p.0097 射術ニハ、步射、騎射ノ二種アタ、步射ハカチユミトモ、カチダチトモ云ヒ、騎射ハ夕マユミト云フ、射禮、賭弓、弓場始等ニハ、步射ヲ用イ、流鐫馬、犬追物、牛追物、笠懸、小笠懸等ニハ、騎射ヲ用イタジ、抑我邦ハ、上古以來、尚武ノ風、甚ダ盛ニシテ、學劍、弄槍ノ籀ヲ始メ、武技ノ事タタ何レモ練習セザルハ無シト雖モ就中射術ヲ重ンゼシコトハ、武士ヲ弓取ト稱シ、武遘ヲ弓矢ノ道ト稱セシエテ明ナリ、其淵源戸遠ク太古ニ在リテ、素戔鳴尊ノ父母ノ祠ニ逐ハレテ、高天原エ昇リマセ声時、天照大紳ノ、背ニ千娩箭ノ靫ヲ負ヒ、髯こ稜威ノ高鞆ヲ著ケテ詰問シ給辷シハ射術ノ創見ト爲スべシ、其後天若彦ガ、眞麑矢ヲ以テ雉ヲ射、火々出見尊ノ、幸弓ヲ以テ獸ヲ射給ヒシヨジ以下、凡ジ征戰ニ狩獵ニ、射術ニ是レ依レルヲ以テ、朝廷文於テモ、年始ス勘射蹟、賭弓ヲ行ヒ、初各ニハ、射場始ヲ行乞、其他時々薯ヲ試ミテ、之ヲ獎勵セラレ、武寨ニ於タモ、鎌倉幕府以來、毎歲弓始ノ式アリ、其他流鏑馬等ノ技ヲ演ジタ、射術ヲ練習壱シメシヲ以ヲ、此術釜巧妙ニ違ミ、或ハ重圍ニ在タタ、連發以テ賊虜ヲ破リシ源義家ノ如キアリ、或ハ一發ヲ以テ戰艦タ覆シ、源爲朝ノ如キアヲ、其他那須宗古同ノ如キ、本間重氏ノ如キ、一場ノ事實ヲ以テ武名ヲ後世ニ貽セ声モノ、世々其人讌乏シカラズ、此ノ如ク技術ノ漸ク進步ス戸ニ隨ビタ、其蘊奧ヲ究ムルモノモ亦多シ、就中新羅三郎義光ハ、父兄ニ親炙シ、深ク斯違夕
硏究シテ、一流ノ祺ト仰ガレ、玄孫小笠原長淸ニ至リテ、新ニ射法ヲ定メ、七世ノ孫貞宗ニ至リテ、更ニ之ヲ增補シ、子孫相繼ギ、弓馬ノ籀ヲ以テ幕府ノ師範トナワ、後ニ又臼置、吉田、逸見、武田等ノ諸流汳ヲ出セリ、德川幕府エ於テモ、大篇射術ノ進步ヲ謀ジ尹武士ヲシタ弓馬ヲ練習セシメ、或ハ大的上覽ト稱シテ、將軍親ラ臨ミテ其藝ヲ觀ル、特ニ吉宗以來、大ニ心タ用イシカド、砲衞ノ傳來セシヨジ、射術ハ次第エ衰微シ、遂ニ幕府ノ武術中ヨソ、射衞ノ演習ヲ廢除スルニ至レリ、
近世邇矢ト稱シテ、京都ノ蓮華王院、卽チ三十三聞堂エテ、遠矢ヲ射テ、射術ヲ演習スル鸞ト起ジ、其矢數孜第ニ墸加シ、其最勝レタルモノヲ天下一ト稱シ、相互ニ競争セシガ、終ニ總數壹萬三千餘、通矢八千百三十三筋ニ至ルモノア戊、後江戸ニテモ、亦之ニ摸倣シ、淺草〈後深川ニ移轉ス〉 ニ三十三聞堂ヲ造サテ、通矢ヲ射声コき始レ要、サレヒド此ハ一種ノ戯射ニシテ、實戰ニハ盆ナシトイフ、
本篇ニハ、主トシテ步射ニ關スルモノヲ收載シタ穿、騎射、流鏑馬、犬追物笠懸等ノ如キハ、別ニ其篇アレバ宜シク參囓スベシ、
p.0098 射藝〈射音謝、又推鉄、訓由美以留、叉云、弓鬱發於身中於遠、故字郎從身矢是也、〉
p.0098 射藝
p.0098 射術
p.0098 射藝 躬術
p.0098 弓弩發於身而乎於違也、〈謂用弓修、蠻矢於身面中於遠也、詩軆鷭、以射爲歇數之數、〉从矢夙身、〈官意食夜切、古音在五部、〉 篆文躱、〈射者小篆、則療耆古文、氈亦上部之例也何不以射入寸部、而以敢博見也、爲其事蠶矢也、〉
p.0098 凡兵士各爲隊伍、〈○註略〉便弓馬者、〈謂弓者麥射也、馬者騎射也、〉爲騎兵隊、餘爲步兵隊、
p.0099 中君夫、天下第一武者也合戰、夜討、馳射、待射、照射步射騎射、八的、三々九手挾等上手也、
p.0099 ゆみいる 和名抄に射をよめり、大同の詔に、弓射つがはす事と見ゆ、
p.0099 步射 李大尉步射法云、夫步射、以目先領其特心射之、〈参射、和名加知由美、冷案特心者、的異名乎、〉
p.0099 步射〈カチユミ〉
p.0099 一步射己かきてがちだち己よみ、むゆみともよむ也、
p.0099 一步射と云は、騎射に對して云也、すべてかち立にて射る、大的、小的草鹿、圓物などの總名也、又奉射とは別也、
p.0099 天慶九年正月廿四日丙辰、内裏召諸衞步射已上、東宮帶刀隻頁賭射軣
p.0099 三月、櫻の木のもとにかちゆみいる、
心にもいるひの弓は山ならぬ花のあたりに的そこたふる
p.0099 殿上ののりゆみ、二月とありしをすぎて、三月はた御忌月なれば、くちをしと人人思ぶに、この院にか、るまとゐあるべしときゝつたへて、例のつざひたまふ、左右大將、さる御なからひにて參りたまへば、すけたちなど、いどみかはして、こゆみとのたまひしかど、かちゆみのすぐれたる止手ざもあ力ければ召野でゝ、射させたまふ、
p.0099 騎射漢書云、甘延壽、以良家子善騎射、楊氏漢語抄云、馬射、〈和名字末由美、今案、馬射、郎騎射也、〉
p.0099 馬射〈ウマユミ〉
p.0099 騎射〈迫ユミ、天武天皇九年、有此事、〉
p.0099 十五番右 騎射〈同〉 女房
射手人のあやめのかづらながきねにけぶの蜜ゆみを引やそへまじ
p.0099 一騎射と云は、步射に對じて云也、すべて馬上にて射る、流鏑馬、笠掛、小笠懸、犬追 物なざの總名雹、軻にても馬上にて射を云也、
p.0100 一三物といふは、流鏑馬、かさかけ、犬邁物、かけものゝ事なり、但近年は流鐇馬まれなる間、大笠攝かちだちをも云也、
一五物と云は、流鏑馮、笠懸、小笠懸、犬遑物、かちだちの事なり、
p.0100 一射芋方文字
押手 勝手 苅手 素彎 張 弛 中 外 十
p.0100 彎〈ユミヒタ〉 開 貫 挽〈已上同〉 張 揉〈ユミクム〉 搾〈同〉 抱〈ユミハリ〉弛〈エミハヅスユルブ〉 彈〈ユミノジルウツ〉
p.0100 控〈ヤハタ鵬矢抱弓弦也〉
p.0100 屬矢〈鬱弓、史記、〉 舍矢〈舍矢如破毛詩、〉 矯矢〈砥靭矯矢、史記、〉
p.0100 張〈弓〉 弛〈弓〉 外〈矢〉 發〈矢〉 作〈矢〉
p.0100 一弓を射る時、左の手をおし手芭いひ、右の手を苅手己云、古はかつて已云詞聞えず、ひき手竃云し也、夫木集卷二十に、柿本影供百首、後九條内大臣、あつさ弓ひきでの山のほざゝぎす雲を宿蓬やおしているらん、と云歌あち、上に引手ご云て、下に押手己よめり、
p.0100 射婆起本〈代髓部四郎五郎正之〉
本朝弓矢之有名也、久哉、紳代之古、進雄尊暴惡自負其雄健而昇天畤、大靈日〈○靈日當作日靈下同〉貴、察其有奪栖之心、負午箭五百箭之靫於背、著稜威之高鞆於臂、而振起弓彊以禦之、進雄尊、平伏謝無黑心也、其後大靈日貴、興高皇産靈尊相議、欲佐皇孫理瓊杵尊爲葦原中國主亮欝天稚彦ヂ不順責賜之以天鹿冤弓及天澀洞矢ジ天稚彦、有肩立之志籥久不復命、故試使無名雉窺之、天稚彦以面所鷏之弓矢射無名雉、其矢透胸而以蓮於天、兩大神詆之日是者昔日所鐸天稚彦之矢也、何爲染血哉、彼與國神 相戰而然乎、部取其矢証呪以投卞之、中天稚彦胸創死、世人畏友矢者此之謂也、旣而經津主神、武甕槌紳、擊卒葦原中國以反命、於是皇孫降臨時天忍日命、負天盤靫、持天櫨弓、天勿册矢、八目之鳴鍋以先行、則到處無不平夷也、彦火火出見曾、嗜弓矢有山幸、故多獲禽獸豈竟爲得禽獸而、已哉、弓矢是治國守家之器也與釣鈎以有海幸煮霄壤懸隔、宜哉火尊之繼大統也、神武天皇者、火尊之孫、而人王之始也、當其東征、忽有靈鴟、來集天皇之弓、得此靈驗、而後誅逆徒長髓彦、以治天下、綏靖帝、命良工、作弓矯矢、使鍛工磨、鏃、自是以後、世世無丕以弓矢爲要、所謂雖治丕忘亂之意也、神功皇后、持弓矢攻苹三韓、手自以茅立之於異國王門、而以萌大書巨石日、三韓之王考我朝之犬也且皇后以寄工、初造强弩其制勝於中斐後世傚之、諸國置弩師、以備不虞也、三韓歸服之後、皇后誕皇子、其腕上有肉如鞆、甚尚皇后假丈夫之形以負字鞆也、因號譽田天皇、譽田之倭訓、日褒武多、卽鞆之異名也、又號應神天皇卽八幡大神是也、後世尊崇之、以爲弓矢鎭護之靈神者、良有以也、然則弓矢者、出自神明不測之妙造扉二人之所工以可得作爲著也、奇哉奇哉、天皇之腕似鞆也、仁德帝時、高麗使价、貢鐵楯鐵的蒂覽之、命楯人宿禰射之、悉貫透之異國使者、大驚銷魂、戚本朝之勇威、而無不畏服焉、
p.0101 一弓の事 弓は先加地弓と號て、かち立を本と稽古するなり、其稽古の次第、大方の樣は、今常に射ごとく成べし、立てをしはだぬきて、袖を納て、矢をはげの以前に、左足の大指の爪崎を的にうつくしく向て立て、右足を其通に横に蹈て立ば、的にはそばざまに成なり、西向に的立たれば、我身北向に成樣に立て、左の腰の骨の上のあばら骨の下はつれの腰の骨のかざにあたる機にねぢすゑて、腰骨を落しすゑて、矢がまゑをゑて、後に左のをとがひ中程を胸の左のかつほ骨の中程に當て、左目頭にて的を見て、其まゝにて頭をも頸をも少もはたらかさずして、身持をも足蹈をもすくめて持て、後に鳥帽子のへちのほとりに打上べし、身持も頸持も、はたらかぬ樣にゆる〳〵と打上て、軈而引分るなり、右のかた崎すこし下かざに、拳の大指の根の當やう
p.0104 に、拳を外の方にねぢまはすやうにすれば、ひぢ尻は右のいかねの方に引まはさる、なり、如此拳をねづるやうにせざれば、肘尻の堅まらで、放の惡也、其後拳を的にをし當て、矢崎と的とに見合て、左の肘の皿骨の上の方に成やうにねぢ廻せば、うけがひなは、彌うつくしくあるなう、すぐがひなは、うけがひなに見ゆるなり、木丁がひなは、すぐがひなに見ゆるなり、其後左の二のうでご肩の間の一のきだめのふかくくぼむやうに、かひなを押下ば、矢崎と拳とは彌高く成間寵々押には矢は越るなり、押と心得て、矢崎拳を下には、矢はさがるなり、相構て一のきだめのふかくぼむ樣に押べし、肩崎のたかぎは見苦敷事なり、如此左右共にすれば、矢束もながく引れ、放もよくきるなり、放ツ時は、右拳の手内は、外に向樣にねぢ放、ひぢゑうよく〳〵かたまれば、かならずつよく放とせねざも一文字によく切、也、放は二樣なり、大放と云は、肩崎より三四寸遠也、小放は肩崎より二寸の内外に放なり、いづれも人により、好に寄べし、物をよく射當る人は、多分に放なり、大放は心地よく見ゆれ其、矢所違事有さ申なり、放て後すこし久持て、弓だをしをすべし、あまりにはやくすれば、うつやうに見えて惡也、始申つるやうに、身をも足をも、そばざまに的に向て立て、的は西にあらば、射手は北向に立やうに立なり、的に向て立ば、矢束もすこしひかれ、小當も達なり、弓立の惡人は、胸も腰も的に向間に、小當も定ず、矢束も引ざるゆへに、或は胸打、或はうでを打なり弓のクセ、みな身もちの惡故也、
一弓を握樣、弓の前竹の内かざに、くすし指蓬、たけ高指の末のきだめを當て、つよく握て打上ば、次第々々に手のうち、をのづからほざけて、終に握とゞめけるとき打上て引分なり、必弓だをしをせんとせね其、放時手の内くつろぎて、弦はよく返るなり、弓を取渡事は、目の通にてするなり、秋山新藏人と云し上手は、諸手放て後、弓を取渡し、ゑわ腰の通にて、弓の裏弭を右の方に振廻してぶ手を寄て、腰の通に冗弓を取渡候也、其外は昔よりみな同樣に、目前に耳弓を高取渡也、我々 は亡父〈○今川範國〉のまゝするな参、當摩源三入道と云し上手も、亡父の申ごとく敖しなり、御的には敷皮を敷なり、其も武田、小笠原、本間澁谷、皆替なり、君逵わざには、小笠原樣をぞまなぶべき、水干の紐を納る樣も替なり、紐を納畚驤は、本間やうが能なり、風吹などに小笠原は煩しきなり、風吹日、秋山がせしは、紐の末に小石を結付しなり、故實なり、大方如此ゑるし侍れ共、人に敢に、は、手つから敎ずしては、あやまちもあるべき歟、
右申つる、弓習事は、其人に相剖して、手を取て散ずしては不戸叶なう、步弓は亡父上手にて、更に物を射はつさゞりしは、身をばいつくをも喬立て、的に向て、ひと身をねぢすくめて、其身持を少もはたらかさずして引堅て、打上をも其身のはたらかぬ程に打上よと申なり、諸打上にかんはかち打上よなど、敎しをば嫌し也、
p.0105 一煉弓 或弓術の書に弓を煉三頁事を云へり、煉とは初學の時我力に勝セる轌をば不引、我が自歯に引るゝ程の相應の弓を引て、手前を射習ふ事を云也、我力に勝たる弓を引けば、我身弓を不引しで、弓に我身を引るゝ遇强き弓は、我は引かんとするに、弓强きゆへ齒をくひ虫ばう、胸より上に、ちきみ張くなり、腹より下、足ぶみまで浮立て腰弱く、左右の腕は屈て伸びず、息を上へせき上げ、胸中甚苦しく、腕振へて、我は引たもたんとする間に、弓の方より離んとする故、カおよばず、心にまかせず放すゆへ、矢所大に運ふ也弓の諸癖は强彎に引立られて、引手前亂れて調ざるに依て、樣々の癖出る也、初學の人は、强弓にては矢行きびしく、遠く飛ぶべしと思て强弓を好めども、强弓にては、我がカ、弓に不入して、只弓め力計にて離れ行くゆへ、矢勢弱く遠くとゞかず、中にて落るもの也、我力に相應して、自由に引かるゝ弓にて射れば、我力と弓のカと和合して、手前不亂、能調るゆへ、總身の力、弓に入りて、矢勢もきびしく遠くに至り、矢所も遠はず、近世三十三閲堂の通し矢を目當にして、弟子に散ゆ己師匠は、弟子に强弓を引かする事を 好む也、弓のカにて堂を通さんと思ふが故也、常石强弓を引か寸黶事を好む鋳興一生が間、手磁狂ひて調膓ず、射術戒就する事なし、又通矢は用に不立矢數を射墸したる名を取のみにて、無益なる業なり、見せ物の類也、
p.0106 一弓を取時、鰒にい急を入べし、
一弓をきり〳〵と引廻して、胸半分を越幡時、奧齒をくひて、兩の手のうちに力を入て、勝手へ付、うん吉茸學にきつ死放すべん是滅逮は嘸弓仁ての心得也、
洛弓射る時、三の心得有、言矢を射たゐ締、漏豐、泊を賄凶后さす、手のうちをもさげず、眞の心にて射べし、遠もぬけの物などをば、行の心にて射べし、諷たらくものを違、草の心にて射べきなり、
一弓あて物に向て、足の中ゆびをさしあてがひて見る樣に、梦文字に八文字に足をたつべし、
p.0106 一弓射る時、矢を弦にはげて失筈胸取樣、富世諸流、何れ嵩中ゆび人さしゆ、びを、大ゆびのかしら杠かけて、人さしゆび己大ゆびの間にてはずをはさむ也、されば大ゆびのさきに、革をあつ輻か赫て縫たる有、〈やはらがぼうし言云なり〉又法ん駕角を入て縫たるあり、〈かたぼうしと云、つのかけとも云、〉是等は遲代主だ己惚る也、古代のゆがけを見る嬉、大ゆびに、ぼうしをこしらへたるはなし、たゞ大指のはらに、小念革を外よ力あてたゐあ力又革をあてざる嚏あ獅、革をあてたるは、矢筈をつまみて射るが故也、ヌ高忠聞書に、賴朝大將の御時、富士の牧狩の時、久く狩をせらるゝによりて、大ゆびど、ぐすしゆびの革に、つるつよくあたる閥、やぶれたり、其時大指と、くすし指ばかりを、ことかは〈別の革といふ事也〉にて、つぎ始られたりと見たり、是を以て考るぶ、古は大指ご人さしゆびにて、矢はつをつまみて、くすしゆびを弦に懸て弓を引し也、さればこそ大ゆびとぐすしゆびの革に、つる强くあたるとはいひたれ、古き槍にも芙筈をつまみて引體にゑがきおり、今のこと迂、人さ屯ゆび 中ゆびを、大ゆびの頭にかけて引く體は、古畫には見えず、今世の如く、人さし指中指を、大指の頭にかけてひけば、矢筈もぢれて、はなるゝ故、矢行くるふ事あり、さればもちれざる樣に、はなす事を修續する故、はなれの習ひむつかしき也、古のことく、つまみはなせば、矢直にはなれ行ゆへ、矢行くるふ事なき理あり、後代今世の弓の師匠は、三十三間堂を通す事を目當にして指南する故、我が力量に勝たる强弓を引事を專こする、依之大指に、ぼうしと云事をこしらへ出して、それにて强弓を引んとするゆへ、人さしゆび中ゆびを、大指の頭にかけて引事をゑ出したる也、古は三十三間堂の通矢もなく、各力量相應の弓を用ひて、不相應の强弓を無理に引事はなかりし也されば矢筈を取るに、人さしゆびをかゞめ、大指を合せて矢筈をつまみ、くすし指を弦にかけて引きし也、今世の人は、如此しては引にくゝ思ふべけれざも、古代は如此、初學の時より引ならひたれば、引にくき事あるべからず、此引やうを再興すべき事也、〈强弓痴無理に引げば、弓に引たてられて、我身のがまひくつれて、矢勢よはく矢行くるふ也、弓な我物にしてひがざろ故、射方少も調事はなきなり、〉
p.0107 一射五善 論語馬融註日、射有五善焉、一日和、志體和、二日和容、有容儀、三日主皮、能中質四日和頌、合雅頚五日興武、與舞同、此方の射は、三善のみ歟、
p.0107 一船中にて、弓返しをばせぬ事也、はじめ一番いる時の儀なり、舟にてかへる己云事を斟酌の義也、
p.0107 一船中にて弓を射には、最初には弓を射返さぬ事也、返る己云事をいむ故なり、後には不苦、總じて弓を射返さぬあまたあり、射返さぬは矢つぎ早也、一弓返しと云詞はわうし、弓を射返して抔芭云べし、
p.0107 一船中の射法、一段射にくきものなり、法習有、敎あり、船中より陸の物を射るは、猶しも子細ありとぞ、能登守致經の佐藤繼信を射たるも、的前を射る樣にゑて射給へるにはあらず、 淨沈動靜、波に隨ひ風をうけ、弓手の押へ、馬手の引立、授輿稽古、つもらずんばあらじ、
p.0108 的いる之事
一前弓の蒔は、か牽つかの方に弓のうらはず一尺ばかりをきて持せて、爾手にてひぼを解て、右のひぼを右の手に取て、さて弓にごりそへて、先左のひぼを、刀のこじりよう引とをしまはして樮にはさむ也、右のひぼを左の手にてまきて、小袖と、すわうとの聞へをしいれて、かたの前おしこむなり、さて身つくろひ、左の足よりはじめて、三足あゆみよらで、担足を引そろへ、的を一目見て、又左よりふみ出し、よくふみ穗だめザ、、右の手にて弓をと参、かずつかのきはに立也、弓をば、蠻びみつにてこるべし、我か泥よむ少たかく、三つかな輪に立也、つるをぼ的の方へもむけず、又さきへもむけずして、すみかけて弓をたつべし携はだ膿ぎざまに、的を一目みて、おしはだ況ぎ、すわうの袖のおりめをとりて、刀の小虎を引まはして、前の腰鑓はさむ也、扨矢をさしはげて、弓をかまへて一昌見るなり、まづ定見殀三ツ是也、はやには、とむき、乙矢には、うちむきを射る也、矢をさしはげさまには、先へひねりむけて矢をはぐる也担射果て丶すわうの襁をはさみだるをはつして、よくくつろげて、先右のかたへ手を入て、扮ひぢじり左へおし入て、もざのごとくよく引なをして、左のあしよりひきて、扮右を引そろへて、よくゑもんをなをし、左よちふみいだし、三足あゆみ、本の座にかしこまるなり、
うしろ弓のたいはいの事
祕前弓のことく、何をもして、いはてゝは、右の足よら引そろへて、左をひきそゐへて、又右よりうしろへ、しさりて、かしこまるべし、又うしろ弓の足引事は、いはてゝ後引あし三足ばから也、
ひとり弓のたいはいの事
一的にむかひ、少めてをひらき、少すぢかひ樣に畏て、まへ弓のことく、ひもをおさめて、左よりふ み出し、何事もまへ弓のこ芭くして、射果て左の足より引、よくふみそろへ、又左よりふみ出し、扨右を蹈出し、其あしよりうしろむきに、もとの座敷に畏雹、大人の前にても是なり、外に鯊有べからずとなり、くじ的の鎔ほくうちならびたる中のいゲ、は、此ひとり弓の心なるべし、前後は二弓のたいはいなるべし、
p.0109 一弓持檬、にぎりより上、三寸ばかりあげて、うら弭を少さげて、萌を我身の通になる檬に持べし、矢をも羽の方を少あげて持、弓の本弭と矢の頒ご同高さに持て、數つかへよるべし、前弓は數塚に弓のうら弭一尺掴五寸懸る程に畏るべし、後弓は數塚の弓のうら弭のとゞく霍ざかざる程に畏て、紐を納むべし、畏る時、足をつま立べからず、前弓は左の足よりふみ始め、數塚の中へ三足にふみよりて、前足を蹈定て、右の足を蹈べし、數塚と三つかなわになる樣にたつべし、弓をも數塚の際に我足と三つかなわに立る也、肩の逓より少上を、大指と中指と人さし指ざ、三つにて取て、扨かたをぬぎて、袖をかたなの下へ、上の折灣を押かふなり、袖の下をかふ事はなし、水干の袖の上のはしをかふ也、袖瀲に紙にて調たる、こはせをつけて押かふびたゝれも素襖も、同ぐ上の折目の端を押かふ也、其後弓を取直して、矢を乳の通にて、兩方のこひぢを作りてつかふべし、定儀はなけれざも、外むきを兄矢にて射て能也、射はてゝ後、始のこ竃く弓を立て、肩を入て弓を取直して、衣紋を引つくろひて、前足を引て、後を一所へ蹈よせて、扮又左足を引也、三足にふみより、三足にゑさる、前後初つくばひたる所に畏べし、後は數塚の外に、如前三かなわになる樣に、數塚の際に弓を立べし、右の足より引始て、左足を一所へ蹈寄て、さて本の所に畏べし、二度目は後より射べき也、うしろも先左足よ蔘ふみ寄て、さて右をふみ寄て、左一所へふみ寄て、後左を的のかたへよせて蹈定むべし、公方機、出御の時、式の座には著べし、
p.0109 一人前にて、弓を射て見せん時は、射榛は、的射るご己く紐を納て、中弓のたいはゐに て可射、前弓のたいはゐも不苦、後弓のたいはゐにては射まじき也、弓は白木そばゑら木、的丸物の時の如し、矢はじんこうたるべし、
p.0110 一主人の的場にたゝせ給て、的射給どて、其相手に、某參己仰らるゝ事も有厄、左樣の時は、弓矢取副て、急に參ざまに紐をざきて納なざして、道にてゑたゝめて、急畏て御相手に成べし、此事年始に御所的の後、坊門殿、〈錦小路殿○星利直義〉毎年三度あそばし始給し、其相手に畠山大臓少輔、一色宮内大輔、愚身勤し聞、亡父〈○今川範國〉致られし也、此御相手に參しかば、我持たる大刀を邏しなり、
p.0110 一前おきの物射る矢の事、何矢もくるしからず、かりまたそやけんじりにず、射べし、いとるべきためにいるはびも袖をおさめてがたをぬぎていべきなり、
一前おきの物を、引目ゑめじんざうなざにている時は、かたをぬがで射べし、
一いとりの物には、矢所をきらはず窰いふなうずかひ馬手弓手きれにて射べき也、但このむ箭所には痴らず、同は手繩をつかひ、馬手にもあふて射べき事、可然候なり、〈○中略〉
一大事の物を、まことに射あてんさ思ふ時は、矢つかを少引殘して、まむ鑿に物を見べきなり、にあひもろめにてよくみんためにて候、秘すべきなり、
一弓逾しをば、大事の物いるにはせぬ也、そのゆへは、射はつさば、やがてこの矢をつがはんためなり、弓返しをしては、をそくつかはる、なり、
一ふせ鳥かけ鳥をいる時は、かぶらかりまたにて射べきなう、本儀なう、そやけんじりにているこざは、りんじの儀なち、くるしからず、
一ふせ鳥をいる時、馬にのりたる蒔は、よきほどにては、馬よりおるゝ事あるまじきなり馬の上にて射べきなち、ふせ鳥をいる矢所のこと、ふしたる鳥をまはして前後よりいるなり、前からは、 はしを射さけと云、後からは、尾を射さけと云なり、ふせ鳥にかぎりたる事、弓手にまはしてふせべし、そばがけなざのきはに鳥あらば、それも弓手にいるやうに、馬をおりかけくまはして、鳥をふせて、前からも後からも可射なり、そばよりよこ鳥に射まじき事なり、もし馬よりおりている事あらば、沓をばぬぐまじき也、但水田なざの所にては、ぬぐべきなり、主のともしたる時馬よりおりているは、沓をぬぎて射ベき也、
一ふせ鳥なざを、馬よりおりてかちにて射は、左ゆがけをとるべし、總而馬よりおりて物を射ば、左のゆがけをとるべきなり、但物によりて、をそくならば、其ま、射べきなり、
一かけ鳥を射るには、よこ鳥に、そばよりいるなり、馬にのりたらば、手綱をつかふて可射なり、鳥にむかふて矢をはなすまじきなり、むかひて鳥の立はしる事あらば、左手綱をつかひて、馬をばまはし可射、鳥に早く逢ふ也、
一ふせ鳥かけ鳥いる時は、馬上にても、、例式かちだちの時のことく、ひもをときて、弓を右へわたゑて、手綱にとりそへて、まつ弓での方のひもを、刀のこじりにかけて前へ芭りて、かちだちの時のごとくおさめて、さて又馬手のひもを、左の手にて卷て、例式のごとく、すあをと小袖との、あはひへをし入て、さて刀のこじりにかけて前へとりて、これもかちだちのごとく、おさめて射べし、かちだちにている時も、ひも襁をおさめて可射なり、いそぎて、ひも襤をおさめ度時は、ひもをほざきて、弓を右の手にとりそへて、鳥をふせくはだぬぎて、先弓手のひもを袖ともにひとつにごりて、例式袖をおさむるごとく、刀のこじうにかけて、前へとりておさめて、其後馬手のひもを例式のこごくおさめているなり、此おさめやうは、ゑきくにあらず、いそぐ時如此もする也、一ふせ鳥ごいふ事、鳥己鶉己二つならでは、ふせている己云ことあるまじきなり、能々可心得、〈○中略〉 一ふせ鳥可射時、めん鳥とおん鳥と、ニッならびてあることあ参其時には春夏は、め鳥を可射、秋冬は男鳥を可射なり、如此定まれざも、いつれの鳥にても立あがらば、先それを可射、
一かりまた、たばさむことは、かけ鳥ふせ鳥なざいる時に、かりまたけんじりなどを手ばさむ也、つがふ芒きは手をあふのけて、以齣手ばさみ花るまゝ、からまたのかたをつがふべし、又かりまたを、たゞ腰にさす時は、瀰のかたを腰にさす也、さて此矢をつがふ時は、手のうらを上へなして矢をどらて、其まゝつがひて鑼射なり、
一小烏など、はだぬがで射るも不苦、鶉までは、かたをぬがずいるも不苦、烏などにかたをぬがでいる事は有間敷事也、小鳥鶉なざにも、肩をぬぎて可射事本儀なり、又ひも龝をおさめずして、かたぬぐ事有、穗じき事也、小鳥鶉なざ、ぬがでいる時は、ひもを懷へをし入て可射也、〈○中略〉
一木鳥いる次第の事、鳥にむかひ馬をよせ、て、馬手の手綱をつ、かひて、弓手に見、な、、して、馬手へさがりて可射、總而木鳥をいる時は、小鳥にてもあれ、ひも袖おさめて、はだぬぎて可射也、はだぬがでは射まじきなり、
一水鳥をいる事、水にある鳥を其ま、射べきとも、又をひたて、かけ鳥に可射とも、射手のま、なり、それもひもをおさめて、はだぬぎて袖をおさめて、かぶらにても、かりまたにても可射なり、冊中にている時は、弓のもと船につかへて、弓引にくし、弓手の方のひざを、よく舟ばたに押あてて弓を引べし、又馬上にても、かちにても可射也、射檬にことなる儀有べからず、水へ入ところにて弓をひきて、出るところをいるといへり、故實也、
一弓をはる時は、うらはずのつるわをよくみて、すぐにかゝウたらば、其まゝをき、ゆがみたらばなをして、すみのはじらに、弓のうらはずをあて丶左のひざにあてゝ、右の手にて弦を取てくはへて、弓をひざに押あてゝをして、右の手にてつるをかけべし、さて右の手にて、にぎりの下をと りて、左の手を、そのまゝをきて、次第々々に弓を上へとりあげて、はりかほをみべし、わろくばそのまゝ弓を下にをしあてゝなをすべし、をしなをす時は、立ながらも、又ひざまづきてもなをすなり、北にうらはずをむけては、はるまじきなり、かげよりはりていだすべし、但前にて、はれと所望あるは、前にてはるべし、掌翫の人のゐたる方を後へなして、はる事あるまじきなり、但だとへ後へはなるごも、北へむけては、はる事あるべからず、はりて後、すはうの袖にて、弓のほこりをしのこひて出すべし、つるを己少二三すべし、
p.0113 張弓之大事
一人前にて弓を張事、北にむかひて張事を凶、東南を本こすべし、
一主人の御前にてゆみを張事、我後はしを譫やうに心得べし、
一主人の御弓、又平人の弓なりとも張事あらば、張所何方と、うかゞひてはるべし、是道なり、
一立居直なるゆみ、にぎりを取て張也、別而手の内覺あり、
一弓のはの事、木中六寸と定る也、但附とさぐりの間なり、
一弦をかみしめすへの裏筈をか、ゑ候者のやくなり、本筈は張手か、又は弦かけのやく也、
一張手、弦かけ、指渡りて、三人して張也、此身なりの事肝要なり、四五人して張事も有、先は弓によちてなり、
一ゆみ幾人張と云事、いわれなきやうに申ならはし候、たこひよはきゆみなりとも、一廉有弓をば、女三人して張なう、分ある弓ならば四五人にても張なり、
一いかによはき弓、人數入と云とも、あら木の弓などを、張と云事、如何にて候、弓はりにてゑなひつるをばはるべし、
一さしわたりて人の知事なれども、他人のゆみを不可引と云事、第一の心得なり、すびき二三ツ する物也、張おちつき候故なり、心得べし、
p.0114 一彎の弦をとの事、つるをとらへざる事也、三ツ二ツ歲べし、口傳在之、これらはゆはひの儀也、北へ向てはるべからず、又弦くひゑめす事、うらはずより、も霍はずまでくひゑめして、ちとくひ主めし返し、一方はすべからず、如此して人にも出し、我も射る也、
p.0114 一弓をはりて、弦をくひゑめすと云事、末はずよりまつくひゑめすべし、三寸ばかりくひしめして、扨其口にて、やがてうらはずのかたへくひ嶷めすなり、それもまつ二三寸ばかり先にぎちの方へして、扨とむるなり、上下共に、そ冢へしてとむるなち、其後さぐりの下をくひしめて、ゆびにて弦を下へこきさぐるやうにするなら、
p.0114 一賴義義家射術 淸原武則が所望に依て、義家朝臣、堅甲三領を重ね、樹枝に懸て射玉ひしに、三領を貫けりと陸奧話記に見へたら、又同記に、賴義は、易弓を好み玉ひしが、發矢、物に中レバ、羽ブクラを飮ざる事なかりし由見へ允り、射術を丕知人は、此文を讀て文華の虚説鸞思はんか虚説には非ず、弱弓を以て矢勢を强く射るは、總身の力鸞謦矢の和合する故、勢强き也、是射術ぎ云者なち、重丘る三領の鎧を貰たるも同衝なるべし、カに勝たる强弓を引ば、弓のツヨキに我力を引奪はれて、總身のカ、弓矢と和合せざるゆへ、却て矢勢は弱きもの也、强弓を引けば、押手延ず、引手は引争、爾手ふるへ、息つま弩胸へせき上げ、腹引込み、上はつりになり、腰も足も溺くなる、久しくたもつ事なら命、我は發、ざるに、矢の方よりはなれ行、是總身のカ、弓矢と和合せざる也如此にては手前固まらず、矢勢弱く、矢行きも狂ひて、中りもせず、今世堂前通矢を專ら鸞する射家は、弟子に初より强弓を引しめ、段々に弓の分を上げて射さしむ、弓の力にて堂を通さんとざする也、射本道を知らざる也、
p.0114 小坪合戰車事 和田小太郎、二百餘騎ニテ、小坪坂ヲ打下ソ、河ヲ隔テ磬へタリ、小太郎、藤平ニ問ケルハ、義盛ハ楯突ノ軍ニハ、度々アヒタレ其、馬ノ上ハ未知、イカゞ有べキトイへバ、實光、今年五十八、軍ニ逢事、十九度也、軍ハ尤故實ニ依べシ、馬モ人モ弓手ニ合事ナリ、打解ケ弓ヲ不可引、開間ヲ守テタメラフべシ、我内甲ヲバ惜べシ、矢ヲハゲタリ其、流矢ヲ射ジト資べシ、敵一ノ矢ヲ放テ、二ノ矢イントテ、打上タラン、マツカフ、内甲、頸ノマハリ、鎧ノ引合、スキマヲ守テ射給フベシ、矢一放テバ、急ギ二ノ矢ヲ番テ、人ノアキマヲ守給ヘ、敵モ角コン思フラメナレバ、透間ヲ資テ、常ニ冑突シ給フベシ、昔ハ馬ヲ射事候ハズ、近年ハ敵ノ透間ナケレバ、マヅ馬ノ太腹ヲ射テ、主ヲ駻落シテ黜立アガラントスル處ヲ、御物射ニモスル候、敵一人ヲアマタシテ射事有べカラズ、箭ダウナニ相引シテ誤スナ、敵手繁クヨスルナラバ、樣アルマジ、押並テ組デ落、腰刀ニテ勝負ヲシ給へトゾ敷タル、去ケレバ敵ハ引詰々々散々ニ射ケレ其、或ハ上リ、或ハ下ル、目アタル矢モ透間ヲイ子バ大事ナシ、三浦ハ實光ガ云ニ任テ、敵ノ二ン箭イントテ、打上ルスキマヲ守テ、差ツメく射ケレバ、流矢一モ無リケリ、
p.0115 高綱渡宇治河事
爰ニ木曾〈○義仲〉ガ方ヨリ、信濃國住人根井大彌太行親ト名乗テ、〈○中略〉墻楯ノ面へ進出、弓杖ツキ、敵ノ陣ヲ見渡シ、軍掟ス戸事柄ヲ見ニ、容儀人二勝タヲ、蒲御曹子〈○範賴〉歟、九郎御曹子〈○義經〉歟、田代殿〈○信綱〉歟、此等ノ大將軍ニテブ御坐ラン、行親ガ今日ノ得分ト思テ、十四束ヲ取番、引堅テ兵ト放ツ、畠山ガ乘タリケル、鬼栗毛ガ吹荒ヲゾ射通シケル、行親、一ノ矢射損ジテ、御方ノ運ハ早盡ニケハ、大將軍タル者ガ、一ノ矢ヲ放ッハ、弓箭ノ運ノ盡ル所也、一ノ矢射損ジテ、二ノ矢射事ナシ、敵ニ鎧ノ毛見知レヌ先ニトテ、搔楯ノ内へ引退ク、
p.0115 一射敵術 新武者物語云、秀吉公、豐前國嚴石城を攻させられる時、蒲生氏郷 の家來、野木甚左衞門尉〈○常山組談、野矢甚右衞門鳥作ル、〉は、弓の上手にて、山田の畔を立渡り、敵五人射殪し、首五ツ提て來る、類希なる働哉己皆人戚じけう、首一つ取も難し霍するを、五ツまでは何して取たるぞと、其故を問ふに、敵の鑓先、我が拳に申る程鵞押寄せてへ矢を放ツ時は、はつるゝ事候はず霍ぞ答ける、
p.0116 弓はたゞおのがカにまかすべし手にあまうたる謦な好みそ
兼て知れ軍の場に持弓はすこし力のまさるこのめり
矢の根をば細く穗長に好たちあたる矢先の拔けよかるべし
近き敵遠き敵を射る時に矢の根の習ひあう己主るべし
夏冬に好む矢の根のある物をゑらぬは射手の不覺なるべし
弦はたゞふときにゑくはなかりけり細きは根矢を当ゝぬものかは
p.0116 御みつからの射藝は、御幼き時よりすぐれさせ譱へり、御壯年の頃は、一度に六千本づゝ指矢を射玉ひし蓬ぞ、本城にいらせられし後も、鷹狩の折、水鳥など射させたまひしは、人々多く見奉う、御衞の世にすぐれさせ玉ひしを、戚實し奉る事ならき、大的、半的遠的なども、射法の進退、的場の間數、弓場殿の廣狹などに至るまで、こご人丶く薦意もて定め玉ひし法、かずく有て、凡慮の及ばざる事多かりしとぞ、鈴木對馬守安貞が家に、御考の射法的圓等、委敷書集めて、日傳聞書己號する册子を傅ふ、そが中に征矢的矢鐘頭の御考をも載たり、
p.0116 一矢をつまよると云詞は、つまやる共云事同じ儀也、源平盛衰記卷四十三〈源平の侍違矢の條〉に、宗長三浦が箭をさらりくさつまやりて霍あり、又〈同條に〉與一は宗長が矢を取て、さら参さらりごつまや参てとあり、左の手の爪の上に載せ、右の手にてひねちながら先へつきやる故、爪遣と云也、盛衰記に、爪遣の二字を用ひたり、萬葉集の歌に梓弓、爪夜音、遠音とあり、爪よるとも云 べし、やるもよるも五音相通なり、
p.0117 こあての事
吉田出雲守傳書に、こあて霍申事は、弓引か臓先に、能矢先あてがひ候事也、
p.0117 早矢 甲矢 兄矢
p.0117 乙矢 弟矢
p.0117 一射手方文字
發矢 乙矢 兄矢 弟矢
p.0117 小笠原信濃入道順元御方〈江〉、子息兵庫助長秀尋被申候、弓箭拜馬不譬條々之事、
一問云、的矢に内向を兄矢に仕、外向を弟矢に仕など人申候、弐第不同に可仕候哉、
一答云、不定候射能候はんを兄矢に可在候、
p.0117 一相手矢あらば、射手畏ると云事、兄矢を射時或は弓折返、或は弦切たる時は、射終たることく、肩を久、足を引て、始の所に畏、かへを待時、相手も同じごとく畏る也、撒介添、張替を持寄て出時、取て又以前のことく、蹈寄て可射、前後同前なるべし、後弓二度めの時、發矢に失有て禮あらば、前弓射て畏べき也、
p.0117 一矢に内向と云は、矢を弓につがひて、羽表我身の方へむきたるを云、外向ご云は、貂表我むかふの方、外へ向たる也、内向外向と云事、的矢に云事也、一手なる故也、外向をば早矢に射る也、内向をば乙矢に射る也、外向は陽据、内向は陰也、陽の矢を先にして、陰の矢を後にする志也、〈内向外向は、的矢など一手ある矢の事也、内向の事を、前向ともいふ、狩詞鷂に見、〉
一外向を兄矢に射る、内向を弟矢に射る鸞いふ事も、急度定りたる法式にはあらざれども、右の如くするをよしと云也、されば法量物、大的體拜記に、定儀はなけれども、外向をはやに射てよき 也云々、定儀はなけれどもこあるを以て、定法にはあらざる事を知べし、又的出張記に云、兄矢弟矢によりて、矢を射譬蓬云事、外向をはやに射、内向を弟矢に射る也、此事秘説たる間、だやすく射る事不可有霍申傳る也と有り、是を考れば、定法にはなけれども、秘事と云なり、
p.0118 賭射
奏勝負舞〈左後塞、乙矢放間、出鬣聲、於射場南力舞、〉
p.0118 康治二年正月十八日丙午、賭弓也、〈○中略〉左後塞、乙矢放間亂聾、頃之放右乙矢左乙矢放了、公遘朝臣、持來的附文、〈經作合間〉予取披見置前、公通懿取硯退戳慢外、更就出居麌右乙矢放了、師仲朝臣持家的附文、〈經作合間〉
p.0118 保元四年〈○平治元年〉正月十八日癸酉、今韆賭弓也、〈○中略〉予取近衞射手文〈無禮紙有裏紙〉零返、隨注的皮、暇令書樣〈○中略〉
府生ヽヽヽ〈皮皮的 的皮宇、蒋蠶見在注付之也、 皮皮皮 始矢註端、乙矢蘿奧、葛上三度也、○中略〉次三度了籠、後塞乙矢亂聲、〈陸王亂聲俵左路也〉後塞射了、予如元卷文取副弓、乍居著沓、進王卿前、置弓奉上卿、〈○下略〉
p.0118 或所に的弓射けるに、晩に及ければ、明日や勝負すべきなど、人々いひける所、源三左鵆門尉翔、來りげ套、此さたを聞ていひけるは、翔はいつかたのかたう人もすまじ、矢を一手給へかし、その的串のまへうしろを射ん、あ詑参たらんかたを勝に主給へといへば、人々も興に入て、則矢をとらせたちければ、ついたちて、はやを射るに、まへの串にあたりぬ、方の人、のゝゑりあへりけるに、をとやにて、又うしろの串をいてけり、此うへはさやうにてこそ候はめビてやみにけり、かやうに名を得たる上手のふるまひ、目おどろく事なうとなん、
p.0118 弘治元年十月朔日、日中巌島軍不利、晴賢〈○陶〉戰死、〈○中略〉 晴實首者、點三尺棚、居公饗よ城主隊頭、侍坐左右、元就隆元兩罍、著鎧靠牀机よ牀机左右方、相去三尺許、平佐源七郎、持天刀脆坐、又黐去三尺許廻、祠藤十郎、持弓番卿爾、右手拳か如、居右膝ジ右方微許倚前、
p.0119 和賀山北鏡藤倉合戰ノ事
黏賀ノ先手筒井縫殿助、馬武具一際スグレテ出立シガ、白木ノ弓ノ握リ太ナ戸ヲ素引シテ、扶桑猿臂舊將軍、肺箭當時幾策勳ブト自讃ニ吟ジテ、中指ノ甲矢十四束有シヲ打ツガヒ、艱ツ引、兵ト放ツ、其矢アヤマタズ、一陣ニ乘タ戸笹森囚獄ガ胸板ニ中テ、馬ヨヲド夕ト落テ矢庭エ死ス、笹森六郎、父ヲ射サセ、當矢ヲ返サント引シボル所ニ、筒井、乙矢取テ打ツガヒ、シバシ堅メテ放シケレバ、ムザンヤ六郎、射向ノ板ヨタ矢先白ク、具足ノ引合ニ射實ク、
p.0119 安永八年正月十一日の御弓場始に、東條權大夫季勝、乙矢をはつし、高山平左衞門守具、箆打なりしを御覽じてげふはこごに大風故にはつれしなるべし、技のいたらロにあらず、碌物たまはるべしご命せられ、此日射手みなあたりとなりしとなり、
p.0119 殿上賭弓
次々射畢〈勝方尻塞、取射分錢置机下、或只曳、〉
p.0119 十八日賭射事
同九年、〈○天慶〉依右後塞栗〈○栗恐粟誤〉秀蔭、四度雙矢勝也、大將〈○藤原師輔〉起座、出幔後鈴両古女、
p.0119 殿上賭弓事
勝方亂聲舞陵王〈方尻箜之矢、射放之間發聲、敵方乙矢、靆發之間舞出、〉
p.0119 承德元年十二月十七隧、今日有弓場始、〈○中略〉
射手〈前左大謄 左兵衝督忠敬朝臣鵠一、家政朝臣 顯雖朝臣、雖上藺岌後塞、〉
p.0120 一的射る時、最初に出て射るを大前巴云、最終に黝て射るをせき定云也、第一番初に出て、總射手の前に射る故、大前と云は知れたる事にて子細なし、終に射るを、せきと云は、せきはせまりかぎると云事を略したる詞也、續の射手、皆射はて丶此度の射手に迫う限るざ云心也、文字には闘の字を用る也、開所と云物も、垣をゆひ、門をかまへて、是より先へ人を邏すまじき蓬、逶を迫り限る也、相撲取にも、續の終に出て取るを、開と云も伺じ心也、
p.0120 一二の矢か云事、たばさみたる矢をいる事申に及ばず、ゑびらにさしたる矢にてもあれ、うつぼにさしたる矢にてもあれ、矢一射て、やがている矢を、二の矢と云なり、少も逗留あらば、二の矢にてはあるまじきなり、
一じんどうなどにて物を射る時も、二の矢蓬云べし、三四にならば、又矢をつがひてと、かたるべし、總而物語に、二の矢をつがひてと語るべし、三の矢己はかだるまじきなち、
p.0120 山城國人射兄不賞其簫存命語第廿四
今昔、山城國ノ郡口ノ郷ニ住人兄弟有ケリ、何ナル事カ有ケン、弟、心ノ内ニ、兄ヲ何カデ殺サント思ケルヲ、只打思タ声樣ニ持成テナム過ケル、〈○中略〉兄此事ヲ夢ニモ不知シテ、物語シ畢テ、賎ノ小男ノ有ニ、火ヲ燈セ尹出レバ、弟喜デ、大ナ戸矢ヲ弓ニ番テ、强ク引汽〈○中略〉尻答ソラント思フ讌、箭ノチウト鳴テ、外ニ反ヌレバ、鳧ハ何ニト思テ、二ノ箭ヲ搔ム卜爲戸程エ、兄ハ戸ヲ聞テ出戸ニ、不思懸弓ノ音ノ近ク爲ニ合テ、箭ノ來ニノ我最中ニ立卜思フニ、チウト鳴テ外ヘ反ヌレバ、迷テ急ト返ジ入テ戸ヲ閉ヅ、
p.0120 宇治合戰附韻政最後事
伊勢圃住人堀六郎貞保、同七郎貞俊、緋威冑ニ、白キ繞係テ、棲門ノキハマデ攻寄タヅケ声ヲ、唱法師、勝タル弓ノ上手也ケレバ、一ノ矢ニ、貞保ガ内申ヲイテ落シクケリ、貞俊、是ヲ見テ大刀ヲ拔、矚 ヲ討トラント懸ケルヲ、ニノ矢ニ、貞俊、頸骨ヲ被射テ、馬ノ弓手ニ落ニケリ、
p.0121 もろや 拾遺集に見ゆ、爾矢也、二枝を一手といへり、
p.0121 應和二年正月、東宮の藏人になりて、月のうちに民部丞にうつりて、ふたゝびよろこびあり、思ひをのべて右近の命婦につかはす、
ひく人もなしさわびつる梓弓今ぞうれしきもろやしつれ法
p.0121 賭弓 〈皇后宮女房〉常陸
霞しく春の始の梓弓もろ矢しつるぞ嬉しかりける
p.0121 或人弓射る事を習ふに、もろ矢をたばさみて的に向ふ、師のいはく、初心の人、二つの矢をもつ事なかれ、後の矢をたのみて、はじめの矢になをざりのこゝろあ蔘、毎度たゞ得失なく、此一箭に定むべしと思へといふ、
p.0121 相模の國の住人鎌倉の權五郎景正芭いふ者あり、先飆よち聞、乱たかきつはものなり、年わつかに十六歲にして、大軍の前にあうて、命をすてゝたゝかふ聞に、征矢にて右の目を射させつ、首を射つらぬきてがぶとの鉢付の板に射付られぬ、矢をおりかけて、當の矢を射て敵を射とりつ、さてのちしりぞきかへりてがぶとをぬぎて、景正手負たりとてのけさまにふしぬ、
p.0121 笠置軍事附陶山小見山夜討事
明レバ九月〈○元弘元年〉三日卯刻二、東西南北、寄手相近テ時ヲ作、其聲百千雷ノ鳴落ガ如ニシテ、天地モ動ク計也、時、聾三度揚テ、矢合流鏑ヲ射懸タレドモ、城中靜還テ、時聲ヲモ不合、當矢ヲモ射ザリケリ、
p.0121 遠射 潅南子云、越人學遠射蔘天而發、楊氏漢語抄云、射遠、〈和名止保竅介、今按云、遠射、卽射遠也、〉
p.0122 按止保奈計、違投也、萬葉集慕振勇士之多歌、投矢毛知、千尋剔和多之、挽歌、公之佩具之、投箭之所思、又、投左乃遠離居兩、左謂箭、又左乎奈具流萬、投箭之間也、紳代紀、取矢還投下之、皆謂射爲投、
p.0122 遠射〈トホナゲトホマチ〉
p.0122 遠射
p.0122 ごほなげ 倭名抄に、遠射、又投壼をよめゾ萬葉集に、投矢ごもいひ、紳代紀に、取矢違投下こも見えたり、
p.0122 遠矢
p.0122 サシ矢、遠矢ナドイフ事ぞ古ヨ夕聞エシ倭名抄ニ、潅南子ニ見エシ越人遠射ヲ學ブ壬イフ事引タ、遶射むカキ尹止保奈介トヨム、今按ズルニ、遠射三スナハチ射戸事ノ遠ネ也ト注シタヨ、又保元物語ニ、興飆寺ノ衆徒等、吉野十津河ノ差矢三町、遠矢八町噺イフ者共ヲ具シテ、千餘騎ニテ、新院ノ御方ニ參戸トモ見エタ夕、又源平盛衰記ニ韈、或ハ遠矢ニ射、或ハ差矢ニ射戸ナドイフ事弋アシバ、コレラノフザ、久シク聞エシ事ナレド、得長壽院ノ堂ニテ、差矢射テ、其藝ヲ試ル事ノ盛ニナタシハ、近世ニ起レ声事ニテアル也、
p.0122 一遠矢のいやうとてはなきなち、弓をばかならず射かへすなり、
p.0122 一遠矢射やうの事、さだまる儀なし、弓矢の拵やうも、ふり有べからず、弓をば必射返すべし一遠矢射債の事、ふ参なし、何蓬も射べし、弓をば必射かへすべし弓はいつれにても射べしゝ矢の拵樣も定儀なし、
p.0122 新院御所各門々堅事附軍評定事 南都ノ衆徒ヲ販召事有、興順寺ノ信實、玄實等吉野十津河ノ指矢三町、遠矢八町ト云者共ヲ召具シタ、千餘騎ニテ參タガ、今夜ハ宇治ニ著、
p.0123 大さかこえの事
平家の方には、これをみて、あれい取や、いどれ己て、あるひは、蓬を矢にいる舟も有、或はさし矢にいる舟も有、源氏の方の兵共、これを事共せず、弓手になしては、いて通り、めてになしては、いて通る、
p.0123 師賢登山事附唐崎濱合戰事
快實、屹ト振歸テ是ヲ見ニ、齡二八計ナ炉小兒、大眉ニ鐵漿黑也べ是程小兒ヲ討留タランハ法師ノ身ニ取テハ情無、打タジトスレバ、走縣々々、手繁切回ケル間、彎シくサラバ、長刀柄ニテ大刀ヲ打落シテ、組止ントシケグ處ヲ、比叡辻者共ガ、田畔乙立渡テ射ケル攤知ニ、此見胸板ヲ、ツト被射抹テ、矢場ニ伏テ死ニケリ、
p.0123 山門攻事附日吉帥託事
土居、得能、仁科、伯耆ガ勢二千餘騎、白鳥ヨリ懸下グ攝合ニアブ、湖水二淨べ声國々ノ兵共、唐崎ノ一松ノ邊へ漕寄テ、サシ矢遠矢、スヂカヒ矢二、矢種ヲ不惜射タフケル、
p.0123 同年〈○天正十七年〉六月上句、房州里見左馬頭義朝、上總萬喜ノ城ヲ攻ントテ、房州堀内城主安西遠江守、同州丸ノ城主山川豐前守、兩將ニテ五百人、各居城ヲ立テ上總ニ赴ク、〈○中略〉房州勢ハ長途ヲ家リ、殊ニ上ジ坂エテ、息キレ氣疲レテ見エケル處ニ、土岐ガ兵五六十人、東ノ尾崎ニ立並ンデ、矢先ヲ襪テ横矢ヲ射ル、時ニ上總ノ郷民百人計、東ノ山西山ヨタ指矢ニ射ケ声程ニ、房州勢大半討レヲ軍敗レケル、
p.0123 弋射 唐韻云、弋〈典職反以豆留〉射也、四聲字苑云、繪、〈音曾〉弋射矢也、績、〈之若反〉繪謝所以加飛鳥 也、
p.0124 按以豆留、蓋射蔓之義、言矢有緻也、
p.0124 弋射〈イツル〉
p.0124 緻射〈弋鳥具〉
p.0124 いつる 倭名抄仁弋字をよめむ、射釣の義なるべし、繪鍬も同じ、竢囊抄には、いてとるとよめち、
p.0124 射矢也、〈旬懿司弓矢云、矯矢弗矢、用諸弋射、注云、結撒於矢謂之短三燈高也、第矢象焉第之言制也、二者皆可以弋飛島剃羅之也前於重、又黴輕行不低也、詩云弋麝奧鳥、〉从矢曾聲、〈作膝切六部〉
p.0124 鬢生絲縷也、〈生線鷺纏也、凡蠶者鳥絲、滕者爲繧、絲細繧餓、故糾合之、絲得構縷、〉謂續系繪矢而目惟鴃也、〈季善文賦注所引有此十字、今鮟有此乃完、當作生絲縷系矯矢ぼ、而弓雉族也、共十一字、矢部日、矯者、堆鴃、矢也、佳部、日、雛者、繫鴃飛烏也、歡者、繁徽也、〉从糸敖學、〈之若切、古音在二部、〉
p.0124 天長二年正月ノ勅ニモ、射薩ハ國家ノ大事ニテ、闕ベカラザ戸由見エタリ、此御代ニ紀朝臣眞遘るイフ人アヲキ、〈眞、一本ニハ興二モ作ル、〉中納言從三位勝長卿ノ男ニテ、弘仁、天長、承和、三代ノ朝廷ニツカへテ、位累リニ從四下驫至ワ、職ハ兵部大輔、左中辨、右兵衞督歷テケリ、此人門風相承テ、彎ク射禮ノ容儀ヲ傳フ、又大同ノ比、從五位上伴宿禰和武多廠呂トイブ人アリ、コレモ又此法ヲヅタへキ、コレヨリ後世ノ武士、ナガク彼兩家ノ法ニナラフ、其法題異同アレド、大體ハコレ一ツ也卜見エタレバ、〈續日本紀〉後世ノ武士射ル事此両家ノ法ニヤナラヒヌラム寬平比右大臣源能有ト申セシハ、文德天皇ノ皇子ニテ、代々ノ朝廷ニツカへテ、終品執政ノ臣トナリ給ヒシガ、此人弓馬ノ藝ニ達シ給ヒタワケ亨、源氏租貞純親王ト申セシハ、此人ノムび君ニタオハシケレバ、其藝ヲ傅ヘラレシ濁ウ、此カタ源氏ノ人々ノ箕裘ノ業トハナリテケリ、
p.0124 弓流之事、日本流、日置流、吉田流のみと心得たり、元は伴流紀流の二流、弓の元覦たり、 今絶てなし、心得あるべきため書あらはせり、
p.0125 貞丈云、是は續日本紀に、承和元年六月庚子、從四位下紀朝臣具道卒、故中納言從三位勝長朝臣男也、弘仁四年叙五位、天長九年累加四位歷職兵部大輔、左中辨、右兵衞賢具道門風相承、能僅射禮之容儀、大同年中、有提五位上件宿瀰和武多麿、亦傳此塗讖是後世武士長効滿家之塗頗有異同大射惟一也、霍いへるに櫨れる成べし、右の紀文射禮の容儀を稱して、射術の善をば稱せず、右兩人射禮を傳たる人也、射術の覦にはあらず、拌流、紀流ご流の字を付で稱したる事も見えず、右は上古の射鱧を敖へし人也、後世の日本流、鸞置流、吉田流の射術の師霍蠡べ言べからず、
p.0125 源家弓傳は、大江朝臣〈匡房〉よりう源義家相傳、賴光以來は賴政一流、〈土岐氏流なり〉義家よち新羅三郎義光へ相傳の流、小笠原一流なり、
藤氏弓傳は、大織冠の御樽、嫡流武智硫呂以下爲憲相傳、工藤一流也、南家は秀郷の傳、小山、結城、佐藤諸家へ傳り、利仁の傳は、齋藤、富樫、加藤等に別る、
紀家の傳は、武内宿瀰以來也、大江の傳は、も霍武内より出る歟、
p.0125 射術
小笠原流 小笠原信濃守源貞宗〈○註略以下詞〉
日置流始祖 日置彈正正次
吉囲家祖 吉田上野介源重賢
出雲派 吉田出雲守源重高
雪荷派 吉田六左衞門源重勝
左近右衞門派 吉田左近右衞門源業茂
大藏派 吉田大藏茂氏 印西派 吉田源八郎源重氏
竹林派 石堂竹林如成
大心派 田中大心秀次
壽德派 木村壽德
道雪派 件喜左衞門一安
山科派 片岡平右衞門家次
日本流弓道略系
日本流
敎訓卷曰、自家ノ射法ヲ日本流ト稱スルコト、我日本ノ流儀ニシテ、蠻夷ノ射儀ニ預ラザレバ也、元來祚皇授受ノ號道ナレバ、始ニ復シテ日本流ト號シ、又祠道流尊流ト稱セン事、其旨差ハザルニ近カラン、獪秀一自記ニ詳也、
鹿島流
古諸祠、射ヲ嗜ザルハナシ、中ニモ武甕槌命ヤ勝レ給ヒケン、昔時鹿島明祠祠官禰宜四郎某ト云者、祠宮傳來ノ射道ヲ相承シテ、後世ニ傳へリ、所謂鹿島流ト云是也實ニ今世射道流振ノ祀タリ、
逸見流
逸見淸光ハ、淺利與一義成ガ父也射道ヲ四郎某ヨリ傳來シテ、代々家ニ名アリ、世ニ逸見流ト云是ナリ、中葉ニ及テ、八幡流ト云アリ、近世絶テ聞エズ惜カラズヤ、
熊谷一夢
日置流〈日置彈正〉 安松流〈安松左近〉 弓創流〈弓削彌六〉 竹林流〈吉田昌久〉
吉田流〈吉田介左衞門〉
武田流〈始祗姓名闕〉 梶山蟠龍
小笠原流〈始租同上〉 小笠原源大夫
森川香山
大和流
畠山滿家〈其先切テ不見 予或書チ見テ記之也〉
太田持資〈或資長薙髮シテ號道灌、〉
逸見義胤〈持資ヨリ弓法チ學、又文明年中、細用勝元ニ仕へ、秘隱傳授也、〉
武田某〈持資ヨ可印可相受、世ニ武田流ト稱、〉
日置正次〈彈正、剃髮シテ威德軒ト稱シ、又瑠璃光坊ト云、大和國ニ住ス、依テ大和流ト稱ス、又門人稱シテ日置流ト也、〉
德大寺〈逸見義胤ヨリ目鋒印可受、德大寺涯ト云、〉
吉田眞重〈介左衞門、出雲守ト稱ス、從五位下、剃髮シテ露滴ト改ム、〉
宇喜田直家
佐々木義隆〈左京亮〉
佐々木義重〈兵庫、義隆ノ子、宇喜田家旗下ニ屬ス、〉
熊谷直綱〈太郎兵衞、攝津國大坂ニ住ス、〉
森川秀一〈薙髮シテ香山ト云〉
大和流 森川總兵衞秀一 薙髮シテ稱香山觀德軒、自翳冠嗜射楕、究流涯ノ奧秘、弓道ノ書ヲ稜正シ、稱大和流ジ哀子彦左衞門信一、繼誕傳爲精妙ト云、桂有馬周防守ハ美人抄ヲ著通ス、
p.0128 弓詞井序 應阿部四鄭五部正之求兵家之事、不可妄傳也、然鬼谷之法、因儀奏以顯於壁黃石之書、無留侯則不行於世、豐丕可傳乎、廣武之焚潅陰、衞公之於世勣、非茎人則丕能授之、非其人則不能受之、嵯乎學者如牛毛、成者如麟角、事事皆然、故失其傳ジ不知其法藩多矣、獨本朝之射注、靖代以下有蕨由來雹、逮中古、而右僕射羽林大將軍源能有、專知射法、爲百世師範、能有者、文穗帝長子、而淸和帝庶兄也、文武兼備、歷仕四朝、桃園皇子〈○貞純〉者、能有之壻也、故傳授其法、其乎經墓相承、開源家之基、爲朝廷之護、滿仲、賴光、賴信、賴義、義家、繼志通事、其鬱鎭將之位、義家强弓大箭、殆如帥明、或督軍以平東奧之妖賊、或鳴弦以退南庭之邪魅ジ癰羅三郎義光、親炙於父兄涙究此道苡彊二流之宗、其子義淸、續其業、以傳之於其孫加加美次郎遶光、遠光子、日小笠原次郎長淸、跨竃升樓、盆揚家學、新製射勺癌若干條以散之於乎孫、長淸七穢之孫貞宗、爲弓馬師範、以中興其遘、至今嫡々相續、以稱其家塗也、〈○下略〉
p.0128 小笠原信濃守貞宗
小笠原信濃守源貞宗者、新羅義光之遠裔而信濃守宗長子也、代々傳弓馬之藝而不墜家名ハ後醍醐天皇御字、貞宗常參内、調馬於丹堤、試射於金門、勅日、天下弓馬之俊傑者、貞宗有焉、使貞宗焉天下之師簍也云々、後弓馬之懣、授武田伊豆守信元、〈或甲裴守〉觀應元庚寅年八月廿五日卒、享年五十有七、法名泰山正宗、號扁善寺頁宗乎信濃守政長、徒武田信元、縫囊裘藝、善射騎、事仕尊氏公以童控之頁治四乙巳年三月廿一日卒、四十九歲、其子信濃守長基、猜弓馬之碁鷲將軍義滿公之師箜應永十四了亥年十月六日卒、其子修理大夫長秀、因義滿公之命、卯伊勢今川、攝三儀一統十二卷、大膳大夫政康、纏長秀之真以灣法僅稜之義敎公、于蒔永享四壬子年三月也、嘉吉二壬戌年八月九日、享年六十有七 而卒、大膳大夫持長繼之、文安元甲手年十一月九日、將軍義政公射始、持長爲師範、亮正三壬午年六月十五日卒、享年六十有七、大膳大夫淸宗担續之、傳日、淸宗赴厠有雇物ハ因而斬其手冖暫而來窓外乞其手、淸宗問囊名馨蟹、狸也、又問乞手何爲哉、狸日、我有妙藥、欲以辞之、羇若許與、則樽其妙亥淸宗興之、所以得其妙方、此妙方代々相傳、而爲家之膏藥、文明十戊戌年十二児八日卒、享年五十有二、鬣部大輔長朝嗣後、文龜元辛酉年八月十二日卒、享年五十有九、修理大夫貞朝立、家有妖怪、貞朝一覦兩得箕所也、取箭持滿、一發應弦仆地、人稱其精妙、永正十二乙亥年六月二日卒、享年五十有五、大膳大夫長棟、相續承業、天文十八己酉年十月八日卒、享年五十有八、大膳大夫長時、相碍父祀之禪、而居信州林館、〈後改深志〉、馳騁弓馬、以膽勇幕、子時甲州武田晴信、掠邊境一長時數年挑防、而顯武威ぞ晴信以大兵、襲深志城藪度、長時勢竭、而出深志奔越後ハ憑萇尾謙信而不能方甲陽始瞎信、吿長時桓、信州悉爲我有焉、長時若屬晴信、則可安堵本領也、長時報之日、在昔雖日武田兄小笠原弟、小笠原者、代々居京都、爲上於武坦今至長畴、何可屬武田乎、終去信州移北麗後之伊勢ハ居榎倉大夫之家、此時三好長慶、鐸天下執權、由爲小笠原氏族、遘使招萇時、長時往京領將軍家、爲弓馬之讎簍於河内高安ハ賜十七所爲之采地、其後義輝公、爲三舞被害、此時長時到奧州會津、天正十一癸未年二月廿五日、於互野味庵宅三平、六十五歲、號麒翁正麟、其子喜三郎、後號右近大夫貞慶翼父同到更州ハ後蹄信州、催普代家人、攻深志城、取而居之、改謂松本城貞慶但奔信州、三十有三年、而又歸本國、文碌四乙未年五月十日、於下總書河卒、享年五十、法名以淸宗得、號天隆寺、其子兵部大輔秀政、奉在東照宣賜卞總古河豐後賜信州飯田壌又移菘本城、子孫相續而繁榮焉、小笠源代々、樽弓馬之藝甲天工以須武人之泰斗ハ丕亦奇乎、
p.0129 一小笠原家も、京都將軍の御代よちありし家也、いかゞして伊勢流鬟替候事御座候哉、答て云、小笠原は、鎌倉將軍賴朝卿の御代よち、弓馬の故實を家に傳へられたり、さるにようて京都將軍家も、弓馬の故實は、皆小笠原流を用ひ給ひし故、其頃小笠原流を弓馬の御當流己いひし 也、又京郡將軍の御代には伊勢家を内向こいひ、小笠原家を外向己いひし也、其いはれは、伊勢家は殿中諸士の立居ふるまひ、御元服御婚禮、其外すべて御殿の内の禮注をつかさざ勤し故、内向芭云、小笠原家は、大的、小的、草鹿、流鏑馬、笠掛、犬追物其外弓馬の故實、御殿よち外の禮法をつかさごうし故、外向鬟いふなり、されば座敷の上の立ふるまひ、元服婚禮等の禮法は、皆譬家のもちまへ也、弓馬の膿法、皆小笠原家のもちまへ也、是は京都將軍時代の定也、富時は小笠原家、内向をもつ己めらるゝ也、
p.0130 小笠原、系圖略
義光〈著羅三郎〉 義淸〈武田冠者、武鑼之祖、刑部三郎 出家四十九歲、灘流甲斐 河庄、承久亂之後、賜阿波守護職七ケ國管領、〉 淸光〈號逸見冠者 黑源太 逸見之祖〉
遠光〈小笠滋秋山等薩 信濃守 加賀美二郎 文治元八十四、源氏六人受領之祖、〉 長淸〈小笠原加賀美次郎 左京大夫 信濃守正四位下〉 長經〈小笠原太郎 彊正少弼 侍從 法名長禪〉
長忠〈小笠原 源二郎 信濃守〉 長政〈孫二郎 信濃守 伴野出羽守被誅之後、小笠原總領職管領、〉 長氏〈信濃守 彦次郎 大膳大夫〉
宗長〈孫二郎 信濃守 法名順長、號扇谷、〉 貞宗〈建武、武者所、信濃守護職、彦五郎 信濃守從五位下 號開善寺月山、浤名正宗、〉
貞長〈彦二郎〉
長高〈六郎二郎 美濃守、法名宗班、〉 氏長〈又六、備前守、民部少輔 法名道隱〉 滿長〈二郎 又六、民部少輔、備前守 應永廿七年十一月十日四日死、法名興元、〉 持長〈又六、民部少輔、備前守、 道號心源法名淨元、長祿三年閏正月十六日死、〉 持淸〈又六、民部少轤、憊前守、法名大中、寬正六年十二月十六日死、〉
元長〈八郎 六灘、兵部少輔、播麿守、浤名宗長、文龜二年死、〉
持房〈二次郎〉敎長〈彌六、刑部大輔、美濃守、法名宗元〉
政廣〈彌六、刑部大輔、法名宗〉
政淸〈又六 文明九年八月廿一日、千疋御犬之聽、被任備前守、法名宗信、明應六年死、〉 尚淸〈民部少輔 備前守 文龜二年死〉
稙盛〈又六、民部少輔、備前守〉
秀淸〈又六 民部少輔〉
元淸〈八郎 文明丸年八月廿一日、千疋御犬之時、穣任刑部少輔、法名宗樹、〉 元宗
p.0131 年久しく射禮の廢れしを、ふた、び興し玉はん御志あうしかば、紀伊の邸におはしましける程より、藩士吉田槇右衞門某〈小笠原韈六耶直經が弟子〉をはじめ、堪能の射手あまためして、射譜をこゝうみられけるが、本城にうつり玉ひて後も、いよく古薩をたつね考へ、諸家の秘書をつのりも己めさせ玉ひければ、水戸中納言銅條卿、松平加賀守繝紀、小笠原右近將監忠雄、永井播磨守直亮、小笠原平兵衞常春、小笠原縫殿助持廣、小笠原三右衞門信征、小笠原信濃守長達が家人村上數馬某、また伊勢平藏貞丈、榊原安薯守忠知、水野志摩守重孟、久野和泉守俊正、新井樽藏明郷、松平紀伊守信岑林大學頭信充、大島雲平以興、木村權兵衞某、岩橋藤七某、榊原源八某、並河五一郎永崇貂倉藤之遞在滿、靑木文藏敦書、茶屋宗有、仁木省二充長、其外京都鞍馬、石淸水、加茂、吉野などの寺魁よりも、各あまたの文ども進呈せり、中にも小笠原縫殿助持廣が家につたへたる九十一種の善、〈内七種は、足利將軍義借藁蹟の古本、〉分て古書にして、疑ひなきものなりと、殊にめでさせ玉ひ、これらを根櫨となされ、猶潤飾せられけるが、折ふしふるき土佐氏のかける扇の繪に、いにしへの 射禮のさまをこまやかにゑがき、讃とすべき事おほしざて、是をも御考のうちに加へられ、主かのみならず進退周旋の末節にいたるまで、御工夫をこめられ、近臣目賀田長門守守成、鈴木鬢馬守安貞等に、みつからをしへさせ玉ひ、庭中にて其嘘を試らるゝ事あまたゝびにして、漸く御心の如くとゝのひしかば、長門守、對馬守をして、縫殿助持廣にくはしく授しめられ、永く小笠原家に傳へて、御家人等に敷授すべしと仰下され、長門守、鸚馬守をも、かへちて持廣が弟子の同に加へらる、これ持廣が射帷の舊家なるを思召れての故とぞ聞えし、
p.0132 小倉將監實澄壽像賛〈代小補〉
隨緣居士實澄、姓源氏、淸和廿五世華寳也、十八代隨正親、食邑江州小倉ハ故族以邑爲ジ釋焉、居士法諱正綱、道號文紀、善悟空塔受衣孟、宗門金湯也、〈○中略〉受騎射蓑入多賀氏之室、貿歌鞠墓、升蚕鳥井之堂、〈○中略〉
延德二年七月吉辰 前南禪横川書
p.0132 射書序
夫弓箭者、兵罌之最也、昔自黃帝造弓矢以、來、中華歷代射法、不可枚擧也、本朝專用武之國也、故凡爲士者、無不貿之、朝廷禮式、姑置而不論、在武門其法多端、其科不少、師資授受之際、其源一、而其流或有異同、或有詳賂、或有新奮、或有精粗、然工若其秘奧、則父不籠敖子、師不能授弟壬自非心得手熟、則何以施百發百中之梦哉、明應年中、有日置彈正豐秀者蓴猜射藝、戀立三流、世人欝之日奮流、其弟子吉田上野介豐稔、悉受其法、以傳其子出雲守豐經、豐經盆揚家聲、改日置流、號吉田流、其子孫六世、相繼不墜其名、以至豐絶、其間傳習者甚多、就中有工原驫秀者、其父嘗學舌流射蜑頗舞其利、然悟當流爲精密、而麌冨秀求師就學之、昌秀受其旨、隨木村壽攝、袢道雪等之有名於此道者、多所樽授焉、然慮末振之所散恐朱鬘説而幸請豐蠅爲其弟子、悉得受其傳、於是試施諸藝顧威儀之制、發中之業、瑯覺稍 準手舊時也、
p.0133 一日置、吉田の正流は、神代よりも事起りて、天孫降臨の時、天忍日命、梔弓に羽々箭を取添て、御先に立ませしより、祕ようそ神に傳へ、神よりぞ神に傳はり、仲哀天皇を經て、應祠天皇にいたりまして、武内宿禰を師こして、君臣の弓道合一して、天神より武甕槌命へ、傳受の弓一に歸して、鹿島四郎禰宜、弓道を悉逸見の家へ授く、逸見の家よりぞ、日置の家へは傳へぬ、世々の武將武臣の弓道、皆此内にこもれり、こゝにおゐて大和、伊賀、二つの日置とはなり譫、大和の日置より、吉田の家に傳はりたり、日本流ごいふは、天照大祚よりぞ人皇に傳はる、是を日本流己も、尊流こも、神道流こもいふなり、天祠よりの弓道を武甕槌命に傳ふ、是を鹿島流といふ、〈○中略〉逸見流ごは、鹿島四郎瀰宜より逸見の家へ樽ふるなり、日置流は、彈正正次、逸見の家より傳授す、武田流は、法を逸見より傳え、術を日置より傳授したり、小笠原流は、武田より授受したり、吉田流といへるは、日置正次より吉田上野介重賢に傳はり、同出雲守重政に至れるなり、針野、大塚の二流は、皆上野介門人の流なり、淵上流は、日置右馬允が門人河内守が末なり、松本流は、吉田上野介が季子民部が流儀、雲荷汳は、出雲守重高の弟六左衞門重勝が工風なり、道雪派こいへるも雪荷よりわかれり、又別に吉田流とて、出雲守重綱より其子助右衞門豐隆の一流あり、左近右衞門派は、重高の三男業茂が發明、大藏派といへるも、左近右衞門派より出だり、山科片岡などいへるも、皆大藏振よりわかれり、竹林振は、日置範次より安松左近竹林如成が工夫、此餘壽德、大心、大藏の加賀傳などいふあり、印西振は、吉田重綱、源八郎重氏に慱來の法なり、此外本枝枝系類葉の吉田流、世に叉多し、深きあり、淺きあり、正しきあり、又さもなきも侍るとぞ、
p.0133 射術
夫弓者、始於神代四弓以來、精射若干、歷歷于演史、鎌倉柳營、擧用精射、有步射騎射之興行、而世世 不之乏於其人べ中興日置彈正正次、得精妙大興起之、至今學射者、無不債有置之射法ハ故以正詼、爲射術始祖、
日置彈正正次
日置彈正正次者、大和人也、好轌術得翼妙、吾國弓術中興始飆也、自往宣雖多以弓術飄名者い而不詳其彊弱審固持滿一正次獨得其微妙ハ可声傑田於古含也、正次遊諸國、後赴記州高野山而剃髮、號瑠離光坊威德、五十九歲死、
吉田上野介蠶賢
吉田上野介源重賢者、江州人、佐々木家族也、始號太郎左衞門、好弓術得肺竣後從泊置彊正正次得其宗、後改恒寶、吉囲家弓衝之祀也、
吉田左近右衞門業茂
吉田左近右衞門源業茂者、出雲守重高三男、蕀得射術之扉妙、又善射、後仕中納言菅原利家壇剃髮號禾兵世所謂左近右衞門涯者、業茂之工夫也、或日、關白秀次公、甚好弓術、懿召蘂茂蒹茂乃奉歡控其猶秀次公、甚蜜褒實、嫡子左近右衞門茂武、繼其妻而不恥交飆、能糎弓道之善惡ハ其子小左近茂成、讖交祗之志爲精妙、
吉田大藏茂氏
吉田大藏源茂氏髴、業茂三男也、始仕富田信濃守信高薐仕中納言前田利家興鎭歪邑千石、茂氏、日夜盡志於射術鼓得裏精毅射於蓮華王院七度、面六度爲京二其術祠而妙也、故佳名傳千載好射術之鳳乎、至今學其工夫者多、世稱之大藏派、
吉田源八郎蠶氏
吉田源八郎源重氏者、江州人、始號葛卷源八則吉田出雲守重綱、以黐女疹源八郎、後有故輿重綱有 隙、於此學射於吉田左近右衞門業茂ハ鍵婦家姓氏、改號吉田一水軒印質其籀王詰變始桂蘭白秀次沓後仕詰壤中納言秀康卿、及宰相忠昌卿邃以其籤奉舞東照宮、台德大君、大猷大貫寬永十五戊寅年三月四日死、七十七歲、諸州其門人甚多、世稱之印西涯ハ其子久馬助重信、寬永四丁卯年、始奉書台德大君、大猷大貫又精其術董信之弟三右衞門平内重好、此亦鑵箕裘婁發蚕名董信子孫、相續而在幕下、
石堂竹林如成
石堂竹林如成者、始須濘屠、居江州、號竹林坊、嘗闘吉田一鷗入道之射傳、而甚逼眞、後居紀州高野山、叉移芳野ハ後又因中將忠吉卿之命ハ來於尾州淸須孃下、忠吉卿家臣等、多以竹林師之、後於尾州死、在二子、兄日石堂新三郎、弟目石堂彌藏貞次、雖爲二男、置箕裘藝、竹林如成死後、新三郎習射於野村作左衞門、而自號石堂竹林、元和年中、於越前高野渡旦船覆而死、從頁家僭弓術舌多、笋今末流在諸塑稗之竹林派、
田中大心秀次
田中大心秀去者、吉田出雲守重高弟子、而達射鑽居乎安壌身其藝鳴、世稱之大心派、
木村壽德
木村蓄德者、江州堅田人、猪飼氏也、學射術於吉田出雲守重絶爲精妙、其末流多、世人稱之壽德派、伴喜左衞門一安
伴喜友衞門一安者、從吉蘭萱荷入道得射妙ハ後改遣雪ハ以其藝鳴、雖多從吉田雲渮忽葛術蓍い道雪獨得其宗、始居丹後田邊城下、仕細用支旨、天正年中、以舐矢射通蓮華王院、此根矢數之始也、笋今末流在諸州、稱之遘雪涙ハ譽傳千歲、
片岡助十郎家淸 片岡助十郎冢淸者、平右衞門家延二男也、與兄家盛巽盡芯於射術、後爲吉田左近茂武之蜑又從吉田大藏茂氏、勵精心終至絶妙、射於蓮華王院三度、發射名於諸凪學其工夫著、若干人、世稱之山科派、又有卞河原平大夫一灸煮亭家淸傳於伴滿定語其妙鬟貫革的中共得之、又諸派奧旨、無不究蠱至微而得至精者耶、
p.0136 一武士の習學ぶべきは、正しき古流なう、鸞本流、鹿島流、八幡流、是を古流こいへざ、今は傳ふるこ蓬稀なり、武田流、小笠原流は、專法式を第一とす、今の世め流儀の及ぶべきにもあらず、近比作れる流儀、多は異説妄談をいふもの多し、能々辨明すべし、
p.0136 殿上賭弓事
射手念人等列行、〈○註略〉其次第、〈射手、念人、雜色、所欒、弓師所小舍人以下、○中略〉
引射手
其次第〈射手七人、念人十五人、〉〈殿上蛍、薹捻人傍、〉〈巳上具弓矢、奏驩雜色一人、雜色日下弓師束帶、○中略〉
殿上賭弓賽
其行列次第〈○中略〉
先射手七人 次弓師舞師相並
次念人十五人 次瀧口等乘馬相徒
弐雜色所衆 次出納
p.0136 三月〈○天藤元年〉十日の程に、内の賭弓の事有て、いみじくいとなむなり、をさなき人、〈○藤原邁綱〉しりへの方に己られて出にたり、〈○中略〉弓の師よびにやり、來て又こ、にもなにくれざて、やゝかつくれぼ、うき身かごも覺えず、
p.0136 文治六年〈○建久元年〉四月七日庚寅、被遣御害於下河邊庄司行平、有誕召、是依可爲若君〈○源賴家〉 御弓員也、若君、漸御成人之間、令慣弓馬之藝給之外、不可有他軣而可奉加亮持之輩菖家雖重其數ハ行平、道爲數代將軍後胤也、隨而弓箭達者也、伍及此御沙汰、早可蔘よ之趣被載之云云、加之稱可駕之、被邏御厩御馬云云、 十一日甲午、若君、始射か笠懸給、行平參上、獻御弓引目等之王、承蒭仰声扶持之、三浦介〈○義澄〉進御的、千葉介、〈○常胤〉奏御馬、小山田三郎、獻御鞍、八田左衞門尉、進蒭行騰沓等、宇郡宮左衞門尉朝綱、進御水干袴、於南庭有此儀朝政、遠元、重忠、重朝、義盛、景時等、依召候其塑此外御家人等群參、三度射訖下御、其藝稟性於天給之貞諸人藏申彡云云、二品〈○源賴朝〉賜盃酒於今欝出仕之輩ジ行平賜御劒、依爲御弓師也、
p.0137 近代弓師事
近來以敦方公私霽師、敦方子敦經、又死畢、當時得傳者不聞、諸道皆欲絶歟、今度忠季朝臣、忽隆房興内府〈思親公〉被尋敦亥而被稱忘却之由云々、信淸、定忠、忠行等、爲定能卿弟子、
p.0137 小笠原信濃守貞宗
小笠原信濃守源貞宗者、新羅義光之遠裔而信濃守宗長子也、代々博弓馬之藝而不墜家名、後醍醐天蠱御宇、貞宗常參内、調馬於丹壥、試射於金門、勅日、天下弓馬之俊傑者、貞宗有焉、使貞宗爲天下之師範也、
p.0137 義敎
同〈○永享〉四年三月、以小笠原政庄爲御弓師範、
p.0137 義政
十一月〈○文安四年〉九日御弓始、小笠原民部大輔持長、爲御師範、
p.0137 信長公元服初陣風俗事
信長公、十七八ノ御年マデハ、別ノ遊ハシ給ハズ、輟暮武藝ヲ好セ給フ、日夜合戰ノ御嗜也、弓ノ師 ハ市河大助、攝炮ノ師ハ橋本一巴、劒衝ノ師ハ平田三位、此者其ヲ毎日召寄、稽古シ給フ、
p.0138 一其比、〈○元和元年〉弓專らはやり候、上方にて師を仕候衆、
吉田印西 件喜右衞門 吉田六左衞門
木村儒德 竹村理左衞門 蘭中大心
其外印西弟子之内にて、師をいたし候衆、
月岡久大夫 伊丹半左衞門 吉臠五左衞門
山口軍兵衞 日置淸香 大傷新九郎
喜右衞門弟子
柳田次左衞門 伴半右衞門
p.0138 弓書跋〈代阿部靉扉玉郎正之〉
軍旋者、國家之大事、而弓矢者、兵器之要也、本朝中華皆然矣、弦木爲弧、鋼木爲矢者、大戰于豫輿蚩尤伏誅、角弓其触、束矢其搜者、觀兵于拌水潅夷敗走、諸侯之有為者、賜弓矢以事祉伐ハ加之李廣在遶、而匈奴畏服、耿恭守城、而凶賊不克、呂布射戟牙薊紀零罷去、慕容翰射刀饌則宇文不追、其武德大哉、本朝最嗜武、自中年以來履担兵、源義家、源爲朝、平殺經者、其尤善射者也、共彰武功、其名昭昭矣、平將門槙行八州、釁命於貞盛之矢、淸武衡押領兩國ハ消魂於季方之箭、家衡不免亥任之鏃也、源義仲者、爲三浦爲久被射、藤國衡者、蓮和田義麌被殪、其餘不可勝計也、凡一將中箭則一軍獲狽、後軍失勢、可不恵之乎、〈○中略〉本朝之射法、自紳代之宣有所苗來ひ至源義光蔓交祀之傳、最鋳庇道、其後胤長淸、初號小笠原、以弓法鋪象業、子孫連綿、逾以置武家定式、的的相授、而無以超矣、非茣器量、則雖骨肉、不能傳葵之、況於池人乎、微臣正之、雖魯卑賎之身、父祺世住參州、頗嘴射藝、奉仕先君、屡赴戰場苡立寸功、故頗有所百喪正之私傳、以爲千金敵帚着日久矣、且依有深志、皐得小笠原家注被家頁両派、従四位下右近 大夫豐前小倉城主源忠政者、其嫡流也、以鐵老人、及其子靭負尉長泰者、其庶流也、正之就忠政、受其秘説者、殆二十七年、得彼印書亘爲他後之證亘又聽得長泰之所傳、以考異回也、
p.0139 勝軍地藏山合戰之事
同年〈○永祿四年〉十一月廿四日、〈○中略〉總大將左京大夫義賢〈○六角〉ハ、其比天下無雙ノ名人、吉田一鷗ガ唯授一人ノ弟子ニテ、日置彈正ガ的傳ノ弓法ヲ傳、カクレナキ弓ノ上手也、
p.0139 神樂岡合戰拜當流弓ノ根本之事
抑江州衆、近年弓ノ上手ニテ、他國ニ超過シテ、アマタ其藝ヲタシナミ、其名ヲ上ゲシ事ハ、明應ノ比、四日置トテ四人ノ射手出來シテ、名譽ノ射藝ヲ顯シケル、其中ニ伊賀國ニ、日置彈正忠豐秀ト云者出來テ、當流ヲ射初メ、故流ノ射形異形ナリ卜テ、日本ヲ弓修行シテ江州ニ來リ、佐々木高賴、同定賴、二代ニ仕へ、弓ノ師ト成、入道シテ瑠璃光坊ト號ス、法名以德ト名付ケル、以德、偏ク日本ヲ廻リ、弓ノ弟子ヲ尋ル、近國ノ河森ノ住人吉田上野介豐稔ニ勝ル弓アラズトテ、則弟子ニトリテ、一流ノ秘曲一々相傳ス、豐稔法名道法、其子出雲守豐經ニ相傳ス、出雲守法名一鷗ト云、一鷗ガ屋形義賢〈○六角〉ニ相傳被申ケレバ、正シク日置ヨリ三ノ一人相傳シ、的博ハ、義賢天下無雙ノ奧儀ヲ傳エ給ヒケル、義賢ヨリ一鷗ノ子息、後ノ出雲守、其弟六左衞門以下悉ク相傳アル、今ニ至ルマデ日置ノ末流タル者、皆義賢ノ末葉也、後ノ吉田出雲守ガ兄弟子其ノ流、一派々々ヲ立テ、、皆當流ノ元租ト成ル、サレバ義賢ノ近ク召仕レシ士、一人トシテ弓ヲ以テ高名セズト云事ナシ、依之祠樂岡ノ敵ヲモ、カヤウニ射拂ヒケルト聞エシ、
p.0139 右衞門督宗武卿、〈○德川吉宗子〉好古の志厚く、持廣〈○小笠原〉が家傳の書、一覽し玉膩ん事をねぎ玉ひしかどゆるし玉はず、その後せちに懇望有しかば、さらば持廣が弟子こならるべしとて仰下さる、宗武卿、則持廣が門にいらる、其後はじめて御所より其書ども傳へさせ玉 ひしとなん、かく古道を重んじ玉ふ御こゝろざし、いとあり難き事にこそ、
p.0140 一同年〈○寬永十三年〉將軍家家光公ノ御弓大將ニ、松平新五左衞門直次之與カノ面々、射藝稽古シケル次デニ日ク、夫レ八幡大菩薩ハ、源家ノ御氏祚ニシテ、弓矢ノ守讃帥ナリ、イザ此所ニ御神ヲ勸請シテ、〈○江戸高田穴八幡〉其肺前ニ堋ヲ築セテ、弓射著ハント申シ合タ、其義ヲ言上ニ及ビケレバ、本意ノ如ク肺地ヲ拜領ス、
p.0140 御家人等、太卆になれて、武藝におこたらむこさをなげかせ玉ひ、ひたすら講武の事を沙汰せられける、〈○中略〉其頃二蟄一能ある處士ざもは、おのが口を糊する時至れりざ悦び、所々に敷場を開き、耄きりに古禮をとなへ、または異風なることを傳へたり、中に講武の一助こもなるべきものには、地所を息借あちて講習せしめらる、三宅倖左衛門霍いへるものは、昌平坂の下にて射術の敷場を下され、正木彌九郎芹い人るものも、紳樂坂にて地所を恩貸せられぬ、
p.0140 真政二〈戊〉年正月
大目付〈江〉
一麹町平河町三丁目裏明地
一餌鳥屋舗前明地
一淺草元旅籠町二丁目裏明地
一牛込御門よ参小石川御門迄芝間、犬走之内、
一市ケ谷加賀屋敷、火除明地之内、
一四ッ谷北伊賀町、火除明地之丙、
右六ケ所明地之分、以來諸向、大的射込稽古場ニ相成候間、場所不込樣、一同申合、稽古可致候、 右之趣、向々〈江〉寄々可被達候、
p.0141 寬政二年正月五日、六ケ所射込大的場被仰付候に付、稽古可致旨、松平越中守殿御申渡、
p.0141 寬政二〈戊〉年六月
大目付〈江〉
近來諸向、弓稽古出精に付而は、的場も數ケ所二相成候間、場所ニより候而は、矢落不〆う之儀可有之哉、自然怪我人等有之候而は、稽古之詮も無之候、且大勢可相集事二候得ば、作法等、惰弱ならざる樣、頭々より可被心附候、
右之趣、寄々可被達置候、
六月
p.0141 享和二年四月廿七日、虎御門外明地、以來大的射込場、拜乘込馬場出來、
p.0141 弓書跋〈代阿部四郎五耶正之〉
嗟夫世多鳥號、奈無獲臂、雖有獲臂、不練習則難成其業、如賴政廣有之射怪物、那須本間之射勗的者、本朝之甘蠅飛衞、紀昌、由基乎、匪其平生練習、則豈至于此乎、是以闘兵講武之道雖治世丕廢之、故儀禮有射禮、戴記有射義、其餘射訣、射評、射經、射訓、射議、射格、射譜、射圖等之書、以敖其禮法、贇其技藝、
p.0141 第二、弓、武士ヲバ弓取ト申セバナリ、テキ、アクマ、皆弓ニテシタガユルユエナヲ、チカラダテセイヒヤウダテハ無用ナリキルテノ内ヲ習ヲボへヨ
人ノ上トカクナイヒソワレ人ニフラハレヌ程道ヲタシナメ
p.0141 一射心、凡武藝は、心を煉るを肝要ごする中にも、特に射藝は、尚心を煉るを至極ごす、夫心、肝、腎、肺、脾を五臟己いふ、五臟の中に心の臟は、常に靜ならず動くもの也、晝寤めて ある時も、樣々の事を思ひ、夜寐てある時も、樣々の事を思ひ夢を見る、動くは是心の臟の常の用也、又氣は臍の下の氣海と云所にありて、是も動くものにて升り降りする也、出入る息は、氣の伸、屈する也、氣の動くに隨て、血進みて總身を運る事、水面に風吹て、小波の寄するが如し、血の進動くに隨て脈跳る也、さて心の臟は、物により事に觸れて、其動き甚過ぎて躁ぎ起る事あり、心躁げば隨て氣躁ぎ、氣躁げば隨て血躁ぐ、血躁げば隨て脈躁ぐ、脈躁げば隨て手足總身躁ぎ狂ふ者也、故は弓射る者は、心を靜めて躁がざる事を修練すべし、心躁げば、氣躁ぎ、血躁ぎ、賑躁ぎ、手足總身躁ぎ狂ふが故に、的にあたる事なし、たこへば常によく的に中、射手なれども、貴人の御前にては、今能く中て御目にかけばやと思ひて心躁故氣血脈躁ぐに隨て、手足總身躁ぎ狂ひて、常に替て中らざる也、此心の修煉は、フザ上達したる上の事也、ワザ未熟にては叶はざる事也、
p.0142 一古流にいへる、つくらの法は、今世に所謂卷藁の事也、禮家には是を胴結とも、胴締ともいふ、此卷藁に向ふて射法をきはめ、曲直推挽の法を正し、とくと射前を定る、是を當流にては内致と號し、卷藁前ともいふなり、足蹈を定め、體を直くし、弓構、握手の裏、打起、引樣、たもち、離れ等の意味を自得させ、癖をたゞし、自然芭天地のうまれのまゝの善體と敎るの義なり、胴作り、足蹈、弓構、握手の裏、打起、引にも推にも、も芭より離にも、規矩あらずといふ事なし、此規矩を正しくとくと熟して後、的前を敷へ、堂前を學ばせ、禮射を傅え、軍射をならはし、故實故法を正し、弓箭の細工を試、引目鳴弦の大事を僅ふ、是根本の内なる敎故に、内歡とはいふなり、卷藁に數多の結樣あり、白砂、鞠かゝり、内御座、登星、四季などとて法あり、法によつて射棧の禮あり、たゞ曲直推挽を大事となすべし、自己の了簡を捨て師命に隨ふべし、馬術の輪乘、木馬、齋藤氏が所謂胎敎も、品こそかはれ、意は一つなり、よく〳〵内敖を忽受習熟すべし、
p.0142 修業精心の事 阿部家の士何某、弓術に執心にて、多年出精の處、早氣と云癖起りて、的に向へ、ば、肩迄不至して放れ、卷藁に向ひて、かつて耳を過る事なし、依之其師も、執心は、さる事ながら、弓の稽古は思ひ止りて、一向やめ候へかしと諫めしかど、朝夕此事を工夫して、我心に留ん鸞思ふに、我拳にて放す己いヘるは口惜き事也と、家に傳らし主人より賜りし古盡の驛風ヘ、主人統付の衣服をかけて是を射んには、誠に人間の所爲にはあらずと、右に向ひて弓を引しに、怺へず放しければ、迚も弓取事は難歲我也と、我ながら身を恨みて、愛子を向ふへ置て是を射んに、拳を放れば我子の命を取も不辨癖とやいふべき、左あらば我も死んとて、則弓を引、我子に差向て譬しかためしに、弓術熱心の故にや、又は恩愛の情、別段成故にや、いつもの早氣もうせて放さゞちしが、夫より絶ヘず修行せしに、終に右の癖も止りし己かや、
p.0143 元文四〈未〉年四月
百人組 御持頭〈西丸共〉
定火消淌 御先手〈西丸共〉
御鐵砲方
右諸組興カ同心、弓鏡砲、當年見分被仰付候、撰之仕方其、諸事五ケ年以齣、卯年之遖り、鐵砲は夏、弓は秋ゟ始可申旨申渡候間、被得其蠶申談、打始射始候日限極リ候ハゞ、見分ユ被和越分帳可被差出候、來年は、四年以前辰年之邇、一組不殘見分有之段申渡候之間、左檬ニ可被心餐候、
但弓鐵砲、矢場間數改之攝、五年以前卯年之通可被心得、
四月
p.0143 文久ニ年九月六日講武所ニ於テ弓術、犬追物、柔術等修業ヲ廢ス、
周防守殿御渡 講武所の儀是迄弓槍術、犬追物、柔術等、夫々稽古取建釐候庭、今般弓術、犬追物等、 上覽御差止相成候に付ては、圃所弓術、犬追物の稽古は被廢候、
p.0144 凡太宰府管内諸國射田、毎瓢置二町、其一町賜渉射之上壬一町賜騎射之超駿自餘有兵士國、毎郡置二町、其田地子、交易輕貨、屬司箇試上番兵士、不限騎步、人別命射十箭、毎日所試勿遒廿人、斟量能不隨狀給之、其能射人、及所給物數、附朝集使送省、
p.0144 凡讃衞人等、彙預步射騎射、而互有訪過、各聽相折、〈儼如步射爾箭雙鑽、而纖射三箭全中之頰、可輿上考、或步射巳空南箭、或騎射只中、箭之顚、乃降莫考、〉其馬蹶不中、及迸走去的者、不入訪過、或雖シ弓馬不灼然、而恭勸謹愼、宿衞如法之輩、弓若馬、便脅一藝肩輿上考、
p.0144 凡欝刀沓人、步射騎射各十人、亮定手萱訖設饗給蕀、步射、人別衾一條、〈長垣讒小黐衣一領〉騎射、半臂汗衫各一領、〈長加單小祖衣一領〉亮若有障、大夫代之、
p.0144 凡擬近衞者、預擇定便脅弓馬潘、入色卅人已下、白丁十人巳下い修奏違内侍、奏訖飜遣勅使、試其才藝、騎射一尺五寸的、皆中者、爲及第、步射斯六步、十箭中的四已上者爲及第、若一箭不中皮者、以二的准折、
p.0144 凡置兵衞著、預擇定便餮弓馬藩、入色廿人已下、白丁五人巳下蓚奏逕内佳奏訖剖遣勅使試其才藝騎射一尺五寸的、皆中者爲友第、步射瓣六步、十箭中的四已上者、爲及第、若一鴒不ヅ中皮者、以三的准折、
p.0144 嘉詳三年八月己酉、右兵衞督正四位下坂上大宿瀰淸野卒、淸野、大納言正二位田村旛呂第鱈子也、少慣家風、武藝絶倫、嵯峨太上皇在東蜜時年十八、爲春宮少進、驀時天皇〈○平城〉御琉德蠻特簡天下騎射拔群之士廿人、覽逗才品、爰淸野、以春宮少蓬黐參箕麌又命步射士佐味香飾艤驫飯高常比廨呂、淸野等三人競射、淸野、爲三人之先鸚巫、天皇甚奇愛之、
p.0144 天安元年六月壬申、遣勅使於左近衞馬場蚕試春宮坊攝滯刀舍人步騎兩射、各定其科、 先是坊司請、加珞舍人十人、其時服日食、便用職物、許之、故試補焉、
p.0145 大的上覽拜御射初百手的之事
一大的上覽の始は、大猷院樣〈○德川家光〉御代、寬永十四年の秋、西九山里御庭において、御番方的射、上覽有之、但此時の射手姓名中附、拜拜領物の品丕知、此後も度々可有之哉之程不知、其後嚴有院樣〈○德川家綱〉御代、明曆二年四月廿三日、於二丸、大的上覽有之四本射中附、
〈御花畑御番〉 石野權大夫 布施雅樂 永井慱八郎
坪井小左衞門 安藤與十郎 小長谷七郎兵衞
前田五左衞門 黑田源右衞門 榊原大膳
本目權兵衞 松平左門 永見權七郎
赤井彌平兵衞 神保源五左衞門 小笠原孫六
〈御書院番〉坪内又左衞門 細井宗左衞門 中山藤兵衞
松平賴母 北條新藏 向井八郎兵衞
前原久右衞門 島彌左衞門右立つくばい四本射、吉田粂之助事、萬事差引いたし、矢取は天野市之丞、畔柳助九郎役之、畢而見物之面々、御目見被仰付、射手之面々は、於大廣間酒井雅樂頭御渡、時服二ツ宛被下候、同晦日、於同所大的上覽、四本射中附、
〈新御番〉 三浦小左衞門 富田八郎右衞門 貴志孫大夫
河内新右衞門 田村金兵衞 窪田三郎右衞門
飯室金左衞門 廣戸彌右衞門 〈大御番〉大岡權六郎
勝部又兵衞 島藤右衞門 横地七郎兵衞 淺羽次大夫 小林新左衞門 原田駒之助
植村庄右衞門 〈小十人〉野間五左衞門 石野八郎右衞門
岡部庄兵衞 榎本壬八郎 松本五郎大夫
加茂宮與總右衞門 浦野權兵衞 河野九郎左衞門
神谷庄十郎
右去ル廿三日之通、時服二宛被下候、此後拜領物、金壹枚ヅ、被下候事、 天和二年三月十八日、於二九大的上覽、〈○德川綱吉〉人數百十六人、御小姓組四十五人、御書院番三十二人、新御番八人、大御番廿七人、御納戸御番四人、小十人御番十人、其後寶永六年九月廿三日、於吹上御庭、大的上覽、〈○德川家宣〉兩御番、新御番、御腰物方、御納戸御番、大御番、小十人御番、郡合百四十三人、但壹組三人宛、矢數一手射、拜領物、時服二ツ宛、 正德元卯年四月廿六日、於吹上大的上覽、御小姓組三十人、御書院番廿七人、新御番十八人、御腰物方三人、御納戸御番六人、大御番十八人、小十人御番三十人、同五月十六日、射手人々を被爲召於躑躅之間、井上河内守殿申渡候、大判壹枚ヅ、被下候、伊勢平八郎、村瀨伊左衞門、萬事差引いたし候に付、是又壹枚ヅゝ被下候、享保十二年七月廿一日、於吹上御庭、大的上覽、〈○德川吉宗〉矢數六本射三度弓皆中之もの江於御前時服二宛被下、皆中無之者江、御次に而被卞之、是より毎年春秋、上覽連綿己なる、 寬保元年四月十一日、於濱御庭、大的上覽、〈四本射〉實曆十年十一月七日、矢數二本射、大的上覽、〈○德川家治〉皆中之者江計、拜領物有之、文化八年十二月、二醫減御儉約被仰出候、〈文化九年ゟ同十三年迄〉五ケ年之間、毎年之大的上覽、隔年ご成、人數壹組ゟ三人ヅゝ出候處、二人己成、西九方も、五人出る組は三人、七人は五人、六人は四人、騎射帶佩も隔年こなる、小普請の大的上覽は年限中無之、文化十四年ゟ、元の如くに相成候事、
p.0146 一十五日〈○天和二年三月〉 一來十八日、於二丸酌藝上覽可被遊ノ旨、御譬頭中へ被仰渡之、
一同日〈○十八日〉巳後刻、ニノ丸へ渡御、御的上覽老中若年寄衆御供、
一十九日、昨日於三ノ丸ハ的被仰付面々、黃金一枚宛被下之、布施孫兵衞、的ノ指圖被仰付二依、時服二被下之、
p.0147 正德元年囚児廿六日、吹上にて番士の射藝御覽あり、的は尺二なり、少老久世大和守重之、大目付折井淡路守正辰、横田備中守由松、目付伊勢平八郎貞勅、村瀨伊左衞門房矩、伺蚕す、奧右拳もまかりて注記の事をつとむ、射手は小姓組二十九人、書院番二十七人、新番十八人、腰物番三人、納戸番六人、大番十八人、小十人組三十人、
p.0147 右京大夫輝貞、〈○松平〉少壯の時より、常憲院殿〈○德川綱吉〉殊遇を蒙ち、いさゝかも身のい鸞まなかりしかざ、つねに弓馬の道をたしみ、武備怠らず、〈○中略〉されば家人等、武邊に怠らず、騎射なざすぐれしものもおほかうしかば、享保十二年五月の半、内々御氣色あ夢て、吹上の馬場にて、右京大夫が家從數十人の騎射を近忽の人々に見せしめらる、實は御みつからも、ひそかに御覽ありける古ぞ、次の日御側の衆して、右京大夫、武をみがく志あつく、其敷よろしきにより、家人等、みな武事にすぐれたり鬟、あつき仰を蒙ちける、
p.0147 享保十二年七月廿一日、此日吹上の御庭にて、大番士の大的を御覽あ蔘、十々の者には、御前にて藤をたまふ、大譬の士の射をけみし給ふはじめなり、
p.0147 一享保十三申年八月、於欧よ諸番衆、遠的之射藝上覽、
p.0147 寬保元年四月十一日、大納言殿、〈○德川家重〉濱の御庭よう深用へ渡らせ給ひ、永代寺の庭にて、兩番士大的御覽あり、射手四十人、祿例の如し、
p.0147 諸士の騎射步射、おこたら争試させ玉ひしが、射あてゝ物を賜はるもの おほき時は、御氣色うるはし、もしあたりすくなく、碌賜はるもの少ければ御不興なり、的はつしたるものある時は、その事をつかさどる小納戸頭取を近くめして、今の矢は、はつれたるにはあらざるべし、箭つり羽打せし債に見えしそ、能々吟味せよと命せられ、再三吟味したるうへにて、はつれしに定まりしことなどありしとそ、これは其時に射手となりて出し人々、今も猶かたじけながち語りつたふ、又射手一同にあたりし時には、ことさら御氣色うるはしく、碌賜はりし後にも、度々稱美の御詞たまはうし蓬なり、
p.0148 いづれのころにや、五十三間の御庭にて、近脅の人々に的を射さしめて御覽あうしに、竹本次左衞門長景、乙矢をはづしけるを、今の矢はあたりと見えし己仰あちしかば、あたちになりぬ、それにてこの時の射手は、のこりなく碌をたまひぬ、次左衞門、一人射はづして、獨り祿にもれむは、面目失ふべし芭の御ことなるべし、その德意を人々か沱うづたふ、射藝を閲し玉ふ時、か樣のことゞも時々ありしとなり、
p.0148 大的上覽拜御射初百手的之事
一遶的上覽の始は、享保十年八月廿八日、於隅田用遠的上覽、矢數六本射、御好二本射、尤根矢ニ而致候由、御小姓組七人、御書院番七人、小十人組十二人、
右中リ候者〈江〉、於御萠海黃島弍堂人ヅ、罷出奔領、
p.0148 一半的上覽 安永八亥年五月朔日、王子筋江被爲成、於中里御用屋敷、半的上覽有之、此後天明二寅年二月九日、於同所、半的上覽有之、
p.0148 一弓術堅物上覽 御遞例、文政十亥年九月廿三日、高田筋御成、於喬田馬曇弓術堅物上覽有之、桶頗胴七間半印シ、 胴射拔 ○外レ カハ予カへ声 但シニ本ヅゝ
〈御小姓組岡部丹波守組〉大津左門 〈同人組〉倉橋彌四郎 〈大久保上野介組〉春田助太郎 〈溝口備後守組〉金澤瀨兵衞 〈西丸御小姓組岡部因幡守組〉津金新十郎 〈同人組〉川窪吉次郎
〈御書院番米津内匠頭組〉伊勢平八郎 〈同人組〉永井傳吉郎〈○以下十五人略〉
右總體〈江〉、色羅紗壹間宛、拜領被仰付之、
p.0149 文久二年閏八月廿九日弓術上覽ヲ廢ス
周防守殿御渡 以來御射場始め、其外都て弓術上覽は、御差止相成候、
p.0149 蓮華王院 世謂三十三間堂也 後白河院本願、而安置千手觀音像一千體〈○中略〉近世武家射藝者、毎初夏登此堂百曉至暮放矢、其數至一萬、其内直發者、是謂通矢、此堂亦妙法院之所主、而坊官松井三河監之、凡三十三間、毎一間量法二間也、故其放矢之際、六十六間也、
p.0149 三十三間堂矢數、毎年四月五月永日之日、候晴天而作此妻
p.0149 矢數 此起ハ、往昔東山今熊野觀音堂ノ別當、元來武家ノ後裔タルニ因テ、射藝ニ僻セリ、折々八坂ノ靑塚ヲ射テ歸ルサニ、卅三間堂ニ休居テ初テ繰矢ヲ射タリ、是ヨリ濫觴ス、其後慶長十一年正月十九日、石堂竹林ガ弟子、淺岡平兵衞ト云者、初テ五十一筋ヲ通シテ名譽ヲ得タリ、其ヨリ後、諸國ニ射ヲ以鳴ノ士、思々ニ上洛シ、此卅三間堂ニ來テ、矢數ヲ射、弓勢ヲ爭ヒ、今ニ至テ天下一ト稱スル者、卅九人也、今ハ尾陽ノ星野勘左衞門ト云者、通矢旣ニ八千ノ數ヲ射タリ、凡矢數ヲ射ノ樣子ハ、今日ノ暮ヨリ射初テ、明日ノ暮ニ終也、夜中ハ矢先ニ篝ヲ燒、扨總矢數何程ノ内、通矢幾何筋ト定也、是ヲ大矢數ト云、日ノ内計、射ルヲ小矢數ト呼也、矢先ノ芝ニ、人多再拜ヲ振テ、矢ノ飛毎ニ聲ヲ立ル、是ヲ芝旄ト云、射前ニモ七八人居テ、矢ヲ發度毎ニ、旄ヲ擧テ聲ヲ掛ル、是ヲ送聲其、逸旄其云ナリ、又堂見トテ六人アリ、是ハ今ノ世ニ、弓ノ流義六振アリ、一振ニ一人宛ナレバ也、何モ矢細工絃細工等ノ職人也、其日ノ射手ノ流義ニ因テ、同振ノ堂見一人、外ノ振ヨリ一人、凡二人相並テ旄ヲ振、是ヲ一ノ旄二ノ旄ト云、同振ノ者ハ、一ノ旄ヲ振ズ、若射手ニ晶屓ノ義 モ有べキカトノ憚ナリ、然其其日ノ司ト成テ通ヲ見定、外ニ又檢見黏云テ、松井三河噺云者アリ、右ノ堂見六人、遒矢何程ト記セ戸帳面ニ判形ヲシタ、其證攝ト成役人也、サレバ右ニ云六派トハ、吉田印西、〈俗名助左衞門〉同雪荷、〈六左衞門〉同大藏、木村壽德、伴道雪、〈喜左衞門〉石堂竹林、此六流也、是皆共ニ日置ノ一流ヨ夕芬タヲ、根本日置ノ某メ、大和ノ國ノ士タジト也、日置彈正正次ナンド云シ非、實琢弓ノ名達也、
張前十云事ア夕、譬バ一二本ノ通矢鷆テモ札ニ記テ、其射手ノ名ヲ書、堂上ニ懸也、是モ松井三河ガ檢見セザレバ慥ナラズ、百射千射亦同、
百射ト云ハ、總矢數一百筋ト定テ、其内ノ邏矢、何分ニ當リトス戸也、是モ札昧記斑グ堂上ニ掛ルナリ、
千射ト云ハ纏矢數千筋ト定テ、通矢ノ勞ヲ見ル事也、是ハ近來始タ方義ニテ、然モ其例天下ニ流布シ、諸國ヨヲ上京シ、弓勢ヲ爭ガ故ニ、旣ニ百射千射ト一例ス、是ハ郎寬文七年ノ春、紀州ノ太守亞相公、百射ノ例ヲ以、家士五人ニ命ジ、始タ千射ヲ成シム、五人トハ葛西源五左衞門、同園右衞門、德田甚三郎、吉田才右衞門、岩橋長太郎也、是各九芬餘ノ邇矢ヲ得タジ、猶矢數帳ニ出セリ、
p.0150 世ニ傳フタ所ハ、後白河院御在位ノ時、吉野ノ奧ニ蕪坂源太トイフ老アリ、生國ハ紀伊國熊野山蕪坂トイク所ノ者ナレバ、其字ヲカク云ケリ、此男常ニ狩スル事ヲ業トス、精兵ノ手キ、ニテ、二町ガ程ヲ隔テ走声鹿ヲ、ハヅサデゴソ射タジケ气アル蒔里人集テ、ソレガ弓勢ノホドヲ試ム声ニ、差矢三町、違矢ハ八町ヲタヤスウ射ワタシケシベサタコソ、差矢三町、遠矢八町トハ名ヅケ、レガクテ保元ノ氤孅來シ時、興幅寺ノ衆徒等ニ催サレテ、新院ノ御方ニ馳參ルエ、新院ノ御軍ヤブレヌト聞エシカバ、衆徒等ぶ南都ニ引返ス、源太ハ、同隷其六七人伴ヒテ、郡ノ中、コ、カシコメグジ見テ、得長書院ニ至夕、此御堂ト申スハ、凡ハヨノツ子ノ二間ヲ一間トナシ テ、三十三間ニ建ラレタリ、源太、アツハレカ、ル所ニテ、ヲノガ弓勢ヲモ、タメサメト思ヒテ、ヤガテ御堂ノ後ニ廻リテ、芝ノ上ニヒザマヅキイテ、マヅ例ノ差矢ニ射タフシニ、御堂二タケニ餘ヲテ射ワタシツ、次ニ御堂ノ緣ノ上ニ上リ居テ、小キナル根スグタル矢取出シタ、軒端ノ下ヲ射フタスニ、七筋マデアヤマタズ御堂ノ内ヲ射卜ホシテ、餘ル矢ハナヲ御堂ノタケニハアマリキ、此事ハ保元ノ日記ニ見エタル也、ハルカニ代ヲへダテ、後、文碌ノ比、東山今熊野ナル觀音ノ別當ノ坊アリケリ、此坊モト弓矢トル家ヨリ出タレバ、僧トナ夕テモ、ナヲ此事ヲ好テ、常ニハ八坂ノ靑塚ニ向ヒ夕遠矢射ル、此堂ノ邊打過ルトテ、彼源太ガヤウニ差矢射ル事モアリケリ、サレド其比ニハ、矢ノ數多ク射ルニモ及バズ、慶長十一年正月十九日ニ、淺岡五兵衞尉トイフモノ、始テ五十一筋ノ矢射トホシテヨリ、此事ヲモテ其藝ヲ試声事ニハナリタフ、
p.0151 一京都三十三間堂ニ於テ箭數ノ事、蓋シ根元ハ、東山今熊野觀音ノ別當、何某ノ坊ト云ル、弓ヲ數奇ケル故ニ、矢坂ノ靑塚ニシ夕射ノへヲ以テクリ、其歸ルサニ三十三間堂ニ休ミ、ケルガ、爰ニ於テ初テ射初シト也、亦云ク、後白川院三十三間堂ヲ御建立有テヨリ、六金紳ト申ス事始ルトモ云リ、此外モ色々ノ説ト云へドモ、イヅレカ是ナルコトヲ知ラズ、且亦往昔ハ、タンヒヤウト云テ、イカニモ輕キ矢ニテ次緣ヲ拵ラへ、風ニ任セテ遠矢ヲ射タルト也、然ドモ風次第ニシテ、此方ノ弓勢ノ外ノヤウナリトテ、相續モナキカ、但シ、タンヒヤウノ起リハ、松平下野守忠吉ノ家臣川瀨權内ト云シ人、遠矢ノ無雙ト云ヘリ、亦同キ家臣村田與助トモ云、尋ヌべシ、扨亦射前事起テ後、一筋二筋或ハ十筋廿筋ゾヌケ箭ハ際限ナキコト也、然ドモ古人モ記シ置タル哉、悉クハ見及バズ、尤過ツル箭數ノ事、覺へタル者モナキカト見ヘタリ、依テ古老ノ其道ニ詳カナル人ニ、彼是ト聞集メテ左ニ記ス、
堂ノ長サ六十四問一尺八寸六分、但シ緣ノコグチヨリ、同キコグチマデ也、 一繖矢五十一 天下一 〈松平下野守家臣〉淺岡平兵衞
一同百二十六 天下一 〈伴喜左衞門弟子〉上田角右衞門
一同百五十九 天下一 〈戀人弟子〉筒井傳兵衞
一同百七十 天下一 〈同人弟子 松準下野守家臣〉鹽屋角左衞門
一同百七十一 天下一 〈同人弟子 松平下野守豢臣〉櫛田次左衞門
一同百八十八 天下一 〈同人弟子 遠野祀伊守家臣〉吉田五左衞門
一徹矢二百五 天下一 〈右ハ吉田雲齋弟子 遠野紀伊寺篆臣〉日置淸順
一同二百十一 天下一 〈木下右衞門大夫家臣〉伴半右衞門
一同二百二十 天下一 〈伴喜左衞門弟子 松平肥前守家臣〉堀江助右衞門
一同二百卅四 天下一 〈伴喜左衞門弟子 松平肥前守家臣〉吉田大内藏
一伺三百八十四 天下一 吉田大内藏
元和六年三月廿一日
一同五百卅四 天下一 〈紀伊ノ家臣〉糟谷左近
同年四月十七日
一同五百八十四 天下一 吉田大内藏
元和七年四月廿四日
一徹矢七百五十六 天下一 吉田大内藏 同年五月廿一日
一同九百 天下一 〈松平加賀守家臣〉矢島平左衞門
元和九年五月二日
一同千三百廿三 天下一 吉田大内藏
總數二千八十七筋也
寬永四年四月七日
一同千四百四十四 天下一 齋藤勘兵衞〈吉田六左衞門弟子〉
總數二千二百五十六一同千五百八十三 天下一 糟谷左近
總數二千五百九
同年同月廿四日
一同千七百三十 天下一 落合孫九郎
右總數二千五百三十
一徹矢千七百四十二 天下一 吉田大内藏
總數二千七百七十五
同六年四月七日
一同千七百四十六 天下一 下村忠右衞門
總數三千百十二
同年同月十日
一同千八百五十二 天下一 落合孫九郎 總數三千三百十七
同年同月廿七日
一同千九百二十 天下一 山内半介
總數四千六十
同七年四月六日
一同二千五十二 天下一 糟谷 左近
右ノ總數三千五百六十八
同八年三月廿八日
一徹矢二千二百七十一 天下一 吉田小左近
總數三千七百
寬永
一同二千八百措五 天下一 大橋 長藏
總數五千三百二十
同十一年四月廿四日
一同三千百五十一 天下一 高曲八右衞門
總數五千三百廿
同十二年四月一爲
一同三千四百七十五 天下一 杉山三右衞門
總數六千八十二
同十四年三月十三日 一同三千八百八十三 天下一 吉井助之丞
右ノ總數六千貳百八十五
同年三月十五日
一徹矢四千三百十三 天下一 長屋六左衞門
總數七千百八十
同年同月十八日
一同五千四十四 天下一 杉山三右衞門
總數七千六百十一
明曆二年閏四月廿一日
一同六千三百四十三 天下一 吉見臺右衞門
總數九千七百六十九
實文八年五月三日
一同七千七十七 天下一 葛西園右衞門
總數九千
同九年五月二日
一同八千 天下一 星野勘左衞門
總數一萬五百四十二
p.0155 三十三聞堂相傳云、洛陽三十三聞堂にて、矢數射初し起りは、東山今熊野の觀音堂別當何某の坊とやらん、弓をすきて、八坂の菁塚にて射始め、其歸りに三十三間堂にて休み、初めてくり矢にて射始むと、矢 數の濫觴是なり、于時永祿八年四月十九日也、
p.0156 一洛東蓮華王院〈三十三間堂也〉の數矢は、始め東山淸閑寺の信某、射を好て時々射ける、是に習ひて、射藝の士、遠矢を射ける、一緣づ、南へ緣を繼出して、添て一間も遠矢を勝こせしを、尾州の 士、上野氏小左衞門、三十間延て射しより、遠矢を止て數矢とせり、慶長十一年に、淺岡氏平兵衞、始て直發五十箭を通せしより、次第に數まさりて、八千餘を遘す事にはなり譫、
p.0156 慶長十一年正月十九日、諸大名の内、弓上手京へ上り、卅三間堂を、さし矢にて射通す、薩摩殿御内の弓の衆、朝岡卆兵衞、五十一本射通し、今年の天下一也、
p.0156 一其頃〈○元和元年〉弓專らはやり候〈○中略〉
一其頃三十三間堂、つぎゑんご云ふこといたし、堂十間十五間退候て、通し申候事はやり申候、是も後はすたり申候、
p.0156 射者武藝之最也、不可不學焉、然善射者鮮矣彼紀昌貫虱、養由穿柳、異邦之美談也在本朝則鎭、西八郎爲朝、能登守敷經者、强弓精兵也、源三位賴政、那須與一宗高者、目當達者也、舞之者、今葛西氏某甲歟、是歲寬文第八五月三日、任近代恒例、於洛東大佛殿傍卅三間堂而射通矢、行年十九歲、忽得七千七十七數、而僞天下第一、可謂壯矣、予〈○中山三柳〉雖未見之、得庸軒子之詩賦、而旣知其詳、仍次其韻云爾、
人群大佛前、弦饗弧三天、莞爾見童喜愕然鳥獸翩、表斜申上刻、矢徹七千員、見者滿南北、兩軍祖兩肩、
p.0156 星野勘左衞門和佐大八事
矢數之事、濫觴は淺岡平兵衞と云士、慶長十一年、洛の三十三間堂におゐて、其弓勢を試初しより、相續ひて是を勵み試む事に成て、晝夜矢數と云ふ事始り、其邊の達者、追々に先輩の通り矢を射越て、是を總一と號す、世の諺、には、弓の天下と呼、慶長より六十餘年を經て、寬文の比、吉井助之丞、 長屋六左衞門、杉山三右衞門、高山八右衞門ゴ瓣見臺右衞門抔、其世の精兵、互に總一をいどみ諍ふ、爰に尾翹の家士星野勘左衞門、寬文二年に、六千六百餘の邏矢を射て、總一をとる處に、同八年紀翹の家士葛西園右攝門と云者、通り矢七千餘を以て、續一を紀州の方ヘ取返す、星野聞之て、此度は國元より八千の幟を染させて持參し、寬文九年五月朔日、暮藕より射かけ、翌二日午刻迄に、通矢八千本を、望之遘容易く射上ぬ、猶も射るべき餘慶あれども、左のみ射越なば、後日他士の望を失ふベし、然れば弓道の衰微に似たりと、愛に止らぬるこそ寔に英雄の志なれ、斯て星野は矢數終て、右の屆として京郡所司代町奉行へ騎馬にて勸廻う、其馬を南頭に振向て、意ぐに島原の遊里に赴き、夜と倶に妓婦に戯れ酒を勸む、其活氣宛も卒日の如し、見聞人美談せずと云事なし、然してより捨餘年之間は、總一尾州の方に止り有しを、貞享の比に至、紀州家士和佐大八、頻に是を鑿、稽古に身を委ねて、竟に貞享四年髑月十六日、盡夜矢數を張行し、總矢一万三千除、通矢八千百鷽三筋の榜を揚ぐ、
説に曰、此時大八郎、十八九歲、未角前髮の大兵にて、カ衆人に越て强勢也、窯かゐに譬爲の射掛ち矢振りあしく、通り矢甚だ少し斯ては願望空しからんと、各堅唾を飮處に、昆州の棧敷に、星野勘左衞門見物して有しが、倩見て思けるは、あたら若者、何とぞ願望を逾させ、弓の總一を讓らばやとおもひ、色々工夫して大八を招き、左の手を開かせ、小乃を以掌内を突皸り、血を留めさせ、其後射させけるに、夫よ套忽拍子直りて、竟に八千餘の邁り矢蓬成うぬ、星野が工夫、凡慮の及ぶ處に非ず、此驫野永く世にあらば、またく總一を射べきに、惜ひかな、夫より程なく星野世を去りぬれば、其後も度々大矢數張行の人は有れども、是を射越す程の精兵なし、其比迄は總一他家にはなく、尾州紀州の御兩家よち、互に競諍ひて是を取返し又取邏され、此勵み專ら成けるが、大八已後は其沙汰止て、年久敷成りぬ、其後柳澤家權勢熾ん成し比、右家中米田新 八〈後に從内〉萼云者、是を望、數度大矢數を企しか其、竟に本意を不途、明和の今に至まで、曆數八十餘年の聞、總一は紀州之御家に殘る、此和佐大八は、尤總一を射たりといへども、奘術星野とは雲泥の違ひ也、星野は其態寬優に餘慶有て、笳引には、良久しく熟睡して鋭氣を養ふ、諸人是を見て、斯ては時移う望を失む芝、各取々に評する處に、起上りて射出す所の矢勢、疾風の如く、其矢悉く闇みの所を拔て、落矢は稀にも無ちし霍や、斯くして本文之如く、午時に至程に射上げけるこなん、其世の倉の語りし、是に反して和佐の矢には振込多く、寔の遘り矢は少なかりしとぞ、是堂見の方へ賄賂する故なりと惡説せ蔘、其上末に至程、次第に射前をにじ参鑷て、堂檐の半ばにて射たりとて、其比甚評刺惡しと也、實も射前を動棗るは、邇り矢の差別、大に違ふ事なれば、惡みけるも理り也、去る仍、和佐以來、射前に證據木と號して、閲貰を入れ、不作法を制止す、
p.0158 一同年〈○寬文九年〉五月二日ニ、尾張殿家來星野勘左衞門、京都亡於テ矢數ヲ勤ム、所謂總矢數一万五百四十二筋、内通矢八千筋、
右ノ矢數ノ内、葛西園右衞門二、九百廿三筋射越スヨシ、
p.0158 貞享三年四月廿六日、夕飯後出京、卅三間門に而、赤塚土佐に逢、今夕ゟ吉見大右衞門弟子和佐大八、〈紀州家來、廿二歳、〉大矢數、因土佐、緣堂ノ西、日ヲゝイ下ニ而見物、暮六ッ音射出、尤力ヾタ燒候匙、大八射出之作法トテ、別成盡も無之、袴肩衣も不著、白衣に而、射出ス前ッ声メ、借ザイヲンヨ上デ、學ヲ上ゲテ次イダス也、通リ六七分也、初夜前歸了、 廿七斷、和佐大八、申下刻、矢數日本一二成、邇矢八千百蹴三筋總矢數登萬三千曇、今迄ノ日本一ハ、尾翹家來星野勘左衞門也、遘矢八千八筋
p.0158 三拾三間堂由緖書
三瀝戸三十三間堂のはじめは、野傳にいへる所は、慈眼大師甫光坊、御發起の由、何、の御思惟共、提 かうがたし、諸士御繁榮、弓術すたれざるために、淺草において、堂地、官にこはせられしとかや、其比新兩がへ町弓師備後と申者、諸侯御家々々に勸化仕べき旨あち、剿備後諾方相廻ち、造立の料すみやかに相とゝのひ、其折しも鹿鹽久右衞門覦、堂造立から木立千五百爾を以約諾落成す、時に備後勸化の金殘らず私に用ひつくし、其債を償はざるを以、是非に不及、御奉行所〈江〉訴へ、御吟味の上、備後不埓に付、堂地ざもに永代久右衞門〈江〉下し給はり畢、爾來御諸士檬方御修行相募ら、江戸一といふ事いつ鸞もなく始れち、頃日百射千射をはじめて、日矢數江戸一に到まで、諸家御丹誠の跡を印己ゞめ、憚多き事ながら、御壯年攝方の御勵の爲にも己、京橋彎町ゆがけし、今亥の己し逡、百三十餘年相續住居仕候、釘貫利右衞門これを企、新に板行仕候也、
一淺草にて此先、堂の御修補毎に被御付ジ其後元祿年中寅九月六日、燒失の後、深川今の地にうつされ、讃侯御家々々に、勸化割合を以被仰登堂出來仕畢、
一正德三年巳十二月、堂燒失仕、先規の如く勸化仰付られ、堂出末仕畢、一享保十五戌八月、大風雨にて堂吹倒畢、
一實曆二申歲新二今の堂仰付られ田來仕候也、
寶曆五乙亥年三月吉日
弓町矢見
作者 釘貫利右衞門
深川三拾三間堂矢檢見
〈京橋弓町〉釘貫利右衞門師高
三宅九八郎堅當
藤岡藤右衞門在昌 竹内庄左衞門廣重
田村利兵衞元勝
筋引 田中市郎右衞門好富
堂守鹿鹽久右衞門
p.0160 三十三間堂 同所〈○深川富岡八幡宮〉二町ばかり東の方にあり、相傳寬永年間、〈或人云、十九年なりと、〉大江戸の弓師備後芭いへる者、射術稽古の爲、京師蓮華王院を摸して、三十三間堂を創立せん事を乞、依淺草において地を賜ひ、諸家に勸進して建立の功を募る、こゝに於て同十九年壬午十一月普請落成す、〈浅草淸水寺の邊を令矢崎と字するは、三十三間堂の舊地なればなり、その地今は町家となれり、俗間堂前と唱ふるも、三十三間堂の前と云べき略語也、〉然るに元祿十一年戊寅九月、回祿の災に罹て友燼せしかば、其後今の地に移させられたりとなり、
江戸三十三間堂矢數帳に、慈眼大師の發起なりとあり、又十説に、むがし森刑部直義ミいへる射術 一流の武士、これな建立し、江戸射術の逵人數輩と共に、力存盡せし所なりとぞい へり、
p.0160 一武州淺草ノ堂形ニシテ、正保三年四月十四日ニ、阿部豐後守忠秋ノ家臣、海野二左衞門、根矢ヲ通シケリ、是根矢ノ元祀歟、
正保三年四月十四日
一根矢ノ徹箭二百五十三 天下一 海野二左衞門
總矢數千五十筋
慶安三年三月廿八日
一同徹矢三百 天下一 齋藤勘右衞門
總矢數一千筋
慶安四年三月廿一日
一厨徹矢三百七十 天下一 近藤甚五兵衞 總矢數
同五年三月十三日
一同徹矢五百卅三 天下一 〈内藤帶刀家臣〉三宅四郎兵衞〈糟谷左近弟子〉
總矢數二千三百卅三
同年同月十六日
一同徹矢二千二百三十七 天下一 〈保科肥後守家臣〉高橋市郎右衞門
右總矢數五千五百五十七
一寬文八年四月十八日ニ、奧平美作守家臣、簗瀨勘兵衞ト云者ノ男ニ、簗瀨龜之介、八歲ニシテ、武州三十三間堂ニシテ、徹矢ヲ勤ム、總矢數六千五百、内通矢三千七百也、弓ノ師ハ木村河内、捗又弓ノ長サ四尺八寸、〈分ハ五分玉リン〉矢尺ハ壹尺七寸也、弓師ハ江府弓町二郎兵衞、矢師ハ同町吉左衞門ト云者也シ、龜之介、今ハ内記ト改ム、
p.0161 文化十四丑四月十五日、於深川三十三間堂、
大矢數
江戸一 〈尾張殿家士 權七郎砕 二十二歳〉杉 立 信 吉〈藤原正俊〉
總矢九千百五十九本
通矢五千三百六十八本
夕七ッ時前射越其後
百射
通矢五十九本
當日役懸リ 一矢宛行 杉立權七郎〈藤原正邑〉
太田甚大夫
一總目付 山本半左衞門
一射前世話笳奉行兼 細併主税
蒔田正十郎
山本淸五郎
一矢吟味 加藤鎌吉〈藤原正伸〉
波多野彦右衞門
一分附 鈴木珊輔
具野五郎左衞門
稻熊金七郎
矢部作兵衞
三浦平七〈源正明〉
藤井内匠
一射手支度掛り 長尾勝之助
加藤鎌太郎
〈町醫師〉水野内藏
宇野七郎
角田兵十郎
柴山又七郎〈源幸友〉 一櫓目付 若原僅右衞門
幡野衞守
〈土佐家中〉原田左源太
小島吉右衞門〈藤原道直〉
一味方扇
小倉鍵一郎
祠保鎌太郎
山本榮吉
加藤鐵三郎
佐溝榮次郎
新澤等
柳生柳之助〈菅原數通〉
岡嶋春藏
平岩初藏
藤八十吉
〈成瀨隼人正家來〉高島岩太郎
平尾平馬
二宮主税
加藤兼左衞門
本田新九郎〈藤原一政〉
太田長作 市口兵左衞門
一矢見目付 海野太郎左衞門吉田儀十郎
一矢見
細井藤八
犬飼五郎兵衞〈藤原鑽〉
吉田兵助
木村絞助
高橋爲藏
寬文元丑五灣二日
江戸一 〈松平遠潅守内〉深田伊右衞門
總矢八千六百五十三本
通矢四千七百五十壹本
同四辰五月廿一口
江戸一 〈酒井修理大夫内〉鉛木萬右衞門
總矢九千九百四十九本
通矢五千三百壹本
元蕀十丑四月六日
江戸一 〈酒井雅樂頭内〉町田小助
總矢壹万五百十五本
通矢五予三百五十三本 右置三弔三間堂淺艸堂前ニ有之節
p.0165 江戸淺草三十三間堂日矢數射越之部
〈正保二戌年四月十三日〉一通矢千三百拾本〈總矢三千五百四拾四本〉 〈浪人〉服部權左鵆門〈○中略〉〈大橋長藏指南〉
〈元祿十丑年四月六日〉一通矢五千三百五拾三本〈總矢壹万玉百拾五本〉 〈酒井雅樂頭内 九年目射越〉町田小助〈村上三玉兵衞指南〉
從寔深川堂
〈文化十四丑年四月十五日〉一通矢五千三百六拾人本〈總矢九千百五拾九本〉 〈尾州 百廿一年目射趨〉杉立信吉〈同苗權右衞門指南〉〈翌十六日射越終テ射次申中刻前〉通矢五拾八本〈總矢百射〉 同人
〈嘉永五子年三月廿日〉一通矢五千三百八拾三本〈總矢壹万四拾五本〉 〈酒井雅樂頭内 三拾六年目射越〉鶴田辰太郎
〈淺草〉三十三間堂日矢數
〈正保二戊年四月十三日〉一通矢千三百拾本〈總矢三千五百四拾四本〉 〈浪人〉服部權左衞門〈○中略〉〈大橋長藏指南〉
〈元祿十丑年四月六日〉一通矢五千三百五拾三本〈總矢一万五百拾五本〉 〈酒井雅樂頭内〉町田小助〈村山三五兵衞指南〉
従是深川堂
〈元祿十五午年五月五日〉一通矢千三百貳拾本〈總矢三千玉百本〉 〈松平美濃守内〉永井友右衞門〈○中略〉〈永井彦大夫指南〉
〈文化十四丑年四月十五日〉一通矢五千三百六拾八本〈總矢九千百五拾九本〉 〈尾州〉杉立信吉〈父檀右鵆門指南〉 〈翌十六日翳蠡鯵ヂ申中刻前〉通矢五拾八本〈總矢百射〉 同人
〈浅草〉三十三間堂千射之部
〈正保二戊年四月十四日〉一通矢貳百五拾三本 〈阿部豐後守内〉海野仁左衛門〈○中略〉〈根矢 糟谷左近指南〉
〈元祿十一寅年四月十六日〉一邏矢六百三拾八本 鈴木團之丞〈讎人人(德濁苧七)指南〉
從是深川堂
〈竇永元申年十月七日〉一遞矢九拾本 〈毛利飛驒守内〉山岡文藏〈○中略〉〈山岡九左衞門指南 十五歲〉
〈同年(文化十三年)五月三日〉一通矢六百拾壹本 〈有馬左兵衞督内〉太田尾從太〈槲岡水雫三節齢指南〉
〈浅草〉三十三間堂百射之部
〈延竇八申年四月十五日〉一通矢六拾八本 加藤香右衞門〈○中略〉〈森川香山指南〉
〈同年同日〉一涌矢六拾四本 相馬孫五郎〈森川貞兵衞門指南〉
〈貞享三寅年三月廿二日〉一通矢拾九本 〈松浦肥前守内〉御厨小三郎〈氷間有右衞門指南〉
從是深川堂
〈寶永七寅年二月廿五日〉一通矢四拾六本 〈諫早豐前守内〉立山郡右衞門〈○中略〉〈深井傳左衛門指南〉 〈同年(文化十三年)五月六日〉一通矢五拾九本 〈仙石越前守内〉增田太一郎〈眞鍋彦五郁指南 龜井矩藏元取立〉
〈淺草〉半堂大矢數之部
〈寬文八申年四月十八日〉一通矢三千七百壹本〈總矢六千五百三本〉 簗獺龜之丞〈○中略〉〈木村丈内指南 八歲〉
〈元祿九子年四月廿二日〉一通矢九千五百九本〈總矢壹万千百三本 小根矢射越〉 〈佐竹右京大夫内〉高幡軍藏〈高山市大夫指南 十四歲〉
従是深川堂
〈元綠十六未年四月廿三日〉一通矢壹万拾壹本〈總矢壹万貳千貳百七拾五本 射越〉 〈石川備中守内〉梶川正藏〈○中略〉〈村山三五兵衞指南〉
〈文化七午年五月朔日〉一通矢壹万千七百四拾七本〈總矢壹万三千九拾五本〉 渡邊彌三 郎〈久保田源藏指南 十四歲 大沼優之助世話〉
〈淺草〉半堂千射之部
〈貞享四卯年六月十七日〉一通矢九百拾四本 田倉次郎三郎〈○中略〉〈松尾權兵衞指南 十歲〉
〈元祿八亥年五月十一日〉一通矢九百五拾五本 〈松平周防守内〉石井虎之丞〈同苗又八次男 八歲〉
從是深川堂
〈元祿十五午年閏八月十一日〉一通矢九百八拾本 〈酒井雅樂頭内〉國府田長之助〈○中略〉〈根矢 上原源内指南 十三歲〉
〈文化十一戊年四月十六日〉一通矢九百四拾七本 〈板倉内膳正内〉栗屋宗太郎〈竹澤懷苧指南 九歲 服部彦四部世話〉 〈淺草〉半堂百射之部
〈元祿九子年五月廿三日〉一通矢六拾本 杉本鍋太郎〈井田火藏指南 六歳〉
徒是深川堂
〈元祿十五午年五月三日〉一邇矢七抬七本 〈毛利飛驒守内〉山 岡 半 彌〈○中略〉〈由纖九左衡門指南 十二歲〉
〈文化十四丑年三月廿八日〉一通矢九拾六本 〈尾州〉山本米吉〈根矢 杉立懽右衛門指蘿 十三歲 同苗借吉取立〉
p.0168 一正德三年癸巳四月、東都深川の射場〈三十三間堂前也〉にして、高瀨金彌霍云十歲の重、〈紀伊公果譬師高瀨喜朴が子也、璽石孫三鄭さ云預人の弟子と云々、〉厥〈半堂〉の數矢射ける、〈廿日の夕刻より、廿一日の申功鑵まで、〉矢數通り計り一万三千、其直發するもの一万一千五百七十八本こなん、紀公是を稱しましくて祿二百石を賜ふ〈中ノ間貳番〉と、東なる人より申遞り侍うし、實においさき參山を推し、虎尾を握るすがた、三軍を助け四維を修むべき勢あらん、かゝる奇董も世にあれば、又才德の人、豈なかるべけんや、
p.0168 従是深川堂〈正德三巳年四月廿一日〉一通矢壹万千五百七拾八本 〈紀州〉高瀨金彌〈鹽見孫左衞門鬚南 十歲〉
p.0168 新三十三間堂
若水やきのふの箭見も木綿うり
p.0168 二十五年十月己酉、遣日本武尊苓擊熊襲蒔年十六、於是日本武尊日、吾得蠱ぬ射者欲與行癬其何處有善射者焉、或者啓之日、美濃屬有善射者百弟彦公、於是日本武霹、鐸葛城人宮戸彦、喚弟壕公、故弟彦公、便率石占横立、及尾張田子之稻置、乳近之稻置而來、則鹿昆本武尊而行之、
p.0169 十二年七月癸酉、高麗國、貢鐵盾鐵的、 八月己酉、饗高麗客於朝、是日集群臣及百寮、令射高麗所獻之鐵盾的、諸人不得逾的、唯的臣祀盾人宿禰、射鐵的逼焉、時高麗客等見之、畏其射之勝巧、共起以拜朝、明日美盾人宿輌而賜名日的戸田宿禰、
p.0169 十八年八月戊申、遘物部菟代宿禰物部目連苡伐伊勢朝日郎、朝日郎、聞官軍至卽逆戰於伊賀靑墓百矜能射譌官軍曰、朝日郎手、誰人可中也、其所發箭、穿三重甲、官軍皆懼、莵代宿禰、不敢進擊、相持二日一夜、於是物部目運、自執大刀、使筑紫聞物部大斧手、執楯叱於軍中倶進、朝日郎、乃遙見、而射穿大斧手楯二重里拜入身肉一寸、大斧手、以楯翳物部目連百連、帥獲朝日郎斬之、
p.0169 二年七月〈○用明〉蘇我馬子宿禰大臣勸諸皇子與群臣謀滅物部守屋大連、〈○中略〉物部守屋大連資人捕烏部萬、〈禺名也〉將一百人守難波宅、而聞大連滅騎馬夜逃、向茅渟縣有眞香邑、仍過婦宅而遂匿山、朝廷議日、萬懷逆心、故隱此山中、早須滅族、可不怠歟、萬衣裳弊垢、形色憔悴、持弓番劒、獨自出來有司遣數百衞士圍再萬卽驚匿管三聚以繩槃竹引動、令他惑已所入、衞士等被詐、指搖竹馳言、萬在此、萬卽發箭、一無不中、衞士等恐不敢近、萬便弛弓挾腋、向山走去、衞士等卽來河追射、皆不能中、於是有一衞士疾馳先萬、而伏河側一擬射中膝萬卽拔箭張弓發箭、伏地而號日萬僞天皇楯、將効其勇、而不推問翻致逼逍於此窮矣、可其語者來、願聞殺虜之際、衞士等、競馳射萬、萬便拂桿、飛矢殺三十餘人、仍以持劒三截其弓、還屈其劒、投河水裏、別以刀子刺頸死焉、
p.0169 延曆二年正月乙酉、正四位上道島宿禰島足卒、本姓牡鹿連、陸奧國牡鹿郡人也體貌雄壯、志氣驍武、素善馳射、實字中、任授刀將豐八年、惠美訓儒麻呂之劫勅使巫、島足、與將監坂上苅田麻呂奉詔疾馳射而殺之、以功擢授從四位下勳二等、
p.0169 弘仁十四年七月甲戌、越後守從四位下伴宿禰彌嗣卒、從三位伯麻呂之男也、〈○中略〉頗便步射、苦好鷹犬、
p.0170 天長九年三月癸丑、左兵衞督從四位上藤原朝臣家雄卒鱠太政大臣正一位百川之孫、左大臣正二位緖嗣長子也、〈○中略〉性淸口有家風頗學典籍蚕善步射、惜未執臺籤早囲泉扉卒時年舟四、
p.0170 嘉祥二年二月辛卯、散位從四位上藤原朝臣長岡卒、大納言正二位具楯朝臣之孫、贈左大臣從一位内麻呂朝臣之第六子也、大同二年、任陸奧大掾、〈于時年廿一〉九月遷左兵衞少熨最長武藝、五箇年間、供步騎兩射之節、无有過差、
p.0170 嘉祥三年四月己酉、太宰帥三品葛井親王薨、親王桓武天皇第十二子也、母大納言贈正二位坂上大宿禰田村麻呂之女、從四位下春孑也、〈○中略〉親王頗善射藝有外家大納言之遐風、嘗嵯峨天皇、御豐樂院以觀射禮、畢後勤諸親王及群亘各以訳射、親王時年十二、天皇戯語親王日、弟雖少弱、當執弓矢、親王應詔而起、再發再中、時外租父田村麻呂亦侍坐、驚動喜躍、不能自貝帥便起座、抱親王而舞、進日、臣嘗將數十萬之衆、征討東夷、實賴天威、所向無敵、自料勇略兵術、多所不究、今親王年在齠齔、武伎如此、愚臣非所能及、天皇大険日、將軍褒揚外孫、何甚過多、
p.0170 嘉祥三年入月己酉、右兵衞督正四位下坂上大宿禰淸野卒、〈○中略〉少慣家風、武藝絶倹嵯峨太上皇、在東宮時、年十八、爲東宮少進、是時天皇御武德殿、特簡天下騎射拔群之士廿人、覽其才品、爰淸野、以春宮少進、獨參其選、
p.0170 仁壽三年八月壬午、散位從五位下百濟朝臣河成卒、河成本姓余、後改言濟萇於武猛能引强弖
p.0170 强弓
p.0170 拒 弭 謇 勁弓〈邇鑑〉
p.0170 一つよ弓芭申事は、ゆみは、つよけれざも、ものゝ譫け譫を申事也、 一つよゆみせいひやうご齒事は、弓もつよくて、物もよくぬくる事也、かやうにかわる攝也、
p.0171 强弓
按强弓可試射者也、朝鮮强弓者、攝弓以軍二斛物鏤於弖則張爲射形、謂之三斛弓、〈一斛移亦有之〉蓋其二斛嘗倭一石六升、大約四十貫ニ百目餘用之射菫百步者、爲良手令及第、
本朝强弓者、以重四十三實目物掛於弓、則爲張弓形用之、三十三間處、千發者錦良手ハ其弓勢勝于朝鮮可以知、
p.0171 齊衡元年十月庚申、正五位下備前守藤原朝臣大津卒、大津者、贈左大臣從一位内嚇呂第九之子也、大津、身長短小、而意氣難奪、尤善渉射頗超等輩、
p.0171 天安二年六月甲辰、參河國言、守從五位下安倍朝臣氏主卒、〈○中略〉氏主、頗善騎射、蛭捷如飛、〈○中略〉仁明天皇、在東宮、徵爲齏刀含人ハ
p.0171 貞觀十二年の事にもや、春の頃、都良香の家に、人々弓射ける所へ行あひ玉ひたりければ、人々思ひけるは、此君〈○菅原道眞〉は、戸ぼそをとぢ、芝きみを出ずして、皐間のこうをこそつみ給へば、弓の本末も知給はじこおもひて、心みに御弓射させ給てんやと申給ひければ、弓場に立出て、弓に矢をさしはげて引わだし給ひたる御質、養由がひぢつき斯や有けむと、めもあやにぞ見奉りける、御すがたのみなもず、はなち給ふに、ひ芭つもはつれざりければ、郡良香よう始て、人々おどろきあざみ申けも、
p.0171 貞觀十六年四月廿四日壬子、從四位上行右兵衞督貧越前權守淸原眞、人秋雄卒、〈○中略〉秋雄、能射藝、好引强弓、人無能及者、
p.0171 元慶五年十一月九日癸丑、從四位下行大和守坂上大宿禰瀧守卒、瀧守者、右京人、從四位下鷹養孫、而正六位上氏勝之子也、幼好武藝便習弓馬ハ尤善步射誠上氏之先、世傳蒋聾瀧守幹
p.0174 略、不墜家風、
p.0174 仁和三年八月七日戊申、歡位從四位上文室朝臣卷雄卒、塞雄者、右京人、中納言從三位綿扉呂之第九子也、〈○中略〉卷雄、幼有勇力、不好讀書、便習弓馬、尤善騎射、文德天皇、爲儲託之日、卷雄毒邊刀舍人、
p.0174 左衞門尉平致經導明尊借正語第十四
今昔、〈○中略〉此致經ハ平致賴ト云ケル兵ノ子也、心猛クシテ世人ニモ不似、殊ニ大ナル箭射ケレバ、世ノ人此ヲ大箭ノ左衞門尉ト云ケ声也トナム、語梦傳へタルト也、
p.0174 源宛平良交合戰語第三今昔、東國ニ、源宛、平良文ト云二人ノ兵有ケヲ、宛ガ字ヲバ田ノ源二ト云、良文ガ字ヲバ村岳ノ五郎トゾ云ケ声、此ノニ人、兵ノ道ヲ挑ケル程ニ、互ニ中惡シタ成ニケリ、〈○中略〉共ニ大キニ嗔ヲ成シテ、此ク云テノミヤハ可有キ、然ラバ日ヲ契テ、可然ラム廣キ野ニ出合テ、互ニ閏トナム云ト云ヒ聞セケレバ、其日ト契テ、野ニ出合ムト消息ヲ通ハシツ、其後ハ各軍ヲ調へテ、戰ハム覊ヲ譬ム、氈ニ其契ノ日ニ成ヌレバ、各軍ヲ發シテ、此ク云フ野ニ、巳ノ時許ニ打立ヌ、各五六百人許ノ軍有タ皆身ヲ弃、命ヲ不顧シテ心ヲ勵マス間、一町計ヲ隔テ楯ヲ突キ渡シタヲ、各兵ヲ出シテ牒ヲ通ハス、其兵ノ返ル時ニ、定レル事ニタ箭ヲ射懸ケグ也、其レニ馬ヲモ不口ズ不見返シテ、靜ニ返ヲ以テ猛キ事ニハシケル也、然テ其後ニ各楯ヲ寄テ、今ハ射組ナムト爲声程ニ、良文ガ方戮リ、宛ガ方ニ云ハス声標、今日ノ合戦ハ、各軍ヲ以テ射組セバ其ノ興不侍ラ、只君ト我レ黏ガ各ノ手品ヲ知ラムト也、然レバ方々ノ軍ヲ不令射組シテ、只二人走ラセ合テ、手ノ限リ射ト思フハ何ガ思スト、宛此レヲ聞テ、我レモ然思給ウ声事也、邂ニ罷出ヌト云セテ、宛、楯ヲ離テ只一騎出來タ、驃胯ヲ番テ立尹リ、良文モ此ノ返事ヲ聞テ喜タ、郎等ヲ止メテ云ク、只我レ一人、手ノ限ハ射組マムト爲 ル也、尊達只任セテ見靉、然テ我戳射落ナバ、其時ニ取テ可葬キ也ト云テ、楯ノ内ヨソ只一騎步カシ出ヌ、然タ雁胯ヲ番尹走ラセ合ヌ、互ニ先ヅ射サセツ、次ノ箭ニ慥驫射取ラム輻思ヒタ、各ノ弓ヲ引テ箭ヲ放ジテ馳セ違ソ、各走セ過ヌレバ、亦各馬ヲ取タ返ス、亦弓ヲ引ブ箭ヲ不放シテ驪セ違フ、各走七過ヌレバ、亦馬ヲ取テ返ス、亦弓ヲ引テ押宛ツ、良文、宛ガ最中ニ籥ヲ押宛タ、射ルニ、窕馬ヨタ落ル樣驫シテ箭ニ違ヘバ、大刀ノ股寄驫譬ヌ、宛亦取テ返シテ、良文ガ最中ニ押宛テ射ルニ、良文、箭之違テ身ヲ、ル時ニ腰宛ニ射立テツ、急こ亦馬ヲ取テ返シ尹、亦箭ヲ番テ走ラセ合フ時媾、良文、宛ニ云ク、互ニ射ル所ノ箭、皆拷箭共琢非ズ、悉ク最中ヲ射ル箭也然レバ共ニ手品ハ皆見エヌ、弊キ事无シ、而戸簫此レ昔ヨリノ傳ハリ敵ニモ非ズ、今ハ此ニ止ナム、只挑計ノ事也、互ニ强乙殺サムト可思キニ非ズト、宛、此レヲ聞テ云ク、我モ然ナム思ク、實ニ互ニ手品ハ見ツ、止ナム、吉キ事也、然バ響テ返ナムト云グ、各軍ヲ引テ去ヌ、
p.0175 春宮大違源賴光朝臣射勺狐語第六
今昔、三條院ノ天皇ノ春宮簫テ御坐ケル時、束三條ニ御坐ケ戸ニ、寢殿ノ南面磊春宮行カセ給勠ケル驫、西ノ透渡殿ニ、殿上人二三人許候ケリ、而ル聞、辰巳ノ方ナル御堂ノ西ノ擔ニ、狐ノ出來テ、臥シ丸ビタ臥セ夕ケ戸ニ、源賴光朝臣ノ春宮大進ニ候ケルニ、此レハ多田ゾ滿仲入邁ノ子ニテ、極タル兵也ケレバ、公モ其道ニ仕ハセ給ヒ、世ニモ被恐テ瀁有ケル、其レガ其ノ時ニ候ケ声ニ、春宮、御弓ト、ヒキメトヲ給ヒテ、彼ノ辰巳ノ檐ニ有戸狐、射饕ト仰セ給ケレハ、賴光ガ申ス榛、更ニ否不射候弘ジ、異人ハ射シテ候クトモ弊クモ不候、賴光ニ至尹ハ、射候辷ナム、无限丿恥ニ可候シ、然リトタ射宛候ハムニ於タハ、可有キ事ニモ不候ご若ク候ヒシ時、自然ラ鹿ナド乙罷合テ、墓墓シカラ子ダモ射候ヒシヲ、今ハ絶テ然ル事モ不仕候弘苧バ、此ノ樣ノ當物ナドハ、今ハ箭ノ落ル所モ思エ不椎ト申テ譬夕不射事犬、此ク申サム程ニ、逃テヤ去ヌ声ト思ク程ニ、惡サハ西向ニ 居タ、吉ク眠テ可逃クモ非ズ、糒ル聞マメヤカ晶射ヨト責サセ給ヘバ、飄光、辭ビ串シ煩テ、御弓ヲ取タ、ヒキメヲ番テ亦申ス犠ガノ候ハずコソ仕り候ハメ、此ク遠キ物ニヒキメハ重ク候フ、征箭シテコソ射候へこキメぶ更ニ否ヤ不射櫞候ラム、箭ノ遒ニ落テ候ハムヂ、射シテ候ハムヨ刀モ鳴呼奇候シ、此ハ何二可狂キ事ニカ候ラムト、紐差乍ラ表ノ衣ノ袖ヲマクリ、弓頭ヲ少シ臥セタ、弓ヲ箭ヅカノ有ル限り引キ絡テ箭ヲ放タレバ、箭ノ行クモ暗リタ不見エヌ穉ニ、部チ狐ノ觸ニ射宛タヅ、狐頭ヲ立テ轉タ遒樣ニ池ニ落入ヌ、力弱キ御弓ニ、重キヒキメヲ以テ射レバ、極ク弓勢射戸者也トモ丕射付シテ、箭ハ邂ニ可落キ也、其レニ此狐ヲ射落シツルハ、希有ノ事在ト、宮ヨリ始奉テ、候フ殿上人共モ皆思ケルご、狐ハ水二落入テ死ニケレバ、卽チ人ヲ以テ取テ令弃ツ、後宮極ク戚ぜ尹セ給テ、忽ち主馬ノ御馬ヲ召テ賴光ニ給フ、其ノ時ニ賴光庭エ下テ、御馬ヲ給ハタテ拜シテナム上ケ戸、然テ串ケタハ、此レハ賴光ガ仕タル箭ニモ不候ハ、先覦ノ恥セジトテ、守護神ノ助ケテ射サセ綸へだ也トナム申テ罷出ニケ声、其後賴光、親シキ兄弟骨肉二會タモ、更ニ我ガ射タル箭ニモ非ズ、此レ可然キ事也きナム云ケル、亦世間ニモ此事聞エテ、極ク賴光ヲナム讃ケ戸トナム語ヲ樽へタルトヤ、
p.0176 源朝臣賴義、〈○中略〉素爲小一條院判官代、院好酸獵、野中所赴麋鹿狐兎、常爲賴義雨獲、好持弱弓、而所發矢、莫不債瀰、縱雖猛獸應弦必斃、其射藝巧、軼入如斯、
p.0176 源賴信朝臣男賴義射穀馬盗人語第十二
今昔、河内前司源賴信朝臣ト云兵有キ、東ニ吉キ馬持タリト聞ケ戸者ノ許ニ、此類信朝臣、乞ニ逶タリケレバ、馬ノ主難辭クタ其馬ヲ上ケルニ、道ニシテ馬盜人有テ、旣馬ヲ見テ極メテ欲ク思ケレバ、梼テ盜マムト思テ密ニ付タ上ケルニ、此ノ馬ニ付テ上戸兵共ノ緩ム事ノ无カタケレバ、盜人道ノ闘ニテ尹否不取シテべ泉マデ付テ盗人上晶ケリ、〈○中略〉然ル聞雨ノ蓍不止マ降ル夜半許ニ、 雨ノ交レニ鳫盜人入來リテ、此ノ馬ヲ取テ引出テ去ヌ其ノ時ニ厩ノ方ニ、人昔ヲ舉テ叫デ云ク、夜前將參タル御馬ヲ盜人取テ罷リヌト、賴信、此ノ音ヲ髴ニ聞テ、賴義ガ寢タルニ、此ル事云ハ聞クヤト、不吿シテ起ケルマ、ニ、衣ヲ引キ壼折テ、胡箙ヲ搔負テ、厩ニ走行テ、自ラ馬ヲ引出シテ、賤ノ鞍ノ有ケルヲ置テ其レニ乘テ、只獨リ關山樣ニ逍テ行ク心ハ、此ノ盜人ハ、東ノ者ノ此ノ吉キ馬ヲ見テ取ラム卜テ付テ來ケルガ、道ノ間ニテ否不取シテ、京ニ來テ、此ル雨ノ交レニ取テ去ヌルナメリト思テ行ナ声ベシ、亦賴義モ其ノ音ヲ聞テ、租ノ思ヒケル樣ニ思テ、血ニ此クトモ不吿シテ、未ダ装束モ不解テ、丸寢ニテ有ケレバ、起ケルマ、ニ祗ノ如クニ、胡箙ヲ搔負テ、厩ナル關山樣ニ只獨フ追テ行ナリ、租ハ我ガ子必ズ追テ來ラムト思ケリ、子ハ我ガ祀ハ必ズ追テ前御ヌラムト思テ、其レニ不後ト走ラセツ、行ケル程ニ、河原過ニケレハ、雨モ止、、、空モ晴ニケレバ、彌ヨ走ラセテ追ヒ行程ニ、關山ニ行キ懸りヌ、此ノ盜人ハ、其ノ盜クル馬ニ乘テ、今ハ逃得ヌト思ケレバ、關山ノ橋ニ水ニテ有ル所、痛クモ不走シテ、水ヲツフくト步バシテ行ケルニ、賴信此ヲ聞テ、事シモ其々ニ本ヨリ契タラム樣ニ暗ケレバ、賴義ガ有无モ不知ヌニ、賴信、射ヨ彼レヤト云ケル言モ未ダ不畢ニ、弓音スナリ、尻答ヌト聞クニ合セテ、馮ノ走テ行ク鐙ノ人モ不乘音ニテ、カラカラト聞エケレバ、亦賴信ガ云ク、盜人ハ旣ニ射落テケリ、速ニ末ニ走ラセ會テ、、ヲ取テ來ヨト許云懸テ、取テ來ラムヲモ不待其ヨリ返リケレ三賴義ハ末ニ走セ會テ馬ヲ取テ返ケルニ、〈○下略〉
p.0177 將軍〈○源賴義〉長男義家、驍勇絶倫、騎射如祠、冒百刀、突重圍、出賊左右、以大鏃箭頻射賊師矣不空發所中必斃、雷奔風飛、祚武命世、夷人靡走、敢無當耋
p.0177 後冷泉院御時、陸奧守源賴義、鎭守府の將軍を兼て、貞任宗任を責けるに、永承の末より、度々合戰につかれたりけるが、天喜五年十一月に、千三百餘騎の兵を發しておそひよせけるに、 〈○中略〉將軍いくさ大に破れて、死渚數をゑらず、兵四方に散滿して、殘己ころわつかに六騎、〈○中略〉貞任が軍、是を見て、責よせ、箭をごばす事爾のこ己し、然るを義家防ぎ戰ふ旣に紳のこごく、若少の齢にて、大なる矢を射る、その矢に當りたる者、必たふれふさずご云事なし、
p.0178 或日義家朝臣、宗任壹人具して物へ行け夢、主從其に狩裝束にて、うつぼをぞおへちけるびろき野を遒るに狐一疋走けら、義家、うつぼよりかりまたをぬきて、きつねをおひかけ丶り、射ころさんはむざんなり己思て、左右の耳の聞をすりざまにゑりへ射たりければ、箭は狐の前の土にたちにけり、狐其箭にふせがれて、たふれてやがて死にけり、宗任、馬よりおうて、狐を引あげて見るに、矢もたゝぬに死セるといひければ、義家見て臆して死たる也、こうさじとて射こそあてね、今いき歸なん、其時はなつべしごいひけう、
p.0178 藤原景季者、景邏長子也、年二十餘、性少言語逐口騎射一
p.0178 合戰之間、義家毎射、甲士皆應弦死矣、後日武則語義家日、僕欲試君弓勢一如何、義家日善矣、於是、武則重堅甲三顰懸之樹枝、合義家一發貫甲三領一武則大驚云、是祕明之變化也、豈凡人之所堪乎、宜爲武士所歸伏如此、義綱驍勇、騎射亦亞其兄、〈○又見扶桑略記〉
p.0178 賴光朝臣の郎等、季武が從者、究竟の者有けり、季武第一の手きゝにて、さげばウをもはつさず射ける物也けり、
p.0178 下針
古今著聞集〈弓箭篇〉云、賴光朝臣の郎等季武、第一の手きゝにて、さげばりをもはつさず射けり、京師本保元物語云、爲朝ハ、空ヲ翔ル翼地ヲ走ル獸、サゲ針ヲモハヅスト云事ナシ、又云、惟行弓ハ三人張、矢束ハ十三束、サゲ針ヲモ射ント思フ者ナタケルガ、源苹盛衰記云、金剛左衞門ハ、下針ヲモ射ル上手也ケレバ、異名ニハ養由左衞門共云、按ずるに、もろこしにても針を射たる事あ り、北史、魏宣武靈皇后胡氏傳云、幸西林園法流堂、命侍臣射、不能者罰之、又自射針孔中之、大悦賜左右布昂有差、五代史、唐莊宗紀云、射獵、或掛針於木、或立馬鞭百步射之輙中、なざ見えたり、
p.0179 寬治四年正月十八日、賭射也、〈○中略〉左近府生秦公利、中的其員三、末代之事、不異穿柳之藝
p.0179 これも今はむかし、鳥勿院、位の御時、白河院の武者ざころの中に、宮道式成、源滿、則員、ことに的弓の上手なリと、そのこききこえありて、鳥ばのゐん、位の御時の瀧口に、三人ながらめされぬ、こゝろみあるに、大かた一度もはつさず、これをもてなし興せさせ給、或時三尺五寸の的をたびて、これが第二のくろみ射おごして、持てまいられよご仰あり、巳時に給はりて、未のときに射おとしてまいれり、いたつき三人の中に上手なり、矢こうて矢ごりのかへらんをまたば、ほどへ譫べしごて、殘の輩、我己矢を走たちて、芭りぐして、立かはりーいるほざに、ひつじのときのなからばかりに、第二のくろみ射めぐらして、いを己して持てまいれりけち、これすでにゃうゆうがごとしと、時の人ほめのゝしりけるとかや、
p.0179 いまはむかし壹岐守宗行が郎等を、はかなきこごによりて、主のころさんこしければ、小舟にのりて、にげて新羅國へわたりて、かくれてゐたりけるほざに、新羅のきんかいといふところの、いみじうのゝしりさはぐ、なにごとぞととへば、こらのこうに入て、人をくらふ也といふ、この男とふ、虎はいくつばかりあるぞと、たゞ一あるが、にはかにいできて、人をくらひて、逃ていきくするなりといふをきゝて、この男のいふやう、あの虎に合て、一矢を射てゑなばや、とらかしこくば、ともにこそしなめ、たゝむなしうはいかでかくらはれむ、此國の人は、兵の道わろきにこそはあれといひけるを人きゝて、國の守にかうくの事をこそ、此日本人申せこいひければがしこき事かな、よべこいへば人きてめしあり己いへばまいりぬ、〈○中略〉かくてこの男は、虎のありざころきゝて、行てみれば、まことに畠はるぐこおひわたりたりをのたけ四尺ば かりなり、その中をわけ行てみれば、まことにとらふしたり、ごがり射をはげて、かたひざをたててゐたり、ごら人の香をかぎて、ついひらがりて、ねこのねずみ、うかがふやうにてあるををのこ、矢をはげて、をともせでゐたれば、とら大口をあきて、おざりて、をのこのうへにか、るを、をのこ弓をつよくひきて、うへにか、るおりに、やがて矢をはなちたれば、を己がひのしたよか、うなじに七八寸ばかり、とがり矢を射出しつ、とらさかさまにふしてジ几をれてあがくを、かりまたをつがひ、二たび腹をいる、二度ながら土に射付て、つゐにころして、矢をもぬかで、國府にかへうて、守にかうく射ころしつるよしいふに、守かんじの、しりて、おほくの人をぐして、とらのもとへ行てみれば、まことに箭三ながら射さをされたり、見るにいといみじ、まことに百千の芭ら、おニりてかゝるとも、日本の人十人ばかり、馬にておしむかひて射ば、とらなにわざをかせん、この國の人は、一尺ばかりの矢にぎりのやうなる矢じりをすげて、それに毒をぬりていれば、つゐにはそのざくのゆへにしぬれざも、たちまちにその庭に射ふすこごはえせず、日本人は我命死なんをも露をしまず、大なる矢にていれば、その庭にいころしつ、なを兵の道は、曰本の人にはあたるべくもあらず、さればいよノ丶いみじうおそろしくおぼゆる國なりとて、おぢけり、
p.0180 康治二年正月十八日丙午、賭弓也、〈○中略〉代始、左無利時、不被止度、〈本數十度也、度若三有仰被止也、〉夜漸深、衆人廡左膣大理隘右近府生敦方竊云、不可射的、〈伴人善射也、仍有此命、〉
p.0180 新院御所各門々堅事附軍評定事
抑爲朝一人トシテ、殊更大事ノ門ヲ堅タル事、武勇天下ニ赦レシ故也、件ノ男、器量人ニ越、心飽迄剛ニシテ、大力ノ强弓、矢束早ノ手キ、也、弓手ノ肘、馬手ニ四寸延テ、矢束ヲ引事世ニ超タリ、
p.0180 白川殿義朝夜討被寄事
爲朝、是ヲ事トモセズ、アハヌ敵ト思へ共、汝ガ詞ノ優キニ矢一ツ給ラン、請テ見ヨ、且ハ今生ノ面 目、又ハ後生ノ思出ニモセヨトテ、三年竹ノ節近ナルヲ少シ押磨テ、山鳥ノ尾ヲ以テ瓢タご一、七寸五分ノ丸根ノ、箆中邏タ箆代ノ有戸ヲ打クハセ、暫シ保タ兵卜射声、眞先ニ進ンダル伊藤六ガ胸板カケズ射通シ、餘ル矢ガ、伊藤五ガ射向ノ袖ニ裏返尹ゾ立タヲケル、六郎ハ、矢場ニ落タ死ニケリ、伊藤五、此矢ヲ訴カケテ、大將軍〈○源爲朝兄義朝〉ノ前ニ參テ八郎御曹司ノ矢佛攝候へ、凡夫ノ所爲噺モ覺ヘ候ハズ、六郎、旣ニ死候ヌト申セバ、安藝守〈○平淸盛〉ヲ始テ、此矢見タ兵共、皆舌ヲ振テゾ恐ケル、景綱申ケ声ハ、彼先祕八幡殿、〈○義冢〉後三年ノ合戰ノ時、出溺國金澤ノ城品テ、武則ガ申ケルハ、君ノ御矢ニ當ル者、鎧甲ヲ射邇サンズト云事ナシ、抑君ノ御弓勢ヲ、タシカニ拜ミ奉ラバヤト望ミケレメ、義家、革能鎧三領重子、木ノ枝ニ懸タ、六重ヲ射通シ給ケレバ、鬼祠ノ變化トゾ變ソレケ声、是ヨタ彌兵共露伏シケソト申傳へテ聞バカヲ也、眼前篇カ、声弓勢モ侍声ニヤ、アナヲソロシ十ゾヲヂアへル、〈○中略〉爰ニ安藝守ノ郎等ニ、伊勢國ノ住人山田小三郎伊行争云ハ、又ナキ剛旛、カタカハ破タノ猪武者ナ声が、大將軍ノ引給ヲ見テ、ナレバトテ、矢一筋晶恐レテ、向タ声陣ヲ引事ヤアル、縱筑紫ノ八郎殿〈○熔弸〉ノ矢ナヲトモ、伊行ガ鎧ハヨモ通ラジ、五代傳ヘテ軍ニ相事十五箇度、我手ニ取テモ、度々多ク矢共ヲ請シカド、未ダ裏ヲバカ、ヌ物ヲ、人々見給へ、八郎殿ノ矢一ジ請テ、物語ニセントテ懸出レバ、ヲ灘ノ高名ハセヌスシカズ、無益ナタト同僚ド羌山洞スレドモ、本ヨ圦云ツダ言葉ヲ返サ苦男ニタ、夜明テ後ニ、鬱輩ノ、八郎ノ、イヂ矢目ミントイハンニハ、何卜カ其時可答、然レバ日末ノ高名モ失ナン事ノ無念ナレバ、ヨシく人ハ續カズトモ、己レ證人ニ可立トテ、下人一人相具シジ、黑革威ノ鎧ニ、同毛ノ五枚甲ヲ猪頸ニ著、十八差タル染初ノ矢負、塗籠藤ノ弓持、鹿毛ナル馬ニ黑鞍置テ乘タリケタ、門前ニ馬ヲ懸居、物ソノ者ニハアラ子其、安妻守ノ郎譬伊勢國住人山田小三郎伊行、生年二十八、堀河院ノ御宇、嘉承三年正月廿六日、對馬守義親追討ノ時、故備前守殿ノ翼先懸テ、公家ニモ奉稜知シ曲韈庄司行末ガ孫也、由賊强盜ヲ搦取事ハ數 ヲ不知、合戰ノ場ニモ度々ニ及テ、高名仕タ戸者ゾカシ、承及八郎御曹司ヲ崛目見奉ラバヤト申ケレバ、爲朝、一定キヤツハ引マフケテゾ云覽、一ノ矢ヲバ射サセンズ、二ノ矢ヲ譬ハン觝ヲ射落サンズ、同ハ矢ノ夕マラン所ヲ我弓勢ヲ敵ニ見セント宣テ、白蘆毛ナル馬ニ、金覆輔ノ鞍置テ乗タリケルガ懸出テ、鎭西八郎、是ニアジト名乘夕給ク所ヲ、本ヨヲ引ヤフケタ戸籥ナレバ、弦音高ク切テ放、御曹司ノ弓手ノ草摺ヲ、ヌヒザマニゾ射切タ戸、一ノ矢ヲ射損ジテ、二ノ矢ヲ番フ所變、爲朝能引尹兵ト射ル、山田小三郎ガ鞍ノ前輪ヨヲ、鎧ノ草褶ヲ尻輪懸テ、矢先三寸餘リゾ射邇シタ戸、暫ハ矢三カセガレテ、タマル樣ニゾ見へシ、郎弓手ノ方ヘ異倒ニ落レバ、矢尻ハ鞍ニ留テ、馬ハ河原ヘ馳行バ、下人ヅト馳寄、主ヲカタニ引懸テ、御方ノ陣ヘゾ蹄ケル、寄手ノ兵、是ヲ見タ彌此門へ向フ者コソナカリケレ、
p.0182 白河殿攻落事
去程ニ夜モ漸明行ニ、主モナキ放馬、源氏ノ陣ヘ懸入タヲ、攝田次郎是ヲ取セテ見ルニ、鞍壼ニ血タマジ前輪ハ破レテ、尻輪ニノミノ如クナル矢尻留レリ、是ヲ大將軍〈○源義朝〉ニ見セ奉テ、今夜〈○保元元年七鵞十一日〉筑紫イ御曹司ノ被遊テ有グニ候アナイカメシノ御弓勢ヤト申ケレバ、〈○中略〉爰ニ爲朝、敵ノ勢越籌見レバ、大將義朝ざ大ノ男ノ大キ成馬ニハ乘タ夕、人ニ勝レテ軍ノ下知セントテ、ツタチ學ヲタル内甲、誠ニ射ヨゲニ見へケレバ、願フ所ノ幸、エタジト悦デ、件ノ大矢ヲ打番ヒ、只一矢ニ射落サント打學ケルガ、待暫弓矢取身ノ謀、汝ハ内〈○後白河〉ノ御方ヘ參レ、我ハ院〈○崇德〉十刀へ參ラン、汝負バ憑メ助ケン、我負バ汝ヲ憑ンナド約束シテ、父子〈○爲羲義朝〉立別レテカ御坐ラント思案シテ、番タ声矢ヲ指ハヅス、遠慮ノ程コソ祠妙ナレ、郡テ八郎ノ矢ニ當戸者、助カル者ブナカリケジ、去バ罪作江旭思ハルケン、名乗テ出ル者ナラデぐ無左右射給ハずハケリ、〈○中略〉御曹司、須藤九郎ヲ召テ、敵ぐ大勢也、若矢種盡テ打物ニナラバ、一騎ガ百騎ニ向フトモ、絡ニハ叶フマジ、坂東武者ノ習、 大將軍ノ前とテハ、親死、子被討其瀰ミズ、攝ガ上ニ死重テ戰フトゾ聞、イザサラバ、大將ニ矢風負セテ、引逕ケンき思フハ何ニト宣ヘバ、家末可然候、但御誤候ハン耋申ケレバ、何條去事可ゼ有、爲朝ガ手本ハ覺ユ声物ヲトテ、例ノ大矢ヲ打番塵テ兵ト射タ、思フ矢岼ヲ不誤、下野守ノ甲ノ星ヲ射削テ、餘ル矢ガ實莊攝院ノ門ノ方立ニ、箆中責テゾ立タジケル、其時義朝、手綱カヒグリ打向、汝ハ聞及ニモ似ズ、ムゲニ手ゴソアラケジト宣へバ、爲朝、兄ニ尹渡ラセ給ウへ、存スル旨有テ角酒仕候ヘ其、誠ニ御ユルシヲ蒙ラベ二ノ矢ヲ仕ラン、真向内甲ハ恐モ候、障子ノ板カ、栴檀弦走カ、胸板ノ眞中カ、草摺ナラバ、一ノ板トモ二ノ板共、矢坪ヲタシカニ承テ仕ラントテ、旣ニ箭取テ番ハレケル所三上野國住人深巢七郎淸國、ツト懸寄ケジバ、爲朝是ヲ弓手ニ相請タ、ハタト射ル、淸國ガ甲ノ三ノ板ヨタ直違ニ、左ノ小耳ノ根へ、箆中計射込レタレバ、暫モタマラズ死ニケリ、須藤九郎落合テ、深巢ガ頸ヲバ取テケリ、是ヲモ事トモセズ、我先品ト懸ケル中ニ、相模國住人大庭平太景能、同三郎景親、具前ニ進ンデ申ケ夕ハ、八幡殿、後三年ノ合戰文、出羽國金澤ノ城ヲ責給ヒシ時、十六歲瓜シテ軍ノ具前懸、鳥海三郎エ左ノ眼ヲ甲ノ鉢付ノ板ニ乍被射付ハ當ノ矢ヲ射返テ其敵ヲ取シ、鎌倉撥五郎景正ガ末葉、大庭卒太景義、同三郎景親トゾ名乗タル、御曹司是ヲ聞給ヒ、西國ノ者共ニハ、皆手ナミノ程ヲ見セタレ其、東國ノ兵ニハ、今日始ノ軍也、征矢ヲバ度々射タリシガ、鏑矢ニテ射バヤト思ヒタ、鸛九ツ指タル鏑ノ、メハシラ簫ハ角ヲ立、風返シ厚ククラセテ、金卷ニ朱ナシタルガ、普通ノ蟇臠程ナルニ、手先六寸シノギヲタテ、、前一寸ニハ、ミ予ニモ刃ヲゾ付タリケル、鐫ヨリ上十五束有ケルヲ取テ番竺グサト引テ放サレタレバ、御所中ニ響テ長鳴シ、五六段計ニ引へタル、大人庭平太ガ左ノ膝ヲ片手切ニフツト射切、馬ノ太腹カケズ通レバ、鍾ハ碎タ散ニケリ、馬ハ屏風ヲ倒ス如ク、ガハト倒ルレバ、主ハ前へゾアマサレケル、敵芯頸ヲ被取ジト、弟ノ三郎馬ヨリ飛下、兄ヲ肩ニ引懸テ、四五町計ゾ引タリケル、
p.0184 爲朝鬼島渡事拜最期事
嘉應二年四月下旬ニ、〈○中略〉一陣ノ舟二、兵三百餘人、射向ノ袖ヲ差カザシ、舟ヲ粂傾テ、三町計渚近ク押寄タタ、御曹司、〈○爲朝〉矢比少違ケレ其、大鏑ヲ取テ番ヒ、小肘ノ廻タ程引詰テ兵辱放ツ、水際五寸計置テ、大冊ノハラヲ、アナタヘ、ツト射遖セバ、彌方ノ矢目ヨリ水入テ、舟ハ底ヘゾ卷入ケル、水心アル丘ハハ、楯搔楯ニ乗タタベヨフ所ヲ、櫓カイ弓ノハズニ取付テ、並ノ船へ乘移りタゾ助カジケル、爲朝是ヲ見給テ、保元ノ古へハ、矢ー筋ニテニ人ノ武者ヲ射殺シキ、嘉應ノ今ハ、一矢ニ多ノ兵ヲ殺畢、甫無阿彌佗佛トソ被申ケル、
p.0184 三位入道藝等事世下テ後モ、賴政程ノ者ナカタケジ、諸道ニ不疎、立ル能ゴ噺乙、不顯威ト云事ナシ、花鳥風月、弓箭兵仗都テコノミ峯好ム事、名ヲ揚ゲ人ニ勝レタタ、就中弓矢ニ驗ヲ顯ハシキ、後白河院第一御子ヲバ、二傳院トゾ申ケル、去久壽二年九月廿三日、御年十三ニテ春宮ニ立セ御坐シ、保元三年八月十一日、御年十六テテ御創位アリケ戸ガ、平治二年ノ夏ノ始ヨリ扁不豫ノ御事マシマシケ夕、〈○中略〉一院、〈○後白河〉不斜歎思食テ、諸寺諸山ニシタ御所ヲ始メ、譬師ニ仰テ御藥ヲ勸メ參セケレ其亘ニ其驗マシマサズ見エケレバ、東三條ノ森ヨタ、攤雲一棗立來、南殿ノ上ニ引覆、鵠ト云鳥ノ鬢ヲ鳴時ニ、必振ヒタマギ夕セ給辷ケリ、天下ノ大ナル歎也ケレバ、日夜ニ讃卿參内アジテ、各僉議アリ、〈○中略〉以武士射梦スベキ也トゾ被勘巾ケル、大臣公卿此義最可然トタ、弓ノ上手ヲ勝ラレケジ、源亭ノ中ニ、何ナ戸ベキゾト議定有ケ声ニ、〈○中略〉關白殿〈○藤原驀實〉ノ仰ニ、賴光ガ末葉賴政、器量ノ仁ち當レタトテ、源兵庫頭ヲ召レケリ賴政ハ、臠ノ歌道ノ御曾文ヤトテ、木賊色ノ狩衣ニナヲ、見澄シテ參タリ、渫夜ニ臨デ媚物アリ、玉體ヲ拳是、及其期明見仕ト仰ケレバ、賴政、畏承候ヌ噺テ、御前ヲ罷立鑵、近衞用原ノ宿所ニ歸嬋、本ノ裝束脱萱グ、朝敵ヲ鎭戸形ゴゾ出立ケタ、生衣ノ捻蠶讌、黃ナ ル大囗、葉早寅習ノ直垂ヲゾ著タリケル、彼直垂ニぶ、左ノ肩ニハ八幡大菩薩ト縫、右ノ肩ニハ山鳩ヲゾ縫タリケル、産衣ト云鎧ヲ著テ、男山三度奉茯拜、其後鎧ヲバ脱置テ、直垂小袴計也、郎等ニ丁七唱、遠江國住人早太ト云者二人ヲ相具シタリ、唱ハ小櫻ヲ黃ニカへシタル腹卷ヲ著セ、十六指タル大中黑ノ矢ノ表ニ、水破兵破ト云鏑矢二ツ差、雷上動ト云弓ヲ持セタリ、〈○中略〉宿所ヲ出テ陣頭島參ジ、河竹呉竹ノ北南ニテ、明見仕ル景氣、誠ニ優ニシテ、頰魂ヒ武勇ノ大將ト見エタリ、賴政宣旨ヲ蒙テ、媚物射ンズル見ヨトテ、公卿殿上人參集、堂上堂下、内外男女、市ヲナセリ、今ヤくト迺夜是タ待、子ノ剝モ過ヌ、丑ノ刻ノ半ニ及ヂ、如例東三條ノ森ヨリ、黑雲一聚立渡、御殿ノ上ニ引覆トシケレバ、主上弋ホトくト振ヒ出サセ給ヒケリ、賴政ハ、黑雲トハ見タレ共、天ハ實ニ暗シ、イヅクヲ射ルべシト矢所サダカナラズ、心中ニ、歸命頂璃八幡大菩薩、國家鎭守ノ明肺、祕族歸敬ノ冥應ニ御坐ト、賴政頭ヲ傾ケテ年久シ、今蒙勅命、怪異ヲ鎭ントス、射ハヅシナバ、速ニ命ヲ捨ベシ、氏人、氏人タルべクハ、深ク守トナリ御坐セト、男山三度伏拜ミ、心ヲ靜メテ能見レバ、黑雲大ニ餐テ、御殿ノ上ニウズマキタリ賴政、水破ト云矢ヲ取テ番テ、雲ノ具中ヲ志テ、能引テ兵ト放ツ、ヒイト鳴ク、カ、ル處ニ黑雲頻ニ騷デ、御殿ノ上ヲ立、鶴ノ聲シテ、ヒ、ナキテ立所ヲ見負テ、二ノ矢ニ兵破ト云鍋ヲ取テ番ヒ兵ト射ル、ヒイフツト手答シテ覺ユルニ、御殿ノ上ヲ、コロくトコロビテ、庭上ニ動ト落、其時ニ兵庫頭源賴政、變化ノ者、仕タリヤ、くト叫ケレバ、唱、ツト寄テ、得タリヤ得タリヤトテ懷タヲ、貴賎上下、女房男房、上ヲ下ニ返シ、堂上モ堂下モ、紙燭ヲ出シ、炬火ヲトボシテ見之、早太寄テ繩ヲ付、庭上ニ引スへタリ、叡覽有ニ癖物也、頭ハ猿、背ハ虎、尾ハ狐、足ハ狸音ハ鶚也、實ニ希代ノ癖物也、苟禽獸モ加樣ノ德ヲ以テ、奉惱君事ノ有ケル事ヨ、不思議也トゾ仰ケル、見聞ノ男女ヂ口々ニ、賴政、ア射タリ、ア射タリトゾ嘆タリケル、
p.0185 一院、〈○後白河〉鳥朋院にわたらせおはしましける比、みさご、日ごとに出きて、池あ魚 を取けり、ある日、是を射させんと思召て、武者所に、花れか候と御韃有けるに、折ふし、むつるが候けり、召に隨ひて參たりけるに、此池に、みさごの付て、おほくの魚を取、射とゞむべし、悒射ころさん事は無慙也、鳥もころさず、魚をもころさじと思召也、あひはからひてつかうまつるべしと、勅定ありければ、いなみ申べき事なくて、則罷立て、弓矢を取て參りだりけ瓢矢は、からまたにてぞ侍りける、池の汀の邊に候て、みさごを相待所に、あんのご己く來て、鯉を取てあがりけるを、よく引射たりければ、みさごは、いられながら猶飛行けり、鯉は池におちて、腹白にてうきたりけり、則取あげて叡覽仁そなへければ、みさごの魚をつかみたる足をいきりだりけら、鳥は足は切だれ共、たゞちにしなず、魚もみさごの爪立ながジしなず、魚も鳥もころさぬやうにと勅定有ければ、かくつかうまづりたりけり、凡夫のしわざにあらずと、叡戚のあまりに碌をたまはりけるとなん、
此むつるの兵衞尉懸矢をはがすとて、とうの狽を求けるが、不足しければ、郎等共仁、もしや持たるとたづねければ、上六大夫といふ弓の上手聞て、此邊にど、フやはみ候、見よといひければ、下人立出てみて、只今軻よ獅北め田にはみ候とい弘を聞て、則弓矢を取て出亢るに、とう立て南へざびけるを、正六、矢をはげて左右なくも射ず、いづれかは一こがれたるといひければ、ゑりに飛を、こがれたるといふを聞て、なをもいそがず、はるかに遠く成て、河の南の岸の上飛ほざになりにける時、よく引てはなちたるに、あやまたず射お己してけり、むつる戚興のあまり、不審をいたして間けるは、など近かりつるをば射ざりつるぞ、はるかにはとをくなしては射るぞ、心へず蓬尋ければ、其事に候近かうつるをいおとし尭らば、川に落て其はねぬれ侍りなん、むかひの地に付て射おとしたればこそ、かくはねはそんぜぬどぞいひける、心にまかせたる程誠にゆ、しかりける上手なり、 同人のもとに、又賀次新太郎ビいふ弓の上手有ける、年の始に弓を射けるに、九度の弓、はつるたび、今矢三あまウた套けり、賀次が矢は一すぢ也、あたらん事はネ譬なけれ共、今ニの矢がかずあまりぬれば、射ても用事なしご、左右ともにいひけるを、賀女がいはく、かりまたをゆるされ給たらば、緖付をつかうまつり、持にし侍らんといふを、主人あしくいふものかな、若はづる、事も有に廷思ひけれ共、諸人目をすまさんがだめに、ゆるしてか参袤たをとらせてけり、賀次よく引てはなちたるに、いふがごとく緖付を射きりて的土におちにけり、諸付いつれば、矢かず三にもちゐるならひなれば、三のかずを、矢一すぢにて持になりにけりとなん、
p.0187 八牧夜討事
爰ニ武者一人邏出タ名乘ケ声ハ、河内國住人石川郡ノ關屋八郎壬ハ我事也、櫓ノ上ニ夕射殘セ声中差一筋コ、ニアジ、今夜夜討ノ大將軍ハ、北條、佐々木歟、土肥、土屋歟、加藤ガ黨カ、名乘テ我矢講取テ、名聞ニセヨト呼テ内ヘ入ヌ、加藤次、門外ニ引退尹、乳子〈○洲崎三灘〉ヲ招タ云ケ戸ハ蕭開屋ガ詞聞ツラン、彼ガ箭ニアタラン者、命生声者有マジ、我其矢ニアタラン事安事也、但我討レナバ此軍鈍カ声ベシ、佐殿〈○源賴朝〉ヲ世ニ立奉ラント思エ、汝景廉ト名乗テ、敵ノ矢文中尹エサセンヤ、サモアラバ思事ヲ云置ケ、更ニ違事有マジト云、洲崎是ヲ聞タ、我少キヨリ殿ニ育レ奉テ、難忘其恩、軍ニ出ルヨ夕シタ命生ベシト存ゼズ、奉代ベシ、怨事トタハ老タル母ガ事二計、其ハ迚モ乳ノ恩忘給ハジナレバ、ヨク育給へトタ、門ノ内ニ進入、伊勢國住人ニ加藤判官ノ次男景廉、是ニ在、關齷入郎ト聞ツルハ、云ヅル言ニハ似ズ落ヌ夕カ卜云テ、楯ヲ前ニサシカザシテ居タヲケリ、關屋然ベキト椀タ、三人張驫大ノ中差取テ番ヒ、十五束ヨク引堅テ放タレバ、楯ヲ邏シ窗ノ胸板後ノアゲ卷へ射出タリ、洲崎西枕ニ倒伏、
p.0187 衣笠合戰事 大介、〈○三浦義明〉云ケ祈ハ、哀金子ハ大鰯者カナ、一人當千ノ兵トハ是ナルベシ、軍ハ角コソ有ベケレ、アレ射ツベキ者ハナキカ、惜キ者ナレ其、濺比ノ敵也、アレヲ射留莎トゾ下知シケレバ、三浦ノ別當ガ申ケルハ、和田小太郎ハ、弓勢モ矢譬モハシタナク、尻全ク候、彼ヲ召尹仰タべトゾ串、大介、小太郎ヲ招テ、アノ家忠射留ヨト云、仰承ヌトタ立ニケソ、三人張ち十三束三伏ヲゾ射ケル、荒木ノ弓ノイマダ旬治ザ戸ヲ押張テ、スビキシタ口ノケレバ、チト强キヤラン断思ヒケル三カ子能征矢ニツ把且ハジ、櫓ニ上テ獵エレバ、恚蓁郎二段バカジ隔ごブ、水盲十ヲ廻シ、次第々々ニ讌貝寄テ、櫓ノ内へ、ぶ予入ラン噺スル處ヲ、和田小太郎義盛十三束三伏シバシ固テ、落矢ニ兵ト放ツ、金子ガ甲ニ懸タリケル腹卷ノ一ノ板、甲ノ鉢カテテ、ガラト射貫キ、額ノ方ニヨヲ頷ノ下ヲツト遘梦、冑ノ胸板ノハタ覆輪文ゾ射付タル、
p.0188 坂四郎房永覺とてぎこゆる惡僊あり、うち物萼ても、弓矢芒ても、七大寺十五大寺にがたをならぶるものなし、大力のつよゆみ、大矢のやつぎばや手き、にて、さげ針も射はづさず、百どいるとも、あだ矢なき怖きものなり、
p.0188 礪並山合戰事
源氏ノ陣ヨリ蹄妄十甄騎ヲ楯ノ面ニ出シ夕、十五ノ表矢ノ鏑ヲ同音ニ射ナスレバ、平家モ十五騎ヲ戳合ヲ、是モ十五ノ錙ヲ射返ス互ニ勝負センき進ミケレ其、陣變ジ制シテ招キケレバ、源氏ハ、楯ノ内ニ入、源氏入レバ、平氏モ伺入ニケリ、
p.0188 精兵
p.0188 せいびやう 精兵也、專ら弓手にいふは我邦弓をもて武器の最ざすれば、武術を弓矢の道なざいへる意成べし、東鑑にも見えたり、良基公の記に、すび湯の精兵蓬いふ事見えたり、
p.0189 ゆみ
よく射者をさして、精兵こいひならはせり、
p.0189 一せいびやうのためしは、まづ三間まなかおきて、た、みを一でうよこにたて丶さてあひだを又一けんづ、おきて、二でうたて丶人にいさするにがけずたまらずぬくる事、勢びやうの儀也、一だんの儀ゑる人なし、
p.0189 源平水島軍事
能登守敷經、精兵ノ手キ、ナリケレバ、一トシタ室矢ナシ、高梨次郎高信ヲ始トシテ、十三人被射取ケリ、
p.0189 行家與卒氏室山合戰事
大勢支塞タ戰ケル中ニ、中納言ノ侍ニ、紀七、紀八、紀九郎トテ、兄弟三人アリケ声ガ、劣ヌ剛者、精兵ノ手キ、也ケ戸蔘、死生不知ニ進出タ、矢尻ヲ揃テ、指詰引取、散々ニ射ケレバ、面ヲ向べキ樣ナクシテ、十郎藏人取テ返シテ落ケレバ、玉陣大勢、蒔ヲ造懸テ責付タリ、
p.0189 源平侍共軍附繼信盛政孝養事
能登守〈○平敎經〉ハ、心モ剛ニカそ强、精兵ノ手理ナヲ、源氏ガ懸廻シ懸廻シテ、チ壬鎭蹴卽所ヲ見負セテ、指詰々々射ケル矢ニ、武藏國住人河越三郎宗賴、目ノ前ニ被射テ引退、弐片岡兵衞經俊、胸板被射テ引退、次ニ河村三郎能高、内甲被射落二ケリ、衣太田四郎軍綱小ガ辷ナ射ラレ引退、次ニ朝官乳母子奧州佐藤三郎兵衞繼信ハ、黑革威ノ鎧ヲ著タヲケ声ガ、首ノ骨ヲ被射貫其逆サマニ落タリケルヲ、〈○下略〉
p.0189 屋島合戰附玉蟲甄齲與一射扇事
荒手ノ兵ヲ指向テ、入替々々戰ケヲ、源卒互ニ甲乙ナシ、南方引退キ、又强健庭ニ、沖ヨリ莊タル船 一艘、渚ニ向テ漕寄、二月〈○元曆二年〉廿日ノ事ナルニ、柳ノ五重ニ、紅ノ袴著テ、袖笠カヅケル女房アリ、皆紅ノ扇ニ日出タルヲ柧ニ挾テ、船ノ舳頭ニ立テ、是ヲ射ヨトテ源氏ノ方ヲゾ招タル、〈○中略〉源氏ハ蓬ニ是ヲ見テ、當座ノ景氣ノ面白サニ、目ヲ驚シ心ヲ迷ス者モアリ、此扇誰カ射ヨト仰ラレント、肝膾ヲ作、難唾ヲ飮ル者モアリ、判官、〈○源義經〉畠山〈○重忠〉ヲ召、〈○中略〉畠山、角辭シケル間、諸人色ヲ失ヘリ、判官ハ、サテ誰カ在べキト尋給ヘバ、畠山、當時御方ニハ、下野國住人那須太郎助宗ガ子ニ、十郎兄弟コソ、加樣ノ小物ハ賢仕リ候へ、彼等ヲ召ルベシ、人ハ免シ候ハズ其、强弓、遠矢、打物ナドノ時ハ、可蒙仰ト深申切タリ、サラバ十郎トテ召レタル、〈○中略〉御諚ノ上ハ、子細ヲ申三及子共、一谷ノ巖石ヲ落シ時、馬弱シテ、弓手ノ臂ヲ沙ニツカセテ侍シガ、灸治モ未愈、小振シテ定ノ矢、仕ヌ共不存、弟ニテ候與一冠者ハ、小兵ニテ侍レ其、懸鳥的ナド、ハヅル、ハ希也、定ノ矢、仕ヌべシト存、可被仰下ト弟ニ讓テ引へタリ、サラバト與一召レタリ、其日ノ装束ハ、紺村紺ノ直垂ニ、緋威ノ鎧鷹角反甲、居頸ニナシ、二十四指タル中黑ノ箭負、滋藤ノ弓ニ、赤銅造ノ大刀ヲ帶宿赭白馬ノ太逞ニ、洲崎ニ千鳥ノ飛散タル貝鞍置テ乘タリケルガ進出テ、判官ノ前ニ、弓取直シテ畏レリ、アノ扇仕レ、晴ノ所作ゾ、不覺スナト宣フ、與一仰承、子細申ナントスル處ニ、伊勢三郎義盛、後藤兵衞尉實基等、與一ヲ判官ノ前ニ引居テ、面々ノ故障ニ、日旣ニ暮ナントス、兄ノ十郎指申上ハ、子細ヤ有べキ、疾々急給へく、海上暗ク成ナバ、ユ、シキ御方ノ大事也、早々ト云ケレバ、與一、誠ト思ヒ、甲ヲバ脱、重ニ持セ、揉烏帽子引立テ、薄紅梅ノ鉢卷シテ、手綱搔穆、扇ノ方ヘゾ打向ケル、生年十七歲、色白、小髭生、弓ノ取樣、馬ノ乘貌、優ナル男ニゾ見エタリケル、波打際ニ打寄テ、弓手ノ沖ヲ見渡セバ、〈○中略〉ソコシモ遠淺也、鞍爪、鎧ノ菱縫板ノ浸ルマデ打入タレ其、沛艾ノ馬ナレバ、海ノ中ニテ、ハヤリケワ、手綱ヲユリスヘく鎭レ共寄ル小波ニ物怖シテ、足モトゞメズ狂ケリ、扇ノ方ヲ急見レバ、折節西風吹來タ、船ハ艫舳モ動ツ丶扇机ニモタマラ子バ、クルリくト廻ケリ、何所ヲ射べシ其覺ズ、 與一、運ノ極ト悲タテ、眼ヲフサギ心ヲ靜テ、歸命頂遮八幡大菩薩、日本國中大小紳祗、別而ハ下野國日光宇郡宮、氏御祠那須大明祠、弓矢ノ冥加有べクハ、扇ヲ座席昌定メテ給ヘ丶源氏ノ運モ極、家果報モ盡ベクハ、矢ヲ放ヌ前ニ深ク海中ニ沈メ給へト所念シタ、目ヲ開テ見タジケレバ、扇ハ座ニゾ靜レル、有繫ニ物ノ射ニクキハ、夏山ノ滋線ノ木ノ間ヨリ、儀ニ見ユル小鳥ヲ不殺射コソ大事ナレ、挾、、、テ立タル扇也、紳カ旣ニ指副タリ、手ノ下ナ夕ト思ツ丶十ニ束二ツ伏ノ鍾矢ヲ拔出シ、爪ヤジ夕、、滋藤ノ弓、握太ナルニ打食、能引暫固タ夕、源氏ノ方ヨヲ、今少打入給ヘくト云、七段計ヲ阻タリ、扇ノ紙ニハ日ヲ出シタレバ恐アジ、蚊目ノ程ヲト志テ兵ト放、浦饗クマヂニ鳴渡、蚊目ヨリ上一寸置テ、フツ噺射切タワケレバ、蚊目ハ艢ニ留タ、扇ハ空ニ上ハジ丶暫中ニヒラメキテ、海へ颯卜ヅ入ニケル、折節夕日ニ耀キテ、波ニ漂フ有樣ハ、龍田山ノ秋ノ著、河瀨ノ紅葉ニ似タリケリ、鳴箭ハ拔タ潮昌アリ、澪浮洲ト臺へタリ、平家ハ舷ヲ叩ヒテ、女房モ、男房モ、ア射タジ、ア射タ夕ト戚ジケリ、源氏ハ鞍ノ前輪、箙ヲ叩タ、ア射タリくト譽ケレバ、舟ニモトヨミタゾ在ケル、
p.0191 とを矢の事
去程に、平家は、千よそうを三手につくる、先山がの兵次ひでごを、五百よそうで先陣にこぎ向ふ、松浦亢う、三百よそうで二陣につゞく、平家の君運、二百よそうで三陣につゞき給ヘり、中にも幽がの兵藤秀とをは、九國一のつよ弓せい兵なりけれぼ、我程こそなけれ其、ふつうざまのせい兵五百人すぐつて、舟々のともへに、たてかたを一めんにならべて、五百の矢を一度穏はな含げんじの方にも三千よそうの舟なうければ、勢のかず、さこそはおほかりけめ其、あそここ、よりいける程に、いづくにせい兵有共見えざりけり、中にも大將軍源九郎義つねは、まつ先にす、んで戰ひけるが、たても鎧もこらヘずして、さん、ぐ、にいゑらまさる、箏家、みかた勝ぬぎて、ゑき蔘に せめつゞみ打て、おめきさけんで責戰ふ、源氏の方には、和田の小太躑よしもう、舟にはのらず、馬に打乘、あぶみのはなふみそらし、平家の勢の中を、さしつめ引つめさんぐにいる、もとよりせい兵の手き、にて有ければ、三町が内の鬆をば、はづさずつよくいけり、中にもことにとをくいたると覺しき矢を、奘矢給はらんとぞまねきける、新中納言知盛卿、此矢をぬかせて見給へば、ゑらのに、鶴の本白輪こうのは、わり合てはいだる矢の、十三ぞく三ぶせ有けるに、くつまきより一そく計おいて、和田の小太郎平の義盛と、うるしにてぞ書付たる、平冢の方にも、勢兵多し己いへ共、さすがとをやいる仁やなからけん、や、有て、いせの國の住人、にゐの紀四郎ちかきよ、此矢を給はつていかへす、是も三町餘をつといわ尭して、わだが後、一だん訐にひかヘたる、三うらの石左近の太郎が、弓手のかいなにゑた、かにこそ立たうけれ、三浦の人共より合て、あなにくや、わだの小太郎が、我程の勢兵なしと心えて、はぢかきぬる、おかしさよとわらひければ、義盛やすからぬ事也とて、今度は小舟に乘てこぎ出し、平家の勢の中を、さしつめ引つめ、ぎんハ丶にいければ、者共おほく芋おひいころさる、や、有ておきの方より、判官〈○義經〉の乘給ひたる舟に、ゑらのゝ大矢を一つい立て、是も和田がやうに、其矢給はらんとまねきけう、判官、此矢をぬかせてみ給へば、ゑらのに、山烏の尾をもつてはいだる矢の、十四そく三伏有けるに、くつまきより一そく計おいて、いせの國の住人にゐの紀四郊ちかきよと、うるしにてぞ譬付亢る、制官、後藤兵衞さねもごを召て、みかたに此矢いつべき仁は、耙れか有と宣へば、かひの源氏に、あさりの與一殿祗、勢兵の手き、にて候へ己申ければ、判官、さらば真一よべとて召れけり、あさりの與一、出きたら、判官、いかに與一、此矢只今沖よりいて候が、其矢給んとまねき候、御へんいられ候ひなんや、こ宣へば、給て見候はんとて、取てつまよつて、是は、のがよはく候矢づかも少しみじかう候へば、同じうは義成が、ぐそくにてゑ候はん己て、ぬりのに、くろほろはいだる大の矢の、我大手におしにぎつて、十五 そく三伏有けるを、ぬりごめとうの、九尺計有けるに取てつがひ、能引て兵ごはなつ、是も四町餘をつ言いわたいて、大船のへに立たり、にゐの紀四郎ちかきよが、まつ只中を、ひやうつはといて、舟そこへまつさか樣にいおとす、本より此あさりの與一は、勢兵の手きゝにて二町が内をはしるゑかをば、はつさず、つよういけるとぞ聞えし、
p.0193 文治五年十一月十七日癸酉、二品、〈○源賴朝〉爲歷覽鷹場出大庭邊給、野徑寵興之間、令申澁谷庄司給、及昏黑、狐一疋、嫐馬前數十騎、相逢於左右、二品令插鏑給、爰千葉四郎胤信郎從號篠山丹三者、弓箭達者也、引弓合鐙、進寄於御駕右、此間塾御矢同時發之處、御矢不中之、丹三之箭中狐之腰二品乍知食被發御聲、于時篠山一瞬之程下馬、取替御箭於己矢苙狐提之持參、二品則令問彼名字於胤信給、其後入御澁谷庄司許、先有御酒宴董國經營盡美云云、
p.0193 正治三年〈○建仁元年〉五月十四日癸亥、佐々木三郎兵衞尉、成綱入道使者參著、捧二報狀義盛、持參御所、善信、行光、於御前讀申之、其狀云、〈○中略〉有資盛之姨母、今號之坂額御前、錐爲女性之身、百發百中之藝、殆越父兄也、人擧謂奇費此合戰之日、殊施兵略、如董形令上髮著腹笈居矢倉上射襲致之輩、中者莫不死西念郎從、又多以爲之被誅、
p.0193 嘉禎四年〈○曆仁元年〉五月十六日庚寅、今日將軍家、〈○藤原賴經〉渡御右府〈○藤原良實〉御亭、御興遊最中、若君所飼給之小鳥、飛去自籠内、在庭前橘之梢、〈○中略〉此事將軍家、殊有御思慮撰小冠召上之、上野十郎朝村此鳥不死之樣、可射取之由被仰含、朝村不能辭申、取弓與引貝進寄于樹下、彼木枝葉尤茂、小鳥之姿僅雖見子葉之隙、枝差違兮、非養由者、輙難獲之歟、朝村蹲踞庭よ堅小刀削缺引目目柱二之後挾之數反窺廸樹下諾人見其氣色敢不瞬、遂發箭鳥止聲、箭落庭よ朝村卽持參件箭蔦所込于引目内返、削捨目柱事、此用意也、被入寵中之處、動昆朋囀鳴、堂上堂下、戚嘆之聲滿耳、將軍家、令解御丞給、亭主被召出御劒、各爲朝村纏頭云云、
p.0194 賴員回忠事
小笠原孫六、傾城ニ驚サレテ、大刀計ヲ取テ、中門ニ走出テ、目ヲ磨々、四方ヲ屹ト見ケレバ、車ノ輪ノ旗一流、築地ノ上ヨリ見へタフ、孫六、内へ入テ、六波羅ヨリ打手向テ候ケル、此間御謀叛、早顯タリト覺候、早面々、大刀ノ目貫堪エン程ハ切合テ、腹ヲ切ト呼タ、腹卷取テ肩ニナゲカケ、二十四差タル胡攝ト、繁藤弓トヲ提テ、門上ナル櫓へ走上、中差取テ打番ヒ、狹間板八文字ニ排テ、アラコゴトシノ大勢ヤ、我等ガ手柄ノホドコソ顯タレ、抑討手大將ハ、誰ト申人向レテ候ヤラン、近付テ箭一請テ御覽候ヘト云儘ニ、十二束三伏、忘ル、計引シボハテ切テ放ツ、具先ニ進ダル狩野下野前司ガ若黨ニ、衣摺助房ガ冑ノマツカウ鉢付板マデ、矢先白射通シテ、馬ヨリ倒ニ射落ス、是ヲ始トシテ、鎧袖、草摺、冑鉢トモ不言、指詰テ思樣ニ射ケルニ、面ニ立タル兵二十四人、矢下ニ射テ落ス、今一筋胡籤ニ殘タル矢ヲ拔テ、胡籤ヲハ櫓ノ下へカラリト投落シ、此矢一ヲバ冥途族用心ニ持ベシトテ腰ニサシ、日本一剛ノ者、謀叛ニ與シ、自害スル有樣見置テ、人ニ語ト高聲ニ呼テ、大刀鋒ヲ口ニ房テ、櫓ヨリ倒ニ飛落テ、貫テコソ死ニケレ、
p.0194 笠置軍事附陶山小見山夜討事
木戸上ナル櫓ヨリ、矢間ノ板ヲ排テ名乘ケルハ、三河國住人足助次郎重範、忝モ一天ノ君ニタノ彳レ進テ、此城ご木戸ヲ堅タリ、前陣ニ進タル旗ハ、美濃尾張人々旗ト見ハ僻目歟、十善君御坐ス城ナレバ、六波羅殿〈○北絛仲時〉ヤ御向有ランズラント心得テ、御儲ノ爲ニ、大和鍛冶ノキタウテ打タル鏃ヲ、少々用意仕テ候、一筋受テ御覽ジ候へト云儘ニ、三人張弓ニ十三束三伏、箆カヅキノ上マデ引カケ、暫堅テ丁ト放、其矢遙ナル谷ヲ阻テ、二町餘ガ外ニ扣タル、荒尾九郎ガ鎧ノ千檀板ヲ、右小脇マデ箆深ニグサト射込、一箭ナリトイへドモ、究竟矢岼ナレバ、荒尾、馬ヨリ倒ニ落テ、起モ直ラデ死ケリ、舍弟彌五郎、是ヲ敵ニ見セジト矢面ニ立隱テ、楯ハヅレヨリ進出テ云ケルハ、足助殿 御弓勢日來承候ヒシ程ハ無ケヲ、此ヲ遊バシ候へ、御矢一筋受テ、物具實程試候ハント欺テ、弦走ヲ敲テゾ立タリケル、足助是ヲ聞テ、此者ノ云樣ハ、如何樣、鎧下ニ腹卷カ鑠歟ヲ重テ著タレバコソ、前矢ヲ見ナガラ此ヲ射ヨトハ敲ラン、若鎧ノ上ヲ射バ箆摧鏃折テ、通ラヌ事モコソアレ、甲眞向ヲ射タランニ、ナドカ碎テ通ラザラント思案シテ、胡籤ヨリ金磁頭ヲ一ツ拔出シ、鼻油引テ、サラバ一矢仕候ハン、受テ租麑傾へト云壗ニ、且鎧高紐ヲハヅシテ、十三束三伏、前ヨリモ尚引シボリテ、手答高訓タト射ル、思矢坪ヲ不違、荒尾彌五郎ガ甲ノ眞向、金物ノ上二寸計射碎テ、眉間真中ヲ、クツマキ責テ、グサト射寵タリケレバ、二言トモ不云、兄弟同枕ニ倒重テ死ニケリ、
p.0195 長高〈○名和〉出向ひ、一矢仕、軈而可參候とて、御前〈○後醍醐〉を罷立、黑糸威の鎧に、五枚甲の鍬形打たるに、廿五指たる黑ほろの矢負、四尺三寸、三尺九寸の大刀二振帶、五人して張ける例の大弓杖につき、ねり出たる事がら、樊膾こいふとも是には勝れじご見えたりける、〈○中略〉淸高、〈○佐々木〉下知しけるは、今は兎も角も討死せばや、者ともとて寄けるが、其間矢ごろと覺しきに、下樣に見給へば、楯のはづれに四方白の甲著たる者あち、田所が弟五郎左衞門尉種直と云者也、長高是を見給て、例の大弓弦くひしめ、中差取てつがひ、よつ引ひやうと射る、種直が鎧の引合つと射通し、後に續たる弟の六郎が甲のまかう、後に矢たけ射出しけり、二人一度に臥にけり、是を見て郎等源七、楯をつきかけ、肩に引懸ん芭す、長高二の矢を番ひて、楯の中を射たりけり、楯を通る矢に楯つきが頸の骨を射切て、餘る矢に源七が小手のはづれを、羽際迄ぞ射込ける、二人ともに臥ければ、一所に四人ぞ死たりける、是を見て田所が申けるは、昔の入幡殿、鎭西八郎爲朝と申とも、角ぞ候ん、如何に思とも叶まじ、いやくと申て引退く、長高大音に名乘けるは、東國にてはよも聞及ばじ、於近國は、皆々長高が弓勢は被知たるらんに、是迄よせられたるこそやさしけれ、今さら引む事は見苦候、近く寄給へ、矢坪はちがひ候まじ、我と思はん人々は、打出矢泙を被望候へ、三の矢にを いては、尋常に可仕候、句笥けれざも、活高二町計引退て申樣は、何己思己も攻落さん事可堅、是に向城を取て、食攻にすべき評定にこそ究りけれ、長高は内裏へ、ぞ參ける、昔八郎爲朝は、矢一つにて淸盛の大勢を追歸す、今の又太郎は、矢二つにて、淸高が二千餘騎を退けの、彼は上代、是は末代、時はかはるご云とも風情は同樣也、
p.0196 廣有射怪鳥事元弘三年七月ニ、改元有テ建武ニ被移、〈○中略〉今年天下ニ疫癘有テ病死スル者甚多シ、是ノミナラズ、其秋ノ比ヨリ、紫宸殿ノ上ニ怪鳥出來テ、イツマデノ丶トゾ鳴ケ彫、其聲響雲驚眠、聞人皆無不忌恐、卽諸卿相議シテ曰、異國ノ昔堯ノ代ニ、十ノ日出タリシヲ、葬ト云ケル者承テ、九ノ日ヲ射落セリ、我朝ノ古、堀川院ノ御在位時、有變化物奉惱君シヲベ前陸奧守義家承テ、殿上ノ下口ニ候、三度弦音ヲ鳴シテ鐘之又近鵆院ノ御在位ノ時、鵠ト云鳥ノ雲中ニ翔テ鳴シヲバ、源三位賴政卿蒙勅射落シタリシ例アレバ、源氏ノ中ニ、誰カ可射候者有ト被尋ケレ其射ハヅシタラバ、生涯ノ恥辱ト思ケルニヤ、我承ラント申者無リケリ、サラバ上北面諸庭ノ侍其中ニ、誰カサリヌべキ者有ト御尋有ケルニ、二條關白左大臣殿〈○道平〉ノ被召仕候隱岐次郎左衞門廣有ト申者コソ、其器ニ堪タル者ニテ候へト被申ケレバ、軈召之トテ、廣有ヲゾ被召ケル、廣有、承勅定、鈴間邊ニ候ケルガ、ゲニモ此鳥、蚊ノ睫ニ菓クウナル礁螟ノ如ク、少テ不及矢モ、虚空ノ外ニ翔飛バヾ叶マジ、目ニ見ユル程ノ詰ニテ、夭懸、ナラアズルニ、何事アリトモ射ハヅスマジキ物ヲト思ケレバ、一義モ不申、畏テ領掌ス、郎下人ニ持セタル弓與矢ヲ執寄テ、孫廂ア陰ニ立隱テ、此鳥ノ有樣ヲ伺見ルニ、八月十七夜ノ月、殊ニ晴渡テ、虚空淸明タルニ、大内山ノ上ニ黑雲一群懸テ、鳥啼コト荐也、鳴時口ヨリ火炎ヲ吐歟ト覺テ、聲ノ内ヨリ電シテ、其光御簾ノ内へ散徹ス、廣有、此鳥ノ所在ヲ能々見課テ、弓押張り弦クヒシメシテ、流鏑矢ヲ差番テ立向ヘバ、主上〈○後醍醐〉ハ、南殿ニ出御成テ叡覽アタ、卵白殿 下、左右ソ大將、大中納言、八座、七辨、八宵輔、諸家ノ侍、堂上堂下ニ達袖、文武百官見之、麺何カ有ンズラント、カタヅヲ呑タ拳手、廣有、已ニ立向タ欲引弓ケルガ聯思案スル樣有グニテ、流鏑ニスゲタル狩俣ヲ拔テ打捨、二人張ニ十ニ束二伏、キタくト引シボジタ、無左蚕不放之、待鳥晴聲タリケ戸、此鳥例ヨヲ飛下、紫震殿ノ上ニ、二十丈許ガ程ニ鳴ケル處ヲ聞淸シテ、弦音高ク兵ト放ツ、鏑紫宸澱ノ上ヲ鳴リ響シ、雲ノ間ニ手答シテ、何トハ丕知、大盤石ノ如落懸聞へテ、仁壽殿ノ軒ノ上ヨリ、フタへニ竹臺ノ前ヘゾ落タジケル、堂上堂下一同ニ、ア射タリくト戚ズ声學、半時計ノ、メイテ、且ハ不云休ケリ、衞士ノ司ニ、松明ヲ高ク捕セテ、是ヲ御覽ズ夕ニ、頭台如人シテ、身ハ蛇ノ形也、嘴ノ前曲タ、齒如鋸生違、兩ノ足ニ長距有テ、利如劒、邪崎ヲ延テ見之、長一丈六尺也、サテモ廣有射ケル時、俄ニ雁俣ヲ拔テ捨ツルハ、灣ゾト御尋有ケレバ、廣有畏テ、此鳥声御殿上鳴候ツル問、仕タ候ハンズ戸矢ノ落候ハン時、宮殿ノ上ニ立候ハンズルガ禁忌シサニ、雁俣ヲバ拔テ捨ツルちテ侯ト申ケレバ、主上彌叡成有テ、其夜軈テ廣有ヲ被成五位、孜ノ日、因幡國ニ大庄二箇所賜テケ亨、弓矢取ノ面目、後代マデノ名譽也、
p.0197 箱根竹下合戰事
義貞ノ兵ノ中ニ、杉原下總守、高田薩摩守義違、葦堀七郎、藤田六郎左衞門、用波新左衞門、藤田三郎左衞門同四郎左衞門、栗生左衞門、篠塚伊賀守難波備前守、河越參河守、長濱六郎左衞門高山遠江守、躑田四郎左衞門、靑木五郎左衞門、同七郎左衞門、山上六郎左衞門トテ、黨ヲ結タ声精兵ノ射手十六人アリ、一樣ニ笠符ヲ付テ、進ニモ同ク進ミ、又引時モ共ニ引ケル問、世ノ人此ヲ十六騎ガ黨トゾ申クル、被等ガ射ケル矢ニハ、楯モ物具モタマラザワケレバ、向フ方ノ敵ヲ射スカサズト云事ナシ、
p.0197 本間孫四郎邇矢事 新田足利、相挑タ未戰處ニ、本間孫四郎重氏、黃琵毛ナル馬ノ太ク逞キニ、紅下濃ノ鎧著テ、只一騎、和田ノ御崎ノ波打際ニ馬打寄セテ、澳ナル籬ニ向テ、大音聲ヲ學タ申ケルハ、將軍、〈○足利尊氏〉筑紫ヨリ御上洛候へバ、定テ鞆、尾道ノ傾城共、多タ被召具候覽、其爲ニ珍シキ御肴一ツ推テ進ビ候ハン、暫ク御待候ヘト云儘ニ、上差ノ流鏑矢ヲ拔テ、忽ノ少シ廣カリケ声ヲ、鞍ノ前輪ニ當テカキ直シ、二所藤ノ弓ノ握太ナルニ取副、小松陰ニ馬ヲ打寄テ、浪ノ上ナル鵠ノ、己ガ影ニテ魚ヲ驚シ飛サガル程ヲゾ待タリケル、敵ハ是ヲ見テ、射放タランハ希代ノ笑哉ト目ヲ放タズ、御方ハ是ヲ見テ、射當タランハ、時ニ取ブノ名譽哉ト、機ヲ攻テゾ守ケル、遙ニ高飛學ヲタル鵤、浪ノ上ニ落サガリテ、ニ尺訐ナル魚ヲ、主人ノ叱レヲ觸テ、澳ノ方へ飛行ケル處ヲ、本間、小松原ノ中ヨリ馬ヲ懸出シ、追樣ニ成テ、カケ鳥ニゾ射タヲケル、態ト生ナガラ射テ落サント片羽ガセヲ射切テ、直中ヲバ射ザヲケル聞、鍋ぶ鳴響テ、大内介ガ舟ノ帆柱ニ立、ミサゴぶ魚ヲ膕ナガラ、大友ガ舟ノ屋形ノ上へゾ落タヲケル、射手讃噺ハ知子ドモ、敵ノ般七千餘艘エハ、舷ヲ蹈タ立雙、御方ノ官軍五萬餘騎ハ、汀畠馬ヲ扣ヘテ、ア射タリくト戚ズ戸聲、天地ヲ響シテ靜リ得ズ、將軍是ヲ見給テ、敵我弓ソ程變見セント、此鳥ヲ射ツ戸ガ、鸛方ノ船ノ中ヘ鳥ノ落タルハ、御方ノ吉事ト覺ルナリ、何樣射手ノ名字ヲ聞バヤト被仰ケレバ、小早河七郎、舟ノ舳ニ立出尹、類少ナク見所有テモ遊サレツル者哉、サテモ御名字ヲバ何き申候ヤラン、承候バヤト間タリケレバ、本間弓杖ニスガリテ、其身人數ナラヌ者ニテ候へバ、名乘申其、誰カ御存知候ベキ、但弓箭ヲ取テハ、坂東八箇國ノ兵ノ中ニハ、名ヲ知タル者モ御座候ラン、此矢ニテ名字ヲバ御覽候ヘき云テ、三人張ニ十五束三伏ユラくト引渡シ、二引兩ノ旗立タル船ヲ指シテ、違矢ニゾ射タリケル、其矢六町餘ヲ越テ、將軍ノ般ニ雙タル、佐々木筑前守ガ船ヲ、箆中過通夕、屋形ニ乘タ炉兵ノ鎧ノ草摺二袰ヲカヽゼテゾ立タヲケ声、將軍、此矢ヲ取寄セ見給フニ、相模國住人本間孫四郎重氏ト小刀ノサキニテ書タヅタル、諸人此矢 ヲ取磚へ見テ、穴懼如何ナル不運ソ者カ、此矢崎ニ廻テ死ナンズラント、彙テ胸ヲゾ冷シケル、本間孫四郎扇ヲ揚テ、澳ノ方ヲサシ招テ、合戰ノ最中ニテ候ヘバ、矢一筋モ惜ク存候、其矢此方ヘ射返シテタビ候へトゾ申ケル、將軍是ヲ聞給テ、御方ニ誰カ、此矢射返シツベキ者有ト、高武藏守ニ尋給ケレハ、師直畏テ、本間ガ射テ候ハン、スル遠矢ヲ、同ジ所ニ射返候ハンズル者、坂東勢ノ中ニハ有ベシトモ存候ハズ、誠ニテ候ヤラン、佐々木筑前守顯信コソ、西國一ノ精兵ニテ候ナレ、彼ヲ被召仰付ラレ候へカシト申ケレバ、グニモトテ佐々木ヲゾ被呼ケル、顯信、召ニ膸テ、將軍ノ御前ニ參タヲ、將軍、本間ガ矢ヲ取出シテ、此矢、本ノ矢所ヘ射返サレ候へト被仰ケレバ、顯信畏テ、難叶由ヲブ再三辭シ申ケル、將軍强テ被仰ケル間、辭スルニ無處シテ己ガ舶ニ立歸リ、火威鎧ニ、鍬形打タル甲ノ緖ヲ縮、銀ノツク打タル弓ノ反高ナグヲ帆柱ニ當テ、キリくト推張、船ノ舳崎ニ立顯テ、弓ノ弦クヒシメシタル有樣、誠ニ射ヅベクゾ見へタリケル、カ、ル處ニ如何ナル推參ノ馬鹿者ニテカ有ケン、讃岐勢ノ中ヨソ、此矢一受テ、弓勢ノ程御覽ぜヨド高ラカニ呼ハル聲シテ、鎬ヲゾ一ツ射タワケル、胸板ニ弦ヲヤ打タリケン、元來小兵ニヤ有ケン、其矢二町迄モ射付ズ、波ノ上ニゾ落タワケル、本間ガ後ニ扣ヘタル軍兵五萬餘騎、同音ニア射タリヤト欺テ、シバシ笑モ止ザリケリ、此後ハ中々射テモヨシナシトテ、佐々木ハ違矢ヲ止テケリ、
p.0199 山門攻事附日吉神託事
本間〈○實氏〉ト相馬〈○忠重〉トニ人ナガラ、〈○中略〉例ナラズ敵其ノハタラキ候ハ、軍ノ候ハンズルヤラン、ナラシニ一矢ヅ、射テ見候ハン、何ニテモ的ニ立サセ給ヘト云ケレバ、是遊バシ候へトテ、ミナ紅ノ扇ニ月出シタルヲ矢ニ挾テ、遠的場ダテニゾ立タリケル、本間ハ前ニ立、相馬ハ後ニ立テ、月ヲ射バ、天ノ恐モ有ヌべシ、兩方ノハヅレヲ射ントスルゾト約束シ完、本間、ハタト射レバ、相馬モハタト射ル、矢所約束ニ不蓮、中ナル月ヲゾ殘シケル、
p.0200 今出川殿伊勢の國御下向の事
十六日〈○應仁元年五月〉未明、四方八方、同時に鬨をぞ學たりける、世保の内、軍奉行志鞨見、井家の子山田彈正、〈五十人張精兵也〉囲村の出雲以下、丸々の手垂共出合、散々に防戰ふ事、火花を散す風情也、讃軍中、隱れなき勢兵共、矢崎を揃へす射拂ふ裏寄手左右なく霤付べき樣ぞなき、族宿の陣屋へ、未明卯刻、おもひよらざる折箚、大手搦手、猛勢をもて突懸たり、普通ならんに角有べしや、日本國に聞えたる彎取大將、世保大力の剛の武老、付隨ふ者までも、四大八天の如なる勇士なう、上下今口を限りと心得置、一命を惜む者一人もなし、皆大將下知に隨へり、
p.0200 江州合戰事
城中〈○音蒭城〉ニ饑物師ノ安河ト云者籠リ居ケルガ、希代ノ弓ノ上手ニテ、彼ガ射ケル矢先ニ立ツ者、一人トシテ命ヲ不失ト云阜無シ、洋藏軒ハ、音狗城ヨリ三町程遠ザケテ、本陣ヲ取テ居タソケルガ、陣ノ前ニ五尺廻ジノ柳ノ木ノ在ケルヲ彼安河ガ射ケル矢ニテ、邪ブクラセメテ射通シケレメ、是ヲ見ル人々、皆舌ヲ卷タゾ畏懼ンケル、頓而此柳ノ木ヲ切タ城中へ送リ、名譽ノ精兵トゾ褒美シケル、
p.0200 備後國高野山降參附桂元澄弓精之事
同四年〈○天文〉三月上旬、毛利元就、重テ備後國晶打入ンガ爲、吉田ノ郡曲ヲ打出給ク、〈○中略〉先備後國高野曲之城ヲ攻落予ント、頓テ近陣ヲ寄尾頭ヨヲ仕寄ヲ付テ攻近付、〈○中略〉藝卅勢ハ、入換々々攻上ジケレドモ、城堅ク兵勇ナレバ、更ニ落べキ斈ハ見エザジケル所ニ、當城本九ト二ノ郭トノ間ニ、其徑十八九間許ニテ、深サ十丈餘ノ谷アリ、二ノ郭ニ水乏シケレバ、本尢ヨリ綱ヲ張テ瓢簞夕結付、水ヲ納テ通シケルヲ見出シ、彼瓢簞ヲダニ射切ナバ、二ノ郭ニ、水ノ寸遒路絶ナンズトテ、大弓ノ手垂共、吾韈ノ丶ト揀ケ声、中ニ屯井上黨ち精兵多カジケレハ、彼綱ヲ射切ント、差詰引詰射タ ジケレドモ、其間杏ニ隔タヲタ、射中ベ夕モ見エザ夕ケリ、カ、ヲケル所ニ、赤松、近日爲後詰蚕向セラル、由風聞有ケレバ、寄手ノ陣ニモ、如何ニ元就、大剛將タヲト雖、備後勢一萬餘ヲ以テ後詰セバ、内外ノ敵ニ挾マレ、爭カ一日モ可被堪頓タ當陣被引擁三テゾ有ント、己ガ同志ハ耳言ケリ、元就モ、彼瓢簞射一ブ落シ、常城早ク陷レタ後、赤松ト黌陣シ、十死一生ノ合戰シテ、備播ヘ押入バヤト思給ケレバ、桂左衞門佐元澄ヲ被召、イカニ元澄、汝ハ聞ユ声大弓ノ善射ニタ、斛律光ガ雕ヲ射、紀昌ガ蝨ヲ貫クノ術ヲ得タリ、アノ瓢簞ノ繼、射テ落シ候へト宣へバ、元澄畏テ、是ハ弓執テ面目ノ君命ニテ候、必定射中候ハン事ハ存知候ハ子共、上富ニ任セ、先一矢仕テコン見候ハメトテ立シガ、元澄モ此程藷軍ノ手垂其、井上ヲ始メ、皆手ヲ空シクシタリシ所ニ、吾一人攝跼サレテ、若射當ザランハ、且ハ家ノ恥ナラント怠ケレバ、先試ニ一矢射タリケ声ニ、一丈許ゾ越タ卓夕ケル、重テハ徑リ五寸許ナル大雁俣ヲ取タ打番、心中ニ南無八幡大菩薩ト念ジ、能引ヒヤウト放タヲケレバ、其矢不誤、彼痂ノ眞中、ヒイフツト射切テ、瓢簞ハ蓬ノ谷へヅ落ニケタ、城中ニハ轍魚ノ水、中流ノ瓢ト賴ニカケシ水道ノ綱ヲ射切ラレタレバ、氣貰レ力落テ、興ヲ醒シテ音モセズ、寄手ハ、ア、射タジ元澄昔日奈須ノ與一ガ扇ヲ射、本間ノ孫四郎ガ翔鳥ヲ射タルランモ、是ニヨモ不獪卜、學ヲ揚テゾ譽タ璽ケル、元就急ギ元澄ヲ君出シ、大ニ威賞シ給テ能登守敖緩芦瑩不劣精兵ノ手利也トテ頓テ左衞門佐ヲ改、能登守トゾ召レケル、
p.0201 私部城降參附香川森脇連歌拜今田經忠大弓事
曰ニ横道權允高宗、楯ノ表ニ棗テ詞戰シケダ所ニ、寄手ノ陣ヨヲ、今田中務少輔經忠、四五人ガ力ナル大弓ニ、三尺餘ノ大矢取添、郁何ニ横逍殿、一矢仕候ハン、受テ某ガ弓勢ノ程試ラレ候へ、矢坪ヲ承候ハヾ、小兵也共仕テコソ見碇ハメト云ケレバ權允是ヲ聞テ晉タ不昌存罰御事芯候詮ナキ所ニテ、敵ノ矢受候程ナ声大虚者ニテハ候ハズト答今田是ハ案ノ外ナル御事哉、左宣ハ、横道殿、 臆病ノ至カト存候、佐藤三郎兵衞嗣信ガ、能登守殿ノ大矢ヲ受タヲシハ、古篆虚ト唱候ヤ、其矢ヲ受タレバコソ、大剛ノ名ヲ末世驫傳へ候ヘト云ケレバ、櫂允、サレパ其嗣信卜權允ヲ以、一般ノ看ヲ成給コソ、今田殿共不覺候ヘ、嗣信ガ敎經ノ矢ヲ受シハ、主君ノ命ニ代リタレバ、弓矢取身ノ尤庶幾所ニテ孃、左アラン時ニタ候ハず、此權允モ、幾筋ヲモ受候ベシ、今何ノ子細モ無、御邊ノ弓勢試ン爲乙、二ツ無、命ヲ的ニ懸ン事ハ、甚愚痴ノ至在、アラ思丕寄ヤトテ、急ギ楯ノ中ヘゾ入ニケル、今田、大ニ腹ヲ立、例ノ大弓ニ尖タ矢取テ打番懃、小臂ノ廻ル程引包ミ、弦音高タ切テ放ツ、其矢不錯、横道ガ隱レタ声楯蔀ナ声木ヲ寸ト射繖シ、鏃三寸許翼白乙射出シタジ、其時横道楯ゾ外レヘ立出アラ夥シノ弓勢ヤ、五瓣等ガ不受シハ理也、危キ命捨タ候ト云ケレバ、敵モ味方モ、グ文田疋ハ遣理也卜一度ニ咄トゾ笑ケ戸、
p.0202 上月城兵盜臺無鐵砲附寺本勝重弓精之事
良有テ、城中ヨタ黑具足著タル武者一人櫓へ上リ、唯今今田中務ト被名乗候ハ、何方ニ渡夕候ヤ、此串某ハ、寺本市允勝重ト申者ごブ候小兵ニハ候へ其、一矢仕候尹ン、受テ某ガ弓勢ノ程ヲ御覽候へト云モ不敢、弦音高切テ放、其矢不誤、ニ宮木工助春實ガ鎗持セタ声カ者ノ、肩ヨタ背ヘ寸ト射徹シケル間、アツト云聾計シテ、鎗ヲ彼所ヘ抛拾遙ノ谷ヘゾ顚ビ落ニケタ、寺本、唯今ノ矢ハ手答へシタ覺候、今一矢仕候ハントテ、又矢取テ打番ヒ射ケタ工、今度ハ杉原ガ手ノ者、具足著ル間ノ無夕ケ戸琢ヤ、腰白ノ帷子著タダケルガ、白キ所ヲヤ期ケン、臍ノ下ヲ後ヘ窕ト射拔ケレバ、是モ矢場讌伏ニケジ、傍ニ居汐ヲケル熊谷新右衞門、鳴呼射ケタ寺本、龜井鉛木ガ、高館ノ矢倉ノ上ラブノ弓精、本間孫四郎ガ叡山ラブニ矢ニ、二人射タリシニモ不劣ケタト、聲ヲ上テゾ譬タ夕ケル、
p.0202 一信長の家に、弓すく人の、的を射るにあたらず霆いふ事なき有しに、信長、見給ふベし どて、日をさだめて見給ふに、よの人は、あつれども、かのものは、あつる事あたはずがくて日暮ぬれば、信長的場よら歸り給ふざて、人のいひしと見る事とは、ちがふ為のかな蓬仰られけう、そののち一揆蜂起せるざて、皆々はせむかひしに、彼弓すく人、信長公の馬の先にす、み出て、さしつめ引つめ敵を射るに、大かたあだ矢はなし、みかたこれがためにかつ事をえしかば、よろこび給ふこと斜なら争、能ある鷹は爪をかくすといふ事あり、先度の的をば、か、る時を思ひてあでざるよな、泛しなみふかしと藪じ仰られて、褒美の物たまはる、物ごと時によりて、その品多かるべけれざ、人の藝は、かくつ、しむべ髫事にや、弓よくしれる人のいひし也その時かの弓射し人の名も聞しかざ、わすれける也、
p.0203 小姓組書院番新番大番小十人組の番士、年ごとに吹上の御庭にて、射藝を御覽じ玉ひ、よく射あてしものには、例の碌賜はるビが中にも玉虫八左衞門茂雅といへるは、いつも衆に超てよかりしかば、後には、今冐も八左衞門は戳しやと御尋あるほどの事なりきこの八左衞門、年經て徒頭に擢むで玉ひしも、全く其藝のすぐれしを顯はし玉ふ尊慮なりとぞ聞えし、
p.0203 一御供弓始 享保六丑年二月廿五日、御徒頭長田三右衞門、小菅御成之御供ニ而、仰ニ依而鳥を射留、望日召而時服三領を賜ふ、是御供ニ而鳥を射留候始也、其後御番衆ニ而は、享保六丑年九月廿一日、一ツ橋外明地江御成之節、御小姓組仁木周防守組玉虫八左衞門、御供弓被仰付、菱喰射留候、御慰にも相成候旨、時服三ツ拜領被仰付候、
p.0203 右衞門督宗武卿、〈○中略〉十七年〈○享保〉正月廿六日、同じ所〈○木下川〉にて、弓もて權芒鵜を射こめられしごほ召し、御怡斜ならず、〈○中略〉其後もまた白鳥を射て御戚にあつかり、矢羽十柄を賜ふ、
p.0204 近習諸番の士、狩場にて鳥射たるものに、時の服賜はりて賞せらるよく射るものは度々さ、れて御供に候したり、其中に小姓には、能勢河内守賴忠、喜多村日向守正矩、矢部能登守正虎、酒依播磨守義武、磯野丹波守政武、小納戸には、土岐大學頭朝澄、多田善八郎賴辰などは、扈從して鳥射し事ゑばくなり、これよう先享保六年、葛西の御狩のとき、伊奈半左衞門忠達が小菅の別墅にて、徒頭長佃三右衞門元鄰、仰によゆ鴻を射おとしたり、鍛錬の樣子なりとの御詞下さる、おなじ九月、大番の士玉虫入左衞門茂雅、一橋の外にて鴻を射たる時も、啣慰になりしとの御諚あり、
p.0204 或時墨田川のほとりに舟逍遙し玉ひ鴨のむれゐしを御覽あり、弓矢を携へ舟端に立出玉ひ、よつ引て放たせ玉ひしに、あやまたず鴨のまなこを射ぬき玉ひしかば、見る者覺えず聲をあげて感じ奉れり、やがて御舟をす、められしに、鴨また水上に浮みゐければ、こたびは祠頭もて射玉ひしに、鵈の頭、微塵に碎けぬ、先にも亦むれゐければ、これをも射玉ひしに、たゞ中を射ぬき玉ひしとぞ、
p.0204 公〈○德川家治〉文武の御藝はさらなり、瑣細のことさへ、有德院殿〈○家治祖父吉宗〉御みつからうしろみ聞えさせ玉ひしに、わけて弓馬を嗜せたまひけり弓はことに精妙にいたちせ玉ひぬ、常に下段にかまへたまひ、よくあてさせられしとなり、本所秋葉のほとりにて、御みつから飛雁を射あてたまひしは、いとわかうおはしける時の御ことなり、天明のはじめにも、淺草川のほとりへならせられ、白鳥の洲崎に居たるを一矢にて射とめたまひければ、御かたはらの人はさらなり、御供にありし人々、おざろき戚じけるといへり、
p.0204 大番の士に、原三郎兵衞親要ごいへるものあら、きはめて堪能の射手なれば、毎春の弓場始には、いつも弓太郎こいふことをつとめけり、安永四年正月十一日、吹上の御 庭にて、例の弓場始行はれしに、十三日は、葛飾のあたり放鷹せさせ玉へば、三郎兵衞、御供に候し奉るべきよし仰下されけり、三郎兵衞、いと辱きことに思ひて御供に出けるに、其日御供にあしつれられし番士、はや御沙汰ありて、淺草川めほとり、こゝかしこにて、水鳥を射て御覽せさせ奉りしに、三郎兵衞には、何の御沙汰もなかりしかば、いかなるゆゑにやと、人々もあやしみおもひしに、御舟綾瀨川に近づく頃、雁の六七、蘆間がくれ、ひそまりゐたるを御覽じつけて、三郎兵衞、供の中に候したるべきなりがの雁の中に、白雁一見ゆ、とく射さしめよと仰有しかば、三郎兵衞へ、そのよし樽けるに、待設たることなれば、承りぬこて小舟におしうつり、矢ごろにして射けるに、白雁のたゞなかを射あてければ、御氣色ことにうるはしかりけり、その後また水鳥あまた居しかば、御場掛りのもの、二度三郎兵衞に射させ申べきにやと伺しに、彼は名を得たる射手なり、先の白雁を射たるあちさまにて、三郎兵衞が、技の精妙にいたることは人も見ゑるべきなり、若ふたゝびして、雨一射そんじたらんには彼が美名をかくべし、人の美を缺ぬ樣につかふこそ本意なれご仰られしかば、そのよし承り傳へ、三郎兵衞はさらなり、諸家人おしなべて、臧泣せぬはなかりけり、
p.0205 一射手方文字
鳴弦
p.0205 或人云、日本書紀祚代零に、天照大肺、臂著稜威之高鞆とあり、鞆をつくるは鳴弦のためなれば、鳴弦は祠代より起るといふべしと、貞丈按ずるに、祠代に旣に弓あり、弓あれば必弦をならす事はありしなるべし、弦を鳴して何を何としたるといふ、其德を記したる事、祕代の紀には見えず、
貞丈按それ弓に矢をはげ引みちて、これをはなつに、矢の飛ぶ勢の迅速なる事、間に髮を容れ ず、一瞬をまたずして數百步の遠に至り、物を貫く勢ひの猛烈なる事、他の兵器の及ぶ所にあらず、されば人は云に及ばず、鳥獸に至る迄、是を恐る、事甚し、故にその弦を鳴して、生物の耳を驚し、其魂を奪ふ、是鳴弦の主意なり、其弦音の烈しきに、墓目の鳴り音を添へて、いよノ丶其勢を助け宜す、是蟇目を射るの主意なり、
又云、鳴弦し墓目を射て、妖怪の邪氣を退る事、古代より其例あり、古代は鳴弦はだゞ弦を鳴すのみ也、蟇目は、たこ蟇目の矢を射るのみ也、後代に至ては、鳴弦の法、蟇目の法こて、法の字の付たる方術出來たり、其方術、或は紳道を交へて、巫祀に類する者あり、或は具言印相等を交へて、僭徒に似たる者あり、是は弓矢のみにては心もとなく思ひて、紳佛を取交へたる者歟、如此にては、弓矢の德もうすく、武威もなきに似たり、武夫ともつかず、巫貎こもつかず、信徒こもつかず、如此なる事にては其玄るしも心もとなし、祠も佛も取交へず、只弓矢のみを取て、精祠をはげまして是を行はゞ、弓矢の德高く、武威盛なるべし、もし佛祠を以て、弓矢を助ろこいはゞ、所詮弓矢を捨て、巫祝僧徒こなるべし、かくいへばとて、綿をあなどり、佛を捨よとにはあらす、鳴弦し蟇目射る上に付ては、右の如ー志を立つべき事なり、昔白河院の物におそはれさせ給ひし時、義家朝臣の弓をめして、御枕に立置れしかば、おそはれさせ給ふ事の、やみぬるこいへり、義家は手に弓矢を己らず、鳴弦も蟇目も射られざりしかとも、如此のゑるしゐり、天子の御位も、義家の武德には及ばせ給はざる事ありし、其事を深く味へば、鳴弦蟇目の妙を悟るべしといふ、
p.0206 一若君姫御所樣御誕生之時、御坐所之次第之事、〈○中略〉御産所ハ新造也、御産之時可有御數白緣ノ御座三疊可有用意、其故ハ御産ニ二疊、引目被射時、一疊入也是力尋常ノ疉可然、二疊ハ爲御座間二重鋒皐、若君檬ニテモ姫君樣ニテモ、御誕生之時、依御吉例里見名字被參、御臍ノ 緖ヲツギ被申、其後鳴弦之役兩人參御前ニ壁一靈隔令伺公、御聲ノキコユルタビゴトニ、弦クチヲ可仕、爾人番ニ廻テ可勤之盡夜其ニ少モ不可有油斷、御蟇目之役、白緣ノ疊ヲ申出シテ、方角ヲ承タ、若君樣御誕生之時ハ三、姫霜御誕生ニ蕗二、弦打可仕、御藜穩之射梼、又心中ニ所念中頌文歌、矢取並御疊持、若黨雨人之攝體等之コト、弓日記ニ書之間、不及重記、〈○中略〉鳴弦役ハ、七夜之御覦遏尹、單物ヲ著シテ半夜ヅ、番廻ニ弦打ヲ申也、殿中へ御移之時、鳴弦打ヲ申始タル人ノ弓ヲ逶上仕御湯メサタ、タビ乙、讃ニテモ其時伺候人弦打ヲ被申也、是ハ舟三日之間也、〈○中略〉鳴弦役、御墓目ノ役、御荷用ノ人典藥頭、鬢以白薀垂也、矢取壬御疊持テ射サスル若黨ハ單物也、
p.0207 一御産の蟇目の事、五月の帶の碗の時、射手定也、射手の用意すべき物白直垂、黑直垂、自木弓、白木のひきめ、山椒の木にてつくるべし、ゑぼしの小ゆひも白かるべし、ひき目がらの立忽は、鷹の密、攝の溺、やすらば、翼朋也ひきめ一腰とも可持、其自の聞柳に向ひて射べき也、男子ならば白ひたゝれにて三射、女子ならば學直垂にて二射べし、射べき物には、御産の時數允ゝみ、不然者行縢を射る也、御産の疉にちこ解也、薗一筋持て可射也、劒を南手にて解也、是則御直の字儀也、若今一度ごあらば、ひき目の音をこめて可射也、心得べし、
p.0207 一めいげんする時、弓は、澱ら弓也、同弦も、ぬう弦なら、一庄のときの引目可射次第、同夜引目等の事、ゆみは、ぬり弓たるべし凪弦も、獵与弦也、一矢は白箆に鶴の狗を付る也、はぎやうは、白きえり糸にてもはぐべし、かははぎも不苦、但略儀なり、糸のえりやう秘事な夢、は争卷と、かみはぎを、左えらの糸にてはぐべし、もとはぎは、右えりの糸にてはぐ也、箭をば三つ椿べし、二つは用意の爲なり、三つの内、二つをば外面のはを付べし、一つは内向のはを可付、射る時は、外向の矢にで可射也、引目は犬射引目、赤うるしにぬるべし、ひしきめ、あるべからず、 一射手の出立の臻、白き小襁に白きうら打の直垂なり、ゆがけは、例式のかはのゆがけたるべし、右ばかりにさすべし、えぼしがけをすべし、
一射やうの事、産所の家をたきて、畏て如例式直垂のひぼを納て、ひとり弓のあしぶみをして、かたぬぎて、紐袖をおさめて可射なり、但北の方へは射滄事な蔘、白べりのおゝみの浦を面へ成て、人二、人に、雨方のはしを鸞らへさせて、うらを射なり、一つ射て、かたを入て畏て、射たる矢をとりよせザ、、又其箭にて、立てかたぬぎて可射、さてがたを入て畏て、二射たるよりも、少あはひを灣て、又一可射、女子ならばニッのまゝにて射まじきなり、矢は内矢にて射べし、たびことにかたを入て畏也、矢取は殿原たるべし、すあふ鏨也、たゝみは克處にしきたる白べりのたゝみ一でうこひ出て可射也、秘説也、
二射やうは、さし矢に可射、打上ては弓を引べからず、こぶし落させじが爲也弓がへし弓だふしすべからず、總じて産所の引目にか邃ら争、引目射時、打上弓、返し弓、たふし弓めるべからず、一弓立鬟、たゝみ立たるあひの事、弓杖五杖計也、
二矢取は前に坐すべし、懿より射手のうしろをざをりて可出、
一夜引鬨の事、おの子のときは、夜引灣の數三つ、少あひを置て二射て、又少あひを證て三可射、三二三なり、以上八なう、よひ、よ中、あか月、三度可射也、女の時は、二三二と以上七、よひ、磽、二度、七つ、可射、但男子の己きは、よひに三、よ中に三、曉三も射な杜、女子のときは、よひに二、よ中に三、曉二、以上七を一よに射なり、是ば略儀なり、
一めいげむの事、男子のときは、引目の數のごとく、三二三と以上八な蔘、よひ、よ中、曉、三度する、也、たびごとに八ヅゝ弦を打也、女子のこきは、よひ、曉、二度なり、是も蘰引目の數のことく、二三二、以上七打也、宵、あかつき二度、七ヅヽ弦打をするなり、男女ともに弦打て、やがて手をそゆる也、たび ご古に納る弦打な噂但是も引目射ごとく、男子の時は、よひ獵三、夜中に二、曉三、以上八なち、女子の時、よひに二、夜中に三、纔に二、以上七、弦打をする也、是は略儀なり、
一生る子の湯あぶる時、めいげんこて、弦打をする事秘説也、三々三一、十度打也、是も一打て、少みひを置て打々する也、たびごとの十度ながら手をそゆる也、男女にかはりはなき也、諸事祝の時、又は所蕎の時、弦打如庇、十度打なり、
p.0209 一ひきめ射やう、蓬所をいだき纔やうに射るなり、
一引目射る人は、家の年寄に射させ笹事にて驟、引呂射る人、すなはち御て、の心なり、
一引目の矢のながさ三尺二寸、引目は一尺或寸、貂は鶴のもと白、まゆみはぎなり、是も叉色々の事御入候間、能々知詑る人など、こしらへ參らせ候、
同引目の射手衣装の事、ゑぼし上下なり、
一同たいはいの事は、的の中弓のごとく成べし、
一引目射る矢數の事、男子ならば三なり、女子ならば二つ射事なり、一御子、夜なき、又つよくひるもなかれ候時、夜盡一時がはりに、引目を射させらるなり、一めいげんのやくと申事御入候、是はの子おとなの役たるべし、
p.0209 一産所瞞之引目射る時頌文 此段他流の祝歟
引目射るうぶやの前のふるだゝみ三の的ともなりぬべきかな
引目射る時、弓をかたに引つけべし、扮歌のかなと云所にて、矢をはなすべし、
一夜蟇目射る時の歌
墓目射る君が前なるふるだゝみ帥の心をこちに射るかな
p.0209 誕生蟇圏鳴弦といふ事、上古にはなかりし事にや、朝廷にも行はせ給はざちしに や、上古の書に見る所なし、或説に、天孫の此國に降り給ひし時、諸部の祚だち、天梔弓、天忽々矢をとり、八目の鳴鏑をとりそへ、御前に立て行き降り給ひし事、日本紀祠代卷に見えたり、天孫の降臨は、人の降誕も其義同じければ、是より始るといへり、貞丈按ずゐに、是ゑひたる説也、天孫の降り給ひしは、此國の君となり給ふ時の事なれば、今の御帥位と同じ事こいふべし、今世の人の誕生己同じ事とはいふべからず、天孫の生れ給ひしは、今の人の生るゝに同じとはいふべきなう、又天孫降臨の時の式を、人の生るゝ時用ゆべきならば、專朝廷にて皇子降誕の時用ひ給ふべき事なるに、朝廷に誕生墓目鳴弦を用給ひし事、日本紀以下上古の書に見えず、中古以來、武家の風俗なるべし、
按ずるに、産婦は産に臨ては、血氣亂れ、産後には血氣虚旣す、依之精祠虚弱也、其虚に乗じて、狐狸の類妖をなし、且つ赤子を惱し弄ぶ事あり、故に其妖怪を防がんが爲に、産屋にて鳴弦し蟇目を射る也、〈皚記ニ云フ所ノ、桑弧蓬矢な用る事己し意味異なり、〉
p.0210 寬弘五年九月十一目戊辰、午刻中宮〈○一條后藤原彰子〉誕男皇子、〈○後一條〉 十三日庚午、夕方御湯殿、致時朝臣讀書、弦打二十人〈五位十人、六位十人、〉西上北面、異位重行、
p.0210 十一日〈○寬弘四年九月〉の陸に、〈○中略〉たひらかにおはします、うれしさのたぐひもなきに、をとこ〈○後一條〉にさへ、おはしましけるよろこび、い奪はなのめならん、〈○中略〉弦うち廿人五位十人、六位十人、ふたなみにたちわたれり、
p.0210 仁安二年十一月六日庚午、自其夜亥時許、有産氣色、丑刻裝束産所、〈寢殿女房、以帳朿間、婿其所、垂母屋簾、〉修法僧侶、各相具伴借等、祗候南庇加持之、卯刻許牢産、〈男子〉相續後物又平安、 九日今日浴殿始也、〈○中略〉法眼宗命參、加持浴湯、了始御湯殿、讀書光經、鳴弦六人進庭中、〈光經進出、當階立也、其後五位四人、其後六位二人、本五位六位各三人也、而六位一人不參、仍用五位也、〉十一日、今日鳴弦六人之中、一人稱薩不參、仍五人也、
p.0211 養和二年〈○喜永元年〉八月十二口庚成、酉刻、御臺所〈○源賴朝妻平政子〉男子御平庄、御驗者專光房阿闍梨、良邏大法師瀚修鳴弦役師岳兵衞尉重經、大庭平太景義、多々良權守貞盡屯、上總權介廣常引目役、
p.0211 普廣院殿樣〈○足利義敎〉御時之事
若君〈○義歓子義勝〉御誕生、永享六年〈甲寅〉二月九日、御産所、波多野爾幡入道元責宿所、鷹司西洞院、
隨役人
御引目役 伊勢八郎左衞門尉盛經
海老名七郎持行
鳴弦役 設藥三郎貞助〈○中略〉
一御誕生鉚日、直垂著セラル、役人ハ、鳴弦三人訐也、是淋七夜、坐サマサズノ鳴强ヲ蠡夜依被勤申也、二階堂同、松田大草周、其時ノ御産所ノ亭主ハ、初夜御覦時ヨタ白直垂ヲ被著也、
p.0211 元文元丙辰年十二月十九日
一於面丸懷妊之女中、來年五月御出産御當月篇付、左之邇御産御用掛被仰付之、
御墓目 〈老中〉松平左近將監
御矢取 〈左近將監嫡子〉松平和泉守
元文二了巳年五月廿二鴟
一今曉寅之刻、於菠丸、若君樣御誕生被遊〈○中略〉
一御蟇目、廿二鸞よう御七夜迄、毎口左近將監父子勤之、廿八翼に經る、
p.0211 元文二年五月廿二日、此あかつき、西城にて若君、〈○德川家治〉生れさせ給ふ、松平左近將監乘邑、狩衣きて蟇目つかふまつ蔘、其子和泉守乘肺、大絞きて矢塩の役す、酒井雅樂頭 忠恭、是も狩衣よそほひ箆刀を拳る、事はてゝ大納言殿、〈○德川家重〉爨斗胞をたまふ、
p.0212 一恒例毎日次第
早旦供御湯、主殿官人季行之、〈近代多、經允五位也、〉釜殿運湯、須硫志女官二人取傳、藏人冑鳴弦候芦外、〈○中略〉典侍〈或上藤女房〉進御湯雌奉河藥、炙典侍取河藥饗抛板、子時藏人鳴弦、主殿官人稱名、〈主殿助藏人候之時或稱名、官人不候時事也、〉是毎日毎度事也、〈扉務之賻不穣名〉
p.0212 一雷鳴
上古、上卿召兵衞、佐令候御前ハ讃衞譬固、〈○中略〉近代如藏人、持瀧口弓候御緣、若瀧口少々召御壼命鳴弦、御持僭參會令念講、其外無別車、
p.0212 御湯殿事
藏人承仰、仰田納若御藏小舍人、御物忌時者、前日仰主殿寮官人可籠候之由、供時墮女官催取酸上弓、〈若無時ハ召鋤衞陣弓〉參絃後凉殿廂長押下、〈當御湯殿西戸南方時々鳴弦〉供御帷聞、隨女官吿、問云、誰々〈加〉侍〈留〉、主殿官人、稱姓名、宣旨官人、代入此中、〈寮助藏人、雇歙覊注時ハ、問後自更下笶、霤姓名、共政隆光等臠也云々、〉名謁了、取弓歸殿上、
御湯殿
可令奉供御湯殿之由被仰時、藏人召出納若小舍人仰違由、令仰主殿寮舞女官等、及蚕ハ期藏人若非藏人、取弓參御湯燈、奉仕鳴弦了、
p.0212 辰の時に、とのもりのつかさ、御ゆをくうず、〈○中略〉御湯殿へおりさせ給て、御ゆめしぬれば、典侍もしは上藺の女房、御ゆかたびらをたてまつる、四あしにすゑたる御かはぐすりをとうてまいらせてなぐる時、かはらけのおとを聞て、とのもらのすけなるくら人〈とのもづならずは、いつれにても、〉弓のつるをうつ、主殿官人、五位御湯殿のはざまにてなのる、めいげんは、つねには見えず、本儀はあるべき也、
p.0213 治承四年二月廿一日癸卯、今日有讃位事、〈○中略〉賜藏人所殿上弓、〈御湯殿料也、受、釋之後、可召瀧口弓也、〉
p.0213 貞丈云洞湯殿料トハ、天筆御湯殿ニ入セタマヒ湯洛シタマフ臨ニ、藏ん弓ヲ取テ鳴弦スルナリ、其時ニ用ル弓ト云事ナリ、
p.0213 一八幡殿盡家、めいげんする事、三ケ度也ト申は、弓のにぎりを取て、一度打て、少あひを儼て、又一度打、叉少しあはひを置て一度、以上三度打給ふ也、はじめ一度は、弦に手をそへずして、三鹿目の己きに、手をそへ給ふ、是をめいげんする事、三ケ度也と申來る也、魔緣のもの邪氣退治なざの時儀なり、
一魔緣化生の者なざあらて、夜引目、むねこしの引目なざ射時は、畏てたつときは、右のあしよりふみ出て、三足蹈て可射、射はてゝは、例式中に立時の足蹈のことくだるべし、秘説なり、柳爾に傳事なかれ、
一狐狸奘外魔緣の者など射時は、右のあしをまへ江一足ふみ出して射なり、急なる時は、足ぶみのさたにおよぶべからず、矢は、とがりやにて射べきなり、鷹の羽、山鳥の尾にてはぎたる矢にて、右の足をふみ出して、魔緣のものを射るに、ゑりぞかずこいふ事なし、大成秘説なり、一夜引目可射事、所薦の時のよ引目、用心の時の夜引目は、三三三と是を用、以上九也、引目を三つ持之可射、例式のこさく、つくばひて、ひぼをおさめて、足ぶみをひとり弓の足ぶみをして、はだぬぎで龝をおさめて、三つ射て、あひを少置て、又三戸射、如此三三三、以上九射なり、引目は犬射引灣たみべし、ひしぎめのなき引目にて射也、
一むねこしの引目の事、引目を三つ持で、三つ可射也、北へ不可射、同鑼東南へ引目を向たらばよかるべし、西へ向て射も不苦、病者などの藤薦に射には、主の居たる家の棟をよこさまに可射越、引目は、犬射引目だるべし、射やうは、三の引臠を、二をばそばに置て、一つをば弓にざらそへて、つ くばいて、ひぼを納て、猫弓のあしぶみをして、かたぬぎて、袖を納めて可射、引目の落所は、やね又は、いつくへ落たりとも不苦、其人の棟を射こすべし、足蹈はだけて射時、前の左のあし上て、矢はなして後足をしかとご土へふみつくべし、是はむねこしの引目射時ばかりに限りたる事也、是秘説也、
p.0214 射家有鳴弦の黑札書 轟弓山鬼明王等之字、甚不經之事なり、
p.0214 一橿家蟇目 橘諸兄公より傳來と云、是僞作也、予其書を見しに、奧書に、右墓目極秘射法傳授〈志氏〉傳授とありて、其次に又右蟇目之傳、自祠代之正傳、而橘家始相傳之極秘也、橘以貞とあり、夫墓目之法こて、法の字を付て云は、みな近代の事にて、具言印相などを用ひたる諸流多し、具言などの修法になぞらへて、墓目の法と云なり、浴油之法、陀岐尼天之法などゝ云類也、古代なき事也、京都將軍の末世の頃より起るか、橘家の蟇目之法は、夫よりも猶近ぎ頃造ゆじなるべし、近世文華開けしに依て、彼眞言家の具似をする事を嘲るものもあるによつて、橘家の法には、具言印相な言を少しも用ずして、肺代の法也ここしらへたる也、混沌弓ご云弓を用ゆ、夊射手束帶し、劒笏を帶して射こいふて上古禁中にて此法を行はれし體に作りなし、覗詞をよむ事あり、祀詞も延喜式の祓詞などを本にして、似せて造りたり、是天人唯一の紳蓮の蟇日之法也といへり、祕道に天人唯一と云ふは、萩原霾從卿、山崎垂加なざ、近頃より云出したる各目にて、理學の祕道とも云、是にて帥代より相慱也と云は、僞なるを知るべし、如此僞を作て人を誑すものは、彼輩の退治するといぶ、野狐のばけそこなひに同じ、
p.0214 宿直引目の事
魔除の爲に家の床の上に引目を立置を、とのゐ引目と云といふ説あり、用る事劫かれ、宿直と云は、主君の館にとまり番をする事也、とまり番をする人、用心の爲に夜引目を射て、鳴り音をする を、とのゐ引彎と云也、太平記、大森彦七が事を記したる條に、かやうのばけ物良引目の聲に恐ろ也とて、毎夜番衆を居て、宿直引目を射させらる、と見えたか、又義經記、伊勢三郎、義經の臣に初でなる條に、人はなきか蓬よびければ、四天王のごとくなる男五六人來る、御客人をまうけ奉るぞ、御用心と覺候、こよひは、ねられ候な、御とのゐ仕れといひければ、承り候とて、引戳の音、弓の弦おしはりなんどして、御とのゐ仕る霍みえたり、此外にも古き譬に、とのゐ引目と云は、とまり番して夜引目を射る事也、是を知らずして、とのゐ引目といふ、引目のこしらへ樣ありとて妄作なる引穩をこしらへて、座敷の床にかざウ置人あ曳かた腹いたき事也、高忠聞書、に、夜引目射るには、犬射引目本也、けゑやうの物は、笠懸引目よ参犬射引日に怖る蕈、古人申ならはしたる也、ちかき比、如此のためしおほき也と見えたち、別にとのゐ引目と云こしらへ樣はなき事なり、〈犬射引目とは、犬追物に、射る引目也、鳥く、そさうにぬりかたる引目なり、〉
p.0215 よひすぐるほざに、すこしねい力給へるに、〈○中略〉ものにおそはるゝこゝちしておどろき給へれば、火もきえにけり、うたておぼさるればばたちを、ひきぬきて、うち置給て、右近をおこし給ふ、これもおそろしと思ひたる葦驫にてヨゐ参よれり〈○中略〉右近をびきよせたまひて、にしのつまざにいでゝ、己をおしあけ給へれば、わセ殿の火も盞えにけ夢、風すこしうちふきたるに、人はすくなくて、さぶらふかぎりみなねたう、この院のあつかりのこ、むつまじくつかひ給ふわかきをのこ、またうへわらはひとり、例の膸身ばかりぞありける、めせば御こ亢へしておきたれば、ゑそくさしてまいれ、隨身もつるうちして、たえずこはつくれ竃おほせよ、人ばなれたる所に、心とけていぬるものか、惟光の朝蓖のきたりつらんはこ、霍はせ給へば、さぶらひつれビ、おほせこともなし、あかつきに御むかへに麥るべきよし申てなんまかで侍ぬると聞ゆ、このかう申すものは、たきぐちなちければ、ゆつる、いとつき方丶しくうちならして、ひあやうしビいふく、 あつかうが、ざうしのか忙へにいぬるな陟、
p.0216 ぬえの事去ぬる寬治の比ほひ、堀川院、御在位の御時主上ゑかの如くおびえ魂極せ給ひけ蔘、其時の將軍よし家朝臣、南殿の御床に候はれけるが、御なうのこくげんに及んで、鳴弦する事三度の後高學に前陸奧の國守源義家と名のりたりければ、きく人身のけよだつて、御なうかならずおこたらせ給ひけり、
p.0216 平家物語には、鳴弦して後名乗る蓬あり、盛衰記には、名乘で後鳴弦す霍あ参、前後の替ちこそあれ、名乘ビ鳴弦せしとは屆じ事なり、これは鳴弦して妖怪を退たるをいふなう、されども此事はおぼつかなし宇治捨遺戸これも今はむかし、白川院、御とのこもうて後物におそはれさせ給ひける、ゑかるべき武具を御枕の上におくべきかどさ亢あ参て、義家朝蓖にめされければ、真弓の黑塗たるを一張まゐらせたりける、御枕にたてられて後、おそはれさせおはしまさぜちければ、御戚有て、此弓は十二年の合戰の時、持しかと御尋あちければ、おぼえざる鹵申されけり、上皇ゑきらに御戚有けるビあち、此事古事談にも伺樣に載たゆ平家物語盛衰記等に、堀河院とあるは、白河院の御事を傳へ誤れるにや、弓を參らせける事を、鳴弦し名乘けるなど傳へ誤りしなるべし、
p.0216 もつけの事
手家鄰をふく原へうつされて後は、夢見もあしう、つねは心さはぎのみしてへんげの者共、おほかりけり、ある夜入道〈○平淸盛〉のふし給ひたりける處に、一まにはゞかる程の、ものゝおもての出摩てめぞき奉る、入違ちつ共さはがず、はつたとにらまへておはしければ、たゞ囈へに淆うせ瀚、おかの御所と申は、あたらゑうつくられたらければ、ゑかるべき大木なんども双からけるにある 夜、大木のたをるゝおとして、人ならば二三千人が聲して、こくうにどつとわらふおとしけり、いかさまにも是は天ぐの所爲こいふさたにて、ひるは五十人、夜は百人の番衆をそろへ、ひきめの番と名付て、ひきめをいさせられけるに、〈○下略〉
p.0217 大森彦七事
庭ナル鞠ノ懸ニ、眉太ニ作、金黑ナル女ノ首、面四五尺モ有ラント覺タルガ、亂レ髮ヲ振擧テ、目モアヤニ打笑テ、ハヅカシヤトテ、後ロ向キケル、是ヲ見人、アツト陶テ、同時ニゾ皆倒臥ケル、加樣ノ化物ハ、蟆月ノ聲ニ恐ルナりトラ、毎夜番衆ヲ居テ、宿直蟆目ヲ射サセケレバ、虚空ニドツト笑聲、毎庭尻ニ天ヲ響シケリ、
p.0217 弓射、馬に乘こと、六藝に出せり、必是をうかゞふべし、
p.0217 樹に矢を射て殘
笠朝臣金村鹽津山作歌二首
ますらをの弓ずゑふり起し射つる矢を後みむ人の語つぐがね
鹽津山打越ゆけば我のれる馬そつ淫つく家こふらしも
萬葉集三卷にみえし、昔は精兵なるものは我弓勢の勝れたるを、後代のものにゑらしめんとて、道路なざの大木に、矢を射付殘す事有し故に、金村も鹽津山中の木に箭を射殘し、此歌をよめる一成べし、保元の軍に、穴郎御曹子、〈○源爲朝〉上矢の鏑一筋殘りたるを、末代の者に見せんこて、寶莊嚴院の門の柱に留しと、保元物詰に見えし、又建久四年、曾我兄弟、親の仇を討んために、富士野の狩くらへ行とて、箱根路の湯本の矢立の杉に矢を射立置しこと、曾我物語に見え琵り、其杉は後世まで有しといふ、是皆同じ類なり近き比、寶曆九年の事なりしに、匕向國の杣にて切出せし、杉の大木を舟にて積のぼせて、常國岡山の府下にて、舟木の料に引わりけるに、半ばかりにて、鋸にかゝ るものあり、其所をうがちてみければ、籥尻三本有けり、是も昔精兵の箭を射立たうし木の、年經て生まさり、鏃のみこもりたるなり、則其鏃を爰にうつす、〈○圖略〉
朽損せしとみえたれば、其昔は大きなるものなるべし、若かの御曹司のつくしに有し時、射て殘されしものにやあらん、
p.0218 延曆十五年
參議從屈位下紀梶長〈後改勝長〉大納言正三位船守一男、性闇頁雅量好愛蜜客葺待忘倦、饗宴之費不闘田入步射容儀、應爲師摸、
p.0218 建仁三年十月廿六日辛酉京郡飛脚參著、申云、去十臼、叡岳堂衆等、以金子山爲玻郭、群居之間、同十五日、差遣官軍、依被攻之、堂衆等退散云云、〈○中略〉其聞有可悲事、佐々木中務丞經高、同三郎兵衞尉盛綱依奉瓠塞欲蚕面山門之處同四郎左衞門尉高綱入道、〈著黑衣槍笠〉皇咼野塞謁否兄筆而高綱入道子息左衞門太郎重綱、屬袙父經高雷立之問、入違祖亘鼻子行粧之典重絶著甲寳、來予父之前、父暫見之、敢丕能瞬、亦不出詞、其後重絶、退去于休所、其際經高盛綱等、戚重綱之今度合戰彰藝暴名、預勳功之實、無其疑云云、高絶入道聞之、勇士之赴戰擾以兵具爲先、甲寳者輕薄、弓箭者短小也、是尤簑故實就中如山上坂本邊一步立合戰之時、可守此式、而重綱之甲胃太霓、弓箭大兮、不相應主之間、更不可免死云云、
p.0218 或所に攝盗入たりけるに、弓さりに法師をたてたりけるが、秋の末つかたの事に咋、侍けるに、門のもこに柿木の有ける下に、此師かたて矢はげて立たる上より、うみ柿の落けるがこの弓ごりの法師がいたゞきにおちてつぶれて、さんみ丶にちうぬ、此柿のひやくごしてめたるをかいさぐるに、何己なくぬれ〳〵と有けるを、はや射られにたりと思ひて、おくしてけり、
p.0219 大坂陣ニ、濺中ヨリ射出ス矢、多ハ連水ニ淨タルヲ見タ、關ゲ原ノ役、年久シカラズシタ、武士ノ不覺悟ニ成タルヲ古老歎シき也、サマヨリ射出スニ依テ、多ハ淫水ニ落、塀ノ上靆タ射レバ、落掛フテモ、人馬ニ中ル也、但敵遠捉ノ考有ベシ、大坂陣サヘ然リ、況後世ヲヤ、
p.0219 一其頃、〈○元和元年〉的はやり申候、京にて勸違的仕候には射ながしとてざし矢星をかけ候て、弓場の作法もなしに射申候、又は世錣兵庫付と申て、弓場の付樣、ひがきべいの切やう、矢代のぎみ、前弓後弓の次第星の射上、垣破とて、先例よりの作法を吟味いだし射串候是は闇鸛樣、〈○豐臣秀吉〉御好被成、方々の射鱧を御聞被遊候其内、兵庫付作法宜候由、
p.0219 一弓射る時、矢を發ッに聲をかくる事は、古代曾てなき事也、近年射藝の師匠家にては、專聲を懸る也、是を矢聾ざも、詰學鬟も云、此聲何の釜なき事也、矢の助にもならざる事也、聲を攝る事は、三十三間堂の邏し矢よう起うたる事也、聲かけべからず、
p.0219 弓詞〈井序 應鬻部四郎蒐鄰正之求〉
阿部君正之、累世豪士也、其椿砌忠政、執弓矢奉從源大君、泊覇功其名籍甚、君習得其射蜑鍛錬工夫、擇而猶精、老而螽壯、且問訊小笠原氏嫡庶兩流、而悉究其秘奧、則能有以來、其所傳者的的矣、況彙存 椿砂之所授乎彼以禮注爲本、此以發屮爲要、則二者蚕矣射藝豈外求哉、可謂成矣、君其麟角乎、君往年陪仕前大蠻眞御攝于參州田原、時命從者ハ巒持竹杖以驪語麋君獨應精撰拜弓舍矢葱獲數蜻、以得秀聲則誰不奮之乎、嫡子政繼、及其次四子正朝、正義、用信、正重、皆克家趨庭、同有幹蠱之凧、則華封多男、馬氏五常、難兄難弟、軈孝惟友、豈不榮乎、去歲辛巳君奉鈎命ハ編修弓書八卷經年戒功獻王之、其法式條霞騷之解之、若不得藁正傳髫い何能爲之乎、其拔群絶倫者、可以嘉焉、雖鏡倉右大將待行茂蔕副元帥遇幸氏い爭及此盛事葺、君平生接余甚渥且與政繼豐交際久堅、故鸛翼始末以寄之、因賛美之以頴、〈○詞略〉
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武士の名にあふものは弓なれや深くもあふげ萵砂の松
武士の魂なれやあつさ麟はる日の影や長閑からまし
武士の射るや弓矢の名に立て國を治むるためしなりけり