犬追物は、いぬおふものと雲ふ、犬追物射の略称ならん、蓋し追物射は、猪鹿の類お追ひて、之お射ることの総称な夕、今は犬お射るに由りて、犬追物と雲ふなるべし、馬上蟇目の矢お用い、犬お追ひて射るなり、其馬場は弓杖七十杖四方にして小縄あり、大縄あり、倶に摎らして輪状お成す、小縄は、馬場の正中に在り、径弓杖一杖なり、大縄は、其外に在り、長さ二十一尋なり、単に縄と雲ふは大縄なり、其周囲に叉砂お敷く、是お鑪際と雲ふ、射手鐃際に馬お乗り入れ、縄に向ひて矢お注す、時に犬放の者、小絶の内に犬お牽き入れ、検見の報お待ちて犬お放つ、而して之お射るに、犬の小縄の内より出で、、将に縄お越えんとして、未だ越え訖らざる際に於てするお、正式に合ふものとす、然れども其矢所には、賞すべきと否らざるとあり、矢所とは、犬お射中したる所お雲ふ、矢所には、弓手、押交、馬手、馬手切等の数称あり、賞すべき矢所なければ、更に犬お鑓際の外に追ひて之お射るなり、是お外の犬と雲ふ、抑犬追物は、騎射中に於て、最も能くし難きものにて、白磨犬追物お以て、特に其式の備はりぶ、其法の厳なるものとす、今其事に預れる者お学げんに、射手お始として、検見、喚次、幣振、日記付、鬮振、犬放、河原者等あり、射手は分ちて三手と為し、上手、中手、下手と雲ふ、検見は、射手の射様の優劣お定めて取捨お、決するものなれば、犬追物に於ては、此職お以て最も重しとす、喚次ぶ検見の告お得て、其名お唱へ、之お日記付に報ずるものなり、幣振は、喚次の声に従ひ、幣お振りて日記付に報ずるものなり、幣お或は再拝と雲ふ、日記付は、射手の姓名、及び射中の数お録す、射中の数、是お矢数と雲ふ、鬮振は、鬮お振おて射手に授け、其次序お定むるなり、河原者は、二百人ありて、各犬お牽き、及び雑事に役せらる、又犬放一人あ夕、凡そ犬の数は百五十匹な、、一度は十匹にして、犬追物は十五度なり、以上は白磨に依おて、梗檗お学げたるなれど、通常の犬追物も、大体は之に異ならず、而して通常の犬追物には、鬮に代ふるに射手の矢お以てす、之お矢代と雲ふ、
犬追物の史に見えたるは、後堀河天皇の貞応元年お以て始とす、爾後盛んに行はれしが、足利氏の末、漸く衰替して其法お失ひしお、徳川氏の時、島津氏之お行ひてより復世に行はる、牛追物は、馬に騎りて牛お射るな夕、其法詳ならず、而して犬追物は、牛追物に起因せりと雲ふ、
犬追物の史に見えたるは、後堀河天皇の貞応元年お以て始とす、爾後盛んに行はれしが、足利氏の末、漸く衰替して其法お失ひしお、徳川氏の時、島津氏之お行ひてより復世に行はる、牛追物は、馬に騎りて牛お射るな夕、其法詳ならず、而して犬追物は、牛追物に起因せりと雲ふ、