の荒饑 山崎美成〈〇中略〉
何品によらず、食物に相成候類、過分の直段に御座候間、食物在々無二御座一、蕨、野老(トコロ)、葛等を堀り食事仕候、夫も幾千萬人と申、限りなき事に御座候間、さしもの大山を忽に堀盡し申候間、葛蕨の粕、あも、さヽめなど申もの計食事に仕候に付、右の毒に中り、五體腫れ、大小便不レ出して、忽ちに相果候者數知れ不レ申候、當九月比、乞食共犬猫猿等を食事に仕候事承り候て、肝を潰し候處、去月よりは、犬猫は不レ及レ申、牛馬を打殺、食事に仕候、非人乞食等は、眼前犬猫をとらへ、鹽も付けず喰候體、誠に鬼共可レ申哉、おそろしとも何とも可レ申様無二御座一候、〈〇中略〉
一唯今難澁の者共食事には 一あも香煎〈是はわらびの屑をたヽき、さらし粉を取申候かすを、ササメといふ、細成るをアモといふよし、〉 一松皮香煎 一同餅 一藁採(シベ)香煎 一豆がら香煎 一犬たで香煎 一あざみの葉〈〇下略〉
p.1478 草木をもて食とする事 水府の佐藤平三郞といふ人、物産に精しき名あり、先達而出會し時、救荒の事を談ぜしに、佐藤いへらく、草根など堀り食ふても、人の腹にたまるものは少し、天明の凶年、余會津にて民どもにおしへて、山林にゆきて、あらゆる木葉を鎌にて芟り來り、湯引て食料とせしむ、それのみにてはやはり腹のもちあしき故、猪鹿の類を打取り、その肉を鰹節の
p.1479 ごとく切りて乾し置き、右の木葉の内にけづり込て喰はしめて、飢を救ひしとまうしき、いかヾあらん試むべし、
p.1479 承和七年六月庚申、詔曰、哲后撫レ運、寔約レ己而臨レ人、明王會レ昌、必推レ心而濟レ物、是以羲農隔レ代、同期二於勤勞一、勛華殊レ時、共均二於愛育一、朕祗膺二景命一、嗣二守丕基一、日愼塞レ懷、不下以二九重一自樂上、夕惕興レ想、毎以二億兆一爲レ憂、而政化未レ孚、至誠靡レ達、去年陰陽並隔、秋稼弗レ登、頃者偏亢淹レ旬、藝殖或損、如聞諸國飢疫、往々喪亡、朕之菲虚、黎元何罪、仰稽二前烈一、徳是除レ邪、内求二諸心一、抑可二挹損一、其朕服御物并常膳等、並宜二省減一、左右馬寮秣穀一切擁絶、諸作役非レ要者、量レ事且停、狴圄之中、恐有二 者一、速命二所司一、申慮放出、加之天下諸國有レ水之處、任令二百姓一灌漑、先レ貧後レ富、鰥寡狐獨不レ能二自存一者、量二加賑贍一、其臥レ病之徒、無レ人二視養一、多致二夭折一、凡國郡司爲二民父母一、而不二顧念一、豈稱二子育一、宜下就班二穀藥一、令レ得二存濟一、又免中除五畿内七道諸國去承和二年以往、調庸未進在二民身一者上、但東海、東山、山陽三道驛戸田租限二三ケ年一、殊從二原免一、庶油雲布レ簇、施二甘澤於十旬一、嘉苗亘レ原、貯二京城於萬畝一、普告二遐邇一、俾レ知二朕意一、 丙寅、太政官、左大臣正二位藤原朝臣緒嗣、右大臣從二位皇太子傅藤原朝臣三守等奏曰、伏奉二今月十六日詔書一偁、去年陰陽並隔、秋稼不レ登、頃者偏亢淹レ旬、藝殖或損、御物并常膳等、並宜二減省一者、群臣跪讀不レ勝二感歎一、但恩渙俄出、甘澤平施、鳳畛收レ黄、龍原布レ緑、神明不レ遠、感應孔昭、率土之濱、誰不二歡慶一、昔夏帝之解二陽肝一、殷王之禱二桑林一、以レ古況レ今、抑須レ慙レ徳、臣等忝以二散樗一、叨厠二槐棘一、道非二匡賛一、功謝二緝熙一、靦懼之至、倍二百恒情一、今者帝念猶勞二於上一、臣心何安二於下一、埃塵不レ讓二泰山一、居二仰止之庭一、㳙澮无レ辭二巨海一、作二朝宗之府一、伏望暫減二五位已上封祿一、以支二萬一一焉、伏聽二天裁一、 庚午、勅報二公卿論奏一曰、運鍾二季俗一、道謝二潛通一、内求二諸己一、政術多レ昧、去年炎旱鳴蝉之稔不レ昇、今夏騫陽封蟻之徴欲レ缺、而上天反レ累、惟神降レ休、雨師俄奔二於四溟一、甘澤終遍二於八極一、是則卿等能施二變復一以申二弼諧一、感二動彼蒼一、用招二爕理一之所レ致也、卿等賛二揚嘉應一、歸二于朕躬一、朕之菲徳、何以當レ之、且夫年豐不レ效、軄朕之由、菑害仍臻、何關二輔相一、況大夫等、或在二屢空之地一、不レ能レ濟レ家、或絶二兼遂之心一、所レ恃唯秩、所以
p.1480 此般省撤、獨止二一人一、而卿等輸以二丹誠一、折レ封減レ祿驅二之朱紱一、蹙レ私助レ公、惟雖レ知二雅懷一、固乖二予意一、是以來表之請、特以不レ容、 壬申、卿等重奏曰、伏奉二綸旨一、恩發二紫庭一、損レ上之美獨遠、徳重二黄屋一、益レ下之道愈光、所レ請祿封未レ被二減省一、夫周后雲漢、鄭伯桑山空聞二其祈一、不レ見二其驗一、今皇天報應、離畢滂沱動植飛沈、無レ水不二霑潤一、猶且乾々在レ慮、納隍之勞良深、孳々責レ躬、濟レ物之仁至廣、臣等伏惟、斗筲謬叨匪レ據、覩レ天猶暗、在レ陸如レ泥、何賛二皇猷一、應備二彼相一、而運遇二昌期一、觀二聖化之無一レ外、時屬二交泰一、禱二民天之有一レ年、但君唱臣隨、上行下化、古今一揆、寧得二闕如一、未レ有二主上憂勤、臣下逸樂者一也、伏望、五位已上封祿、暫從二省約一、導二㳙流一而添二溟海一、持二爝火一而助二大陽一、權中納言從三位藤原朝臣良房、奉二綸旨一、報命曰、頻省二來表一具二之懇情一、宣二食封之家依レ請減一レ之、人別四分之一、但四位五位秩祿惟薄、今年之間不レ可二減省一、
p.1480 元年閏十二月己亥、播磨、備前、備中、周防、淡路、阿波、讃岐、伊豫等國飢、賑二給之一、又勿レ收二負税一、
p.1480 寛喜四年〈◯貞永元年〉十一月十三日、依二飢饉一、可レ救二貧弊民一之由、武州〈◯北條泰時〉被レ仰之間、矢田六郞左衞門尉、旣下二行九千餘石米一訖、而件輩今年無レ據二于辨償一之旨、又愁二申之一、可レ相二待明年糺返一之趣、重被レ仰二矢田一云云、凡去今年飢饉、武州被レ廻二撫民術一之餘、美濃國高城西郡、大久禮以上、千餘町之乃貢、被レ停二進濟之儀一、遣二平出左衞門尉春近兵衞尉等一、於二當國株河驛一、被レ施二于往反浪人等一、於下尋二縁邊一上下向輩上者、勘二行程日數一而與二旅粮一、至乙稱下可二止住一由上之族甲者、預二置于此庄園一之間、百姓被レ扶レ之云云、
p.1480 飢饉を救ふことは急にすべき事 備前の芳烈公、〈◯池田光政〉寛永の饑饉に逢ひ玉ひ、救ひの儀を老臣と相談致され候處、評議まち〳〵にて一決せず、熊澤蕃山先生〈助右衞門〉末座より進み出て、かやうのせつ長僉議は無用に御座候、早く御救ひを下さるべき旨申ければ、芳烈公實にもと思召、早速評議一決して、多くの銀子を出して、窮民九萬人〈江〉厚く下され、尚もれたるものもあらんかと思召、御自身又は家老分のものにても、くま〴〵まで御巡見あるべき仰なれども、夫も差
p.1481 支へあらんとて、やはり蕃山先生に仰せ付られ、國中をめぐり行き、御救ひにもれたるものあらば、直ぐに賜はるべきよしにて、銀子十〆目渡され、尚又郡奉行抔へ、御自筆にて御救ひの儀仰渡され、銀子入用あらば、何ほどにても出し遣すべく、たとへ御手道具まで、御うり拂被レ成候ても、御調達可レ被レ成間、百姓一人にても餓死致させ候はヾ、其方共越度たるべき旨被二仰渡一候事、君則烈公遺事などにくはしく見えたり、人君の仁政、かくありたきものなり、
p.1481 天明三年夏より秋に至る迄、絶て暑なく、ひとへ物著しは唯二三日なるべし、斯る年並なりければ、作毛不熟して、今年より翌四年まで奧羽一統の飢饉とはなれり、されば年來御心〈◯上杉治憲〉を盡されし蓄藏をひらかれ、夫が上に越後或羽州酒田などにての買米有て、飢に及んとせるには、男子二合、女子一合の積にて、飯米の御手當のあり、味噌を賜り、きるものまでの御手當有りけるゆへ、餓死に及べるはなかりし、かヽるほどの年並なれば、御寢食を安んじ給はず、只人民の事のみ憂思しめし、御心を盡させ給ひしは、御脚痛と唱へられ、御參府をだに延引し給へるにて、推はかり知り參らすべし、されば貴となく賤となく、粥を用よ菜菓をかてにしてくらへなど、觸渡し給ひければ、以後は朝の御膳には粥を聞し召、例として怠り給はざりし也、唯御國民を思し憂せ給ふのみか、他の人迄に及ばせ給へる事有、御國民は君徳によつて、幸に飢餓を免がれしが、隣國の飢餓人多入來りて食を乞は、道路に行倒れて死する者亦なきにしもあらず、されば道路に倒れ死せるものあれば、其村其處の者の量として、其所に埋み、其うへに札建て、よるべの人を待事、是迄の例なりしを、以後は其あたりの寺に葬り、布施〈銀五匁とて錢四百文〉あたへて回向なさしめ、大町札の辻にも札立て、よるべのものを待べしとの御意下れば、天明四年を始として、以後は上の御施主にて葬り回向し給へる事にはなりぬ、
◯按ズルニ、凶年救助ニ關スルコトハ、政治部賑給篇及び救恤篇ニ詳ナリ、
p.1482 天平寶字八年三月己未、勅曰、周レ急之言、義著二曩聖一、救レ飢之惠、道茂二先備一、頃年水旱、民稍餒乏、東西市頭乞食者衆、念二斯失一レ所、情軫二納隍一、而聞糺政臺少疏正八位上土師宿禰島村、出二己蓄粮一、資二養窮斃一者壹拾餘人、其所レ行雖レ小、有二義可一レ褒、仍授二位一階一、自レ今已後若有二如レ此色一者、所司撿察録レ實申レ官、其一年之内、貳拾人已上加二位一階一、五十人已上加二位二階一、但正六位上不レ在二比例一、
p.1482 天平神護二年六月丁酉、丹波國人家部人足、以二私物一資二養飢民五十七人一、賜二爵二級一、
p.1482 寛正二年正月十二日甲寅、去年蝗潦風旱、相繼爲レ灾、國家凋耗弊亡、茲年正月、天下殺レ禮减レ食、飢餒者多、充飽者少、僧舍又止二方外之會一、 二月二日癸酉、已而雨、願阿於二六角長法寺南路一、爲二流民一造二苃舍十數間一、其横長自二東洞院坊一、以二烏丸街一爲レ限也、 六日丁丑、流民之苃舍成矣、願阿命二其徒一、病民之不レ能レ起、俾二竹輿乘一之、其群聚不レ可二勝紀一也、先烹二粟粥一食レ之、蓋飢者喫レ飯則仆死、故勸レ粥也、此賑濟以二是月一爲レ限云、 九日庚辰、高弘公來問二不安一、旦話及二苃舍一曰、日死者以二五六十一數レ之云、 十三日甲申、六角坊之苃舍、是日流民死九十七人也、 十四日乙酉、春公出二銅錢數百枚一、分二與道路餓莩一、公平生有レ慈、見二流客餓人一、則作二草舍一養レ之、活者多矣、 晦日辛丑、以レ事入レ京、自二四條坊橋上一見二其上流一、流屍無數、如二塊石磊落一、流水壅塞、其腐臭不レ可レ當也、東去西來、爲レ之流涕寒心、或曰、自二正月一至二是月一、城中死者八萬二千人也、余〈◯碧山〉曰、以レ何知レ此乎、曰城北有二一僧一、以二小片木一造二八萬四千率堵一、一々置二之於尸骸上一、今餘二二千一云、大概以レ此記焉也、雖二城中一所レ不レ及レ見、又郭外原野溝壑之屍、不レ得レ置レ之云、願阿徹二流民之屋一、 三月三日甲辰、清水寺有二淨僧一、是日於二五條橋下一、聚二死尸一作レ冢、其數一千二百餘人云、 廿九日庚午、相公命二建仁寺之一衆一、開二施食會於第五橋上一、以薦二飢疫死亡之靈一、且書レ牌曰、盡法界沒亡靈、是日平旦作二是會一也、若干而作レ之、死尸爛壞之臭不レ可レ觸、故急務レ之云、
p.1482 天和二年二月、長崎崇福寺主千獃、爲二湯粥一施二與飢民一、自二前年九月一行レ之、至レ是以益飢、鑄二巨鍋重千九百六十五斤一以炊濟レ之、福濟寺主慈岳亦爲レ粥施二飢者一、 三月、自二去冬一天下飢、至レ是京師
p.1483 大飢、民多餓死、幕府設二場于北野祇園二處一賑レ之、
p.1483 一壹ケ年飢饉にて、江戸中米拂底故、輕き町人共難義致候に付、身上向宜敷町人共の救を出候處、新橋近處富家成町人救を不レ致由、裏店之者ども、町奉行石河土佐守殿〈江〉訴出候節、奉行被二申聞一候は、富家成者共救不レ救は、其者共之了簡に有レ之事にて、右富家なる町人ども、何程懷に有レ之哉、亦其方共何百人と申眷屬共を、假初なる貯にて、容易に難レ救事に候處、右體相願候は、理不盡なる願に而、不屈千萬に候、依レ之其方ども眷屬を不レ殘、右富家成者〈江〉御頂被レ成候間、急度預り證文指出、呼出之節召連可二罷出一旨申渡す、
p.1483 大寶三年七月甲午、以二災異頻見、年穀不一レ登、詔減二京畿及太宰府管内諸國調半一、并免二天下之庸一、
慶雲元年十月丁巳、有レ詔以二水旱失レ時年穀不一レ稔、免二課役并當年田租一、 二年四月壬子、詔曰、朕以二菲薄之躬一、託二于王公之上一、不レ能下徳感二上天一、仁及中黎庶上、遂令三陰陽錯謬、水旱失レ時、年穀不レ登、民多二菜色一、毎レ念二於此一、惻二怛於心一、宜下令三五大寺讀二金光明經一、爲レ救二民苦一、天下諸國勿レ收二今年擧税之利一、并減中庸半上、
p.1483 延暦十八年六月戊寅、詔曰、惟王經レ國、徳政爲レ先、惟帝養レ民、嘉穀爲レ本、朕以二寡薄一、忝承二洪基一、懼甚レ履レ氷、懍乎御レ朽、昧旦丕顯、日昃聽レ朝、思レ弘二政治一、冀宣二風化一、時雍未レ洽、陰陽失レ和、去年不レ登、稼穡被レ害、眷二言其弊一、有レ憫二于懷一、宜下敷二寛恩一答中彼咎祥上、其被レ損尤甚之處、美作、備前、備後、南海道諸國、肥前、豐後等十一國、去年田租、特全免レ之、
p.1483 天平十九年二月丁卯、以二去年亢旱、年穀不一レ登、詔爲レ治二産業一、賜二大臣已下諸司才伎長上已上税布并鹽一、各有レ差、
p.1483 天平勝寶元年正月己巳、比年頻遭二亢陽一、五穀不レ登、官人妻子、多有二飢乏一、於レ是文武官及諸家司、給レ米人別月六斗、
p.1484 天平五年正月丙寅、芳野監、讃岐、淡路等國、去年不レ登、百姓飢饉、勅賑二貸之一、 閏三月己巳、勅、和泉監、紀伊、淡路、阿波等國、遭レ旱殊甚、五穀不レ登、宜下今年之間借二貸大税一、令上レ續二百姓産業一、
p.1484 延暦廿二年六月癸未、勅、去年不レ登、民業絶乏、富贍之輩、唯有二餘儲一、糶則要以二貴價一、借則責二之大利一、因レ茲貧民彌貧、富家逾富、均濟之道、良不レ須レ然、宜遣二使大和國一、割二折有餘之貯一、假二貸不足之徒一、收納之時、先俾レ報レ之、若遭二凶年一、有二未納一者、賜以二正税一、後徴二負人一、
p.1484 夫食は百姓飢候節貸渡、作夫食は夫食乏候故、耕作難レ致候間、取續之爲拜借被二仰付一、但作夫食は壹ケ年限返納、右百姓割賦は、飢夫食は人別割、作夫食は田畑高割之定法也、
p.1484 元祿九年三月、天下飢、津輕多二餓死者一、京町奉行、發二穀一萬三千石一、賑二貸都下及伏見民一、
p.1484 享保十九寅年正月日申渡書付
一西國、四國、中國、五畿内筋、去々子年〈◯十七年〉虫附ニ付、貸渡し候夫食種貸等之儀者、爲二御救一去丑より卯年迄は不二取立一、來辰年より返納之積、年賦別紙ニ相伺可レ被レ申候、〈◯中略〉
右之通可二申渡一旨、松左近將監殿被二仰渡一候間、可レ被レ得二其意一候、以上、
寅正月
p.1484 一越後國美沼郡拾三ケ村凶作にて、飢人有レ之、夫食及二度々に一、御勘定所〈江〉伺候處、不レ濟に付、其段村方〈江〉申渡候處、御勝手方御勘定奉行〈江〉、江戸揔代に罷出居候村方欠込訴致候に付、見分被レ遣候、取計方飢人改方吟味之事、
p.1484 天平寶字八年正月甲寅、播磨、備前兩國飢、並賑二給之一、 丙寅、備中、備後二國飢、並賑二給之一、 二月丙申、石見國飢、賑二給之一、 三月辛亥、攝津、播磨、備前、備中、備後等五國飢、賑二給之一、 丙辰、淡路國比年亢旱、無二種可一レ播、轉二紀伊國便郡稻一、以充二種子一、出雲國飢、賑二給之一、
p.1485 神護景雲元年二月壬寅、和泉國五穀不レ登、民無二種稻一、轉二讃岐國稻四萬餘束一、以充二種子一、
p.1485 文治五年十一月八日甲子、葛西三郞清重、依レ被レ仰二付奧州所務事一、還御之時、不レ令二供奉一、所レ留二彼國一也、仍今日條々有下被二仰遣一事上、先國中今年有二稼穡不熟愁一之上、二品〈◯源頼朝〉相二具多勢一、數日令二逗留一給之間、民戸殆難二安堵一之由就二聞食一、平泉邊、殊廻二秘計沙汰一、可レ被レ救二窮民一云云、仍岩井、伊澤、柄差志(エサシ)、以上三箇郡者、自二山北方一可レ遣二農料一、和賀部貫兩郡分者、自二秋田郡一可レ被レ下二行種子等一也、近日則雖レ可レ有二沙汰一、當時依レ爲二深雪一、可レ有二其煩一歟、明春三月中可レ被二施行一、且兼日可レ相二觸土民等一者、
p.1485 一同〈◯永正〉三寅年、飢饉に而耕作の仕附ならず、依而船頭奧次郞、諸色之種物爲レ願、同年四月七日出島、於二江府一長戸路七郞左衞門に掛合、諸作の種物を乞請、同年五月十五日歸島ス、其種物早速百姓〈へ〉配當す、
p.1485 種貸は、水損に付種物押流候歟、出火ニ付燒失致候歟、又は旱魃候稻作旱損ニ付拜借致し候故、田方計〈江〉高所持之者〈江〉割賦致し候也、
右吟味之上貸附候節、何ケ年賦返納之積にて、壹ケ年何程、若返納相滯候者、村中辨納可レ仕旨、且小割相濟候上、小前〈江〉銘々受取候段書付可レ取レ之、
p.1485 寛永二十未年二月
一御旗本、給人、并關東御代官衆、在江戸之分、不レ殘登城、所レ謂去年作毛損毛ニ付而、百姓等及レ飢也、然バ當作種米以下、面々地頭御代官方、致二種借一作等仕付等候様ニ可レ仕、給人かた手前不二罷成一輩有レ之而、於レ不レ致二種借一者、其番頭可レ救レ之、番頭於レ難レ計者、其刻遂二吟味一、相談而可レ致二言上一旨被二仰出一之也、右上意之趣、松伊豆、阿豐後守、阿對馬守傳レ之、
p.1485 三十四年正月、桃李華之、 三月、寒以霜降、 六月、雪也、
p.1486 十年九月、霖雨、桃李華、
p.1486 元年十月、是月、行二夏令一、無レ雲雨、 十一月癸丑、大雨雷、 丙辰、夜半雷一鳴二於西北角一、己未、雷五鳴二於西北角一、 庚申、天暖如二春氣一、 辛酉、雨下、 壬戌、天暖如二春氣一、 甲子、雷一鳴二於北方一而風發、 十二月壬午朔、天暖如二春氣一、 甲申、雷五鳴二於晝一、二鳴二於夜一、 庚寅、雷二鳴二於東一而風雨、 辛丑、雷三鳴二於東北角一、 甲辰、雷一鳴二於夜一、其聲若レ裂、 辛亥、天暖如二春氣一、 二年二月、是月、風雷氷雨、行二冬令一、 三月乙亥、霜傷二草木華葉一、是月、風雷雨氷、行二冬令一、 四月丙戌、大風而雨、 丁亥、風起天寒、 己亥、西風而雹、天寒、人著二綿袍三領一、
p.1486 延暦十一年六月甲申朔、寒、人或著レ絮、
p.1486 大同二年十二月、是冬鳥雀乳、桃李華、
p.1486 弘仁二年九月、是月桃李華、
p.1486 天長十年五月辛丑、北山玄雲黯靄、山嶺不レ見、終日天寒、衆人多著二襖子一、
p.1486 嘉祥二年四月癸巳、天隕レ霜焉、風景之寒、宛似二冬二月一、
p.1486 元慶五年正月庚戌朔、藏氷厚薄不レ奏、以下去年不二冱寒一凌室空虚上也、
p.1486 元慶八年四月九日己亥、申時雷電雨レ雹、摧二傷草木之葉一、占曰、凡雹者冬之過陽、夏之伏陰也、過陽冬温、伏陰夏寒矣、 十日庚子、天寒殞レ霜、 十一日辛丑、霜降、 十六日丙午、霜降氣寒、十七日丁未、夜寒霜降、草木葉彫、
p.1486 昌泰二年五月十三日乙巳、外記廳前萩花發、蓼穗出、又五畿内諸國早稻皆秀、可レ謂二奇怪一、 六月四日丙寅、東宮有二藤花一、又監物局枇杷花不レ發而有二子生一、或熟或青、小二於常子一、人皆食レ之、
p.1486 延喜九年四月五日庚子、霜降嚴寒、時人莫レ不レ愁、
p.1486 延喜九年八月、宮中及東西京、櫻桃李柚柿藤等皆華、李柚子生也、
p.1487 延喜九年閏八月、此月也、東西兩京、桃櫻李柚柿藤、皆花或實、 九月十四日、諸道進二非時樹木花勘文一、 十五年九月一日己未、近者萬木華發、
p.1487 天徳二年四月三日甲寅、寒氣如レ冬、氷雪間降、世以爲レ恠、 十二月十日丙戌、今日仰二諸道一令レ勘二草木非時花實事一、
p.1487 天永元年 或記云、三月五日、雪下寒氣甚、苛政甚之故也、
p.1487 嘉應二年九月上旬、京中櫻梅桃李花開て、春のそらのごとく成けり、延喜九年八月にもかヽる事侍りけるとかや、そのたびは藤柚柿などもさきたりけり、聖代に此事有、いか成瑞にか侍らん、
p.1487 大地震并夏雪事
同〈◯康安元年〉六月二十二日、俄ニ天掻曇雪降テ、氷寒ノ甚キ事、冬至ノ前後ノ如シ、酒ヲ飮テ身ヲ暖メ、火ヲ燒、爐ヲ圍ム人ハ、自寒ヲ防グ便リモアリ、山路ノ樵夫、野徑ノ旅人、牧馬林鹿悉氷ニ被レ閉、雪ニ臥テ凍ヘ死ル者數ヲ不レ知、
p.1487 慶長三年四月三日、霜大降、茶葉悉枯萎了、
p.1487 慶長九年十一月十八日、寒ニ入ル、〈◯中略〉此寒中諏方湖水不レ凍、人馬一圓不二相通一、今年程暖氣之儀、此已前無レ之由云々、五年以前庚子之冬程、寒ジケル事無レ之由、何モ諏方ノ住民云レ之、
p.1487 慶長十年六月十四日、大夕立、萬民案堵、大ナル霰マジリ降リ、大サ如二大豆一、手中ニ置レ之、寒氣以外也、
p.1487 明和三年七月十二日、大坂雨雹、寒如二盛冬一、
p.1487 一寛延三年午四月の末、晴天なりしが、申刻ばかりに、東北に黒雲ふかく、雷も少し鳴て、白雨つよく、 のふる事霰のごとく、二尺ばかりつもりけり、 の重さ大なるは廿八匁あり
p.1488 しとぞ、御城廻りより東地屋根の瓦を碎き、堀をくづし、腰板など炮丸の打たる如く、ふかき跡附しとぞ、烏燕雀など多く損じける由、本所邊猶強く、家のくづれたるも多かりしとなり、芝青山の邊は、一旦夕だち立たるばかりなり、 のふることはとき〴〵あれども、かヽる事は終に聞ず、是につきて四五日前、秩父山より初て、川越の城則忍夫郡三吉野の里といふあたり、大なる 降て、麥をこと〴〵くに打つぶしけるとぞ、
p.1488 第四 天災地變の事 卯年〈◯天明三年〉凶作にてきヽんたりし事、天よりは災を降し、地にも變ありしよりおこれり、其故は前年の寅の冬より、氣候いつもとは大きにたがへり、夫冬はさむかるべきにさはなく、其十二月甚あたヽかにて、まづ菜種の花などさきそろひ、又は笋を生じ、陽氣春に似て三月比のごとし、且時ならざる雷雨度々あり、殊に大坂にては、御城の門に雷おちて燒しと聞えし、極月にかくある事は、前代未聞の天災たりとて、人々おそれをのヽけり、扨其年も暮て、明れば卯の年となりぬ、此春はなほさら暖ならんとおもひしに、冬とは引かはりて、寒氣甚しくありけり、其上雨のふる日おほくして、晴天はまれなりし、されども夏に及びしに、麥作はいつもとさまでのちがひもなくとりけり、かくて五月になりぬれば、暑氣の節たれどもさはなくて、田植の時にいたれども、餘寒なほさらず、人皆綿入を著て、火にあたるほどなれば、此さむさにては、作物不熟たらんと察せられしかば、穀物の直段諸國一同大きにあがれり、
p.1488 六月寒事 寛政五年六月二日、〈土用中〉北風ふきてひやヽかなる事、八九月のごとし、近來たえてきヽも及ばぬ事なり、三日ばかりにて風も吹きかはり、氣候もなほりぬ、のちにきく、北國には雪ふりて、うすくつもれり、越後には三寸ばかりありけりとなん、
p.1488 饑年有レ感
八月雨猶少、引レ流理二水車一、途窮人棄レ子、林痩竹生レ花、荒草穿二龜背一、亂虫入二犬牙一、自驚清福足、香飯及芳茶、
p.1489 天明四年の事也、去年の飢饉に、人民安からざる折ふし、連日の雨氣にて、或曇り或雨ふり、曇雨相半して、晴るヽ日更になく、盛夏の頃袷を重ね、或は綿入をきるといふ程なりければ、今年の作毛覺束なく、人民危急の思ひをなしけり、斯りければ六月十一日、村泉寺寶珠寺へ五穀成就の祈禱仰付られ、猶も御大事に思し、憂させ給ひ、二丸へ諸寺院を召れ、御堂〈御本丸東南の隅、謙信公の御遺骸を安置ましませる御靈屋、〉におゐて、二夜三日の御祈禱御執行有り、勿體なくも公御食を斷ぜられ、二夜三日の間御堂に籠らせ給ひける、至誠感神とかや、十一日十二日には晴或微雨有り、十三日晴上りてより、二十九日まで、日々の大暑とはなりける、是につき又難レ有ことの有ける、公の御斷食にて籠らせ給へる事を、御父重定公聞し召、淺からぬ御誠は御感じ思召ながら、斯る君にして煩せ給はヾ、人民などか安かるべき、是非の論なし、御志を奪せ給ひて、御食を進めまいらすべきとの御事にて、七旬に近き御老體の御みづからも、御潔齋し玉ひ、粥かしがせ、御みづから御堂へ持上りましまし、ひたすらに御進め進らせられしかば、何かは辭し背かせ給ふべき、押いたヾき給ひてきこしめせしとぞ、
p.1489 一武州都筑郡神奈川宿近在に有徳なる百姓有レ之、天明年中之頃、世間飢饉にて、右百姓米を買込圍候段、其近在之百姓訴出、早速御改之處、五つ戸前之藏に圍置、不レ殘炭之由申出、直段壹俵何程と尋有レ之處、銀四兩宛之由、貳萬俵餘不レ殘御買上に相成候、戸前二つは炭にて、殘りは皆米之由、