p.1167 紙鳶ハ舊夕紙老鴟ト云フ、後世ノ俗、イカノボリ、又ハトビダコト云ヒ、又略シテイカ若シク
ハタコ十モ云ヘリ、竹ヲ骨トシ、紙ヲ張リテ、鳥、魚、又ハ雜物ノ形象ヲ作り、此ニ糸ヲ附シテ空中ニ飛揚セシムルモノナリ、
p.1168 紙老鴟 辨色立成云、紙老鷗〈世間云、師勞之、〉以紙爲鴟形、乘風能飛、一云紙鳶、
p.1168 按、紙鳶、見邇鑑梁高祗紀、唐書田悦傳、及績博物志、紙老鴟之名未聞、按、今俗登眦太古卽是、又按、關東呼太古者、關西謂之以加、
p.1168 紙老鵄〈ジラウシ 雜藝類〉
p.1168 紙老鵄〈シラウシ雜藝具也〉
p.1168 紙老鵄 紙等鳥〈同〉
p.1168 紙鳶〈紙鵝風鳶並同、其有聲者名風筝、〉
p.1168 紙鳶〈博云、爲軍用韓信所造、見事丈雜、蠡海、紐原、活法、〉 鳳巾〈又云、鴟老紙、〉 烏賊幟〈和俗所用〉 紙鳶〈又云紙老鴟〉
p.1168 風鳶〈唐書田燒俸、張径急以祇爲風鳶、高百餘丈、過挽營上、悦使善射者射之、不能及、燧營譟迎之得書、〉 風箏〈詢蒭鎌、風箏卽紙鳶、又名風鳶、初五代漢李鄂於營中作紙鳶、引線乘風爲戯、後於鳶首以竹霧笛、使風入作聲如箏、俗呼風筝、事物紀原、紙鳶俗謂之風箏、〉 毫兒〈劉偏帝城景物略、舊有風鳶戯、俗日毫兒、〉 風禽〈名物法言、風禽日紙鴟、紙鳶、〉 紙鴟 紙鳶〈共見上〉 鷂子〈瞹妹田筆、鷂子紙鳶也、一日風箏、〉 紙鷂〈類書纂要、放風等、紙鷂遍紙鳶、〉 八角紙鷂〈廣諧史、八角紙鷂號春聲君、又日風瓦、風鷹、〉 春聲君 風瓦 風鷹〈共見王〉 飛紙鴟〈五車韻瑞、飛紙鴟風禽也、〉 放風箏〈郷談〉 放紙梟〈正音〉
p.1168 紙鳶
紙鳶、本五代漢隱帝與李業所造、爲宮中之戯者、〈見李業記〉而紀原以韓信爲陳舜造、放以量未央宮之遠近爻日、侯景攻梁臺城丙外斷絶、羊侃令小兒放紙鳶、藏訪叩於中以達援軍、二説倶不見史、且無理焉、線之高下豈可計地之遠近、羊侃又何必令小兒放之、放之而紙鳶之墜、又可必在於援軍地耶、其爲李業所始無疑俗日鷂子著、鷂乃擊鳥、飛不太高擬、今紙鳶之不起者日嵐笋者、乃古殿閣之簷鈴爾、借以名、今之帶絃之紙鳶也各有意義、風箏風琴丹鉛總論辨之明矣、
p.1168 墨子作木鳶、飛三日不集、公輪子之雲梯、墨子之飛鳶是也、
p.1169 紙鳶いかのぼり 畿内にていかといふ、關東にてたこといふ、西國にてたつ又ふうりうと云、唐津にてはたこと云、長崎にてはたと云、上野及信州にてたかといふ、越路にていか又いかごといふ、伊勢にてはたと云、奧州にててんぐばたと云、土州にてたこと云、〈上が主にては、いか花のぼすといふ、江戸にて、たこなあぐるといふ、東海道にて、たこをのぼすといふ、相州にて、たこ在ながすと云、〉
p.1169 一イカノボリ 京の詞也、江戸にてはタコと云、古代はシラウシと云、〈○中略〉古は鳶の形を作りたり、後代さまみ丶の形を作る、下に長き足を付たる體、烏賊にも鮹にも似たれば、イカノボリともタコとも云也、
p.1169 古は音にて紙老鴟と呼びしにて、もとこ、の物にはあらぬにや、いかのぼりは、畿内にての名なり、
p.1169 明曆元年正月廿日、此日市井兒童紙鳶をもてあそぶ事を禁せらる、
p.1169 此春〈○享保八年〉京師いかのぼりをあげ侍る事法に遏たり、四月朔日令して是を禁せられし、 先年京師大火の春かゝる事ありし、よからぬ時尚といふ人も侍るとなむ、
p.1169 天保十二丑年十一月 〈市中取締掛リ〉名主共〈○中略〉凧之儀、近來繪柄彩色等、無宜ニ手を込、高直之品も有之趣相聞候、此節仕込候時節ニ付、右體之品决而冊申間敷、尤乗而申渡置候通、大キ成凧仕込申間敷候、右渡世いたし候者共江、急度可申渡置候、
右之通申渡候間、不洩樣一同〈江〉早々申通、巳來逡失無之樣可致候、
右之通被仰渡奉畏候、爲後日仍如件、
天保十二丑年十一月廿九日 〈安針町〉名主 雄左衞門〈○下略〉
p.1169 紙鴟 紙鳶 風箏 紙老鴟〈和名師勞之、今云烏戯、關東謂章魚、〉 按、辨色立成云、以紙爲鴟形乘風能飛者也、鴟、息蹴章魚、因形名之或以爾帛爲之、春月小兒多弄之、至大婁大人以爲戯、
p.1170 紙鳶諸圖
鳶風箏、後世鳶、奴風箏、南蠻紙鳶、鯰風箏、蟬紙鳶、〈○以上圖略〉
凡風箏に百品の製あり、悉くあぐるにいとまあらず、圖する所は万分の一のみ、中古四谷鳶といふをもてあそぶ、武州四谷より造り出せる樣に、世俗云傳ふるといへども誤りなり、夜通耶鳶なり、晝夜能ありおほするの名なり、夜を通して揚るといふ心なり、耶の字は付字なり、佛家に三昧耶といふがごとし、三昧はよねんなきかたち、耶は付字なり、
p.1170 物の名
江戸四谷より鳶の形に作り出せしを四谷鳶といふ、鳶はこのもの、本なり、その名を章魚烏賊に奪れたるは朽をしきや、去年の春かくそよみける、
くれ竹のよつやといへばいかのぼり鶯よりも鳶に春めく
p.1170 一やつ二だこは、鳶だこの形をうつして、足を尻尾にしセるもをかし、是は安永の始より出來たり、其頃木室卯雲〈二鐘亭と號す、後白鯉館と改む、〉發句に、
初午や地に白麺天にやつこだこ
p.1170 紙鳶
寬政の比迄のいかのぼりは、今の如く〈嘉永〉横骨多くいれしはなく、八枚張以上ならでは七本骨はなし、繪樣は京山翁〈○岩瀨〉が本書に云はるゝ如し、されば價も今より下直なり、一枚張十六孔、二枚張三十二孔、四枚張八枚張も一枚十六孔に價定まりてひさげり、然りしに寬政八年の頃、鐵砲溯船松町に室崎屋と云ふが、今の如き手を盡くしたる畫樣をなし、大凧仕立と唱へ、一枚張にて骨 七本なるを賣り弘めし事ありき、價は昔しに一倍して、一枚張三十二孔なりしに、小兒の頃此凧をあげざるを耻とせり、是余の居宅の邊りの凧屋に近き故なり、其後京橋彌左衞門町と覺ゆ、和泉屋と云ふに室崎屋と同じ凧を商へり、是今の如く凧の奢侈になりし始なり、
p.1171 一翁〈○森山孝盛〉が子どもの時は、〈延享寬延〉世上にて凧を上るに、樣々の物好をして、尤大凧をも上たり、翁は生質絵り凧を好まざりしが、夫へ西の内紙十六枚張にして、朱の洲濱を書きたる凧を人の拵てくれたりしを、三河臺へもち行てあげ付て、淸水坂を引てかへる、屋敷のうちへ入れやうなかりければ、土屋の屋根へ兩方より階子をかけ、若き侍ども糸を持て長屋を持こして庭へ入たり、齋藤靭負〈御小性組、屋敷は三河塞下、〉が所に、ては、子供はなかりしかど、西の内紙三十六枚張の凧を捧へて上たり、畢竟は大人の慰にて、子どもの所作にてはなし、〈○中略〉其外八ッ花、九曜のほし、蜈蚣などいふ繪だこをよく拵へて、家々にて上たり、釣合六ケ敷凧を上手にしたり、中々今の子どものごとく、おとなしく一二錢の袖凧鳶だこを貰ふて、子心に上りもせのにびとり欠廻りて樂しみ、日をくらす樣のことにてはなかりき、次第に人の心利辨にさとくなりて、二十年來中々不用のものを費して、たこなんどに金錢を遣ふことはなし、是等は人情のおとなしく成たるか、又おとろへたる歟、はかりがたし、
p.1171 うちはうり 扇賣 いかのぼり
凧も二枚張四十八文、繪は杉の立木に片馬居、浪に日の出、雲に舞鶴の羽など、いかにも麁末なる繪なり、こはおのれ〈○岩瀨京山〉が七つ八つの時なり、〈安永四五年、安永は九に攻元、〉其後十二三の比〈天明元年〉にいたりて字凩と唱へて、龍、蘭、鶴の字など、雙鉤字のめぐりを、藍又は紫に色どりたるを、珍とし寶として喜びけるに、今の字凧は下品として子供よろこびず、
p.1171 今も一種すがだことて烏を作る故、からすだことも云ふ、其外諸鳥の彩色ゑたる もあり、菅糸にてたこの數多くつなぎて、一すちのすが糸にてあぐるものあり、此物江戸などには、春の戯とすれ共、諸國他時に弄ぶところ多し、
p.1172 紙鳶幟
吹閉よ乙女の姿小袖だこ 〈保根〉友夕
親の恩のぶるに長したこのいと 口慰
今の列子糸わくおもし人形だこ 尺草
引窓や空に障子をいかのぼう 諍波
p.1172 拷、携可欺 熨 亢熨 風車〈○中略〉
董諺にいふ、たこく干だこ、あがつたら燒て喰はふ、さがつたら煮てくはふ、これ風箏をもて遊ぶもの玄らずむばあるべからず、いかをのぼす事、雲井はるかに糸をやりはなち、かぎりなきをたつとぶといへども、亢熨する時は、かへりて落つ、これを嫌ふ詞にて、あがつたら燒てくわむといひ、さがりてあがりがたきいかは、用に立ざるをもて、さがつたら煮てくわむとせむ、尤意味深しとす、學者つとめて玄るべし、
拷法三段之習之事
大のし〈○圖略、以下同、〉 七五三の事 細波の事
右圖のごとく、尾により見わくる功者のいる所なり、其外弗或、躔拷抔とて盡く秘事ありとそ、
p.1172 楊子方言に云、絡謂之郭、注所以轉箜給車也、此給の字妙也、今小兒の紙鳶を放に、絲をやるといふは、この給の字なり、
p.1172 風車〈○中略〉 兒董造紙鳶、著絲乗風而操之、使飛揚空中、至夏節則不揚、是又足見春陽上升之氣、其高畢者衝天、動失其形、納之時徐々而受風牽卞之、若緊急牽之、則絲絶失紙鳶所之、或以 紙造烏賊之形蔽或謂烏賊旗、
p.1173 雨中に紙鳶を昇事
麩を能ねり日に干かため、細末にして、是をねりてのりとし、骨を付るなり、夫より紙へはひましの油を煮かへして引なり糸の仕樣は、ゑぶを引能干し、ざつとうるしを引べし、尾のこしらへ方は、すくりわらを能うちて繩とし、耄ぶを一へん引、其上へあぶらを引べレ、如斯して雨中にあぐる、聊も障りなし、
夜の風箏の事
能あけつけうなりをも付て、雨戸のふし穴より糸を迺し、其糸を我まくらに結ひ付、是をまくらとし、糸耳に付くやうにして休み居るなり、うなり糸にひゞきて、ぶうくといふ、其音止むか、糸たるみたらば、油斷すべからず、
南風に甫へ紙鳶を昇事
先紙鳶を風にまかせて上げ付、雲のうちへ入、紙鳶の見へざるを度とす、尤糸は二筋なるべし、其糸〈江〉別の紙鳶をさるにやるこ、うなり、妙術なり、〈○中略〉
風箏競戰之事
圖のごとく、肩に鎌を付、尾にも付て、敵尾をつれば尾にかけ、敵の風箏をつたくに破る、又敵の糸目際へ肩を當て、糸をきる、其わざ能玄ゆくする時は、自在にして勝を取るなり、懸待表裏進退虚實よろしく察すべし
p.1173 自當月至三月、見呈里造紙鳶乘風而掲之、是謂ゴ伊加乃保異或謂多古、
p.1173 紙鳶ハ春ノモノニテ、俳諧連歌ニモ二月ノ季ニ用クルナレドモ、大坂ナドニテ尹五六月、西國邊ハ七八月兒童ノモテアソブナリ、
p.1174 當月ごろより三春の間、小兒紙鳶をあげて戯とす、關東の方言にはたこといふ、
p.1174 江戸紙鳶をもて遊ぶ事、子の月よりはじまり、辰の月に絡はる、子は十一月なり、一陽來ふくにはじまり、辰は今の三月なれば、こ、に畢る、世俗三月のさがり風箏ととなへて、その暮春にして止む、三河の國などは四五月專はら風箏をもて遘已、紙鴟風箏みないかのぼりと訓ず、關東にいふセこの事ぞ、
p.1174 紙鳶は俗風箏といふ、〈○中略〉江府におゐては正月二月の頃專らもて遊ぶ、所により四五月の頃用る國がらもありと聞ゆ、
p.1174 南野日記〈是は西原公和、通穉一輔、南埜ぼ別號なり、此日記は旋中以後柳川の事ども記して闘家へ贈りし册なり、〉
廿一日、濱松の邊にて、此節凧をあげ申、
p.1174 增上寺釣鐘之事
瑞軒〈○川村〉が機變の事、十が一を擧て云はゞ、〈○中略〉或ル時同寺〈○增上寺〉本堂の棟琵破れ落たるを、入札に被仰封る處に、克は僅ながら、足代人夫等に多く費るに仍、入札直段過分に高直也、瑞軒が札は外ゟ三分一に、も不及、安札なれば、是へ被仰付、如何成仕形にやと人々思ひしに、折節春の頃にて、東風の吹を考、大成鳳巾を造り、本堂の棟を越る程にのぼせて、能時分狂はせ落しければ、鳳巾は本堂に跨る、其時件の鳳巾を捕まへて是を引く、奘糸盡たる時に、少し太き糸を繼て繰引にさせ、段々に前ゟふとき糸を繼、後には釣瓶繩程にして、夫右大綱を二筋にして是を引せ、此大綱堂の棟を跨る時、前後四方に聢と杭を打、能程にかうばいを附け、綱を引堅め、是を親階子にして階子の子を幾つも拵是に結付、段々に上りながしに是を拵行、暫時に丈夫成綱階子出來たり、如此して僅の人夫に瓦を持せ登せて、速に破琵を取替たると也、
p.1175 これもおなじほど〈○德川家治幼年時〉のことなりしが、山ざとの御庭にて御伽の衆に紙鳶をはなたしめ御覽せられ、しことあり、折ふし雪降し後にて風はげしかりしかば、糸にていつれも指をすり血出けるを御覽ありて、韈をめしてとりみ丶にたまひけり、各その鞳をかけしかば、指をそこなふ患なかりしとそ、内山七兵衞永淸〈後鷹匠頭〉もそのときまだ幼して御伽をつとめければ、人々とおなじく賜はりしとて、いまもその韈を家に藏したり、
又同じころ、風つよくして紙鳶のいときれて行がたなくなりしをごゝろうく覺したる御氣色ありしとき、御側の年老たる者申けるは、紙鳶うせたらんにはいく度も奉るべし、有章院殿〈○德川家繼〉の御時には、風あらき日わざといとをきりはなちやりて、飛行さまを御覽じたのしみたまひき、天下をたもち玉ふ御身にて、わづかに一物のうせたりとて、御心をなやましたまはむやといさめ奉りければ、とかく御いらへもなかりしが、其後風あらき日仰けるは、今日は紙鳶をばもてあそぶまじ、糸きれてなくなりたるををしむにあらず、その紙鳶落たらんところにて、よもた寸には捨置じ、必拾ひとりて申いでむ、さあらば下々のもの等が心を勞することあるべし、我一人のたのしみにおほくの人を勞せんはあるまじきことなりと仰ければ、はじめ諫たる人おのれの心たらざりしを恐れけるとぞ、御幼年より慈仁の御心ふかく、か樣なる御擧動つねにましましけるとぞ、
p.1175 蕉軒云フ嵐俗ノ時ニ從ヒ移易スルコト、其一ヲ言ハン、某ガ幼年ノトキ、毎春風鳶ノ戯ヲ、今ニタ回想スレバ、信ニ盛ヲ極メシト云ベシ、ンノトキハ擧世一般ノコトユヘ、誰モ心付ク者モ無ヲレ其頃ハ實家ノ鍛冶橋ノ邸ニ住シガ、南ハ松平土佐守、北 松平越後守ニテ、土州ノ嫡子、越州ノ弟某ト鼎峙シテ、各盛事ヲ盡シタワ、且又互ニ風鳶ヲカラミ合セ、贏蝓セシトキハ、附ノ者伽ノ子共ナド計ニハ無シテ、家中ノ若輩皆集リテカヲ戮セ、人々戯ニハ無ホドノ氣勢ニテ、一 春ノ間ハ誠ニ人狂スルガ如シ、風巾ノ大ナルニ至ヲテハ、紙數百餘枚ニ至レリ、其糸ノ太サ拇指ホドモアリキ、風ニ乘ジテ上ル時ハ、丈夫七八人ニテ手ニ革ヲ纒ヒ、カヲ極メテヤウヤクニ引留タリ、或時手ヲ離サヾル者アルニ、誤リテ糸ヲユルメタレバ、其者長屋ノ屋脊へ引上ラレ、落テ幸ニ怪我ナカリシガ、危事ナリトテ、家老ヨリ諫出テ止タリシコトモアリ、流石土州ハ大家ノコトユエ、種々ノ形ニ作リ成シタルモノ數多アリシガ、扇ヲツナギタル數三百マデニ及ベリ、又鯰ノ形ニ作タルヲ某ガ爭ヒ得シニ、其長ナ頭ヨリ尾マデニテ、邸ノ半アリケル、風箏ナドモ奇巧ヲ盡シ、鯨竹唐藤ノ製ハ云マデモナシ、銅線ナドニテ其瞽ノ奇ナルヲ造レリ、世上皆此類ニテ枚擧スルニ遑アラズ、天晴風和スル日、樓ニ上リテ遠眺スレバ、四方滿眼中遠近風巾ノアラヌ所ハ無キ計ナリ、今ハ小兒ニ此戯ヲスルモ少ク、偶アリテモ、小キ物カ形モ尋常ナルノミナリ、高處ニ眺階シテモ、數ルボ、トナラデハ見ズ、カク誓世風モ變ルモノカト云ケル、
p.1176 長崎歲時記二月條、此月より四月八日まで、市中にて凧を放ち樂む、快晴の日は、金比羅山などへ行廚を携へ行てこれを放つ、風巾の製一ならず、ばらもん劍舞箏、冑ばらもん入道ばた、奴ばた、百足ばた、蝶ばた、障子ばた、日本ばた、あこばた、かはほりばた、とんぼうばた、桐に鳳皇、海老尻、天下太平、天一天上、大吉等の文字を作るもあり、又つるはかしと云事あり、稍子を細末にして糊に和し、是を苧よま引つけ、日に乾し、風巾にかけて放つ、硝子よまと云ふ、手元は常の苧よまなり、互にこれを以て、町をへだて谷をさかひて相かくる、術の工拙あう、よまとよまとすれあひ、遂にきれ行を負とす、又十日金比羅祭禮參詣群集す、麓の廣野に毛せんをゑき、べんとう携へ、大人小兒凧をかけて勝負を爭ふ、此日市中のはた屋其野中に暇店を芝つらひ、稍子よまはたを商ふ、人々これが爲に數百錢を費すといへり、其凧の圓を見るに、ばらもんと穩するものは、もと蠻製と見ゆ、またさも思はれ蹲かはほりばたなども同じものと見えて、出島内の黑坊ども是を 造りて、海をへだて、市中の者とつるはかすことありといへり、はかしと云は奪ひ合ことなり、其唐製のさまなる凧も見えたり、崎陽の俗多く家業に怠り、淨靡の樂のみ專らとす因て此樂より爭論をなし、互に疵を蒙り、又は田畑を蹈あらし、まゝ公に訴出る事などあり、他邦になき處古來よりの土風となむ、無益いはん方なし、
p.1177 道具の事
棧股〈○圖略、以下同、〉 糸捲〈羮共云〉 緤車
呻之事
くじらを薄くして用ゆ、中の迺りを極薄くすれば音替りするものなり、秘事なり、竹うなりは女竹のなまなるを薄くして用ゆ、くじら竹共なきときは、女の髮を結ひたるたけ長を薄くへぎても用ゆ、かぼちやのつるのほしたるを水に付け置、薄くして弓にはり用ゆ、弓のはつにくだを付る流もあり、利方にはくだなきがよろしといふ、
p.1177 看乳侍中局壁頭插紙鳶呈諸同志
風前試翼紙鳶新、何事來插壁麌了得行藏能在我、憐他飛伏必依人、應同鶴滯重皐日、孤負鶯遷喬木春、向上碧雲如有分、憑君莫久縮絲綸、
p.1177 日本 泉橋亭主人古川珸璋編撰
むかし風箏全書成て、門人志村氏に授く、能く其術を得て至妙をなせり、實に當世の一人歟、今又遺漏を補て後編を述ぶ、みるもの詞のいやしきをもて、みだりに是非することなかれ、
p.1177 幼き子のもて遊びに、風猿といふものあり、その和歌何人のよみたるにかありけん、登れーのぼる時はくだる、くだれく下だる時はのぼると端書して、
すがりゐる竿に手足も括られておのれ動くとおもふ猿かな、とあり、この歌の意を思ふに、人 間一生の勤行身をよく詠じたり、半は業にして、旗は天地の間にありて、風は身を扶くるの氣なり、
p.1178 入子枕といふ册子に、〈梅川忠兵衞が情死の條〉折から紙鳶世上にはやり、〈前文に衣きかへる朔日卯花垣根に咲〉さまざま氣をつくしたるおもひ付、三井富山をさはがし、きれーをあつも石だ、みは上町の屋敷がた、ひぢりめんの達摩は中島の苦なし仲間、もみの盃は天滿の蚰組、自綸子のたが袖は新地の色茶屋、鬼のかいなは渡邊筋、烏いかは阿波座ほり、封じ文は新町の情盛りか、紙鳶百羽雀は竹田、さ、いがらは嵐三郎四郎、おやまいかは上村吉彌、大黑はいつくの寺のいかなるべき、龜やが方にも客かたよりあつかり置し孔雀いか、御馳走にと上手をえらみ、叮代の半兵衞にのぼせさせけると見えたり、虚文ながら此物の流行ゑたること、是より先西鶴が二代男にも、難波風の暮暮、鳥賊幟のはやりてさまぐの作りもの、雲にかけ橋のたよりといへるにても知べし、俳諧には鷹筑波集、〈蒐永十五年貞德撰〉かみなりのなるに天氣のあがる塞とあるに、いかのぼりこそ風にふかるれ、〈良次〉今のうなりといふもの付たるにや、漢土に風箏といふものうなりなり、績山井、いかのぼり木にかゝうければ、魚や木にのぼりのいかの糸ざくら、〈道宏〉江戸三吟、物の名のたこや古郷のいかのぼり、信德隻絞輪、水を汲袖凧ぬれん御茶の水殿のかたく守りの一角、〈利角〉今小兒めんくふといふは、水汲ことながら、語は舞狂の轉訛なるべし、
p.1178 或人の云、世に重のあさはか成爲業にも、古よりつたへ來る事には、其子細ある事多し、末代に至りて、其元の道理をとり失ひたる事あり、春の時分町人の子供いかのぼりを揚る事多し、異國にもある事也、重幼の紙鳶も幼兒は内に常に陽熱盛なる故、春陽の時節、其氣いよノ丶太過する故に、紙鳶を造りてとかく是を揚て重兒に見せ、口を開かしめて内熱を上に洩して、病を生せしめざらん爲也と、續博物志に見えたり、今代日本のいかのぼりは廣く大につくり、弓を付 て空に鳴ひゞくをよしとす、重子は扨置、長年の輩も是を翫ぶ事有て、山野をかけりて田地麥苗を蹈損ず、童子の養性とは成事なくして、久しく見る時は精氣を上につりのぼせて、人の氣を虚せしむ、古のいかのぼりは烏賊の形にちいさく造りて、麻の糸を付て、のどかなる春の日風吹事なけれども、陽氣につれて二三丈計に揚て、小兒重幼に糸をひかしめて悦ばしむる也、唐土にては鳶の形に造るゆへ紙鳶と名付たり、烏賊の形に造るゆへ日本にてはいかのぼり共いふ也、又とびのぼり共いへり、
p.1179 今之紙鳶、引絲而上、令兒張口望覗、以洩内熱、
p.1179 政をなすも、時と勢と位とをしるを要とすといふを、ある人のいかのぼりにたとへし、江都にていはゞ、春を待ち得しは時を得しなり、風を得しは勢を得しなり、わがみは高きところに居て、よもの稍を下覗して、糸をはなつは位を得しなり、そのいかのぼりをもち、いとなどもつものあるは、人を得しなり、風のほどをみて尾などいふもの、又はいとなどのほどをはかりひきつゆるめつして、風まつは術なり、術といふもいかのぼりをあぐるの外ならず、べちにたくみにすべきにもあらずかし、昏愚の下民をすくはんとても、人ごとにとき、戸ごとにさとさるべきものにあらざれば、かりに術を設けて、その道によらしむることもゐるへしといひしもきこえ抛、とにかくよき事にても、その功なきは、このみつをまちつくる心のうすきなりとなんいひし、