https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0691 馬乙乘ルニ乗尻桃尻ノ稱アリ、粂尻ハ乘馬ノ人ヲ云フ、桃尻ハ、尻ノ鞍上ニ安ンゼザルヲ云ヒテ、之ヲ桃實ノ圓轉シタ定ラザ戸ニ譬ヘシナ梦ト云フ、而シテ馬ニ乘ル乙ハ、手綱ヲ執ルニ淒アリ、鞭ヲ當ツルニ所アヲ、庭乘、下乘、輪乘、曲桑等ノ類時ニ由ワ、所乙應ジテ、進逕周旋ノ注アラザルハナク、今之ヲ列學メルニ遑アラズ、抑我斷ニハ、神代品在ダテ、旣ニ鞍鐙等冫馬具アリ、降テ應祠天皇ノ十五年ニ、百濟王、良馬ヲ貢ぜシカバ、阿直岐ヲシテ之ヲ飼養セシメ給ヒ、天智天皇ノ七年乙ハ、近江國ニ牧場ヲ置キテ馬ヲ放チ、天武天皇十三年ニハ、文武百官ヲシテ兵ヲ用イ馬ニ乘戸コトヲ練習セシメ給ビシカバ、馬匹ノ繁殖噺共ニ、其騎衛モ亦漸ク備ヲ、嵯峨天皇ノ朝ニハ人藤原内麻呂ノ如キ、騎法ニ熟セシ羮ノアリ、淸和天靆ノ朝ニ厂三坂上貞守ノ如キ、相馬ニ巧ナルモ冫アガ、醍醐天皇ノ延譬ノ式ニ、、左右馬寮ニ騎士ヲ置キ給ヒ、殊と中躄以後ハ、屡競馬ノ學アジシカバ、衞府ノ官人ニジ尹騎術ニ精妙ナヲシモノ少ナカラズ、其後武家ノ盛ナ夕乙及ビテハ、專ラ弓馬ノ道ヲ獎勵セシヲ以テ、騎術ノ名家、前後相腫タ輩出シ、進退周旋ノ注、足利氏ニ至リテ大ニ備レリ、而シテ諸家各流涙アジ、流振又支流アリ、大墫、八條、小笠原、内藤、上聽、荒水、佐々木等ノ講流アリ、諸家各、奘披ヲ競ヒタ、或ハ主ニ干メ或ハ門戸ヲ張リテ徒ニ授タ、面シテ足利氏以後ハ、將軍諸侯其ニ、毎年正月、乘馬始ノ式ヲ 行ヒ、德川氏ノ時ぶ、屡馬衞上覽ノ事アリ、殊二八代將軍吉宗ハ、其馬役ヲシテ和蘭人二就キタ、騎法及ビ療馬ノ術ヲ學バシメタリ、亦皆此術ヲ重ジ、其技ヲ獎勵スル所以ナリ、

名稱

〔名目抄〕

〈諸公事言説〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0692 乘尻

〔名目抄詳註〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0692 乘尻 馬ニノルヲ云

〔名目抄紬繹〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0692 乘尻
字義如何、看聞抄ニ、車ノコトニア野ト見エタルハ誤ナリ、乘尻ハ騎馬ト云噺同事ナルベシ、五月六日騎射ノ儀、諸次第抄ニ、乘尻ト記シタルヲ、延喜近衞府式ニハ騎馬トアリ、蓋車ヲ駕スルヨリ見レバ、聯馬ハ直ニ馬ノ背ニ乗ガ故ニ乘尻ト云カ、

〔海國兵談〕

〈十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0692 馬之飼立仕込樣附騎射之事
古昔乘尻の達者と云も、手綱に不便鞍にて押廻て、馬を自由自在に乗こなしたる事也、此故に乗尻と云なるべし、今は手綱の釣合を第一として乗故、乗手の上手と云べき歟、是小子〈○林子平〉が臆斷なり、

〔空穗物語〕

〈祭の使〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0692 左ののりじりは、右近のせうよりは玄めて、ものゝふらまで、いちもちをえらび、右ののりじ、りは、左近のそうまでえらび、〈○下略〉

〔古今著聞集〕

〈十五/宿執〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0692 高陽院にて競馬有けるに狛助信、のうじりに入にけり、

〔源平盛衰記〕

〈四十二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0692 屋島合戰附玉蟲立扇與一射煽事宗行、鞍ノ前輪ニ强ク取付テ鞭ヲ打、主モ究竟ノ乘尻也、馬モ實ニスグヤカ也、

〔書言字考節用集〕

〈五/肢體〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0692 桃尻

〔倭訓栞〕

〈前編三十三/毛〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0692 もゝじり 桃尻と書り、愚昧記、明衡往來、徒然草などに見えたり、皆馬に乗事にいへり、桃の實の、ろくにすわらぬをもてたとふる也、或説に、桃木は、三年めには必ず植變 るを佳とす、然らざれば枯る、もの也、よて一所に尻 のすわらぬを桃尻といふといへり、

〔雲州消息〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0693 昨日罷向祭使所、〈○中略〉帶刀某丸忽以落馬、所騎者駑駘也、是桃尻之所薮歟、

〔古事談〕

〈二/臣節〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0693 八條大將保忠、爲挑尻就前馬走出之間、落馬落冠及耻辱、

〔山槐記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0693 治承三年二月五日癸巳、帶刀御覽事云々、〈○中略〉康基〈帶刀之内也〉有逮申惡馬之氣、仍被乘之處落馬依動定重又騎又落、揚桃尻之高名云々、

〔長門本平家物語〕

〈八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0693 宮、〈○以仁王〉是を御覽じて、〈○中略〉御涙をうかませ給ひけり、此御方には三位入道〈○源賴政〉の勢、ならびに寺の惡僧、これかれつがふ、三百よきにて、醍醐路より南都へおもむかせ給ひけるが、御馬に合期せさせ給はで、寺と宇治己のあひだにて、六度まで御落馬あり、世の人挑尻とぞ申ける、

〔徒然草〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0693 御髓身秦重躬、北面の下野入道信願を落馬の赭ある人なり、能々つ、しみ給へといひけるを、いとまことしからず思ひけるに、信願馬より落て死にけり、道に長じぬる一言、祠のことしと人思へり、さていかなる相ぞと人の問ければ、きはめて桃尻にして、蒲艾の馬を好しかば、此相を臺ほせ侍ちき、いつかは申あやまうたることぞ云ける、

〔徒然草〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0693 或者子を法師になして、學問して因果の理をもしり、説經などして世わたるたづきともせよといひければ、をしへのまゝに説經師にならんために、先馬に乘ならひげ軋輿車もたぬ身の導師に請せられん時、馬などむかへにおこせたらんに、もゝ婁りにて落なんは、心うかるべしとおもひけり、〈○中略〉

〔馬道㨗徑秘傳集〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0693 馬に下乗、地乘、す乘、庭乘と云事有、下乘と云は、犬追物を射る前に乘を云、す乘と云は、久敷責ぬ馬などの、いれたるを乗を云、地乘萼云は、口のわろき馬を乘なほすを云庭乘と云は、馬堤芝の露をも、けさせ乗を云、

〔貞丈雜記〕

〈十三/馬〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0694 一馮に乗ると、馬を乗るご云に差別あり、馬に乘ると云は、常に馬乗る事也、馬を乘ると云は、馬の口をも星をも乘直すを云ふ也、

騎法

〔本朝軍器考〕

〈十二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0694 牛ヲ服ヒ馬ニ乘ルトイフ事ノ始ハサダカナラズ、日子邏祠、出雲國ヨリノボリ、倭國ニマサントテ、彎ジヒタタ戸時、片御手ハ御馬ノ鞍畿カケ、片御足ハ其御鐙ニフミイレテ歌作ラレシ事、古事記ニ見エタレバ、地祕ノ礒鞍鐙ナドイフ物ハ旣文アリケリ、

〔隨意録〕

〈七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0694 古言乘馬、非騎馬之饌易所謂乘馬班如、四馬爲槧、班如馬之別也、説者皆失其蟹矣、如皺牛乘馬之文、則亦謂胆麋之於車也、〈○中略〉後人謂乗馬以爲駿鐔者非古也、

〔安多武久路〕

〈仁〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0694 天神の御時馬靄でも、又地神の御時馬出でゝも、馬始て出たりし時こそ、乗事もはや始る事勿論也、〈○中略〉されども譬をはませ鞍を置、乘て遠くを行に用ゐしのみにて、手綱のあやつらにて、馬の口心を乘といふ事は、なかるべき事分明也、〈○中略〉夫をおもへば、踵代も人代のはじめも其通り成べし、〈○中略〉日本紀に第十二代景行天皇の紀に、艮本武尊、東夷征伐の櫛時、信濃の屬に入たまふに、山高く谷幽くして、馬頓譬してゆかずと有こそ勺すでに馬のらせ給ひし事は見えたり、それより人皇十六代應紳天皇の御代、良馬を我朝ヘ渡してこそ、聊と馬飼ひ乗脅事も分明になりたり、其後ニ十ニ代雄略天皇秋七月、〈○中略〉田邊麋伯孫と云者、譽田陵の下にて、馬乘ぐらべせし事もあれば其頃よりそろ〳〵馬足の邏早もためして、馬を愛せしと見えたり、夫よりして三十九代天智天皇の七年に、始めて多く牧をおかれ、馬を放ち給ひてより、馬は多くなうたり、又四十代天武天皇十三年の詔に、文武官の諸人、務て兵を用ゐ馬に乘事を習へり、〈○中略〉是より文武官どもに、馬ふんだんに成て、いよ〳〵馬を愛し乘ける事也、

〔一騎前意得〕

〈中〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0694 馬乗樣第二
貴人見物ノ方ヲ左ニ取テ、馬駑キヨセノレバ、其方へ尻ムカズ、〈○中略〉扮右ヨリ寄テ、右手ノ指ヲ腹 帶ヘ入レ、カゲンヲミル、肝ヨキハユルク、無肝ハツヨクシメべシ、手綱左ニトリ、右手面ガヒノ總、兩方共手綱ノ丙へ入ル、右手ウツムダ手綱ヲ拒チ、左手ノ手ノ内ニ持ソヘ、左手ハ手綱ノ眞中ヲ持テ、右手ヘ移シ、右手鹽手ノ所ニテ、上ハ取髮ヲフダコシ、下ハ足脇へフリサケ、鹽手持ソへ、左手鐙ノ舌先ニカケ、腰カヾダ、右足ノ指ヲソラシ、指先計淺ク鐙ニカケ、左手手形ヘ移シ、右膝ニテカ皮ヲ押付、其力ヲ以テ、フイト飛訟ス如クニマタグ、左手手綱ヲ持尹前輪ニツキ、右手スジヲ引出ジ、腰ヲ蘆シ、右手へ手絶ヲ移ジ、左手又袴ヲ直シ鞍ニスワル、前ヘカ、ルヲ草トシ、後へソルヲ眞断シ、中ヲ行トス、鐙ぶ大指ソトヘフミ出シ、四指内へマキゴム心ニ外八文字ニフム、或書ニ、鐙平ニフンダ不動攝ニフムべシ、指先ニカヲ丕付、跟ヲフミツケ前へラミ出シ、腹帶ノ棗タメ處ニ、シカ卜跟ヲ止テ動カサズ、是卽異朝ニテ、鐙ヲ腹攤ご結付テ、フムニ准ズトイへリ、扨手續饕キ比三握ヲ、露ヲ取ヲ、拳ヤハラカニ大指カ寧メ四指ハ爪ヲソロヘタフツクリト握戸ヲ、卵ヲ握戸手ノ内ト云、肩ヲ落シ、肱ヲ脇ヘ付テカヲ入、顔ハアフムカズ、夕ツムカズ、左右ヘ不傾、是タ四面ト云、物見ハ山閲ヨ夕二三間内外ヲ馬相應篇見渡ス、或書ニ、身鞍底乙滿テ、前後左右ヘカタヨラズ、四方ヨリ見テ正面ノ如クナ戸ヲ以タ、四面ノ鞍ト云フ、拳ガマへ、上下左右前後ナキヲ六法ト云、又拳ガマへ、左右ノ間六寸、拳ノ下取髮迄六寸、拳黝タ前輪迄六寸、是ヲ三六寸ノ曲尺トモ、六方トさ云、又云、左右前後肩拳、行攝ヲ揃ユルヲ四面六方ノ曲尺トモ云、〈○中略〉乘ジ出スニハ、奧齒タヒシメ、腹ハ夕肩落シ、股ニカヲ入レ、息ヲツメ、ハミ當ヲヲ考へ乘出セバ、ジバヘル馬モシヅマタ、重キ馬モンイ〳〵調子カ、ル、、隅ノ鱇、貴人見物ノ有ル方へマハヌベシ、土手溝堀等ノ方へマハサズ、小場ダ其方へ付エツケ樣、小場ノ方ノ居木ヘ尻股ヲ移ジ、ヒヅメち、前足瓣リ、韈ンヤ梦ト小場ツキ、三四分廻タ比ヨ夕艫節ヲミレバ馬乘手ノ體三グルリト付キマハル、モシ馬メ方攤夕肩ニテマハラシ争セバ、是非乙押ヘ、思フ通ニマハスベシ、隅ノ口ハ、シヅケ スル處也、上肝ハ長ク大キク諍ニマハシ、息ヲ得トツガス、無肝ハ、短クチヒサク激スル樣ニマハス、〈○中略〉 地道、肝ヨキハ六七返ニ及ビ、オモキ馬ハ三四返ニトヾマル、〈○中略〉地道シマヒ棄出シノ鹿へ戻り、少シヒサラシ、沓ヲハラヒ、隅マデハ小足ニ四ツ日ヲノリ、隅ノ口ヨリ小ノヲへ移ス、段段調子ヲカケ、三四返シ、中ヘウツシ、五六邏シテハ、ヤミヘウツシタ、六七逼ノルト云フ攝ニ、段ヲ付テノルヲ序破急ノ次第き云、或書、序破急ノ次第ハ、序ヲ三回六行、破ヲ三回六行、急ヲ三回六行、都合九回十八行ヲ以定注予シテ式正ノ時ノル也ト云ヘリ、〈○中略〉或簧ダク乘礒足ニカヲ入、乘下ヲスケ、後輪ニノリカケ、前懸夕ニ下口押ル樣ニ、諸引ヲシテ乘ベシ、オ口シニ行モ、足ニ力ヲ入レ、ノフ下ヲ少スケ、後輪ニ少ノヲカケ、前懸ニモナク、手綱常ノ如クカマヘ、諸引ヲシテノ戸べシ、カケノ鞍下ト同事トイへドモ、乘心少シ遠フ、ヲドリ足ハ、四所ニ足ヲタテヲドル、鞍跡ノ柚木ニスワワ、腰ヲ直ニ立タ、鐙ヨリ蹈タ、ソミナガシ、サノミ前輪ヲシメズシテ足ヲノジホドク、セマキ場ニテ、カケ折スエ、ツヾラヲリヲ乗タ足ヲキカスベシ、其後長場ニタセメ、日數ヲノレバ、躍足、千鳥足ニ移リ、千鳥足ハ、コビ足ニ移リ、程ナクノべ足ニ移ル也、 乘リジマヒノ隅ノ口ニ尹、手割リニシ、地邁へウツシ、一二返ノヲ、スミニテ蹴コミ、リユウゴヲ乘リ、又ケコミ、シザラシ、左右マハシ目ヲ見、又スざノ口ヲマハシ、ハシヲウケサシ、乘出シノ所迄戻ヅ、貴人見物ノ方へ尻ムケヌ檬ニオリル、左右ノ手綱、右手ニテヤリチガヒニ握リ、左手、霧ノ所右手へ一緖ニモチ、右手、鹽手ヲモチ、左手、前輪ヲ持タ下リ、手綱前輪品懸ク、上ジ下夕其、取髮モツコト、タシカナジドモ、馬取アラバ、法ノ通、上リ下ヲ共鹽手ヲモヅベシ、

〔家中竹馬記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0696 馬に乘賻は、先手綱を鞍つぼに打懸させて、弓を持滄時は、右の手に手綱を取て、其手を鞍の左の手形に懸て、左の手にて尻つ輪を押へて乗也、則袴のまちを前へ引なほし、さて手網を取也、弓を持詑る時は、弓杖をつく手に、手綱を取添て、左の手を手形に懸ても乗なち、又左の手 に手綱を取て、其手を手形に懸て、右は杖つきたる儘にても乘なり、軈て弓をこして手綱を取べし、弓はにぎうより五寸許上を持なり、弦は上へ成べし、口傳有之、

〔馬道㨗徑秘傳集〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0697 馬に可乘姿の事、鐙をば、ぞうとう〈○承鐙〉のゑゝに蹈付、鐙の鼻少ひらきて、足の大指を分て鐙の角を蹈べし、きびすは、舌先一はいにすちかひにふみて、踵より足のこうまで、馬をはさむやうにして後輪に乘居、腰より上は直成べし、膝つぼみたるは見にくきなり、えますべき也、馬をかけ出さん時ば、いかにも抱て、前輪に打か、るやうにして可出、顔持は遠く見るも惡し、餘に近きも惡し、馬の耳の間より一丈計さきを見れば、顔持能體也、腰より下は、五六を二本堀立たるがごとし、手綱取樣は、左右ながら大指と人さしゆびとの間へ取て、大指に懸て、手の内より四の指にて二重に可取、猶口傳あ参、小指と藥指の間より手綱出す也、手綱あひの事は、手綱取たるこぶしの間、可爲七入寸、但馬によるべし、手綱ゆとりの有も惡し、又つまりたるも惡し、ゆるゆると可取、但是も馬の口によるべきなり、こぶしは角かけて少うつぶけて、左右同道理也、ひらしりは、身よううしろへ出べからず、又身に付亢るも惡し、退たるも惡し、只見能樣に可在也、

〔貞丈雜記〕

〈十三/馬〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0697 一馬の乘入檬、其主意もわざも、古今大に違たり、今の乘入樣は、細長き馬場にて馬の足なみそろひ、馬上の人の身形美く調ひ、くせ馬もくせなきが如くみゆる樣にして、人の見物を專にして、下直なる馬を買て乗入て、高直に賣らんこおもふが、今世の馬乘の主意也、且馬の足なみは、地道、乘り、かけの三品より外はなし、細長き馬場にて、右の三品計り乘り入るゆへ、馬はそれのみ覺へて、外の事を知らぬゆへ、左右へ折返し〳〵乘廻り、俄に足をつかひかゆる事に馴ざるゆへ、馬上にて兵具を持ち振廻し、敵を左右前後へ追ひつかへしつする戰場のはたらき、拜に犬追物の時、犬のにぐるに從ひ追かけ、又檢見に聲をかけられて、俄に馬を乘すへ留る事はならぬ也、是馬の步み馴ざるが故也、古の乘入樣は、相廣の馬場〈たてよこ同じ廣さにする也〉にて、馬の足をさま〴〵 に乘入る也、古の足なみは、けみち〈合地道と云〉はしり〈今のりと云〉はやばしり〈今がけと云〉だく〳〵〈今だく足と云、今は、名のみ有て乘る人なし、たま〳〵あやまちてだくに出る事あり、〉かのこあし〈たくより乘入なり〉俄に足なみを乘かゆる事あり、手綱をはなして、馬上にて兵具をつかひ弓を射、左右前後へ乘廻し〳〵、敵を追つまくりつする事を專として、戰場の用に立べき事を主意とする也、されば常に犬追物をして、馬に足つかひを覺へ習はしける也、馬を賣べき爲にせず、足なみ馬上の身形を、人の見物にする事を主意とせず、今世の乘方戰場の用に立がたきゆへ、近、事軍馬といふ事をゑ出して、馬上にて兵具をつかふまねをすれども、甚ゑどけなき事にて、戰場の用に立べしとも見えず、元來武士の馬のるは、戰場に用んが爲なれば、別に軍馬と云事はあるまじき事なり、然るに別に軍馬こいふ事をこしらへ出したるは、おかしき事也、古の乘方の書にある乘方の繪圖を見て、狹く細長き馬場にては、古の如くの乘入はならぬ事を考へ知るべし、又馬にまへをとちするとて、足の筋を切るも有り、左樣の病足のかたわ物になりて、足のふみつく馬は、戰場の用にたゝず、まへを取るなどを好むは、人の爲の見物と賣事を專にする故也、

〔馬術傳書〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0698 馬に六の、心得有、鞍立をして、せざれば馬を挾て、はさまざれ、鐙を蹈て、蹈ざれ、腰にて乘て、のらざれ、口に當て、あたらざれ、手綱を引てびかぎれ、是は皆馬に依て可乘心得也、〈○中略〉
馬をのるに三所を切と云事有、手綱を取きれ、鐙を蹈きれ、上敷をゑききれとて、いつれも强かれと云心也、

〔騎立之卷〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0698 馬に乘て目付る所の事、馬め頭より二三間計、先に目を付而、はしる馬には、留る所に目を付而、切る馬には、切ぬ方の耳に目を付而、輪を乘時は、輪の内に目を付阨、又折返す時は、後足に目を付而、此外目付所口傳、

〔騎立之卷〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0698 馬をしづめる事、手綱にてしづめ、鐙にてしづめ、口にてしづめ、鞍にてしづめ、心にて しづめ、如此五衝をもつて、しづあたらんには、馬、おもひの儘に莱べき也、能々可心得也、足は口につれ、口は足につれるといふ事有、口傳、

〔大坪流馬書〕

〈武家名目/抄稿所引〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0699 六の心、又は八の心とも、たとへば坂をあぐるに、ぬかる時は前を敷べし、是一、坂をあぐるる懸る蒔は後を敷べし、是二つ、坂をくだすに、ぬかる時は後を敷べし、是三つ、坂を鎔うすに懸る時は、前を敷べし、是四つ、がけのうへをとほるに、ぬかる時は、山の方をかゝゆるなり、是五つ、がけのうへを、鸞ほるに、過る時は、がけのかたをかゝゆるなう、是六つ、山をおろして谷へおちくるとき、馬のはな、向の岸につく程にて、是を立てかぬるには横馬に直すべし、是七ツ、山を上て下すには、曲のなりを見て、つゞらをりに乗べき也、是八ツ、六ツの心、八ジの、心とは是なり、又つゞらをちに上おろす事、よの常の由にて、あつかひ也、がんぜきをおとす事は、よこたちてはわろし、

〔大坪流馬書〕

〈武家名目/抄稿所引〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0699 さゝ波にてす蚕ても、先あらけづらをする也、掃口やうやくたわやぎ候時分、尻引をめる、しり引とは、しさらかす事をいふ也、しさちかせば、馬以前のさゝ波のあら汐つちの後、かんなをかけで、すべらかになすがごとし、鶲君しらずを乘也、君芝らずとは、片手綱をいふ也、もち手綱にて乘れば、左右の手綱、何としても伺じやうなし、又貫だわやぐに隨ては、片手絶、口にあはせてよき也、譬へばかんなをかけたり窰いへ奘、むらあるをみがくがごとし、此君しらずめ手絶の取種は、手の内に、手綱を十交字にちがへて、爾の手綱を又一ちがひて、片手にてもてば、手のうちかけずしてよし、もちひきとは冷手綱わなにして、渡し羊綱のごとし、左右へもはり、もとよち手綱をもひきはる心して、馬の口をゆるさすして、瓣をよくか、ゆゐをいふなり、總じて馬の口をな添る事わうし、〈○中略〉又さゞ波をば、初はすりびきご名付しごぞ、君しらずも、初はゆる引と名狩、まよふらんを、始はまどひ引と名付たり、

〔家中竹馬記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0700 手綱をば一重に取たるが、ゐひの手綱よく乘らるゝ也、口傳有之、但馬に依て、大指に懸て二重に取て、常には用之、

〔大坪流馬書〕

〈武家名目/抄稿所引〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0700 三六寸之事、有口麌手綱の持樣之事、左右の手の相六寸、馬のしゆみゼ手の相六寸、前輪の上と手この相六寸に持べし、但是はくちよき馬によりての事也、口によりて、手綱がまへあるべく候、凡如此心得べき者也、

〔家中竹馬記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0700 馬に鞭を打事は犬追物には後を打、唯の時は、後を打は見にくきと也、左のひらくびを可打、また馬のまはうかぬるに、弓手めての後を打也、からす頭の邊をうつ事もあり、
河臥する馬をば、鞭にて耳の先を打はらふ樣に打也、梢の鞭と云、又時として尻ごみするをば、馬を折まはして、あら〳〵と乗て、扨みけんを竪ざまに鞭にて打て可乘出、又物をみて行かぬる時も、此鞭にて大かたは煩なし、あしく打ば、目を打事有、能々思ふべし、鞭も手綱も、種々盡期なき事にや、

〔貞丈雜記〕

〈十三/馬〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0700 一馬に鞭打事は、犬追物には後を打、只の時は後を打は見にくきこと也、左のひら首を可打、又馬のまはりかぬるに、弓手馬手の後を打也、からすかしらの邊を打事もありと、竹馬記に〈土岐伊豆守利綱の家記也、この書は永正八年の書也、〉見えたり、凡馬術の古書に、鞭の打所あまたあれども、今世の人は、打所をそらに覺えず、わすれたる歟、かけ足を乘る時、うしろを打計なり、

〔大坪流馬書〕

〈武家名目/抄稿所引〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0700 河臥之事、鞭有口蜃馬臥は、急ぎかうがいにても拔て、馬の耳の中へ、ふかふかとさし入よ、つらをうちふりて臥事を忘べし、又思よらず轉倒に、若し河にてふしたらば、いそぎおこす事なかれ、暫水の中におきて、耳へ水を入、馬を打てた、すべし、

〔貞丈雜記〕

〈十三/馬〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0700 一馬を乘るに、かくを入るといふ、其かくの字は角といふ字也、鐙のふちの四角なる所也、それにて馬の胴を打つゆゑ、かくと云也、古はかくを入るこいひしを、今はかくをあてる、 かくをくれるなどゝ云人あう、雲霞集に足の大ゆびをは蔘て、鐙のかくをふむべしとあう、かくとは鐙のふち也、ふむ所也、一説とにかくは脚の字也といへども、用べからず、角の字を用ゆべし、

〔大坪本流馬道秘書〕

〈馬敎〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0701 聲ジ敷ベシ、拜止學勸聲、能々敖べシ、是ハ聲ヲ以尹馬ヲ遘事、和漢ノ故實也、聲ヲ用ルノ法品ノ傳鷭、勵聾止聲合學、是ヲ軍馭ノ學也ト記セ又此ノ所こ説アハ、止學動學也、合學ハ、敎戸ニ及ズシテ死生ヲ決シ、間ニ不容長ノ場ニ合スタ聲ナル亨故ニ、馬ノ驚ニモ、勇篇拒、止アとモ、雖カ成ニモ、其所ニ只心躪カズ、則合セテ則生死ヲ合黴ノ學也、止聾勠聲ハ、其用ニ叶へタ是ヲナス事ナルガ故ニ、常ニ是ヲ仕込、手綱ヲ引ク抱へテ是ヲ止叉時ハ、動聲ヲ乙ソ響ニ是ヲカクテ、馬ヲ止メジクル也鞍ヲ張込、手綱ヲ打タ、鐙ヲ誘テ、甲ノ響ニ止聲ヲ掛テ、馬ヲ違マジメツクル事也、然ル時ハ馬ヨタ其薔ヲ聞知テ、動トイヘバ則止タ、止トイヘバ則進ム、手綱ヲ不用、鞍ヲ不用、鐙亨打ズシテ、鷓由ニ馬ノ動キ止梦居ルぶ、右止動ノ聲ヲ仕込ノ得ト知ベキモノ也、

〔鹿足之次第〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0701 かぐ足と云は、鹿の野原を走ごとく成を鹿足と名附、鹿の山野を走るごとくに、駒を乘立る己いふは、口にも足にも手綱にも不構、頭を高く、上はあげさせ、下はさげさせ、むら足を出さば出さ元駒の心にまかすべし、兎も角も馬に乘られて、乘手よりかぐ足を乗べからず、駒に足を出させ、手づなを長く其内に强口の方をば手を下げ、弱口の方、天に取、手銅をてれ立〳〵、鹿足をいかにも〳〵大きに、四足の爪のあぐとを地に踏付樣に、はなれ馬の飛かける如く成を角足と可心得、亦かぐ足と云事を不知而、諾足と名附る事は、九つの足並を不知、七並の足と計、心得ゆゑな蔘、諾足といふ時は、うなづぐと云心成べし、さも有は馬葺合て拍得の心有ゆゑに、則うなづく、依之駒のいまだ譬も不知、かぐ足に乘といふは、邪氣もなく、心からすなほに、いかにも角足を大きに乘付、其後鞍手綱の理詰を乘べし、駒は理詰をいやがり、皆別氣と成事、勿論なり、
可用鞍拘之事箭の灣木に居り、腰鐙を一文字に蹈張て、中好の口に引當て、手綱の匂ひ縮切、ゆり ほどき、千鳥喰を扱て可乘、かぐ足乘内に、馬の不知樣に、弱口の方よち頭をそど上て、千鳥喰を遣ふて、頭を中頭に上げぬるよと思はゞ、中の鞍よち跡へかゝ蔘、二三篇も乘、其後は又中頭を上頭に乘、讃平足に成、馬講合心よく行とおもふときは、跡の居木に居りて、右かぐ足を乗たる時の釣合にて、無油断漣を可乘、其内に馬ゑだるく成ときは、弱口の方を手前へ、なまりなく、さつと引切縮て、其跡は又漣を可乘、何れにても不拍子なる馬の分には、手まへゝさつと引切て、跡はさゞ波取合可乗なち、兎も角も馬の方より平足に移る所を待べし、萬曲乘、直になほるとき可直、なほらぬ時を直により、皆曲に移る也、大坪流に移りと云事、爲秘事間バ他流へ不可覆、若又鞭など打事あらば、三高の鞭、鼻の上菊坏の鞭、耳の根合の鞭、ゑらあひ肩骨掛て打べし、如是鞭數を責れば、かく足は、千鳥足に移ち、千鳥足は、運足に移り、はこび足は、延足に移る樣に乘べき事可困也、此等の乘模、稽古疎學にして不可笈、角足と云を略して、諾足と云心は、うなつく足といふ心なるによつて也、是も馬合點する所なれば、諾足と云事、尤寂歟、かぐ足乘には、弱口の方の力革を鐙共に筋かへ、内の柳葉を足の大指にて外へ蹈出し、内方の内股にて、前輪を活たると、筋かへ茫る鐙とをせき合て、先へ計、ひたと押出すべし、强口の方の鐙をば、外の柳葉を内へふみ、外の居木へ移りて、鞍鐙計にて前輪に掛立すかして、湯方を切ゑめ〳〵、弱方へはみを取、鞍に會尺をあらせて乘べき事、第一なう、委は有口傳もの也、
おろし足の次第 おろし足といふは、鞠などのはつむごとく、齣股を落し掛て步を云也、總じておろし足と云は、上足のいかにもはかを取足なり、驀を能足と申は、縦は拍子にて、後の足木すぐにしで、上も中成もおろし足に乘ぬれば、上後に成事在之時は、能足とは申也、然共荊股廣き馬なぎは、彌以廣く成事多かるべし、其時は跡足はおろし足に乘、前足は運足に乘時は、廣き前も狹くなるもの据、後足おろさせて前足は邂足に藁ぎいふ事、無傳受して難及事なら、爲秘事閲、此書に 不載、有臠傳、 亂足、片亂足、踊足、三疋の馬、何と鞍數錐乘と、口不定事有、其時は三つの足を捨て、おろし足に乗込みれば、馬の心口足和らぎ、納得七ぬる事有べし、諸心の手綱にて、おろ、し足を可粂歟、足に可用鞍拘の事、中の居木に乗、腰鐙を一文字鐙に立心に蹈張て、申好の口に引當、手綱の縮切ちを心當可乘、若又片おろし足に行事戸在、片おろしに行と云は、皆片瓣ゆゑの事なるべし、夫は强口の方より、片おろし足ふすものなり、其片おろし足に成時は、强方の口ふくとを、弱方へまける物也、おろし足乘内に、强廁の方へ、はみ拔るによう、拔るはみ、ふく古につれて片おろしには成を、此ときはみは口に、ふくとは街につれ、足はふくとにつれて、强方の灣、足先へ出る故、片おろし也、口ふく竃出し片おろしに往ん芒する藥さかひに、おろす方の居木に移りて、鐙を少前へ可蹈顰機にして、張方の居木に移りし鐙、少蹈出すと、翡鮗の方へはみを拔と、弱口を切縮てするとを一度に在べし、扨又鞭など打事在之は、天光の鞭、耳雙眼の上を掛て打べし、岩淸水の鞭肩先、如是段々乘候得ば、末は延足に移り、頭を猶も下べし、その頭を下ると、こし先を反させるとの味に、のび足とおろし足の乘棲、秘事あり、九つの足を乗といふも、畢覺は延足に移し度との事なり、延足に不得生馬は、百年雖乘不生得足なれば、延足に行事なし、然と云ども傳受を以て、見物の前、不斷の責馬の時も、乘納に馬毎を二三篇延足に乘といふ事あり、傳受に如斯の乘法、天器に納りし書の奧書に印たりしに依而、免印可之時より外、柳示に不可傳受者也、可駆、口傳有、 大坪式部大輔庵主慶秀、年八十四、五月六日、 村上加賀守永幸孫三郎入道沙金、年五十二、二月晦日、文明九年十月十日、齋藤備前入道芳違在判、

〔貞丈雜記〕

〈十三/馬〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0703 一うくつかしの事、乘馬方の事に云、うくつかし、だくくの事也云々、だくノ丶、今世だく足と云に同じ、按にうくとは乗尻の浮く也、つかとはつく也、尻にて鞍をつく也、しとはあしと云を路してしと云也、尻うきて鞍玉をつきかくる足と云ふ事也、足は馬の足也、多みやうを 云也、
一ねこあしの事、同書に云、ねこ足と云は、だく〳〵の樣に候て、猫のはしるやうなるべし、口傳有云々、
一つけずまひと云事、同書に云、付ずまひとは、乗蒔のけひくを申候、つくる馬とは、乘候人の方へよるを云也、一ツに人申事はわろく候云々、按につけとは、粂ちに寄る時、馬が乘人の方へ寄り付て乘せぬ也、すまひとは、乘りに寄るとき、馬がのきて乘せまじきぎする也、

〔安齋隨筆〕

〈後編七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0704 馬乗に走りと、早走と二つの名あり、走と云は、今世に云、ノリの事也、ノリとは、ヒヤウシに乘りてあゆむゆゑに云なるべし、古書に、ノリと云名はみえず、ハシリと云也、早走と云は、今世に云、カケの事也、古書には、ハヤバシリ鸞あり盛衰記第四十二繼信盛政孝養ノ條、黑キ馬ノチヒサかりけるが、早走う逸物也とあり、又古き騎書に、カケ足とも云、又足を出スこも云、行列に馬に乘を、馬を打と云、タヽク事には非ず、

〔家中竹馬記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0704 馬の髮を卷たるまゝ乘事、路攝也、内々にては不苦、晴の馬、笠懸、犬追物總じて公界へ出るには、髮をすき立て乘也、卷て置は、馬やにての事也、

〔出陣日記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0704 出陣の時は、馬のかみをぬきて、鹽水を吹て、かうがいにて兩方へわけて可誘、必かま繩をさすべし、白布にてうつべし、手つなも、かちんあさぎの中、一色にて、白を二丈〈○二丈恐誤字〉て染べし腹帶は二重腹帶耙るべし、馬に乗樣、手綱をかけて、弓杖つきて可乘、馬狂はゞ後にも弓を持べし馬前足左をふみ棗したる時可乘なり、例式は乗てゑさらかし、口をひきそろふるを、讖陣の時はゑさらかさずして、二三足乗出して左へ引可向、以後口をも足をもそろへ可い乘也、馬をば東竊頭に引立て可鬣時、則左へ折まはすなれば、まはす陦の方、不惡方をしちて引立置べし、

〔今川大雙紙〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0704 馬に付て式法之事 一はだ脊馬、乘るべき次第の事、鞍置馬同前也、右にて、同右のおもがいを取り、左に七はぐび中をおさへ、右の手をはなし、左の手の上をこして、わらは執りの髮を取ち、左の手を放して、おさへの本をおさへ乘るべし、手綱を左より請とるべし、是を一手二手萼云也、

〔家中竹馬記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0705 馬に乘時、馬の前をば通らぬこと也、後よちまはりて寄て乘べし、但始より馬の右の方に、有て、其儘寄て乘時は、樺もなき事也、

〔安齋隨筆〕

〈後編十四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0705 馬の乗ずまひする時、沓うつ體にてよう、足ををり、さし絶にてく、り乘るべし、秘中の、秘也、がんばと云、

〔貞丈雜記〕

〈十三/武藝〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0705 凡馬上にて、弓射叉は鋭大刀等をつかひ、叉は組打等をするに、すべて馬上の働に鞍を敷くに、常の如く體を鞍の上に兵一文字に藪たるは翳し、其蒔は左を前へすゝめ、右を後ろへゑりぞけずちかひに鞍をゑけば、鞍の上芝まりて强も、立すかさずして、ありのとわたりを鞍につけ、居鞍にし、右の如くすちかひに鞍を敷べし顔をば翼向に直に見べし、是享保年中、阿蘭陀國のケイヅルといふ馬の達人、齋藤三右衞門に相傳の秘事也、

〔甲子夜話〕

〈十六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0705 西洋人ノ著セル調馬ノ書アタ、騎法モサマ〴〵アル中ニ、乘ジ下リヲ一方ニ極メズ、左右ヨタス戸事也、イカニモ責用ナルベシ、今ノ如ク一方ヨリ騎タ認十ニ癖ツキ居バ、事ニ臨ンデ不都合ナルコトモアタヌベシ、〈休氏覺書抄出〉

〔甲陽軍鑑〕

〈十六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0705 一軍陣の馬、牽出して馬の前足の左の足のす、みたる時のう出すべき也、

〔病間長語〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0705 干戈の聞に、軍馬と云ふ乗ようの一種あるべきことなし、今の馬乘が、疉の上のもくろみにて、大攀の人情に合せて、こしらへたるものを、實に斯あらんと會して學こそうたてけれ、

〔徒然草〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0705 吉田ご申馬のりの申侍りしは、馬こ芒にこはきものなり、人のカあらそふべからずとゑるべし、のるべき馬をば先よく見て、つよき所よわき所を知べし、吠に轡鞍の具に、あやうきこ とやあるとみて、心にかざるとあらば、その馬をばすべかちず、この用意を忘れざるを馬乘とは申なり、これ秘藏のことなりと申き、

〔北條五代記〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0706 犬也入道弓馬に達者の事
秀康卿おほせけるは、關東侍慮、馬上にて邃者をはたらくよし聞及ぬ、さぞつよ馬を好みつらん、朝倉犬也〈○能登守〉承て、關東さふらひ、あながちつよき馬をもこのまず候、唯薗力に叶ひたる馬をもづはらさ乘候、愚老舊友に、伊藤兵庫助と申て、馬鍛練の勇士有しが、或時口ずさびに、大はたや大立物につよき馬このまん人は不覺なるべしとよみ候、馬下手のつよ馬このむをみては、馬にはのらで、馬にのらるゝと申候、むかし賴朝公御前に諸老候する砌、仰によつて各往事を語る所に、大庭平太景能、保元の合戰の事を語る、其間に申ていはく、勇士のゑゝめ用べき物は、弓矢の寸尺、騎馬の學びなり、鋲西八郎は莪朝無雙の弓矢の邏者たり、然ども弓箭の寸法を按ずるに、其涯分仁遏たるか壹三故は大炊御門の河原において熹鵡、八郎が弓手にあふ、八郎弓をひかん乞ほつす、鋲西よら拙給ふの間、騎馬の時、弓いさ丶か心にまかせざるか、景能は、東國において、よく馬になるゝ也ていれば、薊八郎が妻手に、はせめぐるの時、ことに相ちがふ、弓の下をこゆるにおよんぞ、身にあたるべぎの矢、ひざにあたらをはんぬ、此故實におよばずんば、耙ちまち命を失ふべきか、勇士はたゞ騎馬に達すべぎ事匙壯士等、耳の底にとゞむべし、老翁の説、嘲弄する事なかれといふ、當座みな甘心す、獪以御威の仰をかうぶると云々、されば治承の比ほひ、足利又太鑼忠綱、字治川をわたす時、よわき馬をば下てにたてつよきに水をふかせよ辻下知したるも、さも有べき事也、扮又佐々木梶原、生食、摺墨とやらんこいふ强馬にのり、宇治川の先陣仕たるもゆゝしかるべし、然丑ハ大河をわたすはまれ事、一得をおもひて、多失を忘るゝはおろかに候、むかしの人も、馬だんれん仕たるにや、武者繪などに、馬をとばせ走る間に、弓を引、矢をはなつと見えたり、それ馬に 乗て遠路を行は、足を休めん尢め、軍中にて乗は、馬上にて弓鎗を用に立んためなるが故に、むかし關東にて、戟場をいまだ蹈ざる若き者は、廣き野原へあまたともなひ出て、敵味方と人數をわかち、旗をさし、弓鋭長刀、おのれおのれが、えての逶具を以て馬に乘、馬のこゝろみんため、鐵炮をなぢし、矢さけびの學をあげて、おめきさわぐ時に、いさんですゝむ馬あり、おくれてゑさり、おどろきてよこへきるゝ馬あり、山へ乘上、岨のがけ違を舞、堀をとばせ、自由をは耙らく樣にと鍛練いたし、先陣にぬきんで、懸引達者をふるまひ、勝利えん事を專と嗜候、早雲、敏の二十一ケ條の内に、馬は下地をば達者に乘ならひて、用の手綱をば稽古せよとゑるせり、侍たる者、馬の口とらするは一代の不覺、假初の馬上にも、名利を忘れ、乘方を心掛け、大將たり琶いふ共、馬の口とらするをば、馬下手故か、弓馬の心がけなき人かと指をさし候、〈○中略〉馬鍛練の儀は、御前に候する、いにしへの傍輩奘、よく存る事にて候、御尋あるべしと申ければ、秀康卿聞召、犬也も若き比は、さぞ馬たんれんしつらん、むかしの面影を、そとまなんで見せよかしと仰な力、犬也承て、愚老七十に及び、馬上のふるまひ叶ひがたく候、然ども貴命辭し申に却て恐れあり、御遊興に、そといにしへをまなんで衞目に懸候べしゼ、用意の爲に私宅に歸る、秀康卿、御見物の亢め、馬場にゆかをかゝせ登らせ給ひ、諸侍芝の上になみ居たち、犬也、鶴毛の駒に、黑絲威の鎧著、星擊の上に頭巾あて、白袈裟をかけ、いぶせき山臥のすがたに出立、矢おひ弓持て、郎等一人めしぐし霞を提させ、馬に打乘て、御前近くしづ〳〵とあゆませ、軍陣に候、下馬御免と串もあへず、馬場を二三返はせめぐり、馬場のむかふに築地の有を、敵方とはるかににらんで、手綱を鞍の前輸に打かけ、ま瀧にて馬を乘、弓に矢をはけ、聾をかけ走るうちに、矢をニツ三ジはなち、扨弓をすて飛でおり、從が持たる鑓おつ取て、従が先立てにぐるを追かけ、從がとつて返せば我しちぞき、馬も心有にや、跡をゑだひ來るを、又うち乗て、いつさんにはじらせ、弓手妻手へ、鑓を自由自在にちらしはせ廻各を、秀康卿、御覽 有て、屬をおどろかし、御藏な、めならず、犬也、召にて有ぞとよびければ、馬をしづあ、近く乘よせ飛でおう、御前に候す、當蒔の御褒美として、刀に長刀さしそへくださる丶老後のおもひ出、是にしかじとぞ申ける、

〔續武將感狀記〕

〈九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0708 小笠原出雲守賴定ハ、遠江入邁心宗正鐵ノ孑ナタ、弓馬ノ藝ハ、本宗ノ右近大夫貞慶文隨テ、長時ノ蘊奧ヲ得タリ、永藤四年辛酉歲三月、小笠原長時、及ビ貞慶ト共ニ上京セシニ、久我通堅卿、弓馬ノ藝ヲ好マル、餘、小笠原一家ノモノヲ賞翫アリテ、コレヲ扶持セラレケ夕、然ルニ駿河國今川氏真ゐ許ヨリ、笹冊ト云名馬ヲ牽進セタルヲ、五畿内ニ乘人ナシトテ、モテアマシツダニヨリ、通堅獅、賴定ガ兄ノ刑部丞ニ乘ベキヨシ仰ラレタタ、刑部ノルベク恩テ、旣ニ庭ニ下立ントシケタヲ、長持制シタ云ヤウ、此馬ノ骨格、ヨノツ子ナラズ、御邊ノカニテ乘オフスベキ馬苦アラズ、誰カアルト一門中、見フタサレケルニ、賴定ツイ立テ白沙ニタチ、馬引ヨセ、ヒラリ峯打乘、一二返乘廻セバ、上京下京ノ武義ニ携ルホドノ亮、追々ニ馳集リ、五百餘人ニ及ベリ、何ナル勇士ナレバ、此馬ヲカホド芯メ乘ヤラム、人開業卜ハオモハレズト舌ヲ振ヲタゾ怖レ合リ、鶸定思ホド馳違テ、サテ馬ノ上ニテ弓オヅトヲ、態ト矢ヲバ矧ザ梦ケリ蒸ドモ弓手馬手押モヂリ碇素引シテ後、馬ヨフ飛下、槍ヲ握テ駈出レバ、馬モ續イテ馳ユクサマ、誠ちヨク調諫シタルガ如シ、邏堅卿ヲ初メ、一座ノ見物、目ヲ驚カシ、イツノ程ニ、賴定カクマデ馬ヲ莱覺シゾ噺尋レバ、賴定ガ答ルヤウ、九郎判官ノ一谷ヲ落尹レケルトギ、馬瓢乗ニハ、一ツ心、二ブ手綱、三ス鞭、四ニ鐙ト云義バアレドモ、所詮心ヲ以テ乗モノゾ、若キ殿原ハ、見モ習へ乘モ忽へ、義經ガ馬ノ立ヤウヲ本ニセヨト敎訓セラダシト聞保チタ候ヘバ、一篇心ヲ以テ乘テコソ候ナレ、實ニモ九郎判官ノ綿越ヲバ、イツカハ乘習ヒ蕘フべキ、誠ニ心バカリ、萬ノ師範トシテ晤カラヌモノハ無ナリト語ケルトカヤ、

〔甲子夜話〕

〈二十九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0709 笠懸ヲ乘ルニ ハ、鹿子足ナザ、然ルニコノ乘方、絶テ知レズ、小笠原氏ノ傳ニモ岑ハ知レズト聞ク、又高崎侯ノ家ノ騎法ニモ絶タリト故豐州ノ〈予ガ婿ナリ〉語リシナリ、サテ德廟ノ頃カ、御馬乘齋藤三右衞門ト羹シハ、鹿子足ヲ仕コムコト上手ニテ、善ク乘シト云タ、是モ人傳ノミニテ、親ク見聞セシ人ハ非ズ、又コノ三右衞門ハ達人ニシタ、棒乘ト稱シテ、馬場ノ中ニ步行人ノ目通ニ棒ヲ横タヘ持セ、ノリ足ニ馬ヲノリ行キ、棒ノ所ニイタルト乃棒ヲ飛越サセテ乘リ過ギタ梦黏ゾ、イカニモ達人ノ術トコソ思ハルレ、

流派及免狀

〔武藝小傳〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0709 馬術
馭法者、本邦薗在古而爲武事始、故其法之傳授有諸家、京都蒋軍家末、天下大亂、諸家各失家蜃偶僅存者、小笠原家馬備而巳、故諸士皆因之、大坪慶秀、抹誇士諭得精妙、八條江州、悟微妙緖、各皆建一家蜑方今之世、謂馬藝渚、不外天坪八條、故以大坪八條一爲騎法中興祖、

〔大坪本流馬道秘書〕

〈馬敎〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0709 流外トイヘルハ、大坪八條、小笠原、内藤ノ外ヲ指テ、流外トハ云事也、大凡諸流ノ出豕ルハ、正保以來ノ事也、中古ニ大和流、高麗流トテ、ニ出タレドモ、是ハ皆四流ノ内ヨヲシテ出タルモノ也、其外ハ皆賎者己ガ名利ノタメニ編ルモノニシテ、一大事ノ其功ヲ不知、〈○中略〉義家ノ先キ十年後三年ノ戰ニ、能馬ノ事ヲ味緣知タ、此鹿島ノ祠慱ヲ含、一貫簡手綱馭馬本紀ヲ深ク心得テ、靜代ニ及ンデ武ヲ忘ザル事ヲ思召テ、此法式ヲ編ルモノ也、故ニ奪師盡家公ノハカ夕玉フ常法トハ記セルモノナリ、

〔安多武久路〕

〈仁〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0709 或人問ひ給ふは、馬乗習ふに高麗流といふあり、又高麗目録こいふもあるは、いかなる事ぞと云、書俊答て云、高麗流といふ事、不旁明なれどもかれこれあはせて考ふるに、日本紀應脚天皇の記紀、百濟王より阿直岐といふものに添て、良馬二匹を奉りし晴、脛の坂の上に御厩を建て、すなはち阿直岐を司として飼ひ養せ給ふ也、此阿直岐といふものは、百濟王の貢なれど も、同國なれば人馬ともに高麗國のものにて有けんも知れず、されば其馬をよく乘けるゆゑ、其比の大臣公卿、阿直岐に其馬粂べきやうを尋ね習、書集給ひて後、高麗の阿直岐がつたへし事なればとて、則高麗流と號し後の人叉夫を本として、段々乘こ、うみて、了簡をくわへて馬書とゑたるべし、文德天皇の皇子の能有親王、弓馬の藝に達し給ひて、受慱へられし射藝馬藝、彼阿直岐が敎へし馬乘やうの書慱も、殘らず聟君貞純親王へ傳へ給ひし事なるゆゑ、扨こそ源氏の嫡流へつたはらし也、中にも八幡太郎殿、新羅三郎殿、ことに弓馬の藝をこのみ給ふ、すなはち其すゑなれば武田小笠原の人々までも受つたはり給ふにや、すでに此人々は、代々信濃國を領して、牧多き馬所なれば、いよ〳〵馬の乘仕込は、かたの如くこゝろみ覺え給ひしなるべし、ゑかるを中比の小笠原殿よう、八條家、鹿島家、内藤家などきこえし人々へも、高麗流の書のうちを減じて、目、録書にしてつたへられしと見えたり、是らをば高麗目録と云歟、さればこそ小笠原淨元より上原石鹿に傳へられし系傳、又は鹿島〈後大坪ト改タム〉家にありし系慱も其おもむきは、たいがい似たる事也、是をおもへば當時の馬藝も、高らい流より出し事なれざも、代の末になりて、高麗流も目録も、さまみ丶心得違となりたるべし、壽俊、所持の高麗流の馬書は、文明前後の小笠原殿の筆跡にて、ことにまめやかに記して、則高麗流と書付ある也、高麗目録ごは記してはなし、

〔大坪本流要馬秘極之卷〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0710 春生軒齋藤定易撰
當流宗師 日本武尊
迎來流 貞純親王
鹿島流 八幡太郎義家六條判官爲義、湯山入道中原玄性、
大岼流 大怦式部大輔廣秀、村上如賀守永幸、齋藤備前守國忠、齋藤安藝守好玄、齋藤備後守忠支、齋藤騫宮頭辰遠、丹州住信了慶坊、齋藤求馬助辰光、 大坪本流 齋藤主税定易、飯野端立恒忠、飯野彦作恒直、土岐丹弐郎賴盡、

〔類聚名物考〕

〈武藝三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0711 貞純親王を迎來流として出せるが如きは、强たるの甚しきもの、書に見え し事にや、八幡太郎を鹿島流といへるが如き、是又いぶかしき事のみ、V 武藝小傳

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0711 大坪式部大輔慶秀
大坪式部大輔慶秀者、〈或廣秀〉上總人也、始號孫三麗又日左京幽是仕需軍義滿公及義持公善取、後薙髮而號遒禪、亦能作鞍鐙、一日赴常陸、而斬鹿島祠、夢中得鞍鐙曲尺、謂之夢想鞍、秘而不許人、可謂道禪者、鹿島大紳之眞弟也、故終稱直弟入道、授鞍鐙曲尺於畠山中務入道、畠山叉授之伊勢氏、伊勢氏數代傳之、今謂作鞍鐙爲工之最よ自古達馬術者多、然如違禪者、未聞之、可謂古今獨步也、遊其門者若干、傑出者、村上加賀守永幸、三條殿、浦松殿、畠山宮内大輔、同中務少輔、濺掃部助、細川右京大夫、朝日三据左衞門、長次郎左衞門、熊谷近江入道、同左京亮、圖明坊兼宗、齋藤備鸛守、同備後守、同八郎左衞門、須田新左衞門、井瓣次鄰左衞門、土肥能登守、增位掃部助等也、傳書日、大岼式部大輔庵主慶秀、五月十八日死、八十四歲、

〔岩波氏馭馬調息傳統系譜〕

〈古今要覽/稿所引〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0711 小笠原左京大夫長淸まり正嫡七代是を博ふ、所謂彈正少弼長經、兵庫助長忠、大膳大夫長政、治部大輔長氏、右馬頭宗長、信濃守貞宗信濃守政長に至れう、粤に康安年間、上總の州に、閊崎孫三部直道といふ人あち、其租某、上總の國に配流せられしよ参爰に住居す、直道、馭馬の術に志深き故に、常州鹿島の祈に三七日參籠して、肺助を衝るといへども、いまだ心の如くならざれば、再び三七日籠ちて靈夢を得たり、祠の鬢に任せて、加州白山の肺に一七日參籠し、滿願の日に至て、一人の老僂に逢ふ、信の日、汝何の故に參籠するや、直道、旨趣を語れば僂其志の吻なるを戚じて云、信州に小笠原信濃守政長といふ人あり、此人に隨て其道を學ぶべしと、直道、其敢に任せ、信州に赴きけれども、所緣なき故に馬飼となり、カを竭して仕ふる事年 有、一日政長、厩に來りて、直道が學動の人に異なるを奇しみ、其由緣を問、其志を戚じ、馭人に取建、馭馬の秘術、悉く傳へて其妙を得たり、誠に此道堪能の人なり、應永のはじめ、政長の嫡兵庫頭長基、京師に至る時、直秀〈直道、此時直秀と改、〉を相具して、鹿苑院義滿公に謁奉り直秀が事を上聞に達しければ、義滿公大に戚じ給ひ、直秀を召て大怦左京亮に任じ、則御師範となれり、〈後式部大輔に任す〉

〔諸家系圖纂〕

〈十二/伊勢〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0712 盛繼 貞繼 貞信
貞長〈自大坪道禪乘馬之秘訣鞍鐙之寸法相傳〉
貞行

〔諸家系譜續編〕

〈六/伊勢〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0712 賴繼 貞繼〈伊勢伊勢守〉
大坪道禪ハ、鎌倉人也、能作馬鞍、人呼良工、此時貞纏、自道禪傳妙工、亦能作鞍、
貞信 貞行 貞長〈因幡守〉爲御供衆列バ蒙仰傳作鞍工於祀父貞信、從是貞長、爲作鞍工正流、
○按ズルニ、二系圖ノ傳フル所、自ラ異ナリ、未ダ何レカ是ナルヲ知ラズ、姑ク記シテ後考ヲ俟ツ、

〔安齋隨筆〕

〈後編十三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0712 馬方百首歌作者の事
此百首は、大坪式部大輔慶秀ノ敖詠也、慶秀始の名は村上某、〈信濃國在名也〉故有て常陸國鹿島に住す、男子を生ず、則在名を呼て鹿島孫三郎慶秀こいふ、慶秀、本國信濃國へ歸て、小笠原殿を師こして、高麗目録馬藝を慱授、乘馬甚堪能也、鹿島孫三郎と云ひし時、相傳の者は、鹿島流と稱す、壯年の後、村上左京亮と改む、永祿の比、三河岡崎の内、大坪と云處に住す、大泙式部大輔慶秀と改名す、入道して道禪と云、

〔安多武久路〕

〈仁〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0712 或人の云、今代に開板せしものに、大坪慶秀といふ者は、將軍義滿公へ、馬藝を御 相傳申せしと云事を記す、又齋藤定易といふものゝ語りしは、光源院義輝公へ、馬げい御相縛せし由を云、いつれを實とせんと問ふ、壽俊答て云、大坪入道が事、正記實録に見えず、其説獪いぶかしき事也、すでに大岼が馬げいの弟子に齋藤國忠と云者、大岼死去の比、受傳へし事どもを書集めたる己いふ物を、上田重秀と云者が自筆に寫せしものに、大坪死去の日、五月十八日とありて、年號はなし、其書の末に文明十年と有、これにて考ふれば、義滿公、征夷大將軍にならせ給ふ比より、文明十年まで百十一二年にもなりぬべし、又定易が云、大岼は、義輝公へ馬げい相傳の事、いよくこゝろへぬ事也、すでによしてる公は、天文四五年の比誕生にて、永祿八年に薨去し給ふ也、かの國忠が記せし文明十年より考ふれば、五十八九年すぎて、天文といふ年號はありし也、かれこれ以、時代ことの外相達せり、其上國忠がゑるせしに、大岼が馬げい相樽の人數も有、將軍家へ御相傳の事は見えず、扨又朝倉政元、傳來のくら作りの書付に、大坪入道は、文安五年上洛して、公方義政公、十四歲の御時御目見、入道時に八十三歲と記してあるを考ふれば、かの國忠が書付と、年來も、馬げいならひし人々の姓名時代も、あひぬるやう也、但し是にも將軍家へ御師範の事は所見なし、

〔寬永諸家系譜傳〕

〈八十八/小笠原〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0713 長淸 長經 長忠
長政 長氏 宗長 貞宗
後醍醐天皇の御宇、つねに參内して、馬を丹堤にはしらしめ射を金門にこゝうみて、名譽をあげ、御師範こなる、あるとき帝南殿に出御ありし時、貞宗馬上にして、その藝をならはしたまふ時、御手を鞍の上にかけられ、鞍のうちの秘傳、叡戚せしめたまふ、家門の面目、なにごとかこれにしかんや、愚身の冥慮、天のおそれはかりがたきよし、貞宗謹て申と云々、 攻長
將軍尊氏卿、ならびに義詮卿の師範として武士の定式となる、
尊氏卿入洛の時、武者所となりて、弓馬の注襪をしめす、諸軍こと〴〵くこれに應ず、
長基
將軍義蒲公の師範なり

〔武藝小傳〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0714 村上如賀守永幸
村上加賀守永幸者、始日孫三郎、從大坪道禪、練習有年、終聳其宗、後薙髮而號穗蚕從へ水幸學馭者許多、遊佐河内入道、同孫左衞門、齋藤因幡守、同次郎左衞門、同式部丞、同備前守、同備後守、忍定寺七郎左衞門、用瀨四郎左衞門、菱本三郎左衞門等傑出、傳書曰、村上加賀守、二月晦日死、五十二歲、法名德全、

〔武藝小傳〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0714 齋藤安藝守好支
齋藤安藝守好玄者、提齋藤縮前守芳運、轟馬藝之慱賑、芳連入道者、得村上加賀守永幸之傳、雖大坪之支流多、皆以好支爲中興之翼也、或曰、好玄者、能蝌熊本城主、真隣國鬪兩不能禦之、邃邏而漂泊、後死於荒木元債之宅、
大坪道驒より安藝守に至て、系連僅書に俵てたがひあり、大鹽不存忠直と云人あり、大西木工助吉久が門人バ守能圖書長成にゑたがうて宗を得たり、此人の傳書には大坪慶秀、村土加賀守永幸、齋藤兵庫允躑忠、小笠原備前守種盛、齋藤伊豆守法蓮佐々木奎昂大夫義賢、中村孫兵衞善佐、大西木工助吉久とあり、上田樽書、荒本傳書仁は、齋藤兵庫允國忠、小笠原備前守種盛は見えず、齋藤伊豆守法運を備前入遘芳運と上田慱書にあち、又一善には芳連を法連と譬たり、佐々木義賢は、齋藤安藝守好玄が傳を相續とあれば、大鹽が慱書には好玄をおとせるか、

〔賤のをだ卷〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0715 馬は齋藤靑人、〈俗名主税、蓊(森山孝惑)が九ツ十計の時死したり、〉白高くて世に鳴たり、元來鹿島の神庫より古の馬書を申出して、段々潤色して五敬にわかち、〈常敬、相敬、禮敬、軍敬、醫敬、〉一敬濟たるを免許とし五敬濟たるを印可とす、靑人、名人にて、百馬の圖を改るとて、四ツ谷へ三年移宿したりといへり、〈四ツ谷は小荷駄の多く通る所也〉一生の内、落馬四十八度、門弟三千人有て、世上にて馬孔子といへり、〈實は千五百人也〉大名高家貴賤ともに、其頃彼門人ならぬはなかりけり、翁は弟子の主税が門人也けり、〈後ゑろ人といふ、流儀は大坪本流といふ、〉其頃は世もよくて、齋藤が稽古始こいへば、大造なる事にて、例年二月朔日也しが、〈始は木挽町馬場と三番町馬場と、兩方にて稽古を立たり、後木挽町計になり、彼所御用地に成て、あたご下馬場にて稽古あり、〉大身小身弟子申合て我も〳〵と馬場の兩頰に、銘銘幕を張、棧敷をかまへ、にしめ蒸籠酒肴は申に不及、棧敷にて取廣げ、にぎやかなる事也けり、初、は花乘とて、去年免許とりたる弟子一人、必一騎先をわたす、〈地道二へん、のり十一へん、納の地道一へん、〉夫より免許假策、〈中免なり〉平の弟子、順々に殘らず乘馬終て、扮主税自身軍敬をしたる錦の小手をさし、伊達なる襷をかけて、三所に步行達の打大刀をたて、小大刀、大大刀、鎗、長刀、組打、弓の扱ひ迄をして相濟て、達者なる門弟思ひくに一さんを馳て仕廻たり、花やかなる事にて晶肥見物也けり〈○中略〉
靑人は、御家〈○德川氏〉の望み不叶して、子の主税代に、黑田家へ出て用ゐられ、其子の五六郎は、馬術を止めて用人を勤む、馬術は常人とて、若黨ありしが、志有ものにて、晝夜馬術を精出して、後は稽古をゆづられ、師を立て森川紀伊守家の馬術師に成て、ゑろ人の門人數多隨從して、時めき步行たり、奇特なるものなりけり、

〔寬政重修諸家譜〕

〈八百三十八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0715 荒木元淸、志摩入道號安志、同族攝津守村重に屬して戰功あり、攝津國花隈城に住し一万八千石を領す、天正八年三月、花隈落城のゝち、豐臣太閤につかへ、關白秀次、事ゐるのとき遠流に處せらる、太閤薨じて後、京師に住す、元淸、馬術を齋藤安藝守某に學び、頗其術に達す、世に荒木流と稱す、慶長十五年五月二十三日、彼地において死す、年七十五、法名安志、

〔武藝小傳〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0716 荒木志摩守元淸
荒木志塵守藤原元淸素、攝州人、荒木羈津守村重一族也、攻城野戰之功多、後改安志、嘗習馬藝於齋藤安藝守好玄得其秀、其子十左衞門元滿、繼箕裘書、大鳴世、爲台德大君師、而芳譽編四海、其子十左衞門元政、籤其藝而有豬妙之名、世人推貝荒木流、V 武藝小傳

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0716 上田但馬守重秀
上田但馬守源重秀者、従痂川左鵆門佐康政、得大蟀之蜃康政者、習騎法於齋藤安藝守好玄而得其宗、重秀後仕富田信濃守信高、其乎丹波守重國、其子吉之丞重時、代々傳箕裘薯、大揚家聲、慶長年中、富田信高、籠於勢州津城蒔重時、軍功拔群也、至今稱之、後仕阿波侍從、其子半平安重、其子吉之丞重昌相續在阿州笹人推日上田流、其名偏日域、〈有上田丹右喬門重順者、半平安重弟也、仕甲府少將柳澤吉保、〉

〔武藝小傳〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0716 佐々木左京大夫萎賢
佐々木左京大夫源盡賢者、近江守氏痂之弟、彈正少弼定賴之子、而代々相續、而居江州觀言寺城、領江南數郡、義賢好馬藝而差尸馭、後從齋藤安藝守好玄得其宗近世担馬術鴨世者、多以義賢爵宗師、有中村孫兵衞善佐者、繼義賢之傳爲精妙ジ在中村之門着數人大西木工助吉久、〈後號川齋、或作仙、〉拔於數人吉久或作毳續或義次、至今吉久之末流在諸州誰担佐々木流、

〔安齋隨筆〕

〈後編十四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0716 八條流馬墓 上杉彈正少弼藤原朝臣四代後胤、八條修理亮濔朝は、左右なき馬の上手也、此流を八條流さ云、世に公家の八條殿に、馬の上手おはしまして、此ながれをくむものを八條流といふはあやまりなり、

〔諸家系譜後編〕

〈四十三/上杉〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0716 重顯〈上杉修理允夫〉 朝定〈上杉彊正忠〉
朝顯〈八條印務少輔俗稱丹波上杉〉 滿朝〈八條修理亮馬術八條流祖〉

〔鹽尻〕

〈十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0716 馬藝に八條流といふは、八篠修理亮房重より始れり、天正年中の人なり、〈按此外要心流と云業耋有之候哉、〉 〈曾我物語に、要心流に、のつがりとあり、或日要心流綴、攤八條流也と云々、〉

〔曾我物語〕

〈八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0717 ふじのゝかりばへの事
かさいの六郎きよ亥げ、〈○中略〉おもはぬがんぜきにむまをのりかけて、〈○中略〉たづなを玄つかにとり、とねりなしをむすびおき、かゞみのむちをうちそへて、ニつ一つのすてたづな、むくんりうにおちかゝち、はなせばうしろにおりたつたう、むまはたづなをすてられて、まさごにつれておちてゆく、

〔安齋叢書〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0717 曾我物語の内にて、〈○中略〉むくんりうとは、俗に今、自己流、我流など、云流に同じ、むくんりうは、無空流なるべし、無二無三虚空になうて蠹たらくなるべし、
○按ズルニ、上文鹽尻ニ引ケル曾我物語ノ文疑フベシ、或ハ此ノむくんりうヲ誤リテ、要心流トセシニヤアラン、

〔武藝小傳〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0717 八條近江守房繁
八條近江守源房繁者、東園人也得馬藝之紳妙、中興以來、雖達馬藝者表未聞精妙如房繁責故今爲之宗顫八條六郎朝繁、轟箕裘藝氏家參河守高繼、遊朝繁之門變其統蓍袋監物高胤、受箕傳、君袋出雲守隆胤、担續其藝、後赴奧型遊隆胤之門藩多、篠原織部正淸、出其衆、以馬藝其名著、
出羽人山上主水樽言日、八條房繁ハ、小笠原家ノ馬術ヲ習フ、是貞純親王ヨリ代々相續ノ馬藝也云々、

〔諸家系圖纂〕

〈十五/上杉〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0717 重顯 朝定〈揮正少弼〉 朝顯 滿朝房藤 房繁〈修理亮馬一流開基也〉

〔安齋隨筆〕

〈後編三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0717 馬術傳家直鞍流 神當流 碑尾織部吉久〈直鞍神常二流始祖〉
小野常吉政觀 村松四兵衞歲久
渡邊勝兵衞尉良 松田傳兵衞政名
村松四兵衛歲堅 村松太郎兵衞歲直
村松四兵衛歲廣
安藤久太郎
多賀外記常昭
近授流〈有馬一學傳也〉と云、馬術の流あり、木馬にては氣を敎ゆ、生馬にては乘方を敎ゆ、

〔大坪本流馬道秘書〕

〈禮術〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0718 免許ノ儀式ハ、荒筵ヲ敷テ壇ヲ飾リ、壇上ノ中ニハ、白和布ヲ建、同其左右ニ師弟ノ策ヲ建戸也、勿論免狀書物等壇上ニ置也、燈明ヲ壇ノ左右ニ建、具物ヲ備へ、洗米土器ニ入テ、公卿ノ膳ニ鬱べシ、御酒ハ瓶子ニ入テ一饗、鯛一掛、餅七備へ、何レモ公卿ノ膳ニ載、皆敷ちハ柏ノ葉ヲ三枚ヅ、敷ナリ、担柏手ヲ拍タ、天照皇大神宮、灣蘰讀尊、大己貴尊、保食稗、熱田大明神、八幡大神宮、鹿島大明棘ト神下シテ、血脈之卷、神代之馬法ヲ口讀スベシ、其後三種ノ肴ヲ以テ酒ヲ呑べキナリ、于時免継菟策ヲ渡ス、拜ニ神約血印ヲ返スべシ、右之儀式、猶以タ口傳多シ、印可ノ時モ、家術傳受ノ節モ、儀式右同斷也、
琵許報禮之事、前ノ儀式經テ、若シハ則刻、若シハ當自、其賀ヲ師ニ報運スベシ、天子公方ハ、砂金千雨、靑銅千貫、白米千石、鷲ノ芻千尻、白布千反、眞大刀、鞍置馬ヲ引べシ、公卿大名一國一城ノ面々蕗、砂金百兩、靑銅百實、白米百石、鷲ノ羽百尻、白布百端具大刀、鞍澄馬ヲ引ベシ、小名ノ輩ハ、砂金十兩、菁銅十實、白米十石、鷲ノ羽十尻、白布十端、真大刀ヘ鞍羅馬ヲ引ベシ、平侍ハ、大刀馬代樽肴ニテ、免許ノ鱧ヲ藪ムベキ者也、

〔常山紀談〕

〈二十二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0719 大坂五月〈○元和元年〉七日の軍に、水野隼人正〈○勝成〉が組の松平助十郎秀信、今日の一番は、他人に先を蒐けさすべから争と云、水野多宮、口廣き事な云そ、讃か汝に劣らんと爭ふ、助十郎、各能く聞れよ、今度傳輩第一番の馬は我馬なり、上田吉之丞が弟子にて、馭は免許印可まで極めたれば、我一番の馬に乘、乘方は一番の上手、心は一番と思ひ極たれば、誰か先を肇ふ者の有べき己云しが、果して一番に乘出し、敵に向て討死しけり、

〔基煕公記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0719 元祿十五年六月廿二日壬申、馭馬術、井馭馬本事、今日仲政逕菟許、微細合磚授了、此者尤紳妙之者也、抑馭馬之事、慥後法興院殿〈○近衞政家〉以來、代々被脅此術バ故馭馬之書物等多傳來、然而含日所習其術、委細越先々秘藏之事也、

〔基煕公記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0719 元祿十六年三月十二日丁巳、違光院男腸慶坊、〈十三歲〉今日馭馬事、爲余弟壬爲覦義大刀折紙〈銀十兩〉肴一種進之、卽蓮祈文如此、
從頴白基煕蚕馭馬井馭馬之本、御傳受被遊丁候了、不可命他見他言、不守帥文著ハ、可蒙天帥地祗之冥罰者也、拓誓如件、
元祿十六癸未三月十二日 〈陽慶坊〉賴次〈判〉
佐竹右近殿
御披露

練習

〔日本書紀〕

〈二十九/天武〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0719 十三年閏四月丙戌、詔曰、凡政要鬣、軍事也、是以文武官諸人、務聟用兵及乗馬莇馬兵幷當身装束之物、務具儲足、

〔延喜式〕

〈四十八/左右馬〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0719 凡頭巳下史生已上、聽騎用放爾御馬各一匹、

〔北條早雲廿一箇條〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0719 奉公のすきには、馬を乘ならふべし、下地を達者に乘ならひて、用のたづな以下は稽古すべき也、

〔享保集成絲綸録〕

〈十九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0720 正保三〈戌〉年六月
於高田馬揚乘候事、幷水稽古之事、近頃令懈怠之由被聞召之、無油篳可相嗜之旨、其組々江可相達之旨、諸番頭招殿虫老中被述之、

〔安多武久路〕

〈仁〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0720 或人の云、馬藝をけいこせんと思ふ心得は、いかゞすべき哉と問ふ、壽俊答て云、凡馬げいを習ひ給ふには、二品も三品も有事なれば、面々の道々に付てならひ給ふべし、其品々と云は、先我朝の古代、上親王より攝政闘白以下の公卿にも、無雙の馬乘多くましませし事は、諸家の記録に分明也、まして東國武家の面々、達者にのらざるはなかりし事も又分明なり、さればむかしは馬藝をする芝云に至ては、走をよく乘り、騎射を能するをこそ堪能とは云し也、此走といふは、追ひはしるといふ義にて、おそくもはやくも、はしらする事也、〈○中略〉扨又主人より乘用の馬を預りし者の馬藝は、第一馬の口趣、目利、足次、曲直、仕込、病煩、養飼にいたるまで、馬一疋分の事、少しもかけては叶ふまじきにて、事品多し、此手段も上古の風俗を專一にして、今の俗に引あて、けいこする心得肝要也、古語にも以書御者、不盡馬之蜻と云事あり、

〔嬉遊笑覽〕

〈四/武事〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0720 せめ馬、〈借馬〉色音論に、やう〳〵ゆけば、こくちやうの、末はばくろ町こかや、さぶらひあまたうちつれて云々、みなせめ馬と打見えて、かけ足、ぢみち、一りうの手綱のひみつ、鞭のきよく、心の儘に乘つれて云々、馬を乘ならすを責るといふ、

〔家中竹馬記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0720 馬をせむる時は、必鞭をさすべし、用あらばぬきて持べし、

〔一話一言〕

〈二十一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0720 武備和訓抄
一馬を乘に故實を專こし、馬上うつくしく手綱のかゝりより、鞍がゝへ、鐙の蹴出し、隅の手綱等、各大泙氏、荒木氏抔の規模に傚て、拍子を乘る事尤然なり、武人必其分にて、騎乘の道たりぬと思ふべからず、諸邦みな馬を乘ども、其國々家々の風儀ありて、同じ大岼流にても、大に異なる事あ り、唯うつくしく碁盤の面のことき馬場を、地道三四返、速道十返ばかりにて、我も馬も少汗かく程にて乘間よく度々乗るは馬の爲にも藥となり莪も勞ずしてよけれども、〈覃云、徠翁所謂騎馬、如牧士者、佶然々々、〉とても其如き稽古鍛練にては、事にのぞんで、人馬ともに中々達者は成がたし、第一平日の鍛練未熟の間、輪を乘事をかくべからず、馬の輪は、弓の卷藁のごとし、其乘事數百返に至るべし、貫繩を强く引せて鐙を當、居木うつり、鞍玉を自得すべし、數百返に至り、我も目くるめき、馬も倒るゝ事あり、手綱を以たゝき、鐙を以蹴起て又乘るべし、駈足をのるとも、馬により三町ばかりの馬場にても、十餘返も乘るべし、人により馬をいとひて、斯いふを謗る者もあるべし、又御者の風にも依べし、つよく乘ほど、早は早く億、又血の落る事もあるべし、如斯乘る馬は、必一曲ありて、口剛く間も强からざれば、其術に堪ざる者也、尤乘相よきものを以、稽古馬とするは惜き事也、

〔一騎前意得〕

〈中〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0721 馬乘樣第二
乘リサへスレバヨシ、落サへセ子バ達者トノ見識モアレドモ、其オチヌ達者ハ、平日ノ稽古ニ有テ、稽古ハ〈○中略〉師ニ從ヒ、木工馬ヨリ稽古スべシ、

〔貞丈雜記〕

〈十三/馬〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0721 一木馬之事、古代之書に所見なし、慶長以來の物なるべし、其證は齋藤安藝守好玄手綱切掛と云書〈天文の頃也〉云我等一族に齋藤小四郎と云もの有版壯に勝たる藝能を五ツおぼへて有こいへざも、馬をば得乘ず、年たけて人前に名をながす事をかなしび、馬ほどにくらかけを作りて、女の座敷に置き、不斷女房に口をとらせて云々、此文にて考れば、木馬あらば、馬ほどに鞍かけは作るまじき也、木馬なき證櫨如此也、十訓抄に木馬の名目出たれども是は罪人の具にて、木馬の證に取がたし、

〔嬉遊笑覽〕

〈四/武事〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0721 木馬は、鞍懸といふ、寶倉に、鞍懸は、もと鞍をやすむる具なり、猶たくましう作りたてゝ、障泥をかけ、手綱をつけて、鐙のおりのり、鞭のあてやうをもならはせり、これ世に所謂 ぐらかけの馬なち、〈○下略〉

〔榮花物語〕

〈一/月宴〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0722 この八の宮、〈○永平親王〉十二ばか参にぞなり給にけるこの御心ざまの心えぬなげきをぞ、宰相〈○藤原濟時〉はいみじう覺したる、實方侍從、長命君などあつまりて、むまにのりならはせたまへ、のらせ給はぬは、い鸞あしき事なり、宮達は、さるべきをり〳〵は、馬にてこそあちかせたまへとて、みまやの御馬めしいでゝ、おまへにて、のせ髭てまつりて、さゝとみさわげば、おもていとあかくならて、むまのせなかにひれふし給へば、いみじうわらひのゝゑるを、宰相か尢はらいたしとおぼすに、いだきおろしたてまつれ、おそろしとおぼすらんとの給へば、さゝとわらひのゝしりて、いだきおろしたてまつりたれば、むまのかみを、ひとくちくゝみておはするを、宰相いとわびしと見給ふ、女房たちなど、わらひの、しる、

〔玉海〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0722 安元三年十二月十六日、申別自燒賜御馬萌日爲令騎中將〈○藤屋兼實子良通、時年十、〉也、是爲乘試、先密々、頭中將所沙汰送也、令藁中將卽返獻、朝臣拂暁可持來之由所仰也、

〔甲陽軍鑑〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0722 安房上總兩國の府君、里見義弘公一家の正木大膳弍いひしもの、十二三の歲より馬をならふに、片手絶にて、のらんことをこのむ、馬訓ゆるもの怒て云ふ、片手綱と云は、能々馬を乗覺え、功竈に成てのうへ、片手繦にてめすべきに、末だ鍛練もまゐらずして左橿にめせば、其身なりも惡しぐおはします程に、必らず片手綱無用と制す、大膳申やう、侍の將たらん者、馬よりおりて鑓を合せ、高名する事多くは有まじ、馬上にて下知をし、其まゝ勝負を決せんならば、片手綱を邏、者に覺てこそと、をさな心に申せしごとく、度々馬上にて勝負を决す、

〔信長公記〕

〈十四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0722 天正九年八月十二口、中贋信忠、尾州濃州諸侍、岐阜へ拒召寄、長良之河原に、御馬揚を築せられ、跡先に高々と築地をつか廿、左右には高さ八尺に埓を結せられ、毎灣御馬めさせられ候き、

〔藩翰譜〕

〈一/越前〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0723 參河守殿、〈○結城秀康〉御年十四歲、關白殿〈○豐臣秀吉〉と共に筑紫に渡り、一方の大將にて、日向國を平げ、十六歲の御時、伏見の馬場に出て、馬めされしに、殿下の御厩の預り、守殿と爭ひて馬を馳せ頗る無禮に及びければ、馳違ひざまに御刀を拔て、首を中に打落し給へば、爰に有合ふ、關白の御家人等、獲藉出來ぬとひしめく、守殿馬かけすゑ、はたと睨らまへ、やあ如何に、殿下の御家人たらんものが、秀康と爭て馬をはせ、且は無禮をいたすべきやうやはゐる、あしうふるまつて、かたがたも過ちし、秀康怨むなと仰ければ、恐て近づくものあらず、關白、此よし聞し召、秀吉が子に向て無禮せんやつ、其罪死に當れり、あつはれ秀康は、心剛なるのみならず、はやわざも人にすぐれたんなど、却て御戚に預り玉ふ上は、何の御咎もなし、

〔蘆名家記〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0723 穴澤善右衞門尉武勇之事一或時正宗、檜原ニ馬場ヲ構へ、陣中ノ遊慰ノタメ馬ドモヲ出シ、諸士ニ乘セシメ、其身モ乘玉フ、毎日如斯、此由ヲ傳へ聞キ、穴澤善右衞門尉ハ、矢二筋持、弓オツ取、人ヲツレズ只一人、大鹽ヲ忍ビ出デ、山傳ヒヲシテ檜原へ忍ビ入、馬場末ノ所ニ木ノニ本有ケル陰ニ立ヨリ、正宗卿、馬場末へ迄馬ヲ乘來り玉ハヾ、一矢射テ、欝憤ヲ歡ゼント待居ケル處ニ、正宗ノ運ヤツヨカリケン、其日ハ正宗、馬場中マデ三度乘出テ、馬ヲセメテ城ニ入玉フ、

〔甲子夜話〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0723 外櫻田ナル井伊家ノ邸ハ、昔ヨリ主人寢所ノ前ノ馬場ニテ、毎早朝、家中ノ諸士セメ馬ヲ爲ルコトナリ、其モノ音ニテ主人目ヲ醒スト云、サスガ御當家〈○德川氏〉格別ノ家ノ風ト謂ベシ、然三明和ノ頃、大老勤ラレシ代ヨリ、改テ尋常ノ庭ノ體ニカハリタリト云、惜ムベキコトナリ、

遠乘

〔家中竹馬記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0723 馬を遠く馳て行には、二町三町づゝの内にて、緖返の手綱を乗べし、いきあひきるゝ事有間敷なり、口傳有之、

〔遠乗漫筆〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0723 遠乘は、撰馬第一也、馬强クテモ、最初ヨリ遠路ハ馳セ難シ、故ニ仕込ムコト次之、馬ハ仕 込ミテモ乗ヤウアシケレバ、仕込マザル溺馬ニ劣ルノミナラズ、肝騫琿馬程、皐ク息シツカル、者也、故ニ乗崖家之、乘樣ヨクテモ、乘ジキル邏速、飼ノカヒ槎等、ヨクく心ヲ用イザレバ、遠路ハ馳セ難シ、故ニ乘人ノ用心次之、乗人ノ用心ヨクテモ、馬具用捨ヲ考ヘザレバ不便ナル事多シ、故ニ馬具用捨賓之、以上五段甚淺近ノ説ニシテ、眞ニ釣魚ノ簽轟モ當ラザレドモ、皆予〈○田中世誠〉ガ試テ驗アルコト故、一時草卒篇漫筆シタ備葱忘耳、敢タ人ニ示サント欲ス解ニハ非ズ、于時安永己亥孟賽〈○中略〉
仕込第二
一漸々仕込ミヤタハ、最初ハ往返四五里ヲ地道ニテ乘り、馬ノ疲レ、足爪常ちカハルコトナクバ、其実六七里、内二鑾許馳ベシ、馬不疲、常ニ變タ蠶トナクバ、其亥十里、内三四里馳ベシ、三四五度モ如是試テ、馬疲レズ足クタハズハ、其亥五六度モ十六七里モ馳セ、而後ぶ極長日ナラバ、明六ツ時ヨリ暮六ツ時迄ぶ三十里近クハ、安ク馳セラルベシ、予ハ草津姥ガ茶屋ヨリ遠方ヘハ行カザレ、ド嶮、推慮スルニ漸々仕込、、、尹後ハ、三十里許ハ馳セラルベキ也、一日二十四五里モ馳セテ疲レズ血落ズ、飼クヒ等、常ニ變ルコトナキ馬ハ、予未逢、一兩舜ヲ邏レバ、大祇 常ニカへルモノ也並々ノ仕込マザル馬ハ、五六日、厩ノ出入サへ不自由ナル位ニ疲ル、モノ也、鐃ノ處ニ於テ、仕込ム仕込コマザルトノ得失ヲ辮ズベシ〈○中略〉
一毎日遠乘セントナラバ、地遘ニ非レバ馬コタヘマジ、地違ニテモ、長日ニハニ十里許ハ行力ルベシ、然シ毎日二十里ツヾケタ乘ルコトハ、ヨク仕込タル馬ご非レべ行難カラソ、道中ノ驛馬ハ、臠々十二三里ハ行クモノナレバ、依之考ル謐、二十里許ハ毎自ジゾクベシ、併予ハニ日ヨヲ多クツヾケタ乘タこトナシ推慮シタ云フノミ、〈○中略〉
乘樣第三 一遶馳ハ、身自ラ馳ル牽心得ベシ、左ナケレバ、馬ヲ痛ベシ、自身馳ルト心得ヲ、馬ヲイタハタ心得須奧モヤマザレバ、息合萬學ニツキ、馬ヨワ敎へラレタ、自然ニ妙境ニ通ズべシ、
一馬モ人モ、少シニテモ藥ナル樣ニ乘ベシ、少シニテモ、馬ノ向へ行ク足ヲ不可妨、鐙ヲ長クシテ鞍ニコダハラズ、馬足ヲ運ブニツレタ、少シ體ヲウゴカシ、ツキ行クベシ、左ナケレバ體ト足トニ、カミ生ジテ、鞍ニコダハリ、馬ノ邪魔ヲスルモノ也、鞍ヲスカシ夕モノリ、前韓ヲハサミテモノソ、鐙ヲ横ニフミテモノ夕、色々ナマ〴〵ニカヘテ、只々上下予モ樂ナタ慌ニシテ、手編ヲ長ク馬マカセニシテ、ハミヘ、キツ噺クヒトメ、灘中鷆テ、ハミヘ息ヲアテ丶ツグヤウニスべシ、鱇中ニテ、ハミヘアテ、息ヲツグ馬ハ、息合ヨキモノ也、何程ハ梦、カ、ル馬モ、三四里行ケバ、腰手糲ニテ、自由三ノレル樣ニナル也、其自由舮一ナルトキニ、馬任セニシテ邪魔セザレバ、アキカ、ル馬モクヒ留メ、口中ニタ息ヲ次グヤウニ自然トナル者也、

〔一騎前意得〕

〈中〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0725 馬乘樣第二
騎業當流軍馬書、櫻狩馬仕込樣、足並ニカマハズ、己ガ生レ付ノ足並次第ニノルベシ、毎日遠乘スべシ、〈○中略〉或書白藥天ノ故事ヨ夕出デ丶息セヌコトヲ櫻狩事云世誠〈○田中氏〉按ニ、遠ク乘切ルヲスベテ櫻狩トモ、或ハ紅葉狩トモ云フ、或書紅葉狩ノコト、一日三ニ十躄三十里行クハ馬ニヨルべシ、肝ヨク筋骨ツヨク、足タクマシク、ムラナキ馬也、心ユルクモチ、馬トシナヘツキ、犬走篇ノル、十町モノ夕テ、ダクヲノリ、ダク十町モノヲテ、地道ヲノリ、如此ノルトキ沸、馬ノ强ミ程ユク、ミ十塁四十里モ馬ニヨジ行べシ、乗ル者、布ニテ腹マキシ、折々鐙ハヅシ、足ヲノべチゾメ、筋骨ヲヤスムルナリ、或書、遠乗バセスル馬、イカニ急グトモ、ツヨクカクルコト勿レ、一旦予カケタランハ、イカホドノ心持ヲ乘ルト言馬ツマルベシ、〈○中略〉或書遠路ヲノルコト、ムスビガリ略云手綱也、内藤流芦、大ニ秘ス、此心或ハムスビ、或ハヲヲムケル、隅ニテ息ヲヅガセン爲也、

〔海國兵談〕

〈十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0726 馬之飼立仕込樣附騎射之事
二には遠乗也、是は近きは三四十里、〈大道五六里也〉遠きは百里〈大道十六七り〉百五十里〈大道二十四五里〉も乘べし、如此大乗しても、馬の疲れざるを至極とする事也、是には五段の息、三段の汗、亦走足へ躍足、千鳥足、鹿子懸等の足色、亦息合藥數法あり、精密なる事の樣なれども、瘻乘れば、是等の事も、自然に曾得せらる、也、其證據は、古代文盲なる數萬の荒武士ども、何ぞ各右數件の吟味に至るべきぞ、只屬乘て乘覺たる也、外に秘訣なし、只乘べし〳〵、

〔神代餘波〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0726 むかしは武士遠乘遠足などに、野袴蹈込なりしを、安永天明の頃は、深編笠馬乘袴となれり、

〔嬉遊笑覽〕

〈四/武事〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0726 大坪道全は、將軍義滿公の命をうけて、辰の刻に、京都を乘出し、吉野山の櫻を手折て腰の花籠に入て、午の副までに、往返二十六里を乗て歸りしは、奇代の名人廷御感にあづかりしとかや、

〔有德院殿御實紀附録〕

〈十二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0726 近習の人々に、御厩の馬をかして、相模の鎌倉に赴かしめ、其遠蓮を、こころみらる、事主ば〳〵なり、いつも鯑り來るを待つけさせ給ひ、風呂屋口まで出給ひて、これはおもひの外汗つよし、かれは息入しなど、左右に引まはさせ、蹄までも御みつから御覽有て、馬性の强弱を沙汰し給へり、享保十二年、越谷の驛迄、遠粂につかはされしが、いつれも辰牌に乘出して午牌に歸らしに、蘭舶に載來りし、じやがたらの馬は六歲なりしが、申牌にやう〳〵歸りしとぞ、これにて歐魯巴の産、かへりて我邦より劣夢し事、明らかにゑられけち、

〔東都歲事記〕

〈二/春〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0726 三月 遠馬馬術稽古のため、早馬に鞭打て府外の神佛に詣し、或は群集の所にい尭る、尤行程の遠遞をはかり、刻限の遲速を以て鍛練をこ、ろむるにや、花の頃は別ておほく、遊觀の輩の妨となれり、

庭乘

〔家中竹馬記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0727 庭乘の事、乗樣種々おほしといへども、先一束折をして、扮馬を打出して、左へ先折始事は、いつれもおなじ、座敷甫向ならば、馬を北頭に可引立に、馬より左のこほりに居たらば、馬の後よりまはちて寄て可乗、馬の前をとほるべからず、馬より右の通ウに居たらば、其儘寄て乗べし、手銅を鞍に打懸させて、右の手にて手綱を取、其手を鞍の左の手形にか紗、左の手にては尻津輪を押へて乘て、則袴のまちへ手をやりて、前へ取て乘居て、軈手綱を取定て、一束折をして、馬を芝づめて靜に打出すべし、乗はてゝは最初乘花る處へ打よせて、二足三足ゑさらかしておるゝ也、おるゝ時も、手綱を左の手形に取そふる也、馬とる者、手綱をばこすべし、二人して引て出て、一人は鐙をおさふる也、縱一人して引時も、乘時は鐙を別人寄て押べし、

〔了俊大草紙〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0727 庭にて馬乘て見参に入事、貢馬乘を本とする也、御前に引立たる馬の尻の方を廻うてよちて、馬ぎ引手との間によりて、引手の左腰を右手にて押のくる時、引手、馬の頭に立向て、轡の緖口を取る時乘べし、乘て後引手の手綱のまがりを、馬の頭に打懸を請取て、右の方へ引打て、三めぐり打廻也、右方へ廻也、ニへん廻して、三返目に御前方に馬を打立て、一足引芝さらかして下て、轡の水付を取て立時、引手、よりて請取、後左手をつきて畏て退出するなら、

〔馬道㨗徑秘傳集〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0727 庭乘に見せ策、かくし策と云事有、かくし策と云は、御前の左ならば、馬手のもとくびをうつ、御前右ならば、弓手のもとくびをうつ、捨策と云は、手綱策緖共に當をいふ、但上頸なり、〈○中略〉總て小笠原流は、庭乘の數、左へ四返、右へ三返なり、大坪流は、左三返、右二返なり、

〔海國兵談〕

〈十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0727 馬之飼立仕込樣附騎射之事
當世の馬場は、古の庭乘の遣法也、前にも云如く、古の武士は、皆達者を本足して、やたら乘を第一としたる事なれども、臺應或はなぐさみの爲などに、貴人高位の前にて馬を乘時、やたら乘にては其樣見苦く、其質野なる故、庭乗の式を乘事霧、武士の嗜と致たる事也、本聞孫四郎、馬場殿の庭 上に龍馬を乘たる事など可考、然と云ども、當世の如く、一麋に馬場乗而巳を馬術萼心得たるにはあらず、やたら乘を本として、其餘計に式の乘形をも學びし事也、是武馬の順道也、〈○中略〉
馬場粂は、上にも云麺く、庭乗の遺法にて、馬に行攝を敷る迄の事なれば、當世流の馬場にても事足る也、先其乘樣は、口向足振を大切にし、馬に振を付て、行儀を散置事也、但し多く乘事勿れ、只馬の行儀を崩さゾる爲計に、少づゝ乘置を善とす、

〔貞丈雜記〕

〈十三/馬〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0728 一庭騎の事、後鳥初院震記、建保鬻年四月十四日參内、御方有庭騎興、中宮大躔兼隆度々落馬、万人解眞云々、齋藤安藝守好玄記云、庭乘を懸て曲とも申候也、建保の頃旣に是名目出たれば、久しき事也、鞠の御壼にて馬御覽の事、東鑑承元四年九月廿日、佐々木左衞門尉廣綱御馬を進む、昨日近江國ゟ到來、今日鞠御壼におゐて御覽、義村引之云々、

〔大鏡〕

〈五/太政大臣伊尹〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0728 みかど〈○花山〉むまをいみじうけうせさせ給ひければ、まひ人の馬をかうらう殿のめだうよりとをさせ給ひて、あさがれゐのつぼにひきおろさせたまひて、殿上人どもをのせて御らんずるをだに、あさましう人々おもふに、はてはのらんとさへせさせ給ふに、すべきか陀もなくてさぶらひあひ給へるほどに、さるべきにや侍りけん、入道中納言〈○藤原義懐〉さしいで給へちけるに、みかど御おもていとあかくならせ給ひて、すちなげにおもほしめしたう、中納言もい己あさましう見たてまつり給へど、人々の見るにせいしまさんも中々に見ぐるしければ、もてはやしけうじ申給ふさまにもてなしつゝ、したがさねのしりはさみてのり給ひぬ、寒ばかりせばきつぼにおりまはしおもしろうあげ給へば、御けしきなをりて、あしき事にはあらぬ事なりけらとおぼしめして、いみじうけうせ矗せ給ひけるを、中納言あさましうもあはれにもおぼさるゝ御けし髫は、おなじ御心によからぬ事をはやし申給ふとは見えず、た夥もさぞかしとは見しら聞えさする人も有ければこそはかく申つたへたれな、又みつからのり給ふまではあま ちなうといふ人もありけり、

〔古今著聞集〕

〈十/馬藝〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0729 播磨の府生貞弘が家ちかく陰陽師ありけり、馬をまうけたりけるを、貞弘をよびてのり試むべきよしいひければ、貞弘奇怪に思ひながら、行て乘てけ夢、打まはして、やがて乘ながら家へ歸らにけり、陰陽師、こはいかに置て馬をこひければ、さもあらず、汝程の者が、貞弘をよびて庭乘させてみるべき事かは、馬をとらせんと思へばこそのせつらめとて、やがて領してければ、力およばでぞ有ける、

〔源平盛衰記〕

〈十四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0729 木下馬事
伊豆守仲綱ガ家人、東國ニ有ケルガ、八箇國第一ノ馬トテ、伊豆守ニ進タリ、〈○中略〉人申ケルハ、一昨日ハ湯洗、昨日ハ庭乘、今朝モ坪ノ内ニ引出テ有ツル也ト申、

下乗

〔小笠原入道宗賢記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0729 下乘といふ事、人の馬をせめ候を、ゑたのりといふなり、總瀰人の馬をまつ乗候を、下乘と云なり、

〔古今著聞集〕

〈十/馬藝〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0729 後白河院の御時、鎌倉前右大將、〈○源賴朝〉御馬を百匹參らせ訖りける、下野敦近、召次所に候けるを召て乘られけるに、冬の事なりければ、い己塞かりけるに、敦近、はだに、かたびら計を著て參りたりければ、塞げに見えけるが、御馬の數つかうまつりにければ、汗ぐみにけり、兼て用意したる程、いみじく見えけり、叡戚ありて、御馬一匹え参て給べきよし仰られければ、承み緲る時、乗たりける御馬をさうなく申給にけり、乘はて、筏中門に候けるに、宿衣一領賜せければ、肩にかけで出けり、ゆゝ敷ぞ見えける、

〔總見記〕

〈十九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0729 播州被向御人數附從闘東進名馬事
同月〈○天正七年四月〉十七日、關東常陸國、多賀谷修理亮朝宗、星河原毛ノ御馬、長四寸八分、年七歲、太逞シキ駿馬、濫々牽上セ進上ス、是ハ一日ノ行程三十里ヲ乘歸ヲ、無雙ノコタへ物ノ歯ナワ、大臣家〈○識〉 〈田信長〉御感燈斜ナラズ、黃金五十兩、小袖三重、縮三十端、是ヲ下サレ、銀子百枚、使者是ヲ拜領シ畢ヌ、其レヨリ後、靑地與右衞門尉ニ仰付ラレ、右ノ御馬責乘ラセラレ候處ニ、彌以逸物紛ナキ者ナリ、卽正宗ノ御腰物、靑地ニ下置カレ候、

輪乘

〔騎立之卷〕

〈六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0730 輪を乘事、品々乘樣多しといへども、先輪の内、壹丈五尺殘して乘也、輪の九く綱を廻したることくに乘也、内の鐙はふみ出し、手綱はひらき高く取て、外の鐙はかけ形にして、馬に付ケ蹈、手綱は四方手際にさげて取、身をば外の居木にかゝり、腰にて馬の腰根を乘折樣に乘べし、左右同前、口傳、

〔大友興廢記〕

〈十七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0730 長尾口合戰の事
始は足輕十人廿人宛出て、たがひに鐵炮軍して、次第々々に五騎三騎宛、かけ出しかけ出しゝけれ共、或は輪をのり或はゑつくとひかへて、鑓をばいまだ合せず、

立鼓乘

〔鈴録〕

〈十二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0730 戰法
謙信流、足輕ノ使樣、〈○中略〉馬ノ乘樣ニテ、足輕ヲ使フナリ、右懸、左待、千鳥ブセ、立鼓、オコシ、是ナリ、〈○中略〉居シケト云時ハ、 如此ノルナリ、是千鳥ナリ、起テト云時ハ、 如此ノル、是フウゴナリ、

〔安齋隨筆前編〕

〈十二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0730 リウゴ リウゴと云は、 如此の形也、此形、鼓を竪に立たる形に似たろ故、立鼓と云也、

〔甲陽軍鑑〕

〈十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0730 信玄公、十六歲より五十三迄の間に、軍法工夫したる衆、〈○中略〉
一原美濃守 足輕りうごのり、二のかけ、備たゝむ事、

曲乘

〔甲陽軍鑑〕

〈十四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0730 甲州に關口と申す馬乘の上手にて、曲乘は本の事にてなしと申せ其、是は一入重寶なり、一丈二尺あるがけをとびおろし、よこ一尺五寸ある土居の上をも、早道いつさんをのり、關の木通り、いたやの上をはやみちにやり、其外あら馬强馬のり候て、馬の藥がひ迄、上手なれば、 關東奧にも、此關口ほどなるは、終にみぬとある儀を、東國の博勞共、大誓文にて申すなれば、凡そ日本國中にも、三人とあるまじきとさたなり、

〔大友興廢記〕

〈十一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0731 信長公鬼月毛と云名馬豐後へ遣さる、事大學兵衞尉〈○中略〉後には曲乘の秘術を盡し、或ひははしごをふませ、或は碁盤に四蹄を縮め、または鞭を落てかけの内にとりなどし、五丈あまりの堀をこえさせ、切岸へ足もためず馳上、鞍の上に立ながらかけさせ、種々さまぐに乘れければ、馬をも乘人をも、鬼とぞ申ける、

〔玄桐筆記後編〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0731 櫻馬場にて膏々御馬御稽古被遁しを、〈○德川光圀〉威公〈○光圀父賴房〉も物陰より御覽ありけり、逸散を乘り給ふに、馬場の内に、土龍の穴ありけるに蹄をふみ入て、御馬はもんどりを切て倒れぬ、あはや御あやまちしけんとて、人々馳參り見奉るに、さりげもなくておはす、〈○中略〉此外危きめにも度々合給ひ、つよく御修練ありし程に、究竟の御上手にて、色々の曲馬をも能く被召、或は馬上に樟立に立給ひ、あるひは逸散に馬上にて躍揚給ひて、馬をはせぬかせ、下り藤などし給ひ、いかなる惡馬をも召おほせられたり、御隱居の後も、在郷へ御成被遊に、朝より暮まで御馬に召通して、少も御つかれ被遊御氣色なかりき、公〈○德川光圀〉の如くつよく乘る事は、いかなる達者もかなはぬ事なりと、功者なる者申候ひし、

〔甲子夜語〕

〈四十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0731 松前領中ニ、牧司トテ、馬ヲ飼フモノアリ、馭術ニ長ゼルトテ、其技ヲ觀ルべシト勸ル者アリ、因テ鳥越ノ邸ニ往テ見ル、其人二名一名年三十以下、一名ハ二十以下ト見ユ、股引半纏ヲ著、馬ハ三疋、何レモ躱脊ナルニ続ノミ掛タリ、走馬ノ體、尋常ヨリ足高ク跳奔シメ、迅疾云バカリナシ、
第一番ノ驅ハ、モトヨリ鐙モナケレバ、躱脊ニ跨乘ヲ、手ヲ膝ニツキテ馳タヲシガ、馬場末ニ至リ、卽馳回シ、又逆馬場ニ馳タルトキ、身ヲ脊ヨ夕ハヅシ、横ザマニシテ馳テ、又馳回ス、コノ度ハ手綱 ヲ取リテ、脊上ニ立タ馳タリ、目ザマシキ事ナリ、
第二番ノ驅ハ、別人ナルガ、桑出テ後ヲ見遞へシ、夫ヨリ脊上ニ踞リテ、或ハ立ナドシ、亦前人ニ劣ル事ナシ、
第三番ニハ、兩馬雙ビ驅タルガ、中途齲テ互ニ手ヲ交へ、或ハ互ニ横乘シテ馳タリ、
第四番ニハ、一馬ニ二人乘ヌ鯲ブ、前乗ハ踞リ、後人ハ立テ、肩上ヲ見越シテ髄タリ、
第五番ニハ、二人一脊ニ組合タ馳セ、又離レテ立横ヲ殊ニセリ、
第六番篇ハ、馳出スト仰臥シテ、頭ハ馬ノ三遂ノ方ニアリ、馬場中ニシテ、手亨伸バシテ譬ヲハヅシ馳セテ、馬場末ニシテ又コレヲハマス、
第七番ニハ、又轡ヲ脱シ、指繩ヲ懷中ヨヨ出シ、是ト掛替へテ追留ル、
第八番ニハ、又譬ヲぶヅシ、指繩ヲハマゼ、其一筋ヲ手ニ持、立馳ニテ、片手ニハ手綱繪ヲ蕗王三指揚タ驅ス、コノ具、風ニ飜ル體、テギハナルコト也、
第九番ニハ、馬場中ニシテ飛下ジ、馬ト倶ニ走ヲ、復飛上ヲテ馳ル、コノ往返再三セリ、
第十番ニハ、牧地ニシテ野駒ヲ捕ルサマナウ迚、我ガ厩ノ馬ヲ、ヅブ馬ニシテ馬場ニ放シ、兩人手手ニ長キ綱ヲ持居テ、馬ノ自由ニ奔ル所ヲ、カノ觀ヲワナニシテ投カケ、首ヲシメテ綱ヲタグリタ飛乘リ、直ニ驅ヲ逐テ、又ソノ絶ヲハヅシ、立髮ヲ握リテ馳セ、又指繩ヲ馬上ニテ掛タリ、又一遍ハ指繩ヲハヅシ、馬ノ頗ヲ掌讌テ敲キナガラ馳セテ、終篇ハ指繩ヲカケテ畢レリ、總ジテ健壯ノ所作、觀者ミナ歎美セリ、
追記
コノ乘手、年若キ方ハ、村田淸藏ト云テ、松前ノ陣屋ヨリ廿九里、箱館ノ産ナリ、又年長ジタル方ハ、久保田松五郎ト云タ、陣屋ヨリ十八里、エザシノ産ナヲ、二人共、ウスト云、牧地ノ預ト云、渾ヲ蝦夷 地ニテ牧司八人有り、コノニ人モ其中ト云、〈コノウスノ地ハ、松前ヨリ六十里アリト云、〉
馬一ハ佐倉ノ産、燒印矢邪、矢作牧、栗毛、尺〈歲十五、丈三寸、〉一ハ小金ノ蘆、燒印笠、上野牧、駮、〈歲十二、丈一寸三分、〉一ハ東蝦夷地、ウス牧、靑毛、〈歲十四、丈六寸、〉

〔半日閑話〕

〈十二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0733 明和九年四月中旬よりして、兩國藥硏堀新地において、大坂下大曲馬見世物評判甚し、錦繪に出ル、
大夫元、村上平藏、秋月三平、長谷久士円渡邊金藏、村上金八、口上、初島才治、頭取、入竹左江、六月十五日、曲王祭鵬之節、於朝鮮馬場上覽有之、尤麹町より請之、

〔武邊叢書〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0733 長澤聞書
一其頃〈○慶長元和聞〉馬乘手
〈上方にて〉上田吉之丞 〈大坂にて〉蠅原八藏 〈江戸〉かさい雅樂
右之かさいは、江戸愛宕の石のきだ橋を上夢下り、自由に馬にて乘り被申候、

〔續々泰平年表〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0733 安政元年四月五日、豐後臼杵藩、多大夫忰、雄島勝吉藤原重知、〈寅ノ二十六〉江戸愛宕山の坂を、馬乘り上る、但馬は、奧州三春立、四歲、靑毛也ト云、

〔嬉遊笑覽〕

〈四/武事〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0733 備前の藩士、市森彦三と云もの、年頃の心願にて、江戸芝なる、あたご山のをとこ坂六十八段を、馬上にて登参下りゑたりとなら享和ごろ、〈○中略〉予〈○喜多村信節〉が若年の時兩國廣小路などに出て、みせものにしたる、源太郎と云ものゝ曲馬をみしに、高き階子をかまへて登る時は、鞍め上に直に立、下る時は、逆立したり、熟したるもの也、

〔學山録〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0733 朝鮮馬技
朝、鮮國有馬戯一技、毎聘使來于東都、必試其技亘備御覽耳、俗璽之曲馬、其藝最絶妙奇異者也、此蓋晉中朝元會所設、獸騎倒騎醸騎等之技、而雜戯散樂中之一種也、文獻通考、具載其説耳、戊辰年、韓使 來聘、余邂逅其製邇官朴敬行者、問其技之所由始、敬行以筆對日、馬技、卽軍中馳突之技、我國以此爲武藝蓴秋考試之亘其工拙瑁作賞罰、如此者母慮四五百人、僕亦未知始自何時、而其來巳久、試於甫陣之間、則劒戟森釋、旗鼓紛関、苗此技隱身驪入、奪麁暫將、人莫敢讃何琵中州之所無也、然則是爲武技所設、而非備一場異觀者也、但其四五百人云者、恐不葦其多爾、

〔寬永小説〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0734 朝鮮曲馬を、和田倉曲輪、石壁の上に御棧敷を櫞、御羽織にて御覽被遊、御連枝方、御譜代、御家人、御棧敷に伺公、

〔泰平年表〕

〈常憲院〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0734 天和二年九月五日、外櫻田馬場に於て、朝鮮人の馬術を台覽、


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Last-modified: 2026-02-11 (水) 17:07:46