https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0047 儉約ハ、ツヾマヤカト云ヒ、又節儉トモ云ヘリ、冗費ヲ省キテ有用ニ供スルヲ謂フナリ、儉約ニ似テ非ナルヲ吝嗇ト云フ、古人之ガ説ヲ爲シテ、曰ク人ニ施ス事ノ薄キヲ吝嗇トシ、身ニ奉ズル事ノ薄キヲ儉約トスト、凡ソ儉約ハ治世ノ要ニシテ、世浮華ニ流ルヽ時ハ、屢、令ヲ發シテ之ヲ戒飭シ、叉時ニ上表シテ奢侈ヲ禁ゼン事ヲ請ヒシ事アリ、

名稱

〔伊呂波字類抄〕

〈計/疊字〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0047 儉約

〔書言字考節用集〕

〈八/言辭〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0047 約(ツヾ、マヤカ) 儉(同)

〔女大學〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0047 一人の妻と成ては、其家を能保つべし、〈○中略〉萬事儉(つゞまやか)にして費を作べからず、

解説

〔鵞峯文集〕

〈十九/説〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0047 儉説〈伯元爲武八之〉
孔子曰、奢則不孫、儉則固、與其不孫也寧固、二者倶失中、而救時之弊也、奢者人之所欲也、儉右人之所厭也、然儉則保身、奢則失家、故方丈之食、得志不爲也、二簋之薄、與時偕行焉、季氏八佾之舞、獲罪於國君、晏子一裘之蔽、終身於卿相、可思哉、臧孫妾織蒲、儉則儉矣、不君子之譏、公儀拔園葵、似儉而有良相之名、乃知一豐一儉、稱家之有無、而節出入之用、則不不孫固、以可中乎、兵家亦有言、苦莫於多一レ願、吉莫於知一レ足、非抑奢守儉之謂乎、爲武人者、不知焉、

〔貝原篤信家訓〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0047 士業勿
一平生財用の節なく、侈費す事多ければ、財不足する故に、貧窮を救はずして不仁に流る、廉恥の心も自薄く成て、義理をうしなひ、親戚朋友の交り、簡略にして禮に背き、人の財物を借ても償ふ事ならずして信をうしなひ、軍用に乏しくては不忠となる、財を用る事宜にかなはざれば、財不足して憂きこと如斯多し、常に身に奉ずる事儉約にして、財を用ひ過さず、奢を抑へ費を省き、入る事を量りて、出す事をなし、餘財を存して困窮を救ひ、不虞に備へ軍用を助べし、古人三年耕作して一年の食あり、其の祿を四つに分て三つを以て一を殘す、是古財を制する法な り、又變災なくば、人の財を借らざれ、借らば强く儉約を行ひ、常に心にかけてはやくかへすべし、疎にすべからず、人の財物を借りて返さゞるは、至て不義なれば、我子孫かならず是を誡べし、此儀を能々まもるべし、また財多くば人に施すべし、吝嗇なれば仁義のみち行れず、不仁不義になるなり、夫れ身に奉ずる事薄きを儉約として、人に施す事薄きを客嗇とす、儉約は善にして吝嗇は惡なり、これ天地懸隔ならずや、愚なる人は必此二つのものを辨へず、大樣同事のやうにおもへり、

〔年山紀聞〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0048 節儉
西山公〈○德川光圀〉常にのたまへらく、天下國家の主より士庶人にいたるまで、儉約を第一の德とす、今や天下久しくをさまりて、人々おぼえずしらずに、衣服馬鞍腰刀のかざり、もろ〳〵の器物食物家作りにおよぶまで、男女ともに奢侈におもむきたるゆゑに、その國用家費たらはず、是しかしながら、上たる人の心をもちひられず、たゞ榮花にのみならひくらし玉ふより、その風俗おのづから下にをよべり、あまさへへつらひの進獻に美をつくし、なほその執事近習の輩に至るまでも、をの〳〵美物をあたへて、おひげの塵をはらふ、此風一たびおこなはれて後々は、天下の窮困となれり、いはんや土木(ふしん)をこのみ玉ふには、諸國の手つたひをかりたまふゆゑに、國主萬金をついやす、國主くるしむゆゑに、その士農工商をしえたげて、一國の困窮となれり、治平久しければ、いづれの世もこれなり、舜禹の德をしたふまでこそあらざらめ、せめて漢の文帝の節儉にましませし時に、天下ゆたかに人々其所を得て、安堵のおもひをなせし時を、人主は目あてにして、身もちをつゝしむべき事なり、士庶人のせばき家の内とても、程々にしたがひて、儉約をまもれば、親類友だちをたすけやすく、子孫に藝術をしふるも、まどしからず、但し節儉と吝嗇とまぎるるものなり、此あひだをよく〳〵わきまふべし、吝嗇なれば、上たる人には、諸人なづかず、下たる ものも、親族朋友むつましからずして、人倫の義理をかく事のみなりなど、こまやかにをしへかたらせたまひたれど、十が一をだにおぼえ侍らず、その大意なりともとて、いさゝか書つけ侍りぬ、

〔辨名〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0049 節儉〈二則〉
節者禮義之節也、禮義皆有限、而不踰越者、是之謂節、節之云者、守其限而不敢踰越也、大節者、乃謂禮義之大限也、皆道之目也、自聖達節、次守節之言、而後世遂有節士節婦之稱、以命其人之德已、儉者節用也、如温良恭儉讓、宋儒誤以爲聖人威儀、遂謂儉不一レ節用者非矣、蓋儉者仁人之道也、王者之大德也、堯舜茅茨不勇、土階三尺、禹惡衣服、菲飮食、卑宮室、豈不然乎、孟子所謂仁民而愛物、蓋古言也、謂惜物也、因孟子又有愛牛之説、而宋儒誤以爲慈愛之愛者非也、數罟不袴池、斧斤以時入山林、皆不天物之義也、若徒以慈愛之、則孰若浮屠之戒一レ殺乎、孟子所仁術上レ之者、欲以誘齊王、其好辯之失、率如是耳、如禮與其奢也寧儉、亦謂節用也、觀今也純儉、可以見已、又曰、富而好禮、子路曰、傷哉貧也、生無以爲一レ養、死無以爲一レ禮也、曾子曰、國無道、君子恥禮焉、國奢則示之以儉、國儉則示之以禮、子思曰、有其禮其財、君子弗行也、有其禮其財其時、君子弗行也、蓋禮必備物、貧則不備矣、雖貧、然節其用而不必盈一レ禮、是儉也、必欲物而侈其用、是奢也、後儒不諸古言、徒謂儉者不及之謂、而欲禮爭過不及、其論遂致通、學者察諸、

〔蘐園談餘〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0049 儉約トモ節儉(○○)トモ云、用ヲ節丱シ財ヲハブクコト也、所用ヲ節略シテヘラス時ハ、物入自ラ減省スル也、格ヲカへ事ヲヘサズシテ、只財用ヲ省カントスル時ハ、吝嗇ノ形チニナリテ甚アシヽ、客嗇トハ財ヲ慳ミテシワキコト也、己レニ益ス時ハ人ニ損アリ、財ハ人ノ欲スルモノ也、然ルヲ我ノミ金持ントセバ、人ノ怨ミ出來テ人情離ル、カヽル人ハ父子兄弟ノ間サへ睦シカラズ、論語ニ用ヲ節シテ人ヲ愛ストノ玉ヘリ、用ヲ節スル時ハ、人ヲ損ズル氣遣アル故、何故ニ用ヲ 節スルゾナレバ、譬ヘバ諸侯ノ上デイハヾ、國ヲ保チ人ヲ安ゼン爲ニコソスルナレ、用ヲ節スルガ爲ニ、人ヲワコナビ、人情離レバ、何ノ益カアラン、士大夫已下一己ノ身ノ上トテモ皆同ジ道理也、其上物マラケセン、金モタント思フハ、浮世スギスル賤者ノ心ニテ下劣ノコト也、内其心アレバ、モノ云ヒ形チニモ自然ト下劣ノ相アリ、士ノ恥ベキコト也、
恭儉ト驕奢トハ裏表ノ事也、恭儉ハ吉德ナリ、驕奢ハ凶德ナリ、恭ハ丁寧ナルコト也、丁寧ナル人ハ質素簡約ニシテ、自然ト財用費ス樣ノコトヲ好マデ、儉ナルモノ也、驕ハフトク出テ、緩怠無禮ナルコト也、サヤウノ人ハ餘盛ヲコノミ、何事モカサアルヤウニト思フニ付テ、自ラ奢侈シテ、財用ノ費アルモノ也、カヤウノコト勘辨アルベキコト也、

〔伊勢平藏家訓〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0050 儉約の事
一一生の間に金銀米錢をつかはずしてはならぬ事なり、其つかひやうに儉約といふ事を知らざれば、無益の費ありて、家貧になるなり、儉約といふは無益の費をいましめて、一錢をもみだりに出さず、益ある事には千金をも出すべし、無益の費をいましむるは、益あることにつかふべきが爲也、無益とは朝夕の食物に、種々のうまき物を好み、衣服も美きを好み、家作も結構に作り、妻妾におごらせ、好色遊興を專とし、其外奢の爲に金銀をつかふをいふ、益ある事といふは、主人に奉公の入用、公儀向の物入を初として、父母、兄弟、妻子への手あて、家來へのあてがひ、義理仁義の音信贈答、家作の修復、其外不慮の物入等の類をいふなり、如此無益と益あるとの二つを分別して、能つめゆるめをするを儉約といふ也、儉約といふ事をわろく心得れば、父母妻子家來までの喉口をもしめ、義理仁義をも闕き、禮義作法もかまはず、みだりに物入をかなしみ、金銀をつかはずしてしめこみ、無益の事はいふに及ばず、益ある事にも曾てつかはず、みだりに金銀ををしむ人あり、是は儉約といふものに非ず、吝嗇といふものにて、甚いやしき事 なり、いやしきのみならず亂の基なり、小を以ていはゞ、家内の者にくみ疎み、いさかひ絶ず、大を以ていはゞ、天下の萬民恨み背く、亂の本とは此事なり、又金錢を塵埃をはらひ捨る如くに、妄につかひ捨て、人にほこる人あり、是は奢侈といふものにて、是も又亂の基なり、金銀をしめこみて、つかはぬも又惡し、みだりにつかひ捨るも惡し、其中分を取て、つめゆるみを能程にするを儉約といふなり、

〔本與錄〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0051 一儉約をむねとすといへども、儉約と吝嗇と似て非なるものなら、儉約とは其分をうちばにすることなり、人君には人君の分際あり、卿大夫には卿大夫の分際あり、其分をこゆるを奢といふ、其分よりうちばにするを儉約といふ、吝嗇には世にいふしわくさもしきをいふ、世に儉約の名を假て、吝嗇を行ふもの多し、吝嗇なるものは、必不仁にして慘刻なるものなり、儉約の名を以て、しわくむさく人情にはづれて、人の苦をも顧ず、人の心もはなるゝものなり、是故に孟子爲富不仁なりといへり、儉約と吝嗇との分、是また辨ふべき事なり、凶德と盛德との界なり、吝嗇の人は必不仁としるべし、

〔年成錄〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0051 雜議
仁惠の政を行はんとならば、まづ儉節の法令を立べし、上下とも儉節を守りなば、仁惠の行とゞかぬことはあるまじきや、
儉とはもとすこし疵あることばにて、大中至正の道にはいまだかなはざる文字なり、然るに泰平うち續きて、華侈にならひきたる世中なれば、心ある人、至極儉節を守ると思ひても、いまだ大中至正まではゆきいたらず、尚華侈の風の殘りたるこそ、多かるべければ、儉とのみ心おきして、其失はなきことなり、故に儉の失に遠慮なく、今の世にては儉節を國是とすべし、もし後年儉の失のいで來る時は、又智ある人々、其よしを申たまへ、今にてはいはず、 口には儉を唱へて、心には吝嗇貪欲を逞くし、掊克を以て下をくるしむるは惡なり、儉とは筋の違ひたることにて、いづれの時にてもあしく、たとへば其身平日疏食をくらひて、時により人に食をすゝむるに、華侈とはならで、身の程にしたがひて、しなよくするを儉節といふ、其身平日美食をくらひて、人には一飯をもわかたず、たま〳〵に人に出すも、身の程に劣りて、至りて麁惡なるを吝嗇といふ、この兩言をかねてよくわきまへしるべし、

〔東濳夫論〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0052 儉約ト云コトハ、當時諸侯ノ流行リ言バナリ、隨分金財ヲバ相應ニ儉約スル國モアルナリ、然ドモ事ヲ省クコトヲ知ラズ、當時諸侯ノ國文事、ニモ非ズ、武備ニモ非ズ、昔ヨリ仕來リシコト甚ダ多シ、其一二ヲ舉ゲバ、謳初メ、皷初メ、舟乘リ初メ、鷹狩初メ、此等ノコト初メミナ益ナキコトナリ、次ニ番警固入ラヌ處ニ甚ダ多シ、先儒ノ言シ如ク、出行ノ鹵簿モ大勢ニシテ、軍陣ノ備ノ如シ、是類ノコト皆幕府ヨリ殺ギステ玉フベシ、連歌師、碁打、將基指、何ノ用カアラン、皆省クベキ役ナリ、畫工ナドモ寫眞形畫ハ用アリ、水墨破筆ハ國家ノ用ニタヽズ、官ノ畫師ニハ此ヲ禁ジ玉フベキコトナリ、

制令

〔續日本紀〕

〈八/元正〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0052 養老五年三月乙卯、詔曰、制節謹度、禁防奢淫、爲政所先、百王不易之道也、王卿士及豪富之民、多畜健馬、競求亡限、〈○亡限原作是猥、今據一本改、〉非唯損失家財、遂致相爭鬪亂、其爲條例、令限禁焉、有司條奏、依官品之次、〈○次原作攻、今據一本改、〉定馬之限、親王及大臣、不二十疋、諸王諸臣三位已上十二匹、四位六匹、五位四疋、六位已下至于庶人三疋、一定以後、隨闕充補、若不騎用者、錄狀申所司、卽挍馬帳、然後除補、如有犯者、以違勅論、其過品限、皆沒入官、

〔新抄格勅符抄〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0052 太政官符 神祗官
雜事拾壹箇條〈○中略〉
一應重禁制男女道俗著服事 右表服之制、明在神護景雲四年格、天曆元年符、而年紀推移、人心驕逸、不上下、以綾羅身裝、不正私、以紅紫褻服、繇是十家之産、盡於一襟之浮華、數年之貯、糜於半日之眩耀、富者雖品賤僧上、蜉蝣之羽易飾、貧者雖位貴偪下、狐狢之裘難兼、加之城中好袖廣、四方殆疋帛、城中好袴大、四方自准〈○准政事要略作難〉繩、就中諸衛舍人、諸司幷院宮家雜色以下人等、不細美布者也、下民之朱愚、好著白越、如此之漸、爲俗之弊、同宣、奉勅、美服過差、一切禁斷、徂袖闊一尺八寸巳下、袴廣不三幅、不必制止、〈○中略〉以前條事下知如件、方今號令之道、内外雖遵行之旨、遠近何異、同宣奉勅、若乖新制舊弊、隨其狀迹、將科斷者、官宜承知、依宣行之、事出綸旨違失、符到奉行、
正五位下守右中辨源朝臣道方
正五位下行左大史多米朝臣國平
長保元年七月廿五日

〔玉蘂〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0053 建曆二年三月廿二日 宣旨〈左大臣、右大辨、○中略〉
一可停止賀茂祭使、齋王禊供奉人簦車、及從類裝束過差事、〈○中略〉
一可停止五節出火桶、櫛棚、金銀錦緣風流事、〈○中略〉
一可停止京、畿諸社祭供奉人裝束已下過差事、〈○中略〉
一可糺定緇素上下諸人服飾過差事〈○中略〉
藏人民部權少輔藤原資賴奉

〔吾妻鏡〕

〈五十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0053 文應二年〈○弘長元年〉二月廿九日辛酉、關東祗候諸人家屋之營作、出仕之行糚以下事、可止過差之由被之云云、

〔建武以來追加〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0053 儉約條々
一修理替物事 止一年兩度之儀、年始一箇度可改之、但於破損在所者、隨事體其沙汰
一雜掌經營事
酒肴假令不十結、過差儀且衝重以下畫圖彫物、一向可停止之、
一正月祝亭引出物事
重物、〈甲胃、大刀刀、絹布、太刀刀、金銀類、唐物類、〉可銀劒以下輕物
一衣裳事
公家新制、堅不他之從
一出仕武具事
太刀刀事、准據先例、不結構之儀、次鞍事、專麁品金銀之類
一伺僮僕事
中間五人、含人二人、將又召具力者事、一向可停止之、

〔大内家壁書〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0054 諸人過差御禁制之事
諸人過差事、度々被仰出之處、動不御法度之條不然、殊御參洛之事、可京都御左右之間、年内來春無御油斷也、然間正月諸人出仕之事、可過差也、少分限同外樣衆、幷無力之輩、衣裳不新調、或令用意、或雖著用、可布子等也、然間專武具可參洛用意也、伹分限之人者可例年、有德之仁可同前之由所仰出、壁書如件、
長享元年閏十一月廿五日

〔武家巌制錄〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0054 武家諸法度
一諸國諸侍可用儉約
富者彌誇、貧者恥及、俗之凋弊無於此、所嚴制也、〈○中略〉 右可守此旨者也
慶長二十年七月日

〔享保集成絲綸錄〕

〈十九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0055 寬文八申年二月

一今度火事付而、彌堅儉約を相守候樣ニと被仰出候間、參勤繼目等之御祝儀ニ公義〈江〉被獻之外、下々〈江〉は、太刀馬代、黃金壹枚、白銀五枚、三枚、貳枚、壹枚、鳥目百疋迄之内、相應ニ被之可然事、
一國持大名衆之總領たりといふ共、部屋住之内は、公職之外、音信物不入儀ニ候事、
一端午、重陽、歲暮、御祝儀之節、公儀江被獻之外、下々へは時服被之儀、御無用之事、
一諸國ニ而酒造之儀、當年ゟは去年迄之半分造候樣ニと御定之上は、公儀之外樽肴取かわしは、樽代鳥目百疋ゟ千疋迄之内、相應ニ被遣可然候、但其處之名酒は輕き手樽抔ニ而被遣可然事、一嫁娶の節は小袖代、柳樽取かはし可然事、
一在家ゟ爲御機嫌、書札幷奉書の御請等は、依其品飛脚ニ而被差越然事、
一於江戸用所有之而被差越之使者は、各別書狀呈上等は、歩行若黨持參いたし可然事、以上、
二月
寬文八申年三月

一町人屋敷致輕少、長押、杉戸、附書院、櫛形、彫物、組物無用、床、掾、さん、かまち塗候事、幷から紙張付停止事、
附、遊山船金銀之紋、坐敷之内繪書申間敷事、
一嫁娶之刻、万事成程輕可仕事、 附、刀脇指出候儀無用之事、
一町人衣類、上下隨其分限儉約を相守可之、毛織之羽織、合羽、彌無用事、
附、召附之者、其外輕職人、猶以麁相成衣服可著之事、
一町人振舞成程輕くすべし、縱雖有德、二汁五菜不之、但家督又は嫁娶之時は、名主に伺ひ可差圓事、
一金銀之から紙、破魔弓、羽子板、雛の道具、五月之甲、金銀之押箔、一圓ニ無用之事、
一祭禮之渡物、不結構、輕可仕事、
一葬禮、佛事、有德之輩たりと云共、目に不立樣に、成程輕く可仕事、
右之通江戸町中へ從町奉行相觸候間、可其意候、以上、
三月日
右之貳通、京都大坂、奈良、堺、伏見、長崎、駿府、山田へも被之、
○按ズルニ、德川幕府ノ時、儉約ノ制令數フルニ遑アラズ、今只其一二ヲ載セタルノミ、

上封事

〔本朝文粹〕

〈二/意見封事〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0056 意見十二箇條 善相公〈淸行〉
一請奢侈
右臣伏以、先聖明王之御世也、崇節儉、禁奢盈、服澣濯之衣、嘗蔬糲之食、此則往古之所稱美、明時之所規模也、而今澆風漸扇、王化不行、百官庶僚、嬪御媵妾、及權貴子弟、京洛浮食之輩、衣服飮食之奢、賓客饗宴之費日以侈靡、無紀極、今略擧一端、稍陳事實、臣伏見貞觀元慶之代、親王公卿、皆以生筑紫絹、爲夏汗衫、曝絁爲表袴、東絁爲韈、染絁爲履裏、而今諸司史生、皆以白縑不汗衫、白絹爲表袴、白綾爲https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00989.gif 、莵褐爲履裏、其婦女則下至侍婢、裳非齊親服、衣非越綾裁、染紅袖者、費其萬錢之價練衣者、裂於一砧之間、自餘奢靡、不具陳、昔者季路縕袍、不狐狢之麗服、原憲藜戸、猶蔑駟蓋之榮暉、此賢哲 之高規、非庸人之克念、故見其僭差、則競相放効、觀其儉約、則遞以嘲嗤、富者誇其逞一レ志、貧者恥其不一レ及、於是製一領之衣、破終身之産、設一朝之饌、盡數年之資、田畝爲之荒蕪、盜徒由是滋起、如此不禁、恐損聖化、伏望隨人品列、定衣服之製、命撿非違使其事、以張格式、而此法常自上破之、令下效一レ之、重望令撿非違使張行此制、又王臣以下、至于庶人、追福之制、飾終之資、隨其階品、皆立式法、而比年諸喪家、其七七日講筵、周忌法會、競傾家産、盛設齋供、一机之饌、堆過方丈、一僧之儲、費累千金、或乞貸佗家、或斥賣居宅、孝子遂爲逃債之通人、幼孤自成流充之餓浮、夫以蒙顧復撫育之愛者、誰無遠報恩之志焉、然而修此功德、宜程章、豈可必待子孫之破産、以期父祖之得果乎、況此修齋之家、更設予客之饗、獻酬交錯、宛如飫宴、初有匍匐之悲、俄成酣醉之興、孔子食於有喪者之側、未嘗飽也、豈其如此乎、但郊畿之内、道場非一、故撿非違使、不禁止、伏望申勅公卿大夫百官諸牧、各愼此僭濫、令天下庶民知其節制、又維摩、最勝、竪義僧等、皆貧道修學之輩也、一鉢之外、亦無他資、而比年令之盛儲僧綱幷聽衆之齊供、非唯積饌成一レ山、猶亦有酒如一レ淮、已乖佛律、亦害聖化、伏望申誡僧綱、早立此禁、伏以上不率正、下自差https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00271.gif 、若卿相守法、僧統隨制、則源澄而流自淸、表正而影必直、〈○中略〉
延喜十四年四月廿八日 從四位上行式部大輔臣三善淸行上封事

〔本朝文粹〕

〈二/意見封事〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0057 封事三箇條 菅原文時
一請奢侈
右俗之凋衰、源自奢侈、不其源、何救其俗、方今高堂連閣、貴賤共壯其居、麗服美衣、貧富同寬誕製、官途締交之儲、窮陸海而盡珍、私門求媚之饋、剪綾羅而敷器、富者傾産業、貧者失家資、然而且愁且好、所以不一レ息者、一思身、一難俗耳、是故雖明詔頻降、嚴禁無一レ緩、而積習生常、流遁忘還、令天下愚夫愚婦、謂風敎而爲宣、謂霜科而爲上レ用、伏望重勅有司更張舊法、若致容隱、殊加譴責、抑朝廷所行者、從制猶遲、人若所好者、承指盡速、故書曰、達上所一レ命、從厥攸一レ好、傳曰、上之所爲、人之所歸、昔呉王好劒客、百姓 多瘢瘡、楚王好細腰、宮中多餓死、夫餓與瘢者、是人之所厭也、然尚不味、不危者、唯欲上之好也、況於弊之謀、何有命之輩乎、伏惟采椽土階、淸風扇于古、損膳減服、紫泥新於今、猶願内彌親儉、外總遏著、見其僭侈者則惡之、聞其節儉者則喜之、天下將知其去奢而好一レ儉、誰敢費己財、逆君心者哉、斯實所以不禁而止、不令而行也、然則浮僞之俗自改、敦庬之化可成、〈○中略〉
天曆十一年十二月二十七日 從五位上行右少辨菅原朝臣文時上

儉約例

〔日本書紀〕

〈十一/仁德〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0058 元年正月己卯、大鷦鷯尊、〈○仁德〉卽天皇位、尊皇后皇太后、都難波、是謂高津宮、卽宮垣室屋弗堊色也、桷梁柱楹弗藻飾也、茅茨之蓋弗剖齊也、此不私曲之故、留耕績之時者也、

〔日本書紀〕

〈二十二/推古〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0058 三十六年九月戊午、先是天皇遺詔於群臣曰、比年五穀不登、百姓大飢、其爲朕興陵、以勿厚葬、便宜于竹田皇子之陵

〔續日本後紀〕

〈三/仁明〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0058 承和元年二月甲午、今夜三品明日香親王葬焉、〈○中略〉親王天資質朴、不浮華、弘仁年中、世風奢麗、王公貴人、頗好鮮衣、親王獨至夏日、朝衣再三澣濯、或亦賣却櫪上走馬、以支藩邸費用、其省約節儉、皆此類也、

〔續古事談〕

〈一/王道后宮〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0058 寬平法皇ハコトニ儉約ヲコノミ給ケリ、御アトノ事、葬禮ノ事ナドオホセラレヲキケルニハ筵ニテ棺ヲツヽミテ、カツラニテコレヲカラゲヨトゾノ給ケル、重明親王李部王記ニカキ給ヘルナリ、

〔今昔物語〕

〈二十二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0058 時平大臣取國經大納言妻語第八
今昔、本院ノ左大臣ト申ス人御ケリ、御名ヲバ時平トゾ申ケル、昭宣公〈○藤原基經〉ト申ケル關白ノ御子也、本院ト云フ所ニナム住給ケル、年ハ僅ニ卅許ニシテ、形チ美麗ニ有樣微妙キ事无限シ、然レバ延喜ノ天皇此ノ大臣ヲ極キ者ニゾ思食タリケル、而ル間天皇世間ヲ拈御マシケル時ニ、此ノ大臣内ニ參給タリケルニ、制ヲ破タル裝束ヲ、事ノ外ニ微妙クシテ參給タリケルヲ、天皇小蔀ヨ リ御覽ジテ、御氣色糸惡シク成セ給テ、忽ニ職事ヲ召テ、仰セ給ヒケル樣、近來世間ニ過差ノ制密キ比、左ノ大臣ノ一ノ大臣ト云フ乍ラ、美麗ノ裝束事ノ外ニテ參タル便无キ事也、速ニ可罷出キ由慥ニ仰セヨト仰セ給ケレバ、綸言ヲ奉ツル職事ハ、極テ恐リ思ヒケレドモ、篩々フゾ然々ノ仰セ候フト、大臣ニ申ケレバ、大臣極テ驚キ畏マリテ、忿ギ出給ヒニケリ、隨身雜色ナド、御前ニ參ケレバ、制シテ前モ令追メ不給テゾ出給ヒケル、前驅共モ此ノ事ヲ不知ズシテ、恠ビ思ヒケリ、其ノ後一月許本院ノ御門ヲ閉テ、簾ノ外ニモ不出給ズシテ、人參ケレバ、勅勘ノ重ケレバトテゾ不會給ザリケル、後ニ程經テ、被召テゾ參給ヒケル、此レ ハ早ウ天皇ト吉ク合セテ、他人ヲ吉ク誡メムガ爲ニ構サセ給ヘル事也ケリ、

〔本朝文粹〕

〈二/詔〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0059服御常膳幷恩赦詔 菅三品
詔、儉者德之本也、明王能致、惠者仁之源也、聖主必施、朕〈○村上〉以寡薄、誤守洪基、居黃屋而不驕、役丹符而自約、而化非春風、澤殊時雨、愼日之日空積、有年之年難逢、況頃者甘澍不降、苦旱久盛、園圃不靑草之色、瓏階多含赤地之愁、夫德政防邪、善言招福、殷宗雊鼎之雉、昇耳之妖自消、宋景退舍之星、守心之變非異其朕服御物、幷常膳等、宜重省減、左右馬寮秣穀、一切擁絶、諸作役非要者量事且停、〈○中略〉普吿遐邇、俾朕意、主者施行、
天曆十年七月二十三日

〔古今著聞集〕

〈三/政道忠臣〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0059 昔は人の裝束もなへ〳〵としてぞ有ける、されば齋院の大納言の消息に、先代の時、節分袍借獻など書れたんなるは、節會の袍とて、ほろ〈○ろ、原作の、今據一本改、〉〳〵とある物の人にかすなどが有けるとぞ、後朱雀院の御時、旬に參たりける上達部を御覽じて、衣日資房卿の藏人頭也けるを召て、昨日公卿の裝束を御覽ぜしかば、以外に袖大に成にけり、かくては世のつゐへなるべし、いかゞせんずると、右大臣〈○藤原實資〉のもとへ、いひあはすべしとみことのり有ければ、則 申されければ、おとゞ申給けるは、みなの公卿に此よしを承りて、畏り申さば、さすがに右大臣御けしきかうぶりたりと聞えば、人もなをり侍なんとはからひ申されければ、そのさだめに披露有て、右府閉門して、畏のよしをせられければ、人みな聞おそれて、裝束の寸法すべられけり、

〔古事談〕

〈一/王道后宮〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0060 後冷泉院末、過差事外之間、至上官車外金物、而後三條院代始八幡行幸之時、留鳳輦、見物車外金物ヲヌカセラレケリ、中ノ金物ハ依御覽之、故今ニ所用也、賀茂行幸之時、外金物車無一兩云々、
後三條院令儉約給之間、御扇骨檜ニテ藍ヲ塗テ令持給ケリ、

〔增鏡〕

〈十/老の波〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0060 八月〈○弘安二年〉御子の御ありきぞめとて、万里小路殿にわたらせ給ふ、〈○中略〉そのころけんやく行はるとかや聞えしほどにて、下すだれみじかくなされ、小金物ぬかれける、物見車どものも、召次よりて切などしけるをぞ、時しもやかゝるめでたき御事のおりふしなどいふ、

〔江談抄〕

〈二/雜事〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0060 延喜之比、以束帶一具兩三年
又〈○右大辨時範〉談曰、延喜之比、上達部時服不美麗、朱雀院御時、或公卿遣消息於内裏女房許奏云、先朝〈○醍醐〉恩賜御襲、年月推移、處々破損、御下襲一領可申王者、大略調束帶一具、兩三年之間、節會公政之庭著用歟、何況近代之例、諸國受領不封物、無賴公卿可乘下之人云々、

〔大鏡〕

〈二/左大臣時平〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0060 たゞこの君だちの御中には、大納言源昇の卿御女のはらの顯忠おとゞのみぞ右大臣までになりたまへる、〈○中略〉御めし物は、うるはしくごきなどにもまいりすゑで、たゞ御かはらけにてだいなどもなく、おしきにとりすゑつゝぞまいらせける、けんやくし給ひしも、さるべき事のおりの御ざと、御ばんどころとにぞ、大臣とは見え給ひし、

〔古事談〕

〈二/臣節〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0060 富小路右大臣、顯忠時平御子也、毎夜出庭奉天神云々、又以儉約事、銀器楾、手洗等、永不被用、又出仕之時、全無前驅、只車後如形被相具云々、

〔大鏡〕

〈三/太政大臣賴忠〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0061 太政大臣賴忠〈○中略〉あまりよろづしたゝめあまり給ひて、殿のうちに、よひにともしたるあぶらを、又のつとめてさぶらひにあぶらがめをもたせて、女房のつぼねまでめぐりて、のこりたるをかへし入て、又今日のあぶらにくはへて、ともさせ給ひけり、あまりにうたてある事なりや、

〔吾妻鏡〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0061 壽永三年〈○元曆元年〉十一月廿一日丙午、今朝武衞〈○源賴朝〉有御要、召筑後權守俊兼、俊兼參進御前、而本自爲花美者也、只今殊刷行粧、著小袖十餘領、其袖妻重色々、武衞覽之、召俊兼之刀、卽進之、自取彼刀、令俊兼之小袖妻給後、被仰曰、汝富才翰也、盍儉約哉、如常胤實平者、不淸濁之武士也、謂所領者、又不俊兼、而各衣服已下用麤品、不美麗、故其家有富有之聞、令持數輩郎從、欲勳功、汝不産財之所一レ費、太過分也、俊兼無于述申、垂面敬啒、武衞向後被止花美否之由、俊兼申停止之旨、廣元、邦通、折節候傍、皆銷魂云云、

〔澀柿〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0061 明惠上人傳
泰時〈○中略〉左樣の年〈○飢歲〉は家中に毎事儉約を行て疊を初として、一切のかへ物どもをも古物を用、衣裳の類もあたらしきをば著せずゑぼしの破たるだにも、古きをばつくろひつがせてぞき給ける、夜の燈なく、晝の一食をとゞめ、酒宴遊覽の儀なくして、此費を補ひ給けり、心ある者の、見聞たぐひ、涙をおとさずと云事なし、

〔太平記〕

〈三十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0061 北野通夜物語事附靑砥左衞門事
報光寺最勝園寺二代ノ相州ニ仕ヘテ、引付ノ人數ニ列リケル靑砥左衞門ト云者アリ、數十箇所ノ所領ヲ知行シテ、財寶豐ナリケレ共、衣裳ニハ細布ノ直垂、布ノ大口、飯ノ菜ニハ、燒タル鹽干タル魚、一ツヨリ外ハセザリケリ、出仕ノ時ハ、木鞘卷ノ刀ヲ差シ、木太刀ヲ持セケルガ、叙爵後ハ、此太刀ニ弦袋ヲゾ付タリケル、加樣ニ我身ノ爲ニハ、聊モ過差ナル事ヲセズシテ、公方事ニハ千金 萬玉ヲモ不惜、又飢タル乞食、疲レタル訴訟人ナドヲ見テハ、分ニ隨ヒ品ニ依テ、米錢絹布ノ類ヲ與ヘケレバ、佛菩薩ノ悲願ニ均キ慈悲ニテゾ在ケル、〈○中略〉又或時、此靑砥左衞門夜ニ入テ出仕シケルニ、イツモ燧袋ニ入テ持タル錢ヲ、十文取ハヅシテ、滑河ヘゾ落シ入タリケルヲ、少事ノ物ナレバ、ヨシサテモアレカシトテコソ、行過ベカリシガ、以外ニ周章テ、其邊ノ町屋へ人ヲ走ラカシ、錢五十文ヲ以テ續松ヲ十把買テ則是ヲ燃シテ、遂ニ十文ノ錢ヲゾ求得タリケル、後日ニ是ヲ聞テ、十文ノ錢ヲ求メントテ、五十ニテ續松ヲ買テ燃シタルハ、小利大損哉ト笑ケレバ、靑砥左衞門眉ヲ顰テ、サレバコソ御邊達ハ、愚ニテ世ノ費ヲモ不知、民ヲ惠ム心ナキ人ナレ、錢十文ハ只今不求バ、滑河ノ底ニ沈テ、永ク失ヌベシ、某ガ續松ヲ買セツル五十ノ錢ハ、商人ノ家ニ止マテ、永不失、我損ハ商人ノ利也、彼ト我ト何ノ差別カアル、彼此六十文ノ錢一ヲモ不失、豈天下ノ利ニ非ズヤト爪彈ヲシテ申ケレバ、難ジテ笑ツル傍ノ人々、舌ヲ振テゾ感ジケル、

〔新編鎌倉志〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0062 滑川
按ニ、二程全書ニ、程子昔シ雍華ノ間ニ遊、關西ノ學者六七人從行、一日千錢ヲ亡フ、僕者ノ曰、晨裝ニ遺ルニ非ズ、必ズ水ヲ渉時ニ此ヲ沈ムルナラント、程子曰惜哉、或人ノ曰、是誠ニ可惜也、一人ノ曰、微ナル哉千錢、亦何ゾ惜ニ足、一人ノ曰、水中ト囊中ト、人亡フト人得ルト、以テ一視スベシ、何ゾ惜ベキ事ヲ歎ゼン、程子ノ曰、人苟ニ此ヲ得バ亡フニ非ズ、今迺チ水ニ墜バ用ナシ、吾是ヲ以此ヲ歎ズト云フ、是誠ニ異域同談ナリ、左衞門ガ心、能ク程子ニカナヘリ、

〔徒然草〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0062 相模守時賴〈○北條〉の母は、松下禪尼とぞ申ける、守をいれ申さるゝ事有けるに、すゝけたるあかりさうじのやぶればかりを、禪尼手づから、小刀してきりまはしつゝはられければ、せうどの城介義景、其日のけいめいして候けるが給はかて、なにがし男にはらせ候はん、さやうの事に心得たる者に候と申されければ、其男尼が細工によもまさり侍らじとて、猶一間づゝはられ けるを、義景みなを張かへ候はんは、はるかにたやすく候べし、まだらに候もみぐるしくやと、かさねて申されければ、尼も後はさは〳〵とはりかへんとおもへども、けふばかりはわざとかくて有べきなり、物は破たる所ばかりを修理して用る事ぞと、わかき人に見ならはせて、心つけんためなりと申されける、いとありがたかりけり、世をおさむる道儉約をもとゝす、女性なれども聖人の心にかよへり、天下をたもつほどの人を、子にてもたれける、誠にたゞ人にはあらざりけるとぞ、

〔徒然草〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0063 平宣時朝臣、老の後むかしがたりに、最明寺入道〈○北條時賴〉あるよひの間に、よばるゝ事ありしに、やがてと申ながら、ひたゝれのなくてとかくせしほどに、又使きたりて、直垂などのさぶらはぬにや、夜なれば、ことやうなりとも、とくとありしかば、なへたる直垂うち〳〵のまゝにてまかりたりしに、てうしにかはらけとりそへてもて出て、此酒をひとりたうべんがさう〴〵しければ申つる也、さかなこそなけれ、人はしづまりぬらん、さりぬべき物やあると、いづくまでももとめ給へとありしかば、しそくさして、くま〴〵をもとめし程に、だい所の棚に小土器にみその少つきたるを見出て、これぞ求えてさぶらふと申しかば、事たりなんとて、心よく數獻に及びて興にいられ侍りき、其世にはかくこそ侍しかと申されき、

〔太閤記〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0063 藤吉郎薪奉行の事
信長公〈○中略〉炭薪の費、一とせの分、何ほどにかと、其奉行に問給へば、千石有餘也と答へ奉る、いかがは思召けん、奉行をかへよと、村井に被仰付しに、誰彼とさしづ申候へ共用ゐ給ず、藤吉郎○木下を召て、今日より炭薪の入用、汝沙汰し、能に計ひ、一兩年裁擦致し可見旨、被仰付しかば、翌日より自火を燒多くの圍爐を穿鑿し、一ケ月の分を勘辨し、一年の分を勘へ見るに、右の三分一にも不及ほどなれば、近年千石許は、無左としたる費、宜もなき事なりとて、秀吉千悔し、翌年正月廿日炭 薪の費、往年の勘辨如此の旨、御そば近く寄て申上しかば、御氣色も且宜く見えにけり、

〔鳩巢小説〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0064 一松平土佐守ドノ先祖山内對馬守ドノ〈○一豐〉コト、信長ノ時分、山内伊右衞門ト申候テ、五百石取申候時分、仙臺ヨリヨキ馬賣ニ參リ候、伊右衞門、或時外ヨリ歸宅候テ、氣鬱ノ體ニテ不快ノ顏色有之候ヲ、内義(○○)見申サレテ、如何ノ義ニヤト尋申サレ候處、婦人ナドノ知義ニテ無之旨被申候ヘバ、イカニシテモ心元ナク候間、達テ御聞セ可有旨被申候、伊右衞門申サレ候ハ、サレバ比日仙臺ヨリ賣馬參リ候、アノヤウナル見事ナル馬ニノリ候ハヾ、戰場ニテ大將ノ御目ニ早ク止リ候テ、働キモ慥ニ見へ申モノニテ候、武功ノ義、運次第ノモノニ候、馬物ノ具拔群ニ候ヘバ、人先ニ大將ノ御目ニ早ク止リ候テ、働モ大將御目ヲ付ラレ候、是ニヨツテ此度ノ賣馬買取候テ、明日ニモ乘テ出候ハヾ、其マヽ信長公御尋ニ預ルベキコト疑ナク候ヘドモ、貧ハ諸道ノ妨ニテ候、是ニ仍テ鬱懷ノ由被申候、内義申サレ候ハ、夫ハ何程ノコトヽ申候ヤ、伊右衞門太分ノ事ニテモ無之候、金子一枚ト申由申サレ候ヘバ、内義笑テソコヲ立申サレ、鏡ヲ取テ被參、鏡ノ下ヨリ金一枚取出シ、是ハ私母ヨリモラヒ置申候、母申候ハ、イカヤウノ難義ニ及ビ候トモ、自分ノコトニハツカヒ申マジク候、夫ノ急用ト申時、是ヲ用ヒ候ヘトテ玉ハリ候、夫レ故只今マデ隱シ置候へドモ、此度ノ義ハ御立身ノ本ニ毛成申ベク候間、是ニテ其馬ヲ御買候ヘトテ、渡シ申サレ候、内義申サルハ、飢寒ナドハ人ノ常ニ有之事ニ候、此度ノ義ハ格別ノ義ニテ候、飢寒ノ時分ハ、何程難義ニテモ出シ不申由申サレ候、偖其馬ヲ買テ乘出申サル處、如案信長見付申サレテ、アノ馬ハ誰ニテ候ヤ、サテモ見事ナル馬ニノリ候者哉ト御尋候處、近習ノ人、アレハ新座ニ被召抱候山内伊右衞門ニ候ト申上候ヘバ、信長アノ馬ヲ何トテ求ケルト御尋ニ付、其義ニテ候、御目ニ入申モ理ニテ御座候、アノ馬ノ義ハ、仙臺ヨリ遙バル比日率上リ候ヘドモ、求申人無之處、安土御家中ナラデハ、求メ申人有之マジキ旨申候テ、御當家ニ參リ候ヘドモ、誰モ求申モノ無御座候處、伊右衞門求 申候由申上候ヘバ、信長大ニ感ジラレ、當座ニ一倍ノ加增ニテ千石賜リ候、其時御申候ハ、伊右衞門へ加增ノコト能馬ニ乘トテ加增スルニ非ズ、奧州ヨリ當地マデ罷上リ候道中、北條武田ヲハジメ多クノ家ヲ經テ、求人モ無之、某ガ家ナラデハト存ジテ、ハル〳〵是マデ上ル處ニ、某ガ家ニ求メ不得シテ、空シク歸サバ、敵家へ聞ヘテモ、其外聞失フコト也、其處ヲ伊右衞門笑止ニ存テ、定テ求メクルト存ル也、此心得奇特千萬ニ存ル故、加增申付タリト御申候ヨシ、

〔藩翰譜〕

〈七上/堀〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0065 柳生但馬守宗矩の物語ありしは、〈○中略〉秀政〈○堀〉の卒せし時、高き人も賤しき者も、をしき人にいひき、世の人、名人左衞門と名づく、天下の指南しても、越度あるまじき人なりといひき、これ天下をも知らせ亢き人なりといふ言葉なり、此人の弟を、多賀出雲守と云ふ、北の庄の城修し築く時に、秀政この出雲守が計ひあしくとて、耻ぢがましく云はれたり、多賀口をしき事に思ひ、其明る朝、北庄を去りて行く、秀政聞きて、不便の事なり、道にこそ飢ゑけれとて、黃金十枚取出て、人を走らせてはなむけす、その黃金つゝみたる紙を、自ら一枚づゝ、しわをのして箱に納む、近く仕ふ小侍どもに向ひ、およそ財は、用ゐべきに當りては、十枚の黃金、をしむに足らず、無用の事ならんには、此紙十枚をも、濫りに費すべからず、汝等我を卑しと思ふ事なかれといひき、誠に名言なりしとぞ、

〔利家夜話〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0065 一伏見にて、大地震之時、大納言樣〈○前田利家〉を、孫四郎樣〈○前田利政〉の地震小屋にて、御振舞被成候、事之外御小屋の結構なる樣子を御覽被成候、御歸候て、岡田喜右衞門、齋藤刑部兩人を御使にて、被仰候は、地震小屋など申ものは、いかにも〳〵輕々敷、あやまち無之樣に、仕るもの也、左樣の儀は不入事也、むざと金銀費し後には無理を申て、人の物がほしく成もの也、孫四郎は、一國の主めに候へば、存事も不申、深く心に掛申者か、武者道具馬等の沙汰もなく、毎日鷹野、又三味線など候て仕候、沙汰の限成行儀也、孫四郎一國の主なれば、日本に六十六人の一人也、不作法の行 儀と御叱被成候、

〔古老物語〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0066 一或時御小姓衆、御廣間に而、角力取度とて、御坊主を以、上樣〈江○德川家康〉窺之候得者、角力も武士嗜の一ツニ而不苦取候へ、但シ疊を裏返し敷候樣に、御意被遊候由、假初之事にも、そこ〳〵御氣の付たる上樣やと、諸人舌を振候由、

〔東照宮御實紀附錄〕

〈二十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0066 江戸御遷の初、御玄關の階は、船板にてあまり見苦しければ、本多佐渡守正信改作らんと申せしに、いらぬりつばだてをするとて、聽せ給はず、その後、府城造營ありしにも、目につくばかりの金具はなかりし、台德院殿、和田倉邊の櫓のはふに、金の金具用ひ給ひしよし、駿河に聞えければ、俄に一夜のうちに、毀撤せしめ玉ひしとか、駿城御修理ありし時も、本丸のまはりは、板塀かけられしが、二丸にある老臣等の邸宅などは、竹垣を結渡して置せ給へば、あまりに失體なりとおもひ、己が自力もて、板塀にかけかへんと伺ひしに、いらぬ事なり、そのまゝになし置との上意にて、後々までに、竹がきにて有しとなん、

〔雨窻閑話〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0066 織田信長公吝嗇〈幷〉印陣打の事
其の人曰く、〈○中略〉昔神君御代に、駿河にて二三年の間、御儉約の事有りて、本多佐渡守正信命を蒙りて奉行しける、其年の門松、例より大にして、又正月三日御謠初の節、門ごとに燈す蠟燭、例年より格別又大なり、神君正信を召して、かねて儉約の義、申付けたる處、門松の大なると、蠟燭の大なるとはいかにかと御尋ね有りしに、佐渡守畏りて申す樣かゝる御規式の事を、りつぱに仕らんとて、かねての儉約仕候也と申し上げられしかば、御機嫌不斜とぞ、此佐渡守兩三年の御儉約中に、金銀米穀軍用等の手宛、澤山に拵らへ置きしに、元和五年、天下困窮に及びし節、其貯にて御救ひ下されし由、佐渡守が功爰において顯れたり、天下の儉約は、天下の爲也、國家の儉約は、國家の爲なれば、別に餘計の湧き出づるにもあらざれば、たゞおのれが身を詰め、まさかの時に用に立 てんとするは、儉約にしくはなし、能く此事心得べしと也、

〔落穗集追加〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0067 土井大炊頭殿〈○利勝〉と伊丹順齋出合の事
一問曰、權現樣の御事は、少は御吝嗇なる御方被御座たる共申、又左樣には無御座共申ふるゝをば、如何承り候や、答曰、權現樣抔の御噂を、拙者如き者の口より申上奉るは、恐れ入たる御事にはあれども、人々の惑ひを散じ候爲と存るを以て、愚意の趣を申上候、世界國土の重寶と申ては、金銀米錢の四つに留りし也、但是を用ゆるに、善惡の二段の差別有之にて候、一には金銀米錢の重寶たる事を能く勘辨致し、少きなりとも無用無益の事捨て、事をはからいて、常に是をたくわへ、爰は財寶を用ひず候ては、不相叶とある如くなる時節にのぞみては、毛頭ほどもおしむ心無、是を取り出して、其用事をつかへ無之如く致す有るは、高きもひきゝも是を儉約と申譽たる事に仕る事なり、二つには金銀米錢重寶と有る事を、あまりに知りすごし、いやがうへにも多く貯へて集め、是を握りづめにいたし、手ばなす事をきらひ、爰は財寶を不用しては不叶にのぞみ、是も是を取り出し、其用事を調る事の不罷成如くなる心あいをさして、文字にもをしみをしむと云、吝嗇と申て人間上下貴賤をかぎらず、よろしからぬ事に仕るなり三つには金銀米錢を遣ひ散ずる事をば、湯水を遣うも同じ事の樣に心得、無益の義にもをしみ無く入果すを、扨もきやう人の物きらしかななどゝ申て、うつ氣者のほめそやしけるを、能き、事と心得、有れば有次第に、勘辨もなく取出して、まきちらす如く有之を、やくたいなし共、十方無しとも名付、吝嗇人にはをとりたる方共可申也、子細を申に、吝嗇と申もよろしからぬ事とは申ながら、我手前に物を持ちたくわへ居申義なれば、物入りの時節にのぞみ、了簡をさへよく致し申さば、取出して用たく申儀のなるまじき物にては、有りたけの物を殘りなく取り出して、外へまき失と、たくわへなしの勝手向となり、果ては先へも、跡へも參りかね、埓の明ぬ義にて、貴賤上下の武士勘辨尤の所也、 但儉約と儉嗇とは、其形よく似たるを以て、吝嗇人と見違申す樣なる義も、無くては不叶、然共其要用の節にのぞみて、財を用ると不用との差別によつて、勘辨致し候に於ては、明白に相知れ可申也、こゝを以て權現樣の御事を相考へ奉に、よく儉約を御用被遊たると申に於て、御相違は無之也、

〔東照宮御實紀附錄〕

〈二十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0068 板坂卜齋侍座せし時、壼に入りし人參を賜らんとて、兩の御手もて下されけるに、御違棚に奉書の紙ありしをみて、一枚玉ひ、是に包まんとせしに、それは大名どもへ書肬を遣すに用ゆるなり、えうなき事に遣ふものならず、人參は良藥にて、汝等なくてかなはぬものなれぱ、取らするなり、奉書は一枚とおもふべからず、大なる費なり、羽織脱てこよとの上意にて、羽織に受て、奉書をば元の如く、御棚に返し置しとぞ、卜齋も年頃御側にありしが、この時ほど、面に汗して迷惑せし事はなかりしとて、後々人に語りしとなん、

〔梧窻漫筆拾遺〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0068 神君の黃金百兩を人に賜ひて、其上は包みの奉上の紙を、御近邊の人に、善き紙なり、用に立つべし、仕舞おけと仰せられたると、黑田長政の御旗本へ白銀二百枚を借したるに、程を歷て、其人の返濟せんとて持參せしを、初め借し申したる時、兼ねて進上すべしと思ひたりとて、受け取らず、さて今朝吉鬣魚を貰ひたり、まゐらすべしとて、料理人を召して、吉鬣魚の身所は鹽にして貯ふべし、中打あらを潮煑にして、客に饗すべしと申されたり、百兩の金二百枚の白銀を以て、人を惠むこと吝惜せずして、一枚の紙、吉鬣魚の身所を無用には費し給はず、國天下を興す人は、天得の性に各別あり、聖人の儉も如是なるべし、

〔常山紀談〕

〈十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0068 利安〈○栗山〉若き時は善介といひ、中頃は四郎兵衞といふ、長政〈○黑田〉に筑前を賜りし時、名島の城に長政居て、左右良の城に利安を置れけり、祿一万五千石極めて儉なる人なり、人の衣服の美麗なるを見ては、褻晴といふ事の有といひ敎へ、又價高く馬を購ふ者あれば、さばかりの 馬も二疋の用をばなさじ、何とて無益の費するぞと戒めけり、されども事に臨て金銀を惜むの心なし、從者をいたはり憐み、貧乏を助る事、尋常の人に大に踰まされり、

〔續武將感狀記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0069 源輝政朝臣〈○池田〉ハ、關原役後、〈○中略〉浪士菅夢庵、嘗テ因州ニ在シ時、朝臣ノ自筆ニテ、麥ヲ賣レ、竹ヲ伐レトノ小簡、其奉行ノ子孫傳テ、掛軸トナセルヲ見タルト語ヲヌ、又村々庄家ニハ、高一石ニ米幾升宛、免許スベキ趣、麁紙ニ黑印諱ヲ書テ、年號月日、堀甚兵衞ドノト載ラレタルヲ、曾孫甚兵衞于今所持タリ、野生モ是ヲ見タリ、富三國ヲ有テモ、不虞ノ備、忽ニセザルヨリ、細事ヲ勤ノ心見ツベシ、

〔明良洪範〕

〈十一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0069 松倉豐後守重正〈○中略〉武邊第一ノ人ニテ、生涯奢ル事ナク、浪人ニテモ武邊ノ士ニハ、親ミテ語ラレケルハ、我等如キ小身者ハ、事アラン時ハ人數不足也、其時ハ各方モ一所ニ出陣致レヨ、軍功アラバ君へ申上、然ルベク取計ヒ申サンナド、常ニ語ラレケル、或時ハ武邊ノ浪士ヲ集メ、饗應シケル事毎度アリ、其時ハ飯ハ玄米飯、魚鳥ハ自身獵セシ物、野茱ハ自園ノ品、料理方ハスベテ粗ニシテ奢レル事ナク、只澤山ナルヲ要トシ、廿人ノ人數ニハ四十人前ノ手當シ、我モ浪士モ家人モ、一席ニテ飮食ス、其外、四時折々ノ宴ニモ、衆ト其ニ藥ミ、士卒ヲ撫育スル事ヲ樂ム、大坂御陣ノ節モ、重正騎馬百騎ヲ從へリ、其後島原ニ移リテ、益士卒ヲ撫育シ、有名ノ浪士ヲ扶助セシカバ、今ノ四萬石ハ大方家士或ハ客分ノ浪士ニ、配分セシト也、

〔明良洪範〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0069 土井大炊頭利勝居間ノ内ニテ、唐糸ノ切ヲ拾ヒ給ヒテ、弐ニ誰カ有ルト呼レシカバ、大野仁兵衞ト云フ近習ノ者罷出候ヘバ、是ヲ其方ニ預ケ置也、大事ニ致シ候ヘト申付ラレシ時、彼ノ者畏リ候迚、其糸ノキレヲ受取罷立候ヲ、次ニ居ル若者共、アノ糸屑何ノ用ニ立ベキト思シ召哉、其樣ニ大切ニ致シ置ベキト仰ラルヽハ、大名ニ似合ザル事ト笑ヒケルト也、其後三四年ヲ過テ、大炊頭殿大野ヲ呼給ヒ、先年其方ニ預ケ置候糸ノ切屑ハト、尋子給ヒシニ、仁兵衞承リ、夫ハ 爰ニ仕舞置候トテ、巾著ヨリ取出シ差上候ヘバ、利勝是ヲ取給ヒテ、脇差ノ下緖ノ先ノホドケシヲクヽリ給ヒ、家老寺田與左衛門ヲ呼デ、是ヲ見候、三年以前ニ唐糸ノ切ヲ拾ヒテ、仁丘ハ衞ニ預ケ置シニ、夫ヲ大切ニ致シ置、只今尋候ヘバ、巾著ノ中ヨリ取出シ候、預ケシ時外ノ者共ハ、我ヲシワキ者ト云フ、アノ糸何ノ用ニ立ベキゾト笑ヒシ者多キ中ニ、主ノ詞ヲ斯ノ如クニ、大切、ニ相守リシ事、奇特千萬也候故、知行三百石取ラスベキ也、其段申渡スベク候、此糸切ヲ我大切ニ思ヒ候ワケヲ、皆々へ語リ聞スベシ、此糸ハ元來唐土ノ土民ノ手ニテ、桑ヲトリ蠶ヲ飼ヒテ糸ニ成シテ、唐土ノ商人ノ手ニ渡リ、遙カノ海路ヲ經テ、日本ノ地ニ渡リテ、長崎ノ商人ノ手ニ入、夫ヨリ京大坂ノ町人買取、江戸迄下リシ物ナレバ、イカ計カト存候ゾ、左樣ノ苦勞ニテ出來候物ヲ、少シキナレバトテ、塵ニナシ棄ル事、誠ニ天ノ咎メモ恐敷也、今下ゲ緖ノ先ヲクヽリ候ヘバ費無ト笑ヒシガ、我一尺ニ足ヌ唐糸ヲ、三百石ノ知行ニテ、買取タルトゾ云レケル、

〔大猷院殿御實紀附錄〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0070 公〈○德川家光、中略、〉無用の浮費をば減省ありて、專ら儉素をもて、天下大小の事を御沙汰ありしなり、寬永十四年八月、本城御移徒の式行はれ、老臣はじめ饗賜ひしとき、構造の奉行等召出され、こたび新造の結構華麗に過たり、天下に儉を示す本意に非ず、華飾の所に速に毀ちすて、今より後はいよ〳〵家室に華美を用ひまじきむね、面命せられければ、きく者みな戰慄せりとそ、おなじ十五年九月、千代姫君尾藩へ御入輿の事仰出されし頃、名古屋へ阿部對馬守重次御使し、明年御入輿により、第宅華美に結構せらるゝよし聞し召れぬ、されども天下敎戒の爲にも、麗美を省かれ、いかにも手輕く構營あるべしと仰下され、また十六年四月、白木書院に出まし、三家はじめ万石以上の輩を、こと〴〵く御前に召て、世の中のさま、年を追て奢侈の風にうつりゆくよし聞ゆれば、しば〳〵制禁を令せらるれども、なほ華美の事おほし、今より後各國において、彌儉約を守り沙汰すべしと、面諭あり、此外にも番頭、物頭、目付等をめし出て、儉令を懇諭 せられし事度々なり、あるは番士の居宅壯麗により、其家を破却せしめ、あるは同心の衣裝華美なりとて、追放せられしたぐひ、さま〴〵ありて、何事も昇平漸久しきをもて、世風の奢侈に流れんことを、かねておぼしとりて、いたく御戒諭まし〳〵たるなるべし、

〔武野燭談〕

〈十九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0071 板倉重矩出身〈附〉額之事
板倉内膳正重矩ハ、寬永十五年、父重昌家督之後ハ、御詰衆並ニ伺候シケルニ、其後本庄ニテ屋敷ヲ拜領シ住居ケルニ、咬菜軒ト云三字ヲ人ニ書セテ、席上ニ掛置、前裁ヲ樂ミトシ、手作ノ野菜ヲ大厦高堂へ毛捧テ、伺安否外ニ求ル念慮ヲ止テ、萬治年中ヲ送ラレケルニ、其年ノ暮、大坂城京橋口ノ御城番ヲ承テ向彼地ケルガ、此時モ彼咬菜軒ノ額ヲ持セテ掛置タリ、其後、〈○中略〉被江戸本役ニ仕フマツリテ、龍ノ口ニ御屋敷ヲ給リ、侍從ニ任ゼラレテモ、彼咬菜軒ヲバ方々へ持セテ、牌扁トシケル故、彼額ヲ書タル野間三竹法眼、或時此三字ヲ用ヒラルヽ心ヲ尋ケレバ、内膳正被申ケルハ、人ハ身ヲ立、名ヲ顯ス程、本ノ賤シキ事ヲ嫌ヒテ忘ルヽ事ゾカシ、我不器量ヲ以テ、奉書連判ノ列ニ事フルハ、冥加ニ叶ヒタル事也、人ハ奢ニ移リ安シ、我思之故ニ、昔本庄ニテ幽栖ノ卑亭、片時モ不忘也、今高恩大祿ヲ戴ク事、我一分ニ不相應故、殊ニ恐レ思フ故也ト挨拶アリケル、

〔嚴有院殿御實紀附錄〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0071 慶長元和よりこのかた、昇平すでに五十年に及ぶといへども、いまだ儉約の事令し下さるゝ事もなかりしが、この頃はや世上も何となく奢侈の風に赴くをもて、當代〈○德川家綱〉御承統のはじめ、老臣等相議して儉約の事を仰下されける、これ當家にて儉約の事沙汰せられし始とす、殊更明曆大災の後には、其事おごそかに命ぜられ、三年の間參覲の獻物も菲薄にし、佳節の外は、すべて贈送の品をもとゞめられ、また御前に於て諸大名幷に諸有司を、近くめさせられ、大名には其身儉素を守り、國民を撫恤して、封内艱困せしむまじき旨御曉諭あり、有司には屋舍を輕くいとなみ、衣服も古きを著し、厨膳の菜數を減じ、專ら儉素をもて隊下の者を率 ゐ勵すべきよし仰下され、勘定納戸の頭には、萬事浮費を省き、國用をして空乏に至らしむべからざるむね命ぜられ、目付の徒には儉素の事しば〳〵令し下さるゝといへども、もし遵行せざるものあらば、糺彈して聞えあぐべしとなり、かくとり〴〵に面命ありし上にも、猶御心を用ひられ、諸事質素に掟させ玉ひしかば、非常の大災ありし後も、帑藏充實して財貲の耗竭する事なく、統御三十の間、上下殷富して、萬民みな德化の内に鼓舞しけるとぞ、

〔明良洪範續篇〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0072 或時大火有シ後ニ、增上寺ノ龍鐘モ其餘煙ニカヽリテ、響キアシク成タル故、鑄直シ申スベキノ所、此節御儉約ノ時節ナレバ、彼是ト奉行中ヨリ存寄ヲ申立ラレシニ、但馬守〈○土屋數直〉聞テ、儉約ハ天下ノ法令ナレドモ、鐘ナドハ末代ニ殘ル者ナレバ改メラルベシ、無益ノ事ニハ毛末モ厭フベキ也、但シ後代ノ戒メニモ、九ノ乳ハナクテモ有ナン、唯其形ヲ替テ九ノ乳ヲバ彫ラセヨ、響ハ九ノ乳ニハ因ベカラズト下知有シ、

〔雨窻閑話〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0072 本多流髮〈幷〉家風の事
一世上に本多風と云ふ髮の結ひかたあり、是は昔、本多中務大輔忠勝侯、家中の風儀を定め給ふとぞ、諸士より下々足輕幷中間迄も、髮を前七分、後へ三分と厚さを定めて、紙をこよりに捻り、七つづゝ卷きて髻を結ぶなり、是を本多風といたすぞ、いま異樣の髮をして、本多風と云ふは、大にあやまれり、今に忠勝侯の子孫は、是を慕ひ學ぶ中にも、本多彈正少弼殿家には、めんみつに是を守り、棒刀卷下緖とて、三尺許の長刀、少しもそりなきを、くり形の上下へ下緖をきり〳〵と卷き留めて、是を帶し給ふ、著類は本多柿白裏也、〈本多柿、差洗柿、郡山染とも云ふ、中頃本多大内記郡山に住居の時、多く世上へ染め出だす故、郡山染ともいふ、〉勿論裏表とも木綿にして、其仕立樣は、節出し行短といひて、丈を短くして、足の踝の出づる樣にし、ゆきも短く、立ち振舞仕能きやうにとの仕立也、腰物拵は、塗鮫、茶糸、無地、鍔、赤銅、目貫緣、同じく石目頭は、角の一文字卷懸鞘は、柚はだたゝき、甲斐の口黑下げ緖也、平日質素第一にして、武役 軍用を重んじ、美食を好まず、學問を勤むといへども、詩文章を禁ず、朝はとくよりおき、弓馬槍太刀に身をこらし、體をきたへ、寒暑に肌をさらすを以て業とし給ふなり、假初にも柔弱なる事を嫌ひ、潔白を表とす、御子息がた御元服までは、革柄大小、鞘は銅の胴かねを入れて、そこねぬやうにしてさゝせ給ふ、或時近習の者、鼠色の足袋をはきて、彈正殿前に出でたり、彈正殿御覽ありて、其足袋を御所望ありしに、彼者憚う多しとて辭退す、苦しからずとて、無理に乞ひ給ひ、扨其後屋鋪にて召し給ふ所の足袋は、鼠色になりしとそ、是何が故なれば、御儉約の思召より出でたり、是まではき給ふ白足袋は、よごれめ見えて、五日ともめし給ふ事能はず、此所を考辨し給ひて、近習の者の足袋を所望ありて、鼠色足袋にし給ひしかば、是より近習の者はいふに及ばず、家中一統鼠色になりて、總體にて大ひなる儉約となれりとそ、儉約の申付なくして、自然と一遍に、儉約をなす事、尋常ならずとぞ、

〔吉備烈公遺事〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0073 公〈○池田光政〉常ニ小倉織ノ袴ヲ召サセ給ヒ、コレヲヌガセ給フ時モ、タヽム事モナク、柱ノ竹釘ニ、コヨリ引張タルニ、侍臣ニ命ジテ掛サセ給フ、紫ノ、被ノ數年ニナリケルヲ、山川十郎左衞門カヘント申セシニ、予吝ニ非ズ、猶カヘズトモ有ナント仰有リテ、又年經テ、垢付ケレバ、山川重テ何トモ申サデ換タリケル、衣服器物類、大形此類也ケルトカヤ、亦恒ニ用サセ給フ印籠、黑塗ニテ象牙ノクハラノ帶ハセ、印籠ノ中ニ、銀ノ小匕ヲ入サセ給フ、今モ猶閑谷ノ庫ニ、殘レルヲ見シ人ノ語リキ、〈○中略〉蚊帳ノ釣手ハ、クハンゼヨリニ、筆ノ軸ヲ斷テ、結ツケサセ給ヘリ、東照宮ノ閟宮ヲ造營セラルヽニ至テハ、萬金ヲ惜セ給ハズ、亦國中提防ノ經營、殊ニ力ヲ盡シ給ヘリ、是熊澤大夫ガ敎ヲ受ナセ給ヒテノ事ナリ、

〔明良洪範〕

〈十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0073 光義卿〈○尾張藩主〉儉約ヲ專トシ、一汁二菜ノ外ハ召上ラズ、千代姫君或時仰セニ、御年寄ラセラレテハ、御養生猶以テ肝要ニ候、イカニ儉約ヲ遊バレ候トテ、餘リノ事ニ存ジ候、我等膳 ヲ配當申サントテ、三汁七茱ヲ送ラレケル、光義卿仰セニ、婦人ノ知ラルヽ事ニ非ズ、吾一汁二菜ノ國中家士及ビ農商迄ヘノ手本也、又養生ノ義ハ、一汁二菜ノ中ニ專ラ其心ヲ盡シケルニヨリ、申サルヽ迄ニモ及バズ候、倂ナガラ送ラレシ膳ヲ、只返サンモ無禮ナレバ、家士共ニ給サスベシ、返辭ハ對面ニ申ベシトテ、使ヲ歸サレケル、其後御對面ニテ仰ラレケルハ、人妻トナリテハ、其夫ニ養ハルヽ物ナルニ、其妻ノ膳ヲ送ラルヽトテ、喰ハルヽベキヤ、時ニ臨テ饗應ナドハ格別、向後右樣ナル事無用也ト仰セラレケル、

〔近世叢語〕

〈一/德行〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0074 綾部道弘、自處節儉、不華飾、嘗有人、遺彩服於其子、遂不服曰、先君貧素卽世、吾亦辛勤多年、幸享俸資、煖養兒女、是君之惠也、夫人情難於儉、而易於奢、予非兒也、不使奢耳、

〔續近世畸人傳〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0074 松岡恕庵
恕庵松岡氏、名は玄達、〈○中略〉博覽好古、儉素淳樸の人なること、人のしる處也、今其眞率なる二三條を擧ぐ、大きなる倉を二ツたて、一ツには漢の書、一ツには國書を藏られしほどのことなれども、火桶は深草のすやきを紙にてはり、用ゐられし、又男善吾〈名は典、字は于勅、號復眞、〉幼年より、絹のたぐひを著せず、袴も夏冬となく、麻にて有ければ、門人たち、あまり見苦しとて、よろしき袴を送りければ、先生是を見て、われ仁齋先生の講席に出し時、東涯いまだ幼して、先生の側にあられしが、白き木綿の布子、白き木綿の袴也、是をおもへば、善吾は染色衣たるは奢也とて、かのよき袴は、著せ給はざりけるとぞ、

〔有德院殿御實紀附錄〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0074 御受職〈○德川吉宗〉の後、唐破風造の四足門、および有來る御まし所をもこぼだれけり、これそのかみ、勘定奉行荻原近江守重秀うけたまはり、金玉をちりばめ、華美を盡して、造營せしかば、その費用七十万金に及びしとなり、又後園に沈香もてつくりし亭ありしをもこぼたれ、芝口に建られし郭門も、火にかゝりしのち、ふたゝび建られざりし、皆近世華奢の風を、宗 祖質素の俗にかへし玉はんとのみ、御こゝろもちひさせ玉ふなりしとぞ聞えし、〈○中略〉御みづからは、かの御まし所こぼたれし後、その側にいさゝかのこりたる廊をしつらひ、そこにおはします事、十二年の久しきにいたれり、此廊は東西にむかひたれば、炎暑のころ、朝夕の日さし入て、暑さ堪がたく、侍臣等さへ、いとくるしとおぼえたるに、少しもいとはせ玉ふみけしきなく、すませ玉ひぬ、のち天下もやゝ豐かに、四民、もうるほひしに及び、享保十二年二月にいたり、はじめて御まし所の新營を仰出され、金銀のかざりをとゞめ、もつはら質素につくられしとぞ、誠に天下の樂に後れて樂むとは、かゝるたぐひをや申し奉るべきと、其ころものしれる人は感じ侍りき、〈○中略〉
大統うけつがせ玉ひしころは、元祿寶永の間奢侈至極し、天災打つゞき、大喪しば〳〵かさなりし上に、御受職の大禮をはじめ、外國の聘事、其外かぎりもなき費用ありしのちなれば、府庫虚しきが上に、天英院殿、月光院殿をはじめ、別館におはします方々、多く吹上及び濱のみたちなど引わかれ住せ玉へば、そのかた〴〵の厨料もまた少からず、よりて商工等に賜ふべき價までも、とゞこほりしに、連年水旱しきりに至りしかば、國財ほとんどつきなむとす、されど彼中冓におはする先代の方々には、ゆたかにおくりあたへられて、さらに省減を加へたまはず、享保六年にいたり、賦税定免のごとく收らず、城壘半ば破れ、堤防多く崩れて、萬民飢にせまりしかば、かれを修め是を救ひ玉ふにも、多くの財を費せり、はた府庫の金銀を點撿せらるゝに吾德院殿〈○秀忠〉の御時につくられし寶貨〈金四十四貫七百目、銀四十六貫目在もてつくりし行馬にして、儒臣林道春信勝が、行軍守城用、勿尋常費と銘ぜし、ものなり、〉も、前代に用ひ盡して見えず、よりて京大坂城中のたくはへをもたづねらるゝに、悉く空虚なりと聞えしかば、これより彌御身づから節儉をむねとせられ、あまねく省減の令を施し玉へども、同じ七年に至り、御家人に賜べき俸祿さへ足らず、盛慮を、なやまし玉へる御ありさまは、御側に侍る人々も、 むねいたく思ひ奉るほどの御事なりしとかや、

〔浪花の風〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0076 當地にて名高き富商鴻池善右衞門が家の掟は、貝原篤信が定むる處といふ、此事を其家に尋るに、左樣なること決て無之よしを答ふといふ、されど世上にて貝原が定るといふ説、一般に唱ふることにて、按るに何か子細ありて、此事を善右衞門方にては深く秘することにやと思はる、何にいたせ、其家の掟は規則能整ひて、代々是を守るといふ、其一つを云ば、店に居る若きものも數十人なれども、其著服四季施等、皆古來よりの仕來りを守る故、他の店の者と混れることなく、且此ものども、時に寄て店の引けし後は、夜中十人廿人寄集りて酒のみ戯れ遊び、淨瑠璃又は亂舞抔の學びをなして、興ずることあり、是を陰にて聞時は、美酒嘉肴ありて大酒宴の有樣なれども、其席を伺ひ見れば、肴といふものもなく、先は菜漬の香の物か、左なくば鹽鰯抔を少々許り肴となして、酒のみ樂む體、實に二百年も以前は、かくやありけんと思はるゝことにて、今世の目より見る時は、興のさめたる體なりといふ、又都て當地の豪家のもの所持の別莊、抱地坏の家作、いづれも良材を用ひ、精工を撰み、尤美を盡して結構に營めり、然るに善右衞門が別莊は、手廣なれども、規則に外れしことなく、去る天保十四卯年に、御改革の命ありし頃、外豪家の別莊の家作は、長押造付書院を初、種々身分不相應の造作故、俄に大工を雇ひ晝夜を爭ひ、摸樣替にて大に混雜せしことありしに、善右衞門が別莊のみは規則に外れしことなき故に、更に、手入抔といふことなく、其儘にて濟しといふこと、萬事此一二事に付て、其餘の家法正しき事推て知るべきなり、

〔紹述先生文集〕

〈十三/墓碑銘〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0076 持軒先生五井君墓碑銘
先生諱守任字加助、藤姓、五井氏、〈○中略〉生于攝州大坂、〈○中略〉本多能州侯、時鎭和州郡山、聞其名行致之、觀其風貌古朴歎曰、難波之土、風尚奢侈、處之四十年、不其初、豈常人乎、〈○中略〉先生〈○中略〉簡牘往來、 常揀敗紙、用其空白、以殄天物戒、

〔近世畸人傳〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0077 三宅尚齋〈幷妻女〉尚齋の内人、その德尚齋にも勝れりとかや、尚齋禁錮せらるゝ時、母堂と子二人を婦人に托して、金貳拾片を與へ、母堂の奉養懇につとむべきよしを命ず、後三年を經て放たれし時、相まみえて擧家安全を喜ぶとき、婦人彼金を出して尚齋に返す、尚齋大に怒て、こは何事ぞ、如此ならば母君は窮し給ひしこと、如何ばかりならん、汝不孝の罪いふべからずと罵るに、婦人徐に答て、母君の奉養は心の及ぶ限盡し侍ぬ、唯我身は人のために雇となりてせざる所なく、其價をもて仕へ奉りし也、此金はかく禁を許されたまはん時の用に、返し申さんとたくはへぬ、とらはれとなり給ひては、さこそ苦しうおはしまさんに、妻子の身として安くあらんものかはと思ひて、吾等三人は冬綿の衣を身につけず、夏蚊帳を室にたれず、かゝれば母御の御爲に、ともしきことなかりしと語りしかば、尚齋も大に感じて其勞を謝したりとぞ、

〔窻の須佐美〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0077 長岡の君〈牧野〉民部少輔忠周、〈後土佐守忠軌〉年若かりしに瘡疾のありしかば、牧野備後守貞通の長男忠敬を養子として、家を繼しめられける、駿河守に任ず、長岡饒有の地にて富饒なりしが、中ごろ飛驒守〈忠成〉駿河守〈忠辰〉打つゞき驕奢なりしより衰しに、前年大火に城燒て、武具こと〴〵く燒失、水損もありて困窮に至り、上下難儀に及べり、駿河守忠敬年十七、これを深くうれひ儉約をはじめ、家老の中、私欲あるものを罪し、諸役人を吟味し、さて諸用を節約にして、自身木綿服を著用し、豆腐半挺を用ひて菜とし、萬事これに準じて、日夜心を盡されければ、五年にして國も漸濕ひ、家中の祿をも滯なく渡し、民の窮するをも救はれければ、諸人感心し、士民の親みなづく事たぐひなし、

〔雲萍雜志〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0077 洛に須藤健十郎といふ人あり、〈○中略〉常に儉約を守ることを、專人に敎訓して、みづか らは木にて鯛の形を彫ませ、常に膳部のかたはらに置て、一肉の美味須臾の舌頭にあり、大丈夫何ぞ飮食に心をもちふることをせんやといへり、

〔雲萍雜志〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0078 予〈○柳澤淇園〉が交はりし人の子に、兄弟常に爭ふものあり、兄は砂糖を渡世とし、衣食にをごりて懈りつれば、家貧しくしてまうけなく、弟は鹽をあきなひて、麁食麁服し怠らざれば、家富さかへて不足なし、その兄常に弟が富めるをたのみて財を借りて、その世業を送るといへども、儉を守るの勤めなければ、いよ〳〵貧しくなりゆきて、多くの財を弟に乞へども、肯んぜざりけ、れば、あるをりからに、その兄の予が草庵に入來り、歎息して云ひけるやうは、親類多く富りといへども、兄の貧しきを資けざるは、あかの他人に劣れるなるべし、かゝれば今より商人をやめて、武士ともならんことをおもふといふに、予は聞よりもあはれにおもひ、〈○中略〉予に傳る秘し藝あり、いはゆる能の狂言とひとし、敎に隨ふ心あれば、身を立家を起すべし、若又稽古に違へる時は、身を亡すこと遠きにあらず、よき慰の戯なれば、師弟の約をかたく契りて、この戯を習ふべきやと、詞を正して云ひければ、親屬どもの資もありて、身をも立て家をもおこさば、否めることかはとて、やがて師弟の約をなしけり、さて衣裳手もとにあらざれば、明けて來るを待たれば、約に違へず來りけるに、さめらは指南すべきなりとて、彼の温袍を取りいでゝ、著たる小袖を脱かへさせ、布衣の姿に取りつくろひ、著束のその身に馴れぬる迄は、その姿にて居るべきなり、衣體整ふをりからには、授くべきものあるなりとて、今まで著せし小袖をとりあげおき、月をわたり日をつみて、衣類のいまだ身に馴ずとて、授くる物もあたへざりしが、漸ひとゝせも過るうち、弟兄の麁服をよろこび、かくてぞ家をも保べしと、儉を守れるやうすを賞美し、予が草庵に來て吿れば、予も又兄の心をかたりて、兄にも弟がよろこびをつげ、身を麁略の間におきて、しばらく驕飾を廢する時は、求めずしても財は至れり、つとめよやといへるにいくほどなく弟、兄をあはれむ からに、感じて多くの財を贈れば、ます〳〵かたく儉を守りて、身も立家をも起し、その富めること弟にも劣らざりけり、

〔白河樂翁公傳〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0079 十月〈○天明三年〉十六日、御家督を繼せ給ひ、先公は木工頭と改め、公〈○松平定信〉は越中守に成り給ふ、扨此年の事は、天下久しく飢饉の災なかりし後なれば、人々油斷して雨いかに降るとも、今日晴たらば實るべし、明日睛たれば豐ならんと、七月の末まで雲をながめ〳〵送りし内に、米價貴くなり、一旦の利を貪り、蓄へたる米も賣代なし空乏になり、御家中一統人別扶持にも爲たる節にて、人々みな公の襲位は迷惑の時節に奉存、御用人辻勘助申上るは、君には惡しき時の御家督にて、御心痛成せらるゝ事よと申上しに、公はいや然らず、斯る時こそ人心一新する者故、不幸の幸也とのたまひ、御家督の日に御家老を召、凶年は珍らしからぬ事にて、今迄無りしは幸とも云べし、驚くべきにあらず、凶年には凶の備なすこそよけれ、いで此時に乘じて、儉約質素の道を敎て、磐石の固めとなすべしと仰付らる、翌日邸中の御家來のこらず召出され、質素儉約は御身を手本と成し奉るべし、若御身此言に違ひ給はゞ、人々も皆背くべしと仰出さる、此節より御膳部も痛く減じ、朝夕一汁一菜、晝は一汁二菜と定め、御衣服も是迄習ひ給は躔木綿を著、御夜具までも鬱金染の木綿裏を付、御駕籠蒲團も紬等に製せよと命じ玉ひしに、是迄用ひ玉ひし天鵞絨、いまだ新しければ、是を退けて別に作なんは、却て不益なるべしと、有司の申せしに、公の仰には物の改むべき時は、左にてはなきものぞ、新に製せよと命じ給ひ、御身を以て下の先となり率ひ給ふ、

〔銀臺遺事〕

〈人〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0079 天明五年、御所勞〈○細川重賢〉いたく重らせ給ひて御おきふしも、左右よりたすけ參らする頃、御寢所の疊のやれて、御足にさわらん事の、うれたければとりかへまほしと、近習のものども、いひあひせけれども、左申さんには、よもゆるし給はじとて、用處にましませしほどに、こと所 の疊と取かへてしきたりしを、御かへりさまに、目とく見とがめ給ひ、誰かはかゝるよしなきはからひをせしとて、以の外御氣色損じ、折ふし堀尾一甫老人、あたりにさぶらはれければ、むかはせ給ひて、いかに一甫、これ見られよ、疊のやれたりとて何かくるしかるべき、われ常に費をしりぞくるを、近習の者ども心得ずして、我にも知らせず、やゝもすれば、かゝるふるまひを仕ることの口をしさよ、さいへばあまりに吝嗇なるやうにもあらるべけれども、われ一生のほど、かばかり心をつくしたればこそ、此頃の凶年にも、領分の民どもに餓死をばさせざりしが、いまは病みにほれて、心もとゞかず、たゞいはでこそやみなめとて、いぶからせたまひし、かくのたまひしは、九月末の事なり、つゐに次の十月に、かくれましましき、

〔翁草〕

〈五十六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0080 何卿とやらん、質素の人にて、小祿貧窮を申立て、綿服の願有、御ゆるしを蒙て、四季に用ひらるゝ、木綿島の單上下を拵、素ゟ衣服悉く綿服にして、御番參内にも、裝束は當番の非藏人に預け置、途中は件の上下を著し、無僕にて往來せらる、常に自炊にて、奧方もたすきがけにて、はしりもとを働き、息女に乳母有て、外に男女の召仕なし、斯く身を約せらるゝ故に、小家領ながら、賄料潤澤に勝手向あしからず、諸拂等聊滯なく、立入者も滿足する樣にあしらはる、故に、此前東武御使を被蒙し節も、早速用意整ひ、供廻りも餘の公卿達ゟ、結句美々敷出來て、日頃のさまとは格別の違ひ也、儉約の仕形は、少し品を超れども、花奢の過たるよりは、遙に增るべし、〈寬延寶曆頃〉

〔翹楚篇〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0080 一世子〈○上杉治憲〉にてましませし時、國民困窮を聞召歎かせ給ひ、やがて世を繼給ひし時も、やはり此儘ならば、貧民の一助にも成なんかとの給はせしが、世をつぎ給ひしにも、果して其御言葉のごとく、御部屋御仕切料のまゝ、纔に貳百九兩壹分何程にて、御手元の御服食は、足らせ給ひし也、

〔雨窻閑話〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0080 名君節儉幷喜多見某が事 一ある名君、始めて入國まし〳〵ける時、國に在りける役人夫々に命じ、壁をぬら直し、疊をかへ、腰張等きらびやかにいだし、泉水、築山迄の花麗を盡しけり、其日に至りしかば、太守機嫌よく入城まし〳〵けるに、木綿布子に同じ木綿鼠に染めたる絞付の單羽織、馬のりあけたるを召し給ひ、馬に打ち乘りて城に入らせ給ふ、町在のもの、今日ぞ殿樣入部也とて、見物山の如くなりしが、右の體を拜見して肝をけしたりとそ、太守入部の後、幾程もなくして、庭を潰し築山を穿ちて水をたゝへ、是へ稻草を植ゑて田とし、自身世議有りて、百姓を呼びて、農のいとなみをさせられ、民の艱難をしり、其年の豐作凶作を量り給へり、又居間の腰張をへがし、松葉紙にて自身張り給へり、是まで前栽に植ゑられし樹木名草までも、望心のものゐらば遣はすべしとて、悉く人に賜ひける、疊も琉球表の目の荒きに緣をもとらで用ひられし也、扨入部四五日めに、所の木綿屋にて木綿二反調せられ、小納戸の者を召して、此木綿單衣に仕立度まゝ、定紋を付けて水淺黃に染めさすべし、我思ふ子細ある間、隨分當時はやりなる町と在との紺屋へ、一反づゝ遣はすべしと仰有りければ、奉畏て其通にしたり、時にはやる所の紺屋なれば、人多く入り込みて、右の染物を見て、諸人大に仰天し、殿にはか樣なる麁末の品を召され候にや、是を見ては我々が著服大に奢の至り也、鳴呼々々勿體なし〳〵とて、皆是を語り合ひ、吹聽して自然に町在迄も、奢を停止しけるとぞ、

〔藝備孝義傳〕

〈一/廣島〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0081 播磨屋町淨閑
淨閑はもと石州津茂山より出て、はじめ山縣の寺原村に移り、また廣島にきたりて、人にもつかはれぬるが、やうやく身を起し、市店もあまたかひ得て、世並屋市郎左衞門といへり、渠富るに隨ひて、家のおきてを正し、物あきなふにもむさぼらずして、人と利をともにし、又世の奢風にうつらず、その身齡八十になりて、子のすゝむるにより、始て紬といふものを著たり、その家婚禮の式 なども、豆腐のあつものに打あはび取ぞへ、先祖位牌の前にて盃をめぐらせり、家もやゝ分ひろめて、親類もおほくなれど、皆そのおきてを守て、一族風を成しけるとなん、

〔藝備孝義傳〕

〈三編四/廣島〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0082 國泰寺下男菊松
菊松は父を藤四郎といひて、安藝郡矢野村の民なり、菊松十六歲にして、はじめて國泰寺に仕ふ、當時は國の大地なれば、遍參の僧多く來集りて、日々の費用おびたゞしけれ、ど幹事のものも僧徒なれば、さまで意とするものもなかりしに、菊松この寺に仕へて後は、米薪の出納より味噌醬油のつくりかた、菜圃のことまでも、おのが身に荷ひ、さま〴〵と意をくばり、節儉をむねとしてはからひけること、三十餘年の久しきにおよびぬれど、廉潔にしていさゝか私なかりければ、寺中のもの皆その實意に感服し、無用の費の渡ずるのみか、寺法のしまりともなりけるとそ、また郷里なる父がうりはらひし家田地をも、己がはたらきをもて、本のごとく買もどし老父をして心やすく暮させける、

雜載

〔千歲のもとい〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0082 儉と吝とは間違ひやすき也、儉は美德、吝は惡德なり、儉とは物を小じめにするを云、心も小じめにせざれば放に成行、身の調度も小じめならざれば奢に流る、書經に位は期せざれども驕ると云は、誰も其始位高くなりなば、たかぶらむと思ふ人もなけれ共、位高くなりて、此心小じめならざれば、いつしか驕慢に成行、富は期せざれ共侈とは、是、も始富たらば侈らむとはおもはね共、富にまかせて飮食衣服より、すべで身の調度小じめならざれば、いつかは奢侈に流行を戒し詞也、小じめと云は、物に節度を立てたる事をしり、無用の費をはぶくを云、もし其惠むべく施すべきにのぞみては、一毫も惜むことなぐ、ほどこしめぐむべきこと也、其施し惠むが爲に、かねて無用を省て、有用を足らする也、

吝嗇

〔新撰字鏡〕

〈女〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0083 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m01757.gif 〈力刀反、去、婟也、妬也、也不佐志、〉

〔類聚名義抄〕

〈二/口〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0083 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m01758.gif 吝〈俗恡字〉

〔同〕

〈六/心〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0083 悋〈力刄切、鄙也、俗作恡、〉 恡https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m01759.gif 〈力進反 ヲシム 厶サホルヤフサカシ 和リム〉 㥩〈俗〉

〔伊呂波字類抄〕

〈也/辭字〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0083 吝〈ヤフサシ恡歟〉 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m01760.gif 褊〈已上同〉

〔書言字考節用集〕

〈九/言辭〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0083 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m01761.gif (ヤブサカ)〈恨惜也、方言、貪而不施謂https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m01761.gif 、〉 吝(同)〈恡、悋、並同、〉

〔倭訓栞〕

〈前編三十四/也〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0083 やぶさか 吝又若をよめり、破離の義成べし、吝嗇なれば、事破れ人離るべし、

〔老人雜話〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0083 太閤、〈○豐臣秀吉〉心も辭も行跡も、少も吝さか(○○○)なることなき生質也、〈○下略〉

〔書言字考節用集〕

〈九/言辭〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0083 嗇短(シハシ/ハナハダヲシム)〈家語、孔子曰、子夏爲人也、嗇短於財、王肅云、短https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m01761.gif 也、嗇甚、也、〉鄙吝(同)〈漢書黃憲傳〉 悋(同)〈心悋〉

〔倭訓栞〕

〈前編十一/志〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0083 しわし 鄙吝をいふ、皺より出たるにや、しわつこいとも、しわつけなしともいふなり、

〔足薪翁記〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0083 とりんばう
しわん坊(○○○○) 崑山集〈慶安四年良德撰〉 花守の見せぬはしわんぼたん哉 一宣〈○中略〉
花千句〈延寶三年〉 寺を出ても猶しわん坊 季吟
たとひおく彼名物の柿のさね 湖春〈柳云、しわん坊の柿のたれ、今も童のいふ事なり、〉
元祿二年大三物 しわん坊隣の豆に聲すなり 露重

〔伊呂波字類抄〕

〈利/疊字〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0083 恡惜(リンセキ)

〔運歩色葉集〕

〈利〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0083 恡氣(リンキ) 恡惜(シヤク)

〔書言字考節用集〕

〈八/言辭〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0083 悋惜(リンジヤク) 悋氣(リンキ)

〔下學集〕

〈下/疊字〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0083 鄙嗇(ヒシヨク/イヤシクヲムシ)

〔梅園叢書〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0083 吝嗇儉約の辨
吝嗇はしわきなり、儉約は始末なり、おなじ事の如く心得たらんは僻事なり、その跡似たりとい へども、その用所大に同じからず、〈○中略〉しわきは財ををしむ、始末は財を節にす、節はふしといふ字にして、竹に節ある如く、よき程々にて止まる事あり、しわきは多く財を貯へんとなり、

〔老人雜話〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0084 信長は天性吝嗇の人也、相撲取の三番打したるに、燒栗一つ褒美に與ふる樣の人也、後に大名共を多く斃し、家を亡すは、我子共又は近習の出頭人に知行與へん爲なり、

〔窻の須佐美追加〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0084 洞家の僧隱遁して芝邊に住けり、年老て疾に伏しかば、甥なる士常に來たりていたはりけり、やゝ重りければ、予が方に招き入て看病せんと云へど、きかざりけり、一同に云やう、小き餅を二百ほしきと云ければ、その如くして與へけるに、思ふ事有間、汝とく歸れとて、内より戸をさし固めけり、明朝往て戸を敲けれど、答ざりし故、をし放ちて入りて見れば、かの餅に金一ヅヽもみ込、さて四十八ばかり喰しが、そこにて死したりと見へて倒居たり、此、金を跡に殘さん事の口おしくて、悉餅にうめて腹中に入おかんと思ひけるにこそ、かゝる執心深き者も有ける事にこそ、

〔狂歌現在奇人譚〕

〈三編下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0084 一秋亭落霞の傳
落霞がちかきほとりに、とめるあき人あり、此人つねにものをしみする癖ありて、いかばかりのことありとも、人にものなどおくることなし、をりにふれてものおくるときは、さゝやかなる紙に、いと〳〵つ、たなき畫など、みづからかきて、落霞にうたかゝせて、これをもて人におくりて、ようつのことのむくいにあてつ、あるとき落霞、友だちどものかたらひてありしに、かのをのこつねのごとく、みづからかきたる畫ひとひらもてきたりて、これに賛してたまはれとこふ、これをうち見るに、張良九里山に簫をふきて、かたきをはかりしところをぞかきたりける、日ごろものをしみする人のもてきたりしなれば、落霞心にはそまざれども、もとめらるゝにさりがたくて、しの竹にふえのねたてゝ武者によぶ木のはをちらす峯のこがらし、とよみかきてあたへけ れば、いみじくうれしがりてもてかへりけり、其次の日、又ひとつの畫をもてきて、これにもうたかきて、たまへとてせたむる、うち見れば、九郎義經が一の谷にさかおとしするかたかきたるなり、落霞やがて筆とりて、
峯よりもさかおとしして、武者によぶ木の葉をちらすこがらしの風、とよみければ、かのをのこ心のうちよろこばぬさまにて、しりぞきけるが、とばかりありていりきたり、これに歌をよめとて、又ひとひらのゑをいだす、孔明たかどのに琴ひきて、仲達をまどはすところをかきけるなり、落霞かうがへもせで、
松がえに琴の音たてゝ武者によぶ木の葉をちらす峯のこがらし、とかいつけたるときに、このをのこいろをかへていふやう、落霞ぬしはおなじき歌をみたびよみ給ふ、かうざまにては、おのれ人のもとにおくらんとするによろしからず、ねがはくはあらたによみて給はれとそいひける、落霞わらひていふ、御身つねにものをしみし給ふ癖ありて、ひとひらの紙あればはなうちかみて、日にほして又もちひ、そをほしては又はなかみ、三たび四たびもちひて、しかしてのち、かはやにもてゆき給ふよしきゝおよびぬ、われも又それにおなじ、ひとつの歌をみたび四たびにももちふるなりとそこたへける、かの人はかほうちあかめ、はらだゝしきさまにかへりしが、そのゝちはふつにきたらず、落霞はへつらふこゝうなくて、おもしろき人なりかし、

〔花月草紙〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0085 ある吝嗇なるもの、ことしはことにものつひやしぬとて、および折りてかぞへたてぬ、まづ春より秋まで、かのいたづきによてのめる藥もかばかりなり、それにかゝる事もありしなど、かぞへつゝいふを、つく〴〵ときゝゐし人が、いとさりがたきがうへに、君が身につきたるものひとつあり、是をいかで費といはんといへば、なになるかとゝふ、藥のみ給はずば、かくけふなげき事もえいひ給はじ、かくいひ給ふは、藥のめぐみなれば、それにむくい給ふを費と心得給 ふかといひき、かのひとは、これを費とせちに思ひけんかし、

〔醒睡笑〕

〈二/吝太郎〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0086 すぐれてしはき者の、たま〳〵得たる客あり、何をがなとおもひても、在郷の風情なれば、心計やなどゝいふ處へ、豆腐は〳〵と賣りに來れり、亭主豆腐を買はん、さりながら小豆の豆腐か、いやいつもの大豆ので候と、それならば買ふまい、めづらしふあるまいほどにと、


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Last-modified: 2022-06-29 (水) 20:06:24