https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0785 馬場ハ、原ハウマバト云ヒ、後ニバヾト稱ス、馬ヲ馳驅スル場ナリ、馬場ノ本ヲ馬出ト云ヒ、末ヲ馬駐ト云ヒ、繞ラスニ垣ヲ以テス、之ヲ埓ト云フ、埓ニ雄埓雌埓アリ、埓ノ外ニ屋舍アリ、騎術ヲ觀覽シ、或ハ馬ヲ點檢スル所トス、昔時武德殿前ニ馬場アリ、天皇臨御シテ射御ヲ覽給フ所ナリ、故ニ武德殿ヲ稱シテ、又馬埓殿、馬場殿、又ハウマキドノ下モ云ヒ、其馬場ヲ内馬場ト稱ス、又近衞兵衞二府ノ馬場アヅ、衞府ノ兵士ノ騎ヲ練習スル所ナフ、又一種相廣馬場ト云フアリ、其縱横相同ジキヲ謂フト云フ、其他、流鏑馬、笠懸、犬追物等ノ馬場アリ、各其篇ニ詳ナリ、

名稱

〔伊呂波字類抄〕

〈无/地儀〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0785 馬場

〔運步色葉集〕

〈葉〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0785 馬場

〔倭訓栞〕

〈中編二十六/牟〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0785 むまば 馬場なり、今ばゞといへり、北史に、以千里爲牧地、今之馬場也と見えたり、

〔空穗物語〕

〈祭の使〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0785 おほんさいまつこもしたる事、らうより南に御まへにむきて、馬だしよう馬とどめまで、ひまなく、かちのきぬきたるをのこども、ともしたり、

〔江家次第〕

〈十九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0785 臨時競馬事 乘尻等向馬場末左蘰御前自埓東西向馬駐、次馬部渡、居飼不渡御前、越雌埓向馬出、
凡競馬者、〈○中略〉十列相廣、各付埓乘之、

〔貞丈雜記〕

〈十三/馬具〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0786 一馬場の馬を乗出す方を馬場本と云、乘り行く先の留りを馬場末こいふ、是古の詞なり、今は馬場本の事を乘り出しと云、馬場末の事をおつばと云、是今の馬九郎の詞にて、甚いやしき詞也、侍などのいふべき詞にはあらず、

〔吾妻鏡〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0786 養和二年〈○壽永元年〉六月七日丙午、武衞〈○源賴朝〉令出由井浦給、〈○中略〉以股解沓差長八尺串、召愛甲三郎令射給、五度射之、皆莫不中、而武衞令打彼馬跡與的下給之處、其中間爲八杖也、仍積此杖數、可定相廣之馬場之由被仰出、

〔武器考證〕

〈十二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0786 竪モ横モ同ジ廣サナル故、相廣ト云フ、是ハ馬藝ヲ習練スルニ宜キ故ナリ、

〔安多武久路〕

〈禮〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0786 或人間ひ給ふは、我朝にて、馬を調習する所を馬場といふ歟、此式はいかゞすべき哉、壽俊答て云、我朝のむかしより名目の出し事は、左右近衞の馬場をいふべき也、總じてむかしを考ふれば、公武こもに平原送中にて馬藝をこゝうみられし事と見えたり、漸く鎌倉殿の御時、馬藝けいこすべきには、相廣の馬場こて、四方同じ程のひろさにすべき事に定められし事東鑑に見えたり、すでに享保の比、相廣の馬場を御植留の東におかせ給ひて、諸士の馬藝稽古の場所とせさせたまふ歟、〈○中略〉扨又こま、癖馬、其外馬の口むき足次など調習する場は、およそ六十間より二三百間にもする歟、ひろさは四五間にも七八間もあるべし、是らは異國にても調馬路などこいふべきものなり、

〔海國兵談〕

〈十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0786 當世細く長き地面を馬場と名付て、馬を乘る所こすれども、是亦具の馬場と云ものにあらず、眞の馬場は、狹きは方六七町、大なるは方百町にも構置て、馬而已に不限、人馬器械を備て練兵する所とす、是眞の馬場也、

〔大坪本流馬道秘書〕

〈禮術〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0787 馬場ヲ築事、東西モ吉トイへドモ、南北ニ攝タル士只初テ乘時ハ、必ズ法式アリ、
本式ノ馬場ハ、三百六十四間、横十二間也、追廻シ馬場び、百間、横四間也、中ノ土手ヲ踊土予云、總廻リノ土手ヨヲ少シ下ク築べシ、馬場ノ口、開ヤウニ習アタ、昔大名高家、巍ノ馬ヲバ此馬場ニテ並べ、勝負ヲ爭ハレシコトナリ、
小庭ハ其所ニヨリテ間數ヲ定ルコトナリ、小庭トハ百聞ヨリ内ヲ云也、縱バ九十間ノ場ナラバ、楢六間芯築ベシ、八十間ニハ横五間、七十間ニ横四間、六十間ニ横三聞、五十聞ニ横ニ間也、是ヨジ長サ詰リタリトモ、横ヲ詰ザル者也、〈○中略〉
競馬ノ馬場殿ハニ町也、左右ニ埓ヲ結、大繩ヲ張也、〈○中略〉
馬場ニ土手築事、高サ四尺文築者也、彎傳、馬場ニ馬出シ開慌之事、東西ノ場ニハ、西ヘ變セテ隅ノ臠ヲヅ二拾間ホド置テ馬出シロヲ開ベシ、南北ノ場ニハ、北ヘヨセテ口ヲ開ル也、問數右同斷也、是ハ例式ノ馬場ノ儀也、長場ニハ馬出シ二所ニ開べシ、灣傳、同小庭ニ人、隅ノ戮ヨタ六七間ホド置テ馬出シ口開クベシ、馬場ニ木ヲ植ル事、櫻柳楓松也、外ノ木ハ植ザル者也、小庭ハ譴所也、草木ヲ植ザル髴也、四ツノ木ヲ植タコトハ例式ノ馬場殿ノコト也、馬場ニ砂ヲ敷蠶ト、馬ノ蹄ノ入ホドニ敷べキナリ、〈○中略〉馬場ニ亭ヲ建ル事、東西ノ場芯ハ、東ノ方へ寄テ北表ニ建ベシ、南北ノ場ニハ、南ノ方へ寄、東表ニ建タ吉、口傳、追廻シ馬場ニ亭ヲ建ル事ハ、眞中ニ建テ、四方掛放シニ造ル者也

埓

〔倭名類聚抄〕

〈四/術藝〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0787 馬埒 四學字苑云、垺、〈力輻反、與劣同、世間云、頁知、〉戯馬道也、

〔箋註倭名類聚抄〕

〈二/術喜〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0787 馬垺、力輟反、〈蘓力作乃、山田本昌平本同、今従曲直瀨本下總本敗、與廣韻合那波本亦作カ、〉

〔説文解字〕

〈十三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0787 〓〈卑垣也、从土、守聾、力輟切、〉

〔類聚名義抄〕

〈六/土〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0788 垺〈ラチ〉

〔下學集〕

〈上/天地〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0788 埓〈馬垣也、日本総、作埒誤也、〉

〔悦目抄〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0788 らちの内にくらぶる駒のかちまけはのれるをのこのぶちのうちから

〔安多武久路〕

〈禮〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0788 總じてラチには、男埓女埓などゝて、ならひ有事也、

〔流鏑馬次第〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0788 埓は兩方にあるべし、め埓を埓といふ、を埓は高く、め埓は低かるべし、射る時の馬手を、め埓こいふ也、

〔大坪本流馬道秘書〕

〈禮術〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0788 競馬ノ埓必、男埓ニモ非ズ、女埓ニモ非ズ、伏埓ニ結也、〈横結カ〉其埓ノ高サ、土際罸り固尺、杭ハ三尺閲ニ次能立テ、上一段ニ、生竹ニテモ、叉萩柴ヲ寄テモ結也、二通ハ結ヌ者也、

〔安多武久路〕

〈禮〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0788 或人問せ給ふすべてラチといふは何にや、壽俊答て、ラチといふものは、場所の法量をさだむるためにする事なり今の小土手といふもの、すなはち埓と云もの也、さるによつて小土手ある場には垣をゆふにおよばず、小土手は埓なり、小土手なく、蹄ばか壷の浙へは、垣を結ふてラチとすべし、今の俗誤うて埓をせよとあれば、小土手ある所にも垣をゆひ廻す事、心得ぬ事也、さればこそ唐國にて、かきの事のみを埓とはいはず、晉王濟、馬埓請於外作短垣舞之也、又埓小堤也、又封道日埓、又潅甫子、道有形責また廣韻、埓還也、堤也、また字彙、埓庫垣也など有をおもへば、ともに同じ事也、

〔類聚國史〕

〈七十三/歲時〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0788 大同二年五月辛卯、先是帝城北野、開新馬埓、以備馬數 壬辰、鸞輿農駕、臨御馬臺大兩終日、埓地泥濘、四衞射畢、冒雨遠宮、及乎後年、依無便復本處、〈○武德殿〉

〔榮花物語〕

〈八/初花〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0788 五月〈○寬弘三年〉には、例の三十講など、上の十五日つとめ行はせたまひて、下の十五日餘りには、くらべ馬せさせんとて、土御門殿の馬場、はやらちなど、いみじうゑたてさせたまふ、

〔吾妻鏡〕

〈七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0788 文治三年八月四隧壬申、今年於鶴岡、依可被始行放生會、被宛催流鋪馬射手幷的立等役、 九日丁丑、鶴岡宮中、殊以掃除、今日逶馬場語埓仍二品〈○源賴朝〉監臨給、若宮別當法眼被蔘會、常胤、朝政、重忠、義澄以下御家人群參云云、

〔吾妻鏡〕

〈三十一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0789 嘉禎二年八月十六日甲子、流鐫馬以下有馬場蠻廷尉貞員、候埓門邊、〈具子息定範〉

〔競馬記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0789 古記云〈○中略〉埓株貳百貳拾一本東方、又貳百十九本西方、以上四百四拾本、天文十一年五月ニ沙汰有之、兵書物ノ奧讌書付有之、

殿舎

〔倭名類聚抄〕

〈十/居處〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0789 武德殿、在宜秋門以西、俗云牟萬岐止乃、

〔倭訓栞〕

〈前續三十二/牟〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0789 むまきどの 武德殿をいふ、〈○中略〉馬城殿の義なるべし、

〔拾芥抄〕

〈中末/宮城〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0789 豐藥院〈八省西、天子宴會所、謂之馬場殿、〉

〔源氏物語〕

〈九/葵〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0789 けふも所もなく、たちこみにけり、〈○賀茂祭〉馬場のおとずのほどにたてわづらひて、上達部の車どもおほくて、物さわがしげなるわたりかなと、やすらひたまふに、〈○下略〉

〔花鳥餘情〕

〈六/葵〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0789 おとずやと云物也、乙殿屋とて、左右の馬場にあり、五月の騎射の時、中少將の著座する所也、

〔源氏物語〕

〈二十一/をとめ〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0789 東おもては、分てむまばのおとゞつくり、らちゆひて、五月の御あそび所にて、〈○下略〉

〔河海抄〕

〈九/乙通女〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0789 馬場殿、埓、〈五月ハ馬ノ月ナレバ夏ノ方ニ馬場スル也、〉一説云、乙殿歟、第舍ヲ、ヲトヾト云也、殿有甲殿有乙殿、又寢殿ヲ、ヨルノオトヾト云ガ如シ、
今案、此義不撫、野分卷ニ、寢殿ヲオトヾノカハラト云リ、乙殿品アラザル歟、只殿ノ字ノ訓、オ噺ドト云故也、人ヲモ大臣ニアラザレド塗、ヲバオトヾナド云也、殿字ノ訓也、

〔おもひのまゝの日記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0789 六月廿日ころ、いとあつき比なれば、いつみもてあそび給ふとて、二條の家に行幸有、〈○中略〉あくるあした、北の馬場のおとゞにて、殿上人ずいじんのけいばあ蔘、腰輿にて、ば ば殿へ行幸あり、殿以下みなあゆみつゞかせ給ふ、ばゞのやは、にしひんがしへ、をかしくつくうつゞけたり、

〔類聚國史〕

〈七十三/歲時〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0790 延曆十四年五月辛未、御馬埓殿觀騎射、

〔類聚國史〕

〈七十三/歲時〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0790 弘仁九年五月戊子、御武德殿觀騎射、

〔大内裏圖考證〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0790 武德殿
按、以前稱此殿曰馬埓殿、又曰馬場殿董于此始曰武德殿、

〔扶桑略記〕

〈二十五/裏書〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0790 承平四年六月廿九日、於祠泉馬出殿、試右衞門志貞直、内藏史生宗良、左近衞常蔭等之弩、爲遣海賊所也、

〔類聚符宣抄〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0790 左辨官下賀茂別雷祗司
應慥加守護吐修造雜舍等事〈○中略〉
馬場殿〈檜皮葺五間嘉院御在所舍一宇槍皮葺三間御膳所舍一宇〉
〈槍皮葺十間馬立舍一宇板葺三間御奧宿舍一宇〉
〈檜皮葺四間細殿舍一宇字〉
右中納言源朝臣伊陟宣、〈○中略〉方今修理重年、破損無程、〈○中略〉今須若大風地震之外、重致盜失損壞之聞、印以社亘全令修造者、宜承知、依件令守護、不得踈略、
正曆五年五月廿三日 少史安茂忠奉

〔左經記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0790 長元四年四月廿六日癸卯、及辰刻令出給、〈○藤原賴通詣賀茂赴、中略、〉及亥刻競馬井勝負樂舞、了歸御、今日下社馬場舍、兼日仰禾工修理職等被仰云々、又敷設裝束自殿被儲、上達部拜所夕饗、皆自殿被召仰可然之人々、又馬出幄各二宇〈一乘尻料一宇馬料〉拜屏幔等、各方頭等新調立云々、自餘幄幔敷設、皆是諸司所儲云々、上社馬場屋〈本自所立也〉装束、又本家所儲也、饗等是諸司任例所儲也、所々幄幔、同諸司儲之、馬 出幄等不立云々、

〔榮花物語〕

〈二十三/こまくらべ〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0791 はかなく九月にもなり蹌、關白殿高陽院どのにてこまくらべせさせ給て、行幸行啓あるべき御いそぎあり、〈○中略〉寢殿の〈○中略〉東のたいをやがてむまのおとゞにせさせ給て、そのまへに北みなみざまにむまはせ給へり、

〔榮花物語〕

〈三十七/烟の後〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0791 さくらのえもいはぬさかりに、馬場殿凭のあかき夜中宮の女房ゆきて見るに、いくへこもなくさきとゝのほりたるは、雪のふりかゝれるにたがふ事なし、

〔定家朝臣記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0791 康平四年四月十一日甲子、早旦向賀茂下社馬場、左右方屋如恒、〈左東、右西、〉左方屋、北去三許丈、立七間假屋爲上卿見物所、埓東頭中央立十丈幄爲諸大夫座、

〔台記別記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0791 仁平三年十一月廿六日辛亥、今日詣春日、 廿七日壬子、今日競馬、〈○中略〉馬場殿、
馬西行立五間四面黑木屋北面中央構階、〈○中略〉黑木屋前庭有潺湲、構黑木橋〈當黑木屋北階〉紅欄橋、〈當諸大夫座舍、日上寺家造營、〉潺湲北邊構埓、〈社司構之、朿西行、以西爲馬出、以東爲馬駐、當黑木屋開埓門、廣一丈鹸、邃城樂丁裹之、若及莅陰、南北埓門外立柱松、〉馬出埓南北、各立五丈纐續幄一宇、〈各方舍人諸大夫構之、左南北並東西妻、〉爲左右乘尻、並舍人候所、〈東三箇間爲舍人座〉座〈無饗〉西二箇間爲乘尻座、〈備饗〉其西去二丈許、南北各立六間二面板屋一宇、〈咢家造之、左者左方屋西南、石者右方屋西北、並東西妻、〉爲立左右乗尻馬之所、

内馬場

〔北山抄〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0791 四月十二日内馬場造事〈若止五月箭、宣旨下所司、〉

〔延喜式〕

〈四十六/左右衞門〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0791 凡内馬場埓料、檐二百四十荷葛二十荷、其用送並充府物、自四月十二日、始掃除拜造埓、
○按ズルニ、内馬場ハ、武德殿前ノ馬場ヲ云フ、

衞府馬場

〔河海抄〕

〈五/葵〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0791 左近馬場、一條西洞院、右近馬場、一條大宮也、

〔江家次第〕

〈七/六月〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0791 施米事
使受料物班給 東手愛宕寺 北手右近馬場 西手右兵衞馬場、無復奏云々、

〔百續抄〕

〈四/花山〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0792 寬和二年三月十日、右近馬場、可改面北之由宣下、

〔今昔物語〕

〈十九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0792 下野公助爲父敦行薐打不逃語第廿六
今昔、右近ノ馬場ニシタ手番行鷙ケアニ、中少將數馬場ニ著タヲ、其日下野公助ト云フ舍人、前ノニテ馬弓射ケル、極タル上手ニテ、例ハ吉ク射ル者、何ニシクル事ニカ有ケム、今日三ノ的ヲ皆射シツ、公助ガ父敦行ハ、政ノ將監トシタ馬場ノ大臣〈○大殿〉ニ居タルガ、極ク愛スル子、的ヲツルヲ見ブ、色形モ无ク成テ、沓ヲモ履不敢シテ、馬留ノ方機ニ走セ行テ、〈○下略〉

〔今昔物語〕

〈二十八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0792 右近馬場殿上人種合語第卅五
今昔、後一條ノ院ノ天皇ノ御代二、殿上人藏人有ル限員ヲ盡シタ、方ヲ分テ種合セ爲ル事有ケリ、〈○中略〉旣ニ其ノ日ニ成タレバ、右近ノ馬場ノ大臣屋ニ各ノ〈○ノ字一本元〉渡リヌ、殿上人ハ微妙キ襴姿ニテ車ニ乘タ列テ、集會ノ所窈リ渡ヌ、其ノ集會ノ所ヲバ兼テ饕ジ定メタリケレバ、各宵ニ集ニケリ、其ノ所ヨリ大臣屋へ渡ル有梼不可云盡ス天臣屋ノ前ニ殍ヨリ東ニ南北向樣ニ、錦ノ平屋ヲ卯酉ニ長夕立テ、同錦ノ鰻ヲ引廻シタ、其ノ内ニ種合セノ物奘ヲバ悉ク取置タリ、出納小舍人ナド平張ノ内ニテ皆此レヲ俸ツ、殿上人ハ大臣屋ノ中ノ間ヲ分ブ、左ハ南、右ハ北ニ別レテ皆著並ヌ、藏人所ノ衆、滿口モ皆別レテ皆著並ヌ、

〔長秋記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0792 長承元年五月十五日甲戎、未刻參内、〈○中略〉大臣仰菅人召取文云、家第下之史、秉燭大辨開文讃之、〈○中略〉右兵衛督定串云、〈○中略〉鴨御覦疏司所違寬仁二年官符、一郡皆進、其狀云、於肚領寺領拜氷室寄人右近馬場守等作田、比叡山四至等菟除、其外雖私人領於三代國司免除所兆自守云々、

幕府馬場

〔吾妻鏡〕

〈八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0792 文治四年十月廿日壬午、景情、此間於鶴岡馬場邊梼小屋 十一月一日壬辰、鶴岡宮馬場木、無風而顚倒、

〔總見記二十一〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0793 爆竹興行附自異國黑坊主來朝事
同日〈○天正九年〉正月一日安土御構ノ北、松原町ノ西海端へ付テ、御馬場ヲ築カセラルベキ由仰出サレ、奉行トシテ菅屋九右衞門、堀久太郎、長谷用竹、抑付ラレ、御普請有之、

〔紫の一本〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0793 馬場
博勞町 此まちの名主を高木源兵衞、富田半七といふて、則公攝の馬方也、町廖北の方に馬場有、〈○中略〉 本所 無緣寺の北にあり 淺草 觀音の北、裏門の先に有参、 和田倉 不明御門と和田倉御門との土手の下に有 小日向 築地赤木明祕の下にあち 小石川築地
市谷見付御門の内 赤坂築繼 芝 高田追廻しの馬場、八丁有といふ也、此外近く出來たる、廣小路馬場等、數多あれ共賂之、

〔江戸名所圖會〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0793 馬場 馬喰町三丁目の西北の裏通にあ套、江戸馬場の中、最も古し慶長五年闢か、原御陣の時、御馬揃ありし所なりと云槽ふ、御馬工郎高木源兵衞是を預り奉る、

〔嬉遊笑覽〕

〈四/武事〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0793 此馬場〈○博勞町馬場〉は、以公命、土屋忠兵衞繩張し、長四町餘、追廻し馬場なり、御小性組、御書院番、大御譬、日を定、一組ヅゝ乘、頭々見分あり、馬喰町の馬場は、江戸の中にて最もふるき處と見えたり、寬文の頃、車力重右衞門といふ者、この馬場を町家にせむ事を願びしに、是は屬東御打入の時、御見立有て、七尺地下に、かきがらを五尺突込せて、其上に砂を敷せられし馬場にて、御代々改めざる場所なれば、願ひ不屆なりとの事のよし、明良洪範にいヘり、此書誤多ければ信じがたけれども、いつれ古き馬場にては有なり、

〔營中御日記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0793 寬永十三年三月三日、牛込高田馬場成就ニ付、明後五日、可被爲成被仰出之、

〔江戸名所圖會〕

〈十二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0793 高但馬場 同じ北の方にあり、追廻しと稱して二筋あり、竪は東西へ六町に、横の幅は南北へ三十餘間あり、相傅ふ、昔右大將賴朝卿隅田川より此地に至り、軍の勢揃あらし 奮跡なりといへり、土人の説に、慶長年間、越後少將〈忠輝卿〉の御母堂高田の言、遊鑿の設として開かせらるゝ所の芝生なりしが、寬永十三年に至ち、今の如く馬場を築かせ給ひ、弓馬調練の所となさしめらるゝとなり、

〔誠齋雜綴〕

〈乙卯三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0794 安政元年甲寅十二月二日、伊勢守殿、中川飛驛守〈江〉御渡、疎田橋御門外一橋御門外明地
右者是迄苳勞鳥飼付之仰場所に候處、向後一橋御門よち扉田橋御門寄之方、一釋ニ圍込、諸家拜御旗本之面々、騎戰調練之場ニ被晟下、雉子橋寄之方ハ、縱横昌馬場を取、是亦讃向調馬之場所昧被歲王繁勤之向ニ而も、登城之往返ニ立寄、稽古出來候樣可致旨、被仰出輭間得其意、場殀取建方之儀、向々へ可被印談候、尤御城火除地之儀晶付、柳之建物者、不苦候得共、廉立候休息所等、取建候攝者難衵成、外圍之儀も、御入用不相懸樣、生垣等ニ而、質素ニ出來候樣可被取罰候、
右之邁、海防掛御目付へ相達候間、得其意、委細可被巾談候、

〔江戸名所圖會〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0794 護持院舊地 神田橋と一橋との間御溝の外の芝生を云竓所は大塚護持院の舊址なり、〈○中略〉林泉の形殘りて頗る佳景なり、夏秋の聞は驀を開かせられバ都下の人こゝに遊ぶ事をゆるさる、各春の間は、時として大將軍家こゝに御遊獵あり、故に此所を新駒が原とも唱ふるとなり、世俗は護持院の原と呼べり、

〔惇信院殿御實紀〕

〈七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0794 寬延元年六月十日、宗醬馬守義如に、兼てうちノ丶の仰によりて、義如より望み、この日東叡山にて、韓人に步射騎射を演せしむ、山の車坂の下に、長さ百八間、幅六間の地を射圃ざなし、又同處より屏風坂の方にいたる、長さ百六十間、幅六間の馬埓を施し、傍に棧敷を購へて、みな見る事をゆるさる、

雜載

〔大坪本流馬道秘書〕

〈禮術〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0794 馬場祭之事 馬場祭モ、保食祕ヲ祭也、生竹ヲ長サ一尺二寸品切タ、牧大明棘ト書テ、兩方ノ隅漁立ダ也、〈○中略〉扨馬ヲ引出シ、開ノ方へ向、乘トイナヤ、六合祓之策ヲ打テ、牧大明驒、大己貴敏、熱田、八播、鹿嶋ト、神オロシテ、人馬繁昌、馬場長久ヲ赫ルベシ、口傳、馬場中ハ國始之庭、兩隅ハ所始之庭ヲ乘也、又場中ヘ乗寄タ、庭始之庭ヲ乗タ、其後式法ヲ乘也、乘納ル時モ、開ニ向テ下ル也、勿論陽馬ヲ以テ先乘きスル在、口傳、

〔扶桑殘葉集〕

〈十六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0795 筑後國山門郡本郷馬場記
つはものゝ邁、かた扮丶にわかれ、ものゝふのむざ、さま〴〵におほかる中に、弓と馬とをしも、むねとせることは、遠きにおよび、あたをほろぼさんには、弓にしけるものなく、さかしきをわたり、かたきをぐだかんには、馬にしけるものなければなり、しかはあれど、千尋いわたす矢の力は、かのひとりふたちのあしがるをたひらげ、やつをふみこゆるひづめのいきほひは、そのもゝちの軍をもやぶりつべければ、猶馬はするわざを、さきとしてこそ、もろ〳〵の兵のとさもまさるべかめれ、今守の君、〈○中略〉御みつからをはじめ奉参て、さぶらふ人々まで、兵の道を明暮にならひきはあ、そのしなのよきあしきけぢめを定めさせたまふ中に、馬はする遘をなん、とりわきておもくせさせ給ふ、矢島行隆、淸水隆官、今村備辰等、その道にたへたるに、たばからせ給ひて、ことしみ蠡かひのうち、本郷こいふところに、うまばをつくらしめ給ふ、四箇所通久そのことをうけたまはり、坂井種長これがすけこして、只ふた月ばかりのほどに、めでたくつくりはてつ、かくておぼしゝもゑるぐ、いきをならべ、たつなをかはす人たえず、あぶみの音、蹄のひゞきも、所えて聞ゆるを、わたらせ給ひつゝ御覽ずるまゝ仁、此わざの光そふのみにあらず、大かたものゝふの道、いやさかえて、遠つみおやの御いさをしも顯はれ、ひろきみさかひのうち、たひぢかにをさまちなんことを、みこゝろゆきて、おぼしめしよろこばせ給ふことかぎりなし、かぐつくりおかせたまふ はこめをゑるすべきよし、成章におほせことあれば、はふ蔦のつたなきをもかへちみず、霜にくちぬることのはをえらびてたてまつることは、〈○中略〉御さかひの人ごとにかたりつぎつゝ、かしこき御おきてをあふぎて、ふかき御いつくしみをしれとなり、
寶曆八年戊寅九月 藩臣平安富士谷成章謹撰幷書


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Last-modified: 2026-02-11 (水) 17:07:47