https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1002 柔術又體術ト云フ、又ヤハラノ稱アリ、德川氏ノ初ニ旣ニ此術アリ、或ハ云フ是レ漢土ノ拳溏ニシテ、鯑化ノ明人陳元贇ノ傳フル所ナリト、此術ハ古來名人ニ乏シカラズ、齲日流、澁川流、起倒流等、最モ名アリ、
又一種小具足ト稱スル術アリ、卽チ柔術ノ類ニシタ、一ニ腰廻ト云フ、所謂取手是ナリ、

名稱

〔倭訓栞〕

〈後編十七/也〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1002 やはら 柔術などいへり、紀州の關口柔心を凪とす、異朝には、なきことなり、享保中、野澤柳秀なる者出て、楊心流を創む、或は明の陳元贇來りて、江月に住しより起るこもいへち、是道遇蕃客、停得殺活二十五勢神術潸也、把勢術也、拳法とは異れり、

〔嘉良喜隨筆〕

〈武家名目/抄所引〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1002 關口柔心ト云モノ、ヤハラヲ遣出ス、初ハ本多中書ニイデ、後ニハ紀州大納言殿へ出ヅ、柔心ガ仕出スユエニヤハラト云フ、

〔日本敎育史資料〕

〈十/舊鳥取藩〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1002 一安政六年未九月廿九日
此度學稜御改正に付、左の日限出席可致候、〈○中略〉
毎月左の師範家門人、講武場總出席日、〈○中略〉
柔術 同〈○二十九日〉午後 野崎八郎兵衞、多羅尾嘉兵衛、田中勘次、荒木半兵衞、
體術 辻賴佐

〔退閑雜記〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1002 乙卯〈○寬政七年〉十一月九日、柔遘の本體の傳を得てけり、この柔道といふは、世にまれなるたつとき事にて、外にたぐひはあるまじ、かの鈴木氏の家に、むかしより日本紳武の傳のこりたるが、おぼろげにかいたるもの計りにて、たれも覺えしものもなかりしな蔘、ゑかるに今の淸兵衞が父なりけるもの、この道を得まほしくて、劒備をも四五流、柔衞も六七流ほど、極め盡した るがなかに、起倒流こそいとやすらかにして、少しはかの道のかたはしともなるべけれ己おもひつきて居たりもが、ある日道行けるとき、何とかいふ橋をわたりしとき、一旦谿然として太悟す、それよ墮は、翻つかふも、柔術學ぶも、たゞまくることのみして、のちにはあまりに多く手などうたれ、黑くはれたりけるにもいとはで、たゞまけにまけたるに、その心術よく出來しときは、ふしぎに勝しこ芒度々にて心におぼえけるとぞ、それより修行勤行して、つゐに此道を開きける、いと尊き事にてこそ、韲年天卷の傳をうけぬ、

〔武備志〕

〈九十一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1003 拳
弟子曰、陳思王豪于文者也、而其自叙手握旨哉、津々乎、今之介辨、反祉而不言、嵯哉未之難巳知點耋而後、可以歡八蜑知擁鞍而後、可以敖馳爨拳之謂也、次藁説于左、紀效新書曰、拳法似無預於大戰之技、然活動手足、慣勒肢體、此爲初學入藝之門也、故存之以備一家學、拳要身法活便、手法便利、脚法輕輿進退得宜、腿可飛騰而其妙也、顚番倒插、而其猛也、披劈横拳、而其快也、活捉朝天、而其柔也、知當斜閃、故擇其拳之善者三十二勢、勢々相承、遇敵制勝、變化無窮、微妙莫測、窈焉、嵩焉、人不得而窺者、謂之神、〈○中略〉
七星拳、手足相顧挨步邁、上下農寵、饒君手快脚如風、我自有攪衝劈重、
到騎龍、詐轍佯走誘追入、塗我回衝、恁伊力猛硬來攻愨賞我連珠砲動、
○按ズルニ、本書此下十餘圖アリ、今之ヲ略ス、

〔武術流祖録〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1003 小具足捕手
柔術
堤寶山流 堤山城守寶山
下野芳賀郡守護職、而小其足達人也、慱記、鎌倉地臈寺借慈恩、習槍刀鎧組等術、最達競組爲精妙云、 推而墾堤實山流、元綠年中、武藤徹山、習其流究妙旨其門多、徹山、作州津山森家人也、後浪人於東武大鳴、子孫繼箕裘之藝、

起原

〔嬉遊笑覽〕

〈四/武事〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1004 浮世物語、〈淺井了意作、明曆万治ごろ、〉ゆくくは渡り奉公、步若黨にもなさばやと思ひ、居合やはら兵法なんど、鎔さなきより手なれさせ云々、悔草、〈正保四年版〉我などは、やはら取手や棒などを、あらまほし云々、一代男、〈天和〉けんぼうといふ男だて、其頃は、とりてゐあひはやりて畦の風俗も糸びんにしてくりさげ、二筋かけのもとゆひ云々、けんぼうは宮本武藏と鬪し、吉岡氏なるべし、慶長ごろのことゝ聞ゆ、洞房語園に、市橋如見といふ者の書たる、柔氣目録序を載て云、右柔氣目録序は、先師一橋如見齋より、予が詛父立意齋に傳へ、玄意是を澤道智に唇へ、道智より予に慱ふる所なり云々いへり、此書作者、庄司道恕が祀父甚右衞門は、正保元年、六十九歲にて身まかれり、如見はこれが師にてありしなり、宮本武藏己同時の人にはあるべけれど、如見は年齡まさりたるべし、原本洞房語園に、新町野村玄意は、其頃かくれなき柔術一流の名人市橋如見齋が弟子にて、宮本氏とは懇意なり、江戸町二丁目山田屋三之丞、角町並木屋源左衞門は、共に宮本が弟子也、右三人殊に餞し、道途を瓶し送るとあるは、其頃武藏遊女雲井にかたらひ、折々迺ひける、寬永十五猛、肥前島原一揆の時に、武藏黑田家の幕下に見舞のため、島原へ行むとする時、かの遊女がもとより、放立するを人々送り訖る也、さて此柔氣こいへるは、やはらの術なり、武藏が書る、やはらの名目は先に余が雜考に載、かゝれば和事始などに、柔術は陳元贇より始るといへるは妄なり、元贇がこゝに來りし萬治二年より、武藏が沒にし正保二年は、十五年ばかりも先なり、

〔本朝世事談綺〕

〈五/人事〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1004 柔和
近世大明の陳元贇といふもの本朝に來り、江戸麻布國正寺に寓、その頃磯貝爽郎左衞門三浦與次右衞門疆野七郎右衞門と云三人の者、浪人してかの寺にあり、元贇かたりて曰、大明に人を捕 ふ術あり、そのなす所はゑらざれども、そのありさまは覺たりと云三人の士、その言葉に隨ひ寔を工夫して、おのく術を得たり、是本朝の始也、

〔武藝小傳〕

〈十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1005 拳
日本に始る事は、近世陳元贇と云もの我國に來り居て、江戸淺府の國正寺に寓す、又浪人に頑野七郎右衞門、磯貝次郎左衞門、三浦與次右衞門といふもの、おなじく彼寺に寓居して衆寮に有しが、元贇かたりて、大明に人をとらふる術あり、我其術をしらずこいヘども、能其技をみつると云、右三人の士、其術を聞、みつから其技を工夫し出して、後能其事に熟せり、凡柔術のおこりは、右三人より傳りて諸方にあまねし、此術の理は、柔にして敵とあらそはず、ゑばく勝ん事を求めず、虚靜を要とし、物をとがめず、物にふれ動かず、事あれば沈て淨ばず、沈を戚ずるご云、凡調息を要とす、

〔續近世畸人傳〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1005 僧元政
蒿蹊因にいふ、陳元贇は、明末の亂を避て歸化す、朱舜水と同時とぞ、初尾張にありて、元政師に相見の趣、其身延紀行にみゆ、後京師に住て、常に師と交を結ばれしよし、〈○中略〉此人學才あるのみならず、柔術に妙にして、今も本邦に行はるゝは此下流多しとぞ、

〔瓦礫雜考〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1005 按に元贇は、〈元政が勇延組行に、尾張にて、始て元讐に鬱へろよし見えたり、また元々唱和とて兩人贍答の詩卷もあり、〉心越禪師等と共に歸化せるよしなれば、万治二年に來れるなるべし、然るをそれよりも五年已前に、身まかりし、武藏が、いまだ世に起らざる柔の名目かき置るはおぼつかなし、〈但し此武藏が書を、柔の名目こいふは誤なる歟、又元饗より先に、柔術はおのつがらありしにや、猶考ふべし、〉

〔譚海〕

〈十一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1005 柔術は、明曆め頃、支那まり王道元と云人來りて、長崎にて敖七より、弘たる事にて、其已前やばらと云事は、本朝にはしらざる事なり、

流派

〔武藝傳統録〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1006 柔術
關画彌左衞門氏重〈號柔身〉 紀州之藩中、高蕀之人十傳承、但シ當時不分明、
關口八郎左衞門氏成〈號魯伯〉 右ニ同ジ
天羽勘解由仲英浪人、生國不知、大坂ニテ師匠セシ内、廣貞へ皆傳、
米村所平廣貞〈法名化界院釋姓現成一覺居士安永四丁未年六月廿三日死〉 家系者、二代目浪人中、於大坂天羽仲英ヨリ皆傳、當國ニテノ、元祖也、
佐分利三郎左衞門成美〈法名酒生院醉中無毒居士 寬政九丁巳年五月廿二日死〉
〈實父成美皆博師範相繼〉佐分利三郎左衞門成貞〈法名義德院紹嶽冥忠居士 享和三癸亥年八月廿日死〉 始日多次郎、門人之内師範家、平井金左衞門、
〈實兄成貞皆博師範相繼〉河崎六郎兵衞政方〈法名政方院圓譽融岸義邇居士 文政八乙酉年十月十三日死〉 門人之内師範家、野崎入郎兵衞、井土束、松井番右衞門、
〈實父政方皆傳師範相繼〉河崎外司馬政信〈法名政信院因譽勝綠直淨居士 天保十五甲辰年正月七日死〉
〈政方門人政蓿皆傳〉岩越幸之丞輔房 河崎政信死後、門人取立師範、匹田流槍術二流之師範、

〔拳法圖解〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1006 關口正統澁川流
當流ノ租ハ、澁川伜五郎義方ト云フ、義方ハ大和國ノ産ナリ、關口八郎左衞門氏業ニ從ヒ、柔術ノ奧秘ヲ究メ、其名大ニ顯ハル、舊江月ニ在リテ諸生ヲ敎授ス、江湖ノ人呼デ澁川流中云フ、其門ニ遊ブモノ甚ダ多シ、男友右衞門、孫拌五郎、皆父祺ノ業ヲ承ク、爾來世々件五郎ト稱ス、四世件五郎時芙幼ニシテ聰明ナリ、大ニ文事ヲ好、、、、後ニ武道ヲ修メ、其秘奧ヲ究ム、柔術大意柔術稽古規、薰風雜話等ノ書ヲ著シ、其敷法ヲ大成ス、實曆十年、故アリテ他流トノ試合ヲ禁ズ、當時諸侯以下門ニ入ル、者千ヲ以テ算ス下イフ、舊久留米藩主、特ニ此技ヲ講ジ、藩士ヲ敎へンコトヲ托ス、因デ之ニ應ジ、爾來世々久留米藩ニ師範タリ、實ニ當流中興ゾ租ト云フ、 起倒流
當流ハ、竹中鐵之助ニ傳沸タタタ、竹中氏ハ、誰人ノ門穗靠出デシカ、其傳來詳ナラズ、嘉永年間、舊江戸紳田俗稱白鼠横町ニ住セリトイブ、流租ハ、寺田勘左衞門正重ト日フ、京極丹後守高國ノ家臣ニシテ、頑野正勝三代、寺田平左衞門鶚フ頑野流ノ柔法ヲ傳授セラレシ、其精妙ヲ究メ、功ヲ積ムゴ黏累年ニシテ、終ニ自ラ起倒流壬改號セタ、門下末流諸州ニ多シ、京極家斷絶ノ後ニ雲州ニ至ダ、後又作翹津山ノ森家ニ仕へ、藤貳百石ヲ領セリトイフ、其門人吉村兵助扶壽ノ如キハ、傑然タル者ナリ、當今竹中氏ノ末門奧田松五郎其藝ヲ襲グ、
楊心流
當涜ノ開頑ハ、三浦楊心トイフ、楊心ハ、肥前國長崎ノ産ニテ、譬ヲ以テ業トス、鐚用氏ノ初世ニ方リ、九州地方ニ在リ、楊心居常、門生等ニ語ダタ日ク、人ノ病ヲ得ル、多ク員坐食シタ心祠ヲ傳飽セシムダニ由レリ、故ニ之ヲ未萌ニ避ルノ法ナ棗ル可カラズ、其法ハ必ズ適度ノ運動ヲ爲ズニ在タト、遒轟其高足ノ弟子、甲乙二人ニ議シ、始メテ居捕五行ノ手形ヲ發明シ、之ヲ試みタニ頗ル心祠ノ爽快ヲ臺ユト雖韈、支體ノ運用、未ダ以タ充分ナラザル者アリ、更ニ起合行合ス手形ヲ作爲シ、之ヲ習慕スルニ至ヲテ、全ク健康ヲ保スれノ法備ハレタ、楊心巳ニ歿シ、甲乙二弟子相議シタ曰ク、我法多年、實施シブ効ア梦、堂獨タ之ヲ私久ベケンヤ、普ク之ヲ天下ニ公行シ、以タ譬道ノ本分ヲ盡スベキナリト、乃チ甲ハ楊心流ト稱シ、乙び三浦流ト稱シ、倶ニ門ヲ浪華ニ開キ、其徒ニ敷授ス、門弟頗ル多シ、楊心流ノ名蓋シ是ヨ梦創レリ、其後豐後ノ人ニ阿部觀柳小イフ者アリ、楊心流ノ奧義ヲ究メ、門弟韈亦多シ、就中江上司馬之介武經トイフ者アタ、觀柳ノ甥ナリ、幼名ヲ鬼五郎ト穩シ、夙三楊心流ゾ秘奧ニ通ジ、叔父歿スルノ後ニ、名ヲ改メテ、江上觀柳ト號ス、觀柳、嘗テ謂ヘラ宅柔術ノ按タル、特ニ身體ヲシテ健康ナタシムルノミナラズ、 苟モ世ノ武夫タル者ハ、斯術ヲ學バズン、アルべカラズト、年二十有一歲ニシテ江戸ニ來ヲ、演武場ヲ芝赤砌根心光院ノ傍ニ開設シ、大ニ斯ノ逍ヲ講ジテ、武道夕一ナリト稱セリ、門弟凡千五百有餘人アリ、享年四十八歲ニシテ歿ス、實ニ寬政七年六月七日ナリ、是ヲ本流中興ズ租トス、

〔〈天神眞楊流〉柔術極意敎授圖解〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1008 天神眞楊流之起源我ガ眞楊流ノ柔術ハ、元ト楊心流ト眞之神道流トヲ合併セシ者ナリ、故ニ眞楊流ノ起源ヲ探ラントセバ、先右二流ノ起源ヲ説カザルベカラズ、抑モ楊心流ノ元祖命、長崎表ニ秋山四郎兵衞由時ト云小兒醫師アヅシガ、醫學修業ノ爲メニ漢土ニ渡リシ際、博轉ト云者ニ就弁、柔術ノ三手ヲ習ヒ得タリ、尤モ唐土ニテハ、唯蹴ルト突クトノミヲ專ラニシテ、日本當時ノ柔道トハ頗ル異ル者ナリ、由時ハ右三手ノ柔術ヲ熟練シテ、尚活生法二拾八種ノ傳授ヲ得、而シテ歸朝ノ后、之ヲ致授シタレドモ、其手數少キ故ニ、學ビ習フ者、皆半途ニシテ廢絶ス、因テ由時之ヲ歎キ、筑紫太宰府ノ天滿宮ニ、百日ノ間祈願シテ、手數ヲ工夫シ、之ヲ三百三手ト成ス、亦紳廟ノ前ニ柳樹アリテ、大雪ノ際ニモ、其枝ニ雪ノ積ラザルヲ見テ戚悟シ、途ニ楊心流ト號ス、亦真ノ棘道流ハ、大坂御城同心山本民左衞門ト云人元租ナリ、最モ元末楊心流ヨリ工夫シテ分別シタル流儀ナル故ニ、手形手數ノ名稱ナドモ同樣ナル事多在ブ、三百三手ノ内ヨリ擇ビ拔テ、初段中段上段ト級格ヲ定メ、其手數六十八手トナス、是則チ眞之神道流ノ起源ナリ、而シテ我ガ天神眞楊ハ、右ノニ流ヲ合併シタル者ニシテ、柳關齋先生〈○磯又右衞門〉ハ、則チ其流祖ナリトス、

手法

〔八水隨筆〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1008 予が柔術の師澁川友右衞門へ、故板倉甲斐守殿仰られしは、われ其元に柔術をまなぶこと久し、かねて聞し所、他流にあて身といふ事有て、四五年も習候得ば、いかやうのものも自由になげられしよし、その上種々傳受の奧義ども有よし也、其元の流儀においては、あて身こいふ 事もなく、人をなげる術もなく、十年習ふものも、廿年習ふものも、何の傳受さたもなし、いつまで習ふても、ゆるしのさたなし、此わけとくと聞たしとありければ、友右衞門答に、御ふゑん御尤なり、しかれども御修行ならざる故、御得心なし、此方のあて身は、さしむかひ、うでつく、力わざ計のあて身にてはなし、所によりわき指、或は刀、今少し遠き勝負には、やり長刀、敵の多少により、此方よりも人數を加へ、弓鐵砲、或は長柄、備を立、列をたゾし、步行武者、騎馬、時に應じ變にしたがつて、是をあてるなり、傳受の書物外になし、國家おさまる時は、經書を讀て禮をまなび、亂るゝ時には、孫呉が術を用ふ、しかれば別に書物を作るにおよばず、經典諸史百家の書まで、おさめよまずんばあるべからず、是則我術の秘書なり、ゆるし給んかの事なる程なり、是は師匠の授くるゆるしは、其師匠ぎりにて用に立余、世間の人ゆるして名人といはゞ、是天下のゆるしなり、甲斐守殿、やはらといふものは、六ケ歟ものかなとて、其巳後は何のはなしもなかりしとなり、予、友右衞門にしたがふ事八九年、同學數百人あれども、おもむきを得たるもの六七人なり、一分の丈夫をつくし、是より上は、いくら習ふも、力の出ぬといふまで身をつかはせ、人にまけぬやうにこらへる道を敎へ、人にかつこいふ道は敎へず、それ故大かたのものは、半途にして止む、予も其道をつくしたるにあらざれども、捕手己やはらとの差別をばしれり、今は澁川も末になりて、世にしる人なし、竹みつをば能人々しりてもてはやす、かなしいかな、今の人、捕手をしりて、やはらをしらざる事、〈○下略〉

〔譚海〕

〈十一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1009 やはらに、死活の法こいふ者あり、死はある事なれども、活法は稀也、やはらには、人の胸の脇、乳の下をうつ事を殊に恐るゝ也、乳の下の骨は、薄紙のことく柔かなるものゆへ、强くさはる時は、骨を打折て氣絶するゆゑ、群集の中を往來するには、殊に兩の腎を脇につけて、はなさぬやうにして用心をすべしあて身といふも、乳の下の骨をあつる事にて、其儘悶絶に及び、甚敷は 死ぬるなり、活法を傳へて聞おけるは、氣絶したる人の足のふし〴〵を、手ぬぐびなどにて堅くくゝりて、鑞の洩ざるやうにして、其人の腹の上にまたがり、兩手をもつて其人の丹田を力一はい、ぐい〳〵こおす陦は、死人蘇生すといへち、聞傳へたるまでにて、いまだ試たる事なければ、具にしかるや否やはいまだしらず、息絶て死たるゆゑ、畢竟丹田を押て息を出す法なち、

〔柔術生理書〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1010 當身心得
夫レ柔術ニハ、形、亂捕ノニ種アリテ、形ハ卽チ身體ノ備ヘヲ作シ、能ク人ヲ殺活スルモノ是ナリ、又亂捕ハ、往蓍戰場ニテ、甲冑ヲ著シタルモゾヲ取抑ヘンガ爲メ、始メタ其法ヲ設ケルモノナリ、〈姑メ鈴、形ノ亂捕ナリシモ、〉目今頻ヲニ行ハルゝ處、蓋シ人ヲシテ死活自在ナラシムルハ、形ノ訓續熟達ニアリ、然レドモ亦亂捕モ講習セザレバ、四支頑硬ニシテ用ヲ爲サズ、故ニ宜數講習者ハ、形、亂捕トモ、併セ修行セザル可カラズ、其能ク熟スルニ至タハ、一ハ心紳安穩ニ、一ハ身幹强健トナリ、以テ兇漢不逞ノ徒ヲ殺活スルニ至ラン、修業者タルモノ、深ク戒メザル可力ラズ、

名手

〔武碁小傳〕

〈十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1010 水早長左衞門信正
水早長左衞門信正者、不知爲何國人、剛彊而有萬夫之勇、一日制剛信者、蔘永早之館曰、當時當用武勇之節也、君雖蜻武術、柔術不及吾、吾其授其術也、信正聞之大喜、賞制剛學其技術、刷剛悉傳授之曰、術旣終、能收練、則雖萬夫不能相敵也、吿暇去、信正雖尋其居處不答、又不再爽、後信正之術究妙、推曰制剛流、

〔武藝小傳〕

〈十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1010 梶原源左衞門直景
梶原源左衞門直景者、從永早信正、得其宗蓮柔術、後奉仕尾張大納言義直卿、以其投術鳴、里村隨心政氏、遊直景之門葺精妙、高橋隨悦諸氏、和田十郎右衞門正重、各従政氏得其宗、正重、後改隨心、延寶八庚申年九月廿四日死、法名保心、

〔武藝小傳〕

〈十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1011 關口八郎右衞門氏心
關口八郎右衞門源氏心者、其租駿河今川家族也、自少年好刀槍及柔術、各得其禪妙、始据武州江戸、大發名於柔蟹寔爲精妙、凡學刀槍及柔術者若干、其末流逼于、諸州始居本多家、後應記州大納言賴宣卿之召、赴和歌山、大猷大君〈○德川家光〉欲見其藝被召江戸、于時大猷大君、不例日篤、不能備其技術於台覽、鳴呼惜哉、後改柔心、有三子、伯號八郎左衞門氏業、奉仕賴宣卿、領五百五十石、仲號萬右衞門氏英、季號彌太郎氏曉、後改蟻撰氏業、後號魯伯巽子八郎左衞門氏連、繼箕裘之藝、奉仕中納言吉宗興凡柔心之柔術、古今無比之者、其請身殆得妙、
近代澁川件五郎といふ柔術の達人あり、是關口氏業の傳授を得たり、江戸に居して其名たかし、遊其門人多、弓場彈右衞門といふは、得其宗といふ、

〔明良洪範〕

〈十三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1011 竹内守亥郎ハ、柔術ノ名人也、又松平三五郎ハ、大力無雙ノ人也、三五郎、思ヒケルハ、守次郎、何程柔術上手ナリ共、首力腕ヲ我擢ミナバ、其儘攫ミ殺サント常々廣言シケルガ、或時守次郎ヲ招窗ケル節、三五郎ノ家僕ニ、大力ナル者有ルヲ呼出シテ、御手合セヲ拜見申度シト乞フ、家僕ハ、主人ヨリ彙テ内意有テ、合手ヲ殺シテモ苦シカラズト云事ナレバ、守次郎ヲ蠖ミ殺サント思ヒテ、仁王立二立テ待ケル、三五郎ハ家僕ヲ先へ出シテ試ミケ芦也、守次郎、ヤガテ立合ケルニ、其大力ナル家僕ヲ、何ノ手モナク傍へ投出シケルニ、一旦氣絶シケル、是ハ自分ガ力入レシ故、却テ氣絶シタル也、三五郎、驚入り、扨々聞シニ增ル御手ギハ哉、戚ジ入申候、柔術ニハ、活ヲ入ルトカ申事コレ有ル由、聞及ビ居候、何卒アノ者ヲ御活シ給ハルベシト云、守次郎、左樣ナル事ハ存ジ申サズ候へ共、殺サントテ投シニハコレ無ク候ヘ、、死ニハ致ベカラズト云ナガラ、氣絶シタル家僕ニ寄添ヒ、躯ダニ手ヲ掛ルト見ヘシガ、忽チ家僕氣ガ付キケル、サレドモ此僕脊骨ヲ痛メ、一人前ノ業、ヂキズ相成リケル故、三五郎、一生扶持シ置キケルト也、三五郎、此時ヨリ守次郎ガ弟子 ニ成リシトゾ、此守次郎ぶ小男ニテ、平生ノ事ハ至タ手ヌルキ者也十イへリ、

〔甲子夜話〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1012 明和ノ頃力、加藤右計ト云タルハ、柔術ニ達タル人ナリ、或トキ他ノ柔術者、コノ技ニタ仕合ヲセンコトヲ請タルニ、右計云ヤウハ、無用ナルコトナリ、迚モ柔術ニテノ仕合ハ、勝負シテ一人ハ死スタヨリ外ハ無シト云タレドモ、是非ニ噺テ承引セズ、右計、サラバトテ立金タルニ、彼男組ヅクト部擲タルニ、壁ヲウチヌキテ其身ハ外へ出卽死シテケル、右計、云ヤウハ、イラザルコト也、是非ト云故、立合タレ、コノ如キ夛り、然シ彼モ達シタルモノナリ、我擲タルトキ當身ヲシタル故、我ガ肋ヲ蹴折タルトテ人ニ示セシニ、其肋骨一ツ折レテアリシ十云、

〔故花庵備忘録〕

〈五十/伎能〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1012 池田光政の領國、備鵑岡山の磨屋町藥師寺へ、龜畸安大夫といへる柔術の達人寄宿しければ、追々聞傳へて、門弟己なる者多し、然るに同國に住す田浪士本間半左衞門、〈後篭無雅、尺八を能す、〉行て仕合を望む、靄崎心得候ひ臼とて奧に入り、片足をくゝ参片手を帶に差入て、片手片足にて躍噂出て、さらば立合べしと云、本聞あしき仕形かなと心に憤り、いまだ勝負を試みざるに、御邊甚だ某を輕しめらるゝは、いかなる故ぞと問、龜崎、貴客の御不興は尤なり、されどかくして危からざるの心譬あり、己れ門弟の面前にて打斃し班をあ尭へんと、本間どつと走ち寄て、霾崎を取て目より高くさし上たり、龜崎笑ふて、是にては勝負なし、いかゾ致され候やと云へば、本間、其儘曳巴いふ聲とゝもに打付るを、龜崎、中にてひらち鷺返り、本間を一営あてゝ打倒しければ、佛壇の唐紙を打破りし所を遠さず飛かゝら、覺えられたるかといへば、本間大に域じ、卽座に師弟の約をなせり、

〔栗園餘藁〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1012 島田見山傳
天保中、以劔術鳴於天下者、江戸方男谷某へ柳用賓大石某、中津有島田見山、見山少三乎十餘歲、而屹成鼎足之勢、幼時學劒於堀某、稱長遊筑肥隅薩之間、編求武人以角藁技、〈○中略〉見山在江戸、春日從徒 弟數人觀泥予隅田用堤よ有少年五人同飮、見見山壅故箕股以嫻路、徒弟皆怒攝劔見山徐々行踏之而過、一人起立、捉見山衣領、未及見其下手、少年旣仆堤下、二人繼起、左右握見山手、晁山大、喝べ離、二人亦相枕而仆、餘皆鼠窟、不知所之、見山不敢以吿人、其門人久米房之助、語予以氈事曰、當時吾面見之、先生不獨劒術逼人、拳法亦臻其妙如此、

雜載

〔玄桐筆記後篇〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1013 一英公は、柔術を能く己り覺給ひて、相撲は役に立ぬものなりと一口に仰けされけるを、左樣に一向にけし給ふべきにも候はず己宰ひ給ふ、さらば取て見給へと被仰、かしこまり候古て立合給ふに、黃公は御手をもはたらかされず、御身をせ動かされず、何となく御立有て、公〈○德川光圀〉思召ほど取いろはせ參らせて後、もはやよきかと被仰て、少し御身をひねり給ふとひ古しく手をつかず投げ給ふ、公起あがり給ひて、只今は私未熟なる所候ひて投られ參らせ候、今一度とり給へと御所望あれば、幾度もとて又取給ふ、又先の如く投げ給ふ、今一度と御所望ありしに、もはや見えたる事也、無用なりと被仰しを、達て御所望ありければ、此度は積さまに投げ給ふに、唐紙障子うちぬきて、女の御座敷へ投げ給ふ、侍ひける女中衆、いかにかくあらき御事そや、御あやまちにても被遊候はべ、何とか仕嶋べきをこかなしがりけ名を、いやく情のこはき灣をば、こらしめたるがよきぞと被抑けると、いつも公御はなしに被仰けるなり、其障子わきは少しも損せ璽公の御身の通るほど、きりぬきたるやうに破れける、能々英公御力もつよく、投げやうもはづみよかりしと思召よし被仰き、御あやまちなかりしも御幸也、

〔有德院殿御實紀附録〕

〈十二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1013 拳法は、岡村彌平直時、秦直左衞門武善などを敎師とせられて、はげまされければ、いくほどなく武藝に逕せしもの多くなりたり、其頃一藝一能ある處士共は、おのが口を糊する時至れり疋燒び、所々に敎場を開き、しきりに古禮をとなへ、または異風なることを傳へたり、中に講武の一助こもなるべきものには、地所を恩借ありて講習せしめらる、

〔安齋小説〕

〈十一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1014 今職人歌合
四番 右、 柔術者
天津風きほへる雲のむなぐらを取てなげのけ月ぞさえゆく
見し人にひとあて営し言の葉をふみ返したるさそくつれなき
○

小具足

〔武藝小傳〕

〈九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1014 小具足〈捕繕〉
小具足捕縛者、其傳來久也、專以小具足鳴世者竹内也、今謂之腰廻、

〔譚海〕

〈十一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1014 關流と云靭術は、表六本にて、四十八本に成也、叔父壯年の時見習たる也、やはらをば、腰まはりと云流なり、

〔嬉遊笑覽〕

〈四/武事〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1014 悔草、〈正保四年版〉我などは、やはら取手や棒などをあらまほし云々、一代男、〈天和〉けんぼうといふ男だて、其頃は、亡ちてゐあひ、はやりて、跫の風俗も、糸びんにしてくちさげ、二筋かけのもとゆひ云々、けんぼうは宮本武藏と鬪し吉岡氏なるべし、

〔好色一代男〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1014 女は思はくの外
小鹽山の名木も落花狼籍、今一入と惜まる丶けんぼうといふ男達、其比は捕手居合はやちて、世の風俗も糸鬢にしてくりさげ、二筋釋の髷上髭殘して袖下九寸若足らず、

〔武藝小傳〕

〈九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1014 竹内中務大夫
竹内中務大夫者、作蝌津山城下波賀村人、而小具足之達人也、今謂之竹内流腰廻其末流狂諸型傳書曰、天文元壬辰年六月廿四日、修驗者忽然、而來竹内之館、敎捕縛五而去、不知其所歸、竹内常所阿太古神駕、憶彼修驗者、阿太古之神乎、彌敬之信之云々、其子常陸助、其子加賀助、揖箕、裘藝不墜家名其名逼日域、

〔室町殿物語〕

〈九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1015 好喧糀徒黨之事
こ、に高橋作右衞門光範と云人あり、器量骨柄いかめしく、力ありて、一心の蘯剛なる事、凡世にたぐひなし、兵法は我朝にあるほどの家々の奧儀をつたへ、取手は、竹内の極意をきはめ、此ほか十文字、長刀、かまことぢなど、家々の蘓奧をかうせり、

〔武藝小傳〕

〈九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1015 荒木無人齋荒木無人齋者、不知謂何國人、亦不詳其事跡、捕縛之達人、而其法猶存于世、曰無人齋流、

〔武藝小傳〕

〈九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1015 森九左衞門
森九左衞門者、捕縛之達人也、其當身得妙而神也、後奉仕紀州賴宣卿發其名、

〔武藝小傳〕

〈九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1015 夏原八大夫
夏原八大夫者、夢相流小具足達人也、今川久大夫經其傳、武井德左衞門、得今川之傳、松田彦遽、理武井之藝、有鈴木彦左衞門者、從松田得其宗爲精妙、


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Last-modified: 2026-02-11 (水) 17:07:48