https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1182 印地ハ、礫ヲ投チテ鬪フコトニテ、小兒ノ戲ナリ、多ク河邊ノ曠地ニ於テ之ヲ行フ、是ヲ河原印地ト云フ、

名稱

〔運步色葉集〕

〈伊〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1182 印地

〔嬉遊笑覽〕

〈四/雜伎〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1182 いんぢは石うちなるべし、〈○中略〉後世此事端午の戯となりしは、ひを膓の日とて、馬にのり弓射て武を試る事なれば、それを學びて、此戯をしそめたる物なるべし、

〔饅頭屋本節用集〕

〈伊/言語〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1182 印地

〔雍州府志〕

〈七/土産〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1182 藥玉井燈籠〈○中略〉 端午所用木刀、或謂菖蒲刀、以其朕之相似、准節物而稱之、兒輩横腰間、端午石戰戯後、多以斯刀相戰、是謂菖蒲切菖蒲與勝負倭語相近故寓二戰勝負之義者乎、本朝所謂印地、朝鮮人稱石戰戯、

〔松屋筆記〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1182 いんぢ
或人の談に、上野國渡瀨川を境て石投といふ戯をす、毎年の正月のころ、川の兩岸に少壯あまた陣をなして、いみじうのゝしりさわぐとなむ、これいにしへの石擊の遺風なるべし、こは端午の遊戯のよしなれど、今も熱田の杭にては、正月十五日に此式あり、辨内侍日記正月十五日の條に、 まことやけふは人うつ日ぞかしとも見ゆ、

〔世諺問答〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1183 五月 けふ〈○五日〉わらはべの、小弓をもちて、いんぢとてし侍るは、何のゆへそや、
答、むかし左右近衞の馬場にて馬にのりて、ゆみいし事の侍るなり、ひをりの日なども申にや、これらをや、いんぢのはじめとは申べからん、

印地例

〔源平盛衰記〕

〈二十二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1183 衣笠合戰事
大介〈○三浦義明〉是ヲ聞テ、若者共ガ軍ノ樣コツヲカシケレ、何ノ料トテ命ヲタバウベキゾ、京重蔀ノ向ツブテ、河原印地ノ樣也、坂東武者習トシテ父死レドモ子顧ズ、子討レドモ親退ズ、乘越乘越敵ニ組テ勝負スルコソ軍ノ法ヨ、〈○下略〉

〔源平盛衰記〕

〈三十四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1183 法住寺城槨合戰事
若殿上人諸大夫北面ノ者共ナドハ、興アル事ニ思テ、ハヤ軍ノ出來ルゾカシト申アへリ、少シモ物ニ心得タル人々ハ、コハ淺增キ事哉トテ歎給ヘリ、院御所法佳寺殿ヲ城廓ニ構テ官兵參集ル、山門園城ノ大衆、上下北面ノ輩ノ外ハ、物ノ用ニ立ベキ兵ア、トモ覺ズ、堀川商人ニ向飛礫ノ印地、冠者原、乞食法師、加樣ノ者共ヲ被召タレバ、合戰ノ樣モ爭カ可習、風吹バ轉ビ倒レヌべキ者共也危クゾ見ケル、

〔義經記〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1183 鬼一法眼の事
法眼〈○鬼一〉申けるは、〈○中略〉北白河にたんかいと申やつ御入候が、何故共なく法眼が爲にあだをなし候、あはれうしなはせ候て給候へ、こよひ五條天帥に參り候なれば、君〈○源義經〉も御參籠候て、きやつを切てかうべを取て給候はゞ、今生の面目申つくしがたく候とそ申ける、あはれ人の心もはかりがたく思召けれ共さ承候身におゐてかなひがたくは候へ共、罷向てこそ見候はめ、何程の事の候べき、ゑやつもゐんぢをこそ仕習て候らめ、義經は先に天勍に參り、下向しさまにゑやつ が首切て參らせ候はん事、風のちり拂ごとくにてこそ候らめと、ことばをはなつて仰有ければ、〈○中略〉太刀ぬき待給ふ所にだんがいこそ呂來れ、くつきやうの者五六人に腹卷きせて前後にあゆませ、我身は聞ゆるゐんちの大將なり、人には一樣かはりて出立けり、

〔雨窓閑話〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1184 織田信長公吝嗇拜印陣打の事
一織田上線介信長公は、吝嗇第一の人なり、角力を好みてとらせらるゝに、三番勝する者へは、燒きたる栗三つづ丶褒美にあたへ給ふ、至りてゑはき事これにて主るべし、然れども其器量においては、中々凡人の及ぶ所にあらず、幼年の時尾州淸須在所の寺へ手習に行かれけるに、相弟子の寺子共四五十人も有りけるが、五月五日の日は、休の事なれば、印地打を遊びとなす、此印地打は、古きたはむれにして、賴朝時代より有りとそ、たとへば其遊は、子供東西に立ちわかれ、石礫を以て打ち合ひ、勝負を爭ふ、五月五日を印地打の遊の日とす、〈印陣打とも書く〉雙方の手負死人多きに因りて、或は怒を含み、憤恨を夾むもの少からず、毎年々々其戰大になりて、偏に劍を用ひざる軍におなじ、此故に、御三代目將軍家の御時、寬永十一年、印地打の儀嚴しく御制禁を仰せ出だされける、信長幼少の時は深く此遊を好みて、五月五日の日は、いつも御母公より紙筆墨のたぐひ、飯米三斗に、永樂錢一貫文づゝそへておこせられけるを、信長其錢をば子供にあたへ、印地打をさせらる、其鳥目をもらひたるものは、働拔群なり、扨又高名により、褒美として恩賞の鳥目を與ふ、終に一錢も貯へずして、子供らにわかち與へけり、其心入れの程、日頃の吝嗇とは格別にて、心有る者は、此董子末々は、名將となりなんとて、舌を卷きて感じたりとかや、果して其ごとくなり、

〔甲陽軍鑑〕

〈二/品第五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1184 德川家康公十二歲、竹千世殿と申奉る時、中間の肩にめし、五月菖蒲きり見物にいでさせ給ふ、一方に人三百ばかり、一方に百五十ほどなり、見物の人々是をみて、人のすくなきかた必まけんとて、大勢の方へ立よらざる者はなかりけり、さるほどに竹千世殿を肩にのせ奉 りたる中間も、大勢の方へ立よらむとす、其時竹千世仰らる、は、何とて我を皆人の行方へつるるぞ、今たゝきあふならば、かならず人のすくなき方勝べし、あれほどすくなき者共が、多勢を輕思ゐ、出張てゐたるは、能々多勢の方を弱思ふた者也、又は兩方討合時、多勢にてすくなき方をすけむと思ふ事もあらん、いざすくなきかたへゆきて見物せんとのたまふ、御供の者ども腹立して、ゑらぬ事をばのたまふな己て、無理に大勢の方に留けり、如案打合時、人のすくなき方の後より大勢かけ付てあら手を入替うちければ、はじめ大勢有し方打味けて、ちりみ丶ににげ観る、見物の者も我先にとのきふためく、竹千世殿見給ひて、云ぬ事かと宣ひて、かたにのせ奉りたる中間のかしらを、御手にてた、きわらはせ給ふ、

〔嬉遊笑覽〕

〈四/武事〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1185 甲陽軍鑑、〈二〉天文ごろ五月菎蒲切といふ事あり、是印地なり、

〔甲陽軍鑑〕

〈十下/品第三十三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1185 一其後信虎公被仰は、今川の家、十ケ年の内外に滅却有べき子細は、上方牢人武藤と云、武篇の義假初にも玄らざる、利德ばかりの役に義元の申付られたる、町人半分侍半分の者あり、其子生つきよきとて、氏眞の御座をなをさせ、三浦右衞門と名付、氏眞は皆彼右衞門がま、になり霜月極月にも右衞門が所望となれば、〈○中略〉五月の菖蒲斬を七月すゑまでたゝきあはせ、〈○下略〉

〔醒睡笑〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1185 落書
妙心寺の借に金藏主といふあり、賀茂の競馬を見物に行き、かへりに印地のある所にて、まくるかたをひいきし、つよみ遏につかれぬれば、
五月五日けいばかへりのきんざうす鎗につかれてひしやとこそなれ

〔慶長見聞集〕

〈九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1185 武藏と下鰡國さかひの事
見しは今、角田川は武藏と下總のさかひをながれぬ、されば河なかばよリニなたには石有、あな たはみなぬまなり、爰に淺草の者云けるは、下總の國に石なき事を、淺草の重部共あなどり笑て、五月になれば、ゐんじせんとて、舟に石をひろひ入、河向ひに見えたる牛島の里の汀へ舟をさしよせ、牛島のわらは共をつぶてにて討勝て、利口を云て年々笑ふ、古歌に、うなゐ子が打たれ髮をふりさけて向ひつぶての袖かざす也とよみしは、下總の國牛島の董子共の事かと思ひ出せり、去程に牛島のわらは、是を無念に思ひ、常に武藏の石をひろひぬすみをき、五月淺草の子共側の舟に取乘來る時、牛島のわらは、岸根に出てゐんじをする、其岸へ打たるつぶて、頓てこなたの岸へよると語る、

〔橘庵漫筆〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1186 印地打の兒童の戯は、淸家筆記の和論語に因陳と書たる處あり、今にも浪花近き稗島と云處には、印地打をせり、京師の小兒柳の枝を以造れる印地の棒を、ちんくの棒と誤りて稱せり、其制柄の處は麁皮を殘し、柄糸を卷たる形に、菱形に皮を剝、身の處はみな皮をむきて白木とせり、予〈○田宮仲宣〉幼き頃迄は、ちんーの棒とて、上巳端午等には翫物とせり、元來犬打にて犬追物を戲擬せりとそ、

〔張州府志〕

〈五/熱田〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1186 熱田肚四序祭奠略
正月十五日射禮〈(中略)射禮畢、氏人別南北擲鬪瓦石、或執刀輓、頗有死傷者、名謂印地打、言印蘆一地而爲界、胸左右別爲勝虱也、儺字亦訓伊牟知、迥年官禁罷之、唯行步射而巳、謹、按、東國薀鑑所謂石戰之戯是也、〉

〔守貞漫稿〕

〈二十七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1186 或日、端午ノ印地打止テ印地切〈イシジエギリト訓ズ〉トナリ、正保慶安ゾ頃ル、此日專ラ重ノ挑爭フ印地切モ停テ菖蒲打トナル、

雜載

〔續曲之井〕

〈夏〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1186 印地
あやしう肚物ぐるをしき印地哉 〈京伊藤〉如春

〔古今夷曲集〕

〈二/夏〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1186 久淸 印地にし深入ゑつゝ深手をば負はふかくな深草の者
五月五日雨降ければ 左衞門督藤原義景
風の手の礫のやうに打ちらす雨こそ今日の虚印地なれ

〔古今夷曲集〕

〈八/雜〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1187 貧しくて春もうくべき糧なかりけるに、よしありければ、定家卿の許へ申遣し侍りける、
曉月が遣はすのはての虚印地年うちこさん石ひとつたべ
返し
定家がカのほどを見せんとて石をふたつにわりてこそやれ


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Last-modified: 2025-10-24 (金) 14:56:21