p.0981 水練ハ、水中ヲ游泳スル術ニシテ、蓋シ往古ヨリ之アリ、然レドモ其事蹟ノ多ク書史ニ見ユルハ、中古以來ノ事ナリトス、而シテ之ヲ武術ノ一科ニ加へ盛ニ敖授セシハ、德川時代ノ事ニシテ、常ニ旗下以下ノ士ニ命ジテ練習セシメタリ、
水練ノ具ニ浮玉淨沓等アリ、又熟達ノ人ト雖モ、長流ヲ游泳スルニハ或ハ之ヲ用イルナリ、而シテ騎馬渉水ノ事ハ騎術篇ニ在リ、
C 名稱
p.0981 水練
p.0981 すゐれん 水練と書り、水に得だるものを云なり、〈○中略〉列子に、人有漬河而居者、習於水勇於泅、説文に、泅淨行水上也、煕朝樂事に、泅兒芭も見えたり、弄潮も同じ、事文類聚に、戒弄潮文あり、
p.0981 泝漕〈同乗故反、去、邂流而上日泝、回也、行、宇加夫、又於與支、〉
p.0981 およぐ 游をいふ、泳字もよめり、新撰字鏡には愬もよめり、押よぐる義にや、列子林注に、游は拍淨者也といへば、おふすと義かよふ成べし、俗におひかくともいへり、游又旒と同じ、
p.0981 拍浮 文選云、拍浮、〈拍打也、俗云、於布須、是也、〉
p.0982 拍淨 文選注云、拍淨、〈拍打也、普伯反、兮案俗云於布須是也、听引夊、原書無載、按世説任誕篇畢茂滋云、一手持蟹整、一手持瀝梧、拍浮酒池中、便足了一生明疑源君誤引之、打也普伯反與廣韻合、由田本撫許伯反、今案五字那波本同、按仁德祀全韈於不之比佐古、詔下可抱以拍浮之匏也、新撰宇鏡訴字勸於典支、鰲於布須於輿久本是同語、癜活用轗者耳、今俗所黐水泳是也、〉
p.0982 水練、水をあぶるを古語にかはあみといへり、日本紀に、游沐を訓じたり、拾遣集の歌の端がきに、女の川水あみたる處といへるは、髮を川水に洗ひたるなるべし、泳とは異なり、古語に、およぎをかくといへり、今昔物語に、美濃國因幡河出水流人語に、男は舟にも乘り、游をも搔鬘どして行云々、水掛あひは、俳諧年浪草に、水損合は、通俗志に出たち、是は水邊にて、卑賤の者、夏日炎暑にたえず、水練の學にて、大勢集りて、其興に乘じて、左右に芬れて、互に水をあぶせかけて、勝負を爭をいふといへり、五元集拾遣、涼み舟、泥ぬりゐひし游哉、西鶴が諸國咄に、およぎならひは、瓢簞を身にまかせ、淨次第に水れん、の上手となつて、瓜の曲むきすると有り、一時の戯なりけんに、昔より今にする事なり、
p.0982 六十年七月己酉、兄〈○出雲振根〉謂弟〈○飯入根〉日淵水淸冷、願欲共游沐、
p.0982 將軍御進發大渡曲崎等合戰事
一番ニ但馬國ノ住人長九郎左衞門、同意ノ兵三百餘騎、旗ヲ卷テ降人ニ出ヅ、是笋見テ洞院按察大納言殿ノ御勢文觀借正ノ手ノ者ナツド云尹、此閲畠水練シツル老共、弓ヲ弛シ、胃ヲ脱デ、我先ニ壬降人ニ出ケル閲、撞中ノ官軍、力ヲ失タ防得ズ、
p.0982 小屋前泳檬幷拔手之事
一一行にても二行にても、順之間、三間位より遶きは惡敷、都て上覽之節、又は總見分之箘、方之通う、平日も大輪泳ぎ然るべき事也、小屋前にて順泳の節、人々泳勝手は有之候得共、泳初の人は拔手出すに、小屋の方を向、初の手を出す可き事也、其時勝手惡敷とて、後向になち手を出す事、見苦 敷者也、然共貳番目ようは、見合之内に程過故、前之人之拔手晶隨ひ讖す故、後向前向の差別無出ヅ可し、
p.0983 小屋前泳樣幷拔手之事
一拔手は、人々水に輕重あり、手の高き低き有、人々の生質なり、併修行せば、如何にも遶者に成べし、唯身のかはりよく、拔手前條の通り出し、かはち合泳べし、担手首の上へそり、又は、かゞむは見苦しく、臂指先其延し、りきみなく水へ入べし、水をたゝき、亦は、まねくやうにして入るも見苦敷く、水へ乗り、向へ手を入るゝ心持にて、水へ右手にても左手にても入るゝと、直に間なく替りの手を出すべし、間あれば身のかはりも惡敷見ゆるものなり、又拔手を出したる手の指、五指とも壹ツに、ちきみなく附る方宜しきものなり、又水を搔く手の指は、五指壹所にやはらかに遣ふ時は、あたり强く成て、泳勢付ものなり、
拔手調乎之事
一調子といふ事は、譫藝術に調子なき事はなく、調子に陰腸有、邏速有、囗あり、破あり、第一調子の狂はざるやうに能考へ覺、早く泳時は、早き調子有、遲く泳時は、遲き調子あり、此寸尺を取り候慌に心持の矩あり、爰にあかす此寸尺の取樣馘、水を攝畴は、左右の手を搔に、遲速なきやうに、右の手出す時は、左手にて、ゆるやかに水を搔かば、左の手を出す時も、右の手にて同樣に出すべし、調予に水をかき、是にて寸尺を定る事、口傳なり、如此調子の狂はざるやうに修行すれば、後には格別ゆるやかに調子を持時も、水を搔手、自然に數を取らざれ典或は三十、又は五十冢、左右共に同く數に位の定ち、自然に調子の揃もの也、
p.0983 一躄俗皆いふ、游の稽古は冷を引込、秋にいたり、痰或は病身に成る嬬云て、親の心に子共を愛するゆへ、夏水游に川邊に行事を、制するもの多し、大なるあやまりなり、余幼年の時 に、兄宇平次と白川にひた己游に行けるとき、余が伯父に村岡十之進と云者、水游を知らずして、實父へいふやうは、子どもを度々川に出して、冷させては、諸藝の妨げ、第一には病身に成て、何の稽古事も埓明ぬもの也、家業にてはなし、以後川游無用と諫めしを、實父の日、夏水に入りて、冷とばか蔘心得て居るは、大きにあやまれり、冷るは夏秋、漁に好て網をひぢにして、日を暮す渚多し、是則冷氣に當るなり、これも生れ付の堅固のものは、冷氣に當らず、川游修行にて冷るといふ事、決してこれなき道理あり、語り聞せん、川游稽古は、五月より八月比までのものなり、夫も炎天の隧中に、水につかる事故、うはべの暑をさけ、四五逼も游稽古すれば、塞く成て早岸にあがり、日當に背をほしぬれば、炎天ゆへ忽身もあたゝまりて、表のひえ故に、其まゝあたゝまるゆへ、冷を引こむ事なし、又何篇も水に入游て、さむければ則日當りにあたゝまり、右の如くすれば、暑氣もさけ、溝も覺へ、身も冷ると云事更になし、冷るは、右にいふごとく、漁に好たるものゝ事也、游修行にて、冷る程に修行すれば、はやく上手名人にもなるべけれども、續體籍古にはよ禺事皆人うみやすきものにて、修行數篇せぬものなリと、答へられければ、伯父も高論に伏し、それより兄弟松もに、夏中川游修行に出たる事也、誠に簧父の詞の如く、余六十に近けれども身健に、今年まで秋冷に疾の發たる事なし、川游をせざる人に、癈或は病身成人多し、余も幼年の比は病身にて、よわき生れつきなりしを、實父ひたと川游修行致させられし故にや、身をきたひ、漸々とs年長るに髓ひ、息災に相なり、今年老たれども、吾君命ならば、五町三町の游心安し、又今にも水に淨てばかり居て、流れに乘じ游事は、二里も三里も淨行ものなり、
p.0984 海游の事
一用水のことく流れぬものゆへ、潮の上下知れぬものなり、いつれ何方へそ少宛流れるものなり、夫を試に習有、游時に少にても上には游にくきもの故、下りに游がおよぎよし、其時試に做葉 にても、そと流し見れば、右か左か向か前へ流れ行を見て、其潮に隨ひ游時は、およぎよし、享保年中に、宗孝公、歸國の時、般中蒲苅と云湊にて、予〈○肥後國人小堀常春〉が海游を見給はんこ命給ふ、則艶游、拔游を游ける時、亦立游を命給ふ、命に應じて游げる時、湊に有ける船の面々、賞嘆の聲、暫く止ず、予が家職に似合はぬ事とおもひけれども、實父の名を揚げんと思ふ故、命に應じて游しなり、
p.0985 鎗薙刀つかひやうの事
立游なり、鑓も、なぎな亢も、身を横にして向にすゝむなり、左右に向時、鑓長刀ふり向樣、陸のこ巴くしては、水に入り自由ならぬものなり、鑓長刀いつれもふり替る時は、横にして前後左右に振返るなり、尤弓を射るも同前、弓を横に持射る也、
p.0985 二位禪尼入海幷平家亡虜人々附京都注進事
宗盛公、子息淸宗二人ハ、海ニモ入ズ、自害ヲモセズ、船中ヲ兎違角違、蓬行給ケレバ、侍共餘ニ惡ク思ヒテ、通樣ニテ海へ突入奉、人ハ鎧ノ上ニ碇ヲ置、冑ノ上ニ鎧ヲ重テ、身ヲ重シテイレバコソ沈ムニ、是ハスハダニテ、而モ究竟ノ水練也、淸宗ハ父沈給ハヾ、我モ沈ントオボシ、宗盛ハ子沈バ我モ沈ント思テ、二人ナガラ沈ズ、竪ザマ横ザマ、立游犬游シテ、沈ミ給ハザリケルヲ、伊勢三郎義盛船ヲ押寄セテ、右鵆門督ヲ熊手ニ懸テ引上、大臣殿此樣ヲ見テ、態義盛ガ船近游寄テ被取上給ニケリ、
p.0985 水術
〈中山備州臣〉島村孫衞門正廣
鳴海何衞門淸一
靑木又四郎〈當時指南〉
太田忠左衞門政倫 市川吉左衞門〈當時指南〉
p.0986 貴殿水術修行不淺之條、渡舟渡ヨリ靑柳迄、千鳥九十八逼相懸り候ニ付、此度致免許候、仍免狀如件、
文化三年丙寅七月七日 永井惣家郎
忠政〈花押〉
佐野介十郎殿
p.0986 織田備後守殿病死之事
信長卿、〈○中略〉夏ノ間ヂ河二浸夕、水練ヲ習セ玉フ、只明テモ暮テモ武功ノ爲ヲ思召シテ、他慮ハ更ニ鉦曲ヲケリ、
p.0986 水泳も御親らなさせられ、溜池の内藤左馬助政長が家に成せられし時、又は城溝にても、度々浮游ゑ玉ひし事あり、正保四年六月、角田河に御狩ありて、徒士の水泳を御覽ありしに、いつれも未熟なれば、この後は徒頭よく敎論し、宿直の外は、毎日川邊に出て、その技を勵むべきよし命せられぬ、今に至り夏月の蘭、徒組の輩、大川に於て小屋ゆひて、日々に其技をつとむるは、この時の盛旨につたはりしなるべし、
p.0986 寬文十二年七月七日、けふ爾番頭に、組士等水泳の事、先にとはせられし時、一人も練習するものなしと聞えたり、いとひが事なれば、今より後、嚴に令し學ばしむべしとつたへらる、
p.0986 水練の事も、久しく絶てなかりしかば、實永正德のころは、淺草川の三つか一つも游泳するものは、水練者など、世にも稱するばかうなうし、公には少壯の御時より、紀の海にて貿はせ給ひければ、自在の業を得給へり、岡本善悦豐久〈同朋格〉なども、常にしたがひ參ら せ、其技のいたらせ給ひしを戚じ奉れ参、大統つがせ給ひし後、御家人をもはげまさせ給ひしかば、諸番士又は徒士など、やう〳〵其業を脅ひ得たり、享保回年七月廿九日、中用の邊御狩の時、徒士の櫛ぎを台覽あるべし鯊の命あり、一隊よりおの〳〵三人をゑらび出し、其業を御覽せられし時、徒士のもの典、水を心掛るとみゆると仰ありて、御けしきよく、歸らせ給ひて後、夏衣を給ひてこれを賞せらる、これぼりその長官どもゝ、ことに勵ましければ、いくほどもなく堪能のともがら多く出て、三十返、足付ず、拔手、舞鶴、雁行などいへる業をなすものも多くなりしとぞ、〈○中略〉すべて水練の事、近臣には松下伊賀守當恒、土岐大學頭朝澄、目賀田長門守守成、つかさどち、このともがらは紀藩に在し畤、常に水馬に熟しければ、深川越中島にて、諸番士にをしへしめらる、此時糸川玄時〈○時恐晴誤〉安長、〈同朋格〉朝澄が家臣吉田丹治、田原唯七譬、いつれも紀伊國にて、岩倉郷助某といへるものゝ弟子となりて修行せしかば、ともに出て讃番士に敖へけるに、後はみな習熟し甲冑の上に刀横へて、川わたすもの迄も出來りしとなり、
p.0987 江戸にて、士人の水練する始は近き事にて、實曆五六年の頃、十人ばかりも出て、爾國橋の下、元柳橋の庭にて穩古したち、又深川越中島橋際には、未熟の者出たり、〈○中略〉潅南子に、善游者溺善騎者墮とあるは、川だち、川ではつるといへる諺のごとし、又うさぎ兵法、こたつ辨慶、違木刀などの類のことわざに、畠ずいれんと云へるも古きことなり、太平記に、朝敵蜂起の條、此間畠水練しつる者共、我先にと降人に出ける云々、
p.0987 一御徒方、水泳稽古イタシ候事、何頃ヨリ初リ候哉、大猷院檬御代、下乘橋ニテ水泳上覽被遯候ヨシナド申傳候、享保年中、有德院樣、中川御番所ニオイテ、初テ上覽被遊候節、私租父太田源八ナド罷出候、其後漣連綿トシタ書留等モ御座候へ共、初ノ儀相知不申候、
答正保四丁亥年六月廿五日、大猷院樣、角田川へ被爲成、御般ニブ御遊、御供ノ面々へ水練被仰付、 候、此砌堀田加賀守殿ヲ以、御徒頭兼へ被御渡族ハ、御徒ノ盡、水續逕者稀ナリト被恵召候、是常ニ水稽古不致候故ナリ、自今巳後、毎年夏中ハ川端ニ小屋ヲ懸、非番ノ者ハ、毎日泳ヲ稽古可致旨被柳渡候、是ヨリ、夏毎御徒方水稽古初ル、右ノ趣前撰集ニ有之候覃後按、御徒今井與十郎信記書留寫、
正保元甲申年正月廿五日、大獸院檬、龍ノ日ヨリ御乘船、角田川筋へ御放鷹ノ節、於川端雁御拳ニテ被爲合候庭、御鷹共ニ川中へ落候、御腰物番本目權之丞、大小ヲ驍ギ、川中へ游ギ付、雁ヲ帶晶挾ミ、御鷹ヲ左ノ手ニ居上、右ノ手計ニテ游ギ上候ニ付、御機嫌快然、暮時還御、翌二月朔日、權之丞被爲召、水游等心掛候段、帥妙ニ被思五候磊付、爲御褒美金三枚、時服ニツ被下之候、且御老申堀田加賀守殿ヲ以、自今已後、御旗本ノ御番衆、年若ノ面々、井御徒ノ輩、水游不可怠之旨被仰出候、
正保四年丁亥六月九日、大猷院樣、角田川筋へ御船ニテ被爲成候節、於淺草用竭假屋ヲ建、御供ノ面々へ水游被仰付、御近習外樣、幷御徒方マヂ、水游上覽畢テ還御、
重棟日、正慶承明日記、本昌ガ水練ノ事ヲ記ス、
p.0988 步行承泳は、野澤半卆弟十次郎、水馬に打交り、稽古せし事也、御徒五番組河内新助忰藤五郎といふ者、御徒二十組にて、一人の名人なりしを、半孕賴にて攤、十次郎などを取立た参、拔手泳に調子を切ごいふは此藤五郎が始めし業也、
p.0988 いにしへより、御徒方の水泳の書有といふ事を不蘭、是は左もあるべき事なり、岡水練にては書上る事かなはず、中々修業、なくては出來ぬものなり、諸藝術も、書付計にでは稽古ならぬなり、別段の手練なくして定むる時は、殊の外了簡違ひ計多きものなり、水は水に能駲る事第一なれば、書はありても岡評議にて、何のやくにも詑ゝぬものなり、故に往古より、書なきものかと思ふ、其上躱藝なれば、今のもの、疊の上にていたす藝術の綻ばかりおぼゆる心得にては出來 ぬものなり、今此書、享保の頃の泳かた盛なる時は、稽古法令掟等少く、稽古おほやうにせり、今は殊の外法令多くなり、愼第一とするより、水練の業は次第におごり、今は享保の頃の泳方とは違ひ、水練の達者を修行するを忘れ、唯見場の能きにのみかゝはれば、水練の弱きに、いつとなく移りし事、いにしへを忘れけるにひとしく、こゝにおいて古今のたがひを數年手練いたせしゆへ、書あらはし初心の人々にゑめすとのみおもふ、
天保十四卯年正月 吉田定八郎彦保花押
p.0989 巳〈○安政四年〉五月廿五日
大御番方水馬拜水稽古、明後廿七日より相始申候、依之右場所へ榜示杭、明後廿七日、御番方に而爲建候間、此段御達申候、以上、
五月廿五日 稻葉兵部少輔〈○大番頭〉
跡部甲斐守樣
p.0989 巳〈○安政四年〉五月廿五日
町奉行衆
松平信濃守
松浦彈正
大久保市郎兵衞
新御番方水稽古、明後廿七日より相始メ候ニ付、大稽古場所〈江〉前々之通榜示杭相建申候、尤大御番方〈江〉も申合、取計候樣申渡置候、依之此段御達申候、以上、
五月廿五日 松平信濃守〈○新番頭下同〉
松浦彈正
大久保市郎兵衞
p.0990 延享の比、吾侯〈○細川重賢〉入國の時、肥後熊本へ著の節、印日余〈○小堀常春〉が游を命じ給ふ、花圃の泉水にて游ける時、大に賞嘆したまひ、萬事聞及びしよりは、見てはそれほどに諸藝其に無きものなるが、余が游は、聞及び給ひしよう賞嘆したまひぬと仰有、吾侯も其日より修行し給ひ、毎日未の刻より暮まで、雨天晴天の差別なく、修行し給ひける故、實父傳受の通言上しければ、一夏中に、達者游のぬきも自由にて、吾侯の拔游たまさり給ふ他侯稀なるべしと思へり、或時祠水といふ處に、漁に行給ひしに、炎天の比にて、ゑばらく小舟に休みたまひけるが、手ぬきもゝ引わらぢをはき給ひながら、小舟より水に飛給ひ、向の岸に游著給ふ、如斯の達者ためしをなし給ふ、近習の若輩何れも修行命じ給ひけるに、一同に稽古にかゝりし面々、吾侯の拔游に及ぶものなし、余七歲の時より、實兄村岡宇平次九歲成しに、兄弟白川傘淵と云所に、實父蓮行、水游稽古させられ、余九歲に成ける年、白川世繼淵と云所にて、川游支配頭澤村主膳といふ用人、游見分しける時、我等兄弟も游けるに、賞美他に異にして、十一の歲、先君宣紀公、天祕淵游場にて、水游見給ひける時、兄弟共に游たり、又十三の年、同所にておよぎ、兩度共に先君賞美を蒙り、十五の年、伯父小堀茂竹猶子に相成りて、茶事を家業とする故、それより家業にかゝり、游の事修行止たり、或時實父、兄の宇平次同座にて咄けるは、其方など程に水を游得ては、水をこなすの、うくのといふ心にては、游の位つかぬものなり、もはや水を游得ては沈まぬものなり、蛇の手も足も無くして、水に淨み、前後左右に、白由に首をあげ行を見て心得べし、其方など程に水をうき得ては、水をこなし、浮氣を止めて、身は淨たるもの故、游の手なり、向に行く氣位を心にかけて、今より游ぐべし、りきみの無き樣に水をあいしらい、游に艶のつく樣に心懸べし、萬事の藝皆同じ事にて、りきみ有事を嫌ふなり、吾無手勝流の居合不殘樽受して、今人にも師範をするに、其人の修行に應じ、初心の内は、隨分達者にわざをはたらかせ、それより段々、心氣の工夫をさせる事也、萬物一理なりと、實父の 申せしを、余も同座にて此詞を聞、さて〳〵道理哉ご戚心して、夫より養父家に歸り、門前白川の端故、度々水に淨みて、實父の詞のことく、身の淨に構ず日々游げども、其氣味蝣の艶の付たるを知らず、淨に心を付ねば、身も沈みて伸もせず、數日游けれども埓明ず、合點もせず、是はならぬとおもひけれども、實父の詞を信じて、また日數、水に强くさはら皰やうに、沈みを構はず、折々游けれ共、終に合點せずいたりしに、或年の夏、實父所に起居を尋に行けるに、傘淵に、澤村主膳子供引つれ、游けいこに出しと聞、余も游たくおもひけれども家業異なる故、表向不都台と思ひ、何となく傘淵に行たりしに、主膳も實父も、余に游べしといひける故、則一遍游けるに、實父も主膳も、其外川方の面々も驚て、游の艶を賞美せずと云ものなし、實父も餘不審にて、今一遍と望有り、余も又游けるに、愈つやよく游出來たり、見物の面々、皆實父に向ひて、如何してあの艶ありやと問ければ、實父も賞嘆有て、外に何ぞ譯なし、先年宇平次同座にて、游の心持を語聞せしばかりにて有ると答へける、余も今に心にとくと合點ゆかねども、實父の詞を信じて、數日游ける故と思ふなり、夫より余が游、國中に名高く成りて、所々川々、游所望ありて游けれども、其妙を得たる事を知らず、されども諸國の游の風を見るに、師の傳異なるを知れり、其人の游を見るに、隨分達者なる游樣なれども水の踏樣、身のうけやう、我實父に習ふ所に異なり、おの〳〵一理有べけれども、余が實父の敎る處を傳受する時は、游の艶も出來て、拔游達者に成て益あるべし、萬事の藝、諸流に成て、師傳さま〴〵なり、游も同じ事なり、
余が實兄宇平次、游は達者なる事、及ぶものなし、白川にて、居合刀を帶して、湯衣を著、川上へ早拔游にて、游登る事自由なり、其達者なる事、國中に、一人も宇平次に及ぶものなし、實父常々人に語て日、達者游は、宇平次に長順及ばず、艶游は、長順に及ぶものなしと、稱美せられし事なり、また艶游も、長順には宇平次及ばずこいへ共、餘人は、宇平次が艶に及ぶ者なしと、語られしなり、誠に俗 にいふごとく、馬と川は乘りて知り、游て見よといへるが如く、畑水練にては、用に立ぬもの故、士たる者、修行有べき事なり、
p.0992 水泳上覽之始
一正保四年六月九日、隅蘭用筋へ御成有之、同所において、御番衆御徒方、水泳初而上覽、此頃より用端に假小屋掛り、諸向稽古始ると云、明曆元年七月八日、二丸へ渡御、御廊下橋に而御番方水泳上覽、嗣九日、召而時服を賜はる、
三享保四年七月廿六ヨ、中川潺手砂村之新田棗先において、始而御徒之水泳を上覽有之、時服御帷子各壹ツを賜る、御徒十九組之内、壹組より三人ヅヽ五十七人なり、
p.0992 廿一番 右 水馬水泳御覽
鳰とりのおきなか河にうかび出てたれか勝ると水くゞる也
水馬水泳御覽は、徒士頭組子を拳ひ、ぬき手たちおよぎなど、さま〴〵の業をなさしめ、後戯におよぎながら文字をかき、又は舟底をくゞりなどする業す、
p.0992 明曆元年七月二日、〈○二日恐八日誤〉二丸へ渡御、廓下橋にて御番方水泳台覽、〈御先代(德川家光)正保四年六月九日、隅田筋へ御戒有之、同所において、御番衆御徒方、水泳初て上覽、此後年々五月より八月迄、川端に儼小屋掛り、諸向稽古始るといへは、御徒方水泳上覽、五年目仁有之候、永式となりしは、有德院殿、享保四年七月廿六日、中用違手砂村新田出先に於て、始て欟徒方水泳上覽有之、時服御帷子一ツを賜ふ、御徒十九組の内壹組より三人ヅゝ、都合五十七人にて相勤、〉
p.0992 享保四年七月廿六日、中川のほごりに御放鷹あら、御みつから雲雀三十、鳴一を得らる、また漁を觀給ふけふ御舟を中用にとゞめ給ひて、徒士五十七人の水泳を濺せらる、游泳はてゝ、徒士頭土屋平三郎正慶を御飜に召れ、組子の水練、御褒詞を蒙る、 廿七日、この日賠手頭向井將監正員、大河内又十郎政真、堀七郎兵衞利邑、三淵縫殿助永正、石川源兵衞乘繁に時服賜ひ、きのふ徒士の游泳を御覽せられしときの覊にあつかりしを賞せらる、また水泳せし徒士に 各帷子一をたまふ、
p.0993 安政二年五月廿七日、同日於濱御庭水泳、〈松平三河守家來吉田懽干、植原六郎左衞門、柚原六郎、島田兼次郎、松本爲次郢、渡邊櫪之助、川路矢五郎、大澤値之助、大場鶴太郎、藤田俊助、栗原環、但爲見分。御目付鵜殿民部少輔、岩瀨修理相越、〉
p.0993 一余〈○小堀常春〉が實父村岡伊大夫、幼年より川およぎ好にて、稽古せしに、自然と其妙を得て、先君綱利公〈○熊本藩主〉の時、江戸白銀邸の泉水にて、松平伊豫侯其外諸賓客招請の節、此泉水にて、游を見せ給ひけるとき、伊大夫游拔群勝れたる故、再三命有て游けるに、伊大夫種々の游、滿座皆賞嘆やまずして、伊豫侯の給ひけるは、日本一の游と唱美し給ひけるゆへ、其比伊大夫異名を、朋輩共日本一と呼けるとなり、
p.0993 高綱渡宇治河事
直實大昔揚テ云ケルハ、〈○中略〉無詮合戰ニ與力シタ、大事ノ命失フナ、落ハ助ント云儘ニ、引取々々放箭ニ、木曾殿ノ郎等ニ、藤太左衞門尉兼助ト云者、逆ニ被射落ケリ、是ヲ始トシテ、水練ノ者アラバ、防矢射ソトテ、五人進寄テ散々ニ射ケレバ、多ノ郎等手負討レケリ、其間ニ佐々木ガ郎等ニ、常陸國ノ住人鹿島與一トテ無雙ノ水練アリ、鎧脱置、褌ヲカ土、、腰ニハ鎌ヲ指、手ニハ熊手ヲ以、河ノ底ニ入、良久沈ミクヾリテ、亂株逆母太引落シ、大綱小綱切棄ケリ、實ノ器量ト見エタリケリ、
p.0993 屋島合戰附玉蟲立扇與一射扇事
爰ニ伊勢三郎義盛ガ郎等ニ、大胡小橋太ト云者有、駿河國田子浦ニテ生立、富士川ニ習、究竟ノ水練ノ上手ニテ、水庭ニハ半日モ一日モ潜アリキケルガ、兵ノ乘ナガラ而モ軍モセズシテ、漕廻漕廻スルハ、大將軍何ヤラン直者ニハアラジト危思テ、人ニモ不知、燒内裏ノ芝築池ノ陰ヨリ裸ニナリテ、犢鼻褌ヲ搔、刀二持テ海へ入、敵モ御方モ是ヲ不知、鞆六郎カセカイニ立テ、己ハ軍モセズ、人ノ船ヲ下知シテ軍ハトコソスレ、角コソスレト云ケル處ニ、ツト浮上テ足ヲ懷イテ、曳聲ヲ出 シ海へタフト引入タリ、陸ニテコソ六十人ガ力ト云ケレ奐、水ニハ不心得ケレバ、深キ所へ引尹行、六郎ガ頸ヲ取髻ヲ口ニクハヘタ、水ノ底ヲ蚊、源氏ノ陣ノ前ニゾ上タル、刺官見給テ尋聞給へバ、上件ノ子細變申、下鷯ナン共思慮賢ト尹、鷲造ノ大刀ヲ給タ、世靜テ後兵衞佐殿モ、武藝ノ遘、紳妙神妙トテ、千餘石ノ勸實アリ、誠ニユヽシカタケル面目也、
p.0994 二位禪尼入海幷平家亡虜人々附京都注進事豐後國八代宮神主ニ、七郎兵衞尉某ト云者父子ハ、平家ニ被催軍シケル程ニ、壇浦ノ軍敗レテ、遞ベキ方ナシ、自害ヲセバヤト思テ、子息ノ大夫ヲ招イテ、卒家ハ、ハヤ亡ヌ、我等囚レビトニ威ナバ、一定可被誅、靨里ニ歸、今一度妻子ヲモ見バヤト思、又可自害歟、ソレ計へト云、子息大夫申ケタハ、我等必シモ平家重代ノ侍ニ非ズ、又心ヨリ發テ軍セズ、十善帝王御坐トテ被駈催、一旦參ス、强チニ罪深カラズ、只譬里乙返退テ、無誤由ヲ陳ジ串給へ、但只今舟ヲ漕行ハ、落人トテ、ヨモ不被生、年來ノ水續、此時ニアヲ、水底ヲ游給ヘ壬云、可然トテ、鎧物具脱棄テ、裸ニ成、褌カキ、父子共ニ水底工飛入タ、豐前圃柳浦ヲ志テ游行、門司滿ヨリ柳浦マデハ、海ノ面五十餘町ノ處也、今二十町計、不行著シタ、父ノ兵衞尉、子息大夫ヲ呼返シテ云、去共ト思ツシ其、我左ノ足ヲ引入々々スル者アリ、今ハ故郷ニ游著ン事難叶、去バコソ汝ニモ游後ルト云、大夫ハ、疲給タルニゴソ、何物カハ足ヲ引侍べキ、只我肩ニ懸給へトイへバ、我身コソ死ヌ共、汝ヲサヘ沈メン事不便也、如何乙韈足ガ重ケレバ、叶ハジト云へバ、大失、水底ニ入テ足ヲ捕テ見レメ、餘晶周章、髓當ノ片方ノ緖ヲバ解夕、今片方ヲ不解ケルガ、水ニシトミタ重カリケリ、引切タ角トイへベサタハ游ントテ、二時計ニ柳浦ヘ游上ル、宿所ニ歸ク、妻子ヲ見、幌事極ナシ、
p.0994 文治四年六月五日己巳、自去夜雨降、賄時以後如覆、雷電聲、終日不休止、戌刻洪水、勝長壽院前橋落學、而飯田家郎、相當御堂宿直依爲永練者、相真郎從冖浮渡水面二町餘取留之、而景時爲見 御堂邊欲蓼入之處、橋已流之間、扣駕之間、見飯田所爲、令蹄參申其典則召飯田賜御馬云云、
p.0995 正治二年九月一百乙卯羽林、〈○源賴家〉令歷覽小壺海婁績小坂太郎、長江四郎等箇御駄鎚〈○中略〉海上粧揃獻蠡酒、而朝夷名三郎義秀、有永練之圃以此豕算顯其藝之由有御僉義秀不襲辭申、則自舶下浮海よ往違數十、結句入波底暫不見、諸人成怪之處、提生鮫三喉、浮上子御艇之前、滿座莫不戚、
p.0995 坊門の大納言忠信、〈○中略〉交野の御狩に、同じ馬〈○馬名一六〉に乘て、鹿に付て馳ける程に鹿淀川に入ければ、馬も續きて入にけり、乘人用に玄づみて見えざりければ、上下おどろきあざみあへりける程にゑばし有て、物具水干袴、みなうき出たちけり、其後はだかにてをよぎ上りけり、水の底にて、のどかにぬぎとかれけり、水練の程目出たかりけり、
p.0995 承久三年のみだれに、字津宮越中の前司賴業、いまだ無官なりけるが、宇治川をわたすとて、押ながされて水の底へ入たりけるに、石にかきつけて鎧をぬがんとゑけるが、上帶ゑめて、とけざりければ、引ちぎりて、ぬぎておよぎ上りたりけり、さしもはやき川の底にて、かくふるまひたりける、ゆゝしき事也けり、水練なりけり、
p.0995 いづれの比の事にか、山僑あまたともなひて見などぐして竹生島へまいりたりけり、巡禮はてゝ今はかへりなんと玄ける時、兒どもいふやう、此島の信たちは水練を業としておもしろき事にて侍るなり、いかゞして見るべきといひければ、住僧の中へ使をやりて、少人たちの所糶かく候、いかゞ候べきこいひやりた参ければ、住借の返事に、いとやすき事にて候を、さやう事つかうまつる若者、只今たがひ候て一人も候はず、かへす〴〵口をしき事也といひたりければ、ちからおよばでをの〳〵かへりけり、舟にのりて、二三町ばかりこぎ出たりける程にはり衣のあざやかなるに、長絹の五帖の袈裟のひだあたらしきかけたる老僊、七十餘りに やあるらんと見ゆる一人、はぎをかきあげて海のをもてをさしあゆみて來るあり、網をとゞめてふしぎの事かなと目をすまして見ゐだる所に、ちかくあゆみよりていふやう、かた仁けなく少人たちの御使を給て候折ふしわか藩共みなたがひ候て、御所望むなしく御蹄ち候ぬる生涯のいこんにさふらふよし、老僭の中より申せと候也といひてかへらにけり、是に過たる水練の見物あるべきやと目をおどろかした参けり、
p.0996 金崎城落事
氣比大宮司太郎ハ、元來力人ニ勝テ、水練ノ達者ナリケレバ、春宮〈○恒良〉ヲ小舟ニ乘邏セテ、艪カイモ無レ共、續手ヲ己ガ横手綱ニ結櫞、海上三十餘町ヲ游ヂ、蕪木ノ浦ヘヅ著違セケル、是ヲ知人更ニ無タケレバ、讃ニ杣曲ヘ入違セン事ハ、最安カフヌベカタシニ、一宮ヲ始蓬セテ、撞中ノ人々、不殘自害スル處ニ、我一人逃尹命ヲ活タラバ、讃人ノ物笑ナルべシト思ケル間、春宮ヲ怪シゲナタ浦人ノ家ニ預ケ置進セ、是ハ日本國ノ主乙成セ給フべキ人ちテ渡セ給フゾ、何如文モシテ柏山ノ城へ入進セタクレ懿ト申含メテ、蕪木ノ浦ヨヅ取尹返シ、本ノ海上ヲ游ギ歸テ彌三郎大夫ガ薗害シテ伏タル其上ニ、自我首ヲ搔落タ、片手ニ撻、大膚脆ニ成テ死ニケリ、
p.0996 古來より水練を得て、武を輝し、又は命を助かり、功を存せしもの、あげて計へが尭し、其一をいへば、天正元年二月廿七日の戰に、淀の城にて、岩成主税助古通己いひし人、大力にして、其彊勇當るものなし、時に藤孝公の内に、下津韆内古辰といふもの、案而水練を得たる士也、淀の橋の上にて、主税助ど權内こうちあひ、やがて組合けるが、橋の上より組合ながらに川へ落ける時、主税助は、水練にうとき故に、水中に沈みけるを、權内水を得たれば、水中にで首攝切参、功名をなしたり、夫ゆへ今に肥後の國八代球嘩川こいふ大川にて、水溌修行怠ることなし、則これ武士たる人の心懸べき事也、ある人いふやうは、子供をだび〳〵川に出して冷させては、譫蔀の妨げ 又は病身に成て、何のけいこ事も埓明ぬもの也家業にてはなし、以檮川游無用と續めし之予〈○小堀常春〉が實父の日、川游けいこは、五月より八月までのものな見夫も炎天の日中に水につかる事、うはべの暑を避け、四五へんも游稽古すれば寒くなりて、早岸にあがう、日當に背をほしぬれば、炎天故、忽身も温まうて、表のひへ故に、其まゝ温まる故、冷を引込事、なし、又何篇も水に入、游で塞ければ、則日當りに濕まり、右の加くすれば、苦氣も避け、游も覺へ、身も冷る事なし書聞ゆ、就中予六旬に近けれ共、身も健鷺して、諸病の憂なし、尤幼年の頃は病身なれ共、川游修行せし故にや、身を幾たびと漸々年長るに隨ひ息災になれり、爰をもつて初心め心得をしめすのみ、
p.0997 關が原の役長胤〈○田中氏〉郷戸を渡らんとするとき、中間の中に、水練をよくする者あり、是をして懶蹈せしむ、大雨の後、水增参て淺瀨をゑらず、諸人の渡り矯ける所へ、かの中間、川へ飛入ち、或は浮、或は沈みて、甚深しさみえけるが、歸りて淺く候といふ、長胤先に汝がわたらし體は、深かりし體なるが、今淺し己云は如何と被尋ければ、かの者答て、淺き體を見候はゞ、他の備より先を爭ひ渡り候はんとわざと深き體を仕候といふ、長胤、則淺き通ちを渡り、先登の功あり、かの中間は、竓功によりて郷戸三郎左衞門と號し、士の列に入られけるが、後に細川家につかへて病死せり、
p.0997 好喧埖徒黨之事
こゝに高橋作右衛門光範と云人あら、〈○中略〉大のおとこといへども、おほきなる兩こしを帶しながら、入尺のついぢを、あなたこなたへ自由に飛こゆる、水の底には、さだまつて半日はこたへけり、
p.0997 十二の御歲、淺草川御游被遊候事、御行實に見へたれども、獪も書付申候威公〈○德川賴房〉淺草用へ御成有て、お長、〈○賴房子光圀〉此川游べき歟と御尋あり、游て見可申と御答あり、さらば游て見よ と被仰出、御供のもの共、無笏壁御事なり、自然御あやまち候はゞ、何とか可仕と諫め奉けれぼ威公皷仰けるは、いやとよ我子ならば游得べし、自然溺死候ても、それほどの不器用者、生立饐くも詮なし、少しも悔むまじ、とく〳〵游候へ鷺て、小舟に乘まいらせて、西の岸へ著まいらせ、東へ向て游がしめ給ふ、其年は荒年にて、餓死の骸、水上より數多流下けるが、御身へ當りけるを推のけ給へば浪にゆられて、又は流より〳〵、幾度となくゑける、其骸の冷やかなる事、臭穢なる事、たさへんかたもなく、うるさく思召けん、せんかたなくて骸の下を越て御游被遊けり、逧半游ぎ給ふ時、威公、御力を被添事にや、御游は無類の御上手にて、御腰より上はさし顯れて、水の上に淨立給へども、お長、川は、もはや淺きぞ、是見よ我せいの立程なるぞと、御後玄さ参に游給ひて導き給ひ、岸に游著給へば、御下帶の鰻結を取て、小舟の申へなげ入給ふ、公は草臥給ひて打伏給ふ、威公、大に御戚あつて、御褒美に、小鍛冶御脇指を被霆、此比公、あまりわるさを被遊によ蔘、御脇指を御制禁にて、丸腰にておはす、御懇望の折節にて有ければ、あまりの御うれし、さに、御草臥も打忘給ひて、卽起揚り、頂戴被成けるとぞ、〈淺草川西岸か、是も違に覺不申候、とかく威公は、川奄鏤て、むがふの地へ猛成御座候て、裁公を御舟に乗鑽らぜて、こなたの岸へ著まいらせて、注戸の亠力の岸より、水戸の方の岸丶御灘がせ懃遊候よし、〉
p.0998 游習幷浮玉
右詳ニ水術敎則、浮游ノ條伴ニ述ブ、數多ノ初心ヲ引立ル壬キハ、一人宛手ヲ取リテハ行届ク事昧アラズト知ルベシ、
右圖〈○圖略〉ノ如ク、淨玉ト云ハ、浮物ナレバ、瓢ヲ利トスレドモ、數多入用ナルユへ、木乙タ作ルナヲ、コロツプ、能水ニ浮ク木卜雖ドモ、日本ニ少シ、故ニ桐ノ本、穴ヲ真中ニシタ、差渡シ饑尺二寸、搶毬ノ如ク玉形ニ作リ、其上ヲ澁晶タ水留シテ、苧物一丈一尺ヲ以テ、數珠ノ如ク貰通ジ、數メ長幼ノ人體、各水ニ濘ク分量ヲ以テ增減アルベシ、通例ハ玉十五ヲ貫クラ一筋ト云フナ夕、附樣ハ背中 ヨリ胸前ニ廻シ、亦背中ニ苧物ヲ廻当其端ヲ胸前ニ取テ能ク結ブべシ、但浮玉、腰ニ下ル時ハ、腰ハ水ニ浮キ頭ハ沈ミ、反テ害トナルユへ、其心得アルべシ、此器、初心ハ速ニ浮、游ギ覺へテ捨離スルヲ要ス、又達功モ此器ヲ帶ビテ修練ノ具術タル所ヲ試ミ覺ユル爲メニ利有リト知ルべシ、
p.0999 一浮沓 水をおよぐ時用ゆる也、浮沓の秘傳、色々樣々ありといへども、椿樣むつかしき事あり、無造作にするは、大なるふくべ〈ハナフクベト云、大サ一トが、へほとあり〉を能からして、そのかれたる儘にて、外のこしらへもなく、其大ふくべを苧絶のあみに入れて、水をおよぐには、胸のあたりへあてゝ、このふくべにておよぐべし、むねの邊へゆひ付るがよし、
p.0999 一浮ぐつ 三尺手拭を袋にして、こはちふくべをいくつも入、我が胴に合ふ程入て結付たるがよし、高ー付たがよしと云、又大なる鉢ふくべを麻の網に入て、腰より上に付るもよし、水に入試み能程に付べし、
p.0999 と浮沓之事
一浮沓ハ、沓トハイへドモ沓ニ非ズ、胸背ニ掛ルモノ也、往歲愚〈○中井積善〉京師ニ於テ、コノ製ヲ見及ビタリ、誰ノ造リシ物トモシラズ、甚面白キモノト思ヒシ故、浪華ニ返リ、工人ニ意ヲ假シテ造ラシメタリ、板ニテ内ヲ宀全シクシ、外ヲ實シテ漆ヲヌリ、或ハ熟皮ニテ置シテ漆ス、ツトメテ物ニフレテ損セズ、水ニ入滲入ナカラシメ、一大筒、長サ二尺許、小二筒、長サ一尺二寸許、高ハミナ四寸餘トシ、形ハ頂底平直ニ、側ハミナ内ニ向ヒテ少シ曲リ、布豪ヲモテコレヲ盛テ、大筒ヲ中ニシ、小筒ヲ左右ニシ、大小交接ノ所、囊ニ紐シテコレヲシメ、左右ノ囊口ヲ麻繩ニテ括シ、端ニヒモヲ長クツケ、人々赤身ニコレヲ著ケシメ、一大筒背ニ當リ、兩小筒左右ノ乳ニ當リ、匸モヲ胸ニテ交へ後へカへシ、左右ノ肩ヨリ又前ニトリ、同ジク結付テ、下ニサガラヌヤウニスルナリ、扨水中ニ飛入ラシムルニ、イカホド高キ哢ヨリ飛タリトモ、聊モ沈ムコトナシ、水心曾テナキモノモ、立身ニテ 泅グコト自由ナリ、誠ニ水中ニテ、强テ仰ギ、强テ伏シ、左右色々ニ傾キテモ、頭面ノ水ニツカル事曾テナシ、池中海中ニテ試ルニ、意ノ如クナラザルハナシ、タゞ川ヲ渡ルニハ浮沓ニ水セキカ、ルユへ突流サレテ、遙カニ川上ヨヲ、ヨホドノ川下へ流レ渡リニナクテハユキ難シ、流レ早ケレバ、竹竿ヲ以テ掉尹シテユクべシ、サレドモ水心ナキモノハソノ棹ヲ水ニシブカレテ、自由ヲナシ難シ、又水練ニ達シタルモノハ、淨沓甚ダ妨ゲニナリ、殊ニ綽ヲ持テハ、心ヨク渡レズ、只川ヲ泅ギコスト云バカリニテ、衣服佩刀ナド持渡ルコトハ、所詮出來マジケレバ、ワタリ得テモ用ヲナシ難キコトアルべシ、何トブ水ニ熟スル人、コノ浮沓、並ニ棹サスコトニ熟練セバ、大ニ益ヲ得ルコトアリ、川々滿水ニテ、舟モ川越モナラザルトキ、官郵ノ御狀箱ナド、通リカ、リタルヲ川留ニ及バズ、ソノトキノ爲ニ桐木ニテ小キ舟ノ形シタルモノヲ造リオキ、御狀箱ヲ中ニ括リツケ、當人ノ衣服佩刀ナドヲ、ツノ傍ニ繫縛シ、水ニ泛テ、細引ヲモテ腰ニ結付、浮沓ヲカケ、棹サシテ渡ルベシ、不虞ヲ圖ラバ、三人モ一所ニ渡リ、細引三筋ヲモテ、銘々ニ右ノ舟ヲ結付ナバ、一人誤チ流レテモ、是ヲ助ルコト自由ナルべシ、此外ニモ、イロ〳〵十全ニワタリ越ベキ曲折アレドモ、餘リ事煩シケレバ姑ク略ス、何分コノコトヨク調ラバ、御眦从箱ニ侖口テ遲滯ナク、國家ニ於テ大ナル御爲ナルべシ、是の國用ノミニアラズ、軍、用モ大ニ宜アルベシ、凡ソ浮沓ハ、一人コレヲ掛レバ、兩人ニトソツカセテモ、曾テ沈マヌホドノ力アリ、ソレ故具足ノ上ニ掛テモ、赤身トサシテカハルコトナカルベシ、又騎將ハ、別ニ少シ大ブリナルヲ造リ、馬ニモカケ、自分ニモ淨沓ヲカケナガラ騎レバ、水中ニテ落馬シテモ沈ムコトナシ、軍兵ハ長柄ヲ棹ニシテ渡ルベシ、敵ノ大川ヲ隔テ、陣ドりテ、舟ヲ燒キ橋ヲ斷テ、萬全ナリト思べキトキ、ソノ不意ヲウチテ、一軍颯ト水ニ打入レ、快ク押シ渡リ、岸ニ上レバ、スグニ長柄ヲトリ直シ、槍合ヲ始ムベク、味方ニ少シノ透間ナケレバ、必ズ勝耕ヲ、得ベシ、萬一敵多勢ニテ我後陣續カズ、利アラズシテ引返ストモ、マタソノマヽ川ニ打籠ル ルニ、敵ハ水深クシタ追ウツコトモナラヌニ、悠々トシテ引取べシ、是進退トモち大利ア夕ベシ、タヾ刀槍ヲツカンニ浮沓カセニナ夕、少シ妨アルベケレドモ、平生熟練シテアラバ、コノ害筆無ルベシ、國用、軍用トモ熟スル所ニテ、ソノ益ヲ見ルべシ、五穀ノ美ナルサヘモ、熟セザレバ翰稗ニ如カズトミエタリ、萬事皆シカリ、豐タゾ浮沓ノミナランヤ、
p.1001 一と水練ノ藥 蟾油、鵄キガヘルの油也、油のとりやう、八鵞十五夜、晴月に向ひ、朱ぬりの盆に、ヒキガヘルを鬣て四方に鏡を立、其鏡の外に、鑞燭をとぼす、其灯消る時、油出るなり、 樟腦〈五分、土器ニ入、七度燒カヘス、口傳、〉 乳香〈三分、其儘、〉 松脂〈五分、其信、イカニモカタキチ用、でツヤ三ノつト也、〉 鼠糞〈八分、其儘、粉瓢ジテ、〉 杉脂〈二分、其俳、スギノヤ竺也、〉右ヒキガヘルの油は、總襲の三分一入れ、膏藥の如くに煉ちつめ、水練の時、目灘鼻耳などの穴のマハヅニヌル、口傳、桶などのハタに此藥をぬり、頭にかづき水底に入時も桶より内に水入事なし、