p.1153 竹馬ハ、兩箇ノ竹竿ヲ用イ、之ニ跨、テ行クモノナダ、後ニハ駒ノ頭ノ形ヲ附シタル者ヲモ用イタリ、鷺足、高足モ竹馬ノ類ナリ、
p.1153 竹馬〈小見遊戯具、一名篠驂、見朝野僉載、〉竹馬
p.1153 竹馬
p.1153 竹馬〈太宗問当、土城竹馬、兒童業也、竹坡詩帖、刀氏孑、字麟浮、十歲賦竹馬詩、〉 篠驂〈朝野僉載、唐徐彦伯熔丈多求新奇、以芻狗昼弁犬一以竹馬爲篠驂、〉
p.1153 礫打、竹馬馳、編木摺、〈○中略〉指抵等、是尤雖不難之振舞、尚費カ摧肝之體也、
p.1153 少性之遊、〈○中略〉竹馬、
p.1153 十一年、〈○建武〉省朔方刺史屬井州、帝以盧芳據北土、乃調仮爲井州牧、〈○中略〉始至、行部到西河美稜、有童兒數頁各騎竹蜃於道次迎拜、仮問、兒曹何自遠來、對日、聞使君到喜、故來奉迎仮辭謝之、
p.1153 浩少與温齊名、而毎心競温嘗問浩、君何如我、浩日、我與君周旋久、寧作我也、温旣以雄豪自許、毎竪浩、浩不之憚也、至是温語人日、少時吾與浩共騎竹馬莪棄去、浩輙取之、故當出我下也、
p.1153 竹馬
唐山の竹馬の戯は、後漢の時すでにあればいとふるし、御國の古代の竹馬は、唐山の竹馬とは異 なり、葉のつきたる生竹に繩を結びて手綱とし、これにまたがりて走るを竹馬の戯といふ、竹馬の友といへるは則是なり、左に摸し出せる古圖を見るべし、今の世のごとく駒の頭の形につくらたる物にはあらず、〈○中略〉
古代竹馬
圖此圃は元祿十三年の印本圓光大師傳のうちより事出せり、これは正和年冲の古童な事して刻し亡るよしなれば、因きたること久し、正和年中は今丈化十年よリ、およそ五百餘年のとほき昔なリ、ふ石臺炬おもふべし、
狂畫苑〈安永四年印本〉に、百鬼夜行の古畫を縮し出せり、其うちに此圖あり、〈○圖略〉戯畫なれども、當時の竹 馬のさまをみる便にはすべし、好古小録に、本朝畫史を合考るに、百鬼夜行は明德の比の古晝なり、明德は今こ、に文化十年より、およそ四百廿四年の昔なり、駒の頭の形につくる竹馬も、ふるくありし物なるべし、百鬼夜行はすべて戯畫の怪物なれば、竹馬に足をかきたるなどは、そらごとなるべし、唯そのおほむねをみんのみ、
唐山の古銅器に、重兒竹馬を持たる形を鑄たるあり、銅色宋時代の物といふ鑒定あるよし、その臨本を得て、竹馬のみをこゝにうつしいだせり、これを宋の宣和年間の物とさだむるときは、本朝鳥初院の保安の比にあたれり、保安より今文化十年にいたりて、およそ六百九十餘年なり、古きをしるべし、兒五歲にして鳩車の樂あり、七歲にして竹馬の歡ありと、鳩車に對していへれば、唐山のは此圖の如き竹、馬ならん、彼是を參へ考るに、生竹を馬にするは日本樣ならん、駒の頭につくるは唐樣ならん、中昔よリニのかた彼も是もありしなるべし、〈○圖略〉
p.1155 鳩車竹馬之戯
王元長曰、小兒五歲日鳩車之戯、七歲日竹馬之遊、
p.1155 童戯
また小兒の竹馬のこと、〈此、、とは、友人醒甕(岩瀨京傳)くさぐ あつめて、先に著せるものあリ、(骨董集)今それに洩せる二とひとつ見出たるまヽ書出つ、〉高士奇澹人が天碌識除に、唐路德延爲釆友謙書記、友謙行多不謹、德延作孩兒詩云、上略嫩竹乘爲馬、新蒲掠作鞭云々、この竹馬はこ、の古畫に見えたるが如く、葉のつきたるわかだけならんとおもひ居しが、近比南京燒の磁器の赤繪に、此かた書るを見て、おもひあやまらざりしことをゑれり、よ見て其圖をこゝにうつして和漢おなじおもむきをあらはす、
南京燒磁器の赤繪〈大明成化年製の六字あり〉
〈こゝの古童に見えたるは、みな竹の葉のつきたるかたを地に引て乘りたり、この繪といささか達へろや櫛なれど、こに漢土にては定りてかくするにもあらざるべし、こゝのさまに〉 〈おなじき事も有べし、〉
p.1156 古の竹馬は葉の付たる生竹を弄べり、古畫にみえたり、又顧富草子に重孑の持たるは二本にして今の製に近く、但し木にて作りたる物とみゆ、
p.1156 竹馬馳〈○中略〉
今世京坂ニハ、長サ六寸許ノ馬ノ首頭ヲ煉物ニテ浩尸之、粉ヲ以テ塗厂之表ニ畫キ、立髮ヲウエ、三尺許ノ女竹ヲ柄ノ如クニツケ、竹ノ端二板ノ小車二輪ヲヅケ、首ト竹ノ接目ニハ、紅絹ヲ以テ包之、克、童乘之ノ醴ヲナシ、マタギ遊ブ也、今江戸ニハ無之、
p.1156 山借贈杖有感題之
昔思靈壽助衰羸、豈料樵翁古木枝、節目含將空霙老、刀痕創着半留皮、扶持無處遊花貝抛棄有時倚竹籬、萬一開眉何事在、暫爲馬被小兒騎、
p.1156 壬生忠見幼童之時内裏ヨリ有召、無乘物テ難參之由ヲ申ニ、耐竹馬ニ乗テ可蔘之由有御定、仍進此歌、
たけむまはふしかげにしてい、とよわしいまゆふかげにのりてまゐらん
p.1156 通懷古調詩一百韻
優遊何所詠、身上舊由緣、七歲初讀書、騎竹擊蒙泉、〈○下略〉
p.1156 むかしをこふ 知家
竹馬におきふしなれしそのかみの世々はふれども忘やはする
p.1156 家集、さがに住けるに、たはぶれうた人々よみけるに、 西行上人竹馬をつゑにも今日は賴むかなわらはあそびを思ひ出つ、
p.1156 所生の小兒、字を勢至丸と號す、竹馬に鞭をあぐるよはひより、その性かし こくして成人のごとし、
p.1157 正成首送故郷事
正行父ノ遺言、母ノ敎訓心ニ染、肝ニ銘ジツ丶或時ハ重部共ヲ打倒シ、頭ヲ捕眞似ヲシテ、是ハ朝敵ノ頸ヲ捕也ト云、或時ハ竹馬ニ鞭フ當タ、是ハ將軍ヲ追懸奉ルナンド云テ、ハカナキ手ズサミニ至マデモ、只此事ヲノミ業トセル心ノ中コソ恐シケレ、
○
p.1157 鷺足〈小兒所乗之物〉
p.1157 鷺足
今も遠江、駿河、常陸、上野、豐後にて、鷺足といひ〈薩摩にてさんぎしといふは、鷺足の訛りなり、〉相模、美濃、下野、陸奧、加賀、周防にて、高足ととなへて、竹二本に足踏かくべき木を横に結つけて、小兒の戯れに乘物なり、〈京江戸大坂にては、たげ馬といふ、他國にもさいふ所山あり、肥前にて高馬といふ、たけ馬は高馬の証り歟、〉
p.1157 爲義最後事
半井本云、長德ノ頃、花山法皇化モノヽマ子シテ道ヲ行給、前足卜云物ヲ召、
p.1157 鷺足
按〈○北愼言〉に、是はサギ足とありけんを、誤て前足と寫しゝならん、
p.1157 爲義最後事
京師本、杉原本並云、長德ノ頃、花山法皇紅ノ袴ヲツギノベサセ奉リ、高アシニメサレ築垣ニ御尻ヲ懸ケ、ヨナノ丶御遊アル事アリシヲ、〈○下略〉
p.1157 相撲拔出
散更〈之中有一足高足侏儒舞等〉輪鼓獨樂呪師、
p.1158 洛陽田樂記 帥江納言
永長元年之夏、洛陽大有田樂之軣不知其所起、初自閭里及於公卿、高足一足、〈○中略〉一城之人皆如狂焉、