http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1353 琉球ハ、一ニ沖繩(オキナハ)ト云フ、薩摩ノ西南海中ニ在リ、東北ヨリ西南ニ亘リ、凡ソ二十七里東西廣キ處十里、狹キ處一里餘、南北凡ソ十里、周廻凡ソ七十四里、地勢狹長、山川ノ稱スベキナシ、中世畫シテ三區ト爲ス、中頭、島尻(シマシリ)、國頭ト曰フ、而シテ大小數十ノ島嶼之ニ屬シ、點々海中ニ散布ス、 琉球開國ノ始祖ヲ天孫氏ト曰フ、相傳フルコト二十五世、島中大ニ亂ル、浦添按司尊敦、代リ立テ全島ヲ統ブ、是ヲ舜天王トナス、尊敦ハ源爲朝ノ子ナリト云フ、永享年中、將軍足利義教、薩摩ノ守護島津忠國ニ琉球ヲ賜ヒ、其附庸トス、是ヨリ先、琉球明ニ通ズ、是ニ於テ皇朝及ビ明ニ兩屬ス、既ニシテ漸ク使聘ヲ修セズ、慶長十四年、島津家久、將軍徳川秀忠ニ請ヒ、將ヲ遣シテ之ヲ伐ツ、是ヨリ世々貢禮ヲ修ス、明治維新ノ後、詔シテ藩ト爲シ、國ヲ西海道に屬セシム、後又藩ヲ廢シテ沖繩縣ヲ置キ、全島ヲ統治セシム、

名稱

〔下學集〕

〈上天地〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1353 琉求(リウキウ)

〔易林本節用集〕

〈利乾坤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1353 琉球(リウキウ)〈外國〉

〔國朝舊章録〕

〈八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1353 琉球國之事略 異朝の書を按るに、昔は流求と記したり、近代に及て琉球とは記せり、一説に流虬と記せしを、今

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1354 は琉球と記す、此國虬(ミツチ)の大海の中に蟠る如くなれば、流虬と云しと云々、按るに流虬の説心得られず、我國の書に見えし處は、往古鎭西八郞爲朝、大海の流に隨ひて求め出されし國なれば、流求と記と云、此説も誤れり、夫より先倭漢の書に皆々流求と記たり、又一説に、龍宮と云し也、我國の書に龍宮と云習はせるは此國也といふ、是も亦心得られず、只何となく古よりりうきうと云しを、後に漢字を假りて流求共、琉球とも記せし成べし、

〔倭訓栞〕

〈前編三十八利〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1354 りうきう 琉球、瑠球、流求、龍宮など書り、今中山と稱す、慶長十九年、王自來朝す、南島志に、山海經の南倭也といへり、明史に、万暦四十年、日本果以勁兵三千其國、虜其王還、遷其宗廟、大掠而去と見ゆ、薩州の兵の時也、安永四年五月に、志摩鳥羽浦に漂流す、十二三間の船也、船主照屋筑登之、船頭宮里と、水主以下十八名、髮結たる所に銀の笄二本を指り、又眞鍮とあり、

〔中山聘使略〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1354 國號 琉求〈隋書〉 流鬼(リウキ)、〈新唐書〉是流求の下音の約りたるなるべし、瑠求、〈元史〉瑠球、〈奥志〉留仇〈續文章正宗〉留求、〈性靈集〉流梂、〈三善清行が智證大師の傳〉流虬(リウキウ)、〈中山世鑑〉琉球〈同上〉明の洪武琉球と改むといへり、しかれ共宇治大納言の今昔物語に、仁壽三年、宋の商人良暉が琉球へ漂流の事を載て、琉球の名あれば、唐宋よりありし名と見えたり、中山(チウザン)むかし琉球分れて三つとなり、中山、山南、山北といふ、各王あり、其後中山王南北を一統したれば、中山の名は止むべきなれ共、舊によりて今に中山といふなり、清より册封の詔書にも、なを琉球國中山王といふ文あり、掖玖、〈日本紀〉掖玖の唐音ウエキーなり、今薩音にて琉球をリユキーといへば、掖玖も琉球の轉音なり、夜句、〈同上〉夷邪久、〈隋書〉此は隋の時夷邪久といひしにあらず、煬帝二年、朱寛海に入て異俗を求る時琉球に至り、撫すれども從がわず、其布甲を取て返る、時に日本の使是を見て、此は夷邪人の用る處也といひしを聞て書したるにて、隋の時彼方にて元より夷邪久といひたるにはあらず、彜邪久、〈續弘簡録〉うるま

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1355 のしま、〈狹衣〉言葉の聞しらぬを、うるまのしま人よといへるなり、琉球をさしていふにはあらず、さるを下紐と云解に、うるまは琉球なりとあり、依て今世の人、只一筋に琉球の事と思へり、公任卿の集に、しらぎのうるまのしま人とあれば、新羅に屬せし島とみえたり、鬼島、〈保元平治物語〉おきなはしまの下略なり、屋其惹、〈土俗自稱〉おきなとは沖繩の下略にて、其國の形ち細く長く、繩の如く海中に浮べりと云意にて、沖繩島也と先輩いへり、惡鬼納、〈同上〉於伎夜、〈同上〉宇伎夜、〈同上〉共におきなの轉也、ウとオ音通ず、

〔性靈集〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1355大使福州觀察使書一首 賀能啓、〈◯中略〉今我國主、顧先祖之貽謀、慕今帝之徳化、謹差太政官右大辨正三位兼行越前國大守藤原朝臣賀能等使、奉獻國信別貢等物、賀能等、忘http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/0000000192d8.gif 僉、冒死入海、他既辭本涯、比中途、〈平〉暴雨穿帆、〈平〉戕風折柁、〈他〉高波沷漢、〈他〉短舟裔裔、〈他〉颽風朝扇、〈他〉摧肝躭羅之狼心、〈平〉北氣夕發、〈平〉失膽留求(○○)之虎性

〔元亨釋書〕

〈三慧解〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1355 驛圓珍、姓和氏、讃州那珂郡人、〈◯中略〉初珍泛洋、北風俄起、漂流求國(○○○)、遙見數十人持戈矛、立濱坻、良暉悲泣謂珍曰、我等當流求上レ噬、爲之如何、蓋流求者、海島之啖人國也、

〔社氏通典〕

〈百八十六邊防〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1355 東夷 琉球 煬帝大業初、海帥何蠻等云、毎春秋二時、天清氣靜、東向依稀似煙霧之氣、亦不幾千里、三年、帝令羽騎尉朱寛、入海求訪異俗、得何蠻遂與倶往、因到琉球國、言不相通、掠一人、并取其布甲而還、時倭國使來朝、見之曰、此夷邪久國人所用也、帝遣虎賁郞將陳稜、朝請大夫張鎭州、率兵自義安〈今潮陽郡〉浮海擊之、至琉球、初稜將南方諸國人軍、有崑崙人頗解其語、遣人慰諭之、琉球不從、拒逆官軍、稜擊走之、進至其都、頻戰皆敗、毀其宮室、虜其男女數千人而還、

〔五雜俎〕

〈四地〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1355 琉球國、小而貧弱、不自立、雖中國册封、而亦臣服於倭、倭使至者不絶、與中國使相錯

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1356 也、蓋倭與接壤、攻之甚易、中國豈能越大國而授之哉、其國敬神、以婦人守節者尸、謂之女王、世由神選以相代云、自國王以下、莫拜禱、惟謹田將穫必禱於神、神先往採數穗之、然後敢穫、不者食之立死、禦災捍患屢顯靈應、中國使者至則女王率其從二三百人、各頂草圜、入王宮中供億厨饌、恐毒也、諸從皆良家女、神特攝其魂往耳、中國人有彼治庖者、親見神降、其聲鳴鳴如蚊焉、

〔兩朝平壤録〕

〈四日本〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1356 適有大國名尚島(○○)者、其子受間金、遂殺父來降、關白自爲天授、令州廣造兵船聲言、三月、入寇大明、〈◯中略〉又差人脇琉球、勿大明、致事機、時有福建同安船商陳申、寓琉球、因與鄭迵商議、乘本國進貢請封之使、備將關白情由奉報、陳申搭船回、面稟巡撫趙參魯以聞、此萬暦十九年四月也、

〔異稱日本傳〕

〈中二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1356 尚島蓋指琉球、國王多以尚字名、故訛爲尚島

〔倭訓栞〕

〈前編四十五於〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1356 おきな〈◯中略〉 中山傳信録に、土人自呼其地おきなといふ、蓋舊土名也と見ゆ、沖中の義にや(○○○○○○)、

〔中山傳信録〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1356 琉球語 琉球土人居下郷者、不自稱琉球國、自呼其地屋其惹(○○○)、蓋其舊土名也、

〔倭訓栞〕

〈前編四十五於〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1356 おきなひと〈◯中略〉 中山傳信録に、琉球人おきなびと、日本人やまとびとヽ見ゆ、

〔麑藩名勝考〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1356 沖繩島(○○○)〈即中山國也、又作惡鬼納島、中山方言於喜耶、又曰宇喜耶、中山傳信録作屋其惹、琉球國誌略云、按屋其惹、徐葆光録謂其舊土名非也、細考之、乃土音如此、令之作書、則仍是琉球兩字耳とぞ、按に、屋其惹は即沖繩、其土音繩を呼ことヤンの如し、豈屋其惹の土音琉球ならん哉、周煌國志略深く考ずして、妄に徐葆光の説を駁、尤杜撰甚し、〉音海字海卷之一附録夷語音釋人物門曰、琉球人、〈倭急拿必周〉日本人、〈亞馬吐必周〉琉球國王、〈倭急拿敖那〉今按に、是琉球人より聞たる所を取りしなるべし、其故は、凡琉球本邦人を稱して養徳知宇といひ、自國人をさして倭急耶知宇といふ也、〈必周の周、疑は圖の誤字、又敖那の下、志の一字を脱する、敖那志は尊稱なり、琉球方言沖繩御主なり、 國志略加那志に作る、從べし、凡琉球國語載〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1357 〈て中山傳信録に在り、可皆我東方語音耳、其繁沓をもて爰に復記さず、〉南島志曰、周廻七十四里、〈是據、此間里數而言、凡六尺爲間、六十間爲町、三十六町爲里、後皆傚此、〉南去本藩麑府二百九十五里半、〈至北運天長濱三百八十里〉間切二十七、海港二所、村落數百、 舊説云、沖繩島者、即沖之島といふ事なり、日本紀火々出見御歌に、沖津鳥鳬著島と詠じ給ひしより出たり、繩は之の音の轉ぜしなり、今按、繩今の那覇是耳、沖といひ繩といふ、本是兩地の名、合而沖繩といふに似たり、 一説云、倭急耶とは、沖掖玖の略言なり、即古之所謂掖玖にして、而後今の馭謨郡益救に分て沖といふなり、今按、沖之島轉じて沖繩といひ、沖繩方言沖屋といふ、而其倭奴のごとき、又沖之の略にして、國史以て掖玖と云、即南島志所謂、其路所由と、是今の屋久島、南島の中、此方地に密迹す、當時南島地名未詳、其端島の名をもて各島を混じ稱する耳、於是流求をもて沖屋久といひしに似たり、然共其據る所未審なることを考がたし、

〔唐大和上東征傳〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1357 廿一日戊午、〈◯唐天寶十二年十一月〉第一第二兩舟、同到阿兒奈波島(○○○○○)、在多禰島西南

〔長門本平家物語〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1357 少將は、都にてさつまがたへと聞給ひしかば、さもやはと思給けるに、九州のうちには有ざりけり、誠に世の常の流罪だにかなしかるべし、まして此島の有様傳聞ては、各もだえこがれけるこそむざんなれ、〈◯中略〉さつまがたとは總名也、きかいは十二の島なれば、くち五島は日本へ隨へり、おく七しまはいまだ我朝に從はずといへり、白石、あこしき、くろ島、いわうが島、あせ納、あせ波、やくの島とて、ゑらぶ、おきなは(○○○○)、きかいが島といへり、

〔倭訓栞〕

〈中編三宇〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1357 うるまのしま 琉球をいふといへり、蠻國にさうるまあり、袖中抄などにも、いづくともなし、

〔狹衣〕

〈一下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1357 こはいかにかとよ、うるまのしま(○○○○○○)の人ともおぼえ侍るかな、

〔狹衣下紐〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1357 一こはいかに 〈引〉おぼつかなうるまの島の人なれやわがことのはをしらずが

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1358 ほなる、琉球をうるまの島と云と也、

〔琉球入貢紀略〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1358 うるまの島琉球にあらざるの辨 笈埃隨筆、夏山雜談等に、うるまの國とは琉球なりといへり、これはもと狹衣といふ册子に、うるまの島といふことのあるを、紹巴の下紐といふ註釋に、琉球なりといへるによると見ゆれども、謬りなり、うるまは新羅〈今の朝鮮なり〉の屬島にして、琉球にはあらず、自ら別なり、その證は大納言公任集に、しらぎのうるまの島人來りて、こヽの人のいふことも聞しらずときかせたまひて、返りごと聞えざりける人にと、詞書ありて、おぼつかなうるまの島の人なれやわが恨むるをしらずがほなる、〈千載集には、四の句をわがことのはをに作る、〉また本朝麗藻に、新羅國http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/00000001ea45.gif 陵島人とも見えたり、これにて琉球ならざることいと分明なり、前田夏蔭云、うるまはhttp://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/00000001ea45.gif 陵の韓音なりといへり、

〔萬國夢物語〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1358 琉球國ナリ、〈◯中略〉日本ノ西南海中ニ在、王城ノ門ニ龍宮城ト云額ヲアゲタリ、古昔ヨリ日本ニテ龍宮ト云ハ、此國ヲカタドルナラン、

〔日本書紀通證〕

〈七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1358 古事記曰、如魚鱗造之宮室、楚辭魚鱗屋、号龍堂、今按此擬水府而言、故口訣纂疏等直爲龍宮(○○)也、 古事記曰、稻氷命者爲妣國而入坐海原也、姓氏録曰、新良貴、彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊、男稻飯命之後也、是出於新良國主、鑑眞和尚傳曰、或漂日南國、或赴龍宮、琉球神道記曰、琉球王門牓記龍宮城

〔古事記傳〕

〈十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1358 海神の宮は、海の底にある國なり、後世のなまさかしき説どもは、古傳の趣にかなはず、〈佛書に龍宮と云る物あり、其説るさま、あやしきまで此段にいとよく似たる處あり、(中略)さて又近き代のなまさかしき人の心には、水中に宮室などのあるべき理なしと思ひとるから、かの龍宮などの説をも信ず、此段の事をも、實は海底には非ずとして或は薩摩國近き一の島なりといひ、或は琉球國なりといひ、或は對馬なりなども云て、其証などをもとりどりに云めれど、凡てさる類は、皆古傳に背ける例の儒者意の私事なり、〉

〔中山聘使略〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1358 通信 貢使 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1359 琉球の我國に通信する事は、いとも久しかりけん、神代卷に、天孫彦火火出見尊海宮に趣かせ給ひ、海神豐玉彦の女豐玉姫を娶り、海宮に留りまします事を載す、又玉依姫鵜草葺不合尊の皇妃に海宮より立せ給ふとあるを、海宮とは當時琉球をさして云へりといふ諸家の説あり、此は正しく史策に載ざれば、臆斷に出たる説なれど、私に思ふに、信に左もあるべしと覺えぬ、其故は、日向大隅以南諸島多しといへ共、君臣禮節の備りたるは琉球に若べからず、今雍熙の淳風四達し、遠く島嶼に及び、頑民皇化に浴といへども、琉球以外の諸島は、こと〴〵く窮境仄陋の夷蠻にして、君長ある事をしらず、況や太古に在りては、其賤劣愚魯推して測るべし、天孫何ぞ三年の久しきに堪させ給ふべき、其上二代の皇妃に立せ給ふ程の、端正莊麗の女子のおはすべき共覺えず、是一の證也、今琉球の崇祠多き中に、彦火々出見、葺不合の二尊を崇祀し、及び豐玉彦、豐玉姫、玉依姫をも祀る事を聞けり、又我國の古語、往々彼國に殘れるが中に、豐といひ玉といふ事いと多し、凡そ彼國の事情云爲、太だ我に近くして、和歌をよみ得ものまヽ多し、此を二の證とす、文字は應神帝十六年に渡り初め、彼國にも中古舜天以後より始ると見えたり、しかれば天孫と稱し奉る事も、應神以後より稱し奉る事とはしられたれど、彼も亦天孫氏といへば、我天孫彼國に留らせ給ふ中に、皇胤を殘して歸らせ給ひ、さて其皇胤彼の開闢の君とならせ給ふも亦しるべからず、此を三の證とす、京都將軍の末、政道弛て西國沿海の地、無頼の士私に船槎を出し、兵器を携へ、琉球臺灣、安南、呂宋、閩廣の間を鋟し劫し、貲財を奪ひ取る事あり、明に此を倭寇と云て大に畏る、その劫すもの詞に、龍宮城へ至り寶を得たりとなんいひしと、今も其地にて語り傳へける、是龍宮域とは、泛く海島をいひし事なれ共、日向大隈よりして、諸島つらなり、甚至り易は琉球なれば、此を四の證とす、琉球の衣冠は、明の制を受て其俗變といへども、男子の簪を插は、其國固有の風なるべし、國王は龍頭の簪を用ふといへり、今國俗

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1360 の海宮王の姿を描に、龍冠を戴く形を作る、畫工元より本基ありて圖するにあらねば、是徴とするに足らざれ共、暗に其同軌に出るを強て五の證とす、此等を合せ考ふるに、海宮は琉球たる事決定して知ぬべし、されば我と琉球とは、尊卑等殊也といへども、相隣て唇齒とやいわん、肝膽とやいわん、此より後、續て貢使の往來ありつべけれど、考ふる所なし、

位置/疆域

〔中山聘使略〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1360 其國薩州の南一千六百里、福州の正東千七百里にあり、北極出地二十六度二分三釐、偏度北極の中線を去り、東に偏る事五十四度、牛女の野にあたる、

〔萬國夢物語〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1360 琉球國ナリ、是モ海中ノ島國也、中華ノ東南海中に在、大寃ヨリ少シ北東ニ有島也、〈◯中略〉北極出地廿七度許、氣候暖國也、大寃ヨリハ寒シ、日本帝都ヨリ凡二百四十餘里ノ直徑ノ南ニシテ、方角ハ西南ニテ、海路ハ六百餘里成ベシ、薩州ヨリ海路三百里バカリ也、國中蛇多シ、日本ノ鼠ノ如シ、薩州迄ノ海中ニ數多ノ小島有、皆々薩州琉球ヨリコレヲ領ス、土産、木綿、芭蕉布、黒砂糖、アワモリ酒、其外藥種類品々也、

〔日本地誌提要〕

〈七十五琉球〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1360 疆域 沖繩島、薩摩ノ開聞岬ノ西南少南、海上凡壹百三拾六里ニアリ、東北ヨリ西南ニ亘リ、長凡貳拾七里、東西廣處壹拾里、狹處壹里餘、南北凡壹拾里、周回七拾四里、幅員凡壹百六拾方里、其南島ヲ宮古八重山(ミヤコヤヘヤマ)群島トナシ、之ヲ先島ト稱ス、

島嶼

〔南島志〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1360 計羅摩島(○○○○)、〈舊作計羅婆島〉明人稱謂鷄籠嶼即此、〈鷄籠嶼見崑山鄭士若琉球國圖、按皇明實記、所載鷄籠淡水一名東番、非此島也、其名偶同身、〉去那覇港西行七里、而至此、其周廻三里、座間味島隷焉、旁近小島凡八、土壤狹少、皆非民居、〈座間味島周廻二里二十四町、赤島周廻一里十八町、國人云、中國人稱馬齒山者即此、〉去此西往、先島〈南海諸島總稱曰先島〉海中砂礁、其國稱曰八重干瀬者、南北五里、東西里半、〈使琉球録所謂、古米山水急、礁多、舟至此而敗者即此、〉或曰礁東、或曰礁西、兩路均是七十五里、而至宮古島針孔之濱也、 戸無島(○○○)島在那覇港西北二十六里、周廻一里六町、側近小島曰天未奈、其地甚狹、無人住者、 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1361 久米島(○○○)、〈舊作九米島〉在那覇港及計羅摩島西、周廻六里二十町、所屬間切二、曰中城、曰具志河、港二、其南曰兼城湊、〈港深一町濶五十間、可大船四五隻、〉其東曰町屋入江、〈其港淺狹、船隻難泊、〉並皆去那覇港四十八里、國史所謂、球美、〈見續日本書紀〉明人以稱古米即此、〈見使琉球録、及廣輿圖等、〉閩人三十六姓之後所居也、直北五里有鳥島者隷焉〈即謂久米鳥島者〉 粟島(○○)、島在戸無島北、其周廻二里十二町、去那覇港西北三十里、 伊惠島(○○○)、〈舊作泳島〉即明人所稱移山嶴、〈見使琉球録、及廣輿圖閩書等、〉五島相接、而至今歸仁西北港口、〈港名曰爾與波入江〉去島港口約可二里、其周廻四里七町、 惠平屋島(○○○○)、〈舊作惠平也島〉隨書作黿鼊嶼、明人以謂熱壁山、或謂葉壁山、〈熱壁見使琉球録及廣輿圖、葉壁見閩書、按廣輿圖分載黿鼊嶼熱壁山者訛、〉周廻二十六町、在今歸仁間切正北十里、其南小島、名曰乃保、即隷此、〈乃保島周廻二十三町、去惠平屋島五町、〉 伊是那島(○○○○)、島在惠平屋島南里餘、周廻二里十八町、所隷二島、其南曰具志河、其北曰柳葉、並皆狹小、非居人、 鳥島(○○)島在惠平屋島東北五十餘里、周廻二十四町、厥土産硫黄、明人所謂硫黄山即此、〈見使琉球録、及廣輿圖閩書等、〉 以上九島、古中山之地、 與論島(○○○)〈舊作輿論島〉明人稱繇奴島、在沖繩島東北、而其北接水良部島、〈繇奴見閩書〉周廻三里五町、所屬村二、曰武幾也、曰阿賀佐、其港曰阿賀佐泊、泊即謂泊船之所也、去運天湊東北行二十里而至于此、〈港口淺狹、大船未出入、〉 永良部島(○○○○)、〈舊作惠羅武島〉在與論島北、而其北接徳島、明人稱野刺普即此、〈見閩書、南島名永良部者凡二、隷大隅國、謂之口永良部、隷八重山之奥永良部、名義未詳云、〉周廻十里十八町、所屬間切三、曰木比留、曰大城、曰徳時、其港曰大和泊、去與論島東北行十三里、而至此、〈港深二町二十間、濶二町四十間、大船未出入、〉 徳島(○○)、〈舊作度九島〉國史所謂度感島、〈見續日本書紀〉在永良部島北、而其東北接大島、周廻十七里三町、所屬間切三、曰東、曰西目、曰面繩、港三其東曰秋徳港、〈港深一町濶町可大船三隻〉去永良部島東北行十八里、而至此、其

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1362 西曰大和爾也泊、其北曰井之川、西北二港、並皆淺狹、大船未出入、 大島(○○)、島在徳島東北十八里、琉球北界也、〈續文獻通考所謂琉球北山是也〉國史所謂阿麻彌島、或作菴美、並皆謂此、阿麻彌者上世神人名也、其東北有山、乃神人所降、因名曰阿麻美嶽、島亦因得此名、地形稍大、後稱以爲大島、其周廻五十九里十町、所屬間切七、曰笠利、曰奈瀬、曰古見、曰住用、曰東、曰西、曰燒内、港八、曰西古見湊、曰燒内湊、曰大和馬場湊、曰奈瀬湊、曰深井浦、曰世徒多浦、曰瀬名浦、曰住用湊、〈西古見湊港、深五十間、濶三十間、可大舶五六隻、此去到徳島兩路、其一正南行十八里、可以抵井之川、其一西南行十八里、可以抵大和泊、燒内湊在其東里、港深三里、濶三十町、可大船二百隻其東七里、即大和馬場湊、港深五町、濶三町、可大船五六隻、又其東五里、即奈瀬湊港、深十二町、濶五町、可大船十四五隻、又其東北里、即深井浦港、深三十町、濶四町、可大船三十隻、其東南八里、即世徒多浦、此嶴淺狹、不泊船、其南四里、即瀬名浦、亦不泊船、其西南四里半、即住用湊港、深三町、濶二町、可大船七八隻、自此南去而轉西北、抵西古見湊、約十三里、〉去深井浦西北行三十五里、至七島、〈島之大小十餘、錯在海中、總稱七島、隷薩摩國、使琉球録、及閩書所謂七島者即此、〉其海潮常向東而落、乃是元史所謂落漈水、趨下而不囘者也、凡諸島相離、中間所謂落漈者、往往在焉、〈使琉球録以爲落漈不一レ在、謂遠去琉球而非經過之處者非、〉又去此北行七十里、至大隅國、永良部島、俗謂之阿麻彌洲之度、蓋古遺言也、所隷三島、曰加計奈、〈周廻十五里〉曰于計、〈周廻四里九町〉曰與路、〈周廻三里二十町〉並皆在大島之南、 鬼界島(○○○)、島在大島東南七里、〈自世徒多浦東南行七里、至鬼界島椀泊、〉周廻六里二十四町、所屬間切五、曰志戸桶、曰東、曰西目、曰椀、曰荒本、其港在西曰椀泊、乃是明人所稱吉佳、〈見閩書〉琉球國東北極界也、〈國人云小琉球蓋此、未是否、〉 以上五島古山北之地 宮古島(○○○)、島即明人所謂大平山也、〈見廣輿圖、按星槎勝覽云、琉球有大奇山、島夷志云、大崎山極高峻、夜半登之、望暘谷日出、紅光燭天、山頂爲之倶明或此、〉在計羅摩島西南七十五里、周廻十一里、所屬間切四、曰於呂加、曰下地、曰平良、曰雁股、〈此島無船之所〉所隷六島、曰以計米、〈周廻一里八町〉曰久禮末、〈周廻一里〉曰永良部、〈即是奥永良部島、周廻四里二十町、〉曰下地、〈周廻里〉曰太良滿、〈周廻四里〉曰美徒奈、〈周廻一里〉去此西行五十二里、至八重山、其海潮亦常向東而落、乃所謂落漈者、〈去宮古島針孔濱、向西南行三十五里、至太良滿島、又去西至石垣島平窪崎十八里、〉 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1363 八重山島(○○○○)、石垣入表 島之地、總稱以爲八重山、國史稱信覺、〈見續日本書紀〉星槎勝覽稱重曼山、蓋皆謂此石垣、乃是信覺之轉耳、石垣島(○○○)周廻十六里十七町、所屬問切四、曰河平、曰宮良、曰大濱、曰石垣、其港二、在西北河平湊、〈去宮古島針孔濱五十八里半、港深六町三十間、濶一町、大船二三十隻可以收泊、〉在南曰御崎泊、港口淺狹、不船、唯其西南要津耳、堂計止美島、黒島、波照間島等隷焉、〈堂計止美島在御崎泊西一里二十八町、周廻一里三十町、黒島在堂計止美島西南二里二十町、周廻亦二里二十町、其所管二島、曰上離島、周廻二十町、曰下離島、周廻二十七町、並在黒島西南波照間島周廻三里二十町、去黒島十四里許、乃是琉球南界也、〉 入表島(○○○)、在石垣島之西南、〈石垣島有山、曰於茂登嶽、此島在波山之南、故名曰伊利於茂登島、方言凡深奥之所、謂之伊利、伊利即入也、表者於茂登之語訛耳、〉周廻十五里、所屬間切二、曰古見、曰入表、亦有小濱、鳩間、内離、外離等島而隷焉、〈小濱在堂計止美西二里、其周廻三里、小濱之北有宇也末島、狹小而無人住者、鳩間島在入表西北、海上二里半、内外離島在入表西南海灣、三島亦皆狹小、非民居、〉去此以西、路過落漈、而行四十八里、至與那國、其地周廻五里十町、乃是琉球西界也、〈與那國、亦隷入表島焉、〉 以上二島古山南之地

〔日本國郡沿革考〕

〈四屬島〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1363 琉球〈◯中略〉 沖繩島〈管二十七村 方言呼村爲間切、而私稱郡、日本史云、沖繩即阿兒奈波之訛、 中山傳信録、國人至今自呼流球屋其惹、中山世譜云、中頭中山府、五州十一郡、原八郡、康煕年間分爲十一郡、島尻山南府、原十四郡、康煕年間分爲十五郡、國頭山北府、原十四郡、康煕年間分爲九郡、〉 計羅摩島〈管一村 或作慶良間 琉球史略云、東馬齒山大小五島、俗溪頼米、以下圈外注、皆採琉球史略、〉 戸無(トナキ)島〈管一村 或度名喜、度那寄、〉 久米島〈管二村 續紀作球美、姑米、〉 粟島〈管一村 或粟國島、 安根㞾、或阿姑尼、又安護仁、〉 伊惠島〈管一村 椅山、或椅世麻、亦伊江島、〉 伊是那(イセナ)島〈管一村 琉球史略不載〉 惠平屋島〈管一村 或伊比屋、又伊平屋、葉壁山、俗呼禹臣馬、〉 宮古島〈管六村 南七島國人皆曰太平山、始爲宮、古復爲迷姑、今麻姑、〉 八重山島〈管十一村 南北九島、國人皆曰八重山、一名北木山、土名彜師加紀按續紀云謂信覺、與彜師加紀音相近、疑是島、中山世譜以此島太平山、可疑、〉 鬼界島〈管五村 古作貴賀、或貴賀、或貴海、奇界、〉 大島〈管七村 鳥父世麻、自稱小琉球、〉 徳之島、〈管三村 續紀作度感、度姑、〉 永樂部島〈管三村 或永良部、伊良保、或惠良部、〉 與論島〈管一村、由論、〉 右島津氏所幕府之圖籍所載如斯、而中山世鑑云、庇郞喇、〈俗呼平良〉姑李麻、〈俗呼來間、譯曰古裏間、一作來麻、土名來曰姑李、〉烏喝彌、〈俗呼大神、一作宇間味、〉伊奇麻、〈俗呼池間、譯曰伊喜間、〉面那、〈俗呼水納、一作水名、〉伊良保、〈俗呼惠良部〉達喇麻、〈俗呼多良間、一作太良末、〉七島總

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1364之曰宮古島、又曰麻姑山、伊世佳奇、〈俗呼石垣〉姑彌、〈俗呼一作西表〉烏巴麻、〈俗呼小濱、二島譯曰宇波間、〉阿喇斯姑〈俗呼新城、阿喇姑斯古、〉達奇度奴、〈俗呼武富、譯爲富武、一作武富、〉巴梯呂麻、〈俗呼波照間〉姑呂世麻、〈俗呼黒島、譯爲久里島黒島、〉巴度間、〈俗呼鳩間、麻巴度麻譯曰波渡間、一作鳩間、〉由那姑尼、〈俗呼與那國〉以上九島、總稱之八重山、又曰太平山、姑達佳、〈俗呼久高、夏録作孔達佳、〉津奇奴、〈俗呼津輕〉巴麻、〈俗呼濱比嘉、譯爲濱島、〉伊奇、〈俗呼伊計、譯爲池島、以上東四島、〉姑米、〈俗呼久米、〉東馬齒、〈俗呼前慶良間〉西馬齒〈俗呼西慶良間、大小四島、以上西三島、〉度那喜、〈俗呼度名喜〉阿姑尼、〈俗呼粟國〉猗世麻、〈一曰猗山、俗呼伊江、〉葉壁山、〈俗呼伊比屋〉硫磺島、〈俗呼鳥島、硫磺山一名黒島、多鳥、又名烏島、以上西北五島、〉度姑、〈俗呼徳島、〉烏世麻、〈俗呼大島〉由論、〈俗呼與論〉永良部、〈俗同〉由呂、〈俗呼與路、一作由路、〉烏奴奇〈俗呼冲野、又曰浮野、〉佳奇呂麻〈俗呼垣路間呂一作路、又作加喜呂麻〉奇界、〈俗呼鬼界、以上東北八島、國人皆曰烏父世麻、過此爲土噶喇七島、亦作度加喇、臣按汪揖録七島者、口島、中島、諏訪瀬島惡石、臥虵島、平島、寶島也、人不滿萬、惟寶島較大、國人統呼之曰土噶喇、或曰即倭也、〉是爲(○○)琉球三十六島(○○○○○○)

〔中山聘使略〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1364 琉球屬島全圖〈◯圖略〉 屬島三十六、爰に其方位を擧ぐ、東の四島、姑達佳、〈中山の東百四十五里〉津堅、〈中山の東三十五里〉巴麻、〈南北二島中山の東三十五里〉伊計、〈中山の東三十五里〉正西の三島、東馬齒、大小五島、西馬齒、大小四島、〈中山の正西百三十里〉姑米山、馬齒の西にあり、〈中山を去事四百八十里〉西北の五島、度那奇、〈姑米に近し〉安根㞾山、〈度那奇に並ぶ〉椅山、〈至て近し、汐退けば歩して至るべし、〉伊平屋、〈中山の西北三百里〉硫黄山、〈中山の西北三百五十里、姑米山と南北相峙す、〉東北の八島、由論、〈中山の東北五百里〉永良部、〈中山の東北五百五十里〉度姑、〈中山の東北六百里〉由呂、〈度姑の東北三十八里〉烏奇奴、〈度姑の東北四十里〉佳奇呂麻、〈中山の東北七百七十一里〉大島、〈中山を去事、八百里にあり、〉奇界、〈中山を去事九百里、最遠の界也、〉南の七島、太平山、〈中山の南二十里に在〉伊計麻、〈太平山の東南に在〉伊良保、〈太平山の西南に在〉姑李麻、〈太平山の正西〉達喇麻、〈太平山の正西〉面那、〈太平山の西南〉鳥噶彌、〈太平山の西北〉西南の九島、八重山、〈太平山の西南四百里、中山を去事二千四百里、〉烏巴麻、〈二島八重山の西南〉巴度麻、〈八重山の西南〉由那姑呢、〈八重山の西南、以上の四島、臺灣に近し、〉姑彌、〈八重山の西〉達奇度奴、〈八重山の西、姑彌の東、〉姑呂世麻、〈八重山の西少し北〉阿喇姑斯古、〈八重山の西〉巴梯呂麻、〈八重山の極西北〉

〔日本地誌提要〕

〈七十三西海道〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1364 州南諸島 大島、薩摩川邊郡寶島ノ南少東海上直徑壹拾八里、開聞岬ノ南南西七拾八里ニアリ、東ニ喜界島、南ニ徳之島、永良部島、與論島アリ、共ニ五島、其間小嶼點綴

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1365 シ、大小總テ十餘島、支那人之ヲ小琉球ト稱ス、北緯貳拾七度壹分〈與論島〉ヨリ貳拾八度三拾壹分ニ至リ、西徑九度四拾八分、〈喜界島〉ヨリ壹拾壹度貳拾貳分〈與論島〉ニ至ル、大島五島ノ首ニ居リ、地最宏濶、山嶽重疊、湯灣嶽頗高峻、山脈東北ニ起リ、島内ニ散布シ、北部稍夷坦ナリ、沿岸港嶴參錯相望ミ、皆繫泊ニ宜シ、諸島風土、大抵琉球ニ同ジク、夏凉冬暖、草木繁茂ス、民俗亦敦樸ナリ、大島ハ即古ノ庵美(アマミ)ニシテ、琉球國祖肇基ノ地タリ、天武天皇十一年、始テ入朝貢獻シ、爾後往來絶エズ、文永三年、琉球ニ入貢シ、終ニ其屬島トナル、慶長十四年、島津家久琉球ヲ伐テ之ヲ取リ、喜界等四島ト共ニ、永ク薩摩ノ所管ニ歸ス、王政革新、鹿兒島縣ニ隷シ、治所ヲ大島名瀬ニ置キ、以テ諸島ノ事ヲ管ス、

〔中山傳信録〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1365 琉球三十六島 琉球屬島三十六、水程南北三千里、東西六百里、遠近環列、各島語言、惟姑米葉壁與中山近、皆不相通、擇其島能中山語、給黄帽酉長、又遣黄帽官涖治之、名奉行官、亦名監撫使、歳易人、土人稱之曰親雲上、聽其獄訟、徴其賦税、小島各一員、馬齒山二員、太平山、八重山、大島各三員、惟巴麻、〈中山讀間字、音同麻、華言山也、下傚之、〉伊計、椅山、硫磺山四島不員、諸島無文字、皆奉中山國書我皇上聲教遠布、各島漸通中國字、購畜中國書籍、有能讀上諭十六條、及能詩者矣、〈◯下略〉

〔續日本紀〕

〈一文武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1365 三年七月辛未、多褹、夜久、菴美(○○)、度感(○○)等人、從朝宰而來、貢方物、授位賜物各有差、其度感島、通中國是始矣、

地勢

〔中山聘使略〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1365 其地〈◯琉球〉の形ち角なき龍の流れたるがごとし、因て流虬といふ、東西の廣さ數十里、南北四百四十里、中山のみやこ首里より、南は喜屋武の海邊まで五十里、北は國頭の海邊まで三百八十里、我正和中、國分れて三と成、中山、山南、山北といふ、我永享年中、又併せて一統し、三省に分つ、中山を中頭省とす、首里、泊、那覇、眞和志、南風原、東風平、西原、浦添、宜野灣、中城、北谷讀谷山、勝連、與

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1366 那城、越來、美里、具志川の諸府此に屬す、山南を島尻省とす、大里、玉城、豐見城、小祿、兼城、高嶺、佐敷、知念、具志頭、麻文仁、眞壁、喜屋武の諸府此に屬す、山北を國頭省とす、金武、恩納、名護、久志、羽地、今歸仁、本部大宜味、國頭の諸府此に屬す、國王のみやこする處を首里と云、湊を那覇と云、大港也、屬島三十六あり、遠近つらなりめぐる、海上の里數、南北三千里、東西六百里なり、諸島は察侍紀官を遣して治しむ、此を奉行といふ、大平山、八重山、大島は、島大なるゆへ三人、馬齒は二人、其外は各一人也、只巴麻、伊計、椅山硫黄の四島は、尤小なれば官をおかず、土著の頭目官をして治めしむ、

〔琉球國事略〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1366 異朝の書に見えし琉球國の事 琉球は、其國大小の二ツ有り、今の中山は、其大琉球(○○○)の國なり、 小琉球(○○○)の國は、中國に通る事なしと見えたり、其琉球の人に此事を問しに、小琉球といふ所詳ならず、今の大島の地を申せしにやと申す、此せつ心得ず、異朝の書に、小琉球は泉州の地に彭湖といふ所と煙火相望むといひ、又閩中の鼓山に上りて望むべしといふ、然らば閩中に近き海上に有や、大島ならんには、閩を去る事數千里を隔つ、又朝鮮の書に、小琉球の地は、琉球の東南水路七八日が程にあり、國に君長もなく、人みなたけたかく大にして、衣裳といふもなし、人死しぬれば、其親族集りて其肉をくらひ、其頭にうるしぬりて飮器とすといふ事あり、是も亦信用に足らず、

〔中山傳信録〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1366 琉球地圖〈◯地圖略〉 琉球、始名流虬、〈中山世鑑云、隋使羽騎尉朱寛至一レ國、于萬濤間、見地形如虬龍浮水中、故名、〉隋書始見、則書流求、宋史因之、元史曰瑠求、明洪武中、改琉球、國在閩福州正東一千七百里、偏南三里、其地形東西狹、寛處十數里、南北長四百四十里自中山首里、南至喜屋武邊海、緊行一日半、北至國頭邊海、緊行三日半、明永樂以前、國分爲三、曰中山、曰山南、曰山北、宣徳并爲一、分爲三省、中山爲中頭省、屬府十四、山南爲島窟〈一作尻〉省、屬府十

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1367 二、山北爲國頭省、府九、府土名間切、所屬皆稱村頭、土名母喇、國中亦有五嶽、辨嶽在中山、八頭嶽在山南、佳楚嶽、名護嶽、恩納嶽在山北、比他山高、佳楚嶽尤峻、爲琉球第一峯云、

〔西遊雜記〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1367 薩州の地より、琉球迄の海上、諸板にも顯し、琉球志抔にも其實説委しからず、今土人の言所、山川といふ津より南の方にあたりて、凡三百里計、夏冬によつて船路の替り有といへ共、其間に連る島大小三十餘、何れも船懸ある島にて、大坂へ往來せる海上よりも安し、薩州大隅の浦々に、國守よりのゆるしの廻船ありて、一ケ年に幾度といふ御定めありて渡海する也、鹿兒島よりも、士格の人數琉球の地へ渡りて勤番する役所も有る事にて、米のよく生ずる風土にて、二十餘万石薩州上納す、近き年の事にや、琉球すべて旱魃して、稻熟せず、〈暖國にて稻は五月熟頃也、〉國民飢渇せんとす、此時には、薩州侯數石の米を渡してすくひ給ふ年あり、すべて琉球人日本の風俗を慕ひて、薩州に屬せるといへども、中華福建省の地へ近く、やヽもすれば福州の爲になやまさるヽ事によつて、福建省の下知にも應じて聘禮する事也、薩州にては、知りても知らぬ體にて、是迄濟來りしといふ、

氣候

〔華夷通商考〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1367 琉球 此國、過半ハ福州ニ從ヒタル國ニテ、唐ヨリ往來モ有之也、薩摩ヨリ往來之所モ有之也、四季日本ヨリ暖ナリ、海上薩摩ヨリ二百里南西當レル島國也、

〔中山聘使略〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1367 雜事 彼國〈◯琉球〉北極出地二十六度二分三釐の地にして、時令大に皇國と同からず、其地氷雪なく、草木冬を經て枯れず、四方の山野蒼々たり、百蟲蟄せず、四時蚊帳をたる、甘藷植るに時なし、稻九月種を下し、五月刈收め、六月には田に禾穗なし、一年再登す、梅九月花さく、貧賤の小民は、芭蕉布の單衣一ツにて冬を渉るといへり、

建置沿革

〔日本國郡沿革考〕

〈四屬島〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1368 琉球 一名阿兒奈波、〈淡海三船僧鑒眞傳〉古時唯以南島之〈三善清行僧圓珍傳作流捄、性靈集作留求、元亨釋書、隋書作流求、元史作瑠求、或作流虬、〉大寶和銅間、内附來貢、靈龜元年、南島奄美、〈齊明紀作見島、天武紀作阿麻彌、文武紀作菴美、或云今天草島、〉夜久、度感、〈即徳之島〉信覺、〈即石垣〉球美、〈即久米〉等入朝、授位有差即是也、後與白石、阿甑、黒島、硫黄等凡十二島、總稱之鬼界島、皆通内地、至長寛承安際、往々離叛、十二島中鬼界以南七島、皆不屬、時薩摩人阿多權守平忠景、私越海至鬼界、遣筑後守平家貞之、不行、文治四年、源右將使天野遠景、宇都宮信房、擊鬼界、降之、先是〈保元元年〉鎭西八郞源爲朝、配流于伊豆大島、侵略諸島、遂到鬼島、懾服島人、掠一人而還、島人歳納絹百匹、所謂鬼島亦琉球也、既而爲朝子逃島中、代天孫氏王、世襲至于今云、〈中山世譜云、宋乾道元年、鎭西爲朝公隨流至國、生一子而返、其子名尊敦、後爲浦添按司、淳熙年間、天孫氏二十五紀之裔孫、爲權臣利勇滅、時尊敦倡義起兵、誅利勇、國人推戴爲君、是舜天王也、舜天登位、制度新定、國俗大革、〉足利氏之時、琉球王時遣使貢方物、薩摩島津氏、世掌接伴、後復背叛、及東照公之時、島津家久奉教招之、不至、請而討之、慶長十四年、遣將南伐、平其全島、明年家久率其王尚寧、入朝于駿府、及江都、幕議以琉球島津氏、世々爲其藩屬、以後其使以時從島津氏朝貢、

〔中山傳信録〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1368 中山世系 中山世鑑云、琉球始祖爲天孫氏、其初有一男一女、生於大荒、自成夫婦、曰阿摩美久、生三男二女、長男爲天孫氏、國主始也、二男爲諸侯始、三男爲百姓始、長女曰君君、二女曰祝祝、爲國守護神、一爲天神、一爲海神也、天孫氏二十五代、姓氏今不考、故略之、起乙丑丙午、凡一萬七千八百二年、今斷、自舜天始、 舜天 宋淳熙十四年丁未、舜天即位、 舜天日本人皇後裔、大里按司朝公男子也、淳熙七年庚子、年十五、屢有奇徴、長爲浦添按司、人奉其政、斷獄不違、天孫二十五世政衰、逆臣利勇恃寵執權、鴆其君而自立、舜天討之、利勇死諸按司

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1369 推奉即位、賞功罰罪、民安國豐、在位五十一年、壽七十二、嘉煕元年丁酉薨、

〔國朝舊章録〕

〈八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1369 琉球國之事略 此國の事、異朝の諸書に見へし處は、此國古よりの事は詳ならず、隋の煬帝の時、朱寛と云者をして異俗を訪求られしに、始て此國に至、其詞通ぜざりしかば、一人を取て歸る、其後に師して再び其國に到らしめて、男女五百人を取て歸る、是此國の名、異朝の書に見へし始也、其後唐宋の時、中國に通ぜず、大元の時使して招かれしか共來らず、大明の代に及、大祖の洪武の初に貢使をまいらす、其國三ツに分れて、中山、山南、山北の三王有、其後封爵を請しかば、中山山南の二王に鍍金の銀印を賜たり、鍍金とは金をやきつくる事也、此時三王互に爭ひ戰しかば、天子其中に和らげ給ひ、山北にも印、并文http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/00000001ad4e.gif 等を賜、〈中山山南封ぜられしは、洪武十五年の事、山北を封ぜられしは、同十六年の事也、本朝後圓融院永徳二年三年、公方は鹿苑院殿、(足利義滿)の御時に當れり、〉同廿五年中山王察度〈王の名也、姓は尚と云、〉其子姪并陪臣の子弟を遣して國學に入、此國昔隋元等の代に攻れども來らず、招けども至らず、然るに大明の代初に、自ら來り貢して其國の君臣子弟をして學び、中國に隨ひしが、天子其忠順の志を悦び給事大方ならず、〈此故に外國にて此國程恩寵等きは無りき、閩人のよし岳を乘もの三十六性を給りて、年毎に往來すべき便となさる、察度が曾孫王巴志其位を嗣し時より、彼國王代を繼し時に、必中國の天子使を其國に遣して册封せらるゝ例始れり、是長き彼國の例也、〉巴志が孫王思達景泰の始に代を繼て、程も無く山南山北を討亡して、其國を并せたり、〈是より硫球國王を中山と云也、景泰は大明第五代英宗の年號にて、本朝後花園の寶徳の頃、公方は東山義政の時也、此國より始て通ぜしも此時也、後ニ見ゆ、〉是よりして三年に二度中國に進貢する事例は始れり、〈今も此例の如く也と云〉王思連が六代の孫、王永が代に當て、日本關白の秀吉の御事、此時高麗陣の頃也、爲に其國亂るヽ、王永程なく卒て、其子王寧代を繼、萬暦三十一年、其國に使を給て册封有、〈萬暦は大明十三王神宗の年號、其三十一年は、本朝後陽成院慶長八年、神祖征夷大將軍に被任し年也、〉其使歸奏して曰、琉球必倭の爲に困めらるべし、日本の人千計、利刃を挾て其市に出入せりと申き、程なく同三十七年、王寧薩州の爲に捉はれ行、同四十年、王寧使して進貢して、歸國の事を申、又日本の爲に市を通ぜ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1370 ん事を望給ふ、〈萬暦三十七年は、本朝慶長十四年也、此事五月島津彼國王を擒にして來り、止る事三年にして是を歸す、慶長十七年、本朝の爲に互市の事を、大明福建は軍門に申せし事有き、〉右異朝諸書に見へし處也、是より後の事しるせし物考へず、此國の事本朝の書に見へし處、是も古の事不詳、五十五代文徳天皇仁壽三年、僧圓珍〈智證大師〉唐國に趣かるヽ時、北風にさそはれて琉球に至りしと云事、元亨釋書に見へたり、是本朝にして、彼國の名聞えし始にて、其後聞ゆる事にて、東山の公方義政の頃、寶徳三年七月、琉球の使來れり、〈是則彼國にて山南山北を并せし、中山、王思連が時也、公方より書を贈られて其禮ニ答へられき、其書は假名字を用ひて、りうきうこくのよのぬしへと記されたり、〉是より後其國人常に來りて、兵庫の湊にて商物などしたり、太閤秀吉の代と成て、使參らせて、天下の事しり給ふ事を賀す、程なく朝鮮の事起て、太閤も失せ玉ひ、太閤へ使をまいらせしは、應永の時成べし、〈此年號不審、書誤ナルベシ、〉御當家の始、島津の爲に討れて、終に其屬國のごとくに成たる也、右本朝諸記に見へし處也、世には彼國は鎭西八郞爲朝の末葉也、されば今も其國に爲朝の遺跡共多しと云也、

〔日本地誌提要〕

〈七十五琉球〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1370 沿革 開國始祖ヲ天孫氏トス、文武天皇ノ時ヨリ本朝ニ内附入貢ス、天孫氏相傳ル二十五世、賊臣利勇ノ爲ニ弑セラル、文治三年浦添按司尊敦、賊ヲ誅シテ代リ立、首里ニ居リ、王ト稱シ、全島ヲ統ブ、是ヲ舜天王トナス、尊敦ハ源爲朝ノ子ナリ、〈爲朝伊豆大島ニ配セラル、後琉球ニ如テ、大里按司ノ妹ヲ納レテ尊敦ヲ生ム、〉文應元年、孫義本、位ヲ天孫氏ノ裔英祖ニ讓ル、文永三年、大島始メテ來屬ス、曾孫玉城ニ至リ、嘉暦中、國大ニ亂レ、今歸仁按司山北王ト稱シ、大里按司山南王ト稱シ、玉城僅ニ中頭ヲ保チ、中山王ト稱ス、正平四年、玉城ノ子西威卒ス、明年、國人世子ヲ廢シ、浦添按司察度ヲ奉ジテ中山王トナス、文中二年、察度始テ明ニ通ジ、終ニ其册封ヲ受ク、山南山北二王亦明ニ入貢ス、元中七年、宮古八重山諸島始テ中山ニ内附ス、子武寧ニ至リ、應永十二年、佐鋪按司尚巴志兵ヲ起シ、之ヲ廢シ、其父思紹ヲ奉ジテ王位ニ即カシメ、二十三年、尚巴志山北王、樊安知ヲ滅シ、〈山北四世九十餘年〉使臣ヲ遣シ、方物ヲ將軍足利義持ニ獻ズ、二十八年、思紹卒シ、巴志立、永享元年、山南

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1371 王他魯毎ヲ滅シ、〈山南四世一百四年〉始テ全島ヲ併有ス、十二年、尚巴志卒シテ、子尚忠立、將軍義教薩摩ノ守護島津忠國ニ琉球ヲ賜ヒ、其附庸トナス、嗣後島津氏ト聘使來往シ、歳時ヲ以テ方物ヲ將軍ニ獻ズ、是ニ於テ内地及明ニ兩屬ス、尚忠ヨリ五傳シテ尚徳ニ至リ、國亂ル、文明元年、尚徳卒シ、國人世子ヲ廢シ、義本ノ裔尚圓ヲ奉ジテ王トナス、後六世尚寧ニ至リ、使聘ヲ修セズ、慶長十四年、島津家久將軍徳川秀忠ニ請ヒ、將ヲ遣テ之ヲ伐チ、尚寧ヲ擒ニシテ歸リ、將軍ニ謁ス、將軍命ジテ永ク島津氏ノ附庸トナシ、世々貢禮ヲ修セシム、明治五年、尚寧ノ後十二世尚泰、職貢ヲ修ス、詔シテ藩王ニ封ジ、國ヲ西海道ニ屬ス、

征討

〔琉球入貢紀略〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1371 薩州太守島津氏琉球を征伐す 琉球國は、嘉吉年間足利義教の命ありてよりこのかた、世々薩州に附庸の國たるを、天正のころ、群雄割據の時にあたりて、琉球の往來も姑く絶えたりければ、薩州の太守島津家久より、もとの如く貢使あるべきよしを、再三使をもていひつかはしけれども、彼國の三司官謝那といふ者、竊に明人と事を議りて、待遇ことさらに無禮なりしかば、已むことを得ずして、慶長十四年の春、台命を蒙、軍を起し、樺山權左衞門久高を總大將とし、平田太郞左衞門益宗を副將とし、龍雲和尚を軍師とし、七島郡司を按内として、その勢都合三千餘人、戰船百餘艘を出して、二月廿一日、纜を解きて、琉球國へ發向せしむ、樺山久高總勢を引卒して、はじめ大島に著岸し、また徳島に赴きしに、島人これを防もの凡千人ばかりなり、この戰ひに首を獲ること三百餘級、餘はみな降人にぞ出にける、四月朔日、那覇の港に至らんと、かのところに赴くに、港口には逆茂木亂杭をかまへ、水中に鐵の鎖をはり、是に船のかヽりなば、上より眼の下に見おろして、射とるべき手だてをかまへ、その外の島々へも、用意おごそかにしてぞ待かけたる、これによりて他の港より攻入りて、三日の間せめ戰ひ、手負討死少なからずといへども、遂に進みて首里に攻入り、王城を圍みて、急にも

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1372 みにもんで攻破らんとす、琉球王及び三司官等、薩州勢の強大にして、當るべからざるに避易し、みな出て降を乞ひけるによりて、軍の勝利を得て、琉球忽に平均せしよしを、速に駿府へ言上ありしかば、甚だ稱美せさせたまひ、琉球を永く薩州の附庸とぞせられける、かくて五月廿一日に、中山王尚寧及び諸王子を擒にして、薩州の軍士凱陣せり、十五年八月、薩州の太守中山王をともなひ、駿府に來りて登城す、中山王段子百端猩々皮十二尋、太平布二百疋、白銀一万兩、大刀一腰を獻上す、それより江戸に到りて、將軍家に謁しけるに、米一千俵を下したまふ、さてその年歸國ありて、翌十六年、中山王琉球に歸ることを得たり、これによりて十二月十五日、琉球人駿府へ歸國御禮のために參りて、藥種及び方物くさ〴〵を貢獻す、さて中山王尚寧降服してより、永く我邦の正朔を奉じ、聘禮を修すべきよしの誓ひをなしてけり、〈系圖、舊傳集、政事録、南浦文集等によりて記す、〉これ今の入貢の始めなり、この後貢使かつて闕ることなし、

〔島津家覺書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1372 慶長十一年六月十七日、於伏見御城、御諱〈◯徳川家康〉之字を被下、家久と改め、太秦長光之御腰物頂戴仕候、 琉球國者、家久十代之祖、陸奧國忠國代に、普廣院殿〈◯足利義教〉より致拜領、永享年中より薩摩に相從ひ候處に、近年致怠懈候、殊更權現様に、御禮可申上之旨、使札を以申付候へ共、不領掌候間、人衆を差越、可退治之旨、山口駿河守直友を以言上候處に、蒙御免候、〈◯下略〉

〔南浦文集〕

〈中〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1372琉球國王書 貴國之去我薩州者、二百餘里、其西島東嶼之相近者、僅不三十餘里、以故、時時有聘問聘禮、以修其鄰好者、其例舊矣、就中我宗子之嗣而立、則畫青雀黄龍於其舟、以使其衣者、黄其巾者二人、爲其遣使、篚厥玄黄來、而結髻於右髩之上者、奏衆樂於庭際、蓋致嗣子之賀儀也、今也遣崇元寺長、宜謨里主、載其方物、以賀我家久之嗣而立、又攀舊例也、我今寄言於國君、勿我之言上レ之、日本六

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1373 十餘州、有源氏一將軍、以不猛之威其號令、尺土無其方物、一民無其幕下、是故東西諸侯、莫朝觀之禮、我今雖麑府之任、毎歳使親族之在左右者、行以致其聘禮、況家久爲國之宗主、豈不年年之職乎、貴國亦致聘禮於我將軍者、豈復在人之後哉、先是我以此事於三司官者數矣、未其聘禮、是亦非三司官懈於内乎、今歳不聘、明年亦懈者、欲危而可得乎哉、且復貴國之地、鄰于中華、中華與日本、不商舶者、三十餘年于今矣、我將軍憂之之餘、欲使家久與貴國相談、而年年來商舶於貴國、而大明與日本、商賈通貨財之有無、若然則匪翅富於吾邦、貴國亦人人其富潤屋、而民亦歌於市於野、豈復非太平之象哉、我將軍之志在玆矣、是故家久使小官二人、告之於三司官三司官不可、將軍若有之、則家久可之何哉、是我夙夜念玆、而不措者也、古者善計國計家者、雖大事小者、有時之宜而爲之者、況復小之事大者、豈爲之背於理哉、其存焉與其亡焉、共在國君之擧而已、伏乞圖之、 ◯按ズルニ、此書状ハ、慶長十一年九月、島津家久、琉球王ノ來聘ヲ促ス爲ニ遣ス所ナリ、

〔南聘紀考〕

〈人〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1373 慶長十四年二月、公〈◯島津家久〉及貫明公、松齡公、相與廻策於帷幄中、定律令十三章、乃使樺山權左衞門尉久高大將、〈◯中略〉總計三千餘人、艤艦百餘艘、導七島揖師小松吉兵衞等二十四人、往討琉球

〔南浦文集〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1373琉球詩并序 薩隅之南二百餘里、有一島、名曰琉球、使小島之在四方者并呑爲上レ一、而爲之酋長矣、予聞之黄耉、曰昔者日本人王五十六代清和天王之孫、其名曰六孫王、本朝源家之曩祖也、八世孫義朝公、令弟爲朝公、爲鎭西將軍之日、掛千鈞強弩於扶桑、而其威武偃寒垣草木、是故遠航於海、征伐島嶼、於斯時也、舟隨潮流、求一島於海中、以故始名流求矣、爲朝見居穴處於島上、頗雖人之形、而戴一角於右鬂上、所謂鬼怪者乎、爲朝征伐之後、有其孫子、世爲島之主君、固築石壘於其上、因効鬼怪之

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1374 容貌、結髻於右鬂上、至今風俗不異、中改流求二字、字從玉、而爲琉球矣、黄耉之言未是否、酋長之祖、不阿誰、昔朝於大明皇帝、皇帝賜之衣冠、且錫爵位爾來世稱中山王、王稱亦至今不絶矣、數十世之先、爲我薩隅日三州太守島津氏附庸之國、歳輸貢獻於我州、比來不我號令者有於玆矣、是歳戊申、有太守家久公之命、遣二使於彼國、國素有三司官、國之公卿、世守其職、時有一聚歛臣名邪那、補一官闕、以汚公卿之衣冠、邪那見我二使之來也、以色可否、以頤指揮、二使亦不云、空手而歸矣、於是不已而使數千兵行以討一レ之、嗚呼琉球日薄西山連其極矣、何其不苞桑之戒乎哉、予桑門之徒也、雖國家存亡之事、見此兵戈之將一レ出、而恐彼敗禍之在衽席之間也、不才之拙、與語之俚、漫賦俳諧體十章、首章先述天與人歸之義、兼祝大洋波平、而兵船之安如泰山之安矣、次章仰諸將威武動搖乾坤、其次三章述我國一邪那好行小惠我義兵之不上レ早也、且欲我諸將亦整其部伍其戒心也、其次二章訪知己之在彼國、且復我先師之徒、有景叔春蘆之二翁、昔帶先師典籍若干部、寄跡於彼國終焉、此時恐典籍之若失却兵火而賦之、其次誹巫覡謂神祇之托言於我、惑世誣民、爲身謀矣、末二章彼國風俗、愚而多詐、不降於我、後必患忠孝於我君父、且復兄弟妻子離散、赴遐遠之邦、而言之、書以呈之於伊勢氏兵部員外郞、以供一笑云、 琉球小島一彈丸、天與人歸討不難、四海波平天水渡、諸軍大鑑泰山安、 欲鬼方白旛、諸軍威武動乾坤、樺山右將平田左、添得伊川伴衞門、 一灯將滅琉球運、爲邪那紀綱紊、諺語未知實耶虚、那覇本是河邊郡、〈那覇琉球國郡也〉 琉球祗合和談、心苦君民更不甘、想是邪那痩城主、一身逃死定降參、 我國武威誰敢侵、幾多健將智謀深、報言蜂蠆有其毒、須學猫兒藏爪心、 報恩主席我知音、句欲聯珠旦暮吟、緬想西來一庵主、無心雲亦駭其心、 典墳誓莫秦坑、字字元如金滿一レ羸、景叔春蘆昔遊日、先師書籍帶之行、 奇術誑人巫女流、巧言令色爲身謀、蚖虵若識義兵至、端的尋聲自縮頭、 愚而偏詐世無雙、未敢翻心築一レ受降、又似蟷螂恃長臂、人言小黠大癡邦、 自古球陽屬薩陽、不

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1375號令忽云亡、他時棄父棄妻後、必棹扁舟大唐

〔當代記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1375 慶長十四年四月、薩摩之島津百餘艘集兵船、琉球へ令渡海、彼島不一戰、則内裏ヲ責崩、王ヲ生捕令歸朝、彼島中雖撿地、指テ知行モ無之、漸々拾二萬石餘有之ト云々、

〔慶長見聞録案紙〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1375 慶長十四年七月七日、島津家久所討取之琉球國家久ヘ被之、

〔一話一言〕

〈十八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1375 琉球國事 夫琉球國者、自往古嘉吉年中、屬我國矣、雖然背舊規進貢、自薩摩再三遣使以誘之、不肯聽、故告相國家康公、請之、蓋琑々小島不屑也、而戎狄是膺、荊徐是懲、詩經之所戒、故慶長十四己酉春、以樺山權左衞門尉久高大將、〈◯中略〉都合其勢三千餘人、整兵船一百餘艘、而二月廿一日發船已著大島威、又趣徳島、島郞出應而防戰者殆千有餘人、其中斬首者三百餘人也、故殘黨不日屬于旗下而悉焉、同年四月初一日、欲那覇之津、彼徒卒爲隱謀、設鐵鎖於津口以備焉、故從異津上陸、交鋒相戰三日、殺騎將歩卒數百人、遂入都門、圍其城而欲之、時國王三司官及諸士卒共請和、於是不刃、而已唱凱歌矣、輙以捷書告于薩摩、則遣使家康公言上、公感其戰功、及以黒印彼島於太守陸奧守家久、 到于琉球越兵船、彼黨數多討捕之、殊更國王及降參、三司官以下近日著岸趣、誠以希有之次第候、委細本多佐渡守可申也、 七月五日 秀忠御判 島津修理入道殿 到琉球越人數、不日數輩討捕之、其上國王降參、近日到其國著岸之旨、最無雙之仕合候、猶本多佐渡守可申候也、 七月五日 秀忠御判 羽柴兵庫入道どのへ 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1376琉球遣兵船、不時日一戰、彼黨數多討捕之、剩國王降參之、并三司官以下到于其地、不日可渡海之注進、誠以無比類働共候、猶本多佐渡守可申候、謹言、 七月五日 秀忠御判 薩摩少將殿へ 琉球之儀、早速屬平均之由注進候、手柄之段被思召、即彼國進候條、彌仕置等可申付候也、 七月五日 家康御黒印 薩摩少將どのへ

〔南浦文集〕

〈中〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1376大明福建軍門書 琉球國王尚寧、上書大明國福建軍門老大人閣下、恭審、小邦去日本薩摩州者、僅三百餘里、以故三百年來、以時獻不腆方物、修其鄰好、頃有不肖嗇、夫緩其貢期、是故薩摩州進兵於小邦、小邦荒墟者、誠天之所命、而我亦以苞桑之戒也、不幸而爲其俘囚、在薩摩州者三年矣、州君家久公、外好武勇、内懷慈憫、待我以貴客之禮、禮遇之厚者三年一心、加之送還我於小邦、於是吾民之歌於市、抃於野者、玆非幸歟、州君寄言於我、其之言曰、夫邦國在四方也、有金玉者、或不乎錦繡、有粟米者、或不乎器皿、若有餘而不散、不足而無聚、民用不足、而其貨亦腐、惟坐而待腐、不如通其有無、各得其所矣、日本非金玉器皿、其土宜質素、而不於中華之文質彬彬、是故使我參謀於兩國、一以使日本商船、許以容之大明邊地、二以使大明商船、來我小邦、交相貿易、三以使一遣使年年通其貨之有無者、匪翅富兩國人民、大明亦無倭寇嚴備兵衞矣、三者若無之、令日本西海道九國數萬之軍、進寇於大明、大明數十州之鄰於日本者、必有近憂矣、是皆日本大樹將軍之意、而州君所以欲一レ兩國之志者也、伏冀軍門老大人、於斯三者、許一於此、我小邦大沐大明之徳化、且遂日本之夙志、是亦天朝恤遠守小之仁心也、若然則永守藩職、無貳心、遐方嚮化之念、沒世不忘也、伏楮伸鄙忱、仰祈尊炤、不宣、

通信來聘

〔琉球入貢紀略〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1377 琉球使の來れる 琉球は、掖玖とともに、推古天皇以前より入貢しけんが、はやく朝貢怠りて來らざりしなるべし、かくてその國と往來なければ、たま〳〵記載に見えたるも、みな懸聞臆度のみにて、たしかなることなきは、そのゆゑなりとおもはる、その國もまたはるかの島國にて、いづれの國の附庸にもあらず、通信もせざりしが、明の洪武年間、琉球は察度王の時にあたりて、册封とて唐土より中山王に封ぜられて、彼國へも往來して、制度文物すべてかの國にならひてぞありける、明の宣徳七年に、宣宗内官柴山といふ臣に命じて、勅書を齎らしめ琉球につかはし、中山王より人をして、我邦に通信せしむ、この宣徳七年は、我邦の永享四年にあたれり、これによりて考ふるに、上古よりはやく往來絶えて、後明宣宗のために我邦へ使せしは、はるかに年を歴て、再び我邦へ琉球使の來れる始めなるべし、これより後も、明の正統元年、英宗琉球の貢使伍是堅をして回勅を齎らし、日本國王源義教に諭すといひ、〈これ永享八年のことなり〉嘉靖三年、琉球の長吏金良の詞に、これより先に正議大夫鄭繩といふものをして、日本國王に轉諭す、〈これ大永四年のことなり、中山傳信録、琉球國志略に見えたり、〉といへることあれば、明より我邦へ書を贈るに、琉球使に命ぜしこともありしとぞおもはるヽなり、

〔琉球入貢紀略〕

〈辨誤〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1377 永享年間琉球使來るの辨 室町紀略云、永享十一年七月、是歳琉球國入貢、〈琉球入貢始見〉また琉球事略に、後花園院寶徳三年七月、琉球人來りて、義政將軍に錢千貫と方物を獻ず、これよりしてその國人兵庫の浦に來りて交易すといふ、しからば彼國の使本朝に來ることは、尚金福が時をもて、その始めとすべきかといへり、これらの説みな誤りなり、按ずるに中山傳信録云、宣徳七年、宣宗以外國朝貢、獨日本未至、命内官柴山勅至國、令王遣人往日本上レ之と見えたり、これ實に我永享四年にあたれり、かヽれば二書にいふところ、この時より後れたればその始にあらざるをしるべし、

〔康富記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1378 寶徳元年八月廿五日、近日琉球國商人京著、令上藥種并料足一千貫文云々、 三年八月十三日、或説云、琉球島船、〈商人〉去月末著兵庫津之處守護細川京兆、早遣人彼商物撰取、未料足之間、先々年々料足未進物、及四五千貫無返辨、又賣物抑留、爲島人難澀之由申之間、自公方遣奉行三人、〈布施下野守、飯尾與三左衞門、同六郞、〉被糺明之處、得押取之物、自京兆返、依之奉行未上洛云々、京兆者前管領也、希代之所行哉、如何之、

〔齋藤親基日記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1378 文正元年七月廿八日、同日琉球人參洛、〈當御代六ケ度目〉號長史(チヤウス)、於御寢殿庭前三人懸御目、〈三拜申了〉庭鋪席、

〔實隆公記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1378 永正六年四月廿八日、阿野相公來臨、琉球國書状之禮等被談之、 廿九日、阿野相公來臨、琉球國書状事大略爲疏、又將軍御書爲假名、其故者、最初通事女房也、仍任其例此云々、

〔島津家覺書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1378 慶長十五年五月十六日、家久中山王を率て、鹿兒島を發し、八月六日に駿府に參著す、道中之御馳走朝鮮人來朝と同じかるべき旨、宿々に兼而爲仰付之由にて、殊之外結構に御座候、同八日、家久中山王を召列登城す、尚寧、緞子百端、羅紗十二尋、太平布貳百疋、蕉布百卷、白銀壹萬兩、御太刀一腰獻上す、家久も御太刀馬代其外品々獻上仕候處に、御代初に、早速異國を從へ、其王を率ひて來朝せしむる事、家久無比類働き之由上意にて御感を蒙り候、同十八日に御饗應被下、御酒宴之上、常陸介殿御鶴殿座を立て舞ひ給ひ、貞宗之御腰物大小、家久に被下、同十九日に御暇被下、翌二十日、駿府を立て、廿五日に江戸に致參著候、廿六日に上使を被下候、又廿七日に上使を以、米千俵致拜領候、同廿八日に家久、尚寧に召列登城いたし候、尚寧緞子百卷、虎皮十枚、太平布二百疋、蕉布百卷、白銀一萬兩、長光之御太刀致獻上之候、若君様に、御太刀一腰、緞子五拾卷、太平布百疋、蕉布五拾卷差上候、家久も御太刀馬代其外品々獻上いたし、九月三日に登城いたし御饗應有、同七日に於御數寄屋に、御手自御茶を被下、同十二日、又登城仕候、同拾六日致登城、御饗應之上、加

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1379 賀貞宗之御腰物并御馬致拜領候、且又櫻田之御屋敷を被下、直に御暇を給る、同廿日に江戸を發し候、兼て被仰渡候により、中山王は東海道を罷上り、家久は木曾路を通り下國仕候、其年上意にて中山王に歸國いたさせ申候、

〔琉球入貢紀略〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1379 慶長以後入貢 寛永十一年閏七月九日、中山王尚豐、賀慶使佐敷王子、恩謝使金武王子等をして方物を貢す、〈元寛日記〉この年、將軍家御上洛ありて、京都にましますをもて、二條の御城へ登城す、このゆゑに二使江戸に來らず、 正保元年六月廿五日、中山王尚賢、賀慶使金武按司、恩謝使國頭按司等をして方物を貢す、七月三日、下野國日光山の御宮を拜す、〈輪池掌録〉 慶安二年九月、中山王尚質、恩謝使具志川按司等をして方物を貢す、〈琉球事略〉また日光山の御宮を拜す、 承應二年九月二十日、中山王尚質、賀慶使國頭按司等をして方物を貢す〈羅山文集、和漢合運、近世武家編年略、〉また日光山の御宮を拜す、 寛文十一年七月廿八日、中山王尚貞、恩謝使金武王子等をして方物を貢す、〈萬天日記〉また日光山の御宮を拜す、〈琉球事略、歴代備考、〉 天和二年四月十一日、中山王尚貞、賀慶使名護按司、恩納親方等をして方物を貢す、〈萬天日記、甘露叢、〉 寶永七年十一月十八日、中山王尚益、賀慶使美里王子富盛親方、恩謝使豐見城王子與座親方等をして方物を貢す、〈琉球聘使紀事〉また東叡山の御宮を拜す、中山使の日光山に到らずして、東叡山に來ること、この時を始とす、 正徳四年十二月二日、中山王尚敬、賀慶使與那城王子、恩謝使金武王子等をして方物を貢す、〈文露叢〉 享保三年十一月十三日、中山王尚敬、賀慶使越來王子西平親方等をして方物を貢す、〈享保日記〉 寛延元年十二月十五日、中山王尚敬、賀慶使具志川王子與那原親方等をして方物を貢す、〈歴史要略〉 寶暦二年十二月十五日、中山王尚穆、恩謝使今歸仁王子等をして方物を貢す、〈歴史要略〉 明和元年十一月、中山王尚穆、賀慶使讀谷山王子等をして方物を貢す、〈三國通覽、速水私記、〉 寛政二年十二月二日、中山王尚穆、賀慶使宜野灣王子等をして方物を貢す、〈琲球談〉 寛政八年十二月

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1380 六日、中山王尚成、恩謝使大宜見王子安村親方等をして方物を貢ず、〈輪池掌録〉 文化三年十一月廿三日、中山王尚灝、恩謝使讀谷山王子小祿親方等をして方物を貢す、

都城/間切

〔南島志〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1380 沖繩島(○○○)即中山國也、其地南北長、東西狹、而周廻凡七十四里、〈是據此間里數而言、凡六尺爲間、六十間爲町、三十六町爲里、後皆傚此、〉國頭居北爲首、島尻(シマシリ)居南爲尾、王府在西南首里、蓋古翠麗山地、今作首里、方音之轉也、〈翠麗山見星槎勝覽〉城方一里、東西距海各二里許、至北岸二十九里、去其南岸五里、凡諸島地山谿崎嶇、罕寛曠之野、其人濱山海而居、各自有分界、謂之間切、間切者猶郡縣也、王府領間切二十七、曰國頭、曰名護、曰羽地、曰今歸仁、〈舊作伊麻奇時利〉曰金武、〈舊作鬼具足〉曰越來、〈舊作五欲〉曰讀谷山、曰具志河、曰勝連、〈舊作賀通連〉曰北谷、曰中城、〈舊作中具足〉曰西原、曰浦添、〈舊作浦傍已上在都城東北〉曰眞和志、曰豐見城、曰兼城、曰喜屋武、曰摩文仁、曰眞賀比、〈已上在都城西〉曰南風原、曰島添大里、曰佐敷、曰知念、曰玉城、〈舊作玉一具足〉曰具志頭、曰東風平、曰島尻大里、〈舊作島尻、已上在都城南、〉海港二所、其在東北運天湊、湊者水上人所會、而此間海舶所泊也、〈運天湊、舊作運見泊、在今歸仁間切、湊者此間古言曰水門也、港深一里二十七町、濶二町大船五六十隻、可以栖泊、去此東北行至與論島二十里、〉在西南那覇港、去都城里餘、此間及海外諸州船所輻湊也、〈那覇港、舊作那覇津、港深二十二町、濶一町二十間、堪大船三十隻、去長崎三百里、去朝鮮四百里、去塔加沙古東南海角四百八十里、云塔加沙古、即今台灣也、〉港口四邑、居民蕃盛、置那覇港官四員分治焉迎恩亭、天使館、亦在此、迎接中國使人之所也、

村數/石高

〔恩榮録〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1380 慶長十四年 加十二萬三千七百石〈七月七日、合七十二万九千五百石〉 琉球國十五島 島津陸奧守家久

〔南聘紀考〕

〈人〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1380 是歳、〈◯十四年〉公〈◯家久〉又遣上井次郞左衞尉里兼、及阿多某等琉球、莅正經界、里兼等既至、與本田親政等議乃丈量沖繩島、 十五年三月、里兼所正丈完籍成、凡七册、謂之御撿地帳、里兼自加花押、所謂琉球先竿云此也、按沖繩島、平家所載十二島之一、而今曰本琉球者此也、周廻佰拾里肆合參勺伍撮自國頭縣奧崎、至喜屋武縣具志川崎、長參拾肆里漆合一勺玖撮、自讀谷山縣美崎、至勝連縣平敷屋、闊伍里漆合玖勺貳撮、自

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1381 恩縣仲泊村、至美里縣石川濱、闊僅漆合肆勺壹撮、分爲三山、而中山俗曰中頭方、山北曰國頭方、山南曰國尻方、其國頭有縣九村百、中頭有縣十一、村百六十三、國尻有縣十五村百五十六、總計三十五縣四百五十二村云、里兼所丈量、今雖其詳、應此一島云、

〔琉球國郷帳〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1381 琉球國〈◯中略〉 總合高拾貳万三千七百拾壹石八斗壹升三合四勺八才 村數百七拾六 内六万八千貳百六拾四石五斗貳升七合  田方 五万三千百貳石壹斗五升五合三勺八才 畠方 貳千三百四拾五石壹斗三升壹合壹勺 桑役 寛文八年申十月 日

〔郡名一覽〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1381 琉球國 拾五島 七拾壹ケ村 高拾貳万三千七百拾壹石八斗壹升三合四勺八才 内 宮古(ミヤコ)島 六ケ村 高壹万貳千四百五拾八石七斗九升貳合四勺貳才 八重(ヤエ)山島 拾壹ケ村 高六千六百三拾七石三斗貳升壹合六才 沖縄島 貳拾七ケ村 高六万貳千百九拾九石 計羅摩(ケラマ)島 高貳百三石 戸無島 高四拾五石壹斗 久米島 貳ケ村 高三千六百七拾七石七斗 粟島高七百貳拾七石四斗 伊惠島 高三千六百四拾三石 伊是那(イセナ)島 高七百五拾石貳斗 惠平屋(ヱヘヤ)島 高五百四拾壹石六斗 鬼界(キカイ)島 五ケ村 高六千九百三拾貳石四斗 大(オホ)島 七ケ村 高壹万四百五拾五石五斗 徳之(トクノ)島 三ケ村 高壹万九石七斗 永良部(ヱラブ)島 三ケ村 高四千百五拾八石五斗 與論島 高千貳百七拾貳石六斗 以上

〔白石子筆語〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1382 一琉球國之地形、皆島に御座候、常に舟行を以あなたこなた往來仕由御座候、狹長ニ候而、漸横幅三里計之所も有之由御座候、島津家〈江〉附屬仕候刻、知行高拾貳萬石(○○○○○○○)之軍役ニ御座候、但此知行之多少、其圖世間〈江〉慥ニ露顯不仕候、尤小國ニ御座候、〈◯中略〉 十一月廿一日 小瀬復庵

物産

〔南島志〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1382 物産 大明會典云、琉球貢物、馬、刀、金銀酒海、金銀粉匣、瑪瑙、象牙、螺殼、海巴、櫂子扇、泥金扇、生紅、銅錫生熟、夏布、牛皮、降香、木香、連香、丁香、檀香、黄熟香、蘇木、烏木、胡椒、琉黄、磨刀石、若其馬、及螺殼、海巴、夏布、牛皮、鳥木、琉黄、磨刀石、則其國所産而已、其餘則所此間及諸國交易也、穀則稻、秫、稷、麥、菽、蔬則瓜、茄、薑、蒜、葱、韮之屬、皆有焉、亦有蕃薯、可以代穀而食、此間俗曰琉球薯即此、海菜可啖亦多、果則龍茘、蕉子、甘蔗、石榴、橘、柿、但無梅杏桃季之類、近時有梅、移此間者、唯著花而不子、草則山丹、佛笑、風蘭、月桔、名護菊、栗菊、盛花澤、藤等品不少、近藝烟草、葉細而長、木則赤木、其性堅緻、紫紅色而有白理、蓋櫚木之類、本朝式所謂、南島所出赤木即此、〈俗曰加之木〉黒木、即會典所謂烏木也、蘇鐵、即琉球録所謂鳳尾蕉、其野生則不栽在園庭、楡、〈俗曰加津末留〉木犀、〈俗曰幾伊八〉何檀福木、〈曰底巳、曰也良木、曰末禰、並皆其俗所稱未詳、〉隋書所、謂鬪樓樹、使琉球録以謂土産、無其樹、即今國人亦謂詳、〈隋書曰、鬪樓樹加橘而葉密、條纖如髮然下垂、又云、纖鬪樓皮以爲衣、〉禽鳥則綾鳩、黒鶉、鶉亦有異色者、〈俗名三乃宇津良、蓋謂其毛文有三色也、〉蝙蝠産于八重山者、其形極大、〈俗名八重山蝙蝠〉其餘有烏鵜、麻雀、野雉、野鳧之屬、但無鶴及鶬鷄、而鴻雁不來、秋月之候、鷹隼及小雀自南來者多、畜獸則烏牛、即水牛、犬豕麋鹿之屬、皆無有者、而無虎豹犀象、亦産異色貓、蟲豸則蛇蝎之屬、最多毒蛇、凡七種蝎、亦能螫人、其有于壁間聲噪如雀者、春夏之交有赤卒自南來、亦多鱗介、則海出白魚、亦名海馬、馬首魚身、皮厚而青、其肉如鹿、人常啖之、馬鮫龍蝦之類、亦皆有之、棘鬣其色不紅、而味亦不佳、鯨魚毎出沒洲嶼之間、而莫敢捕者、蛟龍時自海中起、而能致風雨、俗謂之風待也、螺蛤之屬多奇品、貝子即會典所、謂海巴螺殼、大者可以代釜甑

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1383 云、

〔華夷通商考〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1383 琉球 土産 木綿 芭蕉布 黒砂糖 アハモリ酒 藥種 右之外色々有之トイヘドモ、皆福州ヨリ來ル物也、

〔中山聘使略〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1383 雜事 其産物は、五穀甘蔗を始として、異種極て多しといへども、僅に此小記の悉す所にあらず、依て今略、皇國及西清へ獻貢の方物を擧ぐ、 金銀粉匣、沈金漆器、螺鈿漆器、文房具、〈玉石金銀〉縐紗、〈紅白〉苧布、〈精粗多品〉芭蕉布、〈生熟綦多品〉土綿、線香、〈多品〉長髮、瓷瓶、扇、甲盔、腰刀、袞刀、鎗、畫屏、鞍具、鬱金、硫黄、白錫、紅銅、励石、馬、泡盛、

〔琉球國聘使記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1383 寶永七年庚寅十一月、薩侯源吉貴率琉球國中山王聘使入都、〈◯中略〉上獻禮物 太刀一副 駿馬一匹 壽帶香三十套 香餅二奩 龍涎香二奩 畦芭蕉布五十端 島芭蕉布五十端 淡(ウス)色芭蕉布五十端 縐紗五十卷 太平布百匹 久米島布百匹 青貝大卓二座 堆飾硯屏一對 羅紗二十匹 青貝飯籠一對 泡盛酒十壺

〔中山傳信録〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1383 物産〈◯中略〉 穀則六穀咸備、〈◯中略〉異産有番薯、在處皆有之、犂種沙土中、蔓生蔽野、人以爲糧、功並粒食、家種芭蕉數十本、縷絲織爲蕉布、男女冬夏皆衣之、利匹蠶桑、〈◯中略〉 鐵樹即鳳尾蕉、一名海椶櫚、身蕉葉勁挺對出、䙰褷如鳳尾映一レ日、中心一線、虚明無影、四時不凋、處々植之、〈◯中略〉 山丹〈比中國特大、有樹長丈餘者、紅花四出、數朶攅生如火、有千葉者、重臺甚艷、五雅統注云、山丹、扶桑同出日本、始入中國、◯中略〉 名護蘭、葉短而厚、與桂葉同、大僅如指、三四月開花、與蘭無異、一箭八九朶攅開、香越勝、蘭出名護嶽

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1384 巖石間、不水土、或寄樹椏上、或以棕皮之、懸之又有風蘭、葉比蘭較長、香如山奈茴香、蔑竹爲盆懸挂風前、極易蕃衍、俗皆尚蘭、號爲孔子花、 栗蘭、一名芷蘭、葉如鳳尾、花如珍珠、蘭又有松蘭、竹蘭、棒蘭、〈状如珊瑚樹、緑色無葉、花從椏間出、似蘭較小、◯中略〉 佳蘇魚、削黒饅魚肉、乾之爲腊、長五六寸梭形、出久高者良、食法以温水洗一過、包蕉葉中、入火略煨、再洗淨、以利刃之、三四切皆勿斷、第五六七始斷、毎一片形如蘭花、漬以清醤、更可口、

風俗

〔國朝舊章録〕

〈十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1384 琉球國之事略 東山殿の頃より、彼國には我國の假名字を用ひしと見へ、又其國の人共、我國の倭歌を能するもの少からず、 琉球人の和歌いくらも見へたり、能よめる者有、 山川等の名も人の名も、皆々我國の詞なるも多く、殊に我國の神々を祭れる故蹟、いくらも世に聞えたり、されば彼國の始祖、我國の人たりし事は一定也、但爲朝の後と申は如何有べき、すべて彼國の事共、詳ならぬ事ども多し、可々翁私曰、琉球は其人品柔和にして、名髮に油を塗、容貌我朝の人よりも麗く、最弱國の風俗也、伎藝を嗜む國にて、中にも棊局の術を善くす、前々我國〈江〉來聘の度毎に、彼國の棋手に長ずるもの、其使に伴來て、我國の棋家に便りて、江都の殿中に於て相對して手譚す、其勝劣を試たる上にて、我國の妙手より或は先んを著し、又は二子を著するの許状を授く、〈所謂碁に先ん二つ置の事也〉夫棋局の遊は、其先中華に始りて、伎藝に於る最久し、然るに中華には此術衰て、今万國の中に我朝ほど是に精きは無く、琉球次之、其佗に有る事を不聞、是故に琉球より中華へ聘問の折柄は、究て中華の國手迎えて琉球の許可を得るとかや、是にて此術の我國より遼に劣たる事を想ふべし、其外琉球の事を記せし、定西物語と云小册の我櫃中に在しを、粤に書加んと捜之共紛失せり、

〔中山聘使略〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1384 和歌 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1385 國人和歌をよくするもの往々あり、是皇國淳化遠裔の島嶼に屆るを知るべし、因てしるす、 元祿中、清の北京にまいりて、國にかへりなんとせし時よみ侍る、 池城親方 たれも見よ今ぞまことのからにしききたのみやこをたちいづる袖 忍戀 眞壁親方賢寛 こヽろのみかよはぬ時はなけれどもよそ目にかヽるほどぞくるしき〈◯下略〉

〔華夷通商考〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1385 琉球 人物朝鮮ニ似テ、詞中華ニ不通、薩摩ノ國ヨリ諸事アヅカリ聞ク、此國ノ船漂流ノ時ハ、其所ヨリ長崎ヘ送屆テ、長崎ヨリ薩摩ヘ渡シテ歸國ス、

〔白石子筆話〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1385 琉球國之地形皆島に御座候、〈◯中略〉人之家居日本と同事に御座候、王城之様子は、明朝の人琉球〈江〉使に參候人の書に記置候通、殿閣は三階作に御座候而、上の階は神を祭候所、中の階は王者之居所、下の階は臣庶之居所に候而、中華より封册を請候時は、假に高樓を造り、使者之坐を設申候由御座候、但是も表向規式迄の時ばかりに御座候、常住は日本之家作同事に住居之由御座候、 十一月廿一日 小瀬復庵

〔西遊雜記〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1385 琉球館を一見せしに、門番ありて内に入事を禁ぜり、凡百人ばかりは鹿兒島に渡り居て、琉球の産物を賣買して、又は交易する事にて、何も日本の言葉を七八分もつかふと云り、田舍よりも京へ登りて諸藝を習ふ様に、琉球人は鹿兒島に渡りて學文をし、諸藝を習ふ、和歌もよみ、手跡も見事成琉球人あり、天窗は有髮にて、小童の髮結ひしやふに、何れも丸わげにして、筓を差て居る也、衣も日本に言ふ居士衣の如し、規式祭葬の節は、色々の冠服も有べし、右は平生の形り也、五雜俎に琉球は醇也と記せしはむべ也、

〔中山傳信録〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1386 風俗 正月十六日、男婦倶拜墓、又有板舞戯、〈◯中略〉 三月三日上巳、家作艾糕相餉遺、官民皆海濱禊飮、又拜節相往來、〈◯中略〉 五月五日、競渡龍舟三、〈泊一、那覇一、久米一、〉一日至五日、角黍蒲酒同中國、亦拜節、〈◯中略〉 七月十五日、盆祭祀先預於十三日夜、家々列火炬二於大門外、以迎祖神、十五日盆後送神、 八月家々拜月〈◯中略〉 白露爲八月節先後三日、男女皆閉戸不事、名守天孫、此數日内、如有角口等諸事故、必犯蛇傷、國中蛇九月出、傷人立斃、 同日蒸糯米赤小豆、爲飯相餉、〈◯中略〉 毎月朔望、家々婦女、取瓶罌砲臺、汲新潮水、歸獻竈神、或獻天妃前石神、〈◯中略〉 凡許愿、皆以石爲神、凡神嶽叢祠之所、皆有巨石數處離立、設香爐炷香燭於前、燒酒設牲菓愿、皆就石獻供、不神像也、 通國平民死皆火葬、官宦有力之家、先用生葬、踰時舁出、仍用火葬、〈前使録云、以中元前後日、浴屍于溪水、三四五年後、以水入穴、潑屍去腐肉骨入甕、藏石坎中、歳時祭掃啓視之、〉 棺製、圓如木龕、高三尺許、温水洗膝、蓋屈足趺殮、〈◯中略〉 國中惟三種人、皆剃髮如僧、一爲醫官、名曰五官正、一爲王宮執茶役、名曰宗叟、又名御茶湯六人、又有灌園六人、皆全剃髮、戴黒色六稜幔頂寛簷帽、名曰片帽、衣多著短掛一領、比大衣略短二三尺許、黒色、二種人皆趨役無時、櫛髮恐稽時事、故皆使徑省云、〈◯中略〉 字母 琉球字母四十有七、名伊魯花、自舜天爲王時始制、或云即日本字母、或云中國人就省筆易曉者教之、爲切音色記、本非字也、古今字繁而音簡、今中國切音字母舊有三十六、後漸簡爲二十八、自喉齶齒唇張翕輕重疾徐清濁之間、隨擧一韻、皆有二十八母、天下古今有字無字之音、包括盡矣、今實略彷此意、有一字可二三字、有二三字可一字、或借以反切、或取以連書、如春色二字、琉人呼春爲花魯二音、則合書ハロ二字、即爲春字也、色爲伊魯二音、則合書イロ二字、即爲色字也、若

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1387音無字、則合書二字、反切行之、如村名泊與舟之泊並讀作土馬伊、則一字三音矣、村名喜屋武、讀作腔字、則又三字一音矣、國語多類此、國人語言、亦多以五六字讀作一二字者甚多得中國書、多用鈎挑旁記、逐句倒讀、實字居上、虚字倒下逆讀、語言亦然、本國文移中、亦參用中國一二字、上下皆國字也、四十七字之末有一字、作二點音媽、此另是一字、以聯屬諸音記者、共四十八字云、 元陶宗儀云、琉球國職貢中華上表、用木爲簡、高八寸許、厚三分、濶五分、飾以髹、釦以錫、貫以革、而横行刻字於其上、其字體科斗書、又云日本國中自有國字、字母四十有七、能通識之、便可其音義、其聯輳成字處、髴髣蒙古字法、以彼中字體、寫中國詩文、雖讀、而筆勢縱横、龍蛇飛動、儼有顚素之遺、今琉球國表疏文、皆用中國書、陶所云横行刻字科斗書、或其未中國以前字體如此、今不考、但今琉球國字母、亦四十有七、其以國書中國詩文、筆勢果與顚素異、蓋其國僧皆游學日本、歸教其本國子弟書、汪録所云、皆草書無隷字、今見果然、其爲日本國書疑也


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