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承元御鞠記
承元二年四月十三日壬子、天晴、時属清和、世楽静謐、太上天皇〈○後鳥羽〉機務の余閑に、前大相国〈○藤原頼実〉郁芳里第に臨幸し給ひて、鞠蹴の宴あり、蓋是上皇神聡廩天、衆芸失人たまひて、蹴鞠さらに妙おあらそふものなし、是によりて去七日、当世究功の人拝感の至にたへず、我道おしてその長老と稲し奉べき旨、勒夫以聞、より丁今日此芸おたしなみ、其名お顕すともがら、悉く恩喚ありて、ことに賞賜おくはふるもの也、かみ上皇おはじめたてまつり、えも諸人に及ぶまで、貴賎お不論、おのー八人おもて上中下の三品おわかつ、自余めしにあつかるもの又多し、〈○中略〉午刻に、上皇臨幸〈御布衣、八葉御車、〉侍臣北面の輩少々供奉、御車お西の小寝殿の南おもての戸によす、あひつぎて修明門院〈○後鳥羽妃藤原重子〉御幸、御車同じき所によす暫有て上皇出御、次相国〈烏帽子直衣〉公卿の座につく、〈○中略〉著座の公卿、かねて人数お定らるといへども、期に臨て或はつかず、或は推参す、此外前皇后宮大夫実教卿、左兵衛督教長卿、別当保家卿、高三位経仲卿、阿波三位親兼卿、太宰大弐親実卿、右兵衛督隆清卿、刑部卿顕兼卿等此座につかず、東廊の辺にある歟、弐左中将通方朝臣、御銚子おもちて参す、相国公卿の座おたちて御所にすゝみよりてこれお供す、退帰りて寝殿の南のすのこに候す、通方朝臣銚子お返給のち、有右丸、つぎ銚子おもちて参る、忠信卿巳下別盞おもち、一献お勧、中下の座勧盃の儀なし、次装束おとりて退去、次復座、〈○中略〉此間上中下の輩、皆悉く恩賜の装束お著して、まりの庭にあひのぞむ、左馬権頭忠綱まりお持てすゝみ出て、木の下におく、次にあげ鞠のことあり、まつ下八人あげ鞠家綱、〈○中略〉次に又忠綱上料の御鞠熏お持参す、宗長朝臣是おあぐ、二足の後、御所に進上、〈○中略〉その数百に満時、上皇まちお御袖にうけましの主てべ忠信卿にたまふ、彼卿忠綱おめしてこれお給、次に相国仰おうけ給て、忠綱に仰て銀の勗八枚お召出して、上七人にわ、かちたまふ、御分一枚おもて譬王九おめして是おたまふ、道誓一身の抜群お見て、数行の感涙おのこふ、犢おねぶるおもひ、人もてかなりとす、こ、に夏の日漸えづみて、旅陽かへしがたし、遊楽きはまりなくして、なまじいに還幸おうながす、〈○中略〉十四日、〈○中略〉晩頭に御方違のために、かさねて郁芳里第に臨幸、〈○中略〉南庭にして蹴鞠の事あり、見るものみないはく、かへりてきのふの興、にすぐれたり、十五日甲寅天晴、今朝上中のともがらおめし出しで、又蹴鞠の興あり、〈○中略〉抑今度の儀、まことに希代の勝事、千載の一遇なるものか、