p.1245 兒戲ノ具ハ古ヨリアリテ、大概室内ニ於テ玩ブモノナレド、ブソブリ砌子板等ノ如キ、戸外ニテ弄スルモノアタ、今ハ其中ニ於テ僅ニ著名ナルモノヲ舉ゲタリ、
p.1245 十六日、〈○承平五年二月〉けふの夕つかた京へのぼるついでに見れば、山崎のたななる小櫃の繪も、まがりのほらのかたもかはらざちけり、
p.1246 眞淵〈○賀茂〉の説にちひさき櫃に繪をかきて、重のもてあそび物にうるにやといはれしがごと、ちひさき櫃に繪をかきしなるべし、ちかごろまでもみやこにはべ小櫃に繪をかきしがありしとそ、
p.1246 木偶〈俗云人形也、木人窟儡子並同、有木偶人、有紙偶人、〉 傀儡〈木偶人也〉 泥塑人
p.1246 煉つくね人形 宿禰とも云、總名贖物といふ、數品多し、小兒がた取おとし被成候共そんじ不申、重寶品なり、
いなり人形 とりおとしわれ候はゞ、小兒かんのむしを除き、其われを田畑へ入候へば、五こくみのりよく、もろ〳〵の虫つかず、
綾つり人形 いと引人形
張貫人形 猩々、おき上り、かつさう、だるま、みゝつく、鯛、馬、
白肉人形臺乘道具持見物付帶ねじ、年々多品數新形出來、大小御好弐第立拜居くるひ人形とも云、
素やき人形 價卞直にて色紛きれひ、幾年たち又はひなたに置候とも、そんじ不申候、
加茂の柳木 または木紛には色々きれを以て木目込候故、木めこみ人形といふ、
毛附人形〈あろく〉 浮人形〈水の上にうく〉 鉢山用人形〈雨にかまはす芥子人形といふ〉 燒土ひねり人形
p.1246 衣裳人形 木偶人作男女老少形雄表裳、其小者謂芥子人形、芥子比至小者、其外作雜品玩具、今所々有之、其内京極東四條多遘之、麁惡者在五條橋西、
p.1246 人には見せぬ所
小箱をさがし、芥人形、おきあがり、雲雀笛を取そろへ、これ〳〵大事の物ながら、樣に何惜かるべ き、御なぐさみにだてまつる、
p.1247 おでゞこは、でこと云ことに、おもじを添て寮ひたる也、で、、はでぐのぼうなり、
p.1247 嘉永五年壬子三月、初音人形と號し、木偶の腹を押せば、笛の音ありて啼聲を出すもの、京より下りて行はる、
p.1247 此年間〈○文化〉記事 叶福助どいへる泥塑人を作リ、專らもてばやせり、〈是は昔よりもて靭そべる、三平二滿女に對してつくりまうげしものなり、〉
p.1247 初午稻荷參〈(中略)此邊の家々に土細工の狐鈴、或に布袋西行遊冶耶倡婦、其外鳥獸の類ひ、夸、樣風流の偶人な作、リ貰る、二れ炬、稻荷、人形と稱し、名たたる、産物なり、〉
p.1247 能狂歌に、手鞠やおどろんまり小弓といふ、おどろんは今樣の手あそびに、紙にて作りたる人形に笠を著せ、細き串を兩方の脇の下にさして、末のひらきたる所起おも力を付て、人形の足を指の先に立せて、おもすにてつり合て立なウ、夫が身をゆる所の人の、踊りやうに見ゆれば、おどろふといぶ事にて、おんとれくといふものにて、此前異次郎吉いふ非人の笠の上にて、まはして來るものなるべし、
p.1247 飛人形は竹の串を膏藥に捻り付て、はね返込す張子人形なるべし描金晝譜に笠著て匍匐る人形みえたり、今淺草寺雷門たて責る龜山の化物などいふは、張子二ツにて、一ツは上に著せ、はねかべれば、脱て形かはるやうにじたり、いと近き物な勤、又綿に作れゐ兎もあり、これらはもとより有しなるべし、龜山の化物は、四國を廻て猿となると云諺を、人形に作りたるが始にて、其外さまぐ作りしなるべし、龜山の化物と云事礦觀せ刊のあやしき營のを龜山にで生捕七ど云し事、度々あちしゆゑ、ゑか云なれたる事芝みゆ、此外に紙を方にたゝみ、獅手舞の形に作う、足に玄ゞみ貝を付て、うちはにてあふ雹をどちする竜のあり、黏信が畫に、笠きたる人形 を紙に作ちたるに、うす板の車を付て扇にてあふぎて走らするものあり、似たる戯なり、
p.1248 猩々小借、浮人形にあり、又飴細工にもするなう、江戸名物鑑に、蜀黍や出水の中のみだれがみ、〈疎蓬〉この句は其さまを見たてたるなり、〈江戸二色在見るに、猩々壺の中より出て、下に童ありて笛為さし亡り、笛な吹けぼ人形迥易なるべし、〉
p.1248 酒胡子 諸葛相如酒胡子賦云、因木成形、象人質、在掌握而可玩、遇盃盤而則出、
p.1248 諸葛相如賦無攷、按擁言云、盧注擧進士、二十餘上不第晩年失意、因賦酒胡子長歌、叙日、巡觴之胡、人心俛仰旋轉、所向者擧杯、胡貌類人、亦府意趣、然而傾倒不定、緩急典人、不在酒胡也、作酒胡歌以誚之者印是、又墨莊漫録云、飮席刻木爲人、而鏡其下置之盤中、左右欹側、傚々然如舞狀、久之力盡乃倒、覗其傳籌所至、酬之以盃、謂勸酒胡、或有不作傳籌、但倒而指者當飮、是亦酒胡子之類、皆今俗拳人形也、又陵餘叢考云、兒董嬉戯、有ネ倒翁、糊紙作醉漢狀蘆其中而實其底、雖按捺旋韓不倒也、呉偉業集中有詩蓋是、今俗所謂起上小法師者、或謂達磨像者誤、
p.1248 おきやがりこぼし 兒戯の具也、起上小法師也、勢州にてうてかへりこぼしといふ、
p.1248 詠物詩選雜玩部に、呉偉業戯威不倒翁詩あり、是もとより達麈の像にはあら譫を、いつの程より飛摩に作りたるか、達摩を翫物とするも近き事にはあらず、小兒の戯ごとに一に二にふんだる〈るはむの誤也〉だるまが、赤い頭巾かぶりふんまいた〈ふんはすんの説也〉といへり、
p.1248 起上り小法師
中古風俗志ニモ云ル如ク、今モ達摩ノ像多ク、或ハ七頑神等モアリ、其他種々、
都テオキアガリ小法師ハ、全軆紙ノ張拔制ニテ、下ニ土ヲ付ケ、上輕ク下重キ故ニ、投之バ必ラズ倒レズシテ起立ス、故ニ名トス、予幼年ノ頃、大坂四天王寺ニテ下圖〈○圖略〉ノ起上タ小法師、唯一種 ヲ賣ル小店アリシガ、其後文政末晶亡ビテ今ハ無之、此手遊モ今ハ漸ク廢スルノ故ナラン、然モ今世更ニ無之ニハ非ズ、
p.1249 攝津 津村張人形〈世ニゴレチナキアガリコボシトイフナリ〉
p.1249 春草
春雨のうちのるたびにうつぶきておきあがりこぼしたんぼくの露
p.1249 下總千葉あたりには、七月七日に、小兒まこもを以て馬を作り、緖を付て首にかけ、馬を腰に付て遊ぶ、散木集に、をさなきちこのちまき馬をもちたるをみて、ちまき馬は首からきはぞ似亢ウけるきうりの牛は引ちからなし、といへる連歌あり、菰の馬も同じほどの物なり、古よち有し弄びなり、信濃常陸にもこれを作りて、七夕に手向けるとそ、思ふにたま棚に手向七夕にたむくるは後にて、もと小兒の翫物なるべし、
p.1249 彈き猿、古き前句付、〈書名缺〉行あたりけりく、彈かる、度にあたまを叩く猿、〈これ今もあるものなり○中略〉
釣する猿正章千句、霞む瀧津の鯉つらんとや、劫を經し春の山猿智惠ありて、貞德が判に云ふ、猿の釣すること、慥なる古事は未知といへども、世にいひ馴たる諺なれば、よき寄合にて候と云り、これ翫物に作りたゐにはあらねど、翫物も此諺によりて作れる物とゑらる、林鴻があらむつかしといふ冊子に、似舶が句、來しかたや、猿は、魚つるかきつばた、〈○中略〉
水挽さる、今水からくりにうすをひくさるあり、水にてびぐと見えて、天祿識録に、唐人の作たる核兒の詩に、折竹装泥燕、添絲放紙鳶一互誇翰永磑箱効發風旋一と見えたう、皆翫具なち、風旋かざぐるまなるべし、
米搗さる、績五元集、凍たる手から錢洩鞍のうへ風にはころぶ猿の米つき、江戸二色、夏冬を赤い ふんどしひとつにて人にましらの米をつくなり、隻絨輪に、輕薄わらひ乳貰ひの常、手みやげに米つき猿を小糠賣、〈千翁○中略〉
密柑の猿、洛陽集に、向齒や密柑の猿の膓をたつ、〈榮也〉一代男に、みかん一ッ黑髮をぬかせられ、猿などして遊びし夜云々、是今も拑瓢を髮毛にて括りて猴に作るなり、
p.1250 紙捻の犬、江戸枝折に、もの思ひこよりの犬も瘦かたち、望一は紙より細工をよくゑたりとかや、あら野集はる雨はいせの望一がこより哉、〈湍水〉
p.1250 發燭の燕、俳諧日寄草、〈元文元年〉冠り付、ひいらー附木を二まい尻尾にし、寶曆ごろの京師の繪本、〈畫風寺澤昌次とみゆ〉に、この燕うり有り、首は椋の子なり、
p.1250 明和八年板本の江戸名物鑑に、海老藏蜻蛉賣あり、竹の先に蜻蛉つなぎたり、今もある蝶々とまれといふものゝ製にや、
p.1250 蝶も明和の頃よりあるか、宗因が句に、世中は蝶々とまれかくもあれと云は、この翫具より昔の句なり、柳亭云、京師八坂の茶屋のことをかける草子にて、てふーとまれの小歌出たり、件の句はこれをとれり、然らば菜の葉にとまれと云ふは昔の小歌なり、下總佐原あたりにて、蝶々とまらんかのめ飛すからんかのめ、とうたひて踊る、これも同じたぐひか、
p.1250 蝶々宅止レ〈○圖略〉
前ノ圖ハ紙制ノ蝶ニ糸ヲ付ケ、竹ノ頭ニ釣タル也、今世モ與之同製アヲ、蓋編笠ヲカムリ賣來ルモノハ、極ホソキケヅリ竹ノ頭ニ紙ノ蝶ヲ貼シ、コレヲ筆軸ノ如キ管ニイレ、蝶ヲ上ニスレバ高ク出テ、管ヲ逆ニスレバ蝶管口ニ止ムヲ專トシタリ、八ッ折編笠ヲカムリ、納蝶ノ筥ヲ首ニカケ、兩手ニモニ三本持之、蝶々モトマレドンボモトマレ、ソレトーマッタト云巡ルコト、江戸ノミニアヲ、又江戸神佛ノ祭日等ニテ、人集ルノ路上二賣ル、蝶ハ削竹ヲ以テ翩ノ形ニ曲ゲ、髭モ創竹ヲ 用ヒ、首胴羽トモニ紙ヲハリ、紅紫等ヲ彩ル、三五寸、或ハ尺バカリ、其大小ニ應ジ、長ケ四五尺、或一麦許ノ女竹ノ頭ニ付之テ賣ル、女竹ハ九尺、或ハ一丈モアルヲ付タル蝶ハ、圖ノ如ク束藁ニ刺テ路上ニ置テ賣ル、竹二三尺ノ物ハ、辨慶ニナシテ賣之、辨ケイト云ハ、右目付晝ノ内、ちやくト云物ヲ刺タル具、乃チ辨慶也、
p.1251 風車〈小兒所執〉
p.1251 風車〈帝城景物略、剖秣稽ニ寸、鐙互貼方紙、其兩端紙各紅維、中孔以細竹横安秣竿上、迎風張而疾趨、則轉如輪、紅綠運潭如暈、日風車、〉
p.1251 風車 所々製之、然祗園町爲本、春初多造之、以片細竹造小花輸、貼靑紅之紙片、蟆花葩之狀、或五箇或十箇、貼竹輪或二或三、插一莖竹頭、觸風則花輪悉轉舞、是稱風車建置藁臺而賣之、是兒女之玩具、而其合和風之體、自有春初發生之氣、
p.1251 風車
女竹ノ頭ニ、色紙制ノ車ヲ付ケ、風ニ應テ回ラシム弄物アリ、古ヨ、アル物也、
大坂ニテハ住吉道ニ專ラ賣之、京江戸トモニ諸所賣之、大小精粗種々有之、
p.1251 風車
小兒の玩物の風車はふるくよりみりしもの也藍谷寺觀音驗記に、鳥羽院御宇、當寺に法師丸と云ける小童ありき、少より父に別て、貧母一人字くみけり、七歲になりける保安二年の秋の比、同樣成者七八人集り、面々風車を持て遊びけれ共、此法師九には作りてとらする者なし、浦山しさの餘に、母に泣悲て乞ければ、自ら作て取せたりけれ共、敢て廻ちざりければ、又母を責けり云々、
p.1251 廿七日〈○享德元年十月〉右京大夫の家の會に
寄車戀 手にとればそなたより吹風車めぐりあふべきゑるしとそみん
p.1251 智惠をはかる八十八の升搔 亭主は日用とり、或は釣瓶繩屋、又は重すかしの猿松の風車をするなど、やうく一日に丸どりにしてから三十七八文、四十五六文、五十迄の仕事するかせぬうちにて、四五人口を過て、いつれも身のさむからぬは、是みな母のはたらきなり、
p.1252 山城 祗園風車
p.1252 世のすがた
雜司ケ谷土産の風車も、近來は花のかたちに紙をきりて作りしも有り、〈○下略〉
p.1252 半可山人詩鈔跋
右半可山人詩鈔、附日本一阿房鏡、合卷一册、友人半可山人所著也、山人才高過於御同役火見櫓、口廻踰於雜司谷風車〈○下略〉
p.1252 めぐるもの、品々
或連歌のまへ句に あぢきなやたゞまはしてもみん 付句戀ゆへに我身はやせて三への帶又 みどり子のなきかかたみの風車
p.1252 嵐は山を去て軒のへんにあり 風車
p.1252 正章獨吟千句に、少人ど、もの袖に集り、手車の果ての後のど、めぐり、手車の手遊は今もあり、戸車の中のくびれたるやうの物を土にて作り、中に糸を結つけ卷て下れば、廻りて上り下りするものなり、
p.1252 於蝶殿ノ輦
守貞、幼年ノ頃迄モ京坂ニテ賣之、巡ル其辭ハ忘却セリ、土製ノ菊形ヲ胡フンヌリニナシ、二ツ合セ、其間二分バカリ放チテ、短キ管ヲ以テ繫之、其管ニ赭ヲマトヒ、緖ノ端ヲ提ゲ、手首ヲ僅ニ上下スルニ、車乘之テ二三尺モ上下スル弄物也、車亘一寸五分許也、 追書ニ又云、近年迄江戸モ此物アリ、蜑ノ鉤ゴマト號クト也本名釣、獨樂也、
p.1253 手車翁
享保のはじめ、京に手車といふものをうるふ励あり、糸もてまはして、是は誰がのじやといへば、これはおれがのじやと答て、童べ買てもてあそぶ、されば此人いでくれば、重つどひて喜ぶことなりし、後はまた難波に往て賣こと京のごとくして、終にとある家の軒の下に端座して死す、傍に小き卒郡婆を建て、
小車のめぐり〳〵て今こゝにたてたるそとばこれはおれがのじや、と書つけたり、いかなる人の世を翫びてかゝりけんと、その時をしる人かたりぬ、
p.1253 三條輦屋
名にしあぶ大坂中の誰がのじや子丁もにゑられうるよしもがな
p.1253 來迎賣
或老人の話に、むかし小兒の翫弄に、佛の像を紙の張貫、又は木にてつくり、竹の筒の裏へをさめ、其竹の筒をさぐれば、紙にて疊たる後光ひらきて、佛もともにあらはるゝ機捩を、藁苞やうのものにさしならべ、是をうちかたげて、御來迎々々々と、賣き亢りしといへり、〈○中略〉中古風俗志〈新見老人の昔々物語な仲慶といふ老人、明和元年に增補ぜし書なり、〉に、古來より小兒の翫物は、しか〴〵といふ條に、ぶりぶり、ぎてう、鈴守、豆太鼓、ぴい〳〵、おきやがり小法師、この小法師、いつれの時より歟、禪家の詛師、達磨大師の奪形となれり、勿體なき事なり、鳩車、板の琴、御來迚のからくりは、中古の物なり云々、中古とは、いつの頃をさしていふ歟、元祿のころはばや此手遊の流行しと見えて、土佐掾正勝が、正本博多露左衞門色傳授といふ淨瑠璃に、彼露左衞門といふもの、來迎賣となりて、郡島原へかよふことを載たり、蜀の禿やつれ男、わきて目に立ありさまに、ゑばし詠めて立尭まふ、竹のうちより光を出 す、じたい御來迎は、大坂のしだしでござる、今はあづまのはてまで、も、くわつしはやりて、京九重や、あの君たち、手にふれて、笑ひの種となるもよし、〈中略〉東詞もめづらしく、うらばめせ〳〵、彌陀三貧の御來迎めせ云々、是元祿年間、江戸にて編し淨瑠璃なり、〈跏さうしに、鍵永五年とあるは、再刻の年號なリ、さてこ、に、彼手あそびは、大坂にて、しだしやうにいへり、獪考べし、〉 又俳諧江戸名物鹿子〈享保十八年印本〉御來迚賣、若竹や誰と孕てかくや姫、素濃といふ句あり、畫は、きり竹をかきたれば、摸し出さず、さて此句、竹の筒よりいつるからくりを、竹のなかより生れし、かくや姫にとりなし、光りをはなつを、餘情にこめたるなるべし、古老の話によかて畫せたる、まへの圖〈○圖略〉によく合へり、
p.1254 御來迎ノ機關
佛像ぶ紙ノハリヌキ或ハ木製也後光ハ黃紙ヲ帖ミ、佛像トトモニ竹筒ニ納レ、筒ヲ探レバ圖ノ如ク〈○圖略〉出テ、筒ヲ上レバ再ビ納ル也、
此弄物元祿ヨリ安永ノ間、凡百年廢ゼズ、其後廢ス、再ビ明和中賣之ノ時ハ佛像ヲ造ラス、赤紙ノ旭ニ代へ烏ヲ畫ク、
p.1254 かはり屏風、これも江戸二色に出て、かくれ屏風といへり、
p.1254 團十郎ノ機關屏風天神樣云々、芝居俳優市川團十郎及菅脚ノ像也、菅神ハ表具掛物ナルベク、團十郎屏風カラクリト云ハ、今世モ似之者アリ、必定是ナルベシ、
p.1254 芋虫、これも同草子〈○江戸二色〉に出づ、紙にて作りたる内に、土を九めて入れ、破たる竹のうへをまろばすものなり、是今の手遊の俵のもとなり、
p.1254 同じ〈○子供〉玩びの具に、米俵とて中に土の九を入れたるあり、それを江戸二色といふ繪本に、いもむしに作るは、芋虫の俵にうつりしにやとおもひしに、正德比の俳諧に、あゝしんき手のひらにたつ米だはら、と云句あり、そのふるきゑるべし、
p.1255 酒中花
やまぶきの莖の真をもつて、花及びさま人丶の形を作り、酒に浮むれば、開くやうにせしものを酒中花といふ、此もの古くは見えず、延寶頃の俳諧の句に見えたるが初めなり、西鶴が俗つれづれ昧繊五の卷にざ大坂天隴天神の肚のほとちの事をいへる條に、同じ横町に作り花の見世をいだし云々、かるい世帶を柳にやつて、櫻をある時酒中花にゑかけ、是にて小錢を取るやうになる馭元ひとつなる口よりおもひつき瓰云々と見えて、さし繪に、長崎酒中花つくり花からくりと書たる看板をいだしゝ處を畫けり、又延賓六年言水撰、俳諧江戸新道、春の部に、酒中花やみぬ唐のよし野川、〈松木靑雲〉洛陽集、〈延寶八年〉書國へ酒中花さそへ歸雁、〈計也〉俳譜雜巾、〈延寶九年常矩撰〉鍋の桃いきた酒中花といふべし、〈一有〉
此等の句を合せ考ふるに、はじめは漢土より渡りしもの歟、又は漢土よりわたりしと云ひ、實は長崎にて作うでおくりしもの歟、西鶴が文によれば、元祿の頃は、はや何處にても製せし事なるべし、江戸淺草の名物のやうになりしは、いつ頃よりか未考、江戸向の岡、〈延寶八年〉柚の花は是酒中花の盛なり、少羽是は柚の花を酒中花にとりなしゝ句なり、後レ雙六、〈延寶九年淸風撰〉酒中花や彼赤人の詠殘し、一中東日記、〈延寶九言水撰〉酒中花や今刈萱の身にしあらば、言弓題林一句、〈天和三年調和撰〉薪の能酒中花の精顯めり、〈靑忖子〉等の句あれば、延賓の頃よりもつはら世に流行りしもの歟、獪たつぬべし、
p.1255 虚栗集、名をかへて緣か禿おとなしく、〈柳興〉うきをさかりの酒中花の時、〈長呼〉西川風の畫雙子居あひ拔の畫に、酒中花を合す、誠にうけて開くと云ふ謎あり、
p.1255 酒中花のちらし
桃李物いはず、山吹口なし、その口なしの色々とたくみ出たるひとつのもの、南の花にたはぶれし胡蝶の翁がふみに見えし、芥の舟のそれならで、一たび盃の中に浮べば、花の唇はじめて動き、 柳の眉遜に開く、凡ての世に行はれるは、淺草のはつかに、やなぎやのいとすくなし、いま製する所は、よし野はつ瀨のたねをうつし、まきゑ沈金の盃を厭はず、つみては浸し、のみては興ず、もし酒中の趣をしるものあらば、聊一枝の春を逸らんといふ事爾り、
p.1256 川村瑞軒成立之事
川村瑞軒事、元は車力十右衞門とて、常に車を押て世を渡る傭夫也、〈○中略〉江戸大火にて自勞の居宅も燒けれ共、少も夫に貪著せず、弐第に大火と見るゟ、未燒鎭ざる内に、急に木曾山を志、僅十兩に足らぬ金を携へ、夜を日に繼で彼地ニ馳趣き、則問屋方江著きて、門内を見れば、問屋共子供表テニ遊び居けるに、懷み小判三兩取出し、小刀にて穴を明ケ、紙縷を遘して、持遊のから〳〵にして、件の子供ニあたへ案内を乞、
p.1256 琵琶笛
琵琶笛、〈○中略〉八年〈○丈政〉乙酉の春二月禁止せらる、いまだいくばくもあらずして、松風ごま流行し、厨年夏四月に至りて、又雲雀ごまといふものを作ら出せり、雲雀ごまは其鍮をもてこれを作る、その價六十四文、松風ごまは、はじめは竹、或は鯨の鰭にて作り、後にはちりめんの裂にてもつくれり、
山崎美成
p.1256 今重のもてあそびに、ゑほふきの面とて、口のとがりたるものあるは、鎌倉鶴岡の拜殿に、海より上りたるとて、ゑほふきと名づけたる面あるを、まなびたる物とおもはる、
p.1256 今の上〈○村上〉わらはにおはしまぜば、つごもりのつゐなに殿上人ふりつゞみなどしてまゐちせたれば、上ふり興せさせ給ふもをかし、
p.1257 こは樂器なるを、その形を小くうつして、翫物とするなり、○按ズルニ、兆鼓鼓ノ事ハ、樂舞部ニ詳ナリ、
p.1257 錢太鼓、唐人笛諸艶大鑑、〈貞享元年〉此處は洛中のお乳の人の集りあそぶ所な版錢太鼓、唐人笛のひゞき、竹馬の鈴の音云々、小きを錢に譬へていふは、錢龜錢蓮などのごとし、今豆太鼓といふも同義なり、
p.1257 近世京坂有之豆太鼓、一名ブリ〴〵太鼓ト云、斛竹ノ身ヲ翰斗シ、削竹ノ柄上迄貫キ、片面黃紙ヲ張り、膠ヲヒケリ、左右二茜糸ヲ以テ大豆ヲ付ル、近頃ハ土九ヲ以テ代之、
今世江戸有之、〈○圖略〉兩面赤紙張膠ヲヒキ、巴墨、天龍鍮泥カキ、
p.1257 親の顔は見ぬ初夢
此所〈○六角堂〉は洛中のお乳の人の集り遊び所なり、錢太鼓唐人笛の響き、竹馬の鈴の音、もの、騷しき中へ、
p.1257 手遊盆太鼓
寬政の比迄は、六月の比より七月の末まで、手遊やにて盆太鼓と云ふもの鬻げり、こは昔の盆踊りに手太鼓をうちて踊りたるなごりなるべし、 か樣の形にて、緣は竹なるを、紙にて張り黃に染め、草花など書き、丹もていうどり、膠をつよく引きたるゆゑ、うてば少しく響をなす、柄は木にて墨にて塗りたるものなりへ予〈○齋藤彦麿〉も幼き頃、手遊にしたり、此物今淺草寺中見世といふにあるを見れば、形は以前にかはらざれど、眞の皮張にて漆の塗柄なり、價も以前に十倍せり、僅に六十年前にして小兒の手遊さへ、樸奢の變風、嵯歎すべし、
p.1257 飄叫子〈夢溪筆談、世人以竹木牙骨之類爲類叫、置之喉中吹之、能作人言、謂之賴叫子、嘗嵩病疳者、爲人所苦、煩寃無以自咼三聽訟者試取叫子、令顳呼作聲、如傀儡子、粗能辣其一二、其寃獲申、此亦可記也、〉
p.1258 西鶴が大鑑、〈七〉人形屋をいふ處、師子笛、張ぬきの虎、又はふんどしなしの赤鬼、太鼓もたぬやす神鳴、是みな童部たらしの樣々といへり、〈○中略〉これは獵夫の田川る鹿笛にはあらず、頭に獅子を付たる笛なるべし、
鶯笛は、犬子集、けふははや鶯笛もねの日かな、誰身の上、春のゑらべの琴の音に、鶯笛のその聲は云々、
さるまつ笛、名物六帖に、夢溪談の穎叫子を、さるまつ笛といへり、永代藏に、童部すかしの猿松の風車とあれば、笛のみにはあらず、猿松は廣く子供の名にいふにや、
雲雀笛は、もとひばりを捕ふる爲に吹笛なり、一代男、一小兒弄びの内にひばり笛をとりそろへ云々あり、
伊勢みやげの笛、諸艶大鑑に、伊勢みゃげの笛を吹で門に遊びし云々、貞享四年の衣服ひな形をみるに、いせ土産の摸樣あり、笛は小き笙の笛なり、永代藏に、伊勢のみやげをいふ處、笙の笛貝杓子して、世を渡る海の若和布の眞砂の數ゑらずなどいへり、
麥笛、藻鹽草、うなひ子がすさびにならす麥笛の聲におどろく夏のひるふし、洛陽集、麥笛や折から蟬に一聲あり、榮也麥笛や夜毎に人の在所より、上和漢三才甌會云、大小麥共中空白色云々、小麥絹厚硬、小兒用以作笛吹之請之麥藁笛とあり、麥笛といふは卽是にて、今竹の管笛に麥わらもて飾りたるにはあらず、麥の絹を鳴すなり、杜中の葉を霽てならす類也、
p.1258 ピイく
今世江戸ニアル物、亘一寸四五分ノ竹ノ外面ヲ八角二削り、長一寸一二分ニキリ、兩面ニ赤紙ヲハリ、太鼓ノ形ヲ造り、其柄ヲ切り穿チ、内ニ簧ヲ付ケ吹之、ピイくトナル、古ノピイく此類歟、大坂ノ制モ似上タリ、然モ竹亘二寸許、外面八角ニ創、、高六七分ニキ、、赤紙ヲハリ、太鼓形ニ造 レドモ調ヲカケズ、柄江戸ト同制ノ笛也夂方一寸五六分ノ板二枚隅切トナシ、下ノ板ニハ中央ニ穴ヲアケ、又紙ヲ帖ミテ挑灯ノ如クナシ、板上ニ種々禽獸ヲ造リテ付之、下ノ板ヲ上下シ動カセバ、ピイくトナルアリ、
p.1259 一日、津島氷室生、過訪のついでに、一奇物を携、予〈○堀田方奮〉に示していふ、近き頃、長崎に赴きし人の、これをもとめ來りて與ふ、異邦の笛なるよしをいへども、其形甚珍しき物なり、鐵をもて作、大やう毛貫に似たり、長サニ寸半程も有べし、眞中に針の如き物をつらぬく、末は各細く薄し、口に當て吹けば鏘々たる聲をなす、吹く時は兩の末の薄き所ひらめきて、眞中の針とひびき合て、琴の音のごとく、又は彈の初聲に似たり、何と名付る事を知らずといふ、其折から東西洋考を見しに、口琴と名付る物、全く形容髣髴たれば、これ口琴なるべしと答へぬ、〈○圖略〉
萬曆戊午金陵王起宗所著東西洋考之内、難籠淡水則東藩、〈去障最進〉この地の條にいふ、女可室者、遺以瑪瑙一雙、女不受則他往、受則夜抵其家彈口琴挑之、口琴薄鐵所製、齧而鼓之、錚々有聲、女延之宿、未明便去、不謁女父母百是宵來晨去、必以星逍、産子始往婿家迎婿、婿始見女父母、〈略上下文〉これを記して氷室生に與へしかば、出所及び其名の知れたるを歡び歸れり、
p.1259 口琴
削竹爲片、如紙薄、長四五寸、以鐵糸環其端厨于口吹之、名日口琴、又有制類琴狀天如拇指萇可四寸窪其中二寸許、釘以銅片、男繫一柄、以手按循、唇探動之、銅片間有聲、据媽相爾、女麻達于朗月淸夜、吹行枇虫番女悦則和而應之、潛通情歎夏侍御有詩云、不須挑逗苦勞心、竹片沼絲巧作琴、遠韻低微傅齒頰、依稀私語夜來深、
p.1259 物器
口琴、竹片爲之、長四寸、濶三分、刳虚之、而中存一線之蔑爲粒首尾横處皆存鉉、首聯於横、尾覗横、齊 處長一分、刳下其横處、而絃寄於其間、如是者三具、絃粗細等、而下以左手大指食揖排持三片之頭、張口而置其正中於口間、以右手食指中指無名指、搏上中下片之絃之尾長塵錯落而彈、嘘氣大小以定七均之高下、古宗麼些那馬西番皆以筒佩之、彈以應歌曲彊者身舞足蹈、而與歌合節、
p.1260 此ごろ、〈九月比○文政六年〉世に津輕笛〈俗にひやぼんと云〉といふものを兒子の翫びしが〈十一月初〉冷はあまねくはやりて、こゝかしこに商ふみせさへ見ゆめり、その形狀 かくのごとし、鐵にてつくる、これは津輕にて口琵琶といふもの也、うたひながら指にではちきふく也、關東陽云、過し比、百谷といへる人に逢しに、彼もの薩州に遊びし比、かの地にても同じさまなるものあり、その名をシユミセンと云、形ち かくの如し、その唱歌に、
チウサノベント、カヂキノベント、ノトクヒトラヘテビヤコン〳〵
芝陽君にある時解后せしに、右の唱歌のチウサは中山にて琉球のことか、カチキは加治木にて筑紫の地名なるべし、その外はいまだ考へ得ずといはれし、
頭書蝦夷人ハ竹ニテ作リシモノヲ吹クト云、中音アルモノハ金ニヤ、詳ナラズ、
又藝海珠塵ノ中ニ竹ノ口琵琶ノ事ミヘタリト、右靜廬イヘリ、
翠軒翁筆記云、ホヤコント云モノ、薩州ニテ吹物濔事ニ用、岩城八幡ニモアリ、笛ナリ、
右ハ寬政中ノ筆記ナリ
或人云、漢名ハ口琴ト云トイヘリ、
p.1260 ビハボン笛拜口琴
文政七年八年の間、江戸の兒董ビハボンといふ口笛を吹こと流行せり、鐵をもて口に街むやうに作りたるもの也、
p.1260 口琴出説鈴 津輕〈無譜〉
越後 譜 サムラヒコウジトウジヤウコウジヲミヤノマエデワキウコン〳〵〳〵
薩麈一 譜 チウサノヘントカシウツノヘントノ岬ドクビトラエタヒヤボン〳〵〳〵
p.1261 琵琶笛 山崎美成
琵琶笛、童穉訛て、ビヤボンといふ、文政七年甲申の冬、十月上旬より、江戸中流行す、春に至て彌甚し、その製作、鐵をもてす、一笛の價錢百文より、銀五匁に至るものありといふ、大小の摺物等多くこれを擬したり、その他新作のおとし咄も駱駄とともにこの事多し、又小うたにも作りてうたへり、邃に風俗の爲よろしからざるよしにて、八年乙酉の春二月禁止せらる、
p.1261 奧州岩城にて、所の祭に賣笛あり、そのかた今俗にい、ふ女のさすかんざしとかふものゝ樣に、ニタ股に針のごとく角たてる鐵にて三寸許につくりて、又針のはしなるうすき鐵を、中の所へ三本になるごとく、またへつけたる鐵を齒にくはへて、ふた〳〵に分たる所に、きたへ付たる鐵の一寸許餘りたるを、指にてうてば、きやこんと鳴ゆへ、其名をきやこんといふなり、鐵にて作りセるさまの、むくつけなきなど、ゑぞ松前の風俗なんどの移りたるもの、ごとく思はるゝかし、
p.1261 雀の笛、張子のす、めを方なる臺に屑笛をゑかけ、手にて押ば鳴るやつに作りたるものは、もと屁ひり猿とて、猿を挑灯の如き臺の上に作りたるものより出たりとみゆ、江戸二色に圃ありこれ中に笛ありて、鳴すこと今の雀の如、くなるなり、
p.1261 元祿五年刻、胸算用、小刀細工に息の尾にてしかけたる鯛釣もはやりやめば云々、偖おもふに、これ今もある弓に糸はりて、魚の糸に付てをどりながら下にくだる翫物あり、それなるべし、
p.1262 つぼ〳〵、此手遊古きものと見えて、慶長ごろの古畫人物の衣のもやうなどにも付たり、犬筑波集、わらはべの經にてくるふ藥師堂もてあそびぬる瑠璃のつぼ〳〵、もと壺とのみいふべきを、小兒の詞のかさねいふ例にて名付るにや、懷子、十立別れいなかあたりの朝ひらきつぼ〳〵ほどの涙たる中、重賴松の落葉、京童といふ東上るり、きさらぎや初午參のみやげとて鈴やつぼ〳〵風ぐるま、好色盛衰記、〈貞享玉年〉稻荷の前つぼ〳〵かま〳〵作り賣、これも土佛の水あそび云々、これ壺と釜となり、
p.1262 初巳午日、稻荷証弛頑俗穩初午詣、〈○中略〉賣大小陶器、其大者謂轉法、言始於攝州傳法海濱製之、故謂傳法燒、今直謂傳法、以是炒物、又盛姻草粉、其小者謂都保々々、此土器於兩手掌内、蓮轉之則有郡保々々之音、故名之、參詣男女買之雛兒重天人亦滿鹽於其内ズ火而燒之資膳食、
p.1262 ちゑのわ 智惠の輪の義、楊升庵集にいふ九連環也、
p.1262 九連環〈慯升庵集、戦國策云云、今按、九連堤之制、玉人之巧者爲之、兩璞互相貫爲一、得其闘損、解之爲ニ、叉合爲一、今有此器、謂之九連環、以銅或鐵爲之、以代玉、闥婦孩童以爲玩具一而著書者云、引鐵錐破之蓋傳聞其事以意書之、亦可謂癡人矣、〉
p.1262 享和四年〈○文化元年〉正月六日丙申、美濃屋伊介年玉絹糸一包、子供兩人へ手遊、〈智惠板一箱、將棊盤一箱、〉
p.1262 此年間〈○延享〉記事 延享二年の春、江戸の流行物を集めたる句集あり、時津風と題す、時々庵門人反故麝果然といへる人の編也、〈畫は寄合書さなり〉其内を撰て目次のみを左に玄るす、〈○中略〉智惠筏、〈今も子供のもて遊ぶちゑの板なり〉
p.1262 毬抒〈正月所用之也〉
p.1262 ぎちやう 毬打の訛音也といへり、十節録に、黃帝取蚩尤頭毬之、今毬杖是也と見えたり、もと馬上の業にて、武事を習はせし唐の代い殊に擊毬を翫べり、打毬も同じ、今正月兒重の 弄ぶ物尊る、ぶりくぎちやう少し異あり、片木を玉の如く丸くし、椎の形ゑたる杖にて美觀をのみ專にし、其本を忘れたれど毬杖の變風なるはもとよりの事なり、よて平家物語に毬丁の玉と見えたり、衲中抄に、年の始めに毬杖を打をもて、玉き春うちとつゞくるなりといへり、俗語の左ぎつちやうも此より出たり、
p.1263 毬杖 打毬 拍毬〈和名萬利宇知〉 毬杖 骨樋〈俗云佗長〉
打毬、唐韻去、毛九打者也、劉向別録云、昔黃帝所造也、
毬杖、辨色立成云、打毬曲枝也、
事物紀源云、毬杖非古、蓋唐世尚之以責玩樂、
按、毬打之遊戯、和漢共其來尚矣、近世惟小兒爲戯、毎正月與破魔弓同弄之、獪近年不用之、故本式毬杖見者希、
p.1263 民間歲節上
正月〈○中略〉兒童分朋抛木毬、以彩杖格而遏之、以爲輪贏、謂之毬杖、〈讃如吉兆、見顯昭袖中紗、〉或謂之玉打、〈○中略〉是月也、市店羅列毬杖手毬羽子板、編爛若錦、
事物紀原引宋朝會要日、毬杖非古、蓋唐世尚之、以資玩樂、 東京夢華録、元弯大内戲、有蘇十孟宣築毬、〈又十一月十二日、宰執親王宗室百官入内上毒、第六裘、左右軍築毬殿前旋瓰毬門吶左軍先以毬團轉、衆小築數遭、有一對次毬頭、小築、數下、待其端正、卽供毬與毬頭、打大腺過毬門、右軍承得毬、復團轉、衆小築數遭、次毬頭亦依前供毬與毬頭、以大賺打過、或有卽便復過者勝、又馬上抱紅繍之毬、擊以紅錦索、擲下於地上、數騎追逐射之、左曰仰手射、右曰合手射、謂之施繍毬、又用杖擊弄毬子如綴、毬子方墜地、兩朋爭占、供與朋頭、左朋擊毬孑、過門入盂爲勝、右朋向前爭古、不令入孟、、互相逍逐得欝、○中略〉 月令廣義日、擊毬戲、潅南王上元三夜燈火排戸、命河市壯女、畫杖擊毬、至于猝髻毀層流血者、止之方罷、
p.1263 毬杖
正月男童のもて遊ぶ毬杖は、元打毬の變風なるべし、打毬は馬上に武事をならはす業にて、和漢 ともに其來る事ひさし、〈○中略〉さて打毬より變じ別れて、毬杖と稽る一種の玩具になりしは、いつれの比にか詳ならず、其きざしは、宇都保物語に見えたり、〈下によるすべし〉中比の物に見えしは、源平盛衰記〈卷二十四〉に云、法師の首を造で、毬打の玉を打が如く、杖を以てあち打こち打、蹴たり踏たり、樣々にゑけり、大衆兒共態と此玉なに物ぞ、と問ば、是は當時世に聞え給ふ太政入道の首也と答、平家物語、〈卷十二〉文覺上人隱岐國へ流されける時、後鳥羽院を、毬打の冠者こそやすからぬとの、耄りたることをいへる所に、此君あまりに毬打の玉をあいせさせ給ふ間、文覺かやうにあく口申ける、なりとあり、義經記〈卷之一〉牛若きぶねまうでの段に云、ふところよ亘ぎつちやうの玉のやう成物をとり出し、木のえだにかけ、ひとつをば玄げもりがくびと名付、一〈ツ〉をば淸盛がくびとてかけられけるが云々、袖中抄〈釋顕昭撰十之卷〉たまきはるの條に云、十節録、黃帝云々、取蚩尤頭毬之、取眼射之云々、毬杖是也云々、以彼例漢土年始用件事國中無凶事、仍日本國學其例羣始打毬杖云、〈日本歲時記に、此事たしかならず、且古き文にも見えす、附會の説噸るべしといへり、〉徒然草〈下之卷四十四段〉さぎちやうは、正月に打たるぎちやうを、眞言院より神泉苑へ出して燒あぐるなう云々、遊學往來、〈支嘉法印作〉改年初月遊宴、毬打云々、〈なども見えたり、袖中捗の作者顕昭は、後鳥羽院の御時の人也、富時すでに、年始に毬杖在打しとなれば、正月の遊びにするもふるき事也、〉宇都保物語、祭使卷に云、うまゆみはてて、とねりども、こまかたわきてまひあそぶ、あるじのおと弋おほいなる玉を、とねりどものなかになげいだし給ぶ、とねりども、きう杖をもちてあそびて、うちかちてはまひあそぶ云々、今の本に、きう杖を、きう帳に作るはあやまれり、按するに、これは四月ばかりのことにて、まさよりの亭にてありしこと也、舍人ども打毬樂のさまをうつしあそぶことゝきこゆ、これ玩具の毬杖のいでくべききざし也、されば玩具の毬杖は打卷より直にうつりしにはあらで、打毬樂の玉を打をまねびたるより起りしなるべし、そのゆゑに毬杖の玉といひ、韮打ともいひしならん、打麹は鞠にて玉の形にはあらざればなり、近古の毬杖の玉もまづたく玉の形也、〈○中略〉後の世の物に見え しは、下學集、〈女安元年ノ書〉毬杖〈正月所用之也〉世諺問答、〈天衣十三年ノ書〉上之卷に云、もろこしのむかし、黃帝といふ御門ましくき、〈中略〉蚩尤が身分をづだ〳〵にわかちて、ひとつものこさじのはかり事に、正月にはかのまなこの中の人見をぬきて、木丁の玉にしてうつことにせり云々、〈かくか、れしも、十節録の説によりたまひしならん、〉中山傳信録、〈卷六〉女子、於歲初、皆學毬爲戯、〈とあるも此方の毬杖のうつり亡るにや〉壗囊鈔〈文安三年ノ書、卷六第六條、〉に、及打に作り、世諺問答ニ、木丁に作るは、共に借字也、
盛衰記、義經記ともに、毬杖の玉を入道の頭になずらへたれば、當時のは玉の形のおほきなる物にてありしなるべし、後の世のは左に圖するが如く、〈○圖略〉毬杖といへるは椎の形したる杖也玉といへるは片木を卆にけづりて、玉のかたちにつくりたる物なり、
打やうは、そのあひだおよそ十間、あるひは十二三間をへだて、そのなかばの地上にすぢをひきてかぎりとし、男兒雙方一にわかれて、かの玉を地上になげめぐらすを、一方より椎もてうちとむる也、とめえずして、かぎりのすじよりさきへ玉のめぐり越たるを、なげたる方の勝とし、打とむるかたの負とす、あるひはうちとめて、かぎりのすちより玉をこさせざれば、とめたるかたの勝とし、玉をなげたるかたの負とす、雙方かはる〴〵かくすめり、これを毬杖の玉打といひしとそ、今も京師には、玉打といひてそのなごりあるよしなれど、昔のごとく毬杖の椎はもちひず、竹づゑ竹はゝきのたぐひにて、玉を打とむるのみとそ、〈○中略〉
京なる靑李庵主人云、今京師の俗に、小兒曙は生れて初の正月、母方の親里などより、左の圖〈今制○圖略〉のごとき毬杖をおくりて祀儀とす、是何の所用もなく、たゞすゑおきて、小兒の目をなぐさむるのみ也、次の年の正月は、男兒にはぶり〳〵をおくり、女兒には飾花をおくる、〈○註略〉三年めにいたりては、是等のおくり物ヲせず、小兒三歲をかぎりとする也、但此事なべてするにはあらす、古俗をまもる者の希にする事也、〈といヘり、毬杖ぶり〳〵ともに、今は何の所用もなく、たゞ年始の疏のかざり物となりし也、〉 今制毬杖圖〈○圖略〉 椎より柄の端までさしわたし、曲尺一尺八寸許、土をつかね、紙を翦、胡粉丹、繰靑等にていうどり、粗槌につくりたる物也、 滑稽雜談卷之一に云、當代は古來の摸樣に變じて、二三歲の幼兒に、小き毬打を紙上又は薄板に貼し、鶴龜松竹など造て云々、といへるはすなはち是也、此書は正德三年和漢三才圖會と同時の撰也、當時かくいへれば、正德の前すでに今の此制になりしなるべし、
p.1266 滑稽雜談に、俗に振々と幕して毬を拂ふもの有、毬杖と云者にて、杖のさきに付るものなり、當代は古來の摸樣に變り、二三歲の幼兒に少き毬打を紙上又は薄板に帖し、鶴龜松竹など作て、是を毬打に限るやうに稱し、其餘は玉振々と各別に呼ぶ、大なる非也、いつれも木丁と稱すべしと云々、今玉振々と云は、卽昔よりの毬打にて、腰物の目貫、緣頭の繪樣、又は諸具の蒔繪にもあり、其形狀玉は大戸に付る戸車の如く、寶盡の内の七寶と云物の如く彩る、振々は木を八角に創り、兩端を細く、中ふくらにして、細き方上の方左右に木瓜形の穴を穿ち、此處に前件に云處の玉を付て、總體金箔にてだみ、其上に傳龜松竹尉姥等の繪を彩色にするなり、用る時は左右の玉を取はなし、別にして是を擲つ玉とし、八角の木の木瓜形の穴へ、竹杖木杖の如き棒を貫き柄として、是を玉を打毬杖とす、略しては皆己が得物を用〈巳上〉と云へり、玉の形なども古今異なれども、此説の如く、毬打ぶり〳〵はもと一物なり、柄をさし緖を付るも、用るもの、好によるべし、〈正德の頃には、古製うつりて今の醴となれ、ばかく云り、〉或は箒など用る處かける畫あり、ぶり〳〵と云ことは、今ぶら〳〵と云ふ言と同じ、〈○中略〉貞德が油渣に、あぶなくもありめでたくもあり、正月はありて町々玉うちて、又掠梨一雪が獨吟百韻、塵吹はらふ風は箒よ、ぶり〳〵ももたで琥珀の玉打に、春に北野へおじやれ松ばら、〈寬丈元年の作なり〉箒などにて玉うつをいへり、
p.1266 一日野殿より、今日〈○十二月晦日〉御毬杖二玉二〈金〉まいるなり、
p.1267 ぶり〳〵
ぶり〳〵の名は古き書にいまだ見あたらず、近き昔造ケ始たる物なるべし、毬杖と同物とするはひがごと也、元來別物也本草啓蒙〈卷廿七〉云、碌礒は田器なり、形瓜の如にして六稜あり、兩頭に索ありて、土上をひきて地面を平にする具なり、三才圓會、授時通考等に圓を載す本邦正月兒戯のぶり〳〵は、この形に象るなり、醒云、今此説にょりて按に、正月男兒にぶり〳〵をもてあそばせしは、年始に農業のまねびをさせ、農事をすゝむる意なるべし、古畫を見るにぶり〳〵に紐をつけて、地上をひ輻體をおほく畫けり、是田畑の地面を平にするのまねびならん、明王圻が三才圖會を考るに、膠確は長さ三尺ばかり、大小等からず、或は木、或は石をもてつくり、畜力を用て田晴の土を打、水陸遘じて用之となれば、馬杷のごとく、牛馬の尻にづけてもちふる物なるべし、ぶりぶりの制作を考るに、兩脇につけたる月車の如きものは、元地をひく料の車にてありしなるべし、玄かるを後に、毬杖にならひ、その車をとり放ちて投る玉とし、ぶり〳〵の紐を持てふりめぐらし、椎のかはりとして、玉を打とめしゆゑに、毬杖とおなじ物のやうになりし歟、左にあらはす明曆万治の比の古圖を見て、推當にさおもへり前にいへるごとく、今は年始の祝のおくり物にするのみ、何の所用もなきものとなれり、
p.1267 大麻木やり歌、〈打ものの内〉ぶり〳〵にかい玉とあり、かい玉とは、かひ遣る、かい取などの詞と同くカい打玉といへるなるべし、玉振々といへるは常なり、また玉毬打ともいへり、元隣が誰身のうへ、〈明曆二年、卷二、上略、〉かざりわらべの玉毬打ぶり〳〵ふりし佐保姫に云々、又ぶり〳〵ぎつちよともいへり、松の葉、京童といふ半太夫節に、先正月は云々、ぶり〳〵ぎつちよを手にふれて、玉をフち出のはま弓やなどあり、ぶり〳〵、もとより、毬打なれど、紐を付て振る故にぶり〳〵いふのみ、今製の毬打は只祝義の手遊なり、順也が俳諧五節句に、破魔弓、玉毬打、養君に乳母祝儀 に遣す、又ははね、はこ板、女の子へ逍す、是みやこのならはしなり、乳母なきは祖父祖母遣すと有、
p.1268 ブリ〳〵〈○中略〉
守貞云、昔ハブリ〳〵、及ギテウニ物ニテ、各々眞ノ弄具ナリシガ、近世ノ小兒是ヲ玩トス、セザルニヨリ、唯祝義ノ物トナリテ、玉ト槌ト別ニテハ進物等二煩シキニヨゾ、逾ニ略シテ左ノ如ク玉ヲ槌ニ造ソ付ルコトニ成タル也、
余大坂ノ産ナレドモ、此ブリ〳〵、及ビ次ノギツテウトモ有之コトヲ知ラズ、恐ラクハ京師ノミ有之テ、大坂ニハ無之、次ノ鯛魚等付タル槌アル而已歟、猶委ク後考スベシ、
p.1268 長久の江戸店
常の賣物店は捨置いて、正月の景色、京羽子板、玉ぶり〳〵、細工に金銀を鏤め、〈○下略〉
p.1268 文政八年乙酉隨筆會 平安 角鹿桃篥
花
京師の俗に、小兒生れて初の正月、母かたの親里などより、男子にぶり〳〵ぎてうを贍る事は、今もまれ〳〵にあり、女子に花をおくりしは、漸くたえたるに似たり、
p.1268 手毬
p.1268 楊弓手鞠等、終日可張行申候、
p.1268 鞠拜履〈○中略〉 、一種有手鞠、其大如橙、自始以棉絲纒環之、婦人女子於家園或板床上、以手鑿之、是謂衝手鞠、其堪之者以千算之、
p.1268 手鞠 てまり
蹴鞠はその事久しく、西土にも翫びしものにて諸書に見えたり、手鞠の事は見えず、若强ひていはゞ、打毬その事の始と云ふべし、然しながらそれも毬杖といふ物にてすくひなぐる事なれば、 今の小兒女子の翫ぶ如イの事にはあらず、その事いつの比より始れりと云ふ事はさだかならねども、一條皹閤の書給ひし尺素往來にも出たれば、その前つかたようも旣に此事は有りしと見ゆ、之からば貳百年ばかりのほどより、此事は出來しにやとも思はる、ゑかしながら是もいつと云ふ時節はなくて、興に乘て翫し事にや、今の俗には五月の遊びに、小兒女子の專らもてあそぶ事なめ、是もいつばかりの事にや、寬永の比、那波道圓が遺藁詩の中、元日の韻に、擊毬撞翩と見えしも、その比は羽子をつき手鞠つく事とは見えたり、
p.1269 手鞠〈○中略〉
今製ノ手鞠大中小種々トモニ、蠶絲ヲ以テ卷キ飾ル、其糸五彩ヲ交へ皐タヲ、中心蛤罐殻等砂ヲ入レ振之ニ音アリ、貝殼ノ表ニハホソキ鋸屑ヲ以テ包之、其表ニ暴綿ヲ包ミ、其表ニ五彩糸ヲ霧ク、大ナルハ直徑五六寸、小ナルハ五七分也、此五七分ノ小ナルハ、京坂ニテカンマ手マ、ヽ云、拍用ニ非ズ、小鞠ニ三顆ヲ片手ニ持チ、 ツヲ揚ゲ落來ル間ニ、殘レルヲ揚ゲ代ル戯也、懿子ヲ以テモ行之ゴトアリ、
p.1269 民間歲節上
正月〈○中略〉女兒屯綿爲毬、繍以五綵、謂之亊輸、築而躍之、競以百躍不墜有手毬歌以爲之節、
p.1269 毬つく〈年の初に幼女のもてあそび也いつ頃に始まろにやゑれす、久しき世よリ童女のもてあそびとしき亡れリ、毬打にならへる物なるべし、〉
p.1269 女子於歲初皆擊毬爲戯、又有板舞虞横亘板於木椿上い兩頭下空二三尺許三女對立板上、一起一落、就勢躍起五六尺許、不傾趺欹側巫、
p.1269 貞應二年正月二日瑳飯之後、於若君〈○藤原賴經〉御方、有手鞠御會、 四月十三日、若君出御南庭宥手鞠貪 廿八日、若君、出御西御壷有例手鞠貪
p.1270 嘉祿三年十一月十九日、午時參大納言殿勧見參、〈○中略〉拍蓮歌、〈○中略〉被置懸鈎令悦目、〈手鞠○下略〉
p.1270 享和四年〈○文化元年〉二、月四日甲子、商家例祭ニ付、自早朝罷越、〈○中略〉、お弓へ手遊箱ノ中ユ小手鞠八ツ入持參、 五日乙丑、渡邊家内室八鹽年賀入來ぼ年玉くわひ五十、らくヘ手鞠一ツ、越前へ筆墨、外ニ手細工風巾糸共持參被膾、
p.1270 手まり唄、おらが姉さま三人ござる云々いへるは、かぞへ歌の類なり、〈○中略〉大幤といふ小歌の草子に、手毬といふ歌、つる〳〵と出る月を、松の枝でがぐした、いざゝらばきりてもすちよヤレ、松の下枝チラシこんと突あげ、きりゝとまはり〳〵みて、ひとこそゆかしけれと有、これ立まりなり、かゝれば昔は都鄙ともに、みな立まりにて、女子も庭に走り門に立て弄びしが、後にはさるべき人の娘は、家の内にて遊ぶに、立毬はしがたく、跪きてつきたるが都人の風となり、立まりは田舍にのみするようになれりと見ゆ、〈但立鞠のみ古の風と云にはあらす○中略〉
上野藤岡邊の手鞠唄 おほたんやこたんやさゝたやゑもたや廐橋うたさまゑまぶに腰かけころんでひやあくころんで二百ころんで三びやあく、その、かみ廐橋酒井家の采地たりし時の童謠なりといふ、芝まぶといふも何の事にか、或は御船ともうたふと云へり、
p.1270 古きより手まりの唄に、五兩で帶買ふて、三兩でくけて、くけめ〳〵に口べにつけて、折め〳〵に七房さげてとうとふ情中古の流行に、帶のくけたる間に燕脂をさし、たゝみて結ぶ所の折め〳〵に、總を提たるが、七ツありしと老人の語りし、
p.1270 手鞠〈○中略〉
今世京坂手毬唄數章アリ、其一二ヲ載ス、
ヒイフウミイヨク御代ノア子サンカウトオカイウナラノ郡ハオトスナオトスナ丁百丁百テウド百ッヒタ、ヒイフウミイヨウド返ス、愚按、カウトオカイチ、今バカウト岡市ト聞レドモ コウトハ九十也、今俗九十ヲコ、トヲト云、略テコウトト云也、其十ヲ十日市ニカケタル辭也、十日市奈良ノ邊ノ地名ニアリ、
今世江戸ノ手鞠モ數章アリ、是亦其一ニヲ誌ス、
ヒトツトヤ、ヒイトヨアクレバニギヤカニ、ニギヤカニ、カアザ、タテタル松飾、マツカザヲ、マツカザリ、
フタツトヤ、フタバノ松ハイロヨウテ、イロヨウテ、三ガイマ〈ア〉ツバカヅサ山、上總ヤマ、
ミイツトヤ、ミナサン兒共衆ハ樂遊ビ、ラクアソビ、穴市コマドリ羽根ヲック、
p.1271 毬花
落て又あがれ手まりの花の露 親重
數多くつくや手まりの花の庭 一正
p.1271 羽子板〈正月用之〉
p.1271 羽子板
p.1271 羽子板
p.1271 羽子板〈倭俗正月女子所玩〉
p.1271 羽兒子 はこのこ 撞羽
今俗正月の遊びに、女子羽子の子とて、鳥羽にむくろじつけてつく事、その始め、いつの比よりといふことをゑらず、或書に、北國より出るこぎのこと云ふ木菓有り、その形ちの似たれば、互に名付しともいへれど、物にさだかなる主るしなし、然しながら百年巳前よりすでに此事は有りしにや、那波道固が遺藁には元旦の詩に、擊毬撞豺と作れるにても旣に玄られたり、その外に俗説まちまちなれども、皆とるにたらず、
p.1272 民間歲節上
正月〈○中略〉女兒〈○中略〉播羽于木欒子、以彩板承而跳之、翩翩如胡蝶、謂之羽子板、
p.1272 正月 おさなきわらはのこきのこといひてつき侍るは、いかなることそや、答、これはおさなきものゝ、蚊にくはれぬまじなひ事なり、秋のはじめに、蜻蜒といふむし出きては、蚊をとりくふ物なり、こきのこといふは、木連子などを、とんばうがしらにして、はねをつけたり、これをいたにてつきあぐれば、おつる時とんばうがへりのやうなり、さて蚊をおそれしめんために、こきのことてつき侍るなり、
p.1272 十一日〈○正月、中略、〉御所々々に御みやげは、こきいた、こきのこ、匂貝已下御臺樣へも同前、
p.1272 永享四年正月五日、女中近衞、春日以下、男長資隆富等朝臣以下こきの子勝負、分方男方勝、女中負態則張行、於殿上酒宴及深夏有酒盛聽聞有其聽、六年正月十九日、抑こきの子女中男共有勝負二方、予、〈○後崇光〉若宮、三位、隆富朝臣、有俊、一方、今御所、姫宮、近衞、春日、梅香丸、周明等也、男方負則所課張行、予、三位、隆富朝臣、有俊、梅香丸一瓶各出之、酒盛亂舞其興不少、 廿一日、先日こきの子還禮、入江殿姫御所女中、梅香九、周明等申沙汰有悟麌
p.1272 永享六年正月五日、抑自室町殿鵠一捶十給之、毎年佳例云々、令祝着、宮御方へ球杖三枝、玉五〈色々彩色〉こき板二〈蒔繪置物繪等風流〉こきの子五被進、言語道斷殊勝驚目了、御自愛無極若宮まで被入恵食、如此之物被進之條、殊喜悦珍重也、三條へ態々可得其意之由令申、
p.1272 羽子板
羽子板古制〈(圖略)これ奧州三春に、いにしへよリ博へ亡る古制なろよし、制作質素にしておのづから古雅なり、裏には立波に硅喟痴、いかにも粗慥口ゑがきれリ、木地に胡粉たぬり、墨丹線靑等にていうどれり、〉
p.1272 信濃羽子板〈(圖略)竓古制佐久郡の邊にのこりて、今につくるとそ、質素にしておのつから古雅なり〉 〈おもてうら辨じがたし、地に胡粉在ぬリ、論はかたにほり、墨にてすりこみたるものと見ゆ丹草のしる、蘇枋などにていうどれり、いかにも粗糧なうものなリ、曲尺在もてにかるに、總長九寸七分、あつさ一分五、冫ばかりあり、いにしへの質素な見るべき物也、〉
p.1273 出初國梅津村羽子板
製裁至て粗也、倆面とも鈍目あり、凸凹あるに柄を殘して、胡粉を淡り塗り、ベンガラ責汁藍臘の三色にて彩り、墨書流し、女子の翫具たるものに、騎馬の人を畫るも奇なり、極めて質朴なる處に雅味あり、今も毎春に鬻くものなれば、珍敷くはあらず、
p.1273 正月戯〈○中略〉
京坂今制〈○羽子板〉桐板ヲ用ヒ、繪ハ紙ニ極彩色ヲ以テ、美人及ビ芝居俳優肯像ヲ描キテ、後ニ疊紙ヲ裁除キ粘之、天保末以來江戸今世ト同ク、押繪ト云ヲ專トス、
江戸今制 文化文政以來、京坂ニ先ダッテ押繪羽子板ヲ用フ、板ハ桐板也、押繪ト云ハ人物ヲ專トシ、是亦麗人及ど俳優宵像ヲ專トス、其顔及ビ手足ハ白羽二重ニ、眼鼻口及指爪ヲ描キ、髮亦白二羽重ヲ無光墨ヲ以テ全ク塗之、其上ニ艶墨ヲ以テ髮毛ヲ描キ、衣服帶等ハ其人物ニ應ジ、織文繻子天鵝絨綾縮緬等、無地縞小紋染皆用之、髮顏手足衣服ハ襟袖等各々紙ヲ以テ別ニ截之、羽二重以下周ニ糊ヲツケ、張之ニ衣類ニハ皆悉クヒダヲ製シ、綿ヲ挾テ肉トシテ高低ヲナシ、紙形ヨ、截ヲ餘シ、餘ヲハ背ニ反シテ粘之、而後合之テ全圖ヲ制ス、故ニ極彩色ノ物ヨリ亦甚美ナリ、江戸デ翩子板ヲ買フニ、圖ノ如ク〈○圖略〉白紙ニ包ミ、又ホソ長キ竹ニ鳥ノ羽ヲ紙モテ卷付タルヲ添ル也、是初子ノ心歟、又ハ飾ノ爲歟、京坂ニハ不添之、
p.1273 羽子
今俗ハ三郡事モニ多クハハ子ト云、羽根也、ックバ子、古キ名ナレバ此上略ナラン、鳥羽四ケヲ、ホソキニ寸許ノ竹ノ頭ラニ糸ヲ以テ卷キツケ、下ニ蘂子ヲ付ル也、藁子ヲ付ルモ古ヨ、ノ事也、天 文十三年右世諺問答、幼キ童ノコギノコト云テツキ侍ルハ如何ナルコトゾヤ、答云、是ハ幼キ者ノ蚊ニ食レヌ呪コト也、秋ノ初メニ、蜻蛉ト云虫出來テハ、蚊ヲ採リ食フ物也、コギノコト云ハ、木連子ナドヲ蜻蛉頭ニシテ羽根ヲツケタ、、是ヲ板ニテ突揚レバ、落ル時媾蛉反リノヤウ也、扨蚊ヲ恐レシメントテツキ侍ル也云々、然ラバ當時ハ夏秋ノ弄物ナリシ歟、江戸ハ竹串ナシニ直ニ羽根ヲ藁子ニ刺ス、或ハ藁子ノ代リニ土丸ニ鍮泥押タル物ヲモ用フ、
p.1274 今聞、兒女指數初子板之興所謂殿樣、〈○註略〉賀美樣、〈○註略〉最上樣、〈○註略〉恵武加良隨多於乳之人、〈○註略〉於乳人、〈○註略〉又日揚羽壬歌日、一二三四五六七八九十、實上古遘風、蓋十種呪文也、豈不貴哉云云、
p.1274 はこいたや 董男童女のもてあそび玉ぶり〳〵、ぎつちや破たいこ、はごいた、つくりばな、ゑやうぶがだながいらぎ、此所にてこしらゆる、かぶと、とうろ、びつ、ほつかい、此品々新町こひの棚に五せつくのいわゐ物をあきなふ、
p.1274 此年間〈○寬政〉記事 兒輩の玩ぶ切り組燈籠繪は、上方下ちの物也、夫故始は京の生洲、大坂の天蒲祭の圖抔を董板せり、寬政享和の頃、薰齋政美多く畫き、又北齋も續ひて畫けり、文化にいたり、歌川國長豐久此伎に工風をこらし、數多く畫き出せり、其梓今にありて、年々摺出せり、
p.1274 子供の觀びに万度あり、その表に一万度と書、うらにかし九とも書、目出度かしくなどゝもかきたるあり、そのもとは、うらに 書しとなり、かし の起の字九の字と見ゆるをもて、目出度の字をそへたりとなり、
p.1274 紙でつほう、來山點笠付、手を〳〵にてつほうにする手本紙、手を〳〵には手々と云ことなり、
豆でつほうは、江戸二色に出づ、今あるとは作り異なり、狂歌光陰は矢よりも早くてつほうの玉 の如くに除夜の豆うつ、
p.1275 サボン玉賣
三都トモ二夏月專ラ賣之、大坂ハ特土棘祭祀ノ日專ラ賣來ル、小兒ノ弄物也、ナボン粉ヲ水ニ浸シ、細管ヲ以テ吹之時ニ九泡ヲ生ズ、京坂ハ詞ニ、フキ玉ヤナボン玉、吹バ五色ノ玉ガ出ル云々、江戸ハ詞二、玉ヤ〳〵〳〵〳〵、
p.1275 小兒ノ翫物ノ中ニサ、ラ、コキリコナド、其宇如何、サごラトハ編竹ト書キ、或編木ト書ク、筑子コキリコ也、肚獨樂、礫碆石柞子、无木霎、草薙、稗鼓、輸子同類也、
p.1275 小兒のもてあそびもの
をさなき人のもてあそびものは、昔も今も大かたかはらず、榮花物語月宴の霽に、石などりせさせてといへる石などりは、今の世に石なごといふわざするに同じやうにおもはる、同卷に、今のうへわらはにおはしませば、つごもりのつゐなに、殿上人ふりつゞみなどしてまゐらせたれば、うへふりきやうせさせたまふもをかしといへるふかつゞみは、今も名さへかはらず、大鏡五の霽に、此殿は小松ぶりにむらこの緖つけてたてまつりたまへちければ、あやしのものゝさまや、こは何ぞととはせたまひければ、しか〴〵となん申す、まはして御らんじおはしませ、きやうあるものになどまをされければ、南殿に出させたまひてまはさせたまふに、いとひろき殿のうちにのこらずくるべきあるけば、いみじうきやうせさせたまひてといへる小松ぶりは、今はこまといふ、緖つけてまはすさまも同じことそかし、をさなき人の情はさかしらのぞはねば、いにしへも今も、たかきもみじかきも同じくて、其もてあそびものもかはらぬになん、
p.1275 手遊
博古圖に、漢と六朝の鳩車の圖を載て、按、鵬鳩之詩、以况母道均一、故象其子以附之、因以爲童戯、若 杜氏幽求子、所謂兒年五歲爲鳩車之樂、七歲爲竹馬之歡者是也といへり、鳩車竹馬は、重兒嬉戯の具なること、漢世旣にゑかり、吾邦にもつたへて習俗とす、その來こと最ふるしといふべし、獪紙鳶、獨樂など、童兒の翫物、異邦といへども、同じかること多きは、人情のかはらざればなるべし、さて世の風俗にゑたがひて、質朴なるが華美にうつり、鄙俗なるが雅致にかはれるなど、さま〴〵なるうちに、むかしは赤本黑本とて、金平虎狩桃太郎などの册子なりしも、合卷とて、詞書といひ、繪組といひ、今やうの巧を盡したゐは、紫が筆のあやにも、をさ〳〵おとるまじくそおもはるまた手あそびの雀の笛は、むかしは、はりぬきの小き猿の下に笛をつけて、屁放猿といへり、その容も名もいやしく、雀の笛はるかにまさりておぼゆ、古風の存するものは、小人形に編笠きたる遊客、盆太鼓、すた〳〵坊主の人形などなを少からず、
p.1276 手遊物大意
京都名物、價九文十九文手遊人形小間物類は、淸水屋より賣弘る所、其品々高直なるも下直に引下、細工人亦は商ひ家業に多人數是を營み、京大坂江戸長崎、其外國々へ持行といへども、同じ直段にて賣候樣に取くみ、董幼かた商賣取始に、撰取見取直切こぎりの世話いらざる最上の品々、此品發端天照大祚宮、春日大翩神、八幡大神の三柱、天地人の三才、彌陀勢至觀音の三尊、此神儒佛を合し丸つ、天に九曜星有、地に九の大山、人に九穴、もとより九は陽數にて、發生する理をもつて、九文物をはじめ、夫婦合體して十九文物となせり、扨又九文店、商なひの箱の下の方高くなせしは、九山を下に見る意なり、箱の四角なるは、我朝にか一たどり、六つづゝ二行に列ぶるは、十ニケ月を表す、扨小兒方母の乳房の内より、第一王の字に似たるは、ねぶりこを與へて、食することを敎へ、第二に品々の色品を以て、眼に見わける事を敎え、第三槌がら〳〵をもつて、左右の手に持ことを敎え、第四大鼓ふりつゞみを以て、耳に聞分る事を敎え、第五に反魂香をもつて、鼻に物の香 をき、分る事ををしえ、第六品々の内、大小または吉凶を以て、銘々行末家業の道引、智惠を發生いたさせ、斯のごとく小兒がたへ、六根導のをしえの根元の品なり、外々の品にて彊てこれを覺えさせんとするときは、却て小兒方疳病を發する事もはかりがたくと、古人のをしえたる、人のよくしる處なり、又翫といふ文字は、習の元と書て、其元をよくノ丶習敎ざれば、末邃がたしといへれば、小兒方にあたへて翫したまへとす、め申と云々、 淸水訳右衞門藤原勝晴 謹記
p.1277 神龜四年十一月己亥、天皇御中宮、太政官及八省各上表、奉賀皇子誕責井獻玩好物、
p.1277 寬治八年正月廿七日己亥、今朝依仰小董三人將參於内、入從北陣方、於中殿朝干飯御覽之有、頃而欲退於間有恩言賜翫物、〈太郎童、行成大納言一本弓、二郎二郎兩童、唐人所獻翫物等也、〉
p.1277 慶長九年五月五日、竹のうち殿なる、くろどにて御せんぼうめ力、女房の御かたよりまきまいらる、御所々々へもいつものごとく御ふくまいらる、宮の御かた、二の宮の御かた、三の宮の御か舵へ、御もてあそびどもまいらせらる、
p.1277 天保十三寅年五月十一日
一手遊び之内、水唐繰に而女之小用いたし候形有之、右之外にも張拔土細工に、不行儀之品間々相見候間、右體之品は早々爲相止候樣、南定御廻り方ゟ被仰渡候間、此段御達申候、御組合内早早御通可被成候、
五月十一日 〈八番組諸色掛〉伊東撼右衞門
井上勘介
p.1277 持遊細工物屋 重子のもてあそび物一切此所にあり、諸方の紅工人おもひおもひのあみたてをつくりて此家に持來る、但紙薄板等をもつて造り、雜品の物なり、五條橋の西此棚あり、
p.1278 あすか川
一子供の持遊物も、近來世帶道具一式出來合有なり、其上細工の樣子、一通りならぬ手の込たる事どもなち、世にけしやといふ、
p.1278 神田庵小知
小知は原米賈人にしてバ東武神由に住し、俗稱伊勢屋八兵衞とよびて、性豪放にして俳諧を好み、三井親和の門人にて書をよくし、〈俗樣に馬場流をよくかけり〉産神神田明神の大幟をかきて、其筆跡今獪のこれり、年老て家産をはいし、俳諧をもて業とし、神田庵と號す、自ら一箇の見識ありて、世間の人を脾睨し世を玩び、人はたゞ兒重心になりて世をくらし、生涯理屈を離れたきものなりとて、兒戯の手遊ものをこのみ、ふうつゞみ、犬はりこ、土人形、むぎ藁笛、風車のたぐひ、都て何によらず持あそびの具をおほぐ買集て、一室のところせきまで雙べ置、是をもて遊びてたのしみ暮しける、くる人も是をゑりて、万般の玩具をかひて、土産にとて齎し來る、小知またこれを得て、只管に僖びけりがゝりければ家はいと〳〵貧て、をり〳〵物に困じけり、一日社中二公子のもとに行て、一步金ひとつを貰ひ、かへる路上、その半は玩具をくさ〴〵もとめ歸て後、米薪など些く求めけるとぞ、