p.0491 流鏑馬ハ、ヤブサメト云フ、馬ヲ馳セ、鏑矢ヲ放チテ的ニ中ツルナジ、今德川氏ノ時ノ例ニ據ヲテ、之ヲ按ズル乙、奘的ハ三箇ニシタ、方板ヲ用イ、之ヲ的串ニ擂ミテ三所ニ樹テ二人ニシテ各三的ヲ射戸ナヲ、射手ハ十六騎、或ハ十騎七騎等ニシテ、必シモ定數アラズ、其装束ハ水干續蘭笠等ナヲ、先ヅ場ニ進ム者ハ、揚ヲ披キタ之ヲ背後ニ投ゲ、而シテ後ニ箭ヲ放ヅ、之ヲ捨鞭ノ扇ト云フ、最後ニ進ム者ぶ、弓ニ矢ヲ注シ、聲ヲ揚ゲテ騎リ出シ、一ノ的ヲ射テ、ニノ矢ヲ注シ、鞭ヲ學ゲ二ノ的ヲ射テ、又聲ヲ揚ゲ鞭ヲ學グ、之ヲ拾鞭ト云フ、此技ノ史ニ見エタルハ、中右記ニ永長元年四月、白河上皇ノ鳥羽殿ニ於テ之ヲ觀タマヒシコトヲ載セ、吾妻鍾ニ、諏方盛澄ガ、租先秀郷ノ秘訣ヲ傳ヘシコトヲ載セタルヲ以テ古シ卜ス、足利氏ノ時ニ至リ、此技一旦中絶セシガ、德川吉宗、騎射式ヲ中興シ、元文三年以後或ハ之ヲ流鏑馬ト稱シテ、高田馬場ニ於タ行へリ、德川氏ノ時ハ、騎射、流鏑馮ぶ、其實同ジキモノナレドモ、今ハ其名稱ニ從ヒテ之ヲ分載ス、
p.0491 中君夫、天下第一武渚也、〈○中略〉流鏑馬、八的、三三九、手挾等上手也、
p.0491 鳥羽にて、白河院のやぶさめといふこと御覽しけるに、瀧口なにがしとかいふものいむとしけるに、〈○下略〉
p.0492 流鏑馬〈馬上弓〉
p.0492 流鏑馬
p.0492 やぶさめ 東鑑に、流鍋馬をよめり、矢伏射馬の義成べし射馬といふ事も、東鑑に見えたり、是は肺前にて執行はるゝ式にて、天武天皇の時の、うまゆみに始れうといへり、
p.0492 一やぶさめと云名は、やばせむまの賂語也、やとは矢なりはせは馳なり、馬をはしらするなり、馬を馳ながら、矢をはなつ故、やばせむまと云也、やばせむまといふ事を略して、やぶさめと云なり、はトふ壬五言相遯ずる也、〈ハヒフへホ通音也〉せトさ五瞽相通ずる也、〈サシスセソ通言なり〉又むまと云詞を略して、まとばかりいひ、まと云詞を轉じて、めと云なり、まトめ五音相通ずるなり、〈マミムメモ通音也〉又やほさめとも云も、五昔相通ずる故也、〈ハヒフヘホ通音なり〉又云、馬を馳ながら矢をはなつを、やぶさめこいはべ、笠懸犬追物をも、やぶさめと云ても、くるしからぬやうなれども、上古の騎射は、笠懸犬追物はなくて、やぶさめばかりなうし故、奘時代にやばせむまと名付し也、後にやばせむまを路して、やぶさめと云し也、やぶさめは、上古より有しなり、
一やぶさめと云字は、流鏑馬ざ書き來たれり、文選の中に、張衡が作りし西京賦に、流鏑擢撮とあり、〈措撥ハ、矢ノ物ニ中ル音也、注ニ見、〉流鏑の二字、右の西京賦に出たり、西京賦の流鏑は、やぶさめの事を云にあらず、たゞ鏑矢の飛ぶ事を流鏑といひたる也、流の字は飛びはしる意なり、天の星の飛ぶを流星と云に同じ心なり、やぶさめは、馬を馳せながら鏑矢を飛する故、流鏑馬と書で、やぶさめとよませたる也、流の字を水の流るゝ心に見てもよし、又射手の拳の上より的の方へ矢の流れ行心に見るもよし、
p.0492 廣有射怪鳥事
廣有、此烏ノ在所ヲ能々見課テ、弓押張ヲ、弦クヒシメシヲ、流鏑矢ヲ差番テ立向へバ、主上〈○後醜醐〉 ハ南殿ニ出御成テ叡覽アリ、〈○中略〉廣有、巳ニ立向ブ欲引葛ケルガ、聊思案ス羨有ゲニテ、流鏑ニスゲタル狩俣ヲ拔テ打捨、二人張ニ十二束二伏、キリ〳〵ト引シボリテ、無左右不放之、待鳥啼聲タリケル、
p.0493 流鏑馬之事
一流鏑馬の馬場は、二町に打べし、但是もはづし弓の定なり、的三所に立也、
p.0493 一馬場耙けの事、二町なるべし、馬かへす所は笠懸の馬場のこゼし、埓は兩方にあるざし、め埓を埓といふ、を埓は高く、め埓は低かるべし、射る時の馬手をめ埓といふ也、〈○中略〉
一一の的の間、弓杖四十八杖、但馬のはやきをそきによりて、的の間、のべゑゞめあるべし、又射手の老少によりて、串ものべゑゞめあるべし、此等は故實也、
一二の的の間、三十八杖、三の的の間、三十七杖、
一、的己馬走の間、三尺五寸也、
p.0493 長谷川流流鏑馬日記云、馬場わりの事、〈馬場へ同道の毀原、がねて用意有べし、但一番二番は一族也、或は六人八人十人ばかり、〉夜宮より下向する時、夜宮流鏑馬のはてに馬場をわると申は、馬場本より一の的二の的三の的の在所を注すなり、然こいへども廣野に向て、其口傳を得ずしてはしりがたきなり、的立の役人の沙汰にて是は在也、能く尋存知給べきなり、美的の在所を定る事は、先二の的よりわりはじむるなり、其子細は、御旅所の前の西の假屋の南向の東より二番目の柱の本より南へ、一丈五尺にあたる所、是二の的の在所なり、彼所より東へ、十四丈五尺にあたる所、三の的の在所、なり、是より北に南へかたむきたる松あり、彼松と三の的とのめひ三丈あり、又二の的より西へ廿丈五尺にあたる所、是一の的の在斤なり、此北に柿木あり、其東の松の木のとをり也、又一の的より西へ十四丈三尺打て行、其在所馬場本なり、彼所より北を見れば、東の新御影の御塔の廻廊の辰巳角 の柱より西へ七本目の柱とをり也、是よら射馬をば出すべし、願主はすこし西に、馬よりをりて立給べし、次に如斯的間を打分て後、興幅寺大垣の辰巳角の瓦のはなに、あんどんを芭ぼさせて、二の的を本にして、三的より西を見はるかして、一の的と三の的と北南への出入あらば、同とをりになをすベきものなり、夾に彼一二三の的の串をさすべき在所の芝を、廣さ八寸ばかうに、四方くわを以て打をこし取て、其あとに獗を土よりゑた七八寸ばかり打入て、またぬきて、其跡へ七寸ばかりなるくゐを打をこし亢るあとの土とかきならしに入て、其上に彼打おこしたる芝を、本のごとく一二三の的の所にを、ひて置べし、此芝の所々を的立の下人存知すべき者なり、彼馬場をわることは、十六日の晝ほどよりは、夜宮参りの上下向の馬場に多して、見はるかしなきによつて、十五日の夕、十六日の朝の間にわる者也、然るに三つの的、北南へ出入同とをりに立べし、爰に人問て云、一の的と二の的との間は、何故に自餘の的の間より遠候や、答曰、流鏑馬の兒、衆徒より召かへしの時扇を立る其時流鏑馬上手の兒は、一の的と二のまとゝの間にて、矢を二も三も、つきはしらかして、わきぼそ鏑本たばさみなんどの風情を射給ふことは、この的の間たる者也夫如斯的間遠近不同なることを存知せられざる願主、馬場は二町ぞと心得て、其心を三つにわり合て、流鏑馬をならし給たる、願主の射手、ゐ中と奈良との馬の的聞不同なるによつて、たぶん的を射はづす者也、此日記のごとく、馬場をわりてならし給べし、是猶心得がたき人わたらせ給ば、彼馬場を繪圖に移て、詞を加へたる本、はしをの駿河にあち、たづね見給べし、又ある人云、奈良の馬場のわり樣、此日記のごとくわりたれば、二の的は三尺ばかり、一の的は五尺ばかりも南ヘよる者也、むかしより衆徒なんご、北へよりて立給歟、大にふゑんなる子細なり、此ことわりをよくく覺悟して、仕丁九なんどに、れテけんしてわり給ふべき者也、又ある人の云、もしは夜宮なんどに、馬場に人すくなくて射馬の的のうらへきれて行已きは、馬手とて、馬の頭を弓の 本をこして射るを馬手と云なり、又いまのことく馬きれて行己き、をしもちりと云てあり、それはうしろへねじもどつて、馬の三つの上より的を射なり、如此の手共は、くわしく云おしへて射手に心得をなさせらるべし、
p.0495 一流鏑馬的之法舞
方壹尺八寸角、金定、厚ナ壼分ばから、槍板也、
的串長サ三尺五寸許、又は五尺貳寸にも、
的をさみたる分三寸六分計かくの如く紙よりにて二所とづべし
p.0495 一三の的の寸、一尺八寸、串の長さ三尺五寸、はさみきは四寸也、二所をとつる也、紙よりにてとづべし、
p.0495 長谷川流流鏑馬日記云、的のはぎ機の事、檜の木のまさの板也、コワとコワとを合て、二枚はぎなり、的の寸法、廣さ一尺九寸、厚さ一分に、中串の長さ四尺五寸、串の面一寸、〈四方ながらおなじ〉但的串の長さは、射馬の寸身によるべし、亥ほでの根とくらぶべし、
p.0495 民部少輔尚淸書云、的の寸一尺、串の長さ三尺五寸、一の的の間、弓杖四十八、但燭のはやきおそきによ夢て、的あひすこしのべしゞめあるべし、又射手のおさなきによ参て、串のながさ、のべしゞめあるべし、是等殊に故實あり、二の的三十八杖、三の的三十七杖、的と馬はしり の間、三尺五寸、
p.0496 的拵樣ノ事、檜板ヲ以、網代ニ組、一尺八寸四方、串五尺八寸、挾樣圖ノ如ク、〈○圖略〉數ハ一返ニ三宛也、馬數ニ依テ損シタル蹄ハ、イク圦モ立替ベシ、持樣、跪キ二人シブ持べシ、一人ハ手ヲ添タル迄也、
p.0496 流鏑馬ノ的モ方也、其徑一尺八寸串ハ三尺五寸、又ハ五尺二寸ニモスル、土三寸六分許ガ間ニ的ヲ插テ、カウヨリニテ二所ヲトヅル也、大ヤウハ小笠懸ノ的ノ式ノゴトシ、
p.0496 一其後〈○射手裝束終後〉弓を執て、馬場へ打よせて、矢をぬきはげイし、左にて手綱をとりて、右にて捨むちの扇をぬきて、笠の端をつくろひて、さて右の手にて手綱を取て、弓を取なをし、馬場すゑを見歸て、馬をばかへすべし、是は式の事也、笠のはをもつくろはず、矢をもかねてはげて打寄て、やがてかへすも有べし、或は射手の老若、又馬なざの矢ぐるひする時の自然の儀也、
一射る時、もしは弓を打入て、矢を落す事もあり、然ばやがてそこにて矢をぬきてはぐべし、引時おとしたらば弓計をまはして、捨むちの時、矢をぬきまふけてはぐべし、
一矢を出してさばく時、弓と矢を打ちがゆることもあり、然を常よりもはやく矢をはげて、少さげて、目の下にて、弓の上より矢を取おとしてはげなをすべし、但的の間ちかくば、本こすとも、ただ其まゝにて、弓手の人さしゆびをそへて射べし、同えびらの矢もみな落、又は弓の弦などきるる事も有べし其時は弓の本をそらして射るやうにて、的にても串にても、あ訖るやうにはからふべし、
一流鍋馬可仕由仰出されば、三的を先可射也、〈○中略〉
一流鏑馬其外矢つぎにいそぐ事を、さばくといへり、
當流の流鏑馬は、矢さす事、右のかどへ出して、弓につがふ時は、笠の前にてつがふ也、もし打違て、 つがひたらば、弓に人さしゆびをそへて、そのま、引て射べし、ぐきなか、かぶら本こいふは、矢出すやう也、鏑のきはよちつがふは鑰本也、本はぎのきはよウつがふはぐきなかなり、〈○中略〉
永享八年八月廿八日 前備前守持長在判
p.0497 長谷川流漬鑰馬日記云、八月初よウ、行騰竹笠きて、馬を薺向に馬を引立てのるべし、弓を右の手に取て、左の手にとり、矢をはげ、ゑほでのねにおさめて、すてぶちの扇をぬき、笠のはたを左をさきになで、右を後に二度なで、三度目にむかふの上よりおろして、馬場末を右の肩の上より見はるかし、馬を黜し、左の手に持たる弓にて、打入ひらきて、矢のかぶらをそらになし、捨鞭の扇を右の肩の上よ力すてゝ、鳴聲をいだし鐙ふんばり、鞍たちすかし、腰を左へふり、弓の本をひらめ、的を射べし、
p.0497 民部少輔尚淸言云、矢をはなす己き、或は矢をぬきこぼし、或は馬もはやきとき、矢を射かぬる時は同矢をはなつ檬にして、弓のもざはずにて的をつきわうて、馬をはしらかす、是則あたり也、猶口傳在之、
p.0497 社參行列次第
雜色 雜色 的持 同 同
〈舍人舍人〉騎馬 〈童形弓持〉 的持 同 同
雜色 雜色 的持 同 同
如是射手何騎モ有、次第ニ行列シテ社參スベシ、射手ハ馬上ヨリ神前ヲ拜ス、子時神主御幣ヲ以テ人馬ヲ淸、偖元ノ如ク馬出ヘ行キ、時分ヲ見合テ、馬ヲ馳出シ、的ヲ可射也、〈○中略〉
一射手馬場末迄乘詰テ一馬出へ歸ル時、埓ノ外ヨタ歸リ、前ノ如ク三返射納メ、紳前ヲ拜シ、串ニ中リタル矢ヲ内紳へ納ベシ、其外納物ハ、願主ノ心磊任スベシ、〈○中略〉 一自然落馬ノ時ハ、沓ヲ脱ギ、馬ヲ牽キ、埓ノ外へ出ベシ、弐時神主淸ムル也、
p.0498 謇日若宮御祭禮略記
一毎年六月朔日、興緬寺別會の五師の坊にをゐて、流鏑馬定とて、御祭禮事はじめ、一山會合し、當年明年、田樂の頭屋に相譬る兩院へ書默を付る、〈○中略〉
松の下のわたり、〈○十一月二十七日〉次第々々に棘前へ違む、〈○中略〉
一諸方の鑓 神前の馬場に、東より甫北に二行に立ならべ、其内にて流鐫馬有之、警固の讃士鑓の南方に扣へ、流鏑馬相濟退散す、〈○中略〉
御叢所祠前之次第〈○十二月二十七日、中略、〉
一流鏑馬 願主人諸役人、馬出橋の東に立ならぶ、
馬場上りとて、馬場役五人立ならび、馬場を通り立歸る、
地割とて、風折赤狩衣、日月の金銀絞、淺寅指貫、石帶大刀、立上ゲ沓、弛弓にて地の闖數を計、又的を以て攝閥を計、的立る、三所同、儀式初計、的は度々替る、
馬場見とて、一騎三的迄かけ、南の鑓の後へかけ廻り請る、
〈口取小揚見〉 とて口取〈口傳發束地割と同〉揚射手一的迄馬馳的の前にて祀拜作法有、頓而立歸る、一射手兒 馬上にて儀式有、〈扇子うしろへ双げがけ出る〉一二三の的を射る、〈數七五三五〉放矢覊丁外より内へ射る、春日祠髷、垂跡擁護之祚故、如此勸請之帥者、放矢事内より外へ射よし、
流鏑馬相濟、願主人、諸方鑓警固諸士諸役人退散、
p.0498 周〈○五月〉六日、流鏑馬の頭、〈別人の役〉同廊にして饗膳引物、昨戮のこ鬟し、兩日三座の神物役人等、自他つゞきたるが、かつ〳〵引つらねたる龍蹄もおびたべしく見えける、亥十三騎馬場をあぐ、〈水干〉紅葉色を交、金銀の付物へ日月の光をみがき、草橿の花をかたどる、服飾の美麗、盛りな る見物也、當色僮僕の行粧、弓袋さしの甲冑までも、心を盡して調たり、馬場すゑに至りて、長廊のうしろをへて、馬ばもとに廻り、装束を改て流鏑馬を射る、先三頭人、次で氏人以上當色的を立つ、次大祝の分、雅樂的をたつ、弓箭藝射禮の曲、面々譜代の神習、左右にあたはず、
p.0499 諏方上下祠社
信濃國一宮諏方大明祠〈○中略〉御頭祭
三月酉日、〈○中略〉流鏑馬あり、〈○中略〉長七尺の柱に、流鏑馬の矢二本を結付、四木〈じしやの木、辛夷、柳、檜、〉の枝葉を取添、
p.0499 流鏑馬 五月五日、粽の御供、例の如くをはりて流鑰馬有、〈○註略〉弓矢携た、る、武士あまた行列し、次に白了等紳馬を曳ざ次に鞍馬五疋に、射手の人々おの〳〵打乘つゝ、次第を定て、鳥居の前より町中を競走夢て、帶たる矢を取いで、弓おしはり、的を射ゆくさま、賀茂の競馬にひとし、〈射手五人は、四月晦日輻り參龕して、日々鹽濱におり身を潔嘉せり、〉このをり神官等、馬上あるは輿にのりて、忌垣のほとりにひかへたり、
p.0499 射禮
今の世に、加茂の御祭禮に行はるゝ競馬の式は、上古朝廷にて行はれし流鏑馬の古例なり、此例に倣ひて、流鏑馬は神事に行ふ禮式とはなりたり、〈神の御前に於て、射蘊愁行ひて神の照覽に讎へ奉るは、彎矢怨以て鶸家を治め給ひと、神恩を告奉る意なり、是天下泰平の祭禮なり、〉今の世に、譫社の神祭の競馬の始には、必流鏑馬の式を行ふ事は、是上古朝廷にて行はれし流鏑馬の古例に據るなう、正朝口向國延岡に在し時、〈正朝射藝指南のため彼國に滯留ぜり〉同國宮崎神武天皇の御祭暗の流鏑馬を見物せり、凡馬數千七八百騎に餘れら、此流鏑馬〈此國の田夫等、競馬を流鏑馬といて、騎人を射手といへり、是古き云傳へれり、〉始れる前に、神主、神の御前に於て、流鏑馬の禮式を行ふなり、其射手は、いづれも十三四歲より十五六歲に至る、各弓小手を著、端反の笠をかぶり、馬は鞍を敷ず、皆裸馬鶴 て、腹稽に足を踏こみ、二十騎或三十騎ばか蔘、馬の鼻を雙べて、相圖を聞忘等しく一度に馳出す、其疾き事、矢の飛が如く、孰も勝負を爭ひ驅る、其雄々數事、又比いはむものなし、是吾神武の國のいさをしなるべし勝たる射手は、其村中に酒飯を振舞ひ、大に是を覦する例なり、是を境飯振舞といふ、境飯は小豆飯なり、
p.0500 永長元年四月廿九日、上皇、〈○白河〉於鳥羽殿、馬場殿御覽流鏑馬、是左大將殿〈○藤原忠實〉相具〈天〉所參給也、件興大殿於賀陽院欲御覽之處、依上皇仰被遠、也、〈十人云々〉抑今日國忌也、雖城外少事、巳是遊興也、世人不甘心云々、 五月二醵、從内早旦、參大納言殿〈○源經信〉幷一條殿、午時許、左府、〈○源俊房〉大納言殿、參高陽院給苓日御麑流鏑蛍武者十二人、仰常祗候人々所令進也、〈泰仲朝臣、能遠朝臣、淸實朝臣、行綱朝臣、重仲、爲隆、業房、宗盛、朝蜜、仲兼貞度、各武士一人溺進也、〉大殿〈○藤原師實〉御坐簾中、是御忌月間、憚思食歟、切關白殿〈○藤原師通〉御遊興儀者、左府以下公卿十餘輩、殿上人或布衣濟々參集、立的一々射之、爲隆、業房、貞度等郎譬、尤得其鸚就中貞度郎從已拔群、人々藏歎、餘興未盡、有競馬五蚕是御隨身等也、
p.0500 侍從大納言成通と申こそ、ようろづの事、能おほくきこえ給しか、〈○中略〉あまりねなきやすきやうにぞおはしける、鳥羽にて、白河院のやぶぎ砂こいふこと御覽じけるに、瀧口なにがし懽かいふもの、いむとしけるに、兄にてつはものゝおぼえある家のものにてはへなるが、的たてはべらけるをみて、おとうとのいるに、あにの的たてによるか、いとやさしきことなりとて、なき給ければ、二條帥〈○藤原長實〉は、行兼がやぶさめいむに、公童がま己たてん、あはれなるべきことかはこぞ侍ける、
p.0500 永久四年五月九日壬寅、辰刻置信家、次拘離宮馬場、昨日ヤブサメ競馬、今日見之、昨日日巳及晩如形、仍今日見之、
p.0500 光賴卿參内拜淸盛自熊野路歸洛事 京師本、杉、原本、半幷本、並云、熊野へ參ル人ハ、稻荷へ參ル事ナレバ、太拳大貳淸盛ハ、切部王子ノナギノ葉ヲ、稻荷宮ノ杉ノ葉ニ手向ツヽ、悦申ノ流銹馬射サセ、都合其勢一千餘騎、同二十五日夜半許ニ、六波羅へコソ薯ニケレ、
p.0501 殿下御母立願事
父京極ノ大殿、〈○師通父師實〉憑ナキ御有橿ヲ御覽ジテ、二紙ノ願書ヲ遊バシテ、日吉ノ蝨ニテ可被啓白之由仰タ、天台座主へ被送進、其願書ニ曰、日吉祗ニテ、臨時ノ祭ヲ居、百番ノ御子ノ渡物百番ノ一物、百番ノ流鏑馬、百番ノ競馬、百番ノ相撲、廊ノ御紳樂、三千人ノ衆徒ニ、毎年ノ多、衣食ノニ事、十箇年連テ可送ト也、
p.0501 五日〈○治承四年四月〉雨ふうしかば、高砂の泊りにつかせ給、〈○中略〉あしたこいふ賴盛の家にて、かさがけ、やぶさめなど、つかうまつらせて御覽せさす、
p.0501 壽永三年〈○元曆元年〉正月十七日丁未、藤判官代邦遞、一品房拜紳主兼重等、相具廣常之甲、自上總國一、宮扇參鎌倉、卽召御前覽彼甲、〈小櫻皮威〉結付一封默於高紐、武衞〈○源賴朝〉自令披之給、其趣所奉祈武衞御遠之願書也、〈○中略〉願書云、
敬白 上總屬一窗實前立申所願事〈○中略〉
一三箇年中可射寓度流鏑馬事
右志者、爲論兵衞佐殿下〈○賴朝〉心中祈願成就、東國泰平也、如此願望、全二々圜預者、彌可奉崇神威光者也、仍立願如右、
治承六年七月日 上總權介平朝臣廣常
p.0501 文治三年八月九日丁丑鶴岡宮中、殊以掃除、今降造馬堤結埓、仍三品〈○源賴朝〉監臨給、若宮別當法眼被參龠、常胤、朝政、重忠、義澄以下御家人群參云云、 十五日癸未、鶴岡放生倉也、二品御出、參 河守範賴、武藏守義信、信濃守遠光、遠江守義定、駿河守廣綱、小山兵衞尉朝政、千葉介常胤、三浦介義澄、八田右衞門尉知家、足立右馬允遠元等扈從、有流鍋馬、射手五騎、各先渡馬場、次各射訖、皆莫不中的、其後有珍事誠方大夫盛澄者、流鏑馬之藝窮、依慣磚秀郷朝臣秘訣也、爰屬平家、多年在京、連々交城南寺流鏑馬以下射茲三訖、仍參向關衷事、頗延引之間、二品有御氣色百來爲囚人也、而被斷罪者、流鏑馬一流、永可凌度間、賢慮思食煩、渉旬月之處、今日俄被召出之、被ル仰可射流鏑馬之由胡盛澄申領狀、召賜御厩第一惡畏盛澄欲令騎之刻、御厩合人、密々吿盛澄云、此御馬、於的前必馳于右方也云云、則出二的前寄于右亥盛澄爲生得達養押直兮射之、始終無相違、次以小土器挾于五寸之寅三被立之、盛澄亦悉射畢、次可射件三箇串之由、重被仰出、盛澄承之、旣雖思切生涯之運、心中奉所念諏方大明祠、拜還瑞籬之砌苛仕靈祠者、只今垂擁護給者、然後鏃於平仁捻廻天射之、五寸串、皆射切之、觀者莫ネ戚、二品御氣色又快然、忽被仰厚免云云、今日流鏑馬
一番 射手 長江太郎義景〈的立野三刑部丞〉盛綱
二番 射手 伊澤五郎信光〈的立河勾七郎〉政賴
三番 射手 下河邊庄司行平〈的立勅使河原三郎〉有直
四番 射手 小山千法師丸〈的立淺羽小三郎〉行光
五番 射手 三浦平六義村〈的立横地太郊〉長重
p.0502 文治四年二月廿八日甲午、鶴岡宮、被始行臨時祭、二品〈○源賴朝〉御出、小山七郎朝光持御劒、著御廻廊之後、有流鍋馬、二騎〈幸氏盛澄〉射之、馬長三騎渡馬場、遠近御家人、爲營勤此會群集云云、 四月三日己巳、鶴岡宮臨時祭、二品御參、流鏑馬、專被召其堪壟故波多野右馬允義經嫡男、有經、不耻曩租達者也、仍應今日淸撰、頗施拔群藝バ御威之餘給一村、
p.0502 文治六年〈○建久元年〉八月十六日戊戌馬場之儀也、先々會日、雖有流鏑馬競馬、依事繁、今年始 被分兩日巫、二品〈○源賴朝〉御出如咋旦爰流鏑馬射手一兩人、臨期有障、已及闕如、于時景能申云、去治承四年所與景親之河村三郎義秀爲囚人景能預置之達弓馬之藝巫、且彼時與黨大略預厚免訖、義秀獨非可沈淪歟、斯時可被召出哉者、仰日、件男可行斬罪由下知畢、壬今現存奇異事也、然而優赫妻早可召進、但非詣堪能者董可處罪科者、則招義秀召仰此旨之間射之訖、二品召覽其箭之處箭十三束、鏑八寸也、仰日、義秀依達弓箭有驕心頁景親之條、案菟非今更奇恠也、然者獪可射三流作物、於有失禮者、忽可行其咎者、義秀又施其藝、始終敢無相違、是三尺手挾八的等也、觀者莫不臧、二品、變欝陶住戚荷給云云、
p.0503 建久四年八月九日癸卯將軍家、〈○源賴朝〉令出由井浦給、是所被召具來放生會流鍋馬射手也、各被試其射藝、北條五郎時連、始從此役苓卞河邊庄司行夲訓真體給、而就弓持撲武田兵衞尉有義海野小太郎幸氏等、有申子細事、行平通譜代口傳故實等將軍命甘心彼儀給上、勿論也、
p.0503 建久五年十月九日丙寅、將軍家、〈○源賴朝〉入御小山左衞門尉朝政之家朝政兄弟以下一族群參、數輩祗候云云、於此所石聚弓馬堪能笠披覽奮記、相訪先蹤苓談流鏑馬以下作物射樣給、其故實各所和僅之家説、面々意巧不二准、仍令前右京進仲業記彼意見給、是明年御上洛之次、有御參住吉社、爲某御宿麌以堪能之者、可令射流鏑馬給、京畿之輩、若及見物者、定以之可謂東國射手之本歟、然者無後難之樣、兼日能凝評議有用捨、爲侖學其宜體、若輩有託儀云云、
其衆
下河邊庄司行卆 小山左衞門尉朝政 武田兵衞尉有陦 結城七郎朝光 小笠原次郎長淸和田左衞門尉義盛 榛谷四郎重朝 工藤小次郎行光 諏方大夫盛澄 海野小太郎幸氏氏家五郎公賴小鹿島橘次公業 曾我太郎祓信 、藤澤次郎淸近 望月三郎重澄 愛甲三郎季澄 宇佐美右衞門尉祕茂 那須太郎光助
p.0504 一於關東八幡宮賴朝御代紳事射手次第
二月初卯 十六騎 四月四日 十騎
五月五日 十六騎 六月廿日 十六騎
八月十六日 十六騎 九月九日 十六騎
十月 十騎 十一月 七騎
竓外用意之射手、毎度に二騎ヅヽ有べし、
p.0504 建永二年五月九日、今日新日吉小五月、〈○中略〉競馬行事例二人也、〈○中略〉先流鏑、乍七人中旬中央、すこしもかたよせず射わりて候輭、裝束以下事は、不及委記、
p.0504 承元二年五月廿九日了卯、兵衞尉淸綱、〈御臺所侍〉昨驚自京獅下著、今日參御殀、是隨分有職也、伍將軍家、〈○源實朝〉有御對面、〈○中略〉又令尋問當時洛中事御去九冩新自吉小五凡會、上皇御宇〈○宇恐幸誤〉流鏑馬巳下事、故以被刷射手等、多西面之輩子息垂髮也、各爲月卿雲客被出立之、部淸綱息重從其役、又號薯王童、〈院御寵童候西面〉箭不中的之間逐電、忽以出家云云、射手等記、可有御覽之由被仰之、間、自懷中取祖之、披置御前、是子息列射手之旨爲申出、兼用意云云、
p.0504 安貞三年〈○寬喜元年〉十月廿二薦、將軍家〈○藤原賴經〉令出由比逝給、有流鏑馬、相模四郎、足利五郎、小山五郎、武田六郎、小笠原六郎三浦又太郎以下霽射手、三的之後、三ご一九、四六三以下作物等各射之、此藝朝夕非可被御覽事之由、如相州〈○北條時房〉内々雖被諫申、凡依有御入興、不及被止之、連々被御麌云云、
p.0504 嘉禎二年八月十六日庚子、將軍家、〈○藤原賴經〉御笨幣于同上下宮、〈○鶴岡〉其後流鏑馬以下有馬場儀、躄尉定員、悟埓門邊、〈具子息定範〉
p.0504 嘉禎三年七月十九日甲午、北條五郎時賴、始可波射麺彎放生ド倉流鏑馬之間、此初於 鶴岡馬場看違儀、今日武州〈○北條泰時〉爲扶持之禝出流鐫馬屋薩河前司以、下宿老等參集于時招海野左衞門尉幸氏、被談子細、是喜勞之上、幕下將軍〈○源賴朝〉御代、爲八人射手之内歟、故實之堪能、被知人之故歟、仍見射藝之失鳴、可加諷諫之旨、武州被示之、躰手之體、尤紳妙、凡爲生得堪能由、幸氏戚申之、武州猶侖聞其失給、縡及再三、幸氏愁申云、挾箭之時、弓一文字令持給事、雖非無其説、於故右大將家〈○賴朝〉御前、被凝弓箭談議之時、一文字弓持事、諸人一同儀歟、然而佐藤兵衛尉憲淸入道〈西行〉云、弓拳〈ヨリ〉押立可引之樣可持也流鏑馬矢挾之時、一文宇持事非禮也者、倩案氈事殊勝也、一文字持〈テバ、〉誠〈ニ〉弓〈ヲ〉引〈テ〉帥可射之體〈ニハ〉不見、聊遲姿也、上〈ヲ〉少〈キ〉揚〈テ〉水走〈ニ〉被仰下之間、下河邊、〈行平〉工藤、〈景光〉兩庄司、和田義盛望月、〈重隆〉藤澤淸親等三金吾幷諏方大夫、〈盛隆〉愛甲三郎〈季隆〉等頗甘心、各不及異議承知訖然者是計〈ヲ〉可被直歟者、義村云、此事介聞洗説恕出訖、正觸耳事候〈キ〉、面白候〈ト〉云云、武州亦入興、弓持樣、向後可用此説云云、此後被談弓馬軣義村態遣使者於宿所、召寄子息等令聽之、流鏑馬笠懸以下作物故實、的草鹿等才學、大略究淵源、秉燭以後各退散云云、
p.0505 寬元四年八月十六日壬寅同〈○鶴岡〉馬場儀也、流鏑馬十六騎揚馬訖而射手十人、俄有霍観之塞申障、已及祚事違例仍於御棧敷有御沙汰、以雅樂左衞門尉時景爲御使、可勤庇射手之旨、被仰駿河式部大夫家村、時景蹲居家村前傳仰、家村降自床子答申云、亡父義村存生之時、壯年而一兩度雖令勤仕此役、廢忘隔多午也、日來縱雖有習禮、年闌後能敢不可叶事也、況於當日所作哉更不堪身之由云云、御使申此趣之間、仰兄若狹前司泰村、慥可令勤云云、仍泰村起速、行向弟家村座前、早可應仰之旨、再往加諷詞等、時只今稱無射馬、泰村馬者、答用意之由、凡泰村存如此時儀、射馬〈號深山路名馬也〉置鞍兮、兼以令置流鏑馬舍近婆云云、此上家村失據于遁避自取敷皮、副于下手埓、向流鏑馬貪公私見此儀天興、見物之輩悉以屬目於馬場下之方相待家村、家村改布衣行粧、著射手裝衷然後駕于件深山路、打出于第四蚤其體不耻古堪能云云、人々美談、時之壯觀也、射訖則又裝布衣、歸薯本座之 間、頻預御戚御使、當家他門莫不賀之云云、
p.0506 寶治元年五月九日辛酉、今日新日吉秕小五月會也、上皇〈○後嵯峨〉可看臨幸、〈此社後白川院御建立、此紳事、毎年御願也、承久三年以後、天編後堀川院有臨幸、其後又絶了、雖無御幸、如形行之、然而不及流鏑競馬也、我君去年溏梦蘿圖、今日幸砿壇、韆絶跡被行之、依雨及延否之沙汰、臨期快晴、霹惑之至ナリ、〉別有御點、予可參之由殊有勅定、〈○中略〉先之攝政殿左府以下多參集、小時臨幸、〈○中略〉次有流鏑事、承久以徃、北面西面輩騎之、天幅武士騎之、今度同被仰遣開東相模守重時朝臣、〈射手逸見四郎前立〉小笠原、〈射手的立〉出雲前司、〈射手的立〉隱岐次郎左衞門、〈射手的立〉但馬次郎左衞門、〈射手的立〉小早河美作前司、〈射手的立〉長井左衞門大夫〈射手的立〉等也、依蘭東下知騎之、射手先上馬、〈向神輿有作法〉次立二番的、〈持一的參進立之、次取彎計丈尺、立二三的、〉射手打出、著綾藺笠有作法打、歸乘替馬射之、二番射手無薯笠之作注ハ又的立不持弓三四五六番同齣、七番射手作注、如一番也、七番皆以對中之、誠不異養由歟、凡此輩云迫身云郎等涙錦繍ひ或及金銀、法度之外也、〈○中略〉
一流鏑
一番〈相模守重時朝臣〉
射手 逸見四郎源義利 的立 櫻井左衛門尉滋野宗平二番〈小笠原太郎入道長經〉
射手 同余一太郎源淸經 的立 土持左衞門太郎田部秀綱
三番〈波多野出雲前司宣政〉
射手 千次郎左衞門尉藤原盛忠 的立 波多野藤左衛門尉藤原廣能
四番〈佐佐水隱岐次鄭左籥門尉泰淸〉
射手 子息新左衞尉源義重 的立 樋口左衞門尉藤原忠纔五番〈太田二郎左衞門尉政正〉
射手 子息太郎大江政綱 的立 得田左衛門尉藤原盛助 六番〈小早河美作前司茂平〉
射手 子息四郎平政景 的立 高橋新左衞門尉大宅時光
七番〈長井左憲門大夫泰重〉
射手 菅生左衞門次郎小野高泰 的立 新河右衞門尉藤原高重
p.0507 永仁三年五月廿五日戊戌、向新日吉一立車馬揚見物流鏑馬、〈○中略〉
流鏑馬
一番 刑部少輔平久時 射手武田彦六源久信〈馬栗毛駮〉
二番 佐々木四郎右衞門尉源行綱 射手保木野左衞門六郎惟宗行泰〈馬黑鹿毛〉三番 長井掃部助大江貞量 射手草生五郎紀貞成〈栗毛糟毛〉
四番 島津常陸前司惟宗忠景法師 射手河北左衞門六郎惟宗景業〈雲雀毛〉五番 伊賀前司藤原知宗 射手宇野左衞門八郎平定光〈鹿毛〉
六番 後藤筑後前司平墓賴法師 射手桂二郎平宗重
七番 丹波守平盛房 射手武田又次郎源信通〈於二的前、馬譬之間不中的、栗毛、〉
p.0507 文明十六年十二月
草内、流鍾馬米、同令無沙汰之間、小柳方へ愚身申合之聞、如此書狀ヲ被出了、
春日社若宮神事流鏑馬米之儀、五貰文之事、兎角無沙汰之崗皎、無勿體候、早々此使へ可被渡候、恐々謹言、
極月廿三日 〈小柳〉貞綱判
草内西殿
進上 袖書云
返々急度可枝渡候
p.0508 元文流鏑馬の記事
元文三年戊午の春二月初卯日〈九日〉に台命ありて、光松山八幡〈○江戸高田〉の社頭の北の馬場に於て、射御の事あり、〈神事の流鏑馬と云〉其式古禮有て巖重也、其法式は、鎌倉故右大將家〈○源賴朝〉の式を用ひられしと也射手の面々、祠事なれば、一七日め間齋戒す、馬場の左右に埓を結ぶ、〈的立ろ方を高く馬手は低し〉男埓女埓といへる也、馬場末の北に幅屋〈幕を張て營之〉建、〈流鏑馬舍にかたどる〉中央南の方假屋有、〈日記所とかふ〉常秕の別當の座有、此事の預り總司小笠原石見守也、小笠原平兵衞、及宙心孫七郎は、射手の師範也、日記所の執筆は多門多宮、内藤善右衞門杉商彌太郎奉之、射手の面々裝束は永干、其色は紅朽葉とくさ色相交り、家々の紋を金銀の箔を以て是を押じ、綾藺笠、へりを、染革にて包み金の散花を押す、各夏毛の行騰を佩たり、凡神事に用ゆるはやたひやうしのむかばきとて、秘决有よし也、弓籠手は精好金禰、あるひは紅驢子を以て製し、白銀の大刀佩て、短刀を帶し、一具鰈家々の紋を付、沓などは觜一樣也、籠は逆つら箙、本儀なりといへども、此時公命有て新に製せられたりといふ、〈ひさはだんびらといふよしなり〉鏑矢箆は白く鷹の羽、〈少羽は山鳥の尾なり〉弓は重藤、右の手に竹の根の鞭をぬき入でしたり、鞍皆具は思ひ思ひ也古禮によちて泥障たすロはなかりし、介副弓袋差、折烏楕子小素襖色は樣舟にして、其主人の家の紋を付て著す、
古代は、弓袋さしは甲冑を盡したるよし也、
此日午の時に垂として、凪頭祠樂の鼓いと靜に聞ゆ、射手の面々、本庇の左に就き、次第を遯て立珂る、其うしろに介副のもの並居たう、弓袋さし、的立の面々、本社の右に就て立ならぶ、列位定りてのち、庭上肅然たり、暫有て射手の輩、馬立し所へ步行す、弓袋さし的立の靑士從侍す、馬は放生 寺門外より、西の横道へ、一二の次第を追ひ庇頭に向て立つ、爰よ蔘乘馬して馬場に行向ふ、介副前に立、弓袋さし後に從ふて、替へ弓、袋に入さし掛て持、的立の靑士三行に步む、射手の面々乘列て、馬場末に薰りて下乘し、行騰の裔をかひとりて幄の屋に入、介副弓袋さし的立の靑士も屋の丙に入、〈袋に入し弓は、幄の屋の内に置、〉射手の面々、記録所のゑらせを待、的立の靑士、的を携へ、三所の的を可立所に並居る、馬場の式定りたるよし日記所より吿知す、則射手の面々嵯屋を出、列を立て馬場本へ乗行、其樣優美にして嚴重也馬場の右へ就て芝地へ打あがり、西南へ乘廻す、先に立る五騎は南な蔘、芝地に馬を東頭に立、其次の六騎、西の芝地に打上り扣て、各東頭にくつばみを並て、後なる五騎は、北の芝地に扣て、蔕頭に並て立つ、十六騎馬立揃て、一番の的立、二三泡建終るを見て、一番の射手、服よう箭ぬき出し、靜につがひて末廣の扇子押ひらき、笠の端をつくろひ、馬を埓へ打入て走らしむ、此時扇を後へ投る、是を捨鞭の扇子といふ、さて箭馨取直し、やゝ聲をかけ、弓打上射初るより、三ジの的とも射中て走う行まゝに、馬場末に手綱かいぐり、幕張たる前に乘立、的立の菁士、立廻うて串ぬき取、矢を捨ひ、射翻たる的取りて介副を見合す時、介副の男埓の外を步み來り、夫につれて馬場の末に入ぬ、十六騎の射法、皆かくのことし、もろ〳〵の武覊、事故なく終りて、別當の法印、其外の諸官人、日記所を出て本社に歸參す、射手の面々、初樂うし違筋、列を立て本瓰に參候す、介副は弓袋さし霍並び居る、その折しも神藥を奏す、十六騎各々威攝を繕ひて、裝束所〈江〉歸り來り、其装束を脆、熨斗目小袖に肩衣袴に改て、神前に詣て著座す、事の預り小笠原石見守を初、各々神拜事終らて、神酒を頂戴して退散す、御神事流晶馬の規式、事故なく被行之由は、石見守より金城江すみやかに吿奉孅也、
p.0509 流鏑馬も、中古以來絶たるを興し給はんとて、諸家の記録をあまた御參考あ参て冖成島道筑信逼におほせて、流縞馬の事、類聚せる言をつくらしめ給ひ、其後もな ほ廣く考へ給ひて綾蘭笠をはじめ、萬の調度こも、かたのことく備はりしかど、古の式法、某ままに傳はうたるにあちねばとて騎射挾物と名づけ給ひ、流鏑馬とは稱すまじと仰下されたり、これ御讃遜の盛慮なるべし、かくて此挾物主ば〳〵行れし中にも殊更に世にもてはやせしは、享保十三年三月十五日、大納言殿、〈惇信院殿○懲川家重〉御疱瘡かろからん事を御祈の爲、高田の八幡宮にて行はれし挾物、元文三年二月九日、竹千代君〈浚明院殿○德川家治〉御誕生の御祝ひ、寬延四年、將軍家〈惇信院殿〉御厄年により行れしぞ、とり〴〵盛なる事どもなりき、元文の盛禝は、近藤半助壽俊、〈儒役近藤助左衞門主辰が子〉記録せしを、いまも世に傳ふ、
p.0510 一流鏑馬の作注は、旣に室町將軍の比には斷絶ゑたり、〈信景問鍾口に見えたり、此問答は永祿年の部なり、〉享保年中、有德院樣、〈○德川吉宗〉流鏑馬御再興有べき思召にてありしかざも其式詳ならず、依之諸家拜諸國江御尋ありて、諸方よう傳へ來れる趣を書記して獻上ゑげ司を浦上彌五左衞門定云人に被仰付、右の書其を書あつめさせられ、流鏑馬類聚と云、御書物出來たり、其書の内にて彼是御考を付られ、新にやぶさめの式を定め給ひて、當將軍家治公、御誕生御所の爲に、元文三年二月、武州高田村の馬場にて、穴八幡紘流鏑馬射させて奉り給ひしな事藁式は小笠原平兵衞〈後に出羽守〉にあづけさせ給ひ、請士に指南させられて、後も度々張行させられしなら、近き比は、小笠原縫殿助もやぶさめ張行の事をうけ給る事になりしなり、〈小笠原平兵衛に、騎射の事を司り、小笠原縫殿助は步射の事な司らしめられしが、今に縫殿助も騎射の事をつかさどるなり、〉
p.0510 東叡山流鏑馬次第記〈明和二年乙酉九男一日〉
今年明らかにやはらぐニツのとし、遠つみおや、あつ止をてらすおほむがみの、百餘り五十年の御忌にあたらせ給ひ、〈○中略〉竕なじ年の九月一日、上野東叡曲寬永寺の瑞垣にて、御かむわざの流鏑馬あ見ざけを除曁けがらひをきよめ誠にひさうのまつちなるべし〈○中略〉その日め御まうけ には、神殿の東にあたりて疏をなし、ひだり右に埓ゆひたり、其かたち陰陽をかたどれり、わざと馬場の左はふさがず、的たてぬべきが爲なり、こなたには、むまば本に棧敷をまうく、輪王寺の宮のおまし所なり、むまば末にも一ツの棧敷あり、執政〈御老中と稱す〉從四位下行侍從蒹行右近將監源武元、右京大夫從四位下兼行侍從源輝高、從四位下行侍從兼行周防守源康福、侍中總管〈御側御用人と稱す〉從四位下行佐渡守源勝漬參政〈若年寄と稱す〉從五位下信濃守藤原英持、從五位下攝津守源忠恒、從五位下行壹岐守源忠見、西城參政〈四丸若年寄と稱す〉從五位下行飛驛守源忠香、侍中〈御側衆と稱す〉從五位下因幡守康郷、従五位下豐後守源忠友この所にて御儀式を拜せらる、其外武官に預れる芭ころの人はいふもさら也、ぶむ官の人も列居して、御祭事拜しぬべき御設け侍りぬ、三の的たちぬべきあたりにむかひて日記所あり、射手の勝劣をえらび、騎射の式法を糺し、中りあたらぬをも記しぬべきがためなり、かしこには馬場末に幄を垂て流鏑馬舍とす、〈○中略〉旣に日影も午の時ばかりになりぬ、射手具足して馬にのり、番芭ゝのへて文殊樓に至る、射手のさうそくは、褻にあらぬ晴の事なれば、何くれこうるせく出立ぬ、まつこがね白かねにて、家の紋をしたる水干を著たり、いろは紅朽葉木賊なり、わかき人こそ紅は著たれ、立不惑の人は朽葉木賊、をぞ著せらる、弓籠手は、精好にしきぬひもの、色々の事好みつゝ、いどむ心の花やかに、くれはどりあやゐ笠、いこえむに著たり、夏毛なるやたひやふしの行騰をはき、白銀裝の大刀、いかめしくおびなし、短刀を帶し添ぬ、沓手袋などは、ことなるやうなくみゆ、箙はひきはだえびらを負たり、本儀はさかづら箙なれど、調し譫べきいとまあらざめれば、乙の箙を用ひぬ、弓はゑこめたる具弓に、矢はかぶら矢なり、真初は鷹の砌にてはぎ、小羽は山鳥の引尾にてはぎたり、山鳥用ゐ譫ることは、ことなる秘説なりし、右の手には竹根の鞭ぬきいれて持ぬ、鞍は貝鞍いかけ地、みがく心の鏡鞍とみえて、面がけ胸がけ尻がけは、はじだむ茜、その外いろ〳〵にみゆ、櫨段茜は、元文の佳例をおひ侍る也と聞ゆ、障泥なくた すけなかりしは、いそめかみ古きためしのこれるになむ有ける、〈○中略〉射手の跡に扁厩の良蹄二ひきをひかる、まれの御神事なれば、乗譬の料なり己きこゆ、番の弐第は、介添、捨鞭の搨もちて、射手の右の前にすゝむ、弓袋指は、射手の左の跡にあゆめら、そのかみ弓袋指は、ようひたるよしなれど、その沙汰若およばず、弓袋は白き十九布也、的持三人、跡に番ひぬ、介添弓袋指は小素襖、ま鬟持は扉のかたぎぬ袴を著しぬ、文殊樓よち射手おちたち、隨身御門をいう、紳宮の御前にたちならびぬ、大鼓の音、静にきこえて、ゑあのうちいとかうぐしく、あめつちの帥もこゝにげぎやうまじますかと思ふばかう也、あま夢のかたじけなさに、此祠鼓のことを祠匍に尋侍れば、まことや御祭事のをりごとに、うちならす事とがや申侍うしなり、此時介添弓袋指等は、隨身御門の内までは入たゝず、射手祠意をあふぎて黴すくに流鏑馬舍におもむく、是をあげ射手芭申也、譬のさま替ことなし、此時筑後守源準松、馬に乗ざりければ、越前守藤原正壽串ける、は、いにしへよう馬に乗べきよしをまうし傳へぬるに、いかなれば、こはだの里ならで、かちよりはゆき給ふや、筑後守準松答て日、此おほむ肺は、正しき君の遠つみおやの御棘にてましませば、馬に乘ながら、肺のいがきを越むこと、其おそれなきにあらず、されば君の思ひがねとなむ申けるげにさもあるべきことにや、彼も一時なり、これも一時ならとは、かゝる事をやいふなるべき、此形勢を聞傳へつゝ、その頃市町にも語りあはせて、戚撒しけるとぞ聞えし、射手列を竃ゝのへて、やぶ蠢め舍に入りぬ、介添弓袋さし等も、あくのうちに入て、瞽の弓をばあくのうちに置ぬ、おほむかたはら人主殿頭從五位下源意次、流鏑馬奉行として、御名代の棘拜をとげ、日記所へ出座す、今日の式、うけ給はれる從兵帥〈御徒頭と釋す〉小笠原縫殿助源持易、かたはらに坐す、射手の容儀博へぬれば、前日も見めぐちて馬場のこ霍も定濕るな夢、日記執筆は、書院軍〈御書院番と稱す〉松平田宮源恒隆、河野勝右衞門越智邏言、大軍〈大御番と稱す〉原三郎兵衞源親要なり、恒隆は時の弓太郎、逾哲は拂底の射手にて、何れ も事馴ぬる功鬆なりき、小納郎長〈御小議戸頭取と稱す〉從五位下甲斐守源政賢、従五位下行隱岐守源昭永、鬣察〈御目附と稱す〉從五位下守縫殿頭源忠香、内藤主税藤原信就もこゝに坐せり、忠香信就は、非常をたださむがためなり、甲斐守隱岐守は、念人たり、親軍〈御小娃組と稱す〉佐野達次郎菅原滿存、書院軍宅間伊織藤原紀峯逸見八之助源忠休、儚丹六郎左衞門藤原景興松平兵庫源堯賢、新軍〈新御譬と稱す〉永田半助源政素、念人として馬場の本末に居て、馳射の式を糺し涵、的持各々的携出て、三ジの的たつべきところ〴〵に並び著ぬ、かゝればや馳射始力つべきよし、日記所より射手に申す、射手流鑰馬舍を出て馬に乘、疏に乘入て、むまばもとにいたちぬ、馬をあゆませつる間は、八杖程とばかり見ゆ、射手はすなはち、近侍〈御小姓と稱す〉從五位下筑後守源準松、從五位下越前守藤原正壽、小納郎〈御小納戸と稱す〉彌一郎深津藤原正豐、庄九郎岡部藤原一德、權之助白根野藤原高雄、一學丸毛源政長、數馬鈴木穗積安節、言院軍一郎左衞門朝比奈藤原眞明、大軍幸之丞窪田源勝虎、書院軍又兵衞小栗源信壽、群屬〈小譬請と稱す〉岩吾水野源守常、久五郎近藤藤原壽敬、書院軍數馬水野源勝美、喜内神保橘長光、親軍平三郎龜井藤原淸永、小納郎郷八落合源居久也、〈○中略〉かくて馬場本にいたちぬれば、疏よ参乘上て、一の射手より六ジに及ぶまでの射手は、辰の方にむかひて、くつわをならべ馬を立ぬ、七ツよ参十餘り一ツまでの射手は、未の方にむかひて馬をひかへたり、十二より十六までの五騎は、戌の方にむかひて、くつばみをならべたちぬ、介添も跡につゞきて馬場本にいたら、馬をひたし水かひぬ、射手も素引なざしてこゝうみぬるさまなり、一番の射手の的立、一の的をたてぬ、二三の的も立ぬれば、一の射手、搨形に打入、今ぞ御紳事始らぬとて、物見る諸人、とよみあへら、古くよりいひ樽へしにも、かくある式おこなはれぬる時は、いとにぎはふよしなるに、かゝりけるもげに殊勝なり、馬などいるにもおどろきぬべきを、烙勤の射手也ければ、いとかしこく心づかひし、馬もやをら耄づまりぬ、えびらよち矢ぬき出してつがひ、かはほりは末廣をひらきて、笠の端三度つ くろひ、あふぎをうしろへすてつ、是を捨鞭の扇ぎは申なり、矢筈とり、やと聲かけて、やごろにこころざし、一の的射割て、鏑本に矢つがひつゝ、二の的も鵠をうしなはず、三の的も、またー射あて丶ゐふたぎのあけとふしたる心ちの、芝たりかほに馬をすゑ、おもむろにあゆませて、流鏑馬舍の前に乘立ぬ、此おり三所の的持、的串ぬきすてゝ矢を己り、的くだけたるを取持、介添、捨鞭の扇取上て、男埓の外を步み、的持、跡につきて馬場末にいたる、いとはやも正壽の的もち、三ツの的たて揃ければ、笠の端、押つくろひ、馬をはせ扇捨て、三の的皆射割ぬ、その外次第々々に、をのがさまざま、くきなりに矢つがひて射もありて、古き敷をまもり、馬に鞭打、射義とゝのへて、三の的、ひいはたと射ければ、釋の圓位などの言をけるさま諏訪の盛澄がことなどおもひ出て、古の堪能、ふたゝび生れたりとおもへうけるもこ巴わりなり、作物なざ射たらむには、いかなる秘曲をかなしなむ、〈○中略〉馳射の儀式おはりぬれば射手下馬して、やぶさめ舍に入、ゑばしいこひぬ、日記所に出居せし人々も、各しそきいでぬ、射手流氣馬合をいでゝ、帥の御前に列立する事はじめのごとし、大鼓の音、なを祠さび泥り、さて装束所へ歸入て、射手長袴を著し、田沼主殿頭をはじめ、今日の式にあつかりぬる者は、御大刀紳馬をさゝげて、賽しの祠拜をなし、をのく赫酒たまはりぬ、そもー此流鏑馬は、いにしへ毎年五月五日、百敷の武德殿にて、やすみし、大君の、近衞兵衞の騎射覽し給へる禮式を摸して執行へる帥社の祭禮なり、其さはふ、世にめでたく傳はり譫る也、名も明らけき東鑑といへる文に、秀郷朝臣の秘訣を諏訪大夫盛澄が受傳へしざ見えたり、後このこと絶たりしを、將軍室町家、歎きおぼしめして、この射藝の古風をつたへのこさまほしきよし、をしへありしとき、武田の何某、流鏑馬の式斷絶して、二もゝとせ餘りなれげ、其式をなしてむ事は、かたき事のよし御こたへ申せしとなむ、此事のみえしは、永碌のころの文なり、此式たへにし事、かぞへあぐるも、ものうきばかり成に、享保の頃、ふかく尋させ思ひ給ふて、始て元文三のこ しにぞ行はれぬ、〈○中略〉この遘我家に博へ鍛る事也、十餘ら四つぎの租小笠原美濃守長高、其子備前守氏長、建武貞瀰の御的に、相續戸て弓太郎を勸てけり、代々弓馬の師範た蔘、等持院殿〈○足利尊氏〉の御時、當流此流を用ゆ、我を信ずるものは此流を用ふべしとて、奧がき侍りしよ蔘、弓馬故實の正統となりぬ、殊に遠つおや備前守持長の道に達し奧儀をきはむ、其後世みだれて射禮もすたれぬるを、享保の御代〈○德川吉宗〉ふたゝびおほち司槍〈御鑓奉行と稱す〉縫殿助持廣に、弓馬の師として、容儀傳へ膿べきよし致命ありけるこそ、家のめいぼくなれ、〈○中略〉
縫殿助持易謹識
p.0515 明和二年九月朔日、於東叡山、流鏑馬御紳事破行、〈流鏑馬の御紳事緩、東照宮、束叡山に御造立、寬永饑年以後、五十回御忌之寬文五年、百回御纛之正德五年、上野において行感れし事、考る劈なし、明和二年闢月、百五十回御思、勅曾御法事行はれ辷秋、九月鋳戮、小笠原縫殿介持易、此事を奉り、門人十六人をして、上野において初て流鏑馬の式を勤しむ、按るに、享保年中、弓道の式を雨家に分賜はり、小笠原平兵衞家は、縅射流鏑馬等の式、小笠屋縫殿介家は、步射ぐいはい丸物草鹿等の式なり、此時其家に、あらずして、流鏑馬の事を奉りし物江、中興の觀縫殿介持廣、元夊三年、諸弓の式炬勒し舊蹤にようか、未詳、 流鏑馬の揚ば、東叡山灣、綯宮の前通り、左右松屋の間の往邏也、西に本坊御構の懿より大師盞の前、南は凌鬘饑表門脇を限嚀、東西採岌右の松原力半な限り、竹行馬な黷ひ、雜人の見牴を、禁す、矢落は東松原の内、三ツ的なり蟾は佳靉の内に籍、覊のはつれに流鏑馬舍存設く、馬場の中央、西松原を後にして日譌所を構へ、其左日光御閂跡、其右御老中棧敷なり、其外若錚寄衆、御側衆、奧向の見物所、井に布衣以上巳下の見物所、射手の見物所等、透聞なぐ設たり、日記所には、御名代御軈衆著座、御小諦戸頭取二人、御農甘二人、小笠原縫殿助、霽彎記役人、門人三人列居す、射手十六人に、今朝凌靉院へ揃ひ、夫より流鏑馬舍篇て装束し、水干行騰れやゐ笠蹇がつら腹なり、午の刻計に練幾して御宮に靉詣し、流鏑馬舍に入、流鏑馬始むべき令有て、萱譌より十六番まで乘あげ、蜜番の射手、捨鞭の飃の式有て、南にはぜ射終る、夫より次第に射纏り、十六番馬に鞭打、射儀とゝ のひ御肺事果ぬ、 御近例、文化十二年四月、二百回御忌、勅禽御法事有之、九澪朔日、持易三代の孫、舘女郎是を承り、門人十六人を廴て、流鏑馬の射乎を勤しむ、奧の衆三人、御小性組より三人、御書院番より七人、大御番より二人、小普請より一人、〉
p.0515 安永六年了酉二月六日、於高田馬揚流鐇馬有、
射手 奧向
木賊色 深津彌市郎 〈朽葉色〉 植松左京亮 〈紅〉 松牢備中守 〈ウコン色〉 新見大炊頭〈○中略〉
都合貳拾五人
p.0516 寬政五丑年正月成瀨吉右衞門達
此度於高旦流鏑馬有之候節、見物之面々、放生寺脇人留之場所より馬場入鳳迄は侍二人、三人、鑓持壹人、草履取壼人、同所より馬見所迄は侍貳人、草履取萱人召連、鑓持は見物所後道之方に差置、殘り候供之分は、同勢場へ相拂候事、
一見物之面々衣服、服紗小袖麻上下著用之事、
一見物所之儀は、馬場末之方に而、不黐障候樣絶張致し、幕類相用候儀、前々より無之候事、
右之邁規定致し、見物之面々、承合候向も有之候得ば、前文之趣及挨拶候、以上、
p.0516 寬政流鏑馬事記
寬政四年壬子の冬、武州豐島郡牛込郷高田村八幡宮において、肺事流鏑馬興行あるべき旨碍軍家、命を下し給ふ、〈○中略〉御斬願の事あ蔘て、享保十三壬申年三月五ぼ八幡宮御奉納肺事流鑰馬興行の事、鬮所馬場にてこれを行ふ、家治公御誕生の慶賀として御所願あらせられバ兀文三戊午年二月九日、流銹馬興行ありてより、大なる御漸念には、此豼に於て流鏑馬興行有之、旣に寬延四辛未年五月十五日、寶曆二壬申年十一月十五日、寶暦十三癸未年二月十五日、安永六了酉年九月朔日、すべて六ケ度に及びける、時に寬政四壬子年、將軍家御世繼、御誕生ましノ丶て竹千代君と稱し奉る、代々の嘉例に隨ひ給ひ、朋年の春、穴八幡宮注藥の滿事流鑷馬興行の命を下したまひ、其式法、元文の例にならひ、小笠原平兵衞門人十有六人、各其備にたへたるをゑらびあげて射手に候ず、寬政五癸丑年二鵞四日初の卯の日、天うら、かにして惠風和し、其儀式殊に巖重也、射手の士、未明に八幡宮に來う、別當輔前にて三座の護摩を修し、十二座の赫樂を奏、八幡宮の境内、幕を 以て四方をかこみ、別當所をして有司を初近習の面々休息す、尊前の方、幕を以て隔をなし、外樣の射士是に屯す、馬場の體、四方に靑竹の矢來を結廻し、一方に木戸門を建馬場の内にさくりを切、萩を以て埓を結、場中に檢所の營を設、其外竹にて一間々々に隔をなし、諸士及び射手の輩見物所として是を給ふ諸侯士大夫、男女老少これに群集す、矢落の方には、貴賎の男女、錐を立る地もなし、實に天下の美觀、此時にあり、午の半に及んで、射士各淸服し、粧ひ連て八幡宮の吐壇に來り、再拜稽首して、列をたゞして乘出す、其行粧、紅はなだ松葉色等の水干に、主々の紋を染出し、紅白紺地等に、金を以て思ひ〳〵の綾紋を織付亢る小手をさし、淺黃の裏打たる綾藺笠をかむり、大刀腰刀を帶し、箙を負、行騰をむすび、沓をはき、初め終を乘者は、白重藤の弓を持、これ免許の弓とかや、矢は目なし鏑矢六本、筈高に負、馬にはさま〴〵鞍置て靜にあゆませ、從士二人小素袍を著せ、〈色は好に隨ひ、紋は主の定絞を付、〉鉗烏帽子を冠り、一人は代弓を袋に入、〈弓袋白布〉さしかざして從ひ步、舍人的立の士、相其に順をなし、馬場に乘入、幕の内に順列す、日記二帖、臺に置、一脚は檢所の内、一脚は後の方靑疊の上に置之暫あうて有司加納遠江守、及平塚伊賀守、小野河内守、小笠原平兵衞、小笠原平八、日記の役は、永井多宮、櫻井隼人、初鹿野六三郎、別當放生寺、檢所に來ウ著座す、此時射手の内より和田仁三郎弓を持、左右の行騰を取上、步み出て令をまつ、永井多宮、令を受てあゆみ出傳之、互に一揖して退く、一の的立の士、麻の上下を著十六人、二の的立の士十六人、三の的立の士十六人、各的を携、三度に步出て、一二三の的の邊に、順を正して蹲踞す、射手の人々十六人、伍列をたゞして馬を步せ、場元の方へ乘行、介添の士〈小素砲折烏帽干を著、手に主の扇を持、〉十六人、同じく埓の内を步行、矢狩の者二人ヅ、一人的を木に挾み、的立の士の傍に置、的立其的を建、退て蹲踞す、こゝに於て射士、漸其術を施す、其一に和田仁三郎馬を乘寄、扇をひらき、打上るとゝもに馬をはせ、鍋矢をつがひ、聲を上げ、一二三の的を順々に射終り、場末に至り馬より下り、馬場の末に坐す、的立の士、其的を上て 退、矢狩の者、的と射る所の矢とを的立の士に渡、介添の士步出、的立と其に退く、訳に駒井加賀守馬を走せ射絡ら、場末に坐す、從士も又退く、新見長門守、跡部三郎左衞門、春田善太郎、加藤八十五郎、國領又兵衞、淺香吉之丞、多賀大助、久貝總左衞門、竹川兵十郎、土屋四郎兵衛、中條平助、瀧用久黝、細井豐前守、次第々々に射終て、馬より〈○此下恐有脱文〉其式法前のことし、從者もまた初におなじ、終の射手三浦五郎三郎、白重藤の弓に鏑矢をつがひ、聾を上て乘出し、一の的を射碎き、二の矢をつがひ、鞭を上て馬を進め、二の的を射て、又學を上げ鞭を上る事はじめの如く、三の的を射終りて下馬に及ぶ、是捨鞭のわざなるよし、從士殘らず退く、其矢、的にあたらざる有こいへども、的立の士、押蘚事式法なちごかや、事終て加納遠江守、平塚伊賀守、小野河内守、小笠原平兵衞等、席を立て抵き去る、射士各弓箭を帶、馬上して八幡宮の釁前にいたる、其驪はじめのごとし、各社壇にひざまづき拜して後退去す、其後射士の輩、厚き褒賞を賜ふ、
p.0518 寬政五年二月四日、この自高田馬場にして、流鐫馬興行あり、六日、去らし四日流鏑馬あ蔘しをもて、その師徒頭小笠原平兵衞常方に、時服に金そへて賜ひ、小姓新見長門守正登、駒井加賀守信貫、小納戸細井暢前守正房、和田仁三郎勝孝、瀧川久助一昌はじめ、射手の者、譬黃金を賜ふ、
p.0518 文化十年二月十一日、來戌年、公方樣〈四十二○德川家齋〉御厄除爲御新薦、於高田馬場、流鏑馬被仰盈候ニ付、穴八幡宮江、白銀十枚御祠納、〈御名代蜷川相模守親之〉
p.0518 高田馬場 同じ北の方にあち、追廻しと稱して二筋あう、竪は東函へ六町に、横の幅は南北へ三十餘間あり、〈○中略〉大將軍家御代の始には、國家妥蚕の御斬薦の爲、御嘉例として此地に於て流鍾馬の式あり、形装善盡し美を盡せり、其式の圖説は穴八幡の別當放生會寺に收藏せろ、文章は両田白龍子撰すゐ所なり、
p.0519 文化十二亥年五月廿六日櫨村駿河守殿御渡
當九月上旬、於上野山内、祠事流鏑馬、小笠原館次郎弟子其被仰付候射手之面々へは、館次郎より可相達候間、得誕意、館次郎可被談候、
五月
文化十二亥年八月四日間宮諸左衞門達
此度於上野山内流鏑馬之節、布衣以上面々、勝手次第見物被仰付候旨、駿河守殿被仰渡候、依之申達候、以上、
八月 高井山城守
間宮諸左衞門
文化十二亥年八月九日高井山城守間宮諸左衞門達
於上野山内流鏑馬有之候節、布衣以上之面々は、車坂門、屏風坂門、谷中門、新淸水門之内、向寄により罷越し、下馬所邊に而下乘いだし、侍草履取計召連、凌雲院脇通り馬場内より見物所へ罷越、罷連候供之分は、流鏑舍之後、竹矢來内へ差置候事、其外見物罷出候面々も、是又向寄之門々より罷越、常之下馬所邊に而下乘、侍草履取計沼連、大師堂前木戸門より見分所へ罷越、召逕候供之分は、本坊角御先手勤番所向、竹矢來内へ差置候事、
但御當日は黑門通路不相成候
一衣服服紗袷麻上下著用之事
一服穢之儀は不苦候事
右之迺伺相濟候、依之申達候、以上、
八月 高井山城守 間宮諸左衞門
文化十二亥年八月十四日間宮諸左衞門達
來月朔鵞、於王野山内流鍋馬之節、月並御禮登城之面々、御譜赭濟次第御越可有之候、尤宿出部屋住之面々は、四時迄御越可有之候、
一部屋住之面々、見物被仰付候攝には無之候得其、勝手次第被罷出不苦候、左候得ば、車坂門、屛風坂門、谷中門新淸水口門之内、向寄之門よ蔘被柏鏤常之下馬所に而下乗致し、侍草履取計召連、大師堂前木戸門より布衣以下見物所へ被相越、召連候供之分は、本坊角御先手番所向、竹矢來内へ差出候事、
但御當日黑門通路不相成候
一衣服服紗袷麻上下著用之事
一服穢之攝不苦候事
一流鑰馬相濟、御老若方御退散相濂候上、混雜無之退散可有之事、
右之遒御心得可有之候、依之申達候、以上、
八月十四日 間宮諸左衞門
高井山城守
p.0520 文化十二年九月朔日、於東叡虫流鏑馬御祠事被行、〈神君二百回御忌、任舊例小笠獵館吹郎是な承り、門人十六人をして相勤む、〉
p.0520 嘉永六年五月十五日、於高田馬当流鏑馬被懸行、將軍〈○德川家慶〉六十一之御賀、被爲祝に依て也、〈射手は奧之衆、御番衆、小譬請打交と云、柴田肥前守、藥師寺筑前守、小笠原美佗守、能勢相模守、粕屋肥前守、翁代急小澤平右衛門、吉川一學、中山藤一鄭、山名干三郎、興津仲、小出新彌、山名新次蕗、榊原采女、金蒜内記、靑山鯊左衞門、梶十三郎、神谷銀三郎、和田勝太郎、佐野彦八鄲、細井市太郎、高林彌一郎、田判金左衞門、長谷川銑之助、阿野虔之丞、梶用半左衞門、杉野左衞門、都て二十八〉 〈騎也、式之儀は、前編東照宮御神忌に詳なり、佐之略ス、此臠御名代夏目左近將監、淺野一學勤之、〉
p.0521 一的たては、武藏の黨の者ざもの役也、
一私に射る鰆は、的立雜色六人して立る也、三所の的に、右の方に立そふ、二人づゝなり、
p.0521 文治三年八月四日壬申今年於鶴岡、依可被始行放生貪被充催流鐫馬射手拜的立等役、其人數以熊谷二郎直實、可立上手的之由被仰之處、直實含鬱憤申云、御家人者、皆傍輩也、而射手者騎馬、的立役人者步行也、旣似芬勝劣、於如此事者、直實夢從嚴命髫、重仰云、如此所役者、守其身器、被仰付事也、全不分勝劣頴中的立役者、非下職亘新日吉赴祭御幸之時、召本所衆、被立流鏑馬的畢、思其濫觴説ジ猶越射手之所役也、早可勤仕者、直實邃以不鶺進奉之闖、依其科可被召芬所領之旨被擲下去云、
p.0521 一あげ裝束の次第、〈上射〉寵手はともにかはる也、
一ゆがけをさす 二はかまのくゝりをゆふ 三水かんをきる 四むかばきをはく 五大刀をはく 六征矢をおふ 七右の黐をくゝる、其時むちを蹌き入る也人左の袖をかたぬぐ、こてをさして、やがて左の袖をくゝり付べし、九笠をきる 十沓をはく 十一馬にのる十二弓をもつ
一供者の次第
馬の左童装束は、きぬすいかん、くずはかま、すそをあかく染て、もん有上をくゝり、刀もさゝず、同はゞきもせぬ也、
馬の右〈雜色〉裝束は、たうゑき著るやうにて、色は別也、はゞきをしてくゝる、ゑぼしかけ赤がは也、
其後馬の尻に弓袋〈自布也〉さし、ようひかぶ己を著て、ゆがけをさして、こてをばさゝず、はゞき をして、上をくゝるべし、皆はだしなるべし、
雜色 人人人
前 馬人人 六人はたうしき也
童 人人人
一ざうしき六人、馬の尻に三人づゝ、二なみに立なり、上にも下にも家々の紋を出す也、はゞきをして上をくゝる、ゑぼしかけ赤庄、刀は木さやまき、雜色同、〈○中略〉
一射手裝束次第
一番にばかまのくゝりをゆふ、亥にすいかんを著る、次に右の袖をまくべし、次に左の袖をはだぬぐ、はかまのうしろこしの下へ入て、又袴のこしをゆふ、次に行騰をはく、次にこてをさす、緖をば前後の緖に分て結ぶべし、次にえびらを負ふ掬に笠をぎる、次に矢をえびらにさす、次に沓をはきて馬にのる、
p.0522 矢ぶさめの前の出立をば、あけしやうそく遒申也、的を射る時の出立をば、射手装束と申也、
p.0522 一行騰の事、笠懸流鏑馬、神事に射る時は、若衆の事は不及申、歲七十八十に成其、悉夏毛のむかばきはくべし、夏毛の行騰、本たるによりての儀なり、犬追物時、はくごとく、ながくはあるまじき也、いかにも、みじか、くつめてぎるべし、棘事むかばきの切やう、玄るしをき候也、おりめのすそを、すちかへてきるなり、是によりて自然けがれをも除、祠慮にもあふと申來るなり、〈○中略〉
一むかばきの腰の事、一寸ちがはゞ、かりむかばき、一寸あかばがり行騰といへり、これはうしろのちがふほどらひの事なり、五分ばか力、ちがふたるがよきなり、前は二三寸あきたるがよきなり、 神事行騰之事、加樣に可切、〈○圖略〉例式よりみじかくつめて可切、引目とゞめの事はたとひ引目を腰にさゝずとも可付、はく時は左革の緖を引目とゞめへ、とをすべし、笠懸、小笠懸流鏑馬など、覦 事にて射る時は、このむかばきのごとく、すそのおりめを四寸すちかへて、きりてはくなち、其外は例式也、此行屬はズこごは、祕事にかぎりたゐ事なり、瀞事にてなき時ははくことあるべかちず、
p.0523 一射乎装束ノ事、一番浴衣、二番手細狩衣、三譬手袋四番地衣行騰、五番刀、六番箙七番鬼笠、八番沓九番馬、十番弓也、
一重形裝束、見出立ノ如ク髮ヲ亂シ射手ニ拌フ、
一雜色裝束、盛衣下著モ、ヒキヲ著シ、髮ヲ亂、震結シ同俘フ、
一弓持的持共、装束小靑襖烏帽子ヲ著シ、舍人ハ白丁ヲ著シ同伴フ、
p.0523 長谷用流流鏑馬日記云、八月廿日比仁京土して、諸の裝束損料にて取べ鑒注文、一揚の水干一具〈白打手の笠一 あこめ一 色々枝花〉
一夜宮水干一具〈是ば襲束師之助成之借申也〉
一射手の當色八具 重裝束一具舍人裝東一具 的持裝束一具 宛稽十一 烏帽子十頭
一隨兵十騎 當色四十具 帶四十
一的立の裝束紅打手在袖一二具 あこめ二 烏轗子二頭 大帷二 下袴二 宛帶二 帶二 水沓二足
一射手の兒けわいの具足事
白粉 經粉 花己うかみ一りい 眉作眉墨 解梳 髮梳 こまか梳 水入 水引〈かみより、大小ちごのもとゞり取らん用なり、〉 次に兒の出立の事
水干 竹笠 弓矢 逆頗 矢走 ゆこて帶二筋 扇 行騰〈はりに糸を付て用意すへし〉
p.0524 射禮
今の世に、流鏑馬の式に、爾小手を著胴衣を著る事は、是古義にあらず、步射には鞆を著騎射には弓小手を著事は、射鱧の古義なり、
p.0524 一やぶさめの時、ゆがけの緖霍むる樣の事、例式三卷まきて、手のこうにて一むすびづつ、三所にむすびて己むるなり、〈○中略〉
一ゆがけを手袋己云事、流鏑馬の時にかぎりて、手袋といふなり、〈○中略〉
一鏑の鳧さ三ふせなり、日は二目なり、鹿の角にてつくりて、三方にぬたを殘すべし、是は當流のかぶらの本也、根本は八黶、其後は五臠四目三臠にも、くりたる也、今は二目を本己する也、ほうの本にてくる事あり、これは流鍋馬紳事の時用也、〈○中略〉
p.0524 一弓ハ流弓也、矢ハ鐫、羽ぶ白瑠全砌、割夕矧、拵樣口傳、箙ハ組違ノ長箙也、箙十二刺也、
p.0524 一三物芭は、流鏑馬かさがけ、犬追物事なり、但近年は、流鍋馬まれなる間、犬笠懸かちだちをもいふなり、一五物と云は、流氣馬、笠がけ、小笠懸、犬追物、かちだちの事なり、
一武田小笠原南流のちがひたる事、犬追物に三矢、流鍾馬に矢ぬき出す事、三矢は、下の矢を武田にはいるゝなり、矢をぬき出すに、笠のはをきれといひて、矢を上ざまへいだすなら、小笠原には犬の三矢は一矢を賞する也、やぶさめの矢出すは、犬の二めのごとく、さきへすぐに出す也、此二のちがひめなり、殘はいつれも圃前なり、
p.0524 やぶさめの事、古書には、やぼさめとも記して有、抑流鏑馬は、我朝帥事第一の騎射 也、去ながら此藝の式は、大攝なる事なれば、公家武家ともに、さうなく執行なりが柁きなれば、かま倉の幕府の後は絶て、今は祚砿のとりおこなひと成て、庇氛人、又は土民のわざのやうに成來し也、旣に東鑑に諏訪大夫盛澄、秀郷朝蓖の秘訣を受傳へしと有也、壽俊が云、總じて流鏑馬の射藝には、秘する弓矢の手多くあるなれば、其秘曲を受傳へしと云事なるべし、流鑰馬の事は、續世繼物語、平治物語、平家物語、盛衰記、東鑑等に有といへざも、くわしからず、其禮式は、公家にても重んじ給ふ事にや、願主ありて執行し、武人其藝をする事也、的立其外古き式等有なれば、天皇も御覽じ給ふな参、鎌倉殿の頃までは、公武ともに度々執行せさせ給ひたれども、鎌倉將軍家の後は絶たりしを、室町將軍家に及びて、柳螢歎き思召て、此射藝の古風を、再び今にかヘし簪ふべきの由上意有し時、武田殿の御返答には、流鏑馬の式、斷絶して二百年來に及びしなれば、當時其式をなさんは、か詑き事の旨御答ヘ有し由、信景問答に見えたり、此問答の書は、永蕀の頃の筆記也、
p.0525 古者天子、毎歲五月五日武德殿昧御シ、近衞兵衞ノ騎射ヲ覽給フ、弐テ競馬等アリ、夫流鍋馬者此式ヲ摸シテ執行へル祠証ノ祭禮ト見へタリ、應仁已來天下兵亂ニ罹ジテ、諸冠ノ流鏑馬或ハ邊轉シ、或沸其名而巳存セリ、〈○中略〉凡武德殿ノ騎射、專武術修錬ノ爲也、祠社ノ流鑰馬ニ於テハ害氣ヲ淌除シ、及祠事過失ナキヲ要トスル者也今此伎ヲ勤ル輩、其主意ヲ察シテ執行べキ事也ト云爾、
p.0525 一やぶさめに三流あり、小笠原、武髓、三浦、是也、射手方聞霤、小笠原山城守説に云、やぶさめに三の流有、矢の出し攝かはる也、三滿やぶさめは、矢を寄へ出す也、笠のはをきれと也、〈笠のは龜きれとは、矢なつがふ時、矢なそらへ出して、笠のはを突切るやうに出す也、〉武田やぶさめは、先へ、矢を出す也馬の耳を切れと也、〈矢を先へ出して、馬の耳をつき切ろ檬にする也、〉小笠原やぶさめは、矢をそばへ出す也其ま、矢を高くさし上て、笠の通りにて矢をつがふ也、弓は重藤、矢はかぶら也云々、弓馬故實に云、武田己當家〈小笠原家をさして云〉違の事、や ぶさめの時、矢のぬき出し樣、矢まはうにある、三組の矢、〈矢まはりの日記にある、犬追物の時、射たる矢、三ツある簸の矢沙汰也、〉ゆがけの緖の留樣、違よし也云々、右矢の出しやうと云は、やぶさめの時、かぶら矢を三ツ、腰にさし、出て射る時、腰より矢を滄き出す時の事也、伊勢因州舊記云、両家〈小笠原武田〉に替る事は、たゞ三色也、やぶさめに一色、犬追物に一色、弓袋に一色、此外に毛頭替りたる事なし、若ちがひたる事、此三ツの外にあらば、鬥方の覺違にて有べし云々、高忠聞書に云、武田小笠原兩流のちがひた、る事、犬追物に三ツ矢、流鑰馬に矢ぬき出す事、三ヅ矢は、下の矢を武田には入る也、矢をぬき出すに、笠のはを切といひて、矢を上さまへ出す也、小笠原には、犬の三ツ矢は、一ツ矢を賞する也、やぶさめの矢出すは、犬のニツめの如く、先へすでに出す也、此ニツのちがひめ也、殘りはいつれも同前也、
p.0526 一ゐん〈○後鳥羽〉ゑつぼにひらせ給て、〈○中略〉いま蠶かうよとおぼしめされて、とばのせいなん寺のやぶさめそろへと、御ひろうあつて、しよこくの兵ぜもをめさるゝ所に、〈○中略〉むねとの兵、一千七百人とそしるしたる、