〔嵯藏野物語〕
p.0735 馬は、むかし唐國よりわたりし時は、耳のけものといひて、すべてまれなりしかば、帝王の御氣色よき、大臣公卿のほかは、のる事もなし、されば良家とかきて馬人とよむ也、これ日本紀萬葉の所見分明なり、ことに上薦のもず、あそばせ給べきものなり、〈○中略〉代々攝家にも馬のり多し、なか頃、知足院關白、〈○藤原忠實〉注性寺關白、〈○藤原忠通〉無雙のかむのう也、諸家の記、分明なるにや、其後、普光園關白、〈○藤原良實〉香園院關白、〈○藤原師忠〉故太閤、〈○藤原兼基〉ならびなき馬のりにて侍し也、世のをし人の知所也、
〔政事要略〕
〈五十五〉
p.0735 馬牛事
古事記云、百濟國主照古王、以駐馬一匹牝馬一匹附阿知吉師以貢上、〈○註略〉百悟王本系云、牡始此馬種蕃息於天下也、臼本紐云、保食神巳死、唯其神之頂化霽牛馬百本決釋記日、今案保食祠已死、神之頂化爲牛馬、爰難亮云倭國无馬牛事、見書蜃故應神天皇之世、百濟進午馬百此面後、倭國有牛馬、若本自〈○自下年中行事秘抄有有字〉牛馬者、古先君臣、寧杖策徒步乎、
〔魏志〕
〈三十/倭人〉
p.0735 其地、無牛馬虎豹羊鵲、
〔續世繼〕
〈六/雁がね〉
p.0735 九條の民部卿四郎にやおはしけん、侍從大納言成通と申こそ、萬の事、能おほく聞え給しか、〈○中略〉馬にのち給事も、すぐれておはしけち、白河のみゆきに、馬の月にふしたりけるに、
鞍の上にすぐに立玉うて、つゆぬれ給ふ所おはせざりけるも、異人ならば、水にこそうち入られましか、
〔吾妻鏡〕
〈十一〉
p.0736 建久二年八月一日丁丑、今鐸大庭卒太景能、於新造御亭獻盃酒、〈○中略〉觀盃之間板仰各語申往軣景能語葆元合戰事此間申云、勇士之可爾婁者武具也就中可編用者、弓箭寸尺也、鎭西八郎〈○爲朝〉者、吾朝無雙弓矢達者也、然而案葛箭寸法、過子其涯分歟、其故者、於亘大炊御門河原、景能逢予八男弓堊八男欲引弓、景能、潜以爲貴客者、自襲西出給之間、騎馬之時、弓聊不柱心歟、景能、於東國能驪馬也者、財馳廻八男妻手之時、縡相遠及于越弓之下、可中于身之矢、中膝訖、不及此故璽者、忽可失命歟、勇士只可達騎馬事也、壯士等可留茸塵老劣之説、莫嘲驒云々、常胤已下、當座皆甘心、又蒙御感仰云云、
〔古今著聞集〕
〈十/馬藝〉
p.0736 坊門大納言忠信、左衞門督にて侍ける時、建曆の抑禊行幸に、一六といふ馬に乘て供奉せられた夢けるに、二條室町にて、院の御棧數の蔔の幔、風に吹あげられたりけるに驚て、御棧數の東より引て走けるを、馬副引まろばかされて馬をすてゝけり、留めける程に轡も切にけるを、靜に靴を片足づゝぬぎすて、韈計りにて鐙をふみおほせて、後馬のはなをかきて、二條烏丸なる棧敷の前にて留められにけり、見る者目を驚かしけう、其棧敷ゆか蔘有ける人にて、急ぎ譬をはげて奉りけり、
〔吾妻鏡〕
〈二十一〉
p.0736 建曆三年〈○建保元年〉五月二日壬寅、足利三郎義氏、於政所前橋之傍、相蓬義秀、〈○朝夷三郎〉義秀邏取義氏之鎧袖ハ縡太急兮、義氏策融馬為飛隍璽其闇鎧袖絶従中、然而馬不倒、主不落、義秀雖勵志、合戰數刻、乘馬疲極之閥、泥而留于鰉東、論南士之勇力、互無强弱掲焉也、見者抵掌鳴舌、
〔太平記〕
〈十三〉
p.0736 罷馬進奏事
佐々本鹽冶判官高貞ガ許ヨリ、龍馬也トテ、児毛ナル馬ノ三寸計ナルヲ引進ス、其相形、ゲニモ尋
常ノ馬讌異也、骨學梦筋太クシテ、脂肉短シ、頸ハ鷄ノ如ニシタ、須彌ノ髭、膝ヲ過ギ、背ハ龍ノ如乙シタ、四十二ノ辻毛ヲ卷タ背筋ニ蓮レ夕、兩ノ耳ハ竹ヲ剝テ直ニ天ヲ指シ、雙ノ眼ハ鈴ヲ懸テ地ニ向フ如シ、今朝ノ卯刻ニ、出雲ノ富田ヲ立テ、酉刻ノ始ニ十足著ス、其道巳ニ七十六里、鞍ノ上閑ニシテ、徒ニ坐セルガ如シ、然共旋風面ヲ撲ニ不堪トゾ奏シケル、則左馬寮ニ被預、朝ニハ禁池ニ水飼、夕ニハ花厩ニ秣飼、其比天下一ノ馬乗墾聞エシ、本間孫四郎ヲ被召タ被乘、半漢雕梁、甚不尋常、四蹄ヲ縮ムレバ雙六盤ノ上ニモ立チ、一鞭ヲ窰ツレバ十丈ノ堀ヲモ越ツベシ、誠ニ天馬ニ非ズバ、斯蟶駿足ハ難有トテ叡慮更ニ類無リケリ、
〔文正記〕
p.0737 甲斐總領千菊丸、其齢十有二、〈○中略〉馬白駩太逞、厥長六寸餘、印者有處重雀打越三目結、黃覆輪鞴、掛茜總轍、徒跣郎從弱冠者計撰五百餘人、前後走散、白磨勤齧玉沫、隨貴殿仰、騎入御門、馬相好者、雲覆髮懸木枯、須彌髮曁鯉骨、昆牧批竹、名月包珠、雙眼懸攝、四踊蹈嫉、絃倒大走、髓長膝扉、荒續合短、字攻騎入、毛短撫刷、思處置肉如獅子王ハ權奇賑嘶、芙勢欲飛、突尾編木、扉毛拂場、四面鞍、五方口、手心手事盡鞭鞋譜、走于々走、應手從心容易乘矣、觀者取踰、王良化身邪、寔武士苗裔也、與無不言人焉、
〔北條五代記〕
p.0737 淸水太郎左衞門大刀の事
見しはむかし、伊豆の國の住人淸水上野守は、小田原北條譜代の侍、隰八州に其名をえたる武士なり、〈○中略〉奧州より讖だる、岩手鴾毛ご號す駿馬を持たち、尾かみあくまでちゞみ、九寸あまりにて强馬なち、長久保よ参鷲菓の嶺へは上道五里程あり、鸛馬の心見んため、甲冑を滯し旗をさし、卯の刻に長久保を乘出し、鷲藁を目がけむち打て、野原を眞直に馳行有樣、たず逸物の鷹、八重羽の雉を見て、升かきの羽を飛がとごとし、鷲巢の嶺へのり上、いきもつがせず引返し、郎刻長久保へ歸馬するに、あせをくださゞる名馬也、
〔總見記〕
〈二〉
p.0737 織田孫十郎逐電事
信長ハ、常ニ御馬ヲ能メス故、今度モ上ジ下リ、イカ程荒クノラセラレタ韈、馬息ヲキラサズ難ナク堪タリ、餘ノ軍兵ノ馬共ハ、飼ツメテ乘事稀ナル故、力弱クシテ三里半ノ道ヲ不堪、山田治部右衞門馬ヲ始卜シテ、損シ死シタル馬多シ、
〔南龍言行録〕
〈七〉
p.0738 或時宇治の馬場にて、賴宣君、御馬を召けるに、駈の中にて御頭巾を風にて吹落すを、中にて御取、又鞍蠶御直り、すぐ簒駈させ召けるを、御供の王下、皆一圃に戚じける、其日は松野宗太郎は丕出、其三日目に、又馬場へ御出の時、吉見喜左衞門、宗太郎に向ひ、先日御馬を召候仁、駈の中にて御早業、其方に見せ申度候、扨々奇妙成事其也と語り聞せければ、總太郎聞て、殿樣、未御馬前方に御座被成候、隨分能召候得共、御鍛練まだたり不申候と申ければ、賴宣君聞し召、御氣色かはり、總太郎に其譯御尋被成候、總太郎申上候は、権現樣は、海道一二番の御馬上の名人にて渡らせ給ふに、小田原御陣の蒔、秀吉公の御先手として、關ケ原を御押被歲候、〈○中略〉爰に一ツの谷用に細橋有、御人數此橋へ行掛ら渡事不叶、橋の上下を皆寄にて越しげる、權現樣には、御馬にて橋爪へ御著被遊候、曲の上にては、三人〈○丹羽長重、長谷川秀一、堀秀政、〉の大將達見付、家康卿は、無隱馬の上、手也、細橋を被渡を見物せよと見物する所に、橋爪にて御馬より下りさせ給ひ、御馬は橋よち貳拾聞計上の方を舍人四五人にて牽渡す、權現樣は、御步行者に被負させ給ひて、橋を御渡り被遊候、山の上にて三大謄の軍兵共、髫大に笑て、家康は馬の名人なるが、あの小橋を越事不晟、人に被負て渡うけると、とよみ笑ひけるを、三人の大將は、是を制し大に感じ、家康卿は、あれ程馬の名人とは不知、馬上の功者は、危き事は曾てせぬ者也、殊に陣前身をかばひ、あぶなき事仕給はとは、近代の功鬢也と藏じ入譬被申候、是にて考候に、殿樣ひたと危き早業を被歲候は、馬不功者者と申物にて候と申ければ、賴宣君も大に御感有て、御近習を召、其趣を書付させ、御掛硯に被納けるざぞ、
〔明良洪範〕
〈六〉
p.0738 大猷院樣、〈○德川家光〉品川御殿へ御成リ、柳生但馬守御供ニテ劔衞上覽有リ、御側ノ面々、
何レモ試合有テ、御機嫌斜ナラズ、其時御馬方諏訪部文九郎ヲ召サレテ、御側ノ人々ト試合スベシト仰セラル、文九郎申シケルぶ、馬上ニテノ試合ナラバ負ズト獨言セシヲ聞召レ、サレバ渠ガ望邏リ、馬土ノ試合然ルべシトタ、夫ヨリ馬上ソ試合初リ、互ニ乘合セテ術ヲ盡シケルニ、流石馬ノ達人程有テ、一大刀毒打レザルノミナラズ、乘ワ蓮ヒザマニ名乘掛テ、打ズト云事ナシ、大猷公、御戚有テ仰ニ、文九郎馬上達者ナル故、側ノ者一人韈勝者ナシ、此上ハ但馬守出テ試合スベシ壬ノ事也、但馬守畏ヲ候ト尹、馬上ニテ立合、兩方臠リ乗出シ、其聞三間程ニ成シ時、但馬守馬ヲ止テ、文九郎ガ乘來ル馬ノ面ヲ一打ウチケレバ、馬驚テ背ケル所ヲ乘寄テ、文九郎ヲハタト打ケル、大猷公、御覽有テ、誠ニ名人ノ所作、時ニ臨ヂノ働キ、尤妙也ト甚御藏有ケル、但馬守、馬術ハ文九郎ニ及ザルヲ察シテノ業也、臨機應變トハ是等ノ事也、
〔窻のすさみ〕
〈三〉
p.0739 佐倉侍從正盛朝臣の士に○中權之助とて、乗馬の達人ありけり、大猷君〈○德川家光〉の野邊の御成と知らざりしかば、淺草の門外にて、御先釁拓の樂れる時、乘かゝりてけるに、かけだして頓て御側近くと見えしかば、譬にて下口を一さんに切下しければ、四足を折て、ひざまづきし程に、側に下り居て下座しけるを上覽ありて、朝臣へ、汝が士、馬の上手と見ゆると御戚ありしかば、則祿を加へて賞美せられければ、此手觀傳受がありて、大概にては叶はざる手のよし、我藩〈○笹山〉中の士、其門弟なりし國府寺十郎かたりしとぞ、
〔有德院殿御實紀附録〕
〈十二〉
p.0739 御馬は、亘と名づけられし馬を殊に愛し給ひて、つねにめされけり、其馬、色は栗毛にしてふとく花くましく、實に一日千里もはしるべき駿馬ならし、御厩の龍驥、數多しといへども、これにならぶべきなく、御みつから召るゝ時は、心地よげに首を低てのせ奉る、他人のらんとすれば、はねをどりて近よる事あたはず、公常に此馬の頭を臺こなし、鳥読を打せ給ふに、いさゝか驚く事なし、誠に間氣の英物にして、殿下の馭にかなひたるなるべしと、人皆いひ
侍りし騎法は、讃家の奧義をあまねくさぐり給ひし上に、紀伊の國におはしましける程、田獵の度々、馬にて山壑のさかしきをはしりめぐ参給ひければ、都下の輩のわざとは、日をおなじうして論ずべからず、或日の仰に、我彼邸にあうしほど、何ひとつ不足宅おもひし事もなかうしが、唯諸國よち出る駿馬を、こゝろのまゝに得て見まくほしかりしに、いまは本邦の中はいふに及ばず、こまもろこしの産までもつなぎ置て、明暮おもひのまゝに粂やしなふこそ、本意かなへる心地すれと、御笑ありしとなむ、
〔日本後紀〕
〈二十二/嵯峨〉
p.0740 弘仁三年十月辛卯、右大臣從二位藤原朝臣内麻呂薨、〈○中略〉昔日應人他戸、爲皇太子時、桀跖之性、好害名流、有一惡馬、馭必躡囓、太子令内麻呂乘、快見傷損、惡馬低頭不動、被鞭廻旋、時人以爲非常之器、
〔今昔物語〕
〈二十二〉
p.0740 内麻呂大臣乘惡馬語第四
今昔、内麻呂ノ右大蕗ト申ケル人ハ、房薊ノ大臣ノ御孫、大納言翼楯ト申ケル人ノ御子也ゝ身ノ才止事无クテ、殿上人ノ程ヨリ公ニ仕リ給テ、其ノ思エ微妙クナム御ケル、世ノ人皆重ク敬テ不膸ヌ者无、カリケリ、形チ有樣、愚ナル事无カリケリ、亦心直クテ人ニ祓用テナム御ケル、而ルニ此ノ大蠶、年未ダ若ク御ケル時ニ、他戸ノ宮ト申ス太子御ケリ、白壁ノ天皇〈○光仁〉ノ御乎也、其ノ人、心猛クシテ人ニ被恐テナム御ケル、其ノ時ニ一ノ惡馬有ケリ、人ノ乘ラム卜爲夕時ニ、必ズ踏咋ケリ、然レバ敢テ人乘ル事无カリケリ、而ル聞彼ノ他戸ノ御子、内麻呂文命ジテ此ノ惡馬ニ令乘ム、然レバ内麻呂竓ノ馬ニ乘リ給フニ、萬ノ人此レヲ見テ恐怖シテ、内麻呂、定メテ此ノ馬ニ被咋踏タ損シ給ヒナムきスト糸惜ク思ヒ合へリケル、内麻呂乘リ給フニ、此ノ馬頭ヲ垂タ動ク事无シ、然レバ内麻呂、事无ク乘リ給ヒヌ、其後度々鞭ヲ打給フニ、馬尚不動ズ、然タ庭ヲ度々打廻タ下給ヒニケヲ、此レヲ見聞タ人、内麻呂ヲ讃テ、此レ只人ニモ不御ザリケリトゾ思ヒケル、昔ハ此ル人ナ
ム御ケルトナム語リ傳ヘタルト也、
〔江談抄〕
〈一/公事〉
p.0741 御馬御覽日馬助以上可參上事
忠文民部卿、爲助之時、延喜聖主、〈○醍醐〉御馬御麑之日、參人自瀧口陣方、伺候東庭、〈于時北下也〉要駕御馬二疋、忽以相沛芙、無人範當、忠文自邏出取敖之、事皐退出之間寮御馬部宿老者一人、偸語云陣波罐、藁江奈幾典如奈、先朝乃御時奈良末之加波云々、主上聞違此事令班給云々、
〔大鏡〕
〈七/太政大臣道長〉
p.0741 中宮大夫殿〈○藤原道長〉こそ、いみじくおはしませ、〈○中略〉高名のなにがしといひし御馬、いみじかりし、あくめなり、あはれそれをたてまつりしづめたりしはや、三條院も、其日の事をこそ、おぼしめしいでおはしますなれ、
〔續古事談〕
〈五/諸道〉
p.0741 右大將通房、春日使セラレケルニ、カタノ大將ニタ、大二條殿、〈○藤原敎通〉イデタチノ所へ、オハシタジケルニ、宇治殿、〈○藤原賴通〉陰キイヂ物ノ馬二匹タテマヅラレケル、出羽ノ一栗毛、後ノ糟毛也、コノ糟毛ぶ、高名ノアガリ馬ナタ、ノリタマル人ナシ、殿ノ御隨身助友ヲ召テノセラレタリケダニ、尻動カズ、釘二テ、ウチツケタランヤウニテ、オチザヲケレバ、ミル人アザミ感ジケリ、殿紅梅ノ御衣ヲカヅク給ケリ、
〔續古事談〕
〈五/諸道〉
p.0741 京極ノ大殿〈○藤原師實〉ノ賀茂詣ニハ、院ノ御隨身、近友敦季ヨリ始テ舞人シタルナカニ、下毛野敦時、モノ、フシニテ、ヒト梦舞人ニイレヲケリ、東三條ノ南面ワタリニ、右府生敦重、永子ナシトイフアガジ馬ニ乘タ、フタ、ビオチニケジ、下ノ斑ニテ御馬ハス戸時、敦重、御厩別譬盛中ニ吿テ云ク、ホ子ナシノ御馬ツカウマツルニ能ハズ、敦時ガ馬ニノリカベムト申ケレバ、菟サレヲ蒙テ、ノヲカヘブケリ、御馬ヲアグル時、敦時ホ茅ナシニ乘テ、アグル事極マジナシ、ミル人猶堪へ難シ、然ルヲ敦時、ソバニテ左右ニ居ルコト、砂地ニイタルガ如シ、ミタ人驚キ戚ぜズト云事ナシ、次日大將殿ヨリ碌給ケリ、
〔續古事談〕
〈五/諸道〉
p.0742 法性寺殿〈○藤原忠通〉ノ賀茂詣ニ、舞人兼弘ハ、トリカケト云コエ馬ニアタリテ、ツカウマツルニアタ洪ズ噺串ケレバ、敦延ガ馬ニノリカフベキヨシ仰ラジケリ、敦延ナマジ乞ニノリテ甫庭ワタルニ、寢殿ノ西ノホド文テ走リイデ、、梅木ノシタヨリ東ノ中門ノ廊ニ向テ走リケレバ、人々タチ騷ギケダニ、殿御笛ヲナラシ給ケレバ、廊ノキハ吾タトマリテ、ヤリ水ヨ夕南ザマニ行ニケリ、後ノ年、番長忠利、此馬ニ莱テ、コ、カシゴニタヒカレテ膝ヲツキテ、下ノ庇ニテトマリニケリ、御馬ハスル時、琴持、武邏、コレニ乘テ歡々ニアケタ走ラセタリケリ、忠利ガタメ面圏ナキ事也、
〔台記〕
p.0742 久安六年八穃十二日乙卯、上〈○近衞〉渡御皇后宮御亥召左近衞敦頸騎馬、〈敦賴私馬〉其馬甚逸、能騎不落、上深數之、使僕賜扇一枚、
〔古今著聞集〕
〈十/馬藝〉
p.0742 小松の内大臣、〈○平重盛〉右大將にておはしける時、佐循國方、〈重文子〉一座にて待けり、治承元年三月五日、内大臣に成給ける時、番長になされにけり、拜賀の夜、くせもなき馬を移し馬にひかれたりけるに、國方近習の潛を呼崑して串けるは、今夜國方、定てくせ物に乗侍らんずらんと近衞の舍人等、目をすましてみ侍らんずるに、無念の馬を仕ふまつらん事、なげき思ふよしを申ければ、おとゞ、こよひは硯の夜にてあるに、もし不慮の事もあらば、公私いまはしかりぬべし、後々乘せらるべきよし仰られければ、鬮方重ねて申けるは、若落馬仕て侍らば、國方が怪異になし侍りて、いとまを給べし、猶くせ勃に乘らるまじくば、番長にはすみやかに他人をなさるべし鯊ゑひて申ければ、おとゞ力及ばで、あがり馬をひかれにけ蔘、なかみちに、くちをはつさせてあげけり、誠に違失なし、おとゞ戚にたえず、歸給て纏頭せられけるとぞ、
〔安多武久路〕
〈智〉
p.0742 うつしむまと云は、乘替の馬の事にて、今は此馬にのり、後は外の馬にのううつうてとこゝろにて、乘移馬と云義也、さるによつて平家物語のいつくしま御幸の篠、其外の
書記を、其こゝろにて見ざれば、交段合點ゆくまじき也、
〔古今著聞集〕
〈十/馬藝〉
p.0743 武藏國住人郡筑平太經家は、高名の馬乘馬飼なりけり、卆家の郎等なりければ、鎌倉右大將〈○源賴朝〉めし取て景時に預けられにけり、其時陸奧より、大きにしてたけき惡馬を奉りたりけるを、いかにも乘る者なかりけり、聞えある馬乘どもに面々に乘せられけれども、一人もたまる者なかりけり、幕下思ひ煩はれて、さるにても此馬に乘る者なくてやまん事、くちをしき事なり、いかゞすべきと景時にいひ合せたまひければ、東八ケ國に、今は心にくき者候はず、但召人經家ぞ候と申ければ、さらばめせとて則召出されぬ、白き水干に葛の袴をぞ著たりける、幕下かゝる惡馬あり、仕りてんやこのたまはせければ、經家かしこまりて、馬は必人にのらるべき器にて候へば、いかにたけきも、人に從はぬ事や候べきと申ければ、幕下入興せられけり、さらばつかうまつれこて則馬を引出されぬ、誠に大きに高くして、あたりを拂ひてはねまはりけり、經家水干の袖く、りて、袴のぞば高くはさみて、ゑぼうしがけして、庭におり立たるけしき、先ゆゝしくそ見えける、兼て存知たりけるにや轡をぞもたせたりける、其轡をはげて、さし絶とらせたりけるを、少も事ともせずはね走りけるを、さし繩にすがりて、たぐりよせて乘てけり、やがてまかりあがうて出けるを、少し走らせて打とゞめて、のど〳〵と步ませて、幕下の前にむけてたてたりける、見る者目を驚かさずといふ事なし能くのらせ、今はさやうにてこそあらめとのたまはせける時おりぬ、大きに戚じたまひて、勘當ゆるされて厩別當になされにけり、彼經家が馬飼けるは、夜半ばかりにおきて、何にかあらん白き物を、一かはらけばかり手つから持來りて必飼けう、すべて夜々ばかり物をくはせて、夜明くればはだけ髮を結はせて、馬の前には草一把もおかず、さはノ、とはかせてぞ有ける、幕下富士川あひざはの狩に出られける時は、經家は馬七八匹に鞍おきて、手綱結びて人もつけずうち放して侍ければ、經家が馬の尻に從ひて行けり、さて狩
場にて馬の疲れたるをりには、召に從ひてぞ參られける、箇樣に鳴へたる者なし、經家いふがひなく入海して死にければ、知るものなし、口をしき事也、
〔古今著聞集〕
〈十/馬書〉
p.0744 一條二位の入道〈○能保〉のもとに、高名のはね馬出來けり、秦賴久を召て乘られだりけるに、一たまりもせずはねおとされけるを、父敦賴が七十有餘にて候けるが、是を見て、わろくつかうまつる物かな、敦賴は、よも落じどぞ申けるを、老後にいかゞとは思ひながら、さらばのれかしといはれたりければ、やがて乘て少も落ざりけり、人々目をおどろかしけり、
〔吾妻鏡〕
〈五十二〉
p.0744 文永二年十月廿六日辛卯、貢馮御覽、左京兆相州以下〈著水干葛袴〉列蓙庭上、一御馬、左京兆進騰馬也、合田四郎騎之、而引手等無左右放之、馬騰及度々、而合田雖落重乘之、打廻御前之間、高騰廿餘度、近年無如此龍蹄云云、
〔北條五代記〕
〈五〉
p.0744 淸水太郎左衞門大力の事
或時太郎左衞門、甲斐ぐうといふ馬を一疋もつ、一日に大豆を一斗くらふ惡馬なるゆゑ乘ものなし、馬屋の内を出すには、中間六七人有て、綱を付てひき出す、鞍おく事ならず、太郎左衞門、此馬に飛乘、鞭を打てはしる時、またにてゑむれば、立所に血をはきて死す、
〔鎌倉大草紙〕
p.0744 應永卅年〈癸卯〉春の頃より、常陸國住人小栗孫五郎平滿重といふ者あり、〈○中略〉其子小次郎は、ひそかに忍びて關東にありけるが、相州權現堂こいふ所へ行けるを、其邊の强盜ども集りける處に宿をかりければ、主の申は竓牢人は、常州有德仁の緬者のよし聞定て、隨身の寶あるべし、打殺して可取由談合す、〈○中略〉小栗は、かりそめに出るやうにて、林の有聞へ出てみければ、林の内に鹿毛なる馬をつなぎて置けり、此馬は、盗人こも海道中へ出、大名往來の馬を盜來けれども、第一のあら馬にて、人をも馬くひふみければ、盜ども不叶して林の内につなぎ置けり、小栗是を見てびそかに立歸り、財寶少々取持て彼馬に乘、鞭を進め落行ける、小栗は無雙の馬乘にて、片時
の間、藤澤の道場へ馳行、
〔武將感狀記〕
〈七〉
p.0745 肥前龍造寺ノ住人勝山左近ハ、其力九國ニ雙者ナシ、〈○中略〉其比圃中三カクレナキ口ツヨキ馬アリ、乘之二平ミテ駈出ル、引之テ口裂血流ルレドモ留ラズ、城門ノクヾリヲ馳入ン畜ス、額クヾタノ上ノ横木ニアタラバタマラジト思ヒ、手綱ヲ放チ、再手ヲクヾリノ上ノ横木ニカケ、以綾乘タル馬ヲ一トシメケレバ、四足ヲ縮メテト揚ラレ、物ヲ縋タル形ノ如シ、見ル者振舌、
〔奧羽永慶軍記〕
〈十〉
p.0745 本庄重長由緖ノ事
或時景虎、〈○長尾〉使ヲ以、某此程奧州ヨタ名馬ヲ求メテ候へ共、此馬口餘り强クシテ乘やキ者ナク候、願ハクハ御邊來テ一馬場セメ、我ニ見セ給へカシトイヒ送ラレケル、重長聞テ畏リ候、明々日、此地發足仕タ參リ候ハント返答ス、時ニ重長ガ郎等玉虫對馬守トタ、按者第一ノ者有ケルガ、重長ニ向テ申ケルハ、今度長尾殿、馬興行ノ事コソ心得ガタク候ナレ、タトヘ如何成惡馬ナジトモ、長尾殿ノ手ニ餘ル事有ベカラズ、況ヤ近貿ニモ名譽ノ馬乘アレバ、何ゾ君ヲ賴ミ給ハンヤ、元來敵獨ノ末ナレバ、タバカリテ討候ラハンタメナルベシ、此度ノ御出、御思案アレトゾ申ケル、重長聞タ、汝ガイフ所サ戸事ナレドモ、一度行カント返答シテユカザルハ臆シタルニ似タリ、我思フ子細アレバ、春日ノ浦へ舟ヲ以迎ニ來夕、岸ニ付テ相待ベシトイヒ置テ本庄ヲ打立、三曰ニハ景虎ノ在城春日山ニゾ著ニケタ、景虎立出、サマ〴〵モテナシ、例ノ惡馬ヲブ出サレケル、景虎、重長ニ向テ、此程奧州ヨリ求メタ戸馬ノ善惡タモ試タク候ラへド篭、家ニ乘べキ者モナク空シク遏シ候、御邊一馬場セメテ、我ニ見セ給ヘト有ケレバ、重長少シモ臆セズ、遖御馬晶候カナ、兎角一馬場セメテ見候ラハント何ノ事モナク、ヒラリト打ノジ、手網カイクリ、思フ儘ニゾ乘ニケ戸、景虎ヲ始トシタ其座ニ並居ルモノ共、皆目ヲスマシテ見物ス、重長、時分ヨシト思ヒケレバ、此馬横切タル體ニモテナシ、寿日ノ浦ニ一文字ニ乘出シ、相圖ノ舟ニ打乘テ櫓カヒヲ早メ、本庄サシテ歸
リケリ、
〔大友興廢記〕
〈十一〉
p.0746 信長公鬼月毛と云名馬豐後へ遣さるゝ事
此馬の相形、よのつねの馬よりははるかに長延て、八九寸程にして、骨あがう筋ふとく、眼は朱をさしたるご巴く、いつもいかり、常に嘶、四足をうごかし、巉がみをし、人をも馬をも食ひければ、げにも鬼月毛とも云べし、宗麟公、〈○大友〉此馬をば何者か乘べきと仰出さるゝ、爰に小笠原刑部大輔晴宗と聞えしは、本は義輝公方の侍なり、其子息大學兵衞とて、究竟のあら馬乗あり、たれ〳〵と申とも、小笠原大學兵衞ならでは、中々乘申べき仁、御座あるまじく候と別譬蠡城無難、申上ければ、〈○中略〉無難馬を引出させ、金覆翰の黑鞍置せ、紅の大ぶさに、ゑんくの繩を八筋付、舍人八人、また鍍二筋付、兩方へ引わけ、十人してひけどもためず、大鐘をならすがごとく、大の聲をしていばひ、白淡かみ、をどり嗔て馬場へ入る、宗麟公も御出なされ、諸侍茎外町人以卞ふ千でも見物に出るもの多ければ、いよく遣つかならず、〈○中略〉大學兵衞〈○中略〉六尺あまりの大の男、ゆらりと打乘て手綱を調へ、五方の口をひき、鞍の藪所、鐙の蹈所、例式のことくにて、序より早道に移、淨攝足長短の遠走蹈鎭足、其外手綱の秘術をつくし乘鎭畢ぬ、宗麟公、馬をも乗手をも御威あさからず、諸大名どつとかんじられぬ、〈○中略〉誠に七町餘の馬場を、人の息四五そくつむれば輙く往來するほどの駿足なら、其後馬乘ほどの者はのぞみ來て、十人の内、一兩人は腰をかくれども、足を出すまでは乗得ずして止ぬ、殘る八人九人は、氣色におそれて乘迄の事はなし、大擊兵衞尉は、自由の御者、名譬の次第也、雄城無難申けるは、常の馬を乘るは、我等なども、さまで替うたるやうには覺えねども、この鬼月毛は、上手ばかりにてはのられキ、第一力乘りなり、大學兵衞殿、ちからは馬よりもまし、其上上手なれば、かやうにとぞ申き、
〔武將感狀記〕
〈十〉
p.0746 松平武藏守利隆ノ家士、石黑甚右衞門ハ、於御妙ヲ極ム、少カリシ時、馬ノ道ニ名ヲ
得サセタビ候ヘト、深ク觀昔ノ力ヲ憑テ所願ヲ起シ、刀ノ把ニ蛻ヲカケ、其兩端ヲ輹ノ如ク左右ノ手ニ執テ、丑ノ時參フヲ始ム、行程往遠四里ナリ、カクスル事三年、烈風大雨トイへドモ一夜モ不怠、又佐貫又四郎ト志ヲ同ス、晝ハ卯ヨリ酉ニ至ルマデ、只御馬ノ事ノミ學習シテ精力ヲ盡ス、夜寢ル時ハ、仰臥テ足ヲ合、相踏テ鐙トシ、帶ノ端ヲ互ニ執テ韆トシテ、其術ヲ鍛錬ス、遂ニ其比天下ニ名ヲ顯シタリ、馬場ノ末ノ隍際二三尺前、横ニ地ヲ畫リ、强馬ヲ諸鐙ニ鞭ヲソヘテ、隍際ノ地ヲ畫リタル所マデカケツメ、馬ノ前足ノ蹄ヲソロへテ、ヒシト駐ルニ、不駐ト云事ナシ、一年武州ノ供シテ、岐岨路ヲ上ルニ、信濃ノ諏訪ニテ、百年以來ノ强馬アリ、石黑所望シケレバ、口付六人ニテ、眼ヒカリ息アラキヲ躍ラセテ牽來ル、石黑騎之テ口ヲ放サシム、口付、此馬ノ口ヲ放テ、地道ヲモ乘タル者ナシトテ不敢放、石黑モシカケ出テ不留ハ、馬ノ價ヲ與ント云、サラバトテ放之、馬ノ形氣穩ニナレバ、馬ヌシ奇テ見ル所ニ、町ノ横筋ニノリ入レテ不出、サレバコソヒカルレトヲ、馬主モ口付モ走リ行バ、靜ニ輪ヲカケテ、サリ口ヲ引居タリ、馬ハ人ノ乘ニ定夕タル理アリ、龍ニテモアレ、馬ト名ノ付タランヲ乘ヌト云事ヤアルトテ、町中ニ引ムケ騎之ニ、タルキ馬ノ如クニ自由ヲナセリ、アル時三十錢ノ種ケ島ヲウツ場ニテ、石黑ガ友、馬ヲ乗ルニ、其響ニ驚キテカケ出シ、アラクテノラレズ、石黑卽騎之テ近クノリヨセ、種ケ島ヲウタシムルニ、地道ノ足ナミモ替ザリキ、駑駘ノ鞭ウテドモハタラカヌヲ乘ルニ、執タル輕、踏タル鐙、少モ動サズシテ競カヽリ、ムラヅキ十分ニ奔鶩シ、强馬ヲヤハラゲテ乘ル者ノ如シ、
〔武蔭叢話〕
p.0747 中山助六郎は、かくれなき馬の王手なり、蒲生下野守忠郷御家中より、佐野大夫方へ買取候、音玉といふ名馬あり、かうかひふしあるゆゑに昔玉こいふ、ふし有て猶よしといふこゝろなり、佐野大夫よち秀忠公へ上らる、その名を古龍と改め給ふ、元より懸飛の足にて乘ものなし、高田馬場へ將軍家御成なされ、中山勘解由照守に彼古龍をのせさせ給ふ、中々はやきこと申に
及ばず、天下の人、中山が馬上の達者を譽めたら、その古龍、後に血下つて馬工郎の手へ渡り、血を養生して井伊掃部頭直孝方へ遣はす、其ときは伊提天と申けるとなり、
〔家中竹馬記〕
p.0748 馬に乘て、川をおよがするに、常の慌に鞍に乘ては、馬およぐべからず、尻つわをこして、後へ乗移也、片手綱なるべし、口傳有之、
〔一騎前意得〕
〈中〉
p.0748 馬乘樣第二
馬上水ヲ渡ルハ、石荒ケレバ沓ヲ打ツ、アフリノ緖、前ノニ筋ヲトキ、ウケニナル樣ニ尻ノ上乙タクタ、鐙腹品テクヽル、〈母衣付ノ穴カスカシ等ヲ括ル〉胸ガイオモガイ等、タレタル物芦皆クヽリアゲ、手掴ニモ水フクマヌ樣スヨタヲカケ、鹽手ヅクシニトメ、乘アグべキ場ヲ見定メ乘込ベシ、大勢渡膨トキハ、河下渡リ彎シ、水渫クナルニ從ヒ馬頭ヲ上ル故、鞍立スカシ邪魔セヌ攝、片手ハ前輪ヲ持、片手ハ手綱ヲアシラフ、艫足ツク内ハタチカヽル故、鞍ニタマ夕難シ、小控原ヲ持テ水ヘ才シゴメバ、馬ソクキヲオヨギ出ス、オヨギ出シテモ首計出シ、鞍坪ハ水三ヒタル、〈○中略〉秘曲集水深キニ從駑次第ニ馬立アガル、前足ハナルヽニ應ジ濘上リ、艫爪地ニジケツ蹙ダタ、シゲク躍ヲ上ルコトモ有、其トキ多分鞍ハナレ、或ハ引タオス鬆也、河下ノ手、頭ヲ押へ、河上ノ手、水ヲカキ、聾ヲ加ヘ渡スベシ、濁ル川ヲ渡シ、思ノ外ニ淵へノジ獻ムコトアタ、其トキハ能淨ク馬モ、一旦ハシヅマザルコトナシ、其節水ヲ得タル人鞍ヲハナレテ馬輻ナラバザル棧ニフカルべシ、馬ニソへバ嘴先ヲモタスル者也、水不得手ノ人ハ、鞍ニコタへルコト專要也、一旦ハ沈メドモ、其マ、淨上ル者也、水得タル人タリトモ馬ニ不可離、ハナレテハ馬行方シレズニモナルベタ、且甲胃シテハ上手モ溺ルべシ、馬ヲ夕ケニシテオヨガメ、人ハ助ルベシ、
〔度水徵古〕
p.0748 凡兵士の水をわたり浪をしのぐ、その術いにしへようつたはらず、今の世御家者流、その術を工にして、或は水を渡すに鞍皆具をと湊て、馬とともにおよぎ、あるひは泥障をとき、鐙を
腹おびに結付などして、馬の腹につきておよぎ、或は馬の脊のたつほどはまたがりて、馬の脊もかくるゝに至りては、馬よりおうて共におよぐべし等の術、皆無稽の事とおもはる、今の水馬の術は、かくせば、いかなるはたばりひろき川なりとも、兵馬のこすにうたがひはあらじといへども、甲冑を著、大刀をはき、矢を負、弓を持ては、いかでかかゝる蹈水のわざのなるべきや、また甲冑をとき、大刀弓矢をすて、鞍具をとき置て、はだ脊馬、はだか武者にて、敵の屯する向ふ岸におよぎつきたりとも、何のはたらきもいできず、命を全して岸につきたりとも、待設けたる陸の敵にそこなはれん事必せり、さて古書にかきのせたる所の水をわたしたるすがたを考へ見るに、甲冑をぬぎすてし事こも見えず鞍具もときしにもあら交〈○註略〉甲冑も弓矢も馬鞍の具も、よそほひしまゝにおよがせて、馬にのりたるまゝ、みなぎる浪を流れずなりにわたりたるさま也、かついにしへかならずしも今の水馬やうのならひあうしことゝも見えず、さればふるき書どもにかきのせしごとく、甲冑弓矢馬鞍の兵をよそひして、引潮の淺深をはかりて、馬に鞭うち、勢にまかせて水をわたしたる事とおもはるゝ、
〔四方の硯〕
〈花〉
p.0749 治承の頃、足利又太郎が宇治川の先陣、元曆の頃、佐々木梶原が先陣、惟任光秀、敗北の時、明智左馬介が湖水を馬にてわたりしことなざは、繪そらごと多かるべし、就中又太郎は、水馬に心得たる武者と思はる、水馬を乘者のいふ、馬に鞍おきて河水をわたるに、戎服しては、水ふかきこころにいたつては、馬尻よりゑつむことあり、繪にうつしたる武者の馬にのりて河水を渡るは、水馬ゑらぬものゝかけるなり、河水をわたらんと思はゞ、素肌に身がるくして馬に乘べし、
〔源平盛衰記〕
〈十五〉
p.0749 宇治合戰附賴政最後事
下野國住人足利又太郎忠綱進出テ、〈○中略〉此河〈○宇治川〉ハ、浪早シトイへ丑ハ底控玲カラズ、山石古同シトイへ其、渡瀨多シ、河ヲ渡シ岸ヲ落ス事ハ、鐙ノ蹈樣、手綱ノアヤツツニアリ、馬ノ足ヲカゾヘテ浪間ヲ
分ヨ、者共誉テ、〈○中略〉足利又太郎、翼先係テ下知シケリ謔此用ハ流荒シテ底深シ、大事ノ川ゾ過スナ、肩ヲ並タ手ヲ取リ組、サガラソ着ヲバ弓筈ニ取付セ鸞强馬ヲバ上手ニ立ヨ、弱馬ヲバ下手ニ並ヨ、馬ノ足ノトヅカン程ハ、手綱ヲスク夕タ步マセヨ、馬ノ足、ハヅマバ、手綱ヲグレテオヨガセヨ、前輸ニハ多クカ、レ、水越バ馬ノ草頭ニ乘サガレ、水ニハ多タカヲ入ヨ、馬ニハ輕ク身ヲカクべシ、手綱ニ身ヲアラセヨ、去バトテ引カヅグナ、歃ニ臠ヲカクヨ、餘フニ仰ノキ、内甲射サスナ、餘ダニウジブキテ、テへン射サスナ、鎧ノ袖ヲ真頴ニアテヨ、水ノ上ニテ身繕スナ、我馬弱トテ、人ノ馬ニカヽリテ二人ナガラ推流ルナ、我等渡スト見ルナラバ、敵ハ矢衾ツクリテ射ズラン、敵ハ射トモ各返シ矢インきタ、河ノ中ニテ弓引テ推流サレタ笑ハルナ、弓ノ本ハズ、重スガヲニ打カケヨ、アマタガ心タ一ニナシ、曳聾出シテ渡スべシ、金ニ渡テ過スナ、水ニ從テ流渡ニ渡スべシトタ、橋ヨリ上へ三段計り打アゲテ、三百餘騎サト打入、曳々トヲメキ叫テ渡タリ、〈○又見平冢物語〉
〔源平盛衰記〕
〈三十五〉
p.0750 高綱渡宇治川事
佐々木梶原、一陣二陣ニ渡ヲ見タ、秩父足利三浦鎌倉、黨モ高家モ、我モ〳〵ト打浸々々渡シケヲ、庄五郎廣賢、糟谷藤太、榛谷、此等ハ馬ヨタ下リ弓杖衝、橋桁ヲ渡ラントシケリ、武藏國住人男衾畠曲庄司重能ガ子息重忠ガ、靑地錦直垂篇赤威ノ鏡著テ、鬼栗毛ト云馬ニ、巴摺タル貝鞍鬣、糸總鞦懸テ、乗タリケルガ、手勢五百餘騎、サト河ニゾ打入タ蟶、此河餘所ニ聞シこハ不員思シニ、水面杏ニシテ、上尹白浪流レ早ク底ハ深ウシテ水漲下レリ、瀨臥ノ石モ高シ尹、馬ノ足立ベキ樣ナシ、軍兵等、皆危ク思ケタニ、畠山ハ渡セ殿原々々、佐々木梶原モ鬼祠ニアラズ、渡セバコソ一陣二陣ニ渡ラメ、馬ノ足ノ立ン程ハ手綱スクへ、馬ノ足、芦ヅマバ、手銅ヲクレテ灘セヨ、水シトマ三サウヅニ乘サガジ、鞍坏ヲ去テ水ヲトホセ、强キ馬ヲバ上手晶立テ、腐シク流レヲ防セ靆、弱キ馬ヲバ下手二立タ、ヌルミニ付尹渡スベジ、河雫織シテ弓引ザレ、射向ノ黐ヲ翼顔ニ當テ、鐙〈○鐙一本作冑、営作鎧、〉ヲ
常ニユリ合セヨ、弓文弓ヲ取違ヘテ、前チル馬ノ尻輪、サウヅニ後ノ馬ノ頭ヲ持セタ、息ヲ繼セヨ、息ハヅメバ馬ノ弱ルニ、透ヲア夕セテ押並々々テ、馬ニ韈人ニモカラヲ副へヨ、金ニ渡テ誤チスナ、冰ノ尾ニ付テ渡ヤ〳〵ト下知シタリ、是ニ續キテ、黨モ高家モ力ヲ得テ、打浸シ〳〵渡シケリ、
〔吾妻鏡〕
〈三〉
p.0751 元曆元年十二灣七日壬戌、平氏左馬頭行盛朝臣、引牽五百餘騎軍兵ハ麟琉郭於備前見鴟之間、佐々木三郎盛綱爲武衞〈○源賴朝〉御使、爲責落之遮行輿更難ジ凌波養之間、攝潟案譬之鹿、行盛朝臣頻招之、仍盛綱勵武意、不能尋乗賠、乍乘馬渡藤戸海路、〈三町餘〉所相具之鄰從六騎也、所謂志賀九郎、熊谷四郎、高山三郎、與野太郎橘三、橘五等也、邇令妻向岸、追落行盛云云、 廿六日辛巳、佐々木三郎盛綱、自馬渡備前國見鴟追残左馬頭平行盛朝臣事、今日以御聲蒙加戚之仰巽詞曰、
自昔雖有渡河水之類、未聞以馬凌海浪之例盛綱振舞、希代勝事也云云、
〔慶元古文書〕
〈十〉
p.0751 讃州丸韆城主京極能登守藏
今月七日、平家左馬頭行盛、五百餘騎軍兵を相隨て、備前兒嶋の城に楯籠處に、盛綱、藤戸の海を渡して、行盛巳下の者共を追伐之事、誤に昔こそ水を渡す事はあれど、いまだ馬にて海を渡すの例を聞ず、盛綱振舞、希代の勝事ビは覺え候、くはしき事、猶跡より可申候也、
元曆元年十二月贄六日 賴朝判
佐々木三郎殿
〔承久軍物語〕
〈四〉
p.0751 むさしのかみやす陦、ゑばたきち六をめして〈○中略〉きのふけふの大雨に、みかさまさちてみゆれば、ことの外なんぎのわたりなるべし、いつくにかあさせやある、なんぢせぶみ仕れかしとのたまへば、うけ給はると申て、御まへを立けるが、〈○中略〉やがてとつて返し、大將の御まへに參り、せぶみこそ仕りて候ヘと申ければ、折ふし御まへに佐々木四郎ざゑもんのぶつな、之こうしたりけるが、主ばたがことばをきゝもあへず、ゐたる所をつい立て、馬にひたとうちのり、
くだんの川せ若はせて行、〈○中略〉佐々木はさきに立て、ゑば田殿、せはこゝ候かといへば、いまだはるかのさきにて候ぞ鸞いひもあへず、さきにせぶみしたる所へ馬のはなを引むけ、がばとおとし入ければ、このほざの大雨にて、川おもてに、ゑらなみひるがへるにおざろきて、はな風ふきてとつてかへす、このひまに佐々木の四郎ざゑもん、がばとうち入たち、佐々木が馬は、くろくりげなる馬の八寸ばからもあるらんこおぼしくて、ゑだをゑうかちけるが、名をばおつぼねと申て、右京大夫、ひざうしてかひ給ふ名馬也、こんどのいくさに、かうみやうせよとて給蠹つたる也、ゑばたがむまは、かげなるむまのふごくたくましきが、立波と申て、これも髫こゆる名馬なれども、いまだのち入ざるによて、物におびゆるなり、然るに佐々木がむまのおつるを見て、玄ばたがむまも同うち入つゞいたち、河中までは佐々本が馬のあぶみに、はなをすらせけるが、耄だいにさがりて、二茫んばかうそ聡くれける、佐々木は、いまだむかふのきしへもつかずして、馬のうへにつゝ立あがり、あふみのくにの住人佐々木の四郎ざゑもんの尉のぶつな、けふのうち川のせん主んそやと、たからかに名のうけれ砥〈○中略〉佐々木の四郎は、むかひの中島にうち上りたればゑそくさゑもん太郎、生年十五にな蔘けるが、ゑろきかたびらをきて、たちをくびにかけ、父がむまのゑらがいにとり付てあがりければ、のぶつな、きつとみかへりて、むかひの川ばたまではみえつれどもこれまでわたるべき這思はざ蔘つるに、さすが吾子也、〈○中略〉いしうもこれまで參りたり、いまは是よらとく〳〵およぎかへりて、むさしのかみどのへ、せぶみをこそ仕て候へ萼申せといひふくむ、
〔老人雜話〕
〈乾〉
p.0752 信長、公方を攻る時、公方宇治の牧の島の城にあ夢、時に五月雨しきうに、川水岸に餘る程也、信長、馬を水ぎはに立て、昔の梶原佐々木も鬼赫にはあらじと云ふ、時に上流に、馬武者一騎、川ヘ打入るゝ者あり、信長云、必梶川彌三郎ならん、他人にあらじと云、果して然ち、佐久馬が軍
これを見て、梶川うたすなとて、勢を盡して打入れ大に勝つ、彌三郎四五日前に、黑の馬を信長より拜領す、その時より此事あらば、先登すべしと心に决す、
〔川角太閤記〕
〈一〉
p.0753 一明る十四日、〈○天正十年六月〉彌平次、〈○明智秀俊〉安土の城より坂本の城へかけ入るべきために打登所を〈○中略〉堀久太郎殿〈○秀政〉まちかまへ、堀藍物下知して取籠候所に、鋭大刀討、中々互に火花をちらすと聞え申候、されざも大勢に小勢、彌平亥、殘りすくなに被討果、不叶とやおもひけん、彌平次、東よら入口の町はつれへ馬の頭を引向、海へさつと馬を乘こみ、うきぬ沈におよがせける、久太郎殿方には、いまや沈〳〵と面白げに見物してありける所に、彌平弐、馬の鞍つぼをはなれ、さんずへ乘さがり鞍の後輪に手綱を取付、志賀瀋崎の一つ松をめてへなし、冐手へ近く馬の頭を引むけ、はや陸も近く見えしかば、久太郎殿、下知には、はや〳〵見物所にてはなきそや、海道筋へまわし、急乗著よ、あますなもらすなと下知して追掛させ給ふ所に、彌平次、なんなくはまへ乘上、前へとんでおち、かい道を見渡せば、馬上の者四五十騎にて、我先にと駒をはやむるを見及ければ、敵の閲八町計り鬟見及候事、
一彌平次、心に思ふやう、此馬逸物なりといへども、安土山より乘出したる馬なれば、はやつかれなん、かんよき馬は、莱殺まで草臥たる氣しき見えぬ物なれば、是よりまた急に乘ならば、一度屏風返しにひつ花とや、たをるべきなれば、敵三丁程近付て、くらつぼへなほるべきと定、息合を取出し、ゆる〳〵とかひ、馬の息をつがせ、敵三丁ほどにも見えしかば、又打乗、ふけさはをきらはず一文字に坂本の城へのり入、施に有ける中間など二三人よびよせ、此馬さだめて敵へ可渡なり、この馬の恩情、後世までも忘れまじき也、物を不可飼、頭高に暫たてゝ置、鐙をばはつすべしとて、其まゝ内讃へかけ入、か詑めたる鎧をとこの上にぬぎ置候事、此後身を薗由に可働ためと相聞え申権事、
一此馬は信靉たち也、黑鹿毛にてたけ貳寸七八分あり、井上鹿毛と云也、後にはいたや鹿毛ざ申也
〔大友記〕
p.0754 豐州勢高城ヲ責事附耳川合戰之事
鐘實ハ家賴ノ郎等ヲメシアツメ、鑑直某兩人ヲ左右ノ先手ト仰出サレ候ヘバ、讃軍ニオクレ、シカルベカラズ、大川ヲ渡スニハ心得アル事ナリ、乘入場ヨリ、ムカフノアガリ場ノヨシアシヲヨク見キハメテ乘入ベシ、ノヲ入處号クタモ、上り場アシケレバ跡勢ニコサレ、敵ニモヤス〳〵トウタル、モノナリ、用ヲ渡サント思フ時、足ナミヲハヤメ、勢タ出サセ、茎勢ヲ以テノリイルベシ、陣ドリノ時、川バタらリ三町、アルヒハ五町モニノケテ侍ヲ立ルハ此コ、ロナリ、〈○中略〉總テ泥障ヲトキテ、鐙ヲバ、ヨリ繩ニテカ皮ニ結付タルガヨキゾ、轣ヲ馬センノ上ニ引出シ、前輪ニヒキアゲ、シカトシメ、左ノ手ニテトフ、右ノ手ニテハ鑓ニテモ長刀三テ屯、我ガ持遣具ヲ手綱ニトリソヘテ持ベシ手綱ヲシムレバ、馬アヲノケニカヘシラ、身迦ヲスルモノゾ、馬ハ足ノトヾカザル處ニテハ、竿立ニタツテ、アトバカカニテ渡ル、アト足モトヾカザレバ、ヅル〳〵ト沈、、、、扨ウヲアガタニ、ツラバカリヲイダシオヨグナリ、乘モノ心ナケレバ、馬頭ヲアグル時、ツラヲウツモノナリ、ワタ馬センハ、水晶オボレタアシ丶、イタ馬センガヨキゾ、サムキ時芬、綿馬センニ水シメバ、乘人コヾユルナリ、
〔朝倉始末記〕
〈二〉
p.0754 加賀能登越中ノ凶賊亂入越前事
大將散景、〈○朝倉〉旄推取、大音麗ニテ下知スル攝、騎馬ノ武者ハ、河上ヲ渡テ、漲ル水ヲ防セヨ、左右ノ鐙ヲ踏スカシテ、馬ニハ强ク、水ニハ弱夕欝癶ベシ、步武髫ヲ下手ニ成シテ、手ニ手ヲ取り組、前後左右ヲ示シ合セタ渡ベシ、流ル者ヲバ弓弛ヲ出テ取付セ、綿囓取テ引立ヨ、水ノ遒卷所ヲバ、大石アタト心得いタ、馬ヲ引除渡スベシ、向ノ岸近ハ、一面ニ譬ヲ雙ベツヽ、魚鱗ニ作テ向ベシト、飽マデ
下知ヲ觸流シ、大將馬ヲ打入タレバ、數千人ノ兵共、我劣ジト打浸々々渡ス程ニ、サシモニ早キ大河ナレドモ、麦字ニ楓ト馳上ゲ、喚キ叫ンヂ攻きレバ、〈○下略〉
〔奧羽永慶軍記〕
〈三十一〉
p.0755 津輕戸澤六郷馳上關ケ原事
戸澤六郷、大井川ノ岸ニ臨ンデ、川ノ面ヲ見渡スニ、此二三日降クラス、餘所ノ時雨ニ水墸タ、逆浪高ク漲リ流レテ、渡サルべウモ見エザタケリ、六郷政乗、戸澤ニ向テ、夜中乙案内知ラヌ用ヲ渡ジテモヨシナシ、〈○中略〉明自川ヲ渡シ、金谷ノ御本陣ニ至リ御目見候ジハンヤト云、戸澤聞タ、御邊申サル、段一理アリ、〈○中略〉此川兼テ聞及只ル大河ナレドモ、奧ノ阿武隈川ヤ、鹿ノ渡リニヨモ增ラジ、川ノ廣サ十町ノ餘ハアルベカラズ、御邊ト我々ガ馬品テ、何カ渡タ得ザランヤトイへバ、六郷尤ト同ジ、步者ヲバ明日來レヨト島田ニ殘シトヾメテ、馬强キ者ヲ勝ヅテ泥障ヲ蹴放シ、盛安政乘、腰指ニ挑燈ヲ高ク付タ、眞先ニサツト乘入レ漣、是ヲ見タ續ク兵、戸澤尠兵衛ヲ先トシ、鈴木、佐々木、傳譬、毛利、神尾、町、太田、小田、鸛田、長、山遠、藤野、鷲野ヲ先トシ、金谷ノ笳ヲ目ニカケ、浮ミ沈ミヌ渡タタ、金谷ノ御本陣ニテ、内府公〈○德川家康〉遙ニ御覽ジ、如何サマ彼等ハ、クセ者ナルべシト仰ケレバ、目付ノ役人ヲ始メ、貴賤ノ大勢是ヲ見物ス、モシ渡シ兼テ蹄ルカ、流レ死ナバ、諸人ノ笑種ナルベシ、左右ナク渡シタランニハ、是モ時ニ取テノ高名ナルべシト、取々ノ評判ナジ、折フシ宵ノ月クモリテ、用ノ面眞黑ニシタ、瀨枕打テキタリ、流ル、昔瀧ノ如クナ嬋品、馬ノ足ノ立所ハ步マセ、深キ所ヲバ泳ガセ、馬ニ時々學ヲカケ、曾テ案内知ラス大河ヲ真一文字ニ押渡リ、浪ヲ蹴立テ一度ニ陸へ乘上シハ、天晴油月磨墨モ、是晶ハイカデカマサルベキ、
〔甲子夜話〕
〈績編八十〉
p.0755 丸子の驛にしばし休ひ、安倍川にいたれば、〈○中略〉馬牽て樂りしが、流のほとりにいたり、水にのぞみて、やがて馬ひきよせ、鞍に飛のり、安居して馬を水に入るゝに、馬前ざりしかば牽綱をふること輸の如くして、馬後をうちて鞭にかへ、馬を違めて水に追入、淺からぬ用を
やすらかに渡れり、いまの武士は、馬に乘る己もか、るわざはな、さで、たゞ口ぐはしけれど其わざは及ざるか、古の武士を見むと思はぜ、此馬孑を學ぶべし、
〔幕朝年中行事歌合〕
p.0756 廿一番 右 水馬水泳御覽〈○中略〉
永馬水泳御覽は、〈○中略〉旗本のうちそのことに續したるもの馬に乘て渡す、中に物の具して渡せるもあり、御所には兩國橋のあたちに御船うかべて御覽ぜらる、大方是も六月の中めこさ女ちとぞ、
〔有德院殿御實紀附録〕
〈十二〉
p.0756 諸番の士、馬にて川をわたす事をまなぶべしと仰下され、御厩の馬をもかし給ふ、小姓小納戸馬役のもの、おほくその事を學びたり、享保廿年七月十一日、中川にてその術を御覽あ蔘しが、かしこは諸屬商船の往來しげき處なれば、夫を妨げむ事を思召れ、のちは淺草川にて習練せしめらる、
〔政化間記〕
p.0756 寬政十二年六月廿一日
享保廿年七月十三日、大用筋に於て、初兩御小姓組御譬院の番士、及び御馬方の馬、川渡を上覽、〈御小娃組ゟ三人、御蓄鸚番ゟ三人、御馬方責人、御下難一人、都合八人也、〉後日召て各金二枚を賜り、御下乘には銀を被下、〈(中略)寬保三年七月十五日、馬用渡上覽有之、人數不知、惇廟御代上覽無之、浚廟御代寶曆孛年七月十五日、馬川渡上覽、御小姓組ゟ壹人、御書院番ゟ六人大御番ゟ五人、御馬預三人、御下乘役之者三人、都合十八人懃之、九年目明和五年七月十八日、七年目安永三年七月廿三日、五年目同八年八月三日、六年目天明四年七月廿七日、四年目當御代、同七年八月七白、雨天ニ付上覽無之、思召を以て九月に至り、牛減の物物有て、二年目同八年八月十一日上覽有之、是ゟ五年目に今に於て有之、人皺縫不同にて、當御代に至ては、二十六七人也、〉
〔泰平年表〕
〈有德院〉
p.0756 享保廿年七月十三日、大川筋において、初て御小性組、御書院の番士、及び御馬方の馬川渡を上覽、〈御小性組より三人、御書院番より三人、御馬方一人、御下乘一人、都合八人なり、〉後日召て、各金二枚を給り、御下乘は銀を被下、
〔鏖塚談〕
〈上〉
p.0756 朝士水馬御用稽古の事、寶曆五六年の比は、御書院番野澤半平、大御番和田千太郎など
を始として、漸く十人計も出し攝に臺えだら、場所は兩國の橋下元鉚橋一ケ所に限れち、初心の人は、深用越中島橋際にて渡せしなり、扨馬渡乘樣は、往返共乘込乘揚にして、始終馬に跨ウ、騁馬のごとく乗渡しけち鞍鬣馬拜腰刀を帶し渡すは上手の所作とせり、近頃の襍に、乘出し乘揚に馬に付添やうなる、見分のあしき乗渡しはさらになし、今は淺草川の泳越も出來ずして、御賠ご馬を耙よりにし乘渡す人もあるよし、さて〳〵あぶなき事の限りといふべし、たべ判金の所爲と見えたり、且寶曆の比は、甲胃を著し馬渡、幷幼年の者の馬渡しは、决而なかりしに、近頃は甲冑渡し、九歲十歲の馬渡數人これ有、水馬功者になり、指南に練磨せしゆゑ也、甲冑渡しは、土井主税、工夫にて初めし事なち、稽古場所は、近樂三ケ所に定ち、雨御番衆、駒形町、新御番大御譬、元柳橋、小普請衆は大川橋にて馬渡し有し也、當時三ケ所の人數、部齷住典に五六十人占是あるよし、寶唇の比と遠ひ、多人數になれり、かゝる安穩の御代にして、武を忘れざるの古訓にかなへる御事こそめでたけれ、
〔後松日記〕
〈十五〉
p.0757 文月〈○天明四年〉廿あまり七日、大君、〈○德川冢治〉隅田川のわたり逍遇し給ひて、水馬のわざみそなはせ給ふ、ことしは鎧著てわたせるもあり、又まだいとわかきが、かひ〴〵しうわたせしもありとぞ、
〔甲子夜話〕
〈續編一〉
p.0757 水野主殿頭〈コノ人ハ武術達者ノ聞エアリテ、槍ト柔術ハ、就中上手ナリシト、〉ト云シガ、晩年大目付ヲ勤ケル、ソノニ男小出龜之助〈他家ヲ續〉ト阿部鴻臚ノ宅、柔術ノ集會ニ、予モ往合爨心易クナリテ、其後私宅ヘモ訪ヒタ夕、瀲ノ輻キ武披ノ咄合セジ中汽某モ水馬ハ度々乘リシガ、甲臀ニテ渡ルコ十、サシテ難譎コトニモ非ズ、夫ユ巓古人ハ甲冑ニテ渉ルコト常ナリ、公邊ノ上覽ニハ、一度甲冑ニテ渡レバ、夫ヨリイツモイツモ甲冑トナレバ、具足ハ水ニ入レバ損ジ易キヲ厭ヒ、且ハ治鬱、サヤウニ用意スル程ノ者モ少ゲレバ、自然窘修行スダ者稀ニナ夕行ケヲト、コノ外龜之助、水馬ノコト數々咄
タリシガ、今ジノ内ノ一事ヲ記ルス、
〔續泰平年表〕
p.0758 天保十三年七月廿五日、大用筋へ御成、騎馬川渡上覽、奧之衆御番衆、都合五十人、交名路之、同廿七日、各金二枚を賜、
〔家中竹馬記〕
p.0758 山を越とき、馬をすぐにあぐれば、いきあひ切る事有と云々つゞら折にあぐべし、鞍がまヘなど口傳有、〈○中略〉
曲の岨乘時は、上の方の鐙をつよく蹈付て、下の方を引上、山の方をば鞍の槙の邊へさげて、我身をも山の方へ乘かたぶく心にして、馬の頭に臠をはなたず聲をかけて乘べし、
〔一騎前意得〕
〈中〉
p.0758 馬乘撲第二
或書三ガケ馬ハ、馬任セニヤル、前足ヲ大事ニノル、後足ハジミ落シタモ立テ直ス、前足ハ、タテナホスゴトナラズ、口ニ當ルコト大ニイム、鱇ニ當レバ足本ヲ見ザル者也、急ナル坂ハ、鹽手ヲ暗チ眞直ニ上ル、ユタキ坂ハ、チドヅガケニノル、上夕坂ハ、前ヘカヽリ、前輪ヲハナミ手ビクニノル、馬イソギ或ハカケ出サバ横馬ニスベシ、下リ坂ハ、カヽヘ後輪ニノル、上夕下夕其、ツヾラ折ニノアベシ、
〔吾妻鏡〕
〈三〉
p.0758 壽永三年〈○元暦元年〉二月七日丙寅、寅刻源九郎、〈○義經〉先引分誅勇士七十頒騎、著于一谷後曲、〈號鴨越○中略〉減廓石巖高餐、而駒蹄難遞、澗谷深幽、而人跡已絶、九郎主、相具三浦十郎義連已下勇士、自鷯越〈此白發鹿兎狐之外、不通驗阻也、〉被攻戰間、失商量敗走、
〔源平盛衰記〕
〈三十七〉
p.0758 義經落鷯越井畠山荷馬附馬因緣事
時旣ニ能成タリ、追手ニカヲ合セントテ見下セバ、實ニ上七八段ハ、小石交ノ白砂也、馬ノ足トマルベキ樣ナシ、步ニタモ馬ニテモ落スづキ所ニ非ズ、サレバトテサテ有ベキ事ナラ子バ、只今マデ乘タリケル大鹿毛ニハ佐藤三郎兵衞ヲ乗セ、我身〈○源義經〉ハ大夫事云馬ニ乘替テ、谷へ打向給、鹿
ノ通路ハ馬ノ馬場ゾ、各落セ〳〵ト鸛給フ、兵共我モ〳〵ト馬ヲバ谷へ引向タ、心ハ先陣トハヤレ共、流石イブセキ殘ナレバ、手綱ヲ引へテ蹟騰バ、馬モ恐テ退ケ夕、〈○中略〉白旗五十流計稍ニ打立タ宣ヒケ〆ハ、守テ時ヲ移ベキニ非ズ、賤ヲ落スニハ手網アマタアタ、馬ニ乘ニハ一ニ心、二ニ手絶、三ニ鞭、四ニ鐙ト云テ四ノ義アレ共所詮心ヲ持テ乘物ゾ、若殿原ハ、見モ著、乗モ習へ、義經ガ馬ノ立梼ヲ本ニセ驪トテ、眞逆ニ引向、ツヾケツヾケト下知シツ丶馬ノ尻足引敷セテ、流落ニ下タヲ、三千餘騎ノ兵奨、大將軍ニヅずケトテ、白旌三十流、城ノ内へ指覆譬並テ手綱カイグリ、同樣ニ尻足シカセテ、サト落テ壇ノ上ニゾ落留ル、夫ヨリ底ヲ差ノゾヒテ見レバ、石巖時尹苔ムセリ、刀ノハニ草覆ヘル樣ナレベイトイブセキ上、十、二十丈モヤ有ラント見エ渡ル下ヘ、落スべキ樣囈ナシ、上ヘ上ルベキ便モナシ、互ニ堅唾ヲ呑ヂ思煩ヘル處ニ、三浦黨ニ佐原十郎義逕進出テ、〈○中略〉義連先陣仕ラントテ、手綱攝グリ鐙蹈張、只一騎翼先蒐テ蕎ス、御曹司、是ヲ見給テ、義連討スナ、ツヅケ者共〳〵ト下知シテ、我身モツヾキタ落サレケリ、畠山ハ、〈○中略〉壇ノ上ニテ馬勠夕下、差ノゾヒテ申ケルハ、爰ハ大事ノ惡所、馬轉シテ惡カアベシ、親文カ、ル時、子ニ懸折噺云事アフ、今日ハ馬ヲ勞ラントテ、手綱腹帶灘リ合テ、七寸ニ餘テ大ニ太キ馬ヲ十文字ニ引カラゲテ、鎧ノ上ニ搔負テ、椎ノ木ノスダチ一本子デ切、杖ニツキ、岩ノ、遒ヲシヅ〳〵噺コソ下ケレ、
〔難太平記〕
p.0759 式部大輔入道殿事、〈號三郎賴國〉中先代〈○北條時行〉合戰の時、海道の大將として貞京郵下向、〈○中略〉相模國湯本にて、海道のてき、要害を構て支ける間、北の山に打上りて、式部入違殿の手勢計にて落されて、敵の大勢の中に馳入られしかば追破られき、今此難所をみるに、更に人馬の通ふべき道ならず、一谷よりさかしき岩崎を五町計う落されき、二條殿よら給られける、松風と云名馬の荒馬に乘給ひけり、馬の尻足のはひすねの皮、みな破れけるとかや、
〔相州兵亂記〕
〈二〉
p.0759 早雲蜂起之事
伊勢平氏葛原親王ノ的々ノ令孫、伊勢新九郎入道宗瑞ト云人有リ、伊勢ノ國ノ住人タリシガ、壯年ノ比ヨリ京へ上リ、公方ヘ奉公アリシトカヤ、少年ノ初ヨリ、生涯山野江海ニ獵漁ヲ好ミ、馬ニ乘テ惡所ヲ越、岩石ヲ落ス事、祠變ヲ得タルガ如シ、唯造父ガ御ヲ取テ、千里不疲シモ、是ニハ不過ト覺エケル、
〔奧羽永慶軍記〕
〈八〉
p.0760 會津喜多方合戰ノ事原田左馬介ハ、忍テ柴野ガ館ニ參ルべシ、我ハ綱木口ヨリ押カケ、相圖ヲ違力ズ働べシト宣へバ、〈○中略〉天正十三年五月朔日ニ米澤ヲ打立、猿倉越トイフ、聞エシ難所ヲ經テ、半途ニシテ日ヲクラシケリ、此道常ハ步立ノ者稀ニ通フトイヘドモ、終ニ馬ハ通リタル事モナキ惡所ナリシヲ、原田、眞先ニカケテ乘ケル程ニ、難ナク千餘人ノ者其、其夜ノ内ニ柴野ガ館ニゾ著ニケル、
〔奧羽永慶軍記〕
〈二十二〉
p.0760 鯖内坂合戰事
波打ノ本道ヨリ西ノ方、外越ノ觀音堂ノ前ナル山中ヲ、不來方ガ案内者トシテ、北ヲサシテ押通ル、是容易ノ道ニアラザレバコソ、九戸モ敵ノ寄來ル、ベキ思ヒモナク油斷セシ處ナレバ、左右ナク人馬ノ通ルベキ道ニモアラザリケフ、氏郷〈○蒲生〉ノ家人、西國武士ノ語リケルハ、昔年義經ノ攻落シ給フ、鵯越逆落シノ難所ヲ見物セシニ、今爰ニクラブレバ、物ノ數ナラズトイヒケル、サレ其大軍ニ切所ナシトハ、今コソ思ヒシラレタレ、或ハ木ノ根ニ取付、巌ヲ傳ヒ、馬ヲ乘上ゲ乘下シ、嶮巖絶壁トモイハズ、我劣ラジト押行ハ、遲々スル所モナカリケワ、中ニモ不來方修理、具先ニ進ミケルガ、元來奇石怪巌ニナレタル奧羽ノ人馬ニテ、石岩嶮岨ヲ自由スル事、目ヲ驚カスバカリナリ、
〔大坪本流馬道秘書〕
〈禮術〉
p.0760 正月乘初ノ時ハ、葦毛馬ニ白色ノ裳束シテ引出シ、明ノ方へ向、其後場中ヲ三返引廻シ、亦明ノ方へ向テ置也〈○中略〉乘初ニ駕馬ハ、靑毛、栗毛雲雀毛、右ノ馬ヲ乘ベシ、ユメユ
メ陰馬ヲ岳目ニ乘蠶ト在ベガラズ、乘人ハ衣服ヲ改メ、素袍袴ヲ著シ、指懸ヲサシ、沓ヲハイテ、策ヲ腰ニ納メ、扨馬ヲ明ノ方ヘ頭ヲ牽向騎也、騎トイナヤ、六合祓淸之策タ打テ加持スベシ、地遒三返、馳七返ハ乘納ノ地違二返也、合テ十二返乘ベシ、但シ閏月ノ時ハ、十三返乘也、陽月ノ閏ナ夕バ馳八返陰月ノ閏ナラバ乘納ノ地道三返也、納ムル時モ明ノ方へ馬ヲ向テ置ベシ、〈○中略〉乘初ニハ退口ヲ引コトナカレ、口ヲ割テ乗コトハ、猶以テ嫌フコト也勿論絶差テ乘コト大キニ忌也、能々心得ベシ、同乘初ノ秘文、六合祓淸之策ヲ打テ、歲德祚、當年中本明願心、熱田大明祠、八幡大祠宮、鹿島大明祠、怨敵消滅、惡魔降伏、子孫繁蘯、武邇長久、諸之惡事災難、人馬之惡事災難ハ、雪ノ如ク、水ノ上ノ淡ノ如夕、打拂給淸給、聞召玲知召給ト唱テ、策ヲ腰ニ納ムルナリ天縄文也能々倍授スベシ、〈○中略〉少人ノ駕初ハ、七歲九歲十一歲ヨリ駕初ベキ者也、大方ハ甲著初ノ時、馬初メモ在べシ、其時ハ甲ヲ著ナガラ乗コト吉、又馬初バカリノ時ハ、素袍長袴ヲ著シ、茉ヲ帶シタ玉女ニ向、同馬モ其方へ牽向騎べシ、〈○中略〉昔賴朝ノ若公萬壽奈、七歲ニシテ御甲ヲ著シ初ラレ、御馬モ駕初ラレシナリ、〈○中略〉又今代公方樣若公、御馬駕初ハ、松之廳ニテ初メラレシ、先乘ハ村上加賀守永幸也、
〔長祿二年以來申次記〕
p.0761 正月二日、年始御乘馬始在之、〈毎年今日式日也〉御西向松御庭〈御掛り也〉にてめさる、御鞭御沓之役、〈一色治部少輔政煕〉御馬をば〈御厩二郎四郎〉引て參るを御緣より被召也、御鐙〈政煕〉押へ申忙、御鞍なほらせ、御手綱被取定候而後、次郎四郎、平中門之外へ罷出候而在之、政熙一人は、平中門之内、南よりに伺公候、召終られ候而、又〈次郎四郎〉參て御馬の口をとる也、此趣も應仁亂前までの攝云々、其以後常鐚院殿〈○足利義熙〉御時以來は、伊勢守、小笠原など伺公、其頃はじめつかたは、御鞭は小笠原、御沓役雖爲政煕、のち〳〵は伊勢守、小笠原など計役之、
〔東山殿年中規式〕
p.0761 正月二日、于當御所良有御休息〈テ〉、渡御子西向松御庭、〈カヽリアリ〉御乘馬始、御鞭御沓、一色治部少輔政煕役之、御厩別當次郎四郎牽御馬ハ從塀重門參入、被馭於緣上、御鐙政煕勤之、被執
御手銅テ後、政煕候于塀重門内南方、次郎四郎ハ、同外ニ蹲踞、召畢而次郎四郎、執御馬口則入御、然後奚服一領、賜次郎四郭云々、
應仁亂以後ハ、伊勢守、小笠原等、伺公候ヌ其時ハ御鞭小笠原、御沓政熙役之、後ニハ伊勢守、小笠原計參上、或日、近年者御厩者牽來時、於塀重門内バ伊勢上野介葺取之、御鐙伊勢因鐇守勤之、御鞭沓指掛者、伊勢守役之云々、
〔幕朝年中行事歌合〕
p.0762 五番 左 馬召初
治れる人のこゝろの駒なれば君が手綱にまかせてぞゆく〈○中略〉
馬召初は、む月のはじめ、吹上、もしくはおくの馬場にならせ給ひ、この事うけたまはれる小納戸の上首、馬ひかせて恵方にむかひぬれば、やがてめさせ給ふ、事はてゝ御厩のつかさにろくを給へり、
〔吾妻鏡〕
〈三十四〉
p.0762 仁治二年十二月廿一日甲戌、將軍家若君御前、〈○藤原賴經子賴嗣〉御乘馬始也、及晩於小侍小庭有此蠻前武州〈○北條泰時〉被奉狭持之、遠江守、前右馬権頭以下數輩、群居庭よ近江四郎左衞門尉氏信、引立御馬、若狭前司泰村奉抱之、小山五郎左鵆門尉長村鉚御鐘云云、
〔蔭凉軒日録〕
p.0762 永享十二年三月廿九日、昨日若公樣、御馬乘始有御禮、故今農御相伴衆、鹿苑寶山、相國用剛、崇壽竺雲、等持寺瑞溪諸和尚、爲御禮被參之、
〔義尚發御乘馬始記〕
p.0762 常德院殿〈○足利義熙〉樣御馬召初らるゝ事
文明五卯月十日午刻
花の御所にて召初らるゝ記
松の庭にてめす也、若公樣〈○義熙〉御ちやうけんを召て、南の竹すのこのとほりの御わき戸より御出有て、西の御えんのうへに御立あり、其時へい中門よう管領、〈○細川勝元〉右馬頭殿、〈○細川政國〉其外役者
參、伊勢守、〈○伊勢貞宗〉へい中門をあけられ、譬領御參ありて後若公樣御出、伊勢守、御懸の南よ夢參、若公樣を、たつみのすみの松のも芒、すこし南東へより、いだきおろし被申候而御庭にて御鞭を小笠原民部少輔〈○長朝〉持て參、御左のかたよ蔘御腰にさし申也、御鞭はくま柳の御鞭なら、とつか有、其後伊勢八郎左衞門御沓をまゐらせて、如常めさするなり、若公権、西むきに御立有也、伊勢守、御かいしやく也、御沓は赤松邏上、攝磨皮ごも見せ也、御沓の内は、こうばいのきぬ也、御馬は譬領よち進上のかはらげ、但辻あるによつて聰明殿〈○細川政元〉進上の黑にめすなり、御鞍は、かながい、御鐙共に伊勢左京亮〈○貞誠〉作也、へい中門の外迄、次郎四郎ひきてまゐるを、左京薨請取、東がしらにひつたて候を、若公樣を伊勢守いだき串、御馬にめさぜ、御そばに伊勢守、小笠頂民部少輔兩の御わきに參也、御馬の爾灣に、右の方には伊勢八郎左衞門、〈○貞遠〉左に左京亮付申て、御馬を北之松貳本のあひへ、うち御出しありて、それより西南へ三べん御まはしあり、三べんめを、ちとひろ〴〵とめして、もとのごとく懸の内へ御馬をめし入るなり、南の方へうちまはされ、懸め四本をこめられ、三べんうち御まはし候て、又懸の中程よちぢと東に御馬を立られ、はじめのことく南の方へ伊勢守いだきおろし申候而、頓而下にて、御鞭をも御沓をも初の役人給られ候て、以前のごとく御、わき戸より遠御なるな参、御馬めさるゝ間は、御所檬、御中門より御出あちて御座あるな参、管領、へい中門より南西のへいのきはに被畏な獅、右馬頭殿計、御供衆の中には伺候也、是も西の方、へい中門のきはに被畏なち、御劔は大館十郎殿、御うち刀もたるゝなり、未申のすみの松よりすこし東に被畏なり、御かた衆は、北の屋かきのきはに、おの〳〵畏、皆々ゑぼし上下なり、此外は御庭には讃も伺候な鼕なら、〈○中略〉
此後東の御七間にて御劃面有之、先御所攝、御獨面也、管領御馬大刀進上、そのまゝ御前に伺候、其外國の衆進物、同公家御供衆、外榛奉公方奉行、山法師少々、譬師陰陽家の者、御大刀邏上、外樣奉公
方奉行衆、すわう小袴の衆もまじるなり、但御かた衆、又者奉行も、御前衆は悉ゑぼし上下なり、御かた衆は奉行同前に、皆々御大刀進上候て、後譬領被出候也、悉御大刀遲上おわつて後、又若公樣御出あうて御對面、同譬領重而御大刀を持參枝申、はじめのことく御七間の内、中のせうじの西のわき北のすみに伺公なり、申次御供衆少々、若公樣御對面之間、御所に伺候也、御座敷せばきによつて、西の御えんにも伺候の方もあち、後代のために註置者なり、
〔殿中申次記〕
p.0764 正月〈○永正十六年〉五日
一御乘馬始〈○足利義植〉在之、如例年、但今日へ御延引、
一御服、〈就御乘馬始之儀被下〉御厩孫次郎、
〔蜷川親俊日記〕
p.0764 天文八年正月二日、御乘馬始、如例年、貴殿、〈○伊勢氏〉御沓尻懸御進上之、
〔蜷川親俊日記〕
p.0764 天文十一年正月二日、貴殿御出仕之、公方轢御乘馬始之御沓鞦進上之、
〔續應仁後記〕
〈四〉
p.0764 新將軍御元服記
一同日〈○天文十五年十二月二十日〉若君〈○足利義晴子義輝〉御馬乘始有之、如舊例、御馬〈河原毛、印雀目結、〉定賴朝臣進上之、
一御弓一張、白木也、不張シテ捲ノ上ヲ引合紙二重ニ取ワ、竪紙ニシテ包ミ、水引ニ結、弦、御テウヅ、紳頭一手也、引合ニテ包之、御鞍鞭二筋、熊柳塗タル噺紫竹ト也、何モ朽木民部少輔植綱調進之、〈一本、何篭小笠原民部少輔植盛調邁之云々、此儀不審、〉
一御手綱腹帶御鞭鞍〈皆具梨地〉御沓御指掛、子細アリ伊勢守貞孝調進之、
、一御鞭御沓、伊勢二郎左衞門貞淸持參之、
一御馬引參事、盛正被勤之、尻綱取ハ御厩ノ者也、
づ庭上ニ公家ノ面々、井定賴義賢伺候、御劔大館左衞門佐持之、井御供衆、其外各々庭上ニ伺候、但是ハ出御ノ後也、
一若君、妻戸ヨリ出御、御烏帽子ヲ召レ、御腰物帶セラル、御劒大館左衞門佐睛光、御小者千若、御沓ヌギヨリ御緖太ヲ參ラセ、於庭上御沓ヲ召ル、、植盛貞淸、樣醴ヲ被勤、御鞭ヲ指レ、貞孝、懷キ參ラスル也、御馬ニ召サル、時、御馬口取ハ盛正、御鐙植盛押へ奉ル、御妻戸ニ向テ鞠ノ懸有之、四本懸ノ冰ノ内ヲ三返召サル、、貞孝植盛、御馬ノ兩方ノロニ付テ左ヘヲリ返シ、三返ノ後、又貞孝、懷キテ下シ申サル、
一御乘馬始以後、表へ出御有り、御三盃參ル、上野民部大輔信孝、持出之、大館左衞門佐晴光、御酌取也、植盛御大刀進上ス、仍御盃頂戴セシメ、次ニ御馬御大刀等拜領、貞孝申茨之也、其後御銚子取納、
一次ニ貞孝、御大刀持之、盛正貞淸、以金覆輪鞍兩人御禮被申、申次ハ信孝也、其後還御、
〔言繼卿記〕
p.0765 永祿九年四月廿一日、一乘院殿御還俗、今日叙爵、左馬頭ニ被任云々、御隱密云々、同日御著袴、御乘馬始御判始等、於江州矢嶋有之云々、不及御元服之沙汰也、〈○中略〉御名字義秋〈○後改義昭〉云々、儒者勘進歟如何、
〔國俗變更默識録〕
p.0765 歲〈○文化二年〉乙丑之正月、御馭初、〈○土佐山内氏〉前より天氣能、殊に十一日は、すぐれて能き天色、〈○中略〉近年稀なるよき御馭初日にて、御規式首尾好、御當日晩七ツ半過相渡たり、先以恐悗之御事也、ゑかるに御馭初前より御當目にいたるまでの寂寥たる事は、吾八十の齡にても、今までためしも覺えざる事也、〈○中略〉當朝御家老中、馬立場へいたり給へるを聞くに、五藤令尹の外は皆々乘輿にて、騎馬し給へるはなしといふ、御馭初前の試邏しせる諸士も、年長せるはなく、皆童穉のみなるよし也、〈○中略〉前々は小身の士の借れる事はありといへども、祿高き士の馬方の馬を借ちて馭る事は耻こせるやうにありしが、近年は少しも是を班辱とおもは譫風になりたり、〈○中略〉御馭初當日、升形にて借れる馬に乘り、其馬主口をとりて、不尊法外なる有樣にで外形に引向、
本町の方へ引出し置て、夫よう馬場末にいたれば、駅廻しには馬方の仲聞侍、かまひ居て速に口に付引行を、頓て下り立とひとしく、帶屋町を上へ、汗馬に策を加へ走りのぼりて、前のごとく外形に率ゐたるを、次に借れる人待居て叉前のごとく騷り行事、前に記す士の如くなり、これ攝人霍いふ事なく、項背相望み、皆かくの如く也、天正年中、江州長濱以卒、天下に比類なき武家の儀式なるを、後世に至うてかく衰へて、士の本意に鞋はざる事にいだりぬるをば恐れ入たぢ事也、これを騎馬の士は知行役古おもひ、馬かたは駄賃づけする米俵と同じおもひ入にて、利を得る事を喜びて、かくのごとく也、是正しく近世往々、貧困にいたれる士風の廢墜、甚しきのしからしむるによれる故也、嘆ずべし、
〔將軍德川家禮典附録〕
〈一〉
p.0766 大御所秀忠公將軍家光公御上洛之記同月〈○寬永三年九月〉六日、二條御城行幸、〈○中略〉
一馬場殿において粂馬叡覽に付、騎馬之達者を撰み蟀天麌其中にも松平石見守輝澄、殊奠能仕ニ付、御戚之餘り、大御所より鎌倉助真之御刀、將軍家より守家之御刀被下、八條流之遠者、中山勘解由照守ハ、老衰ニ付枠助六直定勤之、
〔泰平年表〕
〈嚴有院〉
p.0766 明曆三年七月八日於山里馬規兩御番乘馬上魘、
〔泰平年表〕
〈文昭院〉
p.0766 寶永六年九月廿三日、吹上に於、諸御番方的射上覽、同廿六日、同處においゼ、乗馬上覽有、同月、兩術共勤し者へ、沼て黃金を賜る、
〔甲子夜話〕
〈十六〉
p.0766 享保ノ始メハ、其前ヨリ武事廢リシ風俗ナルヲ更張セラレン迚、奧向ノ輩武技ノ御世話アリシガ、一日吹上ヘ成ラセラレ、俄鷯御供兩番衆ノ乘馬上覽アルべシト仰出サレシニ、其中ノ某、是迄馬ス乘タルコトモ無キガ、據ナク騎馬セシカバ、馬ヲ進退スルコトモ出來ズジテ乘出シタル所、ヤガタ馬ハ側ノ土手ノ草ヲ喰ツヽ、終昌土居ニ上レドモ、センスベキ撒モナク、只
今落ント見ユル計ナリ、上〈○德川吉宗〉御覽ジテ、助ケ下ロセトノ御諚ナリシカバ、人々集駑テ馬ヲ引留、ヤウ〳〵下梦得ヌ、某マコトニ面臻ヲ失ヒ、且愧怖レテ地上ニヒレ伏尹アハシニ、其時御諚ニハ、其方馬ハ初心き見ユルガ、精出シタ衝タケナバ、又見ントゾ仰ラレケル、某誠ニ恐入リ、家ニ歸梦ツラ〳〵御一言ノ難有サヲ思ヒ、何ニモシテ馬術ヲ勵ンモノヲ達、病ト稱シテ小普請ニ入ジ、師ヲ求テ畫夜ノ差別モナタ學ビタリシ、三年き云ニ師ヨゾ印可シヌ、担御番入ヲ願ヒ、再度御番勦ケ夕、吹上供奉ノ乘馬御覽ハ稀ナ戸コトナ夕ガ、董誠ノ戚通ニヤ、某吹上御供ノ日乙、番士乘馬御覽ヲ仰出サレケリ、某雀躍ニ堪ズ騎馬セシ篇、先年トハ違ヒ、其騎法、アタヲヲ捗タ目立ツ計ニ見エケ夕ジ、早クモ御目留リ玉ヒ、何毛ノ馬乙乘シハ何某ナルベシ、扨モ術ノタケタルコトヨモ鷺タ拒ノ御實譽シ玉セ、其番頭ニ、某ハ三年前三カク〳〵有シ、今度ノ騎術天晴ナヲ、志ノホド用立ツベキ者ニコソ、目ヲ掛タ引立遘シ候へト面命シ玉フ、番頭モ夢有サノ餘リ、某ニ其旨ヲ傳ヘシカバ、某モ程逼シコトゾルヲ、姓名サヘ御記臆アラセジレシ夢有サヨトテ涙ヲ流シ气某生涯ニ、馬術ノ門人、凡三千餘人ニ及ビタ夕シ、一時ノ名人トゾ聞エケル、
〔後松日記〕
〈十五〉
p.0767 葉月〈○天明四年〉十あまり三日、乗馬上覽ありしとぞ、こはこと更に、つよ馬をのせさせ給へるにもあらず、三物作物射させ給へるにもあらず、唯君達の御馬屋にかうて、常にのりならし給へるを、御前にてみち拍子足をのり給へるのみなう、されどあやまちて、すべりおりさせ給へるもあり、又まだきにおよすけて、いとよう乘給へるは、いみじう愛させ給ひ、故おほぢ君のま心につこめさせ給へるをもおもほし出給へるなど、ねもころに仰せことを給へるとぞ、
〔泰平年表〕
〈大御所〉
p.0767 寬政三年八月七日、於吹よ御奏者番、雁の間詰、菊の間椽頗詰嫡子、乘馬上覽、
○按ズル篇、水馬上覽ノ事ハ、渉水ノ條ニ、朝鮮人ノ馬備上覽ノ事ハ、曲馬ノ條乙アリ、
〔享祿本類聚三代格〕
〈十八〉
p.0767 太政官符
應禁止諸國貢上御馬使雜色人譬輙用公築事右得美濃國悟韆、檢案内太政官去年十一月五日下爾斐武藏兩國蕎耨、得參河國璽靨、諸郡司驛長等申歌云、牧鬣主當等依彼位階、乗用人馬、自有恒條、而件御馬長、拜馬譬書生、占部足工騎士等、身是白丁、無官狩輙乘用、祗尋其由、曾無明交、是則郡司驛長畏彼威勢、所行家也、積著成常、言而爲例、加以天長三年二月十一日格云、信濃上野雨國、各牧監一人、甲斐武藏兩國、各主當一人、馬譬毎國一人、但騎士率馬六匹以宛一人右、然則依格陪從、而多牽雜色濫用公乘者、國司雖欲據件格以糺行い而寄事貢御、强穩舊跡冖嗷論之間不得輙改懿請殊下知永絶濫坦謹請官裁者、從三位守大納言乗左近衞大將行陸奧出羽按察使藤原朝臣墓經宣、件使等可用公乘具在先格、而不辨格旨、醐恣乘用、於事商量、責在使人、宜殊仰下早合禁遏、若不欽符鬣、猶致濫垣使人録名言上、雜色人不問位蔭ハ驛頭决杖六十、依承和十二年符看之路次之國亦宜准之者、甲斐武藏兩國、依此新、制、無憚改行、而信濃上野牧監等、不遵朝章、多用公乘、暴惡方盛、違犯難遏望請准彼兩闕、明被科懲、謹請官裁者、右大臣桧耳宜嚴譴責、勿令更然、若聾葱制旨、强致違犯、罪如先質曾不寬宥、路次之國、亦宜准麁、貞觀十三年六月十三日
〔延喜式〕
〈二十八/兵部〉
p.0768 凡左右馬寮騎士、葺寮十人、〈○中略〉省隨其解移申官、勘籍補之、其灣帳者、毎年送省、
〔延喜式〕
〈四十八/左右馬〉
p.0768 凡営宗、杜本、山科譬祗夏冬祭、走馬十匹、其使屬一人、香馬譬騎士馬部笋供奉、
四月廿八日御意駒式、〈○中略〉鞍不調馬、騎以騎士、
凡騎士十人、隨其才移主ハ部、勘籍卽預寮煮考、若無故不上者還本、其衣服夏冬二季申官、
〔延喜式〕
〈十五/内藏〉
p.0768 諸祭幣帛
大原野祭〈○中略〉
使寮允一人、史生一人、近衞將監一人、近衞十人、馬寮允一人、騎士二人、御馬十匹、
○按ズルニ、騎士ハ、卽チ後世所謂馬乘ニシテ、調馬ヲ以テ職掌トナス者ナリ、
〔江家次第〕
〈十九〉
p.0769 御覽陸奧交易御馬事
御馬乘十五人、渡階下向日華門、
〔法曹至要抄〕
〈中/禁制〉
p.0769 一染掴成文衣袴事
承平三年十一月九日、別當宣羹、如聞祭使等摺袴下襲、其長遏多耨、仍使官人等向祭使所出、件袴下襲任法糺行、
案之御馬乘鷹飼舞人等之、臨時被盡摺衣之外、不論男女、先從破却、可决答四十、
〔年中行事秘抄〕
〈八月〉
p.0769 十五日石淸水放注曾事
天延二年八月十一日丙戌、藏人頭右中爵源朝臣伊陟傳宣、中納言源朝臣延光宣、奉勅、〈○中略〉石淸水宮、八月十五日會、宜仰左右馬寮、十列御馬各十匹、自今年永隔年、分供奉彼會日、但乗尻者、左右近府、御馬乘、近衞等供奉、
〔寬文武鑑〕
p.0769 御馬別當〈馬責同心三人宛十俵に三人ふち〉
〈百五十石〉 木村孫八郎 〈六百石西丸下〉 諏訪部彦兵衞 〈百五十俵はくろ丁〉 珂文九郎〈百五十俵神田〉 西川瀨兵衞 〈百俵あさくさ〉 石井喜平次 〈百五十俵四人ふち神田〉 西川淸左衞門〈百俵五人ふちあさくさ〉 石井孫左衞門 〈貳百俵〉 細谷彦右衞門
御馬預り衆
〈三百俵近廻し〉 中山勘兵衞 〈三百九十石よ〉 黑澤杢之助 〈五百石長田丁〉 門葉助左衞門〈三百俵あたごの下〉 秋山六左衞門 〈二百俵〉 加藤新右工門 〈二百俵〉 加藤權右工門
〔嘉永武鑑〕
p.0769 御召御馬預〈燒火之間御役料二百俵〉 御馬乗十人 五十俵三人扶持
諏訪部八十郎
御馬預〈燒火之間二百俵高御役料十五人扶持〉 御馬乘〈五十俵三人扶持〉三人ヅヽ
鶴見七左衞門 曲木又兵衞 大 武藤助
御馬方〈燒火之聞〉 二百俵高
渡邊半十郎 曲木仙之助 大武虎之助 鶴見又吉
渡邊隣之丞
御馬乗 五十俵三人扶持 西御丸下御厩
織田爲藏 所多四郎 根村藤藏 長谷川鐵藏
小川太兵衞 若林忠藏 岡部順助 田島彌十郎
所林藏 根村藤太郎 〈見習〉田島重次郎 〈見習〉小川金之助
御馬乘 五十俵三人扶持 新シ橋御廐
井出兵作 森田長藏 瑠里鐵之助 〈見習〉井出新之丞〈見習〉森田與作
御馬乘 五十俵三人扶持 神田橋外御厩
〈見習〉所鐵次郎 中島源藏 中用源右衞門 所多一郎〈見習〉中島正藏 〈見習〉中川良之助
御馬乘 五十俵三人扶持
御口組頭〈三十俵二人フチ 五人〉 御口之者〈昔黌二人フチ 三十人〉
御馬飼〈十俵二人フチ 五十人〉 爪髮役〈三十俵二人フチ 四人〉
御馬飼小頭一人〈十五俵二人フチ〉
〔儀式〕
〈一〉
p.0770 春日祭儀
齋女駕輦參社、其行列也、〈○中略〉駕馬女左右各四人次之、〈相當走馬、並男從左右各二人、女從遘馬左右各一人、〉駕馬童女左右各二人次之、〈男女従同上〉
〔儀式〕
〈一〉
p.0771 賀茂祭儀
時刻齋王駕輿而出、〈○中略〉乳母左右各一人、〈男徒馬副各三人、女從近馬各一人、〉藏人左右各四人、〈男女従同乳母〉女孺左右各三人、〈男從馬副各二人、女從近馬各一人、〉童女左右各二人、〈男女從同女孺〉
〔延喜式〕
〈四十八/左右馬〉
p.0771 凡賀茂二社祭走馬十二匹、〈松尾二匹在此内也〉馬別韈鞋料調布四尺二寸、表腹滯七尺結頴髮絲二爾、〈餘祭馬装准此〉其使五位巳上官一人、〈使者發東之數見内藏式〉皇后宮走馬二匹、〈馬装同上〉並二寮遞供奉、〈餘祭准此〉又女騎料四匹、〈内侍巳上料〉雨祭二日經御覽、〈兩寮之間點定能否〉齋院女騎料八匹、屬馬譬奧生各一人、共預供之、
〔西宮記〕
〈四月〉
p.0771 賀茂祭事 定轢日前駈〈上旬定〉
未日、藏人近衞次將、共於右兵衞陣前、點命婦藏人闇司馬、〈院女騎馬不點、或於御前黥、延喜年後不點典侍馬、諒闇内裏女使不立、近年立、〉
〔小野宮年中行事〕
〈四月〉
p.0771 中未日御覽左右馬寮女騎料御馬事
中少將一人候御前、髓勅仰騎下之貞御覽十刻之時、又以效之、
〔延喜式〕
〈五/齋宮〉
p.0771 齋王遷入野宮河頭禊
其日齋王駕輿、〈○中略〉駕馬女廿人、〈乳母二人、藏人六入、采女四人、童女四人、掃部二人、御厠二人、〉
〔延喜式〕
〈五/齋宮〉
p.0771 造備雜物
御鞍二具、命婦鞍一具、〈已上毛韃〉女孺鞍四具、〈皺文韈○中略〉
凡御馬二匹、女儒乘馬六匹、並以左右馬寮馬充之、若有死朱者請替
〔延喜式〕
〈四十八/左右馬〉
p.0771 凡齋王邏野亶日、鞍馬十匹、〈乳母已下御関人以上料〉車二兩、寮官二人陪從、其向伊勢者、鞍馬十三匹、迄近江國府、〈藏人巳下女覊巳上料〉永充四匹、〈一匹躑馬、自餘女騎料、其鞍冨備、若有闕尭韆部補之、〉
〔日本書紀〕
〈二十九/天武〉
p.0771 十一年四月乙酉、詔曰、自今以後、男女悉結髮、十二月三十日以前結訖之、唯結髮之
日、亦待勅宣婦女乘馬如男夫、其起于是日也、
〔政事要略〕
〈五十五〉
p.0772 馬牛〈婦女乘馬如勇夫幕〉
私記云、從此以前、女子騎馬、鐙於一方也、
〔日本書紀通證〕
〈三十四〉
p.0772 今按婦人乘馬、旣見致明紀一蓋太古有男女縱楢之璽也、故十二〈○二字三誤〉年紀曰、乗馬縱横、並任意也、
〔書紀集解〕
〈二十九〉
p.0772 按古婦人乘馬丕跨鞍、至予此始有制、跨乘輿勇子同、
〔日本書紀〕
〈十九/欽明〉
p.0772 元年九月己卵、大俘金村居在吉宅、稱疾不朝、天皇遣瓢円海夫人勾子慰問慇懃、大連怖謝曰、臣所疾者非餘事也、今諸臣等讃臣滅任那、故恐怖不朝耳、乃以鞍馬鱠使、厚相資敬靑海夫人、
〔日本書紀〕
〈十九/欽明〉
p.0772 二十三年六月、是月或有譖馬飼首歌依日、歌琉之妻逢臣讃岐鞍繃鞴有異、旣而慕覦、皇后御鞍也、智牧廷尉鞫問極切、
〔日本書紀通證〕
〈二十四〉
p.0772 以鞍馬鱠靑海夫人、見蕗紀元年、掃女乘馬法見天武紀薊古耨皇后亦御之也、
〔延喜式〕
〈四十八/左右馬〉
p.0772 造女鞍一具料
〔日本書紀〕
〈二十九/天武〉
p.0772 十三年閏四月丙戍、詔日、〈○中略〉女年四十以上髮之結不結及乘馬縱横、並任惠也、
〔西宮記〕
〈四月〉
p.0772 賀茂祭亭
康保二年四月十九日己未、御記云、午剋左大臣〈○藤原實賴〉參上、奏官奏、訖於仁壽殿、覽賀茂祭女騎料馬、及右馬寮家嶋牧馬、
〔小右記〕
p.0772 永觀三年〈○寬和元年〉四月廿一日乙未、參内、於淸凉殿麑女騎料馬、〈左三、右三、〉余〈○藤原實資〉候御前、以右三匹、爲女騎料、〈命婦藏人攤高等也〉毛付後注付、下給馬寮官人、〈○中略〉覽表騎馬之緩、覽左右馬寮十例、及二坊御馬
等、臨時仰事也、
〔枕草子〕
〈十一〉
p.0773 御經のことにあすわたらせおはしまさんとてこよひまいりたり、〈○中略〉とらのときになんわたらせ給へるなり、〈○中略〉いつしか出琴せ給はゞなべ、、まらきこえさするに、いかならんと心もとなくおもふに、からうじてうねめ八人馬にのせてひき出めり、靑すそこのも、くたい、ひれなどの風に吹やられたるいとおかし、ぶせんといふうねめは、くすししげまさが玄る人な見えびぞめのをりものゝざしぬきをきたれば、ゑげまさは色ゆるされにけりと、由の井の大拍言〈○藤原道賴〉はわらひ給ひて、皆のりつべきてたてるに、今ぞ御こし、〈○一條后藤原定子〉出させ給ふ、
〔源平盛衰記〕
〈三十五〉
p.0773 巴關東下向事
木曾方ヨリ、萌黃糸威ノ鎧ニ、射殘シタリケル鷹初征矢負テ、滋藤ノ弓真中取、蘆毛馬ノ太混キニ、少キ巴摺タル鞍置テ、乗タリケル武者一陣ニ進タ戰ケルガ、射モ强、切モ强、馳合々々責ケルニ、指モ名ダカキ矗山、川原へ颯ト引テ出畠山、半澤六郎ヲ招テ、如何ニ戒淸、重忠十七ノ年小泙ノ軍ニ會初テ、度々ノ戰ニ合タレドモ、是程軍立えケハシキ事ニ不合、木曾ノ内ニハ、今井樋口楯根井、此等黷ソ四天王ト聞シニ、是ハ今井樋口ニモナシ、サタ何ナル者ヤラン噺問ケレバ、成淸、アレハ木曾ノ御乳母ニ、中三權頭ガ娘巴ト云女也、ツヨ弓ノ手ダリ、荒馬乘ノ上手、乳母子ナガラ妾ニシテ、内ニハ重ラ仕フ樣ニモテナシ、軍ニが二方ノ大將軍シテ、更ニ不覺ノ名ヲ不取、今井樋口ト兄弟ニテ、怖シキ者ニテ候ト申、畠山サテハイカゞ有ベキ、女ニ追立ラレタルモ云甲斐ナシ、又責寄テ女ト軍セン程ニ、不覺シタ尹永代ノ疵、多者其ノ中ニ、巴女ニ合ケルびジ不鮮ナレ、但木尊ノ妾トイへバ懷キゾ、重忠今曰ノ得分ニ、巴ニ組ンデ虜ニセン、返七着其トテ取テ返シ、木曾ヲ中ニ取籠テ、散々ニ蒐、畠山び巴ニ目ヲゾ懸タリケル、蓮ミ退キ廻合ン〳〵ト廻ケレバ、木尊巴ヲ組セジ卜、蒐阻蒐阻テ、二廻三廻ガ程廻ケル處ニ、畠山巴强チニ近ク廻合、是ハ得タル便宜ト思、馬ヲ早メテ
馳寄テ、巴女ガ弓手ノ鎧ノ袖ニ取付タリ、巴叶ジトヤ思ケン、乘タル馬ハ春風トテ、信濃第一ノ强馬也、一鞭アテ、アヲリタレバ、鎧ノ袖フツト引切テ、二段計ゾ延ニケル、畠山是ハ女ニハ非、鬼祠ノ振舞ニコソ、加樣ノ者ニ矢一ツヲモ射籠ラレテ、永代ノ恥ヲ不可殘、引ニ過タル事ナシトテ、河原ヲ西へ引退キ、院御所へゾ歸參ケル、
〔甲子夜話〕
〈續編十六〉
p.0774 予旅行ノトキ、江州越智川ノアタリヲ、天氣好リシカバ步行セシガ、向ノ藪中ヨリ馬ニ乘リ來ル婦人アリ、常ノ乘鞍ニ皆具シ、婦酒藩士ノ妻ト見ユル風體ニテ、口添ノ男モ賤シカラヌサマナリ、予ガ來ルヲ見テ、路傍ニ片ヨリテ在ルヲ覗ルニ、手綱ヲ執リ、裾ヲ股間ニ引入レ鞍ニ敷キ、何カ土産ト覺シキ物ヲ風呂シキニ包ミ、後輪ノ四方手ニ二ツ三ツ結ツケテアヲ、路人ニアレハト問へバ、コノアタリノ御家中ノ内儀ガ、親類見マイニ往クナリト答へキ、〈○下略〉
〔日本風土記〕
〈二〉
p.0774 婦人
凡出入、庶人之婦無轎、乘馬始穿其褫、以備露形、其足不裹、任其生成、
〔安多武久路〕
〈信〉
p.0774 馬の目利の事、壽俊がいふ、むまを相する事は、和漢ともに是を專とす、〈○中略〉然るに古と今と心得違ひある歟也、のちの人の馬形を相するを聞に、無用の馬形をひたすら見習ふ事也と覺ゆ、又漢土にても、其心得違ひも有にや、只千里を行馬をのみ相する事こそ心得がたき事也、千里のむまといふは、則早走の事なるべし、さればこそ漢文帝の時、千里の馬を獻じけれども、其早走無用の事になりしも尤也、我朝も、いつしか早走を好みて、早足五段の馬、又は七段の早馬などゝて、もてあそぶ事を宗として、其形を見習ふ事となりける也、予も其見やうを習ひ受て見しに、彼柳が枝に、櫻の花を咲せて、梅が香を、もたせたき事を願ふ類ひなり、ゑかしながら、今治平無事の御代なれば、たず一通のなぐさみ見物には、面白かるべきなれども、無釜の事ならずや、太平には亂をおそれ、亂には太卒ならん事をねがふ道理にて、武士たらん者は、我朝の名馬のあと
を尋ね、馬の心向平和を本として、曲進退にして力强きを專として、其外利害得失をわきまへ、めきゝすべき事在、享保の比は、早足段の馬などゝいふべき早馬は、將軍家の御厩は申に及予、世上にも見當らず、只力强息强な、る馬は多く見えたり、彼峯岡牧の馬には、殊に强馬多かちけるを、齋藤某安も蔘、其駒の骨を見て察するに、後はたして違ふ事なかりし也、
〔遠乗漫筆〕
p.0775 攝馬第一
一駿馬駑馬ノ目利、和渡古今多端ナレドモ、予〈○田中世誠〉ガ見聞ノ及ブ所ニテハ、駿相ニ華馬アリ、駑相二實馬アハ、畢竟沸乘テ試タニ非レバ、駿駑ノ別ハ知リ難シ、故ニ紙上一概ノ論ハ無用ノ事ナレバ、目利ノ仕樣ハ、コヽニ論ゼズ、兎角乘リ心ニ因テ、駿駑ヲ分ツベキ事也、肝鶲キ强馬ハ、駒ニテモ乘ヲ心タシカニシタ、コタヘル所アル者也、心ノ善惡ハ、相ニアラバレ易キモノ也、
〔一騎前意得〕
〈中〉
p.0775 馬目利第一
見セ馬來ラバ、一二返引マハサシ、蚕體ヲ見、拐馬ヲ受取、手綱ヲ取タ少シヒザラシ、四足ソ贊へ、頭ヲアゲ顏ヲ見、轡一ツ切テ自ヲ見、手綱タ馬亭ヘワタシ、右ヨタ頸肉ヲ見、右ノ肩ヲ見、腕爪ヲ見、障泥アゲ腹ヲ見、前ヘマハタ草タ形ヲ見、左ヘマハリ右ニ同ジ、尻ヘマハリ尾タジヲ見、足ヲ見、隱囊腹下ヲミル、相馬經ニ、眼鼻大ニ、筋骨太ク、行モ立韈、シヤントミユ戸ハ乃良馬也、武馬必用ノ歌、頸長ク胴ハ短ク前セマリ艫ノ廣ハ表ナリケヨ、又歌目スミテ耳ハ短クロアサク山間ヨルヲ駿トシルベシ、是等ヲ大註獵トシテ、十ケ條ノ心得アリ、
〔甲陽軍鑑〕
〈二〉
p.0775 小笠原源興齋軍配奇特有之事
扨て馬のめき、をするも、弓矢を心がけたる人、馬にすきての事なれ共、あまり仕り過れば、博勞のごとくに各慂ふ者なう、頓て又後は、奘人心がけをばわきにして、慾心出きたる故、友傍輩をもだしぬく物に大方は成る也、
〔三代實録〕
〈二十九/淸和〉
p.0776 貞觀十八年九月九日癸未、前丹波守從五位上坂上大宿瀰貞守卒、〈○中略〉貞守、善相鷹馬、凡其所説、駑駿之骨、及所生之地、一無相遠、
〔古事談〕
〈六/亭宅諸道〉
p.0776 宇治殿〈○藤原賴通〉若グ坐ケル時、花形ト云、揚馬ニタテマジソケルヲ、兼時ト云ケ、、御隨身奉見タ、此御馬腹立候ニタタ、トクオヲサセオハシマセト申ケレバ、下サセ給テ、他人ヲ乗タ御覽ジケレバ、此馬臥マロビ、乘人ヲタヒナドシケレバ、御堂〈○賴通父道長〉召乗壁テ纏頭云々、
〔徒然草〕
〈下〉
p.0776 城陸奧守泰盛は、さうなき馬のり成けり、馬をひき出させけるに、足をそろへて、しきみをゆらりとこゆるをみては、是はいさめる馬ならとて、鞍をおきかへさせけり、又あしをのべて、しきみに蹴あてぬれば、是はにぶくして、あやまち有べしとて、のらざりけり、道をしらざらむ人、かばかりおそれなんや、
〔武將感狀記〕
〈十〉
p.0776 慶長元和ノ比、豐前ニ馬ノ上手ア夕、後盲攤トナリ尹閑齋ト云、初テノ馬場ナレバ、一返ハ口ヲ取セテ試ミケレドモ、二返メヨリハ諳之タ、馬場末ノマハシ方ナド少モ不誤、何ヨリモ不恩讃ナルハ、家ノ内ち居ナガブ、路ヲ過ダ馬ノ足音ヲ聞タ、馬ノ毛色、癘曲、老馬、若馬ヲ云ニ、幾度モ不差、自ラ其馬孥探レバ猶慥ナリ、馬タ二ツ三ツ入違テノリ、早馬一三トモニ、目ノ明タル者ト均ク不危ト云リ、奧州者ニテ、十歲ノ内ヨリ馬ヲ好テ是ヲ事トシ、蘰十歲ニ及テ盲目トナヲタレドモ、六十歲ニ餘ルマデ御ヲ不棄、種々ノ名譽ヲシタリ、
〔近世叢語〕
〈七/術解〉
p.0776 米澤侯臣佐藤秀周、在注顰曉聞馬嘶、語僚友日、板倉邸得良馬荏歲吾取貢馬於市、是其所餘、問何以知之、日吾知其聲、因言毛色、往見之、果如其言、
〔日本野史〕
〈二百七十三/方技〉
p.0776 佐藤秀周、出羽米澤人、沈默恭遠、如恵魯蕣議事ハ最愛馬善馭、米澤濺主上杉治憲、召爲近侍、辭日、臣性邸質、不習進退、且好馭、一日不聞馬臭能不能飮食、請擇能珪事者、弗聽、出語人日、國無人、取侍御於圖人、
〔倭訓栞〕
〈前編三十二/牟〉
p.0777 むまくすし 文選に張里を鷂せり、常に伯樂といふめり、
〔漢書〕
〈九十一/貨殖〉
p.0777 張里、担馬醫而學鍾、
〔令義解〕
〈一/職員〉
p.0777 左馬寮〈右馬寮准此〉
馬醫二人
〔延喜式〕
〈四十八/左右馬〉
p.0777 凡平野夏冬祭、歷飼馬四匹、〈○中略〉毎祭官人一人、牽馬醫供奉、
〔寬延武鑑〕
p.0777 御馬醫方
〈二百俵〉桑島新五左衞門
〔嘉永武鑑〕
p.0777 御馬醫〈燒火之間〉 二百俵高
桑島新五左衞門 桑島新助 落合十三郎
〔吾妻鏡〕
〈二十五〉
p.0777 承久三年六月十八日辛未、武藏太郎、〈○北條時氏〉秘藏馬一兩疋於宇拍中矢、其鏃込身中、于今不出之、憖雖不斃太辛苦、雖訪諸人、稱無其治術之由、生虜西面中、有友野右馬允遠久者爾馬之藝、可謂舌伯藥ハ聞此事可治之由云云、武州、〈○時氏父泰村〉頻入興、則引送彼馬之處、拔鏃療養、忽得癒也、珍事由、世以謳謌云云、
〔甲陽軍鑑〕
〈十四〉
p.0777 阿部加賀守がいはく、三ケ國共もち給ふ大將は、何に付ても世間に名をとなへ申す也、子細は駿河今川氏眞公、馬のゐか藥、元來は公方光源院殿〈○足利義輝〉御秘藏の御馬わづらひ、て、五畿内四國中國のはくらくにてもかなはざる所に、乞食のやうなる聖が來り、今の御馬に、含人衆三條河にて水をかくる處へ行きあたり、某なほし申さんとて彼の聖、此藥一服にて御馬蔕癒の條、公方より此藥方を書き付けあげよとある儀にて候處に、其時分、一宮隨巴と申す弓の射手、光源院殿御前へ出頭人なれば、隨巴、是をかき付けらる丶其後光源院殿御切腹あるに付て、隨巴駿河へ下り、氏眞公、藥數寄をあそばすをもつて、隨籤が訓へまゐらせて、諸人に下さるゝ故、氏眞
公のあかぐすりと申しならはすなり、
〔十三朝紀聞〕
〈四/中御門〉
p.0778 享保十濺年六月、大將軍、〈○德川吉宗〉命紅毛騎師圭豆留藻馬於濱箕而觀之、命譯人名村市、寫紅毛馬醫書、
〔有德院殿御實紀附録〕
〈十二〉
p.0778 我國の名家は更なり、異朝の騎法までも搜索あ蔘しうへに、もろこしの療馬の栃を尋給はんとて、劉經先といへる馬醫を、はる〴〵長崎に召寄られて、病馬を療治せしめて、其効を試られ、著邇せし書をも御覽せさせ給ひ、また蠻法をも聞召れんと有しに享保十三年に家舶せし、和蘭人ケイツルといへるもの、その妙を得たりと聞えければ、馬役富田又左衞門某を長崎に遣は七て學ばしめ給ひ、後にはクイツルを江戸にもめされしが、ノヲムルアクテなどいへる種々の奇術をなして進覽に備ふ、其頃馬を預りし齋藤三右衞門盛安をも、かれが弟子鸞なされ、つとめ學ばしめ給ふぞの後ケイジタ、バルシヤの騎法療馬の譬を奉りしを和解せしめ、三右衞門、その法を習ひ得て、ある時ケイツルが衣服を著し、ノヲムルアクテの術を奏しければ、よく習ひ得たりとて御悦び斜ならず、後ケイツル、久しく江戸に滯留せし勞を慰せらるべしとて、大筒役佐々木勘三郎孟成に命せられ、大川にて花火を揚て見せられたり、
〔延喜式〕
〈三十三/大膳〉
p.0778 菜料鹽、〈秋亦准此○中略〉左右馬寮各春夏季二石四斗八升、〈漬菜料一石、造馬藥醬科一石、藥料四斗八升、〉
〔延喜式〕
〈三十七/典藥〉
p.0778 左右馬寮
馬藥、石硫黃各六升四合、〈季別一升六合〉
〔延喜式〕
〈四十八/左右馬〉
p.0778 凡馬藥毎季胡庫油一斗二升五合、椶椒油六升二合五勺、猪脂三升二合五勺、硫黃一升六合、毎年作馬蹄料砥二顆、並申官請受但薦大四斤、干薑小十斤、奏請隨孺盡藷、不限年月、
〔賎のをだ卷〕
p.0778 一翁〈○森山孝盛〉が上下著習て十五六歲になる迄は、〈○中略〉馬乗袴などは、内頑なる人などは、純子繻子などを著たり、一とせ十番の仙臺馬の初見せを行て見たりしに、所の乘人なるよし、
色白く小けれども好き男つきなりしが、黑綸子の袴の裾へ、金糸にて村千鳥を歡らして縫せて著詑ち、馬も遶者に能乘たち、今はかゝる伊遶する人は一人もなし、馬乘袴の十番仕立己て、腰の下に紙を入て仕立も、其比よら專ら流行出たり、〈此仕立、其贖縫十番に一軒仕立屋ひ有て、馬乘候もの段々仕込肴名なり、外にになかりしが、近ごろはいづ方にても其通仕立るなり、〉
〔貞丈雜記〕
〈十三/馬具〉
p.0779 一馬乘袴と云物、古はなき物なら、古は馬のる時は常の袴のぞばを取蔘、前こしにおしはさみて乘りしなり、是を小もゝだちと云、日記に見えたり、
〔西宮記〕
〈十/臨時〉
p.0779 神泉朱雀院等行幸日事
若可馳御馬者、簍其期有勅、上卿召陪陣少將一人、稱唯連立階卞、上卿宣云、御馬令馳〈與〉、少將一人稱唯、退還稜下、左右少將各率官人、以下之騎人起至馬駐、〈右近者經馳道、斜趍渡御前、〉少將以下騎馬上了、一々馳畢、〈不堪騎馬少題者可申障由歟、〉
〔台記別記〕
p.0779 久壽二年四月三日己卯、辰刻出宇治、午刻向東三條、依賀茂詣定也、 十八日、厩馬、字六葦栗毛逸、諸隨身不能騎之、左近衞尉秦貞弘、〈余(藤原賴長)韆身〉左番長下毛野敦佐、〈候府者〉請試騎之、〈非隨身者、今日不參入、而敦佐先日、舍人申此由、仞殊應召、〉仍令騎之、倶雖勝他、〈除數賴、敦賴先年騎件馬預纏頭、〉不能善御、先於南庭騎之、家拳出東門外、余出門見之、爾人皆落、 二十韈丙申、余隨身播磨貞弘、騎六葦毛馬、遷逸不能在隨身凋、在罰駈後外記史前、但於二條三ケ度落、西洞院北行間不落、自一條東行間、五ケ度落、於一條萬里小路毒落蒔、落騎之間恢移刻、余車過、仍騎他馬〈本自置移、篤馬所相具也、〉追參下社、〈無揖損容〉翌日召之、給皐重一領、
〔續古事談〕
〈五/諸道〉
p.0779 字治左大臣〈○藤原賴長〉ノ賀茂詣ニ、六ノアシゲトイフクセモノヲ、ウツシ馬ニヒカレタジケル二、遞衞貞弘トイフモノ乘テ、一度モタマラズ、ナガシテカチニテヲタ變ニケヲ、一條京極ニテヲタワシ馬ニ乘テ、下ノ社へ參ジタリケり、後日二召テ釋頭タビケル、人アヤシミケレバ、ヨク乘タリト昧ハ非ズ、心高クノラムト思ヨタ纏頭ナフトナムノ給ヒケル、
〔玉海〕
p.0780 壽永元年八月十六日甲寅、今日新番長下毛野敦案參入、則參仕御出ハ生年十九歲云々、容貌無遏失、但不可及兼重歟、又頗得馬意歟、
〔左經記〕
p.0780 寬仁二年十月廿二日辛亥、卯刻、臨葦土御門院、〈○中略〉簿聞先御馬場殿〈東宮同御〉有彊馬事、次鯑御之後、有作文事、
〔武器考證〕
〈十七〉
p.0780 貞丈按、獨馬ハ、一人ヅヽ出テ乘ルヲ云ナルベシ、
〔源平盛衰記〕
〈二十三〉
p.0780 平氏淸見關下事
權亮少將維盛ハ、齋藤別當〈○眞盛〉ヲ召テ、抑賴朝ガ勢ノ中ニ、己程ノ弓勢才者、イクラ程カアル、東國ハ碯ナレバ、案内ハ知タルラント問給ヘバ、〈○中略〉馬、ハ牧ノ内ヨリ心乙任セテ撰取タ文飼タレバ、早走梦ノ曲邏退ノ逸物ヲ、一人シテ五匹十匹駑カセタヲ、彼馬乘負セテ、朝夕鹿狩狐狩シタ、山林ヲ家下思テ馳習ヒタレバ、乘ル黏ハ知レドモ落ル事ナジ〈○中略〉サレバ馬ト云ヒ、人ト云ヒ、西國ノ者共二十騎三、十騎ゾ、東國ノ一騎ニ當ヲ候ハンズル、
〔甲子夜話〕
〈二十九〉
p.0780 仙臺ノ馬ヲ崖スル鷺きハ、世普タ知峯コロナタ、予ガ方ニ出入ル榮二鄭ト云モノ丶弟子、十藏ト云へルガ、彼地ニ馬ヲ買カタぐ往タルニ、農家毎ニ畜馬アタガ、持主ナドハ勿論、妻婦ナベモ殊乙功者ニテ、十三四ナル娘マデモ騎法ヲ心得タ、人ノ乘馬ヲ見テ、ソノ乘方ニテハヨカソズ、カク乘テクレラルベシナド、口々ニ指圖ヲスタトゾ、何事モ嚠レバカ、ルモノナルべシ、
〔夢觀集〕
〈一/七言古詩〉
p.0780 送動無逸使日本 守仁
八麥神師解豢龍、十歲小兇知習馬、
〔甲陽軍鑑〕
〈十四〉
p.0780 山縣三郎兵衞がいはく、武藝四門さは、弓、鐵炮、兵法、馬、是四なり、〈○中略〉右四ツの中に、まつはじめにならはん事は馬なり、二に兵法、三に弓、四に鐵胞と申て、馬を最齣に習ふは、馬と申
物、軍場にて何たる大身も代をたて、人を賴みてのらぬなり、
〔武具要説〕
p.0781 馬之事
横田備中守申分、軍馬は大長成馬惡數己申者有之候、其乎細は第一敵中にて急戒時、大馬は乘下り自由ならざる故と聞え候、是は名人の何ごか理有ることを、たれぞ一理有之候と申齔るを聞傳へて、手に合ざる者の、口に任せて申たる事成べし、敵の中にて、馬より下蔘勝負を仕り、又本の馬に乘働権事は、無左右著之儀に御座候、疲たる馬は、組討など仕たる時、其儘立留ることも候へども、十に九ツ留らぬ物にて御座候、馬の莱のむきだる方へ駈行物なれば、其馬を、こらへて難乘候、勝軍の時、追討などには、中間小者も續くものなれば、乘放したる馬をも引よせて、踐をとらせて乘には安く、さのみ大長の馬なりとて、乘ぐるしき事有間敷候、勝負いまだゑれざる時馬を入れ、下り立て敵栢を仕、又馬に乘て働などゝ云事は、不穿學の攀分成べし、五寸餘の大馬に乘力る敵に、一寸二寸の小馬に乘ては、いかに覺の人成とも、敵を仕ふせる事成まじく候、馬上の組打鸞申は先勝の物にて御座候、両方先後なければ、兩方ともに馬より落る物にて御座候、二寸の馬と、三寸の馬と出合たる時、二寸の馬に乘たる方より先を仕れば、二寸の方、勝に成ものにて御座候、三寸の馬、乘顴る方よう先を仕れば、二寸の方、負に成ものにて御座候、鞍の前輪に押付て、首を取などゝ申も先勝の事にて候、我等の所存には、軍場馬には、大馬にこす事、御座あるまじくと存候、
〔武邊叢書〕
〈六〉
p.0781 細川幽齋覺書
一戦場に、我手に餘ち候馬に乘廻る事、必無用にて候、左樣の馬に乘そんじ、思ひもよらざる落度を取候人、餘多有之宙聞及候、常には、ちと内ばなると存る馬も、戰の場にては、殊の外心能成物にて候事、
〔雜兵物語〕
〈下〉
p.0782 馬取
馬は只ほんに、御精衆の足で御座り申とおもへば、いなこんだ、
〔海國兵談〕
〈八〉
p.0782 馬飼立仕込樣
昇平愈久シテ、華美愈盛ナリ、華美盛ニ成テ士風儒弱ナ亨、然ル故ニ武藝地ニ墜テ、古儀ヲ忘却セリ、就中馬ハ武士ノ足ナヲ、能ク熟セズンバアル可ラズ、
〔關八州古戰録〕
〈六〉
p.0782 總州國府臺初度合戰附正木大膳亮時綱勇力事大膳亮ハ、元是三浦黨ニテ、代々房州正木郷ニ住シ、里見家粹一ノ宿老ナジ、器量骨幹人ニ勝レ、强力ノ精兵タリ壷名ヲ久太郎ト云シガ、十二三歲ノ比及ヨリ、好ンデ馬ニ乘タリケルガ、片手綱ニテ馳シマ丶、故老ノ族見物シテ、片手絶ニテ乗ル事ハ、馬ノ驅引、隅ノ日、鞍ノ固ノ、手續キ、鐙轡ノ攝作マデ會得シタコソ然ルべキニ、初心ノ業ニハ怪我アラン基ナタト誡メケレバ、大膳亮打笑ヒ、夫ハ平士ノ覺悟タリ、團扇采配ヲ手懸タ身尹、下リ立テ鋭ヲ合セ大刀打チセシズタハ、邂逅ノ事ニシテ、多分ハ馬上ノ働ナレバ、假令乘形ハ兎モアレ、鞍强ニ達藩ノ一ツナクシテハ、武前ノ用ニ立ベカラズ、是ヲ以テ某ハ修續ヲ働ム者ナリ壬テ、蠡稽古怠ナク、扨コソ荒馬僻馬ヲモ、自由薗在ニ乘タリケリ、
〔武道初心集〕
〈上〉
p.0782 馬術
昔の武士の義は弓馬と申候て、大身小身共に、弓を射、馬に乗を以て、武藝の最上と仕たる事に候、近代の武士の義は、大刀鋭、釼は馬術を肝要と心掛て稽古仕り候、〈○中略〉小身の武士は、別して馬をよく乘習ひ、たとひ邏もの、又は手を嫌ふ馬といふとも、是をあまさず乘こなし申樣にあり度事に候、子細を申輹、乗あひよくて、馬形も宜巢馬は、世聞に稀に候、たとひ有之候でも、大身武士の乘料己なるを以で、小身武士の馬屋に繫く事は成乗申候、其身馬術にさへ達し候へば、是はよき馬
なれ其、過物とか、又は一癖有て、人の手を嫌ふ類の馬を見立て、馬代下直に買求め、乘料ご致す時は、いつとても身上に過たる馬を持て罷在候、總じて馬の毛色疵を吟味致すも、大身武士の事にて候、小身の武士は、我が性に合ぬ毛色の馬をも厭はず、毛疵有て人のいやがる馬をも嫌ふ事なく、馬さへよくば、求てつなぐ心得尤に候、むかし信州村上家に、額岩寺と申て、三百騎計の大將にて、弓矢功者の武士有之、自分の乘料、家中の馬共に、世の人の大に嫌ふ毛疵といへぜも、少しも忌ことなく、求め繫ぐ家風に致しなし、家中の諸士に馬場責をさする事なく、五拾騎も百騎も城下の廣野へ罷出額岩寺、眞先に進て、原中を縱横十文字に馳廻り、馬より落るかと見れば其まゝ飛乘り、乘るかと思へば則飛下候義を自由に致すを以て、よき乘手と申て譽之候、去るに依て其時代、甲州武田の家中に於ても、信州額岩寺が如くなる敵へは、大物見必ず遠慮との取沙汰致し候、是額岩寺、身にとりて大なる譽に候、凡武士の戰場へ乘る馬は、中の上肝にして、高は一寸より三寸まで、頭持は中頭にて、後脚は中の後脚とこそ申傳へ候へ、然るに乘替もたぬ小身武士の一疋馬を上肝にして、大高なるをほしがり、頭持はいかほども高きに厭かず、後脚は一間後脚など申て、何程も廣きを悦び、前を取らせむさては腕の筋をのべ、尾をさゝせじとては悦び候は、悉皆武士道不案内より起る物數寄に候、子細を申に、四足の筋をのべたる馬は、山坂へ懸り長途を乗、或は川を渉す時、早く草臥、用に立ず、尾筋をのべたる馬は、溝堀切などを乘越るに、定りて尻懸はつれ、後脚の廣すぎたるは、細道を乘るに宜しからずと申傳へ候、
〔八水隨筆〕
p.0783 むがしより馬のる人に、學問する人はまれなり、いかさま少し學問のあるもの、當時の馬術は習はれまじ、八條家に古實のこりたれども、今博ふる人なし、大岼流の馬書、大がい見侍れども、俗なる事多し、歌の詞など古からず、僞作多し、雲霞集には、少し雅なる事もある、さなみ、みさごどり、遠山月、櫻がけなどは、馬のりの口からは出まじき詞なり、近年に至り、はねぎう、もろあた
り、はなしはねなざ云は、全く営時の馬のり詞なり、馬の目所も、山合、小松原、あつかふ目所、甚こごばいやし、馬のりの内にも、少し文字のよめけるは、齋藤主税一人なりそれゆゑ馬はあまり上手のさたなし、されざもよく數千の弟子を導きしなり、これも今はすゑになりて、世間並の馬のりになりたるなり、
〔羅山文集〕
〈四十九/文〉
p.0784 黑澤氏馬書序〈寬永十六年作〉
國之大事、在軍族、軍旋以馬爲大、〈○中略〉是以養之相之馭之之法、世不之人、方今平姓黑澤氏定幸、及弟弘忠、雅嗜此巽而傳弓冶、古今之馬經、安驥等之類、渉獵有日、雖他書有渉子馬者、亦兼閲焉、乃拔諸書之茎表家傳之塁以作一書、將行子世所、謂療方相術馭法、學而標出之面可也、
〔敬齋叢書〕
p.0784 水月前中納言喜昭卿御書之寫
此度小庭〈江〉厩を建、自分駒を養ふ事は、本より良馬に仕立んとするにあらず、古昔と違ひ、近世は諸士驕奢に長じ、只跨ることのみと心得て、總て口取中間に任せ置、自身芝刈、すそをする事を耻る故、馬の往來も不辨、故に出先にて獨扱事ならず、空歟費のみかさみて、容易には馬を飼ふことならざる世となることの歎かはしさに、自分芝を苅、すそをせば、自然と士の風も古の如くならんかと思ふ故に、かぐはするなり、諸の人、厩江來て、我が取扱を問ふものあらば、駒を仕込仁あらず、士を仕込なりと答ふべき也、
癸巳八月九目 判
松平權藏〈江〉
〔卜傳百首〕
p.0784
武士のげにゑるべきは馬なれや心がけぬはおろかなるべし武士の其名をあぐるためしには昔も今も馬をこそいへ
武士の鎧の下に乘る馬はくせ有こても强き好めり
馬はたゞ普通につよき肝そよき勝るゝ肝と無肝嫌へり
くせあれどつよき馬こそよけれとてすゝまぬ僻の馬な乘りそよ
乘下リと又あつかひの安きとて小馬を好む人はつたなし
三寸にたらぬ馬をば昔より軍の場にきらふなりけり