https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1039 蹴鞠ハ、古クバクエマリ、又ハマリコユト云ヒ、後ニハケマリト云ヒ、字音ヲ以テシウキクト云フ、創チ鞠ヲ蹴テ以テ戲トスルモノニシテ、人數ハ八人ヲ以テ限トシ、其之ヲ行フ場所ニハ砂ヲ敷キ、四方ニ柳、櫻、松、楓等ノ樹ヲ植ウ、之ヲ懸リト稱ス、
此技ハ、我國ニテハ、皇極天皇ノ朝、皇太子中大兄、〈天智天皇〉中臣鎌子〈藤原鎌足〉等ト行ヒ給ヒシ事アリ、蹴鞠始テ此ニ見ユ、〈或ハ云フ、用明天皇ノ朝ニ厩戸皇子蹴鞠チ爲セ切ト、〉此技延喜以降、專ラ宮禁貴戚ノ間ニ行ハレ、名人亦隨テ輩出ス、藤原成通アリ、技藝絶妙、著ス所口傳一卷アリ、此ニ至テ蹴鞠宜盛ンニ、法式亦大ニ備ハル、終ニ後世詠歌ト併セテ之ヲ兩道ト稱スルニ至レリ、

名稱

〔倭名類聚抄〕

〈四/雜藝〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1039 蹴鞠 博玄彈基賦序云、漢成帝好蹴鞠、〈世間云、末利古由、蹴菅千陸反、字亦作蹙、〉公羊慱注云、蹴鞠以足逆蹈也、

〔箋注倭名類聚抄〕

〈二/雜藝〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1039 隋書云、晉司隷校尉傅玄集十五卷、唐書作五十卷、今無磚杢世説新語注、引彈棊賦、與此同、太平御覽引作漢武帝好蹴鞠、引彈棊經序赤云漢武帝、然西京雜記云、成帝好蹴鞠、太平廣記引小説亦云漢成帝、與此及世説注合、〈○中略〉本居氏日、神代紀躄散、此云倶穢簸邏々箇須、垂仁紀、人名當麻蹴速、訓久惠八也祺穢久惠並計之拗音、與法華經作葆久惠經變化作反久惠同、和韋字惠乎通音、則久惠當活用久宇、與殖訓宇惠宇々、居訓須惠須宇同一格、然則蹴鞠當訓末利 久宇、皇極紀、打毬訓喬利久虫此訓末利古貞並非是、其子春庭承其説云、蹴訓久蟇宜活用久宇久宇留久宇嘘憙按、蹴字連用言云蹴散芸蹴速爾古訓久蟇惠爲和行第四音西三通用之例、和行第三音爲宇、則語絶當云久宇、連體言當云久宇留、巳然當云久宇膿、與麺訓宇惠宇々宇々留宇々禮、居訓須惠須宇須宇留須宇禮同格、如本居氏所言、後轉呼久惠二言如一言、其音猶計之拗音再轉爲直看之計一計爲加行第四音西三通之例、加行第三音爲久、則語絶當云久、連體言當云久留亘然當云久禮、猶訓得寢歷連用言云衣云禰云倍、語絶云宇云怒云布、連體言云宇留云奴留云布留、巳然云宇罐云奴譜云布禮也、俗語變濔第四音活用之格運用言云計云衣云禰云倍、語絶與連體言云許留云表聟云禰禮云倍禮、此訓蹴鞠二字、語絶之格、則俗語謂之萬利計貿雅言當云萬利久而訓連用言之、蹴爲久惠茹計之拗音、則語絶之久亦當如久之拗音爲岐貞皇極紀、打毬訓萬利久貞源君蹴鞠訓萬利古貞新撰字鏡、踊訓萬利古貞蹌訓舌貞皆以玩岐久計古通聟而轉也、本居氏以古由久由爲誤者、未詳語之遷轉也、又按、居訓爲、又訓宇、崇神紀、急居此云菟岐于是也、爲爲和行第二音、宇錯和行第三音、二三通用之例、則連用言當云爲、語絶當云宇、連體言當云宇留百然當云宇禮、後變爲第二音活用之格、連用言云爲、語絶與連體言云爲留芭然云爲薩、其轉變與四三通用者變爲第四音活用之格蚕向、是可證蹴訓計久久留久禮薐轉爲許計留計嘘之聾也、玉篇、聾鞠同、上所引公羊傳注、宣六年文、原書作以足逆躙日竣躡躙同、見廣韻、跼踏同、見集韻、唯作跛、與此所引不同、按、唐石經公羊傳作践軣今本向、釋文亦云、踐音存、則源君所引似誤、然慧琳音義引作以足逆跼日蹴五見皆同蓋古有作蹴本也、曲直瀨本、以足上有蹴字、那波本有蹴鞠二字鞠字衍、山田本踏作蹈、那波本同、按、踏躙皆跼字異文、踏蹈並訓踐、然非淘字、踏奧公羊傳注合、則作蹈誤、

〔類聚名義抄〕

〈九/革〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1040 蹴鞠〈マリコユ〉

〔伊呂波字類抄〕

〈志/疊字〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1040 蹴鞠

〔下學集〕

〈下/態藝〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1041 蹴鞠

〔枕草子〕

〈九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1041 あそびは よる人のかほ見えぬほど、あそびわざはさまあしけれども、まりもおかし、

初見

〔日本書紀〕

〈二十四/皇極〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1041 三年正月乙亥朔、中臣鎌子連、爲人惠正、有匡濟心、乃憤蘇我臣入鹿失君臣長幼之序、挾闚〓社稷之權、歴試接王宗之中、而求可立功名哲王、便附心於中大兄、〈○天智〉疏然未獲展其幽抱、偶預中大兄於法興寺槻樹之下打毱之侶、而候皮鞋隨毱脱落、取置掌中、前跪恭奉、中大兄對跪敬執、自茲相善、倶述所懷、旣無所匿、

〔壒囊抄〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1041 夫鞠ノ起リヲ云ハ、中天竺佛ノ世ニ、留支長者酒ニ醉テ廣キ野ニ出テ鞠ヲ蹴始タリト云事譜ニ見タリ、後漢書梁冀ガ傳ニハ鞠ハ黃帝ノ作給ヘリ、武藝ヲ習遊ビ也ト云、拾遺納言〈○藤原成道〉譜ニハ、用明天皇御時、太子〈○廐戸〉御冷然ヲナグサメ奉ラントテ、月卿雲客造出給ト云へリ、是日本ノ起也、然ラバ三國起區ナルヲヤ、彼譜曰、太子曰、太子御鞠目出タク御座シケリ、朝ノ程一時ハ人ヲ召シテ、何レノ所ヲモサシマワシテ、獨リアソバシケルニ、聲ハアマタノ人ノ聲也、是三世ノ賢聖達ノアソバシケルトモ申ス、又ハ鞠ノ精也共云ヘリト云云、但シ扶桑記ニハ、其跡妙ヘニ香シト注セリ、佛達ニテマシ〳〵ケルニコソ、鞠ト毱トハ字異レ共、心同キ也、私ニ思ハク、手マリト云時、必毱ノ字ヲ可用歟、拘毱ト書テマリ打トヨム、手ニテ投也、足デ蹴ヲバ蹋鞠共云、又鞠字ヲ養ト尺セリ、ヲトサジト蹴ハ、ヤシナフ心也ト云リ、又高トモ尺ス、高ク上ル物ニテ雲ニ入ルト云、サレバ成通卿譜ニモ、雲ニ入テ歸ラヌ事二度ト書リ、此大納言ニハ、鞠ノ精モ度々現ジテ見ヘケル也、現ニ此卿タヾ人ニ非ズ、淸水寺舞臺高欄ノ上ニテ反タル沓ヲハキテ、鞠ヲケ給ヒタレバ、父宗通大納言、アサマシク覺ヘテ諫メン爲ニ呼ビ給タレバ、疊ノ上五寸許擧リテ中ニヲハシケレバ、父ノ卿大ニ恐レ給ヒケル也ト云ヘリ、又或譜ニハ、用明天皇御宇ニ唐ヨリ渡レリ、太兄太子法興寺〈今元興寺〉槻木本ニテ御鞠アリケルニ、御沓ノ脱タリケレバ、鎌子 連〈大織冠之官也〉御沓ヲ掌ニ入レテ進セラレケリト云云、何レニモ用明ノ御宇ニ始マル也、

〔蹴鞠九十九箇條〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1042 蹴鞠之起之事
一日本にて鞠の始は、皇極天皇の天下を治め給ひし時、甲申之歲甲日、大唐より始て渡り侍る、然共女帝にて御座有間、天智天皇いまだ皇子におはし候時、大職官と相其に、興頑寺の砌にして始て蹴鞠御會執行なさるゝなり、甲申の日渡故に、甲申の日申の時あそばし始る也、然ば歲の始のまりあそびに、必申の日申の刻仁可用也、〈○下略〉

〔後漢書〕

〈三十四/梁統博〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1042 奚、字伯卓、〈○中略〉性嗜酒、能挽滿、彈基、〈○註略〉格五、〈○註略〉六博、〈○註略〉蹴鞠、〈劉向別錘日、蹴鞠者傳言黃帝所作、或日起戰國之時、蹴鞠兵勢也、所以講武知有材也、〉意錢之戯、

〔蹴鞠九十九箇條〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1042 蹴鞠之起之事
一大唐にて鞠の始、黃帝の御敵、蚩尤が頭也、其故は、惡魔の大將災難の家主也、上天之爲に敵國をまで人民の命を失、其身鐵にして却て矢太力たゝず、思ひのまゝふるまふ、黃帝對治の術を失ひ給ひて、天に斬給ひしかば、無雙の相人出來て、づらなひて云、蛋尤が頭とかたどり、鞠をあそばし給へと、大曇王のほろびたまふ樣を、ことみ丶く申上間、彼博士申ごとくに、鞠を捧て翫給ふ、ほどなくたくろくの野にて、蚩尤と合戰ありしかば、天のせめ、を象て、鐵の身皆とけて、調伏のゆへに、そこにてうたれほろびうせ畢、蚩尤は東よりいで東へにげうヤに、れのる間、東の方に四本の外に植る木をば、わけ木ともいふ、又草をわけたる故に、わけ木ともいふ也、黃帝は西の方より出で給ひて待せ給ふ間、西の方の木を待想と云、又西より追たるによりて、追懸共おい木とも云、鞠の三拑子は天地人の三才也、蚩尤が頭を鞠にして、黃帝蹴給ひ、眼を的に立て射給ひて、國を治め給事也、

蹴鞠法

〔成通卿口傳日記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1042 一樹の下にたつ事 大木の本には五尺のき、小木のもとには三尺をさるべし、地形枝のなびきにゑたがひ、よりのき時にあり、まへにす、む事なく、うしろにつむべからず、つねに引入て立べし、
一鞠人數の事
上手八人にすぎず、七人にをとるべからず、其外に心あらむ野臥四人立べし、ゆめ〳〵心なからんのぶしたつべからず、
一上鞠の事
庭に鞠を竕く、重代のものにあぐべきよしをふるべし、若重代のもの璽くば、當時の上手にさるむねとあらむ人々、主君との外、このこと沙汰すべからず、二足をもて三足のたび、よきかたへはなて、主君とむねとの人のかたへはなつべからず、木の枝にかくべからず、二足三足兩説なり、一初度鞠事すなはちあながちに身ぐるしく、數このみおとさじといとなむな、たかくひきゝ枝にかく鞠のつたふ道あり、其道を芝らむ爲に、暫見さだむべきなり、大木も小木も枝玄げきもゑげからぬも、まりのつとふ道はたがふことなし、それをゑりぬるを上手とは云也、能々見さだめて興に入べし桓初たるかゝりの事也、
一かへり足身にそふ鞠事
其足このめば、おのつから身にそひ、かへり足いでゝ見る人も感じ優に見ゆ、鞠を枝にかけつとおもへば、一足枝のゑたへより、すぐ身にそひておつるを、左へも右へも便にゑたがひて、かへりあへば、たはやかに見ゆ、かく芝なれぬれば、俄に逢にさはがすゑなあり、やさしき事也、
一足ふみのべ足の事
よの人みな左をさきにたつ、心々の事なれども、右の足をさきにふむ、かた〴〵いみじき事也ご れ又ひだりをがろくなさん爲なり、右をさきにたつれば、一またにのびんと思に、のびらるゝ樣なり、左をさきにふめば、右ふみかへられ、ちがへざればすくみたり、能々心得よがならず右のみしをさきにふむことしつくべし、
一鞠の時の身の振舞の事
心をゆるに思べからず、心の中に體をせめよ、あらはにせめつれば、こはくみえて、たはやかならず、足をうしろへにがし、頭をすゝむるはよしといふ、その樣をゑつけつれば、獪たはやかならず、たゞ心のうち辷おもへば、色にいでぬは、たをれたる物からゑ尢ゝかなり、叉庭にあらむ人、ことに心をゆるにすまし、みなうやまびかしこまりて、うちとくる事なかれ、さりとてにらみはるにはをよばざれ、うちとけつれば、耄どけなきことの侍也、心をひそめで、そはなだらかなるべし、一合足鞠もつ事
一足の後ちかゝらん人に心をかくべし、思事なくふるまふ合足いでく、叉一人して鞠をも、たんとおもふべからず、二足にいはなたんと思べからず、一足にてはなて、二足もてばしらけて兒ゆ、とき〴〵は心つきに思はむ方へやるべし、又膝して鞠にあはざらむかたへはなつ、いみじぎ事也、其こゝろある人は、當座の威はういで唇、能々心をひそめて、合足する事なかれ、
一鞠に立てしげく物いふべからず、いたり樣にものをしへすべからず、たかくわろふべから、ず、さりとてにがりたるけしきにみゆまじ心におもしろくおもへ、〈○中略〉
一鞠のくせをなをす事
膝かゞめうなづき、腰かゞまりむねそる、をぼろげになをりがたけれども、まりにちかくあはん事べくらき夜たとへばてさぐりに、物をとるように、足鞠をあげて、あしにあてはてゝ下を見る事なかれ、さりとてそらにあふぐべからず、れいの寸法より、ゑつかに足をあげよ、ゆるにしつけて 後、たいをせめんとおもへ、鞠を足にあてはて丶つちを見る事ならひなり、そのつち見る事、玄ばらくわすれよ、かな写ずくせなをる、鞠にちかづきあへば、ひ、ざもこしもかゞまらず、ちかづきあへばむねそらず、土を見ねばうなつく事なし、但みてなをすべき事なれども、かくこゝろへてのちの事なり、
一木の本難所をしむべからずと云事
身のほどをゑらずして、かたき所にたつ、見ぐるしき事也、大、方上手の外、始終ゑめえず、つゐに當日の上手領して、次の足をもはなれぬ、かたきところに立ば、その日の鞠數なくて興なし、但上手のなびかんにゑたがひて恵によらず思はざれども身の程の所にゅられたつべし、〈○中略〉
一鞠にたちてゆめくべちの事を思べからず、ひとへに鞠に心を入よ、まりえだにか、り、うつらむを見ては、體をせめてはしりまわるべし、のさびなるはことをすとも見えず、
一鞠玄つかならず、あれたるときは、うけとりて三足もつべ、し、れいのほどよりは、足をおそくあげよ、心にゑづめむとおもへば、かならずゑづまる人は、烏帽子の上に見ゆ都に足をあぐ、我は目のほどにおつるおりに足をあぐ、鞠のあれざる時も、そのやうにゑつかなりしかば、われはひとすみすみき、いかでかそのちやうに、鞠のすまぬ事、たれもあらん、たゞ足ををそくあげん事を思ふべし、

〔撰集抄〕

〈八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1045 侍從大納言成迺鞠之事
經信大納言、俊忠中納言とて、當世の功者、歌鞠の長者なる人、いまそかかしが申され侍けるは、〈○中略〉略大方まりは、いかにも姿かたちをとゝのふべし、專はた寸裝束のゑもんめたがはぬ程な、り、かゝりにつたはんまりをば、聲を出して、いかにもまりにつよくあたるべし、落さじとこしらへ、我妻をもつくろひ侍らん事は無下にぞ侍るべき、まりをつゞけて久しくもてる事は、からくには ゑかちといへども、我朝はこれをあしきにし侍り、三足おほからば、五足には過侍らじ、すがたをばとゝのへ侍らで、鞠ばかりにあたらんとし侍るは、見苦しきわざにや侍らん、松につたふまりは、上をはしり侍れば、のべにおつるなるべし、ゑかあれば左のひざをつきて、右をのべんにたより侍り、柳にか、るまりは、枝にゑなひておつる事中々きうなり、さればいかにもこしをそらし、身をたをやかになして、まりをうだき侍るベしとそ申されける、

〔遊庭秘鈔〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1046 數事
三百、又三百六十、又五百、至極は千也、數申人、聲につきて、郢曲の人も申之、大略は鞠足の中にあるべし、其日鞠に故實あり、木の本に立ことも數申侍らば、沓韈を可著用、〈或は不結沓輦訊あり〉よみ樣に至極ありぬべし、鞠の體を見すまして、四十鈴あがりて後、數とたからかに申、〈聲は口傳有べし〉其後六七あがりて六十と申、又六七あがりて七十と申、次第々々に九十まで申て、百の時は高く申、二百十廿以前のごとく申て、三百の時はたかく申也、〈主人貴人蹴時三百と申也〉此時蹴ずしておとす也、數よむ事、ニケ度になりぬれば、三百六十、五百以後も不落してある事を、期にあぐる事もあり、是則其日の譜代堪能の人計にて、鞠足に仰合也、又鞠足の不堪も、下輩の人もいたくおとし侍らねば、鞠の時はえらび立らるゝ事、古今の例也、又數の鞠の時、いかならん上足堪能の人も、かへり足副身まり可有斟酌、あなかしこく、懸にけかくべからず、これをもて無故實のまり足と申べし、又老若以下勝負の鞠、全不依名、足數の多少にて勝負を定也云々、

〔遊庭秘鈔〕

〈中〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1046 足踏事
古今の人、三拍子と申までは心得侍れど、踏樣かはち侍り、鞠に當足の外に三度うごかして土を踏也、同心他心の人によき程のまり足は、皆右より踏初む、いたりたる堪能は、左足より踏初る也、庭訓も左より踏とのみ申され侍し也、鞠を蹴て其足をば土にをきて、左足一踏、又右足一ふみ、又 左足一ふみて、此たび蹴也、三拍子の本なり、蹴たる足をやがて一足ふみ、其後左足ふみ、又右足一ふみて、則其足にて蹴也、是は難波家の説也、直にあぐるまりは、此足ふみもさ程わるからじ老存侍る、ちとも鞠のゆがみて、左へも右へものく時、たゞ左足一足ふみ侍れば、遠きまりたやすく蹴とめらる、上に、はたばり足ならねば、みぐるしからずみゆ、まりを蹴ぬひまにも、不斷に足をはたらかすべし、立すくみぬれば、俄になり、足更にけられず、鞠たけのひきゝ時は、よそにみえ侍らねども、心の中にて踏も無子細堅固初心の人は、隨身のかのこおどりとかやのごとく、至極ふみうかめて後しつむる也、順德院の、なにの道にも、達者にわたらせましくければ、鞠の三拍子に三臺皇廛急などの早拍子物をしやうかをせさせ給て、鞨鼓拍子に御足ぶみを踏て、大鼓のつぼに御鞠を遊しけん、鞠たげの長短高下しなく、足踏の遲速もなくあそばしけむも、やんごとなく奉存侍し也、

〔遊庭秘鈔〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1047 鞠長事
指て秘事も口傳もあるべからず、一丈五尺式の鞠長也、但堪能の中に、二丈ばかり蹴る人もありし也、今すこしさむる樣にみえ侍れど、わればかりにてける時は無子細天の方へ鞠のたかきは、請取にくき物也、昔雲に入と號して、成通卿おびたゞしく高く蹴上らるゝ鞠、雲に入てつゐにみえず、か、るふしぎは、中々ことの葉にも及がたし、上鞠の長は、目より下など云説あれども、たゞ烏帽子長可然也、おつるたびに、上鞠は虹形にたかゝらず、横樣ヽにけやるべしと云々、
乞事
我け侍らんと思ふ時、聲を出して鞠を乞也、此上に、さまみ、の乞樣あり、或はやくわ、或はありくわ、又をと乞ふ、式云、ありくわの聲、やくわの聲は、宿德の人の乞聲なり云々、やくわの聲は、むかしも聞及侍しかど、ありくわの聲は、身の一期に不聞也、を聲は此比のこゑにをうくもしひゞき 有て聞ゆ、くるしみあるべからず、式には、を聲鞠はじまりてやがてはあるべからず、晩景にしきりに有べし、いくら軒のうへゝ上て鞠みえぬ時、又懸に入てより、夫おぼつかなき時、懸の内外の兩人計も、を聲をたかく永く乞事ある也、三足けて四足にあまる時は、必を聲を出す也、二人乞合する時、わがけんと〈○此間有闕文〉までもつねの事也、人に蹴させんとおもへば袖を引也、所詮此聲とも皆因緣ある也、〈○中略〉
請事
日本に鞠はじまりて、請事二度計也、尊重寺の鞠の後、請たる事を見ずと、或記にかけり、能難有事にや、口傅集に云、數至極あがりて、日旣山の葉に入時、片膝をつきて、左の袖の中へうけ入侍也、を聲を乞て請之、上薦の請時、膝をつくべからずとかけり、請で又あげず、亭主如法をしるべし、其場に可然人の請侍を、先年伏見院の御時、老若御鞠に五百あがりしまりを、餘に悦喜の體計に、加茂基久請之、わかき方に末座の者也、過分の振舞なりとて、勅勘もあり、命も有し也云々、〈○中略〉
副身鞠事
他家にはうつぼ流しとも申にや、體ことに執して蹴べき足也、直に式、の鞠たけながくけて、聊けうつく樣ならん時、右の方へ左へそむけ合て、足踏三拍子よくけて、鞠のゑぼしの程へ落時、身をも扇をも直に持直して、顔をちと左の方へふりて、右のびんのぞ くる程、ちか〳〵と流しかけたるは、言語道斷中の足なるべし、此まりいかにもゆがまであがる也、其儀直にいつくしく、以前の鞠長にけて、二度つゞけてすらせ侍事、ゆゝしき大事也、至たる堪能の所作也、又蹴かつくまりのひきゝを、左へも右へも歸合てけ侍る、これも身にそふ鞠のあし成べし、
歸足事
ひきくあがる鞠のうしろなる時、左へも右へも歸合てけるをいふ、懸の外へむきて、一足も蹴る 事無念なる故に、如此蹴て興にのる時、腰の高さならん鞠に、身を二重になして、鞠にめをはなたずして、歸合て蹴侍り、以外の大事の足也、左へかへるごとに、衣文體拜はかりて、嚴しくもてなして可蹴也、此時の足ぶみ三拑子にあらず、蹴たる足を、普通の樣に、右の足のとをりに、土にはをかず、左の足の望剛をこして、土にをきて、身を左へよりて、二重鞠も目をはなたずしで、左の足一にて歸はてゝ蹴之也、祗父禪門かかく侍ける比、龜血院晴の御鞠に、直衣にて參ける、かはゆくちいさき鞠を、如今身をよりて二重になして、左歸に歸合て蹴之時、冠のさきにてすなごに一文字を引けるを、上皇〈○龜山〉叡感に不堪して、晴の座敷をも忘させ給て、爲世は骨なし耄つるにやと、ひき、鞠目にもみず、腰はたかくて、廻合て蹴事、希代の早足なるべし軒長にあがる鞠を、聲はなやかに乞て、いさゝか蹴かへして、ちと右へうつぶきて、左の足を前へ踏なし、右足を後へ踏なして、此度の許足にて右かへりに歸はてゝ蹴之、是も殊勝の足也、此まりをゆめばかり下へあげて押重て、今度左歸に歸合て蹴之、諸人目をおどろかす足也、名足の中に、左歸のまり於身執し侍鞠也、ゆめゆめ人には蹴かくべからず云々、
延足事
遠くきるゝを延とむる足也、口傳集云、普通の人は、左足を一踏寄て延也、至たる早足は、先左足を一踏よりて、後に左足亦踏よりて延といへり、其儀尤相叶へり、きる、まり遠く追かけてまくれば、其ゆく力にて是をける、つよく當りて高くもあがり、ゆがみも行也、いか程も力を入ておふとも、鞠にあたらん足をば、よはく蹴ともなく當、常は鞠嚴くちいさくあがりて、つく人の爲も殊勝、いま一足、向直ても居ながらも安くけられ侍也、いかにも左の膝は、土につよく當る也、指貫の膝の程一會に破損し侍らぬ事もあり、右の手を袖の下にて土に聊つきて足を先へなして立あがるべし、いか程もうつぶ、くべき足也、あをのきぬれば、立も大事也、鞠も不止、照念院入道關白〈○藤原兼〉 〈平〉の延足の時、殊勝なりけるは、冠の纓のこしのまへゝ越けるに、用心してよくうつぶかれけん、いみじくこそ覺侍れ、又後鳥初院御時、三位信坊にて御鞠あり、雅經卿遲參しけるに、上皇送〈○此間有二闕文〉ゑばしあり、然に鬼鷄冠木と申名木のおそろしき懸に立たる人不覺して座に入ける處に、雅卿經參じて、彼かえでの五枝、たる味のごとくさし出て有、枝に一足蹴て、一の枝にあて、、延たる鞠、次の二枝に當も、鞠を叉延て、次の三の枝に鞠あつる樣に、五の枝までいつくしく蹴あてゝ、延のべけるを、上皇も龍顔にゑみを含ませ給のみにあらず、頻に叡感ありけるに、見る者貴賤上下道俗男女、目をおどろかしけるとなむ、是ほどまでこそなくとも、枝に當るまりをのべとゞむるを、つき延と申也、又つゞけ延足とて、いくつも延鞠あり、大貳長實卿は八足までつゞけてのべられけることもあり、以前ニケ條曲に、是をも加て三曲と號するなりと申説も侍る也、誠いかならん曲とも申ぬべく、大事なるべし、
負鞠事
此足は、古蹴侍らぬ足也、成通卿三十ケ條式、源九日記、成平が抄、賴輔卿口傳集、又革菊記、要略抄以下の鞠の譜に、負鞠とて注しをける事なし、近來の人の入ほかに、いかにかな版くせまぎらはしに、蹴る人の足なるべし、されば祖父禪門の見證の時は、此足をば斟酌し、蹴侍る人なかりし也、但乘興之時など申成たる所は、さまみ、さる事も侍し、梃より落つる鞠などを、膝をつきて待かけて右の肩に載て立て、左の肩より落て蹴たる鞠は其興あり、又枝より下へ落るまり、鹿のごとく又肩にか、らぬは、左のかたへも右のかたへも、便宜に隨て向直候時、自然と負鞠になる也、又屏にも立蔀にもはたと當りて、歸りまりの肩をこえて行を、肩にて止て向直れば、必肩をまはる也、これらはあながちにわうしともみえず、禁仙にいもあらで、たゞ我とひざをかゞめありきて、是を所作と追つめー負事返々みぐるしく、不思議に又なき足也、思まうけて負まりはある物なれ ど、二度も三度もつゞけて肩をまわすはいとやすし、かゝるえせ足どもは、愚身蹴出して後、盛季やうのくせまり好物ども悦喜して見習て蹴侍れど、初心の人ゆめノ丶蹴べからず、かたはらいたくも見ゆ云々、

〔晩學抄〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1051 嚴命云、最初にやがて庭鞠を蹴は、いかにも身によせ有、先無鞠とて、よくく姿を作ため、つよく空鞠を日ごとに何十度ともなくけさせて、其後鞠を細繩にて釣さげて、自板敷二寸計なるべし、閑に一足づ、蹴て、姿をよくくたゞしうせよ、身體といふは、顔、頸仕、目、口、手、胸、腹、腰、膝、足等なり、顔持はかるからず、うなつかず、あふのかず、ゆがまず、をもらかにうらゝかにてくせ有べからず、頸仕はなへず、ゆがまず、こしかまくび有に似たるべし、さればとて、こはく目たゞしく有べからず、目はおもふさまにはたけ、きゝくととゝやき見めぐらすべからず、用意して見よ、毎人目のおそろしくみゆるくせの有なり、第一にみにくし、見あげ見おろす目ばかりにて、不抑俯うらゝかにみるべし、左右を見るも、長閑に心を持て、先其程を思ひはかりて、後目にて見さだむるなり、顔持頸仕の善惡は、目の見やうに限てよくあしくなるなり、よくく其心をうべし、口くせ有べからず、手持は臂つよからずよはからず、次第ひちかいなこぶしまで難なくみにくからず、内外出入ゆがみねぢず、無高丁平等になし、下たをやかに持べし、〈○中略〉
鞠長員鞠
嚴命云、是は秘事なり、等閑の人には不可示、凡鞠は常すぐなるを可好なり、上足下足各別に見別、大事の物なり、萬人曲節をける時こそ人にはすぐれてみゆれ、只すぐなる鞠の時は、勝劣更になし、それは此鞠をおもひいれの故なり、上手は一足なれども、人にたがひてまり上下ねばく靜に降昇して、ふりめく事なし、ふりめくは鞠のあたまをけるゆへなり、腰革をみ定てけべし、但鞠によりてかいるも有べし、足はもとより力を入たれば、つよくしかもねばくはねあぐれば、後まで 名殘有心、なるべし、然ば其沓音も九くしとやかにて、降昇數る色もぬれくとして上下するなり、膝足のくびつよくて、足にのせてあげよ、けやうは小鞠の所にて沙汰畢、所詮達者體一足の鞠に不拔群ば、更に長者のおもひをなすことなかれ、只上下身にそひで靜に落しあげよ、一段三足を中高に甲乙にきて、人請取きてゆつれ、ゆつるべき人をおもひ定て、つねに其人或は上手、或は可然人、或は又いたくあてつかぬ人に時々やるべし、是等口傳集にも見えたり、詮は練習なり、鞠高の數鞠を常に好べし、後鳥羽院勅定にも侍し、立蔀の内にて二三百もける程にてこそ、上手とはいふべけれと云々、尤有其謂哉、さほどならずとも、四五十もすぐにちらさでけるほどにすべし、鞠高く數鞠は殊に大事の物なり、足踏思ふやうに蹴つくべし、晴に出とては、必内鞠此數鞠をかねても其日もけるべし、それが自在に覺て能蹴とるなり、又日、勅定云、他人の鞠は名足の時、人にことなれども、只よのつねの時は上足のかはりめなし、相公刑部兩人は、平懷の一足他にことなりと仰有、是眞實の肝心、鞠の精魂なり、上鞠一足も人にかはりてかさあり、氣味有のやうに蹴べし、上手の所行を見聞ては、わが及ざる斈を歎べし、たゞ歎て何の宜か有、蹴にはしか〴〵木四本の中にて外へ出さずして三百程もけば、自在には覺ゆべし、古人も初ははしり廻て一庭に損するまりをば、我もの、とおもひて、物さはがしくも可蹴云々、尤可然、但兩方を相案て蹴べし、〈○中略〉
足踏鞠の一大事の至極は足踏なり、初心にもしは得口傳著は上手を見て、足踏はかくしけりとてなまさかしくすれば、不具にて却而わうし、縱令ば布に錦字立入たるがごとし、歌もまたしかり、歌人之凡卑の詞の中に、先達の金句を取りたるに似たり、さればとて、おもひすつべきにあらず、常に心にかけて案習しながら、かれにまねばずして、さむ〳〵に蹴ならふて、自然に左足うかびて、 踏あしき事なくなりて、次第に切入ま、に、心にかけし所は、をのつから忽然とさとられしらるる事なり、小鞠こ高の數鞠内鞠にてしつけて、緩急折にかなひ、遲速時にしたがひて踏べし、鞠高さし延ゆろく落る時は、蹴たる足をすくめてをく、やがて左足を蹴かへて、鞠のおちか、る時拍子を合てふみてけるべし、拍子といふも、拍子不合といふも、只ふむ事は同事なり、

〔松下十卷抄〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1053 一三曲の事
一のべ、一歸あし、一身にそふ鞠なり、すりをひ、又こむる足といふも、うつぼながし、ひんすりなどと云も、ことなる身にそふ鞠のうちなり、
一かへし足と云は、立足なるときふとくる鞠を、けあしを後にひきて、土をふまで其ま、ける足なり、例式はけ足を左の足よりそとひつこみて、後にふみてまちてけるなり、
一歸り足はおひ鞠の事なり、總じておひまりすりおいなど、云事有べからず、
一うつぼながしは、をのつから身にそへころばかし、足までころばしくだし候へば、やがてーむかふのまりたるべし、
一こむる足といふは口傳在
一曲足の名の事
一のべかへり 一軒かへり 一く、る入足 一うつぼながし 一右歸り 一左歸り 一左右の歸り足 一ひざをつきて歸足 一木をふむ足 一はね足 一ゑりおとり 一秋津鳥歸り
一きらひ足の事
一竹ふみ 一千鳥足 一くつくだり 一木をのべきるあし 一見ずの鞠
これら能々可分別 一のべかへりと云は、とをき鞠を延候て、其鞠遠くはいかで、やがてうしろへ落るを、其まゝのべながら、なをり合て又のぶる鞠なり、
一折歸りは、軒にけ上候て、軒の下に入候て、なをり合てけるを云なり、
一ぐゝりいり足は、一足けてさのみたかくはなき鞠を、下にくゝり入候て、又なをり候てける事、一うつぼながしは、右に申ごとくいかにも身をちかくすらせけるなり、
一左がへりは、一足け上候て、いかにもくるくとめぐり鞠に、めぐりける鞠を、身ちかく可仕候、左に歸る事也、
一右歸り足は、一足け上候て右に歸り、いかにもくるーとめぐり候てけるをいふ、
一左右のかへり足は、一足け上候て、一足の内にて、左右に歸してけるなり、
一ひざ付歸りは、一足ひざ付て、歸りて後にちかく行を、又歸りてひざつき候てけるをいふ、
一はね足は、鞠ふところびくるを、足をひき、もろあしともにはねてけるを云、
一木をふむ足は、木に懸すりて、くだる木に足をつけてけ上るを云、
一のべ足は左を敷、いかにもとをきをのぶるなり、
一ゑりおとりは、延候樣に、又のべにてはなくて、つまさきを立敷候て、いく亢びもいながらをとりよりくけるなり、
一あきつとり歸り、そばへ行を、ひきかへるやうに仕候、獪口傳、

〔蹴鞠九十九箇條〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1054 一鞠を蹴所事
枝のひきゝ所、又は軒下懸の外也、行鞠垣きはのまり、何も蹴取るべし、是をひきゝ枝まりの心持にける事をいふ也、かん所を得ずしてがひに任せてければ、ふかく有もの、口縛有之、〈○中略〉
一序破急三段の事 序の鞠の は、いかにも進退をたしなみ、まりを高足に蹴上、請聲はありの利の字を去り、ながく引、あの字をば口の中にてけして、請てけるなり、きれ行鞠をしたひけるべからず、たゞすいなる鞠ばかりをけ拍がへぬやうに心にかくべし、分足 たゝかへすぐる也、是一段也、破の時に、木にも軒にも鞠をけかへ、聊苦しげなし、切るまりを追延、姿惡共、まりを落さじと馳走して、曲をつくし、男足女足にはまりの色をもしろく聲をそふといへり、平にこれを人に見じと心に懸油斷有べからず、是二段也、急の時は、鞠をひきくつめて、分足をひかへ、二足にて他分にわたし、一足をひかへ、一足にてゆづり、八人おなじ心に有之、數を上みちて興ありて鞠を納べし、又序破急の段を分ずして、けつくる時は、段のうつり聲有べし、序より破のうつりにはありをふと請也、かやうの聲をきゝしりて、三段の心を分別してけるべき也、此、聲のしなをば、一葉を上に時分よく見はからひて、先達の人か主人かこふ聲也、秘事なり、口傳有之、
一時を上に分、序分に三百六十蹴候、取て圓座に歸り、又まりを置かへて、さて儀式有之、破の分に三百六十上みちて、又取之、同座に歸り、鞠をかへて置べし、急の時も三百六十あげて納むる也、〈○中略〉
一鞠を蹴納る事
總別始て鞠を庭に出したる人、後にも取可入事本義也、されどもをさむべき時に立あはせずば、主人納べし、また堪能先達の人、貴人より來るまりを、左の袖を右の手にてひろげて請取納る本式也、但其ま、手にても取べし、祝言の庭、城、寺などにて落してをさめぬ也、歸足おひまりにて可納、又只の時は、天然余へ落たるまりを、其儘をさむるもよし、また可置と思時、鞠をけあげて身ま近く落るを、足を引ゑりぞきてまりをおとして、其儘をさむるもよし、木に留まりを其ま、をさむる事もあり、軒にとまりたる鞠を、其ま、をさ杜べからず、とりて上、みいてをさむべし、口縛有

〔年中行事繪卷〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1056 蹴鞠圖 之、
一鞠の數とる事
廿より初め、又五十より碗候事も在之、先刻迄は口の内にてよみて、廿に成たる時、御數とゐげ、いく度も小數をば口の内にて讀て、廿、卅、五十と讀て、六十をいくたびも口の内にて可讀也、十八十九、廿、百廿讀也、又五十より以後百までを口の内にて讀也、百とあぐる也、百十をも口の内にて讀で、百廿とあぐる也百の文字をはなさで、三百六十迄を右のごとく讀也、三百六十の時聲を高、上、十の字を引上ぐる也、是を一足といふ也、千も二千も如斯讀むべし、又實のよみとて、九八七までを十に讀みなす事有、大數を讀入事、百の後又は名足などあらん時に、九十八十、七十をも貳百とよむべし、一段としたる名足ならば、半足に入なり、三曲はさだまる間、五十の内をよみ入也獪口傳有之、〈○中略〉
一數鞠の事、勝負にも、たゞもける事あり、其け樣鞠たけをつめて引くすべし、足數をそんじ樹えだにかけざる樣にける也、足をば少高くすべし、鞠にはゝせん爲なり、

蹴鞠日時

〔遊庭秘鈔〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1058 時節事
三十ケ條式云、正月公事忿々、二月猶塞し、三月上旬たるべしといへり、淸明前二日、冬至より百三日に當云々また春のはじめに鞠上そめん事は、甲申の日を可用、獪いそぎ思はべ、甲ならホとも、申日をかならず〳〵用べき也、庭訓也、又風不吹、雨不降、旧照ら跼をもちて能日とすべし、春はをそくはじめて遲く蹴はつべし、夏はとく初てとくはつべし、春の日はうは曇て風ふかのを最上の日と申、夏の日は照てすこし風ふくを能日と申侍也、凡好士の身には時節をわくべからず、昔の鞠足は月前燈下にてもさたし侍けるにや、又侍從大納言〈○藤原成通〉七千日まで懸の下にた、れ侍けるよし書をかれ侍る、四季の聞にも退轉侍らじ、今とても秋冬更にすさまじきこルあるべ からず、

〔成通卿口傳日記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1059 一上手おほく結構の鞠の事
鞠は未の時にはじめよ、日高く初てすさみぬる典さむ、結構なからむには刻限不可嫌、

〔蹴鞠簡要抄〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1059 一刻限事
或云、申一點にはじむべし、餘奧不盡契後會、いみじきなりと云々、
源九云、春のはじめには、をぞくはじめて、をそくはつべし、申の初より酉のをはりまで、夏は早くはじめてとくはつべし、未より酉のなからまで葉かゝりは、とくくらくなるゆへ也桓興に入ておもしろからんには、闇くなるをかぎりとす、べき歟と云々、

〔享德二年晴之御鞠記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1059 御鞠は彌生のゑものこと也けり、〈○中略〉拾遺納言〈○藤原成邇〉の三十ケ條の式にも、この月を時節、にさだめ侍るも、げにことはりとお、ぼえ侍り、いはんや又けふはきのえさるの日なり、ゑうきくのあそびにうへなき日なるべし、

蹴鞠場

〔運步色葉集〕

〈滿〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1059 鞠懸

〔易林本節用集〕

〈之〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1059 蹴鞠坪〈四本懸也〉

〔倭訓栞〕

〈前編六/加〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1059 かゝり〈○中略〉蹴鞠の場をいふも義同じ、新古今集に、最勝寺の櫻は、まりのかゝりと見え、源氏に、よしあるかゝりとみえたり、一本懸は天智天畠の故事にて、是かゝりの始戍べし、三本懸、五本懸、六本懸などもあれども、四本懸を專とす、艮に櫻、巽に柳、坤に楓、乾に松也といへち、難波家には、四本ともふたまたの松を殖る、猿田彦大神の事に据なるべし、水無瀨も同じ、

〔安齋隨筆〕

〈前編四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1059 一鞠井鞠力ヽリノ字、〈○中略〉鞠のカヽリト云ニ、懸の字を用來れり、漢字を當べきならば、鞠室の二字を用べし、

〔家屋雜考〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1059 鞠場〈遊の庭 鞠の壺 鞠の掛リ 掛りの壺〉 鞠場は、中古以來高貴の家々には必あ獅、鞠の庭、遊の庭、鞠の壺、鞠の掛り、掛りの坪など、蹴鞠の場所をいふなり、

〔倭訓栞〕

〈前編二十二/禰〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1060 ねこがき 猫搔と書り、倚廬にゑかせらるゝ物也といへり、顯昭説によれば、つかなみわらくみなどいふに同じといへり、加茂より奉るといふ、又蹴鞠の御遊に、か、りに敷ものをいふ、猫だともいふ、今も田舍の牀にはねこだといひ、また木曾路にて、大なる筵の如き物をねこといへり、

〔遊庭秘鈔〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1060 懸事
本儀は、柳、櫻松、鷄冠木、此四本也、其外梅も常に用之、此木は簷近く何れの角にても栽也、四本の中には、艮の角よりうへはじむべし、これゆへある事なるべし、若艮の木、いまだいで來ずば、あなばかり堀そめて、あらぬすみにても可栽佳也、柳は巽櫻は艮、かえでは坤也、此すみ人丶にかの木どもをうふる事本式也、又もと木とて、庭に懸の座敷にあたりて、いかならん木にても、本よう立たる木侍らば、何木にてもきらふべからずと式にもかけり、むかしの土御門殿の梨木、名譽の懸も、本來庭にうへられたるにこそ侍けれ、又切立は榎木椋木もこれを用べし、植はじむる時、たかさ一丈五尺にすぐべからず、下枝はゑぼしのつく程なるべし、又にはかならん會、竹懸常の事也是も一丈五尺也、大竹は末をきる也、又逃木とて、今一本うへくはふる事あり、五本がゝりとも申侍るにや、柳かえで櫻松又木一本也、如此うへ侍る事は、此逃木の方に、池若やぶなどありて、鞠のためあしかるべくば可栽之也、又一本がゝりもあり、庭せばき所に一本植之、めぐちには八人立まはり蹴之、元德の昔、仁壽殿の北向の御壺にも、松の切立一本うへられ侍りし也、又同木を四本植侍る事聊可有子細、貴所若は當道普代の人の家の庭に不可有異儀也、私所には左右なく植侍べからず、若獪はゝかりおもはん人の亭には、小竹を二三尺栽そへて侍る事有、秘説也、又同角にか はりたる木を植そふる説もあるにや、不甘心事也、松柳の小木は、二本三本植そへて、木のあはひに、とうと號して、木かぶの、沓たけならんを二三本の中に置て殖事あり、又木かぶに壁をぬるべし、餘木より柳は精よはき木なるゆへに、切目ことに朽損じ侍らん、枝に板を打付て、壁をぬる定事也、雨露にをかさるゝ故に、此木誠かくのごとく、同然之餘木はいたく壁ぬることめるべからす、又かゝ力のあはひ、大木は二丈二尺〈或は三尺〉普通には庭せばき所には、一丈八尺よろしかるべし、軒と木とのあはひ、母屋の柱より一丈五尺常儀也、万一二丈に栽事あり、公所又堂舍などの梃のながき所は、二丈に栽云、後醍醐院内裏のかゝりも、仁壽殿柱より二丈に植られ侍き、又門のとをりにあてゝ木を殖侍べからず、近來は洛中にゑかるべきかゝりもなし、少年の昔見侍りしかども、名譽の木は北畠の櫻、三位借坊のかえで、是等跡なく成て、今は充屋の松ばかりのこり侍り、此木は千年萬代も朽損じ侍らじとぞみえ侍る云々、〈○中略〉
庭〈附綱事〉
禁裏龍樓の庭には、ねこがきを敷付れば、すなごのふかさもくるしからず、彼ねこがきと申は、馬などふせ侍同物也、俄ならん公宴に、ねこがき無用意之時、下輩のものゝ用侍庭筵己申物をとぢ合て敷也、常事也、仙洞、親王、執柄、大臣以下、いかなる貴所にも、ねこがき敷事あるべからず、能々庭をこしらへ侍べし、すなごのふかさまして、石のおほきなるも、鞠のため難儀也、洛中の庭には、北畠の櫻の懸を殖侍場、殊勝言語道斷也、昔度々見侍りしに、櫻は老木に成て、少々朽損じ侍しかど、庭は珍重なりしも、彼庭は深さ一丈に堀て、底五尺に鹽をうつみ、上五尺に土をふるひて置之、日照侍れど、荻たゝず、ゑめりあがりてめでたし、雨降ば、水とく引て、殊勝なりし也、又おなじく一丈堀て、底五尺に琵を敷て、上五尺に土をふるひてをく、いかならん霖雨にも、晴間待え侍れば、水とく引て最上也、故陽明博陸亭の庭、愚老〈○藤原爲定〉往年のむかし奉行して蕘を敷侍し隻普通には 庭をゑめすとなづけて、水をそゝぎて其上をはゝきにてはく、茨た、ずして神妙也、又よしなきふることなれども、五條大柄言國綱卿、家を興して、昇進して被仕けるも、鞠場よく奉行して、叡感にあつかりりる由、立身しけるとなん、或時御鞠の公宴に侍に、大雨ふりて、庭にたまりて、空晴ぬれども、御會あるべしとは侍らざるを、白布をそこばく召寄て、時の間に水をゑめして取て、殊勝のことにさたしなして、無爲に御鞠侍けるに、時宜も快然に、又上下貴賤の人々褒美侍けるとなん、又綱と申侍るは、鞠のきれて立蔀屏などの上を越てゆくをとめ侍ために、麻をほそく組て、靑く染て、彼所に高さ一又許にも懸之、定事也云々、

〔了俊大草紙〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1062 一懸を殖る次第、人の屋形は南向を本とする也、艮方に柳殖也、陽の始故也、巽方には櫻を殖也、坤には鷄冠木を殖也、秋をつかさどるゆへなり、乾には松を殖也、方は如此なり、然に柳櫻鷄冠木松とかぞふるなり、飛鳥井家には柳を巽に殖、櫻を艮に殖、松を乾に殖、鷄冠木を坤に殖也、仍柳櫻松鷄冠木とかぞふる也、柳四本、櫻四本、鷄冠木四本、松四本ばかりを殖事は、貴所樣の外はせぬ事なり、

〔蹴鞠簡要抄〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1062 一切立事
師説云、切立とは櫻柳松鷄冠木なり、但わたくしとこうには、えの木むくの木もする也、それはかつて後鞠をとをくはね一又かゝるまりもかたくなる也、上手はそれに見ゆるなり、たつるほどは老木のかゝりよりはせば、くそ見ゆる、みなやすくたてたるけうな、し、又みなかたき數あらず、かたき所一兩所ありて、殘りはやすくて、上手をかたき所にたつるがいみじき也、屋のちかき切立は、屋の方に枝の有まじき也、それによりてやの上へ鞠のあがる也、又軒と木とのあはひにえだあれば、屋の内へも鞠の入なり、いかにも屋のかたのえだ有べからず、
景忠云、切立はまりつぼなくてせばきは、鞠ゑづまらでかずもあがらす、遣恨なり、まりつぼのと にえださしおほへりなどすべからず、鞠つぼは有てめぐりをかたくたて丶またやすき所もあるべし、櫻の木をむねとすれば、一所のかたにたつる也、
家平云、切立はあはひひろきは興は無し、すこし懸よりはせばくてもとを賞する也、成平説云々、源九云、切立はたてぬさきに、木の寸法をとりてはからひたつべし、禁中の切立には、柳櫻松かへでの外はたつべからず、院宮これに同、諸家この外にえの木むくの木たつる常のことなり、たゞしえだざしよからむ木は、何にてもぐるしみあるべからず、站ほきなるちいさき相交ゆべし、皆おなじやうなるは惡き也バ東西に大木二本あらば、南北には小木を二本たつべし、おほやうは四本能なり、にはかろき所には、ふたつのあゐだにのけて、にげ木うふることもあり、長は人のゑぼうしよりかみ一尺ばかりあるを、下の枝とすべし、又木は辰うらのある也、枝のいだきたるやうなる方はをもて也、鞠つぼのかろきせばきは、木の大小、又えだのさしやふによるべし、さがり枝おほくて、まりつぼせばきは、人のすがたもわろく、ものさはがしくのみありて、數もあがらず、興なき事なり、
家平云、切立はおほきなるちいさきませてうふるやう、かたつかたをおほきにちいさくと申せども、かれはわろき也、すみあわせにちがへてうふべき也、成卆が申云、さくらをむねとする事なれば、御所のかたにうふべし、松の木はひがしのために、西の方にうふべし、又櫻柳はひんがし、松かえでは西にうふべし、但此心をえて、ところにもゑたがひ、おりにもよるべき也と云々、

〔松下十卷抄〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1063 切立の事
松三本、柳一本、又は二本づゝも子細なし、又竹をも立とすべし、丈數はうへ木におなじ、竹はすへをふしのきわより切也、地より稍まで一丈五尺なり、竹は四本四所にも立る也、最下の枝も木におなじ、木のときは四本、同木はわうし、竹の時は四本ばかりよし、末を切事ことなる義なし、ふし のきわより切まで也、

〔甲陽軍鑑〕

〈七/品第十六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1064 毬之次第
一懸之樹之事、式の懸といふは、櫻柳楓松也、又四季の木不足して、同木二本うふる事無子細、また雜木もうふる也、雜木には榎椋柿、是は常に植木也、但師の免なき人、をしませてうふることなし、木は安宅の術、懸は鎭屋の方なり、南向の庭をもつはらとすゴゑかれども東北の懸又つねの事なり、いつれの方にても、
楓〈ひつじさる〉 松〈いぬい〉

柳〈たつみ〉 梅〈うしとら〉

楓松
楓松
柳櫻
楓松

柳櫻
楓松
柳櫻
柳櫻
一軒と樹との間一丈四尺二三寸許、母屋の柱よりのこと也、ひさしあらば緣の廣さをのぞきて、はしの方の邊より丈數を打べし、木と木との間二丈ばかり二丈一尺にも植べし、又庭せばからん所には、一丈九尺八尺にも可然、ゑからば軒と樹の間も五寸ばかりもつむべし所にゑたがひ樣によるべし、木の高さ一丈五三尺、但おもふやうに有がたし、一尺、二尺、三尺、高くとも、ひ きくとも、くるしからず、うへて後高くなる木も、さのみ思ふやうにきる事なし、〈○中略〉
一切立と云は、竹の枝を五のふし上を切、竹のかはにてつ、むを云切差は竹の枝を其ま、をくをいふなり

〔蹴鞠九十九箇條〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1065
一四本懸を植る方角の事 一北向之掛の事
良 櫻 東塀中門 柳 巽 坤 楓 西 松 乾

松 乾 楓 坤 柳 巽 東塀中門 纓 良
一木を植始納方の事
良より植始て、巽の木を植坤の木を植、乾の木にて植納て、木をするず、同前なり、獪口傳有之、
一木の間廣狹の事
掛の間二丈二尺本也、組庭をはゞは二丈一尺、二丈一尺、九尺、一丈八尺、文ハ一丈二尺までも、一尺ヅゝひかへて三合之植る也、獪口傳有之、
一軒と木の間の事
一方の西屋の柱を請て木を植也、雨落より一丈五尺本也、但庭にょりて一丈三尺、又緣のつか柱よりも一丈三尺、獪せばきはたゞ八尺までもつゞめて可用也蕕口傳有之、 一鞠垣の高さの事
一丈四尺、一丈五尺、兩説何も可用、〈○中略〉
一竹切立の事
高さ壹丈五尺、すゑの節ぎわより一寸計置て直に切也、最下の枝へ、ゑぼしのさはらのほどに置て、みかたへなすべし、あひをひに立時、男竹女竹と立也、最下枝一女竹と云也、一本ヅゝ四本立る時も、男竹女竹と陰陽を心得て可立也、枝數は九曜七曜を表する也桓數さだまらず共くるしからず、
一庭に水をうつ事
夏の庭に、晴の鞠の時は、砂を中へはきょせて、中高にする也鞠あらん時は、砂をはきちらして、高ひきもなきやうに用里思すべし、はうきめは軒を横に後へしりぞきながらこれあとのなきやうにはく也、掛の内は半にはくべし、何もざゝ波のよするごとくにはくべき也、〈○中略〉
一庭を拵事
まつ懸をうへて後、三尺ほど堀て、石をとりのけ、土に砂を合て、鹽俵をうつみ、四方に坪を埋み置也、但中につぼ壹つうつみてもよし、さて土をよくくならして、砂をまくなり、また高ひくきをなをす事は、雨降天潦のたまりたる所にしるしをさし置て、水のひきたる以後、土を置、ふみ付て、かゞみの面のごとくにすぐになをす也、砂を用意して、緣の下に置、細々まくべし、雨降てながれうするもの也、
一雨降て庭のしめりすぎたる時は、大鋸ぐづを用意して置、庭にまきしめゆを取はき取べし、一懸を植、驪鞠の道を定ておかる、事は、後鳥羽院の御宇に、不殘定置給ふ也、天狗楓とて、賀茂松下庭にいまだ有也、此懸は後鳥羽院始て植給ひしかゝりなう、

〔閑田耕筆〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1067 鞠場の植物、宗匠家は、四本松、なべては松柳櫻楓等、皆二股のものを植ゆ、或は免許によりて二本松、三本松の次第も有とかや、むかしは是も法なかりし成べし

〔安齋隨筆〕

〈後編三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1067 一鞠場四本懸りの歌
あいきやうの松は戌亥の物なれば楓のほうそ未申也
靑柳は辰巳の角に立なれば櫻の花は丑寅ぞかし

〔續世繼〕

〈四/薄花櫻〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1067 もりながのぬし花ざかりにまりもたせて、か、りへまかりけるに、〈○下略〉

〔十訓抄〕

〈七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1067 六條前齋院と聞えさぜ給ける宮の御所に、いみじきかゝりをうへられたりけり、三月のはじめつかた、其道の上達部殿上人あまた參て、鞠つかうまつりけるに、〈○下略〉

〔古今著聞集〕

〈十一/蹴鞠〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1067 侍從大納言成通卿の鞠は、凡夫のゑわざにはあらざりけり、彼口傳に侍るは鞠を好みてのちかゝりに下立事七千日、

〔山槐記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1067 治承三年三月六日甲子、去夕声御方蓮行幸院御所、〈○中略〉行幸間蹴鞠、〈○中略〉鞠足等參候懸下、〈○下略〉

〔新古今和歌集〕

〈十六/雜〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1067 最勝寺のさくらは、まりのか、りにて、ひさしくなりにしを、その木としふりて、風にたふれたるよしきゝ侍しかば、をのこどもにおほせて、こと木をそのあとにうつしうゑさせしとき、まかりて見侍れば、あまたのとし人丶、暮にし春までたちなれける事など、おもひいでゝよみ侍ける、 藤原雅經朝臣
なれくてみしは名殘の春ぞともなどゑら河の花の下かげ

〔吾妻鏡〕

〈十七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1067 建仁二年正月十二日戊午、又有御鞠天數同前、而隼人佐康淸入道宅、去年始殖懸樹、太有其異不被御覽者、頗無念之由令申、仍率此人數、則渡御彼庭、員五百バ ニ月廿日乙未、相模國積良邊有古柳茗木之由就令聞給、爲移植于鞠御壷渡御彼所、北條五郎已下六十餘輩候御共、又被召具 行景、 廿一日丙申、左金吾〈○源賴家〉還御鎌倉、件柳被引之、卽被殖石御壺内、行景奉行之、但非良木之由申之云云、

〔古今著聞集〕

〈十一/蹴鞠〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1068 順德院御位の時、高陽院殿に行幸成て御逗留の日、御鞠有けり、〈○中略〉ねこがきをしかれたり、此人數有がたきためし成べし、

〔吾妻鏡〕

〈四十三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1068 建長五年三月一日己卯、於御所鞠御壺覽童舞、

〔徒然草〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1068 鎌倉中書王〈○宗尊親王〉にて、御鞠有けるに、雨ふりて後、いまだ庭のかはかざりければ、いかがせんとさた有けるに、佐々木隱岐入道、のこぎりのくづを車につみて、おほく奉りたりければ、一庭に玄かれて、泥土のわづらひなかりけり、とりためけん用意ありがたしと、人威じあへりけり、此事をあるものゝかたり出たりしに、吉田中納言の、かはきすなごの用意やはなかりけるとの給ひたりしかば、はつかしかりき、いみじと思ひけるのこぎりのくづ、いやしくことやうの事也、庭の儀を奉行する人、かはきすなごをまうくるは、故實なりとそ、

〔沙石集〕

〈七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1068 無嫉妬之心人事
同國〈○常陸〉ニ或人ノ女房、鎌倉ノ官女ニテアリケリ、歌ノ道モ心エテ、ヤサシキ女房ナリケヲ、心ザシヤウスカッケシ、事ノ次デヲモトメテ、鎌倉へ送ラバヤト思ヒテ、コノ前栽ノ鞠ノカ、リノ四本ノ木ヲ、一首ニヨざ給へ、ナラズメヲクリタテマッルベシト、男ニイハンテ、
櫻サクホドハノキバノ梅ノ花モミヂマッコソヒサシカリケレ、コレヲ感ジテヲクル事思ヒ留マリテケリ、人ノ心ハヤサシクイロアルベシ丶當時アル人ナリ、

〔建内記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1068 嘉吉元年十一月廿二日甲申、飛鳥井少將雅親朝臣〈衣冠〉參候、御鞠懸、古柳悉堀之撤却、〈元來一本不足〉以松替之、自賀茂堀進之、脚主立久〈著狩衣〉參候、今日二本被植之、今二本期明日歟、件古柳、兩代〈後小松院、蔕光院、〉遺愛樹也、獪可懸置者歟、申沙汰之樣不甘心芭撤却之後拜見、仍、不及微意、

〔看聞日記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1069 嘉吉三年正月廿二日、雅親朝臣參、鞠懸事申、兼申談之間、靑侍一人召具、西面〈扉中門内〉丈尺打、朝臣候、丈數等注之、松は賀茂山に罷向可檢知之由申、社務に可所望云々、柳櫻は在此御所、鷄冠木は在伏見歟、可尋之由令申、來月初可被植之由約諾了、 廿七日、雅親朝臣以使者申、懸松事、賀茂社務に先可被仰之由申、 廿八日、賀茂枇務可參之由仰、則氏人參、懸松可然木所望之由令申、不可有子細、人を被下て可被見之由申、 廿九日、飛鳥井に松事社務不可有子細乢之由申、何比可植哉之由令申、來月四五日比可然歟、先人を遣て可見之由申、卅日、賀茂松遘人檢知之由、飛鳥井申、來月五日可植之由令申、 二月一日、西面櫻木、躑躅北面壺に植渡、是爲懸植也櫻木難得之間、千本に有商買之木云々、隆富朝臣、重賢朝臣罷向檢知、八重櫻有數杢其中一本取、但運櫻也、 二日、鷄冠木難得之間、伏見有木、隆富朝臣、盛賢下して令見、暮歸參、田向庭懸木可然之由申、超願寺よき木あり、然而大木之間、堀渡煩之由申、仍源三位令所望、領狀申、 四日、懸木堀に遣、賀茂松、虎、千本〈櫻虎孑堀〉伏見鷄冠木市、各堀に罷向、〈○中略〉晩、千本櫻、賀茂松等參著、〈松好木也〉入夜伏見鷄冠木參著、祕妙之木也、 五日、西面〈扉中門内〉懸木植、雅親朝臣參令植、〈虎植〉松櫻柳鷄冠木如恒、櫻柳は庭前木也、千本之櫻不思樣之由申、庭櫻堀渡、中納言入道參瞼知、宰相入道、源三位、新三位、隆富朝臣、敎季朝臣、持經朝臣、有俊朝臣、重賢朝臣、經秀、政仲等候、晩頭植了、有一獻、中納言入道、雅親朝臣等候、源三位、敎季朝臣、淸飯候、侍臣役逡、五獻畢、中納言退出、三條に有奮合、愨被出、其後於南御方有二獻懸之御祝也、級一檢校參、平家四五句申、懸無爲植之條、萬歲之儀、珍重自愛無極、 三月十五日、親長懸木亨拜見之由申、相伴參、〈乍衣冠參〉則蹴鞠張行申、乍卒爾有鞠初、人數竹園、隆富朝臣、持經朝臣、有俊朝臣、裝束重賢朝臣、親長、定仲、〈但早出〉至暮蹴乍蕪人揚、有其興、蹴了、

〔親長卿記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1069 文明十一年五月十一日、被下女房奉書、若宮御方御鞠庭可被切立、令參仕可申付云々、新中納言雅康在國之故歟、卽祗候、召御大工引繩定弐數立竹四本了、〈狹御庭也〉相計了、非本丈數、

〔二水記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1070 永正二年九月三日、於御懸内々有御鞠、竹園親王御方御參、近比之見物也、

〔言繼卿記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1070 永祿七年九月廿一日庚申、從德大寺爾三日使到、懸之松洗之事被申、自牛時罷向、先一盞有之、次晩准相伴了、松一本如形洗之了、

〔時慶卿記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1070 文祿二年八月四日、八條殿ヨリ預御使者、鞠場砂土ヲ被置候、可見計由被仰候、則申付候、

〔細川家記〕

〈十三/忠興〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1070 慶長十二年五月、飛鳥井宰相雅庸卿より、四本の掛り松之一色免許の證狀御受被成候、兼々蹴鞠を御好み御習練被成候故也、
蹴鞠爲門襲四本松之事、條々雖有子細之儀克弟之契約申候間免之候、恐々謹言、
五月廿七日 雅庸
細川越中守殿〈○中略〉
六月下旬、〈一ニ七月共有、又十月と有は誤也、〉飛鳥井殿豐前へ、御下向、忠興君御喜悦不斜、四本松の御披として、七月七日、小倉の御本丸に於て枝の鞠御興行、終て和歌の御會〈幽齋君之譜ニ詳ニ出〉暮に及び御拍子と被定、此砌長岡式蔀興長等、各蹴鞠を好、雅庸卿の門弟と成、是を學び裝束を免許せらる、

座敷/見證座

〔遊庭秘鈔〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1070 座敷〈付見證座事〉
天子上皇の公宴にも、御梃を切さげて、御座をまうく、親王、執柄以下、堂に著座あるべからず、庭に座をゑく、關白、大臣は大文疊、納言、參議は小文のた、み、殿上人紫端、或は赤端疊、諸大夫以卞侍輩、又武家の人々は圓座たるべし、〈雲客圓座の例あり〉ふるき鞠足必見所に候べし、座を各別に敷也、

〔承元御鞠記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1070 承元二年四月十三日壬子、天晴、時屬淸和、世樂靜謐、太上天皇〈○後鳥羽〉機務の餘閑に、前大相國〈○藤原賴實〉郁芳里第に臨幸し給ひて蹴鞠の宴あり、〈○中略〉其儀、南庭に四宇の屋をたつ、一宇南階の西のほとりに、ひはだぶきの三間のやをかまふ、東西妻廂土用たるによりて、つちゐをくむ、その爲體桐檜朴櫨の環材をまじへ、けたうつばりたるきはしらの華構を致す、ちらし物金銀をも ちてなげしにうつ、黑漆をもて高欄にうつ、四間に翠簾をかけてまきあげ、〈からにしきをもてヘリもかテとす〉もやのひんがしの一間を御所とす、その天井にいろ〳〵の錦をはりて承塵に攝すべ御座二枚をしく、〈おもて龍髫瓜、ヘリからにしき、南北行、〉その上に唐錦の茵を供す、からむしろをさしむしろとす、西二箇間を月卿雲客の座とす、たゝみ四枚をしく、〈おもて唐筵、へりいろ〳〵のかに痴きりつく、束西二行、〉西のつまひさしを〈落板敷〉下北面の座とす、疊二枚をしく、〈おもてまだらむしろ、ヘりあゐすり、東西二行、○中略〉南に退て三間の屋二宇をたつ、〈卯酉妻〉中下各八人の座とす、翠竹をもて柱楹とす、靑松をもて蓋戴とす、四面にをの〳〵伊豫簾をかけ、〈紺の布函もてヘりとす〉紫べりの疊六枚をしく、〈東西二行〉人別に膳をすへ、裝束銀劒を置、但下八人劒なし、御所の西に三間の屋一宇をたつ、〈卯酉妻、つちゐなくむ、〉松のはをふきて、翠簾をかく、〈あさみどりのみの、きぬ痴へりとす、もよぎの唐綾在もかうとす、綠靑をも、て鶴の丸をかく〉かうらいべりの疊六枚をしく、〈東西二行〉公卿の座とす、おなじくついがさねをすふ、〈大臣三本、自餘二本、ゑるものゝ折敷、〉中門の南の廊を御やすみ所とす、御膳御ゆどのをまうく、寢殿の南面を女院の御見物のところとす、南のついがきにそへて、かたはや二宇をつくる、竹をもちてたるき柱とす、松をもてうはぶきとす、紫べりの疊をしく、西の小ゑばがきのほとりに幔を引て、その西に亢、みをしく、員數につらならざる輩、をの〳〵この所にこうす、南庭東のほとりをまりの庭とす、

〔貞治二年御鞠記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1071 辰の時に〈○貞治二年玉月十一日〉爲遠朝臣參りて御裝束拵、御殿の東西〈讃定夙向御鞠懸〉五間に御簾をかけわたしてこれをたる、南の三四間の前の簀子を切さげて繧繝の帖一軸を供して御座とす、東の庭の南の砌に、南北へ小文疊一帖を敷て、前關白の座とす其末に東西へ同疊二帖をゑきて、見證の公卿の座とす、東の庭の北の砌に立蔀にそへて、小文疊を南北へしきて關白の座とす、その末に東西へおなじき疊四五帖をゑきて、鞠足の公卿の座とす、そのすゑに圓座十枚ばかりをしきて、おなじき殿上人の座とす、東の渡殿の下の西の砌に圓座をしきて、賀茂の輩の座とす、小御所對のやに御簾をかけらる、便宜の女房など、かいはみ侍所にや、

〔親長卿記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1072 文明六年四月廿五日、今日室町殿御鞠始也、〈○中略〉鞠足之人々座定之後、前内府進出著見證座、〈○中略〉公卿殿上人東上北面、武家輩東上南面、〈自扉中門南座也〉賀茂輩南上東面、〈屏中門南腋〉見證座副北垣、其次武家輩座也、十二年七月八日、〈徳大寺〉自右大將〈實淳卿〉許有蓍長鞠張行云々、申剋許罷出、飛鳥井中納言雅康參會、示予云、今日〈○中略〉座敷事、先日公卿西上北面不得其意之由、書默之次被遣飛鳥丑之間、今日雖此座敷、公卿東上北面、賀茂輩棟久貞久等縣主南上東面、善法寺享淸法印公卿座向東上南面、其次武家之輩同東上南面也、座狹少之間、武邊末々輩折南北上東面也、此分可然之由、予粗加意見了、 去月廿八日座敷樣 公卿西上北面、次武家輩南上東面、公卿向頰、享淸怯印東上南面、其次賀茂輩貞文縣主也、

蹴鞠所役/見證

〔遊庭秘鈔〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1072 座敷〈付見證座事〉
ふるき鞠足必見所に候べし、〈○中略〉いかならん人も堂上見所有べからず、然を曆應比、仙洞に行幸成て、御鞠會あり、花山院入道右府、〈冢定公〉近衞前關白、〈基嗣公〉洞院入道太政大臣、〈公賢公〉堂上にて見證あり、是則深心院關白、井常盤井入遘相國、此兩人公宴御鞠を堂上にて見所せられ侍ける例なりとなん、但老人のあざけり也と沙汰侍し也云々、

〔吾妻鏡〕

〈十七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1072 建仁二年五月廿日癸亥、御所御鞠也、六位進盛景、紀内行景、細野四郎兵衞尉、富部五郎、稻木五郎比企彌四郎、源性等候之、員二百二十、五百二十、伯耆少將、北條五郎等依煩脚氣候見證、

〔吾妻鏡〕

〈四十七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1072 康元二年〈○正嘉元年〉四月九日甲午、申剋御所御鞠也、〈○中略〉仁和寺三位能淸朝臣、範忠朝臣、範方等、候見證、

〔享德二年晴之御鞠記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1072 見證公卿
〈一條兼良〉闘白 平絹直衣指貫 〈鷹司 房平〉左大臣 直衣〈二條持通〉右大臣 衣冠 武者小路前内〈公保〉大臣 平絹直衣白綾指貫 三條前内〈實量〉大臣 直衣 西園寺〈實遠〉中納言 直衣

露拂役

〔運步色葉集〕

〈津〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1073 露拂〈天子蹴鞠ノ御時、賀茂ノ人先蹴鞠拂懸之樹露也、〉

〔壗囊抄〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1073 萬ノ遊ノ最初ニスルヲ卑下スル心ニ、ツイハライト云ハ何事ゾ、卑下スル心ニハ叶ヘリ、ツイトハ誤レリ、ツユハライ也、禁裏ニ蹴鞠之御會ノアル時、必賀茂人參リテ、出御以前、先ヅ蹴テ、懸ノ露ヲ落ス也、是ヲ露拂ト云也、凡ベテ露霜ヲバ殊ニハラフト云、

〔松下十卷抄〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1073 一露はらひと云事 禁裏仙洞などにて賀茂人はじめ候を云、懸の露をおとすべきためなり、常には初心の衆も仕候、露はらひとはおもてむき申事なり、内義は又色々にふるまひ候、懸の枝候へば彼枝にあたりて行鞠のやう見候はんために仕候、露はらひのときばかり木などにあらけなく仕かけ候なり、平生は無其儀候、賀茂人とはかもの凪人なり、

上鞠役

〔遊庭秘鈔〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1073 上鞠事
此役は隨分可然人勤仕すべき也、口傳庭訓一事ならず、大事也、或は普代の人、或は堪能の人、又はやんごとなき上藺まり足のわざなるべし、流々あまたありて、相論の時、院の御沙汰ありし也、先例もあり、龜山院もあげさせ給けるとなん、近は香園院入道關白、〈○藤原師忠〉光明照院入道關白〈○藤原兼基〉なども被動仕之、貞治禁裏、〈○後光嚴〉御鞠に、近衞前關白〈道嗣公〉つとめられ侍き、勤仕のやうは、以上八人立そろひて、尊者の御目に芝たがひてす、む、かねてより此役はふれ仰られ侍れど、當座にかさねて御目に芝たがふ事本儀也、主人左の方にましませば、まつ右の足より踏よりて、左の膝をつきて、蹲居して、右の手にて、鞠をとり、〈取革をとろべし〉左の手にて鞠をかゝへ、〈まりのいたゞきな上になすべし〉右の足より立て、左の足一しりぞけ、又右の足一しりぞけて、今度は左の足一、右の足おなじ座敷にて踏うごかして、〈今度はしりぞくべからず〉左の方に立人より、右の腋に立人まで見廻て、主人のかたへ向て、右の足一踏より、左の足一ふみて、則蹴之、高からず蹴あげておとす、木の枝にかくべからず、鞠を人に 蹴あつべからず、鞠のたかさ、目より下と云説侍れど、それよりはたかかるべき歟、さて左廻すべし、又二足の上まりと申も、此作法にて、同立所にて二足蹴也、三足の上まり是おなじ、又上鞠を玄かるべき普代堪能の人にゆつる事あり、其作法、左右に立人を見めぐらして、讓べき人に對して揖すれば、うけとるべき人、かた袖をうへになし、かた袖を下になして、〈上鞠の人の上首下臈に志亡がひて、釉な左右の間かたか主うへになす也、〉答揖する時蹴かくれば、請取人聲を出して上之て、一足蹴之ておとす也、是を二、足の上鞠といふ説もあり、又上藺の人けかけて、一足あげ鞠の人けておとす、是を三足の上鞠といふこともあり、一人して二足あげ侍上まりの常の事也、それはゆ、しき大事也、尤口傳故實一時ならの師説あるべし、又無作法の上鞠といふ作法あり、上鞠の人家主なり、上藺などにて侍らん、家主を賞翫せんため、かゝる事侍べし、故德大寺前内大臣〈○公淸〉家鞠の日、租父禪門〈○藤原爲定祗父覓世〉の庭訓にて、この作法ふるまひ侍しこと見及侍りし也、そのやうは、別の子細なし、膝もつかず、兩方も見めぐらさず、二三度足もかゞめず、たゞ立ながら鞠をとりて家主の方へ一足蹴かけておとす也、又達者の後の上まりの振舞とて、砠父禪門口傳し侍し説、まりを取て打た、きてあぐる説、又うちふりてあぐる説などを、樣々をしへられ侍き、于今深く耳の底にとゞまり侍者也、又おつるたびの上鞠を、むねとの人蹴かくる事、聊以無骨の所爲也、ゆめく不可有其儀云々、

〔古今著聞集〕

〈十一/蹴鞠〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1074 安元御賀の時、三位賴輔、賀茂肺主家卆が家に行向て、御賀の上まり仕べきよし勅定有、其間の子細訓説をかうぶるべしといはれければ、家卆いはく、まりは仕候へ共、街賀の鞠つかまつる事家に候はねば、故實申がたく候、但常の老もうの人のあげ鞠のていこそ候はめと申けり、又被參て云、かはのくつをはきて三足けんと思ふな心、家卆云、裝束には韈候、七十の後三ぞくの上鞠見苦候なんと申、又彼示て云、人をばゑらず、我はさせんと思ふ也、家卆云、さて誰にか鞠をばゆづり給べき、三品の云、少將泰迺朝臣にゆづらんずる也、家卆云、其儀ならば内々申させ 給たるや、三品云、其儀なくとも、何かくるしからん、淡路入道〈○盛長〉の弟子にて神主〈○賀茂成平〉の弟子に、侍從大納言有、大納言〈○成通〉の弟子にて我あり、されば其相違有べからずとぞいはれける、家平、されども御文をつかはして、返事を取てもたせ給ひたらん、可然候なんとぞいひける、

〔吾妻鏡〕

〈三十九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1075 寶治二年九月廿六日庚午、於鶴岡別當法印雪下坊有鞠會上鞠熊王、〈山猶子云云〉上足落中云云、

〔吾妻鏡〕

〈四十七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1075 康元二年〈○正嘉元年〉四月九日甲午、申剋御所御鞠也、〈○中略〉源中納言、〈布衣〉難波刑部卿、〈布衣〉上鞠一足、中務權大輔敎時、〈同〉遠江七郎時基、〈同〉内藏權頭親家、〈同〉出羽前司行義、〈同〉下野前司泰綱、

〔享德二年晴之御鞠記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1075 あげまりは、此道め先途に申侍り、上皇の御あげまり、關白大臣などのこのやくをつとめ給事も、その例たび〳〵にをよび侍、此度は應永二年にまさちかの卿の祖父中納言入道〈○雅緣〉いまだ殿上人にてあげまりをうけたまはりし例とかや、永享九年花の御所へ行幸〈○後花園〉ありて、御鞠のありしには、父贈大納言〈○雅淸〉上鞠をつとめ侍り、今は此道かの一家にとゞまりて、かたをならぶる人も侍らねば、たかきもひきゝもその庭訓をうけずといふことなし、神明の御はからひ、しかるべきことにこそ有けめ、何よりも大納言殿の、この道にたつし給へることこそ、いよ〳〵さかり成べきぜんへうとはおぼえ侍れ、ちかき世には鹿苑院殿〈○足利義滿〉こそ永德の行幸に、右大將にてはじめて御まりにたゝせ給て、其後禁裏仙洞にても、たび〳〵けさせ給などして、あげまりやうの事までもつとめたまひし御ことぞかし、

蹴鞠例

〔本朝月令〕

〈五月〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1075 五日節會事見内裏式 國史云、大寶元年五月五日、奏蹴鞠會、

〔西宮記〕

〈臨時八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1075 蹴鞠
延喜五三廿、御仁籌殿、召殿上人、及藤原董之、坂上是則、帶刀長在原相如、帶刀榎井淸郷令蹴鞠、召酒殿内膳干物給、二百六度揚不墮、召丙藏絹給之、 天曆三、御詞殿、召殿上藏人、近衞舍人等有蹴鞠興、二百七度揚不墮、
同七年、召博雅、重光、保光、兼通、信孝、仲秀、世忠、世珍、正生、是眞、春延等、五百二十度揚、爲不墮之限給祿、應和二四廿八、御辷壽殿、侍臣蹴鞠、昌子内親王給汗虫 十七日、御塔御弘徽殿、侍臣蹴鞠、中宮給疋絹、

〔水左記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1076 承曆四年三月十五日、今日於南庭樹下有蹴鞠事瑤能之輩多以來集、

〔殿曆〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1076 天仁三年〈○天永元年〉二月廿三日壬辰、殿上人於御前有鞠事、中將今朝直衣壺胡籤野劒等を著參御前、鞠間〈老懸許を著也、自餘腕之、〉今日終日有鞠也、

〔玉海〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1076 安元二年三月四日己酉、此日公家被奉賀太上法皇〈○後白河〉五十寶算、於東山御所南黶有此事、
五日庚戌、藏人基行〈狹端取鞠、不付枝、〉置前庭、次堪蹴鞠之侍臣九人、入自西中門參上、親信朝臣、賴輔朝臣、〈巳上束帶、各著柳張下重、〉定能朝臣、泰通朝臣、有房朝臣、雅賢朝臣、〈已上直衣揚話撤矮卷纓如元〉維盛朝臣、〈不撤矮揚話〉家光〈著革禳〉時家〈不撤矮不揚括挾端〉已上九人暫候庭上、依關白相示上鞠、〈刑部卿箱輔朝臣上之、件人依鳧事一近曾昇殿云々、先與親信朝臣暫相讓、遒出取鞠頗向御所上之、只一足也、後日賴輔朝臣云、革疲上著例絹薩、又上鞠有二説、一足三足云々、今度用一足説了、又傳習故入道亞相成邁、因之讓其子泰通朝臣云々、〉鞠間無殊事、但賴輔朝臣依堪能雖應其撰、今日頗不入其興、衆人以爲無詮、〈○註略〉院御隨身重近兼賴以下著衣〈各有風流〉候東方、關白及予〈○藤原兼責〉内府隨身在西方、各取遠去鞠授殿上人、此中關白隨身下薦、取鞠擲擊前樹、覩者解頤、及秉燭蹴鞠訖、關白以下起座、

〔山槐記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1076 治承三年三月六日甲子、去夕爲御方達行幸院御所、〈七條殿〉今日御逗留、有御鞠會云々、後聞、於北壷有庇事、其間事相蕁刑部卿賴輔朝臣之處宗送日、〈内府重、按察資賢、大宮夫夫爺雅、大貳親信、新宰相中將定能也、〉行幸間、蹴鞠去六日候也、其儀、主上御簾中、公卿〈内府、按察使、春宮大夫、都督、新宰相中將、〉參候廣廂座、少時法皇〈(後白河)著御布衣〉出御、鞠足等參候懸下之後、法皇令下立禦公卿動座、頗不審、内々御參之時、依庭狹祗候之輩不可下之由議定了、抑若存其議歟、又兼有其仰歟、鞠足雲客難賢少將許候、直衣冠衣一色候、賴輔著赤帷候、無沙汰候歟、 法師鞠足二人〈備後駿河〉相交候、凡日比御曾衆等候百餘數、兩座上候之間、其興候也、委曲可參啓候也、

〔明月記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1077 元久二年四月十六日、今日鞠負態云々、先日御所御負人々預饗應、

〔承元御鞠記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1077 承元二年四月十三日壬子、天晴、時屬淸和、世樂靜謐、太上天皇〈○後鳥羽〉機務の餘閑に、前大相國〈○藤原賴實〉郁芳里第に臨幸し給ひて、鞠蹴の宴あり、蓋是上皇神聰禀天、衆藝軼人たまひて、蹴鞠さらに妙をあらそふものなし、是によりて去七日、當世究功の人拜感の至にたへず、我道をしてその長老と稻し奉べき旨、勒趺以聞、より丁今日此藝をたしなみ、其名を顯すともがら、悉く恩喚ありて、ことに賞賜をくはふるもの也、かみ上皇をはじめたてまつり、ゑも諸人に及ぶまで、貴賎を不論、をのー八人をもて上中下の三品をわかつ、自餘めしにあつかるもの又多し、〈○中略〉午刻に、上皇臨幸〈御布衣、八葉御車、〉侍臣北面の輩少々供奉、御車を西の小寢殿の南おもての戸によす、あひつぎて修明門院〈○後鳥羽妃藤原重子〉御幸、御車同じき所によす暫有て上皇出御、次相國〈烏帽子直衣〉公卿の座につく、〈○中略〉著座の公卿、かねて人數を定らるといへども、期に臨て或はつかず、或は推參す、此外前皇后宮大夫實敎卿、左兵衞督敎長卿、別當保家卿、高三位經仲卿、阿波三位親兼卿、太宰大貳親實卿、右兵衞督隆淸卿、刑部卿顯兼卿等此座につかず、東廊の邊にある歟、弐左中將通方朝臣、御銚子をもちて參す、相國公卿の座をたちて御所にすゝみよりてこれを供す、退歸りて寢殿の南のすのこに候す、通方朝臣銚子を返給のち、有右丸、つぎ銚子をもちて參る、忠信卿巳下別盞をもち、一獻を勸、中下の座勸盃の儀なし、次裝束をとりて退去、次復座、〈○中略〉此間上中下の輩、皆悉く恩賜の裝束を著して、まりの庭にあひのぞむ、左馬權頭忠綱まりを持てすゝみ出て、木の下にをく、次にあげ鞠のことあり、まつ下八人あげ鞠家綱、〈○中略〉次に又忠綱上料の御鞠燻を持參す、宗長朝臣是をあぐ、二足の後、御所に進上、〈○中略〉その數百に滿時、上皇まちを御袖にうけましノ丶てべ忠信卿にたまふ、彼卿忠綱をめしてこれを給、次に相國仰をうけ給て、忠綱に仰て銀の勗八枚を召出して、上 七人にわ、かちたまふ、御分一枚をもて譬王九をめして是をたまふ、道誓一身の拔群を見て、數行の感涙をのこふ、犢をねぶるおもひ、人もてかなりとす、こ、に夏の日漸ゑづみて、魯陽かへしがたし、遊樂きはまりなくして、なまじゐに還幸をうながす、〈○中略〉十四日、〈○中略〉晩頭に御方違のために、かさねて郁芳里第に臨幸、〈○中略〉南庭にして蹴鞠の事あり、見るものみないはく、かへりてきのふの興、にすぐれたり、十五日甲寅天晴、今朝上中のともがらをめし出しで、又蹴鞠の興あり、〈○中略〉抑今度の儀、まことに希代の勝事、千載の一遇なるものか、

〔業資王記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1078 承元五年閏正月卅日癸未、侍從爲當番參内、今日於朝餉御壺有御鞠侍從被召真人數云云、爲不堪之事可固辭申歟、然而勅定依難背不顧其耻愍加人數歟云々、

〔吾妻鏡〕

〈二十三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1078 建保六年五月四日甲戌、相州、〈○北條時房〉自京郵下著給、三品〈○源賴朝妻北條政子〉御上洛之時被扈從、而去月十五日、雖出京給、爲參仙洞御鞠被逗留云云、 五日乙亥、相州依召被參御所、洛中事被尋仰之、相州被申云、先去月八日、梅宮祭之時、御鞠有拜見志之由、内々申之間、臨幸件宮、右大將、〈(源通光)半蔀車具隨身上臈〉被刷顯官之威儀、是皆下官見物之故也云云、同十四日、初參御鞠庭、著布衣、〈顕文沙狩衣、白指貫、〉伴愚息二郎時村、〈二藍布狩衣、白狩袴、〉公卿候簀子、上皇〈○後鳥羽〉上御簾叡覽之、同十五日十六日以後連々參入當遘頗得其貴之由、叡感及數度、院中出仕、不知案内之旨、示合之間、尾張中將淸親、〈坊門内府甥〉毎事扶持、生涯爭忘其芳志哉云云、

〔古今著聞集〕

〈十一/蹴鞠〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1078 四條院御位の時、仁治の比、仁壽殿の東西の御壺に、賀茂神主久繼に仰て、切立をせられて、常に御鞠有けるに、誠に引つくろはれたる日侍りけるに、左大臣右大臣參り給ひたりけり、左大臣懸りの下へすゝみよりて、跪て指貫のそばをはさませたまひけり、右大臣は番長賴種を便宜の所へめして、下袴を御指貫にあはせて切れて、括をめげさせ給けり、いつれも興ある事に時の人申けり、

〔葉黃記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1079 寬元五年〈○寶治元年〉四月二日乙酉、參院、攝政〈○藤原兼經〉參給、左府〈○藤原兼平〉又被參、可有蹴鞠云々、左府於北對脱下袴上括、〈或人云、如此之時著生下袴卽上紜云々、〉被接之、攝政爲見物祗候、素喰事太無益云々、予〈○藤原定嗣〉退出、 十二日乙未、後聞今日於院有御鞠、左府〈○藤原兼干〉内府〈○藤原實基〉以下列之、三百揚云、々、

〔辨内侍日記〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1079 廿日〈○建長元年三月〉は、りむじのまつりの御馬御覽なり、〈○中略〉はなざかりことにおもしうかりしに、ためうぢの中將奉行にて御まりあり、花山院大納言、〈○定推〉冷泉大納言〈○公相〉萬里小路大納言〈○公基〉左衞門督、〈○藤原實藤〉右衞門督、〈○源通成〉すけひら、きむたゞ、ためうち、ためのり、たかゆき、日くれか、るほど、ことにおもしケく侍しかば辨内侍、
花のうへに耄ばしとまるとみゆれどじこづたふ枝に散櫻かな
少將内侍
思ひあまり心にかゝる夕くれの花の名殘も有とこそきけ、かずもあがりて木ずゑのあなたへまはるほど、左衞門督のあしもはやくみえ侍しを、兵衞督どの〈○源有資〉まりはいしいものかな、あれほど左衞門督をはちすることよとありしを、大納言我もさみつるを、いみじくもめいくを聞えさする物かな、めのとにてあるに、この返ちごとあらばやと侍りしかば、辨内侍、
散はなをあまりや風の吹つらん春のこ、ろはのどかなれども

〔辨内侍日記〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1079 三月〈○建長二年〉廿九日、御まりあり、冷泉大納言、公相萬里小路大納言、〈公基〉權大納言〈實雄○藤原〉左衞門督、〈實藤○藤原〉右衞門督、〈逎成○源〉源宰相、〈有資〉頭中將、〈爲氏〉爲敎、資平、公忠、時經、はなはちりすぎ、こずゑなかくおもしろきに、人々のよういことがら、とりみ丶にぞみえし、くれかゝるほど、院〈○後嵯峨〉の御所より御隨身賴峯御使にて、御葉松のえだにぞ、御鞠はつけられたる、頭中將とりてまいらす、しろき薄樣むすびつけられたりあけて御覽せらるれば、
吹かせもおさまりにける君が代の千とせの數は今日ぞかぞふる 御返し、辨内侍、
かぎりなきちよのあまりのありかずはけふかぞふとも盡じとそ思

〔增鏡〕

〈十/老の波〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1080 やよひのすゑつかた、〈○弘安二年〉持明院殿の花ざかりに、新院〈○鰌山〉わたり終ふ、鞠のかゝり御らむせんとなりければ、御前の花は、稍も庭もさかりなるに、よそのさくらをさへめして、ちらしうへられけり、いとふかうつもりたる花のしら雪あとつけがたうみゆ、上達部殿上人いとおほくまいりあつまり、御隨身北面の下臈などいみじうきらめきてさぶらひあへり、〈○中略〉春宮〈ふしみ殿〉おはしまして、かゝりの下にみなたちいでたまふ兩院〈○後深草、龜山、〉春宮たゝせ給ふ、〈○中略〉くれかかるほど、風すこしうちふきて、花もみだりがはしくちりまがふに、御鞠數おほくあがる、人々のこ、ちいとえんなり、

〔貞治二年御鞠記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1080 貞治二のとしさ月中の十日、〈○中略〉さりぬべき家々の鞠足ども、頭中將爲遠朝臣承て催さる、御點の人數は、二條前關白、〈良基公〉關白、〈道嗣公〉右大臣〈通相公〉内大臣〈寅夏公〉按察大納言、〈實縫卿〉右大將〈實俊卿〉前權大納言、〈忠季卿〉園前中納言、〈基隆卿〉藤中納言、〈時光卿〉新藤中納言〈恵光卿〉二條三位、〈爲忠卿〉難波三位、〈宗淸卿〉平三位、〈行時卿〉殿上人には爲遠朝臣、信兼朝臣、雅多朝臣、宗仲朝臣、基淸朝臣、雅家朝臣、宗音朝臣、爲有、藤原懷國、此外加茂之輩は、員卒、敏久、音平、能隆、修久、音久、商久、重敏、員久、下の宮の祓泰などもめしに應ずるとそ聞えし、此内不參の輩多し、きのふ十日と沙汰有りしに、雨の餘波、庭の露拂がたきによりて、今日十一、日なるべし、まつ辰の時に、爲遠朝臣參りて、御裝束拵、〈○中略〉未の時に、人々やうくまいりあつまる、大殿〈○藤原頁基〉は夜べより直廬に候せらる、殿まいらせ給ぬれば、事よくなりぬとて、きぬかづきなど竕どうーしくひしめく、門の内陣のうちより庭上まで雜人たちこみてところなし、こと具しぬれば、まつ簾中に出御〈○後光巌〉あり、御韈ば、かりをめさる、賀茂の輩參て、渡殿の座につく、鞠足の公卿殿上人次第に參著す、まつ藏人 懷國露拂の鞠をもて庭中にをく、やがて露はらひの人數めしたてらる、基淸朝臣、懷國、敏久、章卒、能隆、商久、重敏など次第にたつ、いく程なぐて露拂とゞまる、殿直盧にて沓韈はきて、庭上を經て座につかる、藏人懷國露拂のまりをとうて玄りぞく、此間藏人また枝に二付たるまり〈白まり上ふすべ鞠下、〉をもちて、北の御所の木の下北面の立蔀によせたつ、其後出御あり、大殿南殿の方よりす、みて、東西の南の第四間の御簾をか、げらる、出御あり、御直衣薄色の御指貫、〈文くわにあられ〉常にはひの御大口に、くゝりをさしてめさる、にや、小口の御袴などいふたぐひあれども、このたびは建久已下たびー例によて、御さしぬきをめさる、おほかた主上御指貫をめさるゝ事は、五節の帳臺試の時、おほやけ殿上人にまぎれむが爲、めさる、事あり、これになぞらへて、後鳥羽院より沙汰ありて、御まりにはめされ侍なり、この度の御裝束の御文色などの事、大殿などに申だんせらるることにや、出御の後ゑきの座につかせ給て、御氣色によりて各庭上の座につかる、其後前の殿にたつべきよし頻に仰らる、今日は見證の座に候べきよしをかたく申さる、たびノ丶の仰につきて、座をたちて、さきの庭をへて、西の立蔀の内に立入られて、沓韈をはき、指貫をなをさる、嘉元に光明照院の關白、〈○藤原兼基〉俄に仰を承て、立入て沓韈をはかれける例に侍とかや、奉行頭中將して御下ぐつを下さる、有文の紫革〈はしをぬふ、ふせくみあり、〉これも営座別勅によりて立侍とき、代々御韈を給る蹤なるべし、足ゑたゝめてのち、本路をへて座につかる、この間蒭遠朝臣、先の御まり〈ふすべまり〉一をときて、すゝみて懸の内にをく、家々の作法あることなれば、こまかにもゑるさず、又爲遠朝臣めしによりて御具足を持てまいる、〈藏人、御具足在もちてあひゑいがひ、鶯遠朝臣がまへになく、〉御あしをゑた、む、なべては、御沓の役はてゝ後こそ御鞠をばとき侍に、このたびの樣いとめづらしき、にや、家の人なれば、さだめておもふ所侍らんか、次に上八人、か、りの下に進たつ、まつ御立あり、〈ひつじさるの鷄冠木の左〉次に大殿めしに毟たがひてす、みける、〈たつみの柳の左〉次に殿すゝみた、る、〈うしとらの櫻の左〉次に基隆卿立、〈いぬゐの〉 〈松の左〉次に爲忠卿立、〈いぬゐの松の右〉次に爲遠朝臣立、〈たつみの柳の右〉次に宗仲朝臣立、〈ひつじさるの鷄冠木の右〉次に雅家朝臣立、〈うしとらの櫻の右〉八人立をはりて、御氣色によりて、殿庭中にすゝみて、鞠をとりて上鞠の役をつとめらる、一足なり、色々の説有事なれば、こまかにしるさず、其後園中納言まりをとりてあぐ、いくほどなくて殿座に歸らる、大殿又一兩足にて座にかへられぬれば、時光忠光の卿をめしたてらる、ゑばしありて御所かへり入らせ給、又殿めしたてらる、賀茂の輩も次第にまじはりまいる、御鞠かずありていとおもゑうし、今日員申人のなきぞいと心え皰事に侍る、されど其人なければちからなし、今日人々のあしもとすぐれてみゅ、右衞門督櫻をよきてといひける面かげ、夏の榾にもうかむ心ちして、名殘戀しきなどながめけむ人もゐりけんかし、其後又御所御立たびた、びにをよぶ、大殿は御氣色あれども、そののちはたゝれず、思ふところ有べし、内のうへの御めい足人にすぐれてみえさせ給ふ、〈○中略〉さても禁中晴の御鞠は、中比たびーの事に侍れど、今口の儀式まれな、る事に侍とそ、〈○中略〉延喜天曆のかしこき御代には、京中蹴鞠のものをめして、淸凉殿の東庭にで、つねに御覽侍るよし、御記にもみえ侍り、

〔建内記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1082 文安四年二月廿二日甲寅、今日有御鞠、内々御小袖御服御大口〈被閉上歟〉令出御云々、

〔享德二年晴之御鞠記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1082 御鞠は彌生の玄もの七日のこと也けり、〈○中略〉ひつじくだるほどに、殿をはじめとしで、まいりつどひ給ふ、〈○中略〉式部卿のみこ〈○貞常親王〉今日の御まりにまいらせ給、まつ北の方より出させたまふて、座につき給へり、〈○中略〉まり足の人々次第にすゝみつき給、前の殿、内のおとゞまでは、東のよこじきの座につき給へり、大納言殿は東上の座につかせ給、〈○中略〉つぎくの公卿殿上人までごと声丶くつきをはりぬれば、藏人の左近のせう橘のゆきかず、鞠を庭にをきてゑりぞく、先かものともがら、かゝりのもとにたちて、露はらひの事をつとむ、時をうつさずしてゑりぞけば、殿をはじめて見證の座にす、みつき給、藏人左近のぞう源政仲、又枝につけたる まりを持てまいりて、南のかたのかべによせたつ、松の枝にゑろきとふすべがはとの鞠二をつけたり、次に殿座をたゝせ給て、ぐつを地にぬぎをきて、いたじきのうへにのぼり給て、南のかたよりみすをか、げ給へば、主上〈○後花園〉すなはち出させ給て、御座につかせ給、〈○中略〉藏人左少辨經茂、御さうかい御ゑたぐつを柳筥にいれて持參す、あすか井の中納言雅親卿、進よりて御前の砌にひざまづきて、御あしをとゝのへ奉る、雅康朝臣枝のまりをとりて、ひつじさるのかゝりのもとにす、みて、ふすべがはのまりを解て庭にをきて、白きをば枝につけながら、もとの所によせをきてゑりぞく、次に主上御あふぎはながみを、御座のうしろにをかせ給て、艮の木の南にたゝせおはします、此間人々又座をくだりてそんきよす、次に式部卿宮、乾の木の東にたち給、前の殿はうしとらの木のもと、西のかたに立給、内のおとゞは坤の木の東、大納言殿はたつみの木のにし、帥大納言いぬゐの木の南、日野大納言たつみの木の北にたつ、次に飛鳥井中納言、主上の御むかひつめにびつじさるの木の北にすゝみた丶る、〈○中略〉まさちか卿あげまりのことをつとむ、そのさはうありて、一足にてこれをおとす、そののち日野大納言まりをあげて、帥卿にゆづらる、次第にこれをけ給ふ、ゑばらくありて上八人立かはりて、德大寺大納言以下、のこりの人々次第に又たちくは、る、主上も中ほどに御座にかへらせ給ひ、日くれがたにをよびて又た、せ給、このたびはたつみの木の北のかたに立給へり、式部卿宮大納言殿なども又たち給、帥卿は日比足の所勞有けるに、ぢもくの執筆の膝行などに、いよーわづらはしくて、今日の御まりには、ふちやうなりつれど、かいこうの事なればとで、をさへてまいり給へりとそ聞えし、奉行の職事は經茂なり、御まりつねよりもをそくはじめられ侍て、たびー人々立かはり、木にも二たびまでとまり侍るを、六位藏人さほにておとしなどせしあひだ、をのつから時もうつり侍にや、ほどなく西の山のはちかくかたぶく、〈○下略〉

〔親長卿記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1084 文明四年正月廿日、申剋參内、可有御内鞠〈昨日右兵衞督奉書有催〉也、〈○中略〉可參御前之由有仰、帥祗候、〈○中略〉仰云、可爲淸涼殿代歟、又於室町殿御對面所〈御小袖間番衆営時祗候〉可有歟如何、淸凉殿代〈富時寢殿〉可然、於他所者聊可有儀歟、可當別殿行幸之髄歟、其上番衆等武家之輩常佳祗候在所也、可有事々敷歟、仰云、誠事々數被思食也、〈○中略〉暫出御、於室町殿御對面所〈九間也、可爲淸凉殿代之處、頻右兵衞督申沙汰也、〉有御内鞠、〈南方一間懸御簾、敷御座於内、〉〈爲北面如何〉

〔御湯殿の上の日記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1084 慶長九年二月八日、八でう殿、ゑやうご院殿、二でう殿、一でう殿、九でう殿、たかつかさ殿、とのゝ中なごん殿、たかつかさ中玄やう殿、このゑ殿、なしまいらせて、御あそびどもあり、おとこたち、ひろはし大なごん、あすか井をやこ三人、やぶ、ゐのくま、さまのかみ、中院う大辨、う中辨、中のみかど、あの、みなせさゑもんのすけ、まてのこうぢ玄ゞう、かんうじ、きよくら人、さいしゆ、けんくら人めす、ひるく御參る、〈○中略〉御あそび御まり、御五、御やうきう、いろーの御なぐさみあり、十七日、御まりあり、八でう殿、ゑやうご院殿なるあすかいをやこ三人、やぶ、ゐのくま、あの、御まりはてゝく御あり、 十九日、御まり有、御人じゆう、八でう殿、大がく寺殿、ゑやうご院殿、あすかい、なんば、あすかいせうゑやう、やぶ、さまのかみ、あのなり、はてゝく御參る、 廿一日、御まり有、御人じゆう、八でう殿、大がく寺殿、ゑやうごゐんどの、あすかい、やぶ、ゐのくま、あの、あすか井せうゑやう、はてゝく御參る、 廿二日、御たうさはてゝ、御まりあり、御人じゆう、八でう殿、このへ殿、大がく寺殿、主やうご院殿、めうほう院殿、やぶ、あの、あすかいせうゑやう、ゐのくまなり、 三月七日、御まりあり、八でう殿、正ご院殿、あすか井おやこ、なんば、ゑこう有、 八日、けふも御まり有、 九日、けふも御まり有、 十一日、けふも御まり有、 十九日、御まり有、 四月四日、御まりあり、御人じゆう、八でう殿、ゑやうご院殿、あすかいおやこ、なんば、さまのかみなり、はて、く御あり、十九日、御まうあり、御人じゆう、八でう殿、あすか井おやこ、あの、さまのかみなり、あすか弁よりみいろ御た る參る、

〔慶長日件録〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1085 慶長九年七月八日、一條殿、八條殿、聖護院宮、大覺寺宮御參内、有御鞠百未明被始之、主上同被遊、飛鳥井宰相、同侍從、難波侍從、阿野少將、四辻少將等御人數也、今度御黑戸東、御文庫南、被構御懸敷板敷鞠垣悉連網也、此比主上切々御鞠被遊之故被構也、日沒之比各退出、今日御鞠爲見物衆、廣橋大納言、中院入遘、伯二位、鷲尾宰相、勸修寺新中納言被參、甘呂寺、予、祭主兩三人、爲御配膳參、 十一日、入夜庚申二參内、酉刻有御鞠云々、飛鳥井父子、難波侍從等、則庚申ニ被召加蘊而御人數、八條宮、妙法院宮、阿野少將、小川坊城、猪熊少將、水無瀨中將、白川侍従、左衞門佐、予等也、曉天有鬮取、予鬮札認之、予太刀ト圓座、拜領無之衆一兩人有之、乍次爲兼勝卿代蔘宿番、

〔季連宿禰記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1085 元祿十一年十月二日癸卯、昨日仙洞〈○靈元〉御幸内裏有御蹴鞠之興云々、〈御鞠壗造俸之後初有此事云云〉參仕人々可追尋記、

〔長春隨筆〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1085 元文五年五月五日、禁裏御掛り筵を敷せられて冉御鞠被爲遊、御詰の御方閑院彈正尹直仁親王、京極式部卿家仁親王、飛鳥井中納言雅香、廣橋中納言兼胤、難波中納言宗建、五辻宮内卿廣仲、芝山三位重豐、東久世中將迺積、五辻右衞佐盛仲、鞠役園池中將基望、飛鳥井中將雅重、難波中將宗城也、申上刻ゟ酉の中刻終る、

〔榮花物語〕

〈三十一/殿上花目〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1085 一品宮〈○後一絛皇女馨子内親王〉はあけくれめがれずかしづき奉らせ給て、〈○中略〉殿上人朝夕にまいりまかで、まりけに、小弓いなど、おかしくあそびあへり、

〔伏見院御記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1085 正應三年正月十日甲寅、今日始有蹴鞠興伊定朝臣奉行之、大柳細懸之壁等、兼日仰賀茂社蓚理如例、人數皇后宮權大夫、右兵衞督、新宰相、左兵衞督、爲雄朝臣、爲實朝臣、爲道朝臣、自餘露拂衆如先々、高二位數之、關白、東宮大夫候見證、

〔看聞日記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1085 應永廿五年十月二日、有蹴鞠、行豐朝臣張行申、予〈○後崇光院〉不堪、其上七八ケ年不蹴之間、彌 比興也、然而加人數、三位以下蹴之、
永享四年九月一日、有蹴鞠、予、前宰相、長資朝臣、隆富朝臣、重賢、經秀、承泉等蹴、遙久不蹴之間、彌不揚、世間蹴鞠繁昌云々、室町殿常被遊、仍諸人稽古云々、

〔親長卿記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1086 明應五年閏二月廿一日己亥、今日親王御方御鞠張行、〈○中略〉雖爲禁庭親王御方對屋御同宿、其上人々、裝束、亂〈○應仁〉後不叶之間、號親王御張行各葛袴也、今日御人數、
親王御方〈萌木御水干、御葛袴、〉〈令着咽杏給〉 予〈黑梅モチノ道服、葛袴、著鴨沓、〉 高倉中納言入道〈衣薄墨道服、葛袴著鴨沓、〉 飛鳥井中納言入道〈香唐紗道服、葛袴黑、著鴨沓、〉 勸修寺中納言〈唐紗直垂上葛袴〉 園宰相〈紫紗上葛脊〉 宰相入道〈衣薄墨道服、葛袴、〉 以量朝臣〈紗上葛袴〉
雅俊朝臣〈布染上葛袴〉 賢房〈槧分紗上葛袴〉 季綱〈白紗上葛袴〉 藤原資直〈白紗上葛袴〉
賀茂輩 棟久三位〈サヨミノ上葛袴〉 諸平縣主〈染分越後布上葛袴〉

〔水左記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1086 承曆四年三月十三日丙子、今日爲令蹴鞠事ハ招堪能之輩、未刻許大將不期光臨、被向尊重寺之次云々、於西中門櫻樹苫兩三度有蹴鞠之興良久被出了、是爲被向尊重寺云々、予〈○源俊房〉爲貍應逍所馳向也、

〔續世繼〕

〈四/薄花櫻〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1086 御まり御らんせさせ給けるに、〈○藤原師責〉もりながあはぢのかみといひしを、ことのほかにほめさせ給けるほどに、玄なのゝかみゆきつなも、心にはをとらず思て、うらやましくねたくおもひけるにべ御あしすまさせ給けるに、つみたてまつるやうに、たびくしければ、いかにかくはとおほせられければ、まりもみしらぬはぎのといひつゝ、あらひまいらするを、ゆきつなもよしとそおほせられける、御かへりごとに、こそくとなでたてまつりける、もとのさるがうなれども、ものこちなき主うにば、さもえまさしかしとおぼえて、またもりながのぬし、花ざかりに、まりもたせて、かゝうへまかりけるに、ゆきつなさそひにやりだりければ、御ものいみにこもりて、人もなければ、けふはえまいらじと、返事しけるをきゝつけさせ給て、たゞいけとて、うすい ろのさしぬきのはりたる、かうのそめぬのなど、おさめ殿よりとりいださせて、にはかにぬはせて、御まり、花のえだにつけて、みまやの御馬に、うつしをきて、いだしたて、つかはしければげふこそ、このつゐでに、女にみえめとおもひて、日ごろはあはぬ女の、家のさじきに馬うちよせて、かたらふほどに、御馬にはかにはねおとして、まへのほりけにうちいれてけり、かしらくだりのこる所なく、つちかたにあみたりけるを、女いゑにいれて、あらひあげて、いとおしきにこそあひにけれ、御馬はしりてみまやにたちにけり、あやしくきこしめしけるほどに、ゐかひをひつきて、かくと申ければ、いかにあさましくおかしくおぼしめしけん、さてゑばしは、えさしいでもせざりけるとそきこえ侍りし、

〔玉海〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1087 安元二年五月十七日辛酉、此日刑部卿賴輔朝臣已下當世之鞠足七八人計會合、有蹴鞠之興、其數百事四ケ度、人々入興、事畢分散、

〔平戸記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1087 寬元三年十二月一日、今日殿下〈○藤原良實〉有蹴鞠之會、歲末忿々中太不音心茸、

〔建内記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1087 嘉吉三年三月廿日丙子、頭左中弁明豐朝臣、新少納言周茂等入來、蹴鞠張行、小冠靑侍等其衆更不庶幾事太無益事也、次勸盃杓言談、

〔親元日記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1087 寬正六年四月廿八日乙巳、今出河殿御鞠、〈公家直垂不被重大口、賀茂衆四人直垂大口武家一色兵部少輔殿貴殿備州上下著、〉
今出河殿はあそばされず、被御覽ばかり也、御鞠終御太刀〈金〉各御進上、貴殿御供蜷助三中西親元

〔親長卿記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1087 文明十二年七月八日、自右大將〈實淳卿〉許有音賃鞠張行云々、申剋許罷出、飛鳥井中納言〈康雅〉參會、示予云、今日雲分鞠歟數鞠歟可張行如何、予云、雲分鞠事者、初心之輩未沙汰付歟、數鞠可然歟、予申分可然云々、〈○中略〉今日予揖膝了、九月十二日、今目右大將亭巡會鞠也、飛鳥井中納言頭役也、命予云、善法寺座此間疊也、〈殿上人別座〉爲圓座者可然歟如何、爲疊者松下〈棟久縣主〉可爲圓座歟、予云、總而圓座可然、此間只一人毎度著座不苛然、但今日已儲其座了、今更可撤之條不可然、棟久又圓座定可存 難治之由、已後可被改歟之由命之、 十三年八月廿六日、今日於内府亭有鞠、可爲巡鞠云々、
長享二年十月廿日、於因幡堂執行懸有鞠、二樂院招引之間罷向了、予、二藥院、江南院、棟久縣主等其外武衆等也、有數鞠、棟久取數百二十之後止之、

〔親俊日記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1088 天文七年二月十八日壬戌、飛鳥井殿御鞠アリ、見物、 五月七日己卯、於飛鳥井殿右京大夫殿御鞠アリ、見物之、 八日庚辰、飛鳥井殿御鞠アリ、親俊仕之、 十一年閏三月十九日己巳、飛鳥井殿御鞠アリ、武田殿吉田罷上興行、

〔言繼卿記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1088 天文十三年十一月廿二日丁巳、伏見殿へ參、御鞠有之、一足仕了、明日必々可參之由御兩御所各被仰王 廿三日戊午、九時分、伏見殿へ參、八時分、細川右京大夫參、御太刀にて御禮申之、十合十荷進之、御盃被下了、次用意、予萬里小路奏者所にて用意了、予共大澤長門守、澤路彦九郎、同虎千代、井上二郎五郎、早瀨彦二郎、小者兩人等也、予直垂、袷〈朽葉〉兩種日野ニ借用、鞠之時栗梅之上布也、紋〈鞠之腰ハサミ〉著用、伏見殿〈紺紋紗水干〉葛袴、同式部卿宮、〈浅黃水干〉勸修寺門跡、〈朽葉之御ダウブク〉右府、〈淺黃絞紗之カミ也〉飛鳥井前大納言、〈丸之上也、カチン布也、〉勸修寺大納言、〈萌黃之文紗之上〉予、前ニ注、右衞門督、〈朽葉之上セイカウ〉飛鳥井中將、〈亦文紗之上〉物加波藏人懷世、〈直垂之上布〉細川右京大夫、〈カチン之上布葛袴ニ紛葛〉不著鳥帽子不可然儀也如何、淨土寺廳奧坊〈直綴黑〉等也、座之樣立樣如此、上鞠右衞門督、鞠懷世持テ出置之、暮過迄有之、 十五年正月廿六日甲申、中山被來、令同道甘露寺へ罷、同令同道飛鳥井へ罷向、〈勢州之〉朝倉兵部大輔計也、朝翁有之、其後音曲有之、于時サタウ餅にて一盞有之、其後ハダシ足にて鞠有之、上鞠只三度也、人數甘露寺、亭主、予、中山中將、朝倉兵部大輔計也、

〔梵舜日記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1088 慶長十一年五月廿四日壬辰豐國於二位殿萇岡越中忠興入來、午刻來、晩食振廻鞠興行也、天氣依雨座敷鞠也、晩之透ニ一庭アリ、飛鳥井宰相子息少將同難波殿龍雲軒閑齋來也、二位へ白烏一ツ持也、

〔吾妻鏡〕

〈十七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1089 正治三年〈○建仁元年〉七月六日甲寅、殘暑如燒、待晩凉於御所被始百日御麹是左金吾〈○源賴家〉多年雖分好當道給い未令知其奧旨給、北面等中、此藝達者一人、可被下之由、令申請仙洞處、可被差下便宜仁之由、勅許之間、於携之輩累調練功、爲交王足也、申刻人々參進、左金吾令立給、北條五郎時連主、少將法眼觀淸、富部五郎、大輔房源性、比企彌四郎、肥多八郎宗直等候之、金持右衞門尉屮計、江馬四郎殿、同太郎主、民部丞行光已下、候見證、 九月七日甲寅、紀内所行景鞠足、依上皇〈○後鳥羽〉仰卞著、蓋是左金吾依被申請也、今日到著于大膳大夫廣元朝臣亭、下向間、彼朝臣所令沙汰驛路雜事笋也、
九日丙辰、廣元朝臣始相具行景參御所、行景〈花田狩衣、襖袴、〉先候侍所、次依召廻石壺、參廂御所簀子、頃之左金吾出御、〈烏帽子直衣〉其後有勸盃之儀、給御盃於行景、此間被仰云、爲蹴鞠師範召請之處、適迎重陽日始送獨面故猶前庭籬菊、浮盃永可契寓年者、行景跪盃、金吾自取銀劒令與之給、 十一日戊午、行景參著之後、始有御麹左金吾令立給、北條五郎時連、紀内行景富部五郎、比企彌四郎、肥多八郎宗直、〈巳上布衣〉大輔房源性、加賀房義印〈已上等身衣〉參候、十五日壬戌、早旦於御所召行景有御鞠、北條五郎巳下五六輩候之、但不及彼揚數、今日被邃行鶴岳放生會、式月依八足門廻廊顚倒所延引也、〈○中略〉 廿日丁卯、御所御鞠也、凡此間抛政務連日被專此藝、人皆赴當道詑條五郎巳下參集、但各不著布衣、今日員七百所被揚之也、今夜及深更如月星之物自天降、人以莫不恠之、 廿二日己巳、又御鞠會、人數同前、今日人々多以候見妻其中江馬太郎殿泰時密々被談子中野五郎能成云、蹴鞠者幽玄藝也、被資翫之條所庶幾也、但去八月大風、鶴岳宮門顚倒、國土愁飢饉、此時態以自京郵被召下放遊輩而去廿日變異、非常途之儀、最被驚思食被尋仰司天等、非異變者可及如此御沙汰歟、且幕下〈○源賴朝〉御在世、建久年中百筒日之問、毎日可有匐濱出之由、固被定之處、天變出見之由、資充朝臣勘申之間、依御謹愼止其儀、而被始世上無爲御所薦、今次第如何、貴客者昵近之仁也、以事次盍諷諫申哉云云、能成錐有廿心氣不能登言云云、 十月一日戊寅、御所御鞠、北條五郎、紀内、富部五郎、肥田八郎、比企彌四郎、源性、義 印等候之、數三百六十也、廿一日戊戌、御所御鞠、北條五郎、紀内、富部五郎、比企彌四郎、肥田八郎源性、義印等候其庭、相模守重賴、若宮三位房等候見證藪九百五十也、 十一月二日己酉、御肝御鞠、北條五郎已下人數同前、數三百六十、 十二月十八日甲午、御所御鞠人數同前、三百二十也、
建仁二年正月十二日戊午、又有御鞠天數同前、而隼人佐康淸入道宅、去年始殖懸蠻太有其興、不被御覽者、頗無念之由令申、仍率此人數則渡御彼庭、員五百、 廿九日乙亥、於掃部入道龜谷宅一可有御鞠之由、乗被定之間、殊被結構、金吾〈○源賴家〉欲有出御之處、泥御臺所、以行光被申云、故仁田入道上西者、源氏遺老武家要須也、而去十四日卒去、未及廿旦御興遊、定貽人之謗歟、不可然云云、金吾於蹴鞠著、不論機嫌之由、雖令申給、終以令抑貿給云云、 二月廿七日壬寅、鶴岳別當阿闍梨、招請鞠足等饗應、是依左金吾内々仰如此、被賞翫行景之餘也、及晩可見鞠之由、坊主所望之間、各進在懸下、數三百之後退散、 三月八日癸丑、御所御鞠、人數如例此會連日儀也、其後入御于比企判官能員之宅、庭樹花盛之間、兼啓案内之故也、 十四日己未、有御鞠天數同前、員三百六十、二百五十、 十五日庚申、今日御鞠及終日、員百廿、三百廿、百廿、二百四十、二百五十也、 四月十三日丁亥、左金吾渡御掃部頭親能入道龜谷家、於彼持佛堂庭樹下有御麹金吾侖立給、伯耆少將、北條五郎、紀内行景、比企彌四郎、富部五郎、肥田八郎、源性、義印等候之、南風頻扇不員上、 廿七日辛丑、有御鞠人數如例、秉燭之程、左金吾召寄小鞠令揚數百廿給、行景傍奉見得天骨給之由、頻以感申之、 六月廿五日戊戌、尼御臺所、入御左金吾御所、是御鞠曾、雖爲連日事、依未覽行景已下上足巫、此會適可爲千載一遇之間、上下入興、而夕雨降、遺恨之處、帥屬晴、然而樹下滂泥、尤爲其煩爰壹岐判官知康、解奩垂帷等、取此興水蒔逸興也、人感之、申剋被始御麹左金吾、伯耆少將、北條五郎、六位進、紀内、細野兵衞尉、稻木五郎、富部五郎、比企彌四郎、大輔房源性、加賀房義印、各相替立、員三百六十也、臨昏黑事訖、於東北兵御所有勸盃及數巡召舞女微妙、有舞典 九月十五日丙辰、有御鞠、員二百卅、百六十之後、秉燭程、將軍家又出御于石御 壺、屏中門内沼行景一以小勤令爭勝負給、二三足之後給行景、行景又獻上及度々芭員揚百五ナ之處、壹岐判官知康、打落件鞠之間、將軍家入御、行景臨退出之期、知康云、若令落者公私互可爲耻辱、仍知康打落之云云、行景卽參御臺所、知康所爲、非指尾籠所存候之由、以女房申之間、頻御入興云云、

〔吾妻鏡〕

〈四十二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1091 建長四年四月廿二日乙亥、難波刑部卿宗敎參入、去比自京都參著、依苛有御鞠倉也、令談人數以下事給、御問答及三箇度云云、 廿四日丁丑、御鞠也、將軍家〈○宗尊親王〉出御、土御門宰相中將上簾、其後人々集立、光泰、進出懸中央、突右膝、置御鞠、
難波刑部卿〈上鞠一足〉 土御門宰相中將〈布衣〉 二條少將兼敎朝臣〈布衣〉 相州〈同〉錦革韈 右馬權頭〈同〉 武藏守〈同〉 出初前司行義 紀瀧口行宣 此外、結城上野三郎兵衞尉廣綱、卞野法橋仁俊小山出羽前司長村〈布衣〉 城九郎泰盛 工藤三郎左衞門尉光泰、數三百、三村左鵆門尉計申之、尾張前司、佐渡前司、秋田城介義景、前太宰少貳爲佐、〈己上白直垂〉見證、及晩事訖、

〔吾妻鏡〕

〈四十八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1091 正嘉二年七月四日辛亥、今日將軍家、〈○宗尊親王〉令始百日御鞠給、人數、
土御門中納言〈頴方卿〉 花山院宰相中將〈長雅卿〉 刑部卿、〈冢敎卿上鞠〉 前兵衞佐忠時朝臣 刑部少輔激時 右馬助淸時 上野五郎兵衞尉廣綱 同十郎朝村 賢寂申計云云 十一月十九日甲子、將軍家、百日蹴鞠御會被結璽花山院宰相中將、相州〈布衣〉武州〈同〉刑部少輔敎時、越前守時弘、右馬助淸時達江次郎時通已下數輩參候、昨可被途此儀之處、一昨日御風氣之間、舞餘愼莚引也、

〔看聞日記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1091 永享四年四月廿日、抑今日室町殿蹴鞠御會也、人數三條大納言、久保卿飛鳥井中納言、〈雅世卿〉中由宰相中將〈定親〉中御門宰相、〈宗繼〉實雅朝臣、雅永朝臣、雅豐、賀茂人二人、〈名字可尋〉各狩衣云々、主人不立御見物云々、

〔總見記〕

〈十四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1091 道路修補事附御上洛御仕置井今川氏眞蹴鞠事
扨又彼氏眞ハ、隱ナキ鞠ノ上手ナレバ、御所望有テ御覽ぜラルベシトテ、同月〈○天正三年三月〉廿日、信長 公相國寺へ出御成テ鞠ヲケサセテ御見物アリ、其遊庭ノ面々、先氏眞ヲ始トシ、其外三條大納言公光卿、同宰相公明、飛鳥井大納言雅敎卿、同中將雅敦、廣橋大納言兼勝卿四辻大納言公遠卿、烏九中納言光康卿庭田新中納言重保卿、五辻宰相爲狆、藤宰相永孝等ナリ、

〔白石秘書〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1092 一ある人の語りしは、鞠は九損一德とて、いらざる事とは、いひつたへたれども、わかき時すこしは心がけたるもよろしかるべしと、いにしへ秀吉公よち近江國六角殿へ御祝言の時仰られけるは、六角殿は古風の家なれば、儀式正しかるべしとて、祝儀をわきまへて、武士道の審あり、器量よき人を三人撰出されて、御供にさぶらはしめける、その一人は古田肥後守殿、二人はたしかに覺えず、祝言の儀式作法首尾相應じて、その次第殘所なし、そののち六角殿家老衆、御供の人々を日々にふるまひ、さま声丶むつかしき事をも仕懸けれども、更に越度もなし、ある日の饗應過てのち、ゑつかなる夕暮に、鞠の興行あるべしとて、上手を撰び、合手となして御慰にあそばされよといふ、度々辭退におよびしかば、さればよ、鞠は不得手也とおもひて、いよいよ所望する事止ざりけり、そ、の時肥後守、かほどに御所望あるに、仕ざるははゞかりなれば、某たち出、仕形計も御目にかけ申べしといひて座を立て、もたせたる狹箱の中より、鞠の裝束を取出し、衣紋引つくろひ、芝つかにあゆみ出たり、もとより鞠は上手也ければ、ひと人丶目を驚しけり、此事聞召れて、諸事に心懸名譽也と、秀吉公威じ玉ふ事なゝめならず、褒美下されしと也、

〔半日閑話〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1092 一蹴鞠上覽記
難波從三位前中納言宗建卿〈五十一〉
延享三年丙寅五月四日、蹴鞠上覽ニ付而、難波前中納言登城、且亦御三家樣、國持大名、及万石以上之面々〈井〉布衣以上之諸役人、熨斗目長袴著用、且法し法眼之醫師登城、但大御所樣、〈○德川吉宗〉大納言樣〈○家治〉附諸役人、醫師共、御黑書院出御、御長袴、御刀、御上段御著座、 尾張中納言殿 水戸宰相殿 紀伊宰相殿 尾張中將殿
右一同御緣頰迄被出席奉多中務大輔披露之、上意有之、御敷居之内、御右之方ニ被著座、蹴鞠見物之御軆、年寄共及御取合被退出、
松平加賀守
右出席、御目見、上意有之、御下段御敷居之内ハ右之方ニ著座、蹴鞠見物被仰付、難有之旨老中共及御取合退去、
井伊掃部頭 松卆肥前守 井伊備中守
右一同ニ出座御目見、蹴鞠見物被仰付難有之旨、中務大輔御取合之上、上意有之退去、
高家雁之間、同嫡子、御奏者番、同嫡子、菊之間椽頰、同嫡子、芙蓉之間御役人、出御之節、御黑書院御勝手ニ而御目見、御白書院渡御御先立中務大輔櫻之間御杉戸際御著座、御褥敷之、
國持大名父子〈共〉 御譜代大名父子〈共〉 外樣大名父子〈共〉
右並居、一同御目見、蹴鞠見物被仰付難有旨、老中共御取合申上、上意有之、上段之御席江御著座、御上直し御褥御刀掛、此節大御所樣、大納言樣出御蹴鞠之場、御白書院庭中ニ構之、御簾は出御巳前ゟ畢置、御座所之面々、御椽迺、其次西之方衝立障子開之、溜詰年寄共隱岐守御側衆伺公櫻之間、國持大名四品已上、高家雁之間詰御奏者番列候、大廊下之内南之方以衝立障孑開之、御譜代大名巳下列居、御座所之東之御椽以衝立障子仕切、其若年寄伺公、帝鑑之間御椽頰ゟ南之方ニ折返し、芙蓉之間御役人諸番頭物頭布衣巳上醫師共伺公、
蹴鞠始、難波前中納言家來棚倉織部鞠付候枝持出、藏田七郎左衞門〈江〉渡す、七郎左衛門請取之坪之内〈江〉入、御前西之方新ニ立置、次ニ難波垣之内江入、御前西之方〈江〉行、枝を取之、西南之松之本ニ進之、於此處廨枝、鞠計取而、懸り中央に持出置、此時七郎左衞門又出席、難波ゟ枝を請取、難波垣之 一外〈江〉出竃七郎騫門垣外〈江〉枝を持ながら出て織部に警其曇墾外詰之識ハ順々坪之内〈江〉入、向々著座、難波中央〈江〉出席候而上鞠勤之、復座、其後鞠有之、所々者揚鞠始之、鞠畢而難波其外之者共垣之外〈江〉出復座候時、御側衆を以雅樂頭召之、御所望被遊候段被仰出、其後高家〈江〉雅樂頭申達、難波出座、重而一仕切鞠有之、畢而入御、入御之節は、御三家御醬顔無之、重而御黑書院出御、御上段御著座、
難波前中納言
右於御次奔領物被仰付旨、中務大鮪申渡之、難波出座御目見、高家披露之、御下段御右之方著座、蹴鞠上覽之御禮、中務大輔言上之王意有之、拜領物之御醴申上之退去、入御巳後は饗應有之、竹之間三汁十一菜、二獻目之時御〈共〉、御白書院御下段ニ而、御三家〈井〉加賀守〈江〉御菓子御吸物御酒出之、國持巳下〈江〉は於席夕御菓子被下之、難波於御白書院御下段時服十頂戴、老中共列座御三家始出仕之面々謁老屮退去、難波家來〈江〉時服二宛被下之、於柳之閭御奏者番申渡頂戴、詰之者共時服二宛、於蘇鑷之間御奏者番申渡頂戴之、

〔硯聽草〕

〈初集二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1094 蹴鞠御覽之式
寬延二年巳三月二日御代替〈○德川吉宗辭職、家重襲職、〉ニ附、各關東〈江〉御下向、近衞左大臣樣勅使、〈博奏〉久我大納言殿、院使柳原大納言殿、〈院博奏〉八條中納言殿、飛鳥井中納言殿、三條西宰相殿、山科少將殿、右御登城於ゴ御白書院御尚顏、上意堀田相模守殿御取合、〈○中略〉
巳三月十一日蹴鞠、公方樣、〈○家重〉大納言樣、〈○家治〉於御白書院御上覽、於御黑書院御對顔、上意有之、於御前堀田相模守殿鞠道御判物御渡御頂戴ニ而、相模守殿御取合、於竹間御饗應之節、上意有之、伯耆守殿、右近將監殿、御出席、於御白書院御拜領左之通、
公方樣ゟ 時服十 大御所樣ゟ 縮緬五卷紅白 大納言樣ゟ 同斷〈○中略〉 三月十二日、飛鳥井殿蹴鞠上覽被遊候、
一御三家樣、宰相樣、中將樣、御登城、〈○中略〉
蹴鞠始
一飛鳥井中納言殿家來安田宮内、鞠附候枝持出、上田文右衞門〈江〉渡、文右衞門請取、垣之内〈江〉入、御前面之方軒二立置還リ、次ニ飛鳥井殿垣之内御入、御前西之方〈江〉被行、枝を取、西南松之本ニ被進、於此所解枝勤取候て、懸串〈江〉被持出置候、此時文右衞門又出席ニ而、飛鳥井殿より枝請取飛鳥井殿垣之外江御出復座文右衞門垣之外江枝持出る、本多左京〈江〉渡、其後飛鳥井殿其外結之者其順ニ垣〈江〉入西之座著、郡太郎鞠を取始之、鞠終而飛鳥井殿結之者共垣之外〈江〉出、復座之時、御側衆を以、御老中召、今一座御所望被遊候段被仰出、高家衆〈江〉御老中御申達、則高家以織田能登守殿被仰渡、飛鳥井殿御休息之所、加賀中將殿御休息所ニ而御休、重而一仕切蹴鞠有之、未上刻相濟、諸大名衆役人衆迄御菓子被下候、
一飛鳥井殿雜掌安田宮内、本多左京、其外近習貳人、其外之結九人之者〈江〉御菓子被下候、
一於竹之間飛鳥井殿御饗應、三汁十菜也、此節上使御老中被遣之、退去、

鞠始

〔吾妻鏡〕

〈十七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1095 建仁二年正月十日丙辰、御鞠始也、左金吾〈御布衣○源賴家〉令立給、北條五郎時連、紀内行景、富部五郎、比企彌四郎、肥田八郎宗直、〈巳上布衣〉源性、義印等候、數百二十、三百十也

〔吾妻鏡〕

〈四十二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1095 建長四年四月十七日庚午、於御所、御鞠始之儀人數、土御門宰相中將〈顧方卿〉右馬助親家 二條中將兼敎朝臣〈上鞠〉 相模守〈○北條時賴〉 右馬權頭政盛朝臣 陸奧掃部助實時 城力郎泰盛 上野十郎朝村 工藤二郎右衞門尉元泰 所右衞門尉行久 瀧口兵衞尉行信 東中務少輔胤重 三村左衞門尉時親申算、以三亘爲數、

〔親元日記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1095 寬正六年四月廿六口癸卯、御鞠始公家〈飛鳥非殿〉〈雄親〉 〈三條宰相中將殿〉〈公躬〉 〈飛鳥井中將殿〉〈推康〉 〈滋野井殿〉〈致固〉 〈左兵衞督殿〉〈永嶝〉 〈此外は大略俵御歡樂御不參云々、〉 賀茂人四人、彌久、最久、宗久、貞久、 武家〈直垂大口〉細川讃岐守、〈成之〉一色兵部少輔殿、〈義遠〉貴殿、〈貞親〉備州、〈貞藤〉以上〈御険 貞相 親元於屏中門外御腰物共被置之〉 一色殿は依御虫塞無御參
帥御太刀〈金〉各御人數御進上之、自東向參御供衆、走衆は屏中門外ニ有祗候拜見之、

〔年中定例記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1096 一廿八日〈○正月〉御鞠始公家衆賀茂輩御鞠以後御人數御太刀進上、

〔親長卿記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1096 文明四年四月九日、室町殿御鞠始也、自去月相觸、近年予不參、又應召如何之、先是詣〈飛鳥井〉右兵衞督〈雅康〉陣所〈人々同道也〉有一盞、次剋限〈酉剋許〉參鞠場、〈西面御庭也〉開扉中門、〈石兵衛督命杉原伊賀守賢盛開之〉先賀茂榮久縣主持參御鞠置庭中退入、次參仕人々、新大納言、〈敎秀〉廣橋大納言、〈綱光〉予、源中納言、〈雅行新參〉滋野井前宰相中將、〈敎國〉藤宰相、〈永繼〉右兵衞督、新藤宰相、〈種光朝臣新參〉棄顯、以量等、武家輩畠山尾張守、同宮内大輔、賀茂輩棟久、榮久、貞久、遠卒、在久等縣主也、公卿小文疊、殿上人圓座也、東上北面賀茂輩副西屏南上東面也、武家輩自座副託屋垣東上南面也、爰前内府下簀子著北座、〈見證座歟〉次人々著了、室町殿自事寄妻戸出御、〈人々動座〉進寄樹下給、次新大納号巨廣亞相、予、源中、滋藤宰、武衞等進立、各蹴鞠之後少少立替了、暫室町殿分歸入給人々猶蹴之、暫又出御令立樹下給、予可立之由武衞命之、立西下南之處、可立御向縮之由命之、頻辭退、重命之間立寄了、次藤宰相、滋野井右兵衞督、棟久、榮久、貞久等也、不立替蹴之、事了進上御太刀、有御對面、初參人二腰進之、

〔日次紀事〕

〈一/正月〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1096 四日蹴鞠初〈飛鳥井家井難波家修之〉

〔百一録〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1096 元祿十年正月四日、飛鳥井難波於家有鞠始之事、

〔鹽尻〕

〈九十三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1096 或人間、年頭の鞠始めには、申の日を用ゆると、何の謂ぞ、日諸肺記に、京師中の御門西洞院なる滋野井の社三所は是鞠神なり、一計案林、二春陽花、三樹葛、形は猿、額金色の文字あり、の上に神名をあらはす、申の日紀氏を以てこれを祭る故に、年始鞠には件の日を用ゆと云々、是を以てゑるべし、

旬鞠

〔明月記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1097 建永二年二月一日丁未、午前參上、未時許出御有笠懸、〈先是南庭叉旬鞠始〉臨昏可有御鞠、 四月一日、午時許參上、申時出御、今日旬御鞠、毎旬堪能緇素自京參、酉時許於南庭御鞠滿千云々、

〔吾妻鏡〕

〈二十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1097 建曆二年三月一日戊申、可有旬御鞠之由、今日依被御出、及鎭酉沙汰、人々不顧藝之堪否、成競望云云、武州爲奉行、被淸撰人數云云、

〔吾妻鏡〕

〈五十一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1097 弘長三年正月十日辛卯、爲和泉前司行方奉行、被定旬御鞠之奉行、皆是所被撰堪能也云云、
正月 四月 七月 十月
上旬 冷泉中將隆茂朝臣 右馬助淸時 出羽前司長村
中旬 越揃前司時廣 中務權少輔重敎 備中守行有
下旬 足利大夫判官家氏 武藏五郎時忠 下野左衞門尉景綱
二月五月八月 十一月
上旬 二條少將雅有朝臣 刑部少輔時基 後藤壹岐前司基政
中旬 彈正少弼業時 越後四郎顯時 佐渡大夫判官基隆
下旬 左近大夫將監時村 三河前司賴氏 周防左衞門尉忠景
三月 六月 九月 十二月
上旬 二條侍從基長 相模三部時輔 佐々木壹岐前司泰綱
冲旬 中務權大輔敎時 秋田城介泰盛 信濃判官時淸
下旬 左近大夫將監公時 木工權頭親家 城四郎左衞門尉時盛

〔武家名目抄〕

〈職名二十一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1097 旬御鞠奉行
按、蹴鞠は鎌倉殿の時より足利殿の世まで、達綿にもてあそばれしかば、毎年正月に御鞠始を行 はるゝ事、恒例の儀式なり、ことに鎌倉殿の時にば旬御鞠とて、正月鞠始ありてより、月々に此事を興行せられ、公家武家堪能之輩其役に從ふ、其中にて、殿上人、北條家の門族、及奉行人の内、業に堪たる人を番ひて、旬、御鞠奉行と定め、堪否を撰び人數を催すより始め、毎時當日の事を奉行せしめられしなりべ室町殿の世にも、御鞠始には、公家武家の輩祗候せしかども、旬鞠といふは聞えず、又其奉行といふも見えざれば、別に定め置る、事はなかりしなるべし、

三時鞠

〔松下十卷抄〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1098 一三時の鞠の事 一日に三度ける鞠なり、それは一日の遊山を專にす、先朝六時より一時仕候、やがでは、て、其聞に御ゑたてあり、又八時分より一時計仕候て、やがてはて丶又其間に種々の御肴もて御酒有べし、又御ゆづけなどもよし、其後はいつものごとく晩景にけらるべし、あしたにはいかにも早々出て、芝 くなどさのみきれいになくともけらるべく、くるしからず、八時分より次第々々に晩景までは、いかにもーきれいにゑたくすべし、いゑやう度々にゑかへ、ひんなどもそ け皰やうにたゾ主うしてけらるべし、一日の遊事なればかいふん色々の義をもふふしてゑかるべし、三時の鞠といふもことなる義なし、唯遊山專らなり勝負などによし、いかほども人數おほくてよし、三番四番にも御けてけべきが可然なり、

〔蹴鞠九十九箇條〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1098 一三時の鞠の事、朝は辰のとき序の鞠也びるは午刻破のまり也、夕は申刻急の鞠也、かうばん置て時を可知也、休間にまた色々のあそび可有、

〔親長卿記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1098 文明十四年六月十七日、此日三時鞠張行、〈近代無此會〉予依此道執心之間所張行也、〈○中略〉早旦人々入來分、左右人數、
左方〈老〉 内大臣、〈賢淳公〉予、飛鳥井中納言入道、〈宋世、俗名雅康、〉藤宰相、永繼享淸法印、棟久縣主、貞久縣主、廣戸、小坂、因幡堂執行等也、
右方〈若〉 〈頭右大辨〉政顯朝臣、〈頭左大辧〉元長朝臣、〈松殿少將〉忠顯朝臣、〈園少將〉基富朝臣、〈飛鳥井少將〉雅俊、永康、諸平縣主、伊勢次郎左衞門、貞賴本郷等 也、
朝鞠 公卿已下、次第立木杢賀茂輩與武家輩自左右二人宛立之、享淸法印遲來、再度之時立之、事畢各休息、羞朝食、 次日中各著座〈各圓座也、自南方出也、〉
老衆方 〈東方〉西上北面〈内府、予、中納言入道、藤宰相、〉享淸怯印、〈傍東方之埓、南上西面著座也、〉〈傍北方埒、〉賀茂輩〈棟久、貞久、〉東上南面、武家輩、〈小坂、廣戸、〉西上南面也、因幡堂執行、其座末也、
若衆方 政顯、元長、忠顯、基富、雅俊、永康等著西座〈南上、東面、出自屏中門、〉賀茂輩、諸卆著座、〈西上南面、傍北埓、〉武家輩〈東上南面、女耶左衛門、本郷等也、〉也、
先次第八人立木本之後、中納言入道立懸外北方口也、八人之外也、一巡之後退入、次次第々々立替如常、事畢休息、有點心、〈○中略〉〈日中鞠〉申剋許、叉各著座如初、先是置露拂鞠〈諸平置之〉永康、棟久、貞久、諸卒等縣主、廣戸、本郷、小坂次郎左衞門等立替、無程止之、取鞠退入、次棟久縣主、取枝鞠立簀子上、〈岬角也〉退入、次雅俊起座、取付鞠之枝、〈本本、右手枝、末在左、〉經本路跪懸北木通、解鞠置枝於左、持鞠置懸中退、取枝退入、渡景益、次、
今日進立事、次第不同也、殿上人與享淸法印、座次相論之故也、留木鞠落、役事仰景釡
硯折紙置數取前、〈老方數元長朝臣役之、若方數棟久縣主役之、〉上鞠數五ケ度分定之、若衆方人々立之、其數三百二十之後〈上鞠五ケ内〉止之、次老衆立之、上鞠二度之内三百七十也止之、凡老衆勝也、雖然若衆今日蹴樣神妙之間、可爲持之由、中納言入道定之遣奐了、次内府中納言入道、予、藤宰相已下人々、立替々々蹴之、中納言入道曲足神妙驚日、凡牛日之儀無比類之興也、事畢退入、見物之人々群集之間、東北等結埓、
延德三年四月廿日、此日有三時鞠會、〈○中略〉午剋許改衣裳、〈三時共攻衣裳、葛袴、直垂上朝鞠之時予筋直垂、書之昧香之片豸替、晩景叉筋梅强染丸組烏帽子懸〉〈色紺〉〈今日始而懸之、〉罷向、

七夕鞠

〔紳書〕

〈十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1099 飛鳥井家七夕の鞠を、梶の枝につけらる、極秘也、かゝりへみつから持出て、水干の麺をおほひてとかるゝよし也、

〔故實拾要〕

〈八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1100 蹴鞠
是飛鳥井家難波家鞠邁ノ家也、七月七日於此兩家鞠會アリ、門弟裝束等以下兩家ヨリ免之也、

〔光臺一覽〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1100 七月七日、七夕五節之一つにて、總禮自也、今日蹴鞠の御會、古より難波飛烏井兩家の役として、面々の私館におゐて被勤之、

〔都林泉名勝圖會〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1100 蹴鞠の御遊は、〈○中略〉今は七夕の日恒例として、飛鳥井難波の兩家に於て蹴鞠あり、此日は梶の御鞠とて、雲上家參入、又地下の門人も參る、書院の椽側には種々の色ある鞠を飾らせ鞠庭には、四本の松蒼々として、許色の水干紫裾濃の袴を著し、兩々三々の高低に身をそばめ、沓の音斜陽の影に響て、都の壯觀なり、
〈夫木〉鞠の庭に櫻柳を移し植て春は錦、に立やまじらむ 〈爲家〉

〔都林泉名勝圓會〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1100 七夕蹴鞠
飛鳥井家に傚ひて、けふなん此わざを催す人々あり、是が中に、高足とかいふものは、官家にはなきこと也といへど、これも又折にあひたりとおぼえてたはぶれに口號ける、
久方の天津空まで揚まりもあひあふ星やけふはうくらん 閑田子蒿蹊

〔宗建卿記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1100 享保十六年七月七日、七夕蹴鞠於予亭、愚息〈重丸宗城〉出座、依爲重體、殿上人之上著座之事、頃日申殿下勘物多給、〈略之朱〉 十九年七月七日、五日源内侍局被卒、參殿之節、今日蹴鞠如恒例催之可無子細識、源内侍之事、旣先日窺天氣了者、聊可有遠虞歟之旨申入處、家業之儀、殊恒例會、旁以不可有傍鑿於存止者、却而人々可難歟、而於蕪用之儀ハ聊可略之可然歟之、旨、殿下密々依被命、於雜人見物者停之可然由、頃日申達左衞門督了於蹴鞠之上被省略之儀、如何旨雖申達蕕有省略人々可難乎、

寺社鞠

〔諸家家業記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1100 蹴鞠〈井冠掛緖之事○中略〉 水無瀨家にては家債有之候而、兩家〈○飛烏井、難波、〉之門人に不相成、水無瀨御社江奉納之蹴鞠、彼家に而興行之事有之、是は全く水無瀨切之事に候、

〔有德院殿御實紀附録〕

〈十七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1101 享保十五年二月十五日、鷹がりの折から、淺草寺傳法院に休らはせ玉ひしとき、あらかじめ御沙汰ありて、住信をはじめ、其頃世に聞えあるものどもめしあつめて、鞠のあそびを御覽せられしとそ、

〔蹴鞠奉納記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1101 一當九月〈○寬政元年〉四日、正遷宮〈○春日神杜〉相濟候ニ付、目出度奉納之蹴鞠、宮外廣場ニ而催度、兼而存候故、場所ハ北御門口橋之外西の邊り宜敷ニ付、先神宮之上許容有之哉否、幸頑出雲を以、内々相尋申候處、承知之趣二候故、廿四日御役所之上は、春木隼人を以、御奉行殀〈江〉御勝手ニ而直ニ窺被申候處、子細も無之御趣、併此方ゟ叉々御沙汰可被成之御趣一二而、翌廿五日御取次馬淵周藏殿冶隼人方〈江〉手紙到來、昨日被伺候奉納蹴鞠之儀、兵庫頭被相調候處、一通り表向可被申聞由被申越候ニ付、則其趣蹴鞠人數〈江〉披露致し、廿六日會合〈江〉御上書名代を以差出し候事、
小原紙ニ而
申上口上
御遷宮無滯相濟申候ニ付、來ル廿九日、北御門口於豐川之外奉納之蹴鞠相勤申度奉存候、仍而此段御窺申上候、巳上、
酉九月 〈飛鳥井家難波家〉蹴鞠目代橋村主水 同御門弟中
三方御會合御衆中〈○中略〉
一今日〈○二十九日〉出席之人數 〈紫袴〉佐八四神主〈從三位定綱〉〈摺薄〉橋村主水〈正四位 下〉〈紫袴〉靑木隼人〈從四位上房光〉 〈紫下濃〉久保倉右近〈矯村稱號チ以補擬符権禰宜正六位上盛言〉 〈紫下濃〉幸福出雲〈檜垣氏一代幸幅、從四位上眞光、〉 〈同〉龍淡路〈村山氏一代龍、従四位上、末韶、〉 〈同〉山田大路數馬〈實前、大宮司長矩卿三男、従玉位上矩守、〉 〈同〉西村淸記〈別宮内人、正六位上、病勇ニ依て鞠は不勤候、〉 初 主水 四神主 隼人 〈入鞠〉出雲 二 四神主 右近 淡路 數馬 六境〈扇〓、扇ハ亂箱ニ入、役 置鞠送勤之、〉隼人 淡路 數馬 右近 主水 四神主
申中刻鞠終ル

〔蹴鞠九十九箇條〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1102 一神祗の鞠事
上鞠のあし踏出す五足、あとへ六足、扨まり構にして掌を合、觀念をなして一丈五尺に鞠長をけ上て、末落間に我木の本へうしろざまにはやく歸り、扨便宜の人鞠を取人にけわたすなり、神前へ向て足を不上、いさ、かふみ他人ける也、上まりの人兩膝を付也、三曲の外さのみくるひ鞠などはけべからず、請學なし、又社のかゝりなりとも、法樂ならずば請聲とあり、上鞠も不定、猶口傳有之、
一私宅にて神祗の鞠をける事、塀中門にしめをはる、のきに棚を二重まうけてしめを引、上の棚より五色の幣帛を立、供具を備、下の棚には鞠を置て、扨ける人數は三日以前より精進をすべし、まりあしの人、塀中門をいるときに、祓の役人有之、一尺二寸の幣にて祓也、蹴ての人數は塀中門を入時に此歌を唱也、
ちはやぶる神のいかきて我なれや出入いきは外宮内宮、夫より圓座に著す、人數悉如斯有之、上座より次第に棚に有幣を取一度拜禮、扨此歌を唱、般若經吾〈ガ〉心〈ヨリ〉成業〈ヲ〉何神〈カ〉餘所〈ニ〉見〈ルベキ、〉二遍よみて二度拜して圓座へ歸るがやうは、右の注するごとく也、蹴鞠みちて圓座に歸り、また神をくわんぢやう申棚に向て幣を取、如前忙拜して著座して退出す、
一佛前のまりの事
上鞠兩狹をつきてまりを取、左の手をいさゝかそへて、諸手にて持、後へ三分しりぞき、扨鞠かまへに左足をなをし、無念無相にして、諸手にて落かけて、三足け上て、落ぬさきに、後ざまに本の立 とへかへりて、鞠落ば八人ながら袖をかき合て、ちと禮あるべし、其後たれなりとも、深足の人鞠をとらバ常の上鞠ありてをのくけべし、

勝頁鞠

〔蹴鞠九十九箇條〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1103 一勝負の鞠の事
上鞠五度とも十度とも著、契約して數を付る也、二八の人數たらば二度、三八の人數たらば三度に分べし、鬮にても分べし、又其中にけてみる人々を、或は左右、或は初中後、或は一二三に分て定る事もあり、紙を横に折て勝負數まりの事とかきて、また地と引さげて、一共左は初て、扨あげまり十度共、十五度共、如契約に最初の上まりより付もて行て、其期に終、上鞠のとき、此度に及と人數のま、やうに書て付る也、まり終て日記の以上をかぞへ合て、過三たるを勝とする也、此鞠には出に落たるをけず、軒木などにかゝりたるをば、ける人きと兼て人數の中に申定では可蹴也、出に落たるまりの事は、いさゝかもけべか它ず、但出に落たるをけかへすやうあり、かくければ數にも入也、落と同じ、ありとこひて、則あがれば數々す、すくひあしくば上鞠になるべし、出に落す事堅制之ざる故、此歸りけはこの最上也、尤細々可有興行事也、みずに當まりのときはけべし、貴人御きあるともくるしからず、

〔明月記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1103 承元二年三月廿九日、今日有勝負御勤云々、

〔親長卿記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1103 文明十五年四月十九日、有鞠數勝負也、
左方次第不同 庄筑後守 下内宰相房 藏六 孫三郎 與三 源次郎 六郎五郎
右方予南昌藤右衛門小次郎左衞門五郎彌四郎又四郎彌六左五度、上鞠之占内悉皆數百八十餘足、右五度、上鞠之内悉皆數三百十餘足、 本藏主書付之廿日昨日鞠負事任之、次有鞠

流漲/傳授

〔蹴鞠九十九箇條〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1103 一根本の鞠の足の次第事 賀茂成平、其弟子成通卿、其弟子賴輔、その弟子宗長、雅長、此人也、宗長は兄也、飛鳥井の雅經は弟也、自是難波流、飛鳥井流と道を立られけり、賴輔までは賀茂流なり、〈御子左の流、是も後烏羽院の御説をあづかり給ふゆへに、賀茂流と同意也、〉

〔諸家家業記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1104 蹴鞠〈井冠掛緖之事〉
飛鳥井 難波
飛鳥井、難波は兄弟同宗之家にて、元來飛鳥井は難波之別流に候、蹴鞠之事、難波刑部卿賴輔卿と申人より、其孫刑部卿宗長卿參議雅經卿と申兩人〈江〉相傳有之、宗長卿は難波家を相續し、雅經卿は則飛鳥井家之元租にて、是より飛鳥井家起り候、右宗長雅經兩卿より、兩家其代々相承家業と相成、勿論兩家より御師範にも被參候事に候、然處中古難波家斷絶、蹴鞠之沙汰も無之候處、慶長年中に至、飛鳥井家ゟ難波家を相續有之、夫ゟ少し振合替候事も有之由ながら、再び兩家共蹴鞠之事支配有之事に相成候、飛鳥井家はもとより雅經卿ゟ已來譜代相承有之候、冷泉家元は御子左と稱し候、元租爲家卿雅經卿ゟ蹴鞠を被博、其後暫之問、御子左冷泉兩家並立候頃、御子左家にては、冷泉家にて蹴鞠被取扱候事被差貿候事に相成、俗諺に難波歌よまれず、冷泉蹴鞠ならずと申唱へ候事など有之候由、飛鳥井家は歌鞠兩樣共家業と被致候得其、難波家にては歌道に預り候事不相成、冷泉家は蹴鞠家傳有ながら、取扱候事を被止候儀にて、兩家共不本意なる姿に相成候事、各其子細有之事に候、此外上賀茂之社司松下と申も、舊家にて、蹴鞠相傳いだし、古は度々禁裏〈江〉被召候事有之候所、是又被停止、兎角蹴鞠之事は、飛鳥井難波兩家に限り候事に相成候、但水無瀨家にては家傳有之候て、兩家之門人に不相成、水無瀨御社江奉納之蹴鞠、彼家にて興行之事有之、是は全く水無瀨切之事に候、朝儀に不預、別段之筋に而濟來候由、

〔蹴鞠書〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1104 賀茂帥主幸平鞠道弟子取事有間敷由可申封旨、院御氣色候也、仍執達如件、 承元二年五月三日
謹上 飛鳥井〈○此下缺〉
後白河院、後鳥羽院、如院宣、賀茂神主鞠道不取弟子由候、爲後代依天氣言上如件、
永和四年十月廿日 左近衞中將親差
謹上新三位殿

〔隣女和歌集〕

〈四/雜〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1105 蹴鞠の道は賀茂成平が流なる事を思ひて
たえ行は肺もあはれとみたらしやゑめの外なる流ならねば
○按ズルニ、本書ハ前參議雅有卿ノ文永九年ヨリ建治三年ニ至ル歌集ナリ、

〔松屋筆記〕

〈七十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1105 蹴鞠文書
古文書集に、蹴鞠の事の古文書八通を載たり、
其一
鞠逍之事雖爲勿論之儀、於田舍〈茂〉松下弟子取事、一圓有間敷儀候、若背此儀者曲事可爲候間可被申候、仍狀如件、
嘉慶二年二月六日 御判
飛鳥井中將殿
其二
袖御判
鞠道雖爲三家、後白河院以來、御代々御師範之儀、別而規摸候、然、者從先租代々門弟之事候間、道次申候、雖爲一家之者、門弟取事不苛有之儀候、又加茂人松下露拂之時、其外飛鳥井家縮ニ出候畦曲足蹴候事、一切不可有之儀候、於宙貪者、楚忽之輩ニ沓葛袴免之由曲事ニ候、今度於卞亘者、急度可 申付候、仍狀如件、
寶德四年二月廿五日
右從慈照院殿榮雅ニ被下
其三
鞠道代々門弟候間申候、賀茂人松下爲露拂役人弟子取事一切不可有之候、飛鳥井家ニ勅書、當家先組代々證文數通有之上者、縱松下少々書物雖有之、可爲反古者也、仍狀如件、
十一月廿二日 義澄〈御判〉
飛鳥井宰相殿
其四
舊領にても、闕所にても、前注申可準之候、門弟之條於芯中諸事不可有疎略候也、謹言
十一月四日 義澄〈御判〉
飛鳥井宰相殿
其五
鞠迸門弟候間申候、雅綱弟子勢州中納言齣北於闘衷弟子取付而沓葛袴被剝、隣國被拂候由ニ候、叉雅親西國下向之時、松下弟子一人有之由二候而、沓袴被剝成敗之由ニ候、御代々綸旨院宣奉書〈井〉室町殿文書等披見之候、今度尾州二松下弟子有之付而、法度候由被理候條、其者成敗申付候者也、
八月五日 信長
飛鳥井大納言殿

〔蹴鞠書〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1106 後伏見院勅書之寫 後鳥羽院の御時、賀茂のまつのした弟子をとりしよし申かすめ候へども露はらひのやくとして、さやうのことあるまじきよし、あすか井家へ仰いだされ候、かやうのれいなき事、後代のためにて候ま、、なをよく申付られ候、此よしよく心得候て申せとて申候、
あすか井民部卿どのへ
後奈良院勅書寫
在國の事申され候、ゆだんなくやがて上洛可然おぼしめし候、兼又つゐでながら仰られ候、鞠道之儀、代々師範として他にことなることにて候に、一家のものとてそつじなる輩門弟を取候事、有まじき事にて候まゝ、聊爾なきやうにかたく申付られ候、今川北條などにも自然此よし物語候、彌歌鞠兩道再興のことを簡要とおぼしめし候、此よし能々申せとて申候、
左衞門督どのへ

〔蹴鞠書〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1107 御方御所樣〈○足利義尚〉蹴鞠始事、爲御師範可令參勤給之由所被仰下也、仍執達如件、
文明十二年三月十四日 左衛門督〈在判〉
飛鳥井大納言入逍殿

〔親長卿記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1107 文明十二年四月廿三日、入夜中嶋藤衞門來、蹴鞠事爲門流可致沙汰之由命之、此間連々所望雖爲斟酌、領玳今日粗演説畢、於縮囲者追可書遣之由仰了、廿四日、先朝間中嶋藤衞門來、就蹴鞠之儀盈詰文、予注遣縮開了、有鞠予不出、 五月十七日、於鹽穴有鞠丙海又三郎貞範蹴鞠習度之由、懇望之間仰聞了、仰縮開事、廿日、村上橘六宗保、梶浦又四郎忠長等、蹴鞠事可爲門弟之由、連連懇望之上、此間相並蹴鞠之時、縮開不存知之間領狀了、今日各來仰含了、 廿三日、内海又四郎貞繼來、蹴鞠事懇望仰聞了、敎訓縮開事了、

〔宣胤卿記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1107 文明十三年三月十一日乙酉、今日親王御方蹴鞠御相傳、雅康卿參云々、

〔蹴鞠書〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1108 右一卷者、赤松兵部少輔殿、多年兩道之御執心異于他、殊更道之奧義御懇望之事有之、爰數年參會中絶之間、依拜談所望俄當國〈爾〉進發、且者可謂千載一遇治歔歟、所詮此時爲奉授雖爲隨分之秘記ネ殘心底、染紫肇訖、相構末代不可及聊爾之御沙汰候也、
延德二年菊月五日 桑門宋世

〔親長卿記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1108 延德三年三月五日、今日召具阿佳賀丸詣二樂第、可成門弟之由申約了、卽足結樣已下諷諫之、於懸有監鞠、予二樂囗、〈二樂息〉阿佳賀丸也、次有二獻、次給八境園了、

〔言繼卿記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1108 天文廿一年四月八日庚申、玉泉院權僧正來儀、盆〈壹〉被與之、祝著了、令同道飛鳥井へ罷向、前亞相見參、先鞠道之事被申授天境圖以下一卷被渡之、次盃〈ニ〉酒〈〉吸物等有之、次分同道歸宅了、

〔時慶卿記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1108 天正十九年四月十三日、下間侍從來儀候、理廣院蹴鞠執心ノ事ニ付而大納言へ紅道服萌黃袴懇望、北方ヨリ文アリ侍從ニ酒ヲ進候、十四日、舟橋大納言來儀候、門前へ出候、理廣院へ免狀被謐候、

〔慶長日記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1108 慶長十三年七月、飛鳥井と松下公事有、頃年松下鞠の免セ出シける事不謂由、飛鳥井存分也、殊ニ飛鳥井家の外鞠の免シ不可出由、信長秀吉御書付有、依之駿府へ被言上間、飛鳥井理運勿論也、

〔御當家令條〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1108 一蹴鞠道之事、加茂松下取義無例之由、同族家人蹴曲足事無之、色葛袴以無紋有紋薰革無紋紫革閉袴事、同沓江上香上紫上金紗不可著之旨、勅書代々證判明鏡也、
右之趣近年相背儀曲事候、向後弟子取蹴曲足背法度、急度可申付狀如件慶長十三年戊申八月六日 家康御判
飛鳥井宰相殿

〔有德院殿御實紀附録〕

〈十七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1109 蹴鞠のあそびは、御みつからも紀藩にてせさせ玉ひ、飛鳥井家の秘慱を得させ玉ひしが、御位につかせ玉ひし後は、絶てなし玉はず、されど飛鳥井家の秘書あまたこひうけ玉ひ、今も御文庫に現存せり、飛鳥井難波の兩家參向あるときは、いつもそのわざを御覽じ玉ふ、

蹴鞠書

〔吾妻鏡〕

〈十九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1109 承元三年三月廿一日甲寅、大夫屬入道、〈○三善善信〉持參鞠於御所、〈○源實朝〉自京都到來之由申之、又去二日、大柳殿、御鞠記一紙、進覽之、

〔吾妻鏡〕

〈三十九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1109 寶治二年十一月十六日己未、難波少輔香狩衣、持參一卷書〈鞠秘書〉於左親衞御方、依有御所望也、

〔内外三時抄〕

〈序〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1109 予〈○藤原雅右〉はじめて五歲にて、早く此道にたつさはり、七歲にして天骨の名をかりて、柳營の觀普に撫し、十二にしてしらく箕笈の業をうけて、茨岫の勅喚に應ず、自余このかた獪數ケ年、廿五歲の多にいたるまで、もはら嚴君〈○敢定〉に事こと晨昏にをこたらず、枕を扇ぎ席をあたゝむる事、こゝろざしかの純孝仁およばずといへども、造次顚沛にあひしたがひて、其勤勞をわすれずといふ事なく、しつかに學窓にむかふ時は、ひとりこの藝をさぐりとぶらひ、廣く宴筵にまじはる日は、人と此道を談ずることをきく、日夜に嚴旨をうけ、旦暮に敎訓をかうぶる、其詞ふかく神に約してわすれざれば、其説猶筆を執ても未記、ゑかるに年々に子孫に災して、日々に心肝をなやます、たゞ綿々たる悲涕の不休のみにあらず、また恨らくは代々の秘樽のまさに絶なむとすることを、こゝに一子を養育して吾道を付屬せむとするに、彼獪幼稚にして我巳に老たり、仍書記の外に一期にうくる所の口傳を記して、三十卷の秘書をつくる、名て内外三時抄といふ、〈○下略〉

〔看聞日記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1109 永享七年六月六日蹴鞠文書一合内裏進上、是累代記録等也、鞠口傳抄物可有叡覽之由 被仰下之間一合進之、此内口傳秘抄〈敬巷〉寫置畢、仍正本は一向二進置者也、如此累代之記録等始終禁裏可進之間且先進畢、

〔親長卿記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1110 文明十九年正月廿九日、依召參内、蹴鞠譜、〈賴輔捗〉去年予書進上、可有御校合云々爲秘抄之間、他人校合不叶云々、

〔言繼卿記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1110 天文三年閏正月八日乙亥、當番之間、八過時分ゟ參内、梶井宮御參、暮候迄御雜談了、柳原本貞治鞠之記於燈下書寫之、本内侍所にて柳原女中へ返了、 十四年十月九日己亥、甘露寺、予所持之蹴鞠抄一覽度之由被申候間、持罷向候て一盞有之、

名人

〔二中歷〕

〈十三/四能〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1110 鞠足
忠良〈親王〉 實費〈小野宮右大臣〉 宣方〈中將景信子〉 尹中納言春述〈九條住人博實〉 平智 高賴〈藤雅康朝家〉 俊忠〈藤字青水主〉 成李〈加茂神主〉

〔古今著聞集〕

〈十一/蹴鞠〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1110 治承三年三月五日、御方たがへのために院御所七條殿に行幸有て、次日御壺にて御まり有けり、〈○中略〉備後駿河などいふ法師鞠足もめされたりけるとかや、めづらしかりける事なりけり、

〔蹴鞠九十九箇條〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1110 一根本の鞠の足の次第事
成迺卿始て成平に鞠相傳有とき、尋被申ける樣は、成平はいかほど稽古ありて、かやうに白は上手と成給ひしぞとありければ、成平こたへて云、されば常の稽古の事は不及申、日をかゝさず百日稽古申て上候之由、物語りありしかば、成通卿、我は一千日稽古有べきとて、三年日をかゝさず稽古ありて、天下無雙の鞠足と成給ふ也、或時に大内の御鞠ありしに、成通遲出仕有之、主上御氣色あしかりけり、鞠はじまりて出仕有ければ、其儘かゝりの木へ立たまふ時に、いかなることそや、まりきれて七足のべたまひ、他へ入鞠をけかへし、己が身後へ飛、まり懸へまりを蹴入ぬる、かゝる奇特なる事ぞと、主上もおぼしめして、御氣色よくなをらせ給ひて、是をばとんぼうがべりと 名付給ひ畢、關白をはじめ奉りて、かやうの名足は、末代のためしにとて、名書留てをかれ侍と云云、種々の不思議ども有之、鞠の明棘となり給ふもの也、

〔成通卿口傳日記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1111 我鞠をこのみて後、懸の下に立事七千日、其うちに、日をかゝずとをす事二千日也、さきの千日にまんする日、時の鞠の上手をあつめて、殊に引つくろひて、鞠をあぐ、をのく執する事にて、かず三百餘あげておちぬ、さきにみつから鞠をとる棚を二まうけて一の棚にはまりをおく、一の棚にはやうくの供祭をいろくかまへて、ごへい一はさみたてたり、その幤をとりて鞠を拜す、鞠足皆座につく、餐をすへて勸盃あり、三獻の後、身の能おのーたてまつる五獻にことはて丶祿をたまふ、よろしき人には檀紙薄樣、侍の輩には裝束をたまふ、こと終ておのおの出ぬ、夜に入て、此事日記せんとて、燈臺をちかくよせて墨をするとき、棚におきつる鞠、我まへにころびくるさまをあやしくやうありと思ふに、顏は人にて、手足身猿にて、三四歲ばかりめ兒三人、手つからかいて、鞠のくゝりめをいだきてあり、あさましと思ひながら、なに者ぞとあらくとへば、御鞠の精なりとことふ、むかしより是ほどに御鞠このませ給人おはしまさず、千日の御はてに、さま声丶の物給りて悦申さむとおもふ、又身の有樣をも、御鞠の事をも能々申さむれうにまいりたるなり、おのくが名をしろしめすべし、これを御覽せよとて、眉にかゝりたる髮を押あぐ、一人が額には春楊花と云文字あり、一人が額には夏安林といふ文字あり、一人が額には秋園と云文字あり、文字の色金色なり、かゝる銘文を見るに、いよくあさましとおぼゆ、さりながら、われ又鞠の精にとふ、鞠は常になし、其時住する所の有哉、答て云、御鞠のときはか樣に御まりにつきて候、御鞠候はぬ時は、柳ゑげき林、きよき所々の木にすみ候也ざ御まりこのませおはします世には、國さかへ、好人司なり、頑あり、壽ながく病なし、後世までよく候也、我又問、國さかへつかさなり、命ながく病せず、頑あらん事はさもや、後世までこそあまりなれといふをきゝて、鞠 の精申て云、誠にさもおぼしぬべき事なれ共、人の身には、一日のうちにいくらともなき思みな是罪なり、鞠をこのませ給人は、皆庭にたゝせ給より後は、鞠の事より外におぼしめす事なければ、自然に後世迄の緣となり、功德すゝみ候へば、かならずこのませ給ふべき篳也、御鞠の時は、各が名をめさば木づだひまいりて、宮仕はつかまつら候也、但庭鞠の御好あるべからず、木はなれたる宮仕はかなはぬ事也、今より後はさる物ありと御心にかけておはしまさば、御まぼりとなりまいらせて、御鞠をもいよくよくなしまいらせんと云程に、その形みえずなりぬ、淺ましとおもひながら、是をあんずるに、やくわと云、ありといひ、おうといふ鞠の精が額のもん、故ありけり、巳にかゝるさとりをえたり、今も昔も、我ほどの鞠足あらじとおぼゆ、これよりのち出こん事もしりがたし、歌をよまむ所に、人九の影をもてなす、鞠をこのまむ人は、末代といふとも、我事をおろそかにいふまヒきなり、

〔古今著聞集〕

〈十一/蹴鞠〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1112 侍從大納言成通卿の鞠は、凡夫のゑわざにはあらざりけり、〈○中略〉或時侍の大盤の上に沓をはきながらのぼりて、小鞠をけられけるに、大盤のうへに、沓のあたるおとを人にきかせざりけり、鞠の音ばかり聞へける大盤のうへに只沓を置んすら音はすべし、ましてまりを鞠て、その音をきかせぬ事ふしぎの事也、さて又侍七入人をならべ居させて、端に居たるより、次第に肩を踏て、沓をはきながらにまりをけられけり、其中に法師一人有けるをば、かたよりやがて頭をふみてとほられけり、かくする事一兩度、をはりてまりをとりて、いかゾ覺ゆるととはれければ、肩に御沓のあたり候とは覺へ候はず、鷹を手にすへたる程にぞ覺へ候つると各々申けり、法師は又平笠を著たる程の心ちにて候つるぞと申ける、又父卿にぐして淸水寺に籠られだりける時、舞臺の高欄を、沓はきながら渡りつゝ、鞠をけんと思ぶこゝろ付て、則西より東へ蹴てわたりけり、又立歸、西へかへられければ、見るもの目をおどろかし、色を失けり、民部卿聞給て、さ る事する物やはあるとて、籠もはてさせで追出して、一月計はよせられざりけるとそ、又熊野へ詣て、うしろ舞の後、うしろ鞠をけられけるに、西より百度、東より百度、二反に二百反をあげておとさゞりけり、鞠をふしおがみて、其夜西御前に候はれける夢に、別當常住みな見知たる者共、此まりを興じてほめあひたるが、別當いかでかくばかりの事に纒頭まいらせざらんとて、なぎの葉を一枚奉けり、夢さめて見るに、まさしくなぎの葉手に有けり、まもりに籠てぞもたれたりける、又父卿の坊門の懸の下に、すだれかけぬ車のありけるを、片懸にして、鞠の多く有けるに、車の許にて、たびーかず有鞠をおとしけるに、大納言、我にをきてはおとるべからずとて、たちかへてまたれけるに、とびのをのかたへ鞠落けり、まはらば一定落ぬべかりければ、轅の方よりくゞりこえざまに、まりをたびく出されけり、猶ながえのかたへもや落らんと覺しかば、とびの尾のかたよりも走くゞりて越て庭へ出されけり、人々おどろきのゝゑりあふ事かぎりなかりけり、民部卿見證せられて、是程の事なれば、ともかくも云べき事あらずとそいはれける、鞠はてゝの後、車かゝりならべてありなんやとすゝめられければ、車宿のくるま三輛引出して、をくすみに、ながえの方を一方になしてたてたるを、三輛を次第にくゞり越られたりけり、大に感じて纏頭有けりずべてさま人丶ふしぎにありがたき事のみ有ける中に、まりをたかく蹴あぐる事、なべての人には三かさまさりたりけり、或日、まりをたかくあげられたりけるに、辻風の物を吹あぐるやうに、鳶烏付たりとの、しる程に、空に上りて、雲の中に入て見へずしてとゞまりにけり、不思議也けること也、此事虚言なきよし、誓狀に書れたるとそ、これも彼口傳に載耙ち、父大納言、そのかみ佛師を召て、佛を造らせ、てゐられたりける時、はしの御簾をあげて格子のもとをよせかけられたりけるに、成通卿いまだ若かりけるに、庭にて鞠をあげられけるが、まり格子と簾との中に入けるに、つゞきて飛入られけるが、父の前無骨なりければ、まりを足にのせて、その板敷 をふまずして、山がらのもどりうつやうに飛かへられたりける、凡夫のゑわざにあらざりけり、我一期に此とんばうがへり一度なりとそ自稱せられける、

〔内外三時抄〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1114 内外三時抄目録拜序 諫議大夫開國縣公藤原朝臣雅有撰
夫蹴鞠者三國翫好の藝、萬機安寧の術なり、是に依て聖帝明王もこれをすてず、忠臣賢士もみな用う、この故と禁中洞裏よりはじめて、宸遊代々すたれず、下民間、洛外にいたるまで、興宴家々にさかりなり、こゝに拾遺亞相〈○藤原成通〉といふ人ありこの道に碣步し、此藝に尊長たり、このありわざ古今にこえ、其德神明に通ぜり、ふかく未萌をてらして、我路のつぐべからざる事をかゞみ、とをく未决を察て、他家のつたふべきことを存す、しかるに高祖父刑部尚書〈○難波賴經〉幸に此藝に達して、ついで其譽をあらはす、亞相これを成て譜第の跡とし、これを推して聖皇の師とす、夫よりこのかた、當家相續してほとく國師たり、

〔古今著聞集〕

〈十一/蹴鞠〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1114 後鳥羽院は御鞠無雙の御事也けり、承元二年四月七日、この道の長者と號し奉るべき由、按察使泰通卿、前陸奧守宗長朝臣、右中將雅經朝臣署して表を奉りけり、

〔承元御鞠記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1114 臣泰通等言盡忘之道、忘犬馬之情、抽節之誠、何異葵穫之義、人臣無貳、蓋以如斯、臣泰通等、誠歡誠喜、頓首頓首、死罪死罪、伏惟太上天皇應一千之嘉期、登九五之尊位萌齊三象、天下爲之靜謐、化周八麋、海内因滋又安、途乃三十六宮之月前、犖謙光而道瑤興三十六洞之花下、富仙齢而樂瑛砌、德惠之被近古也、庶政任其諮詢藝業之在長葉也、群官仰其聖哲瓦厥叡聰誰不歡呼、夫蹴鞠者、萬春之初興、千年之永戯也、暖日遲々之晩、倚龍鱗之柳而定前後、和風漫々之時蔭鷄冠之木而爭雌雄、訪之異域、則起於黃帝、盛于漢皇、尋之本朝一忽起於延喜、盛于天曆、誠是聖代始之、明時好之者也、我君忝催此遊、巳長其藝、臣等謬傳家塵、久侍三鞠場、伏拜肩新、可謂天生著不上稚稱於當時、恐猶忘勝事於後代、宜奉號此道之長者、以令著其藝之獨勝、漢世宗之好圍碁也、仙客降今娯戲焉、唐太宗之工隷書 也、群臣賀兮拜舞矣、稱美之餘、不避至尊、以昔思今、彼猶瑣焉、不堪欣躍、拜表以聞、臣泰通等誠歡誠喜、頓首、死罪死罪、謹言、
承元二年四月七囘 正二位行陸奧出初按察使臣藤原朝臣泰通
前陸奧守從四位上臣藤原朝臣宗長
從四位下行左近衞權少將加賀權介臣藤原朝臣雅經

〔梅庵古筆傅〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1115 爲家卿
定家卿息、號中院、〈○中略〉歌學之外通文字、蹴鞠絶倫、帝賜手書日、蹴鞠無雙逸足、成通之後又見ジ汝、宜爲家學傳子孫云々、

〔享德二年晴之御鞠記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1115 そもー此みちをば、かみ一人より下万民にいたるまで、あまねくもてあそばずといふことなし世あがりてのことは、その法式などもいまださだまらねば、いかゞ有けん、中ごろ後白河院よりぞ、主上などのたゝせ給へることには成ぬる、此時侍從大納言成通ときこえし人、この道の奧義をきはめて、神變不思議のことなどもありき、そののち刑部卿賴輔卿成道に此道をつたへて、安元の御賀のあげまりなどもつとめ侍り、賴輔の孫宗長雅經とておはしけり、難波飛鳥井の兩流のはじめにて、いつれもをとらぬ上足なり、上には後鳥砌院世にすぐれたる達者にてましーけ蔘、されば承元二年の四月に、上皇を長者と申奉るべしとて、成道卿の子に泰通と申ける人、宗長、雅經など連署の賀表をたてまつうき、やがて大炊御門前太政大臣賴實公の第にて、竟宴のことありて上八人、中八人、下八人などいふことをも定られ、ゑたぐつの色色、くみのかぶりかけなども、この御時よりぞ其法は出きにける、〈○中略〉宗長はこのかみなるによりて、あげまりなどをばつねにつとめ侍れ共、雅經卿は獪堪能の達者にて有けるにや、かへり足などいふ事も、此卿にをよぶ人なかりしよし、順德院はあそばしをかれ侍り、此院の御事よ、鞨鼓 拍子といふ物にて、御鞠けさせ給ひなどして、すぐれたる御あしにておはしましける、その後は後嵯峨院、後深草院、龜山院など、此道の中興にてましくける、其頃中院大納言爲家卿と申侍し人、堪能につきて、あげまりなど承りけるとそ、出家ののち、龜山殿の御まりに七十七にてめしたてられ、父子ともにむもんのふすべがはのしたぐつなどゆるされ侍りて、世にためしなきことに申つたへ侍り、この人のぞう、近き世までもあひつぎ侍しに、今は御子左の家あとなく成ぬるこそ、ふしぎにおぼえ侍れ、難波の跡もなきがごとくに成ぬれば、雅經卿の一流のみ、いやましにさかえ侍る、いと有がたき事にこそ、又攝録の家にも、大織冠の御事は中々申に及ばず、後二條殿〈○藤原師通〉知足院殿〈○藤原忠賓〉など、すぐれたる上足にてましーける、そのすゑぐには岡屋殿〈○藤原爺、經〉普光園殿、〈○藤原莨實〉照念院殿〈○藤原兼平〉など世にみなしり侍り、あるひはけんそうの座よりめしたてられて、むらさきがはの御ゑたぐつを當座に賜はりつる例なども侍るにや、

〔閑窓自語〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1116 桃園院御鞠事
桃園院の御まりは、ことにすぐれておはしましける、時のまりあし皆及ばず、後鳥羽院此かたと人いへり、後に考るに、後伏見院も御上手にてあり、其後は御堪能の沙汰を聞ず、十五六才の御あいだ、御うちまりには御あひてにまゐりて、御ふるまひを見たてまつりしに、くわしきことはしらざれども、難波〈宗建卿宗城卿〉飛鳥井〈雅季卿雅量卿〉などのごときさわがしきものにはあらず、御まりの樣子、ゆるやかに、御あしなどのひきごと、その後もたへてみる事なし、〈○中略〉
彈正尹直仁親王蹴鞠堪能事
閑院故彈正尹直仁親王〈東山院皇子〉は、まりの上手にて、さきへこけ行まりをもすくひかへしあげられけると、故殿〈○柳原紀光父光綱〉仰られし、
同親王説鞠事 同じ頃、源三位廣仲卿もよきまりあしなりけり、難波前大納言宗建卿とたち合てけるに、廣仲卿ふたつばかりあぐるうちに、大かた宗建卿に取れぬ、やすからず思ひて、直仁親王家に參りて、宗建卿を上手のやうにいへども、人のまりをとる、いかでか法にはべらんと申ければ、親王答へられけるは、人にまりをあたへぬうちに、人にとらる、は、大かたまりの身に遠き故なり、とられまじとおもはゞ、身にちかくけるべきよし申されければ、ことふるにことばなかりしとそ、櫛笥前大納言隆重卿のかたられし也、

〔槐記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1117 享保九年六月廿四日、或時參候、凡一藝ニ長ズルモノ、其盛ヲ極ムレバ、他ニモ自ラ通用セズト云コトナシ、難波故中納言〈○宗量〉ナド、蹴鞠ニ其極ヲキハメタルモノト可謂紫宸殿ノ亂間ノケタ三ッアルヲ、人々ノ望次第二越、サセテ見セタル人ナリ、若キ公家衆ノ集リラ、鞠ニテ紫宸殿ノム子ヲ越サスルニ、一人モ越サスルモノアラズ、コレヲ故中納言ニ申ス、中納言シバラク思案シテ、高サ十五間ノ處ナリ、イカサマニモ越ガタシ、併祿アラバ越サスベシト云、皆々所望シケレバ、コノ屋ノ棟ハ鱗形ナハヤト問テ、直上ニ高足ヲ蹴上テ、棟ノムカフノ方へ落セシニ、念ナク小御所ノ中庭ニ落タリ、ソノ目ノ付所各別ナリ、

〔本朝世事談綺〕

〈三/態藝〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1117 神田沓
栗本光壽、〈○中略〉此人近世の妙足なり、總じて此道を學ぶ人は、皆御冢の門弟なれば、師とも弟子ともいはず、相談と云也、當世江戸にて翫ぶの輩、三木可眞をはじめ、人皆此老人の相談に至らぬはなし、今光壽の蹴方を專とす、〈享保十七子冬享齡八十歲〉

〔續近世畸人傳五〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1117 芥川貞佐
貞佐は備中笠岡丸山久右衞門といふ人の子にして幼名河吉とよぶ、爲人卓犖不羈にして奇才あり、幼より諸藝に心をよせ、甚頴敏なれども、必其奧秘を極んともせず、されどもかりにも吾師 とたのみたる人をば尊崇し、一小册に其敎の旨趣を委く筆記して、他日の遺忘に備へ、これを乞食囊と題す、それが中の要を學るに、〈○中略〉飛鳥井家にまうで、蹴鞠を學び、紫下濃を免るにおよぶ、〈○中略〉播磨明石の邊にさまよひ、あるひは傭人となり、又團子菓など作り賣て、月日を送りロるに、其人がらいやしからねば、いくほどなく其所に親しみ出きて、ある別業の番人となりける、或夕つかた主客とも蹴鞠せしとき、鞠垣の外に落しに、貞佐は其ほとりを掃除して有ければ、あるじそれくといふ、こゝうえて垣の外にてまりを蹴て高足し、垣の中心に蹴入たる、其有さま甚うつくしければ、皆眼をおどろかし、姓名をとひけれどもあかさ命、

〔新撰字鏡〕

〈革〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1118 鞠〈居六反、養也、吿也、生也、稚也、愛也、麹也、万利、〉

〔倭名類聚抄〕

〈四/雜藝具〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1118 鞠 考聲切韻云、鞠〈音菊、字亦作麹和名萬利、〉以韋囊盛糠而蹴之、孫悃云、今通謂之毬子、

〔箋注倭名類聚抄〕

〈二/難藝具〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1118 慧琳音義引作以囊盛糠而跼之諤之蹴塑按、漢書藝文志注、鞠似韋爲之、實以物鷲跼之以爲戲也、枚乘傳注同、史記、衞將軍驃騎列縛索隱亦云、鞠戲以皮爲之、中實以毛、躄躡爲戲也、依之此韋字不可無、慧琳一音義所引恐誤脱也、説文、鞠、跼鞠也、

〔倭訓栞〕

〈前編二十九/末〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1118 まり〈○中略〉 鞠をいふも圓きなり、事林廣記に、天下總呼圓と見えたり、

〔安齋隨筆〕

〈前編四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1118 一鞠井鞠力、リノ字、韻會云、鞠居六切、説文ニ腸鞠な碗徐按、腸鞠以韋爲圓囊、實以毛髮、鷲跼爲戯云々、貞丈云、漢土の鞠は内に毛髮を入てフクラマシタル物也、此方の鞠は内に何も入れず空虚にしたる物也、和漢萬物名は同じく形も用も相似て、其製の異なる物はいくらもあり、一概におもふべからず、

〔遊庭秘妙〕

〈中〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1118 鞠勢分〈付縫樣事〉
口樽集云、春の初は大にくゝる也、次第々々に足なれんずるまゝに、ちいさかるべしといへり、此比のまりはあまりちいさく見ゆ、洛中に河原院又あまへとて、此ニケ條ならでは鞠くゝりなし、 河原院のまりいかにもまさり、かた穴ふたつある鞠也、あまへのまりは、かた穴一つあり、ぬふやうは針目も又革も五みえ侍る樣にぬふべし、或は七にもぬふ也、ゑたうつの革の同色ならん革を、二分計にほそく切て、つよくのして、かた穴のかしらに穴をあけて、穴の中より革を引出して、〈革のさき々結ぶべし〉かた穴の左の方に穴二、右の方に穴二をあけて、穴より入て小穴より引出て、はこのかたを結て、かた穴の中〈まゝこひたひのそばなり〉へさし入べし、〈兩方如此〉取革といふ五分計の革を、取革の座敷に入とをして、兩方のかはのはたに穴をあけて、一方をさし入侍れば、革かいさまになるを、續飯にてつけて、さきをそとはかしらに切也、取革付ぬ鞠は、いまに忌中のまりに取革を付侍ぬ也、可得其意荒皮の多毛、毎に毛ふかく珍重也、夏毛もわうし、皮二枚にてあつきかたを取合てと、うすき方を取合てと、二にくゝるべし、

〔了俊大草紙〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1119 一燻鞠は花の盛なる比可用云々、鞠皮は春二毛の大女鹿の皮を上品とする也、秋二毛も能きなり、夏毛の中にも、皮の色白て爪にて押べゑわのよる皮を上品とする也、いかほども輕を可用云々、

〔家中竹馬記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1119 一鞠を人に遣時、一菓とも二菓とも書也、一足とも不可書、又蹴鞠興行などの時は、一足あそばされよなど、云也、此時は一菓とはいはず、又ふすべ鞠は陽也、春夏賞す、白き鞠は陰也、秋多賞す、一菓つかはさむ時は、時節に相應ゑたらんは、其興あるべし、枝に付る樣など口傳あり、

〔松下十卷抄〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1119 一鞠を一足二足とはいはぬなり、一ツ二ツと云が能候也、又ふみは一顆二顆と書べし、三顆まではよし、四になれば四つと書べし、去ながらことばには顆とも、又そくともいひたるは耳にたちてわうし、何となく一ツ二ツといふべし、

〔蹴鞠九十九箇條〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1119 一ふすべ鞠の事
昔は日本に鞠大切也、さる故、春のふるき鞠を逡るかたを打なをして、四月初のころふすべ出し て、五月中旬まで用、又秋は紅葉の時分、多は雪のあした、春は花のころ、賞翫して蹴也、但内々稽古の時之ふすべまちげるに、何時も不苦、此二段の折節時分はつれては、努々不可蹴、白鞠とふすべ鞠と、枝に二付は、花の比夏は四月一日より五月中句まで、秋は紅葉のころ、冬は雪の朝の鞠にふすべ鞠を下に付也、正月一日人の本へつかふ時は、朔の時は白鞠下に付る、五節の時ば白鞠上に鞠賞翫也、あたらしき鞠をふすべたれども、他所へ送る時は、ふるき鞠の心得也、また自鞠を二付時も口傳在之、

〔醍醐雜事記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1120 保延六年庚申二月十六日、行淸瀧會、〈○中略〉諸信捧物、自前齋院付綿鞠於櫻枝、被置左右請借之幢、

〔古今著聞集〕

〈十一/蹴鞠〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1120 宇治左府〈○藤原賴長〉法成寺に參葹せさせ給たりける時、片岡瀰宜成房に仰て切立せられて、まりの爲に家平めされけり、執行某鞠二まいらせたりけるを、左府家平を召て、此まり二が善惡をえられけり、家平申けるは、一つはよく候、一つは二重鞠にて候と申けるを、左府中を見ずして、二重まりと申事ふしん也、其鞠をあぐべきなりと仰られければ則件のまりを上るに、兩三度あがりて枝にあたりてきけぬ、これを見るに、ふるきまりの上に薄きかはをおほひたりけり、左府德大寺のおとゞ兩人の御前に、是を召よせて御らんずるに、實に二重也けり、おとゞ頻に感じ給けるとなん、

〔撰集抄〕

〈八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1120 侍從大納言成通鞠之事
經信大納言、後忠中納言とて、當世の功者歌鞠の長者なる人いまそかりしが、申され侍けるは、君の御前なんどへ鞠取出さんには、松、もしは柳の枝の、三にわかれたらん中の枝に、いたく引つめてつけつゝ、木の枝を上になして、第三のかゝりの本にあゆみよりて、右のひざをつきて、手をのべて置侍べきなり、〈○中略〉とぞ申きれける、此二人はまりのせひを見るまではいかゞ侍けん、末世 にはありがたきほどの人どもにていまそかりけり、されば侍從大納言にあひをとり給はずとこそ成通もほめ給ひけれ、
鳥羽院の御くらゐのはじめに、御まりあそびのありけるにまりを御前に謖されんずるありさまの事をば、侍從大納言なりみちの其人にあたりて、いまそかりけるに、いかなるさはりのはんべうけるにや、日のたけぬるまでまいり給はねば、帥大納言經信卿のはかりにて、松のえだにまりをつけて出されけるに、なりみちのきやうまいりあひたまひて、あしきとよ、御代のはじめの春のまりをば、柳のえだにこそとて、つけなをされはんべり、松はいつもみどりにして、春をこむる色は切に見えざんめり、やなぎははるのみどり、なにゝもまさりたるなればなり、そののちはるかに年へて、成通六十にかたぶきたまひて後、二條院の御代のはじめには、御まりあそびの時、俊成中納言の竹のえだにまりをつけて出されけり、侍從大納言つたへ聞給ひて、此人父のとしたゞ中納言にはまさりにけりとほの給へり、さればか樣のことをばとひとふらはでは、いかにとしてかゑりはんべるべき、

〔吾妻鏡〕

〈十七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1121 建仁二年四月廿七日辛丑、有御鞠天數如例、乗燭之程、左金吾、〈○源藾家〉召寄小鞠苓揚數百廿給、

〔吾妻鏡〕

〈三十九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1121 寶治二年九月九日癸丑、今日難波少將宗敎朝臣、獻大鞠二、〈一燻、一白、〉井韈一足〈各付松整納長櫃〉於左親衞、〈○藤原願嗣〉是當時、依令賞翫蹴鞠給也、

〔吾妻鏡〕

〈四十七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1121 康元二年〈○正嘉元年〉四月九圓甲午、申剋御所御鞠也、露拂巳後、將軍家御布衣令立御、下野前司泰綱、付燻鞠於難冠木技進之、行忠入道付之、但内々被解之、内藏權頭親家階之、

〔薩戒記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1121 永享五年八月廿二日、早旦飛鳥井中納言〈雅世〉入來、被示自左大臣殿、賜鞠二星之旨、卽令參入悗虫不能見參、以伊勢加賀守申入退出、

〔親長卿記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1122 文明十二年九月十二日、今日右大將亭巡會鞠也、〈○中略〉各著座之後棟久縣主持鞠二星〈持左右手〉麥飛鳥井前與奪予、更持來予前、予令氣負飛鳥井見定鞠、〈二足、鞠尸足ヅッ取之、能見之、〉フスベ鞠聊重可然、予定之、棟久縣主取之置懸之中百鞠置予後方座了、次各如例立懸杢始行鞠、 十四年六月十七日、付枝鞠事傳受中納言入道〈○飛鳥井雅親〉了、〈可注奧○中略〉
付枝鞠事〈口傳云〉
松多分也、櫻柳も勿論也、先二東三束是又例式也、一束又勿論、木の長三四尺〈鞠在あまた付には、木のたかさかはるべし、〉もとの枝より下一尺五寸ばかりあなべし、下のゑたをうきにすべし、ゑもの枝のとをりをそぐべし、この枝に鞠をもたする樣に人の心うる、そのぶんにてはなし、この枝にはくつの結緖などかくる事あり、下の枝の上にまりのとりかはをかみよりにてとをして、〈このかみより、つれの水ひきのうへ在かみにてまきて、のりるひきてとをすなり、〉うらのえだの下にひきまはして、かたわなに〈わな々うへのかれになしてひきとく、か土のかみよリ在ちとかむかたより長くすべし、〉ゆひつくるなりと云々、猶互細口傳あり、
延德三年四月廿日、此日有三時鞠會、〈○中略〉午剋許改衣裳〈○註略〉罷向、人々集會、事具之後、諸平縣主持參枝鞠〈松枝ニ鞠ニチ付也、上フスベカハ、下枝白鞠也、〉寄立南面簀子腋戸退歸、次予以下如今朝著座、次立雅俊朝臣進出經懸北垣傍拜西庭進簣子下取枝鞠退歸、於巽角松西方解鞠〈白鞠〉取枝、〈フスベ鞠獪在枝〉寄立松本已前、解鞠取之進庭中置之、遏取松枝置本所退入著座、

〔言繼卿記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1122 天文二年八月十二日壬申、予鞠之上染之事出來了、 十四日甲申、鞠之上そめちん二十疋丑遒了、

〔御湯殿の上の日記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1122 慶長九年五月十七日、ぶけ〈○德川家康〉より御まりゑん上有、 うるう八月十六日、あさのきのかみ、御まりのかわ廿まいゑん上す、あすかい申つぎにて、長はしより、あすか井まで文いづる、

〔甲陽軍鑑〕

〈七/品第十六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1123 毬之次第
一鞠を人に渡すこと、先とりかはを右の大指と人さし指にてつまみて、たけたか指、くすし指、小指に、まりの肩をかゝへ候やうに持て、まりのふくらを上へなして、左の手をそへ直垂或はすはうなんどの袖を取そゆるやうにして持て出べき也、さて人の前にて、左のひざをつきて、まりのこしを左の手のうちにすへて、右の手をまりの右のふくらにそとそへてとるやうにさし出すべき也、
一同鞠を請取事、人のさし出さる取革を、右の大ゆびと人さし指にてつまみて、さて式の手をそへて、先腰のまはりを見て、其後左の手のはらにすへて、卒度二ッ三ッ打て、又右の手の方にすへて、左の手にて打て見て、見事の御鞠と申べき也、
一かゝりへ鞠をころばし入る事、緣よりおりで、緣のきはよりころばすこともあり、又えんのうへよりころばすこともあり、御すだれの内よりころばし出す事もあり、此時はそとみすをまりのとをる程持上てころばかすなり、木の本からころばかす事もあり、まりを置は四本がゝりの中ずみに置候へども、ころばす時は何方へ何ところぶとも、其ま、にてあげ鞠するもの、まり上べきなり、是は略義也、
一鞠を庭に置時は、刀をも勗をもぬきて内の者以下にもたせて、鞠の持やうは、人前などへ持て出るやうに持て、かゝりの四本の沐の座敷なんどあがらん向の方より、軒の方へ向て出べし、四本の木の下に可置候時は、先左のひざつきて、さて左の手をつき、右の指にて取たるまりを能くつまみて、手のこうを上へなして、取革をも上へなして置て歸るべき也、まりの人數の内にても内々の時は、若輩の者も置也、但故實の人可然候、枝に付たるをときてをくは隨分の事也、
一風など吹時、鞠を可置やうの事、持て出て、ひざをつき、手をつくまでは、事々敷右に同前、膝をつ きて、さてまりを置時も、もちて出たるまゝにふくらを上へなして、取革を我前のかたへなして、沙へゆり入候樣に可置也、風など吹候にもころばずして能也、

〔蹴鞠九十九箇條〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1124 一鞠を人に見する時渡す事
箱に入たりとも、腰はさみに有鞠なり共、まり計取出して、右の手にてとり、皮を持、左の手をいささかそへて、さて渡す時、左の手にすへ、右の手を鳥の子にそへ、取皮を上になして渡す也、請取人は、左の手よりさしよせて、鞠の下をかゝへ、右の手にて取皮を取べし、さて見る時は、ましこの體を見て、しやうそくを見、又皮の善惡を見しりてほむる也、また貴人にとりてさつかひある時、御前に置かへるなり、口傳有、〈○中略〉
一枝の鞠を請取披露する事
ゑだの鞠を人に渡には、枝の末を右の方へなし、半を下へなして、右の手にて鞠をかゝへ、左の手をそぎ、目のきはにふせて、左の膝をつき、鞠上に成て渡也、また請取人によりて、その藏可有之、次の枝の鞠を請取人は、膝をつき、左の手にて枝の本を取、右の手を上になして、えだの末を右になす樣に請取て、貴人の御前へ持て參、披露する時に、貴人の右にまかのあるやうに、我左の手に取なをして、右の手をつき、御目にかけ、押板角によせかけて置也、但花など有て、押板さし合は、便宜にしたがひ可置也、
一枝の鞠を軒に置事
まつ塀中門より、侍、枝の鞠持て庭へ出蹲踞、然所に、著座之内、若役とて、出て枝を請取て、緣の上に屏風をかまへて置、それへもよせかけて置、本座へ歸る也、又緣にはよせかけて置也、つま戸の方に可置也、枝の持やうは、右の手にて枝ごしに鞠を抱るやうにて、左の手にてそき、目の上を手をふせて持て行、置時蹲踞してか、りを前に成て歸べし、貴人の方を後にすべからず、獪口傳あり、

〔運步色葉集〕

〈滿〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1125 鞠挾

〔七十一番歌合〕

〈中〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1125 廿九番 右 、 鞠括
ゑぼがまやかはらの院の鞠かたのまうきは月犂うつす成けり
毛がはかをとりあはせたる鞠かはの思もあはぬ人に戀つゝ

〔雍州府志〕

〈七/土産〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1125 鞠拜履 所々製造之、其内町口通竹屋某所造爲良、〈○中略〉於鞠是謂括、充氣於革裏而囊括之謂也、

〔御當家令條〕

〈三十一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1125
町中ニ有之候鞠屋共、自今以後鞠商賣相止、外之商賣可仕候、取分犬の皮つかひ候義、堅無用可仕候、若相背鞠商賣仕もの有之候はゞ、急度可申付者也、
戌〈○元祿七年〉七月十三日

〔幕令拔抄〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1125 〈天滿南富田町〉炭屋七兵衞
〈折屋町〉中村屋吉兵衞
〈物町一丁目〉篠原屋勝次郎
右之者共儀は輔拜鞠裝束沓等從來渡世仕來、飛鳥井家、難波家用向勤來候もの二有之鞠道具之義は、法式も有之候儀之處、近來右之者共之外二而鞠括可在、鞠突直鞠裝束沓等仕立、賣捌候者間間有之、別而鞠裝束等之義は、法式も有之義己候所、近來法式外之品々、流布いたし候趣相聞、鞠道差支二相成候間、右之者共之外二而、紛敷品々取拵、賣捌候儀、堅致間敷候、
右之通、三郷町中可觸釦者也、
文政十二年丑四月

〔遊庭秘鈔〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1125 棹事 竹のほそさ、筏さほなど申程なるべし、口一寸四五分也一丈五尺にふしをつめて切之、他流に鞠おとすさきのふしを二三けつると云説あり、鞠おとすにいたはる由にや、不足言事也、たゞふしもけづらず、本末のふしをつめて切之、或は立蔀、或は屏のきはの庭にふせて、鞠會以前より用意して置て、鞠の梢に止時、鞠足の中にても、末座の人又在所の靑侍男な、どにても、棹持參しておとす也、立樣に持べからず、横たへて持て、とゞまりたる鞠の下に、さほのさきをさし入てかきおとす、ゆめくつきおとすべからず、又小枝に止鞠は、さほを持つべからず、所作人の中にゆりおとす事常の事也云々、

〔松下十卷抄〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1126 一鞠さほの事 一丈五尺ばかりなり、枝をばいかにもうつくしくおとし、うらほそき竹の、さのみ大にき、又さのみほそくもなく、能ほどの竹を用るなり、末はふしのうへ四分計にきり、いかにもうつゴしくかどをまうめて切なり、もとはふしより下三分計をき、一もんじに切、いかにもかどをたて、かためをあちせで切なり、ふし數は不定、つねにはもと末を紙一枚にてふたつにおり、つ、みてよし、つゝみやう、足つゝむごとぐ、紙二枚をたてざまに二に折、それをよこざまに又二に折、そのまゝさきにきせ、ふしのきはを紙よりにてゆひ候、ふしはゆひめのうちになし、二重にゆひ候、一方はわな、一方は兩のさきをそろへて切べし、わなは左になすべし、もとうら同前な、、總て不斷如斯つゝみてをくがよし、御本所など鞠庭にもたせられ候時までも、つゝ、、ませられ候由、庭に出候時とかせだるがよし、もとうらの寸をみせまじきがためか、
一さをあつかふ事 總別は役者さだまるといへども、いまはかはり圓座にあらば、其衆によらつかまつり候事、能々先懸に鞠留候へば、さほをとり軒をうしろになさで持て、何時も座をまへになしあつかふべし、左候間左の手さきに成時も有べく候、又右の手さきになる時も有べし、立ながらいかにも靜におとし候べし、鞠とゞまり候枝を、鞠にはそともいろはで、枝を站すなり、そ れにてもおちずば、つきもおとし候べし、又庭の内にてはなをさぬ事なり、自然人のかほなどにあたる事もあり、庭の外へ出るー何となくなをしたるがよく候なり、右にゑるすごとく役者は鞠衆内たるべし、又見物の人もするなり、鞠衆八人のうへ有て、著座の人あらば、其人の役たるべし、丕然ば鞠衆のうちたるべし、著座の人もそこもとの時宜あしくば無用なり、鞠衆の近邊にあらば、け衆の内からおとすべし、懸にとまりたらば、立ながらおとして、其後さほのさきを地につけて、こしをそとすへ候てかへるべし、懸よりも其便宜次第におとすべし、又えんなどにとまりたるは、はじめからひさきつきたるがよし、此時はさほさきを地に付すともなり、
一さほ置みんする所の事 何時も軒の方にさきをなして置なり、、又さやうにもをかれぬ所はみはからひて置べし、
一かきとりとて、ざほ取のごとく、竹のさきにちいさきかまをつけて、鞠のか、りたる枝をそときりおとすなり、但かきとりは今は用ざるなり、以前難波流などには、さほとりとて一人著座して有つるよしなり、

〔甲陽軍鑑〕

〈七/品第十六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1127 毬之次第
一鞠の枝に溜たる時は、鞠竿にて落べき也、落しやう、竿をとりて、式の手の中を上へなすやうに、右の手の内を下へなす樣にもちて、右の手にて、ぶほのもとをとらへ、竿のさきの貴人の方へならぬ樣に、懸の内へまりの落やうにそと落べき也、まりにはあたらずして、滯たる枝を、玄つかにいろひておとすべき也、竿をもちておる時は、竿のうらを前へなるやうにもつべき也、歸る時は、本をさきべもなすべきなり、さほなどもちたる時は、貴人の御前にても、手などつくべからず、さほの置所は、築地屏などの際、圓座敷たるうしろなどに置べき也、

蹴鞠装束/衣服

〔成通卿口縛日記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1127 一裝束事 狩衣はたゞくびにきなすべし、さりながら帶の上へのすべからず、例のくびかみきはみぐるしき事也、指ぬき沓の鼻にかけよ、中間にはさみあぐべからず、あげてはこむらにみゆればゑな、し、なかほどのあげやうかならず鞠あたる事あり、あを袴狩袴は沓のはなにか、る見ぐるし、能能たかくはさみあげ志、春ふかくなりなば、よろしき人も、きぬにかたびらをかさぬべし、扇を脇にさすべからず、をのつからあしき事あり、うしろへよせて十文字にさしたるが、いみじき事いでく、心得ざる人はなにともえゑるまじ、さればもちひず、その樣をまねぶ人ありがたし、脇に勗を指つれば、身にそひかへり、足の時袖にかゝるをいとなむ間、おとすことおほかり、十文字にさしたるをそく歸逢をり、よこざまにすちりなされて、それにかゝるによくかへり逢事あり、おぼろげの物心得ず、また扇を賴むべきにあらず、我より外にゑりたるひとなければ、厩をたのむ人これより後にありがたし、

〔遊庭秘鈔〕

〈中〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1128 裝束事
上下の人に主たがひて、さまみ丶の色に侍るべし主上、御引直衣を、すそをまはして、人臣のごとく召さる、緋の御口くゝりを入て、指貫のごとく被召之、主上指貫めさる、事、五節の帳臺の試といふ時、一夜めされ侍也、准之後鳥羽院などもめされけるにや、當御代〈○後光嚴〉にも其沙汰ありし也、上皇は烏帽子直衣御か妙の御ぞに御指貫也、内々は御そばつゞきをもめされ侍也、執柄大臣大賂同之、龍樓は天子のごとし、人臣は公宴には束帶、直衣、狩衣、私會には水干、葛袴、直垂以下、思ひ思ひたるべし、わかき人々の袴、あやめの袴、練貫袴、靑袴、かりばかま、重形は、すそこの袴、或は又みなみな腰もとを色々に褶をし侍る、めづらしく見ゆ、束帶は又希、其例なし、もとををしたるべし、裾をうはてにかくべし、指貫のこと、當家にははだし鞠にはそばを取、具足の時はくゝる也、難波ははだしにても、具足にても、そばを取、明日香井は、はだしにても具足にてもく、る也、くゝる樣は、 右は聊たかく、左はちとさがる也、口傳故實あるべし、又帷の事、あせとりと號て、紅に染たる大帷を内々かり衣の時用之、是普代の人の著用すべき靑のかたびら、老者著物也、又色々の摺の帷は、わかき人の布衣の下に鴻るおもしろし、廷尉の人は白丁にくゝりをあぐ、此事鞠ならでは有べからず、又極熱にひやしかたびらと號て著之、堪能の人汗の餘に垂て、身の窮屈なる人、冷水に帷をひゃして、つよく毟ぼりて、はだにき侍るに、あせたらず、隨分の秘説也、柳櫻のかり衣のうし、うすこし汗に色かへり侍、おもしろしと、ぶるきものにかけり、又かりぎぬ水干の袖の結ぬく事、無雙の上足の所爲也、か、りの方のかた袖の括をぬくべし、懸の枝にか、らじの料也、きそくは三十以後あるべきのよし、大貳長實卿申されけるとなん、此袖のく、りを、烏帽子かけに結て、懸のも逸にて用之、希代の振舞なるべし、又靑ひとへかりぎぬの事、承元〈○土御門〉囂來鞠庭賞翫する色也、其場に一人の外著用すべからず、若二人あらば上臈著之、下藺の靑を止也、又法師入道は、衣袴に袈裟を略して、袴のく、りをあぐ、上樣の人、裘袋に指貫しふくさし跼き尤可然、後伏見院はきうたいに御さしぬきをめされ侍しを奉見き云々、

〔古今著聞集〕

〈十一/蹴鞠〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1129 知足院殿〈○藤原忠實〉わかくおはしましける時、白川の邊にてまりの會してあそばばやと思候に、誰をか召候べきと、京極殿〈○藤原師實〉へ申させ給ければ、毟ばらく御案有て、源兵衞佐〈○行宗〉を召具せよと仰られければ、召につかはしてけり、卽參たりけるを、大とのなにかきたると、内々御たつねありければ、濃靑の布狩衣とりどころすこしあかみたる薄紫の指貫、濃色の二衣單衣きて候よし申はれぜ大殿さればこそと仰られけり、よく装束きたりと思食たりけるとこそ、

〔山槐記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1129 治承三年三角五日癸亥、於主上〈○高倉〉御前蹴鞠大裝束事、今朝刑部卿賴輔朝臣示送書狀云、三日宇治御參候歟、何事候乎、抑今夕行幸院御所、〈北殿〉明日御逗留之間、蹴鞠會可候云々、仍令參仕 候之處、時服何樣可候哉、可著訌衣冠之由存候、而衣一重常事候歟、生單歟、練單歟、但鞠式〈成通式〉云、老人可著帷重云々、然而於重衣冠者何樣可候哉、公卿者常事候歟、侍從其憚可候歟、至蹴鞠曾者何事候哉、此條難任愚意候、御計可候也、先年宇治左府於蓮華院鞠會候之時、依權中納言〈成通〉敎訓著束帶之汗取赤帷、件日爲通少將之時同著赤帷、是有樣事歟之由、左府示給云々、若人不可著白蜂之間、用汗取候歟、於老人者不可然事候歟、如何、此條不審、依彼時不從間ゴ也、明日白帷重直衣冠其憚不可候、何事候哉、可參啓之由存候之處、昨日於院御所蹴鞠之間、最、沙汰可訴候、且所令取申候也、恐恐謹言、
三月五日
堀川殿
一重生單衣若赤汗取歟、共不可有難、練單衣白稚者不可然之由答了、此人蹴鞠長也、

〔吾妻鏡〕

〈五十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1130 文應二年〈○弘長元年〉正月十日壬申、今日御所御鞠始也、廷尉三人列人數、所謂出羽大夫判官行有十括上野大夫判官廣綱、上括兄利大夫判官家氏等也、爰刑部卿傾申云、上括雖有邂逅之例非吉事、尤可有觀酌云云、而二條少將雅有申云、如承元二年十二月二日雅經卿記者、賴時白襖袴上括、凡檢非蓮使上括事非常儀、蹴鞠之時、無憚歟、後白河院御時、綱賴知康上括、當院〈○後嵯峨〉御時、二娼判官重輔、同又上括、然者有何事哉云云、是則出初者就難波之訓工野足利者隨二條之説云云、二人長者、根元雖受一流之口傳、枝葉勘出兩樣之故實者歟、其邪正人難辨之云云、

〔吾妻鏡〕

〈五十二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1130 文永三年三月廿九日壬戌、此間刑部卿宗敎朝臣、就蹴鞠事、作一卷勘狀、將軍家密々被二召出覽之、是去文應二年正月十日、御鞠始之日、當職、廷尉出羽行有、上野廣綱、足利家氏等列其庭、廣綱、家氏、上括之間、此朝臣當日頻傾申之處、同八月十九日、旬御鞠廣綱重上之、而經年序之訖、見其三輩之吉凶、被數代之例妻故草之云云、載于狀之趣者、蓬宮仙洞之間之供奉臨幸之臣云、參候蹴鞠 之輩、專禮之時、無上括之儀、

〔園太曆〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1131 文和三年十二月一日、右府〈○藤原道嗣〉被談、主上鞠場御指貫著御事、〈○中略〉
一昨日令申候間事、所見未被御覽出候哉、彼部類記事、左幕邊相尋候き、未撰給候、弘安賀嘘儀、淸妙寺關白〈○蔭原家基〉委細記置候しと覺候、彼記遣置候、遠所候間、未及公奇候、其も先年一見候了、御指貫とは丕覺候、〈○中略〉
定家卿記
建久八年正月四日、入夜退出、〈○中略〉又人々主上鞠之間有著御指貫御好被仰合、〈普賢寺〉關白殿〈○藤原基通〉申給候、左右可在御意云々、不快、以座主宮之好被仰、〈菩提院〉入道前關白〈○藤原基房〉申給候、五節帳臺之試夜主上著御也、是爲混殿上人也、今案偏非禁忌之物歟、准據被薯御、又爲混臣下荷事在乎者、此旨甚叶叡慮旬著御云々、先是又有評定下庭上御敷蓮云々、

〔享德二年晴之御鞠記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1131 主上〈○後花園〉すなはち出させ給て御座につかせ給、つねの御直衣にはした色の御さしぬき〈くわにあられの御もん〉をたてまつれり、日比は紫の御さし跼きをめされ侍れど、このたびはいかゞあるべきなど、殿〈○一條經嗣〉へた參ね申させ給ひしかば、はした色はめづらしかるべきよしを申させ給へるとなん、後鳥羽院の御時、松殿の入道關白殿〈○藤原基房〉のはからひ申させ給ひしより、御まりに御さしぬきをめさるゝことにはなりにたり、はれの御まりにくれなゐの御はかまにくゝり、をあげさせ給、又小ぐちの御はかまをめされたる例も有とかや、

〔親長卿記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1131 文明四年正月廿日、申剋參内、可屮有御内鞠〈昨日右兵衞督奉書有催〉也、〈○中略〉可參御前之由有仰、卽祗候、仰云、今日可有御内鞠、可有著御御直衣歟如何、予申云、爲堅固内々事、强雖不被召不可苦歟、舊院御在位之時分、細々自々御鞠御小袖御服許也、故飛鳥井膾大納言〈○雅世〉申入之故也、〈○中略〉暫出御、於室町殿御對面所〈九間也、可爲淸凉殿代之處、頻右兵衞督申沙汰也、〉有御内鞠、〈南方一間懸御簾、敷御座於内、〉〈嵩北面如何〉飛鳥井前大納言〈雅親、夏衣冠、〉予〈直〉 〈衣〉源中納言〈雅行、衣冠、〉滋野井前宰相中將〈軟國、衣冠、〉藤宰相〈永繼、衣冠、〉右兵衞督〈雅康、夏直衣也、未拜賀也、去々年行幸室町殿御鞠之時、雖爲未拜賀、雅輕卿未拜賀之時著訃直衣、先規勘之、就先規著用之、其後内々祗候之時、連々著之、今日又直衣如何、〉兼顯以量等也、 五年四月廿五日、於殿上無名門前有鞠、予談右兵衞督〈雅康〉云、香狩衣拜直垂上括可著三鞠場之條如何、於香者種々有其沙汰、但如予可著之條不可有相違、云年齡、此道爲數年之事、旁以無餘儀之由命之、

〔時慶卿記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1132 天正十九年三月七日、晩一二眉衣袴ニテ鞠アリ、某モ少蹴候、早々二河野來儀ニテ此亭場二テ少蹴試候、

〔宗建卿記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1132 享保十六年七月十二日、去日被抑下主上御鞠之時著御之湯帷之事、勘物入叡覽、鞠譜之締絡事口傳等、〈略之朱〉 十三日、主上著御御湯帷之事、勘物入覽之義、卽一紙入見參了 十九年六月九日、主上御鞠之時、著御御帷、先日有御尋、於御鞠之時、有旬例稱明衣薯御之由書上之、前年依有御沙汰獻勘物、今度依有御尋禰以子細有間敷由申之、其後參殿下之節申之處、是又被聞此説了、仍今日著御之了

〔耳囊〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1132 和歌によりて蹴鞠の本意を得し事
京都の町人にて名も聞しが忘れたり、飛鳥井家の門弟にて蹴鞠の名足なりし故、總紫を免許あるべきなれど、町人の事故裾紫をゆるし給ひけるを、彼者歎きて、
紫の數には入れど染殘す葛の袴のうらみてぞ著る、かく詠じければ、別儀を以總紫を免されけるとなり、

冠纓

〔宿德裝束抄〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1132 懸緖
自後鳥羽院比、爲蹴鞠用紫組、

〔諸家家業記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1132 蹴鞠〈井冠掛緖之事〉
飛烏井 難波〈○中略〉 兩家より冠之掛緖免許之事有之候、右も元來蹴鞠より事起り候儀に而、兩家江入門、蹴鞠凡五十度出座之後、叡慮を被伺、紫之掛緖免許被致候事御座候、

〔職原秘抄〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1133 一冠ぶ古バカケ緖ナシ、コレモ行儀ヲ直ユシ、瞻覗愼マスル心ナルベシ、サレドモ蹴鞠ノトキニ懸緖ナクテハ落ルニヨ、、狩衣ノ袖ノ括ヲノ緖ナドヲ解テ掛緖ニ用ユ、ソレヨリ高官ノ衆ハ、紫ナドヲ用ラル、ヨリ始ル、本鞠ヨ、出ルコト故工、于今飛烏井家へ斷テカケラル、

〔親長卿記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1133 明應五年閏二月廿四日、午剋許有女房奉書、以量朝臣鞠事多年執心之者也、奉公又隨分成功、仍今日組冠懸可被卞之可爲如何哉、其子細飛鳥井中納言入道〈○雅親〉等も可仰云々、畏承存候、〈○此間缺〉以量朝臣組冠懸御免可然、何樣可仰二樂等も之由申入了、

〔言繼卿記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1133 天文二年正月五日戊申、六過時分、飛鳥井參内とて、此方へ來儀用意也、一盞勸了、紫組懸持來被與、予祝著之、侍從禮に可來、然ば遲々とて太刀糸卷同被持來了、則同道候て參内祗而御對面、予申次、於男末天盃頂戴了、三條大納言先之御對面有之云々、鷲尾申次云々、鷲尾宿退出了、予一身也、組懸之事禁裏にて御案申候、飛鳥井は申間敷由候へども申候故實歟、 六日己酉、從飛鳥方書狀有之、昨日被與候懸古物とて被取改候、同、一通如此有之、〈立文也〉
就蹴勤久門弟契約紫組冠懸之事、連々御懇望之條令進之候、可有御著肝候、彌此道可令勵御執心給事肝要候、恐々謹言、
正月六日 雅綱
山科殿
則請文仕候て遣之、如此也、
就工蹴鞠御門弟紫組懸之事、連々懇望候處、只今拜受有難存候、彌此道不可存如在候、獪々御敎訓所仰候由、宜得御意候、言繼誠恐謹言、 正月六日

烏帽子

〔蹴鞠簡要抄〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1134 一烏帽子事
或云、與州説云、ゑぼうしはこはかるべからず、ゆへはいかでとなれば、鞠のあたる時まりにゑたがひておちぬ也、

〔遊庭秘鈔〕

〈中〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1134 烏帽子懸事
此事當家〈○御子左〉一流のともがら、井門下の人々鞠の座敷にても、あらはにゑるくみゆ、古は飛鳥弉難波の兩流は、鳥帽子の中よりかみひねりを引出して、烏帽子もおらずして用之、當流は御所より授下されし樣に用之、烏帽子を左へ折て紫の組のわなの侍るを用之、下ざまの人かみひねりを結て用之、絃にたつさはる人は、比巴琴の緖をわなに結て用もあり、間口絃をたしなむ身などは、粒に携侍らざりけん、よにおもしろき烏帽子かけかなとみたまふ物也、廷尉人、検非違使別當以下、當流の人はもえぎ糸のくみたるべし、一足蹴て後用之、冠にもそのくみは兼用と云也云々、

〔了俊大草紙〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1134 一鞠の事 難波 二條 飛鳥井家也
人の好足の品二よりて、此三家の内いつれにてもまなぶなり、鞠の庭に著座の事、皆圓座ニ居也、難波門弟の人は、右足を上に置て、烏帽子の風折をば、烏帽子の内裏を額留の前さすニ、紙ひねりを長して、からみて風折する時引出てする也、琵琶琴を引人は、琴の十の緖、又は三の緖を烏帽子懸に用也、二條家飛鳥井家には、左足を上二置て、風折をば只上よりをしかけてする也、

〔遊庭秘鈔〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1134 韈〈付結緖事〉
此事を當道第一大事とす、秘事も口博もあり、又先途も侍べし、尤可有執心事也、ゑたうつの色に又おなじ、形は流々に皆かはり侍り、當家〈○御子左〉の説は、後鳥羽院授下され侍し以來、五代之聞、一人も中絶ことなく、先途を達し侍也、皮は韈のかたを致にて相傳して用之、則在左枚、〈○圖略〉ぬひ樣は ゆがけかはたびなど云樣なる物にはかはりて、おもてよりうらへとをして、針目ありくとねりぐりの糸にて縫也、左右なくほころびずして珍重也、二足かさねて著て、右の足をゆふ也、左足ともにゆふ事、當道譜代の堪能の老者の所行也、姐父入道〈爲世卿〉大納言此作法を振舞侍りし也、抑奧儀の色は、無文の燻革也、以之長者色といふ、當道譜代の人、或御年たけさせ給ふ、仙洞、又は上足の攝籤臣、さりぬべき大臣ならでは不可著用之、當時の世には、近衞前博陸〈道嗣公〉愚身〈○御子左爲定〉兩仁外、此色著用したる人なし、四十以後預勅定はく韈也、御所々々の此長者色めさるゝも、道の宗匠に仰合されて被召之、建武のむかし、後伏見院めされ侍も、禪門爲世卿に忝も仰談せられ侍て、御著用ある紫革錦革は、貴人のめすものなれば其恐あり、地下輩は此色相應せずと玄るしをけり、其昔は、ゑたうつの色々の沙汰まではなきゆへ也、承元に、後鳥羽院、色々重々を定をかれしより、被下勅裁著用之、是より次の色は無文紫革也、是はいたく臣下のはき侍事なきにや、燻革の色までをよばせたまはぬ、御所樣のめさるべき色などにてや侍らん、後醍醐院建武御鞠にめされし也、有文紫革、是は殊勝の色にて、綸旨院宣を下されてはく色なり、隨分の韈也、おぼろげにて不可著之、堪能の名譽侍し賀茂基久、定久など申侍りし當流門下の輩も、此紫革までゆるされ侍き、大方賀茂輩韈勅免之時は、當家へ勅裁被卞て施行し侍る例也、此色は無文黑革に、白革或は白紙にて文を押て用る也、又紫白地も常事也、ゑのぐにて繪にかく、是又子細なし、次錦革韈禁色と號してばなやかにうつくしくめでたき色也、同勅裁を給て用て、色々のゑのぐにて文をかく常事也、又有文燻革と云あり、これは勅裁まではなし、一流之宗匠のはからひにて、我門弟のさりぬべき器用ならん人に、是をゆるす韈也、武家の輩、或重形以下、僧法師など、公宴にいたくのぞみならん人には、師匠の命にて著用し侍らん、尤可然事也、市來武家と申侍りし堪能の仁も、故難波三位宗緖卿にゆるされてはきし也、又此次に藍革韈と云色あり、師匠にゑたがふゑたうつのかたを申 請てはくべき也、白革か花色に繪をかきても用也、はじそめ小櫻などをも藍革の内也、又院内裏及親王家に、御韈は紫革にぬひ物をして、まはりにふせ組をして、うらに繰貫をつく、御下はきはた寸普通の韈也、他流にて練貫のうらならでは、白革をうらに付て、只一足めさせ給といふ説もあり、又束帶の時、きののしたうつを用事常事なり、〈結緖にゝ、車の簾のあげ革な司申之云々、〉革の韈又勿論事也、又結緖と申侍は、よき革をかはたけ二寸計に切て、つよくさして、沓まはす所、ちとほそくて、兩方のさきはひろくて、そとはかしらにきるべし依韈ておなじ革をも用、又ふすべ革のゑたうつに、紫革のゆひを、紫革のゑたうつに、紫革のゆひを、つねの事也、自餘これに准ず、

〔吾妻鏡〕

〈二十二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1136 建保二年二月十日乙巳、今日坊門新黃門忠信使者自京都參著、被送蹴鞠書一卷、彼卿去年十二月被聽紫革韈、宗長朝臣同云云、

〔吾妻鏡〕

〈四十七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1136 康元二年〈○正嘉元年〉四月九日甲午、申剋御所御鞠也、〈○中略〉抑今日二條三品、著燻白地韈、而宗敎朝臣難申云、於此色者、日來不用之、如承元式者、著有文燻革熱頗不甘心云云、沓

〔成通卿口傳日記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1136 一沓程足結事
あたらしき沓もちゆべからず、三四度ばかりはきなれたらん沓よし、新はかへりてあしき事也、ふるき鞠のときは、足をつよく結、新鞠の時は足をゆるにゆふべし、是迄、はようつの人のき、ならへども、まことを芝らざる也、まことを心え、このやうをさたすべし、

〔遊庭秘鈔〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1136 沓事
明日香井、難波兩流には、聊はなを、し侍也、うらをもちとをし侍るにや、當家〈○御子左〉の説は、鼻をもうらをもをし侍らず、殊にそりかへりたる沓に、木じきと申物なき木、〈桐杉〉くつの底にうつくしくすきまなく作あはせて、績飯にてつくる也、そくゐ本儀ならず、つよくはたらく足ぶみには、木じきなどもそへず、やがてはなれ侍間、漆膠などもこらへがだく候間、むぎ染などにても付侍、左右 なくはなれず、足ぶみもあらはにきこえておもゑうし、木じきのうへにまくもをたてざまにひとへ、よこざまにひとへ、あをき糸にてあみてしきて、そのうへにかみを折合て玄くべし、沓の中の兩方をはいすべきや、出仕の沓のごとく、家の文などはかゝず、たゞ玄ろきかみのゑきなるべし、とゝのへやうは、沓のぬひめいかにもよはくて、やがてやぶられやすし、ほころびぬれば、いたづら物也、よてねり糸に麻をより合てくつぬひにたびて、した地をたかくてうじて、木じきをばする也、又左沓ぬがす事ちじよく也、右くつは結緖きれてぬげたるもはぢならず、あたらしき沓、はれの會に、ゆめくこれをもちゆべからず、いさゝかふみならし侍るは尤も此也、ねこがきのうへの沓口傳あり、まつはかたなにてうらをたゝきてもちゆ、又水にてしめしても用也、左の足をしたうつの下より履の木じきまであなをとをして、内よりみえぬやうにゆひ侍説ありと云云、返々見ぐるし、かつは其儀あるべからず、法師は鼻高を用説あれど、只普通の沓も子細なし、又大織冠の人臣の棟梁にならせたまへるも、天智天皇御鞠あそばし侍けるに、御沓ぬげて難儀なりけるを、いそぎ被執進ける故也云々、

〔蹴鞠簡要抄〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1137 一履事
師説云、鞠のくつはいたくあたらしき、叉ふるき共にネ可也、すこしはきならしたるが能也、但成卒はひたあたらしの沓こそよけれとて用也びらみぬるは延足のおりにわろきなりと云々、同云まりぐつはかろかるべし、おもきはあしいたく、まりもけにくし、源九云、皮ぐつはこはきはをりくて足のいたきなち、かはうすきくつのあしにゑたがひたるがよきと云々、

〔親俊日記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1137 天文七年四月廿三日丙寅、池淵鞠沓仕之、

〔言繼卿記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1137 天文廿一年四月七日己未、玉泉院使有之、今日惡日之間、明日飛鳥井へ可同糞又鴫沓之間可談合之間、可家之由被申之間、萬里へ罷向沓沙汰也、 永禳二年六月十三日、飛鳥井前宰相〈○雅敦〉予声鞠沓錦革可著之由被示也、荀遁相明後日在國云々、

〔本朝世事談綺〕

〈三/態藝〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1138 賀茂沓
今用鞠沓なり、洛北賀茂より始るゆへに此名あり、鴨の觜に似たるゆへに云とは非也、上古は沓なし、裸足或は韈を用ひたり、革沓出來て後、御家にもよろしきにして用ひ給ふにより、下々專これを用也、賀茂の社家松下兵部は、鞠の譽ありて、世に鳴りし人也、此兵部のはじめたる事にや、
神田沓
栗本光壽は、鞠の、搴といぶ沓味を丹練したり、又沓の形も異なるか、光壽は祕田に居す、よつて此名あり、

〔雍州府志〕

〈七/土産〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1138 鞠井履 所々製造之、其内町口通竹屋某所造爲良、蹴鞠時所著兩星之履亦然也、

祿井飮食

〔成通卿口傳日記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1138 鞠足饗膳の事
主君またむねとあらん人美膳を儲よ、御座につきてすゝむべし、興に入なば、おのくあし次第に座をはをるべし、上手なれども昨日の鞠に不覺ゑつればさ今日の座に末につくべし、興ある事也、

〔遊庭秘鈔〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1138 煎物破子以下食事
蹴鞠には、いかにも喉かはく物なれば、尤煎物珍重也、五香にまさる物有べからず、身の中をすゞしくなす也、源九云、柿びたしは、あはふきてけうの物也、本用之、鞠譜に、ことに酒はちとすぐしたるがよき也と書置也、於身本文に不叶、破子煎物は晴の鞠の庭にもをけりと、むかしの記に見え侍れども、當時は閑所に用意すべし、尤可然、干飯などかねて〈○此間恐有脱文〉名足の人には必祿をかけ侍る、長實卿八足のつゞけ延足の時に、盛長あせくさき帷ぬぎてかけゝるを、大貳にげ侍けるに、獪おひかけゝるといへう、成通卿二千日の鞠の結願には、よろしき人に、檀紙薄樣、侍輩にゑやう ぞくを給とあリへ同人淸水寺の高欄のうへの鞠、我家、の侍所、臺盤のうへの鞠以下、てんとうにあそここ、の地とも、故殿〈○藤原宗通〉より給けるといへり、又禪門〈○藤原爲世〉も圓滿院のまりに名譽のあし蹴て、雪折と申名牛を給けりとなん、
祿事
衣祿の事、前の煎物破子等の中にこもれりと云々、

〔十訓抄〕

〈七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1139 六條前齋院〈○後朱雀皇子祿子内親王〉と聞えさせ給ける宮の御所に、いみじきかゝりをうへられたりけり、三月のはじめつかた、其逍の上達部殿上人あまた參て、鞠つかうまつりけるに、公卿座に、雪をかはらけにもりて、主殿司してすへをかれけるを、雪とも見わかざりけるにや、鞠の座に食物をすゝめらる、事、そのためしまれ也、いか樣にかとてあやしみ申て、各出られにけち、或有職後に此事を聞て、いみじぐこそ雪をば出されける、さる事あるらん共ゑらで、近くよりて見る人のなかりける、ゆ、しき耻也、又鞠の時、雪を出さるゝ定れる式なれども、ことさらにかはらけにもられければ、人の心をはかりて御覽せんとの御ゑわざ也とそ申ける、宮の御高名、鞠足の不覺にてぞ有ける、

〔古今著聞集〕

〈十一/蹴鞠〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1139 後二條殿、〈○藤原師通〉三月の比、白河の齋院〈○白河皇女令子内親王〉へ參給て、御鞠の會有けるに、ゑばし有て、かざみきたる童、勗をさして片手に蒔繪の手箱の蓋に薄樣敷て、雪をおほく盛て、日隱の間の御緣に置て歸入にけり、御あせなどたりげにて、日隱の間に沓はきながら、御尻かけて、御手などにてはとらせ給はで、檜勗のさきにてすこしすくひてなりけるが、耄みたる雪にて御直衣にかゝりたりけるがとけて、二重裏にうつりいでゝ、むらくに見へける、さて御鞠有ける、いとうつくしうやさしくなん侍ける、

〔詞花和歌集〕

〈一/春〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1139 太皇太后宮〈○白河皇女令子内親王〉賀茂のいつきときこえ給ける時、人々まいりて、まりつか うまつりけるに、すゞりのはこのふたに雪をいれていだされたりける、ゑきかみにかきつけ侍ける、 攝津
櫻花ちりゑく庭をはらはねばきえせ鼬ゆきと成にける哉

〔增鏡〕

〈十/老の波〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1140 やよひのすゑつかた、〈○弘安二年〉持明院殿の花ざかりに、新院〈○龜山〉わたり給ふ、鞠のかゝり御らんせんとなりければ、御前の花は、梢も庭もさかりなるに、よそのさくらをさへめして、ちらしうへられたり、〈○中略〉春宮〈ふしみ殿〉おはしまして、かゝりの下にみなたちいでたまふ、兩院〈○後深草、亀山、〉春宮尢、せ給ふ、中半すぐるほどに、まらう人の院のぼり給ひて、御ゑたうつなどなをさるゝほどに、女房別當君、又上らうたつ、久我の大おとゞのむまごとかや、かばざくらの七くれなゐのうちぎぬ、山吹のうはぎ、あか色のから衣、すゞしのはかまにて、しろかねの御へぎ柳筥にすへて、おなじひさげにて、柿びたしまいらすれば、はかなき御たはぶれなどのたまふ、

鞠本尊井鞠神

〔蹴鞠九十九箇條〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1140 一鞠の本奠の事
南無普賢菩薩也、口傳云、鞠の上は一切衆生の生也、下るは一切衆生の死なり、中間は人間也、鞠の體は六道輪廻也、腰皮は命根也、生老病死の四節也、甚深可思者也、

〔享德二年晴之御鞠記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1140 承元二年の四月、〈○中略〉大炊御門前太政大臣賴實公の第にて、竟宴のことありて、〈○中略〉千足あがりし時のことにや、まりの明神をあがめ申されて、紀行景といふものを神主にざだめられて、種々の棘事など行はれける、其みやしろ今にありとかや、

〔言繼卿記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1140 天文十七年正月五日壬午、早旦敷地鋲主春日社上御靈へ參、召具長松丸、俘澤路彦九郎、同藤二郎、井上將監、雜色猪二郎、澤路小者三人等也、於上御靈棘樂參候、朝喰以後祗園下御靈鞠明神等へ參詣了、
○按ズルニ、鞠神行ノ事ハ神祗部工胛祗總載挟扁ニ載セタリ、參看スベシ、

曲鞠

〔本朝世事談綺〕

〈三/態藝〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1141 蹴鞠
外郎汳、洛陽西洞院陣外郎二位杏林、鞠に手練して、灑々の曲を蹴たり、その子右親衞政光、父の縛へを得る、そのころの地下人專これを傚ふ、外郎汳の始これなり、當時御家の流儀を學ぶ輩は、轉業なりとて、此流を用ひざる也、頃年地下にて上手といひしは、京菱屋市右衞門、はりま屋長右衞門、〈後に友助〉籠屋淸兵衞、〈鞠師〉竹の屋藤衣、〈同〉大坂の甚左衞門、〈後に甚八〉江戸綿屋五郎右衞門、服部休甫、三木可眞、栗本光壽等也、其外是にかぎるべからず、國々所々に上手多かるべけれども、聞覺べたるを記すのみ、

〔嬉遊笑寬〕

〈四/雜伎〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1141 松下主殿といひしもの、予〈○喜多村信節〉が若年の時、幾度も見物し侍り、住吉のそり橋けわたらんけいこにとて、屋根をのぼり下りけたり、妙顯寺にては、二王門より蹴行て、諸堂に蹴あがり、緣をめぐりて邃に鞠はおとさず侍りし、かゝる自由さま人丶の曲などをけたりけれども、此らは誠の鞠といふものには侍らざりし、其ふら蹴ざま、まり色沓色各別のもの也、〈○中略〉明和のころ鞠の小六といふ者よく曲まりをけたり、名物鑑に小六曲鞠と題して、曲まりを上からおとす雲雀かな、

雜載

〔吾妻鏡〕

〈二十一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1141 建曆三年九月廿六日癸亥、宗政怒眼、盟仲兼朝臣云、〈○中略〉當代〈○源實朝〉者、以歌鞠爲業、武藝似廢、以女姓爲宗、勇士如無之、

〔增鏡〕

〈十/老の波〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1141 ある時は御小弓いさせ給ひて、御負わざには、院〈○後深草〉のすぢにさぶらふかぎりの女房をみせさせ給へと、新院〈○亀山〉のたまひければ、董の鞠蹴たるよしをつ寸りなして、女房どもに水干きせていだされたる事も侍りけり、

〔細川家記〕

〈五/藤孝〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1141 慶長十二年七月、豐前に被成御座候處、同七日小倉にて和歌の御會あり、これ忠興君四本松御相傳にて、飛鳥井殿も御下向、右御開の時也、然者飛鳥井殿より、兼ての出題を幽齋君 〈江〉被仰入候處、御返答に、歌鞠ニ邁、其上出題の御家、御辭退におよばざる儀と被抑候故、無餘儀松添榮色と云題を御出し候なう、

〔桃源遺事〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1142 一蹴鞠は武士には似合ぬもの也、足にかけて頭上面部にいたるものなれば、遊戯といへども、士たる者のもて遊ぶべきことにあらずとそ被仰ける、

〔閑田耕筆〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1142 蹴鞠の伎、むかしは若き人の戯にてありしにや、狹衣の物語に、人々まり弄ぶ所に、大將やゝもせば下りたちぬべき心地す、今少しわかくばなどやうにのたまへること、まだ二十ばかりにやとみゆるさまなれども、官位やゝ高ければ、おとなしやかにもて玄づめ給ふと見ゆ、源氏若菜の卷も趣同じ、もろこしの打毬も、少年行の態なり、彼物がたうどもは、實事にあらざれども、其代の趣をもてかければ、かゝる證には取べし、

〔兼載雜談〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1142 一古き抄ニ云、鞠の上手人有しが、懸りの木を見て、あのえだに落ん時は何とけ、このえだにかゝらんときは、何と身をもつべきと、卆性心にかけられしと也、うたも連歌も心持如此成べしとなり、

〔補菴京拳別集〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1142 蹴鞠圖〈三幅一對、左右牛畫、○中略〉
一薗山河誓殆終、朝々行樂在宮中蔑猪數百年天下、蹴鞠春閑柳絮風、〈○二首略〉

〔槐記續編〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1142 享保十六年六月廿九日、頃日ズシトフルキ鞠ノ書ニ、マリハ七條河原院ヨリハ、四條アマベノマリヲ好ムト書タリ、四條トアレバ、今ノエタ村ナルベキカ、アマベト云文字ハ、イカヤウニ書タルヤラン、蜑戸トカクノ由仰ナリ、蜑ハ海邊ノモノナリ、村里ノ者ニ非ズ、蜑戸トハイカゾト、滋野井入道ノ申サレシ程ニ、夫ハ考ヘヤウアシ丶蜑ハ海邊ニ限ルモノニ非ズ、海ニ入テ魚ヲトル者ヲ蜑ト云、山ニ入テ木ヲ切ル者ヲ蜑僕ト云フヨシ、夷域志ニ見エタリトテ見セシカバ、入道大ニ威ジテ、多年ソ不審晴タリトテ、喜悦セラレシト仰ナリ、

〔好色一代女〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1143 妖寧寬濶女
蹴鞠の遊びは男の業なりしに、さる御方に表使の女役を勦めし時、淺草の御下屋形へ御前樣の御供つかふまつりてまかりしに、廣庭きり島の躑躅険初めて、野も山も紅の袴を沼したる女藺夥多、沓音靜に鞠垣に袖を飜へして、櫻がさね山越など へる美曲を遊ばしける、〈○中略〉鞠は聖德太子の遊ばし初めての以來、女の業には例無き事なるに、國の守の奧方こそ自由に花麗なれ、


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Last-modified: 2025-04-02 (水) 11:23:44